ホールの惨状

新聞によると、3.11の震災では各地のホールや劇場などにも様々な被害があったようです。
これはある程度予想はしていたものの、やはりそれは予想では終わることはない、まぎれもない「事実」のようです。

全国約1200の公立ホールで構成する「全国公立文化施設教会」が発表したデータによると、今回の震災で大小何らかの被害を受けた公立ホールは197にものぼり、そのうち「甚大な被害」を受けたホールは31ということで、中には建物ごと流されたものもあるということでした。
この数字には挙がらない公立以外のホール、プライヴェートホールなどを含めるとさらにその大変な数になるはずです。

また、建物に被害がなくても、震災以降は予算のめどが立たなくなるなどして再開の見込みが立てられないホールもあるということでした。ホールや劇場は使わなくても維持管理だけでもおそらくかなりの費用を必要とするため、このような問題が次々に発生しているものと思われます。

今ごろになって、「ははあ、そういうことだったのか」と納得がいったのは、例年ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの会場となっている東京国際フォーラム(大小7つのホールと会議室などを擁する)も余震による電気系統の不具合から貸し出しに著しい制限が発生し、昨年の来場者数約81万人から、今年は一気に15万人弱までに激減せざるを得ないほどの規模の縮小を強いられたというのです。
鳥栖や新潟のような、これまでこの音楽祭とは縁もゆかりもない地域で突如開催されることになった地方版開催の背景には、メイン会場である東京国際フォーラムでこのようなことが発生したという裏事情があったようです。

また、新聞にはその内部写真まで掲載されていて驚いたのが、川崎市最大の音楽拠点、ミューザ川崎シンフォニーホールでした。
東北ではないものの、やはり3月の地震で客席上の天井仕上げ材がすさまじく落下して、写真ではまるでホール全体が崩壊したかのような無惨な光景であったのには驚かされました。
さらに照明やパイプオルガンにも大きな損傷があるとかで、なんと、むこう2年間の閉館を決定したそうです。

当然ながら公演のキャンセルも相次ぎ、多くのホールが運営面でも大きな打撃を被ることは避けられず、さらにそのもうひとつの問題は、多くのホールが竣工したのが1995年前後が最も多いのだそうで、震災とは別問題に、それらが一斉に改修の時期を迎えているということも折悪しく重なっているようです。しかも費用は優十億から100億かかるとかで、まさに泣きっ面に蜂という状態のようです。
仮に無事改修などが終わったとしても、現在の社会状況から見て、以前のようにお客さんが来てくれるという見込みが立てられないようで、なにもかも震災以前と同じというわけにはいかないという深刻な問題を抱えているらしく、音楽ファンとしてもなんとも心が暗くなるような状況のようです。

福岡でもこの1年ほどは、なにやらすっかりコンサートの数が少なくなっていると感じていたところ、3月の震災を境に、さらにそれが激減しているのが目立つようになりました。
むろん福岡のホールは幸いにして今回の地震の被害はないわけですが、現在の社会の雰囲気がなかなかコンサートなどを盛んに行おうという流れではないようで、この状態はここ当分は解消されそうにもない感じです。

テレビニュースをみれば、あいもかわらず福島原発事故や被災者の深刻なニュースが冒頭から流されますが、これはもちろん大変な社会問題であることはよくよくわかるものの、すでに災害発生から100日以上が経過して、1日も休むことなく連日連夜、このような先の見えない暗い話題ばかりをトップニュースとして際限もなく流すばかりでは、世の中に与える精神面での過剰なストレスという、いわば第二の人災のような気がしてくるのです。

もちろん福島原発は収束を見ておらず、抱える課題も甚大ですが、もう充分に国中が喪に服したことでもあるし、そろそろ動きの取れるエリアでは、被災地の為にも前向きに腰を上げてもいい時期に来ているような気がしますが。
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食べるスピード

マロニエ君はダイエットなどということは、もともとあまり好きではありませんし、とりわけ女性が挑むダイエットにはどうしてそれ以上痩せなきゃいけないの?といいたくなるような、甚だ同意しかねるものがありますので、ダイエットそれ自体に大いなる疑問を持っている部分さえあります。

もともとマロニエ君の父方の家系は概ねスリム体型で、男性陣は細身なことを少し恥ずかしくさえ思っているフシがあったぐらいなので、これまであまり真剣にダイエットという事を我が身の課題として深く考えたことはありませんでした。

しかし、運動不足&飽食の報いというのは、スリム体型であっても確実にその魔の影が射してくるものらしく、このところこれはちょっと…と思われる現象がやはり起こり、ようやく危機感が募ってきました。

しかし、それでも本格的なダイエットなど頭っからする気はなく、まずは食事の量と、しばしば口に入れてしまう間食夜食の類を見直すことから着手することにしました。

マロニエ君はもともとそんなに大食いのほうではないのですが、食べることは大好きで、よく考えてみると日常的に間食をしたり、ちょっと残しても仕方がないというようなつまらない理由で、本来の自分の適量より多く食べてしまう事が折々にあることを反省しました。
さらに、知らず知らずのうちに食べる速度も若干ながら上がっているような気がします。

まずはここに着目、少なくとも食後にポンと腹を叩くような満腹はしないように心がけます。
これは、はじめこそちょっともの足りないような気がしますが、聞くところによると満腹中枢が働くのは食後15分ほどしてからだそうですから、ゆっくり食べれば食べるほど満腹感が増してきて、無理なく食べ過ぎないようにすることが可能だということがわかり、3日もするとこのリズムに慣れてしまいます。
これでも最終的にはじゅうぶん満腹感が得られるので、とくに努力らしい努力をしている実感もないまま、わずかながら食事量をカットすることができて、それだけの小さな結果がさっそく出てきました。

食べる速度が速いと、必然的に量もアップすることもあるみたいです。
それで思い出しますが、ときどき外食することがありますが、店によっては仕事帰りの男性などが来ていて、その食べっぷりの早さといったらもう神業のごとしで、見るたびに呆気にとられてしまいます。
大方のパターンは、こちらより後から来て、こちらより多く注文して、そしてこちらより遙かに早く食べ終わり、気がついたときにはもうその姿もありません。

数人できていても、けっこうワイワイしゃべったりしながらも、しっかり食べることには余念がなく、ガッツリと逞しく食べています。
そしてあっという間の完食で、それがとなりのテーブルだったりすると、ついそのパワーには圧倒されて、こっちの食べる気力まで奪い取られるようです。

短い休憩時間に社員食堂などで手早く食べざるを得ない環境にあると、自然にあんな芸当ができるようになるのかと思いますが…。

あのスピードじゃあ、そりゃあ食べる量も進むだろうと思いますし、場合によっては、さらに酒が入り、タバコが入り、日中は息つく暇もないほどの激務とくれば、そりゃあまあ病気のひとつもするだろうと思います。

おまけにTVによると、最近の日本人の人気の食べ物トップは、とにかく「揚げ物」なのだそうです。
嫌いではないけれども、とても毎日なんて食べられないマロニエ君などから見ると、ひええ…という感じです。
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がんばりたくない

昨日はピアノクラブの方が数名来宅されました。

というのも、かねてよりマロニエ君がまとめて注文していたダンプチェイサーを取りに来られるという目的があったのですが、せっかくなのでお上がりいただき、しばらくピアノを弾くなどして遊んでいただきました。

定例会や練習会とはまた雰囲気が違うのか、はじめは遠慮がちでしたが、しだいに空気もほぐれてか、少しずつ弾いていただけるようになりました。以前、思いがけず爆奏会みたいなことになったことがあり、この慎ましさはなんと麗しいことかと思いました。

自分のピアノというものは、自分が弾く時以外にその音を聴くチャンスはなかなかないもので、むかしはよくコンサート前に練習に来られる方などがあったのですが、ここ数年はあまりそれもなく、久々に自分のピアノの音を人様の演奏で聴かせていただくことも出来て、マロニエ君自身、大いに楽しめたところです。

雑談で驚いたのですが、関東のほうのあるピアノクラブでは、会の終了後に各人の演奏についての批判などがあり、それに依拠して指導の時間などまであるのだそうで、話から受けた印象では、互いに楽しむというよりは互いに学び合うという感覚のようでした。いってみれば「ピアノの勉強クラブ」というところでしょう。

なるほどピアノは本気で学ぼうとすればするだけ際限のない世界で、自分の演奏の向上のために同志が集って勉強するというのもひとつの在り方なんだろうとは思いますし、それを実践するとは、立派なことだと感心もしますが、しかし、マロニエ君だったらそんなこと、まっぴらゴメンだと思いました。

仲間が向上心を持って集い勉強し合うのは基本的には素晴らしいことに違いありませんが、マロニエ君などはなんのためにピアノクラブに参加しているかと自問すると、ピアノを通じて仲間との楽しい時間を持ち、それによって浮き世の雑事から解放されたいからなのであって、あらためてピアノを学ぶとなると、それはもう尋常なことでは成し遂げられないことだとそもそも思うわけです。

こういう考えは、何事にも真摯な向学心を持って取り組むやる気旺盛な人達から見れば、ただの怠け者の戯れ言のように思われるかもしれませんが、要は好きなピアノを通じて、楽しい時間を共有できる友人の輪が構築できることの方に意義を置いているわけですから、根本的に求めるものが違うようです。

それに、そんなことにでもなれば、結局行きつく先は、どうしても指のメカニックや譜読みの技術の優れていることなどが重要視され、ひいてはそれが会の秩序となるような気がします。ピアノを愛する者にとって、難曲をも弾きこなすことはもちろん素晴らしいことですが、しかし、それが人の序列の根拠のようになるとしたらまったくゴメンです。
ま、ひとくちに言えば、この歳でいまさらそんなにがんばりたくはありません!

我が家での話に戻りますと、ソロあり、連弾あり、2台ピアノありで、いつもとはまたいくぶん違ったかたちで遊ぶことができたように思います。
ピアノ遊びは思った以上に時間の経つのが早いもので、夕方まであっという間のことでした。

次はもう少し合わせものの練習でもしておきたいところですし、昨日は来られなかった方にもぜひお立ち寄りいただきたいと思います。
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ゾウゲ

人の好みは様々ですから、何をどう好もうともそれはまったく自由なのですが、傍目には首を傾げてしまうことがあるものです。

ネット上のある書き込みを見ていると、ピアノの購入予定者が象牙鍵盤であるか否かをかなり重要な要素としてこだわっているのを見かけました。
海外からの輸入の際の書類の申請などはわかるとしても、気に入ったピアノがあっても象牙鍵盤でない場合は、象牙への張替が出来るかどうかという点に関心があったり、新品でも何型以上は象牙&黒檀の鍵盤になるなど、その点ばかりに意識が集中している様子にはちょっと驚きました。

こういう人の発言を見ていると、象牙鍵盤とはどこがそんなにいいものかと考えさせられてしまいますが、おそらくは確たる根拠もないまま、高級感とか稀少性にひきつけられているような気もしないでもありません。
こういう人はもう頭からプラスチックはダメだと思いこんでいるんでしょうね。

もちろん、そこに価値をもつ人にとっては重要な問題なのかもしれませんが、ピアノはやはり楽器なわけですから、楽器としての性能が第一では?とも思います。
もちろん、一流品になれば、そこには工芸品的要素とか骨董的な価値、稀少性などが加わってくるのはわかりますが、鍵盤が象牙か否かということばかりに価値を置きすぎるのは、本来のピアノの評価としてはいささか偏りがあると言わざるを得ません。

マロニエ君は子供のころから20年以上、ヤマハの白鍵は象牙、黒鍵は黒檀のピアノを弾き続けてきましたが、それがそんなに重要なことだと思ったことはついにありませんでしたし、むしろ象牙・黒檀いずれも下手をするとかえって滑りやすいなどの欠点もあるわけで、一長一短という程度の印象しかありません。
また、場合によっては、激しく使い込まれた象牙は(品質にもよるのかもしれませんが)、まるでテフロンのフライパンみたいにツルツルになり、弾き辛いことといったらありません。あんな恐ろしいものは自分のピアノでは絶対に願い下げです。

たしかに象牙/黒檀の鍵盤にはプラスティックにはないあたたかな風合いや色合いがあるのはわかりますが、象牙ならなんでもいいというわけでもなく、とくに近ごろの象牙は品質がよろしくないようで、繊維が荒くて見た目にもとても下品で、あんなものでもいいんだったら、水牛の角でもなんでもいいのでは?と思います。

もしも、まかりまちがって日本製ピアノの上級機種にある象牙鍵盤仕様のピアノを新品で買うようなことがあれば、マロニエ君なら躊躇なく白鍵は良質のプラスチックにしてもらいます。

ところが巷の象牙鍵盤支持派の思い込みは、ほとんど信仰に近いものがあり、以前もやや年代物の有名ブランドピアノをお持ちの方がおっしゃるには、ご自分のピアノは鍵盤が象牙であることがまず第一のご自慢で、ゾウゲ、ゾウゲとそこに格別の価値とプライドを感じておられるようでした。
象牙鍵盤というだけで、まるでピアノそのものまで最高品質のものであるはずだ…というような、根拠のない一途な思い込みには驚くばかりです。

マロニエ君なら、鍵盤の材質などより別の部分によほど神経を尖らせますが、これもまた人それぞれだといえばそうなんでしょうね。
ある一箇所にとても強いこだわりを持ち、自分としてはそこが期待通りのものでなくてはどうにも満足できないという気持ちは理解できますから、それが象牙鍵盤だとしても、それはその人にとっては価値があるというのはわかります。

ただし、客観的な楽器の価値と個人的こだわりは一線を引くべきだと思います。
いずれにしても皆さんいろいろこだわりがあって満足を得るためには大変なようです。
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宅急便

つい昨日のこと、朝早くに宅急便(むかし飛脚マークの)がやってきたのですが、ちょうどタイミングが悪く、そのとき家人は着替えをしている最中だったようです。インターホンにはかろうじて出たものの、すぐに行くので2〜3分待って欲しいと告げたそうです。

すると相手は「それはできません」ときっぱりいうのだそうです。???
再度、急いで行くのでちょっとだけ待ってください、すぐに行くからと言っても、相手は頑として聞き入れず、他にも回るところがあるから待つことはできないとにべもなく断り、一方的に「ではまた午後にもう一度来ます」と言って去って行ってしまったそうです。

またまたマロニエ君はその場にはいなかったのですが、家人はたいへんな憤慨の様子で、だれでもそれぞれに生活をしているのだから、そんなに宅急便の都合の良いようにいつ何時でもスタンバイができているわけがないし、勝手にやってきておいて、たまたまこちらがパッと出られなかったからといって、静止を振り切ってまで立ち去ってしまうとは納得できないといいます。

たしかに宅急便の仕事も大変で、次から次に荷を届けなくてはいけない激務なので、一件に時間がかけられないことはじゅうぶんわかるのですが、これはいくらなんでも極端すぎるように感じました。
しかも午後にまた来ると言ったきりで、何時ごろという具体的なことも言わなかったそうですから、おそらく12~13時の間には来るものと思っていました。

ところが一向にその気配もなく、そうなるとこちらは時間のわからない相手を延々と待っていなくてはいけない状況になりました。

それにしても着替え中の相手の2~3分でさえ待てないほど自分の都合を優先するわりには、相手には午後とだけ言い置いて再訪する時間も告げていないとは、なんという身勝手かと思いました。
14時に近づき、これではうかうかインターホンの聞こえるエリアを離れることもできません。

とうとうマロニエ君が近くの近くの営業所に電話してこの事を伝えると、電話に出た相手はたいそう恐縮していて、厳重注意するとのこと。そして、すぐにドライバーに電話をして訪問時間を連絡させますということでいったん電話を切りました。

当然、電話がかかってくるのかと思っていると、よほど近くにいたのか、なんと、ものの1分ほどでピンポンが鳴り、さっきの男性がやってきたようです。
さすがに上から叱られたようで、平身低頭の態だった由で、なんでも1ポイント減点されたと言っていたそうです。

それでわかりましたが、今どきは宅急便の配達員も会社から個人別のポイントを加減をされ、それが勤務成績に繋がる時代のようです。
勤務成績がどうなのかは知りませんが、地元の電力会社に勤務する友人は、なんと、このタイミングで7月から東京転勤だそうで、東電の社員でもないのに、なんだか無性に気の毒になりました。
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ものすごいCD

かつて、ミヒャエル・ポンティというドイツ出身、アメリカで活躍した異色のスーパーピアニストがいて、昔から音楽ファンの間ではこのポンティの異色なレコードはちょっと知られた存在でした。
すでに70歳を過ぎて、現在は手の故障から現役を退いているようですが、彼のピアニストとしての絶頂期はおそらく1970年代だったと思われます。
そして、その間に膨大な量の、まさに偉業ともいうべき録音を残しています。

その内容というのが並のものではなく、大半が通常ほとんど演奏されることのない主にロマン派の隠れた名曲の数々で、子供のころからマロニエ君はどれほどこの人の演奏で初めて聞いた曲があったかしれません。

ポンティの優れている点は、埋もれた作品の発掘というものにありがちな、ただ音符を音にしただけの、とりあえず楽譜通りに弾いてみましたというたぐいの平面的な演奏ではなく、どれもが彼のずば抜けた感覚を通して表現された生きた音楽である点です。
まるで長年弾き慣れた曲のごとく、そこには生命力とメリハリがあり、その迷いのない表現力のお陰でどれもが名曲のような輝きと響きをもって我々の耳に聞こえてくるのがポンティのピアノです。

一説には100枚近い録音をしたと言われていますが、よほど卓抜した譜読みができるのか、解釈の参考にすべき他の演奏もないような曲へ次々と的確な解釈を与え、しかも持ち前の超絶技巧で一気呵成に弾きこなしてしまうのですから、いやはや世の中には恐るべき天才がいるものです。
中でもモシュコフスキのピアノ協奏曲などは、いまだにマロニエ君の愛聴盤のひとつです。

そんなポンティの幻のシリーズというのがあって、そのひとつがスクリャービンのピアノ作品全集なのですが、これは長年音楽ファンがその存在を囁き合い、復刻を求めていたもので、それをついに手に入れることに成功しました。
5枚組CDで、完全な全集ではなくソナタは別になっていますが、ほとんどのエチュード、プレリュード、マズルカ、即興曲、ポロネーズ、幻想曲ほか小品が収録されています。
ところで、これって何かににているでしょう?
そうです、スクリャービンはとくに初期にはショパン的な作品を数多く作曲していましたが、しかしショパンらしさというのは実はそれほどでもなく、初期の作品からすでにスクリャービン独特の暗く官能的な個性が全体に貫かれているのは、これまた天才ならではの個性の早熟さを感じさせられます。

驚くべきは、この曲集、ヴォックスという廉価レコードのレーベル(こういう会社でなくてはマイナーな曲ばかり発売なんてしないのでしょう)の制作経費節減のせいで、使われているピアノは、な、なんと、アップライトピアノ!なんです。
そのせいで音ははっきり言ってかなり貧弱かつ突き刺さるようで、表現力も品性もありません。ポンティの多様な演奏表現について行けずにピアノがキンキンと悲鳴をあげているようなところが随所にあり、音としてはかなり厳しいところのあるCDです。

しかしながら、演奏は実に見事な一流のそれで、聴いているうちに音楽に引き込まれてしまい、こんなものすごいピアノのハンディさえもつい忘れるほど聴き入ってしまうことしばしばですが、それにしても、こんな冗談みたいなことが現実におこなわれていたということ自体が信じられません。
いくら経費節減といったって、アメリカのような豊かな国(しかも現在より遙かに)の、しかもピアノ大国にもかかわらず、レコードのスタジオにグランドピアノ一台さえ準備できなかったなんて…ちょっと信じられませんね。

アップライトピアノ1台という劣悪な環境の中、ポンティは楽譜と毛布を渡されて缶詰状態となり、やむなく録音を続けたといわれています。
しかし、内容はそんなエピソードが信じられないほど本当に素晴らしいもので、ポンティの信じ難い才能が、このすべての悪条件を跳ね返しているようです。
アップライトピアノによる一流演奏家の全集なんて、探してあるものではないので、その点でも貴重なCDと言えそうです。
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やめられない人

マロニエ君のような飽きっぽい怠け者からみると、世の中には、別人種とでもいいたくなるような驚くばかりの強靱な意志力とか持続力を持つ人がいるものです。
そしてこういう人達には、相応の行動力も兼ね備わっているものです。

以前はただ単純にその意志力、行動力を不屈の精神のように感じて素直に敬服していましたが、これがよくよく見ていると、中にはどうも褒められたことばかりではなくて、そこには別の力が働いていることがわかります。

それは何かというと、人間のもつ欲望や劣等感がひきおこすところの執着心が発する怨念のような意志や行動であり、その思い込みや目的に囚われるあまり、逆に自由のない浅ましい人の姿であることがわかりました。
しかもそれが、一見そうとはわかりにくい、体裁のいい建前のベールを被っている場合のなんと多いことか!

「言うは易し、行うは難し」とか「継続は力」などといいますが、それは本当に有意義なこと、建設的なことを必要だと正しく認識し、真っ当な意志の力によってそれを達成している人をいうのであって、裏を返せば必要がなくなればいつでも中止する準備のある人のことだと思われます。

欲望を源泉としたところの努力は、努力は努力でも、動機がそれでは感心するには当たりませんし、その努力の姿に美しさがないものです。

結婚願望や病的に子供を欲しがる人、手段を選ばぬ出世欲や金銭欲、根底に流れるブランド指向など、己の欲望のために何がなんでも目的を手中に収めたいという露骨な思い込みは、さらなる欲望、際限のない欲望に転じ、端から見ていてあまり眺めのいい光景ではありません。

当人はずいぶん必死なようですが、要はただの卑俗な欲望の奴隷に身をやつしてということに、自分ではなかなか気がつかないようです。これが時として大変な努力家のように見えたり、どうかすると称賛の対象に間違えられる場合さえあります。
というのも、これらは正統な努力の姿とひじょうに姿形が似ている場合があり、そこに文句を言わせない建前をドンと立てておけば、とりあえず表向きの非難からは除外されるという性質を持っていますし、とりわけ建前に弱い現代では大手を振って横行しているようです。
そして、音楽の世界にもこの手合いが少なからず棲息しているのはいうまでもありません。

こういう大義や隠れ蓑を持った欲望・野望は、幼稚でわかりやすい欲望よりもはるかに悪質だと思うのです。
ワガママでも欲望でも、本人がそれを自覚し、人目にもすぐにそれとわかるものはまだ救いがあるものです。

マロニエ君ももちろん人並みに欲望はありますから、自分だけは別だというつもりはないのですが、やはりちょっと(というか到底)次元が違うと思うのです。

本当はもっと具体的なことを書きたいところですが、いろいろと障りもあるので具体例が引けず、もってまわったような表現ばかりになるのが残念です。

現在のやめられない人の最高峰は、もちろん我らが首相であることに異論はないでしょう。
この超人的な粘りは、まるで毎日がギネス記録のようです。
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個人情報

ようやく今日あたりになって、だいぶ声が戻ってきました。まだかなり制約があり、ちょっと続けて話すとすぐに咳き込んでしまいますが、ともかく必要最小限の会話ができるようになっただけでも助かります。

さて、つい先日、満杯になっている本棚を少し整理しようと、処分する雑誌などはないか見ていたところ、たまたま雑誌「ショパン」のずいぶん古いのがあって、何気なく見ていたのですが、サイズも現在のものよりひとまわり小さいし、カラーページなども少なく、現在のものよりも「読ませる」ものであったことがわかります。

とくに、出てくるピアニストもみんなまだ若くて、次々に有名どころが惜しげもなく登場しては特集だの対談などにどんどん精力的に出てくるのは、いかにも時代の違いを感じるとともに、発言内容も今に較べると自由でおおらかだった時代を感じさせるところです。
自分の好みや考えを堂々と述べていますが、いまならすべてカットされるでしょうし、そもそも言い出しもしないことでしょう。

表紙はアンネローゼ・シュミット、ニコラーエワがまだ生きていてインタビューに答えていたり、ポリーニがようやくシューマンの交響的練習曲をリリースして広告がでていたり、アトラスピアノが健在だったり、ギリシャ出身の天才少年スグロスの来日公演があったり、ダン・タイ・ソンがショパンの優勝からようやく二度目の来日決定というような時代です。

懐かしさとともにパラパラとページをめくっていると、今から思うととんでももないものが目に飛び込んで卒倒しそうになりました。
これこそ時代が変わったということをまざまざと見せつけられるもので、現在の社会規範からすればこれはほとんどポルノか犯罪にも匹敵するものでした。

それは「都道府県別 全国ピアニスト・ピアノ教育者名鑑」なるもので、延々23ページにわたる極小文字にて、全国の2000人近いピアニストと先生の名前(旧姓・本名なども付記されている!)、住所、電話番号、生年月日、出生地、最終学歴、勤務先などがすべて事細かに、包み隠さず掲載されているのには仰天しました。

もちろん中村紘子、園田高広、花房晴美などの有名どころも、考えられるすべてが見事に網羅されており、マロニエ君の直接の恩師も二人がちゃんと掲載されていました。
「時代が違う」とはまさにこのことで、一般人でも個人情報が厳しく制限されている現在からは、考えられない極秘情報が満載でした。移転さえしていなければ、すぐにも電話もできるし、カーナビ入力して自宅を尋ねることも可能なわけです。

こんなことが平然と許されていて、だれもが異常だとも何とも思わなかった時代がひどくなつかしく思われました。
ちなみにこれは昭和59年(1984年)の発行ですから、27年前の刊行物というわけです。

この27年という年月をどう見るかにもよりますが、やはりあまりにも急速な社会の変化が激しすぎたことは間違いないという気がしますし、それだけの変化に順応していくのはひとりの人間としてかなり厳しい事というのが正直なところです。
仮に100年かけて、これぐらい変化をしていくなら、まだいくらか人間が人間らしく、誇りと余裕を持って生きていくことができるだろうと思いますが、なにしろそのテンポが急激すぎるようです。
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不調と好調

ピアノクラブの懇親会の席上、急に声が出なくなって一日以上が経過しました。
数時間経てば治ることを期待したもののそれはなく、では、一晩寝れば治っていることを大いに念じて、朝、目が醒めたときにまっ先に声を出してみたものの、ほとんど回復の跡のないことにがっかりしました。

声が出ないというのは、やはり一大事で、もうそれだけですっかりエネルギーが奪い取られてたようで、日曜はなにもする気が起きませんでした。
ひたすら喉の回復を願いつつ安静にしていましたが、夜になってほんの少し良くなったような気がするものの、基本的に大差はありませんでした。
強いて言うなら95%ぐらい失われていた声が、90%ぐらいに戻った程度の回復です。

今度の土曜日、知人にパークゴルフとかいうものに誘っていただいたものの、まずは声を取り戻さないことには気分的にもなにもできそうにもありません。パークゴルフとはいかなるものかまったく知りませんが、なんでもパットゴルフともまたちがう遊びのようです。

声以外に不都合はないのでなんとか普通にしてはいるものの、いざ声を出す場面になるとパタッとそれができないのは、我ながらどうにも哀れな気分になり、意気消沈してしまいます。
いつもはかなりの効き目がある花梨の水飴も、今回ばかりは効果が薄く、どうもよほどひどい状況に陥ったのだろうと思われます。

昨日はピアノクラブの人がダンプチェイサーを取りに来られる予定でもあったのですが、折からの強い雨ということも重なって、とりあえず延期させていただくことになり、この点も迷惑をかけてしまいました。

さて、そのダンプチェイサーですが取り付けて3日目を迎えましたが、なるほど昨日のようなかなりの悪天候にもめげず、思いがけなくピアノが元気なことに少しばかり気付いて、急に嬉しくなりました。
別にものすごい大差というわけではないのですが、深い雨の日は、いくら除湿器をつけていてもどことなくピアノも沈んだ感じになるのは避けられませんでしたが、昨日の昼は思いがけずケロッとしている感じがして、やや!これはダンプチェイサーではなかろうかと目を見張ってしまいました。

少なくとも、音が雨天にもかかわらずくっきり晴れているのは、これまでになかったことで、これは明らかな違いといって差し支えないようです。…と、感じますと言ったほうが安全かもしれませんが。
ピアノクラブの人達にもお勧めした手前、効果がないと申し訳ないという気持ちがありましたが、これでひと安心です。

もちろん今後も経過は注意深く監視し続けるつもりです。
尤も、経過というなら当面はノドのほうが先ですが…。
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疲労困憊

昨日はピアノクラブの定例会でした。

このところ新しい方も増えて、以前に較べるとずいぶん大勢の集まりとなりました。
いっぺんにお顔と名前を覚えるのも大変なので、今回は名札を作って各々胸につけてもらうことになりましたが、やはり新しい方が急に増えると、なんとなくこれまでとはまた違った雰囲気になってきたようです。

定例会そのものは15時〜18時でしたが、終了後は徒歩で移動して博多駅エリア内のとある居酒屋での懇親会となりましたが、マロニエ君はここでとんだ状況に陥ってしまいました。
懸念された大雨にはならずに済んだものの、終始天候が悪くムシムシベタベタ、ヤマハの空調も劣悪で、それだけでも苦手だったのですが、懇親会の席についたころから喉の調子がおかしくなり、その症状はみるみる悪化していき、ものの30分ほどで、ほとんど声が出ないまでにかれてしまったのには参りました。

せっかくの懇親会で、新しい方ともいろいろな話ができるチャンスだったのですが、とうてい会話ができる状態ではなく、終わりまでほとんどを押し黙ったまま過ごすという、なんとも辛い状態になりました。
マロニエ君はもともと気管支が弱いのですが、いろんな悪条件が重なったのだろうと思います。

湿度もその一因です。
ふつう湿度といえば低いほうが喉には悪く、高い方がいいというのが一般常識だと思いますが、マロニエ君の場合は逆で、多湿な場合はかなりはっきり呼吸器にダメージが来てしまいます。
病院でそのことを言うと、多湿との因果関係はまず考えられないと医師に言われていますが、やはり本人が言うのだから間違いなく、それから数年経ちますがやはりそういう体質というのは変化がありません。

もう一つはストレスで、よせばいいのに苦手な居酒屋にいったばかりに、その猛烈なやかましさとアルコールの漂う空気の悪さにはどうしても馴染めず、このときばかりはファミレスが天国のように思えたものです。
やはりどんなに努力をしても無理なものは無理だということがわかりました。

さらに思い当たるのは、前夜、明日が定例会だというのにまったく練習もしないで、届いたばかりのダンプチェイサーの取り付けに夕方から没頭していたのですが、これがかなり響いたようです。
ピアノの下というのはどうしても掃除の状態がよくなく、目には見えないホコリなどもかなりあったのだろうと思います。ここで数時間、不自然な姿勢をしたまま必死になって、ああでもないこうでもないと格闘したために、相当無理をしたという自覚がハッキリありました。

ピアノ下は背骨を曲げないといられないところですし、そこで懐中電灯で照らしながら寝たり起きたり頭を打ったり、一度などは無理な姿勢の維持から体の左がひきつってしまい悶絶さえしてしまう有り様でしたが、マロニエ君も性格的にはじめた作業は終わるまで止められないのです。
ピアノの支柱の上面など、普段触れることもない場所には降り積もったホコリなどがあり、おそらく普段からは考えられない量のよろしくないものを吸い込んだと思われ、呼吸器の弱い自分としては自己管理という点で、甚だ不手際だったと反省しています。

我が家には2台ピアノがあり、サイズが大きいほうには二つ必要ということで、合計3台取り付けることになり、これを一気にやったものだから、結果的にそうとう無理をしてしまったようです。
しかもさっそくスイッチを入れたところ、ほどなくすると猛烈に気分が悪くなって体調が悪化し、おかげでろくに眠ることもできませんでした。

これ、たぶんハウスシック症候群みたいなもので、大型電気店にいくとわりにこれと同じような不快感に見舞われます。
友人の見解によると、電気製品に使われる科学的な素材や塗料や接着剤が、スイッチが入って加熱されることで、あたりにその害を撒き散らすとのことでした。ダンプチェイサーはそれ自体がヒーターなので発熱するのは当然というわけです。
この点は、一日経つとずいぶんマシになりましたので、この現象ははじめだけだろうと思われます。

それにしても、昨日眼鏡が合わない話を書いたばかりだというのに、マロニエ君的にはさらに苦手なことばかり折り重なってしまったトホホな一日でした。
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車とメガネ

車を12ヶ月点検に出したので、一晩代車に乗ることになりました。
代車で届けられたのはスズキのスプラッシュというコンパクトカーで、これはたしかハンガリーかどこかで生産されている車ですが、基本的にはよくできているものの、マロニエ君はあまり好きではありませんでした。

マロニエ君は実はオートバイ出身で、昔はかなりスポーツカーにも乗ったせいか、タコメーターがないというのはどうにも落ち着かないというか、それだけで車そのものまで信用できなくなります。

その点は割り切るとしても、いちばん辛いのは、スピードが出ると車全体がドラミングという風切り音の大親分みたいな音に包まれて、それが脳天に達するもので、まずこれですっかり疲れてしまいました。

このドラミングというのは経験的にワゴンやハッチバックタイプのボディ形状の車にしばしばあることで、かのメルセデス・ベンツでさえ、ワゴンタイプにこの現象がはっきり感じられる場合があります。
また、一般的なセダンでも後ろの窓だけを開けて走ったりすると、車内への風の巻き込み具合でやはりドラミングが起こり、バタバタとまさに怒濤のような音と圧迫感が脳天に押し寄せます。

窓を開けたときに出るドラミングならば窓を閉めれば済むことですが、ボディの構造自体から出てくる場合は解決のしようがないので、新しく車を買う場合などはこの点をよほどチェックしておかないと、これが嫌な人は乗るたびに不快感に襲われて、せっかく高いお金を出して買った車が台無しになるでしょう。

もうひとつ疲れた原因は、点検に出した車の中にうっかり運転時に使うメガネを入れっぱなしにしていたのですが、夜はメガネなしでは危なくて運転できないので、やむを得ず古いほうのメガネを使ったのはいいのですが、これが要するに、もう自分には合わなくなっていたようでした。

実はスーパーに買い物に行ったのですが、運転中はそうでもなかったのに、車を降りて店内を歩いていると「あれっ??」という感じで頭がフラフラしはじめて、直感的にメガネのせいだとわかったのですが、まあそのうち治るだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが一向に治る気配はなく、店を出るころには普通に歩くのさえ辛いほど気分が悪くなりました。
少しでも頭を動かすと目を中心として体がグラグラするようで、これはまずいと思いましたが出先ではどうすることもできません。

もう一ヶ所、どうしても寄らなくちゃいけないところがあって、メガネなしで運転しようかと試みましたが、やはり夜はそうもいきません。だいいち借り物の車で事故でも起こそうものなら大変ですから、やはりメガネをかけて慎重に走りました。

ようやく自宅に辿り着いたときには全身がぐったりと疲れてしまい、ひじょうに気分が悪かったのですが、ともかく無事に帰ってきたことを良しとしました。
古いメガネはスペアーぐらいのつもりで、二つ持っている認識でしたが、もはやこれは使えないということが身をもってわかったという次第でしたし、車もはやく自分の使い慣れた車が戻ってきてくるのが待ち遠しくなりました。

ほんのわずかなことが人に与える影響というのは想像以上に大きいもので、平穏というものは実に微妙なバランスの上に立っているということをしみじみ経験してしまったというわけです。
もちろん、世の中にはそんなこと全然なんともないタフな人もいらっしゃるでしょうけれども。
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椅子の高さ

ピアノ弾きにとって、椅子の高さは演奏の質(とりわけ音色の)に反比例するという事実があるように思います。

他日、ブレンデルの異様なまでの椅子の高さが好きではないと書きましたが、だいたい椅子の高い人は、たとえ高尚な音楽を作り出す巨匠にしても、少なくともピアノから艶やかな美音を鳴らす人はまずありません。

ヴィルトゥオーソの中で思い出されるのはピアノの巨人と謳われたリヒテルです。
彼もあのガッチリとした体躯からすれば、不当に高い椅子で演奏します。
よくピアノを弾いていた頃のアシュケナージも小柄ではあるけれど、それを考慮しても椅子はえらく高かったと思います。

椅子の高い人は、どうしても肘が高くなり上から叩きつけるタッチになり、さらには上半身の重心も加勢して、非常に鋭角的な音になってしまいます。
これに対して椅子の低い人は、手首が低く、深みのある肉付きのある音を鳴らします。
体重がかかるにしても腕や手首がサスペンションの役目をして、いったんそこに溜められたエネルギーが柔軟に適宜分散されて丁寧なタッチに繋がるので、とても深く鳴るのですが、椅子が高いと肩・腕・肘などは硬直したハンマーに近い働きをしているような気がします。

現代の若いピアニストは、だいたい整体学的に正しいフォームやタッチを前提に育ってきているので、極端に椅子が高いとか、音が汚いというようなことはあまりないのですが、同時に昔のピアニストが持っていたような生々しい情熱、音楽の迫真力、ここぞという時の炸裂するフォルテなどがほとんど見受けられなくなり、誰を見てもそこそこバランスが良い優等生にしか見えないのは大変つまらない、残念なことだと思います。

高い椅子の最右翼は中村紘子女史で、彼女はコンサートでもいわゆる黒い革張りのコンサートベンチは使わず、幼児から大人まで幅広く使われる、背もたれ付きのトムソン椅子で必ず演奏します。
紘子女史はこれを極限まで高く上げて、座るというよりは、ほとんどお尻は椅子の前端に引っかかっているだけという、まるでコントラバスの奏者顔負けの半分立っているような姿勢で弾いていますね。

紘子女史のような自意識の強い人が、見た目にも美しいコンサートベンチを敢えて使わないのは、コンサートベンチは基本的に大人のプロ用というか、少なくとも子供サイズを想定していないために高くするにも限界があり、したがってあのお稽古でよく見る椅子を使っているのだと思います。

彼女が「題名のない音楽会」で若い人にラフマニノフの第2コンチェルトをレッスンしたことがあったのですが、彼女のアドバイスによると、この曲をオーケストラと格闘して表現するには、もっと椅子を高くして、指を立てて上から弾かなくてはいけない、今のアナタの弾き方ではただお上手でございますわねオホホホホで終わってしまうわよ…などと、思いがけず彼女の本音らしきことが聞けて、おまけに実演までしてくれたのは思わず苦笑させられました。

逆にグールドも顔負けなほど椅子が低いのは、スティーヴン・コワセヴィッチで、あきらかに普通のコンサートベンチの足を切っている、もしくは特注で、おそらくは紘子女史の半分ぐらいの高さしかないようで、これはこれで奇妙です。
鍵盤の高さはすべて同じなのに、まさにスタイルはそれぞれというわけですね。
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驚きの保証

マロニエ君自身が、ピアノに負けず劣らず湿度に弱いことは事ある毎に書いている通りです。
先日も知人3人で出かけ、目的地に到着後は総勢5人となりましたが、車の中も行き先でも、とにかく湿度が高くて気分はヘロヘロになっているのに、他の人はケロリとしているのは自分がひどく特種な気がしてしまいました。

車の中でも、どうやらエアコンのスイッチの実権を握るオーナーの問題は温度だけらしく、この日はわりに涼しかったばっかりにエアコンもOFFになってしまい、人の車に乗せてもらってあれこれ注文も付けきれず、じっとガマンで疲れました。
マロニエ君はとにかく暑いのと湿度がダメで、多湿な状態は苦手で疲れるだけでなく、どうかすると呼吸まで苦しくなるという肉体的苦痛まで発生することもあるのです。

そんなマロニエ君ですから、我が家の、とりわけ自室のエアコンはいわば命綱ともいえるものです。

今年もすでにエアコンのスイッチを入れる時期になりましたが、肝心のエアコンがまったく効かないわけではないものの、いまひとつパッとしません。はじめの1〜2週間というもの、なんだかおかしいと思いつつ様子をみていましたが、ついにやはりこれは正常ではないということに結論づいて、2週間ほど前にメーカーに修理依頼の申し込みをしました。

実はこのエアコン、機械モノのアタリハズレでいうとハズレの部類で、これまでにも何度か修理に来てもらっています。
そのたびに安くもない修理代を請求されていて、信頼性抜群のはずの日本製品も、あんまり大したこと無いじゃん!という気がしています。

さて、出張修理の当日、もうあと15分ほどで約束の時間というときになって、昨年テレビを買い換えた折にヤマダ電気の安心保証というのに加入していたことをふっと思い出しました。
逆にいうと、その瞬間まではこんなものに入っていることは、まったく思いつきもしませんでした。

それというのも、このエアコンはヤマダ電気で買ったものではないので連想としても結びつかなかったわけですが、この保証システムは従来の常識を覆すもので、たとえ他店で買った電気製品であっても長期間にわたって保証を適用できるという信じられないものでした。ようやくこれに加入していたことを思い出しました。

あわててヤマダ電気に電話してみると、修理受付の専用電話を教えられ、そこにかけるとマロニエ君の登録データがあることから、今日の出張修理も急遽この安心保証の扱いにしてくれることになり、とりあえずひと安心。

果たして、件のエアコンはかなり深刻な故障の由で、どうやらコンプレッサーというエアコンの根幹部分で最も高価な部分がダメになりかけているようで、これを交換するには10万近くかかるので、買い換えたほうが良いという話でした。
すかさずこの保証のことを告げると、買い換えの話は修理へと急転回し、そのおかげで料金の心配をせずに修理できるようになりました。

この日だけでもセンサーだの基盤だのと、これまでなかったような結構な部品交換をしましたから、これだけでもかなりの金額になるはずですが、メーカーの人は何も請求することもなく、ただどこかと電話連絡するのみで、サッと帰っていきました。
追っつけコンプレッサーの部品手配もするとのことですから、こっちは嬉しい前に唖然呆然です。

こんな状況を保証なしに聞かされていたら、この大事な時期を前に真っ青になっているところでしたから、これはもういっぺんに元を取ったどころではない展開になりました。
そして今日、ついに注文されたコンプレッサーが届いたとのことで交換が行われ、開始から実に3時間半の大修理となりました。
今回の修理だけで9万3千円という請求額だそうですが、それがなんと1円も出さずにすみましたし、メーカーの人からもこの保証に入っておかれてよかったですねぇ、としみじみ言われてしまいましたが、まったくその通りでした。

さすがのマロニエ君も、今度なにか電気製品を買うときは、これは義理にもヤマダ電気で必ず買わなくちゃいけないと思うようになりました。
それにしても本当に驚きました。
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知人達との食事を兼ねて、初めて新しい博多駅で数時間を過ごしました。

今回は阪急百貨店には行きませんでしたので、おもに東急ハンズを含むアミュプラザ博多周辺の印象になりますが、やはり話題のわりにはマロニエ君の好みではありませんでした。
全体に感じたことですが東急ハンズなどは、いわゆる低価格競争ではない路線を行っているぞといわんばかりの感じですが、本当にいいものというわけでもないのに、ちょっと上であるかのようなイメージ戦略のようで、却って中途半端だと思いました。

上階で食事もしましたが、さらにこの傾向は強まり、まことに思い切りの悪い中流志向の雰囲気だと思います。
値段はそこそこで、うっかり入れないような価格の店が何軒もあるかと思うと、ずいぶんくだけたものもあり、ようするになんの道筋も通っていないバラバラな印象です。
全体の雰囲気も、今どきの新しめセンスでまとめられてはいるものの、じゃあ本当の高級な空間かといえばまったくそうではないし、ここのコンセプトに見え隠れするものは、やってくる田舎の人達を相手に、博多の新スポットという上から目線の雰囲気を浴びせかけながら、ちょっと高いものを売りつけてやろうという魂胆が感じられて、ちょっと賛成しかねるものがありました。

東急ハンズもそれほど熱心に見たわけではありませんが、基本は概ね大衆品なのに、一般的平均よりちょっとお高いほうぐらいのものを集めて、ただ明るくきれいにディスプレイされているだけで、いかにも表面的でほとんど興味をそそられませんでした。
あれなら潔くホームセンターに行ったほうがよっぽど爽快ですし、あんな中からちょこっと何か買っていい気分になっている人がいるとすれば、それがまさに店側が狙っている客層ということでしょう。

もちろん全部すべてを否定するものではありませんし、中にはそれなりのものもあるはずだとは思います。
しかし全体を覆っている、中核をなす精神は、まさに今述べたようなもので貫かれており、却ってどこか貧乏くさい気分になっていまいます。

こう言っちゃなんですが、もともとマロニエ君は駅というものが好きではありません。
これは交通拠点としての駅ではなく、そこに相乗りした商業エリアとしての意味です。

駅はそもそも人がゆっくり寛いだり遊びに行くような場所ではなく、列車やバスの乗り降りという人や物の移動のための交通施設であって、せわしない、強いて言うと柄の悪いところだというのがマロニエ君の基本認識です。
周辺には飲み屋などがひしめき、駅そのものも何かの雰囲気を楽しんだり文化の香りのするところではなく、所詮は日がな一日人が行き交い、その無数の人達の土足で情け容赦なく踏みつけられる機能重視の場所、それが駅だと思うのです。

駅というのがそもそもそんなところなので、そこにどんなに現代的な、オシャレな、きれいな商業エリアを作ってみたところで、悲しいかな根底にざらついたものを感じてしまいます。
騒々しく、人の波が交錯するような場所で、どんなに高級店に入って食事をしてみても、存在している場所そのものがすでに駅なんだし、お店も一稼ぎしたくて話題のエリアに出店しているまでで、所詮はまやかしだと思います。
すぐ傍では、ひっきりなしに列車が発着し、それをめがけてバスやタクシーが際限もなく往来する、家でいえば駅は書斎でも応接室でも座敷でもない、所詮は下駄箱のある玄関にすぎません。

どんなに粉飾しようとも、それが駅である以上、そんな土足で踏み荒らす実用第一の場所だという事実は拭い去ることはできません。

マロニエ君はむかし横浜に住んだこともありますが、当時の横浜も商業的中心と横浜駅は二つがひとつで、とても落ち着きのない文化性の低い、ガサガサした騒がしいだけの印象がありましたが、新しい博多駅に行くと、ついそういう記憶が蘇ってくるようでした。
交通手段として博多駅を利用する人は別ですが、遊びに行くのは…1~2回行けばじゅうぶんです。
どんなにきれいなものを上に作って覆い被せても、駅というものの根底に流れる、粗っぽく侘びしい空気は変えられない気がします。
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決断の勝利

海外からピアノを買った知人の部屋に、ピアノ拝見でお邪魔しました。

彼はこのピアノ購入を決断したために、連動してグランドピアノが置ける部屋探しまでする事になりました。
「グランド可」の物件は多くはなく、これだというものに出会うにはそれなりに時間がかかったようですが、ようやくにしてその条件を満たす物件が見つかり、まず先に人間が引っ越しをして、そこへ防音シートなど準備万端整えた後にピアノの搬入となったようです。

思ったよりも部屋数の多い広々とした住まいでしたが、その一室にスタインウェイのグランドがスラリとした足を垂直に伸ばして端然と置かれています。
このピアノは製造からわずか10年ほどしか経っていない上に、むこうではギャラリーのようなところに置かれていたらしく、あまり弾かれた様子もない感じでした。内外共に非常にきれいで若々しく、人間でいうならせいぜい小中学生ぐらいのピアノという印象です。
きちんと管理して、途中で大修理をおこなえば100年は楽にもつといわれるスタインウェイですから、まさに一生モノというわけです。
このピアノはニューヨーク製のスタインウェイですが、ドイツのスタインウェイにはないヘアーライン仕上げというラッカーの艶消し塗装の上に、細い擦り線が入るように半艶出し仕上げされたもので、これはこれでなかなかの風合いがありました。

折しもこの円高の時期とも重なり、彼はとても良い買い物ができたようです。
本来なら、ピアノはできるだけたくさん弾いて、自分の納得のいく一台を探して買うというのが、ピアノ購入の常識というか、いわば正攻法のやり方です。
しかし、関東圏や浜松周辺にでも住んでいればそれも可能でしょうが、それ以外のエリアに居住する者にしてみれば、それは現実的にたやすいことではありません。精力的に見て回る意気込みはあっても、尋ねるべき店のほうがそれほどないからです。

そうなると、イレギュラーな手段ではありますが、信頼できる技術者の導きによってひとっ飛びに海外からいいものを割安に輸入するというのも、いささか大胆かつリスキーではありますが、ひとつの方法だと言えそうです。
もちろん、これは誰にでもおすすめできる方法とは言いませんし、ある程度の決断力と度胸と、結果に対しても一定の覚悟を持てるような人でなくてはなりません。
あとは仲介者を信じて、届いたものに対しては寛大な気持ちでそれを受け容れ、技術者と共に楽器を育てていくぐらいの気構えがあれば大丈夫だと思いますが。

今回はマロニエ君の見るところでは大成功で、望外の価格(それでも大金ですが)で希望するピアノを手に入れることができて、いまや彼は電子ピアノとスタインウェイを使い分けながら、質の高いピアノライフを満喫しているようです。

もう一人は、マロニエ君は直接会ったことはありませんが、ネットで知り合った人で、フランスからプレイエルの修復済みのグランドを、これもまたある技術者を通じて、自分は現地に行かず情報だけで手に入れたようですが、結果的には思った以上の美しいピアノが届いて大変満足しているようでした。

というわけで、何度も言いますが、ピアノは本来は必ず自分で弾いてみて、タッチや音などをよく確認・納得して買うものですけれども、中にはこんな禁じ手のごとき思い切った方法も、あるにはある…ということです。

マロニエ君にいわせれば、いささか暴論かもしれませんけれども、はじめに確かな物さえ手に入れておけば、あとは信頼できる技術者の手に委ねれば、ピアノはだいたい満足のいくような状態になるものだと思います。
良いピアノほどいろんな可能性をもっているもので、それを自分に合ったものに仕上げていけばいいのですが、もちろんそれでもピアノがもって生まれた基本は変えられませんから、基本の部分が気に入らなければ打つ手はありませんが。

ただ、逆にいうと、あれこれこだわったつもりで、気に入ったピアノを納得して買った人(中にはわざわざ浜松まで選定に行ったなんて自慢する人もいますが)でも、購入後の管理ときたらかなり好い加減で、せいぜいたまに調律をするぐらいが関の山みたいなケースが多いのも事実で、こうなると、はじめの輝きは早々に失われてしまい、結局半分眠ったような平凡なピアノになってしまうだけです。

それにしてもピアノを買うというのは、今どき、そうはないようなロマンティックなことですね。
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トリフォノフ優勝

先月はルービンシュタイン・コンクールがイスラエルで行われて、すでに終了したようです。

優勝はロシアのダニール・トリフォノフ(昨年のショパンコンクールでは第3位)。
この人の演奏は、日本公演の様子などからマロニエ君はどうにも馴染めず、とくに演奏姿勢が背中を猫のように丸めたなんとも異様な感じで抵抗感を覚えましたが、ネットのある書き込みでは彼のことをヘンタイ、ヘンタイと連呼しているのが笑えました。
やはりみんな似たようなことを感じているもんだと思えて、とりあえず安心しました。
ピアニストにとって演奏する姿というのも、それなりに大事な要素だと思います。
一昨年のクライバーンコンクール、昨年のショパンコンクールでも話題となったボジャノフなども、その演奏の良否はさておいても、演奏時のあまりに特徴的なペルソナというか、要するに見た感じの誇大な顔の表情とか仕草があまりに強烈で、やはり人に与えるマイナスイメージは小さくはないと思われます。
もちろんピアニストの本分は優れた演奏ですから、別に外見をカッコつける必要はありませんが、やはりその姿が美しい方が好ましいし、最低でもその演奏に対するマイナス要因になるような弾き方は、できるだけないほうがいいと思います。

その点でいうと、マロニエ君はブレンデルなどもその音楽には一定の敬意を払いつつ、演奏する姿を見るのは大嫌いでした。
あれだけの長身にもかかわらず小柄な女性のように椅子を目一杯上げて、小刻みに頭をフリながらピアノを弾く姿はどうにも不快で、とくに床から頭までの尋常ではない長さと高さなどは視覚的ストレスを覚えてしまいます。

その点でグールドなどは正反対で、椅子の足をのこぎりで切るほど着座位置が低く、彼は終生自分専用の変テコな椅子を愛用しているのは有名でしたが、そのグールドの演奏の様子はとても変わってはいるけれども、どこにも神経に障るものは皆無でした。それどころか、ただただあの信じがたいような芸術的演奏の様子として感銘を受けるばかりで、そこには独特の美しさが宿っていたとマロニエ君は思います。

昔の飛行機のパイロット仲間で言われていたことだそうですが、見た目に美しい飛行機というのはだいたい操縦もしやすく、バランスも性能もいいのだそうで、やはりピアニストもどのような姿のものであれ、それが結局美しくサマになっている人は演奏も素晴らしいのだろうと思います。
そういえば、最近のピアニストはだれもみな指運動の平均点は高いようですが、その「美しさ」のある人というのがあまりいなくて、なにかしらのストレスを感じさせる人が多い(と感じる)のは大変残念なことです。

優勝したトリフォノフは昨年のショパンコンクールではファツィオリを弾いた数少ないピアニストの一人でしたが、今回のルービンシュタインコンクールで使われたピアノはスタインウェイとカワイの2社だったようで、彼は今回スタインウェイを弾いていました。
日本人の最高位は6位の福間洸太郎氏で、彼はカワイを弾いての入賞だったようです。
このコンクールでのカワイはSK-EXではなく、普通のEXであったことが意外ですが、その理由などはわかりません。
しかし、マロニエ君は自分の知る限りにおいては、普通のEXのほうに今のところは好感を持っています。

客席側に見えるサイドの「KAWAI」ロゴは、以前の大仰な飾り文字から通常の書体になっていますが、これはこれであまり色気がありませんでした。

6月はいよいよチャイコフスキーコンクールとなりますから、コンテスタントも忙しいですね。
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さすがは大国

昔ほどではないにせよ、さすがにアメリカは大国だなあと感嘆させられることはいろいろあるもので、ピアノを取り巻く環境もちろんその一つです。
そして、それを証明するかのように「PIANO BUYER」というピアノ専門の雑誌まであるのです。

日本でピアノ関連の雑誌といえば、ショパンやムジカノーヴァのような演奏家やコンサート、あるいはレッスン関連のものしかありませんが、この「PIANO BUYER」は楽器としてのピアノ雑誌で、いってみれば車の雑誌みたいなものです。

これ、以前からその存在は知っていたので見てみたいとは思いつつ、たかだか雑誌一冊を海外から個人輸入するのもどうかと思い、手を出せないでいたのですが、このところアマゾンでいくつか本を買ったのを機に、もしかしたらアマゾンで取り扱っていないものかと思って検索してみると、なんのことはない、この「PIANO BUYER」があっけなく出てきたので、さっそく購入してみました。

価格はほぼアメリカの定価ぐらいで、一週間ほどで届きました。

サイズは音楽の友あたりと同じで、300頁に迫るカラーの美しい雑誌は手にもズッシリくる立派なもので、なかなか見応えがあります。
SPRING 2011とあるので、どうやら季刊誌のようですが、こんなものが雑誌として成り立っていくということ自体、アメリカの豊かな社会の層の厚さを感じさせられる思いです。

とくに前半は美しい広告など写真も多く、それなりに楽しめるものでした。

また、おおよそはネットなどでわかっていたことですが、アメリカには実にたくさんのピアノ店があり、そのショップ関係の広告もたくさん出ています。
もちろん新品を中心に扱っているところもありますが、どうしても心惹かれるのはレストアから販売まで幅広く手がけている店です。その数もかなり多く、さらに驚くべきは、ホームページを見てみるとどの店も在庫数などが日本のピアノ店とは桁違いで、潜在的な市場規模がまるで違うことをまざまざと見せつけられるようです。
さらに日本と大きく異なるのが、グランドが圧倒的に主流という点でしょうか。

これはひとえにアメリカという消費社会の伝統と、これまたまるきりサイズの違うおおらかな住宅事情がその背景にあるものと思われます。
日本では自宅にグランドピアノを置くということは、部屋をひとつピアノで専有するぐらいの覚悟が要るものですが、アメリカの住宅では、広いリビングのようなところに、ピアノは適当にポンとおかれており、それでも四方に広大な空間が広がっているようで、何型なら入るの入らないのと必死になっているわれわれ日本人の標準が急に情けなくなってくるようです。

しかし、本来はこれぐらいのスペースであることがピアノを置く自然な環境なのだろうか…とも思わせられます。
同時に、なにかにつけ日本人のチマチマとした民族性のルーツは、もとを辿れば要するに窮屈極まる制約ずくめの住宅事情にあるのではないかとさえ思えてくるようです。

話が逸れましたが、「PIANO BUYER」を見るとアメリカにはヨーロッパからも実に様々なピアノが輸入されていることがわかり、その多様性にも目を見張らされるものがあります。
これを反映して、後半の1/3は各社のピアノの価格表になっており、それを見ているだけでも飽きませんが、どうやらディアパソンやプレイエルなどは正規のルートとしてはアメリカには輸入されていないようです。

今は日本の産業界にとって最大の悩みの種であるほどの円高ですから、航空券は安いし、アメリカに行って気に入ったピアノを買ってくる手間暇を惜しまない人なら、価値あるヴィンテージピアノなどが割安な価格で買えそうです。
ああ…死ぬまでに一度そんなことをやってみたいものです。
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まくら

マロニエ君にとって、どうしてもしっくりくるモノと巡り会えないものがあるのですが、それは枕です。

これまでに一体どれだけの数の枕を買ってみてはダメで、そのつど返品したり、そのままクッション代わりにしたりしたことか。いまでも物置には使わなかった新品の枕がいくつか転がっています。

現在使っているのは、とくにどうということもない物で、いつどこで買ったのかさえ思い出せないようなものですが、これが不思議に一番落ち着いていいのです。
しかし、なにぶんにも使用期間が長いので、そろそろ新しくしたいと思い始めて早、何年経つことやら。

つい先日もあるお店で、良さそうな枕があって、だいぶ時間をかけて眺めてはくどくどと触ってみたのですが、馬鹿みたいな話ですが、マロニエ君は枕を買うことが一種の恐怖症になってしまっていて、とうとう決断がつかずにこの時は買わずに帰りました。
しかし、やっぱりその枕のことが気になり、後日やはり買いに行きました。

そして、また同じことが始まりました。
家に持ち帰って、ビニールのケースに入ったまま、とりあえずベッドに置いてみるまでがドキドキです。

とりあえず横になった感じでは良さそうな気がしますが、結果はすぐには出ないのです。
5分、10分と時間が経つにしたがって、じりじりと真実が浮かび上がってきます。

その結果、少し固すぎることと、枕そのものが大きすぎることで、これもまたしっくりこないことがわかりました。
なぜかわかりませんが、売り場で手に取ってみるだけでは、これだけのこともわからないのです。
中は開けていませんので、やはりまた返品することに決定です。

こうなることは充分に予期しているので、レシートなどもむろんバッチリ取ってあるので、この点は問題なく返品できました。

マロニエ君にとって枕で大事なことのひとつは、高さと固さだと思います。
羽根枕のような腰のない柔らかさはダメで、だからといってそば枕のあの重くてジャリジャリした感じもイヤ。
もっとダメなのは最近流行の低反発素材を使ったもので、あのねちゃっとした頭や顔にまとわりつく感触はゾッとします。しかも熱がこもって暑いこと。

さらにここ数年出てきた、小さなパイプの破片のようなものを詰め込んだ枕も、その破片の感触が伝わって気に障って仕方ありません。

最近はオーダー枕とか専門店みたいなところがあるので、そこに行ってみようかとは前々から思っているのですが、なんだかそれもイマイチ信用できない気がすして行く勇気がありません。
中にはずいぶん高額なものもあるので、そのあたりになると物が違うのかもしれませんが、たかが枕(もはや「たかが」とは言えないのですが)に何万円も出すのもちょっと踏ん切りがつきません。

できたら1万円前後ぐらいでしっくりくるものが見つかればいいと思うこと自体が虫がいいのかと思ってしまいます…。
理想の枕を求める長い旅路は、まだまだ続きそうです。
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ダンプチェイサー2

技術者をして「ピアノを湿度から守る一大発明」といわしめるダンプチェイサーですが、先日、ある工房で実物の取付例を見てきました。

アップライトは以前書いたように下部のパネルを開けた位置に取り付けますが、グランドは支柱の下(犬でいうと前後の足の間のお腹の部分で、前足寄りのところ)に鍵盤と平行方向に取り付けるのが基本のようですが、この工房ではまたちょっと違った工夫がされていました。

ここにあるグランドはセミコンサイズなので奥行きがあり、響板が奥に長いため、出来るだけ全体に効果があるようにとダンプチェイサーは右前(高音側)から左奥(低音側)に伸びるよう、斜めに角度を付けて取り付けられていました。
さらにこの工房での工夫としては、本来よりもダンプチェイサー本体の位置を下に離して取り付けてあり、見たところでは支柱から約10センチぐらい下に平行にぶら下がるように設置されていました。

こうすることで、ダンプチェイサーの効果が少しでも響板全体に広がるようにとの配慮だそうです。

ダンプチェイサーの本体は、一見するとなんの変哲もないただの金属の棒で、長さは1メートル20〜50センチ、太さは人の指ぐらいしかない至ってシンプルな構造です。
片方から電源コードが伸びておりそれをコンセントに繋いでいるだけで、別に制御用のセンサーがあり、これが湿度を感知して自動的にスイッチが入ったり切れたりするというもののようです。

スイッチを入れて30分もした頃、ダンプチェイサーを恐る恐る触ってみると、心配するようなアッチッチというようなものじゃなく、ほんのりやわらかく暖まっているだけで、なるほどこれならばピアノへの悪影響はないだろうと推察できました。

ちなみにダンプチェイサーはアメリカ製で湿度が47%で制御されるのに対して、同様のシステムで日本製の商品にはドライエルというのがあるようです。こちらは設定が65%で、いずれも数値は固定で任意の設定はできないらしいので、どちらにするかは判断のしどころでしょう。

ネットに出ている装着図によると、グランドの場合は前後に2台取り付けるのが正式な装着方法のようですが、実際のところはどうなんでしょう。単純に1台より2台のほうが余裕があっていいだろうとは思いますが。
ちなみにグランド用は、後ろ側用として短めのものがあり、二つで1セットのようです。
短いほうは後ろ足の前ぐらいにとりつけるようですが、そこまでしないで前の一本で済ませる人も多いとか。

消費電力は長いほうが25Wで、ひと月フル稼働したとしても電気代は270円で、現実的には200円程度だそうですから、これは除湿器を回しっぱなしにするよりはるかに経済的でもあるようです。
ちなみに後ろ用は本体が短いためか15Wで、前後合わせて40Wとなりますが、それでも実質的な電気代は300円/月ほどだろうと想像されます。
ちなみに一般的な除湿器をフル稼働させていると、電気代は3000〜5000円かかるというのですから、ワンシーズンで軽々元を取るようです。

取り付けも技術者に頼まないといけないものかと思っていましたが、見たところでは、自分でもじゅうぶんできそうな感じでした。
ネットではすでに「品切れ」となっているところもあるので、やはりこの時期は売れているんだなあと、つい焦ってしまいます。
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ル・サージュとブラレイ

二人のフランス人ピアニスト、エリック・ル・サージュとフランク・ブラレイによるモーツァルトの2台と4手のためのピアノソナタ集を少し前にCDで購入していたので、何度か繰り返して聴いてみました。

二人とも今が旬とも言うべき共に40代で、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの常連でもあるようです。

このCDで注目すべきは、120年以上前のピアノ、1874年/1877年のスタインウェイを使っているという点で、これはブラレイのこだわりによるものだとか。

現在のスタインウェイとは大いに違って、ひじょうにまろやかな音色が特徴ですが、さりとてフォルテピアノのような古くさいというような音ではなく、いまさらのようにピアノは一世紀以上もの間ほとんど進歩していないと思わせらます。
尤もそれをいうなら、ヴァイオリンなど300年ですから、いずれの楽器も基本的にはもはや完成され尽くして、ほとんど改良の余地がないのは間違いないようです。

とはいえ、スタインウェイとしてはこの時期の楽器は、まだまだ過渡期にあるもので、決して完成されたものではありませんが、それでも野暮ったさのない、美しい華のある音を聴かせる点ではさすがです。

それでいて、いつも感じることですが、古い楽器の音色というのはなんと心地よく耳に疲れないものかと思います。

集中して聴けば、発生した音が減衰する際に、ゆらゆらとゆらめく点などがいかにも昔の楽器といえばいえるでしょうが、新しいニューヨークスタインウェイなどはいまだに若干この特性を残しているので、こういう点でもニューヨーク製のほうに本源的なピアノの要素を見出して好む人も多いようです。

ここで使われたピアノは2台ともクリス・マーヌというピアノ蒐集家の持ち物で、この収録のために貸し出されたものだそうですが、これと同じ型のスタインウェイが、実は福岡市博多区のステーキ屋に置いてあるのをふと思い出しました。

ずいぶん前に見に行ったことがありますが、さりげなく19世紀のスタインウェイのコンサートグランドが、ステーキレストランの一角にポンと置いてあるのは、なんとも不思議な光景でした。
ステーキといえば油がつきものですが、ちょっと大丈夫だろうかという気になってしまいましたが…。

CDを話を戻すと、演奏そのものはいかにも爽快ではあるけれど、やや落ち着きのないところが散見されるのは、このフランスの実力派二人にしてはいささか残念な点だと思いました。
モーツァルトは基軸のブレがあるとたちまち歪んでしまう油断の出来ない音楽なので、この点はプロでもよくよく留意してほしいものです。

信じがたいほど多作なわりには、たった1曲しかないモーツァルトの2台のピアのためのソナタ(KV448)は、一昔前は「頭が良くなる音楽」ということで受験生などがこれを聴くのが流行りましたし、最近では例の「のだめカンタービレ」でのだめと千秋先輩が一緒に弾く曲としてすっかり有名になったようですね。

互いに同一の音型を次々にやりとりするところなどは2台のピアノならではの聴き(弾き)どころで、まったく対等の二人が織りなすめくるめく音楽は連弾には望み得ないもので、まさに左右に飛び交うテニスボールのようです。
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感覚の問題

「感覚」というのは一般的な常識の枠組みより遙かに細やかな、微妙なニュアンスの領域の問題ですが、これを共有できる人は昔にくらべると激減していることがひしひしと感じられるこの頃ですし、だからこそ通じ合える人の存在は昔以上に貴重でありがたい気がします。

それは物事に対しての善悪の問題ではなく、固い言葉でいうと道義とかけじめ、さらには好みや抵抗感の有無などの世界であって、いってみれば人が生きてきた長い年月の中で知らず知らずの間に出来上がった、とらえどころのない尺度、あるいは価値観の集積のような気がします。

単純な善悪の問題ではないからこそ、大事な事ってあるものです。

たとえばですが、どうも最近は文化という便利な名のもとに、ナンセンスとしかいいようのない非常に自己満足的なイベントなどが次々に立ち上がっているようですが、これにどう反応するかもポイントのひとつになります。

具体的にいうと、最近目につくのが日本のお寺(もちろん仏教の)です。
ここを会場にして、仏事ではない様々なイベントをやるのが目白押しで、今年だったと思いますが、博多の由緒ある名刹(日本最古の禅寺といわれます)で、なんとTVタレントの華道家がさまざまに飾り付けた生け花のイベントをやっていたようですし、つい先日手にしたコンサートのチラシにも、これもまたたいへん由緒のある曹洞宗のお寺の本堂でヴァイオリンとピアノによるコンサートが行われるといいます。さらにある日の新聞には空海創建ともいわれる、これもまた由緒ある博多のお寺に五重塔が完成したことを記念して、寺内でファッションショー!などが開かれたといいます。

コラボなどという言葉が使われはじめて、その便利な言葉を仲介にして、このような、ある種グロテスクな催しが全国的にも雨後のタケノコのように発生してきているように思います。

こういうことを多くの人はどう感じているかは知りませんが、マロニエ君はごくはじめのころこそおもしろことをやるもんだと思ったことも一瞬ぐらいはありましたが、結局のところ体質的に受け付けられず好きではありません。
たしかに一時期はこういうことが「新しさ」であるかのように勘違いされたのかもしれませんね。

しかしマロニエ君は、お寺の本堂という、正面には仏様がおられて、その前で苛酷な修行を積んできた僧侶の導きのもと、恭しく厳かな仏事を執りおこなうべき場所を、余事で侵すべからざるものだと思いますし、ましてそこにグランドピアノを置いたり、お寺とは不釣り合いなドレスを着てヴァイオリンをキーキーいわせて西洋音楽を演奏するというのは、やっているほうは斬新なつもりでも、どう考えてもしっくりきません。
しかも演奏されるのは大半が普通のクラシックとなると、これらの作品の根底にあるものは例外なくキリスト教の存在なのですから、事の内側に潜む精神的な意味合いを考えると、これは何かが間違っているとしか思えません。

マロニエ君は自他共に認める相当のクラシック音楽好きですから、少々のことなら音楽の味方をするのはやぶさかではありませんが、やはりこの種のイベントは、生理的に馴染めないものがあります。
だったら、キリスト教の礼拝堂で和太鼓の公演などして素晴らしいと思えるかというのと同じことでしょう。
なにかお互いがお互いを汚し合う結果になっているという気がするわけで、ひとことでいうなら違和感と一握りの人達の自己満足だけが残ります。

世の中には、法律にはなくてもやってはならないこと、やるべきではないこと、やらないほうが美しいことがあるものです。そしてそれは各人の人格や学識や教養の部分に下駄をあずけられていることがあるものです。

お寺でコンサートやファッションショーみたいなことをすることが垣根を超えた新しい文化なんて到底思えませんし、そういうものに対してどうしようもなく違和感を感じてしまう部分、そこがまさに「文化」だと思いますし、文化とはもとを辿ればきわめて精神的な領域の問題なのだと思います。

そして、こういうことを(最近はマロニエ君もあまり口にはしませんが)言って、くどくど説明せずともサッと理解し本質をわかってくれる人、これが「感覚」の共有だと思います。
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続・人気の曲

とりあえず、選曲の傾向の理由は少しわかりましたが、どうせ弾くのであればもっと幅広い視点から選曲してみるのも楽しいように思います。

そのためにも、やはり楽譜はきちんとしたものを持っておいたほうがいいもので、ピアノが好きで、しかも自分で弾くぐらいになれば、たとえ趣味であっても楽譜はそれが全曲まとめられたものを、ひとつは必ず持っておくべきですし、決してムダにはならないとマロニエ君は思います。
これにより、いうまでもなくその前後に存在する優れた作品を網羅的に知るところとなり、本当に自分が弾きたい曲を探し出すチャンスにもなるし、とりあえず弾いてみるだけでもとても勉強になるからです。

例えばピアノ名曲集的な観点から弾く革命と、ショパンの全27曲のエチュード全体を深く耳に馴染ませた上で弾く革命とでは、必ずなにかが違うものですし、そのほうがさらに素晴らしいものになることは異論を待たないでしょう。

もちろんクラブの中には特定の作曲家に集中して打ち込んでおられる方もあり、バッハばかりを弾く人、シューマンを得意とする人など、自分なりのこだわりや好みの個性があることはなによりも素晴らしいことで、最近入会された方では、専らメンデルスゾーンばかりを弾かれる方がおられて唸らされました。
マロニエ君もつい刺激を受けて、ちょっと自分からはあまり弾かなかったような曲を弾いてみたりしているところです。

そういう意味では、人が弾くのを聴いて自分も同じ曲を弾いてみたくなるという心理もとてもよくわかります。
コンサートなどでも感銘を受ける演奏に出会ったとき、あるいは逆に大いに憤慨するような演奏を聴いたとき、いずれの場合も猛烈に自分で弾いてみたくなるものです(もちろん弾ける曲に限ってですが)。

また、良く知っているものでも、自分から進んで弾こうとは思わなかったような曲を、人の演奏を聴くことで、なんとなく自分でも弾いてみようかと思うきっかけになることはマロニエ君にも幾度か覚えがあります。
こういうときにも楽譜を持っているというのは強味です。

近ごろは楽譜も決して安いものではありませんが、一度買えば半永久的に使えるものですから、その長い付き合いを考えれば決して高いものではありません。
マロニエ君は好きな曲があれば、自分が弾けない曲でも楽譜を買うことにはあまり躊躇もありません。
それは音楽が好きな自分にとって、楽譜を持つ事はひとつの「財産」だと思っているのです。

ただし、最近はCD−R等でひとりの作曲家の楽譜を網羅的に入れたものや、ネットでの無料ダウンロードなどというものもありますが、ああいうもので済ませるのはまったくもって賛成しかねます。
CD−Rの楽譜は一度買ったことがありますが、まあ割安感で言えばこれに勝るものはありませんし、場所を取らないといえばそうかもしれません。しかし、なんとも無味乾燥で、まったくマロニエ君の好むものではありませんでした。

そもそも音楽を楽しむ、ピアノを弾くという価値は、そんな味気のない合理性とは真逆の場所にあるものだと思いますから、やはり楽譜は紙の本であって、表紙があり厚みがあり、手で触って、ページを繰るものだと思います。
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人気の曲

過日、ピアノクラブの人に、かねてから疑問に思っていたある質問をしてみました。
(これまで「サークル」と書いてきましたが、よく考えてみると「クラブ」だったので、今後は改めます。)
それはクラブの皆さんが定例会で弾かれる曲目にある傾向があると思っていたからです。
全員ではありませんが、多くの人が同じような曲に集中するのはなぜ?と感じていました。

例えばショパンを例にとると、幻想即興曲、革命、別れの曲、ワルツの数曲、いくつかのノクターンなどは、入れ替わり立ち替わりに皆さんが弾かれる定番曲になっているのがちょっと不思議なわけです。
ベートーヴェンでも悲愴とかテンペストの第3楽章などは何度聞いたかわかりません。
…かと思うと、両隣にある曲は一向に弾かれる気配もありません。
第7番も第9番もマロニエ君はとても好きですが。

せっかく大評判の料理店に行っているのに、みんながみんな、エビチリか、酢豚か、麻婆豆腐ばかり注文するような感じでしょうか。

もちろん根底には、これらがよく耳に馴染んだポピュラーな曲ということはあるとは思いますが、どうもそればかりが理由のようには思えない不思議さもあって、そのわけを聞かずにはいられなくなりました。

これらの有名曲ももちろん素晴らしい作品に違いありませんが、マロニエ君などはいつもそのあたりから外れた、本当に自分が好きな曲を弾いてきたように思いますし、同様の方もわずかにはいらっしゃいます。

もちろん選曲に際しては技術的な問題も大きく、シロウト集団の我々としてはなんでもOKというわけには行きませんから、難易度の点でも自分の技術と大いに相談しながら決めることにはなりますが…。
しかし、ショパンのエチュードのような難しい曲を弾くにしても、全27曲のエチュードの中で革命などは突出して人気が集中しており、「次は自分も(革命に)挑戦したい!」というような発言さえ何度も耳にしています。

革命ももちろんいいけれども、なんでそればかり??…その理由がまったくわかりませんでした。

また不思議なのはマズルカやプレリュードなどはほとんど見向きもされず、これまでにそれらを弾いたことのある人はマロニエ君以外ではわずかに一人か二人を記憶するのみです。
即興曲では4曲中の最高傑作とも言うべき第3番は誰ひとり弾かず、人気の点で革命さえも上回るのは第4番(幻想即興曲:ショパンは自分では気に入らず即興曲の中には入れていなかった。第4番とされて出版されたのは死後だが、作曲は4曲中もっとも早い。「幻想即興曲」の名は第三者によって付けられたもの。)で、こぞって弾かれるところはこの曲の大変な人気の高さが窺えます。

しかし、ピアノのレパートリーは無尽蔵といっても差し支えなく、あれだけたくさんの眩しいばかりの傑作が並んでいる中で、こうも同じものに集中するのは、どう考えても不自然・不可解だったわけです。
そこでその点を聞いてみると、ようやくにしてその理由がわかりました。

まずは楽譜の問題が大きいようで、楽譜を手に入れるときに1曲だけのピース楽譜を手に入れてしまうこと。あるいは手持ちのピアノ名曲集の類にこれらの曲がたまたま載っていたからで、他の曲は聴いたことがない…というようなたわいもないものでした。

マロニエ君にはちょっと考えられないことですが、へええ…そんなものかと思いました。
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草戦争凱歌

何度書いた草戦争のその後です。

冬の間はおとなしくなりを潜めている多くの植物は、春の到来とともに一斉に芽を吹き、音のない大合唱が始まります。
そのトップを切るのが日本の花のカリスマ「桜」だろうと思います。

この桜の開花宣言と時を同じくして、多くの植物が俄に活動を開始します。
日本には、とりわけ「春」を生命を寿ぐ最高の季節と捉える伝統があり、多くの歌人などはその喜びをあまたの作品にあらわしていたりしますし、大半の人にとっては冬が終わって寒さが遠退き、木々や花々が咲き乱れる春の到来は、いかにも幸福感に包まれる時期なのかもしれません。

これに合わせて新学期が始まり、新年度が始まり、世の中全体が新しくスタートをきるという次第。

そんな春から梅雨にかけてが、実はマロニエ君にとっては年間を通じて最も苦手で過ごしにくい季節なのです。
あらゆる事が冬のほうが快適で清々しいのに、それが終わってむしむしと暑苦しい、皮膚のまわりに何かがまとわりつくようなイヤな季節が、あぁまたやって来くるという印象です。

ひとことで言えば、サラサラした季節がベタベタ季節に切り替わる、それがマロニエ君にとっての春なのです。
さらには植物の急激で過剰な成長が鬱陶しさに拍車をかけます。

雑草のなどはその際たるもので、日一日と高さと量を増やしていき、まさに情け容赦のないその様子は暴力的でもあり、不気味さと不快感が募ります。

昨年はついに除草剤という「化学兵器」の投下により、まずまずの結果を上げていたので、今年もむろん最出撃するつもりでいたのはいうまでもありません。
ところが雑草軍の進撃は予想以上に迅速果敢であり、ゴールデンウィーク前にはかなり厳しい状況となり、これはいかん!とばかりに友人を呼びだして、除草剤(市販のものを希釈して使う)を考えられる限りの場所に正に「撒き散らし」ました。

この除草剤というのは、撒いたからといってただちに翌日から枯れるわけではなく、最低でも10日ぐらいはかかります。
我が家の場合、すでに散布して4週間ほどが経過していますが、果たしてその状況とは?

草の生えていたあたり一面は柔らかな茶褐色となり、雑草軍の進軍はものの見事に食い止められ殲滅されています。
驚くべきはその薬の効能で、一面を覆っていたそれなりに美しい苔なども、この際犠牲になることは覚悟の上だったのですが、なんとそれらにはなんの被害もなく、突き出ていた草だけがうす茶色に枯れ干からびて、地面に小さく張り付いているのは驚きでした。

これはすごい!すごいとしかいいようがない!
この除草剤のおかげで蚊の発生も劇的に少なくなり、これはもう我が家の救世主のような存在になりそうです。

可愛がっていた犬も今はもう天国ですし、庭ではキュウリの1本も作るわけではないので、もはや躊躇するものはなにもなく、今後は定期的に散布していかなくてはと身も心も引き締まっているところです。
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自慢大会

日本人ピアニストって、最近どうかしてしまっているんじゃないかと思います。

昨年はある有名男性ピアニストが、一日でショパンのソロ作品を全曲暗譜で演奏するというギネス認定のかかった記録挑戦コンサートをしたことは、記憶に新しいところです。
開始から終了まで実に十数時間、時計が優に一回り以上したようで、こういう企画にショパンの音楽が使われること、あるいはせっかくの優れた才能を濫費することじたい、非常に不愉快かつ、そんなことまでやって目立ちたいのかと思いました。

もちろんその途方もない能力そのものには敬服しますが、音楽芸術に携わる演奏家としてはなんとも節操のない、恥ずかしいことをしたという印象はどうしても拭い去ることはできません。

あんなことはいやしくも芸術家のすることではなく、「俺はこんなこともできるんだぞ、どうだすごいだろう!」という内容の大がかりな自慢大会にしか思えません。
大した俗物根性というべきです。

これはさぞかし、この世界でも物笑いの種になったことだろうと思っていましたが、どうもそうではなく、その破天荒な記録を打ち立てたことに、同業他者は「やられた」という敗北感でも味わったのか、それに続くようなバトル的なコンサートが発表されて、さらに驚かされました。

今度は別の有名男性ピアニストですが、夏にラフマニノフのピアノ協奏曲全曲(パガニーニ狂詩曲を含む全5曲!)を一日で演奏するという重量級の挑戦的コンサートをおこなう由で、さらにひと月おいて、こんどはソロ、有名ゲストを招いての合わせものまで、この人のピアノを中心とした5日連続コンサートという企画が打ち出されており、すでに派手なカラー広告などが打たれています。

それにしても、誰もかれもがここまでやらなきゃいけないものかと思います。

なるほど今は、ちょっとでも油断すると押し流されてしまう世の中ですから、少々のことをしてでもステージにしがみついていかなくてはという裏事情はもちろん察します。
しかしです、目立つこと、世間に対してアッと驚くインパクトを与えることで、自分を露出・誇示するような無謀なコンサートを仕掛けることが、演奏家の残された道となっているのだとすれば、なんという無惨なことかと思わないではいられません。

こんなことをしていたら、演奏の質そのものより、ただ単に記録的なコンサートの達成を見守ることだけに関心は集中し、いかなる演奏をしたかという本来の価値などは二の次三の次になってしまうでしょう。
質の高い音楽を生み出すことより、超人的なパフォーマンスで人の注意を惹く技巧、記憶力、体力、気力の維持に全エネルギーを消耗させるだけに違いありません。

なんらかの人生ドラマで人を呼び込めない人は、今度はこんなトライアスロン的挑戦ができなきゃダメというようなこの風潮ははやくおさまって欲しいものです。

こうやって本来の音楽からどんどん逸脱するバトル的な流れは、コンクール至上主義より、さらにおかしな方向へと迷い込んでいるようにも感じます。
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ピアノの島

何気なく整理をしていたら、音楽雑誌『ショパン』の1月号がひょろりと出てきました。
いつもは立ち読みが多いのですが、ショパンコンクールの入賞者以外の演奏を集めたCDが付録として付いているので、それ目的で買っていたことを思い出しました。

表紙はジュネーブコンクールで日本人初の優勝を果たした萩原麻未さんで、巻頭にはインタビューが載っているものの、CDを聞いただけであまり熱心にページを繰ることはしていませんでした。

ひさびさに手にしたついでにパラパラめくっていると、「第5回中国国際ピアノコンクール」というのがあり、中国でもこんなコンクールをやっているのか…という感じで、その記事を読んでみました。

開催地は中国南部の沿海都市、福建省のアモイ市で、12日間にわたって開催され、ファイナルではモーツァルトの協奏曲およびそれ以外の協奏曲の2曲を中国国家交響楽団と共に弾かなくてはいけないというもので、16カ国52名が参加するそこそこ本格的なコンクールということのようです。

このコンクールは第3回までは首都北京で開催されていたようですが、第4回以降はこの福建省アモイ市に場所が移されたとのこと。
その理由は、アモイ市が、中国近代史の幕開けとなったアヘン戦争後の南京条約によって開港し、西欧諸国の領事館や商館、教会などが多く建てられ、キリスト教の布教とともに中国でも最も早くピアノやオルガンなど西洋音楽が普及した土地でもあることから、このコンクールの開催地として最も相応しいと判断されたようです。
またアモイ市は経済特区としてもめざましい発展を遂げているだけでなく、年間を通じて温暖な気候であることから異国情緒あふれるリゾート地でもあり、別荘地としても栄えてきた土地のようです。

さて、そんなアモイ市でまさか!という感じで驚いたのが、ここの南西部にコロンス島という小島があって、そこは別名「ピアノの島」とも呼ばれいるらしいのです。なんでも、個人(この島出身の華僑)のコレクションによる「ピアノ博物館」なるものが存在し、世界的にも珍しい歴史的ピアノが実に82台!も収蔵されているというのですから、びっくりでした。

そんな折、書店に行ったついでに旅行のガイド本を見てみると、運良くアモイ市の本があり、そこにもこのコロンス島のことが紹介されていました。アモイ市とは目と鼻の先の距離で、フェリーで渡る小さな島のようですが、掲載されている写真を見る限りでは、洋館風の建物が多くてあまり中国っぽくない印象でした。

「ピアノ博物館」のことも小さく触れられていましたが、そこには40数台というような記述でしたが、建物じたいもピアノのカタチをしているところなどがちょっと中国的センスですが、なかなか珍しいピアノがありそうな雰囲気でした。
この島はピアノの普及率も中国一とのことで、人口2万人、1時間も歩けば一周できるという小さな島に、一時は1000台ものピアノがあったというのですから驚きです。さらにはピアノ音楽学校まであり、いまでも対岸のアモイ市からフェリー通学している学生もいるようです。

あまり詳しい情報は得られませんでしたが、この島に「ピアノ博物館」があることだけは間違いないようです。

世の中にはまだまだ予想もしないことがあるものだと思いました。
いつか行ってみたいものです。
コンクールを聴いて、コロンス島にも足を伸ばすというのもいいかもしれませんね。
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ショパンのガラコンサート

今年の一月に東京で行われたショパン入賞者によるガラコンサートの模様が先ごろNHKのBSで2時間放映されて、録画していたのですが、これがもう、なんともシラけて退屈の極み、全部を見通すことができませんでした。

あらためていうまでもなくマロニエ君個人の印象ですけれども、ただ一人を除いては、みんな大同小異で、だれもかれもが無機質なウソっぽい演技のような演奏をするのには、あらためてなんだこれはと思いました。
若いのにエネルギーも冒険も初々しさもなく、若年寄のようで、もう少し正直に本音をぶつけた気持ちのいい演奏をしたらどうかと思います。

コンクールでは大変な人気だったと聞く2位のヴンダーの幻想ポロネーズも、期待に反して凡庸で、どこかアマチュア的な腰のない演奏でもあり、なんということもありませんでしたし、同じく2位のゲニューシャスの第1協奏曲も流れが不自然で、第一楽章だけでも聴くのが苦痛になりました。
このあまりにも有名な甘美な曲を、ここまで説得力なく退屈に演奏するのも大したものです。
3位のトリフォノフもしかり、こうやって見ていくとアヴデーエワの優勝というのも消去法で妥当な結果だったのかとさえ思えるものでしたが、その彼女も基本的にはこれまでと同じ印象でした。

とりわけロシアの3人に共通するのは、かつてこの大国のお家芸だった感情の奔流がなくなり、すべてが審査基準に沿って計算され構築された流れのない演奏です。そこには何のメッセージ性も主張も霊感もない、ただ高度に訓練された技術を横にならべて見せられるだけというもので、当然ながらそこにショパンの魂が現れるような余地はありません。
これではまるでスポーツと同じで、そこに技術的課題としてショパンの作品が使われているだけという印象です。

何かに似ていると思ったら、フィギュアスケートで、ここで何回転、ここで何連続、ここでステップという、ただ競技のためにだけに作り上げられた高度な技を、予定通りに失敗せずにこなしているとしか思えません。
これは音楽とはまったく似て非なる、メダル獲得だけが彼らを支配しているようでした。
何か大きなものが間違っているとしか思えませんし、若手がこれではクラシックが衰退するもの当然だろうと思われます。

彼らの演奏には、音楽のしもべとなり、それを奏する喜びや作品の美しさに自分の感性を重ねて燃焼するという、肝心のものがすっぽり抜け落ちているようでした。
我々聴く側も、演奏を通じて音楽の波に乗り、いざなわれ、作品の世界を味わい、ときには激しく翻弄されたいのです。
演奏者はそのために特別に選ばれた案内役であるはずですが、彼らはまったくその役目を果たしているとは言い難いものです。

なぜこんな風潮になってしまったのか…もはや考えてみる気にもなれません。

冒頭に「ただ一人を除いて」と書きましたが、それは5位のフランソワ・デュモンで、彼ひとりショパンの詩情を繊細に的確に描き出す、きわめてセンシティヴで美しい演奏をしていたのが正に唯一の救いでした。
やはりフランス人は、ショパンの本質を理解しているのだと思いました。

この一連のガラコンサートは福岡にも来ましたが、直感的に行かなかったのは正解でした。
もし行っていれば、すっかり落胆して帰ってきたこと間違いなしだったようです。
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湿度計の賞味期限

湿度が気になる季節に突入したこの頃、マロニエ君は湿度計を日に何度見ているかわかりません。
見たからといって、とくにどうということもないのですが、なんというかクセみたいなものでしょうか。

さて、ある調律師の方のホームページを見ていると、湿度や温度と音程のことなどについての記述があって大変勉強になることがありましたが、その中のひとつに、「湿度計は年月を経ると精度が低下することが避けられない」という文言があり、これにはドキッとしてしまいました。

しかも、市販のものでは精度が著しく劣るものもあり、ひどいときには15%も誤差(というか、ここまで来るとデタラメ表示というべきですが)があり、まず製品自体がちゃんとしたものでないとアテにならないのは当然ですね。
そのホームページには、精度の高いメーカーのオススメ商品まで紹介されていますが、それとても3年も経てば精度が落ちてくるから信用できなくなると受け取れるような書き方がしてあり、それぐらい経ったら校正に出すか新しいものを買ったほうがいいとアドバイスしています。

さて、マロニエ君の使っている湿度計は、3年どころか、優に10年以上前(もしかしたら20年?)のもので、お説の通りだとすると、これはとてもじゃありませんが信頼に足らない状態だろうということが推察されました。
そうとも知らず、そんなものを毎日眺めて一喜一憂しているなんて、自分がなんと愚かしいかと思われて、いてもたってもいられなくなり、さっそく件のオススメメーカーの温湿度計を買ってきました。

天神の雑貨点に行きましたが、置き時計などは実に多種多様なものがあるのに、湿度計は売り場が別で、店員に3度も尋ねてやっとその売り場に到達することができました。
果たして、オススメメーカーの製品ではありましたが、種類は二種類しかなく、そのうちのひとつを購入しました。

帰宅後、さっそくピアノの上に置いてみますが、正しい目盛りを示すには1〜2時間かかると説明にあり、その結果、今まで使っていた湿度計よりぐっと高い数値でも示したらどうしようかと不安でした。

さて、すでにそれから数日が経過しましたが、なんと古い湿度計との差はわずかに1%ほどで、なーんだ、狂ってないじゃん!と思いました。経年変化で精度が落ちるなんて、理論的にはウソじゃないだろうけれども、技術系の人のお説は理屈が勝っていて、いささか大げさな思い込みがあるのかとも思いました。

まあ、あえて慎重に考えるなら、もともと大したこともない湿度計の精度が落ちて、それが偶然正しい数値を示していたということも可能性としてはありますが…でもやっぱりこれだけほとんど同じ数値を仲良く並んで示しているということは、単純に古い方も正しかったのだろうと思われます。

無駄な買い物だったようにも思われますが、二つあったほうがより正しい数値を知ることができるでしょうし、これはこれで意味があったと思います。
しかし、ホームページに専門家が懇切丁寧に説明していると、ついそうなのかと鵜呑みにしてしまうのは、できるだけ注意しているつもりですが、やはりあるんだなあ…と思いました。
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感情の衰退2

コンクールの主役は韓国に譲るとしても、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という言葉がなつかしいほど、いまの日本人には何事によらず爆発がなくなりましたし、それに附随するところの覇気も度胸もすっかり痩せ細ってしまったようです。
だから今の日本人は、ますます器が小さくなってしまっていると感じるこのごろです。

ちょっとでも枠をはみ出すと、変人のように認識され、たちまち空気が読めない人間と同列に分類されるし、同時に、いかにも誠実ぶって善人のフリをするぶんには、これが一番安全でなんの障害もない空気です。
なぜなら偽善が偽善だとは認定されず、いつの間にかそれが人間的に正しい振る舞いだと捉えられているからでしょう。

爆発といえば、暴発と同義語のように扱われ、まるでキレたり暴力的だったりする悪行のようなイメージをどんどん塗り重ねられていく流れは、もはや止めようもありません。
生きていれば怒ることも腹を立てることも多々あるものですが、それは際限もなく抑制するのが当たり前となり、誰もが聖人のように穏便に事を荒立てないことが金科玉条のようにされています。

そんな風潮の中でまともに意見でも言おうものなら、事の良し悪し以前に、意見を言ったという「異変」にみんな引いてしまいます。もちろんある程度は理性をもって制限しないと、なんでも感情を優先させるだけでは、ただの野蛮人になりますが、いくらなんでも今の状況は異常だと思います。

ジェントルなバランス感覚から発せられた抑制なら大変結構ですが、ただ臆病で、やみくもに自分の利益を守り通そうとするあまり、言葉を選び立派な人間の演技をし、安全第一、ひたすらマイナス要因を作らない事だけがすべてに優先しているようにしか見えません。
お陰で、今の日本の価値観は、表面は穏やかでも、内側には浅ましい我欲だけが渦巻いているようです。
すなわち、きわめて消極的自己中とも言えそうです。

その裏には、万一その逆をやらかして、自分が孤立したり、嫌われたりする場合に対する異常なまでの恐れ、ほとんど戦慄とでもいっていいような強い脅迫観念が張り付いているようです。

こういう狭いところに押し込められたような意識の中で、チマチマと息を潜めたように生きている日本人には、もはやおおらかに人生を謳歌して人間臭く生きるなどということは、ほとんど夢物語も同然です。

音楽コンクールで韓国に敗退するぐらいはいいとしても、これではこの先どうなるのかと思います。

若い世代の人を見ていると、すでに感情を抑えるということすら通り越して進化して、感情そのものの総量がずいぶん少なく小さくなってきているようにさえ感じます。何も感じないことが最も合理的でムダがないという、これはいわば、自然の摂理なのかもしれません。
自然な感情や反応は、あたかも世間を憚るべき下着の中のように、一切表に出してはならないものになってしまっており、これでは人間らしい喜怒哀楽も否定され、信念も情熱も持てず、政府の批判もできず、こういう風潮は考えれば考えるほどある意味ファシズム的で、無性に恐ろしくなってしまいます。

欺瞞の恐ろしさは、ついにはそれを欺瞞とも感じなくなることかもしれません。
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感情の衰退1

マロニエ君の音楽上の恩師のひとりでもあるフルートの先生から聞いた話ですが、今やコンクールはどこに行っても台頭する韓国勢の独壇場と化しているそうです。
この流れは、マロニエ君はピアノの場合として知っていることでしたが、やはりと言うべきか、それは他の楽器にも同じような現象が起こっているようです。

2009年の浜松国際ピアノコンクールでも韓国のチョ・ソンジンが優勝したのはもちろん、上位6人の中の実に4人を韓国人が占めるという驚くべき結果となったことも記憶に新しいところですし、前回クライバーン・コンクールでも数名の韓国人が実に見事な演奏をしたのは印象的でした。

その先生によれば、コンクールの現場で感じることだそうですが、韓国勢の強味はなによりもその激しい感情表現ということ。韓国人のあの激烈な感情の奔流が音楽にはプラスに作用しているようで、なるほどというしかありません。

めったに見ることはありませんが、韓国の映画などを観ても、その生々しい感情の動きが全体を支配しており、それ故にひじょうに見応えのある作品に仕上がっていると思います。原作にしろ監督にしろ、表現者としての翼を大きく羽ばたかせてのびのびと仕事をやっていると感じられ、ときには羨ましく感じる場合も少なくありません。

すくなくとも芸術面においては、良いものに対する素直な評価と価値基準も、韓国のほうが現在は一枚上手のような気がします。
日本人の能力は世界的にも稀有な民族だと誇りをもって思いますが、いかんせん公平・平等の思想がはびこりすぎて、芸術という、いわば出発からして非平等な世界の核心部分までもを侵食しているような気がします。
だいいち何事にもアマチュアが出しゃばりすぎる社会になり果てています。

これでは、本当に才能ある人物が現れても、それを社会が正しく評価できないことには上手く育つことはできません。
少なくとも日本はすでに認定され定着した評価には従順ですが、新しい芸術的才能に関しては、あまりにも鈍感すぎるような気がします。

同時に大したこともないような人が際限もなく続々と出てきて、結局はつぶし合いとなり、本物の芽まで一緒に摘み取られてしまうことがあると思うのです。

今年おこなわれるチャイコフスキーコンクールも、雑誌の下馬評では、ロシア対韓国という構図が出来上がっているようで、むべなるかなと思います。

日本人は器用でハイクオリティな演奏はできても、メッセージ性や高揚感に乏しく、演奏というものが終局的には表現行為である以上、聴く者の心を掴んで揺り動かすような圧倒的な主体性がなくては花は咲きません。
自己を押し殺して、表現しないことのほうに美徳と価値がある日本ですから、それは当然の成り行きでしょうね。
とりわけその傾向は近年ますます顕著になってきたようで、感情的な表現すら人工的に貼り付けた様子が見えてしまいます。

感情の振幅が小さいということは、おそらく表現者としては決定的なハンディとなるに違いありません。

ところが韓国側から見ると面白い意見があって、韓国のピアノ教育者の代表的な存在のひとりである、韓国芸術総合大学のキム・テジン教授は「平均的に見ると、日本のピアニストは知的であり、韓国は感性的。足して2で割れば完璧なピアニストになる」とも言っています。
これは社交辞令なのか、自分達にないものは輝いて見えるものなのか、真意はわかりません。

マロニエ君から見ると、ナショナリズムの問題は別として、現在の若いピアニストは圧倒的に韓国が上を行っていると思いますが。
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自己中オーラ

週末に天神の書店に行ったときのこと、見たい本棚の前にはたぶん30代とおぼしき女性がかがみ込んで熱心に本(実用書)を見ています。

マロニエ君も同じ書架で本を探していたわけですが、なかなか見つからず、とうとうこの女性がいる場所の真上が見てみたい状況になったのですが、この女性はいやにどっかりと腰を落ち着けて、とうてい動きそうな気配がありません。
仕方がないので、しばらく待ってみることにし、外の場所を見てみたりしていましたが、やはりどうしてもその場所しかなくなりました。

遠慮がちにその上の段を、上半身を曲げながら見てみようとするのですが、マロニエ君は比較的長身なこともあって、なんとか見えないことはないものの、やはり勝手が悪くて仕方ありません。

普通なら、本屋の書棚などはお互い自分のものではないのだから、社会通念としてお互い様という気持ちが働いて、自分がいる場所でも他人が来れば、わずかによけたり、ささやかでも譲り合うのが常識というものですが、最近はこういう具合に、人がいるのは充分承知しておきながら、譲るという気持ちが頭からまったくない人間がいるものです。
そのせいか、こちさら目を合わせず、微動だにしない人の姿はエゴそのものが蟠っているようです。

こうなると暗黙の戦いのような様相となりますが、とてもとてもマロニエ君ごときが敵う相手ではありません。

ガッチリとシャットアウトの鎧を着たかのごとく、自分と本との世界に固まっているような気配です。
見ると、その女性はそこの棚にある本を次々に片っ端から見ているようです。

今どきは、こういうことにいちいち腹を立てても仕方がないと、いいかげん腹を決めているつもりなのですが、やはりこういう状況に直面すると、どうしたってついムカムカきてしまうものです。
その女性の肩とこちらの足が10センチぐらいになって上半身だけ傾けて棚を見ようとするのですが、それは向こうも当然わかっているクセに、「断固として」動きません。

なんでそこまで頑張るのかと思いますが、いやはやこういう手合いにかかってはどうしようもありません。
あまりこんな手合いにこだわるのもバカバカしい気がして、さっと別ジャンルの売り場へ行って、そのあと近くのヤマハへ移動しました。

天神のヤマハは2階が楽譜や書籍の売り場ですが、マロニエ君はある新刊書を探していました。
ところが、な、なんと、さっきの本屋とまったく同じスタイルで、似たような年齢と思われる女性がやはり書棚の前にかがみ込んで、せっせと手にとって本を見ています。

ここではマロニエ君の見たい場所は、その女性が見ている箇所とは垂直線上で重ならないことが幸いでしたが、その女性はさっきと同じようないやに腰の座った雰囲気で構えが深く、こちらもどうして、少々のことでは動きそうにはありませんでした。
さっきと違うのは、いきなりガッと顔を上げてこっちを見上げてきたので、さすがに今度は人の気配を察して動きがあるのかと思うと、さにあらず、また元通り本を見始めて、公衆道徳らしきものは微塵も感じられない自己中オーラをバンバンと発散していました。

まあ、それだけの事ですが、なんだか無性に嫌なものに触れたような気がしてしまいます。
現代人は一皮むけばこういう本性を抱えているからこそ、表向きはキレイゴトが流行するのかとも思います。
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ライプチヒの名器

以前、このブログでも紹介した珍しいコンサートに行ってきました。

福岡市南区の高台に、日時計の丘ホールという名の小さな可愛らしいプライベートギャラリーがあり、そこに1910年製のブリュートナーがあります。
L字形の内部には藤田嗣治、熊谷守一、斎藤真一などの作品が展示されたシンプルで気持ちの良い文化的な空間でした。

ここで管谷怜子さんという地元出身のピアニストによるリサイタルが行われました。
プログラムはバッハのパルティータ第1番、モーツァルトのイ短調のソナタ、それにシューマンの交響的練習曲で、マロニエ君の想像ですが、このドイツ生まれのピアノに敬意を表す意味もあって、すべてドイツ音楽で構成されたのかもしれないと想像しています。

演奏はきわめて丁寧かつ誠実なもので、全体にゆっくりしたテンポと穏やかな表現で弾き進められました。

こんな場所にこんな空間のあることも意外でしたが、さらに意外だったのは、この御歳101歳になるブリュートナーでした。
サイズは見たところでは、おそらく170センチ前後の小さめのグランドでしたが、バッハのパルティータのB-durの軽やかな出だしからして、思いがけなく厚みのある、ふくよかでくっきりした音だったのには思わずハッとさせられました。

まずなにより特徴的なのは、音が太くかつ柔らかなことで、これにより音楽の輪郭にくっきりと明確さが出て、まるでインクをたっぷり含んだ太字の万年質の文字のようなイメージでした。
新しいピアノのなにやら人工的で必死さのある鳴り方に較べると、あくまで自然体で朗々と鳴っているところは、どことなく弦楽器的であり、良質の木が共鳴して作り出されるその純度の高い音は、聴いていて実に心地よいものでした。

パワーそれ自体も相当のものを感じ、とても100年前のピアノだなんて思えません。
仮に同サイズの日本製の新品ピアノを並べて置いても、この鳴りにはとうてい敵わないでしょうね。
昔の人は凄いピアノを作っていたもんだと思うと同時に、このピアノを作った人達は現在もはや一人も生きていない事を思うと、ピアノだけがこうしてすこぶる元気に生き続けているという事が、なんとも不思議でもあり感動的な気分になります。
何度も書くことですが、専門家のくせに「新しいピアノにはパワーがある」なんてことを堂々と言う人は、楽器の意味するパワーというものがまったくわかっていないと思わざるを得ません。

ドイツピアノでは双璧であったベヒシュタインに較べると、ブリュートナーには華やぎがあり、男性的なベヒシュタインに対して、ブリュートナーは女性的な美しさがあるとも言えるでしょうが、その達者な表現力にはまさに世界の名品の名に恥じないものがありました。
とくに交響的練習曲のフィナーレなどに代表される激しいパッセージにおいても、この老ピアノは一切の破綻を見せず、演奏をどこまでもガッチリと受け止めて、あくまでも音楽として鳴り響くところは、そこらのカッコだけの腰砕けのピアノとはどだいものが違うということを思い知らされます。

アンコールには、交響的練習曲に残された遺作の5つの変奏曲(プログラムでは演奏されなかった)から2曲が演奏され、それはそれで楽しめましたが、ブリュートナーと言えばライプチヒですから、できればメンデルスゾーンなどを弾いて欲しかったというのがマロニエ君の正直な気持ちというか、この流れからいえば密かにそうなるような気がしていましたが…。
このピアノで無言歌などを弾いたら、どれほどピッタリだろうかと思わないではいられません。

すっかりこのブリュートナーに魅せられてしまい、無性に戦前の古いピアノが欲しくなりました。
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ダンプチェイサー

この数日はようやく晴れ間が出たものの、先週の雨による湿度の増加は、心身共にぐったりくるものでした。
マロニエ君は自分自身が湿度に強くないので、除湿することは自分自身とピアノを2つながら守ることになるわけですが、さすがに数日間続くべっとりとした雨模様ともなると除湿器の能力にも限界が見えてきます。

もちろん24時間フル稼働で、終日休むことなく回していますが、それでも最終的には60%をなんとか切るぐらいまで迫ってきたのにはイヤになりました。

さすがにピアノも弾いてみると、どこなくぼんやりしているようで、なんとかできないものかと思っています。
そんな折、熱心な調律師のホームページなどを見ていると、複数の技術者がダンプチェイサーというピアノ専用の除湿器具の取り付けを強く推奨していました。

ダンプチェイサー自体は決して新しいものではなく、以前からその名前と存在だけは知っていましたが、なんとなくピンと来なくてそれ以上調べてみようという気持ちになれませんでした。
しかし、ある本の著者などはしきりにこれを「優れもの」と認識して読者に勧めていたりするので、機会があれば見てみたいぐらいに思いつつ、なかなかそんな機会があるはずもなく、以降そのままになっていたものでした。

このダンプチェイサーというのは、棒状のヒーターをピアノの内部に取り付けて、センサーの働きにより湿度が一定以上になると自然にスイッチが入り、湿度が下がれば自動的に停止するというもの。
装置自体も安くてだいたい1万円強から2万円といったところですし、平均的な電気代も200円程度/月というものですから、そこはたいへんリーズナブルだと言えそうです。

ところがピアノへの装着例が示されているのがどれもアップライトピアノばかりで、アップライトの場合は鍵盤下部の蓋を開けた内部にこのダンプチェイサーを左右の側板に長さを合わせ、つっかえ棒のようにして装着するわけですが、あとは蓋をするので区切られた空間となり、なんとなく効果がありそうに思えましたが、グランドの場合は水平の響板下に支柱があり、そのさらに下に取り付けるというもので、これでは機械自体が外部にむき出しとなり、果たしてそれで効果が期待できるものかという疑念が残ります。

もっとも気にかかったのは、要するにヒーターの周辺の空気を熱で温めて対流させて除湿するということは、この機材に近い部分の木材に悪影響はないのだろうかという不安を感じた点です。

そこで親しい技術者にこのダンプチェイサーについて聞いてみると、なんと効果絶大だそうで、付けると付けないとでは大違いという、思いがけなくどっしりとした答えが返ってきました。たとえばある施設の広い場所に置かれている除湿器の使えない環境のピアノは、激しい調律の狂いが多くの人から指摘されていたらしいのですが、これを装着することでピタリと安定してしまったとか。

すでに相当数を取り付けている実績もある由ですが、なんのトラブルもなく、ピアノの保護という観点においてこれは一大発明だと思うと自信をもって言われてしまいました。ただし、木材への悪影響についてはないつもりだけれども、それを数十年単位で判断するとなると、さすがにそこまではわからないというものでした。

唯一の問題点としては、国産とアメリカ製の二種があり、湿度設定が国産では65%、アメリカ製では45%に固定されていて任意の設定が出来ないということだそうです。
というわけで、梅雨を目前にして、さてこれを付けてみるべきか、大いに悩むこのごろです。
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結婚願望

ときどき結婚願望というものが高じてしまって、もはや執念のように暗く思い詰めている人がいます。
人間誰しも、自分の望むものを手にするために粉骨砕身努力するのはわかりますが、あまりにもその思いに囚われてしまうと、空回りして負のオーラが出てしまいます。
とくに結婚となると相手のあることで、年々歳はとるし、その焦りのクレッシェンドは鬼気迫るものに発展することがあります。
寝ても覚めても、仕事でも遊びでも、けっきょく意識の根底にあるのはそのことばかり。

どんなに優れた魅力的な人でも、ひとたびこの欲望のオーラを発してしまうと、ことごとく事は成就せず、欲しいものはますます手に入らない状況に陥ってしまうようです。
その一番の理由は、欲望の虜になり、それにのみ囚われ、余裕や柔軟性が無くなるからでしょう。
目的を掴み取るまでは、如何なることでも満足できないという本音が見えてしまうのは本人も周りも不幸なことです。

もうすこし率直な言い方をしてしまうなら、ひじょうに視野の狭いガツガツした人間のように見えるのですが、これは本人は必死のあまりわからないようですし、わざわざそんなことを指摘する人はいませんから、よほど自己分析に長けた人でもなければ、この悪い状況が解消されることがないわけです。

人間の姿として、物欲しげな状態というのはあまり見てくれのいいものではありません。
ましてやそれがパートナー探しとなると、まわりはそのパワーに圧倒されて引いてしまいますし、だからこの状態は自分から幸運を退けてしまう波動を出しているともいえるでしょう。

強すぎる欲望の持ち主には幸運はおとずれないという目には見えないセオリーがあるように思います。

みなさんのそばにもいると思いますが、一見活発でやたら友人知人が多いらしく、毎日忙しく動き回っているような人って、実は押し寄せる孤独を押し返そうとする必死さみたいなものが漂っていて、人は無意識のうちにそういう気配を確実に感じ取っているものです。

最近は自己啓発の類が盛んで、ほとんど意味をなさないような自分ミガキとか、キレイゴトの空虚な妄想のようなことを煽り立てて人を惑わす傾向があり、そこでは人間の能力も幸福の実現も、無限の可能性を秘めた泉のごとく語られます。
建前はいかにも正論で立派ですが、要するに不安感や欲望を煽っているだけにしか見えません。

「あきらめない」というような言葉も前向きで素晴らしいこととして巷に蔓延していますが、マロニエ君にはどうも非現実的な際限のない欲望追求にしか見えず、心は飢えて渇いたような人ばかりで世の中は溢れかえっているように感じます。
「あきらめる」というのも、本来は人が生きていく上で非常に大切な美徳なんですけどね。

結婚願望があるなら、いったんはそれをゴミ箱に捨てるぐらいの腹を決めて、悠然と構えて、余裕のある気持ちと態度で毎日を送った方がよほどチャンスは巡ってくるものです。
チャンスとか幸運というのは、実は大変なあまのじゃくで、欲した途端に逃げていくものです。

だから、さほど欲していない人のもとへ、ふらりとチャンスは立ち寄ってくれるものです。
男女の区別なく、モテる人は余裕があるから必死に相手を欲しがらないし、その余裕ある姿が魅力的に写るものかもしれません。利が利を生む論理そのものです。
すなわち強すぎる結婚願望そのものが、まさに結婚を自分から際限なく遠ざけているのかもしれません。
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ネットオークション

苦手なものがたくさんあるマロニエ君ですが、ネットオークションもそのひとつです。

ライバル不在ですんなり落札できるときはいいのですが、少しでも人と競り合う状況になるともうダメです。
特になんとしても手に入れたいものであればあるほど、不必要に気分が高ぶってしまいます。

ネットオークションでまったく油断ができないのは、終了までの数日間、だれも入札しないのでこのまますんなりいけるだろう…なんて思っていると、敵は最後の最後に闇の彼方から音もなく現れます。
マロニエ君は過去に何度このパターンに陥って、消耗戦を繰り広げたかわかりません。

何度か抜きつ抜かれつしたあげく、ようやく戦い済んであと1分で終わりというときに、またしても落札価格が更新されるときほど腹立たしく際限なき戦いを挑まれるみたいで気分の悪いものはありません。
こちらも意地になって、平常時なら考えられないような高値を入力してしまうハメになったことも何度かありますし、それでもえらくスタミナのある見えない強者にしたたかに持って行かれたことも何度もあります。

「それがネットオークションだ」といわれれば確かにそうなんですが、これがマロニエ君にとっては笑って済まされないような嫌な興奮と動悸が打つような疲労のごちゃまぜになるのがよくわかりました。
多くの場合、オークションの終了時刻は夜間に設定されているものですが、気合いの入ったアイテムの場合は、なんとなく朝から(いや前日から?)そのことに意識が行っています。
真剣なときは、バカバカしいようですが夕食さえゆっくり落ち着いて食べられません。

時間が近づくと家族には内緒で、はやる気持ちを抑えながらパソコンの前に居住まいを正します。
分単位の時間経過が、このときほど気を揉んで、いたたまれないものはありません。
その挙げ句に、さんざんやられて敗退すると、精神的にも激しい疲労に襲われて、一日の終わりが甚だおもしろくない、不愉快な幕切れとなってしまって、もう無性に情けない気分になるのが自分でもつくづく馬鹿げた事だと思うようになりました。そして、自分が性格的にこういうものに合わないことを痛感しました。

この結果、マロニエ君は金輪際、ネットオークションでの入札バトルには参加しないことに決めたのです。
さらにネットオークションそのものにも距離を置くことにしました。
ネットごときであんな切迫した不快な思いをするのはもうこりごりだからです。

その後は、欲しい物が見つかったときには、自分で冷静に価格の上限を判断して少し早めに入札し、終了時間近くは絶対にパソコンを開かないことにしたのです。
それで落札できていればよし、できなかったらさっぱりあきらめるという、いわばマイルールです。

さて、久々にこのネットオークションに入札しました。
狙っているのは絶版の書籍です。この数日だれひとり入札していませんでしたし、珍しく日中の終了時間となっています。
これはいけるだろうと根拠のない確信をしていましたが、夕方パソコンを開くと、なんと、終了1〜2分前に狙い撃ちされてもっていかれていました。

なんだか、無性にイヤなもんだとまたしても思ってしまいました。
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ほっとする電話

今はなにしろメール全盛の時代で、昔よりも電話で人と会話する機会が減ったのは明らかです。
メールというツールの出現と、さらには巷間言われる人間関係の希薄化も後押しして、とにかく電話をするというのがよほど緊急の状況に限ってのことか、あるいはよほど親しいかという一種の条件のような壁があるように思えます。

電話なら早く済むことでも、相手の見えない状況に割り込む可能性のある電話より、やはり一歩引いたメールのほうが好ましいという暗黙の了解があるようで、これは現代人が作り出した新しい共通認識のようになりました。
ここには相手への気遣いはもちろんでしょうが、自分が間の悪いときに電話をする迷惑人間として先方から認識されたくないという恐れなど自衛本能もかなり働いての結果だと思います。
言いかえるなら、控え目で遠慮しているだけでなく、実は電話をする勇気のなさ、卑屈さも加わっているとマロニエ君は分析しています(自分を含めて)。

そんな時代ですから、マロニエ君はむしろ電話をかけてくる人に、一種の率直な親近感を抱き、今どき失われた懐かしさみたいなものを感じてホッとするというか、つい嬉しくなっていまいます。
それにしても、いつごろから電話をすることがこうも遠慮すべき行為と認識されるようになったのでしょう?
携帯電話の普及と共に自然に確立された新マナーだといわれれば、そうなのかもしれませんが、甚だややこしい時代になったものです。

マロニエ君の友人知人には、比較的電話をかけてくる人が多い方じゃないかと思いますが、それでも昔に較べたらメールの比率はやはり高くなったように感じます。
こういうことをいうマロニエ君でさえ、かかってくる電話は歓迎でも、いざこっちからかける場面ともなると相手によっては無邪気にかけきれない事があるのは否定できません。
自分がOKなことが相手も同じとは限らないし、不本意ながらも、やはり時勢にはなかなか逆らえないものです。

というわけで、マロニエ君にとっては電話をかけてくる人かどうかという点が、自分との親しさのバロメーターのひとつになってしまっていると考えています。会ったときにどんなに親しげにしゃべっても、電話をかけたりかかってきたりしないうちはまだまだ本当の親しさが構築できたとは思えません。

とくに嬉しいのは、メールより電話を優先してかけてくる人です。
こういう人は、たいてい良い意味での無邪気さがあり、人間的にも明るくおおらかなので、こちらも大いに心を開いて接することが出来ます。

ところがまずメールからスタートする、あるいはメールでしか連絡しない人というのは、もちろん基本的にはこちらの都合のいいときにでも見ておいてくださいねという気遣いも入っているのはわかりますが、やはりちょっと相互間に距離がある感じがします(実際に距離がある場合はしかたないですが)。

さらにメール癖がもう一歩進むと、すべてメールですませて完結してしまい、いつのまにか直接会話するということに一種の苦痛や面倒くささが加わってくるのだろうと思われます。
とくに若い世代の人にこれを感じますが、だからますますメールの利用頻度は高まるばかりなんですね。

というわけで、マロニエ君は電話できそうな相手とは極力電話するようにしています。
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ラ・フォル・ジュルネ3

本来は「英雄」と「皇帝」は作品番号からいえば英雄のほうが若いけれども、一夜のコンサートのバランスという点では順序が逆で、「皇帝」→「英雄」の順であるべきだと思われ、その点はどうにも違和感がありましたが、最後の最後になってその理由がわかりました。

皇帝の終演後、割れんばかりの拍手に応えて何度もステージに現れたピアニストのダルベルトが、最後に紙とマイクをもって現れ、震災の追悼の意味を込めてと自ら説明して、ピアノソナタ第12番の第3楽章の葬送行進曲を弾きました。
残念ながら演奏自体はまったく首を傾げるようなもので、この作品本来の姿からかけ離れたものと感じましたが、ともかくもこれで一夜のコンサートでベートーヴェンの二つの葬送行進曲が演奏されたということになりました。
こういうオチをつけるために「皇帝」を後にまわしたのだろうと了解できました。

この日さらに驚いたことは、コンチェルトで使われたピアノでした。
シンフォニーの演奏中、ピアノはステージ左脇に置かれていましたが、それはツヤツヤのスタインウェイでキャスターは最も新しいタイプの特大サイズのものが金色にギラギラと光っていましたから、てっきりどこかから貸し出されたのか、あるいはこのホールが新規に購入したピアノと思っていました。
「ああ、また例の新しいスタインウェイか…」というわけです。

ところがシンフォニーが終わって、係りの人達によって舞台中央にピアノが移動させられてくると、ひとつピアノに不可解な点があるのに気がつきましたが、そのときはそれほど気にもとめていませんでした。

ピアノの移動が終わって大屋根が開けられ、準備完了となると、例によってコンサートマスターがAの音を出しますが、それがこころなしか色艶がありふっくらしているように感じはしましたが、しかしこの時点ではたった1音ですから、まだなんともわかりませんでした。

ダルベルトが登場し、冒頭の変ホ長調のアルペジョを弾いた途端、あきらかに!?!?と思いました。
最近再三にわたって書いている、新しいスタインウェイの音ではないのです。

でもサイドに書かれた大きな STEINWAY & SONS の文字やマーク、
ここ最近採用され始めた巨大なダブルキャスター、ピカピカに輝くボディなど、おろし立てのようなピアノにしか見えませんが、音はあきらかにちょっと枯れた深みと太さのある昔のスタインウェイの感じで、もうマロニエ君はあきらかに混乱してしまいました。

ところが細部に目を凝らして見てみると、このピアノは新しいピアノではないことが判明し、そのときは思わずアッと声を出しそうになりました。
それでわかったことは、あくまで客席から見た限りですが、察するに30年ぐらい前のスタインウェイで、おそらくはオーバーホールを機に全塗装され、足はまるごと新しいものに取り替えられ、サイドには大きな金文字が加えられたのだろうと思われます。

よく技術者の中には「新しいピアノはパワーがある」と言い、それは裏返せば「古いピアノはパワーがない」という意味になりますが、それはとんでもないことで、新しいピアノよりもよほど力強くオーケストラのトゥッティ(全合奏)の中でも逞しく鳴り響いていたこの事実を、こういうことをいう人達はどう説明するのか聞いてみたいものです。

逆に最近の新しいモデルでは、鳴りが悪くて、とてもこんな力強いコンチェルトは出来なかったと思われます。
鳴らないピアノというのは音じたいが常にどことなく苦しげですが、この鳥栖のピアノは熟れたなんともどっしりした貫禄がありましたし、「ああ昔の演奏会はこういう音だった」と懐かしさまでこみ上げました。

というわけで、いろんな意味でたいへん充実したマロニエ君のラ・フォル・ジュルネ体験でした。
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ラ・フォル・ジュルネ2

ピアノコンサートが終わると直ちに、次の会場である大ホールへ移動します。
この音楽祭の決まりで、いったん外に出て再び中へ入らないといけないのですが、一階ロビー周辺はもう立錐の余地もない大変な人、人、人で、そこへ入りきれない人が外にまで溢れており、前に進むのもやっとです。
おまけにここでは無料の室内楽コンサートまでやっているようで、まさに黒山の人だかり状態。

ちなみにホールのロビーには2台のグランドが大屋根を開けて置かれていますが、一台はヤマハの古いCF、そしてもう一台はなんとあの有名なフッペルのピアノでした。

鳥栖のフッペルといえば第二次大戦末期、特攻隊の若い兵士が、出撃前の最後の休日にやってきてこのピアノで月光などを弾いたという話があまりにも有名ですが、鳥栖市はこの記念すべきピアノの名を冠して「フッペル鳥栖ピアノコンクール」というものまでやっているほど、この鳥栖市にとってまさに宝のような楽器なのでしょう。

思いがけなくそのフッペルを実物として初めて見ることができました。
そうそうあるチャンスではないと思い、顰蹙覚悟で低いけれども舞台らしき台の上にのぼって中を覗くと、たいへん美しく修復されており、しかもけっこうなサイズ(優に2m以上ありそう)なのには驚きました。

昔は日本各地の学校には今では信じられないような世界の名器が無造作にあったのだそうで、福岡の修猷館などもスタインウェイがあったとか、以前も見た古い映像では戦時中女学生がもんぺ姿で歌を歌っているとき伴奏に使っているピアノがベヒシュタインだったりと、日本製ピアノが戦後台頭してくるまでは、学校にはこんなピアノがたくさんあったようです。

コンサートに話は戻ります。
大ホールのコンサートはゲオルグ・チチナゼ指揮によるシンフォニア・ヴァルソヴィア(かの有名なヴァイオリニスト、ユーディ・ネニューインが1984年に創設したポーランドのオーケストラ)で、演目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とピアノ協奏曲第5番「皇帝」というものです。

英雄と皇帝というのも、あまりにベタな感じで笑えましたが、しかし聴きごたえのある2曲であることには確かです。

このコンサートは「大いにマル」で、英雄の出だしの変ホ長調の和音が鳴ったときから、なんというかある種の覇気があって、これは!と思いました。
予想通りに演奏は力強く、たいへん充実したものでした。
これは、とにかく久々に聴けた満足感のある演奏で、オーケストラそのものは特に大したことはないのですが、しかしみんなが気合いを入れて情熱的に演奏するために燃え立つような燃焼感があり、音楽になにより必要な生命感がみなぎります。
そして、この傑作シンフォニーの素晴らしさとあいまって音楽の中に引き込まれ、大いなる感銘を呼び起こすものでした。

当初は第6番「田園」が予定されていましたが、おそらくは(マロニエ君の想像ですが)英雄の第二楽章は葬送行進曲であるため、東北地方大震災の犠牲者の追悼の意味もあってこの曲に変更されたのだと、あとから解釈しました。

ともかく、燃焼して突き抜けた演奏はそれだけで聴く者の心を揺さぶるものがあり、ここ何年もこういう熱い演奏に接したことがなかったように思いますし、おかげで何年分かの溜飲が一気に下がった思いでした。

日本のオーケストラの中でも有名かつ上手いとされていながら、実際は役所仕事みたいなシラけた演奏しかしない高慢な放送局のオーケストラなどとは大違いで、フレーズの盛り上がりやストレッタなどではみんな上半身が反ったり揺れたり、音楽とはこういうもので、音楽家が演奏というものに今ここで打ち込んでいるという姿と音が目の前にありました。

続いて「皇帝」ですが、独奏者がエル=バシャからミシェル・ダルベルトに変更になったのは事前に発表された時点でガッカリでしたし、あいかわらずダルベルトの演奏はマロニエ君の好みではありませんでしたが、それでもこの活き活きとしたオーケストラに支えられ、あるいは触発されて、ダルベルトも非常に力のこもった渾身の演奏をした点についてはよかったと思いました。

ただ、せっかくの充実した演奏でしたが、楽章間に会場全体が盛んに拍手するのは今どきどうかと思いました…。
ごくたまに、あまりの熱演で思わず楽章間に拍手が起こるということはあっても、これはまさにその時の自然な流れから起こるものですが、それではなく、みんな無邪気に一曲ごとに拍手している感じがありありとしていて、挙げ句にはピアノの移動の際にちょっと楽団員が移動するのさえいちいち拍手々々なのには、ちょっといたたまれない気持ちになりました。

もちろんそれだけお客さんが喜んだという意味では大変結構なことだとは思いますけど、クラシックには最低の様式というものがあり、そこはぜひ守って欲しいものです。

都市部ではちょっと考えられない珍現象でした。
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ラ・フォル・ジュルネ1

九州初上陸のラ・フォル・ジュルネ鳥栖2011に行ってきました。
夕方から2つのコンサートを聴きましたが、結果は「大いにバツ」と「大いにマル」のふたつ。

東京で行われるような規模ではなく、わずか2日間の本公演でしたが、それでも3ヶ所の会場で30近いコンサートが行われたのですから、ともかくも画期的な音楽祭だったと思います。

今年のテーマは「ウィーンのベートーヴェン」ということで、すべてベートーヴェン作品が演奏されたようです。

そもそもなんで鳥栖なんだろう?という思いはありましたが、会場に近づくとなにやらあたりだけやたら賑やかで、車をとめるのも大丈夫だろうかと思うほどでしたが、幸いにもなんとか置くことができ、会場へ急ぎます。

敷地内はもう大変な人出で、覗くヒマはありませんでしたが、前庭には各種の屋台などがズラリと居並んでおり、人を掻き分け掻き分け進む様は、まさにお祭り騒ぎのそれでした。

会場は鳥栖市民文化会館で、ここの大・中・小の会場で各種のコンサートが繰り広げられているようでしたが、通常のコンサートと違うのは、同時刻に複数のコンサートが行われるために、目指すコンサートの会場入りを待つ列の後ろを探さなくてはいけないなど、ちょっとした戸惑いもありました。

マロニエ君は2日目の夕方からピアノソナタのコンサートと、オーケストラのコンサートに行きましたが、聴いた順にいうとまずピアノソナタのコンサートですが、これはものの見事に失敗でした。
演奏がともかくお話にならないというか、はっきり言って聞くに値しないものだったと強く感じましたので、あえてピアニストの名前は書きませんし、覚えてもいませんし、調べて書く気にもならなりません。
曲目はピアノソナタ第1番と第23番「熱情」で、ともにヘ短調のソナタです。

マロニエ君が座った席は100人強の会場の、ピアノをコの字形に取り囲む座席配置の中で、ピアノのお尻のほうの席でしたが、ここから真正面によく見えるのがペダルでした。
で、この人、やたらめったらソフトペダルを多用するのはもうそれだけでいただけません。

ソフトペダルは演奏する作品によっては柔らかな弱音や音色を変えるためなどにこれを使うのはわかりますが、タッチで強弱を付けるかわりにこのペダルを踏んでいるようで、どうかするとずーっと踏みっぱなしで、なんなんだと思います。
大まかな印象では全体の半分近くこれを踏んでいたように感じましたが、普通、熱情の前後楽章でこれを踏む場所がどこにあるだろうかと思いませんか?

小さな会場故か、ピアノはヤマハのS6でしたが、これがまたなんと言っていいか…。
少なくともマロニエ君にはその良さがまったく理解しかねるピアノで、帰ってカタログを見ると同サイズであるC6の倍近い504万円!もするのには驚き、何かの間違いではないか?と思いました。

よくCシリーズとは違うようなことを尤もらしく言う人がいますが、マロニエ君の耳にはまったくそれはわかりませんでした。カタログにも何がどういいのか、なにひとつ明確な記述も説明もないところが不思議ですが、それでこの猛烈な価格差はどう納得すればいいのだろうと思います。

高音がキンキンいう割りには低音が貧弱で、ゴンとかガンとかいうだけの音がいっぱいありました。
あれでプレミアムグレードという位置付けだそうですが、マロニエ君ならレギュラーシリーズのC6か、いっそC3でも充分だと思われました。

以前もちょっとしたコンサートでS6の音を聴いたときにも似たような印象だったことを思い出しましたが、このときはたまたまだろうぐらいに思っていましたけれど、やはりたまたまなんかではありませんでした。
少なくともヤマハほど厳格な品質管理の行き届いたメーカーの製品なら、そんな当たりはずれはないでしょう。

C6とS6の違いのわかる人のご意見をぜひとも拝聴してみたいものです。
とりあえず今日はここまで。
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自称恋愛の大家

こういっちゃなんですが、世の中はたいしたこともない人に限って、虚勢をはって大風呂敷をひろげるようなことを言うものです。
恋愛経験も例外ではなく、どちらかというとあまり経験がありそうには見えないような人のほうが、自分の経験らしきものをご大層に、恭しげに語ってしまう場合があるものです。

ごくたまにこの手の話を見聞きすることがありますが、そこで語られる「自分」はまるで映画の主人公並で、出会いからお付き合いの経過、心理の駆け引き、それにまつわる困難や苦労話までもが、誇らしげに、熱っぽく語られるのには失笑してしまいます。
とくにある種の目立ちたがりで、しかもどちらかといえばあまりおモテにならないような女性の中に、この手のタイプがいらっしゃるようで、逆に経験豊富な人はだいたい自分のことは黙っているようです。

どこまでが自分の経験か疑わしいような話まで一切合切ひとまとめにして、例えば相手の人間性の見極め方であるとか、世の中にいかに酷い最低の男がいるかというようなことが綿々と語られ、すべては自分を中心とした視点や思考基準のもと、そこに登場する男女は、より極端にコントラストを強調しながら、苛烈な筋書きをもって誇大に脚色され表現されています。

しかもその苦心談が、まるで壮絶で深みのある人生経験のごとく、朗々と語られる自慢話のようになっているのがお定まりです。
こういう人の得意のセリフは「下手なドラマなんかより、よっぽどすごい!」とか「全部話そうとしたら本が一冊できちゃう!」といったもので、マロニエ君などは、だったら書いてみろ!とつい言いたくなります。

そんなに稀有な体験で、波瀾ずくめのすごい話なんだったら、どんどん原稿にでも仕上げて、出版社なり映画会社なりにプレゼンでもしてみりゃいいのです。

あまり具体的なことは書けませんが、男女の仲において、片方だけがそれほど極端に悪くて、もう片方は善人の鑑のような人なんてとことがあるだろうかとも思います。
もちろん個別具体的にはいろいろと驚くべき話が転がっていることは承知していますし、実際ひどい男(女)もいるでしょう。

しかし、大きく見れば、男でも女でも、そんなに言うほど片方が酷い人間なのであれば、いつまでもそんな人と手を切らずに関係を引きずった側にも、ある一定の責任はあるように思います。

もちろん、第一義的には悪い方が悪いに決まっていますが、(とくに結婚していないなら)いいかげんに見切りを付けるべきであったところを、自分もいろんな諸事情あって未練がましく離れきれないでいたクセに、にっちもさっちもいかなくなったとたん、一転して相手ばかりをののしり募っても、なんだか客観的には説得力に著しく欠けていたりするものです。

ところが、こういう人に限っていつしか恋愛のオーソリティーのような顔をしはじめ、自分のささやかな体験を元手に、したり顔で恋愛論をぶちあげ、果ては他人の話に尤もらしいコメントをつけたり、我こそはという相談役となって堂々とアドバイスやお説教までやってしまいます。

人並のバスにさえ乗っていないような人が、その道の専門家のような口を聞くのは、まさに失笑ものです。
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練習会でした

昨日はピアノサークルの練習会でした。
今回はリーダー殿がゴールデンウィークで不在のため、マロニエ君が幹事役を代行しての開催でした。
とはいっても会場の予約や告知以外に何をしたというわけでもありませんが。

会場は市内のグランドピアノのある喫茶店で、そこを貸し切って使わせていただきましたが、普段の定例会とはまた違った雰囲気を楽しむことができました。
この喫茶店は音楽を主体にした店で、小さなコンサートなども随時おこなわれており、貸し切りで使うほかに、一般のお客さんの入店もOKの使い方であれば会場費はなんと無料!になるのですが、喫茶店利用が目的で来られた普通のお客さんを前にして、我々のようなシロウト集団が練習会をするのは営業妨害になると思われましたので、敢えて貸し切りでの利用となりました。

この店のピアノはわりに新しいヤマハのC5で、とても素晴らしいピアノでしたが、ふだん弾き慣れないヤマハのタッチにすっかり戸惑ってしまい、最後までこれに慣れることができませんでした。
ここの近くにある、定例会で何度か使ったことのあるスペースのC3もまったく同様のタッチであったことを弾いていて思い出しましたから、やはりこれがヤマハの標準的なタッチだろうと思われます。

あとからわかったことですが、今回は10人の参加者のうちの実に5人がカワイのグランドのユーザーで、これもなにかの必然か偶然か、そこのところはよくわかりませんが、みなさんピアノに関してはほぼ同意見であることが妙に納得できました。

マロニエ君も昔はともかく、今は普段はカワイに触れることが最も多いので、日本では最もポピュラーなはずのヤマハのタッチに戸惑いますし、出てくる音とのバランスの関係にもよく馴染めないようになってしまっていることに、我ながら驚いてしまいます。

目の前の文字が「K.KAWAI」じゃないことが落ち着かず、あの肉厚なYAMAHAの文字を見ただけで勝手の違うよその人みたいな気がしてしまいますし、これはきっと逆の場合もそうなんだろうなと思います。

そう考えると、どこのピアノでも待ったナシに弾かざるを得ず、しかもそれで自分の力を示さなくてはならないプロのピアニストというのは、本当に大変なことをやっているのだと思ってしまいます。

練習会終了後の懇親会は近くのホテルでバイキングとなりましたが、そこの宴会場の脇に置かれたピアノもヤマハで、このところ場所探しをしたほとんどの会場がヤマハでしたから、その一般的な普及率の高さは、とうていカワイの及ぶところではないようです。

もうひとつ感じたことは、マロニエ君みたいにメチャメチャ緊張するタイプの人間にとっては、会場は狭い方がよけいに緊張の度合いは高まるようで、広い方がまだいくらかマシということがわかってきました。
とはいっても、どっちみち緊張することに変わりはないのですが。
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黄砂

昨日は、郊外まで出かけたのですが、あいにく黄砂の影響で景色はどこを見ても限りなく重々しく霞んでいるようでした。
普通の霞や曇天と違うのは、空気がどこまでも薄茶色に汚れている感じのするところです。

黄砂を見ていると思い出すのは中国です。
中国に行くと上海でも北京でも、たえずこの色の空に覆われていて、そんな中に不自然かつ奇抜なセンスの高層ビルが林立しているのが現代の中国都市部のお定まりの眺めです。

これはいうまでもなく、年々その範囲を拡大しているらしい内陸の砂漠地帯から砂塵が風に乗って撒き散らされるためですが、この影響は日本でもかなり深刻なもののようです。

昨日も気がついたのは、走っている車の屋根やボンネットなどが、うっすらと黄粉をふりまいたように茶色に汚れていることで、これまでの黄砂だったらダーク系の車でそれを確認することが出来る程度でしたが、福岡ではここ数日黄砂が続いたためか、今回は白やシルバー系の薄い色の車でもそれがはっきりとわかり、やはり相当量が降り積もっているものと思われます。

マロニエ君は最近でこそ少し小康を得ているものの、もともと呼吸器がそれほど強いほうではなく、数年前は喘息治療で専門医のもとへ通院したりしていました。
親しい知人の医師が言うには、そのまた医師仲間である呼吸器が専門の医師の話によると、要するに日本人のぜんそくの多くは主に黄砂に起因しているというのだそうです。

黄砂がなくなれば日本の喘息患者の多くがより快適な体調を取り戻すことができるのだそうですが、そうはいってもこればかりは自然現象でもあるし、日本の東に中国大陸が存在するのは如何ともしがたく、まさか国が引っ越しをするわけにもいかないので、これはどう考えても解決の見込みはないようです。

しかし、たえず呼吸をしている人間(動物もですね)の肺には、現実にそれだけの量と時間、黄砂の成分が入り込んでいるわけで、それを思うと考えただけで呼吸が苦しくなりそうな気分になります。

巷ではたばこの煙が厳しく規制されていて、愛煙家には申し訳ないもののその恩恵に浴しているマロニエ君ですが、黄砂も純粋に人体へどの程度の悪影響があるのか、ここは興味のあるところです

黄砂の強い日は車のエアコンももちろん内気循環に切り替えてしまいますが、結局なにをどうしたところで、どのみち日常生活でこれを防ぎ切ることは不可能なので、結局はそれに対する抵抗力をつけるしかないということでしょうね。

そういえば中国には、日本人が普通に親しんでいるような、あの青空はほとんどないような気がします。
飛行機に乗っても、着陸態勢に入って次第に高度を下げると、まず印象的なことは一転して空気がどことなく茶色っぽいこと、海はおしなべてどんよりと濁っていることです。

逆に日本に帰ってくると、どこを見てもその澄んだ空気の美しさ清々しさに驚かされますが、ここしばらくはそれも望めそうにありません。
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真相はいずこに

あるピアノ技術者のブログを読んで「へぇぇ、そうだったのか」と思わせられる書き込みが目につきました。
やはりというか、思いがけなく感じていた疑問が解けたようでした。

ショパンコンクールでヤマハのCFXを弾いて優勝した、ロシアのユリアンナ・アブデーエヴァですが、これは同時にヤマハのピアノを弾いた優勝者が現れたという事でも同社にとって有史以来の初の快挙だったわけで、しかもその約半年前に発表された新開発のコンサートグランドがいきなり世界的コンクールでいわば金メダルをとったようなわけで、ヤマハの喜びようは大変なものだろうと思っていました。

当時の予想では、さぞかしこれからは広告やカタログにもそのことが大々的に打ち出されるものだろうと思っていましたし、それはマロニエ君だけでなく業界の人達もおしなべて同様の見方をされていたようでした。

ところがその後のヤマハの広告には、アブデーエヴァのアの字も、ショパンコンクールのシの字もまったく出てこないのは大いに予想外という他ありませんでした。通常ならたぶんこんなことは考えられないことで、かつてヤマハが広告にリヒテルをしつこいほど使い続けたことを考えると、「どうしちゃったの!?」と言いたくなるような静けさで、それは今だに続いています。

アブデーエヴァは優勝直後に2度来日し、一度はN響との共演、続いてワルシャワフィルとコンクールのファイナリスト達で回るガラコンサートでしたが、なんと彼女はスタインウェイばかりを弾きました。

はじめは「NHKホールは外部からピアノの持ち込みはさせないらしい」などの憶測も飛び交いましたが、ヤマハを弾かない状況は他のホールでもずっと続きました。
そして、冒頭の技術者の裏情報によれば、なんとアブデーエヴァ自身の意志によって、優勝後は使うピアノを変更したのだそうで、優勝直後にそれをするのは非常に思い切ったことだということも書かれていました。
しかも公演地は他ならぬ日本ですから、当然ヤマハもピアノを準備していたらしいのですが、これを退けてスタインウェイを使ったとのことで、そんな手の平を返したような豹変があるのかとただただ驚きです。

コンクール直後の海外公演で、しかもヤマハの生まれ故郷である日本の舞台で敢えてそれを弾かないというぐらいなら、なぜコンクールでは一次から一貫してヤマハを弾き続けたのかと思いますし、普通に考えれば、アブデーエヴァだってヤマハには恩義のひとつもありそうな気もしますし、ましてや優勝後初の日本での演奏なのですから(あくまで普通に考えればです)。

単純にアブデーエヴァがヤマハよりスタインウェイのほうを好きになったと見るのはあまりに稚拙な解釈という気がして、ここには我々にはうかがいしれない諸事情がありそうな気がします。
とくに企業間の暗闘には筆舌に尽くしがたい激しいものがあり、それに伴ってコンクール自体にも暗い噂がたったことが過去に何度もありましたから、今回もまた水面下でのいろいろな駆け引きがあり、これは要するにその結果だということもじゅうぶん可能性がありそうです。

楽器の業界も、舞台裏は魑魅魍魎の棲むドロドロの世界だと聞きますから、我々のようにただ音がどうのなんて勝手なことを言って楽しんでいるだけではすまされないものが絡んでいるのはまぎれもないこと。
結局、世の中って、どこも現実は決してきれいなものではありません。

好きなことは趣味にして、勝手なことを言っているのが一番ですね。
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草が伸びて

昨年の夏に何度か書いた庭の草戦争ですが、今年もついにはじまりました。
というよりも、戦いにおける先手必勝の法則に倣えば、出だしで大きくつまずいた感のあるマロニエ君です。

昨年は薬物投下により勝利宣言をしていたわけですが、今年はつい油断してしまい、毎日ばたばたしている間に、敵は春の陽射しをシャワーのように浴びて、日に日にその姿をあらわにしてきました。

つい先日、一度だけ簡単に除草剤をまいていたのですが、時間がないことと、けっこうこれが重労働で疲れるので中途半端に終わらせていたのですが、その間にもぐんぐん伸びてきてしまい、庭は一面緑のヒゲが伸びたように雑草の海になりつつあります。

早くしないとと気持ちばかりは焦りますが、なかなかその作業に取りかかれないのが毎日気がかりです。
方法としては、除草剤の原液を希釈して、ジョーロでまいていくのですが、自分の足にかかるとよくないので、ガレージから長靴を取ってこなくてはならず、たったこれだけのことも面倒臭くて何度か延期してしまいます。
どこかで腹をくくって、時間をつくってやってしまえばいいものを、ぐずぐずしているうちに敵は確実に進撃してくるのがなんだか恐ろしくさえなってくるわけです。

ところがこうしてモタついているうちに夕方から夜中にかけて雨になったりすると、まだ薬をまいていなかったことが逆に良かったように思われるというか、もし実行していたら、あえなく雨で流されるところだったと考えて、一時的にホッとしたり、しかし雨上がりはまた一段と伸びてくることを考えるとウンザリしたりの繰り返しです。
こう言ってはなんですが、怠け者というのも結構かかえるストレスは大変なものです。

また、この時期は木々から新芽やらなにやらが多く萌えだして、それを情緒として楽しむヒマもないほど、木の芽などいろんなものが毎日盛大に降ってくるわ、樹液でいろいろ汚くなるわでうんざりです。
距離を持って見ているぶんには緑はほんとうに美しいものですが、ちょっと身近の植物というのは実は不気味でグロテスクな一面があるものです。

樹下には自然に生えてくる木の新芽も数多く、一見これは自然の営みでかわいらしいもののように見えますが、さっさと摘みさっておかないと、一年もほったらかしにすると、もう引き抜くのも並大抵ではないほどの成長をしてしまいます。
こういう労働を怠ると、草木はそれこそ傍若無人な振る舞いを始めて、それこそあたりは不気味な状態となってしまいます。

これがアウトドアの作業とか庭いじりが好きな人なら、楽しみにもなるのかもしれませんが、マロニエ君の家にはあいにくと該当する人間が一人もいないので、いつもイヤイヤながらこの始末に追われていまいます。

ときどき、庭中にコンクリートでも流し込みたくさえなります…。
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管理意識の欠落

昨日は午後からむしむしすると思ったら、夕方から雨となりさっそく除湿器を回しています。

有名メーカーのセレクションセンターなどは常時、湿度は47%、温度は24℃に維持されているそうですから、これを一応の理想基準として自分のピアノの管理の参考にしたらいいと思いますが、なかなかそこまではできません。
マロニエ君の場合は湿度は50%前後、気温は20〜25℃といったところですが、就寝時は部屋が無人になるためにエアコンは止めますので、朝までは若干の寒暖差がおこるのはやむを得ないところです。

しかし、このピアノ管理というのは実は素人のピアノ好きのほうがよほどちゃんとしているくらいで、ピアノの先生やピアニストの中には、まったく信じられないような酷い人が多いのは、知る限りでもそうですし、人から聞く話でも同様のことは際限なく聞こえてくるものです。
いわばピアノの専門家の所有でありながら、ほとんど虐待とでもいいたくなる扱いのピアノは少なくありません。

ピアノの先生というのは、表現が難しいですがいろんな意味に於いて視野が狭く、本当に先生として尊敬できる人物、演奏の技量、音楽的な造詣、楽器の知識などを兼ね備えている人なんて、まさに文字通りの一握りの別格例外的存在です。

ピアニストはピアノの先生よりも演奏を本分にしているだけ、ピアノを弾くための単なる指のスポーツ的テクニックだけは先生よりも上だと言えるでしょうが、それ以外は大した差もなく、ピアニストでもピアノの事を何も知らない、ただの道具としか思っていない人のほうが圧倒的に多いようです…残念なことに。

タッチなども、極論すれば、たぶん重いか軽いか以外の判別能力は実はほとんどないでしょう。
ピアノの評価も派手な大きな音がするピアノを良しとして、少し地味でも本当に美しい音を出すようなピアノの良さがわからず、言下に「鳴らない」などと言ってしまうなど朝飯前。
レッスン室ではグランドピアノの真下に電気ストーブを入れているとか、ピアノの上に花瓶を置くなどという話はゴロゴロですし、メトロノームはあっても湿度計はなく、ましてやピアノのために除湿器を回すなんてことはあり得ないような人が大半です。

そうかと思うと、ピアノにはいつも重々しいカバーがかけてあったり、毎度毎度キーのフェルトカバーを置いたり取ったりすることだけはぬかりなかったりと、いったいどういう部分を大事にしているのか理解に苦しみます。

ピアノの管理とは限らなくても、世の中には湿度に対してそうとう無頓着な人が多くて、この点ではどちらかというと敏感なマロニエ君などは驚くことが少なくありません。
ベタついた湿度の中で平然としている人を見ると、思わず野蛮人のように見えてしまいます。

リサイタルをするようなピアニストでさえ、梅雨の時期にもエアコンを入れず、雨が降っていてもかまわず窓を開けて平気で練習するといった冗談みたいなことをするという、正にウソみたいな本当の話があるのです。
こんな無神経な人が、リサイタルをすることだけには異常に熱心だったりするわけですが、そんな人の演奏は聴きたいとも思いません。

そんな驚くべき管理の悪さは棚に上げて、たまさか調律師が来ると、後日どこどこの音がおかしいだのと日ごろの自分の管理は棚に上げて、お金を払ったとたんにクレームだけはつけたりするようで、調律師もたまったものではありません。

あれ?ピアノの管理のつもりがつい脱線してしまいました。
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昔のスタインウェイ

クリダのCDを聴いてもうひとつ、思いがけない収穫だったのはピアノの音です。
この一連の録音は1960年代の終わりから70年の中頃にかけておこなわれていますが、この時代のスタインウェイのなんと濃密な音がすることか!

昔はマロニエ君の耳に馴染んだ市民会館のスタインウェイなども、ああこういう音だったというのを思い出します。
変に人工的なところのない温かみのある音でありながら、強さと輝きもしっかりあって、そこはスタインウェイならではしたたかな迫真力みたいなものがビシッと張りつめているわけで、今どきの腰の弱いキラキラ系の音とは、根底にあるものがまったく違うことがわかります。

この時代のスタインウェイの音を聴いたことが、ピアノの音に対する深い原体験となって、そこからスタインウェイのファンになった人はとても多いだろうと思います。むろんマロニエ君もその一人です。

ひとつ確信できることは、現在のスタインウェイよりも木の音の占める比率が強いということ。
上質な木が作り出す音がまずしっかりあって、それを例のフレームの鳴りにブレンドして華麗に演出していることがわかりますが、今は逆で、さほどでもない木の音をフレームの鳴りでカバーしているだけで、だから厚みのない量産品の音なんだと思います。

クリダのCDを聴いている時期に、これも偶然ですがNHKのクラシック倶楽部という番組を録画している中から、ある日本人ピアニストのコンサートを聴きました。
このピアニスト、ちかごろショパン絡みでちょっと話題の人みたい(不覚にもCDまで買ってしまった)ですが、まったく何ひとつとして良いところが感じられませんでしたので、敢えて名前は書きませんが、この人のコンサートが出身地の関係なのか、NHK名古屋のスタジオコンサートでおこなわれたものでした。

このNHK名古屋のスタジオ収録で使われたスタインウェイは、鍵盤両サイドの腕木の形状やフレーム上のエンボス文字の位置などから、少なくとも30年以上前のピアノであることがわかります。
残念ながらこのピアニストの演奏は病人のようで音楽性も感じられず、とてもクリダのように美しくピアノを鳴らすことは出来ない人でしたが、それでも聞こえてくるその音はこの時代のスタインウェイ特有のあのなつかしい凛とした音でした。

総じてこの時代のスタインウェイには本物だけがもつ気品と真の深みがあり、いまさらながら感銘を覚えます。
音の濃密さと輪郭、電気でも流れているような圧倒的な低音などは、まさに本来のスタインウェイのそれで、新しいスタインウェイをまったく歯牙にもかけない極端な人もおられたりするのが、こういう音を聴くと、やっぱりちょっとその気持ちもわかるような気もしました。

こういうピアノが作れなくなってしまっている現実にも空虚なため息がでるばかりです。
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クリダのリスト

フランス・クリダという、その名の通りフランス人の女性ピアニストがいます。

もうずいぶん昔のこと、日本にも度々やってきてはよく演奏していましたが、当時子供だったマロニエ君はこの人のことはあまり好きではありませんでした。

というのも、演奏云々の以前に、とにかくリストばかりを弾くピアニストだったので、そのころからリストはあまり好みではなかったために、リスト弾きという技巧一点張りなイメージが子供心に強い反発を感じていましたし、彼女のことをリストだけを弾く下品なおばさんぐらいにしか思っていなかったんですね、当時は。

かなり何度も日本に来た印象はあったのですが、ある時期からパッタリと来なくなくなり、次第に名前も聞かなくなってしまい、その後どうしたのだろうと思っていましたが、どうやら後進の指導にあたり、最近はコンサートもあまりやっていないようだということがわかりました。

最近そのフランス・クリダお得意のリストのCDが14枚組になって発売されましたので、いろいろと聴いてみたい曲もあったし、彼女の演奏の記憶はほとんどないので、果たしてどんな演奏をしていたのかという興味もあり、これを購入して、ここ最近ずっと聴いています。

内容はリストの主要なピアノソロ曲をそれなりに網羅したもので、一枚目の巡礼の年を聴いただけでオッと思いました。
最近のリスト演奏からは聴かれない、深い落ち着きと、作品に対する心地よい自然さがあるのがまずもって意外でした。
その後も1枚のディスクを数回繰り返しながら聴き進んで、まだ全部は終わっていませんが、その全体に流れる一貫した演奏のありかたには深い感銘を覚えました。
同時に、むかしむかし、マロニエ君はクリダに対して大変な誤解をしていたことに気がついて、いまごろ彼女に申し訳なかったような気になってしまいました。「リスト弾き」…それだけで背を向けていたのです。

リストの本当の素晴らしさに気がついたのは、ずっと後年になってからのことですが、一握りのお祭り騒ぎのような、聴いているだけで恥ずかしいような有名曲の陰に隠れるように、なんとも精神性の高い奥深い作品がいくつも隠れていることを知るようになりました。しかし、それらを本当に満足のいく演奏をしているピアニストのなんと少ないことかというのも、偽らざる印象です。
巷では高い評価を受けているラザール・ベルマンもあまりマロニエ君の好みではありません。

その点、クリダは本当に適度な重厚さと自然さが見事に調和し、リスト本来の素晴らしい部分を引き出すような美しい演奏をしていて、冒頭に述べた下品さは微塵もない見事なもので驚きました。

これに比べると、先月のブログに私的で宗教的な調べのことで書いたブリジット・エンゲラーは、それなりの評価があるようですが、てんで奥行きがなく、クリダを聞いた耳には霞んでしまいました。

こんな昔のピアニストで、いまごろその凄さを知って驚くなんてことは、まずないことなので、すごく得をしたような気分です。
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またもお買い上げ

懇意のピアノ店から連絡があり、カワイのグランドが入ってきて調正が済んだので弾きに来てくださいといわれて、ピアノを欲しがっている友人を連れてに見に行ったのですが、そのピアノはRX-2 ITという特別モデルで、イタリアのチレサの響板を使った、いわばヨーロッパの血が混ざったカワイでした。

12年ほど前のピアノですが、まだまだ若々しくてピカピカした状態でした。
アクションは、カワイのグランドが樹脂製のアクションになる直前の、木製による最後の時期という点がさらにポイントでした。
カワイの樹脂製のアクションには賛否両論あって、一時はずいぶん技術者からの苦情も上がったようですが、カワイはそれにも屈せずに樹脂製のアクションを製造し続け、現在はそれが2世代目に発展して黒いカーボン系ものになり、強度を増しやや軽量化なども果たしているようです。
しかし、技術者の中にはこれを従来の木製に戻す試みなどもやっていますので、そこには様々な長短の理由があるのだと思われますし、やはり一長一短があるのだろうとは思います。

しかし、他のメーカーが一向にこのカワイの革新技術に追従しないのは、やはりまだ木製のほうがいいという考え方も根強いことの表れかもしれません。
マロニエ君は正直なところ、本当にいいものなら素材が何だって構いませんが、現段階ではやはり木製のほうがいくらか安心というか、やはりピアノには木製アクションのほうが情緒的にも収まりが良いような気がするのも事実です。
かといって、そこに大したこだわりはありません。

さてそのチレサの響板のRX-2、ここのご主人の高い技術力あってのことですが、なかなか素晴らしいピアノであったのは予想以上でした。若干キーが重いという点はやや気になりましたが、これはカワイのグランドが生来持つ特徴のようで、タッチの俊敏性を損なうことなくこれを解決していくのは技術者泣かせの課題のようです。

しかし、音にはレギュラーモデルにはないやや明るめの基音と、そこから立ち上る響きに立体感があるのが印象的でした。
技術者の整音技術にも大いに負うところがあるものの、音には太さと輪郭、芯と肉付きがあり、好ましいものでした。
さらには通常の響板のモデルよりも音にずんとした深みがあって、これはキーの重ささえ解決したらSKシリーズ寄りのピアノになるような気さえしたほどです。

これがエッと思うような値段だったので、ピアノ好きならだれだって気分はふらっとしてしまいます。
友人はかなりこのピアノにふらついている様子で、これは買うだろうな…と思っていたら、ご店主が先を制して2〜3日考えた方がいいですよと逆に言われ、この日はいったん引き上げることになりました。
そして後日、案の定、買う決断は変わらず、その旨連絡をしたそうです。

短期間の間にEX、RX-3、RX-2 ITと、やたらカワイにご縁がありますが、どれも素晴らしいピアノで、つくづくカワイはいいなあという思いを新たにしています。

それにしても、このところマロニエ君のまわりではピアノを買う人が続いてしまって、自分もつい買いたい虫が疼いてくるようです。
あー、ピアノが買いたい!
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立ち読み&メール

最近、あるショッピングモール内の大型書店に行ったときのこと。
いまさらという気もしますが、最近の人達の携帯メールへの依存度というか執着の強さには呆れてしまいました。

マロニエ君が見たい本棚の前で、立ち読みしている一人の男性がいましたが、その人がいるので左右どちらからも手が伸ばしにくく躊躇していましたが、彼はまるで周囲の人への気遣いなどは眼中にないといった感じで立ち読みを続けています。
最近はどうかしたことでは、やたらと気を遣ったりルールを守ったりということが盛んなようですが、それは表向きで、こういう場面での他者への配慮というのはまるでないと感じることがよくあります。

人の前の何かを取ろうと手を伸ばしても、1cmでも動こうとはしない若い人などはもはや珍しくもありません。
まあ、ここまでならよくあることです。

さて、マロニエ君もなんとか目指す本を手にすることができたのですが、そのときわかったことには、彼は立ち読みをしながら同時に携帯を開いた本と一緒に右手に持って、せっせとメールのやり取りをしているようです。
まあ、とりあえず人のことなどどうでもいいので、マロニエ君は自分の見たい本を見始めたわけですが、しばらく経ってもとなりの小柄で暗い感じのお兄さんはあいもかわらずメールを打ち続けています。

そんなにメールがしたいのなら、立ち読みはいったん切り上げて、どこか椅子にでも座って落ち着いてやりゃあいいじゃないかと思いますが、メール打ちにもときどき切れ目があって、そのときは本のほうを見ていますから、やはり本も見ているということがわかりました。
ご苦労なことだと思って、こちらも本に集中しようとするのですが、なにしろ真横のことなのでなんとなく気に掛かってします。というか…正直にいうと無性に気に障ってしまうのです。

そしてまた、とめどもないメール打ちが始まり、要はその繰り返しです。
そのメールも「はい」とか「わかった」ぐらいではなく、なにやら延々と文章を打っているようですから、だんだんこっちもイラついてくるのが自分でも嫌になります。
何度か横を向いてまともに見てやりましたが、いやはや、図太いというかなんというか、微動だにしませんね。

とはいうものの、マロニエ君もつい長い時間立ち読みしてしまいましたが、とうとうこの彼がこの場所からいなくなることはなく、正確ではないもののおそらく30分近く経っても、なにひとつ変化は起こりませんでした。
根負けして、こちらのほうがついに退散することになりました。

それにしてもああいう芸当は、器用だと思うと同時に、やはり疲れるだろうなあと思います。
そうまでしてメールにこだわるという理由もわかりません。

そこまで込み入ったことをやりとりするのであれば、いっそ電話でしゃべったほうがどれだけ楽で簡単かとも思いますが、まあそういう問題でもないのでしょうね、きっと。
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ピアノの嫁入り

今年のまだ寒かった頃、友人が海外からピアノを購入することになったのですが、彼はそのために部屋の引っ越しもして、迎え入れの準備を万全に整えるべく長い時間を費やしていたようです。
そしてその準備も整い、ついにピアノは搬入の日を迎え、めでたく所定の位置に収まったようです。

100年は保つと言われているS社のピアノですが、製造から10年ほどの新しい楽器で、聞くところでは、まだまだ弾き込みさえ必要な状態のようで、厳密には中古ピアノでありながらも、これから育てていくべき子供のような歳のピアノだったようです。

このピアノはマロニエ君懇意のピアノ店を通じて日本へ輸入されたのですが、てっきり船便でくるのかと思っていたら、購入決定から早々に手続きが進み、サッと空輸されてきたのには驚きました。
最近のコンテナは昔のそれとは違って密閉性なども向上していていて傷みが少ないと聞きますが、それでも洋上で幾日も過ごすことを考えると、航空便は速いし、リスクが少なく、短期間のうちに日本に到着し、数日後にはさらにお店までやってきたのは驚きでした。

むしろ日本に届いてからのほうが、迎え入れの準備に時間がかかり、その間このピアノは販売店の店頭で開梱され、入念な調整を受けた後、ピアノ運送会社の倉庫に居を移して嫁ぐその日を待っていたようです。

そして搬入日が満を持して一昨日のことだったらしく、果たして彼は前夜よく眠れたのでしょうか?
自分が思い定めたグランドピアノがいよいよ自分の許にやって来るというのは、やはり男性からすればお嫁さんがやってくるような高ぶりがあるのではないかと思います。

マンションの上階までクレーンで吊って上げたそうですが、見ていてずいぶん緊張したそうです。
マロニエ君もクレーン搬入を何度か経験していますが、グランドピアノが空高く宙づりにされるのは、本当にハラハラして心臓によくないものがあります。
いま何かあったらすべては終わりだと思いたくなるような瞬間が幾度もあるものですし、とりわけ最近のように地震が多発していると、そういう不安もさらに迫ってくるでしょう。

現に輸送中の事故でピアノがダメになったというのは、決して珍しい話でもなく、たとえばグールドが晩年にヤマハのCFIIを使ったのも、ある時期チェンバロで録音したのも、元はといえば彼愛用のスタインウェイ(大半の録音はこのピアノで演奏されたもの)が輸送中に落とされて、スタインウェイ本社の懸命の修復にもかかわらず、最終的には以前の状態を取り戻すことができなかったためだと言われています。
それぐらいクレーンでピアノを吊るというのは100%安心できない、リスクのつきまとう作業ですが、それでも持って上がれないところにピアノを搬入するにはやむを得ない方法なのだと思われます。
ともかく無事におさまって、めでたしめでたしでした。

さっそくにも写真を見たいと頼んだら、すぐに送ってくれましたが、いやはやなんとも立派なピアノが部屋の真ん中にドカンと座って(立って?)いました。
よほどのことがなければ、たぶんこのピアノは彼のこれからの人生にずっと付き合っていくことになるのでしょうから、まさにこの日は記念すべき一日だったと思います。
ピアノを買うというのは、やはり他のものとはなにか違って、人の情感が揺さぶられる何かがあり、こちらまでウズウズしてきます。
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