南紫音CD

以前書いたように、イザイのヴァイオリンソナタを聴いて驚愕し、南紫音さんの演奏に文字通り魅了されてしまったマロニエ君としては、ともかくCDを1枚買ってみることにしました。

現在CDは2枚リリースされており、とりあえず新しいほうのアルバムを買いました。
曲目はR.シュトラウスとサンサーンスのソナタを中心において、ドビュッシーとラヴェルの小品が間を埋めるという構成でした。

やはり、ここに聴く南さんの演奏も力強く躍動する若々しさと、深く老成したものが互いにメリハリをもって同居する素晴らしいものでしたが、セッションであるだけにより腰を据えてみっちり丁寧に演奏しているという感じでした。
しかもそれは、いかにもレコーディング用といった慎重一辺倒のキズのない、きれいな製品作りみたいな演奏ではなく、あくまで自分の感興に乗ってドライブするという基本がそのまま維持されているために、音楽に不可欠の一過性や即興性も備わり、大いに聴きごたえがあって、極めて好ましいものでした。

音楽の在り方、演奏の在り方はさまざまでこれが正解というものはないけれども、やはり基本的には生命力と燃焼感、つまり演奏者の心の反応と呼吸がその中心を貫いていることが音楽の大原則であり、そこが最も大切だと思うマロニエ君です。
それと、音楽に奉仕するという精神と品位が保たれていなくてはならない事も忘れてはなりません。

とくに近年ではクラシックの人はこういう音楽の基本をもうひとつ忘れがちで、評論家受けするような要素にばかり重心をおいたような、思わせぶりなシナリオのある演技のような演奏をする人が多いのは甚だつまらないことだと思っているところです。
音楽はどんなに緻密に準備し研究されたものであっても、生命感を失った、表面的なものに終始するとその魅力も半減です。

現在は演奏技巧の訓練という点にかけては科学的なメトードの進化によって、高度な技術を身につけた若い演奏家はあふれるようにいるわけで、そこでは心の空っぽな、自分の技術と能力を見せつけるために音楽作品をむしろ道具のようにしているような演奏が氾濫しています。

一度はその発達した技巧に驚いたこともありましたが、その手合いは次から次に登場してくるわけで、もうすっかり食傷気味なのは皆さんも同様だろうと思います。極端に言えば、だからもう技術ではほとんど勝負にならず、再び音楽の質こそが問題になったと思われます。

その点で言うと、南紫音さんの演奏は、技巧ももちろん素晴らしいけれども、音楽に血が通っており、内面の奥深いところから鳴り響いてくるものがある点がなによりも聴き手に訴えてくるわけです。

もうそろそろ日本の聴衆もくだらないビジュアル系だの背景にある人生ドラマなどから脱却して、本物だけが正しい評価を受けて認められ、末永く演奏を続けていかれる環境になることを望むばかりです。

そして現在の彼女の演奏に敬意を表するマロニエ君としては、この先下手な留学などしないことを望みます。というのもヨーロッパのある天才少女が、アメリカの名伯楽といわれるヴェイオリンの教師の許に留学したばかりに、結果はひどく凡庸で俗っぽいヴァイオリニストになったことも知っているので、そういう道だけは進んで欲しくないと思うところです。

音楽雑誌を立ち読みしたところによれば、来年は紀尾井ホールで念願のフランクのソナタなどをプラグラムに入れたリサイタルがあるようで、こっちにも流れて来ないだろうかと期待しているのですが…。
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悪質ドライバー

年末だからというわけではないでしょうが、このところ立て続けにイヤなドライバーを目撃しています。

携帯で話をしながらの運転が違反行為であることはいまや当然ですが、もはやそれだけでは気が済まない「携帯使用&無謀運転」という許しがたいドライバーが増殖中の気配です。

ふつう携帯を使いながら運転している車は、以前も書いたように、走りに腰がなく、ふわついた動きになっているものですが、そのぶん運転は二の次で、スピードも控え目な場合がほとんどです。

ところが、中には携帯で話しながら運転している上に、さらにかなりのスピードを出して突進してくる車を何台か見たのには呆れました。これはぜんぶ男性でしたね。
車の動きにも非常に思い上がったような傲慢さがあって、危険なことこの上ありません。

路上にはその状況によっていろんな瞬間があるものですが、べつに無礼な割り込みではない、自然な流れというものがあって、その流れの中にあって互いに譲ったり譲られたりするものです。
ところがたまに何がなんでも他車を入れないとか、車線変更をしそうな車がいるのを察知すると、じゅうぶん距離があってもわざわざ加速してまでそれを阻止するという意地悪運転なんかがあるものですが、これをなんと、携帯を使いながらごり押しにやってくるのには開いた口がふさがりませんでした。

同じように強引な割り込みもありますが、いずれも運転そのものに集中できていないぶん、よりいっそう強引で過激な動きになり、高い危険が伴うのは、まったくもって社会迷惑というほかありません。

動きとしてはほとんど接触することも辞さないような図太い動きで、それだけ強気に出れば最後は周囲が回避してくれるものだと思い込んでいるのか、あるいはそういう細かい判断力を失っているのか、そこのところの真相はよくわかりませんが、いずれにしてもまったく困ったドライバーだというほかありません。

しかも、その手合いを最近何台も目にしましたから、だんだんこの悪しきスタイルが増殖中だとしたらとんでもない、恐ろしい傾向です。横着なことこの上なく、まさに肩で風を切るごとくの攻撃的な動きで、よほど注意していないとあの手合いとは接触事故が起こったりする可能性が極めて高いといわざるを得ないのです。

一度などは片側4車線ほどの幹線道路で、いきなりこの携帯使用中の無謀運転車に目の前で強引に車線変更されて、危うくブレーキをかけて接触を交わしたところ、相手が電話中というということで、こちらもついムッときて、さらに左に車線変更して加速しようとしたところ、さらにその車がまたこちらに移ろうとしてウインカーを出しました。

しかし、もうそのときは斜め後ろぐらいまで来ていたので、今度は譲ることはしないでこちらが加速して前に出ました。
すると、それがよほどお気に召さなかったらしく、先の信号ではわざわざ横に並んで、「電話をしながら」こちら向いて睨み返してきて文句を言う素振りをしています。

その横暴&逆ギレの様子ときたら、まったくチンピラ並みというか、とてもまともじゃありません。
そういう手合いも一緒に公道を走っているのだから、つまりはよほど気をつけてかからなくてはいけないということですね。

ああいう悪質ドライバーからとばっちりを受けたのではたまったものではなく、警察もより厳しい目を光らせて欲しいものです。
これまでにもハンバーガーやドリンクを交互に口にしながら運転する人、マンガ本をハンドルの前に置いてそれをみながら、もちろん最近ではずっとメールを打ちながらの運転など、いろいろ見ましたが、上記のパターンが最も際立って悪質だと感じました。

みなさんもくれぐれもお気をつけくださいね。
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田舎のショパン

調律師の方が調整後の状態を確認するために来宅された折、マロニエ君がよほど音楽が好きだと思ってくださったのか、前回に続いて、また手土産にCDをいただきました。

江崎昌子さんのピアノによるショパン:エチュード全集で、3つの新練習曲を含めた27曲がおさめられたアルバムでしたが、事前の説明によると、いわゆる流麗なショパンではなく、ポーランドの土の香りがするような田舎臭い、ごつごつとしたショパンとのことでした。

聴いてみるとあまりにもその言葉通りの演奏で、可笑しくなるほどでした。
曰く、日本の演歌と同じでポーランド人はこういうショパンを聴いて涙するのだそうで、きっとそこにはポーランド人の心が創り出した、半ば偶像化されたショパンがあるのだろうと思います。
ピアニストの江崎さんは桐朋卒業後にポーランドに留学して、彼の地のショパンを我が身に刻み込んだ方のようですが、ともかくショパンから洗練やしなやかさを全部洗い落として、ひとつひとつの音符をガチガチの楷書で書いたようなピアノです。

すぐに思い起こされるのは、先月のコンサートで聴いたヤブウォンスキはじめ、ツィメルマン、ハリーナ・ステファンスカ、オレイニチャクなど、一連のポーランドのピアニストたちが己が魂をピアノに叩きつけるようなショパンであり、病弱でパリの社交界の話題であった繊細優雅なショパンではなく、ポーランドが国を挙げて誇りとする祖国の英雄の姿なのです。

彼らはショパンの音楽をまるでベートーヴェンのように太く真正面から捉えますが、そのぶん細部の陰翳にこそ心を通わせるようなショパンではなく、すべてを偉大な音楽として肯定しようとするところが、マロニエ君などはちょっと違和感を覚えてしまうのは如何ともしがたいところです。
まあ、みんながみんな洗練されたショパンを弾かなくてもいいのですが、あえてこちらの道を選び取る人がいることに感心させられますし、この土台の上に、さらに日本の精神文化を加味した先輩格が遠藤郁子さんだろうと思います。

ともかくもパリの優雅とは訣別した、男性的で哀愁あふれる高倉健みたいなショパンがそこにはあるようで、それを極限まで追求した江崎さんの演奏は、その真摯さ一途さという点においては一聴に値するものとは思いました。
ここに聴く江崎さんの演奏は、すみずみまで己を訓練し鍛え尽くした末の、ひとりのピアニストの仕事の記録としてはとても見事なものだとは思うのですが、いささか気負いばかりが先行した演奏だと感じました。

ひとつには江崎さんの身につけたピアニズムにも原因があるのかもしれませんが、あまりに熱唱、全力投球が前面に出てしまって、ポーランド人は涙するにしても、ニュートラルな判断としてはいささか音楽に呼吸が足りない。
全曲をなにしろ力づくで弾き通したという印象が強いために一曲ごとの個性が却って不鮮明で、全体がひとつの組曲のような印象になってしまっているように感じました。

ライナーノートを読むとご当人はこのエチュードには大変な思い入れがあったのだそうで、以前も一度録音されたにもかかわらず、このCDは二度目の録音だというのですから、ご当人はよほど入魂の演奏だったようです。
その甲斐あってか、このレーベルのピアノソロとしてはよく売れているのだそうで、その理由のひとつには優秀な録音がオーディオマニアの間でも評価が高いこともあるのだとか。

ピアノは山形テルサのスタインウェイをこの調律師さんが調整されたものですが、ピアニストの演奏があまりに全力疾走気味なために表現の幅広さなく、音も平明になり、この方のせっかくの音造りの妙技が前回ほど克明にあらわれていなかったように感じました。

そもそもマロニエ君に言わせれば、この江崎さんの目指すようなポーランドテイストには、スタインウェイは甘くブリリアントに過ぎて、いっそペトロフのような哀愁漂うピアノのほうがその音楽的指向にも合っている気がしますし、まあ日本で準備できるピアノでいうならシゲルカワイなどのほうが向いているように思いました。
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バレンボイムのリスト

「リスト生誕200年記念ガラ、ブーレーズ&バレンボイムのリストへのオマージュ」という映像を見ました。
今年の6月にドイツのフィルハーモニー・エッセンで行われた演奏会の模様で、オーケストラはベルリン国立管弦楽団。

プログラムは、リストとワーグナーの浅からぬ交流にちなんだものと思われますが、この二人の作品を交互に置いたもので、リストでは2つのピアノ協奏曲をバレンボイムがソリストで弾きました。
こう言ってはなんですが、なんの感銘も得られない、実につまらない演奏でした。
指揮者としてのバレンボイムにも賛否両論あるようですが、少なくともピアニストとしてはもうこの人は終わっている人だというのがマロニエ君の率直な感想です。

演奏は粗いし、音は汚いし、南米のピアニストにしては例外的にリズムも弱く、ニュアンスにも乏しい。

70歳目前という年齢ですが、ずいぶん肉体的にも衰えているのか、あるいは指揮活動のせいでピアノの腕が落ちているのか、まともなスピードで演奏することも困難なようで、専らオーケストラとの拍を合わせることに一生懸命なようですが、それは悟られないように、いかにも「オンガクしているよ」というパフォーマンスだけは忘れません。

指揮台にはブーレーズという大物がいるにもかかわらず、何かといえばオーケストラのほうを向いて、さまざまな強い視線を投げかけては、いかにも自分は全体を捉えて演奏しているんだといわんばかりの素振りを執拗に繰り返し、ほとんど意味のない場所でさえいちいち左を向いてオーケストラにコミットしようという仕草が度を超していました。まるで指揮者が二人いるようで、ブーレーズに対してもいささか僭越ではないかと思いました。

この人は昔から音色の美しいピアニストではありませんでしたが、ますますその傾向は強まり、かすれて聴き取れないピアノ&ピアニッシモ、そうかと思うとベチャッと割れたフォルテのどちらかです。

それでは音楽的にどうかといえば、これがまた要するに何が言いたいのかがわからない。
さも意味深な表情付けをしてみたり、テンポを落として荘重に音を広げてみせたりするものの、それが結局どう実を結んでいくのかがさっぱりわかりません。
おそらくこの人自身にもそれはないのだろうと思われるし、演奏になんのビジョンも主題もないということがバレてしまっているわけです。演奏というのは人柄がダイレクトに投影されるものですから、こういうことは覆い隠しようがないわけです。

アンコールではリストのコンソレーションを弾きましたが、最後のピアノ協奏曲第1番のトゥッティによるフィナーレの直後だけに、ガラリと雰囲気を変えようと、ほとんど聴き取れないようなピアニッシモで弾いてみせるのも、いかにも芝居じみた「計算づく」の作戦がバレバレでした。

さすがはドイツというべきか、聴衆も一向に感心した様子がなく、みんな義務的な冷たい拍手をパラパラ送っていましたが、本人がよほどまだ弾きたいのか、さらにもう一曲、忘れられたワルツまで弾きはじめたのには驚きでした。

ピアノはスタインウェイですが、イタリアの名調律家であるファブリーニのピアノで、サイドには彼のロゴマークが入っていましたが、このときはもちろん音はステレオから出して聴いていましたが、べつにどうということもない普通にキチンと調整されただけのピアノという印象しかありませんでした。
とくに悪いとも思わなかったけれども、J・アンマンなどのほうが華があるし、凡庸な感じしか受けませんでした。

この日は遅くなったのでもうお開きにして休みましたが、ほんとうなら口直しに何か違うものでも盛大に聴いてみたいところでした。
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日曜夜の備え

金曜の夜、普段はあまり行くことのない週末のショッピングセンターというか大型モールに、たまたま成り行きで行くことになりましたが、その猛烈な人出にはちょっとびっくりしました。

時間帯は夜の7時半ぐらいだったのですが、まず広大な駐車場はどこまでもびっしりと無数の車で見事に埋め尽くされており、あちこちに空きを探す車が低速で這いずりまわっています。

とくに12月ということもあったのかもしれませんが、週末夜の大型モールというのはこんなにも凄い人出なのかと妙に感心させられてしまいました。
第2駐車場のようなところの隅の方になんとか車を置いて、ようやく店内に入りますが、いやあもう人、人、人であふれていて、とりわけ家族単位のお客さんが目立ちました。

ちょっとした買い物をしたのですが、このモールの中央広場というところでやっているらしい抽選会の券をもらったので、ついでと思ってそこに行ってみると、そこはまるでディズニーランドのアトラクション前のように人の列が何本も平行して伸びていて、抽選をやっているコーナーは遙か遠くにあるばかり。誰がこんなものに並ぶものか!と思って即放棄しましたが、まあとにかくお店としては大繁盛といった様相でした。

マロニエ君は約1時間強で退散しましたが、暖房と人ごみでぐったり疲れ、外に出たときは寒いのも忘れて新鮮な空気に思わずホッとするようでした。

さて、それから2日後のこと、買い物をした商品に不都合があり、交換に行かなくてはならなくなりました。
日曜でもあり、またあの人の海の中に突入して行かなくてはいけないのかと思うと正直ウンザリでしたが、さりとてそのまま買った物を無駄にする気もないので、やっぱり意を決して行ってきました。

着いたのは夜の8時台だったのですが、2日前の経験から相当の覚悟をして行ってみると、意外にもそれほどの混雑の様子もなくすんなり車を置けて、店内に入ると、そこで目にしたものは一昨日とは逆の意味での驚きでした。
これがつい2日前と同じところかと思うほど人の気配はまばらで、要するにどこもかしこもガラガラで閑古鳥が鳴いているように様変わりしていたのです。
抽選会場も、ウソのように空いていて、居並ぶ店員はみんな手持ちぶさたといった状態です。

個々のお店もほとんどが無人、もはや閉店時間を待っているだけといった風情なのはどういうわけか…。あまり人が多いのも嫌ですが、逆にここまで人がいないのも気分は下がりまくりです。

要するに、明日は月曜で勤めや学校というわけでしょうが、それでこうも極端に人の流れが変わるというのは恐いぐらいで、日本人というのはなんという健全な、安全指向の、真面目と言えば真面目なのか、なんとも面白味のない民族かと思いましたね。
別に夜遊びを推奨するわけではありませんが、これじゃあまるで小学校の時間割のようで、以前はこれほど極端ではなかったと思いますが、とくに今どきの人は安全とか備える思考・感性が身に付いていて、なんともお堅いことかと呆れずにはいられませんでした。

その点では、欧米はもちろんでしょうが、近隣諸国の韓国、中国、台湾などに行くとまったくそういうことはなく、平日でも夜遅くまでみんな元気に熱っぽく遊んでワイワイ楽しくやっているのには瞠目させられます。
少なくとも夜の11時12時ぐらいまでは街中は大変な賑わいですが、日本ときたら平日とか日曜夜というと、ここまでパタッと潮が引いたようにみんな家から出ずに明日に備えているんでしょうね。

あまり無謀なのも困りますが、多少の遊び心というか、陽気で大胆な活力みたいなものはないのだろうかと思います。少なくとも現代の日本人が失ったものは輝くような勢いとか、度胸とか、奔放さみたいなもののようで、だからなんでも面白くないんだと思いました。
今の日本の社会が暗いのは、あまりにも守りのための安全枠が念頭にありすぎる点ではないかと思いましたね。誰から強制されるのではなく、みんな自分から堅実に振る舞うのが当たり前のようで、これじゃあ景気も回復しないのは当たり前というか、そもそも人間が不景気ですね。

夜、人がいなくて街が閑散とするのは、もうそれだけで都会とはいえず、まるで田舎の「早寝早起きは三文の得」といった趣です。
多少の不健全を容認するのも健全の証であって、これだけみんなが守りに徹して足並みを揃えるということそのものが、どこか全体主義的で、これぞ正しく不健全だと感じてしまいました。
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氏より育ち

この秋、知り合うことになったピアニストの方が、ご自宅とは別の練習室で使われるためにピアノを購入され、先ごろ搬入も無事に終わり、触りにきてくださいとのご招待いただいたのでお訪ねしました。

ピアノはディアパソンのリニューアルピアノで、手がけたのはマロニエ君の部屋でも実名を出していますので差し支えないと思いますので書きますと、オオシロピアノによってオーバーホールされ、入念に調整された大橋デザインのグランドピアノです。

ドアの外に立ったときもドビュッシーのプレリュードが聞こえてきましたが、中にお邪魔してしばらくお茶をご馳走になったりして雑談をした後、さっそくにもあれこれと目の前で弾いてくださいました。
こうして間近で聴いてみると、ディアパソンはドビュッシーにもなかなか相性の良いピアノだと思いましたが、思い起こせばドビュッシー自身がベヒシュタインの大変な信奉者であったわけで、そのベヒシュタインを手本としながら数々のピアノ設計をされた名匠、大橋幡岩さんの設計というわけですから、そう考えるとディアパソンとドビュッシーというのもどこか線で繋がっているようです。

他にはショパンのスケルツォを少しと、多くはバッハを弾かれましたが、この方のやわらかなタッチはもちろんですが、それに応えるべくピアノの音の美しいことには深い感銘を覚えました。
同じ日本のピアノでも、決してヤマハやカワイでは聴くことのできない、純粋で凛としたピアノのトーンが部屋中に広がり、まさに音が空中を飛んでいるようです。
ディアパソンで感心させられるのは、音色が純粋であるのに、それが決して弱々しい音にならず、むしろ太い豊かな音であることもこのメーカーの作るピアノの大きな魅力だと思います。

ピアニストを前にマロニエ君ごときがピアノを触るのもどうかと思いましたが、すすめられるままにちょっと触らせていただくと、オオシロピアノの工房にあったときよりも、タッチの均一性などが、一段とアップしていることがわかり、あらためてピアノは技術者の手間暇と磨き込みしだいだという大原則をしみじみと思い起こさずにはいられませんでした。

ピアニッシモの出しやすさ、あるいは打鍵時の発音のタイミングも実に好ましく、よくここまで調整されたものだと思います。この整然とした調整の賜物か、今はご自宅のピアノよりもこちらが気に入っているという言葉も頷けるというものです。
『氏より育ち』という言葉もあるように、調整の行き届いたピアノには独特の品位があって、素直で、きめが細やかで、雄弁なものだと思いますし、それがなにより奏者の演奏意欲を向上させるものです。

この調整の行き届いたディアパソンがそうさせるのか、インベンションなどをさまざまなタッチや表情でアイデア豊かに演奏されましたが、そのデリケートな表現の試みにピアノがよく反応してどこまでもついてくるようで、まさに楽器が演奏者の創意や可能性をあれこれと刺激しているようです。
いうまでもなく、このような現象は、ただ派手な音の出るだけのラフなピアノ(大半がそうですが)ではけっして起こり得ない現象です。

これぞまさに楽器の生まれ持った能力と技術者の精度の高い仕事の融合であり、ひいてはそれが楽器と演奏者の好ましい関係にも直結するわけで、それぞれが持てる能力を最大限引き出し合っている状態だと思います。
まさに良いことづくめの相乗作用で、良い楽器を手許に置くということはことほどさように素晴らしいことだと思いました。

来年にはリサイタルも予定されているようで、楽しみがひとつ増えた気分です。
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CDの打率

あるとき、本当に音楽のわかる方(変な言い方ですが)と話をしていたら、常々マロニエ君が心に秘めていることと全くおなじことを言われたのにはびっくりしました。もちろん嬉しいほうに。

それはひとことで言うと、コンサートであれCDであれ、内容がつまらないものは要するにつまらないのであって、そういうものに我慢して触れているときほどばかばかしくて時間と労力の浪費を痛感することはないというものでした。

とくにマロニエ君が激しく共感したのは、つまらないコンサートに行って生あくびを噛み殺しているよりは、家で気に入ったCDでも聴いているほうが遙かにマシだということでした。
マロニエ君もまったくそれで、優れたCDに聴くことのできる高度な演奏と、それを支える美しい音には圧倒的な世界があるのであって、これは少々の生の演奏会が凌駕できるものではなく、努々CDを馬鹿にしてはいけないということです。

ところが、世の中には「音楽は生に限る」というのを正論だと単純に思い込んで、いまさらみたいなこの建前を強く信じ込み、他者に対してもこれを堂々と繰り返す人がいるわけです。

要するに音楽とは、まずもって生の演奏こそが最上最高のものであって、その点ではCDなどはまがい物の、ウソの、造花のような世界で、非音楽的なもののように主張してきます。生演奏にこそ音楽の本源的な魅力が宿っていて、今そこで生まれ出る演奏こそが真の音楽であり、音も何ものにも侵されない、楽器から出た音が空気を振動させて直接我々の耳に到達する、これぞ本物だと自信をもって言い切ります。

CDなどは音質も人為的に変えられるし、編集なども思いのままで、そうして作られたつぎはぎだらけの虚構の演奏に真の感動などは得られないし、そもそも信用ができないというわけです。
彼らに言わせると、CDはまるで整形美女がスタジオで撮った写真に、さらに修正を加えたものといわんばかりのニュアンスです。

でも、マロニエ君に言わせれば、いくら音質が変えられるとはいっても、基本的に鳴っているものは、それは演奏家の持ち味であれ楽器の音であれ、その本質はどうにも変えようがない。
機械の力でありとあらゆることが可能なようであっても、意外に本質的な部分は変えられないのであって、その証拠に、最近のようにコスト重視の劣悪な録音が、そのまま堂々と店頭に並ぶのはどういうわけだと思います。
本当にどうにでもなるのなら、劣悪な録音でも、最高の輝く音に磨き上げて発売されるはずでは?

CDにも優劣さまざまで、中にはなんだこれは!?と思うようなものもありますが、本当に優秀な録音、素晴らしい演奏、そして楽曲、最高に調整された楽器と、三拍子も四拍子も揃ったものもあるのであって、こういうものを聴く喜びと充実感は非常に純度の高い高度な音楽体験であるとマロニエ君は思います。
同時に、いかに実演実演といってみても、実際のホールでは残響の問題やらなにやらで、純粋に音としては多くの好ましからざる問題を抱えているのも現実ですし、同時に演奏も玉石混淆で、実際に聴いていて、せっせと出かけてきてはこんなつまらないコンサートをガマンして聴いている自分がアホらしくなることも決して珍しくありません。

音楽というものは衣食住ほど差し迫った必要不可欠ではなし、ないならないで人は生きていけるものであるだけに、いわば心の贅沢領域であって、これに触れる以上は一定水準以上のレベルというものを期待したいし、それによって心に満足と潤いが欲しい。
とくに実演でつまらない演奏に触れたときの持って行き場のない、どんより暗い不快感と疲労感は、なんとも表現しがたいものがあります。上記の逆で、何拍子も悪条件の揃った生演奏というのもあるわけで、そんなものに行き当たったが最後どうしようもない。

その点、CDの打率の高さは、実演がはるかに及ばない次元だと思いますが、音楽愛好家にとって実演に期待しないという意見はなかなか表明しにくいものでしたが、しかしこれは現実であって、この方のおかげでマロニエ君もちょっとここに書く気になりました。
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車検狂騒曲

今月はマロニエ君が15年間乗り続けているフランス車の車検で、昨日は午後から時間をとってユーザー車検に行ってきましたが、これがなんとも大変な展開になりました。

車検にも備えていろいろと修理や整備はやってきたものの、さあこれから出発という段になってウインドウォッシャーが出ないことに気が付きました。
ユーザー車検では車検場のコースに入る事前のチェックで、灯火類(すべてのランプが点くかどうか)とか、ホーンがちゃんと鳴るかなどの検査項目があるのですが、その中にウインドウォッシャーが出るかどうかも含まれており、これらのチェックはひとつでも不合格になると車検は通過しません。

この日は4つに区分された時間帯の最後、すなわち14時半~16時というのを予約していて、昼食も抜きでガレージで準備しているときにウインドウォッシャーの故障が判明したのです。
そもそもマロニエ君はウインドウォッシャーを使う習慣がないために、車検の時以外でこのスイッチに触ることがなく、それが災いしてこの箇所の問題に気が付くのが遅れたわけです。

レバーを弾くとウーウーとモーターの音はしていますから、水を入れればいいだろうと思って、タンクに給水してみたもののサッパリで、ノズルの詰まりではないかと針で差してみたりあれこれやってみましたが、一向に水は出てきません。
やむを得ず、主治医の工場に急遽行くことになりましたが、自宅を中心にいうと車検場とはまったくの逆方向で、時間的な問題から実際よほどためらったのですが、これを解決しないことには車検は受かりませんから是非もありませんでした。

焦る気持ちを抑えつつ、10数キロもある工場に行きますが片道30分はかかり、これだけでもかなりの時間的ロスになります。さっそく診てもらうと、やはり音ばかりして水が出ない。
その後、プロのメカニックが30分も格闘してどうにもならず、左右のノズルに問題があることが判明し、緊急の措置として別の細いホースを引いてきて、それをタンクから出た本来のホースに繋いで、とりあえず形だけ水が出るという工夫をすることになりました。
車検場での検査というのは、要するにフロントの窓ガラスに必要時にチョロチョロでも水が出さえすればそれで合格となるわけで、これはまったく検査のための非常手段で、喩えは悪いですがこれは「人工○門」のようなものです。

寒風吹きすさぶ中、この処置ができるのを待ちながら、心中は半ば今日の車検はあきらめかけたのですが、とりあえず予約はしているし、やるだけのことはやってみようと車検場を目指します。
幸いにも太宰府インター近くなので、そこから都市高速に飛び乗って東を目指しますが、車検場の前に、その近くの整備工場に立ち寄って「光軸調整」というのを受けなくてはなりません。
これはヘッドライトが正しい方向を向いているかどうかの事前チェックで、本番をこれで落第するとまたやり直しが大変で、時間も食うので、このチェックと調整を有料ですが予めやっておくほうが安全なわけです。

この工場に着いたときは、すでに15時に迫っていましたが、店の人の話では15時半までに行けば大丈夫といってくれました。そうはいっても、車検場に着けば、まず陸運支局という役所の事務所に提出する大変な量の書類を揃え、そこにあれこれと記入しなくてはならず、それを思うと間に合うかどうかはほとんど自信はありませんでしたね。

こういうときの役所の書類というのは、実にもうばかばかしいもので、住所と名前だけでも何遍おなじことを書かなくてはならないか、ボールペンを持つ右手がひきつってくるようで、まったく憤慨させられます。
ほとんどなぐり書きも同然で記入して、書類の束を窓口に渡しますが、必ず一つや二つは不備があるもので、またそれを受け取ってはやり直しをして、これが完了してはじめて車検コースに車を進めることができるのです。

問題のウインドウォッシャーのチェックも無事通過、光軸もパス、その他諸々も一発で合格できて、やったぁ!と喜んだのもつかの間、エンジンの型式番号の確認という場面で、これがわからず係員が何人もやってきては細いペンライトをエンジン内部にあててエンジンブロックのどこかに刻印されているはずの小さな文字を捜しますが、これがやたらと時間を取ってしまい、終わったのはほとんど16時でした。

車検ラインで合格したことを証明する書類を、再び役所の窓口に提出して新しい車検証を受け取るのですが、マロニエ君の名前が呼ばれたときには、もう本当に最後の最後で、すべての窓口は16時をもって見事に閉じられたその後で、外に出た時はもう駐車場はガラガラでした。
まさにすべりこみセーフな一日でしたが、なんとか車検が通ってホッとしながら帰宅しましたが、心身共によっぽど疲れたのか、ちょっと横になったつもりが不覚にも1時間半爆睡してしまいました。
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ダン・タイ・ソン

NHK音楽祭2011の最後は、待ってましたとばかりにパーヴォ・ヤルヴィ指揮のパリ管弦楽団を迎えました。
ソリストはダン・タイ・ソンで、曲はシューマンのピアノ協奏曲。

ダン・タイ・ソンのシューマンと聞いて、とくだん心躍るものはなかったものの、実際に聴いてみるとこれがなかなかの味わい深い、いい演奏だったのは意外でした。

このシリーズは登場順にベレゾフスキー、カツァリス、河村尚子、キーシンと続きましたが、結果からみてダン・タイ・ソンが圧倒的にピアノの音が美しかった(キーシンは楽器の問題があったと思われます)のは意外でしたね。

冒頭の鋭い和音からそれは印象的で、いかなる部分も甘く透明で、芯があるのに角張らない美音を奏で続けたのは、この点ひとつとってもなかなか立派なものだと思いました。
演奏姿勢は椅子が低く、さらに手首が鍵盤よりやや下に落ちていますが、こういうスタイルの人は肉感のある安定した美音を出すものですが、逆に椅子の高い人は概ね音が汚く、フォルテでも割れてしまうようです。
この椅子の高さと美音の関係性は90%以上に当てはまります。

演奏も全体としては悠然としていながらも、細部のデリカシーにも抜かりはなく、こういうゆっくりと構えたシューマンもあるのかと新たなシューマン像を提示されたという点でも感心させられました。
終始自分なりの解釈があってよく咀嚼されており、そこからなにか大事な物を取り出すように音を出し、穏やかな歌を歌っているのが印象的で、こういう裏付けのある演奏というのは、ひとつひとつの音が意味を持ち、よってどんな解釈でも表現でも、自ずと人の耳を集中させずにはいられないものです。

ダン・タイ・ソンの美点のひとつが、タッチの美しさですが、この点もショパンで鍛えた(かどうかは知りませんが)柔軟な指の動きがもたらす丁寧な指運びは、絶えず美しいピアノの音色を作り出し、第3楽章全域で執拗に繰り返される速いパッセージにおいても、その丁寧なタッチはいささかも質を落とさず、彼の指はいじらしいほど健気で正確にせっせとその責務を全うしました。
まことに聴きごたえのある立派な演奏だったと思いました。

ところが、この日の白眉は最後のパーヴォ・ヤルヴィ&パリ管弦楽団のペトルーシュカというべきでした。
ほぉと驚くような大編成で、第1ヴァイオリンなどはあのNHKホールのステージの手前ギリギリのところまで来るほど壮大なスケールの陣容でした。
パリ管は野卑な音楽にもなりかねないストラヴィンスキーの音楽を、垢抜けたいかにも都会的な鮮やかな感覚で包みました。パリ管弦楽団は長らくエッシェンバッハが首席指揮を努めていましたが、今まさに勢いに乗るヤルヴィの指揮は圧倒的で、オーケストラ自体が新しく生まれ変わったようです。

また感心したのはストラヴィンスキーでは重要な役割を果たす管楽器群の上手いこと!
このペトルーシュカでも管の活躍によって音楽はいよいよ勢いを増し、独特な諧謔的な響きに花が開きます。ピアノも同様で、指揮者の前に縦に置かれたピアノは達者なピアニストによって、この壮大なオーケストラに埋もれることなくこの作品に於ける大役を全うしていました。

感心させられたのは、これだけの編成にもかかわらず、ひとりひとりはまるで室内楽奏者のように上体を揺らしながら熱っぽい演奏をしていたことで、どこかのオーケストラのように仏頂面をして義務のに淡々と演奏をするのとは大違いでした。
さすがにこういう演奏を聴くと、ピアノなんてコンチェルトでもなんだか地味だなあと思えるほど、その眩いばかりの輝きと迫力には圧倒されるものがありました。

素晴らしいピアノを聴かせてくれたダン・タイ・ソンには申し訳ないけれども、終わってみればシューマンはまるでペトルーシュカ前座のような印象でしたし、こういう演奏がまだ存在すること自体、クラシック音楽の将来にもなんだか希望はあるという気がしてきました。
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足をひっぱる靴

このところ気温も下がってきたことでもあり、天神に買い物に出かける際、服装もいつもよりちょっと暖かいものを着て、靴も普段あまり履かないものを引っ張り出しました。

普段よく履いている靴にくらべると、履くだけでもいちいち革の紐を絞めたり緩めたりと、久しぶりになんだか面倒臭い靴だなあと思いましたが、ふだん下駄箱に入っているだけでめったに履かないので、たまには…という気を起こしたのがそもそも間違いでした。

その靴はマロニエ君が持っている靴の中では、そう悪い物ではないし、あまり履いていないので見た目はきれいなのですが、もうかれこれ10年ほどに前に買ったもの。なんとなく履きやすいものに流れてしまい、普段はあまり履かないことが常態化していました。
濃い茶色のバックスキンの革ひも付きシューズで、メーカーは○imberlandという、べつに一流ではないけれども、大衆品の中ではまあまあのブランドだろうと思います。
ここの製品は、いまでこそ普通のモール内の靴屋なんかでも見かけるようになりましたが、当時はそれほどでもなく、たしかそれなりの金額で買った記憶があります。
これを久々にひっぱりだしたことが、この日大変な目に遭うことになるのです。

玄関を出て階段を降りるだけでも、いつもとはずいぶん様子がちがうなあと感じていましたが、このとき急いでいたこともあってとりあえず車にとび乗って天神に向かい、駐車場に車を置いて歩き出したとたん、「あれぇ?」というヘンな感触があらわになりました。

まず底が硬いのか、歩くたびにコツコツとわざとらしい音がするし、靴全体も非常に硬くて、さらには靴それ自体が重くて、単純な話、かなり歩きにくいわけです。
その感触はなんとも名状しがたいものでしたが、妙に足が靴から圧迫されているにもかかわらず、歩く動きに靴が付いてこないので、知らず知らずのうちに足の指先に力を入れることで、せめて靴との一体感を強めようとしながらせっせと歩くという感じです。

ところがそうこうするうちに、事態はさらに悪化、歩くたびに靴下がズレはじめました。
「これはマズイ!」と思いましたが、もうすでに雑踏の中に踏み入れていますからどうしようもない。
やむを得ず歩を進めるものの靴下のズレはいよいよ甚だしいものとなり、もはや一歩毎に靴の中で少しずつ確実にそれがずれていくのが感触でわかり、気持ちが悪いといったらありません。
立ち止まって靴下を引っ張り上げますが、また歩けば、また確実にズレて、最終的には2〜30歩ごとに立ち止まって天神のど真ん中で「靴下あげ」をしなくてはならなくなりました。

建物内のムンムンした暖房と、この合わない靴がもたらす不快感が合わさって、気分は最悪、次第にじっとりと脂汗がにじんできたことが自分でわかります。本屋に行っても、ちょっと売り場を見て回る僅かな動きにさえ、ちょっとずつ靴下が確実にずれていくのが体感できて、こんな調子で30分以上過ごしていると、ガマンも限界に達しました。

大概のものなら、その場で脱いで手に持って行くところですが、さすがに靴ではそれもできません。
なーにが○imberlandだ!そのへんの3000円ぐらいの靴のほうがよっぽどマシじゃないかと思いながら、用事を最小限に済ませて、あとは省略、足をガクガクさせながらなんとか駐車場に戻りました。

帰宅して玄関で靴を脱いだときは、もう全身が苦行から解き放たれたようでした。
あとで点検してみてわかったことは、この手の革靴などはよほど定期的に履くなどして、いわゆる揉みほぐしをしていないと、経年変化で靴底の柔軟性が著しく損なわれるようです。
実際、この靴の底は木の板のようにカチカチになっていて、そのせいで歩くときも足と一緒にしならずに、靴下を引っぱっていたようです。

というわけで、市内にマロニエ君の友人オススメの「靴の病院」というのがあるので、靴底張替のため、入院させるか否か思案中です。
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南紫音

このヴァイオリニストの名前を耳にしたのは、6年前の2005年に若干16歳でロン・ティボー国際コンクールで第2位に入賞したというニュースを聞いたときでした。

そのときは北九州市出身ということで、同じ県ということもあり、身近に素晴らしい才能が出たのだなあとということぐらいで、特にその後はこの人の演奏を聴く機会もないまま時は過ぎていきました。

コンサートのチラシで見た記憶のある、清楚な感じの可愛らしい少女の顔と、いかにもその名前が音楽家になるために仕向けられたようで、こういう組み合わせはマロニエ君はちょっと白けるほうで、逆にあまり興味をそそられることがなくなってしまうのが正直なところでした。
もちろんロン・ティボーで第2位というのは大変な成績ですが、演奏家として本格的に楽壇にデビューするのなら、それぐらいの才能は当たり前だし、昔とは違って日本人も海外の有名コンクールに上位入賞することはさほど珍しいものではなくなっていましたから、まあそのうち聴くことがあるだろうぐらいに思っていました。

最近ではCDが発売されて、すっかり大人っぽくなったジャケットの顔写真を見かけることはありましたが、わざわざ購入する動機ももうひとつなく、その後も演奏を聴くチャンスはありませんでした。

ところがごく最近、それは思わぬところから思わぬ曲目でふってきました。
NHKのクラシック倶楽部で、今年の8月に神奈川のフィリアホールで収録されたばかりの「南紫音ヴァイオリン・リサイタル」が放映されたのです。しかも曲目は驚くなかれ、すべてイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタで、1、2、4、6番となっているのは、我が目を疑うというか、このいかにも強気で挑戦的なプログラムには思わずびっくりました。

イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタはバッハの無伴奏ソナタ/パルティータと並んで、マロニエ君が最も好きなヴァイオリンの作品のひとつですが、ピアノにもこういう作品があればと思うほどの、暗い情念の渦巻く狂気スレスレのところでほとばしる大人のための音楽。よくコンクールの課題曲にはなりますが、これを心底から演奏するとなれば、そんじょそこらのちょっと器用なヴァイオリニストで手に負えるシロモノではありません。
ましてやそれだけを並べたプログラムを、二十歳をちょっと過ぎただけの女性に弾けるのかと思うと、身の程知らずという気持ちがよぎったのは事実で、いささか呆れた気分で「そんなら、聴かせていただきましょうか」という気分で第1番を聴き始めました。

…。
果たしてそれは、こちらが両手をついて頭を下げなければいけないほどのあっぱれなものでした。
この南紫音という人は、見れば可愛い顔をしてますが、えらく激しいものが内在しているようで、ヴァイオリンを構えるとまったく別人のように表情が変わり、あたりはイザイの深い闇の世界がとぐろを巻くようです。
テクニックも大したもので若い女性とは信じられないほどその演奏には腰が座っており、確かな軸が通っていてまったくブレないし、湧き出る音楽はいささかも表面的のきれいごとでなく、すべてが作品の内奥にあるものが彼女の肉体と精神を通して意味を持って湧き上がってくるのは大したもんだと思いました。

このために音楽は一瞬たりともひるむことがなく、高い燃焼感を伴いながら活き活きとその姿をあらわしては聴く者を圧倒するのでした。しかもこれは決して偶然の産物ではなく、4曲のソナタすべてをまったく見事な手さばきとテンションによって、ときには激しく、ときには緻密に、ときには奔放に、なおかつ一貫性をもってぞろりと弾き通したのですから、これはもう唖然呆然とするばかりでした。

最近よくあるタイプの、上辺だけをきれいに整えて、感情表現までもが事前のシナリオで決められているような白けた演奏とは対極にある、まさに理想的な、ヴァイオリンには不可欠の魔性さえ感じる見事としか言いようのない演奏でした。

福岡県からこんなすごいヴァイオリニストが出たなんて、今ごろですが嬉しい驚きで、「実力も恐れ入りましたし、さらには聴かせていただくのが遅くなって、どうもすみませんでした」という気分です。
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ウィルコム

昨日、知り合いから電話がかかってきたところ、出るなり「すぐ別の電話でかけ直すから」ということで、よく事情が飲み込めないまま一度切って待っていると、見慣れぬ番号からかかってきました。

新しい番号からのようでしたが、たぶん見知らぬ番号だと電話に出ないと思ったのでしょう。
マロニエ君はまさかそんなことはないのですが、今どきはこちらが携帯からかけたらすぐに出るけれども、たまたま相手に教えていなかった設置電話からかけると、登録された番号じゃないと電話に出ない人が何人かいたので、ははあ…いまどきはそんなものかと思ってしまいました。

さて、電話はある用件だったのですが、ついでに携帯電話の話になりました。
なんでも最近チラチラと耳にするウィルコムの電話を買ったんだそうで、それからかけているようでしたが、もちろん普通に会話はできましたね。

マロニエ君はソフトバンク&BBフォンのユーザーなのでソフトバンク同士は21時〜1時以外は無料通話できますし、夜9時以降でもBBフォンとの組み合わせることで、事実上通話料はかかりません。

この無料通話のおかげでマロニエ君のまわりにはソフトバンクの友人知人が多く、いつしか「通話はタダでするもの」のようになってしまっています。たまさかドコモやauの電話だとわかると、当然ながら有料通話になるので思わず「うーん」という気分になるし、どうしてもそっちの人への電話は必要以外はかけなくなります。
まあ人間、こんなところも意地汚いというか、現金なものですね。

友人のひとりなど、ソフトバンクじゃない相手とはしゃべらないのは当然だといい、職場でもそう宣言したらしいですから、ここまでくるとたいしたもんです。

さて、この無料通話は言うまでもなくソフトバンク同士に限られていたのですが、いまや業界ではパイの奪い合いというべき争奪戦からか、このウィルコムの新しいプランでは、なんと相手の電話会社がどこであろうと(設置電話でもIP電話でも)通話はすべてタダ!なんだそうで、それで毎月の定額が980円というのですから驚きでした。
ただし一回の通話が10分間、500回/月という縛りはあるそうです。
(もちろんウィルコム同士ならそういう縛りもないそうですし、さらにメールやパケット料金などの絡みもあるようですが、もうこれ以上はわかりません。)

これは各人の電話の使い方によっては、相当素晴らしいプランになるだろうと思われますが、マロニエ君の場合はちょっとひっかかる点もあり、10分というのは簡単な用件のときはいいけれども、けっこうべちゃくちゃ長電話してしまう自分としては、ちょっとこの点が向かないような気がしました。
もし10分を超えるときは一度切ってかけ直せばいいのだそうですが、無料を貫くために、いちいち時計を見ながら10分が近づいたら会話中に一度切ってまたかけるというのも現実的になかなかしづらいことなので、んーと考えてしまいました。

500回/月というのは一日平均でも16回ぐらいで、そんなに回数をかけるわけはないから、これは充分すぎるのですが、やはり10分というのはねぇ…。
でも、こんなものができたからには、もうすこし時が経てば、さらに縛りの緩くなったプランが出てくるかもしれません。
それよりも、電話番号が070で始まる番号に変わることのほうが今はイヤですが、でもしかし、24時間どこにかけても無料はやっぱり魅力ですね。

こういうことが「もう一台持つ…」なんてことに発展するのかと、ふと思いました。
それで、差し引きでは絶対に現状より支出は増えると思うのですが、無料通話の端末を持つという精神的満足を得るためにそういうことになりかねないのかと思うと、ゾッとしてしまいます。
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福岡国際会議場

ポーランドの若手ピアニスト、ミハウ・カロル・シマノフスキのピアノリサイタルに行きました。

本当を言うと、この人の演奏が聴きたかったというよりは、会場の福岡国際会議場に一度も行ったことがなかったので興味があったことと、さらにはこの日の調律は、我が家のピアノを調整していただいている調律師さんが担当されるということで、会場見物とピアノの音を聴くために出かけて行ったようなものでした。

福岡国際会議場というのは博多駅から海に向かって一直線に行ったところの、博多湾のウォーターフロントに位置する比較的新しい施設です。
すぐとなりにはバレエやオペラなどの大きな出し物の多いサンパレスホールがあり、さらにそのとなりはつい先日まで大相撲の九州場所が行われていた福岡国際センター、逆方向に行くとさらに規模の大きなマリンメッセ福岡があるという、いわば福岡の大型の催し物エリアというべき場所なのです。
やや離れた場所には、なつかしい福岡市民会館もあり、昔はここにどれほど足を運んだことかと思い出されますが、今はクラシックのコンサートなどはほとんどなく、芸能関係等のイベントが行われていないようです。

その中で、マロニエ君は唯一、福岡国際会議場には行ったことがなく、この建物の中に足を踏み入れたのはこの日がはじめてになりました。いつも車の窓越しに見るばかりでしたが、実際行ってみると思ったよりも大きく、大小のホールや会議場が何層にも折り重なるえらくご大層な施設で、用途の大半は学会などの由ですが、会場のメインホールとやらは玄関からはずいぶん距離のある3階にありました。

ここは1000人ほどを収容するホールですが、いかにも多目的に仕様を変えられる作りのようで、この日はコンサート用にステージ奥には反響板などがそれらしく組まれていたものの、どこか薄っぺらで、使用目的に応じて変更自在なステージパターンのひとつにすぎないという印象は否めませんでした。
聞くところでは、さらに奥のスペースと合体させると3000人収容の大会場にもなるのだそうで驚きです。

シートに座った感触じたいは悪くないものの、やけに肘掛けが大きく、逆にシートそのものの幅が狭くて窮屈だと思ったら、なんと肘掛けの内部には折り畳み式のテーブルが格納されており、そのせいでシートがいくぶん狭くなっているようですが、もう少し余裕がないと太り気味の人などはかなり難しいでしょう。
こんな仕掛けひとつとっても、ここがいわゆる普通のホールではなく、あくまで「会議場」であることがわかりました。

そういうわけで、基本的にはコンサートとはあまり縁のないような施設ですが、ちゃんとここ専用のスタインウェイのDがあり、遠目に見た限りではほとんど使われていない感じのピアノで、新しい感じのきれいなピアノでした。

この施設の竣工と同時に収められたピアノで、調律師さん曰く、普段ほとんど使われていない「眠っているピアノ」だそうで、たしかに本来の輝きがまだ出ていない感じではありましたが、それでもこの調律師さん独特の調律の形になっているところはさすがだと思いました。
調律というのはある程度聞き分けができるようになると、それぞれの個性があるのはピアニストに個性があるのと同様です。この方は海外での経験も長いコンサートチューナーなので、我が家になんぞ来ていただいているものの、これが本来のお仕事というわけです。

ところで、この日のピアニストの名がシマノフスキとは、まさにあの作曲家と同じで、作曲家はカロル・マチエイ・シマノフスキ、この日のピアニストはミハウ・カロル・シマノフスキで、あまりにも似すぎた名前なので、もしかしたら末裔か何かだろうかとも思いましたが、プロフィールにはそれらしき文言はなにも見あたらなかったので、たぶん違うのでしょう。

若干23歳の若いピアニストでしたが、良くも悪くもとくにこれという強い印象はありませんでした。
危なげなく指の動く、今どきのピアニストでステージに立つような人なら、まあこれぐらいは弾くんだろうな…という感じでした。
人前でリサイタルをするぐらいの人は、技術的に安定して曲が弾けるのは当然としても、さらに聴いた人の心に何かを残すような演奏ができないことには、本当の音楽家とは言えないかもしれません。
音楽そのものに込める表現性やメッセージ性がという点で、今の若手はその面が弱いのは時代の特徴のようです。
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キーシンの選択?

NHK音楽祭2011「華麗なるピアニストたちの競演」の第4回目は、このシリーズ中最大のスターであるエフゲーニ・キーシンをソリストに迎えるに至りました。

オーケストラはシドニー交響楽団で、指揮はアシュケナージですから、ロシアが生んだ偉大なピアニスト二人が同じ舞台に立つという豪華な顔ぶれであることは間違いありません。
曲目はキーシンが12歳で衝撃的なデビューをしたときに弾いたショパンのピアノ協奏曲第1番。

実はこのキーシン、アシュケナージ、シドニー響、ショパンの1番というのは、過日福岡でもやったのですが、これは一種の勘働きというのでしょうか…さほど意欲が湧かなかったので行かなかったぶん、こうしてテレビで見られるのはいかにも得をした気分でもあります。

尤も、会場はどんな名人・名演をもってしても虚しく音の散ってしまう神南のNHKホールなので、それほどの期待は出来ませんが、まあそれでも片鱗ぐらいはわかるというものです。

紅白歌合戦かと思うようなけばけばしい衣装に身を包んだ男女による、わざとらしくもNHK的な解説部分を早回しして、ステージの映像が映ったとき、いきなり「んん!?」と思いました。
オーケストラを従えるようにステージ中央に置かれたスタインウェイは、ずいぶん古いピアノであることが一目見てわかりました。年代的にいうと映像から判断する限りでは、おそらく20数年〜30年近く前のハンブルク製で、ボディはもちろん当時主流だった黒の艶消し、鍵盤は象牙で遠目にもホワイトニングしたくなるほど黄ばんでいます。

NHKホールぐらいになれば、当然新しいピアノも複数台揃っているはずですが、わざわざこんな古いピアノを引っぱりだしてきたということは、マロニエ君の想像ですが、裏方で練習用などに使われているピアノを弾いて、キーシンがそれを本番で使うことを望んだという以外に考えられません。

マロニエ君もこの年代のスタインウェイはとても好ましく思っているので、さすがはキーシン、ピアノがわかっているなぁ…とはじめは感心したものです。ところが長い序奏を経ていよいよピアノが入ってくると、あれっ?と気分はいきなりコケてしまいました。
中音域などがまるで音になっていないというか、鳴りというにはほど遠い貧弱な音なのです。
いかにもくたびれた感じの、どうかすると昔のピアノフォルテみたいな痩せ細った音だったのはひとたび高まった期待を大いに裏切られました。

これはきっと、新しいピアノの導入によって第一線から退いたピアノが、裏方の練習用などに格下げされてその後もかなり酷使された楽器だろうと思います。
ある程度使われたピアノはオーバーホールなどをすることで充分復活するものですが、そのためにはまとまったコストもかかるし、引退したピアノにそこまでの手間とコストをかけることはされないまま、ただ使われる一方だった楽器を、キーシンが突如「これを弾く」と言い出したに違いありません。

さぞかし技術者などは驚いたことでしょうが、世界のキーシンがそういうのですから仕方なかったのだと思われます。聴いた限りでは、とくに弦の賞味期限などがとっくに終わっているという感じでしたが、それでも低音部などからときおり聞こえてくる鐘を鳴らしたような深くてつややかな音は、今のスタインウェイが失ったものだと思いました。

キーシンの演奏はもちろんその名声に相応しいレヴェルがあったのは言うまでもありませんが、第1楽章などはもうひとつで、この人の昔から癖なのですが、オーケストラとのアンサンブルにはどこか馴染まないものがありました。このへんはどんなに歳を重ね、経験を積んでも一向に直らないようです。
むしろ第2/3楽章のほうがよかったと思いました。

とりわけ右手に単旋律を歌わせるようなときのキーシン節は健在で、こういうときの天使の声のような歌謡性は聴く者の心に染み入るものがあります。
さらには全体に貫かれた気品と華やかさは、キーシンが子供のころから持っている彼の演奏の本質だと思います。

アンコールはスケルツォの2番と子犬のワルツ。
昔とちっとも変わっていない、この人らしい美しいところと幼稚なところが交錯する、それでいて非常に充実感のある魅力にあふれた演奏でした。
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お鍋はイヤ

時代の風潮もあるのか、ちかごろではいろいろなこだわりや苦手を抱える人が多いものです。

タバコが迷惑というのはマロニエ君もまったく同感であるし、とくに喫煙できる場所が大きく制限させるようになってからというもの、煙のない環境に体が慣れたのか、わずかなタバコの煙でも敏感になりました。
気付くだけでなく、実際それがかなり苦痛になって、どうかすると席を替わりたくなることもあるわけで、野放し状態だった昔を思い出せば自分自身を含めて隔世の感があります。

マロニエ君自身は一度もタバコを吸っていた時期はありませんが、昔は世の中はどこに行ってもタバコの煙だらけで、喫茶店などはほとんどタバコを吸っている合間にちょっと珈琲などを喉に流し込んでいるような感覚だったかもしれませんね。
むろん、喫煙者には何の遠慮も躊躇もなく、どこででも委細構わず思うさまプカプカやっていたもので、今だったら刑事コロンボもあのスタイルはできなかったでしょうね。

こちらも平気なもので、ほとんど白く煙った部屋の中にいてさえ、一向に平気だったことが我ながら信じられません。さすがに辛かったのは車の中で、あの小さな空間だけは苦痛でしたが、逆にいえばそれぐらいほとんど平気だったということですね。

時代は変わり、部屋の掃除から何から、とにかくあれこれとみなさん衛生面などに神経質になってこられたようで、昔はマロニエ君などがどちらかというと神経質なくちで恥ずかしく思っていたものですが、いまじゃとても敵わないといった趣です。

ここまできたかと思うのが、人とは「お鍋をしたくない」という人が意外に多いことでしょうか。
いうまでもなくひとつの鍋を他人とつつき合うのが衛生的感覚的に耐えられないというものですが、個人的にはそこまで究極的にイヤとは思いませんが、もちろん相手次第ではご遠慮したい場合もあります。

ただ、だからといって美味しい鍋料理を全否定するのも忍びないものはあり、これは微妙です。店によっては鍋専用のお箸を置いているところもありますが、それにいちいち持ち替えるのも面倒臭いし、うっかり自分のお箸を鍋に突っ込んでしまうこともあるでしょうから難しいところです。

そんなことより嫌だったのは、昔の宴席などでは、とくに男性は杯のやり取りをすることがひとつの礼儀であり交際上の形式になっていて、マロニエ君の親の世代などではそれがごく当たり前のようでしたが、あれは見ていて内心抵抗がありました。
杯をやり取りする際には形ばかりの杯洗なるものがあるにしても、基本的にはのんだくれの老人やおやじが口を付けた杯でもありがたく頂戴するわけで、それは「お鍋はイヤ」どころの騒ぎではありませんが、昔の日本人は当然のようにこういうことを繰り返しながら互いの情誼を深めながら生きていたようで、これもまた時代ですね。

まあ、杯はともかくとしても、マロニエ君も以前あるところで篤く歓待していただいて、そのことは大変嬉しかったのですが、その折、そこのご主人が焼けた肉やなにかを自分のお箸で次々にこちらのお皿に入れてくださるのは、それがご厚意だけにさすがにちょっと参りました。
そこにも菜箸とかトングのようなものはありましたが、そんなものには見向きもせず、たった今までむこうの口に突っ込まれていたお箸が、方向を変えてこちらへ向かってきては何かをぽんぽん入れてくれるのにはギョッとしましたね。
目の前でそれをやられたら食べないわけにもいかず、もちろん顔にも出さずにありがたくいただきましたが、こういう場合「お鍋はイヤ」な人などは、一体どうするのだろうと思います。
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アンデルジェフスキ

話題のピアニスト、ピョートル・アンデルジェフスキが4年前にワルシャワのフィルハーモニーホールで行ったリサイタルの様子を映像で見ました。

曲目はバッハのパルティータの第2番と第1番がプログラムの最初と最後にあって、その間にシマノフスキの仮面劇とシューマンのフモレスケが置かれるという、なかなか個性あふれる異色なものです。

はじめのパルティータ第2番は期待に反してちょっと同意しかねるところの多い演奏で、アンデルジェフスキとはこんなものかとやや落胆しました。演奏家としてやりたいことがあるらしいのはわかるのですが、それがちっとも形になっておらず、完成度がなく、ただあまりに作為的なバッハがそこにあるだけという印象でした。

普通はこういうスタートになると続きを見るのが億劫になるものですが、シマノフスキの仮面はぜひ聴いてみたい曲だったこともあり、とりあえずもう少し我慢して聴いてみることにしました。
すると、いきなりこの人の演奏と作品に一体感が生まれてきて、しかも非常に大きな演奏をするので、思わずこちらのだらけていた体の姿勢まで変わりました。

仮面はシマノフスキの代表的なピアノ曲で、作品としては中期のものです。一般にはスクリャービンやドビュッシーなどに繋がる作風といわれることもあるようですが、リアルな描写性に満ちたそれは幻想的な要素に拘泥していないという点でもシマノフスキ独特なものだと思います。

アンデルジェフスキの演奏からは、なにかムンムンと濃密なものが伝わってくるようで、その逞しいスケール感あふれる演奏には圧倒されっぱなしで、彼の本領はこういうものにあるということを象徴的に示されたようでしたし、では…はじめのバッハはなんだったのだろうと思いました。
続くシューマンのフモレスケも同様の印象で、このとらえどころのない断片の寄せ集めみたいな作品を、実に見事な構造体として重量感をもって描ききったことは、アンデルジェフスキというピアニストの特異な才能を生々しく見せつけられたようでした。
ときにテンポは極限的に遅くなるなど、アゴーギクなども思う存分に揺れ動いて、普通なら容認できないようなところもあるのですが、彼なりの思惑と道筋がしっかりと通っているために、演奏として破綻せず、それはそれで納得させられてしまうのは大した才能だと思います。

アンデルジェフスキの演奏の魅力は、ありきたりな作品解釈の再現ではなく、あくまで彼が綿密に設計した演奏形態の中に作品を落とし込んだ後の結果を聴かされるところにあり、ときには彼のエゴイスティックな部分を含めて、これに身を委ねるところに、このピアニストを聴く、本質的な意味があるのだろうと思います。

もっとも印象的だったのは、現代では指だけはめっぽう回る無個性なピアニストが多い中で、彼は非常に自我の強い、時に傲慢ともいえるような個性的な芸術家であるという点でした。
標準的解釈というものにがんじがらめになり、あくまでも作品から自分の感じ取ったものを表出させるという演奏家本来の使命にさえも異常なまでに臆病な演奏者が多い中、彼ほどそれを恐れず赤裸々に表現してくるピアニストであり、これは時代的にもきわめて稀有な存在だと言えるでしょう。
音楽をとても大きなところから捉えて、それを臆することなく泰然と表現しようという点でも、彼はともかくも大器だと思いました。

ひ弱な演奏が目立つなか、ピアノを非情に力強く男性的に鳴らし切る点においても傑出しており、とりわけこの人の左手の強靱さは目を見張るものがあると思いました。
左があれだけ逞しいことも、音楽のスケール感をいっそう大きくしているのだろうと思われます。

最後に弾いたバッハのパルティータ第1番は、はじめの第2番よりもよほど素晴らしい演奏で、やはり興が乗って、彼の個性とバッハの作品とのピントが合ってきたのだろうと思われました。
久々に聴くに値するものを聴いたという意味に於いて満腹できました。
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「さん」と「先生」

昨日のブログで「先生」という言葉を何度も使いましたが、マロニエ君は人の呼びかけに際して「さん」と「先生」の区別は人一倍意識しています。
もっと正確にいうと、「先生」はめったなことでは言いません。

世の中には、その人の職業に応じて「先生」をつけて呼ぶことが礼儀に適って正しいことだと思っている人、あるいはそこまで意識しなくても自然にそういう風に呼んでしまう人が少なくありません。

マロニエ君は、自分にとっての恩師ならむろん「先生」と呼びますが、その数は非常に僅かです。
もう一つは、病院で診察してもらう相手は「先生」ですが、たとえ医師でも、ただ単に同好の趣味人としての関係で職業が単に医師というだけなら決して「先生」をつけることはなく、敢えて「さん」と呼ぶようにしています。

そもそもプライヴェートな対等な人間関係の場において、相手の職業がなんであろうとも、そんなことは関係ないことですし、むしろ関係づけることのほうが不適切だと思っているからです。
そもそも「さん」は我が日本で広く通用する立派な敬称なのですら、ほとんどの場合がこれで通用するわけですし、そうあるべきだと思っています。

あるいは、音楽関係でいうなら演奏家、たとえばピアニストで先生もしているような人のことを、多くの人は迷いもなく「先生」をつけて呼びますが、マロニエ君は自分が教えを受けた方、あるいはそう呼ぶことの方が状況的に自然だと判断した場合以外では決して「先生」とは呼ばない主義です。
さらに言えば、ピアニストなどは仮に先生を兼ねていても、「さん」のほうがひとりの演奏家として認めていることにもなるという考えから、マロニエ君は「さん」で呼ぶことのほうに寧ろ敬意を表しているのです。

テレビなどで大学の教授なんかが出てきてその人の専門の話を聞くときに「先生」と呼ぶのはまだ許せるとしても、国会議員に対しても「先生」、弁護士にも「先生」は耳に障るし、さらにおかしいと思うのは、ここ最近はやたらめったら肩書き優先主義で、お笑い出身の知事が現役の頃なんぞ、まわりは「知事、知事」と連発するのには閉口しました。「社長」などというのも部外者までが言うのは過度のへつらい以外のなにものでもない。

総理でも昔は「さん」でした。中曽根さん、細川さん、小泉さんと言うのがテレビであれ普通の会話であれごく当たり前だったのに、最近は管総理、野田総理といちいち肩書きをつけるのが慣習のようになってきたのはなんなのだろうかと思います。巷では味わいのないビジネス用語が幅を利かせ、たおやかな日本語が失われているひとつの兆候のようです。

それらが現役を退くと「元総理」「元知事」とかぎりなくその人の最高位の肩書きを引きずって呼ぶのにはさらにうんざり。どれもただ単に「さん」をつければ充分ではないでしょうか。
そのうち卒業生にたいしても「○○元東大生」とでも言うのかと思います。

ついでですからもう少し言うと、今は自分の親のことを「父」「母」といわず、大半の人達(とくに若い人)は「チチオヤ」「ハハオヤ」と判で押したように言うようになったのは著しい違和感を覚えます。
今どきの心理として「チチが、ハハが」というのはなにか抵抗があるのでしょうか?

驚いたのは、先だって歌舞伎の中村芝翫さんが亡くなって、追悼番組をやっていた折、次男の中村橋之助さんが思い出などをコメントをする際「チチオヤが…」「チチオヤは…」と何度も言うのには、ははあ、成駒屋の御曹司にしてこんなものかと驚きました。
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お別れ…

このようなブログで病気の話をするのもどうかと思われますが、マロニエ君は昔から呼吸器が弱くて、梅雨や季節の変わり目などは喘息が出てしまう、いわば気管支の持病持ちというわけです。

当然ながらかかりつけの病院があって、そこの先生は呼吸器の専門で、お若い頃はそちらの分野で有名な大病院にお務めだったようで、後年現在の医院を開業されたという経歴をお持ちのようでした。
知り合いに紹介されてここに通院することになったのが、約4年ほど前のことです。

ひどいときは毎週のように通院したりした時期もありましたが、その後は小康を得てご無沙汰することがあったり、またちょこちょこ行ったりの繰り返しでした。

それが昨年ぐらいだったか、先生ご自身が病気(病名は知りません)になられ、どきどき代診の先生などがこられるなど心配していたのですが、その後はまた復活されて診察を続けておられました。
しかし、今年に入ってからというもの、傍目にもわかるほど弱られた様子で、お若くもないこともあり、これはいつまでもつかという危惧が頭をよぎっていたのは正直なところでした。

この医院はある特殊な治療をしてくれるということもあって、自宅から十数キロ離れた不便な場所ではあるものの、面倒くさがり屋のマロニエ君にしては、珍しくこれだけは熱心に通っていた一時期もありました。

さて、最近のように寒さが日増しに厳しくなってくるような季節の変わり目は喘息持ちにとってはキツイ時期で、このところちょっとまたいろいろと不都合が出てきはじめていたので、吸入薬などの薬のひと揃いを準備しておくべく電話をしたところ、現在また先生が入院されているので診察は出来ず、薬のみ出しますということになりました。

夕方、病院に到着して中に入ってみると、なるほど受付以外はもう人影もなく真っ暗で、すでにマロニエ君のぶんの薬は窓口に準備されていました。
保険証を出して支払いをしようとすると、なんと今回はそれには及ばないと言われました。
驚いてなぜかと聞いてみると、先生曰く、自分が診察ができず患者さんに迷惑をかけているのだから薬代はもらわない、また普通は診察なしで薬は出さないのだけれども、呼吸器の場合、患者さんが薬が必要なときにそれが手に入らないと皆さんが困られるので、長くかかりつけた患者さんに限って今回は敢えてそのような処置をしているとのことでした。

今回はとくに薬の量が多く、しかも吸入薬はけっこう高額なので、それをすんなりいただくのはどんなものかと思いましたが、「皆さんにそうしていますから、ご心配なく」と何度も言われて受け取ることになりました。
さらに驚いたことには、今後のために別の病院を紹介するとのことで、呼吸器専門の病院の手書きのリストのコピーが添えられていて、どこに行くか決まったときには紹介の電話(紹介状が書けない状態なので)をするということでした。

そんなものまで添えられているということは、もうここの先生が診察に復帰されることがないことは明らかで、「そんなにお悪いのですか?」と聞くと、病院の事務の女性はしずかに頷きました。
気が付くと、いつも3〜4人は必ずいた看護士さんもまったくいなくて院内はしんと静まりかえっています。

お歳でしたが、とても可笑しみがあって可愛いところのある先生でしたが、なんだかお別れの品をいただいたようで、高い薬代を払わなくて済んだかわりに、なんだかすっかり打ち沈んだ気分で帰りました。
期間から換算してもたぶん100回近くは行ったはずで、それがもう二度とお会いすることがないと思うのは、なんともやるせない気分でした。

そして、今どきの儲け主義の医師と違い、最後までこのように患者の心配をしてせめてものけじめをつけられる姿勢にもいたく感銘をうけました。
なんとなく、がっくりしてしまい、病院のリストにはまだ目を通していません。
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幻想即興曲

横山幸雄のプレイエルによるショパンピアノ独奏曲全曲集は、7/8/9巻が発売されいよいよパリ時代の佳境に入りました。

正直いってこういう全集は一括してならまだしも、順次発売されていくのは、途中で気分がダレてくるときもあるものです。
他に欲しいCDもあるのに、店頭で目に入れば、途中で打ち止めにする決意をしない限り購入し続けなければなりませんし、正直気分も常にそちらを向いているわけではないので、あぁ…とため息が出たりもするのですが、まあ乗りかかった舟ですから、気を取り直して購入しました。
それに全集物などは、キチッと揃っていなければ気の済まないマロニエ君の性格もありますし。

横山氏のピアノはあいかわらず安定した仕事というべきで、確かな平均値を保持した演奏が続いています。
もちろんその中にも僅かな出来不出来はあるわけだし、マロニエ君の好みに合うものと合わないものがあれこれと含まれますが、概ね一貫した足取りで着実に録音が進められているのは大したものだと思います。

今回の発売分の中には有名な「幻想即興曲」が含まれているのですが、この曲はあまりにも有名で、ショパン本人が友人に破棄するように頼んでおいたといわれるほど本人も満足できない作品だったという話もありますが、結果的には超有名曲になってしまっています。
そのせいか、いまさらこれをCDで進んで聴こうという気にもなれない人も多いはずです。

ところが、横山氏はこの幻想即興曲を、かつて聴いたことがないほど見事に弾いています。
あの特徴的なオクターブに続いて開始される左手のアルペジョの上に、まるで一塵の風が吹くように右手の細やかな旋律が流麗に乗ってきます。
テンポもやや早めで、繊細で、軽やかでしかも劇的、ショパンが着想したときにはこのようなイメージを頭の中に思い浮かべたのだろうと思われるような素晴らしく際立った演奏でした。
旋律はまるで波打つ線のように、グリッサンドのようにうねりながら深い悲しみを露わにします。

これまでに聴いたどの演奏よりも秀でた理想的なもので、この歳にして、はじめてこの曲の真価がわかったようで、これ一曲でも買った甲斐があったというものです。
スケルツォの2番などもなかなかの秀演。

横山氏の演奏にはどうかするとドライで情緒不足に感じるものも少なくないのですが、たまにこういう大当たりがあって、そういうときは非情に嬉しくなるものですし、やはり大した潜在力をもったピアニストだなあと感心してしまいます。

こういう傑出した演奏をいっぽうで支えているのがプレイエルの音で、まさにこれは音色・奏法ともにフランスのショパンであり、ポーランドのそれとは大いに趣が違うところが注目すべき点でもあります。

また「ん?」と気が付いたことは、このあたりになってくとピアノ音に明らかな変化が起こってきていることです。
以前に何度か書いたことがありましたが、このピアノはスタート時から舌を巻くほどに素晴らしく調整されていたのですが、そのあまりに巧緻な水も漏らさぬ調整が、この100年も前のプレイエルに相応しいものかという点ではいささか疑問の余地があったのです。

それがだんだんとほぐれてきたというか、本来のプレイエルのトーンをやや取り戻してきている気がするのは嬉しい発見でした。おそらく調律の観点が変わってきたのではと思われるのですが、以前に見られた完璧主義みたいな気負いが取れて、より自由に歌うプレイエルに近づいてきたようで、この点も好ましい限りです。
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先生は音楽が嫌い

昔から長らく変わらない印象ですが、ピアノの先生とかピアニストという人達は、あまり他人のコンサートにはいらっしゃらない気がします。

とりわけピアノの先生などは、そもそも音楽がそれほどお好きではないようで、積極的に好きだという人のほうが珍しいし、コンサートなどほとんど意識にもないというタイプが多いのは驚かされます。
では、よほど込み入った理由があるのかといえば、そうではなく、要するに音楽に対してほとんど無関心という場合が大半なようです。
もちろん中には例外はありますが、それはあくまで例外です。

さらには、ピアノの先生なら仮にコンサートに行くにしてもピアノのコンサートしか行かないし、自分の自由な意志でシンフォニーや室内楽を聴きに行くなんてことは、あまり聞いたことがありません。

だいたい先生がそれでも行くコンサートというのは、出演者などとの絡みがある場合がほとんどで、自分の恩師の系統の人が出るとか、学校や教室などの関連といった色合いばかりで、純粋に自由な立場から、この人の演奏を聴いてみたい、このコンサートに行ってみたいということで、自分のお金でチケットを買って聴きに行くということはあまりないようです。
それで生徒にはチケットを押しつけたりするのですから、ちょっとねぇ…。

以前はマロニエ君も人並みに、あれこれのピアノの先生を知らないわけではありませんでしたが、昔からコンサートでこの先生達にお会いするということはまずないので、そういう意味では安心してホールのロビーなども自由にウロチョロできたものです。
いらい、マロニエ君はピアノ先生とはそんなものというイメージが形成されていったわけです。
「先生」と呼ばれる立場でありながら、これほど音楽や楽器の本質に疎く、もっぱら指運動の難易度と優劣だけに関心が注がれているのは昔も今もあまり変わりないようです。

それに対して、この2年ほどピアノクラブというものに所属してみたら、そこではピアノがなんら義務ではなく、本当に自分の自由な意志から好きで楽しんで弾いているという、まったくそれまでに接触したことのない人達を目撃し、新たなご縁ができることになりました。
趣味なんだから、べつに間違っても下手でもいいから、ともかくピアノを弾いて楽しんで、そこから同好の仲間との交友関係を築くというのは、ある意味ではまことに新鮮な感覚でした。

クラブの人達がいわゆるピアノの先生や、そこにまつわる人達とはまったく違う人種であることを如実にあらわしていることのひとつが、コンサート会場でときどきお会いするということです。
ピアノクラブの人達もマロニエ君と同じように、誰から強要されるでもなく、自分のまったく自由な気持ちからチケットを買って、時間を作って、楽しみでコンサートを聴きに来ているわけで、これは実に素晴らしいことだと思うのです。
まあ本来ならこれはそう感心するほどのことではなく、自分が好きなことならごく当たり前のことなのですけれども、その当たり前と思われることが、ピアノの先生などの世界の人達にはウソみたいに欠落しているのですから、それに比べればやはり感心するのも仕方がないでしょう。

きっと先生達はCDなんかも特定の目的以外ではろくにもっていないはずで、コンサートにも行かない、よい音楽、よい演奏を普段からほとんど遠ざかっていて、なんのために音楽に関わっているのか疑問に感じてしまいます。
たまさかコンサートに行けば、全体の演奏の良し悪しに心を向けるでもなく、あの曲のあそこのところが違っていた!なんてことだけを指摘してご満悦だという話もよく耳にしますね。

プロでもアマチュアでも、音楽に関わりを持つからには、それが心底好きで、良い音楽は少々の無理をしてでも聴きたいという純粋さと意欲だけは失いたくないものです。
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遅かりし発見

調律師の方がピアノの調整に来宅された折り、思いがけなくCDを頂戴しました。

この方は、さるドイツのヴァイオリニストのリサイタルのときに使われたピアノの調律の見事さに、マロニエ君がいたく感激してしまい、どなたかを辿って特約店へ問い合わせて、めでたくご紹介をいただき、ついに我が家へ来ていただく事となって、この日は2回目の調整でした。

この方はコンサートの仕事が多いようで、いただいたCDのピアノもこの方の調律によるものです。

ヴァイオリンは豊嶋泰嗣さん、ピアノは美輪郁さんというコンビで、クライスラー、サンサーンス、ガーシュウィン、コルンゴルト、シマノフスキほか、多彩な作品が収められたCDです。
レーベルはEXTONというCD店でもよく見かけるものです。

はじめは音を出さない作業なので、よかったらかけてみてくださいと言われ、さっそく新品のセロハンを切って真新しいディスクをプレーヤーにのせてみました。
冒頭の曲はクライスラーのギターナ(ジプシーの女)でしたが、いきなり飛び出してきたその張りのある艶やかな音、腰のすわった技巧の上に広がる大胆かつしなやかなその演奏にはホォ…と驚きました。それはまさに一流プレーヤーにしか出せない磨かれた音だったのです。本当にいい演奏、いいCDというのは、極端な言い方をすると聴いた瞬間にわかると言っても過言ではありません。

ピアノの美輪郁さんがこれまたヴァイオリンをしっかりと支えた素晴らしい演奏で、曲への理解も深く、出過ぎず隠れすぎずの、まさに理想的なピアノでした。

そしてさらにそのピアノの音はというと、以前ホールで聴いた正にあのピアノだったのです。
といっても同じピアノというわけではなく、会場もピアノもまったく別のものですが、その調律がまったく同じで、その時の記憶がたちまち蘇りました。
それほど調律には個性と、形と、技術者の音に対する志向や価値観が色濃く投影されているものであって、それはでもまったく別のピアノ(メーカーは同じ)であるにもかかわらず、以前の記憶といま目の前で聴いている音が、ピタリと一致するという不思議な体験でした。

ところで、豊嶋泰嗣さんという方は、ずいぶん前から九州交響楽団のコンサートマスターをされていて、お名前と存在はよく知っていましたが、肝心の演奏にはほとんど触れたことがありませんでした。
一度だけ、ずいぶん前にいろんな奏者が出演するドビュッシーだけのコンサートがあり、2台のピアノやらチェロなどあれこれとプログラムされていた中、最後のトリをこの豊嶋氏率いる4人が弦楽四重奏を演奏したことがあり、そこで目のさめるような集中力と音楽の勢いにハッとして聴き入った覚えがあったぐらいでした。

マロニエ君はそもそもオーケストラのコンサートマスターをやっていた人のソロというのは昔からどうにも好きになれず、ソロとコンマスは同じヴァイオリンを抱えても、そこには埋めがたい隔たりがあるというのが自分なりの認識でしたから、豊嶋氏の演奏にもその先入観からこれまでなんの興味もなく、したがってこれという演奏を聴いたこともありませんでした。

そこへ突如として降って湧いたようなこのCDの素晴らしさはどうでしょう! 
軸がしっかりしていてパワーもあり、繊細な表現も見事にこなしながらさまざまな性格の多種多様な曲を次々に鮮やかに聴かせていく手腕は、まさに目からウロコでした。

ながらく九響のコンマスであったが故に、マロニエ君にとっては却って灯台もと暗しとなったのは、ただただ自分の不明を恥じるばかりでした。
なんの誇張もなしに、この人は世界で通用する器を持った人だと思いました。
聴いてみたいと思ったときには、豊嶋氏はもう福岡にはおられず、ああ、なんたる事かと思うばかりです。
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キーレスエントリー

修理のためにずいぶんと長期入院していた愛車が最近やっと戻ってきました。

ほとんど4ヶ月ぶりの帰還で、それほど時間がかかったのは必要なパーツが手に入らないため、海外に発注をかけたり、やっと届いた部品が間違っていたり、どうしようもないものはパーツそのものを部分修理したりと、本来なら大したことではないようなことなのですが、こういうちょっとしたことですっかり無駄な時間を取られてしまうのです。

この車は、あるフランス車で、ピアノに喩えるならまさにプレイエルであることは、折に触れて書いてきたように思います。
新車で購入してから、もう丸15年になりますが、非常に大切にしていることもあってとても元気で、消耗品さえ供給されればまだまだ当分は乗れそうな状態です。

さて、この車には今は少数派かもしれませんが、普通のエンジンキーがついていて、ドアロックの開閉だけは赤外線によるリモコンが、キーの握りの部分に装着されています。

しかし、今の趨勢からいうとこの旧式のキーは次第に姿を消しつつあるようです。
マロニエ君の普段の足代わりの日本車もそうですが、いわゆる「キーレスエントリー」というシステムが主流となり、キーに代わる小さな器具を持って近づくだけで車がそれを認識し、ボタンや取っ手に触れるとロックが開閉するというものです。
要は車の乗り降りやエンジン始動に際して、敢えてキーが要らない「キーレス」になっているのは多くの方もご存じのことでしょう。

これなら雨の日に傘や荷物を持った手で敢えてキーを取り出す必要もないし、カバンなどに入れておけばいちいちズボンのポケットをゴソゴソさせる必要もないというものです。

理論的にはそのはずなんですが、マロニエ君は一見この便利なシステムが、実はそれほど便利という実感がなく、すでに5年ぐらいこの機能を使っていますが、いまだに一抹の違和感が拭えません。
車から降りる際は、このリモコンを入れたカバンは常に外に持って出なければロックができない、車に忘れ物をしてもカバンがないとドアが開かない、などなど逆の不便もあるわけです。

そして、久しぶりに戻ってきた上記の車に乗ってみると、やはり従来のキーというものがあって、それを手にしながら乗り込んでハンドルの根元に突き刺し、いざそれを捻ってエンジンを始動するという一連の操作が、なんともしっくりくる心地よいものだということを実感したわけでした。

「それはアナタが旧い世代の人間だから」と言われるかもしれませんが、どんなに新しいものでも、使い慣れないものでも、本当に優れた便利なものなら、時間と共に昔のスタイルを追い越していくもので、マロニエ君の身の回りも大半はそういうものばかりです。
しかし、人の直感にどこか逆らうものからは決して真の快適は得られません。

車のキーも、それを出し入れして、エンジンをかけて出発進行するという一連の動作には、どこか情緒的な安心感やメリハリにも繋がっているようで、その証拠に、とても心地よくホッとさせられるのです。

それは体の動作と脳内の認識が有機的に美しく結びついているような気がしますし、なんでもかんでも便利だからといってボタン操作だけで済まされたのでは、人の気分を活性させる要素が欠落しているようにも思うのです。

車にとってのキーの存在というのは、人と車を結びつける鎹の役目も負っているようで、車というものをさりげなく象徴するものであるということにあらためて気が付きました。
とはいっても車を100%移動の道具としてのみ使う人にはそういう情緒は無用かもしれませんが、運転の楽しさとかエモーショナルな何かを感じている人にとっては、やはりキーというちっちゃな実体があったほうが心情的にも収まりがいいようです。

これは、どうしても紙の本で読書をしたいという心理と共通しているのかもしれません。
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民族による音色の好み

昨日の続きで、「ピアノの本」には、もうひとつ興味深いコメントが載っていました。
あるベテラン調律師の方によると、ピアノの音色に対する趣向が次のように述べられていました。

『アメリカ、ことに西海岸では芯のある明るく突き抜けた音色が好まれ、日本人は除夜の鐘のように澄んだ深みのある音色を好み、ヨーロッパではビッグベンの鐘の音のようなどこか濁りを帯びた柔らかい音色が好まれる』

ほととぎすに喩えた信長、秀吉、家康の話のようで、なるほど象徴的な言葉だなあと思いました。

とくに共感できたのはやはり日本人のそれで、澄んだ深みのある音というのは、いかにもそうだろうと思いますし、自分でもやはり行き着くところそういう音を好んでいる、あるいは無意識のうちにそういう要素で音を判断しているような気がします。
アメリカのような明るく突き抜けたというのは、彼らを見ていると納得できるのですが、日本人とはまったくメンタリティが違うと思いますね。とくに日本は文化的な長い歴史もあって、こと芸術に関して無邪気に明るいものを容認はしません。わびさびなどという精神があるように、どうしてもある種の奥深さと、そこに到達する精神的な清澄さを要求するのだと思います。

アメリカのピアノが芯があるかどうかは疑問ですが、どれも音色そのものというよりは、性格的に明るくフレンドリーなのは、アメリカ人の持つメンタリティの表れだろうと思われますし、いわれてみるとたしかにアメリカピアノには夜のような暗闇はない。
その点、日本のピアノはどれひとつとっても、ある種の暗さが漂っているように感じます。
ハデハデな音を出すヤマハでも、その根底には無彩画のような一種のネクラがある。
その意味では暗さをより上手く使いこなしているのはカワイやディアパソンだと思いますし、ボストンにもこの暗さは少しばかり影を落としているかもしれませんね。

ヨーロッパが濁りを帯びた柔らかい音色というのも頷けます。
とくに彼らが重視するのは音の伸びと倍音ではないかと思いますし、濁りに関しては、これがあるほうを好むというよりは、この点では日本人ほど厳しくないだけじゃないかというのがマロニエ君の印象です。

少々濁っていようとそこはあまり頓着せず、それよりは歌があり、ある種の肉感のようなものがあるピアノのほうが好ましいのだろうと思いますね。
例えばファツィオリがわりに評判がいいらしいのは、そういう理由ではないだろうかとマロニエ君は思うのです。その点では日本人はより精神的要素を求め、ひとつひとつの音にも細やかな美しさや観念を欲しがるので、やはりCFXのようなピアノを作りだしたのだろうと思いますし、一方ではベーゼンドルファーのような繊細な美音を紡ぎ出すピアノを高く評価するのかもしれません。

そういう意味ではアメリカピアノとドイツピアノは両極に位置するピアノで、その両方に拠点を持って国籍不明のようなピアノを製造しているスタインウェイというのは、実におもしろいメーカーだとも思いました。
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音色のひみつ

ヤマハが発行する月刊の小冊子『ピアノの本』を読んでいると、小特集「ベーゼンドルファー音色のひみつ」というのがありました。
簡単な歴史からはじまり、現在もいかに少数のピアノを丁寧に作り続けているかということを説明しています。

ベーゼンドルファーの最も特徴的な面として、木の使い方を挙げていました。
通常は響板のみに使われるスプルースを支柱や側板など、木全体の実に8割にわたりこれを使うとのことで、全体を共鳴体として作り上げるのだそうです。しかもその使い方が独特で、加工する際に無理な圧力をかけて湾曲させるなどせず、削る・接着する・積み重ねるといった木材にストレスのかかりにくい工法がとられているとあります。
ちなみにスプルースは、マツ科トウヒ属の常緑針葉樹で、軽くて弾力性に富み、きめが細かく、加工性に優れているという特徴があり、ピアノだけでなく弦楽器にも使われる、楽器造りには欠かせない素材です。

そんなスプルースをこれだけ多用するということが、ベーゼンドルファー特有のとろみのある優雅な響きを作り出すことに貢献しているのだろうと思われますし、世界広しといえども、これほどスプルースにこだわってピアノを作っているのは、マロニエ君の知る限りではベーゼンドルファー以外にはないように思われます。

ただし、スプルース材を多用したからといって、それが即、より良いピアノになるということではなく、そこにはベーゼンドルファー特有の優れた設計があってのことであるのはいうまでもありません。
逆に木材は適材適所に性質の異なる木を使い分ける方が良いという考えのメーカーも多いはずで、これは一概に良し悪しが決められることではないと思いますが、少なくとも他社では主に響板にしか使わない木を支柱やボディにも使うというのは、単純に贅沢な感じではありますね。

さて、気になったのはグランドピアノの場合は290、225、200、170、という4モデルで現在も100年以上前の設計をほぼそのまま踏襲していて、「これはつまり100年前にこれ以上手の加えようがないところまで改良され尽くしたということ」と主張していますが、その一方で、注目すべき点もあるのです。
というのも、近年はベーゼンドルファーのラインナップにも無視できない変化があらわれてきており、この4モデルの間に位置するモデル、つまり280、214、185はまったくの新設計のモデルということはあまり語られません。

マロニエ君が好きだった275なども、すでにカタログからは姿を消してしまっています。
上記の言葉通りであるならば、「これ以上手の加えようがないところまで改良され尽くした」ピアノを、敢えて新設計のピアノにモデルチェンジするのは矛盾している気がしますが、やはりそこにはいろいろな諸事情があるのだろうと思います。

それは、一説には時代が求めるだけのパワーの増強と、同時に、さしものベーゼンドルファーといえどもコストダウンという、時代が要求する二つの目標を達成するという狙いがあるとも聞こえてきます。
だとしたら、残りの4タイプもこの先、順次生まれ変わるということが予想されますし、今のラインナップはこの点でいかにも不自然で、大きい方から旧・新・旧・新・旧・新・旧というアーキテクチュアの異なるピアノが交互に並んでいるのはなんとも不思議で、これではお客さんも単純にサイズで決めるわけにはいかなくなり、大いに戸惑うのではないかと思います。

マロニエ君からすれば、サイズよりも設計理念の違いのほうがよほど大問題という気がしますが。
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タイルの怪

我が家の風呂場(洗い場)の床は、滑り止め用の、目の荒いタイルが貼られているのですが、このところいやにこれが滑りやすくなり、家庭内で起こる事故では風呂場が一番危険などという話も聞くと、困ったことになったと思いつつ、ひじょうに注意しながら過ごしていました。

家族はもちろん、マロニエ君自身だって、硬いタイルの上で転倒などすれば、へたをすると笑い事では済まないことになるでしょう。
一度はその対策として、何か良い滑り止め剤のようなものはないかとホームセンターに言って尋ねてみたことがありますが、該当する商品はない由で、マットや簀の子を敷く以外に目覚ましい効果を上げるような方法はありませんでした。

というわけで、家人ともよくよく気をつけるように注意の上にも注意するしかなく、やむなくそのままの状態で過ごしてましたが、マットを外すと滑りがいよいよ甚だしくなっているようで、危険なことこの上なく、これはアクシデントが起こってからでは遅いので、なんとかしなくてはというのがこのところの悩みの種でした。

それにしても滑り止め用タイルにもかかわらず、なぜこんなことになってしまったのか。
使っているうちにすり減って摩擦係数が低下しているのかとも思いましたが、それにしてもここまで滑りやすいのは尋常ではないという気配で、氷の上といえばいささか大げさですが、それに近いものを感じていました。

そんな折も折、風呂掃除をしている家人がマロニエ君を呼びに部屋に戻ってきました。
なんだかお風呂の床にヘンなものがある…というのです。

急いで行ってみると、そこにはタイル用の掃除器具で掻き集められた、不気味な半透明のゼリー状のようなものがたしかにありました。
この正体不明の物質が何であるかがわからず、天井からなにからずいぶん見てみたとのことですが、ついにわからずマロニエ君を呼びに来たということでした。

たしかに、普通にお風呂を使っている限りでは、あるはずのないものでした。
それからあちこちの捜索が始まりましたが、なかなか突き止められず、あきらめかけたとき「もしや…」という思いが頭をよぎり、ためしにリンスの容器を見ていると、なんとその下部がちいさくヒビ割れていて、そこからリンスが少しずつ漏れ出ていることがわかったのです。

最近は詰め替え用を補充するばかりで、容器自体はかなり古くなっていたこともあったようです。
それで、床の滑りはこれの仕業だということがわかりました。

まあ、そりゃあそうでしょう!
なにしろリンスなのですから、それがいつも流れ出ていれば床が滑るのは当然です。

その後は、すこしおさまった気はするものの、まだまだ安全とはいきません。
よほど効果の高いリンスだったのか、少々のことでは動じないほどしっとりツルツルで、これをギシギシガサガサにするにはどうしたものかと考え込んでいるところです。
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リヒャルトへの耽溺

音楽は他の芸術にくらべると、もっとも悪徳の少ないジャンルだと何かで読んだことがあります。

人が音楽から受ける刺激は直接的なのに抽象性というフィルターを通していて、とりわけ文学のように悪徳の花が咲き乱れるということは、ゼロではないにしても、きわめて少なく、いわば音楽には善玉コレステロールが多いと言うことでしょうか。

でも中には例外があるのであって、その際たるものはヴァーグナーの類かもしれないし、いったんこの広大な海に溺れた者は容易なことでは健全な陸に帰ってくることは稀なようです。
そして最近ちょっとマロニエ君が溺れ気味なのがリヒャルト・シュトラウスなのです。

過去にも何度かこれにはハマった時期があって、オペラなども大作がたくさんあるし、いくつかの管弦楽の名曲、とりわけ交響詩やピアノの入るブルレスケ、あるいは4つの最後の歌などは、まさに豪華絢爛と頽廃の極みで、そのまるで腐りかけの、最も甘味の増した果物のような怪しくも豪奢な響きは、これはもはや悪徳の領域に頭だか片足だかを突っ込んでいるがごとくです。

そして最近、このブログにも書きましたがブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレによる《ツァラトゥストラはかく語りき》と《ドン・ファン》を聴くようになって、すっかりリヒャルト病が再発してしまいました。
とくに今回は演奏からくる魅力が加わっているために、いっそう重症となっている気配です。

リヒャルト・シュトラウスはとりわけドイツ系の多くの指揮者が手がけていますから、いずれもキチンとした演奏ではありましたが、カラヤンのような人はどうしてもその音楽の聴かせどころをかいつまんでデラックスに強調するし、ベームなどはむしろこの病んだ世界を四角四面に演奏しすぎる印象がありました。
アバドなどはその点では、はるかに柔軟で現代的な鮮やかさをもって聴かせたのは必然でしょう。

ブロムシュテットの演奏を聴いてわかったことは、リヒャルト・シュトラウスだからといって世紀末的に官能的に崩したような演奏をせず、むしろ理詰めの整然たる演奏の中から見え隠れする頽廃であるほうが、作品の凄味みたいなものが倍増するということです。
いかにもドイツ音楽然とした、組織立って容赦なく押しまくるような演奏をしたときに出てくるその怪しい香りは、気分が高揚しながらも神経のどこかが麻痺していくようです。

リヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品はいずれもオーケストラの性能を極限まで使い切るようなところがあり、《ツァラトゥストラ》の各所での分厚い官能的響きは、それだけで平常心が奪い取られていくようですし、また《ドン・ファン》のような作品は、音楽を聴いているというよりも、むしろもっと別の体験をしているような錯覚に陥ります。
例えばポルシェや重量級のメルセデスでアウトバーンを超高速で疾走しながら、じりじり迫ってくるアルプスの高い峰などを眺めているような、非常に独善的かつファナスティックな快楽に身を浸すようです。

ドイツものというのは音楽に限りませんが、厳格な土台の上に、快楽主義的な狂気が真面目な顔をしながら踊っているようで、いったんそこに落ち込むと、容易なことでは抜け出せない恐ろしさがあるように感じることがあります。
逆説的に見ると、ドイツこそは根底のところに最も不健全なものを隠し持った国かもしれない…ちょっとそんな気がしてくるのです。
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H&M vs UNIQLO

マロニエ君は着るものにあまり凝るほうではありませんし、ましてや高級ブランド品などには興味もありません。
もちろん普通に身だしなみは整えておきたいと思いますが、これに高いお金をかける気などはなく、ユニクロなども以前はよく利用していたくちでした。
「以前は」というのは、近ごろのユニクロはどこか変質してしまったようで、以前のような輝きというか魅力がなくなってしまった印象があります。
だいたい秋になると、この業界は商品もいろいろ増えて多彩になり、店内は賑やかになるものですが、近年は全体的な種類もずいぶん整理されてしまったようだし、定番商品でも生地が確実に薄くペラペラになり、あきらかにコストダウンしているのがわかります。

この会社、海外進出など企業としての肥大化にはえらくご執心のようで、どこそこに最大級の店舗がオープンしたのどうのという話題は盛んに報じられますが、商売の基本となる肝心の魅力ある商品作りとか、良いモノを安く提供するという従来のガッツは多少失ってしまったような感じで、このところすっかり関心を失ってしまっていました。
たまに店をのぞいても、要するにこれという欲しいモノがないわけです。

そこで、ちかごろ話題のH&MとかZARAとかいう、同種の海外の低価格ブランドとはどんなものか、いっぺん偵察に行ってみようと思い立ちました。

そこで、こういう海外ブランドが集中する新エリアに行ってみましたが、土日の混雑を避けて、あえて平日の夕方に行ってみました。

結果からいうと、まったく期待に反するもので、ガッカリでした。
最初に入ったのがH&Mでしたが、店内に入ってパッと見渡したときに、まず全体に雑な感じを受けましたが、こういう一瞬の印象というのはピアノ選びでもそうですが、けっきょく一番確かな直感なんですね。
この「雑」という第一印象は、やはり間違っていませんでしたね。

どれも手触りが粗く、ごわごわチクチクするようなものばかりだし、デザイン的にもユニクロとは違うヨーロッパ的な何かがあるのかと思っていたら、どれもこれも大味大雑把なだけで、ほとんどなんの魅力を感じません。
商品もさっき段ボールから引っぱりだしただけといったような、シワがあったり型くずれしていたりで、縫製もかなり粗い仕事だと思います。
だいいち素材が見るからに低級品で、さすがにこれにはイヤになりました。

しかも値段は高くはないとは言っても、ユニクロよりは完全にワンランク高いわけで、そうなるとマロニエ君にとっては何の説得力もない。他のZARAとか、あとは名前も忘れましたが、他のブランドも見てみましたが大同小異で、どこもやたらとひとつの店舗が大きいばかりで、欲しいものもなく、歩き回るだけでも疲れました。

同じ施設内にユニクロもあるので試しに入ってみたら、なんと、そこにはまだしも一定のクオリティや美しさがあって、これはどういうことか?と思いました。
現在のコストダウン状態をもってしても、こっちのほうがいいと感じたのは事実です。
とくに外国の安物というのは、独特の容赦ない厳しさが露わで、「貧乏人はこれでいいんだ!」と暗に言われているようで、しだいにテンションが下がっていくのが自分でもわかります。
その点はやはりユニクロは日本のものなので、安くても明るいおもてなし感があり、商品がきれいで、繊細で、清潔で、心が落ち着きますね。

果たしてネズミの嫁入りではありませんが、他流試合後の消去法の結果、やっぱりユニクロのほうがよかったんだと思いました。
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ハンマーのサイズ

日曜は、知り合いのピアノ工房でディアパソンのリニューアルが完成したということでお招きを受け、遊びに行きました。

さらには、今年の9月に帰朝された福岡出身の若いピアニストの方がおられるのですが、その方がこのHPを見てくださっている由で、以前からメールのやり取りなどをしていたところ、教室用のグランドをお探しとのことで、ちょうど同じ日に同じ工房へ行くことになり、現地ではじめてお会いすることになりました。

ご両親といっしょに一足先に来られていましたが、目指すピアノはとても気に入られたような気配でした。
ほんの少しでしたがバッハ、ベートーヴェン、ブラームスなどを弾かれていましたが、これから先、教えることやコンサートなど、徐々にその活動範囲を広げて行かれるようです。
来年はリサイタルなどもされるようで、新しい才能が楽しみです。

さて、ディアパソンはこの工房らしく予定通りにつつがなく仕上がっているようでした。
弾いてみて、何かがもう一つという印象もなくはなかったものの、曰く、弦を張り替えて間もないことと、新品ハンマーを整音をしたばかりなので、もう少し弾き込まれて馴染んでいくとまた変わってくるとのことでした。
開花を待つばかりの芍薬の花のようなピアノでした。

驚いたのは、ここにある非売品のカワイの古いセミコンの変身ぶりでした。
いぜんから柔らかく懐の深い響きで美しい音を出すピアノでしたが、ここのご主人によれば、自分の勉強や試行錯誤のためにハンマーをいじりすぎたとのことでした。
というのも、商品のピアノではそうそう思い切ったことはできないので、そういうことは非売品の自分のピアノでいろいろな試みや勉強をしておられるわけです。そして勉強というのは「壊してもいい」というような限界にまで迫らないことには本当の意味での有益な経験にはならないと思われます。

このピアノのハンマーは、以前一度新品に交換されて、それから何年も経っていなかったのですが、その間にあれこれと整音の実験などを繰り返されたようで、それでついにハンマーの寿命が尽きたようでした。

そのぶん、そのハンマー一式からここのご主人は多くのことを学ばれたようで、新しいハンマーをつけたカワイはまさに一変していて、弾くなりアッと思うほど驚きました。
いままでのやわらかさは土台にあるものの、あきらかに艶と輪郭のある、色っぽい音を出すように生まれ変わっていました。

ハンマーはヘッドの大きさ、シャンクの材質などによって重さが異なり、それによって音色はもちろん、パワー感や音色、タッチの重さまであらゆることが変わってくるようで、そこは「何を求めるか」によって使うハンマーも微妙に変わってくるようです。

細やかなタッチやコントロール性を重視するのであれば、若干小さめ軽めのハンマーを使うことで弾きやすさを実現する、あるいは大型のハンマーならより力強い深い音が出せるというメリットもあるようで、そのへんの判断は実に悩ましい選択のようです。
車のタイヤやオイルのようにパッと交換できならいいでしょうが、ピアノのハンマーは一度取り付けると、普通は10年20年という長い付き合いになりますし、しかもある程度ピアノの個性も決定するので、これは重大です。

スタインウェイなどでも、ここ最近は演奏の俊敏性を優先させて小さめのハンマーが使われているといわれますが、たしかに昔のようなパワーと深さみたいなものはありません。
もちろんピアノの性格は他のいろいろな要素の集積によって決定されることで、たんにハンマーの大小だけでは片づけられることではありませんが、すくなくともハンマーのサイズもその要素のひとつであることは間違いないようです。
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ふたつの未完成

ファツィオリの音を聴く目的で購入したトリフォノフのショパンのCDでしたが、ショパンやチャイコフスキーのコンクールであれだけの成績をおさめた人である以上、きっと何かしらこれだというものがあるのだろうと思い、何度も繰り返し聴きましたが(おそらく10回以上)、どう好意的に聴いても、虚心に気持ちを切り替えて接しても、ついに何も納得させられるものが出てこない、まことに不思議なCDでした。

この人の演奏にはこれといったスタイルも筋目もなく、作品への尊敬の念も感じられません。
ロシアには普通にごろごろいそうなピアノの学生のひとりのようにしか思えないし、そこへ輪をかけたようにファツィオリの音にも一流の楽器がそれぞれに持っているところの格調やオーラがないしで、ダブルパンチといった印象でした。

ショパンコンクールに入賞直後の人というのは、ショパンを弾かせればとりあえずビシッと立派に弾くものですが、この人はなにかちょっと違いますね。体がしっかり覚え込んでいるはずの作品においても、必要な詩情とか音楽が織りなすドラマの完成度がまったく感じられず、コンクールを受けるために準備した課題の域を出ず、アスリート的な気配ばかりを感じます。少なくとも音楽として作品に奏者が共感しているものが感じられないし、内から湧き出る情感がない。
解釈もどこか中途半端で、いわゆる正当なものがこの人の基底に流れているとは思えず、こういう人が名だたるコンクールの上位入賞や優勝をしたという事実が、なんとも釈然としない気分になりました。

あんまりこればかり聴いていると、味覚がヘンになってくるようで、なにか気に入った美味しいもので口直しをしたい気分になりましたが、咄嗟には思いつかず、差し当たりすぐ手近にある関本昌平のショパンリサイタルをかけました。

するとどうでしょう。
どんよりと続いた曇天の空がいっぺんに晴れわたったような、思わず両手を広げて深呼吸したくなるような爽快感が広がりました。
関本氏は2005年のショパンでは4位の人で、これは成績としてはトリフォノフよりひとつ下です。
しかし演奏はまことに見事で、折目角目がきちんとしているのに、密度の高い燃焼感が感じられて、聴くにつけその充実した演奏に乗せられてしまい、日本人は本当に素晴らしいんだなあと思います。

ピアノはヤマハのひとつ前のモデルであるCFIIISですが、これがまたよほど調整も良かったのか、ファツィオリとは打って変わって、聴いていていかにもスムーズで洗練された心地よいピアノでした。
上品で、音のバランスもよく、一本の筋も通っています。
音楽性については、むしろ今後の課題だと思っていたヤマハでしたが、このときばかりはその点も非常に優秀だと思いました。人間、どうしても相対的な印象は大きいです。
やはりコンサートピアノはこのように、それを聴く聴衆の耳に美しく整ったものでなくてはダメで、音色や響きをどうこういうのはそれからのことだと思います。

ファツィオリはスタインウェイ一辺倒のピアノの業界に一石を投じたという点では、大変な意義があったと思いますし、それは並大抵のことではなかったことでしょう。とくにパオロさんという創業者にして社長の情熱には心から尊敬の念を覚えますが、現在のピアノの評価としてはマロニエ君はちょっとまだ納得いかないものがあるのも事実です。

非常に念入りに製作された高級ピアノというのはわかりますが、要するにそれが音楽として空間に鳴り響いたときにどれだけ聴く人を酔わせることができるか、これが楽器としての最終的な目的であり価値だと思います。

その点でファツィオリはいろいろな個別の要素は優れているかもしれないけれども、今はまだ過渡期というべきで、それらが有機的に統合されていないと感じるのです。
今の段階では、とても良くできているんだろうけれども、要は「街の工房の音」であって、完成されたメーカーの個性を問うには、まだまだ乗り越えるべきものが多くあるような気がします。

そういうわけで、トリフォノフとファツィオリはなんだか妙な共通点があると思いました。
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最新のファツィオリ

またしてもヘンなCDの買い方をしてしまいました。

ダニイル・トリフォノフのショパンで、先ごろデッカから発売されている新譜です。
この人は昨年のショパンコンクールで3位になり、今年のチャイコフスキーではついに優勝まで果たしたロシアの青年。これまでに接したコンクールのCDや映像、あるいはネットで見ることの出来る演奏などに幾度か触れたところでは、全くマロニエ君の興味をそそる人ではなかったものの、このCDの購入動機は専ら使われたピアノにありました。

そのピアノはファツィオリで、前半が最大モデルのF308、後半がF278という二つのピアノが使われているし、録音は一流レベルのデッカで、いずれも昨年の録音です。
トリフォノフはファツィオリ社がいま最も期待をかけるアーティストで、その彼のメジャーレーベルのデビューアルバムともなれば最高の楽器を準備していると考えられ、いわば「ファツィオリの今の音」を聴いてみるには最良のCDだろうと判断したわけです。
ただしかし、最近のCD製作はコストダウンが横行しているらしく、このアルバムもふたつのコンサートからライブ録音されているようでした。

第1曲のロンドの出だしからして、いやに音がデッドで、ホールはおろか、最近はスタジオでのセッション録音でもこんな響きのない音は珍しいので、まずこの点でのけぞりました。しかし、その分ピアノの音はより克明にわかるというもので、これはこれで目的は達すると考えることにしました。

音に関しては、今をときめくファツィオリで、さらには国際コンクールなども経験し、いよいよ佳境に入っていることだろうと思ったのですが、予想に反して不思議なくらい惹きつけるところがない。
だいいち音があまり美しくないし、深みがなく、楽器としての晴れやかさがない。
倍音にもこだわったピアノと聞いていますが、それが有効に効果を上げているようにも聞こえないし、むしろ寂寞とした感じの音に聞こえたのは意外でした。
なにより音が詰まったようで、ちっとも歌わないのがもどかしく、「イタリアのベルカントの音」なんて喩えられますが、はぁ…という印象です。
音そのものより、楽器の鳴りに抜けと軽さがなく、むしろ鳴り方は重い印象でした。

元来イタリアのものは、どんなものでも光りに満ちて色彩的というのが相場ですが、その点でも肩すかしをくらったようでした。F308などは、奥行きが3m以上もある巨大さは一体何のため?と思うほど、音楽的迫力も豊かさも感じません。
どことなく無理に音を出しているという印象で、その点ではむしろF278のほうが多少の元気さとバランス感もあり、いくらか良い感じですが。

ファツィオリは、新興メーカーにもかかわらず高級ブランドイメージの確立には成功しているようですが、その音はあまり個性的とは言えず、むしろ今風の優等生タイプにしか聞こえませんでした。
以前、マロニエ君はファツィオリはどこかヤマハに似ている、いわばイタリア国籍の高級ヤマハみたいなもの、という意味のことを書いた覚えがありますが、今回もほぼおなじように感じました。

そして皮肉にも、そのヤマハのほうが現在ではCFXによってうんと新しい境地を切り開いたと思います。
少なくともCFXには今のヤマハでなくては作れない、ピアノの新しい個性があるけれども、どうもファツィオリのピアノにはこれだという明瞭な何かを感じないのです。従ってヤマハといっても昔のヤマハに似ているというべきでしょう。

聞いた話では、ファツィオリは間近ではとても大きくわななくように鳴るのだそうですが、それがどうも遠くに飛ばないのかもしれません。
だから、このピアノに直接触れてみた人は、ある種の要素には何らかの感激を覚えるのかもしれませんが、普通に鑑賞者として距離をおいて、演奏される音だけを聴く限りにおいては、どこがいいのやらサッパリわからないところがあるのだろうと思います。

もしかしたらマロニエ君の耳と感性が及ばないのかもしれませんから、それなら誰かにファツィオリの魅力はなへんにあるかをぜひとも教えてほしいものです。
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博多駅地下駐車場

今年の春、新装成った博多駅では、大半が建て替えられ、その商業エリアは大きく増強されて大変な話題と賑わいを見せたところですが、その新駅ビルがもたらす人の流れは、多少は落ち着いたもののいまだに続いているようです。

ただしマロニエ君から見ると、あれだけ大がかりな駅&商業エリアの拡充・オープンに対して、駐車場がまったく不充分と言わざるを得ず、駅を駅として使う人にはそれでいいかもしれませんが、電車やバス以外で、つまりは車で博多駅に行く側にしてみれば、この駅に相応しい駐車場設備がないのが大いなる疑問でした。

やむなく新幹線のターミナル上にある古い屋上駐車場や、近隣の民間の時間貸しに頼らざるを得ず、駅ターミナルへダイレクトにアクセスできるような、中心となるべき大駐車場がないというのは、現代の新駅の構想として一体どういう考えなのかと思っていまいます。

以前ウワサでは地下駐車場が出来ると聞いていましたが、ついにそういうものは見あたらないまま春の開業を迎えたわけでした。後から聞いた話では、地下駐車場は建造中で完成が遅れる由で、そこに少しばかりの望みを繋いでいました。

その地下駐車場が半年遅れでこの秋に完成し、ずいぶん待たされたと思いつつ先日行ってみたのですが、なんとも気の抜けるような規模の小さな駐車場でしかなく、しかもはじめの1時間が500円、以降30分ごとに250円と、天神よりも料金が高いのには驚かされました。

おまけに頭上の商業施設とのサービス連携が一切なく、どれだけ飲み食いや買い物をしようとも、委細構わず額面通りの駐車代が要求されるのは二重の驚きでした。

あとから思い返せば、そういう理由からというのが了解できましたが、一番便利なはずのこの駐車場はしかしガラ空きだったのは、はじめは大いに意外な気がしたものです。

それと少々煩わしく感じたのは、駐車場の規模に対して、異様に係員の数が多く、赤い懐中電灯みたいな棒を手に持った男性がそこここに立って、いちいちあっちだこっちだとその棒を振りまわしてガチガチに誘導してくることでした。
普通、地下駐車場などは表示された標識を見ながら進んで駐車するのが普通のことなのに、まるで飲酒運転の検問のように制服を着た大勢の人達から次々に手招きをされるのは、なんだか異様な感じでした。

いまどき一番高いのは人件費で、ファミレスなどはこれをセーブするために、そこで働く人は気の毒なほど少ない人数で広い店を担当させられるようなご時世ですが、この駐車場ときたら、たったあれっぽっちのサイズにあんなにたくさんの誘導員がいるのは、よほど別に何かの理由があるのかと思われます。

さらに納得がいかなかったのは、帰りに車に戻ろうとして場内を歩き出したとたん、数人の係員が駈け寄ってきて、壁際の「歩道」を歩くように、頭を下げながらもほとんど強制的にそうさせる点でした。
そこはいちおうタクシーの乗り場を兼ねてはいたものの、車はほとんどいなくてあたりは深閑としているにもかかわらず、自分の車まで自由に歩くこともできないのは一体何なんなのか!?と思いましたね。

テロの警戒?
…はてさて、まるでそこには原子力施設でもあるかのごとき厳重さだったのは、今だに首を傾げます。
要するにどの角度から見ても快適な施設ではないことは確かで、よほどのことでもない限り、たぶんもう行くことはないと思いますが。
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ピアノ五重奏の夕べ

福銀ホールで、珍しいコンサートに行きました。
3人の地元のピアニストがウィーン・ラズモフスキー四重奏団を相手に、それぞれドヴォルザーク、シューマン、ブラームスのピアノ五重奏を演奏するというもので、この3曲はこの形体で演奏できるまさに三大名曲といってもいいもので、いわばピアノ五重奏曲の三役揃い踏みといったところでしょう。

お三方ともみなさんよく練習されており、とても整った演奏だったと思います。
福銀ホールの良好な音響と相まって充実したコンサートだと思いましたが、強いて言うなら、このカルテットの演奏は達者だけれども多少荒っぽく強引な面があり、それぞれのピアニストと本当に協調的な演奏をしたとは思えませんでした。
とくに前半のドヴォルザーク、シューマンはそれぞれに良いところがあったのですが、ピアノはそれほど強い指をした演奏というわけでもなかったところ、弦の4人がやや手荒とも言える調子で音楽を押し進める点があったのは、いささか残念でした。

音量の点でもヴァイオリンの二人などは、まるでソロのように遠慮無く鳴らしまくったのが気に掛かり、ピアノが弦楽器の陰に隠れんばかりになっていたのは、自信の表れかもしれませんが少々やりすぎでしょう。
多少指導的な気分も働いての結果かもしれませんが、音楽…わけても室内楽はバランスが崩れると聴く側も快適ではないので、いやしくもウィーンを名乗るのであればそのあたりはもう少し配慮が欲しいものです。
どうかすると弦の音だけで少々うるさいぐらいになる瞬間がありましたが、それでも全体としては歯切れ良くスイスイと前進する佳演だったと思います。

この夜の白眉は、後半の管谷玲子さんのピアノによるブラームスのピアノ五重奏曲で、これは実に見事でした。
テクニックも音楽性も他を圧倒するものがあり、ブラームスの情感をたっぷりと深いところから味わい尽くせる演奏で、これだけの演奏はめったにないものです。
思いがけない感銘を受けることになりました。

とりわけ感心したのは、自己表出よりも終始徹底して音楽に奉仕する演奏家としての謙虚な姿勢が明確で、その深みのある雄弁なピアノにはさすがのカルテットもやや襟を正さざるを得なかったようで、より音楽的な姿勢を強めて演奏していたと思います。この曲ではまったく自然なかたちでピアノが中心に座っていました。
管谷さんのピアノはやわらかな楷書ように清冽で、作品を広い視点から余裕を持って、確かな眼力によって捉えられていると言えるでしょう。
けっして目の前のことに気をとられて全体を見失うことがなく、常に腰が座っていて、しかも必要な場所でのしっかりとしたメリハリもある演奏には思わず唸りました。

ピアノの音色にもこの方独特のものがあって、芯があるのにやわらかい温もりがあって、それがいよいよブラームスの音楽を分厚く豊かに表現するのに貢献していたのは間違いありません。

つい音楽の中に引き込まれて集中していたのでしょう、この曲はほんらい長い曲なのですが、実際よりうんと短く感じてしまいました。逆に退屈すると、短い曲でも長く感じるものです。

終わってみれば、固まったように聴き入っており、こういう演奏に接することはなかなかありません。
本当に才能のある、器のある方だと思いました。

不満タラタラな気分を引きずりながら帰途につくことの多いコンサートですが、めずらしく良い音楽を堪能した気分で、心地よく帰宅することが出来ました。
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ピリスの証言

マロニエ君の部屋のNo.70で書いた「フランスの好み」に関連することで、興味深い文章を目にしました。

たまたま手に取った2年ほど前の音楽の友ですが、その中にマリア・ジョアン・ピリスのインタビュー記事があり、このころ彼女は「後期ショパン作品集」をCDリリースしたばかりの時期でした。
ピリスは以前からヤマハを好んで弾くピアニストの一人であるにもかかわらず、その最新のCDはどういうわけかスタインウェイで録音されており、とくにスタインウェイが好みじゃないということでもないようです。
そして、ヤマハとスタインウェイは、状況によって使い分けているといった印象を受けました。

インタビューでは自分がコンサートに使用するピアノのことにも触れられていましたが、それによると、やはり…と思わせられるのは、ヨーロッパは本当に状態の悪いピアノが多いのだそうで、それは楽器を持ち歩くことのできないピアニストにとっては尽きない悩みであり、頭の痛い問題であるようでした。
とりわけ小柄で手の小さなピリスの場合、状態の悪いピアノと格闘することは普通のピアニスト以上の苦痛の種になるようです。

ヤマハがとくに高い評価を得ているらしいと推察できるコメントとしては、そんなヨーロッパでは調律師の存在がひじょうに大きく、ヤマハは素晴らしいテクニシャンを擁しているから、この点で頼りにしているということでした。
やはり日本人調律師のレベルは世界第一級のようですし、同時に痒いところに手が届くようなサービスで顧客の評価を高めるやり方は、いかにも日本人的なやり方だと思われました。

面白い意見だったのは、日本でのコンサートでは、ホールのアコースティックがとても素晴らしいので、ヤマハのピアノを好んで使っているのだそうで、ヤマハで何も問題を感じないと発言しているわけですが、その微妙なニュアンスが印象的でした。

それに対して、ヨーロッパのホールはアコースティックがひじょうに悪い会場が多いのだそうで、そういう場所ではより大きな音の出るスタインウェイを使わざるを得ないということをはっきり言っています。
これはつまり、ヤマハは好ましいし技術者も素晴らしいが、たくましさがないということになるのでしょうか。

ピリスは今年のメンデルスゾーン音楽祭でも、ベートーヴェンの第3協奏曲をシャイー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団と弾いていますが、ピアノはまたもスタインウェイを使っていました。

少なくともピリスほどのヤマハ愛好者でも、コンサートやレコーディングの現場ではまだ全面的な信頼は寄せていないということのようにも読み取れます。
ヤマハのコンサートグランド(すくなくともCFIIISまで)はこぢんまりとした美しさはあるのの、スタインウェイのようなスケール感や壮麗な音響特性はもうひとつ不足するのでしょう。
同時に、ヤマハを好むフランス人などの演奏を聴いていると、スタインウェイの音色ではときにあまりにも絢爛としすぎて、楽曲や演奏の内面に潜む綾のような部分を描き出すような場面で、やや派手すぎると感じる局面があることもわかるのです。
このことは、オールマイティを誇るスタインウェイの特性の中で、数少ない欠点と言うべき部分なのかもしれません。

音楽を大きく壮麗に語りたい場面、あるいは音響的で強い表現を求める場面では、スタインウェイは他の追従を許さない名器ですが、逆に、華奢で傷つきやすい、私的心情をこまやかに表現したい向きには、日本の製品のもつきめの細かさが有利となるのかもしれません。
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鈍感は病気

ちょっと思いがけない話を聞いて、なるほど!と思いました。

ある人が人間の神経のありようを書いた本(どんなものか知りませんが)を読んでいると、俗に言う「鈍感な人」というのは、多少は性格的なものもあるにしても、専門的に見れば「病気」なのだそうです。

あまりにも神経過敏で、いつも気分がピリピリ張りつめているのも、これはこれで一種の病気でいけませんが、その逆も然りで、周りに迷惑とストレスを撒き散らします。
何事も過不足なくあらねばならないというわけでしょう。
神経過敏の真逆に位置する鈍感は、本来あるべき神経がスポッと抜け落ちているのだそうで、これは手の打ちようがない。

どちらかというと神経の細いほうのマロニエ君としては、一線を越えた鈍感な人は、眼前に立ちはだかる分厚い壁のように圧迫を感じて苦手です。
そしてこの世に「感じないということほど強いものはない」と思うに至っていますが、本当にそれは最高に無敵です。なんといっても本人は至って平穏で、かつそれがもっとも楽で自然な状態なんですから。

裏を返せば「感じる」ということは、これほど弱くて疲れるものもないわけです。

この鈍感な中にも比較的無害なタイプもあるとは思いますが、経験的に大半は有害です。
日常のなんでもない場面で、この鈍感さの仕業によってエッ?と思うようなことを次々に言ったりします。はじめはイヤミでも言われているのかと思いましたが、どう見てもその様子にこれという意志や悪意はなく、ごく自然に無邪気に言っていることがわかり、安心するような、よけい疲れるような…。

なにしろ本人に悪意や自覚がないもんだから、ずんずん無遠慮に踏み込んでくるし、そこには用心もためらいもブレーキも効かない。そればかりか、どうかするとむしろ大真面目だったりする。
はじめは、よほど田舎の出だろうかとも疑ったりしますが、出身地などをさりげなく聞いてみてもさにあらずで、…やはりただの性格だろうかと思うしかありません。
どうも、いろんな折にあれこれと軋轢を生んでいるらしく、そりゃあそうだろう!と思いますが、それを言うわけにもいきません。

こういう人達は、普通の社会人なら自然的にコントロールするようなことでも、それができないため、すぐに言動に地が出てしまいます。本人は普通の振る舞いのつもりでも、相手はかなりストレスを受けたりする。
場合によっては、馬鹿話や冗談さえも通じず、まったくちがうニュアンスに捉えたりするため、呆然とすることしばしばで、こういう人の前ではうかうかおもしろい会話もできません。

いらいそのタイプの人と接触するときは、こちらが注意するべく身構えるようになりましたが、それがつまり病気なんだと思うと、一気に納得したというか、少し気が楽になったような感じもします。
必要な神経の一部が欠落欠損しているということになれば、それをひとつのハンディと見て接することもできるかもしれません。

ただし、精神領域の難しいところは、表向きはごく普通の健康な人ですから、そういう人にハンディの認識を持つということは理屈で言うほど簡単ではないのです。
言葉はそれ自体が意味を持ち、人はその言葉に反応するから、思わずその意味で受け止めてしまうわけで、それを度外視して、受け止める側の内面で処理をするのは、現実は難しいだろうと思います。

しかし、それでも「病気」だという認識は、ムッと来たときのひとつの自分なりの逃げ道が出来たようで、ないよりマシかとは思います。
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自分だけじゃない

今どきの歌の歌詞のようなタイトルですが、定例会では、皆さんの演奏ぶりをつぶさに見ていると、いつも落ち着いて平然と弾いているように見える方でも、実際はけっこう緊張しておられる様子がわかったのは、いまさらみたいな発見でした。

人前演奏が「超」のつく苦手なマロニエ君としては、自分が弾くところを見られるのが相当イヤなものだから、これまでは人の演奏もまじまじと見てはいけないもの、じっと見るのは失礼で、まるで辛辣な行為のように勝手に思い込んでしまっていたところがあって、実はこれまであまり凝視することはできるだけしなかったのです。

ところが先日の定例会では、ピアノとの距離の問題か、光りの加減か、とにかくごく自然にそれが目に入ってしまい、つい細かいことが見えてしまったというわけです。

すると、一見普通で冷静のように見えても、指先がずいぶん震えていたり、足までわなわなしていたりと、かなりの緊張に襲われている様子がわかりましたし、何度も聞いている人の同じ曲の演奏でも、過去に何度もスイスイと弾けていた人が、そのときに限って崩れたりすることもわかり、ははあ、みんなそうなのか!と思いましたね。

というのも、マロニエ君など、どんなに家ではまあまあ弾ける(もちろん自分なりに)ようになったと思っても、人前というのは特に個人的にそれが苦手ということもあり、想定外のいろんなハプニングに見舞われて、とうてい思ったようには行かないというのが現実なのです。

もちろんミスなどするのは自宅でも毎度のことですけれども、そんな中にも通常の自分ならまずミスしない部分というのも、曲の中にところどころはあるわけですが、そんな大丈夫なはずの部分まで、人前で弾くとまるで悪魔がパッと微笑むようにミスってしまったりで、あれはなんなのかと思います。
そして、そういう思いがけないミスに自分がショックを受けて、更なるパニック連鎖の引き金になるんですね。

それと、崩れてしまう大きな原因のひとつは、音楽というものが宿命的に一発勝負という非情な世界に投げ込まれるからであって、どんなに別のところでそれなりにできたとしても、定められた場所と時間でできなければ、ハイそれでお終いという性質を持っています。それがわかっているものだから、またいやが上にも緊張を誘い込むのだろうと思います。
そういった、音楽が本源的に持っている性質は、プロはもちろん、我々のようなシロウトであっても基本的に同じだと思います。

そういういくつかの要素があれこれと絡み合い交錯することで緊張を誘発し、動かない指はいよいよ固まり、頭は飛んでしまうというわけです。
こうなると、もう一切を放棄して途中で止めたくなるし、こんな情けないヘンなことになるのは自分だけじゃないか?と内心思っていたのですが、その点で言うと、へえ、ほかの人もそうなんだ…ということが少しわかってきて、それで嬉しかったと言っちゃ悪いけれども、なんだか安心したことは事実です。

マロニエ君はちょっとしたことに過剰反応し、すぐにマイナスに影響される面があって、人前というのはもちろんですが、自宅とは照明の感じが違って、他所では鍵盤がパーッと明るく見えてしまうだけでも緊張して、たちまち勘が狂って崩れてしまいます。
小さな事に動じず、どっかり弾けたらどんなにいいかと思いますが、それは夢のまた夢です。
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麗しきディアパソン

文化の日は、ピアノクラブの定例会で、メンバーの方所有のプライヴェートスタジオで行われました。
あいかわらず素晴らしい会場で、これが個人の空間というのは何度行っても驚かされます。

ピアノはディアパソンの新型のDR500という奥行き211センチのモデルで、ヤマハでいうと6サイズ、スタインウェイではB型という、いわばグランドピアノ設計の黄金分割ともいえるサイズです。

数ヶ月前に弾かせていただいたときにもその上品で美しい音色、さらには会場の音響の素晴らしさとのマッチングには深く感銘したものでした。
しかし、今だから言うと、強いていうならピアノのパワーはもう一つあればという印象が残ったことを告白します。

その後、調律師さんを変更されて調整を入れられ、さらに定例会の2日前に再度その方によって調律されたということを聞きましたが、果たしてそのピアノ、目を見張るほどの大きな変化を遂げていました。
音色に豊かな色艶が加わり、好ましい芯が出てきており、さらにもっとも驚いたことには、以前よりもあきらかにひとまわりパワーが増していたことでした。
やわらかさはちっとも損なわずに、逞しさと色気という表現力の要の要素が出てきていました。

まさに第一級のピアノに変貌していましたが、これも場所とピアノが同じであることを考えれば、あとはもう調律師の適切な仕事による効果だと考える以外無いでしょう。

良いピアノというのは弾き心地がよく、演奏者を助けてくれるものですが、まさにそんなピアノでした。

ただ皮肉なもので、以前はこの空間とピアノの響きのバランスが見事に調和していたのですが、ピアノの状態が進化して音量と音の通りが増したため、音響空間としては、ほんの少しですがやや響きすぎる感じになってしまっていたと思います。

オーナーの方もそこには薄々気がついていらっしゃるようで、「もう少しスタジオを吸音してみます」というメールをいただきました。
また大変かもしれませんが、のんびり実験のようにやっていかれるらしく、ピアノが良く鳴るようになったがための対策なら、基本的に喜ばしいことですけどね。

まあ、つくづくと楽器と空間の関係というのも、微妙で難しくてやっかいですが、だからこそまたおもしろいと言えるのかもしれません。

ちなみにこのサイズでは、日本製ピアノだけでも、ヤマハのC6、S6、CF6、カワイのRX-6、SK-6、ボストンのGP-215、同じくディアパソンのDR211(DR500との違いは弦の一本張りか、押し返し張りかの違いのみ)の7種がありますが、このスタジオのDR500は間違いなく最良にランクしていい優れたピアノだと思います。

とくに興味があるのは同じボディと響板を使うカワイのRX-6、ディアパソンのDR211とこのDR500はどのように違ってくるかの比較ですが、そんな機会はまずないでしょう。
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意外に慎重派

「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」、第二週は日本人の登場で、河村尚子さんでした。

この人は最近売り出し中のようで、雑誌やCDなどでもしばしばその顔写真を見かけます。
ドイツ仕込みということだそうで、留学経験やミュンヘン・コンクールに入賞するなどの経歴もあり、いわゆるドイツものが得意ということのようです。

オーケストラはマレク・ヤノフスキ指揮のベルリン放送交響楽団で、曲はベートーヴェンの皇帝。
以前も感じたことでしたが、この人のステージ上の所作はあまりマロニエ君は好みません。
どことなく大ぶりな動作や、あたりを睨め回すような表情の連発で、それを裏付けるだけの音楽が聞こえてくるならまだしも、そのいかにも「オンガクしてる」的な動きばかりが目につきますね。

それに対して、演奏はさほど大きさがありません。ときに繊細な情感があって美しいところもあるけれど、基本的には皇帝のような堂々たる曲を、えらく用心深く弾いてしまったのは、その視覚的イメージとはかけ離れた、普通の慎重型のピアニストのひとりに過ぎないと思いました。
見た感じは押し出しのある、アクの強い表情などもするから、相応の迫力でもありそうなものでしたが、出てくる音楽はえらく控え目な、常に抑制された演奏を最後まで通しました。

そのためか、第2楽章などはまるでモーツァルトのように聞こえる場面もあったりで、よほどこの人は安全第一の慎重派らしいということがわかりました。
演奏のクオリティを上げるのは結構ですが、そのための慎重さのほうが前面に出て音楽の醍醐味みたいなものが損なわれるようでは、本末転倒だと思います。本人にしてみれば「音楽を優先した、コントロールの行き届いた演奏」だというのかもしれませんが。

こういう曲の佳境に入ったところに、あえて繊細な表現をしてみせたり、フォルテッシモが交錯するようなところでも、期待に反するような抑えた弾き方をするのは、聴く者をただ欲求不満にするだけだと思いますし、要するに奏者の自信のなさと指が破綻しないための方便のようにしか見えません。

それと気になったのは、この人はよほどリズム感がないのか、大事なピアノの入りのところで何度もタイミングが一瞬遅れるのが目立ったことです。一番多かったのは第3楽章で、あれではオーケストラも丁々発止で乗れないでしょうね。

この曲は、もちろん音楽的に深いものは必要ですが、同時にある程度勢いで前進しなくちゃいけないところもあるわけで、そういう肝心の箇所にさしかかったときにツボを外されたら聴く側の高揚感もコケてしまいます。
オーケストラも開放的な流れを堰き止められて、弱いピアノに合わせながら演奏しているようなところがあったのは、せっかくこれだけの一流オーケストラなのに残念でした。

こういうことを言っちゃ叱られるかもしれませんが、そもそも皇帝みたいな曲は基本的に器の大きな男性ピアニストがオケと互角のやり取りをしないと形にならないところがあるように思います。
逆にシューマンのコンチェルトなどは男が弾くとどうにもサマにならない感じもします。

もちろん例外はあるのであって、リパッティ/カラヤンのシューマンなどは永遠の名演ですけれども。
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シゲルカワイの疑問

評判が高く、マロニエ君自身も一定の好感をもっていたシゲルカワイ(SKシリーズ)ですが、その印象もだんだん怪しくなってきました。このところ続けて聴いたコンサートやCDからの印象です。

ショールームなどで弾いてみると普通のRXシリーズよりもピアノとしてひとまわり懐が深く、音も太めの渋い音がするし、タッチにもある一定のしっとり感のようなものがあって、さすがにSKシリーズは格が違うらしいと思わせられるものがあるものです。
実はどこか、なにかが引っかかっているのに、それが何であるかまでは明確にわからずにいたわけです。
というのも弾き心地はいいし、RXシリーズより明らかな厚み深みがあるものだから、その長所ばかり気をとられてしまうのでしょう。

一番問題を感じるのは要するに音色の問題です。
ピアノの音は自分で弾いてみないとわからない部分があると同時に、自分で弾いているとわからない性質の要素もあって、人の演奏に耳を傾けることによってはじめて見えてくるものというものがあることは、そういう経験をお持ちの方ならすぐにわかっていただけると思います。

そして、SKシリーズの一番の弱点はこの「人に聴かせる」という部分じゃないかと思います。

ただ単に聴く側にまわると、意外に音色が雑で、あまり芸術的とは言い難い。
ピアノの音にもいろんな種類や傾向があって、現在の主流はやはり明るくブリリアントな方向でしょうが、それでもないし、ではドイツピアノのような渋くて重厚な音という方向もありますが、どうもそういうものでもない。
フランス的な柔らかな響きなどはいよいよもって違います。

ひと言でいうと基本となる音色に色艶がなく、音自体も暗めであるにもかかわらず、今風な華やかさやパワーもありますよという建前を感じるわけで、作り手の思想に一貫したものが感じられません。
ピアノが生来持って生まれたものとは逆の性格付けをしようとしているところに大きな矛盾があるようで、これがこのピアノの最大の問題ではないでしょうか?

コンサートグランドにしても、マロニエ君としては従来のEXのほうがスケールは小さくても音楽的には好ましいということを折に触れて書いてきましたが、やはりその印象は今も変わりません。

小さいサイズのピアノでも、SKシリーズはいかにも高級シリーズという風格は備えていますし、音も堂々としているかに聞こえますが、本当に美しい音楽的な調べを奏でるのは、もしかしたらレギュラーモデルのほうでは?という気がしてきました。

マロニエ君の友人知人もカワイのレギュラーシリーズのユーザーが数名いますが、それぞれに本当に美しい「カワイはいいなぁ」と思わせる音色をもっています。

ところがSKとなると、そういうカワイの独特の美しさとは違った、色艶のない、野太くて荒っぽい響きになっていると感じるのです。これは最高峰のSK-EXでも、それ以外のモデルも同様の印象で、その点じゃシリーズとして一貫しているかもしれませんね。目先の効果としては太くていかにも響板が鳴っているような音はでているけれども、要するにそこから先の奥の世界がない。

本当に優秀なピアノは間近で聴いていると大してきれいには聞こえなくても、少し距離をおくと音が美しい方向に収束されて時に感動さえするものですが、SKシリーズは距離をおくと逆に音色がばらけてしまって、音楽に収拾がつかなくなる。

これは、もしかしたら本来そこまでの能力を想定していない設計のピアノを、無理にグレードアップしたためにどこかで破綻が起きているような印象でもあります。
まるでピアノ工房の職人が作った、チューンナップピアノ的な傾向にあるのではないかと思います。

ピアニストによるSKシリーズ使用のコンサートはパッと思い出すだけでも4~5回は聴いていて、サイズも様々ですが、すべてに共通しているのは音に密度感がなく、暗い感じの音を遮二無二鳴らしているだけという印象でした。
けっきょくカワイの最良の選択は、レギュラーシリーズを家庭などで使うというスタイルなのかもしれません。
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秋の不気味

今年もすっかり肌寒さを感じる季節になり、少なくともあの暑苦しい夏とはきれいにおさらばした観がありますが、まだまだ庭には雑草が性懲りもなく生えてくるのはなんなのかと思います。

それもこの時期には似つかわしくない、いかにも若々しい新緑のような色をした雑草が、今ごろ思い出したように着実に生え続けています。
そのうちまた除草剤を撒けばいいやぐらいに思って油断していると、さすがに夏場の勢いはないものの、日に日に確実に伸びてくるのがわかり、だんだんこちらも焦ってきます。

それと、驚くのはもう11月となりこれほど気温は下がっているのに、庭に出るとまだ蚊がぶんぶんとまとわりついて、いまさら季節はずれにパチンパチンとやらなくてはいけないのは嫌になります。

思い起こせば「放射能の影響で蚊が激減している…」なんて話も耳にした今年の夏でしたし、雀の声がさっぱり聞こえないのはどうしたわけか、…なにかの悪い予兆では?などという話もまことしやかに囁かれたものですが、少なくともマロニエ君の生活圏ではまったく逆の状態が続いています。

雀も街路樹などにはたくさんいて、夕刻などはその鳴き声がいささかうるさいぐらいです。

雑草退治は、友人に手伝ってもらって除草剤散布を決行したところ、裏のマンションとの境目に不気味な空白地帯があるのですが、友人はついでだからといってそこにも除草剤を撒きに潜入していきました。
マロニエ君などは薄気味悪くてとてもそこまでする気はありませんでした。

しばらくして戻ってきた友人の体をみてびっくり仰天!
なんなのか種類は知りませんが草木の種みたいなものをセーターやズボンにびっしりとくっつけて戻ってきたのです。
見たとたん、その気持ち悪さに血の気が引きました。
ブツブツ恐怖症と同様のグロテスク感があって、思わず鳥肌がたちましたね。

すぐにそれを取り払ってやろうとしますが、ひとつひとつが目には見えない小さなトゲみたいなものでくっついているようで、指先で少々払ったぐらいではまったくひとつも外れません。
結局時間をかけてひとつづつ取っていくしかありませんでした。

種類もいくつかあって、2センチほどのか細い枝みたいなものがハリネズミのように無数にセーターに突き刺さっているようなものから、もっと小さくて虫のようなものが機関銃で撃ったように連続してびっしりとくっついていたりしていて、突然、気分はホラー映画状態になりました。
気持ちの悪いことこの上ない中、全部取るのはかなりの時間を要しましたが、いやはやあれはすごいもんですね。

なんというか…神経に訴えてくるような生理的嫌悪感がありました。
もともとマロニエ君は軽度のブツブツ恐怖症でもあるので、その面が大いに刺激を受けたようです。
思い出すだけでもゾクゾクと身震いしながらキーボードを打っています。

植物は人の生活には欠くべからざるものですが、野生の分野では、一転して不気味な面もいろいろともっていることも確かなようです。
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華麗なるピアニスト?

先週からBSプレミアムで「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」というのをやっています。

この秋に招聘された5人のピアニストによるコンチェルトが紹介されるようで、第一週はボリス・ベレゾフスキーとシプリアン・カツァリスが放映され、その録画を見てみました。

ベレゾフスキーはリストの第1協奏曲を弾きましたが、率直に言ってなんとも粗っぽいだけの演奏で、以前ラ・フォル・ジュルネでショパンの第1協奏曲を弾くのを見て、その大味さにがっかりした記憶が蘇りました。
あのロシアの大男の体格がなにもピアノの音の表現力の幅や豊かさとして役立っておらず、とても一流とはいいかねる雑なだけの演奏でした。これはベレゾフスキー自身の気質からくるものとしか思えないほど、音楽の大事なところをバンバン外れて通過してしまっている、いいところが少しも感じられない演奏でしたね。
そのくせパワーだけは出そうと、第4楽章などは汗みずくになって力演していましたが、この人の魅力がなへんにあるのか、ついにはわからないまま終わりました。
むしろ良かったのはアンコールで弾いたチャイコフスキーの四季から10月で、さすがにロシアの小品などを弾かせると、動物的に大暴れできるところもなく、その静やかなロシア的な旋律がそこはかとない哀愁を帯びて、このときばかりはチャイコフスキーの音楽が聞こえてきたようでした。

カツァリスはモーツァルトの21番の協奏曲ですが、これがまたなんの感銘も得られない表面的なチャラチャラした演奏で、この日はほとほと不満が続きました。この人はもともとマロニエ君にはかなり苦手なピアニストなのですが、やはり指先だけの技術を見せよう見せようと、終始そればかりに腐心しているようで、音楽の内容という面ではまったくの空白という印象でした。
この頃になると、もうすっかり疲れてしまって、最後まで見通すこともできませんでした。
カツァリスはもともと大道芸人のようなピアニストで、マロニエ君は彼を一度も芸術家とは思ったことはありませんが、その彼も寄る年波か、そのサーカス的な指芸にも翳りが見えてきたようでした。
唯一、彼の存在理由を挙げるとしたら、彼はなかなかのピアノマニアらしく、いろいろなピアノを使ってCDなどを作ってくれている点です。ただし、その演奏がこの人自身なので興味も半減ですが。

なつかしかったのはモーツァルトでは御大ネヴィル・マリナーの指揮だったことですが、彼が振ると普段は愛想のないN響でもマリナーのあの馴染みやすい甘い音色になり、流麗で華やかな流れに乗ったモーツァルトが流れ出すのはさすがでした。ちなみに映画『アマデウス』で使われた演奏の指揮をしたのもこのマリナーですが、この巨匠もずいぶんお年を召したようでした。

ピアニストに話を戻すと、こんな二人を呼ぶぐらいなら、日本にはどれだけ素晴らしいピアニストがいることかと思われて、その中途半端に派手さを狙った企画そのものが残念です。おそらくは真の音楽的な価値よりも、海外の有名どころの顔と名前をズラリと並べるほうがウケるということなのかもしれませんが、もうそろそろ日本人も「舶来上等」の思い込みを捨てたらどうかと思います。
それには聴衆も知名度だけに頼らず、輸入物の粗悪品では満足しないという成熟が必要ですが。

現に工業製品などでは、いまや日本製であることが内外でも特別な価値であることが認識されつつあるのですから、外国人をむやみに有り難がらずに、良い音楽を求めるという方向に向いて欲しいものだと思います。
とりわけ日本は上記の二人のような演奏が通用する音楽市場ではあってほしくないと思いました。

ちなみにカツァリスはヤマハのCFXを弾きましたが、モーツァルトのような小ぶりな曲を弾くには、なかなか繊細で品位のある音色で鳴るピアノでした。
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正式購入へ

〜昨日の続き。
この方はずいぶんあちこち日本全国のピアノ店を見て回られたようなのですが、いろんな意味でこれだという決定打になるピアノがなく、そのうちのごく僅かはマロニエ君も同行させていただいたところもありましたが、ピアノ選びは楽しくもあり、同時になかなか難しいものだと思います。

これが日本製の比較的新しいピアノとかであればそのようなことも少ないと思われますが、古い輸入物のピアノとなると、これはもしかしたら危ないもののほうが数が多いと思っておいてもいいくらいで、その中から首尾良く上物を選び出すということは、専門の技術者であってもそう簡単ではないかもしれません。
ましてや我々のような素人がアタリを引き当てるのは相当な難事業だといえるでしょう。

ただ、何事もそうですが、はじめは明確な判断力が持てないかもしれませんが、やはり数をこなしていくうちにだんだんと良否の選別ができるようになっていくものですから、時間さえかけて気長に取り組めば不可能なことではないと思いますね。

しかしスタインウェイなどの中古ともなると、言葉では「数を見ることが大事」などといっても、実際はそう簡単じゃありません。そのへんの中古車店を見て回るのとは訳が違って、至近距離には該当するモノがないのですから、一台二台見るために、とてつもない距離を移動することになりますし、出張のついでにめぼしいピアノ店行かれたり、新幹線や車を使っての長距離遠征もだいぶ敢行されたようでした。

それだけの経験と数を経てこの一台に到達したわけですから、その甲斐もあって、とても良く鳴る健康的で元気のいいピアノです。
しかもこれは、本などにも記されるヴィンテージ・スタインウェイと呼ぶべき戦前のモデルで、人間なら立派に老境に入っているところですが、さすがはスタインウェイというべきか、内外ともにドイツの職人によってまことに美しく、輝くばかりに仕上げられており、古さなどはまったく感じさせません。

さらに驚くべきは、小さいサイズのグランドであるにもかかわらず、出てくる音にも元気と力強さがあって、太くて美しい音が楽々と出てくるのはなにより瞠目させられる点でした。
あまりにも音の勢いが良いので、試しに大屋根を閉めてみたところ、それでも大差というほどの差はなく、さらには上のフタを全部閉めてみたのですが、それでもひるむことなく相当の音量で朗々と鳴りきっているのには呆れました。

ここでしみじみと思ったことは、状態の良い良く鳴るピアノはフタを開けても閉めても、要するに元気良く鳴るものだということで、音に不満がある場合にフタを開けたり閉めたり、あれこれ工夫の必要があるなどは、そもそも基本的な鳴りにどこか問題があるに違いないと思います。
鳴るものはどうやったって鳴るという至極当然の事がわかりました。

ひと月ほど前に戦前のドイツピアノによるコンサートを聴きましたが、そちらも一流メーカーのピアノではありましたが、低音域などは完全に音が死んでいて、ただゴンとかガンとかいうだけでひどくガッカリした印象が強かっただけに、今回のスタインウェイにはまったく驚かされました。
実年齢とは違って、人間でいうと働き盛りの30~40代という感じで、もちろんこちらは完全なオーバーホールがされているということはありますが、それ以上に根本的な品質と設計の違いを痛感させられました。

それにしても、部屋にグランドピアノが鎮座する光景というのは実によいもので、まるきり家の雰囲気がかわったようでした。まさに主役の到来という感じです。
これまで使われたアップライトと向かい合わせに置かれていますが、これからは練習にも身が入ることでしょう。

最後になりましたが、搬入から数日後、正式購入ということになり、晴れてこの家のピアノとなったのでした。
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仮の嫁入り

つい先日、知人の自宅に美しいピアノが搬入されました。
マロニエ君も当日はご招待に与り、午後からお邪魔して、少々弾かせていただきました。

このピアノは、その知人が数年間をかけて、実に30台近くを見て回って、吟味に吟味を重ねたあげくに運び込まれたスタインウェイです。

ここでいう「運び込む」というのは、いわゆる購入によるそれではなく、店頭で聴く響きが果たして自宅へ場所を変えた際にどうなるのかという点を迷っていたところ、店側の責任者の英断によって、それだったら自宅に運び込んでみましょうか?ということとなり、そこで双方の合意が得られたというものでした。

ですから、これは自宅部屋での響きを確認するという目的のための運搬と設置であって、まだ購入を決定したわけではありませんから、ピアノは届いても、まだ店の商品ということになります。

もちろん、それで納得すれば購入するという、大前提が付くのはいうまでもありませんが、こういう方法は客側からはなかなか言い出せるものではないものの、幸いにして店側がそこまで譲歩してきたために思いがけなく実現したものでした。

店側にしても、そういう思い切った手段に出た方が話が早いという目論見があった可能性は十二分にあり、営業サイドとしては、十中八九話は決まったも同然の、事実上はほとんど片道キップで送り出したピアノだっただろうと思われます。
まあそれだけ店側にも自信があったという解釈もできますし、そうすることがギリギリのところまで来ている購入者の決断の、背中をもうひと押しすことにもなると踏んだに違いありません。

正直いって、マロニエ君もそのピアノの音色や鳴りが優れていることは感じていましたし、しかもその良さはピアノ本体がもっているものであって、決して店頭の音響的な条件とか助けによって達成されていることではないことはほとんどわかっていました。
さらには、知人宅のピアノを置く予定の環境も知っていましたから、このピアノがそこへ持っていったとたんに大きく音色や響きが変わるなんてことはないことも容易に想像がつきました。
ただ、決して安い買い物ではないし、当人としては念には念を入れたいと考えることは大いに理解できます。

ときどき耳にする話ですが、ショールームで弾いてみて気に入って購入したピアノだったにもかかわらず、いざ自宅へ届けられて部屋に置いてみると、まったくその良さが損なわれてしまってガッカリという話もありますし、場所が変わってフタを閉めたらタッチまで別のピアノのようになってしまったなんていう笑うに笑えない話もたしかにあるので、できることならこういう順序で購入できるものなら、あとから失望するなんてことはないわけで、多少の手間暇はかかりますが、これはこれでひとつの賢いやり方だと思いました。

別の店で見たピアノでは、店頭での調整とか設置環境によって響きが違うということで、遠方まで数回足を運んだという経緯もありましたが、今回しみじみ思ったことですが、良いもの/それほどでもないものは、あれこれと分析したり理由付けなどしなくても、だいたい初めの5分で決するものですし、もっというならものの10秒ぐらいで勝負はついてしまうように思います。これはピアノに限りませんが。
ピンと来ないものは、やはり何かがあるのであって潔く止めたほうが賢明で、時間をかけたからといって良し悪しの判断が覆ることはまずないし、そのあとにやっていることは、専ら言い訳さがしにすぎないのです。

その点で、このピアノは初っぱなから好印象がずっと崩れずに続いていました。
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電話中の車

世の中には、どんなに厳しく言われてもなくならないことは沢山ありますが、最近の交通関係でいうと、飲酒運転と運転中の携帯電話の使用ではないかと思います。

まあ、飲酒運転に関しては限りなく犯罪と同等の行為ですから論外としても、携帯でしゃべりながら運転している人って、どうしていまだにこんなに多いのかと思います。

かくいうマロニエ君とて身に覚えはありますし、事実むかしはときどきやっていましたが、そのときの自分の経験で言っても、あれは確かにどうしようもなく注意が散漫になり、運転が疎かになるのは事実です。
さすがにその害悪を自分で感じてたことと、さらにはこの行為は検挙の対象ともなり、それできっぱりしなくなりました。

運転中の通話など、いったん決心さえすればなんてことなく止められることなのに、その数があまりに多いのと、中には走りながらメールを打っている強者までいるのには呆れます。

最近では車の動きや雰囲気でだんだんそれだと見分けるのが上手くなり、見るなりピンと来るまでになりました。
警察官がよく「鼻が利く」などと言いますが、それはよくわかるような気がしていて、マロニエ君もちょっと鼻が利くようになってきたということかもしれません。
いわゆる、ポイントはちょっとした気配が問題なのであって、ある表現で言うなら、車の動きに腰がないわけです。
膝を曲げてふわふわ歩く人のように、車の姿勢にどうしようもなく安定感と意志がない。

酒酔いではないから、さすがにフラフラと蛇行まではしていませんが、車の動きが消極的で、周囲の交通状況に対して非協調的、なんというか空気が読めない人と同じくその流れの中でポッと浮いているわけです。

それはただ普通に交通の流れに沿って走っているだけでもわかるのですから、やはりちょっとしたことというのは思った以上に外目に出るのだなあと思います。
ピアノリサイタルなどに行っても、この人は今本気で弾いていないとか、聴衆をナメているとか、主催者から乞われて不本意にこの曲を弾いているな、というような心のありようが当人の予想以上にバレてしまっているのと同じですね。

意味もないほど車間距離をあけたり、右左折が無意味なほどゆっくりだったりするのはだいたい携帯を使っており、どれもに共通するのはドライバーが運転は二の次で、別のことに心を奪われているというのが、見事にその動きに出てしまうものです。

こうして考えていくと、自然な車の動きというのは、要するに小さな反応の連鎖だと思います。
まるで自分の意志がないかのような動きをするのは、その小さな動きに出るようで、それがひとつではわからなくても2つ3つと重なっていくうちに、これはおかしいと周りに察知されてしまうのだと思います。

マロニエ君みたいな素人でも最近ではかなり的中率は高いので、プロの警官なら朝飯前でしょう。
以前は、警察密着型のようなテレビ番組で、歓楽街でパトロール中、ふっと視界に入っただけであの車は怪しいなどとベテラン捜査官の勘が働くというのを聞いて、はじめはたいそう感心していましたが、携帯使用中の車がわかるようになってからというもの、そりゃあプロが本気で毎日やっていれば、犯罪の臭いを嗅ぎ分けるべく直感が磨かれていくのは当然だろうと思います。

逆にいえば、それをごまかすことのほうがよほど高等技術で、そんな技巧を磨くより、運転中電話なんぞしないほうがどれだけ安易で楽なことかと思います。
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山本貴志と関本昌平

共に2005年のショパンコンクールで4位に入賞した二人の日本人、すなわち山本貴志と関本昌平のCDを立て続けに聴いてみました。

もとは山本貴志のコンクールライブをCD店のワゴンセールで買い求めたことがきっかけで、ついで関本昌平のデビューCDを聴き、さらに同氏のコンクールライブを購入、最後に山本貴志のノクターン集と都合4枚を聴いたわけです。

コンクールの結果が共に4位であったことが示す通り、いずれも実力は拮抗しており甲乙付けがたい素晴らしいピアニストだという点では大いに納得しました。
コンクールで日本製ピアノを使っている点でも、二人は共通しているようです。
強いていうなら山本貴志が詩的で高い完成度を目指しているのに対して、関本昌平はよりパワフルで燃焼感のある演奏というふうに区別できるような気がします。

山本貴志は大きな冒険心や霊感の発露がないかわりに、きめの細かい隅々まで神経の行き届いた均整の取れた演奏をコンクールでも披露して、その端正でデリケートな美しさがワルシャワの地でも多くの支持を得たようです。
どちらかというとブレハッチ型の演奏ですが、その繊細を極めた心情には日本人ならではのクオリティと美意識が伺えて、ブレハッチよりもさらに上を行くほど姿の整ったショパン演奏を実現した弾き手だと思われます。
対する関本昌平には演奏に力感が漲り、ショパンの音楽が崩壊しない範囲においてピアニズムを輝かせながらガッチリとした重力と推進力があるのがなんともいえぬ魅力で、非常に聴きごたえがある。

関本昌平のデビューCDは日付を見ていると、なんとショパンコンクールの直前に栗東のホールで収録されており、これはコンクールを控えてよほど弾き込んでいたのか、ともかく傑出した演奏だと思いました。曲目もコンクールライブとほぼ重複したものですが、セッション録音だけにより自分の魅力を十全に発揮しているといえますし、ピアノも録音も非常に満足の高いものでした。
コンクールライブでは一発勝負ならではの緊張感や粗さ、わずかなミスなどもありますが、基本は似た感じの演奏でした。

一番の違いはピアノで、セッション録音ではヤマハのCFIIIS、コンクールではカワイのSK-EXを弾いていますが、この両者に関する限りではCFIIISのほうがはるかにピントが合っていて。モダンで華もあり、ショパンにはマッチしていると思いました。

反対に山本貴志はコンクールでもCFIIISを弾いていますが、これはこれで非常に彼の演奏に適した賢い選択だったと思いました。これがスタインウェイでもカワイでも、彼の明晰でセンシティブな演奏の魅力は表現できなかったかもしれません。

どれもが素晴らしいCDで大いに満足していたのですが、最後に聴いた山本貴志のノクターン集は昨年夏、山形テルサで3日間を費やして収録されたもののようですが、その録音が芳しくない点は落胆させられました。
全体的に何かが詰まったようなモコモコした音で、これでは演奏の良し悪しもピアノの音色もなにもあったものではありません。
まるで分厚いカーテンの向こうで演奏しているみたいで、なんの迫りも広がりもない音になっているのは、いかにも演奏者が気の毒だと思いました。

全体として、ショパンとしての完成度ということでいうと山本貴志なのかもしれませんが、あくまで僅差であって、ショパンらしさを狙うのであれば、もう少し湧き出るような詩情の表現があったらと思われますし、聴き手も息の詰まるような完成度より、即興的な優美を期待しているのではないでしょうか。
その点では関本昌平は、質の高い演奏の中にもピアニスティックな逞しさがあるぶん、聴きごたえという点ではこちらのほうが大いに溜飲の下がる思いがして、現段階ではマロニエ君は関本氏に軍配を上げようと思います。

日本人の課題は、許される範囲内で、奏者の感興による微妙な崩しや、聴く者の心を動かす歌が入ることが必要じゃないかという点のように思うのです。
現状ではこの2人に限りませんが、あまりにも固い枠に囚われている印象です。
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発言の自由度

昔の文章に触れるということは、別に文学書でなくても、今の価値観で読むといろいろとおもしろいことがあるものです。
どこが面白いのかというと、今どきのようにやみくもに気を遣って差し障りのない安全なことだけを並べ立てるというウソっぽさがなく、発言そのものがもっと自由で、率直な考えとか物事の事情などがごく普通に述べられている点で、これひとつとっても時代を感じさせられます。

例えば25年前の雑誌「ショパン」を見ると、ピティナの創設者の方の談話が載っていて、そこにはピティナ=社団法人全日本ピアノ指導者協会がどのようにして創設されたのか、どういう事情があって今日のような組織が作られたかという経緯が述べられていました。

もともとはピアノ曲やピアノ学習者のための教材が、すべて海外からの輸入物によって占められていて日本人の手で書かれたものがないという点に疑問を感じ、日本の作曲家の作品を広く知らしめたいという思いが湧き上がったところへ同志が集まり、「東京音楽研究会」という邦人作品の研究団体としてスタートしたのだそうです。
その活動の一環として公開レッスンが始まり、さらにピアノゼミナールや演奏法や指導法の研究会がひらかれ、その研究会へ地方からわざわざ出てくる会員のために、今度は全国に研修の場として支部の枝が広がり、そのときに付けられた名前が「全日本ピアノ指導者協会」なのだそうです。

そんな中、ある時ショッキングな出来事があったというのです。
毎回研究会に参加される地方の先生の自宅へ、この方が招かれたときのこと。
そのお宅には素晴らしい設備が整い、グランドピアノが2台デンとあり、音楽書は本棚にぎっしり、レコードも大変な数があったといいます。

そこで、その先生の生徒さんがブルグミュラーの練習曲全25曲を暗譜で弾いてくれたらしいのですが、ミスリーディングの多さと奏法の未熟なことにショックを受け、毎回研究会に出席しているというだけでこの方は立派な先生だと感じていた自分がハッとした(つまり立派な先生じゃなかった)、ということが歯に衣きせぬ調子で堂々と書いてあるのです。

さらには、その生徒の演奏を見て、それまで自分が一生懸命続けてきた各種の公開セミナーはちっとも役に立っていなかったということを思い知ったともはっきり断じているのです。

こういうことは、今であれば、たとえ事実であっても個人を中傷するだのなんだのという理由から、絶対に書かれないことでしょうし、仮に書いたとしても編集部がマズイと判断して大幅な手直しに介入することでしょう。
果たして、誰から文句のでない、読んでも甚だ面白味のない、パンチに欠ける文章でしかなくなりますし、当然ながらナマな真実性もありません。
何事も昔は率直で迫力があったんだなあと思います。

先の話を続けると、それがきっかけとなって、「同じ課題曲を、同じ位の子どもたちによってコンクールを開催することが、最も先生の実力向上につながる」という結論に達して、はじめはオーディションという名前で始まって、それが発展してあのお馴染みのピティナのピアノコンペティションに成長していくのだそうです。

意外だったのは、このコンクール、もともとは生徒を指導する「先生の実力向上が目的」だったということで、今も基本理念はそうなのかもしれませんが、マロニエ君はピティナとは名前を聞くだけで、自分自身は一切関わりを持ったことがなかったので、このような経緯ははじめて知りました。

つまりピティナのコンクールは、「生徒が先生の代理で戦っている」ということになるのかもしれませんね。
まあそうだとしても、結果としてそれで生徒が立派に育つのであれば何をか言わんやですが。
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懐かしい雰囲気

クシシュトフ・ヤブウォンスキのピアノリサイタルに行きました。

今回はちょっと珍しいコンサートで、会場が通常のコンサートホールではなく、カワイ楽器の太宰府ショップ内で開かれた百数十人規模のコンサートでした。
いつもならグランドピアノが所狭しと並んでいる店舗内は、ものの見事にピアノが片づけられて椅子が整然と並び、正面のカーテンの前にはこの店のシゲルカワイ(SK-6)だけが置かれています。

ヤブウォンスキはポーランド出身のピアニストで、1985年のショパンコンクールで第3位になった実力派で、こういう世界的なピアニストが通常のコンサートホールではなく、このような形でのコンサートをおこなうというのが非常に珍しく感じられて、チケットを購入したのでした。

ちなみに1985年のショパンコンクールといえば、あのブーニンが優勝し、2位がフランスのマルク・ラフォレ、4位が日本の小山実稚恵、5位がフランスのジャン=マルク・ルイサダという、全員が今も現役で活躍している実力者を数多く輩出した年でした。

開演前にお手洗いに行って廊下に出たとき、ドアの真向かいにある控え室(たぶん事務所)の扉が開いていて、そこにヤブウォンスキ氏が立っていて、ある女性の挨拶をにこやかに受けているところでした。
テレビやCDのジャケットで見覚えのあるその顔は、いかにも優しげな笑顔に溢れており、しかもおそろしく長身なのに驚きました。

プログラムはオールショパンで、そのパワフルなポーランドのピアニズムには久々に舌を巻きました。
演奏時間もたっぷりで、19時の開演、アンコールまで終わった時にはほとんど21時半でした。
音楽的にはいささか野暮ったいところがあり、いかにもかつての東側の演奏そのもので、現代的な洗練はありませんし、同意しかねる点も多々ありましたけれども、なにしろ、その圧倒的な迫力と技巧はそれを身近に触れられただけでも充分に行った甲斐があったというものです。

最近のピアニストがいかにも効率的な訓練によって、器用にまとまった演奏ばかりを繰り広げる中で、こういうちょっと昔流の訓練と修行を経た、器の大きい演奏家に接したのは実に久しぶりという気がして、音楽そのものを聴いてどうというよりも、なんとなくその醸し出す雰囲気がひどくなつかしいもののように思えました。

とりわけ強く激しいパッセージやオクターブの連打などは重戦車のようで、しばしば風圧を感じるほど。あきらかに素人のそれとは大きく隔たりのある、いかにもプロらしいプロの技を堪能することが出来ました。
とにかく、まったくなんの心配もなしに聴けるという、大船に乗っているような安心感だけでも、やはりこういう人こそが人前で演奏すべきピアニストと呼べるのではないかと思いました。
昔はコンサートといえば、だいたいこのような格付けの実力者だけがステージに立っていたわけで、好みは別にしても、その大きさから来る聴きごたえとか充実感がありましたが、最近は玉石混淆で見た目から演奏まで素人の延長線上にあるような演奏家が多いことは、それだけでもコンサートというものの意義や感銘を薄くしていると思いました。

ただしヤブウォンスキのショパンは当然ながらポーランドのベタなショパンであり、ある見方をすればこれぞ本物のショパンということになるのかもしれませんが、マロニエ君は残念ながら全く好みではありません。
先述したように、ショパンといえばまっ先にイメージする洗練されたピアノの美の結晶、気品と情熱とデリカシーが共存した他を寄せ付けない世界とはとは無縁の、泥臭い麦わらの香りのするようなショパンで、いわゆるフランス的なショパンとは対極にあるものでしょう。

ステファンスカ、エキエル、ハラシェヴィッチ、ツィメルマンなどに通じるあの雰囲気であり、そう考えるとブレハッチなどはポーランドとはいっても、若いだけずいぶん今風に磨かれているということに気付かされます。

ヤブウォンスキのスタミナあふれる大排気量のエンジンが回っているようなピアノを聴いていると、ショパンよりはベートーヴェンなどのほうがよほど聴いてみたい気がしました。

ピアノに関しては、感じる点は多々あれども、もう今回は止めておきます。
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暴走老人

このところ新聞紙上や書店などでよく目にする言葉に「暴走老人」というのがあります。

もともとは本の題名にこういう言葉があったようですが、はじめはなんのことだかわかりませんでした。
きっと今どきの高齢者の実像を社会現象として捉えて、おもしろおかしく書いたものだろうぐらいには思っていましたが、その後もこの言葉は消え去ることがなく、テレビでも聞くし、さらには先ごろの新聞ではこれが「増殖中」などという文字まで見るに至りました。

しだいにマロニエ君もなんとなく心当たりも出来てきて、最近では高齢者の方の行動であまり感心できないことをいくつか目にするなどしていたので、どうもたまたまの現象ではないらしいという気もしはじめて、だとすると非常に由々しきことだと思います。
若者の行動や態度がよくないのももちろん困りますが、さらに人生の先輩としてその規範となっていただくべき高齢者の方が社会人として破綻してきているというのであれば、なお一層深刻なものを感じます。

先日も知人とこの話が出たのですが、最近ではある部分においては若い人のほうがよほどマシで、高齢者の暴挙には驚かされる事が多いと言い出したのですが、たしかにそれはあるのです。

家人などもいつもぼやいていますが、例えばデパ地下などでの列の割り込みや商品の取扱いなど、高齢者には目に余る所作が目につくと言いますし、先日などもある店で、一人で買い物に来ていたおばあさんがいきなり列の間に割って入りましたが、当人はすましたものです。
と、途中で忘れ物があったらしく、一度列を離れたのですが、再び戻ってくるとまた同じことを繰り返して、中学生ぐらいの女の子の前にグッと割り込みました。その女の子は驚いた様子でたいそう不満げでしたが、結局なにも言わずそのままになりました。

マロニエ君自身も、過日ピアノクラブの懇親会の席でファミレスで歓談していたところ、一瞬ですがつい大きな笑い声を立てたところ(もちろんそれがいいとは言いませんが)、通路を挟んだむこうの壁際の席にいるやはり高齢の女性からいきなりヒステリックな調子で、突如噛みつくように文句を言われ、そのあまりの激しさにびっくりしました。
まあ、我々にしてみれば、その老女の発したキレ気味の奇声が店内に響き渡ったことのほうがよほど周囲にも迷惑だと思いましたが。

また別の日にも、知り合いと数人でいたところ、まるで理の通らない、ほとんど言いがかりとしか思えないような文句を言われたこともあり、みなさんよほどイライラしているのかと思いますが、それにしてもちょっと異様な気がします。
言っていることもいかにも身勝手で、話の筋道がまるきり立っていませんが、ご当人はなにしろ真剣だし、相手がお年寄りなのでみんなガマンでした。

さらにネットのニュースなどでも、このところ高齢者の話題はしばしば目につく問題で、その猛烈なパワーには驚くばかり。
70代の高齢者同士が殴り合いをして片方が重傷を負ったとか、80代の男性が運転免許の更新の事で警察官からあることを指摘されて激昂し、警察官の腕に噛みついてケガを負わせて逮捕されたとか、もはやこれ、明らかに歪んだ社会現象だと思われます。

現代のような社会に生きていれば、もちろん高齢者にも多くのストレスがかかっているのだろうとは思いますし、とりわけ感じるのは孤独からくる終わりのない圧迫ではないかと思います。
人生の晩年は本来なら穏やかに楽しく過ごしたいところでしょうが、逆に若い頃よりも生活環境が苛酷になるというのはそれひとつでも自然の流れに逆行することで、イライラも募るのでしょう。

共通しているのは独善的でひがみっぽく、ひどく差し迫った感じでかなり攻撃的だということです。
やはり優れた政治家が現れて、一日も早くこの荒れ果てた社会の建て直をしてほしいものです。
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ヤマハとリスト

ナポリ出身のピアニスト、マリアンジェラ・ヴァカテッロによるリストの超絶技巧練習曲のCDを聴きましたが、残念なるかな、とくにこれといった印象を受けるものではありませんでした。

若い女性のピアニストで、指はよく動きますが、この難曲集を弾いて人に聴かせるにじゅぶんな分厚い表現性とか力量みたいなものには乏しいというのが率直なところでした。曲そのものがもつスケール感や壮麗さが明確にできておらず、ただ技術的にこの作品を勉強してレパートリーになったという感じが拭えません。
本来この12曲はリストの中では無駄が無く表情が多彩、非常に充実した緊張感の高い作品群だと思いますが、悲しいかなどれも演奏が痩せていて、本来の量感に達していないと思いました。

もうひとつ興味深かったことは、このCDは昨年イタリアで収録されていますが、ピアノはヤマハのCFIIISが使用されています。
まあ、音もそれなりで目立った欠点というのはないものの、このCFIIISまでのヤマハは響きのスケール感という点においては、楽器としての器の限界がわかりやすいイメージでした。
いま、フランスをはじめとするヨーロッパではヤマハが多く使われる傾向にあるのは、何度か書いた通りですが、そこで使われるヤマハの特徴のひとつに現代的でオールマイティな音色と均一性と軽さがあります。ただそれが重量級の作品にはあまり向きません。

車の省エネ小型化じゃありませんが、録音技術の発達で音はクリアで克明にとれるから、ピアノ全体のパワーは小さめでも構わないといわんばかりの印象。

リストの作品は、ものによるとも思いますので一概には言えませんが、超絶技巧練習曲は詩的な面もじゅうぶんあるものの、全体としては張りの強いドラマティックな要素も濃厚に圧縮された、かなり精力的な作品だなので、この作品に聴くヤマハの音には、なんとなく中肉中背というか、ただお行儀よくまとまったピアノだという印象が拭えませんでした。
ピアノのパワーがもたらすところの迫りが稀薄で、人を揺さぶるような圧倒的な力がない。

ヤマハがいいのは、ロマン派ではシューマンやショパンまでで、リストになるとヴィルトゥオージティの発露を楽器が懐深く逞しく表現しなくてはなりません。ところが響きの中の骨格に弱さを感じるわけです。
まるで往年の名女優が演じた当たり役を、現代の可愛いけれども線の細い女優さんの主演でリメイクしたようで、まあそれの良し悪しはあるとしても、所詮は軽さばかりが目立ち、黙っていても備わっていた肉厚な重量感・存在感が不足してしまうようなものでしょうか。

そういう意味では、リストはそれ以前の作曲家と違うのは、先端のピアノの性能を縦横無尽にぎりぎりまで使いこなして作曲をしていたのだということが察せられることです。
このところ、日本製のピアノによるピアニストの演奏をあれこれと聴いてみて感じたことは、ヤマハにはもうひとまわりの逞しさと音響的な深みを、カワイには知的洗練を期待したいと思いました。

それでもなんでも、日本のピアノが海外で人気が高いのは、やはりその抜群の信頼性と最高レベルの製造クオリティによる安心感、それに価格がそこそことなれば、総合評価とコストパフォーマンスで選ばれているということのようです。

基本的に西洋人は、どうかすると芸術文化の地平を切り開くようなとてつもないことをやってみせる反面、バッサリと割り切ったようなものの考え方をする場合も少なくないようで、そういう際の合理主義とドライな部分は、我々にはとても及ばない苛烈さがあるようです。
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強気の商売

店名はむろん書けませんが、マロニエ君の自宅からさほど遠くないところに、いつだったか、ある和風スイーツとでもいうべき店が新規開店していました。

甘いものもが好きなもので、あるとき前を通りかかったついでに何か買って帰ろうと思い立ち、偵察がてら店に入ったところ、商品を見るなり、そのあまりの強気な価格には驚きました。
絶対額こそ大したものではありませんが、たかだか○○○○のくせになにを勘違いしているの?と思われて、すっかり買う気が失せました。
自分で言うのもなんですが、こういうときのマロニエ君は遠慮はしない性格なので、一気にアホらしくなって何も買わずに店を後にして、いらい二度と入ったことはありません。
くだらん!という気分でした。

その後、知人や家人の友人など、様々な人の口からこの店のことを聞き及ぶに至りましたが、いずれもその勘違い価格に呆れているような話ばかりでしたが、中にはいったん入店した上は、買わないのも気が引けて一度だけしぶしぶ買って帰ったという人もいましたが、こうもみんながみんな同じ意見ではこの先やっていけるのかと思っていました。

なんでも地元の店ではないのだそうで、他県の老舗とやらが福岡に進出してきた店なのだそうですが、そのいかにも今どきの大衆の高級志向につけ込んだようなスタンスは、そういうものを有り難がらない気質のある福岡ではそう長続きはすまいと思っていたのですが、予想に反してそれからもしばらくはそこで踏ん張っていたようでした。

ところが、昨日その店の前をなにげなく車で通って異変に気付きました。
その店や看板はすべてなくなっていて、すでに別の店舗が営業をしていて、やっぱりなぁという感じでした。

こうなるについては相当赤字が続いたはずで、きっと経営者は苦しかったでしょうが、でもしかし、あれじゃ当然だろうと思ったのも正直なところです。
「高級」を打ち立てるのは容易いことではありませんし、中にはどうして?と思うような店が成功している例もなくはありませんが、やはり著しくピントのはずれているものはお客さんの支持が得られることはなく、やがて淘汰されていくのはやむを得ないと思います。

この廃業した店のすぐ近くには、これまたたいそう強気の商売をしているレストランもありますが、ここも聞くところによるといつまでもつかという意見もあって、内容的にもかなり驚くような話をたくさん聞きました。
マロニエ君は本能的に自分とは合わないと察知していたので、幸いまだここに行ったことはありませんが、それはそれはいろんな話題に事欠かないようです。それでもこういう店を有り難がって行く人がいるうちはいいのかもしれませんが、こんな世相の中、さてこの先どうなるのかという感じです。

行くとお客の方が店側から露骨に品定めされているのがわかるのだそうで、バブルの時代じゃあるまいし、もう少し普通にできないものかと思います。
ちなみに置いてあるピアノも世界のブランドのそれだそうで、はああという感じですね。

「普通に」などというと、何が普通なの?普通ってなに?だれが決めるの?というような問い返しをムキになってしてくる人がいますが、普通とは、その概念の説明をわざわざしなくても済むような尋常な平衡感覚をもった人の、地に足のついた自然な気分のことだろうと思います。
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世襲

たまにNHKのBSで昔の日本映画なんかをやっていて、それが思いがけなく視界に入ることがありますが、昔の名優というのは、やはりなかなか観賞に値する美しく立派なルックスをもっていたものだと思います。

そして、現代のこの業界には、いかに多くの二世三世が先代の名声を足がかりにして、それだけのものも持ち合わせないまま不適合に生きているかと思わずにはいられません。
俳優の世界も、演技という技巧の分野でいうならある種の芸の継承というのもなくはないだろうと思いますが、美人や二枚目ともなると、いかにその二世だなどと言ってみても、その面立ちに似たところはあるとはいえ、しょせんは別物なのであって、到底その親になんぞかないっこありません。

兄弟姉妹でもそうですが、顔かたちなんか似ているとはいってもちょっとした目鼻の配置ひとつで美醜様々に分かれてしまいます。
大スターだったその親たちは、自分がたまたま天から授かったフェイスや雰囲気を元手に世間に認められたわけで、それがそのまま子供に受け継がれるはずはないのであって、だから今の芸能人や俳優の美貌は、昔に較べるとずっとレベルダウンしていると思います。

さらにスター俳優になるには、目鼻立ちの美しさだけではダメで、最も大切なスター性を備えていなくては芯にはなれません。ちなみに芯とは中心のことで、つまり「主役をはれる存在」という意味です。

いま、現役でそれなりに活躍している二世俳優のお父さんお母さんの現役時代を見ると、その子供らとは次元の違う輝きをもっているのが大半ですし、現役の二世世代の連中で、親の存在なしに単独で同じ地位を獲得できた人が果たして何人いるかといえば、実際はおそらく惨憺たる結果になるはずです。

その点では、むかしの方が芸能界もよほど正当な実力主義で、真に力のある者がなるべくしてスターになっていたと思われますし、それだけに大物が多かったのだろうとも思います。そういう意味では、今のほうがよほどどこぞの国よろしく人脈やコネが横行する業界という気がしなくもありません。

よほど桁違いの秀でたルックスでももっていれば別でしょうけど、大半は多くの芸能人の二世連中がその票田を引き継いでいるがごとくなのはかなり違和感を覚えるところです。政治家の世襲問題が折に触れ取り沙汰されますが、むろんそれに異論はありませんが、マロニエ君にいわせると芸能界の世襲というのも、なんとも気分のしらける夢なき格下の世界に落ちぶれたようで、とても納得はできません。
数にもよりけりですが、今はあまりにも数が多すぎで、よくもまあ懲りもせずに、誰も彼もが自分の子供を同業者(しかも親より必ず格落ちの)にしたがるもんだと思って呆れてしまいます。

その点では梨園(歌舞伎界)は世襲が前提ですから、顔の美醜にかかわらず、男子は親の名跡を受け継ぐわけですから、その点では特殊社会といえばそうなんですが、そんな場所でもときどき奇蹟がおこるらしく、たまには板東玉三郎のようなスーパー級の美形があらわれたりするのは不思議です。
そして、その奇行のほどは別としても、市川海老蔵のような立役の美形がこの現代に出現したことは、団十郎を思い起こせばこれまた奇蹟というわけで、数十年に一度はこういう異変が起こるのでしょうか。

こうしてみると世襲が難しいのは音楽の世界で、パッと見渡しても、親子二代で大物が続いた例は、エーリッヒとカルロスのクライバーぐらいしか思いつきませんし、ピアノではせいぜいルドルフとピーターのゼルキン親子ぐらいでしょうか。
名演奏家の子供というだけで、力もない音楽家が現れるのじゃたまりませんから、そう思うと音楽の世界はまだ実力が問われるという点でマシなほうかという気もします。
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