オープントップバス

福岡には今年の春から、若い市長の肝いりでオープントップバスなるものが運行開始して、市内の要所や都市高速を走り回る昼夜3コースが設定されています。

その名の通りオープントップ、すなわち屋根の空いた2階建てバスで、乗客は爽快な外の風に触れつつ高い位置から下界を睥睨できるという楽しげな遊び目的のバスのようです。

マロニエ君もいつか乗ってみたいと思いつつ、まごまごしているうちに季節は温湿度の上がる時候に突入してしまい、ここしばらくはとても無理なので、また秋口にでもなったら乗ってみたいと思っています。

つい先日の午後、市内のけやき通りを車で走っているとこのオープントップバスに邂逅、しばらく併走することになり、後ろから横からと数分の間この珍しいバスを間近に観察することができました。
後部に乗降のための階段があり、座席はなるほどかなり高い位置に並んでいて、顔にけやき並木の枝葉が触れはしないかと思うほど高く見えました。まだ見慣れぬせいか、ちょっと異様な感じも覚えて、ずいぶん昔にハワイのアロハ航空の737が、飛行中に屋根が吹き飛んだにもかかわらず、そのまま無事に帰還したときの奇妙な姿を思い出してしまいました。

しかしそれよりも、もっと奇妙な感じを覚えたのは実はそのオープン部分でなく、バス全体の動きにありました。
マロニエ君の友人には大変なバスマニアがいて、彼につられてバスに興味を持つようになったもう一人というのもいて、彼らの会話をきいていると、まるでなんのことだかわからないような専門的なことを次々に言い合っています。
そこで聞いたのは、東京などにもオープントップバスというものはあるけれども、これは既存のバス車輌を改造することでオープン化されたものであるのに対し、西鉄が運行する福岡のそれは、はじめからオープントップバスとして製造された専用車輌だというのが大きなポイントのようです。

しかも注目すべきは操舵輪が前後に二つ連なっている点で、つまり左右合わせて4輪つのタイヤがハンドル操作に合わせて左右に動くというものです。
彼らに言わせるとここがポイントで、ベースはバスではなくトラックではないかという推論を抱いたようでした。それもただのトラックではなく、なんと競馬用の馬を運搬するためのトラックというのがあるのだそうで、それがこの4つの操舵輪をもつ車輌だというのです。つまりこれが福岡のオープントップバスのベースではないかというわけです。

そんなことを聞いた上で、今回マロニエ君が実物を見て感じたことは、バスといえばふつうは動きも鷹揚でゆったりした車体の揺れ方をするものですが、このオープントップバスはサスペンションが硬いのか、まるでスポーツカーのように路面状況に応じてその巨体が小刻みにピクピク揺れているのが目につきました。

さらにはこれだけの大型車輌にしては変に加速などもいいし、4つの操舵輪のせいなのか、ハンドリングも鋭く軽快な動きをしているのが肉眼にも明らかでした。けやき通りは上下4車線の道路ですが車線の幅が狭くて普通車でもわりに走りにくい道なのですが、このバスはカーブでもセンターラインを見事にトレースしながら難なくシャープに動いているのがわかります。
この動きを見ただけでも、このオープントップバスの正体がタダモノではないことがわかりました。

いよいよ興味は高まり、秋にはぜひ乗ってみたいもんだと思っています。
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家内工業の音

ピアノの音で、時おり感じることですが、それは良し悪しの問題ではなしに、2つに大別できるのでは?と思うことがあります。
上手く言えませんが、きっちり計算されたメーカーの音と、より感覚的でアバウトさも残す家内工業の音があるということになるでしょうか。

純粋な音の良し悪しとは別に、たとえレギュラー品でもある一定の計算が尽くされたメーカーの音を持ったピアノがある一方で、どんなに素晴らしいとされるものでも、よしんばそれが高額な高級ピアノであっても、家内工業の音というのがあるように思います。これはちょっと聴くぶんにはまことに凛とした美しい音だったりしますが、残念なことにしたたかさというものがなく、いざここ一発というときの強靱さや、トータルな音響として形にならないピアノがあるようにも感じます。

車の改造などに例えると、専門ショップなどの手で個人レベルのチューニングされたものは、パッと目は局部的に効果らしいものがあらわれたりもしますが、トータル的に見た場合、深いところでのバランスや挙動でおかしな事になっていたり、性能に偏りが出たりして、本当に完成された効果を上げるのは、それはもう生半可なことではありません。

その点、メーカーが手がける設計や変更は、おそろしく時間をかけ、いくつもの異なるパーツやセッティングを試して、テストと改良をこれでもかと繰り返したあげくのものですから、その結果は膨大な客観的データやテストなどの裏付けの上にきちんと成り立っているものです。
すなわち街のショップのパーツ交換とは、どだいやっていることのレベルが違うというわけです。

同じことがピアノの音にも感じることがあり、どれほど最良の素材で丹誠込めて作り上げられたピアノであっても、家内工業規模のピアノには手作り的な温もりはあるものの、どこか未解決の要素を感じたり、全体として一貫性に欠けていたりします。

その点でいうと、大メーカーのピアノはそれなりのものでもある種のまとまりというか完成度というものがあり、ある程度、客観的な問題点もクリアされているので、そういう意味では安心していられる面がありますね。
とりわけ観賞を目的としたコンサートや録音ではそれが顕著になります。

大メーカーのピアノは、広い空間での音響特性や各音域のパワーや音色のバランス、強弱のコントラスト、楽曲とのマッチングなど、あらゆる項目が繰り返し厳しくチェックされていると思われますし、問題があれば大がかりな改修が入るでしょう。そのためには多くの有能なスタッフや高額な設備なども欠かせません。必然的に試作品も何台も作ることになりますが、このへんが工房レベルのメーカーでは、どんなに志は高くてもなかなかできないことだと思われます。

家内工業のピアノは材料や作り込みは素晴らしいけれども、弱点は完成度のような気がします。
素人がパラパラっと弾いた程度なら、たとえば中音から次高音にかけてなど、なんとも麗しい上品な音がして思わず感銘を覚えたりしますが、プロのピアニストが本気で弾いたら、思いもよらない弱点が露見することも少なくありません。
プロの演奏には、表現の幅や多様性に対する適応力、重層的な響きにおける崩れのない立体感などが求められますが、そういう場面でどうしても破綻したり腰砕けになってしまうことがあり、それを徹底して調査して、場数を踏んで補強してくるのが大メーカーなのかもしれません。
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翻訳の文章

いま、あるピアノの技術系の本を読んでいます。
買ってすぐに通読して、現在はもう一度確かな理解を得たいと思い、少しずつ再読しているところです。

技術的なことを書かれたいわば専門書で、あえて書名は書きませんが、おかしなことに、この本を読むと催眠術にかかるように眠くなるのです。もっとありのままに云うと、必ずといっていいほど強い睡魔に襲われてしまい、まとまった量を読み通すことがなかなかできません。
実は最初に読んだ時も同様だったのですが、なにしろ内容が専門的なところへこちらはシロウトときているために、他の本ようにスイスイ読み進むというわけにはいかないのだろう…とそのときは単純に思っていました。

でも不思議なのは、内容が理解できないとか面白くないのであれば眠くはなるのもわかりますが、内容はマロニエ君自身も強い関心を持つもので、そこに書かれている内容はむしろ積極的な興味をそそられる面白い内容なのです。

そのうちに、その睡魔の元凶がなへんにあるかついにわかりました。
この本は海外の技術者が書いたもので、それを日本人の同業技術者が翻訳して国内の出版社から発売されたものなのですが、原因はどうやらその文章にあるようです。

翻訳者は、外国語は堪能なのかもしれませんが、あくまで技術者であって少なくとも翻訳の専門家ではないはずです。
外国語ができればその意味を理解することはできるかもしれませんが、それを右から左に日本語に正しく訳しても、なんの面白味もない、味わいのない、どこかおかしな日本語になるだけです。
したがって多くの文学作品などの翻訳を手がける際は、その原文理解はもちろんですが、人並み以上の日本語の能力と文学性、さらには深い教養が必須条件となるのは云うまでもありません。

要は最終的な読者に違和感なく、心地よく、快適に文章を読ませるためには、日本語固有の文章構成、すなわち日本語による思考回路にまで配慮が及んで表現されるよう、述べられた意味と言語特性を一体のものとして奥深いところで取り扱わなくてはいけないのだろうと思います。

ところが、そういうことに重きを置かない人は、書かれた原文の文法および内容の正確な和訳ということが主眼になってしまうのか、読者の心地よさや、述べられた意味やニュアンスを日本語の文章として捉えやすい表現に昇華するという思慮に欠けているのではないかと思います。

言葉や文章というものは、言うなれば各言語固有の律動と抑揚をもっており、そのうねりに乗って語られないことには、読む側はなかなかテンポ良く読み進むことができません。この本の文章は、そういう意味で原文記述には忠実なのかもしれませんが、相互の文章間にしなやかな日本語としての流れと脈絡が欠けているので、数行読むのにもひどく神経が疲れます。

この本が翻訳の専門家の手に委ねられなかった理由はマロニエ君の知るところではありませんが、ピアノ技術者のための専門書であるがために、発行部数もごく限られており、同業の日本人が奮起して訳することになったのではないかと思います。技術者らしい非常に丁寧な仕事ぶりだということは読んでいて伝わってきますが、それだけになおさら残念に思うわけです。
諸事情あったのだろうとは思ってみるものの、価格もかなり高額であった点から云っても、やはりそこには不満が残りました。
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ピニンファリーナ

世界的な自動車デザイナーの大御所であるセルジオ・ピニンファリーナ氏がトリノの自宅で亡くなったそうです。1926年の生まれで享年85歳。

ジウジアーロやベルトーネなど、造形の国イタリアには、数々の自動車デザイナーの巨匠が綺羅星のようにいましたが、そんな中でもピニンファリーナは傑出した存在だったと思います。

その斬新な造形には、モティーフの中に古典的な優雅の要素が息づいており、気品と官能性が結びつき、それが見る者の心を鷲づかみにしていたと思います。

ピニンファリーナのデザインには、きっぱりとした完成された独自の存在感と情感が脈々と流れ、ただの奇抜な挑戦的なデザインとは常に一線を画する孤高の美しさがありました。簡潔だけれども蠱惑的で優美なラインがあって、見る者を虜にし、しかもまったく飽きのこない普遍的な美しさを湛えた造形。それが自動車という機械を命ある有機的な存在へと高めることに、彼ほど貢献した人はいないようにも思います。

自動車という枠を逸脱するようなデザイナーの思い上がりでなしに、まるでモーツァルトのように最良最適の美しさを作り出したその才能と手腕は、まったく芸術家のそれに劣るものではなかったと思います。

マロニエ君も過去に何台かピニンファリーナのデザインによる車を所有したことがありますが、そこには必ずメーカーや車名などのエンブレムとは別に、ピニンファリーナの優雅な書体によるエンブレムが付けられていていて、それがまたマニア心を甚だしくくすぐる要素でした。
洗車してワックスをかけるにも、それがピニンファリーナのボディともなれば、いやが上にも熱が入ったのはいうまでもありません。

デザインがピニンファリーナであることは、ときにその車のメーカーの価値と比肩されるほどに尊ばれる場合も珍しいことではなく、オーナーはそれが車であると同時に、作品であり芸術品であるということを諒解しており、それは並々ならぬプライドと満足にもなりました。

今のデザイナーでこれほどの格別の想いと満足を個々のオーナーに与えて撒き散らすことのできる人がいるかといえば、残念ながらそれは見あたりません。
音楽を含む他のジャンルと同様、自動車デザインの世界も全体の組織レベルは途方もなく大きくなっているようですが、個人のデザイナーで芸術家に匹敵するような世界的大物はいなくなり、とりわけ若い人でそういう位置を受け継ぐような人は出てきていないようです。

セルジオ自身が二代目だった思いますが、さらに息子達が事業を引き継いで、大きなデザインメーカーになり、その後はどうなっているかは知りませんが、時代も変わり、おそらくセルジオの功績によるブランド会社になったのかもしれません。

天才級の煌めくような大物がいなくなり、効率や平均値が上がるばかりの世の中というのは、どうしようもなくつまらないものです。
個々の製品は素晴らしくても、心からわくわくしたり真の感銘を受けるようなことは…もうないようです。
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深い梅雨

今年の梅雨は例年にない厳しさだと感じているマロニエ君ですが、皆さんは、この季節をどのようにお過ごしなのでしょう。

今まさに梅雨の真っ只中にありますが、今年の梅雨ほど重さみたいなものを感じたことはこれまであまりなかったように思います。梅雨というのはその字面を見ただけで、いかにも鬱々としたイメージがあり、夏を迎えるための通過儀礼といった趣がありますが、実際には覚悟ほどもないままにこの時期が過ぎていった年がいくらでもあったように思います。

梅雨に入ってみたものの実際にはそれほど雨は降らず、逆に春よりも晴天が続いたりする「空梅雨」の年も何度もありました。それほどでなくても、数日に一度は必ずほがらかな陽光が差して、梅雨の中休みのようなこともしばしばあるものでした。

ところが、今年の梅雨ときたらまさにその字面通りで、過ごしにくい不快な天候が毎日をすっぽり覆ってしまっており、前線が立ち退く気配もなく、昨日はついに九州各地で深刻な水の被害まで出る始末です。

なんにしてもこの連日の不愉快そのもののような天候は、気分までカビが生えるようで、ここ当分は収束の気配もないままいったいいつまで続くのやら…。

先日など、夜外出した折、玄関を一歩出ると外は風呂場のような蒸し暑さで、ガレージから車を出すと、内外の湿度差からか、いっぺんに車の前後左右の窓は真っ白になってしまい、動き出そうにも何も見えなくなるほどでした。まるで熱帯地方のようです。

ほとんど休むことなく回っているピアノの横の除湿器は、日頃の酷使が祟ってきたのか、どうも本調子ではないようで、タンクに溜まる水量から本来の除湿能力を発揮しているとは思えず、それが追い打ちをかけるように気がかりです。

それでも湿度計の針は50%を超えることのないよう意地で保っていますが、やはりどうもおかしい…。メーカーに電話してみると、果たして「基盤の不良があるかもしれない」とのことですが、そのためには機械ごとメーカーに送って診てもらうことになる由、送料と大まかな修理代を考え合わせると、そんなことをするのもばかばかしいし、だいいち修理を終えて戻ってくるまでの幾日ものあいだ、除湿器なしの状態になるわけで、これは直ちに却下しました。

けっきょくは除湿器を買い直さなくてはいけないのでは?と急遽考えているところですが、わずか数年しか使っていないのにもうダメになるなんて、日本の家電製品も質が落ちたものだと思います。

週間天気予報を見ても、ここ当分は雨と雲のマークばかりで、まったく望みナシと思っていたら、まったく不思議なことに昨日の午後は突然、何日ぶりかでウソのように陽が射してきて驚きました。
しかし、これもほんの一時的なことだろうとすっかり疑い深くなっていたら、やっぱりそうで、一時間もするとまた小雨が降ってきました。
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オールソン&尾高

ずいぶん久しぶりにギャリック・オールソンの演奏を映像で見ました。

先日放送されたBSのオーケストラライブでのN響定期公演で、ショパンのピアノ協奏曲の2番を弾いていましたが、ステージに現れたオールソンはもうすっかりおじいさんになっていて月日の流れを感じます。

演奏はいかにも手の内に入ったベテランのそれという印象で、ショパンコンクールに優勝したときから早40年以上が経過しており、彼の身体がショパンの演奏を覚え込んでいるといったように見えました。

まったく自己顕示欲のない、とても誠実な演奏でその点は感服しますが、惜しむらくはコンサートピアニストとしての存在感や華がないことでしょう。それでも、この世代のアメリカ人としてはよくぞここまでショパンの音楽に真摯なスタンスで己を捧げてきたものだと思います。
普通なら、ショパンコンクールにアメリカ人として初めて優勝し、それ以降のキャリアを積み上げるとなれば、もう少し華やかなピアニストを目指して喝采を得ることはいくらでもできただろうと思いますが、決してその道には進まず、節度をもった、良心的な活動一筋に努めてきたことには、人間的に敬意を払いたいところです。

尤もそれがオールソンの信念によって厳しく選び取られた結果だったのか、それともそういう道を進むことのほうが性に合っていたから自然にそうなったのか、そこのところはわかりませんが。

今回、オールソンの姿に接してみてあらためて思ったのは、大変な偉丈夫だということで、この点はまぎれもないアメリカ人だと思わずにはいられません。身長も高く恰幅も大変立派で、そのいかにも優しげな表情と相俟ってまるでサンタクロースのように見えました。彼を前にすると、ピアノもどことなく小さくなったようで、なんとなく身をかがめるようにして弾いているのが印象的でした。

ショパンの音楽を彼なりの細やかさでひじょうに注意深く、さらにはこの体格から来るところもあると思うのですが、常に遠慮がちに弾いているという風に見えました。音もその体格から期待されるような太く逞しいものではなくて、むしろ肉付きのない、さっぱりした音色だったことが少し気にかかりました。

全体にはこの人なりの首尾一貫したものがあって、安心して聴いていられるものでしたが、強いて云うならあまりにもおとなしくて善良すぎるきらいがあり、ショパンにはもう少し洗練や洒落っ気やエゴが欲しいものだと思いました。


指揮はN響の正指揮者である尾高忠明氏でしたが、これが思いがけずなかなかの演奏で驚きました。
普通なら、ピアノ協奏曲の中でも、とりわけオーケストレーションの脆弱さを指摘されるショパン、しかもより詩的な2番とくればオーケストラは大半において甘美に歌うピアノの伴奏をやっているだけといったところですが、そんなオーケストラがハッとするほど美しく、しかも聴いていて自分の好みにごく近いもので、やわらかでメリハリがあり、潤った感じに鳴り響いたのはまったく意外でした。

オーケストラはいつもと変わらぬN響ですから、これはひとえに尾高氏の音楽性とセンスの良さに負うものだと思う他はありません。告白するなら、オールソンのピアノもそこそこにオーケストラについ耳を傾けてしまうことしばしばで、ショパンのピアノ協奏曲でオーケストラのほうを有り難く聴いたというのは初めての経験だったように思います。
この美しいオーケストラに支えられて、オールソンもさぞ満足だっただろうと思います。
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カタログ比較-追記

このような場所で価格の話をするのもどうかとは思いますが、前回価格のことに少々触れたついでに、参考までに一例を書いておきますと、ヤマハの現行モデルには奥行き212cmのグランドが3種類も存在し、価格は次の通りです。C、S、CFというシリーズ名は、平たく云えば梅、竹、松とでも思っておけばいいでしょう。

C6=2,730,000円
S6=5,040,000円(Cの約1.8倍)
CF6=13,200,000円(Cの約4.8倍)
というわけで、まったく同じサイズのヤマハグランドピアノ(外装はいずれも黒艶出し)であっても、グレードによってこれほどの価格差があるのは、単純に驚くほかありません。C6とCF6では、同じメーカーの同じサイズのグランドピアノでありながら、価格はほとんど5倍、差額だけで10,470,000円にも達するわけですから、誰だって驚くでしょう。

これはCF6がよほど高級なピアノだという印象を与えると同時に、じゃあC6はよほど廉価品なのか…という気分にもなってしまいますね。世界広しといえども、同じメーカーの、同じマークの入ったピアノが、グレードの違いによってここまで猛烈な価格差があるというのは、少なくともマロニエ君の知る限りではヤマハ以外には無いように思います。

また、CFシリーズとSシリーズはひとつのカタログにまとめられていますが、それでも価格は同サイズで約2.5倍となり、これもかなり強烈です。そこで生じる疑問としては、何がどう違うのかということだと思いますが、その価格差に対する説明らしきものはどこにも見あたりませんでした。

要は「材料と手間暇」ということに尽きるのかもしれませんが、それにしても…。
これが稀少なオールドヴァイオリンとか骨董の世界ならともかく、れっきとした現行生産品の話なのですから、その価格は製品の価値を裏付けるはずのものであり、そのためにも、もう少し具体的な説明によって納得させてほしいものだと思うのはマロニエ君だけでしょうか?


おもしろかったのは、ヤマハ、カワイ両者に共通した巻末のピアノのお手入れに関する記述ですが、ピアノにとって望ましい環境は、
カワイでは「室温15-25℃、湿度50-70%」とあるのに対して、ヤマハは「夏季:20-30℃/湿度40-70%、冬季:10-20℃/湿度35-65%」と夏冬二段階に分かれている点でした。
いずれも湿度に関してはかなり許容量が広いなあというのが印象的でした。

壁から10-15cm離して設置するようにというのは共通していますが、へぇ…と思ったのは弦のテンション(張られる力の強さ)に関してで、ヤマハは「弦1本あたり90kgの力が張られています」とあるのに対して、カワイでは「1本あたり80kgの力が掛けられています」という記述でした。

昔からスタインウェイの張弦は比較的テンションが低いことで有名ですが、現行のヤマハCF&SシリーズとカワイSKシリーズでは、一本あたり10kgもの違いがあるとは意外でした。これを全弦数(平均約230本)の合計にしてみると相当の差になるでしょうね。
一般論としてテンションが低い方が設計に余裕があり、耐久力もあるとされますが、最近のピアノではどうなのでしょう…。
いずれにしろカタログを見ているといろいろと発見があっておもしろいものです。
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カタログ比較

ヤマハの知り合いの営業の方にお願いしてCFシリーズのカタログを入手しました。
さんざん眺め回したあげく、さてこれをシゲルカワイのカタログを比較してみるとなかなか面白い違いが出てくることに気がつきました。

本来はレギュラーシリーズも比較するといいのかもしれませんが、そこまでするのは面倒臭いし、どうせカタログの上だけなんだから、ここは気前よく上級シリーズ同士を較べました。

共通していることは、A4版の横開きのオールカラーで、カワイは表紙を含む28頁に対してヤマハは24頁と若干ながら薄いようです。
いずれも豪華さや高級感を強調したもので、重厚さを全面に押し出している点は甲乙つけがたいものがあるようです。

ヤマハはCFシリーズとSシリーズ、併せて5機種が紹介されているのに対して、カワイもSK-2,3,5,6,7という5機種が掲載されていますが、その重点の置き方にはいささか違いがあるようです。
カワイが新SKシリーズ全体を紹介説明する、ある意味でオーソドックスなカタログであるのに対して、ヤマハは頂点に君臨するコンサートグランドのCFXの存在をメインにして焦点が合わせられているようで、よりイメージ戦略的だという印象です。

それを裏付けることとして、ヤマハではピアノの機構や技術的な解説はほとんどなく、あっても必要最小限に留められて、専らエモーショナルで抽象的な文章が全体を包んでいます。
マロニエ君などにしてみれば、CFIIISからCFXへの移行についてはどのような点で変化・進歩をしたのか、あるいはCFシリーズは具体的にどういうところがどう素晴らしいのかという点についてメーカーとしての主張が欲しいと思いましたが、そういう個別の説明はほとんどありません。
主に美しい写真を見せて、それに沿うような観念的な文章がナレーションのように添えられているだけで、あとは見る者がイメージするものに委ねるというところでしょうか。

これに対して、カワイのカタログではヤマハに較べると文字が多いことが特徴で、文章もより具体的で、わかりやすい説明が必要に応じて記載されています。
もちろんそこはあくまでもカタログですから、専門的になりすぎるようなことは一切ありませんが、その許される範囲の中でのきちんとした技術解説もあって、こちらのほうがいろいろな面から商品を知る手がかりになるという点では、見応え・読み応えがあるように感じました。

ヤマハは技術的なことはいうなれば舞台裏のことであって、カタログは広告の延長のようにイメージ主導に徹しているのかもしれませんし、その点はカワイのほうがカタログはカタログらしく作るという生真面目な一面があらわれているようでもありました。

ただし、ヤマハの敢えて多くを語らない戦略は一応わかるものの、いささか納得できないものが残ります。例えばCFシリーズとSシリーズはよほど意識しないとわからないほど黒バックのほとんど同じ意匠による連続するページによって連ねられていますが、驚くべきはその価格差です。

この両シリーズにはサイズの共通した奥行き212cmと191cmのモデルがそれぞれ存在していますが、価格はCFシリーズはSシリーズの実に2.5倍以上!!!というとてつもない開きがあって、思わず口あんぐりになってしまいます。
カタログの表紙には恭しく「PREMIUM PIANOS」と書かれていますが、同じプレミアムピアノでもこれだけの甚だしい価格差については、見る側としてはもう少々説明が欲しいと思いました。
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リシッツァ

こんなくだらないブログでも読んでくださる方がいらっしゃることは、ありがたいような申し訳ないような気分です。先ごろは北海道の方から、ヴァレンティーナ・リシッツァというピアニストをどう思いますか?というメールをいただきました。

>私の素人耳には、型に囚われない自由な音を出すピアニストに聴こえるのです。
>ところが、日本のメディアには完全に無視されている人です。
>この人には目ぼしいコンクール歴がありません。

というような事が書かれています。(引用のお断り済み)

リシッツァというピアニストはマロニエ君もYouTubeで見た覚えのあるピアニストだったので、名前を見たときにあの女性ではないか?と思ったのですが、あらためて動画を見てみるとやはりそうでした。

長いストレートの金髪を腰のあたりまで垂らしながら、ものすごい技巧で難曲をものともせず演奏しているその姿は、どこかジャクリーヌ・デュ・プレを思い出させられますが、調べるとウクライナはキエフの出身で現在42歳とのことです。
その指さばきの見事なことは驚くばかりで、とくにラフマニノフやショスタコーヴィチなどの大曲難曲で本領を発揮するピアニストのようです。そして、このメールの方がおっしゃるように、実力からすれば応分の評価を得られているようにも思えません。

このメールが契機となって、マロニエ君も動画サイトでいくつかの演奏に触れましたが、その限りの印象でいうならリシッツァの魅力はコンクール歴がないという経歴が示す通り、こうあらねばならないという時流や制約からほとんど遮断されたところに存在しているように思います。自然児が自分の感性の命じるままに反応しているようで、彼女の飾らぬ心に触れるような演奏だと感じました。
それでは、よほど自己流の破天荒な演奏をしているみたいですが、そんなことは決してなく、きちんとした音楽の法則や様式を踏まえた上で、あくまでも自分に正直な自然な演奏をしているのだと思います。

今どきのありふれたピアニストと違うのは、既存のアカデミックな解釈やアーティキレーションに盲従することなく、あくまでも自分が作品に対して抱いたインスピレーションによって演奏し、音楽を発生させているということだろうと思います。これは本来、音楽家としてはむしろ自然の法則に適ってようにも思うのですが、世の中がコンクール至上主義になってしまってからというもの、訓練の過程で「点の取れる演奏」を徹底的に身につけさせるという傾向があり、その結果若い演奏家の中から面白い個性が出てこなくなってきたことで、逆にこういう人が珍しい存在のようになってしまっているのかもしれません。

事実コンクールでは自分の色や表現を出し過ぎたために敗退することも多いのだそうで、その結果、教師も生徒も個人の個性や主観という、本来芸術の中核を成す部分に重きを置かず、ひたすら審査員に受け容れられる演奏を身につけるために奮励努力するのですから、その結果は推して知るべしです。

その点ではリシッツァという女性は、自分の作り出す演奏だけを元手に果敢に勝負をかけているピアニストのようで、それに値する才能も度胸も自我もあって実にあっぱれな生き方だと思います。そういう意味では単なるピアニストというよりはクリエイティブな芸術家のひとりだと云うべきかもしれません。

日本で評価されないのは、知名度が低く、いわゆるタレント性がないこと、そしてコンクール歴というわかりやすい肩書きを持たない故だろうと思います。さらにいうなら彼女の得意のレパートリーには重厚長大な難曲が多く、そこも日本人にはやや向いていないのかもしれません。
他国のことは知りませんが、少なくとも日本の聴衆ほど発信された情報のいいなりになるのも珍しく、マスコミの注目を集め、チケットをさばき、CDを買わせるには、コマーシャリズムと手を結ぶしかないのでしょう。

評判に靡かず、頑として自分の耳だけを信じるという人は専門家もしくはよほどのマニアということになり、これはほとんど絶滅危惧種みたいなものです。

リシッツァには、どこかそういう不遇を背負ったアーティストの悲哀のようなものがあり、そこがまた彼女の支持者には堪らないところかもしれません。
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たかじん委員会

人気テレビ番組に『たかじんのそこまで言って委員会』というのがありますが、これはテレビ嫌いのマロニエ君にしては珍しくよく見る番組です。

この番組の魅力は、折々の時事問題が話のテーマとなって、おなじみの論客達による歯に衣きせぬトークが聞かれるところにあり、さらには大阪発のこの番組は、やしきたかじん氏の意向によって、これだけの全国的な人気番組にもかかわらず「東京では放送しない」という拘りが守られているのも痛快なところです。

元を辿れば東京の出身でもない、現在の東京を構成する多くの人々が、なにかというと東京の威を借りて、ここがすべての中心だと思い込んでいる中で、今や永田町にさえ多大な影響を与えているといわれるたかじん委員会、例の橋下さんもこの番組の出身であるそれが、すべての中心であり発信地であるはずの東京にあからさまに背を向けているというのは、それだけでもユニークです。

むろん公共放送であるかぎり完全な放言の場ではありませんが、かなり辛辣できわどい意見が飛び交うのは毎度のことで、およそ他局や他の番組では不可能と思われる領域をぎりぎりまで攻めていくのは、こんな時代にあってささやかでも溜飲が下がることしばしばです。

そんな中でもなにかと過激な発言を連発する勝谷誠彦氏が、過日の放送で主に次のような発言をしました。
「私は現在でもテロやクーデターは必要だと思っています。ただしそれは武器や暴力によるものではない。現代の最も腐っているものは言論である。その言論界にクーデターを起こす必要があり、そのツールはウェブであって、だから自分は毎日のようにテロ行為をやっている。」

これは彼独特な過激なスパイスを効かせた偽悪的な言い回しであって、テロやクーデターという言葉にはさすがに抵抗を覚えますが、しかしそれでも、彼の言わんとしている意味は大いに頷けました。

もう少し礼節と勇気をもって、自分の考えがごく自然に発言できる本当の意味での健全な世の中になってほしいものですし、それにはまずその道の本職である筈のマスコミに先陣を切って欲しいと思います。
言論が腐るということは、民主主義が腐り、すなわち人間が腐るということを意味しているでしょう。

昨日も永田町はひとつの山場を通過したようですが、見たくもない顔ぶれがデジタル放送の鮮明画像によって映し出され、腰の引けた解説やコメントが流れるだけで、そこに「言論」らしきものは不在です。
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音を望む

小冊子「ピアノの本」をパラパラやっていると、イタリア人ピアニストにして徳島文理大学音楽学部長であるジュゼッペ・マリオッティ氏のインタビューが掲載されていました。

氏は自身がベーゼンドルファー・アーティストでもあるため、主にこのピアノを中心とした話になっていましたが、曰く、ピアニストにとって「音をつくる」ことは容易なことではないし、学習者でも音をつくるところから始めなければならないと述べています。

ヴァイオリンやフルートなどの楽器では、はじめから音をつくることと同時に練習を進めて行くのに対して、「ピアノは正しい音程のきれいな音が簡単に出るので、音をつくることへの意識が希薄になる」とおっしゃっていますが、これはいまさらのように御意!だと思わせられました。

マリオッティ氏の友人のドイツ人ピアニストは生徒に「音を望みなさい」としばしば言うそうです。
音を望むということは、マロニエ君の解釈では実際の楽器が発音するよりも前に、どのような音を出すかをイメージして極力それに近づくように気持ちを入れて演奏するということだと思いますし、この手順を身につけるということは、そのままどのような演奏をするかというイメージにも繋がるような気がします。

しかし、これは意外と日本人には苦手なことのようで、プロのピアニストはひとまず別としても、アマチュアの演奏に数多く接してみると、ほとんどの人が音色のイメージというものをまったく持たないまま、ピアノの音はキーを押せば出るものとして油断しきっており、そういうことよりも、ひたすら難曲に挑戦しては運動的に弾くことにばかりにエネルギーを注ぎ込んでいるようです。
そこには音色どころか、解釈も曲調も二の次で、とにかく最後まで無事に弾き通すことだけが全目的のように必死に指を動かしているように見受けられます。

マリオッティ氏の言葉にもずいぶん思い当たることがあり、「日本人は体を硬くして、ピアノの鍵盤を叩くように弾く傾向があるので、肩や腕、手首、指の緊張を解いてリラックスして弾けるようになるといい…」とのことです。

日本人がある独特な弾き方をするのは、ひとつには日本のピアノにも原因があるのかもしれないと思わなくもありません。日本のピアノは間違いなく良くできた楽器だと思いますが、強いて言うなら音色の微妙な感じ分けやタッチコントロールの妙技をあまり要求せず、誰が弾いてもそこそこに演奏できるようになっています。
これはこれで我々のような下手くそにはありがたいことではありますが、やはり楽器である以上、そこには音色に対する審美眼とか演奏表現に対する敏感さや厳しさがあるほうが、より素晴らしい演奏を育むことにもなると思います。

人間の能力というものは、必要を感じないことには、無惨なほど無頓着となり、ついには開発されないままに終わってしまいますから、汚いタッチをしたら汚い音が出てしまうピアノに接することで、より美しい音をつくる必要を身をもって体験するのかもしれません。

驚いたことに徳島文理大学には大小合わせて9台ものベーゼンドルファーがあるのだそうで、このようなタッチに対して非常にデリケートかつ厳格な楽器に触れながら勉強できることは、将来的にも大いに役立つ貴重な修行になるだろうと思われてちょっと驚いてしまいました。
家庭での親のしつけと同じで、成長期に叩き込まれたものは、その人の深いところに根を下ろして一生をついて廻るものだけに、こうした体験の出来る学生は幸せですね。
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雨にまみれて

全国的に水の被害が出ていますが、北部九州も日曜日は明け方から夕方まで滅多にないほどの猛烈な雨でした。

雨足は終始強く、おまけに雨間というものがまるでなく、よくぞ上空にはこれだけの雨があるもんだと感心するほど、降って、降って、降りまくりでした。
深夜のニュースによれば九州の多いところでは300ミリの雨だったとか。

そんな日に、チケットを買っていたものだから九響のコンサートを聴くために宗像まで車で往復するという、マロニエ君のような怠け者にしてみれば、とてつもない行動をした一日でした。
朝からただ事ではない激しい雨模様で、これはよほど断念しようかと何度も思ってみたものの、この日登場する白石光隆さんの演奏を聴くことを以前から楽しみにしていたことでもあるし、彼はそれほどメジャーなピアニストでもないため、今回を逃すと次はいつまた聴けるかわからないという思いもあって、手許にはチケットがあるし、思い切って車のエンジンをかけました。

福岡市の中心部から会場の宗像ユリックスまでは距離にすれば30kmほどですが、普段より早めにお昼を済ませて、15時の開演に間に合うよう到着するにはかなり厳しい時間的スケジュールになります。

なにしろこの悪天候である上に、途中には新たな渋滞ポイントとして予想されるイケアと新規オープンしたイオンモールがあるので、遠回りになることを承知で高速で迂回するなどしながら、なんとか開演20分前に会場入りすることができたものの、出発から到着までの一時間半近く、一瞬も衰えることのない強い雨足には参りました。オーディオの音も邪魔になるほどの、ルーフやフロントガラスを雨滴が叩きつけるバシャバシャいう音、路面から水を巻き上げる音、せわしいワイパーの動きだけでもいいかげん疲れました。

濡れた合羽や傘をまとめつつ席について開演を待ちますが、こんなお天気にもかかわらずほとんど満席に近いのは驚きでした。
曲目はバッハ=レーガーの「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」に始まり、続いてベートーヴェンの「皇帝」で、白石さんの登場となります。

これまでCDでのベートーヴェンのソナタで感嘆していたほか、TVでもトランペットリサイタルのピアノなどで見ていましたが、とても品の良い丁寧な演奏であるし、やはり上手いというのが印象的でした。
ただし、ご本人の性格的なところもあると思いますが、どちらかというと穏やかなキッチリタイプの演奏で、個人的には、そこへもう一押しの迫りがあるならさらに好ましいように感じました。
でも、自己顕示欲のない、とてもきれいなピアノでした。

後半は同じくベートーヴェンの「運命」でしたが、久々に聴いた九響はやっぱり九響でした。
迫力はあるけれども、全体に粗さが目立ち、とりわけ弦の音色にはなんとなく細かい砂粒でも噛み込んだようなざらつきがあって、やわらかさ、艶やかさに欠けており、いささかうるさい感じに聞こえました。
アンサンブルにもより高度なクオリティが欲しいところですが、ここから先のもう一段二段というのが難しいところなのでしょう。

ピアノは新しいスタインウェイで、この日の悪天候のせいもあるとは思いたいものですが、鳴りが芳しくなく、白石さんの敏腕をもってしてもピアノの音はしばしばオーケストラに掻き消され、まったく精彩がないのは聴いていてなんとももどかしいような気分でした。

終演後はロビーで白石さんのサイン会がある由で、新しくリリースされたハンマークラヴィーアなどのアルバムが目を惹きましたが、そこに白石さんの姿はまだなく時間がかかりそうでした。外を見るとさらに激しい雨足で、帰路のことを考えるとなんだか気が急いて、結果的に後ろ髪を引かれる思いで傘を開き、横殴りの雨の中を駐車場へ向かいました。

ともかく無事に帰宅できてやれやれというところですが、今思えば、やっぱりCDを買って少し待ってでもサインしてもらえばよかったなあ…と思っているところです。
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ノリントンの世界

日曜朝のBSプレミアムのオーケストラライブには、このところ3週続けてロジャー・ノリントンがN響定期公演に登場しています。

曲目はお得意のベートーヴェンがほとんどですが、最後にはブラームスの2番(交響曲)もやっていました。
面白かったのは4月14日のNHKホールでの演奏会で、マルティン・ヘルムヒェン(ピアノ)、ヴェロニカ・エーベルレ(バイオリン)、石坂団十郎(チェロ)をソリストにしたベートーヴェンの三重協奏曲で、これはなかなかの演奏だったと思います。

マルティン・ヘルムヒェンはドイツの若手で、以前もたしかN響と皇帝を弾いていたことがありましたが、その時は気持ちばかりが先走っていささか独りよがりという感じでしたが、今回はピアノパートも軽いためかとても精気のある適切な演奏をしていましたし、ヴェロニカ・エーベルレはソリストの中心的な重しの役割という印象でした。
石坂団十郎は確かドイツ人とのハーフですが、まるで歌舞伎役者のようなその名前に恥じない、なかなかの美男ぶりで、なんだかステージ上に一人だけ俳優がいるようでした。

ノリントンの音楽はいわゆるピリオド奏法でテンポも遅めですが、どこか磊落で、彼なりの解釈と信念が通っており、マロニエ君の好みではありませんが、しかし確信に満ちた音楽というものは、それはそれで聴いていて心地よく安心感があるものです。

また、4月25日のサントリーでの演奏会では河村尚子をソリストに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が演奏されましたが、これが実に見事な演奏で非常に満足でした。

正直言うと、マロニエ君はこれまで河村尚子さんの演奏にはあまり良い印象がなく、以前これもまた皇帝を演奏した折に、あまりに曲の性格にそぐわない自己満足的な演奏にがっかりして、それをこのブログに書いた覚えがありますが、それが今度の4番ではまるで別人でした。

まずなんと言っても感心したのは、ノリントンの演奏様式に則った、バランスの良い演奏で、ほとんどビブラートをしない古典的演奏スタイルによるオーケストラとのマッチングは素晴らしいものでした。しかも音楽には一貫性があって、呼吸も良く合っており、妙にもったいぶって自分を押し出そうとする以前の振る舞いはまったく影をひそめて、いかにも音楽の流れを第一に置いた姿勢は立派だったと思います。

おそらくはノリントンという大家の監視が厳しく効いていて、勝手を許さなかったということもあったのでしょうし、事前の打ち合わせと練習もよほど尽くされた結果だと思いますが、だからこそ、先のトリプルコンチェルト同様に聴く側が違和感なく音楽に身を委ねることができたのだろうと思われます。
そういう意味では、音楽上の民主主義的な指揮者は結果的にダメな場合が多いし、近ごろは練習不足の本番が多すぎるようです。

河村さんはベートーヴェンの偉大な、しかも繊細優美なこの作品の大半をノンレガートを多用して極めて美しく、かつ熱情をもって弾ききり、こういう演奏をやってのける能力があったのかと、一気にこのピアニストを見る目が変わりました。

印象的だったのは、上記いずれの演奏会でも、ピアノは大屋根を外して、オーケストラの中に縦に差し込んで、ノリントン氏はピアノのお尻ちかくに立って指揮をしていましたが、まさに彼の音楽世界にオケもソリストも一体となって参加協力しているのは好ましい印象でした。

さらにおやっと思ったのは、いずれもピアノはスタインウェイでしたが、あきらかに発音が古典的な、どこかピリオド楽器を思わせる不思議な調整だったことで、そこまで徹底してノリントンの音楽的趣向が貫かれているのはすごいもんだと思いました。
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巨大客船

昨日の午前中、友人が博多港に巨大客船が入港していることを知らせてきました。
彼は高速バスで職場に向かう途中、都市高速からときおりこの手のクルーズ船が入港していると言っていましたので、また見かけたときは知らせて欲しいと頼んでいたのです。

マロニエ君は、とくに船に興味があるわけではないものの、巨大なクルーズ客船というのを一度も見たことがなかったので、いつかチャンスがあれば一度は現物を拝んでみたいもんだと思っていたのです。

友人の情報では同日午後7時には出発するとのことで、見るならぐずぐずしていられません。
そこで夕方近く、用事にかこつけてちょっと港のほうへ廻って見物に行ってきました。
博多港には大小いくつもの埠頭があり、停泊している旅客ターミナルそのものがある埠頭へ行くよりも、その対岸に位置する埠頭から見た方がいいような気がして、まずはそちらに向かいました。

天神の北にある那ノ津埠頭は、広大な道路とアクション映画さながらの荒涼とした倉庫街のようなところですが、車で走りながら建物の合間から遙かむこうに停泊する巨大船の上部がチラッと見え始めて、その化け物的な大きさに思わず息を呑みました。

この埠頭では、大型トラックが縦横に行き交い、貨物船の荷役作業などがおこなわれている関係者のみのエリアが大半で、なかなか見物に適した場所がありません。
ようやく一箇所、海面に面した場所を見つけて車をとめると、目の前には桁違いに大きい、白い高層ビルを横に倒したような途方もないサイズの船が、その偉容をこちらに向けて静かに停泊していました。

聞きしに勝る大きさ!としか云いようがなく、周りにいる船がまるでコバンザメのようで、他を圧するとはこういうことを云うのかとしみじみ実感しました。
写真を撮るなどした後、ついでなので、停泊している埠頭のほうへも廻ってみましたが、近づくにつれますますその巨大さが露わになります。車を運転しながら手前の景色の向こう側に船の上部が見えてくる感じは、船と云うよりも、ほとんど普通のビルのような趣です。

船首にVoyager of the Seasとあり、帰宅してネットで調べてみると、なんと「1999年就航当時、タイタニックの4倍、QueenElizabeth2世の2倍の大きさを誇る世界最大客船として注目を集めた」とありました。
…どうりで大きい筈です。

さて、大きさは大変なものでしたが、では客船として優美な姿かといえばさにあらずで、漠然とタイタニックのような船を豪華客船のイメージとするなら、そういう美しさとはおよそかけ離れたものというのが率直なところでした。

まるで大型リゾートホテルを海に浮かべたようで、これでもかといわんばかりの構造物が船の床面積いっぱいに、上へ上へと積み重ねられており、パッと見たところでも10階はあるようです。
しかも、こんなにも大きいのに、なんとなく余裕のない、息苦しい、ケチケチした感じに見えました。
人は数千人単位で乗っているらしく、なんだか現代のざわざわした日常生活がそのまま海に浮かんで移動しているようです。
船内の眩く豪華な様子の写真も見ましたが、それもホテルと遊園地とショッピングモールを一緒にして遮二無二押し込んだようで、いわゆる船旅の優雅とは違ったものに見えました。

ちなみにネットのデータによれば、総トン数137,276トン、乗客と乗組員を合わせると約4000人以上にも達し、全長は310mとほぼ東京タワーの高さに匹敵するようです。

ともかく、思いがけなく、とてつもないものを見物できました。
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復元か新造か

つい先日、あるスタインウェイディーラーから送られてきたDMによると、1878年製の「The Curve」という名のニューヨークで製造されたスタインウェイのA型が、メーカー自身の手で修復されて販売されているというもので、なんとケースとフレーム以外の主要パーツはすべて新品に交換されている旨が記されています。

単純計算しても134年前のピアノというわけですが、修復というよりは骨組み以外は新規作り直しという感じで、楽器の機械的な耐久性という意味ではなんの心配もなく購入することができるということでしょう。
当然ながら、ボディやフレームにも新品と見紛うばかりの修復がされていると思われますので、旧き佳き時代のピアノとして見る者の目も楽しませるでしょうし、今やこのような選択肢もあるというのはなにやら夢があるような気になるものです。

たとえ世界屈指の老舗ブランドといえども、現今のピアノに使われる材質の低下、それに伴う音色の変化などに納得できない諸兄には、このようなヴェンテージピアノをメーカー自身がリニューアルすることによって、新品に準じるような品質で手にできるということ…一見そんな風にも思われますが、厳密にはその解釈の仕方は微妙なのかもしれません。

ともかくリニューアルの施工者がメーカー自身というのなら、一般論としての価値や作業に対する信頼も高いでしょうし、それでいて価格もハンブルクのA型新品より3割近く安いようですから、こういうピアノに魅力を感じる人にとっては朗報でしょう。

ただし、強いて言うなら、新しく取り替えられた響板やハンマーフェルトの質が、1878年当時と同じという事はあり得ず、少なくともその質的観点において、当時のものと同等級品であるかといえばそれは厳密には疑問です。枯れきったよれよれの響板が新しいものに交換されれば、差し当たり良い面はたくさんあるでしょうが、ではすべてがマルかといえば、事はそう簡単ではないようにも思います。

また作業の質や流儀にも今昔の違いがあるでしょうから、現代の工法に馴れた人の手で、どこまで当時の状態の忠実な再現ができるのだろうとも思います。仕上がった状態を、もし昔の職人が見たら納得するかどうか…。まあそういう意味合いも含めて、おおらかに解釈できる人のためのピアノと云うことになるのかもしれませんね。

やみくもに古いものは良くて新しいものはダメだと決めつけるつもりは毛頭ありませんが、おそらく19世紀後半であれば、良いピアノを作るための優れた木材などは、当時の社会は今とは較べるべくもない恵まれた時代だったことは確かです。

聞くところによれば、現在ドイツなどは環境保護の目的で森林伐採は厳しく制限され、ピアノ造りのための木の入手も思うにまかせないという状況だそうですが、そんな時代に新品より安く販売されるリニューアルピアノのために、オリジナルに匹敵する稀少材が響板に使われるとは考えにくいし、それはハンマーフェルトも同様だろうと思います。

さすれば、スペックの似た現代のエンジンを積んだクラシックカーのようなものだと思えばいいのかもしれません。そう割り切れば、パーツの精度などは上がっているはずで、もしかしたら部分的な性能ではオリジナルをむしろ凌ぐ可能性さえもあるでしょうね。
これはつまり、新旧のハイブリッドピアノと考えれば理解しやすい気がします。
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あいまいな国境

楽器メーカーのゼネラルマネージャー兼技術者として海外で長く活躍された方をお招きして、ピアノが好きな顔ぶれと食事をしながらあれこれの話を伺うことができました。

ピアノビジネスの黄金時代は過ぎ去って久しく、今はメーカーも生産台数も激減、さらにはアジアの新興勢力の台頭によりピアノ業界の様々な情勢にも、かつては思いもよらなかったような変化が起こっているようです。

少し前に、チェコのペトロフピアノの社長さんが「ペトロフはすべてヨーロッパ製」と発言されたらしいという事を書いたところ、さるピアノ技術者の方から「建前はそうなっているけれども、一部に中国の部品を使っている」ということを教えていただきました。

どんな世界にも表と裏があるようで、様々な事実は、事柄によってセールスポイントにされたり、はたまた積極的に語られないなどいろいろのようです。

考えてみれば、日本のピアノでもヤマハがヨーロッパのハンマーフェルトを輸入して自社工場で加工して使っているとか、カワイにも機種によってはイタリアのチレサの響板やロイヤルジョージのハンマーを使ったモデルもあるし、両者共に多くのモデルはアラスカスプルースを使うなど、海外からの輸入品を必要に応じて使っていることは昔から当たり前です。

こう考えると、純粋に一社は言うに及ばず、一国、もしくはひとつのエリア内だけで産出された材料を使って一台のピアノを作り上げると云うことのほうが、もはや難しいのかもしれません。
フランスのプレイエルに至ってはコンサートグランドのP280は、丸々ドイツのシュタイングレーバーに生産委託しているというし、そのシュタイングレーバーやシンメルは以前から日本製のアクションを使っているとのことで、その実情は様々なようです。

純アメリカ産モーターサイクルとして名高いハーレーダヴィッドソンも、そのホイールは長らく日本のエンケイなんだそうですし、多くのヨーロッパ車が日本のデンソーのエアコンやアイシン製オートマチックトランスミッションを載せているのは今や普通のことで、イギリスのミニに至ってはBMW製で既にドイツ車に分類されているなど、驚かされると同時に、ときに我々はそれを「安心材料」として捉えている場合さえあるほどです。

エセックスが中国で作られ、ボストンもディアパソンもカワイ製、ユニクロもアップル製品も中国製だし、要するに今や政治的な国境線を遙かに跨いで、さまざまなビジネスが自在に往来しながら効率的に成り立っていると云うことだと思います。驚いたのは、ニューヨーク・スタインウェイの純正ハンマーは日本の有名なハンマーメーカーが作っているという話まであるらしく、中には虚実入り混じっている部分もあるかもしれませんが、マロニエ君はこれを追求しようとは思いません。
ことほどさように物づくりの現場においては良いと判断されれば(品質であれ価格であれ)、現代の製造業はどこからでもなんでも調達してくるのが当たり前になったということを、我々は認識すべき時代になったことは間違いないようです。

とりわけピアノ製造のようにきわめて存立の難しいビジネスでは、理想論ばかりを振りかざしていても仕方がなく、相互に補助し合い、需給を生み出すことでコストや品質を維持するのは自然でしょう。

まあ、日本などは食糧自給率が40%と、ピアノなんぞのことをつべこべいう前に、自分達の食べ物の心配をしろということになるのかもしれませんが。
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チャイコフスキーガラ

昨年のチャイコフスキーコンクールの優勝者のうち、声楽を除くピアノ、ヴァイオリン、チェロの優勝者(および最高位)によるガラコンサートの様子をテレビから。
今年4月に行われた日本公演のうち、サントリーホールでの23日のコンサートです。

それぞれダニール・トリフォノフ、セルゲイ・ドガージン、ナレク・アフナジャリャンという3人でしたが、最も好感を持ったのはヴァイオリンのドガージンで、ロシア的な厚みのある情感の豊かさが印象的でした。

しかし全体としては、3人とももうひとつ演奏家としての存在感がなく、世界的コンクールを征した青年達とは思えない精彩に欠けた演奏だったことは残念でした。おまけに合わせものでのトリフォノフは練習不足が露わで、コンサートの企画ばかりが先行して肝心の準備が追いついていないのはちょっと感心しません。

最近の欧米の若い演奏家全般の特徴としては、音楽に対する情熱やエネルギーがどうも以前より痩せていて、ビート感などはむしろ弛緩して劣ってきているように感じることがしばしばです。
全体を見通したがっちりした構成力、その上での率直な感情表出などの聴かせどころなど、音楽を聴く上での醍醐味がないことが大変気にかかります。よく言えば小さく整った優等生タイプで、悪く云えば強引なぐらいの喜怒哀楽の波しぶきなどもはやありません。

自分が表現したい何かではなく、書かれた通りの音符を音に再現し、無事に弾き終えることに目的があるようで、だから聴き手に伝わってくるメッセージ性がない(あるいは薄い)。ただ練習を重ねたパーツとパーツがネックレスのように繋がっているようで、これでは聴くほうも音楽に乗ろうにも乗れません。
具体的な傾向としては全体に確信と流れがなく、それなのに速いパッセージに差しかかるとやたら急いで見せたり、反対に、間の取り方などはさも恭しげで意味深ぶって、そこがまたウソっぽい。

現代は、科学の裏付けのある合理的なメソードが発達しているので、練習を開始した子供の中から難しい曲を弾けるようになる人は昔より高い確率で出てくるはずですが、それと引き換えにオーラのある天才の出現は久しくお目にかからなくなりました。
とくに欧米は音楽を志す人そのものが激減しているそうで、つまり畑が狭くなり、育てる種の数が少なくなれば、それだけ光り輝く才能が出にくくなるのもやむを得ない事でしょう。
これでは楽器を習う子供の数が桁違いに多いアジア勢が優勢なのも当然だと思います。


トリフォノフは一昨年のショパンコンクールのときからファツィオリにご執心のようで、この日もサントリーのステージにはF278が置かれていました。

右斜め上からのアングルで映したときのフレームや弦やチューニングピンなどの工芸品のような美しさは印象的ですが、楽器としての危うさみたいなものがない。ディテールの造形も鈍重で、全体のフォルムはとても大味ですね。
ピアノを造形で語っても仕方ありませんが、音は華やかですが硬くて立体感に乏しく、しばらくすると耳が疲れてくる感じに聞こえました。

遠鳴りのスタインウェイをホールで弾くと、むしろ音は小さめなぐらいな印象がありますが、その点でファツィオリは弾いているピアニストに力強い手応えを与えるのかもしれません。やはり好みの分かれるピアノだと思いました。
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サド侯爵夫人

『サド侯爵夫人』は『鹿鳴館』などと並んで、三島由起夫の戯曲の最高傑作に数えられる作品で、深い交流のあった澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』に着想を得て書かれたものであることは良く知られています。

初演以来、世界的にも高い評価を得て何度も上演を重ねていますが、今年4月に世田谷パブリックシアターで上演された舞台の様子がBSプレミアムで放映されました。

この作品には、サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人をはじめ、わずか6人の女性しか登場せず、当のサド侯爵はいわば影の主役であって舞台上に登場することはありません。

驚いたことには、演出は狂言師の野村萬斎によるもので、能や狂言の手法を取り入れたものということで「言葉による緊縛」などと銘打った公演だったようですが、率直に言って未消化の部分も多く、装置や衣装も同意できない点が多々ありました。
主役の蒼井優は膨大な台詞をよく頑張りましたが、この役に対していささか軽量という印象を免れませんでしたし、奔放で悪徳の擁護者であるサン・フォン伯爵夫人を演じる麻美れいはいささか力みすぎで、役のキャラクターに対して表現過多かつ台詞まわしの雑なところが目立ちました。

しかし、もっとも驚いたのは白石加代子扮するモントルイユ夫人で、しつこいばかりの、もののけのような演技の連続で、あまりにも品位に欠けるという他はありませんでした。表情はいつも大げさに目を剥き、声は始終だみ声を張り上げては不可解なアクセントがつき、中でも驚いたのは、ほとんど台本に書かれた日本語の意味とは無関係にしばしば句読点を打ったり勝手気ままにブレスをしている点でした。
「言葉による緊縛」はこの人には適用されなかったようです。

白石加代子は役柄によっては存在感を示せる強さのある役者なのかもしれませんが、およそ三島作品、わけてもサドのようにパリが舞台の貴族社会が舞台ともなると、まるで場違いな異質な感じが際立って、この芝居の大きな柱のひとつとも云うべき重要な役を江戸時代の怪談語りのように変えてしまい、三島の芸術世界や、作品の本質をまったく見誤っているとしか云いようがありません。

三島の戯曲は、その格調高い絢爛とした日本語の美しさを、言葉の調べのように再現するためにも、役者は複雑な台詞を音楽的かつ明晰にしゃべらねばなりません。同時に並外れた洗練も必要で、その考え抜かれた豪奢な文体に過剰な緩急をつけたり、新劇風の感情表現を加え過ぎたり、恣意的な表現があるとたちまち作品の持つ密度感が損なわれます。
おそらく三島が観たなら、決して満足できない舞台だったに違いないと思いました。

それでも、今どきはたえて聞かなくなった美しい日本語の洪水に耳を傾けるのは抗しがたく、とうとう3時間半を超すこの言葉の劇を明け方まで見てしまいました。

昔は感銘を受けた作品ですが、今にして感じることは、いささか長すぎるのではないかという点で、あまりにも装飾的な台詞が延々と続き、さすがに緊張感が途切れるところがあり、ヴァーグナーの影響でも受けたのでは?などとふと思ってしまいました。
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CD漁り

久しぶりにタワーレコードに寄ってみましたが、ワゴンセールなどを物色せずに素通りすることはなかなか困難です。

今回もあれこれとセール品漁りをしたあげく、ついまた博打買いをしてしまいました。
「博打買い」とは、なんの情報も予備知識もないまま、まったく価値のわからないものを、専ら直感だけで購入してしまう事を自分でそう呼んでいます。

ひとつはユーリー・ボグダーノフ(1972年生まれ)によるショパンの2枚組で、ワルツ、バルカローレ、スケルツォ、ソナタ、ポロネーズ、即興曲、エチュード、ノクターン、バラード、マズルカといった、ショパンの作品様式をほぼずらりと取り揃えたような演奏が並んでいます。
曲目はいわゆる名曲集的なものではないものの、すべてが馴染みの作品ばかりで、ピアニストもまったくの未知の人であるほか、「Classical Records」という名の、これまで見たこともないロシアのレーベルで、表記もロシア語だったことが惹かれてしまった一因でした。
かつてのソヴィエト時代のメロディア・レーベルのような、鉄のカーテンの向こう側を覗くようなドキドキ感が蘇って、ちょっとそのロシア製のCDという怪しげなところについ引き寄せられてしまったようです。

調べてみると、ボグダーノフはモスクワ音楽院でタチアナ・ニコラーエワやミハイル・ヴォスクレセンスキーに師事したらしく、ロシアのピアニストにはよくあるタイプの経歴の持ち主のようです。

期待したわりには演奏は至って普通というか、むしろ凡庸といった方がいいかもしれないもので、ロシア的怪しさはさほどありませんでした。むしろロシア的だったのは数曲において途中のつぎはぎが下手なのか、しばしば微妙にピッチが変わるなど、予期せぬ意味での雑味のある点が「らしさ」と云えないこともありませんが、純粋に演奏という意味では、正直言って期待値を満たすものではありませんでした。

もうひとつは、19世紀末に生まれ20世紀に活躍したイギリスの作曲家、ベンジャミン・デイルとヨーク・ボーウェンのピアノ曲のCDですが、こちらはまさにアタリ!でした。
こういうことがあるから博打買いはやめられないのです。

20世紀の作曲家といっても無調の音楽ではなく、ロマン派やドビュッシーの流れをくむ中に独自の新しさが聞こえてくるという、いわば耳に受け容れやすい音楽で、ベンジャミン・デイルのピアノソナタは、決して重々しい作品ではないものの、途中に変奏曲を内包する演奏時間40分を超える大曲で、何度聴いても飽きの来ない佳作だと思いました。
この曲はヨーク・ボーウェンに献呈されているもので、いかにもこの二人の同国同業同時代人同士の信頼関係をあらわしているようでした。

後半はそのヨーク・ボーウェンの小組曲で、こちらは3曲で10分強の作品ですが、即興的なおもしろい個性の溢れる曲集で、これまた存分に楽しむことができました。

演奏は知られざる名曲をレパートリーにしながら独自の活動としている、これもイギリス人ピアニストのダニー・ドライヴァーで、その安定感のある正確で爽やかなテクニックと見通しのよい楽曲の把握力は特別な才能を感じさせるものです。
彼はほかにもヨーク・ボーウェンのソナタ集や、バラキレフの作品、はたまたC.P.E.バッハの作品集などを録音するなど、独自な活動をするピアニストのようでそれらも聴いてみたいものです。
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ヴンダーの日本公演

2年前のショパンコンクールで第2位だったインゴルフ・ヴンダーの、今年4月の日本公演の模様が放送され、録画をようやく見ました。

紀尾井ホールでのリサイタルで、リストの超絶技巧練習曲から「夕べの調べ」、ショパンのピアノソナタ第3番とアンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズというものでした。

率直に云って、なんということもない、むしろ凡庸な、まるで手応えのない演奏でした。
普通はショパンコンクールで第2位という成績なら、好みはさて置くとしても、指のメカニックだけでも大変なものであはずですが、テンポもどこかふらついて腰が定まらず、ミスをどうこう云うつもりはないけれどもミスが多く、この人の大きくない器が見えてしまって、なんだか肩すかしをくらったような印象でした。
全般的に覇気がなく、楽器を鳴らし切ることもできていないのは、デリケートな音楽表現をやっているのとは全く別の事で、聴いていてだんだんに欲求不満が募りました。

音楽の完成度もさほど感じられず、彼が果たしてどのような芸術表現を目指しているのか、さっぱり不明でした。
見ようによっては、まるで軽くリハーサルでもやっているようで、こういう弾き方なら、ピアノもさぞ消耗しないだろうと思います。

この人はコンクールの時には聴衆に人気があったというような話を聞いた覚えがありましたが、このリサイタルを聴いた限りでは、到底そのような片鱗さえ感じられませんでしたし、むしろ惹きつけられるものがないことのほうを感じてしまいます。この人の聴き所がなへんにあるのか、わかる人には教えて欲しいものです。

見た感じは人の良さそうな青年で、映画「アマデウス」でモーツァルトに扮したトム・ハルスのような感じです。演奏しながら細かく表情を変化させながら、いかにもひとつひとつを表現し納得しながら演奏を進めているといった趣ですが、実際に出てくる音はあまりそういうふうには聞こえません。

たしかコンクールが終わって程なくして、上位入賞者達が揃って来日してガラコンサートのようなものがあり、その様子もTVで放送されましたが、このときヴンダーはコンチェルトではなく、幻想ポロネーズを弾いたものの、別にこれといった感銘も受けなかったことをこのブログにも書いたような記憶があります。
やはり第一印象というものは意外に正確で、それが覆ることは滅多にありませんね。

これで2位というのはちょっと承服できかねるところですが、聞くところでは彼はハラシェヴィッチ(1955年の優勝者でポーランドのピアノ界の大物のひとり)の弟子らしいので、そのあたりになにか影響があったのか、詳しいことはわかりませんが、コンクールには常に裏表があるようです。
直接の関連はないかもしれませんが、4位のボジャノフがえらく憤慨して表彰式に出なかったというのもなんとなくわかるような気がしました。

その点で、優勝したアブデーエワは通常のリサイタルではコンクール時よりもさらに見事な演奏を披露し、彼女が優勝したことはピアニストとしての潜在力の点からも、とりあえず正しかったのだと今更ながら思うところです。
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名器は蘇る

夕方、時間が空いて、ちょっとうたた寝をしていると、5分も経ったかどうかというタイミングで電話がけたたましく鳴りました。

さるピアノ店のご主人からで、昨年秋にそのお店を訪問した際に、古くてくたびれた感じのニューヨーク・スタインウェイのM型が置いてあり、見た目も芳しくなく中はホコリにまみれて、調整もほとんど無きに等しい状態であったので、とくに意に止めることもしていませんでした。

ただ目の前にあるというだけの理由で、いちおう弾く真似のような事はしてみましたが、古くてくたびれたピアノというだけで、オーバーホールの素材にはなるだろうけれども、現状においては特に感想らしいものはありませんでした。

正直を云うと、個人的にはこれだったら日本製の新品の気に入ったものを買ったほうがどれほどいいかと思いました。それでもスタインウェイだからそれなりの値段はするのだろうし、果たしてこのままで買う人がいるんだろうか…と思ったほどでした。

そのピアノを、さすがにその状態ではいけないとここの社長さん(技術者)が思われたのか、はじめからそのつもりだったのかは知りませんが、ともかく今年に入ってオーバーホールに着手したという事は聞いていました。

マロニエ君がピアノの話なら喜ぶというのを知ってかどうか、別に買うわけでもないのに、とにかくそのオーバーホールの進捗を逐一報告してくださり、とりわけハンマーをニューヨーク・スタインウェイの純正に交換したことによる楽器の著しい変化については、熱の入った説明をたびたび(電話で)聞いていました。

ちなみに、スタインウェイのハンマーといってもハンブルク用はレンナーのスタインウェイ用で、フェルトの巻きが硬く、それを整音(針差し)によってほぐしながら音を作っていくのですが、ニューヨーク用ではまったく逆で、比較的やわらかく巻かれたフェルトに適宜硬化剤を染み込ませながら、輪郭のある音を作っていくという手法がとられます。

この社長さんによると、やはりニューヨーク・スタインウェイ用の純正ハンマーは楽器生来の個性に合っているという当たり前のような事実をいまさらのように強く体感された由で、弦も張り替え、塗装もやり直して、以前とは見た目も音も、まるで別物のようになったという話でした。
そして今回の電話によると、ある事情からこのピアノを吹き抜けのある天井の高い場所に設置してみたところ、アッと驚くような美しい響きが鳴りわたったのだそうで、「あれはなかなかのピアノだった!」と電話口で多少興奮気味に話されました。
つい「みにくいアヒルの子」の話を思い出しましたが、ともかくオーバーホールと調整と、置く場所によって、およそ同じピアノとは信じられないような違いが生じるという現実を、自分が案内をするからマロニエ君にもそこに行って、ぜひとも体験して欲しいというお話でした。

たいへん魅力的なお誘いで、近くならすぐにでも行きますが、そこは博多から新幹線で行くような場所ですから、いかにピアノ馬鹿のマロニエ君といえども二つ返事で行くわけにはいきませんが、やはり再び命を吹き込まれたスタインウェイというのは、元がどんなに古くてみすぼらしくても、ものすごい潜在力を秘めているんだなあと思わせられる話でした。
まだ自分でじかに触ったわけではありませんが、これが巷で云われるスタインウェイの復元力というものなのかと思うと、どんなものやらつい確かめてみたくなるものです。
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主観で狙い撃ち?

久しぶりの顔ぶれの友人達が集まって食事をしましたが、そこで出た話。

そのうちの一人が最近スピード違反で捕まったんだそうです。
場所は国道3号線の北九州市に近い上り方向だったとか。

いわゆる「ネズミ取り」ですが、よく通る道なので、そこでしばしば取り締りが行われているのは知っていたものの、すぐ前にも同じ速度で走っている車がいたために、その後ろを走っているぶんには大丈夫だろうと高をくくっていたそうです。
ところが実際にネズミ取りはおこなわれており、しかもすぐ前を走る車は捕まらず、後ろを走っていたマロニエ君の友人のほうが赤い旗を振られて停車を命じられたというのです。これにより「前に車がいたら大丈夫」という安全神話はもろくも崩れ去ったことになります。

あきらかに狙い打ちをされた形だったようで、結局はどの車に照準を当てるかという判断はレーダーを操作する警察官個人の判断と意志により決定されるようで、この場合、なんらかの理由、つまり目につきやすい車であるとか左ハンドルというような要素が不利に働くということだろうと考えられるそうです。

現に他に止められていたのは国産の高級乗用車などで、ますますその印象を強くしたと言います。

呆れたのは警察官の対応で、いきなり「すみませーん、ちょーっと速度が出ていたようですねぇ!」と満面の笑顔で第一声をかけながら、車から降ろされ、傍らに止められたマイクロバスのような警察車輌に移動させられる際にも、入口のステップに注意してくれという意味で「ここに、ひとつ段がありますので気を付けてください!」などと、必要以上に腰の低い、まるでどこぞの明るい営業マンのような口ぶりと対応なのは、却って嫌な気がしたそうです。

もちろん、速度違反者ということで警察官が居丈高になったり横柄な態度に出るのは絶対に好ましいことではありませんから、それに比べればマシだといえばそうなのですが、物事には自ずと限度というものがあり、あまりにも取って付けたような低姿勢に出られるのも違和感があるのは聞いていて同感でした。
そんなにまでへつらうような態度が必要なほどの内容なら、初めから取り締まるなと言いたくもなります。

すると別の友人がすかさず解説を差し込んでくれました。
違反検挙の場では、違反そのものを認めないとか、取り締まりの方法自体に問題があるというような言い分によって正当な主張をする人もいれば、いわゆる不当にゴネる人もいるわけで、警察としては極力ソフトな態度に出ることによって警察官および取り締まりそのものへの心証を良くして、できるかぎり素直に違反キップの処理に応じさせ、スムーズにサインさせるようというのが目的なんだそうです。

なるほどそういうことかと一応は思いましたが、どうも何かがどこかが間違っているような気がするのはどうしようもないところです。
それに、同じ速度のスピード超過であっても、やはり先頭を走るのと、それに続くのとでは、やっぱり罪の軽重でいうなら、先頭を走るほうが検挙されて然るべきだと思うのですが…。
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巻き線の名人

岡山の浜松ピアノ店の通信誌からもうひとつ興味深い話を。

浜松にある、巻き線の名人がおられる工場取材というものでした。
ピアノの低音部は、芯線に銅線を巻き付けた「巻き線」が使われることはよく知られていますが、この巻き方がとても重要であるにもかかわらず、現在では生産効率とコストの関係でしょうか、機械巻きが圧倒的に主流となっているようです。
しかし、本当にすぐれた巻き線は、名人の手巻きによるものだと云われています。

この道の名人に冨田さんという御歳67になられる方がいらっしゃるそうで、小学校の高学年の頃からこの仕事に携わり、すでに仕事歴60年近いという大ベテランだそうです。

どんなピアノでも気持ちのよい低音を確保するためには、巻き線の品質が重要だそうで、植田さんのお店では新品のピアノであっても、より良い響きを求めてこの冨田さんの巻き線に交換することがあるそうですし、修理の際の弦交換の場合はいつもこれを使っておられるそうです。

この名人冨田さんの談で、なるほど!と思ったのは、『ピアノの弦というものは、弦の材質もさることながら、同じピアノでも張る弦の太さで張力が変わり、張力が変わると音色も響き具合も変わる』というものでした。
品質はまあ当然としても、太さで張力が変わり、そこから音色や響きにも違いが出るというのは気がつきませんが、云われてみれば確かにそうだろうと、おおいに得心のいく気分でした。

現在の巻き線は機械巻きが圧倒的主流で、ピアノの聖地浜松でさえ、この手巻きのできる技術者が極端に少なくなっているのだそうです。さらにはその少ない技術者の方々は皆さん年配の方ばかりで、この分野の若い技術者が育っていないというのが現状とのこと。
これはつまり、将来、手巻きによる優れた巻き線は、よほどでないと手に入らなくなることが予想されます。

現代のピアノは製品としての精度はとても高いし、中にはなるほどよく鳴るものもあるようですが、いわゆる馥郁たる豊かな響きを持った、自然でおっとりしたピアノが生まれなくなってしまったという事を、こうした事実が裏付けているようでもあり、とても残念でなりません。

現代社会はどのようなジャンルでも効率や平均値は猛烈に向上しましたが、それは同時に一握りの輝ける「本物」を失ってしまうことでもあるような気がします。
その波が文化や芸術までも容赦なく呑み込んでしまうのは、どうにかして食い止めて欲しいところですが、時すでに遅しといった観があるようです。
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ペトロフと中国

岡山の浜松ピアノ店から、ここの植田さんとおっしゃる社長さんが書かれる「もっとピアノを楽しもう通信」という通信誌をいつも送ってくださいますが、今回も興味深い記述があれこれとありました。

このピアノ店の取扱いブランドのひとつであるペトロフの本社に視察に行かれたようですが、社長のペトロフさんが強調されるには、「ペトロフピアノはすべてヨーロッパ製である」ということだったとか。これは最近のヨーロッパピアノは一部の高級品を除くと、その多くがヨーロッパ圏外で作られるようになったということの証左でもあるようです。

そしておそらくその大半は、アジアの労働賃金の安い国々で作られているであろうことが推察できます。部分的なものから完成品に至るまで、そのやり方はメーカーによって様々だと思いますが、ともかくペトロフのような純ヨーロッパ産ピアノというのはずいぶん少なくなっているのは確かなようです。


もうひとつ紹介されていたのは、中国は大連から大学のピアノの先生が岡山のお店に来られて、中古のカワイを2台買って行かれたとのことでした。
そこでの話によると「中国製のピアノはすぐ壊れるし、中国にはまともなピアノ技術者がいないようで、中身にまったく手が入っていないのでダメ」とのことでした。

そのため、納入調律には「旅費・宿泊費を負担するので、ぜひ大連まで来て欲しい」という依頼まであったそうです。その先生の話によると、中国ではヤマハとカワイのブランド価値はほとんど同じで、国立大学の大半はカワイで色は黒が人気だそうです。
たしか中国の音大教授の間では、シゲルカワイを所有することがステータスになっているという話も思い出しましたが、なるほどそんな背景があるのかと納得です。

以前、別の方から聞いたところでは、中国製のピアノといっても品質はピンキリだそうで、外国メーカーによる技術や品質の管理も行き届いてかなり優秀なものもある反面、本当にどうしようもない粗悪品も珍しくないようで、まさに玉石混淆のようです。
ただし、マロニエ君も何度か中国に行った経験では、店に並んでいるピアノはどれも、およそ調整などとは程遠いという感じで、それは中国には高等技能をもったピアノ技術者がほとんどいないであろうし、美しいピアノの音の尺度もあまりないと思われ、その必要も未だ認識もされていないことをひしひしと感じさせるものでした。

どの街の、どの楽器店も、ホテルのピアノも、かろうじて音階のようなものだけはあるビラビラな音で、グランドもアップライトもあったものじゃありませんでした。
そんな中国のピアノ店でごくたまに見かけるヤマハやカワイは、それはもう大変な高級品という感じに見えたことを思い出しました。
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貧しい時代

昨日書いた音楽雑誌ですが、なにかこう…かすかに無常感を覚えるものとして繋がっていくことに、そのグラビアに見るウェイルホールのスタインウェイにもその要素を発見しました。

件の邦人のニューヨークでのリサイタルでは、ご当地のニューヨーク・スタインウェイが使われたようで、新しいモデルのようですが、なんとニューヨーク製の特徴である凝ったディテールのデザインにも、さらなる簡略化が進んでいました。
もはや、かつての威厳は感じられず、なんとなくしまりのないのっぺりした印象でした。

戦前のモデルに較べると、基本は同じなのに、その時代毎に装飾的なラインやデザインの大事な部分がだんだんに姿を消して行き、現在ではもうほとんどボストンピアノに近い感じにまで細部が省略されて、すっかりドライなデザインになってしまったようです。

むろん、ピアノは外観ではなく、音が勝負というのはわかっていますが、これほどはっきりとコストダウンの証を見せられると、音に関する部分だけは「昔通り」なんて夢見たいなことはとても思えません。
尤も、今はホロヴィッツやグールドのような超大物がいるわけでもなく、コンサートの世界も大衆化・平均化が進んだことも事実。それに呼応するように楽器であるピアノもかつてのような「特別」なものである必要はなく、製造・販売のビジネスが成り立つことこそが大儀であり、要するに商品としてはその程度で良いという企業判断と解釈すべきなのかもしれません。

まあそれが仮に正解だとするならば、なんとも虚しい現実なわけで、願わくは思い過ごしであってほしいものです。

その点に関しては、まだなんとか見た目の面目を保っているのはハンブルクです。
ハンブルクのほうは少なくとも外見上は、それほどの簡略化は今のところ見られませんが、内容に関しては風の噂では相当厳しいコストダウンの実体を耳にしますし、にもかかわらず最近ではアメリカのコンサートでも、以前とは比較にならないほどハンブルク製が使われることが多くなっており、そのあたり、一体どういう事情なのかと思ってしまいます。

米独両所のスタインウェイは、パーツに関しても以前より共通品がかなり増えたとも聞きますし、近年はついにハンブルクも響板にアラスカ産のスプルースを使うようになったらしく、ニューヨークは伝統のラッカー&ヘアライン仕上げの他に、黒の艶だし仕上げのピアノもかなり作っているようで、そこまで互いにおなじことをするのなら、そのうち製品統合でもするんじゃないかと思います。

来年は奇しくもスタインウェイ社の創業160年周年でもありますが、一台のピアノを作り上げるのに切り詰められた合理化やコスト削減は、おそらく歴史上最も厳しい時代ではないかとも思います。

まあ、要するに、金に糸目を付けないというのは極端としても、こだわりをもった製作者の良心の塊のような優れた楽器造りなどというものは、今のご時世にあってはほとんど夢まぼろしに等しいということなのかもしれません。
厳しい条件や限られたコストの中から、いかに割り切って、精一杯のものを作り出すかが現代の生産現場の最大のテーマなのだろうと思われますが、文化にとっては実に貧しい時代というわけです。
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ホールもブランド

書店で音楽雑誌を立ち読みしていると、ある日本人ピアニストがカーネギーホールデビューを果たしたということで、巻頭のカラーグラビアで大々的に紹介されていました。

さらにはその流れなのか、表紙もその人で、カーネギーホールとニューヨーク名物のイエローキャブ(タクシー)をバックに余裕の笑顔で写っていらっしゃいました。
まさに世界に冠たるこの街を実力で制覇したといった英雄のような趣です。

普通カーネギーホールというと、ホロヴィッツやニューヨークフィルで有名な「あの」カーネギーホールかと思いますが、実はカーネギーホールには大小3つのホールがあり、日本人の多くがコンサートをやっているのはウェイルホールという最小のホールのようです。

世界中のだれもがイメージするカーネギーホールといえば、あまりにも有名なメインホールのことだろうと思われ、ここは2800席を超す歴史的大ホールです。
19世紀末のこけら落としにはチャイコフスキーが指揮台に立ったことや、多くの名曲の初演(例えばドヴォルザークの交響曲「新世界より」など)がおこなわれるなど、まさに数々の伝説を生み出したホールです。

ピアニストに限っても、ラフマニノフやホフマン、ルービンシュタインなど音楽歴史上の綺羅星たちがこのステージに立って熱狂的な喝采を受けるなど、まさに100年以上にわたり音楽の歴史が刻まれた場所です。

さて、カーネギーホールとは云っても、ウェイルホールは座席数268と、規模の点でもメインホールのわずか10分の1以下の規模で、これで「カーネギーホールデビュー」というのも、まあ言葉の上ではウソではないかもしれませんが、ちょっとどうなんだろうか…と率直な感覚として思ってしまいます。
260席規模のホールというのはマロニエ君の地元にも有名なのがありますが、ニューヨークどころか日本の地方都市の尺度でも、それはもうかなり狭くて小さいところです。

現在のカーネギーホールは市の非営利運営だそうで、お金を出せば誰でも借りられて、さらに料金はどうかした日本のホールよりも安いぐらいだそうで、実際には無名に近い日本人演奏家なども箔を付けるため続々とこのウェイルホールでコンサートをやっているという話もあります。
そんな実態を知ると、ここでリサイタルをやったからといって、有名雑誌までもがそんな過大表現に荷担しているようでもあり、かなり異様な感じを覚えてしまいました。

これだから今の世の中、信用できません。
かつての歴史や権威性がブランドと化して、合法的に大安売りされるといった事例は枚挙にいとまがなく、なんとなくいたたまれない気分になってしまいます。

個人的には、カーネギーのウェイルホールで小さなリサイタルをするよりも、日本国内でも、例えば東京なら、サントリーホールや東京文化会館の大ホールでピアノリサイタルをすることのほうが、遙かに一人の演奏家としての真の実力と人気が厳しく問われると思いますが。
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なまくら気分

日増しに気温が上がっていくこの頃、この変化がどうも苦手です。
とくに日本では温度と湿度はセットのようにして両方上がっていくので、マロニエ君にとっては甚だしい二重苦となり、なんとなく気分までじりじり蒸発してしまうようです。

世の中には、冬が嫌いで温かくなると木々が芽を出すように元気増大していくひまわりみたいな人がいるものすが、マロニエ君はそれとは真逆の人間で、気温の上昇とともに次第にパワーを奪われていくようで、なんでもだらだらと億劫になっています。
仕事場に買ったノートパソコンも届いたのですが、すぐに使うものなのに初期設定さえも甚だ面倒だし、もう一台自分用に買った最新のマックも、とっくに届いているというのに、まだ箱さえ開けないまま物置に放り込んでいて、このままじゃ使わないうちに型遅れになりそうです。

いまここに書いたことでそれを思い出し、またまた暗澹たる気分になってきました。
こんな時期に内田百聞の阿呆列車を読んでいると、巨匠の味わい深い文章の力もあって、なまくら気分にいよいよ拍車がかかってくるようです。


週末はあるピアニストが遊びに来てくださいました。

ピアニストが来られたら弾かないまま帰すマロニエ君ではありませんから、当然ピアノを弾いてもらいましたが、快くいろいろと聴かせていただきました。
ショパンをいくつかの他は、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスとまさに文字通りのドイツの三大Bがお並びになり、大いに楽しませてもらうことができました。

中でもブラームスでは、マロニエ君の楽譜の中から目敏くコンチェルトを見つけて、近ごろこの1番を弾いてみているとのことで、譜面を広げて少し弾いてもらいました。
これは個人的にも最も好きな協奏曲のひとつです。
ブラームスだけが持つ、仄かな影が差し込むような和声展開の美しには、思わず心が持って行かれるようです。

その後はさらに数名が合流して夕食会となりました。
ピアノは弾くだけでなく、それを基調としながら、あれこれとくだらないことまで楽しく語り合うのも大いなる楽しみのひとつです。

そのうちの一人は、最近より精密なタッチ調整をやってもらったとかで、結果はほぼ満足のいく状態になったということでしたが、ここまで来るにも優に一年以上かかっていますから、やはりピアノは根気よく「育てる」という認識を持って粘り強く接していかなければならない楽器だなあと思います。

この席には不在だった別の友人は、うらやましいことに現在フランス旅行中で、出発前からパリのピアノ工房に連絡を取ったりしている様子だったので、まかりまちがって戦前のプレイエルなんぞを買ってきやしないかとドキドキです。折からのユーロ安ですから、もしかして…。
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愛情物語

いつだったかタイロン・パワーとキム・ノヴァーク主演の名画『愛情物語』をやっていたので、録画しておいたのを観てみました。

子供のころに一度見た覚えがうっすらありましたが、主人公がポピュラー音楽のピアニストで、やたらデレデレしたアメリカ映画ということ以外、とくに記憶はありませんでした。
1956年の公開ですから、すでに56年も前の映画で、最もアメリカが豊かだった時代ということなのかもしれません。ウィキペディアをみると主人公のエディ・デューチンはなんと実在のピアニストで、その生涯を描いた映画だということは恥ずかしながら今回初めて知りました。

あらためて感銘を受けたのは、この映画の実際のピアノ演奏をしているのがあのカーメン・キャバレロで、彼はクラシック出身のポピュラー音楽のピアニストですが、昔は何度か来日もしたし、まさにこの分野で一世を風靡した大ピアニストだったことをなつかしく思い出しました。

最近でこそ、さっぱり聴くこともなくなったキャバレロのピアノですが、久々にこの映画で彼の演奏を聴いて、その達者な、正真正銘のプロの演奏には舌を巻きました。指の確かさのみならず、その音楽は腰の座った確信に満ちあふれ、心地よいビート感や人の吐息のような部分まで表現できる歌い回しが実に見事。まさにピアノを自在に操って聴く者の感情を誘う歌心に溢れているし、同時にその華麗という他はないピアニズムにも感心してしまいました。

タイロン・パワーもたしかある程度ピアノが弾ける人で、実際に音は出していないようですが、曲に合わせてピアノを弾く姿や指先の動きを巧みに演じてみせたのは、やはりまったく弾けない俳優にはできない芸当だったと思います。

映画の作り自体は、もうこれ以上ないというベタベタのアメリカ映画で、その感性にはさすがに赤面することしばしばでしたが、きっと当時のアメリカ人はこういうものを理想的な愛情表現だと感じていたのだろうかと思います。

画面に出てきたピアノはボールドウィンが多かったものの、一部にはニューヨーク・スタインウェイも見かけることがありましたが、実際の音に聞こえるピアノが何だったのかはわかりません。
ただ、この当時のピアノ特有の、今では望むべくもない温かな太い響きには思わず引き込まれてしまい、こんなピアノを弾いてみたいという気になります。

今から見てヴィンテージともいえそうな時代には、ボールドウィンやメイソン&ハムリンなど、アメリカのピアノにも我々が思っている以上の素晴らしいピアノがあったのかもしれません。

今でもそんな豊かな感じのするピアノがアメリカには数多く残っているのかもしれません。
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EX-L登場!

新シリーズに移行したシゲルカワイ(SKシリーズ)では、EXは果たしてどのようになるのか、刷新されるのか、別の流れなのか、その動きをなんとなく傍観していたのですが、なんと、SK-EXはすでにラインナップから消えていることがわかりました。

はじめにあれっ?と思ったのは、北九州にまもなくオープンするひびしんホールですが、そこには3社のピアノが納入されるということで、スタインウェイDとヤマハのCFX(九州初納入?)、そしてカワイのコンサートグランドが納入される由でした。
カワイのピアノ開きのコンサートのチラシを見ていると、及川浩治さんの演奏でピアノのお披露目リサイタルが催されるものの、ピアノは単に『KAWAI EX』としか記載されていません。

てっきり、スタインウェイDとヤマハCFXを入れるので、カワイは格落ちの従来型EXなのかと思っていたところ、どうもそうではないようでした。

シゲルカワイの新しいカタログにもSK-EXの姿はなく、あくまでSK-7がシリーズ最高機種として扱われており、それはホームページを見ても同様で、SKシリーズとしてはSK-2からSK-7に至る5機種で完結しています。ところがその横のコンサートグランドには『EX-L』という見慣れぬ文字があり、???と思ってそこをクリックしてみると、なんとEX-Lという名の新しいコンサートグランドが登場しており、ボディ垂直面の内側には新SKと同様のバーズアイの木目が貼られた、新SKシリーズで先行した仕様になっています。

価格もヤマハとまったく同じ19,950,000円!
さらには全長も新SKと同様に2cm伸びて278cmになっています。
しかし、なによりも最も驚いたことは、SK-EXの場合はサイドにまで入れられたくねくねしたムカデみたいなロゴと、何の意味も見出せないピアノ形のなかにSKという二文字を入れただけの稚拙なマークが廃止され、伝統的な「K.KAWAI」がドカンと復活している点でした。

K.KAWAIは言うまでもなくカワイ楽器の創設者にしてピアノ設計者の河合小市を意味するもので、これは昔からカワイのグランドピアノだけに与えられた表記でした。そしてこの新しいコンサートグランドでは、サイドにはシンプルにKAWAIの文字が遠目にも見えるように大きく輝いており、もともとこうあるべきだと以前から思っていたので、そのことは「マロニエ君の部屋」にも書いている通りでしたが、まるで願いが叶ったようでした。

これをもって、カワイのグランドピアノの頂点に位置する旗艦モデルは、あくまでもK.KAWAIであるというヒエラルキーになり、シゲルカワイはレギュラーモデルの脇に立つスペシャルシリーズという位置付けになったようです。
海外のコンクールでも、あのロゴマークだけはどうしようもなく恥ずかしかったので、今後は堂々と、あらゆるシーンで胸を張って活躍して欲しいものだと思います。
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転勤

世に言う「転勤」というものは、友人知人を通じて身近に接してみると、やはりなかなか厳しいものだなあというのが率直な印象です。
なにしろ行き先もその時期も、自分の意志とは無関係に事は決していくのですから大変であり苛酷です。

ごく最近も親しい友人が東京勤務を命じられ、長年住み慣れた土地を離れることを余儀なくされて、先日お別れ会というほどではないけれども食事などを共にしました。
なんでも、来月の上旬には新しい職場に出社していなくてはならないそうで、この間わずか一ヶ月ほどという慌ただしさですが、それでも内々に教えてくれた上司のお陰で通常よりも早くその事を知り得たのだそうで、本来ならわずか2週間ほどしかないとか。あらためてすごいなあと思いました。

電力会社に勤めている別の友人も、昨年の震災からほどない時期の東京へ移動を命じられて大変驚いたものでした。あまつさえ彼は自宅を新築している最中で、その竣工を待たずして妻子を残して単身上京の運びとなりました。
しばしば帰省しているようではありますが、せっかくの新居ができて早一年が経つというのに、まだまとまった時間をその家で過ごしたこともないらしく、もうしばらくは帰れそうにないというのですから、なんとも気の毒な気分になります。

マロニエ君は職業柄、サラリーマンではないので転勤という上からのお達しによって、突如まったく違う土地へ有無を云わさず引っ越しをさせられるといった事がないために、自分の経験としてその感覚がわかりません。
準備期間らしきものはほとんどなく、しかも命令は絶対でしょうから、まさに生活そのものを竜巻にでも持ち去られるごとくで、それまで築き上げた本人や家族のさまざまな人間関係まで、一気にむしり取られてしまうのは、考えれば考えるほど苛酷なものだと感じます。

今どきは、事柄においては異常な程、さまざまな人の権利が声高に叫ばれる時代になりましたが、どうもこの転勤という社会の慣習だけは一向に変化の兆しがないようです。

そういう意味では、保守的で前時代的でもあり、自らの意志によって一箇所に安定して深く根を下ろした生活を営んでいくことは現実的にできないことでしょうし、サラリーマンになるということは、それを含めた覚悟までがセットのようなものだろうと思います。転勤に関しては昔の武士がいつでも腹を切るがごとく、日頃から転勤命令を想定しておく必要があるのでしょう。

ついでながら、転勤事情にまるきり無知なマロニエ君にしてみれば、とくに根拠もなく、転勤といえば春秋の一定期間におこなわれる事で、とりあえずその時期を過ぎればまた半年はその心配(もしくは希望?)がないものと思っていましたが、これら友人の状況を見ても明白なように、彼らはいずれもいかにも中途半端な時期に移動を命じられているわけで、これは要するにいつ転勤を言い渡されるかは、年がら年中いつでもその可能性があるということらしいというのがわかりました。

慣例に従えば、2、3年でまた移動になる可能性もあるということで、こちらに復帰することもあるでしょうから、それまでしばしのお別れです。
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吉田秀和翁

音楽評論の大御所にして最長老であった吉田秀和さんが亡くなられたそうです。
御歳98だったとのこと、まさに天寿を全うされたわけでしょう。

最後まで現役を貫かれたことは驚くべきで、レコード芸術の評論をはじめ、氏の文章には長きにわたってどれだけ触れてきたか自分でも見当がつきません。
テレビにも折に触れて出演されましたが、老境に入ってからドイツ人の奥さんが亡くなったときは生きる希望を失い、自殺も考えたというほどの衝撃だったというようなことも語られていたのが今も印象に残っています。

それでもやがてお仕事に復帰され、執筆活動はもとよりNHKラジオの番組(題名は忘れました)は40年以上にも渡って継続して番組作りから司会までこなされるなど、その深い教養と尽きぬエネルギーにはただただ敬服していたものです。

また東京芸大と並び立つ、日本屈指の音大である桐朋学園は、この吉田さんや斎藤秀雄さんの尽力によって「子供のための音楽教室」としてスタートし、吉田さんはここの初代室長を務められるなど、いわば桐朋の生みの親でもあるといえるでしょう。
ここから小沢征爾、中村紘子など後の日本の主だった音楽家が数多く巣立っていったのは有名な話です。

私事で恐縮ですが、マロニエ君が子供の時、この桐朋の「子供のための音楽教室」の福岡での分校のようなところで音楽の勉強の真似事のようなことができたのはとても懐かしい思い出です。

吉田さんが日本の音楽界に与えた功績はとても簡単には言い表すことのできない規模のもので、優秀なオーケストラとして名高い水戸室内管弦楽団を結成したり、音楽を超えたジャンルにまで及ぶ吉田秀和賞の創設など、言い出すと知らないことまで含めてとてつもないものだろうと思います。

しかし、マロニエ君が最も吉田さんの仕事として尊敬尊重していたのは、やはり音楽評論という氏の本業の部分であって、その人柄そのもののような穏やかで格調高い文章、音楽評論という場において日本語の美しさをも同時に紡いで表現されたその文体は、気品に満ちた独特の吉田節のようなものがあり、これは誰にも真似のできないものだったと思います。

吉田秀和といえばあまりにも有名なのが、初来日したホロヴィッツの演奏を聴いて、その休憩時間にテレビインタビューに応じられた際のコメントでした。覚えているのは「彼はもはや骨董品になったな。骨董品は価値のある人には価値があるが、ない人にはもうない。ただしその骨董品にもヒビが入った。もう少し早く聴きたかったな。」というものでした。
まったくの記憶だけで書いているので、多少違っているかもしれませんが、ほぼこのようなコメントだったことを覚えています。

この寸評はたちまち世に喧伝され、ついにはこの神にも等しい世紀の大ピアニストに対していささか不敬ではないか?という論調まであらわれたのを覚えています。しかし、マロニエ君は頑として吉田さんの意見に賛成でしたし、彼はまったく正しいことを言ったのだと思い続けたものでした。

この時のホロヴィッツはそのカリスマ性、伝説的存在、魔性、突然の来日、当時(1983年)5万円也のチケット代など、なにもかもが話題沸騰という状況で、そんな中をついにこの圧倒的巨匠がNHKホールのステージに姿をあらわしました。プログラムにもそれまで彼のレパートリーにはなかったシューマンの謝肉祭があるなど、テレビの前に陣取るこちらも高ぶる期待に胸を躍らせながら、その画面を固唾を呑んで見つめたものです。

しかし、その演奏は呆気にとられるような無惨なもので、この状況にあっては吉田さんのコメントはきわめて妥当で誠実、むしろ知的な抑制さえ利かせたものだったと思いますし、むしろ不自然なほど素晴らしい!と褒めちぎる日本人ピアニストなどの発言のほうがよほど偽善的で、そんなことを平然と言ってのける人の神経のほうを疑ったものです。

今は音楽批評とはいってもいろんな制約に縛られており、おまけに半ばビジネス絡みでやっているようなものですから、大半の批評はマロニエ君はもはや信頼していません。そして最後の良心の象徴であった吉田さんが亡くなられたことで、ますますこの流れに歯止めがかからなるような気がします。

いずれにしろ吉田さんの著作や生き様はいろいろと勉強になった上にずいぶん楽しませてもいただいたわけで、ご冥福をお祈りすると共に謹んで御礼を申し上げたい気分です。
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2つのオペラ

このところテレビ放映されたオペラを2つ観ました。
…正確には1つとちょっとと云うべきかもしれません。

ひとつはボリショイ劇場で上演されたグリンカのオペラ『ルスランとリュドミラ』。
序曲ばかり有名なわりには、一度も本編を観たことがなかったのでこれはいい機会と思って見始めたところ、どうしようもなく自分の好みとは相容れないものが強烈だったために、全体で4時間に迫るオペラの、わずか30分を観ただけで放擲してしまいました。

これでもかとばかりのくどすぎる豪華な舞台には優雅さの気配もなく、音楽もなんの喜びも感じられないもので、とりあえずDVDには録画して、いつかそのうちまた…という状態にはしたものの、たぶん観ることはないでしょう。
ちなみに開始前の解説によると、初演に臨席したロシア皇帝ニコライ一世もこの作品が気に入らず、途中退席してしまった由で、いかにもと思いました。

いっぽう、6年という期間をかけて全面改修成ったボリショイ劇場ですが、建造物はともかくとして、新たにスタートした新しい舞台の数々には共通したものがあって、これがどうしようもなくマロニエ君の趣味ではありません。

以前も同劇場の新しい『眠りの森の美女』をやっていましたが、このルスランとリュドミラと同様の違和感を感じました。とくにやみくもに豪華絢爛を狙い、深みや落ち着きといったもののかけらもないド派手な装置や衣装は、目が疲れ、神経に障ります。新しいということを何か履き違えている気がしてなりません。

もうひとつはフランスのエクサン・プロバンス音楽祭2011で収録された『椿姫』でした。
マロニエ君は実はこの演目の名を見ただけで、あまりにもベタなオペラすぎて観る気がしないところですが、エクサン・プロバンスという名前にやや惹かれてつい観てしまいました。

というのもこのオペラの有名なアリア「プロヴァンスの海と陸」の、そのプロバンスで上演された椿姫ということになるわけですね。椿姫の恋人であるアルフレードはプロバンスの出身という設定で、第2幕ではヴィオレッタとの愛に溺れた生活を送る息子を取り返しに来たアルフレードの父親が、故郷を思い出せという諭しの意味を込めながらこの叙情的な美しいアリアを歌います。
あらためて聴いてみると、しかしこのアリアはやはり泣かせる名曲だと思いましたが、椿姫そのものが、全編にわたって名曲のぎっしり詰まった詰め合わせのようだと思わずにはいられませんでした。

ナタリー・デセイの椿姫、アルフレードはチャールズ・カストロノーヴォと現在のスター歌手が揃います。さらにはアルフレードの父親はフランスの名歌手リュドヴィク・テジエ、しかもフランスで上演されるオペラなのにオーケストラはなぜかロンドン交響楽団というものでした。

ジャン・フランソア・シヴァディエによる演出は、ご多分に漏れず舞台設定を現代に置き換えた簡略なもので、マロニエ君はこの手のオペラ演出を余り好みません。
やはり筋立てや出演者のキャラクターが、現代にそのまま置き換えるには随所に齟齬を生み、違和感があり、説得力がないからで、それは音楽においても舞台上の進行との密接感が損なわれるからです。

このような現代仕立ての演出の裏には、伝統的なクラシックな舞台を作り上げるためのコストの問題があるらしく、非日常の享楽であるべきオペラの世界までもコストダウンかと思います。
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楽器と名前

ストラディヴァリやグァルネリのようなクレモナの由緒あるオールドヴァイオリンには、それぞれに来歴やかつての所有者にちなんださまざまな名前が付いています。

そのうちの一挺である「メシア」は数あるストラディヴァリウスの中でも、ひときわ有名な楽器で、それは300年もの年月をほとんど使い込まれることもなく、現在もほぼ作られた当時のような新品に近い状態にある貴重なストラディヴァリウスとして世界的にその名と存在を轟かせています。
「メシア」の存在は少しでもヴァイオリンに興味のある人なら、まず大抵はご存じの方が多いと思われますし、マロニエ君ももちろんその存在や写真などではお馴染みのヴァイオリンでした。

現在もイギリスの博物館の所有で、依然として演奏されることもなくその美しい状態を保っているようですが、その美しさと引き換えに現在も沈黙を守っているわけで、まずその音色を聴いた人はいないといういわく付きのヴァイオリンです。

高橋博志著の『バイオリンの謎──迷宮への誘い』を読んでいると思いがけないことが書かれていました。それは「メシア」という名前の由来についてでした。

19世紀のイタリアの楽器商であるルイジ・タシリオはこの美しいストラディヴァリウスの存在を知って、当時の所有者でヴァイオリンのコレクターでもあったサラブーエ伯爵に直談判して、ついにこの楽器を買い取ることに成功します。
普段はパリやロンドンで楽器を売り歩くタシリオですが、この楽器ばかりは決して売らないばかりか、人に見せることすらしなかったそうです。自慢話ばかりを聞かされた友人が「君のヴァイオリンはメシア(救世主)のようだ。常に待ち望まれているが、決して現れない。」と皮肉ったことが、この名の由来なんだそうです。

あの有名な「メシア」はそういうわけで付いた名前かということを知って、ただただ、へええと思ってしまいました。

ピアノはヴァイオリンのような謎めいた楽器ではありませんけれども、古いヴィンテージピアノなどには、このような一台ごとの名前をつけると、それはそれで面白いかもしれないと思います。

そう考えると、自分のピアノにもなにかそれらしき根拠を探し出して、いかにもそれらしき名前をつけるのも一興ではという気がしてしまいました。自分のピアノにどんな名前をつけようと何と呼ぼうと、それはこっちの勝手というものですからね!
巷ではスタインウェイを「うちのスタちゃん」などと云うのが流行っているそうですが、せっかくならもうちょっと踏み込んだ、雰囲気のある個性的な名前を考えてやったほうが個々の楽器には相応しいような気もします。

名前というのは不思議なもので、モノにも名前をつけることでぐっと親密感が増し、いかにも自分だけの所有物という気分が高まるものです。こういうことは度を超すとたちまちヘンタイ的ですが、まあ、ひとつふたつの楽器に名前をつけるくらいなら罪もないはずです。

みなさんも気が向いたらピアノに素敵な名前をつけてみられたらどうでしょう?
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基本は同じでも

先週末はフランス車のクラブミーティングがあってこれに参加しましたが、この日はとくに同一車種が集合するというテーマが設けられ、とくに該当する車種だけでも5台が集まりました。

さて、同一車種が5台とは云っても、実は1台として同じ仕様はなく、エンジン、ボディ形状、サスペンション、A/T、生産時期などがすべて異なり、各車のテストドライブではそれぞれの違いが体感できて、貴重な体験となりました。

クルマ好きが集まっての「車前会議」が思う様できて、なおかつ自由に試乗もできる環境ということで、昔からしばしば利用している福岡市西区の大きな運動公園の駐車場が今回も会場となりました。
ここは広大な敷地があって、出入り自由な駐車場も第3まである余裕の施設で、おまけに駐車場は美しい芝生になっているので、このような目的には恰好の場所となっています。

同一車種であるために、5台の基本的な成り立ちはもちろん共通していますが、上記のような仕様の違いは車にとって無視できない違いを生み出しており、一長一短、それぞれに個性があって、こんなにも違うものかと思いました。

なんとなく、これはピアノにも共通していると思われることでした。
基本が同じ設計のピアノでも、材質や使われるパーツの仕様、技術者の違い、管理の仕方によってほとんど別物といっていい差異が生じるのは、むしろ車どころではないという気もします。

とくにピアノで大きいのは技術者の技量と仕事に対する姿勢、そして管理による優劣だろうと考えられます。
ピアノは車のような純然たる工業製品でなく、楽器というデリケートかつ曖昧な植物のような部分を多く内包しているため、技術者の技術力とセンスに多くを委ねられているわけです。

車や電気製品なら機能も明確で、故障や不調は明瞭な現象としてあらわれますが、ピアノのコンディションはきわめて微妙な領域で、判断そのものからして専門的になるので、どこからを好ましからざる状況だと判断するかは価値観によるところもあって大変難しいところといえるでしょう。

好調不調のみならず、そこには好みの問題も加味され、これを受け止めつつ常時ある一定の好ましさに維持するのは、もっぱら技術者の腕ということになりますし、どこまで要求し納得するかは使い手の精妙なるセンサーに頼るしかありません。
さらには、いかに使い手が一定の要求をしても、一向にそれを解さず、あるいは面倒臭がって仕事として着手しない技術者が少なくないのも現実ですし、逆にそういう領域にまで踏み込んだ高度な調整を施しても、まったくその価値に鈍感な使い手もいたりと、このあたりがピアノという楽器のもつ難しさなのかもしれないという気がしてしまいます。

車ぐらいの分かりやすさがあれば、必然的にもっと素晴らしいピアノの数も増えることだろうと思います。
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H.J.リム-3

思いがけずマイブームになってしまったH.J.リムは、驚くべきことに、なんとベートーヴェンのソナタ全集(ただし第19番、第20番を除く)を完成させているといいますから、もしかしたら、この若いピアニストが、ウー・パイクでコケてしまった韓国人のベートーヴェンで名誉挽回するのかもしれず、懲りもせず購入検討中です。
発売は5月下旬(つまり間もなく)の由。

ちなみにネットで見るジャケットには「BEETHOVEN COMPLETE PIANO SONATAS」と書かれていますが、上記の2曲が抜けているにもかかわらずCOMPLETEと書くのは、ソナタは30曲と見なしているという意味なんだろうかと思いました。
たしかにこの2曲はソナチネだといわれたらそうなんですが…。

ともかく優等生タイプもしくはコンクールタイプの多い今の時代に、このような個性溢れる情熱的なピアニストが出現したことを素直に喜びたいこの頃です。

最後になりましたが、使用ピアノについて。
ライナーノートのデータによれば、この演奏はすべてスイスでおこなわれ、ピアノはヤマハのCFXが使われています。ピアノに関しては過日のチャイコフスキーのコンチェルト同様に、やはりちょっと違和感があって、まったくマロニエ君の好みではなかった点は残念でした。

やはりというべきは、CFXは非常に美しい音のピアノだとは思いますが、いかんせん表現の幅が感じられません。大曲や壮大なエネルギーを表現する作品や演奏になると、たちまちピアノがついていかないという印象がますます拭いきれなくなりました。
整音や響きの環境の加減もあるとは思いますが、強烈な変ロ長調の和音で開始されるハンマークラヴィーアの出だしを聴いたら、このピアノの懐の浅さがいきなり飛び出してくるようでした。
フォルテ以上になったときの楽器の許容量が不足しているのか、この領域ではこのピアノの持つ美しさが出てこないばかりか、いかにも苦しげな音に聞こえます。
金属的というよりは、ほとんどガラス繊維が発するような薄くて肉感のない音で、ときに悲鳴のように聞こえてきて、それがいっそうH.J.リムの演奏を誤解させるもとにもなったように感じました。
音そのものがもつヒステリックで破綻した感じが、まるで演奏者のそれであるかのようにも聞こえます。

H.J.リムがベートーヴェンの録音にCFXを使った意味はわかるような気がします。
いかにも先端的で多感な彼女のピアニズムには、いわゆるドイツ系のピアノよりはヤマハのような新しい感性で作られたピアノのほうが相応しいだろうというのは理解できるところです。
とりわけ軽さとスピード感はヤマハの優秀なアクションだけが達成できる領域かもしれません。

というわけで、このところのいろいろな演奏を聴いて、CFXの弱点も少し露見してきたように感じているところです。はじめは感心したメゾフォルテまでの美しさにくらべて、フォルテ以上になるといきなりアゴをだしてしまうのはいかにも情けない。さらに言うと、その美しさには憂いとか陰翳がなく、いかにも単調でイージーな美しさであることがやや気にかかります。
ここまで高性能なピアノを作ったからには、却ってあと一歩の深さ豊かさがないところが悔やまれます。
今の状態では、俗に言う「大きな小型ピアノ」の域を出ないという印象ということになるでしょうか。

このCDのレーベルはEMIですが録音はなかなかよかったと思います。
すくなくと駄作続きのDECCAなんかにくらべると、まったく次元の異なるクオリティを有していると思いますし、それだけに演奏の新の魅力や価値、ピアノの性能などもよく聞き取ることができたように思います。
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日曜剪定

夏を前にして、植木の剪定を頼まなくてはと思っていたところ、友人が「おもしろそうだから切ってやる」と言い出したことがきっかけで、まずは自分達でやってみることになりました。

平凡な植木ですが、それでも年月と共にだんだん大木然とした風体になり、せっかく刈り込みをしていても、一年も経つと枝葉はすっかり伸びて生い茂り、気がついたときにはかなり暑苦しい状態になってしまいます。
植物の生命力、とりわけ春先の樹木の繁茂は目を見張るものがあり、日ごとに確実に日陰の量を増大させてくるのは脅威的ですらあります。植物の成長には目に見える動きもなければ、むろん音もなく、それでいて全体が同時進行的に生きているので、そのぶんのえもいわれぬ不気味さを感じます。

…しかしものは考えようで、震災以降は深刻な節電が叫ばれるご時世となり、去年あたりからでしょうか「緑のカーテン」などという言葉を良く耳にするようになったので、今年は枝葉が伸びることを逆手にとって、少しでも暑さしのぎになればとやや前向きに考えるようにもなりました。

とは云っても、本格的な夏になれば、多少の木陰があろうがなかろうが、暑いことには変わりはないでしょうが、それでも直射日光に焼かれ続けるよりは僅かな違いはある筈で、気休め程度にはなるのかもしれません。
とはいえ放っておいたらとんでもないことになるのはわかっているので、やっぱり少しは手を入れないとこのまま伸び放題に委せるわけにもいきません。

マロニエ君は自慢じゃありませんが、まるでアウトドア派じゃないし、土いじりも植木いじりもべつに好きではないので、剪定が楽しいなどという意識は皆無なのですが、それでも最低限やらざるを得ないものは仕方がありません。本来なら本職に委ねるべきところですが、幸い友人が酔狂なことを言ってくれるので運動を兼ねて遊び半分にやってみることになりました。

友人が木に登ることを前提に、命綱なんぞというものを持ってきたのには一驚しましたが、万一のことがあったら取り返しがつかないし責任が取れないので、そんなものが必要なところへ登るのは絶対にないように言い含めて、手近にできるところから植木屋の真似事のようなことを始めました。

我が家には電動ノコギリの類は恐いのでひとつもなく、折り畳み式のノコギリと剪定用の大きな鋏で不要な枝葉を切り落とすなどしましたが、これが意外にもスイスイと良く切れるのは感心します。

日曜はとりあえず2回目の作業となり、のべ数4、5時間の作業でだいぶ見た感じはスッキリしましたが、あと1回は来てもらわなくてはならないようです。
それはいいとしても、あちこちの木の下には切り落とされた枝や葉が山のように積み上げられて、さてこれをどう処分するかが目下の課題です。
これまでの経験では、植木屋に頼んでも支払う金額の過半を占めるのは切った枝葉の処理に要する費用だと云っていましたし、今どきはこれを焚き火にして灰にしてしまうこともできません。

いろんなことが窮屈な時代になったものですが、ともかくいい運動になりました。
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続・ハンマー実験

ずいぶん長いこと抱えていた音への不満が、ハンマーをたったひとつ取り替えてみただけで大きく変化するなんて、当たり前かもしれませんが、正直言って思ってもみないことでした。

今ついているハンマー(純正)も決していいものではないだろうとは思っていたものの、その原因はもっと広範囲にわたっているだろう…つまりボディなど別の部分にも広がっていることだろうと思っていたわけで、要は「このピアノはこんなもの…」という諦めが先行して、単純なこの結果にかなり驚いてしまいました。

調律時に引き出されるアクションを見るたびに、そこにずらりと並ぶハンマーがやや小ぶりではないか?という一抹の疑いは常に抱えていたのですが、やはりその点は間違いではなかったようで、おととい調律師さんが持ってこられたレンナーのハンマーは全体に少し大きいようでした。

ただしここで解決の兆しを見せたのは音の問題だけで、ハンマーの変化(とくに質量)によってタッチなどはまったく変わってしまうわけでその問題が残ります。ハンマーのわずかなサイズの増大でも、確実にタッチは重くなり、それに見合うバランスを取るには鉛詰めなどあれこれの調整を必要とするわけで、つまりこのハンマーがただちに我がピアノに向いているかどうかというのは、よくよく慎重な検討と判断を必要とすることのようです。

というわけで、もとのハンマーに戻されることになり、調律師さんはせっせと整音作業をやっておられます。
しかし、マロニエ君にしてみれば、ひとつだけ付け替えたハンマーが生み出す厚みのある音にすっかり惚れ込んでしまって、いまさら好みでもないこれまでのハンマーにいくら整音なんかしたってムダなような気分に陥ってしまいますが、せっかくやってもらっているものをそうも言えません…。

さて、そのレンナーのハンマーはといえば、机の上に置かれた小さな段ボール箱の中に、ちゃんと一台分が揃っており、しかも、特に使う予定はないというところがなんとも悩ましいではありませんか。
なんでも、自分の工房にあるコンサートなどに使っているピアノ(セミコン)のために取り寄せたものだそうですが、好みとは合わなかった為に、アベル(別のメーカー)のハンマーに再び付け替えてしまったので、このハンマー一式は宙に浮いている状態らしいのです。

マロニエ君にしてみれば、現状に比べたら遙かにいい音だったので、もうこれでいいから交換して欲しいと思ったのは自然な流れでした。
しかし、調律師さんというのはどなたもそうですが、技術者としての自分の拘りや厳格な判断基準をもっているもので、すぐに「はい承知」というわけにはいかないようです。

タッチの問題やら、万一気に入らなかった場合に元に戻せるようにする処置のこととか、さまざまなお考えがあるらしく、こちらからすればなかなかじれったいものです。
それでも易々と引き下がるマロニエ君ではありませんので、せいぜい説き伏せて、なんとかこのハンマーを使えないかと迫ったところ、とりあえず検討してくださることになりました。

ということで突如降って湧いたようなハンマー交換作戦となりそうです。
はてさて、どうなりますことやら…。
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ハンマー実験

約半年ぶりでしょうか、カワイのグランドの調律に来てもらいました。

このピアノ、かねてよりマロニエ君としてはいささか気に入らない点があり、それは奥行き 2m以上と図体はそれなりに大きいくせに音にもうひとつ深みがないということでしょうか。
以前はそれを各所の調整の積み上げによって解決できないものかと考えていましたが、さんざんあれこれやってもらったもののあまり変わらず、要はこのピアノが持っている声の問題だろうということに結論づけて、最近ではほとんど諦めの境地に達していました。

いっそオーバーホールでもして、弦やハンマーを新品に取り替えればまた違った結果もでるかもしれないものの、さすがにそこまでする状態でもなく、いうなればどっちつかずの状況にいたわけです。
通常の調律はともかくとして、マロニエ君がいつも調律師さんにお願いしているのは、専らタッチと音色の問題でしたが、思いがけなくこの点に関して興味深い実験をしてもらうことになりました。

すでに製造から20有余年が経過していることでもあり、とりわけハンマーはとうに賞味期限を過ぎているものと思っていましたが、調律師さんに云わせると必ずしもそうではないらしく、要はこのハンマーのもともとの性格だろうという見立てでした。

さて、その実験というのは、ほぼ新品同様のレンナー製(ドイツの老舗メーカー)ハンマーを持参してくださり、ハンマーの違いでどうなるか、試しにひとつだけシャンクごと取り替えてくれました。
果たして、その音はこれまでこのピアノで一度も聴いたことのなかったような、太くて厚みのある力強い音が現れ、まわりの薄っぺらな音とはまるで違っているのは率直に驚きでした。実際にハンマーのサイズもひとまわり大きいし新しいぶんパワーと柔軟性を併せ持っているのでしょう。
従来どちらかというと音色に明るさのなかったカワイが、この機種からややブリリアントな方向を目指していたようですが、そのためにやや小ぶりで俊敏なハンマーを採用していたらしく、それがマロニエ君の常々感じていた不満に繋がっていたのだと考えて差し支えないようでした。

これにより、とりあえずの問題点はボディや弦ではなく、専らハンマーにあるということが裏付けられたことになりました。予想外の音が出て小躍りしているマロニエ君を尻目に、「じゃあ元に戻しますね」といわれて大きく落胆したのはいうまでもありません。

調律師さんとしては、不満の原因がどこにあるのかを確かめただけでもこのような実験をした意義があったと考えているようですが、マロニエ君にしてみれば味見だけさせてもらって、望外の美味に喜んでいるところでサッとお皿を下げてしまわれるごとくです。

合計4時間に及んだあれこれの作業は終了して帰って行かれましたが、これは悩ましいことになったと思い始めたのはいうまでもありません。

映画『ピアノマニア』でせっかく届いたハンマーが予定していたものより細いので、急遽手配をし直すというワンシーンがなぜかふと頭をよぎりました。

元に戻すのが忍びなかったのか、ひとつだけつけたレンナーのハンマーはひとまず付いたままにしてあります。…いつまでもこの状態にしておくわけにもいきませんけれど。
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難しい季節

このところやや落ち着いた感じもしなくはないものの、まだまだ今の季節は体調の思わしくない人が多いようですね。

マロニエ君もその例に漏れませんが、だいいちの問題はなんとも安定しない移り気な気温です。
暑くなったかと思うとまた少し肌寒さがあったり、そうかと思うとまた逆戻りしたり…。
しかもその暑さ寒さがいかにも中途半端で、明瞭に暑いとか寒いとかいうのではない範囲での寒暖差が発生するわけで、これがくせものです。

毎日の天気もころころと変化を繰り返すだけでなく、一日のうちでも朝夕など時間帯によって予想しなかったような温度差が生じて、こういうときにうっかりすると風邪をひきそうになりますし、それでなくても身体の調整機能がついていけません。

呆れてしまうのは、自宅にいても、部屋によってまったくバラバラな温度で、同日同時刻でもやや蒸し暑いような部屋もあれば、一転して肌寒くて上からシャツを一枚羽織りたくなるような部屋もあったりと、これはよほど気を引き締めてかからないといけません。

どこのお宅でもそうかもしれませんが、やはり二階のほうが直射日光にも近いぶん温度が上昇するものでしょうか。そうかと思うと二階でも廊下は涼しかったりするし、パソコンや電気機器の多い部屋はそれだけでも温度が微妙に違います。

それに追い打ちをかけるように、湿度にも上下の乱れがあり、個人差もあるとは思いますが、この湿度の不安定というのも体調管理の邪魔をする要因だと思われます。
まだまだあります。
この季節は中国大陸から黄砂がつぎつぎにやってきては街を汚し、車に降り積もり、人々の呼吸器にまで悪さをしているようで、マイナス要因が多岐に渡ることもこの季節を乗り切ることの難しさだろうと思います。

あまたの植物が一斉に芽吹く季節というものは、それだけ大自然の有無を言わさぬ力というものがあり、人の体の中にあるいろいろな要素も併せて芽吹かせてしまうようで、これにはもちろんマイナスの要因も含まれるであろうため、余計なものまで発芽発達して、結果として体調を崩すのではないかと思うのですが、実際のところはどうなんでしょう。

すでにピアノを置いている部屋では除湿器が日によって動き始めていますが、例年よりも取れる水の量が少なく感じるのは、合計3台取りつけているダンプチェイサーのせいだろうか…などと考えているところです。
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昨年のウチダ

少し前にBSプレミアムで昨年の内田光子の様子が放映されました。

ザルツブルク音楽祭2011からの室内楽コンサートと、3月にミュンヘン・ガスタイクホールで行われたバイエルン放送交響楽団演奏会からベートーヴェンの第3協奏曲で、指揮はマリス・ヤンソンスでした。

ザルツブルク音楽祭ではマーク・スタインバーグ、クレメンス・ハーゲンとの共演でシューベルトの三重奏曲「ノットゥルノ」ではじまり、これは高いクオリティ感にあふれた見事な演奏でした。
続いてはイアン・ボストリッジとの共演で、シューマンの詩人の恋でしたが、ウチダにはシューベルトのほうがはるかにマッチングがいい印象があり、シューマンではロマンティックな「揺れ」みたいなものが不足しており、肝心な部分での歌い込みの熱っぽさとか線の太さがなく、ややドライな印象を受けました。

ボストリッジの歌は、ひとつひとつのフレーズやアクセントがしつこすぎて、深くえぐるような表現に持っていこうという狙いなのかもしれませんが、ちょっとやり過ぎに感じられてあまり好みではありませんでした。

いっぽうのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、これも期待ほどの演奏には感じられませんでしたし、ウチダと共演すると、オーケストラのほうでも彼女の妙技を邪魔してはいけないと考えるのか、妙に力感のないエネルギー感の乏しい演奏だったのが気にかかった点です。

ウチダのピアノはいまさら云うまでもありませんが、繊細優美で格調高いことが世界でも認められているのはもちろんですが、あまりに拘りが強すぎて、あるいは己に没入しすぎて、あちこちで曲の全体像を見失いがちになることが多すぎるのは相変わらずでした。(本人はそうは思っていないのでしょうけれど)
随所に余人には到底真似のできない息を呑むような美しさがある反面、前に進むべき音楽がしばしば停滞し、彼女の独りよがりに陥って、聴く者にしばしば忍耐を強いるのはやはり疲れてしまいます。

それでも、どうかするとこれ以上ないというほどドンピシャリにピントの合った瞬間があり、理想的な優美な音楽を聴かせるあたりが、この人の抗しがたい魅力なのかもしれません。

それと、つくづくと思ったのはベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも第3番はまさに作風の上でも、ベートーヴェンが独自の個性を確立したエポックな作品ですが、演奏するのは極めて難しいものであることも再確認したところです。

曲の規模や構想の大きさのわりには音数が少な目で、大胆さと繊細さの平衡感覚がよほど緻密な人でないと、この作品をベートーヴェンらしく鳴らし切るのは大変だろうと思います。細部の表現性に拘泥するよりも、ぼってりとある意味泥臭く弾ける人のほうが向いている曲のような気もします。
第2楽章は5曲の協奏曲中随一ともいえそうな魅力と芸術性にあふれたもので、ふとこのラルゴのために前後楽章が置かれているような気さえしてしまいます。

少なくともウチダにとっては第4番のほうが遙かに彼女のテンペラメントに合った曲という気がしました。
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新SKシリーズ発表会

天神のレソラNTT夢天神ホールにて、カワイの新SKシリーズのレセプション・イベントがおこなわれ、お招きをいただいたので参加してきました。

この建物は、下にアメリカの高級デパート、バーニーズ・ニューヨークがある、現在の天神界隈でも最も新しい注目スポットという場所で、このような会場で新SKシリーズのイベントを行うということは、カワイもなかなか思い切ったことをやるものだと思いました。

街中の最も中心的な場所で新機種の発表会をするということは、いつものショールームにただピアノとカタログを置いておくのとはまた違ったインパクトもあり、売る側にも士気高揚の効果があるのかもしれません。

受付を済ませると、記念品の入った袋一式と自分のフルネームを書かれた名札を受け取りますが、こんなものを胸につけるのも恥ずかしいのでどうしようかと思いつつ、みなさんそうしていらっしゃるのでやむを得ずマロニエ君もつけることに。

5FのレソラNTT夢天神ホールには新品のSKシリーズが何台も展示され、さらにホールのステージには新SK-6が誇らしげに鎮座しています。
予定通りにお歴々のスピーチがおこなわれた後は、地元のピアニスト和田悌さんによる演奏が40分ほど行われ、それに続いて立食パーティという式次で、このパーティのスタートと同時にステージを含めどのピアノも自由に試弾できるという趣向でした。

個人的には、期待していた技術的な内容に踏み込んだ説明はほとんどなく、この点は非常に残念でした。
表現力アップのために鍵盤を2センチ長くしていることは再三強調されましたが、これにともなって全面的な設計変更かと思っていたら、やや疑問な点もいくつか残り、これは後日確認したい課題となりました。

会場はカワイの従業員の方々が勢揃いという感じもあり、お客さんのほうもカワイを愛奏する大学の先生はじめ、ピアノの先生などが主たるメンバーだったようにも感じました。

聞くところでは、新SKシリーズが販売が好調なのか、もともとの生産台数が少ないのか、はっきりとした理由まではわかりませんが、ともかく台数が足りないということでした。
ちなみにステージにあった新SK-6は、この後太宰府のショールームに置かれるのかと思っていたら、そうではなくすぐに大阪へ移動とのこと。
このピアノはコンサートで聴く限りはもうひとつ鳴りが硬いようで、これは楽器が新しい故のことかもしれません。直感的に新SKシリーズのベストバイはSK-2、SK-3、せいぜいSK-5あたりではないかという漠たる印象を持ちましたが、これはもちろんマロニエ君の個人的な感想です。

いずれにしろ、この価格帯では最高ランクのピアノだと云うことはほぼ間違いないという印象には変わりありませんでしたし、カワイもそのあたりはじゅうぶんに認識しているのだろうと思います。

いただいた袋を開けてみると、浜松のお菓子で「音合わせ」という名の、袋にピアノの鍵盤のついた焼き菓子が入っており、まるで調律師が名付け親のようなその拘りぶりというか、いかにも浜松ならではという感じについ微笑んでしまいました。
日本のピアノの聖地である浜松にも、また行ってみたいものです。
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ピアノ三昧な一日

福岡市南区にある瀟洒なギャラリーを兼ねたホール、日時計の丘でおこなわれた望月未希矢さんのピアノリサイタルに行きました。

曲はバッハのフランス組曲第6番、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番ほか。
望月さんのピアノは決して力まない自然体が身上で、清流が静かに流れ下るような演奏が印象でした。冒頭のバッハから羽根のように軽い響きの織りなす美しい音楽が会場を満たし、バッハの作品をこれほど幸福感をもって弾けるのだということを初めて体験したような気分になりました。

この小さなホールのいつもながらのふわりとした美しい響きと、1世紀を生き抜いて尚現役として音楽を紡ぎ続けるブリュートナーの美しい音色にもいまさらのように深い心地よさと覚えました。
ブリュートナーとバッハは、ライプチヒという共通項で結ばれているわけですが、なるほどこのピアノはバッハを弾くには最良の楽器のひとつと言えるのかもしれませんし、実際に耳で聴いてもそう感じずにはいられないものがこのピアノの中には密かに息づいているようでした。

バッハでは旋律にふっくらとした輪郭線が表れ、ベートーヴェンではときにフォルテピアノを思わせるものがあって、その音を聴いているだけでも飽きることがありません。
上部の窓から入る自然光がやわらかに会場を明るく照らし出す中を、心地よい音楽に包まれながら、ときに木の床を伝わってくるピアノの響きの振動が足の裏にまで伝ってくるとき、まるで自分が鳴り響く音楽の中心に身を置いているような気分になることしばしばでした。

終演後は、この日のピアニストやホールのオーナーや偶然お会いした知人らとしばし歓談して、まことに心豊かな時間を過ごすことができました。

オーナー氏の談によれば、なんでも今年の夏を皮切りに10年間にわたってバッハの鍵盤楽器のための作品の全曲演奏をおこなうという、まことに壮大なる企画が進みつつあるのだそうで、これはまた楽しみなことになってきたようです。

この日は昨年遠方に移り住んだ知人が折良く福岡に来ていましたので、コンサートの後は一緒に行った知人のご自宅へお邪魔して、ご自慢の素晴らしいスタインウェイピアノを弾かせていただきながら歓談して、外に出たときは陽が落ちて真っ暗になっているほど時間の経つのも忘れて長居をしてしまいました。

これでお開きになることなく、さらには食事にまでなだれ込み、尽きぬ話題で大いに盛り上がり、深夜遅くの帰宅と相成りました。
まさに丸一日、ピアノ三昧な一日でありました。
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H.J.リム-2

はじめはかなり違和感を感じたH.J.リムですが、繰り返し聴いているうちに、こちらの受け止め方もあるときから急旋回して、これはやっぱり面白いピアニストだと気付くようになりました。
逆に言うと、違和感を感じながらも何度も聞かせるだけのオーラがこの演奏にはあったということでもあると思われます。

その演奏の第一の特徴は、とにもかくにも灼けつくような生命感にあふれていることですが、同時に驚くべきはその例外的な集中力の高さだと感じました。この点は天賦のものがあるのは明らかで、およそ勉学や努力で成し遂げられる種類のものではなく、彼女が持って生まれたものでしょう。
ひとたび曲が始まると、どの曲に於いても彼女の並外れた感性が留まることなく動き回り、まさに曲それ自体が生き物であることをまざまざと思い知らされます。
そして一瞬もひるむことなく、終わりをめがけて一気呵成に前進していく様は圧巻で、聴く者は彼女の音楽の流れの中で彼女が辿っていく喜怒哀楽を味わい、共に呼吸をさせられます。

音楽作品というものが、そこに生まれ立ってから終結するまでを、これほど直截的に克明に描き出す演奏家はなかなかお目に掛かったことがありません。
唯一の存在といえば、あのアルゲリッチでしょう。

「どう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえない」と初めのうち思ったのも偽らざるところでしたが、にもかかわらず、何度も繰り返し聴くうちに、しだいに彼女が感じて表したい世界がわかってくるのは非常に面白い、ぞくぞくするような体験でした。
ひとつ言えることは、H.J.リムというピアニストは間違いなく、ただの演奏家ではなく独立したひとりのまぎれもない芸術家だということです。

はじめ違和感のほうが先行してしまったのは、ひとえにマロニエ君の能力不足だと恥じるところですが、やはり天才というものは初めから確固とした個性の導きによって高い完成度に達しているために、恐れを知らず、既存のものと適当に折れ合いながら徐々に自己表出していくといった、いうなれば処世術を知らないというわけでしょう。
それがまた、さまざまな反発や抵抗感を招くのかもしれません。

ひじょうにフレッシュで生々しい楽想にあふれている点が、何度も演奏されてきた使い込んだ鋳型のような解釈にきれいに収まっている演奏とは異なり、新しく独自に生まれたものは当然そんなものとはは無関係で、そういう馴染みの無さが耳をも拒絶してしまったとも言えるような気がします。

そんな決まりきった慣習から耳が解放されてくると、もう何が真実かなんてわからなくなり、むしろベートーヴェンの頭の中にはじめに浮かんだ楽想とは、むしろこういうものではなかったのか?…という疑念すら湧いてくる始末です。
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ボストンブルー

とあるピアノ店から届いたDMを見てちょっとびっくりしました。

ボストンピアノが発売20周年を記念した初の記念限定モデルの案内で、そこには紺色にペイントされたボストンのグランドピアノが大きく写っていました。
白いピアノというのはありますが、それ以外は、ふつうピアノといえば黒か木目というのが半ば常識で、そんな既成概念にパッとひとふり水をかけるような新鮮さでした。

ごく稀には白以外にも赤や緑の原色に塗られたポップなピアノを写真などで見ることはありますが、それらは到底普通の家庭やコンサートの会場で使う感じではありません。
ところがこの紺色というのは、むしろ黒に近いシックな感じの中に、黒にはないやわらかさと華やかさのようなものがあって、意外に悪くないじゃないかと思いました。

これを見て思い出したのが、本で読んだずいぶん昔の話ですが、アンドレ・クリュイタンス率いるパリ管弦楽団が初来日してついに日本のステージに登場したときに、なによりも当時の日本人をアッと驚かせたのは、オーケストラのメンバー全員が黒ではなく紺色の燕尾服を着ていたということだったそうです。

当時の(今も多少はそうかもしれませんが)常識では燕尾服は疑いもなく黒というのが当たり前で、こんな意表をつくようなことをやってのけるとは、さすがはフランス!と感嘆したのだとか。

ステージのピアノは黒が圧倒的主流ですが、浜離宮朝日ホールには木目のスタインウェイDもあるし、先日見たNHKのクラシック倶楽部でジョン・ケージの特集でスタジオに現れたのも渋い木目のD型でした。

モノはピアノですから、あまり派手なのはどうかと思いますが、このボストンブルーのような上品な色ならば、ピアノにも多少いろんな色がでてきてもいいような気がしました。
このボストンブルーの限定モデルは5種類のグランドと3種類のアップライトの各20台で、合計160台が製作されるようですが、塗装はなんと「ドイツの工場で仕上げられる」と記されていましたから、ボディをわざわざドイツに送って、また日本へ送り返してくるということなのか…だとしたら大変な手間ですね。

よく読むと「スタインウェイピアノの艶出塗装仕上げと同じクオリティの塗装を使い…」とありますが、スタインウェイの工場でという記述ではなく、ならば優れた塗装は日本でも十分可能なはずで、なぜそうまでしてドイツの工場なのかはどうも理由や経緯がよくわかりません。

まあそれはともかくとしても、思いがけなくきれいな色のピアノで、機会があればぜひ実物の佇まいを見てみたいところです。
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H.J.リム

『韓国生まれの24歳、独特な演奏スタイルと類まれなカリスマ性をもつ魅力あふれるこのピアニストは、12歳でピアノ修行のため単身パリへ渡り、韓国の家族に自分の演奏を聴かせるため、ユーチューブに演奏姿をアップしたところ、たちまち話題となり50万ビューを記録。それが音楽関係者の目にとまり、EMIクラシックスからデビューが決定しました。』

これは韓国人ピアニスト、H.J.リムのレビューの文章ですが、なんとなく仕組まれた感じの内容という気がしなくはないものの、意志的な表情をした強い眼差しがこちらを見つめているジャケットにつられて買ってしまいました。

2枚組のベートーヴェンのソナタで、29,11,26,4,9,10,13,14番の順に収められています。
冒頭の29番はすなわち「ハンマークラヴィーア」ですが、その出だしの変ロ長調の強烈な和音からいきなりぶったまげました。

極めて情熱的で、その思い切りの良さといったら唖然とするばかりで、いわゆるベートーヴェンらしく重層的に構築された堅固な音楽にしようというのではなく、H.J.リムという女性の感性だけでグイグイとドライブしている演奏でした。
マロニエ君は技巧的にも解釈の点においても、ただ整然とキチンとしているだけで、創意や冒険のない臆病一本の退屈な演奏は好きではないので、個性的な演奏には寛容なつもりですが、それでもはじめはとても自分の耳と感覚がついていけず、なんという品位のないベートーヴェンか!と感じたのがファーストインプレッションでした。

その場その場の閃きだけで野放図に演奏しているみたいで、まるでこのピアノ音楽史上に輝く大伽藍のようなソナタが、ガチャガチャしたリストでも聴いているようで、これはちょっといただけない気がしたものです。
さらに気になるのはテンポの揺れといえば聞こえは良いけれども、あきらかにリズムが乱れていると思われるところが随所にあって、表現と併せてほとんど破綻に近いものがあるとも感じました。

すぐには受け容れることができない演奏ではあったものの、しかしこともあろうにベートーヴェンのソナタをこれだけ自在に崩しながら自分の流儀で処理していく感覚と度胸には、とにもかくにも一定の評価を下すべき女性が現れたのだと感じたのも、これまた正直なところでした。
全体をとりあえず3回ずつぐらい聴きましたが、だんだん慣れてくる面もあるし、やはりちょっとやり過ぎだと思うところもあって、評価はなかなか難しいというのが正直なところです。

それにしても、やはり最も驚くべきはハンマークラヴィーアで、この長大なソナタが目もさめる手さばきで処理されていくのは瞠目に値し、長いことピアノ音楽史に屹立する大魔神のように思っていたソナタが、想像外に引き締まったスリム体型でなまめかしく目の前に現れてくるのは思わずドキマギしてしまいます。
マロニエ君の耳にはどう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえませんが、それでも音楽の要である生命感をないがしろにせず、どこを切り取ってもパッと血が吹き出るように命の感触に満ちているのは大いに評価したい点だと思います。
それにこの恐れの無さはどこから来るのかと思わずにはいられません。

実を言うと、マロニエ君は、現代の韓国はかつてのロシアとはまた違った個性で優秀なピアニストを輩出するピアニスト生産国のように思っていたところですが、そこへまた凄い個性が出てきたもんだと感嘆しているところです。
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ららら♪クラシック

日曜夜のN響アワーの後継番組とでもいうべき「ららら♪クラシック」。
先日の放送ではピアノが特集され、テーマは「もっと自由にピアノ」というもので、ショパンの名曲が主役ということになっていました。

メインゲストは小曽根真さんで、はじめに加羽沢美濃さんとの2台のピアノによる「ららら♪流ショパン」というアレンジ&即興ものでスタートしました。

小曽根真さんはこのところクラシックの領域にも関心を広げているということらしく、このあとでもop.17のマズルカをジャズ風にアレンジしたものが演奏されましたが、マロニエ君は実をいうとこの手合いがどうももうひとつ馴染めません。
ジャズピアノそのものはとても好きだし本当に素晴らしいと思うのですが(詳しくはありませんが)、クラシックの曲を素材にしてジャズ流にアレンジするというのが、たぶん自分の趣味には合わないのだと思います。
小曽根さんもたどたどしくクラシックのことをしゃべるよりは、やっぱり手の内に入った本職のジャズのことを語っている話こそ聞いてみたいと思いました。

ちなみにドミンゴやカレーラスが、ポピュラーソングなんかを胸を張りだしてアリアのように単調に歌うのも、なんかしっくりこないものを感じますし、それらはやはり本家本流の人がふさわしく歌ったほうが表現力も勝り、よほど素晴らしいと感じることと、これはどこかで通じているような気も…。

このようなジャンルを跨いだパフォーマンスを、いまどきはコラボとかなんとか、いろんな言葉で表現するようで、とりわけジャズには昔からある流儀のようですけれど。
おもしろいといえばそうなんですが、ショパンなどはやっぱりオリジナルで聞きたいという気分のほうがどうしてもまさってしまいますし、個人的には棲み分けのキチッとされた安定した世界のほうが自分は好きだなあと思いました。もちろん例外はありますけど。

そのオリジナルでは、なんと昨春若くして亡くなったタチアナ・シェバノワ女史の晩年の映像が出てきたことにも驚きましたし、15歳で初来日した折の天才少年キーシンの映像も実になつかしく思い出しながら見ることができました。
百合の花のような危うい気配を漂わせた痩身の美少年が、ときに顔を紅潮させながらショパンをまるで自分自身のことのように弾くむかしの姿を久しぶりに見ることができました。後半の協奏曲は昨年40歳の映像で、いやあ、どっぷりと肉も付いて貫禄じゅうぶん、初来日のときの2倍はあろうかという印象でしたね。

片やスタジオでは、古いスタインウェイのアクションを取り出して、その複雑な機械部分の大まかな様子や、キーに与えられた力がさまざまなからくりを経てハンマーの動きに変換される様子などが紹介され、この部分ひとつとってもピアノがいかに他の楽器とは違った精密機械の側面を持っているかということが、ごく簡単ではありましたが映像と共に説明されたのは実に珍しいことでした。

印象的だったのは、冒頭の2台ピアノによる即興演奏のときに映し出された上から撮影されたピアノ内部の映像で、互い違いに置かれた2台のCFXのフレームやボディなどから発してくる作りの美しさには目を見張るものがあり、音の好みなどはさておくとしても、このヤマハの最新鋭モデルの製品としてのクオリティの高さ、いかにも日本製品らしいその水も漏らさぬ高品質と眩しいまでの輝きには思わず唸りました。
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自分で評価

過日書いたCD「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」のライナーノートには、ピアニスト・コレぺティートア・作曲家である三ツ石潤司氏が文章を寄せているのですが、そこに書かれたものはなにも特別な事ではないけれども、大いに同意できるものでした。

とりわけ現代は音楽家の演奏もしくは音楽そのものをどれだけ評価しているかという問題提起には、強く共感させられました。
曰く、コンクールの入賞歴、著名な教育機関での成績、ハンディキャップの克服など、音楽外のことに囚われているというわけで、「どうして──略──自分自身が音楽に本当に耳を傾けて、自分自身で芸術家の音楽を評価しようとしないのだろう。」とあり、これにはまったく同感です。

いやしくも音楽好きであるならば、音楽や演奏は、予備知識よりもまずは自分の耳で聴いて、そこに自分なりの評価や好みを与えるのが至極真っ当な在り方だと思われます。

たしかにプロのコンサートやCD販売はビジネスですから、どんなに優れた演奏をする人であっても、なるほど少しは有名でなんらかの魅力がなければ始まらないでしょう。
だからといって、演奏の質よりとにかく有名度のほうがはるかに重要視されている現状には、さすがに呆れかえってしまいます。有名ということは、そんなにもすべてに優先するほど大事なことなのか!と。
尤もこれは音楽に限ったことではありませんが。

もちろん少しは存在が知られなくては、普通の人が演奏を聴くチャンスもないというものですが、有名になるきっかけそのものが、その人の本業ではない要素に根ざしていたりするのはどうしようもない虚しさを感じてしまうもの。せめてステージに立ったりCDを出すようになれば、そこから先は演奏内容によって評価が下されるべきだと思いますが、現実はかなり違った要素で事は進行しているようです。

どんなに質の高い見事な演奏をしても、最終的にそれを認められるという拠り所がなくては演奏する側にしても精進のし甲斐がないわけで、結局はそれが演奏の質、あるいはコンサートの質を高めることにも直結することだと信じたいところです。

しかしながら、現実にはコンクール歴や容姿を元手にして、いかに巧みなコマーシャリズムに乗るかということが成功の鍵を握っているようで、聴衆が自分の耳で聴いて判断するという最も本来的なことが、あまりにも失われているように思われます。
芸術の世界こそ真の実力主義であるべきところを、それほどとも思われないような一部の顔ぶればかりが、あいもかわらず少ない市場を牛耳っているのはどうにも納得がいきません。

そんなことを思っていたら、お次はやたら世間ズレしたジュニアが出てきて、目下たいへんな勢いで売り出し中のようです。すでになにもかも心得たような笑顔、いかにも今風な計算された口調や振る舞いには、演奏家のタレント化もついにここまできたのかと思わずゾッとしてしまいました。
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続・皿交換

目の前で盛大におこなわれる皿交換は、悪いことではないかもしれませんが、同席者に一定の何かの感触を与えるという事実。

もちろんパフェなんかをちょっと一口ぐらいならどうということもありませんが、ある程度食べ進んだ皿をそのままドカッと交換するのは、どこか凄味があり、目の前でやられるとちょっとヒエッと思ってしまいます。

こう感じるのは、かねがねマロニエ君だけではないはずだと思っていましたが、この点を余人に確認したことはありませんでした。
そこであらためて友人などに折あるごとに聞いてみると、案の定、イヤでたまらない、あれはやめてほしい(中には笑える)という人が数人いましたね。しかも口々に待ってましたとばかりその事に関する、これまでにたまりにたまった不平不満をぶちまけはじめます。
夫婦でも「自分達は絶対しない!」と断言する人もいて、ははぁやっぱりなあと思いました。

特につらくなるのは、麺類や丼物、中にはカレーライスまでも食べている途中で器ごと交換する人達で、こういうことにめっぽう弱い友人のひとりは「カレーライスなんて、自分が食べていても途中で汚い感じに思えてくるのに、ましてや…」とガクガクしながら言っており、なるほどなあと納得しつつ笑えました。

これがもし欧米人あたりなら、どうせ彼らは公衆の面前で平気で抱き合うような民族性ですから、あるいはサマになるのかどうかわかりませんが、少なくとも日本人には向かないというか、それを目の前で見せられるのはできれば御免被りたいものです。

そもそも日本人は、むしろそういうことははしたない事として厳に慎む側の民族で、人前では内外(うちそと)の区別をつけるというけじめといいましょうか、分別あるメンタリティにこそ日本人の品性や美しさがあらわれているとマロニエ君は思うのです。
そんな日本人でも許せるとすれば、子供か、せいぜい二十歳前後までで、あとはちょっと…。

失笑なのは、絵になりそうな美男美女ならまだしも、むしろその逆の人達にかぎって街中でもことさらべたべたして歩いてみたり、こういう皿交換みたいな行為をやりたがるようで、何かそれが心理的な空白の埋め合わせであったり、精神的な取り戻しをしているのでは?とも思います。
もしかしたら、心理の奥底には、そういう行為を他者に見られているということに一種の満足を感じているのかもしれないというような気がしなくもありません。

だとすると皿交換も一種の心理的要因を含んだ行動ということになるのかもしれず、だからこそ見ているほうも「わっ」と思ってしまうのかもしれませんね。
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皿交換

「食べ方」に関する事は、意外に気にかかる場合があるものです。

この手のことは、あまり神経質になってはいけないのでつとめて大雑把な気分を維持するように心がけていますが、それでも、これだけはちょっと…と(内心で)ため息が出るものがあります。

よく夫婦やカップルなどで行われる行為で、互いに別の料理を注文しておいて、途中まで食べた皿をあるタイミングで互いに交換してその続きを食べるというものですが、あれは見る側としては、ちょっとなぁ…という感じです。
当人達にしてみれば、途中でチェンジすればお互い二度おいしいということかもしれまないし、さらには好き嫌いや量の調整もできるということか、はたまた気分的にそういう行為そのものを楽しんでいるのか…。

ご当人達は夫婦であれなんであれ、特定のカップルということで、世間もこれをごく自然なノープロブレムな行為として受け止め、周囲の目からも許容されているというふうに思っているのか、あるいはさりげない主張の要素を含んでいるのか、そこのところはよくわかりません。

しかし、同席者にとっては本人達が思っている以上に、ある種の抵抗感を覚えている人が多いことは事実のようです。

まあ、よほど若くて初々しい二人が可愛くやっていれば、まだいくらか絵にもなるというものですが、どっかりした中年以上のペアがこれを人前で堂々とやってしまうのは、他人にとってその光景はどうででょう…。

ときには夫婦親子兄弟が縦横無尽に食べ物をやったりとったりしているファミリーなどもいて、まあそれだけ仲が良くて結構だと云えばそれまでかもしれませんが、他人と同席する食事の席上でカップルがこれをやってしまうと、場合によっては抵抗感を喚起させるだけでなく、単純なマナーの点からいってもそうそう褒められたものではないような気がします。
この行為は、「する人達」と「しない人達」にハッキリと二分されていて、一種のクセとかというか生活習慣といえばそうなのかもしれません。しかし、こういう事を他人の面前でためらいもなく平然とやってのける人というのは、どちらかというと美意識とデリカシーに欠けるような気がします。

また、付き合ってまだ日も浅い、しかし決して年齢的には若くもないカップルなんかが、いきなり目の前でこんなことをやってくれるのもギョッとするものです。
それまで他人がやってるのをさんざん見せつけられて、よほど羨ましかったのか、今度は見られる番!とばかりにそれをやってみせるのが快感なのか…想像もあれこれと飛び回ります。

いっぽう熟年夫婦などにこれをやられると、こちらは内心で思わず固まってしまいますが、もはやそれが常態化しているのか、あらんかぎりのものがせわしく二度三度と往復することも珍しくなく、こっちは唖然としつつ、いつしか食欲まで減退してくるものです。
ご当人達は夫婦なんだから、そんなの普通でしょう!いちいち気にするほうがおかしい!…といった感覚なのかもしれませんが、あれは率直に言って、同席者はそうとう違和感があるのは事実です。
もちろん、気にならない人は一向に平気なのかもしれませんけれども、気になる人も決して少なくはないようです。

今どきは「人とお鍋をつつきたくない」という神経質な人さえ少なくないご時世ですが、食事中の皿交換も目の当たりにすると、変な覚悟みたいなものをさせられる気分です。
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長尾洋史さん

久しぶりにギャンブル買いしたCDが大当たりでした。

「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」というタイトルで、実は長尾洋史さんというピアニストの演奏はもちろん、お名前さえも知りませんでした。
にもかかわらず、アルバムに収められたリストのバッハ変奏曲(カンタータ《泣き、嘆き、憂い、おののき》の主題による変奏曲)と、後半のマックス・レーガーのバッハの主題による変奏曲とフーガの組み合わせに惹かれてしまい、どうしても聴いてみないではいられなくなりました。

これは国内版の3000円級のCDなので、すでに何度も書いているように、マロニエ君は今どき内容の分からない日本人演奏家のCDを最高額クラスの代価を払ってまで冒険してみようという気は普段はあまりありません。

しかし、このCDにはなぜかしら売り場を離れがたいものを感じ、ついには購入することに決しました。惹かれた理由は主に選曲とCDの醸し出す雰囲気だったと思います。
果たして聴いてみると、これがなかなかの掘り出し物だったわけで、こういうときの喜びというのは一種独特なものがあるものです。

まずこの長尾洋史さん、抜群にしっかりした指さばきと知性を二つながら備わっていて、その音楽作りの巧緻なことは大変なものでした。むかし「マロニエ君の部屋」で日本人ピアニストには隠れた逸材が少なからずいるというような意味のことを書いたことがありますが、まさにそのひとりというわけで、こういう内容ならまったく惜しくない投資だったと大満足でした。

最初にジャケットを見たときに惹きつけられたとおり(顔写真さえない渋い色調のもの)、このアルバムのメインはリストのバッハ変奏曲と、レーガーの作品であることは間違いありません。両者共に普段よく弾かれる曲ではないものの、難解難曲として知られる作品ですが、これらを長尾氏はまったくなんの矛盾も無理もないまま、自然なピアノ曲として見事に演奏されている手腕には驚くばかりでした。この両曲の名演に対して、リストの「ペトラルカのソネット3曲」と「孤独の中の神の祝福」はやや表現の幅の狭い優等生的演奏で、もうひとつ詩的な深さと躍動が欲しかったという印象。

ライナーノートにある三ツ石潤司氏の文章によれば、この長尾氏の演奏は「てにおはや句読点のうちかたの誤りがない」とありましたが、この点はまったく同感でした。
この点に間違いがあると、たちまち作品は本来の立ち姿を失ってしまいます。マロニエ君としては、これに「イントネーション」の要素を加えたいと思います。いくら正確で達者な演奏ができても、イントネーションが違っていると、音楽がニュアンスの異なる訛りで語られてしまうようで、その魅力も半減してしまうものです。これは結構外国人演奏家にも頻繁に見られる特徴で、その点では却って日本人のほうがそんな訛りのない美しい標準語の演奏をすることが少なくありません。

録音はきめの細かい、ある種の美しさはありましたが、全体に小ぶりな、広がり感の薄い録音だった点は少々残念でした。そうでなかったらさらにこのピアニストの魅力が何割も上積みされたことだろうと思われますし、こういう録音に接するとつくづくと演奏家というものは、自分の演奏能力だけでは解決のつかない問題を抱えているようで、それがマイナスに出たときは甚だ気の毒だと思います。

もうひとつ、ピアノの調律はなかなかの仕事だったと思います。
新しめのハンブルク・スタインウェイから、思いがけなく低音域のビブラートするような豊饒な響きなどが聞かれて、はじめこの低音域を聞いたときは一瞬ニューヨーク・スタインウェイでは?と思ったほどでした。
やはり楽器としてのピアノの生殺与奪の権を握っているのは調律師だと思いました。

もちろん演奏の見事さ素晴らしさに勝るものはありませんが。
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