ドビュッシーの前奏曲

ドビュッシーの前奏曲といえば、フランスのピアノ音楽の中でも最高峰に位置づけられる傑作のひとつとして広く知られているものですが、マロニエ君はもうひとつこの曲集に近づきがたいものを感じていて、しっくりこないまま長い時間を過ごしてきました。

ずいぶんむかし、はじめてこの曲集のレコードを買ったのはミケランジェリの演奏で、その透徹した演奏や美音に感心というか、ほとんど服従に近いものがあり、長らく他のピアニストの演奏に触れる機会が少なくなってしまいましたが、その後はずいぶん種類も増えて、リヒテルも弾いていたし、近年では青柳いずみこやエマールなどをいちおう聴いてはいました。

それでもこの曲集に対する基本的な印象を覆すまでには至らず、ましてやポリーニのそれなど聴きたいとも思いませんでした。

そんなドビュッシーの前奏曲ですが、知人からおすすめCDのコピーを頂いた中に、フィリップ・ビアンコーニのそれがあり、これが思いがけず良かったことは嬉しい驚きでした。まずなにより、ハッとするような清新さと自然さをはじめてこの作品から感じとることができたように思ったのです。

この曲を弾く多くのピアニストは、ことさらドビュッシーを意識しすぎるのか、個々の違いはあるにせよ、掻い摘んでいうとしゃにむに印象派絵画のような仕上がりにしたいのか、ピアノという楽器の実態からあえて遠ざかるところに重きをおいたような、いささか芝居がかった演奏だったようにも思えます。
演奏は、演奏家の自然発生的に出てくるものなら聞き手の側にも自然に入ってくるものなのかもしれませんが、悪く云えば、ドビュッシーに同化する自分を演じているようで、本当に演奏者がそういう心境に達した上での演奏であったのか…となると、どうも鵜呑みにもできないような居心地の悪いものがついてまわる気がしていたというところでしょうか。
これがマロニエ君のこれまでのこの曲に対して(正確に言うならこの曲の演奏と言うべきかもしれませんが)、ようするにそんなふうな印象を抱いていたのです。

その点、ビアンコーニはもっとありのままというかストレートな音楽としてこの24曲を弾いており、そのぶん聴くものにも身構えさせない親しみが備わっているような気がします。なんというか、ようやくにして作品が、少しですが自分に近づいてきてくれたようでした。
つまりこれは、脚色されないドビュッシーというべきか、適当な言葉はよくわかりませんけれども、なんとなくドビュッシーがプレリュードで伝えたかったものは、こういうものだったのかも…と思えるような、そんな演奏に初めて接することができて、霧が少しだけ晴れてむこうの景色が少し見えたような気になりました。

音楽の演奏全般にいえることかもしれませんが、程よい自然さというか、要するに必然的な音の発生を感じるものには、それだけ好感を抱けるし、聴く者なりではあるけれど、曲を理解するについても最も早道になると思います。

ドビュッシーでいうなら過度なデフォルメをするのではなく、ラヴェルでいうなら過度なクールさを強調するのではない、音楽としての佇まいに対してもう少し作為的でない謙虚さのようなものを感じさせる演奏であってほしいと思います。

ピアノはヤマハが使われていますが、これがまたとても好ましく思いました。
というか、ドビュッシーには意外にもスタインウェイはまありフィットしないように思います。よくドビュッシー自身の言葉を金科玉条のように引用して、ベヒシュタインこそ最適なピアノのように言われますが、それもマロニエ君個人は心底納得はしていません。
ベヒシュタインの音はドビュッシーにはどこか野暮なところもあって、これが必ずしも理想とは思えない。

ただ、スタインウェイのすべてを語ろうというような豊穣な音色は大抵の場面ではプラスに作用するものの、ドビュッシーの和声や音色は、楽器から出た音がいったん聴くものの耳に入ったあとで、個々の感覚の中で遅れるように混ざりこみ収束していく過程が必要で、そのため楽器から出た瞬間の音はむしろ硬い、単調な音であるほうがいいのかもしれない気がするのです。
その点では少し前のヤマハは、現代的な音色と機械的な冷たさが、意外にもドビュッシーに合っている印象をもちました。

こんなことを書くとドビュッシーに詳しい方からは叱られるかもしれませんが…。
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アスリート

前回書いたピアノの先生のピアノ音痴(楽器としてのピアノに対する理解が恐ろしく低い)の続きをもう少し。

本当の一流ピアニストを別にしたら、ピアノを弾くこと教えることに関わっている、市井のいわゆる「ピアノ弾き」の人たちは、器楽にかかわる全般からみても、きわめて特殊な位置やスタンスを持っていることは間違いありません。

楽器の性格を推し量り、微妙な何かを察知し、長短を見極め、その楽器の最も美しい音を引き出す、またはそれらを弾き手として敏感に感じ取ろうとする…なんて繊細な感性はピアノ弾きにはまずありません。
わかるのはせいぜいキンキン音かモコモコ音かの違いぐらいなものでしょう。

ピアノの整備や修理は調律師という専門家がするもの(それもほとんどお任せ)で、自分はひたすら練習に明け暮れ、目指すは指が少しでも早く確実に動くこと。盛大な音をたたき出し、技術的難曲を数多く弾きこなすことで勝者の旗を打ち立てるのが目標であることは、むしろアスリートの訓練に近く、この点はなんのかんのといっても昔から改善の兆しはないようです。

家具や家電製品、パソコン、あるいは自転車やクルマのように、ピアノも一度買えば寿命が来て買い換えるまで使い倒す器具といったところではないでしょうか。「ピアノはしょせんは消耗品、だからこだわること自体が無意味だ」と公言して憚らない有名ピアニストもいるほどですから、この世界では楽器にこだわったり惚れ込んだりしないほうがクールでカッコイイわけで、当然、新しいものが最良のもの。
ごく稀に古いピアノのいいものなんかに触れるチャンスがあっても、自分じゃその良さなんてあんまりわからず、ただのくたびれたオンボロピアノのようにしか思えない。要は楽器の音を聞く耳というか感性が死滅してしまっているのかもしれません。

こんなタイプがほとんどといっていいピアノの先生に、こともあろうに楽器選びの相談をするなんて、マロニエ君には悪い冗談のようにしか思えないわけです。

人から聞いた話をふたつ。
ということでご紹介していましたが、差し障るがあるといけないようで、消去します。

もうひとつはあるピアノ工房での話。
そこには古いプレイエルがあり、お店の人によれば、これまでに多くの先生方が弾いていかれたけれど、いずれも良さがわかってもらえなかったとか。ほとんどの方がただバリバリ弾くだけで、プレイエルの音を引き出そうとはしなかったそうです。
そして評価を得たのは、工房内にある新品のスタインウェイだけだったとのこと。

この話をマロニエ君に教えてくださった方いわく、「私が弾いた感じではそのスタインウェイはまだ花が開いてない感じで鈍く、工房の中では一番つまらなかったのですが、ずいぶんと感じ方が違うんだなあと思ったものです。」とあり、まさに目の前にその先生たちの様子が浮かんでくるようでした。

……。
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先生に聞くのが一番…

インターネットでは、その膨大なユーザーを相手に、森羅万象の質問やアドバイスを求めることができるのは、いまさらいうまでもない現代の常識のひとつかもしれません。

「Yahoo知恵袋」などがその代表格でしょうが、みていると、ありとあらゆることが質問され、必ずと言っていいほどアンサーが寄せられて、中には一読しただけでも勉強になるような質の高い内容さえ見受けられるのは、多くの方が経験されていることでしょう。
しかもそれらは無料で無制限に利用でき、現代はよほど専門性特殊性の高いことでない限りは、パソコンのスイッチを入れキーボードを叩けば大抵の答えはそこからゲットできるようになっており、便利であるのはもちろんですが、どこかついていけない気にもなってしまいます。

もちろん、中には何の参考にもならないようなものもあれば、頭からふざけたような回答もあり、匿名性の高い世界ではこれは致し方のないこととしても、大真面目に熱心に寄せられた回答であるかかわらず、なんだこれは?と思うようなものがないわけでもありません。

ピアノに関するQ&Aはたまに覗くのですが、これからピアノを購入しようという人と、それに答える人たちのやりとりには、いろいろな現場事情や認識が見え隠れして唖然とするようなものも少なくなく、こんなところからも、世の中の人がピアノというものを概ねどのように捉えているかの一端を垣間見ることができます。

たとえば、子供にピアノを習わせるのに、将来いつまで続くかわからないことを前提に、いつどんなタイミングでどんなピアノを買っておけば損得両面において最もリスクが少ないかというようなもの。あるいは今勉強中の曲はこれこれと書いて、それぐらいだったらヤマハなら何を買うべきか、というようなものが多く見られます。
同様のものでもう少し具体的に書くと、ショパンのバラードやエチュードを弾くようになったら、あるいは受験にはやはりグランドじゃないとダメでしょうか?といった具合です。

さらに驚くのはアンサーのほうで、いかにも親切で誠実な調子の文章ではあるけれど、「私も音大受験を機に◯◯にしました」とか、「できればC3以上にしてください」「コンクールに出るなら、C7あたりか、予算が許せばスタインウェイ」など、練習する曲の難易度に比例してこれこれ以上のピアノであるべきといった内容が大手を振って並んでいます。

そこで取り交わされるやり取りを見ていると、不気味なほど音楽をやっている気配みたいなものがなく、体操の跳び箱の高さの話ばかりをしているようであるし、それに応じて使うべきピアノのメーカーやサイズまで決まっているかの如くの発言の数々には、おそらくこんなところだろうと予想はしていても、やっぱり具体的なやりとりを見ると、そのつど驚かされてしまうのです。

ショパンの何々、ベートーヴェンの何々、プロコ(この言い方が嫌い)の何々というのが、難易度の指針であるだけで、作曲家もしくは作品に対する冒涜のようでもあり、そうまでしてなんのために苦労の多い音楽なんてやろうとするのか、目指すところがまったく汲み取れません。

また購入にあたっては、いかにも説得力ある常識的意見として「ピアノの先生に相談してみるのが一番です」という意見は、一度ならず目にしたことがあります。素人があれこれと迷って楽器店のいいなりになるより、先生はピアノを長年弾いてこられたプロなのだから楽器のことも詳しい筈で、生徒の将来のことも考慮して選んでくださるだろうから、先生のアドバイスにしたがっていれば間違いないという主旨のものです。
それには、質問者の方も大抵は納得し、「それがベストですよね。ありがとうございました。」というような感じに話が収束してしまうのには、無知というものの喩えようもない虚しさを感じずにはいられません。

マロニエ君に言わせれば、ピアノの先生の多くはピアノのことなんてまったくご存知ない、むしろシロウト以下の人があまりにも多いという印象しかありません。中にはそうではない方も一部おられるかもしれませんが、それは例外中の例外であって、一般的平均的にはピアノの先生ほどピアノのことがわからない人たちも珍しいと思います。

音の善し悪しなどは、ピアノの先生のねじくれてしまった耳より、シロウトの方がよほど素直な感性をもっていて、何台か聴いていればその美醜優劣がまっとうに聞き分けられるのはまちがいありません。ピアノ技術者との雑談の中でも、先生の話が出るとみなさん決まって苦笑いになってしまいます。

それでもピアノ教師は、なまじ長年ピアノと係わってきただぶん「自分は専門家」という意識があり、だからピアノの見立てなどの相談にも臆せず応じてしまうようです。自分のピアノの良し悪しもわからないのに、それを自覚できておらず、人様のピアノ購入のアドバイスをするなんて無責任もいいところです。またそんな先生に自分の買うピアノを決められてしまうなんて、そんな無謀な話は考えただけでもゾッとしますが、これって結構あるんだろうなあと思います。

こうして、親、生徒、先生、楽器店といった本当に良いピアノを見極める能力や意志のない顔ぶれだけで事は決し、また一台無味乾燥で音楽性のかけらもないようなピアノが売れていくのでしょう。嗚呼…。
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プロ意識

マロニエ君の自室のビデオデッキはメーカーを誤ったのか、操作がやたら煩雑で、予約の仕方も消し方も未だにスイスイとはいきません。
ときどき昔の予約履歴の何かに引っかかってくるのか、まったく身に覚えがない番組が録画されていることも珍しくないので、ときどき番組を整理・消去するのですが、そんな中にNHKのドキュメントで歌手の北島三郎の公演を追った番組がありました。

本来ならまったく無関心どころか、むしろ甚だしく苦手なジャンルなのですが、ずいぶん前に友人から聞いた笑い話があったのをふと思い出しました。その友人の知り合いという人が、当時博多座にかかっていた北島三郎の公演にどうしても行かなくてはいけないことになり、はじめはずいぶん嫌がりながら出かけて行ったらしいのですが、結果はというと、その圧倒的な舞台を目の当たりにして「かなり感動して」帰ってきたんだそうで、予期せぬ変化に本人も友人も爆笑、そしてそれを聞いたマロニエ君も大爆笑でした。

いらい、そんなにすごい舞台とはいかなるものかという好奇心が頭の片隅に残っていましたので、これ幸いにちょっと番組を見てみることに。
北島氏は自身の舞台公演を長年にわたってやってきたらしく、前半は北島氏が主演、自ら脚本まで書くという芝居、後半は歌謡ショーという構成が長年のスタイルなんだとか。とりわけ歌謡ショーの舞台はこれでもかという絢爛豪華にして奇想天外なもので、見る者の度肝を抜くような仕立てで驚きました。そのための装置も相当のコストがかかっているらしいことは疑いがなく、これらは綿密な設計監修のもと川崎の専門工場で制作されているようでした。
近年は名門オペラの舞台でもコストダウンの波が押し寄せ、斬新なふりをした粗末な装置でお茶を濁す例が少なくないのに、一人の歌手のショーのためにここまでやるとは驚きです。
全国主要都市で40年以上続けられたというこの一ヶ月公演は、チケット完売も少なくないようで、今どき一夜のコンサートでも人が集まらないご時世に、いやはやすごいもんだと思いました。

観客はさすがに年配の方が大勢のようではありますが、その圧倒的な舞台とエンターテイメントに徹した作りは、まるでディズニーランドにも匹敵するような楽しさをチケット購入者に提供しているのかもしれません。

さて、なんのためにこんなことを書いたかというと、過日、このブログでベルリン・フィルのシルベスターコンサートに出演した老ピアニスト、メナヘム・プレスラーのことを書きましたが、それに連なる内容があったからです。

北島氏は50年連続出演した由のNHKの紅白を一昨年引退し、続いてこの一ヶ月公演にもついに自ら幕を引くのだそうで、番組はその最後を迎える公演に密着したドキュメントでした。
詳しい内情などはむろん知りませんが、番組を見る限りでは客足が遠のいたわけでないようで、固定ファン達はその公演の打ち切りをたいそう残念がっていましたが、それに関して北島三郎氏は(正確ではないけれど)おもに次のようなことを語っていました。

「そりゃあ、やりたいですよ。気持ちとしては止めたくないし、それこそ舞台で倒れるまでやりたいね。」「しかし、自分はプロとしてやっている。プロはお客さんからお金をいただいてやっているわけだから、そこでフラフラしたりみっともない姿は見せられない。だから辞める。」
つまりやりたいからやるというような甘っちょろい自由は、プロフェッショナルにはないんだという話しぶりで、マロニエ君は思わず膝を打ちました。

金額の多寡にかかわらず、プロと称する人たちの中には、人様からお金をいただくということの重みをまるで肝に銘じない、あるいはそもそも知らないような人たちがあまりに多く、平生苦々しく思っているところでしたから、この北島三郎氏の発言には拍手をしたい思いでした。
とりわけ歌舞伎役者など(全員とは言わないまでも)舞台人としては生涯甘やかされるばかりで、こういうことを一度でも考えたことがあるだろうかと思います。梨園に生まれたというだけで子役の時代から無条件に舞台を踏み、当たり前のように名跡を継ぎ、老いてセリフも忘れるほどになっても引退はせず、閉鎖社会ともいえる勝負性の希薄な舞台に立って、ぬくぬくと過ごすのが当たり前。
不倫をしてさえ「芸の肥やし」と許され、あげくに文化勲章をもらったり人間国宝に称せられたりするのは何なのかと思うばかり。

プロ意識というものの本質は、自らの裡に厳しいプライドをもって打ち立てられたものでなくてはならないことを、いまさらのように考えさせられました。
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中古品の地位

過日、リサイクルショップにまつわることを書きましたが、中古品に関しての認識は外国ではかなり異なる面もあるようです。

とはいってみても、すべてはマロニエ君が人から聞きかじった話なので、自分で経験したわけでもなければ、個々の検証ができていることではありませんが…。

ひとくちに外国とっても様々ですが、いちおうヨーロッパということに限定した上での話。
彼我の文化の違いからか、新品と中古品に関しては、相当感性が異なるのは間違いないようです。ヨーロッパはやはり伝統的に物質社会の繁栄以前からの脈々と続く歴史をもっているためか、印象としては、物を道具と割り切り、そこでは中古品もごく普通の選択肢であって、その頂点にいちおう新品もあるにはあるといったイメージなのかもしれません。

もちろん、食品や衣類ではそうとも言えない面が大きいとしても、食器や家具、車や家などは、驚くばかり中古品のオンパレードで、あくまで自分の生活スタイルや機能性・感性に合致し、かつ価格という部分で納得がいったら、本当に必要な物だけを慎ましく購入するようです。

いろいろなものが新たな使い手へと受け継がれていくのは彼らにしてみれば普通のことで、我々日本人のように、見ず知らずの他人が使ったと前歴を忌み嫌うというようなことは、あまりない(ゼロではないかもしれないが)ように見受けられます。
とりわけ食器などに至っては、日本人はどこの誰が使ったかもしれない中古の食器など、それを買って使うなんてことは普通まずないことですが、あちらの人たちはこのあたりもまったくに意に介さないようで、骨董のような趣で普通に使ったりするのには驚かされたことが何度もありました。

さらに家具、車、住居になればなるほど中古は当然の選択肢であって、中古家具!?と驚いたり、当然のように新車/新築を買い求める日本人なんぞは、もしかすると世界の非常識なのかもしれません。
マロニエ君は車やピアノに関してなら、自分が納得のいくものであれば中古でも厭いませんし、場合によっては中古のほうがよほど趣味性を追求できる場合も少なくありません。
ところが、世の中にはどんなに状態のいい、新品に近いようなスタインウェイの出物などがあっても、「中古」というだけで汚れたものであるかのように頑として受け付けず、新品を買ってしまうような人もおられるというのですから、このあたりの日本人の潔癖さときたらまるで昔の貞操観念並ですごいなあと思います。

ヨーロッパあたりでそんなことを言おうものなら、まあいろんな意味で口あんぐりされてしまうような気もします(むろん一握りの大富豪みたいな連中は別格でしょうけど)。

とにかく確かなことは、日本での「中古品」というものは、外国のそれよりも数段「地位が低い」もののようで、車の世界でも「壊れない日本車」の人気は当然としても、ドイツ製高級車なども、日本は中古になると値落ちが激しいから日本に買い付けに来る海外の業者が少なくないということを聞いたことがあります。

ピアノも、日本製の中古ピアノが物凄い勢いで海外に売られていくのが当たり前のようになってしまっていますが、その背景には日本でのピアノ需要の低下があるにせよ、そもそも中古品になるとその価値に見向きもしなくなる日本人の精神的特性も大いに関係しているように思います。

そうはいっても、マロニエ君もやっぱり生活必需品まで中古品を使うなんてできそうにもなく、そのあたりは民族性といえばいささか大げさかもしれませんが、体質的な部分でもあり、難しいなあと自分を含めて思うわけです。
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心も春霞

すでに何度も書いたことですが、マロニエ君は日毎に空気が蒸して膨張してくるような春の到来が苦手で、今年もついにこの季節をむかえなくてはならない今がうんざりなのです。

春は喜びの代名詞のようで、概念としても良いことのように云われますが、現実的には本当にそうなのだろうかと思います。
マロニエ君に限らず、この季節を苦手とする人は知るかぎりでは結構多くいて、冬に馴染んだ身体は大気に温められて違和感を覚え、体調管理にもとくに気を遣います。春がいやだなんて現代病のひとつのようでもありますが、むかしのように花が咲いて蝶が舞う季節として無邪気に喜ぶことができない自分が自然に背いているようでもあります。

そうはいっても、世の中が活動的になる季節であることは否定しがたく、とりわけ先週土曜はそれを痛感させられました。車の感じを確かめる目的があって、午後四時頃だったと思いますが漫然と車で街中に出てみると、道がどこも混雑していてなかなかスムーズに走ることができません。

幹線道路は縦も横も車がひしめき合っており、これを避けようと都市高速に入りました。
福岡は都市高速の環状線があり、これを一周するのは結構な距離があるので、適当に走って適当なランプを出ればいいぐらいに軽く考えていましたが、ETCをくぐって本線に出てみると、意外やこちらも想像以上の交通量であることに少し驚きました。
しかし都心部を離れるにしたがって次第に道は空いてきたので、そのまま順調に(深く考えることもなしに)走っていると、突如として渋滞の最後尾が目前に迫り、電光掲示板にはこの先が「渋滞」であることを告げています。

「うわ、これはたまらない!」とばかりに最寄りのランプを出たのですが、果たして下の道はさらに大変な渋滞で、それでもまだ事の次第が呑み込めないマロニエ君はいったい何事かと思いました。
目の前にはヤフオクドームがあり、それを見て、どうやら野球の試合がはねたところに運悪くハマってしまったことに気づきましたが、とき既に遅しで、すべての方向が大渋滞となっていました。

野球観戦にいったいどれぐらいの人たちが訪れるのか一向に知りませんが、少々のコンサートなどとはケタが違うぐらいのことはわかります。野球に関心のないマロニエ君にしてみればまったく予想もできなかったことですが、この状況ではドームから流れ出た人たちの大波が過ぎ去るまでは、為す術のないことは察知できました。

諦めて渋滞の中でじっと耐えますが、それでも大変な渋滞で、もともと渋滞気味の街中の道路を避けて入ったはずであった都市高速環状線でしたが、まわりまわって最もハードな渋滞エリアへと落とし込まれることになろうとはまったく想像もしていなかったことでした。

どうにか渋滞の外に出たのは、それからどれくらい経ったころだったか正確な時間は覚えていませんが、かなりの長時間止まっては進みを繰り返したことは間違いなく、自宅に帰り着いた時には疲れでフラフラになってしまっていて、ついにその日は完全に回復できないまま終わりとなりました。
わざわざ外に出て、時間とエネルギーを使って、ガソリンをまき散らし、あげくに疲れて帰ってきただけでした。

これを読まれた方は、たかが渋滞ごときでなにを言ってる!と呆れられそうで、まあそれは確かにその通りなのですが、その要素のひとつとして春に入りかけの季節であったことも折悪しく重なってのことだったと思います。

春はなにかにつけて幕開けの季節ではあるのでしょうが、春霞という言葉があるように空気は決して清澄ではなく、まして花粉症だのPM2.5だのと良からぬ環境に身をさらすなど、これが苦手な身には甚だ厳しい季節ですから、どうしても警戒心のほうが先に立ってしまいます。
すでにあちこちでお花見もはじまっていて、やれやれという気分にしかなれないマロニエ君は、やはりよほど偏屈なんだろうなあと我が身を恥じ入る季節でもあえるのですが、いくら恥じ入ってもこれは生涯変わることはないでしょう。

春先に比べたら、猛暑でも真冬でも、よほど過ごしやすいと今年も思ってしまうマロニエ君でした。
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古本いまむかし

近頃はあちこちに古本店やリサイクルショップができているのが、やけに目につくようになりました。

古本店といっても昔の風情のあるそれとはずいぶん違います。
むかしあった古本屋は独特で、狭い店の奥には本にやたら詳しい店主がいて、そこに出入りするお客さんにも一種独特な趣があり、マロニエ君は決してこの雰囲気が嫌いではありませんでした。
とりわけ神田の古本街はさすがは東京と思えるだけの規模があり、古本というものが文化や学問のバックボーンとしても存在しているようなところがあって、新品では買えないような文学や美術の全集物、貴重な専門書なんかが紐で括られて魅力的な価格が付けられていたりすると、わかりもしないくせに心が躍ったものでした。

いっぽういまどきの古本店は、多くが郊外型のチェーン店で、マンガや雑誌や実用書などを中心とした品揃えで、ひとつの書籍が役目を終えて次の読み手を待っているといった気配はまったくなく、不要になった本の束を車に積んでゴミ同然のようにして売り買いされているようです。

驚くべきは、今どきの古本店には文庫本を別にすれば、きちんとした装丁の文学書や専門書などはほとんどないことです。美術書も同様で、重く大きく、置く場所も必要とする美術全集など、今や一般的には興味もニーズもないらしく、よほどの変わり者でなければ関心さえないものに成り果ててしまっていることが時勢として見て取れます。
稀にあってもウソのような安い値段がつけられていて、買い手のないものの哀れを感じずにはいられません。

マロニエ君は幼児体験もあってか、壁一面が本でびっしりというような環境が好きなので、とくに文学書などは全部読みもしないのに全集が欲しくなります。たしかに場所を取るのも事実で、いまどきの住宅事情や生活スタイルからすればこれらは大半が消滅していく運命だと思うと、なんともやるせない気分にさせられます。

何年か前、ネットで岩波の漱石全集を買いましたが、大きな段ボール箱2つにギチギチに詰め込まれた立派なものだったにもかかわらず、価格は1万円前後というものでした。ちゃっかり安く買っているのだから、つべこべ言う資格はないのですが、得をした気分と隣合わせに「なんたることか!」と憤慨したことがありました。

昔の古本屋には古本屋なりの文化の香りがあって結構好きでしたが、いまのそれはまったくの別物、リサイクルショップに至ってはさらに苦手です。人が使ったものだからということもないわけではないけれども、あれがもしガレージセールのようなものだったらさして抵抗はないと思いますが、毎日営業する店舗となると陰気でなんとなく気が進みません。

何度か覗いたことはありますが、いわゆる「掘り出し物」的なものはほとんどなく、システムの上できちんと整理され、価格も精査されつくしたもので、これだったら新品を安く買ったほうがよほどいいと思えるものが少なくない印象です。
周到に新品の最安値のさらにひとつふたつ下あたりを狙っているようで、中古品ということを考えると個人的には決して安いとは感じられないのです。

それに本であれ、リサイクルショップであれ、共通して苦手なのは、店内に入ったときの一種独特な臭いがプンと鼻につくことでしょうか。使われたモノ特有の、人の汗や脂や手垢が混然一体となった、犬の耳みたいなあの臭いにつつまれてしまうと理屈抜きに気持ちがめげてしまうのです。

一度など、友人がシリーズで探している本があるからというのでしぶしぶ付き合ったところ、帰り道、腕などがチクチクしてきて、これは間違いなくダニの類をおみやげにしてしまったようでした。

古いものを廃棄せず、大事に使いということは結構なことですが、世の中全体が慢性的な不景気におちいった象徴としてのリサイクルショップの乱立というのは、澱んだ時代そのものの証のようで、なかなか歓迎の気持ちにはなれそうにもありません。
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技術と才能

懇意にしていただいている調律師さんの中には、これまで他県で活躍されていた方もおられます。

その地域では、調律はもとよりホールのピアノの管理なども複数されていた由で、当然コンサートの仕事も数多く手がけられ、一部は現在も遠距離移動しながら継続している由です。ご縁があって我が家のピアノもときどき診ていただくようになりましたが、驚くほど熱心で密度の高いお仕事をされるのには感心しています。
しかしエリア違いのため、その方が調整されたピアノによるコンサートを聴いた経験は一度もなく、ぜひ聴いてみたいという思いが募るばかりでした。

そこで、もしライブCDがあれば聴かせてほしいと頼むと、4枚のCDをお借りすることができました。
いずれも第一線で活躍する名のあるピアニストのリサイタルですが、その中でもゲルハルト・オピッツの演奏会はとくに印象的でした。ピアノは1990年代のスタインウェイで、この技術者さんが管理されていたことに加えて、当日の調律も見事で、まったくストレスなく朗々と鳴っていることは予想以上でしたし、スケールが大きいことも印象的でした。

一般的に、日本の技術者のレベルはきわめて高いものの、どこか「木を見て森を見ず」のところがあり、いざコンサートの本番となるといまひとつピアノに動的な勢いがなく、どこかこぢんまりしたところがあるのは、何かにつけて我々日本人が陥ってしまう特徴のひとつなのかもしれません。
これは技術者が、つい正確さや安全意識にとらわれて、ある意味臆病になるためだと思います。マロニエ君は精度の高い基礎の上に、一振りの野趣と大胆さが加わるのを好みます。このわずかな要素にピアニストが反応することでより感興が刺激され、迫真の演奏を生み出す、これが個人的には理想です。

ところが多くの日本人技術者は比較的小さな枠内で作業を完結させる傾向があり、正確な音程と、まるで電子ピアノのような整った音やタッチにすることを好ましい調整だと思い込んでいる場合が少なくないのでしょう。ピアノ技術者の技術と感性は、究極的には職人的な才能と音楽性が高い接点で結びついていなくてはダメだと思うのは、やはりこんな時です。

最近は、見た目やマークは同じでも、演奏がはじまるや落胆のため息がでるような空っぽなピアノが多い中、久々にスタインウェイDによる、他を寄せ付けない独壇場のような凄まじさに圧倒されました。
優れた演奏によってはじめて曲の素晴らしさを理解するように、優れた技術者とピアニストを得たとき、スタインウェイはあらためてその真価をあらわすのだと思いました。

オピッツ氏も好ましいピアノに触発されてか、マロニエ君が数年前に聴いたときとはまるで別人のように、集中度の高い、それでいてじゅうぶんに冒険的で攻める演奏をしており、聴く者の心が大きく揺すられ、いくたびも高いところへ体がもって行かれるようでした。これこそが生の演奏会の醍醐味!といえるような一期一会の迫真力が漲っていることに、しばらくの間ただ酔いしれ感銘にひたりました。

CDを受け取る際、つい長話になってしまい、最後になってフッと思い出したように「あ、ぼく、一級の国家資格、受かってました」といってハハハと軽く笑っておられました。ずいぶん難しい試験だと聞いていましたが、すでに九州でもかなりの数の合格者が出ているらしく、そう遠くない時期に「持っていて当たり前」みたいなものになるのかと思うと、何の世界も大変だなあと思います。
曰く「…でもあれは、本当に技術者として一級云々というものでは全然ないですね。ただ単にその試験に対応できたかどうかという事に過ぎませんよ」と穏やかに言っておられたのが印象的でしたが、そのときマロニエ君が手に持っていたのは、まさにその言葉を裏付けるようなCDだったというわけです。たしかにコンサートの現場経験を積んで世間から認められることのほうが、はるかに難しいし大事だというのはいうまでもありません。

スタインウェイをステージであれだけ遺憾なく鳴り響くよう、いわば楽器に魂を吹き込むことのできる技術者は、マロニエ君の知る限りでも、そうそういらっしゃるものではありません。単なる技術を超えた才能とセンスがなくては成し得ない領域だからでしょう。
いまさらですがスタインウェイDは潜在力としては途方もないものを持っているわけですが、その実力を真に発揮させられるような技術者は本当にわずかです。

しかもそういう方々が、その実力に応じた仕事をする機会に恵まれているのかというと、必ずしもそうではない不条理な現状もあるわけで、ますます憂慮の念を強めるばかりです。

どんなに立派なホールに立派なピアノがあっても、肩書だけの平凡な調律師がいじくっている限り、一度も真価を発揮することなくそのピアノは終わってしまいます。中にはステージ本番のピアノに、まるで家庭のアップライトみたいな調律をして、平然としてしている人もおられますが、それでもほとんどクレームのつかないのがこの世界の不思議ですね。
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自分の楽器なら

先日のNHKクラシック音楽館でガヴリリュクを独奏者としたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番をやっていたのでちょっとだけ見てみました。
会場はNHKホール。ガヴリリュクは開始早々から、いささか過剰では?と思えるほどの熱演ぶりでしたが、さてそうまでして何を表現したいのやら狙いがもうひとつわからない演奏という印象でした。

上半身はほとんど鍵盤に覆いかぶさるようで、終始エネルギッシュなタッチでプロコフィエフのエネルギーを再現しようとしたのかもしれません。渾身の力で鍵盤を押し込み、湧き出る大量の汗は鍵盤のそこらじゅうに飛び散りますが、出てくる音としてはそれほどの迫力とか明晰さ、表現上のポイントのようなものは感じられません。

ガヴリリュクはあまり自分の好みではない人だということは以前から思っていましたが、この日は第一楽章を聴くのがやっとで、残りは視ないまま終わってしまいました。

音が散って消えるNHKホールであることや、録音編集の問題もあろうかとは思いますが、これほど汗だくのスポーツのような熱演にもかかわらず、ピアノ(スタインウェイ)が一向に鳴らないことも聴き続ける意欲を削いでしまった要因だったろうと思います。
鳴らないピアノの原因がなんであるかはわかりませんが、まるで押しても引いても反応しない牛のようで、かなりストレスになることだけは確かです。

それから数時間後、日付が変わってのBSプレミアムでは、パリオペラ座バレエ公演から、このバレエ団総出による『デフィレ』があり、ベルリオーズのトロイ人の行進曲に合わせて、バレエ学校の子供から、バレエ団の団員、さらにはエトワールまでが、ガルニエ宮の途方もなく奥行きのあるステージ奥からこちらへ向かって、バレエの基本的な足取りで行進をする演目は楽しめました。

なぜこんなことを書いたかというと、その『デフィレ』に続く演目は『バレエ組曲』で、舞台上にスタインウェイのDが置かれ、ピアニストが弾くショパンのポロネーズやマズルカに合わせてバレエ学校の生徒たちが踊るというものですが、この時のピアノがとても良く鳴ることは、前述のガブリリュクが弾いたピアノとはいかにも対照的でした。

ピアノのディテールから察するに、おそらくは30年前後経った楽器と推察されますが、低音などはズワッというような太い響きが遠くまでハッキリと伝わってきますし、全体的にもつややかな明瞭な音が健在で、もうそれだけで聴いていて溜飲の下がる思いでした。
このピアノをそのままNHKホールのステージにもってきたなら、ガブリリュクの演奏もやっぱり全然違っただろうと思わないではいられないというわけです。

よく調律師の説明に聞くフレーズですが、「弾き手は、鳴らないピアノでは、自分のイメージに音がついてこないため、よけいムキになって強く弾こうとする」といわれるように、ピアノが違っていれば、ガヴリリュクもあそこまで意地になって格闘する必要はなかったのでは?と思ってしまいました。

楽器販売に関わる技術者は、新しいピアノを肯定することに躍起になっているとみえて、新しいほうがパワーが有るなどと口をそろえて主張します。
それは新しいピアノ特有の若々しさからくるパワーのことで、これもパワーというものの要素のひとつとも言えるでしょうが、厳密に言うならピアノのパワーの本質というのはそういう局部的一時的な問題ではない筈だと思います。

べつに今の新しいスタインウェイを否定しようという考えはありません。マロニエ君にはわからないだけで新しいスタインウェイにしかない魅力もきっとあるのでしょう。しかし、少なくとも、かつてしばしば聴かれた芳醇で澄明で余裕に満ちたあのスタインウェイのサウンドというものは、その時代のピアノにしか求め得ないことだけは確かなようです。

もしも、ピアノが往年のホロヴィッツのように自分専用の楽器をどこへでも自由自在に持っていけて、少しでも気に入らなければ別の楽器に交換できるとしたら、きっとピアニストたちはこぞってお気に入りの楽器を探しまわり、それぞれの個性や美意識に基づいた調整を施し、それ以外のピアノには手も触れないようなことになる気がします。

そんな自由が与えられ、ステージという真剣勝負の場で弾く楽器を選ぶとなると、それでも新品ピアノを本心から好むピアニストがどれだけいるのか…これを想像してみるのは面白いことだと思いました。
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拾われた命

車にも運命というものがあります。

友人が古いメルセデス・ベンツのC240(W202)というのに乗っていましたが、勤めの関係などで普段ほとんど乗る機会がないという現在の生活パターンを考えた場合、それでも駐車場を借り、税金や任意保険を払いながら車を維持していくことにあまり意味がないのでは?という考えが濃厚となっている由のこのごろでした。

というのも今月で車検が切れるというタイミングでもあり、追い打ちをかけるように、数年間にわたる野外駐車が災いしてか、天井の内張りが落ちてきて、パッと目はわかりにくいものの触ってみると天井と内張りの間に空間ができています。これは内装屋できれいに張替えができますが約4万円ほどの修理費用がかかるとのこと。
車検費用に加えて内装の張替えなどが必要となり、ほとんど使わないものにそれだけの出費も負担に思えてきたようで、ここを節目についに手放す決心をするに至りました。

この車は1998年型で現在17年経過しており、新車から10年間は車庫保管され、その後は野外駐車となるも、走行距離は6万キロ台後半で、古いというだけで機関は至って快調で健康体の車です。

友人から廃車の手続きをしてくれる業者への連絡を頼まれたので、その手配をし、週明けには車を取りに来るばかりになっていましたが、そんなときになって「乗らないとはいえ、愛着もあり、どこも悪くない車を廃車(つまりはスクラップ)にするのは忍びないものがある」というような言葉を漏らしはじめました。

だったらもっと早く言えばいいのに!と思いましたが、悩んだ末の流れだったのでしょう。むろん気持ちは理解できるので、友人知人に「これこれのクルマがあり、車検はないが、車本体はタダでいいから乗ってみようという人はいないか?」と急ぎ何件か打診してみました。

その翌日、日曜だったこともあり、車関係の知人2人が問題のメルセデスを見てみようかということになり、マロニエ君宅に車もろとも集まることになりました。しばらく試運転などをしたところ、この時代のメルセデスならではの堅牢な作りとおっとりした身のこなし、ドイツ的な作り込みの良さからくる高品質感など、17年も経っているとは信じられないとその健在ぶりに、ストレートな感銘を受けたようでした。

この試乗でそのうちの一人の心はほぼ固まったのか、出てくる言葉はいつしかユーザー車検の段取りなどに及んでいます。

その後、オーナーである友人から書類と車の受け渡しへと話は正式にみ、めでたく新しいオーナーのもとでしばらく過ごすことになりました。17年という歳月の中でみると、翌日には廃車の手続きが始まる運命にあったこの車は、断崖絶壁ギリギリのところで再び車としての役目を与えられることになり、まずはなによりというところでした。

更に先週木曜には、新オーナーの手によってユーザー車検に一発合格し、重量税と自賠責の6万円ほどでともかく向こう2年間、天下の公道を走り続けることができるようになったようです。
マロニエ君も、長年身近に見てきた車が、とくに故障でもないのに鉄くずになってしまうのかと思うと、哀れなものを感じないわけではありませんでしたが、危ないところで拾われたこの車には、もしかしたら幸せの運が付いているようにも思います。

車やピアノのようなサイズと重量のあるモノは、たとえタダでも置き場の問題などがついてまわるために、相手にも受け入れる環境やタイミングというものが事を決する大きな要素となり、そのせいで泣く泣く処分されていくものも少なくないだろうと思うと、なんとも切ないものだと思いました。

知り合いの調律師さんの中には、ずいぶん小さな車で頻繁に高速での長距離往復をされる方がおられるので、高速走行を最も得意とするメルセデスこそうってつけではないかと話を向けたのですが、わずか数日前に「車検を取ったばかり」ということでこちらの手許に行く流れにはなりませんでした。

こういうことを考えると車やピアノって、つくづく「ご縁」なんだなぁと思わずにはいられません。
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がっかり

最近はいわゆるスター級の演奏家というのがめっきり出てこなくなりました。

これは音楽に限ったことではなく、芸術家全般はもちろん、政治家や役者なども同様で、そこに存在するだけであたりを圧倒するような大物はいなくなり、とりわけ音楽では没個性化と引き換えに技術面では遥かに平均点は上がっていることが感じられます。
音楽ファンとしては平均なんてどうでもいいことで、これぞという逸材を待望しているわけですが…。

この流れはピアニストも同様で、少なくとも現在活躍している中堅~若手の中でスター級のピアニストというのはどれだけいるでしょう。その筆頭はキーシンあたりだろうと思いますが、それ以降の世代では記憶を廻らせてもぱったり思い浮かばなくなります。

上手い人はたくさんいてもスターが不在という現状です。
むろん非常に好ましい演奏をするピアニストは何人もいるわけですが、しかしステージに存在するだけで有無を言わさぬオーラをまき散らし、名前だけでチケットが売れてしまうような人はほとんどいなくなりました。
そんな中で、マロニエ君がやや注目していた若手の一人に、ユジャ・ワンがありました。

この数年で頭角を現した彼女ですが、何年か前のトッパンホールで行われたリサイタルの様子は圧巻で、なかでもラフマニノフの2番のソナタは忘れがたい演奏でした。ここから彼女のCDを何枚か買ってみたものの、あまりに録音用テイク特有のお堅い演奏という印象で、期待するような魅力が身近に迫るところまでには至らず、協奏曲でもこの人ならではの輝きを感じさせるにも一歩足りず、もしかするとライブ向きの人なのかなぁと思ったりしていたものです。

そうはいっても最近のCDは制作コストの削減から、ライブ演奏をベースに制作されることも少なくありませんが、製品化にあたってレコード会社の修正が介入しすぎるのか、どちらともつかないような微妙なCDが多いとも感じます。

さて、先日のNHKクラシック音楽館ではそのユジャ・ワンが、デュトワの指揮するN響定期演奏会に登場し、ファリャのスペインの夜の庭とラヴェルのピアノ協奏曲(両手)を弾きました。
これまで、若手の中ではいちおうご贔屓にしていたユジャ・ワンでしたが、この日の演奏は期待ほどないものでがっかりでした。ひとくちに云うとなにも惹きつけるところのない内容の乏しい演奏で、ただあの無類の指を武器に弾いているだけという印象しか得られなかったことはがっかりでした。

それでもスペインの夜の庭のほうがまだよく、もともと捉えどころのない幻想的な性格の曲であるが故か、きっちりした技巧でピアノパートが鳴らされるだけでもひとつのメリハリとなって、なんとか聴いていられたわけですが、ラヴェルでは開始早々からこれはちょっとどうかな…という思いが頭をよぎりました。

経験的に、はじめにこういうイヤな影が差してくると、それが途中で覆るということはまずありません。
ユジャ・ワンの感性とこの曲はどこを聞いても焦点が合わないというか収束感がなく、終始ボタンの掛け違えのような感じでした。演奏前のインタビューでは13年前日本のコンクールで弾いて以来なんだそうで、そのときよりラヴェルの音楽語法もわかったし、様々な経験を積んでより自由に表現できるようになったと言っていましたが、実際の演奏ではどういう部分のことなのかまったく意味不明のまま。
彼女にしては珍しくあれこれの表情や強弱をつけてみるものの、それらがいちいちツボを外れていくのはまったくどうしたことかと思いました。
あの耽美的な第2楽章も、やみくもなppで進むばかりで旋律は殆ど聞こえず、どういう表現を目指しているのかまったく理解できないし、左手の3拍子とも2拍子つかない独特のリズムにも拍の腰が定まらず、終始不安定な印象を払拭できなかったことはこれまた意外でした。

健在だったのはやはりあの規格外の指の技巧で、この点では並ぶ者のない超弩級のものであることがユジャ・ワンのウリのひとつですが、それも音楽が乗ってこそのもので、技巧がスポーツのようになってしまうのは大変残念としか言いようがありません。

彼女は北京の出身ですが、現在もアメリカで学んでいるらしく、あの妙に円満な収まりをつけてしまう、いわば音楽的優等生趣味はそのせいではないかと思いました。もともとアメリカは西洋音楽の土壌がないところへ大戦などによって多くの偉大な音楽家がヨーロッパから移住した地ですが、それらは皆すでに功成り名を遂げた巨匠たちばかりで、アメリカそのものに西洋音楽の土壌があったとは言い難いのかもしれません。

そのためか、アメリカの音楽教育はどこか借りもの的というか、型にはめて画一化されてしまう観があり、個性や独自の表現を尊重し伸ばそうという度量や冒険性が感じられません。そう思うとユジャ・ワンのピアノにも「アメリカ的臆病と退屈」がその教育によって根を下ろしているようでもあり、納得と同時に、非常に残念な気がしてなりません。
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掃除は人柄?

よろず掃除というものは、大部分の人にとって進んでやろうとは思わない事だろうと思います。
稀に楽しくなって集中するというようなことはあるにせよ、できることならやりたくないというのが一般的でしょう。

それでも世の中には掃除が好きで生きがいのような方もおられる由で、掃除機も高価で高性能なものにこだわり、窓の桟の僅かなゴミも完全除去、トイレやシンクはギンギンに磨き上げ、水道の蛇口にはワックスがけまでする人もいるようですが、ま、そんな人は例外中の例外(と思います)。

TV のコマーシャルなども、やれ除菌だの消臭だのと、まるで世の中すべてが清潔できれいで、それが常識でしょ?と言わんばかりですが、さて実際の今どきの人の掃除嫌いのレベルというのは想像以上に深刻で、掃除嫌いのマロニエ君をもってしても閉口させられます。
とくに目につくのは女性のそれで、自分のビジュアルにはかなり気を使っても、掃除や整理整頓となると男顔負けの野放図で、生まれてこのかた掃除というものをしたことがないのではないか…と本気で思ってしまうケースがあまりにも多いことに愕然としてしまいます。

忙しく仕事をしている人間は掃除なんかしているヒマはないというのが一般的な言い分なのかもしれませんが、マロニエ君からみれば忙しいことをこれ幸いに口実としているだけで、端からその気がないことが見て取れるのです。
べつに本格的な清掃作業をやるわけでなし、ちょっとした心がけでできる事というのは実際にはたくさんあるわけで、本棚に積もったホコリをサッと備え付けのモップで払うとか、枯れた花は適当なタイミングで片付ける、出した道具は元の場所に片付けるといったことは、すべて心がけの問題です。

清掃会社が入っているような大きな会社はともかく、普通はちょっとした掃除や整理整頓を済ませてから何かをするというのは、それが勉強であれ仕事であれ、何かの製作であれ、料理をつくることであれ、すべてに共通した作法だと思います。
そもそもある程度きれいにした上でないと、いい仕事、質の高い作業はできません。
修業をするにも「雑巾がけから」というのは長らく日本人の心にあった基本姿勢だったような気がしますが、いまやそんなものはどこへやらという感じです。

外に向けて作り上げたもっともらしい姿とは裏腹に、一歩家に帰れば足の踏み場もないような乱雑不潔はけっして珍しいものではないのだそうで、なんでもが嘘っぱちに見えてしまいます。

そういえば最近は、個人の自宅にお邪魔するという機会もずいぶんなくなりました。
人と会うときは外で会い、自宅は「プライヴェート」とかなんとか言って、要するに他人を立ち入らせないエリアになり、それがさらに掃除をしない方向へと向かわせているのかもしれません。マロニエ君の目には、どんなに素敵な人でも、最低限度の掃除さえしないで平気でいられる人というのは、もうそれだけでだらしなく感じてしまいます。
これは決して封建的な感性でいっているのではなく、むろんそこには男女の区別もありませんが、だからたまに「普通に」掃除をしたり整理整頓する人を見ると、もうそれだけで一目置いてしまいます。こういうことはその人の品性や人柄など、心の在りように直結する部分だから、人格教養のもっともベーシックなことだと思うわけです。

掃除をしないのと対極にあるのが、一時期「断捨離」などという言葉が流行ったように、何でもかんでも物を捨てまくって、それで心を開放しリセットするというような考え方がありました。知り合いの奥さんに一人その手合いがいて、ご主人の話では郵便物から何から、あらゆるものを片っ端からズバズバ処分していくのだそうで、なるほど家の中はよけいなものが一切なくていやにスッキリしていました。
しかし、物事には程度というものがあり、スッキリも行き過ぎると、その雰囲気は寒々しい殺風景なものとなり、却って落ち着かない感じがしたのも事実で、きれいといえばきれいだけれど、なんだかニトリのカタログでも見ているようでした。

「ほどよさ」というバランスは、よほど難しいものなんだろうかと思います。
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引退か現役か

昔の大晦日はベルリン・フィルのジルベスターコンサートを生中継でやっていましたから、毎年これを見るのが習慣でしたが、いつごろからだったか、この番組はなくなってしまいました。
アルゲリッチ/アバドによるR.シュトラウスのブルレスケを初めて聴いて感激したのもこの大晦日(正確には元日)の夜中だったことなどが懐かしく思い出されます。

現在はおそらく有料チャンネルなどに移行したのだろうか?と思いつつ、マロニエ君宅にはそんなものはありませんから、いつしかこのコンサートは自分の前から遠のいてしまったようでした。

つい先日、2014年の大晦日に行われたラトル指揮の同コンサートの模様がNHKのプレミアムシアターで放送されましたが、その中から、メナヘム・プレスラーをソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番について。

メナヘム・プレスラーが半生をかけて演奏してきたのは有名なボザール・トリオであったことはいまさらいうまでもありません。
その素晴らしい達者な演奏は名トリオの名に恥じないもので、中でもピアノのプレスラー氏はこのトリオの立役者であり、その功績の大きさは大変なものです。彼なくしはこのトリオは間違いなく存在し得なかったものといって差し支えないでしょう。

50年以上の活動を続け、2008年にトリオは解散。その後のプレスラーは人生の晩年期にもかからわずソロピアニストとしての活動を始めます。近年でも思い出すのはサントリーの小ホールでのシューベルトのD960や、庄司紗矢香とのデュオなどですが、残念ながらマロニエ君はそれほどの味わいや魅力を感じるには至りませんでした。
ボザール・トリオの時代の自由闊達、円満で音楽そのものの意思によって進んで行くようなあの手腕はどこへ行ったのか思うばかりでした。

今回のモーツァルトのピアノ協奏曲では必要なテンポの保持さえも怪しくなっており、痛々しささえ感じてしまいました。あのエネルギッシュな快演を常とするベルリン・フィルも普段とは勝手が違っているようで、この老ピアニストの歩調に合わせようと努力しているのがわかります。

でも、音楽というのは、こうなるともういけません。
一気にテンションが落ちてしまいつつ、高齢の巨匠に敬意を払ってなんとか好意的に受け止めようとしますが、それは殆どの場合むなしい結果に終わります。とりわけ最盛期の活躍が華々しい人ほど、それが聴く人々の記憶にありますから、よりいっそう厳しい現実を突きつけられるようです。

すでに御歳90を超えておられるわけですから、個人としてみればもちろん信じ難いほどに大したものだと思います。しかし厳しいプロの音楽家として見れば、もはやこういう大きなステージでの演奏をやり遂げることは厳しいなぁと思わざるを得ません。

巷間「離婚には、結婚の数倍ものエネルギーが要る」といわれるように、プロ(しかも一流になればなるだけ)の引退はデビューよりも難しいものかもしれません。できれば、まだまだやれると誰もが思えるだけの余力を残した時期に、惜しまれながら引退することが望ましいように思いますが、最近はそんな引き際の美学も失われているような気がします。

ハイフェッツ、ワイセンベルク、最近ではブレンデルなどはきっちりと引退の線が引けた人ですが、マロニエ君の知る限り、最晩年に真の感銘を与えてくれた唯一の例外では、ミエスチラフ・ホルショフスキーただひとりです。
ただ、だれもがホルショフスキーのようにはいかないのが現実というものでしょう。
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買えない加湿器

冬場はヒーター多用のため、我が家では数台の加湿器を使っていますが、そのうちの1台が古くて調子がおかしくなってきたために、1台新しく買うことになりました。

ところが、ホームセンターに行くと、加湿器らしいものが1台もなく、別の店に行っても同様でした。
ついこの前までは、大小いろいろの加湿器がズラリと並んでいたように思うのですが、ウソみたいにひとつもないのです。
たかが加湿器、買えば済むことと思っていましたが、どうやらそれが甘かったようです。

あらためてある店(最もたくさん売っていた記憶がある)に電話してみたところ、家電売場の担当者によると「もうなくなりました。今季はもう入ってきません。」とあっさりいうのにはびっくり。
桜の咲く頃ならともかく、これは2月の後半のことで、まだまだヒーターを使いまくっている真っ最中であるにもかかわらず、加湿器の販売は終了したというのです。

しかも、どこの店でも同様ということがわかってくるにつれて、この足並みの揃い方に異様さを感じて思わずゾッとしてしまいました。ナマモノではあるまいし、たかだか加湿器の1つや2つあってもよさそうなものと思います。
というか、以前はこんなことはなく、春前まで普通に売っていましたし、そのころちょっと安くなったのを買った記憶もあったぐらいですが、現在では商品自体が売り場から一斉に姿を消してしまい、買うべき時期に買わなかったらもう手に入れることもできないということのようです。

こんなところにも、世の中がちょっとした余裕もない厳しい環境へと年々なりつつあることを感じないではいられません。
追加で入ってくる予定は「ない」のだそうで、メーカーから入ってこないから仕方がないというようなことを言っていましたが、それはどうでしょう…。
メーカーは何であれ売りたいのが基本ですから、店が必要だといえばすぐにも商品を納入してくるはずですが、季節ものは後半になると売れ行きが落ちるため、店側が拒絶するのだろうと思います。
売れ残りの在庫を抱えてディスカウントするより、確実に売れるだけの数に絞って完売にする道を選んでいるといった気配を感じましたし、そのほうが商売としても無駄を出さずに効率的だということなんでしょう。

…だとしても、なんという慌ただしさかと思います。

今どきはなにかにつけてこうなので、買う側もぐずぐずしていると、このように買いそびれてしまいます。たかだか家電製品ぐらいでなんでそんなにピリピリしていなきゃいけないのかと思いますが、世の中がこぞってそんなふうになってくるのはどうしようもないわけです。

これが正月ものとかバレンタインというならまだわかりますが、そういえば、昔に比べたら売れ残りのクリスマスケーキなどもゼロではないとしても、以前に比べたら激減しましたね。
とにもかくにも、いかなるジャンルも商売が厳しくなり、わずかの無駄をも嫌い、極限まで切り詰めたやり方をしているのは間違いありません。

加湿器は、唯一残っているのは電器店などにある多機能ハイブリッドなどのやたら高い機種だけでしたが、マロニエ君が欲しいのは最もベーシックなやつで、金額にして5000円以下のものなので、それをむざむざ買う気にもなりません。
とにかくどこにも売っていないからネットで調べて見るかとも思いますが、そうこうしているうちに3月になってしまい、あと少しこれで粘れば要らなくなるという気もしなくもありません。

何事も、表向きは便利な世の中になったようになってはいますが、同時に油断のできない、常に気を張っていなくちゃならない、ゆったりできない時代になったものです。
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主なき文化施設

NHKのクラシック倶楽部を見ていると、まわりが田畑に囲まれた住む人も決して多くはなさそうな田園地帯に、ずいぶん立派なホールや複合文化施設が建てられていることに驚くことが少なくありません。

さすがに近年の節約ムードではそうもいかなくなったでしょうが、一昔前までは、こうした使われる当てもないような文化施設が税金を使ってこぞって建設されたことは間違いないのでしょう。不景気というのももういい加減イヤですが、しかしこういう無謀なお金の使い方がまかり通る時代も遭ったかと思うと、なんとも複雑な気分です。

文化振興という名目で、見上げるような立派な施設は出来ても、実際の稼働率は驚くべき低さだそうで、維持費の捻出さえ怪しくなっている施設が無数にあるのかと思うと、ため息が出るばかり。ホールを作れば当然ピアノも必要ということになり、まともに弾かれることもないようなスタインウェイなどが納入されるものの楽器庫の中で虚しい時間を過ごしているようです。

ある方から聞いたことですが、田舎のホールでは管理者側のピアノの維持管理に対する認識はまったくのゼロといっていいのだそうで、中には輸入元が定めた技術者が保守点検することもなく、近隣の楽器店がときおり調律をするだけという事例もあるようです。
こうなると楽器のコンディションは年々低下し、たまさかコンサートというときにはピアニストが弾くのを嫌がって、やむなく別のピアノを遠路はるばる運びこむなどという一幕もあるようで、こんな馬鹿な話はないでしょう。

ピアノは一流品があまりにも無慈悲に酷使されるのも痛々しいものがありますが、逆に弾かれることもなく、長い年月のほとんどを眠っているだけのピアノというのも物悲しいものです。
そのいっぽうでは、一部のメジャーなホールでは数年ごとに新品ピアノに入れ替え、ようやく旬を迎えつつあるようなスタインウェイが、リハーサル用などに下げ渡されていくというのですから、これもいい気持ちはしません。ピアノのわかるピアニストの中には、ステージ用よりリハーサル室のピアノのほうがよほど好ましいと漏らすこともある由で、世の中おかしなことだらけです。

さて、冒頭の話題に戻ると、こうした地方の田舎に突如建設された文化施設やホールでは、年に一度ぐらい文化事業をやっていますよという、税金を使った言い訳のためのイベントをやらなくちゃいけないのか、なぜこんな場所でこういうコンサートがあるのか、よくわからないような演奏会があるらしいことをクラシック倶楽部を見ていて感じることがときどきあるわけです。

もちろんマロニエ君はクラシックのコンサートが特別なものとは思いませんし、ましてやこれに来る人が高尚な人たちともまったく思いません。高尚どころか、ものによっては逆の場合も珍しいことではなく、ばかばかしいようなものも少なくはないのも現実です。

ただクラシック音楽というものが、一般的にだれもがすんなり馴染めて好まれるものかというと、そこにも一片の疑問は残ります。演奏の質や魅力はさておいても、やはり取り扱う作品そのものは本物の芸術作品ですから、普段まったくクラシックとご縁のない人がパッと聞いて直ちに興味を覚えたり素晴らしいと感じるかというと、そんな瞬間がゼロではないにしても、やはり一定の経験を積んで楽しむに至る下地が求められることも否定できません。

プログラムも問題で、TPOというものをまるで欠いた、聴く人のことを考慮しない専門性の高い作品を無遠慮に並べるとか、逆に聴衆をバカにしたようなベタベタな名曲集のようなものになるなど、開催する側、あるいは演奏者達のセンスにも大いなる疑問を感じます。
すべてがこんな調子なので、そんなコンサートが支持されるはずもなく、莫大な費用をかけた施設やピアノは、当初の目論見通りに文化貢献をしていると言えるものはどれぐらいあるのか…、ただ時が流れ、朽ち果てるのをまっているだけかもしれません。

喜んだのはそれに携わった当時の建設会社やお役人、楽器販売店などでしょうが、こんなことが可能だった頃が世の中も好景気だったのかと思うと、なんとも複雑な気分です。
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ディーゼル

ヨーロッパで走っている乗用車の大多数はディーゼルエンジン搭載車です。
ディーゼルエンジンとはガソリンの代わりに軽油を燃料とし、日本ではほとんどのバスやトラックがこれを使っていて、あのガラガラという特徴的な音はこのディーゼルエンジンならではのもの。

ヨーロッパのディーゼル志向は少なくとも30年以上続いているものと思われ、メーカー各社はどのモデルにもディーゼル仕様を必ずラインナップするのが当然というほど猛烈な勢力です。加えてトランスミッションはこれもまたオートマは少数派で、大半がマニュアル仕様だといいますから、車に関する感性もずいぶん異なるようです。

もともとディーゼルエンジンは音がうるさく、独特の振動があって、しかもパワーが無いという特性があります。その半面、燃費がよく、しかも燃料の軽油はガソリンに比べて安いということがヨーロッパで強く支持される主たる理由です。さらには税制などの点でも優遇されいるのか、こういう点で驚くほどドライな考え方をするヨーロッパ人にとって、彼らがディーゼルを選択することは必然なのでしょう。

これとは趣を異にするのが日本やアメリカ市場で、多少燃費の点ですぐれていようと、あの音や振動は耐え難く、とりわけ高級車の分野では、パワーや静粛性、スムーズなフィールを重視する点からも、ほとんど受け入れられませんでした。

そんなディーゼルエンジンでしたが、技術の進歩によって飛躍的な発展を遂げ、ガソリンエンジンと遜色ないパワーとスムーズさを手にするまでになり、以前のようなディーゼル=ガマンとは隔世の感があると自動車雑誌などで報告されるようになりました。
マロニエ君自身も数年前、ある輸入車のディーゼル仕様を一般道から高速道路まで運転させてもらったことがありましたが、たしかにこれならばと納得できるぐらい洗練されたものでした。
ディーゼルエンジン固有のビート感と太いトルクはある種の味わいさえあり、ガソリンとは違った魅力があることも確認でき、大いに感心した経緯がありました。

その後、乗用車のディーゼルが根付かなかった日本では、ようやく勇気あるメーカーによって意欲的な開発がなされ、ともかく傑出したエンジンができたようでした。
すでに発売もされ、評判も上々、その後はこのメーカーはフラッグシップである高級車からコンパクトカーにいたるまでディーゼル仕様が拡充されています。車の省エネがハイブリッドに集約されつつある中、既存のエンジンの高効率化によって新しい選択肢を加えて行こうというこのメーカーの技術力と挑戦の意気込みは注目に値するものかもしれません。

過日、わけあってそのメーカーのディーゼル搭載の最高級車を試乗するチャンスに恵まれました。
全営業マンが接客中ということから基幹店の店長さん自ら説明にあたってくださったのはいいけれど、それはもう大変な自信に満ちた長広舌でした。車を前に講釈は止めどなく続き、シートの作り、ペダルの位置や構造、さらにはあらゆる操作に関する配慮など、人間工学に基づいたクルマづくりを徹底しているということなどを延々と聞かされました。

メーカーの方が自社の車に強い自信をもっているというのは素晴らしいことですが、説明があまりにも長いと疲れてしまい、いつしか唯我独尊のように聞こえてくるのは逆効果では?という気がしなくもありません。
どうにか説明がおわると「試乗のご準備をします」というわけで、ショールームでしばしまっていると、今度はさっきの店長さんが若い営業レディを伴ってあらわれ、テストドライブは彼女が同乗しますということで、目をやればいつの間にか試乗車が玄関前にとめられていて我々を待ち受けています。

さて、技術大国の我が日本が作った、最新のディーゼルエンジンとはいかなるものか。
期待と同時に、下手をすれば乗ってきた自分の車が色あせてしまうほど素晴らしいのだろうか…などと多少の不安も抱きつつ車に歩み寄ります。するとすでにエンジンが掛けられており、その大柄で流麗なボディとはいかにも不釣り合いなカカカカカという明確なディーゼル音を発しているのにちょっとびっくり。「静粛なディーゼル」「言われないとわからないほど静かでなめらかなディーゼル」という言葉から想像したものとは、まず違いました。

運転席に座り簡単なコックピットドリルを受けて、いざスタート。
目の前の片側2車線の国道に出て一息加速したら右折というコースですが、「車は数メートル転がせばわかる」といわれるように、音楽でいうところの最初のワンフレーズで、これは期待が強すぎたか…と早くも内心思ってしまいました。

この車は同社の高級車の中でも上級グレードのようで、19インチというかなり大径のホイールと薄いタイアを装着していますが、そのタイアから発せられるゴーッというロードノイズが室内を満たしてくるのも???でした。スポーツカーならともかく、全長5m近い上級サルーンでこれはないだろうと思います。
それよりなにより敬遠したくなる点はやはり振動でした。走っているときはまだしも、信号停車中はぷるぷるした独特の振動を全身に受けるのは、やはりまぎれもなくディーゼルでした。むろんそれは技術的努力によって極力抑えられてはいるはずですが、それでもガソリンエンジンではありえない強いバイブレーションはどこかマッサージ器のようで、マロニエ君には脳神経に達するようでした。

パワーも自慢のひとつでしたが、この試乗中はそれほどとも思いませんでした。
まだまだありますが、これ以上は慎みます。お店に戻って丁重に謝意を伝えて帰ろうとすると、店長さんがご挨拶されるとかで、再びショールーム内に連れて行かれ、しばし待たされました。
なんと助手席にいた女性は、マロニエ君が走行中に漏らした感想を陰の部屋で逐一報告していたらしく、再び現れたときは笑顔の中にもやや硬い表情が加わって「振動を感じられますか?」というような調子で印象を聞かれたのには弱りましたが、でもまあいい体験ができました。
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響板のホコリ

以前、洗車が我が健康法というようなことを書きましたが、そこに楽しみを見出すには、掃除する対象が自分の趣味性のあるものだからということも関係があるのかもしれないと思います。

しかし、そうだとすれば、好きなピアノも磨きの対象になってもおかしくはないようなものですが、なぜかこちらはまったくそうはなりません。

こう書くとまるでピアノの掃除はせずに、いつも汚れた状態のようですが、決してそんなことはなく、少なくとも人並みにはきれいにしている「つもり」です。それでも洗車のようなハイレベルを目指してピアノ掃除をやったことはありません。

これは自分でも不思議で、その理由を考えてみたところ、いくつか挙げられるようです。

まず大きいのは、当たり前ですがピアノは常に屋内に置かれるものなので、車のように「汚れる」ということがあまりありません。せいぜい水平面にうっすら溜まったホコリを取り除く程度で事足ります。
それにマロニエ君はよくあるピアノ用シリコンみたいなケミカル品はできるだけ使いたくないので、これぞというものを必要最小限しか使いませんし、普段は毛羽たきか、ごくたまに柔らかい布を固く絞って丁寧に水拭きする程度です。

また鍵盤も、毎日専用のクリーナー液をつけて拭く人もいるそうですが、入れ替わりにレッスンをやっているようなピアノでもないのでそれもしませんし、そもそもボディカバーもしない、鍵盤用の意味不明な細長いフェルトのカバーなども、むろんありません。

これがマロニエ君のピアノに対するスタイルで、それでいいと自分が思っているわけです。

もう一つ、マロニエ君にピアノクリーニングから遠のかせる原因は、グランド内部の構造も大きく関係しているのです。
グランドピアノをお持ちの方ならおわかりだと思いますが、最もホコリが溜まりやすく、それなのに掃除の手立てがないのが響板です。響板は直に手がとどくのは低音側の弦とリムのわずかな隙間ぐらいなもので、大半は無数に張られた弦に遮られてほとんど掃除ができません。
響板のように広い部分にホコリがたまっているのに、それをとり除くことができないのは甚だ面白くありませんし、外側だけキラキラ磨きたてたところで意味がない…というわけで、いわば興が削がれるのです。
よってピアノの掃除にはむかしから力が入らないのかもしれません。

調べると、響板のホコリ取り用具が全く無いわけではないようです。
細い棒の先端にフェルトみたいなものが貼られ、その中央に針金のような細い取っ手が直角にけられていて、それを弦の間から差し込んで動かすことでホコリを除去するというもののようです。しかし、こういう道具類はよほど需要がないのか、技術者相手の業者がひっそりと取り扱っているようです。
ところが、この手の店はネットでも排他的で、一般のピアノユーザーが簡単に手に入れたらいけないということなのか何なのか、技術者だけがコミットできるようになっているようで、値段もなにもわからないようになっています。
一見さんお断りならぬ素人さんお断りサイトで、なにやらもったいぶった印象で、これだけで面倒臭くなります。

あれこれのパーツ(たとえばハンマーやシャンクなど)も価格表示は一切されず、しちゃまずいほど安いのかとも思いますが、この世界は相身互いなのか、そうやっていろんなことが秘密にされているようなので、そこに敢えて部外者として分け入って行こうとも思いません。

それに昔の並行弦のピアノならともかく、現代のグランドは交差弦なので、中音域(響板の中央部分)はどっちみその器具も使えないか、甚だ使いづらいということは目に見えているので、やはり掃除の意欲が湧いてこないのです。

だったら自作でもして、低音弦側から差し込んで、それを左右に動かすことで一挙にホコリが取れるような用具を考案してみようかと思っていますが、これも、何年も前から思っているばかりで、実行には至っていません。

いっそピアノ響板用小型ルンバでもあればいいのですが。
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わざとらしさ

ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、多くのピアノ協奏曲の中でも、マロニエ君にとって特別なもののひとつです。
何が特別かということをここでくどくどと書いてもはじまりませんが、ひとことで言うなら格別で、随所に心奪われるようなたまらぬ要素が散在し、喜びと味わいと陶酔に満たされるということかもしれません。

この曲はブラームスの若い時の作品で、紆余曲折を経ながら苦心の末に完成された大作という点では、交響曲第1番と似ているかもしれません。おまけに初演当時は一向に評価されなかったようで、春の祭典ならともかく、このような美しく味わい深い曲がなぜ不評だったかは理解できません。
というか、現在においてもこの作品の価値から考えるなら、人気はいまひとつという状況が続いているともいえるでしょう。とっつきにくい面があるのはわからないでもなく、いわゆる誰からも愛される名曲らしい名曲という範疇にはどの作品も入らないところこそブラームスの魅力なのかもしれません。

強いて言うなら、長すぎるということはあったのかもしれませんし、現に今でも、演奏される頻度はかなり低く、やはり演奏家や主催者にとっては敬遠したくなる要素があるのだろうとは思います。コンクールの課題曲でもブラームスのピアノ協奏曲を選んだら優勝できないというジンクスまであるとか。理由はやっぱり長すぎるからの由。

そんなブラームスのピアノ協奏曲第1番ですが、先日のNHK音楽館でパーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマーフィルの来日公演からこの曲が放映されました。ピアノはドイツの中堅ラルス・フォークト。会場はオペラシティコンサートホール。

フォークトは好みじゃないし、ドイツ・カンマーフィルというのもあまり関心のないオーケストラなので期待はしていませんでしたが、それでも「ブラームスの第1番」という文字を見れば、やっぱり見てみないではいられません。

やはりというべきか、演奏はまるきりマロニエ君の好みとはかけ離れたもので、普通なら10分でやめてしまうところですが、それでもこの50分におよぶ協奏曲を最後まで聞き終えたのは、ひとえに作品の魅力によるものだと思います。

ドイツ・カンマーフィルというのも何が魅力なのかよくわからず、耳慣れの問題もあろうかとは思いますが、ブラームスをこんな薄手の夏服のような軽い響きで演奏されても、不満ばかりが募ります。最近は室内オーケストラの類があちこちに結成されていますが、これが音楽的な必然なのか、大オーケストラの運営上の問題がこんな流れを生み出しているのか、真相は知りませんけれど。
マロニエ君はブラームスには柔らかで重厚な、それでいて大人の情感で満たされるような響きが欲しいのです。

それ以上に不可解なのはフォークトのピアノで、以前もベートーヴェンの3番を聴いた記憶がありますが、それどころではない違和感の連続でした。
聴く者を作品世界にいざなうことをせず、ただステージの上で自分だけ何かと格闘しているようにしか見えません。

音の分離も要所での歌い込みもなく、かといって厚いハーモニー感もないのにフォルテだけはやたら張り切って音は荒れまくります。スタインウェイはもともと強靭なピアノで、いかなるフォルテッシモにも持ちこたえるにもかかわらず、フォークトの粗雑な強打はさすがに拒絶してしまうらしく、珍しいほど音が割れてしまうのも驚きでした。

驚きといえば、会場のホワイエで、ヤルヴィとフォークとの両氏によるブラームスのピアノ協奏曲第1番に対するやりとりの一幕でした。この二人は長年の付き合いということで、さりげなく立ったまま、あくまで自然な会話のような仕立てにはなっていますが、どうみても撮影のために前もって準備された作られた台本があるとしか思えず、マロニエ君の目には完全なヤラセ芝居に見えて正直シラケました。

今や世界で活躍するクラシックの音楽家でも、カメラの前では役者のような演技ができなきゃいけないのかと思うと、なんだか誰もかれもが音楽以外のことに並々ならぬエネルギーを投じているようで、ここでも時代が変わったことを痛切に思い知らされました。
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一石二鳥

たとえ運動嫌いの人間でも、適度に体を動かすことで心身が良い方向に整えられ、爽快感を得られることが実感できる瞬間は理屈抜きにいいものです。

とりたてて「これが私の健康管理法」というような大げさなことではありませんが、マロニエ君にとっての「それ」は洗車ということになっており、インドア派の怠け者にとっては、これが唯一の全身運動の機会といっても過言ではありません。

洗車といえば当然外での作業となり、寒さが身にしみる今の季節など、始める前はどうしても億劫になりがちなのですが、一旦始めてしまえばウソみたいに活力が出るのは自分でも不思議です。トレーナー等をちょっと重ね着をしただけで、極寒の夜でも「寒い」と感じたことはこれまでに一度たりとも無く、作業中はまるきり寒さのことなど頭から消えています。

日中に洗車することはまずありませんが、幸い自宅ガレージが屋根付きで照明があることもあって、やるときは決まって夕食後に始めます。着手するまではグズグズするくせに、始めるといつも時間を忘れるほど没頭し、細部まで際限なくやってしまいたくなります。
きっとこの時ばかりは普段の雑事やストレスからも開放される数少ない機会なのだと自分で思います。

以前、テレビで健康に関する何かの専門家(名前も顔も思い出せません)が言っていたことですが、中年からの運動というものは、やみくもに激しいことや為の為の運動をすることではなく、無理をせず効果的に行うことが肝要とのこと。
それによれば、健康のための運動はただ毎日何千歩あるくとか、機械的に体を動かすことの繰り返しでは期待するほどの効果は疑わしく、大事なのは、常に脳と身体の連携によってこれを行う必要があるのだそうで、それができた時が効果も著しいということでした。

これまで運動らしいことをしてこなかったような人が、ある程度の年齢に達して、病気をしたり健康志向に目覚めるなど何かのきっかけから一念発起し、突如、人が変わったように毎日1時間歩くとか、スポーツクラブに通うなどのケースも少なく無いようですが、その専門家によれば、そういうものは全てが無駄とは言わないまでも、それによるマイナス面も大きいことが多々あることを認識し、努々無理は禁物とのことでした。

さらにその人が言ったことは印象的でした。
スポーツが好きでこれを楽しむのは別のようですが、あくまでも健康を目的として行う運動であるのなら、家の内外の掃除は大変好ましいというもので、これは目からウロコの意見でした。

いわゆる運動はさして頭を使わず機械的かつ単調なものですが、掃除にはその手順とかやり方など、常に頭を使いながら作業をすることになり、これが先に述べた体と脳が連携して活動することになるのだとか。さらに掃除はそのつど工夫をしたり、やればやったぶんそこが綺麗になって、その結果が嬉しいとかスッキリしたりと、情緒面まで加勢してくるといいます。
またよほどの事でない限り、掃除なら身体にそれほど無茶な負担にもならず、それでいて動きは全身多元的で、ただ歩くのとちがって体のいろんな動きも必要となり、総合的に適度な運動という点でも好ましく、とにかく理想的なんだそうです。

だとすれば、掃除をしたところが綺麗になるという実利まで加わり、これはまさに一石二鳥です。
というわけでマロニエ君の場合の洗車は、自分なりの貴重な運動の機会でもあるし、心身のリフレッシュに大いに役立っていることは身をもって感じています。
その証拠に、洗車をスタートするときよりも終わったときのほうが心身ともに溌剌としているのが、はっきり実感できるのは毎度のことで、このときいつも運動の価値を痛感します。じゃあ、そんなに効果があるのならもっと頻繁にやればいいようなものですが、そこがそうならないところが、つくづく根がダメだなあと思うばかり。

掃除を、最も効果的かつ安全で、実用性まで兼ね備えた最高のフィットネスだと思えば、こんなにいいことはないと思います。

すくなくとも、いい年をして、似合わぬトレーニングウェア一式を着込んで、左右くの字に曲げた腕をわざとらしく振りながら夜な夜な独善的ウォーキングに専心するよりは、よっぽどいいじゃないかとマロニエ君は思っているわけです。
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ピアノのサイズ

ピアノはアップライトもグランドも、ごく単純かつ原則的に言ってしまうなら、要は響板の面積と弦の長さによって、余裕ある響きが得られるという基本があります。

それによってより豊かな音色や響きが得られるわけで、これは当然ながら演奏上の表現力の違いとしてあらわれてくるでしょう。
もちろん、そこは秀逸な設計と好ましい製造技術が相俟って、楽器としてのバランスがとれていればの話であるのはいうまでもありませんが。

現にアップライトでも背の低い小型モデルと、より大型のものを比べると音質や響きの差は歴然ですし、グランドでもギリギリの設計がなされたベビーグランドと大型グランドでは、潜在力に差があることは異論を待ちません。

では、それほど響板面積は少しでも広く、弦は少しでも長いほうがいいというのであれば、価格や置く場所の問題を別にすれば、高さが2mもあるアップライトを作ったり、奥行きが4mぐらいのコンサートグランドを作ったらどうなるのかと考えるのはおもしろいことです。

この点で、以前、何かで(それがなんだったかは思い出せません)読んだことがありますが、例えばアップライトの場合は、そのサイズは130cmあたりが一応の限界点にあるようです。
それはピアノには理想的な打弦点というものがあり、アップライトの場合、背を高くすれば打弦点も上に移動しなくてはならず、これ以上になるとアクションや鍵盤が現在の場所では不可能ということを意味するようです。

どうしても背の高い大型アップライトを作るとなれば、鍵盤、アクション、演奏者の位置は、すべて上に移動しなくてはならなくなり、それは非現実的で簡易性が売り物のアップライトの存在意義を揺るがす事態となるようです。
そんな問題を無視して何メートルもあるアップライトを作っているのが、クラヴィンスピアノで、これは奏者が遙か上部にある椅子まで、ハシゴだか階段だかをよじ登っていく怪物アップライトですが、要はこうなるという象徴的存在でしょう。

また、グランドの場合は、奥行きが長いほど響板は広く、弦も長くなるわけですが、こちらもやみくもに長くすれば良いというものではなく、現在のコンサートグランドのサイズ、すなわち280cm前後を境にそれ以上になると逆にバランスが崩れてくるのだそうです。

この法則をオーバーするコンサートグランドは、主だったところではベーゼンドルファーのインペリアル(290cm)と、ファツィオリのF308があるのみですが、インペリアルはどちらかというとコンサートピアノの通常の法則からは外れていると見るべきで、この巨躯から期待するようなパワーに出会ったためしがありません。

ファツィオリでは、マロニエ君は弾いたことはありませんが、コンサートで聴いた限りでは308cmというダックスフンド体型が、それだけの効果を発揮しているかとなると甚だ疑問に感じました。
印象としてはF278のほうがより健全で元気があるように感じますし、それはトリフォノフがデッカからリリースしているショパンのアルバムでも感じられ、この二つのサイズのファツィオリが使われていますが、サイズとは裏腹にF278のほうが明らかに力強く鳴っている感じがあるのに対して、F308はむしろおとなしい地味な感じのピアノに思えました。

さらにはグランドではバランスよく鳴るサイズというのがあるようで、210cm前後のモデルは各社がもっとも力を発揮できるサイズだと云われています。このサイズでがっかりというピアノには(少なくともマロニエ君は)あまりお目にかかったことがないし、弾いていて独特な気持ち良さがあるように思います。

スタインウェイのB211などはその代表格でしょうし、ヤマハも大型ピアノの代表格は昔からC7というようなことになっていましたが、後発のC6(212cm)はあまりヤマハと相性の良くないマロニエ君でさえ、どの個体でも別物のような好印象を感じますから、やっぱりこのサイズは特別なんでしょうね。

ピアノのサイズも「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということのようです。
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武者修行?

昨日はよく集るピアノの知人が会してしばらくピアノを弾き、そのあと食事に出かけました。
その席では、あれこれの話題が飛び交いますが、最も中心になったのは恋愛から結婚に関する話題でした。

友人知人で楽しむ話題の中でも、この手の話は最も愉快痛快なテーマのひとつだと思います。

なぜなら、そこにはそれぞれの経験に基づいた人生ドラマが色濃く投影されており、まあなんというか…ひとことで云えば爆笑の連続で、恋愛観を通じて相手の価値観や感性、ものの考え方に触れることができ、話はめくるめく展開を繰り返し、退屈するヒマなんてありません。

そのうちの一人は、既婚者ですが、様々な経験を通じて、多くの地雷を踏まされ傷つきボロボロになり、尚もそれを乗り越えて現在があるということを確固として自認されています。
その方によれば、お知り合いの彼女募集中の後輩男性にも深い憂慮と同情の念をお持ちで、まるで江戸時代の剣術指南役のような精神を持たれているようでした。
ところが、その後輩の方は免許皆伝には程遠いご様子…。

様々な出会いから交際を経て結婚に至る過程というものは、マロニエ君が考えているような怠惰で甘ったれのそれとはまったく異なり、ライオンが我が子を谷底に突き落とすほどに厳しい現実を勝ち抜くことであると滔々と述べられるさまは、なかなかどうして一聴に値するものでした。

まるで荒武者か僧侶の過酷な修行談を聞いているようで、忍耐と諦観、悟りの境地も必要らしく、聞いている側は驚きと笑いが尽きることなく、あっという間に閉店近くの時間に突入してしまいました。
マロニエ君などは根が不真面目でもあるし、男女の出会いなんてしょせん自然に発生し消滅するものとしか思っていない側からすれば、その気合と面目さ真剣さにはただただ感服つかまつるばかりでした。

当然ながらピアノも不屈の精神で非常によく練習されており感心させられますが、それにひきかえ、マロニエ君の練習嫌いなど論外とも言える堕落した精神そのもので、爆笑しつつも我が身の甘さを痛感させられました。

本来はもう少し具体的なことを書きたいけれど、そうもいかないのが残念なところです。


やや話は逸れますが、いつごろからか就活から転じた「婚活」という言葉もごくごく一般的となり、いらい何事にも◯活という言い方が流行ってきて、その流れを世間がやすやすと肯定し受け容れているのは個人的にはあまり歓迎はしません。
言葉というものは当然内容を伴いますから、現代はことほどさように何事も目的のために計画を練り、それに沿って我慢の精神で「活動」することが当たり前のようになってしまいました。

その極め付きは、自分が死ぬときまでありのままは否定され、きっちり計画準備した上でこの世からおさらばしろといわんばかりの「終活」で、実際にそういう動きまで出てきているというのですから驚くばかりです。
アナ雪の「ありのままで…」が流行った裏には、すべての事柄にありのままが許されないという実情が反映されているのかもしれません。

そうなるについては時代環境に裏打ちされた必然性があるものとは思いますが、そうはいっても、なんでもかんでも積極的といえば聞こえはいいけれども、要するにガツガツした活動を通じて「自分のぶん」をゲットしなくちゃいけないことをすべてに義務付けられている現代は、やっぱりどこか自然の摂理に背を向けた、いびつな空気が横溢しているようにも感じられます。
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ケータイあればこそ

つい先日、ケータイは疲れるということを書いたばかりで、その舌の根も乾かないうちにこんなことを書くのもどうかと思いましたが、ケータイの威力を心底痛感させられる経験をするハメに。

実家に帰省していた友人が東京に戻るというので、空港まで車で送ってやることになりました。
19:20分発だそうで、日曜で道が混んで慌てるのもイヤなので、少し早めに出て話でもしながらゆっくり向かおうということで、17:30少し前に家を出ました。友人の家までは約15分。

表に出てこられたお母上に挨拶などしていざ出発。
福岡空港は市内東部にあるので距離もそれほどではなく、少し早すぎたかな…とも思いつつ外環状線に出ると、夕刻ということもあってか意外に道が混んでいました。それでも出発までは一時間半あり、ゆるゆる走って30分前に到着すればいいとしても1時間はあるわけで、いずれにしろ余裕でした。

雑談をしながら外環状線を東に走っていると、友人のケータイが鳴り、果たしてそれは彼のお母さんからの電話でした。なんと家に大事な物が全て入ったカバンを忘れているというのですから唖然呆然です。そこには財布から飛行機のチケット、各種カードや勤め先の通行証などまでのすべて入っているらしく、要するに絶対に今手元になくてはどうにもならないものでした。

そんな大事なカバンを玄関に忘れてくるだなんて、その友人の超オマヌケぶりにも開いた口がふさがりませんでしたが、いくつかの手荷物を車に乗せることに気を取られていたと言いつつ、顔は真っ青になっています。
ここでいくら文句を浴びせても事は解決しませんから、ともかくUターンするしかありません。このときすでに行程の半分以上来ていて、内心これはかなり厳しいことになったことを直感しました。さらに外環状線の逆方向は猛烈な渋滞で、このままではどう転んでも時間に間に合わないことは明らかでした。

友人は何度も実家に電話して状況を伝えていましたが、やむを得ずお母上がタクシーで空港まで持ってみえることになり、これでとりあえず一件落着かとも思われました。

ところが呼んだタクシーが10分経っても来ないとのことで、こんな調子ではタクシーも間に合う保証はありません。マロニエ君は再び空港に向かうか否かの判断に迫られました。すでにこのころ、マロニエ君は大渋滞の外環状線を外れて、別ルートを北進していましたが、焦る中でフル回転で考えた結果、ちょっと思い切った手段に出ることに。

彼の家からタクシーで空港へ向かうなら、通常はこの道を来るはずというルートがあり、タクシーが来たら必ずその道を走るよう運転手さんに言ってくれと頼んでもらいました。そしてこちらはそのルートを逆方向から走って行けば、途中のどこかで接点が生まれ、カバンの受け渡しができる筈という目論見です。

ほどなく彼のお母上から「今、タクシーに乗りました」という一報が入ります。
こちらは目指すルートにはまだ乗っていませんが、この頃にはもう18:30分を過ぎており、時間的にはかなり厳しいものがあると思いつつ、それでもダメモトでできるだけのことはやってみるしかありません。
ちなみにチケットは格安購入のため時間の変更は不可だそうで、友人も紛れもなく自分の責任であるし、最悪の場合、次の便に普通料金で乗る覚悟はしていたようです。

その後、そのルートを東に向かっているというお母上からの電話が入り、そのころにはこちらもなんとか同じルート上に到達しようというところでしたから、あとは双方が路上で待ち合わせをするポイントを定めるのみ。これがなかなか難しく、気分も焦っていて冷静な判断ができませんが、かろうじて思いついたのは大きな池の畔の交差点にあるマクドナルドで、そこを受け渡し場所にすることに決定。
馴れない緊張感の連続で、やっていることはスパイ映画さながら、バクバクという脈動が明らかに普通ではないことも自分でハッキリわかります。

やがてマックの黄色いMの看板が見えてきたころ、タクシーのほうが一足先にマックの駐車場に入ったとの連絡がありましたが、もう目の前というのに信号がむやみに長く、いやが上にも手に汗握ります。転げ込むように駐車場へ入ると、寒い中、お母上はタクシーから降りてカバンを手に待機しておられました。
慌ただしくそれを受け取り、挨拶もそこそこに駐車場を飛び出すと、さあ一路空港を目指します。
このとき18:50分少し前で、とてもではありませんが10分やそこらで空港まで行くなんて無理だろうとは思いましたが、とにかくやれるだけのことはやるしかないというわけで、諦め半分にスピードを上げてダッシュをかけました。

非常に幸いだったことは、こちらのルートは外環状線よりは車の流れが多少よく、少なくとも信号以外では止まることなく進めたのですが、それを幸いにかなりミズスマシのような強引な運転をして、なんとか空港が近づいてきたときは19:00をわずかに過ぎていました。
空港の敷地内に入っても、東京行きはやや奥まったところにある第2ターミナルで、空港内があれこれの工事をやっていることもあり思ったより時間がかかります。ノロノロ走るタクシーをバンバン追い抜いて、第2ターミナル前の反対車線の赤信号に辿り着いたときは19:05分をわずかに過ぎていましたが、車の乗り降りが禁じられたエリアであるのは承知で強行突破を促し、友人は両手に荷物を抱えながら工事用の柵を乗り越え、横断歩道もない道路を渡ってターミナルへ走りました。

出発まで15分を切っていたので、間に合ったかどうかの確証は得られないまま帰途につきますが、よほど神経が高ぶっていたのか、もう急がなくてもいいのに、しばらくはなかなかゆっくり走ることができなくなっていました。ある種の興奮状態からすぐには抜け出せなくなっていたようです。
その後、やや落ち着きを取り戻して走っているとき、カーナビの電波時計は出発の19:20分になりました。その直後にケータイにメールが届き「おかげで間に合った」という一文をみてホッとしたのはいうまでもありません。
走りに走って機内に駆け込み、ケータイの電源を切る直前にメールをくれたようでした。

こんな命の縮まるような事はむろん二度とごめんですが、ケータイという文明の利器があったればこそできた綱渡りであったことも間違いありません。少なくとも公衆電話の時代なら、万事休すとなるのは間違いなく、ケータイの完勝です。

さすがの本人もとんでもない迷惑をかけたと思っているらしく「この罪滅ぼしは必ずする」のだそうで、「へーえ、それは楽しみだ」とメールを返しておきました。
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都市伝説

グランドピアノの鍵盤蓋を開いたとき、その上端が90°ほど畳むように折れ曲がるようになっているピアノがときどきあります。
現在は僅かな手間も惜しんで、徹底したコストダウンを敢行する潮流なので、現行モデルではほとんどなくなったと思いますが、昔はヤマハにも、カワイにも、ディアパソンにもこのタイプがありました。

スタインウェイでもハンブルクは通常のスタイルですが、ニューヨーク製は中型以上のモデルにはこの鍵盤蓋上端の折れ曲がり機構が標準仕様です。

さて、この鍵盤蓋の前縁が折れ曲がる理由は何かということですが、これには諸説飛び交うばかりでいまだ決定打らしきものがありません。

もっとも多数派なのは、演奏者が熱演極まって手の動きが激しくなった場合、通常の鍵盤蓋だと指先が縁に当たる恐れがあるので、それを避けるためにこの部分が折れ曲るようになっているというものです。
なるほどという感じですが、じゃあ熱演のあまりピアニストの指先が鍵盤蓋の縁に当たるというようなシーンを見たことがあるかと言われると…実はありません。
チェルカスキーやルビンシュタインなどは激しい動きで両手を垂直に上下させたものですが、指先が鍵盤蓋の縁に衝突するなんてことはまずないようでした。
となると、これはイマイチ説得力がありません。

次になるほどと思ったのは、縁を下に曲げていると、万が一ふいに蓋がバタンと閉まるようなことがあっても、この折れ曲がった縁が左右の木部に当たることで、指先をケガする危険がないというものです。
いわば安全機構というわけで、やってみると確かにそれも一理ありという感じでもあり、これはこれで、それなりにいちおう納得してしまいました。

果たして後者が真相かと思っていたら、先日来宅された技術者さんによると、また新しい説を披露されました。
それは上部から照明をあてると、ピアノの鍵盤は、光の角度によほど気をつけないと、鍵盤蓋の前縁のせいですぐに影になってしまうので、それを避けるために折り曲げることができるようになっているのではないか…という推量でした。

たしかにステージでは、照明のせいで、鍵盤に変な日向と日陰ができたら演奏者は弾きづらいかもしれません。でも、もしそうならコンサートピアノなどはもっと多くのモデルがこの機構を備えていそうなものですが、実際はない方が圧倒的に多く、やはりこれも決定的ではないような気がします。

マロニエ君個人は単に見栄えの問題ではないかと思います。
べつに縁が折れ曲がったほうが見栄えがいいとも思いませんが、なんとなく、ただ鍵盤蓋をカパッと開けただけよりは、さらにもう一手間かけて上部を下に向けて折り曲げたほうがいいというふうに、すくなくとも考えられた時代があったのではないかと思うのです。

もちろんこれも単なる想像にすぎませんが。

思い出すのは、ある大手楽器店のピアノ販売イベントに行った折、そこの最高責任者の人が意気揚々と案内してくれて、一台の中古のニューヨークスタインウェイのB型の前でことさら声高らかにこう言い出しました。
「このピアノは、もともとあるピアニストの方が特注されたものです。ほら、ここが折れ曲がるでしょう? これはピアニストの方の要望で、指先が当たらないように特別に作られたもので、スタインウェイでも非常に珍しいピアノなんです!」と、ずいぶん大きな声で言われました。

あまりにも自信たっぷりの説明で、しかも周囲には他にも人がちらほらいて、なるほどという感じに聞いておられたので、「ニューヨークスタインウェイでは、これは標準仕様ですよ!」とはさすがに言えませんでしたが、それにしても、こんな大手楽器店のピアノの最高責任者がこんな程度の認識なのかと思うと、非常に複雑な気分になったことは今も忘れられません。
こういう見てきたようなホラが一人歩きして、いつしかまことしやかに流布されていくのだろうと思うと、いわゆる都市伝説とはおおよそこんなものだろうと思いました。
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疲れる

これまでにも何度かケータイやメールにまつわることを書いてきましたが、さらに近ごろ感じたことから。

現代は各自ケータイという便利な機械をもっていながら、雰囲気としては、無邪気に直接電話することはよほど親しい関係でない限り遠慮をすべきという空気があり、はっきりした用件があるときのみその縛りはなくなるようで、もうこの時点で鬱陶しくなります。

しかも、その直接かける電話というのが、必ずしも一度で繋がるわけではありません。
ケータイというのは、言い換えるなら個人への直通電話です。
それなのに、昔よりも逆に相手の声を聴くまでに手間暇のかかることが多く、マロニエ君などはその点で気が短いほうなので、直に話ができるころには、たいてい気分的に(かなり)疲れてしまっています。
何が疲れるのかというと、着信履歴があってかけ直しても、これで相手が一発で出ることはなかなかありません。こちらも運転中など、すぐには出られないという状況があるにはあるからお互い様のようではありますが、最近の様子はどうもニュアンスが若干違うようです。

大抵の場合、多くの人が常時マナーモードにしているか、仮に着信があってもまずその場で出ることはないのです。もちろん出られない状況というのならわかります。早い話が勤務中などはそうなんですが、そうとばかりも言えないような気配を感じることがままあったりするのです。もちろん個人差はありますが…。

ひとつのパターンとして云うなら、いまやケータイに電話するということは、すぐに話ができればラッキーで、半分は相手の端末に自分が電話をしましたよという印をつけるだけ。実際に話ができるのはいつになるか不確定な状況におかれることになるといってもいいでしょう。
そして相手が電話ができる状態となり、さらには折り返し電話しようという意志が働いたとき、ついに直接会話が可能となるわけです。

要するに、たかが電話ひとつにいちいち手間暇のかかる時代になったということだと思います。
たまたまかかってきた時にこちらが電話がとれない状態だと、どうかすると着信履歴を残すことを双方で繰り返すことになります。驚くのはタッチの差で切れてしまった電話など、すぐにこちらからかけてももう繋がらないということも少なくなく、これはひとつにはマナーモードにすることが常態化して、かかってきた電話に出るという習慣をほとんど失っているからでもあるでしょう。
つまり電話は「鳴ってもまずは放っておくもの」という認識なのかもしません。

かくいうマロニエ君も出られない状況というのはいくつかありますけれども、今どきの人はどうも根本の感性が違う気がします。
すぐには出ないのが普通で、着信履歴を見て相手をチェック、自分が必要を感じたりそのときの気分次第でコールバックするなり、再度かかってきたときに出るといった趣。驚くのは自分が登録していない番号からだと、それだけで出ないことにしているなどは、いっぱしの有名人のつもりなのか何なのか…、ともかく電話というものへの認識が変質していることだけは確かなようです。

滅多に見ないテレビドラマなどでも、今は電話といえばケータイのことであり、そのケータイに電話がかかってくるシーンはマナーモードであることも多く、唸るようなバイブ機能の音がするだけというのは、いかに多くの人がそれを常とし、電話する側も「出ない」ことを想定しながらかけているとしか解釈できません。

むろん勤務中に私用電話が鳴っては困るというような常識はありますが、そんな建前を口実にしながら、実際には見えないエゴが広がっていくようです。

なんにしても息苦しい、難しい時代になりました。
くだらないことに気を遣うべき項目が多すぎて、みんな疲れながらわがままになっているようです。
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ブレンデル

1月のBSプレミアムシアターでは、昨年亡くなった名指揮者クラウディオ・アバドを追悼して、彼が晩年の演奏活動の拠点としたルツェルンのコンサートから、2005年に行われたコンサートの様子が放送されました。

ちょうど10年前の演奏会で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番とブルックナーの交響曲第7番。
ソリストはアルフレート・ブレンデル、オーケストラはルツェルン祝祭管弦楽団。

最近はいわゆる大物不在の時代となり、そこそこの演奏家の中から自分好みの人や演奏を探しては、ご贔屓リストに加えるというようなちょこまかした状況が続いていたためか、アバド/ブレンデルといった大スターの揃い踏みのようなステージは、昔はいくらでもあったのに、なんだかとても懐かしさがこみ上げてくるようでした。

演奏云々はともかく、こういう顔ぶれが普通に出てくる一昔前のコンサートというものは、妙な安心感と豪華さみたいなものがあって、そんなことひとつをとっても、世の中が年々きびしく、気の抜けない時代になってきていることを痛感させられます。

アバドの指揮は歳のせいか、昔のように作り込んだところが少なく、もっぱら友好的に団員との演奏を楽しんでいるように見えましたが、この人もその音楽作りのスタイル故か、それが老練な味になるというわけではなく、どこか中途半端な印象を覚えなくもありません。

ブレンデルのピアノはずいぶん久しぶりに接したように思いましたが、いまあらためて映像とともに聴いてみると、いろいろと思うところもありました。
ブレンデルといえば学者肌のピアニストで名を馳せ、ベートーヴェンやシューベルト、あるいはリストでみせた解釈とその演奏スタイルは、まるで研究室からステージへ直通廊下を作ったようで、テクニックで湧いていた20世紀最後の四半世紀のピアノ界へ新しい価値と道筋を作ったという点では、偉大な貢献をした人だと思います。
生のコンサートでも極力エンターテイメント性を排除し、作品を徹底して解明し解釈を施し、それを聴衆に向けて克明に再現するということを貫いた人でしょうが、それでも現在のさらに進んだ正確な譜読み(正しい音楽であるかどうかは別)をする次の世代に比べると、ブレンデルのピアノはまだそこにある種の人間臭さがあることが確認できましたが、それも今だからこそ感じることだろうと思います。

オーケストラから引き継ぐピアノの入りとか、各所でのトリルなどは一瞬早めに開始されるなど、いい意味で楽譜との微妙なズレが音楽を生きたものにしていることも特徴的でしたし、なにしろ確固たる自分の言葉を持っているところはさすがでした。

ただし冷静に見ると、これほどの名声を得たピアニストとしてはその技巧はかなり怪しい点も多く、この点はブレンデル氏が生涯うちに秘めて悩んでいたところかもしれません。もしかすると技巧が不十分であったことが、彼をあれほど音楽の研究へと駆り立て、それが結果として一つの世界を打ち立てる動機にもなったのかもしれないと思うと妙に納得がいくようでした。
人は自らの背負った負い目を克服する頑張りから、思いもよらないような結果を出すということも多分にあるわけで、彼の芸術家としてのエネルギーがそれだったとしても不思議はありません。

ブレンデルのピアノを聴いているといつも2つの相反する要素に消化不良を起こしていたあの感触が今回もやはり蘇ってきました。ディテールの語りではさすがと思わせるものが随所にあるのに、全体として演奏がコチコチで、音色の変化は無いに等しく、ピアニシモの陶酔もフォルテシモも迫りもないまま、長い胴体をまっすぐに立て、顔を左右に震わせて弾いているだけで、要するに全体として釈然としないものが残ります。
音も終始乾きぎみで潤いというものがないし、ピアノ自体をほとんど鳴らせないまま、この人はただただ思索と解釈、それに徹底した音楽の作法、すなわち音楽的マナーの良さで聴かせる人だったと思いました。

そもそもあれだけの長身で、背中など燕尾服ごしにも非常にたくましい骨格をしており、手もじゅうぶんに大きく、身体的には申し分のない条件を持っていますが、指先にはいつもテープを巻き、不自然なほど高い椅子に座り、どこか窮屈そうにピアノを引く姿、さらにはピアノが乾燥した肌のような音しか出さないのは、見ていて一種のストレスを感じるわけですが、これは彼の奏法がどこか間違っているような気がしてなりません。

非常に才能ある聡明な方に違いありませんが、ブレンデルは専らその頭脳と努力によって、あれだけの名声を打ち立てたのかもしれません。あっけなく引退したのも、もしかしたらそういう限界があったのだろうかとも思いました。

印象的なのは、見る者の心が和むようなエレガントなステージマナーで、こういう振る舞いのできる人は若手ではなかなかありませんね。
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高級の概念

書店に行くと、雑誌のコーナーでは音楽関係と自動車は習慣的に足を止めてしまいます。

音楽も車も共通しているのは、内容に重みや深みがなくなったということでしょうか。
雑誌といえども昔のような読み応えとか書き手の信念みたいなものはなく、どれもそつのない上っ面の記事ばかりが紙面を埋め尽くしています。対象の本質に迫るとか辛辣な批判も辞さないというような気骨ある記述などむろんお目にはかかれません。
どれもこれも広告収入を念頭に置いたゴマスリ記事ばかりですから、惰性で購読を続けている一誌以外、購入してじっくり読みたいと思うようなものはほとんどありません。

そういうわけで、大抵はパラパラ頁をめくるだけで事足りてしまいます。
マロニエ君は本は買いますが、雑誌に関してはほとんど立ち読みばかりで終わっています。

立ち読みしかしたことがなく、一冊も買ったことがないもののひとつに、クルマ好きの個人ガレージを取材して、それを一冊にまとめた雑誌が存在します。
たしか三ヶ月に一度ぐらい発行され、いつも自動車雑誌の目立つところに置いてあります。
車の雑誌も種類がずいぶん減りましたが、そんな中、今だに廃刊に追い込まれないところをみると、人の露出欲を満足させるものには一定の需要があるということなのでしょうか。

敢えてその雑誌名は書きませんが、これが見ようによってはお笑い満載の本なのです。
世のクルマ好きのお金持ち達が、これでもかとばかりに高級車を買い集め、それを陳列する夢のガレージを作ってはこの雑誌の取材を受け、掲載されるのがひとつのステータスになっているんだろうと思います。
中には、あきらかにこの雑誌を念頭において設計されているとしか思えない物件があり、そんな脂がしたたり落ちるような猛烈な自己顕示欲を集めて一冊の本にすると、全国の書店でビジネスとして成り立つだけの部数が売れるということでもあるんでしょうね。

取材される人たちが、その車のコレクションやガレージ建造に投じた費用は莫大なものに違いありません。
とりわけ毎号巻頭を飾るいくつかのガレージと車は、まさに億単位の「巨費」がかけられているのは明らかで、趣味という個人の内的な世界など遙かに飛び越えて、あくまで人に見せて自慢することを前提として設計され建造されたものばかりです。
よく芸術の世界で「猥褻」が論争の的になりますが、こういう雑誌を見ると「滑稽」という概念に対する考察を提起をされているようでもあり、いつも笑いを押し殺しながら頁をめくるのに難儀します。

本物の滑稽というのは、やっている本人が大真面目であればあるだけ、笑いの純度は上がるもの。
これらのガレージに居並ぶのは、大抵がフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェにはじまり、ロールスやベントレーなど、要するにすこぶる高額なわかりやすい高額車ばかりで、それも1台や2台では終わりません。そしてガレージの設計や内装は、まさにディーラーのショールーム風スタイリッシュでまとめられるのが少なくありません。フェラーリが居並ぶ壁には、馬がヒヒンと立ち上がった有名なマークの巨大なやつがほぼ間違いなく取り付けられるなど、お約束アイテムの羅列ばかりで独創性はほとんどナシ。
私費でメーカーの宣伝を買って出ているつもりか、はたまたどこぞの宗教のシンボルのようでもあり、個人宅のガレージというものを完全に逸脱した感性で塗りつぶされ、しかもそこが自慢のポイントであることが伝わってくるあたりは、この本は見るたびに全身がむず痒くなります。

大抵はガラスで仕切られた一角などがあり、そこに高級な椅子とテーブル(多くはイタリア製!)、場合によってはワインセラーやホームバーのようなものが設えられていたり、あるいはリビングのソファに体を埋めながら常に愛車を目線の先で舐め回すことができるよう、人と車がガラスひとつで仕切られた動物園のような設計だったりと、普通なら冗談かと思えるようなものが、大まじめに「男の夢の実現」として、大威張りで強烈な主張をしています。
しかも、それら憩いの設備は「ここの主の、友人への心配り」などと修辞されているのですから、そのセンスがたまりません。

クルマ好きが愛車を駆って会するのに、バーまであるとは、アルコールが入って酒気帯び運転にならないのかと気になりますが、そこはきっとホテル顔負けの宿泊施設も準備されているのかもしれません。

知らない人が予備知識ナシにこの手の超豪華ガレージを見せられたら、おそらくショールームか店舗の一種ではと思うはずです。ここでマロニエ君がいいたいことは、高級とか贅沢というものは、決して「店舗のようなしつらえにすること」ではないということです。

例えば、社会的地位のある人などが家を新築したりする際、純和風というテーマのもとに建ち上がったそれは、まるで粋な料亭のような趣で、個人の住宅に求められる品性とは何かという本質や作法がまるきり理解できていないことが少なくありません。どれほどの地位や経済力があろうとも、教養や文化的素養はまた別の話のようです。
これらの和風住宅にしろガレージにしろ、その建て主の心の中にある「高級」という概念の源泉がどこからきているか…それが悲しいほどに顕れてしまっているわけですが、まあご当人はご満悦の極みなのでしょうから、もちろん結構なことですが。
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前後で聴き比べ

NHKのクラシック倶楽部は、通常はひとつのコンサートを55分の番組に収めて放送しているものですが、ときどきその割り振りに収まらなかった曲などを拾い集めるようにして「アラカルト」と称し、とくに関係も脈絡もない2つのコンサートが抱き合わせで放送されることがあります。

先日も番組の前後でニコライ・ホジャイノフとアンドリュー・フォン・オーエンの取り合わせというのがありました。
以前見た覚えのあるホジャイノフのリサイタルから放送されなかったベートーヴェンのソナタop.110とドビュッシーの花火、オーエンのほうは悲愴ソナタと月の光という、どちらも現代の若手ピアニスト、近年の来日公演、さらにはベートーヴェンとドビュッシーという、どうでもいいような組み合わせで無理に共通項をつくったようでした。

ホジャイノフは音楽的に嫌いなピアニストではありませんが、さすがにベートーヴェンのソナタは力不足が露呈してしまう選曲で、まったく彼のいいところがでない演奏だと思いました。これだけ有名で、内在する精神性そのものが聴きどころである後期のソナタを奏するからには、それぞれのピアニストなりの覚悟であるとか、収斂された表現など…それなりのなにかがあって然るべきだと思ってしまいますが、ただ弾いているだけという印象しかなく、練り込みやひとつの境地へ到達の気配がないのは落胆させられるだけでした。

曲の全体を演奏者が昇華しきれていない段階でディテールにあれこれの表情などを凝らしてみたところで、ただ小品のような色合いを与えるだけで、聴いているこちらの心の中が動かされるようなものはどこにもありませんでした。
まだ花火のほうが無邪気な自由さがあってよかったようです。

この時の会場は武蔵野市民文化会館の小ホールでピアノはヤマハのCFX、とくに好きなタイプの楽器ではないけれど、非常によく整えられておりヤマハの技術者の矜持のようなものは感じる楽器でした。

変わって、映像は紀尾井ホールへと場所を変え、オーエンの悲愴が始まります。
冒頭の重厚なハ短調の和音が鳴ったとたん「アッ」と思いました。
こちらはやや古いスタインウェイですが、ヤマハとはまるきり発音の仕方が違うことが同じ番組の前後で聞き分けられたために、まるで楽器の聴き比べのように克明にわかりました。
スタインウェイだけを聴いているときにはそれほど意識しませんが、こうして前後入れ替わりに聞かされると、スタインウェイは弦とボディを鳴らす弦楽器に近いピアノであり、ヤマハは一瞬一瞬の音やタッチで聴かせるピアノだと思いました。

ヤマハはいうなれば滑舌がよく単純明快な音ですが、スタインウェイはより深いところで音楽が形成されていくためか、ヤマハの直後に聞くとどこか鈍いような感じさえ与えかねません。

腕に自信のある人が、その指さばきを聴かせるにはヤマハはもってこいで、弾かれたぶんだけピアノが嬉々として反応し、もてる美音をこれでもかとふりまきます。とくにCFXになってからは美音のレヴェルも上がり、洗練された現代のブリリアントなピアノの音が蛇口から水が出るように出てきます。

これに対して、スタインウェイはタッチ感というものをそれ以外のピアノのように前に出すことはありません。
むしろそこを少し控えめにして、作品のフォルムを音響的立体的に表現します。
個々の音もCFXを聞いた直後ではむしろ物足りないぐらいで、ピアニストの演奏に対して過剰な表現は僕はしません!と言っているようです。そのかわり全体としての演奏のエネルギーが上がってきた時などは、間違いなくその高揚感が腹の底から迫ってくるので、ある意味で非常に正直というかごまかしの効かない楽器であるけれども、力のある人にとっては決して裏切られることのない確かな表現力をもった頼もしいピアノだと思いました。

とくに音数が増えたときの結晶感と透明感、低音の美しさ、強打に対するタフネス、それに連なる高音のバランス感などは、まさに優秀なオーケストラのようで、スタインウェイというピアノの奥の深さを感じずにはいられません。
同時にヤマハの音を体質的に好む人の、その理由もあらためてわかるような気がしました。
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勝負か体質か

たまに行くステーキ店があります。
むろんマロニエ君が行くくらいですからリーズナブルな価格の店ですが、分厚く柔らかいお肉が気軽に食べられるのがここの魅力です。

メール会員になると、毎月何度か開催されるサービスデーの類の案内が送られてくるので、先日家人と行ってみようかということになりました。今回の特典は「サーロインステーキのみ通常価格の半額」というもので、「半額対象は8オンス以上」となっています。
1オンスが28gですから、およそ220gのステーキということです。

通常のメニューでは、一番小さいのが4オンス(約110g)、そこから2オンス刻みで肉の量が増え、最大は16オンス(約450g)となっていますが、今回は半額なのですから対象とされるのが「8オンス以上」というのも当然だろうという気がしました。

マロニエ君は10オンスぐらいすぐに食べますが、少食の家人が少し分けてくれるというので8オンスを2つ注文。
ほどなくして斜め前のテーブルに若いカップルがやってきましたが、しばらくするとそちらへも焼きあがったステーキが運ばれ「お待たせいたしましたぁ。サーロインステーキ12オンスになりまぁす!」という店員の声がすぐ傍で聞こえます。なるほど若いお兄さんはそれぐらい食べるだろうなぁと、このときはなんの疑問もなく思いました。

ところがあとにはライスが2つ運ばれてきただけで、ステーキはそれ1つきり…。すると店員は「以上でご注文はお揃いでしょうか?」と尋ねると、カップルのうちの女性のほうが軽い笑顔で「はい」と小さく答えました。

その12オンスのサーロインステーキはテーブルの中央に置かれ、向い合う二人がそれを食べ始めたのにはびっくり!
一瞬の後、彼らのやっていることが了解できました。半額対象は8オンス以上となっているため、6オンスは対象外、だから12オンスを1つ注文、それを二人でつっついて「8オンス以上」というを壁をまんまと突破するワザを思いついたというわけでしょう。
店側のルールで8オンス以上が半額というのなら、それを2つ頼むか、それが嫌なら来るなよ!と思いますし、そもそも、小さなお店でそんなことをして、単純に恥ずかしくないのかと思います。さらにはこのとき二人がついたテーブルは、4人用に空きがなかったために6人用でした。これは偶然としても、店側はさぞかし苦々しく思ったことでしょう。

たしかに送られてきたメールには「一人分のステーキを二人で食べてはいけない」とは書いてありませんでしたから、このやり方は店が定めた条件に違反していないのかもしれませんが、まるで法の網をかいくぐるがごとく、そんな言葉の裏をかいたようなことをしてどういう気分なのか。ちなみに二種類の味が並んだステーキソースなどはしっかり二人分もらっていました。
みたところ、そんなことをしそうな感じではなく、いかにも善良そうなおとなしいカップルという印象でした。しかし若いくせに知恵を絞ってまで少量ですませるという、そのいかにも痩せ乾いた感性が、よけい「凄み」を漂わせていました。

高度経済成長はもちろん、バブル景気も知らない世代は、せめて半額のときぐらい豪快に食べようじゃないかという発想すらないのかと思うと、なんだかこちらのほうが悲しくなりました。あるいは与えられた特典があっても、それで満足したら負けなのか、さらに細かく切り刻んでいじりまわして、ルール上の盲点を突いて、合法的にさらなるお得をゲットすることが、まるでゲームに勝ったような気にでもなっているのでしょうか。


そしてさらに数分後、こんどは通路を挟んですぐ前のテーブルに30代ぐらいの若いお母さんが二人と子供が二人(合計4人)がやってきました。子供は幼稚園児ぐらいの男の子と、もう一人はやっと小学校にあがったぐらいの女の子。
しばらくして運ばれてきたのは、二人のお母さんがいずれも10オンスのサーロイン、小学校低学年の女の子でさえ同じく8オンス!、ステーキが食べられそうにない男の子には、ハンバークを中心とした大きなディッシュが目の前にどっかりと置かれました。

これを4人はいかにも楽しげに食べ始めましたが、そんな単純さが、さすがにこのときはことさら眩しく輝いて、つい拍手でもおくりたい気分でした。だって半額なんですから、そのぶん普段より大胆な注文ができる、美味しいお肉がたらふく食べられる、そう反応するのが健全でほがらかというもの。それをあれこれの策を弄してみみっちい頭脳を働かせて、それでいったい何が楽しいというのか…。

いまどきの若い人は、表向きはおとなしくて善良そうに見えますが、その思考回路はわずかのリスクでも排除し、目先の損得に執着、物事をあまりにも小さい単位でしか処理できない構造なのかもしれません。とりわけ財布の紐が堅いのは一通りではなく、この体質はアベノミクスが期待する「消費の拡大」の前に立ちはだかる最強のバリケードのようなものかもしれないと思いました。
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夜毎熱中

以前このブログに書いた「CD往来」は今もまだ続いています。

とはいっても、マロニエ君側の環境は、すでに何度も書いた通りパソコンの入れ替えという、いわば「閉店改装」みたいなことになりやむなく中断していました。
少し詳しく言うなら、それらを中断せざるを得ないほどまで、古いパソコンはくたびれ果てて、思い通りに使用できないところまで問題が深刻化しており、もはや否も応もありませんでした。
まずはこれに専心、新しいパソコンが一段落をまってCD往来のための作業はすぐに再開しました。

マロニエ君は昔からクルマの中でも必ずCDを聴きますが、家の外にCDを持ち出すというのは好きではありません。ましてやクルマの中でバラバラなCDをあれこれいじりまわすのは嫌な上に、車内にあれば今度は家で聴けなくなる。それならコピーしてファイルにまとめていたほうが使いやすいし、そうしたほうがオリジナルが傷む危険もないとなれば、これをしない理由がありません。

それに加えてこの半年ほどは音楽マニアの方との「CD往来」という新たな目的もできたので、このところのCD作りにはいつになく拍車がかかっていたところ、そんなさなかでのパソコンの不調となり、やむなくマシンの入れ替えというマロニエ君にとっては上へ下への大騒ぎとなったのです。

それから約一月を経たでしょうか、ようやく新しい環境にも慣れてきて、基本的なパソコン機能が使えることになると、待ってましたとばかりにCD作りを再開させました。

新しいパソコンというのは自分にとっての環境が構築できるまでは、周辺機器やソフトの問題など際限なく不便があるものですが、個別の機能や性能はなるほど従来型より格段に進歩しているのも事実で、ここらは新しくなればやはり嬉しい点でもあります

以前、CD/DVDのドライブはあまりの酷使からこの部分が壊れてしまった経緯があり、その後は外付けのドライブを購入して使っています。これらもむろんOSの関係で新規買い直しとなりましたが、それに要するソフトなど必要なものがそろうと、いよいよCD作りを再開、しかもそれは以前よりさらに熱を帯びたものになりました。

曲や演奏、あるいは使用楽器によって、差し上げる相手はいろいろとかわりますが、新しい環境のもと、いぜんからやってみようと思いつつ実行していなかった「全集」に挑戦することに。
というのは最近しばしば聴くバロック・ヴァイオリンの名手によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを購入したのですが、なんとこの全集、めったにないほどのクオリティの高い、少なくとも現在の同曲においては最高ランクの演奏だと思われるのに、ライナーノートなどは最低限のものしか添えられておらず、なんと各曲や楽章のトラックの番号など表記が一切ないのには唖然としました。

一枚のCDには5曲前後のソナタが収められていますが、各CDにはソナタの番号とケッヘルしか書かれておらず、曲によって楽章数も異なるので、何番のソナタの第◯楽章が聴きたいと思っても一発でそれを鳴らすことはできないし、ただ漫然と聴いていても、知らない曲だと今どれが鳴っているのかトラック番号から確認することができないわけです。作り手の手抜きもここまできたかという感じです。

そこで、この全集を聴いて欲しい人が数人おられたことと、トラック不記載の問題を自力で解決すべく、全CDを一枚ずつ調べて、それを一覧表にしてまとめるという作業にとりかかりました。それをこれまた今回新調したAdobe Illustratorでデザインして、CDケースのサイズにまとめて、これも一緒にお付けするかたちで差し上げることに。

それと全集というのは大変で、ちょっとでも油断していると整理がつかなくなって、アッと言う間にどれがどれだかわからなくなります。ですから各CDには識別番号のシールをこれまたIllustratorで作り、これらをプリントしたのも新しいプリンターでしたが、操作に習熟せず、印字が不鮮明なものになったのが甚だ心残りでした。

気がつけば、寸暇を惜しんでこのための一連の作業をやっていて、たかだかこんな作業のために毎夜これに没頭し、子供じみた熱を入れてしまったことはいささかやり過ぎというか後悔の念がなくもありません。
ふと「一体自分は何をしているんだ!?」という疑問の声も心の中に去来しましたが、元来こういう作業を丁寧にやっていくのが嫌いな方ではないので、かなりきつかったけれどとにかく完成することができました。

全集はもうこりごりと思っていましたが、終わって1日経ってみると、もう次に挑戦したくてウズウズしてきて、ついにベートーヴェンのピアノソナタを始めたのですから、さすがに自分でも呆れます。
でも、詭弁のようですけれど、何かに熱中するのは楽しいものです。
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はじめが肝心

マロニエ君がいまだガラケーユーザーであることは折々に書いてきましたが、バッテリーにまつわることを。

今どきの電子機器は付属のバッテリーを電源として使いますが、とくにケータイにおけるバッテリーは毎日使うものであるだけに、これが消耗してくるのは困りもので、できるだけ寿命を延ばして使いたいところです。

このところケータイのバッテリーの減りが早くなってきたようで、だいぶ使ったことでもあるし、いっそ機種変更でもしようかと思い立ってショップに行ってみました。
予想通り、いまやスマホが主流の時代で、ガラケーはいちおう義務で最低量を作っているだけという感じでした。隅の方に置かれた数種類のそれは、機能の点では数年前のものと比べてもほとんど見るべきものがないようで、ショップの人もすんなり認めています。
「機能的には機種変更の意味があまりないので、もしバッテリーの問題だけでしたら、それを交換されたほうがいいですよ」と言われてしまい、だったらそれでお茶を濁すことにしました。

ショップで聞いたところによれば、バッテリーの寿命のもっとも主なところは「使用期間/時間」よりも「充電回数」なのだそうで、これが概ね500回を過ぎると性能が低下してくるそうです。

以前にも、バッテリーはできるだけ使って空にしてから充電するのが理想的で、少ししか減っていない状態で充電すると、それだけでもバッテリーの性能が落ちるというのは聞いたことがありました。
さらに過充電がバッテリーに負担をかけるのだそうで、充電ランプが消えたらすみやかに本体を充電器から外すこともかなり大きいポイントだそうです。

毎夜、ケータイを充電器に繋いで就寝するというパターンは少なくないと思われますが、これはバッテリーにとって好ましくない使い方の3点セットのようなもので、「充電回数が増える」「あまり減っていないのに充電する」「朝まで充電器に繋がれて過充電になる」を連日繰り返すことで、早々に寿命が来てしまうんだとか。

さて、ネットから新しいバッテリーを注文したところ、バッテリーの製造会社から「発送しました」の連絡とともに、興味深いメールが届きました。
そこには、新しいバッテリーが届いたら以下のことをするのが、バッテリーを長くお使いいただくために望ましいと書かれています。

「バッテリーが到着後、すぐに満充電をし、普通の使用で残量が空になるまで使用、その後、再度満充電。この充放電の繰り返しを3回~5回する。」とありました。

新品を使い始めるにあたり、はじめにこういう使い方をしておくことで、フルに性能を発揮できるよう、機能を躾るということのようです。

クルマにも新車は慣らし運転というのがあったり、新しいブレーキパッドは交換後にかなりの速度からフルブレーキを数回繰り返すことで熱遍歴を与えて、ディスクへの食いつきをよくするというようなやり方がありますが、バッテリーも同じようなものだと勉強になりました。

一説にはピアノ(少なくとも昔の名器など)も製造後の数年をどのような環境で過ごしたかで楽器としての能力が大きく変わるとも言われますし、新しいハンマーなども初期の整音の巧拙が、その後をあるていど決定付けてしまうと云いますから、何事につけてもはじめが肝心なんだとつくづく思います。

考えてみれば人間様だって、幼児期の躾や育った環境がその後の人生を大きく左右するわけですから、なるほどと納得です。
人も機械も、良い環境で過ごしてきたものは健康で幸福なんだという話のように思えました。
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印刷体の演奏

日頃から自分が感じていることが、上手く言葉に表現できずにもどかしく思っているところへ、適切に表現された文章に邂逅するとハッとさせられ、胸につかえていたものが消えたような気になるのは、誰しも経験しておられることだと思います。

マロニエ君もそういうことはしばしばなのですが、つい最近も、音楽評論で有名な宇野功芳氏の著書『いいたい芳題』の中に次のような一文があり、思わず「その通り!」だと声を上げたくなりました。
ただしこれは宇野功芳氏自身の文章ではなく、同じく音楽評論家の遠山一行氏(昨年末に亡くなられ、夫人はピアニストの遠山慶子さん)の『いまの音、昔の音』というエッセイから宇野氏が引用紹介されたものです。

「いまの演奏家には草書や行書は書けなくなっており、楷書で書く場合でも、それはほとんど印刷体に近いものになっている」

これにはまったく膝を打つ思いでした。
オーケストラを含めたいまどきの演奏は、表面的にはきれいに整っており、ある種の洗練もあれば技術的裏付けもあるけれど、そこには不思議なほど音楽の本能や実感がありません。サーッと耳を通り過ぎていくだけで、当然ながら深い味わいなども得られない。
これを内容の欠如だとか、情感不足、主体性の無さ等々、あれこれの言葉を探し回っていたわけですが、まさに印刷体という、これ以上ないひと言で言い表された適切な言葉に行き当たったようでした。

いまの演奏は、解釈もアーティキュレーションも流暢な標準語のようだし、技術の点でも科学的裏付けのある合理的な訓練のおかげで非常に高度なものが備わり、その演奏にはこれといった欠点もないように思えるものです。しかし、肝心の音楽の本質に触れた時の喜びとか陶酔感、聴き手の精神が揺さぶられるような瞬間がないわけです。
これはまさに印刷体であって、美しいと思っていたのは、活字のそれだったというわけでしょう。まったく言われてみればその通りで、このなんでもない比喩がすべての違和感を暴きだしてくれたようでした。

これは考えてみればすべてのものが似たような経過を辿っているようにも思えます。
美術の世界もそうで、緻密で色彩の趣味も悪くない、構成力もあって、いかにも考え抜かれた作品というのが近年は多いのですが、作家の生々しい顔とか感性の奔流のようなものがない。
いわゆる作者自身の本音とは違った、計算された企画性のようなものを感じてしまって、すごい作品のようには見えても、精神が反応するような作品はほとんどありません。

芸術作品は破綻するのが良いといったら言い過ぎですが、破綻しかねないぐらいの危険性は孕んでいなくてはつまらないし魅力がないものです。その点で云うと最近の作品や演奏にはそういった危うさがないわけです。

情報の氾濫によって、よけいな知恵は付くし、そうなると評価の取れそうな結果だけを目指すのでしょう。
ある程度の結果が想像できるということは、その結果を見据えて仕事を進めて行くことが、最短距離の賢いやり方のように思えてしまうのが我々人間の思考回路なのかもしれません。

人が純粋に燃え上がることができるのは、案外結果が見えないとき、行き着く先がどうなるかわからないとき、混沌としたものの中に身を浸しているときなのかもしれません。
はじめから表現の割り振りが決まっているようなものは、どう説明されてもつまらないものです。

純粋な表現行為の中には無駄やひとりよがりも多く含まれてリスクも高い。効率よく結果だけがほしい現代人は、なにより無駄や回り道を嫌います。だから印刷体の演奏になるのも頷けます。
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空き家

ちっとも知らなかったのですが、いま大きな社会問題として浮上しているのが、急増する空き家の問題なのだそうで、最近NHKでそれを採り上げた番組をたまたま見て非常に驚きました。

現在日本中で「空き家」がなんと820万戸!!!にも達していて、有効な手立てもないまま、今後も増え続けることは確実というのですから、これはちょっとしたショックでした。

主な理由は、人口減少に加えて生活形態の変化などが重なってこのような現象に至っているとのこと。

親の家があっても、子供が大きくなって社会人となり、結婚して家庭を持つと、利便性の良い新しい住まいを見つけるのだそうで、多くの実家は通勤に不便であったり、家としての機能が古いなど、要は次の世代からみて魅力がないのだそうです。その結果、親の代に買った(あるいは建てた)せっかくの家は、大半が親の世代のみの役割で終わってしまうというのです。

戦後、新時代/新生活の明るい希望の象徴のごとく建てられたあまたのマイホームやニュータウンの類は、現在はその隆盛も過ぎ去り、寂しい建造物の群れのようになっているのがいくつも紹介されました。

家というものにも、流行り廃りもあるし、数十年も経てば古くなり朽ちていくという現実をまざまざと思い知らされます。その点においては、いくらか寿命が長いというだけで、所詮は家電製品や車と変わらない運命にあるという厳しい現実を突きつけられるようでした。

専門家によれば、空き家というのは極めて好ましくないものだそうで、空き家が増えてくると、その周辺の環境は急激に悪化し、治安も悪くなり、当然のように地価も下がっていくとのこと。さらに住む人が少なくなれば自治体最大の収入源である税収が減ってしまうことで、既存のインフラの維持費さえままならないようになり、これが悪循環となって、最後には街そのものが破綻してしまうというのですから、これは他人事ではすまされない、かなり深刻な問題だということがよくわかりました。

これまでは「空き家」があるからといって、それで街全体が衰退するなんて思いもしませんでしたが、たしかに空き家一つが周囲に撒き散らすマイナスイメージはかなり甚大なものであるとわかってきました。
ひとつの空き家は次の空き家を作り出し、細胞分裂のように広がっていくようで、いったんこの流れができると止めようがないのですから、ある種のパンデミックのようで恐ろしいことだと思います。

そもそも、人の棲まない家ほどいやなものはありません。
草木は生い茂り、窓も戸も閉まったっきりの家というのは、まさに家が死んでいる状態で、要するに街のあちこちに家やマンションの死体がゴロゴロしているようなもの…といっても過言ではないでしょう。

何事もそうですが、いいイメージを積み上げていくのは大変ですが、悪い方はあっという間です。

高度成長期に建造された多くのアパートなどが、次第に廃墟のようになっていくことを当時の人達は誰も想像しなかったでしょう。スタジオのゲストの一人が言ったことは衝撃的でした。
要するに家というのは建てた人一代限りのものであって、子育てが終わったらその子どもたちはまずそこに住むことはない。…ということは、いま次々に建てられている臨海地域のタワーマンションなんかでさえ、4~50年すれば同じようなことになる!と言っていたのは、こわいような説得力がありました。

また空き家を空き家のままにしておくことは、みっともないだけでなく、犯罪者のネグラになったり、放火の危険にさらされるなど、良いことは何一つないとのことですが、それがわかっているのに所有者は解体にさえ踏み切れないのだそうです。
解体するにも費用がかかることももちろんですが、最大のネックになっているのは税制でした。
そもそも国は国民が家を建てることを推奨するための政策として、土地に上モノが乗っていれば固定資産税が安くなるという優遇措置をとったのだそうですが、解体時はこれが裏目に出て、更地にすると税金が一気に6倍!にもなるのだそうで、これではなにも事が進まないのは当たり前だと思いました。

さらに空き家になるようでは物件としての魅力もないわけで、借り手も買い手もなく、所有者もなすすべがないわけです。スタジオ参加者の女性のひとりは、最後の手段として市に寄付することを申し出たのだそうですが、寄付さえもあっさり断られたというのですから、唖然とするほかありません。

やはりスタジオに来ていたお役人の説明によれば、自治体がその土地を使用する目的や見通しがある場合は「いただく」こともあるが、そうでない限りは寄付であっても受け付けないというのですから、ひぇぇ、まさに泣きっ面に蜂といった話です。

驚くべきは、そんな空き家が増大するいっぽうで、新築住宅のための宅地開発は止むことなく続いているのだそうで、このような住宅政策そのものを「焼き畑農業」といっていた専門家もありましたが、将来のことも考えない無節操な住宅開発のツケがいま回ってきているということなのでしょうか。
ともかくいやな話でした。
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さらば!ことえり

新しいパソコンを使い始めるのは、マロニエ君にとって生活の一部を入れ替えるほどの一大事です。
こう書くと、まるで精神的にパソコンに依存しているようですが、ただ単に苦手だから気が重いわけです。それでももはやこれナシでは済まされないところまで生活全般に浸透しているので是非もないわけです。

それに、こんなくだらないブログ遊びをやっていられるのもパソコンとネットのおかげですし。

パソコンを入れ替える面倒から逃げるため、買ったのに一年間も放置してしまったことはすでに書きましたが、周辺機器、ソフト、保存されたファイルなどが複雑に連動し依存しあっているため、パソコンを新しくするということは、新しいマシンを中心に元の環境を再構築することを意味します。OSの関係で使えないものも出てくるし、とにかく手間暇がかかります。

詳しい方はパッパッとわけもなくやってしまうのでしょうが、この手が甚だ苦手なマロニエ君は何日たっても望むような環境にはなかなか到達できません。そればかりか次から次に不慣れなトラブルやわけのわからない問題が発覚し、その対処に追われることの繰り返しで、まったくバカバカしいエネルギーだと思います。

そればかりでなく、かなり深刻な問題も発生しました。
パソコンが変わったことで眼精疲労というのか、とにかく目が疲れ、パソコンの前に座ると視界がボーっとする、ひどい時には不快感が増して頭痛へと拡大します。見え方自体は前のものより良くなっているはずなのに、なぜそうなるのか不思議でしたが、最近やっとその理由がわかってきました。

以前使っていたのはノート型で画面も狭く感じていたので、今回はデスクトップのiMacにしたところ、むやみに画面が大きく、以前の3倍近くはあろうかという迫力です。
画面が広大になったぶん快適なようですが、自分の視界の大半が液晶画面で占領されることになり、要するに目の逃げ場がなく、これがどうやら疲れの原因らしいということがわかりました。「過ぎたるは…」の喩えのとおりの新たな苦痛が発生です。

さらにストレスに拍車をかけたのが日本語入力システムの「ことえり」で、昔もこれが馴染めないからといって同種のIM(インプットメソッドという由)で定評のあった「ATOK」を知人のススメで使っていました。そういうわけで、ずいぶん久しぶりに接した新しい「ことえり」でしたが、それなりに改良されているだろう…という淡い期待は見事に外れ、その使いにくさときたらあらためて呆れるばかり。
多少のことは割り切って機能だけで乗り切っていく構えでしたが、入力のたびに「ことえり」に介入されることだけはガマンができません。変換のテンポが鈍いうえに、まったく賢くない、入力する側との呼吸感がまったくないなど、これなら昔のワープロでもまだマシだったような感じです。

ことえりのおかげでイライラとミスは倍増し、これではまずいながらも文章になりません。
もはやATOKを買うのは必至となり、そうなると居てもたってもいられずにバージョンなどを調べていると、おや?というブログに遭遇しました。

この世界で仕事をされているプロの方の書き込みで、どうやらATOKを長年愛用してきた方らしいのですが、グーグルによる同種の日本語入力システムが存在するとのこと。しかもすこぶる使い心地が良く、これが世に出てきた日がATOKの命日になったとまで書かれていますから、相当の秀才なんだろうと思いました。

あまつさえ、その秀才が無料でダウンロードできるとあり、半信半疑でインストールしてみると、果たして書かれている通りにすんなり出来ました。
おそるおそる使ってみると、アッと声が出そうになるほどレスポンスはいいし、変換も思い通りにスイスイできるし、こちらの考えを先読みさえしてくれるようで、これは本当に思いがけない嬉しい驚きでした。少なくともマロニエ君が以前使っていた古いATOKの数段上を行くもので、まるで別次元の快適性能がいきなりタダで手に入ったというわけです。

ATOK購入のため、一万数千円の出費を覚悟していたのですが、むろんその必要もなくなりました。
とにかくこの日本語変換システムというのはパソコンを使う上(とくに文字入力)ではなにより大切で、何日も続いていた灰色の空が、あっと言う間に鮮やかな青空へと変わったようです。
ことえりをお使いの方はぜひお試しになられてはどうでしょう。
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ひとりだけの危険

故障知らずの日本車と違い、数の少ない輸入車に乗るのは、劣悪な条件の下での維持管理との戦いでもあり、いかに趣味とはいえ時としてしんどいものです。

古いシトロエンという特殊性と、それを乗り続けたい弱みから、相当な変わり者のメカニックとのお付き合いを続けていましたが、その忍耐にもさすがに限界が来ていたところ、ふってわいたようなチャンス到来で別のディーラーへ行くようになり、少しばかり状況が好転したことは以前このブログで書きました。

それいらい、ふと感じるようになったことがあります。
というのも、いちおう悦ばしいことに、新しいメカニックの手が入ってからというもの、車の調子が明らかにワンランク上がり、乗っていて楽しい、買った頃の魅力が我が手に戻ってきたような変化が起こったことでした。いまさら前のメカニックの腕を糾弾しようというのではありませんが、技術者というものにも流儀/くせ/センス、あるいはその人の性格や人格までもがその仕事ぶりにかなり出てしまうものです。

これは技術と名のつくすべてのものに通じることでもあると思います。

そしてしみじみ思ったことは、一人の技術者だけに頼り切ることは決して正解ではないということ。
医療の世界でも、医師はいわば人体における技術者です。医療現場ではセカンドオピニオンという言葉があるように、最近では複数の医師の診察を受けて最良と思われる治療を選び取る権利が患者側にも認識されています。

これはピアノも同様のはずですが同様とは言い難いものがある。
調律師とお客さんの関係というのは、いかにも日本的閉鎖的な人のつながりで、ジメッとした人間関係が主導権を握り、技術が優先されることはなかなかありません。なにかというと「お付き合い」が幅を利かせますが、そうはいってもタダでやってもらうわけではなく、それはちょっとおかしくないかと思うのです。
ひとつには、調律師の技術というものがなかなか判断しにくいという事情も絡んでいることもあり、それだけに「お付き合い」といった要素が一人歩きしやすいのかもしれません。

マロニエ君の知る限りでも、あきらかに仕事の質が疑問視されるような場合においても、依頼者は長年のお付き合いという情緒面ばかりを重要視する、もしくは過度の遠慮をして、なかなか別の人にやってもらうという試みをしたがりません。別の人に変えたら、今までの調律師さんに悪い、申し訳ないというような気持ちになるらしいのです。

そういう気持ちがまったくわからないわけではありませんが、基本的にはそんな本質から外れたことでずっと縛られるなんて、こんな馬鹿げたことはないというのがマロニエ君の持論です。
もちろん調律師さんも人間ですから、お客さんが別の人に仕事を依頼したと知ればいい気持ちはしないでしょう。しかし、そこは意を尽くした処理の仕方でもあるし、詰まるところ何を優先するのかという問題でもあるでしょう。

忘れてはならないことは、ピアノはれっきとした自分の所有物なのであって、調律師さんとのお付き合い維持のために調律をやっているのではなく、自分が気持ちよくピアノを弾くことができるように楽器を整えてもらうということです。そのための調律を含むメンテナンスなのであるし、その仕事にはきちんと対価を支払うわけですから、ここで変な遠慮をして、弾く人がガマンをすることになるのは本末転倒というものです。

そもそも調律師さんは何十人何百人という顧客を抱えており、プロとしてやっている以上、その微量が増減するのはどんな業界でも日常のことでしょう。ましてピアノだけが一人の調律師さんと生涯添い遂げる必要なんて、あるはずがありません。

調律師さんと一台一台のピアノの関係は、年に一度か二度、数時間のみと接するのに対して、ユーザーは年がら年中そのピアノとどっぷりつきあっているわけで、ここで変な妥協をしたところでなにも得るものはありません。また、上に述べた車や医者のように、違った調律師さんにやってもらうことで全然違った新しい結果を生むことも大いにあるわけで、それをあこれこれ試してみるのはピアノの健康管理のためには必要なことだと思います。

こう書くとマロニエ君はもっぱら技術優先で、ドライなお付き合いをしているように誤解されそうですが、調律師さんとの人間関係はおそらく平均的なピアノユーザーよりは、遥かに大切にしていると自負しています。
しかし、だからといって夫婦や恋人ではあるまいし、未来永劫その人一筋というわけにはいきません。むやみに技術者を変えるのがいいわけはありませんが、すっきりしないものがあるとか、これはという出会いやチャンスがあったときには、躊躇なく新しい方にもやってもらうのがマロニエ君のスタンスです。
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山葉と河合

NHK朝の連続ドラマ『マッサン』に登場する鴨居商店の大将とマッサンは、のちのサントリーとニッカの創始者であることは驚くべき話ですね。しかもそれぞれのウイスキー「山崎」と「竹鶴」は現在世界で最高位の評価を受けているというのですから呆れるほかはありません。

ウイスキーほどの一般性があるかどうかはともかく、ピアノもかなり似たような感じです。
伝えられることをかい摘むと、ヤマハの創始者である元紀州藩士の出である山葉寅楠は手先が器用で、たまたま浜松で医療器具の修理などをしていた腕を見込まれ、地元の小学校にあるオルガンの修理を引き受けます。それがきっかけで、当時非常に高価だった輸入物のオルガンを安く作ることを思い立ち、やはり浜松で職人をしていた河合喜三郎を誘って数ヶ月かけ、見よう見まねでついには一台のオルガンを作り上げるのです。

その出来映えを東京音楽学校で見てもらおうと、二人はオルガンを担ぎ箱根の山を越え、実に250キロもの道を踏破したというのですから驚きです。これが明治の中頃(1887年)の話。

果たして、この最初のオルガンは音階などが不十分で失敗作に終わったようですが、当時の校長であった伊沢修二は国内での楽器造りを大いに推奨し寅楠は猛勉強を開始。アメリカ留学を経た後、明治33年(1900年)には国産第一号のピアノの作り上げるのですから、今では考えられない活劇のようですね。

帰朝した後に始めたピアノ造りのメンバーには、さまざまな発明などをして浜松で有名だったという若い河合小市も入っており、彼の創立した会社が後にカワイ楽器となるあたりは、まさに『マッサン』のピアノ版といえそうです。

とりわけ最初のオルガン製作と、箱根越えなど苦心惨憺の末に東京までこれを担いで行った二人が、山葉と河合であったというのは、まるで出来すぎの三文芝居のようですが、どうやらこれは事実のようです。

山葉寅楠と河合喜三郎は共同で山葉楽器製造所を設立しているようで、喜三郎が河合楽器の創始者である河合小市とどういう関係であるのか(あるいは関係ないのか)がいまひとつよくわかりませんが、いずれにしろそのまま朝ドラか大河にしてほしいような話です。

当時の日本といえば、ピアノの製造の経験はおろか、音階も満足に理解できない西洋音楽の下地もなかった明治時代で、そんな時代の日本人が、最初のアップライトピアノを作り上げたのが1900年、つづく1902年にはグランドを完成させ、ここから世界的にも例の無いような急成長を遂げるのです。
この山葉と河合はのちにヤマハとカワイとなって世界的なピアノメーカーへ輝かしい階段を一気に駆け上り、奇跡のような成功をものにするのですから、やはり日本人の特質は尋常なものではないと思います。

自ら開発することなく、既製の技術力を外国から投下され(もしくは盗み取って)、物理的な生産にのみこれ努めるどこかの国とは根本的に違います。
はじめのオルガン作りからわずか百年後、東洋の果ての小さな島国で生まれたヤマハとカワイは、欧米の伝統ある強豪ピアノメーカーをつぎつぎに打ち破り、ついにはショパンコンクールの公式ピアノに採用されるなど、今ではこの二社はピアノ界で当たり前のブランドになっています。

わけても有能な設計者でもあった河合小市の存在は、日本のピアノの発展史に欠くべからざる能力を発揮したようで、複雑な精密機械ともいえるアクションの開発には特筆すべき貢献をしたといいます。
以前もどこかに書いたかもしれませんが、カワイのグランドピアノの鍵盤蓋にだけ記される「K.KAWAI」の文字はまさに河合小市この人のイニシアルなのです。

まさにピアノのマッサンですね。
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ヤマハの木目

ピアノの木工・塗装の工房では、ちょっと不思議な話も聞けました。

工房のすぐ脇には、作業を待つヤマハの木目のグランドが置かれていましたが、見たところアメリカンウォールナット(たぶん)の半つや出し仕上げで、楽器店の依頼で化粧直しのため運び込まれたピアノのようでした。

「ヤマハのグランドで木目というのは、意外に少ないですよね…」というと、その方いわく、ヤマハの木目グランドというのは不思議なことに買った人がすぐに(数年で)手放してしまうのだそうで、すでに何台もそういうピアノを見てこられたようでした。

かねてよりマロニエ君の中では、ヤマハのグランドってどういうわけか木目がしっくりこないピアノだというイメージがあったので、この言葉を聞いた瞬間に何かしら符合めいたものを感じてしまいました。
黒よりも価格の高い木目仕様をあえて選ぶ方というのは、ピアノに対して単に音や機能だけでないもの、すなわち木目のえもいわれぬ風合いとか色調など、これらの醸し出す雰囲気へのこだわり、あるいは真っ黒いツヤツヤした大きな物体が部屋に鎮座することへの抵抗感など、さまざまな感性を経た結果の選択だと想像します。
そういう情緒的な要求に対してヤマハのグランドというのは何か少し違うような印象があったのです。

ヤマハのグランドといえば音大生とかピアノの先生、学校などが、訓練のための器具として使い切るためのピアノというイメージが強いのでしょうね。

こう書くとヤマハグランドのユーザーの方には叱られるかもしれませんが、そこにたたずむだけで何かしらの雰囲気が漂うとか、美しい音楽の予感とか、温かな心の拠りどころのようなものを連想させるキャラクターではないのかもしれません。せっかく買っても、わずか数年で多くの人が手放してしまうということは、実際に身近に置いてみて、予想と結果に何かしらの齟齬のようなものを感じてしまうからなのでしょうか…。

ふと、十数年以上も前のことで、すっかり忘れていたことを思い出しました。
当時、親しくしていたピアノの先生を車の助手席に乗せて走っていたときのこと、郊外にある当時としてはちょっとオシャレなレストランの前を通りかかると、その先生は「あ、ここ、ぼくが以前使っていたピアノが置いてある店だ。」と言いだしました。それによれば、以前ヤマハのウォールナットのグランドを持っていて、それを今のピアノに買い替えたというのです。

ところが、いきなり「木目ってよくないから…」と言い始めたのにはびっくりでした。
その理由というのが「木目ははじめは珍しさもあっていいんだけど、だんだん飽きてくる。あれはやめたほうがいい…」ということ。そして「やっぱり黒がいい!」というわけで、聞いていてひじょうに驚いたものの、あまりにも自信をもって断定的に言われたので、その空気に圧倒されて、その場では敢えて反論はしませんでしたが、これは当時かなりインパクトのある意見でした。

木目なんぞまるで邪道だといわんばかりで、ニュアンスとしては、だからピアノが主役じゃないレストランみたいな場所にはちょうどいいかもしれないが、本来はピアノは黒が正当な姿だと本心で思っているらしく、その感性にはただただ呆気にとられたものです。

メーカーの教室で多くの先生を統括する立場の先生でしたから、そのときはあたかもピアノの先生の代表的な意見のようにも感じてしまいましたが、むろんそれは彼固有のもので、木目のピアノを好まれる先生もおられることでしょう。しかし、きほんピアノの修行に明け暮れた人たちというのは、ピアノは愛情愛着をもって接する楽器というより、使って使って使い倒す道具という意識が強い方が多いのも確かなようです。こうなると実際に木目ピアノを所有しても、良さは感じないのでしょうね。

ただ、マロニエ君のイメージとしては、ヤマハのグランドはやっぱり黒で、どんなにガンガン使われても決してへこたれない逆境にも強いピアノという感じが一番です。なにしろタフで、そんな頼もしさが使い手/技術者いずれからも厚い信頼を得ている…そんな姿が一番似合うように思います。
そう考えると、木目の衣装を着こなすピアノではないというのも頷けます。
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2015新年

あけましておめでとうございます。
このブログも5年目を迎えました。
懲りもせず、よくもくだらないことを書き続けたものですが、もうしばらくは続けるつもりですので、おつきあい願えればこの上もない幸いです。


暮れの30日の夜は、ある調律師の方がやっておられる木工塗装の工房に呼んでいただいたので、滅多にない機会でもあり、ちょっとお邪魔させていただきました。

ピアノの技術者や店舗の中には自前の工房があり、そこでピアノの修理やメンテを手がけられる方がいらっしゃいますが、オーバーホールやクリーニングともなると、作業工程の中には塗装や磨きも外せない項目として含まれます。
しかし、塗装にまつわる技術というものは、ピアノ技術者にとってはいわばジャンル外の作業であり、こちらは大抵の場合アマチュアレベルに留まるのが現実でしょう。

全体としては、せっかくの丹誠こめた作業であるにもかかわらず、塗装に難ありでは最上級の仕上がりとは言えないピアノとなり、勢い商品価値は下がります。そこではじめからこの点はきっぱりあきらめて、塗装の専門業者へ任されるスタイルも少なくないようです。

オーバーホールなどでは、鍵盤とアクションを抜き取り、弦もフレームも外した、まさに木のボディだけを塗装の専門業者へ送るというスタイルの方もおられ、これは「餅は餅屋」の言葉の通りの各種分業で合理的ですが、逆にいえば一人あるいは一カ所で全部をこなすのは至難の業ということでもあるのでしょう。

当たり前ですが、木工・塗装というのは独立したジャンルであり、いわゆるピアノの修理技術の延長線上にはない別の技術であって、むしろ家具製作などの領域だといえるかもしれません。

少し話を聞いただけでもよほど奥の深い世界ということは察せられ、日々の研究も怠りないようで、いずれの道も究めるのは容易なことではありません。それだけに興味も尽きない分野だとも思いました。
プロの塗装作業のできる調律師さんというのは、いわば二足のわらじを履くようなもので希有な存在であるわけです。
この方は木工職人として、そちらの方面の全国大会にも作品を応募される常連の由ですが、その中でピアノ技術者はこの方だけというのですから驚きです。

その工房はピアノ運送会社の倉庫の一隅に塗装エリアを設けられたもので、倉庫内にはたくさんのピアノが並んでいましたが、やはりグランドは少なく、大半はアップライトでした。
マロニエ君はつい習慣的にグランドかアップライトかという目で見てしまいますが、現実はそんな甘いものではなく、最近は「ピアノ」といっても販売全体の実に8割までもが電子ピアノなのだそうで、アコースティックピアノは需要のわずか2割にまで落ち込んでいるとのことで、わっかてはいても衝撃でした。

昔のように無邪気にピアノをかき鳴らせる時代でないことは確かで、近隣への音の配慮や複雑な住宅事情など、複合的な理由からそうなっているのでしょうが、大筋では、やはり世の中が文化などの実用から外れたものに対する精神的な優先順位が低い時代になってきているというのは間違いないように感じてしまいます。

というわけで、今年はどんな年になるのやらわかりませんが、せめて大好きな音楽だけはなにがあろうと聴き続けていきたいところです。
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パソコン交換

早いもので、今年もとうとう大晦日となりました。
年末の慌ただしい時期でしたが、6年ぶりぐらいにパソコンを買い替えました。

マロニエ君はパソコンをMacでスタートしたので、Macでなくてはならないということ以外、特にこれといったこだわりはなく、周りの人たちがどなたも適当な時期にパソコンを買い替えていくのが不思議なほど、ずっと一つのマシンを使い続けます。

だって興味がないんだもん。
パソコンに関しては、新しいものにはまったく関心もありません。そうはいってもパソコンはユーザーを愚弄するほど寿命の短い機械で、ハードディスクからカリカリというような雑音が出てきたりと、なにかと危ない雰囲気が出てくるのは嫌なものです。

仕事にも絡んでいるものなので、壊れたら壊れたとき…なんてことはいっていられません。
パソコンを取り替えるということは、いろいろな設定やら何やらがあるだけでなく、従来の環境とは否応なしに変化してしまうのが鬱陶しくて仕方ありません。
実をいうと、使い始めの面倒臭さがイヤで、昨年買ったiMacを一年以上物置に置きっぱなしにしてしまっていたのですが、ついにそれを引っ張りだしたというわけです。

つまり買い替えたといっても買ったのは去年で、正確には一年放っておいたものを使い始めたというわけで、放置しておいても何かが熟成するわけじゃなし、そのぶん古くなるというのにバカな話です。
パソコンは本体のみでは用をなさず、周辺機器や、ソフトや、データなどの問題がついてまわります。これだからパソコンのお引っ越しはマロニエ君にとってストレスを詰め合わせで抱えるようなもの。

それが嫌さに一年間古いマシンで粘りましたが、プリンターが故障して新しいのを買いにいったら、もはやOSが古すぎてそれで使用できるプリンターはもう買えないことがわかり、おそらく他の周辺機器やソフトも同様とのこと。
これはもういけない…と覚悟を決めて、ついに物置にしまい込んだiMacを引っ張りだすことに。
マロニエ君の場合、IllustratorやPhotoshopが必須なのですが、手許にある古いバージョンは新しいOSでは使えないため、これらのソフトを新規にそろえるだけでも大変です。

それらのソフトはまともに買おうとしたら、パソコン本体よりも高額なため、そのハードルを越えることにもずいぶん手間取りましたが、ついに覚悟を決めたわけです。

思い切っていざやってみると、昔に比べて初期設定が飛躍的に向上していることに驚きました。
当分は新旧マシンを併用することになりそうで、これがまたいちいち面倒くさいのです。
本来、Mac同士は中を一気に引っ越しすることが可能で、それをやればいいのでしょうが、そんなことをしているとまた何か予期せぬトラブルなどに遭遇しそうで、これをする勇気もないし、そもそもやり方もわからず、調べてまでやろうとも思いません。

とまあ、いろいろと不便はあるものの、それでも新しいパソコンというのは根底のパワーや技術がアップしていているためか、やはり気持ちがいいことも事実ですね。

ただし困ったこともあり、キーボードのキーの間隔がこれまでのノート型より広くなっているため、ちょっとした文章を打つにもミスタッチの連続です。
ピアノどころか、パソコンでまでミスタッチの連続とは、なんとも情けない限りですが、指先は無意識の加減までを記憶しているらしく、どうしても以前のようなペースで文章が綴れないのは困ったことです。
さらにワープロソフトもことえりが標準で、ATOKを長年使った経験からすると、ちょっとしたことが使いにくいものです。
だからといってATOKを買って入れ直すのも面倒で、現状に慣れるしかありません。


というわけで、いつものことながらしまらない話で今年も終わりですが、来年もよろしくお願い致します。
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おもてなし?

シトロエンという一台のフランス車を20年近く乗り続けていることは、折りに触れこのブログにも書いていますが、何より大変なのはメンテナンスに関する部分です。
これといって人気車種ではないため、当然ドイツ車のようは販売台数は見込めず、輸入元はいつもやる気がなく、ディーラーはころころ変わります。国内のパーツのストックなど無いに等しいのはいつものことで、さらにはメンテを受けてくれるサービス工場というか、いわゆる主治医を確保するだけでもオーナー諸氏はいつも苦労をさせられています。

ここ10年ほどの主治医は、看板さえあげていない個人の整備工場で、有名な輸入車店の工場長をされていた方が独立してやっているところですが、ここには普通の工場は診てくれそうにない珍車・稀少車が年中あふれています。
その主人というのが大変な変わり者で、よくいえばマイペース、その上に一人でやっているものだから、その仕事ぶりはますます不規則で、約束などはほとんど役にたちません。さらには仕事が立て込むと電話にも出なくなり、それが延々何日間も続くなど、そのお付き合いの流儀は一通りではありません。

故障で困っていようが、車を預けて約束の日を過ぎていようが、ひとたび音信不通状態に入るとこれが一週間でも十日でも続きます。友人の中には、遅々として進まぬ作業のため、ついには半年間も車を預けるハメになったりと、およそ常識では考えられない世界で、さすがに最近では少し客離れが起きているような気配です。

マロニエ君もひとえに愛車のため、ここに出入りし、ひたすら忍耐を続けました。

ところが最近になって、以前この車のディーラー(今は存在しない)でメカニックをやっていた人が紆余曲折の末、福岡市内のBMWのディーラーに勤められることになったらしく、驚いたことにはシトロエンも受け付けるという情報を仲間内から得たので、二三修理を抱えていたことでもあり連絡を取ってみました。

果たして快く受け入れてくれることになり、さっそく車を持ち込み、二週間ほど預けてつい先日引き取ってきたところです。

くだんのマイペースおやじのファクトリーに比べれば、距離もグッと近くなり、電話には必ず出る(ディーラーなので当たり前ですが)、しかも腕も良いのですっかり気が嬉しくなりました。

それだけ状況は好転したのだから十分ではありますが、気になる点も少しありました。
ひとくちにBMWのディーラーといっても市内にはずいぶんあちこちにあって、しかもそれぞれ母体となる親会社が違っていたりと、どこがどうなっているのやらさっぱりわかりません。

今回の店舗・工場は比較的最近オープンしたところですが、敷地内に入って車を止めようとするや、ショールームの中から若い女性が二人と男性一人、計三人もが脱兎のごとく飛び出してきて、寒風吹きすさぶ中を車外で待機して御用伺いをします。ドアを開けるなり、来意とメカニック氏の名を告げましたが、こういうことをあまり過剰にやられるのは却って快適とはいえないものがあります。

修理が終わり車を受け取りにいったときも同様で、手厚いお出迎えとともにショールームの一隅に案内され、希望するドリンクをもってきてくれるなど、ありがたいことではありますが、そのいっぽうで、たかだか修理明細を作るのに延々と長時間待たされるのはどうかと思いました。
ついにしびれを切らし、今日のところは支払いだけ済ませて明細は後日送ってもらうことになりましたが、今度は領収書を出すのにも再び待たされます。

上質な「おもてなし」のかたちをとるのは結構だけれども、何時ごろ行くというのはあらかじめ伝えた上でのことなので、こういう肝心なことはもう少し迅速に願いたいところです。
たしかに車(とくに輸入車)の顧客の中には、ディーラーで受ける接待がよほど心地いいのか、これをひとつの楽しみにして、なにかというと店に出入りしているような人も少なくないようなので、店側も迅速に事務処理をするという必要性がないのかもしれませんが、マロニエ君のようにその手のことに興味がない側にしてみれば、いささか鬱陶しいのも事実です。

快適というのは形ではなく、精神の領域にあるものだということをあらためて思いました。
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続・それぞれの道

長い歴史の中で、職人や物作りの最前線で圧倒的に男性が多いのは、たしかに昔の男社会的な悪しき感性を引きずっている面もあると思いますが、現実問題として仕事のクオリティなどが男性向きであったことも要因のひとつであったと思います。

男性の仕事が正確で美しいのは、べつに男のほうが能力があるからとは思いません。
もてる能力の総量においては、男女でこれといった差はないというのが一般的な認識ですし、そこはマロニエ君もまったく同様の考えです。要は、その能力の用い方、運用の手順や方法が男女ではかなり違うのだろうと思います。

男はなんにつけてもあれこれの気を遣いますし、前後左右に注意の意識が働きますが、これは悪くいうなら臆病で心配性ということもできるかと思います。

それはまさに一長一短で、指導者とか人の上に立つリーダー的なものには、そういった周囲に気が回りバランスをとろうとする性質は良い場合に働くことも少なくありません。
仲間意識というものもこれに類するものでしょうが、時として互いをかばい合ったり、悪しき慣習の是正や改革ができないのも男性の方が強いと言えるようにも感じます。

いっぽう、マロニエ君が個人的に感じているところでは、医師などは意外にも女性は好ましい性質を発揮する職業ではないかということです。
個人的な経験が中心になりますが、これまでの人生の中で自分が医師の診察を受けたことがあるのはもちろん、身内や家族が入院というような状況にも何度か直面しましたが、そのいずれの面でも女性医師の素晴らしさというものが強く印象に残っています。

いろいろ理由はありますが、まず女性医師には変な欲があまりない(もしくは平均して男より少ない)ということがあるのか、医師として目の前の患者に対して必要なことはなにかを、真摯に考えてくれると感じるのは多くが女性医師でした。
もちろん男性がそうではないというわけではないのですが、男性医師はどちらかというと自分本位で、患者の状況説明などを注意深く耳を傾けることより、専ら自分の知識や経験、それに基づく判断や能力が優先されます。

家族が入院などした場合に於いても、女性医師は思いのほか責任意識が強く(と感じる)、労を厭わずに必要なことを地道にやろうという意志が読み取れます。
必要に応じて説明はきちんとしてくれるものの、その説明が簡潔で過不足なく、よけいなことは省略され、必要以上に患者の家族にもストレスをかけないのも女性医師だったと思います。

では男性医師はどうかというと、ひとことでいうといちいち自慢の要素があり、必要な説明と、不必要な説明の選り分けがなされていません。徒に専門性を帯びた言葉や論理、仮定の話などを延々と繰り返し、それを聞かせたがるのが男性医師という印象です。
今どきということもあって表向きの語り口はいちおうソフトだけれども、どこかに支配的/権力的な響きが混ざっているのも決まって男性医師です。

なにかで読んだことがありますが、男というものは三度のメシより自慢が好きなのだそうで、それを何らかのかたちで出さないでは生きていけない生き物のようです。
優秀だなあと思うことがある反面、男のこういう部分は、根本が幼稚だとも思うわけです。

そしてその自慢に対する押さえがたい欲求が、切磋琢磨のモチベーションになっているという一面はまちがいなくあると思います。

それでも最近では男女の特性にも多少の異変があって、従来は男の牙城のように思われた分野に、ぞくぞくと気鋭の女性が頭角をあらわしているようですから、はてさてこの先はどうなっていくのだろうと思います。
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それぞれの道

ジェンダーフリーが叫ばれる今日、あまり近づかない方がいい内容かもしれませんが、決して思想的な話ではありません。

基本的な権利や能力の問題とはまったく無関係に、女性と男性とでは、根底のところにあれこれ違いがあることを近ごろことさら痛感させられ、だからこそ人間はおもしろいなぁと思います。
どんなに気の合う女性でも埋めがたい溝を感じることがあるいっぽう、苦手な男性であっても本能的にスッと共有できる感性があるのは、これがまさに男女の染色体の差だろうと思われ、それは個人差・世代差を突き抜けたところに存在するもののようです。

なにかにつけて同性・異性はかなり違う作りになっていると思います。
何を云っている!そこには性格的なものや個人差もあるのであって、そういう見方をすることが偏見ではないかと叱られそうですが、けっしてそうではないのです。ある程度の数をみていると、やはり大まかな男女の違いの傾向というものは掴めてくるものです。

一般的なことを例に取りますと、例えば整理整頓とか掃除です。
少なくとも現代の女性、とりわけ外で仕事をする女性というのは呆れるばかりに掃除がお嫌いのようです。嫌がるものをやらせるのは至難の技で、相手も取り立てて抵抗しているわけではないようなのですが、そもそも身についていないものは、なかなか実行するのが難しい。

これは育った時代や環境などさまざまな要因があるようです。そもそも整理整頓や掃除というものをほとんどしたことがない由、当然それが生活習慣として身についてもおらず、これは一朝一夕に解決する問題ではありません。

生活習慣としては男も同じのはずですが、それでも敢えてやってみると、男のほうがだいたい丁寧できれいですし、物入れに物を入れるという単純な行為に於いても、大抵の女性はそのつど放り込むというパターンで、その限られた空間を効率よく使うという考えがないようですが、どちらかというと男はパズル的な頭を使います。

テレビで収納の達人のような女性とか、要らない物を処分して家の中をいかにきれいにするかを声高らかアドバイスするような女性がいたりしますが、あれはたまたま仕事として技を磨いているだけで、実生活でそんなことをやっているのは、はたしてどれぐらいいるでしょう。

緻密さとかマニアックというのもだいたい男の特性で、要するに感性、価値観、思考回路など、脳の働き方が違うことを悟りました。

つい先日も驚いたのは、ある設備工事のために来た作業員の数名(全員男性)が、高いところに並べた何十もの装飾品をすべて下におろして作業をやっていました。

これを元に戻すのは大変であるし、工事は延べ3日間にわたっておこなわれる予定なので、全部終わってから並べようと覚悟していました。
ところが初日の工事が終わり作業員の方達が帰られたあと現場を覗いてみると、目に入ってきた光景は工事前と寸分違わぬまでに完璧に元通りに片づけられていて、その日一日工事をしていたことが信じられないほどきれいなことにまずビックリ。
さらにマロニエ君を驚嘆させたのは、高いところを見上げたときのこと、その装飾品が魔法でも使ったのかというほどきれいに並べられ復元されていることで、さすがにこのときは男性の仕事の見事さ、質の高さというものに舌を巻き、おもわず感動してしまいました。

対照的に、女性は忍耐力や男の数倍はあろうかと思う強靱な精神、あるいは度胸などはずば男の適うものではないと思います。ものごとの本質を瞬時に捉える直感力に優れるのも女性で、その現実感覚は男性脳のこまかな動きを一挙に抜去るものがあり、ただただ敬服するばかりです。

まだまだありますが、とりあえずこのへんにしておきます。
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わからぬまま

来年はショパンコンクールの開催年ですが、このコンクールの歴史にはポリーニやアルゲリッチのようなスーパースターを排出した経緯があるいっぽう、優勝者の該当なしで幕を閉じるという珍事が1990年と1995年に立て続けに起こりました。

このため2000年の第14回では「なんとしても優勝者を出す」という強い方針のもとでコンクールは開かれ、ブーニンいらい15年ぶりに優勝を飾ったのがユンディ・リであったことは良く知られているところです。

優勝者を出すか否かは非常に難しい問題だと思います。
ショパンコンクールといえばまさにピアノコンクールの最高峰で、そこには自ずとコンクールの権威というものが深くかかわってくるでしょう。
相対的1位が優勝か、あるいは真に優勝に相応しい才能だとみとめられた者が名実ともに優勝者となるのか…。

若いピアニストの質を問うという厳格な観点から見るなら、その栄冠に値する者がいないとみなされた場合、優勝者なしという結果で終わらせるべきかもしれません。しかし、いかにショパンコンクールといえども運営という側面があり、優勝者不在となれば5年にいちど世界が注視するこのコンクールがぱったりと盛り上がらなくなるのも現実です。
もっとも注目度の高い、国をあげてのお祭りイベントでもあるだけに、その主役が空席になることは許されないのかもしれません。

つい先日ですが、その優勝者不在の1990年と1995年に連続出場し、二度目に第2位となったフィリップ・ジュジアーノのコンサートを聴くため、福岡シンフォニーホールに行きました。

曲目はショパンの前奏曲op.45、バルカローレ、バラード全曲、スクリャービンのop.8のエチュード全曲他というものでしたが、聞こえてきたのは、まるで軽いランチのような演奏で、このピアニストの聴き所はいったいどこなのか、ついにわからぬまま会場を後にしました。ショパンはもちろん、スクリャービンに於いても作品の真実に迫るものはあまりなく、表現も強弱も、小さな枠の中でかろうじて抑揚がつくだけで、ほとんど変化に乏しいものでした。

当然ながら聴衆もテンションが上がることなく、マロニエ君の近くでもかすかな寝息が左右から聞こえてきたほか、休憩時間に会場でばったり会った知人も「寝てましたね」とこぼしていたほどでした。これでは、わざわざチケットを購入し会場に足を運んだ側にしてみれば、満たされないものが残るのもやむを得ません。

ジュジアーノ氏は長身のフランス人で現在41歳、心身共にもっとも力みなぎる時期だと思われますが、そんな男性ピアニストが、淡いレース編みのような演奏に終始することに不思議な印象を覚えてしまったのはマロニエ君だけではなかったはずです。

ピアニストの中には大きな音を出してヒーローを目指す向きもありますが、それは腕自慢なだけのいわば野蛮行為で、むろんいただけません。そのいっぽうで、立派な体格の男性が、骨格のないタッチでさらさらと省エネ運動みたいな演奏をすることは、これはこれでかなりストレスです。

コンサートというものは、演奏者の個性や才能を通して出てくる音楽の現場に立ち合うこと。その演奏に導かれ、酔いしれ、あるいは翻弄され、心が慰められたり火が灯ったり、場合によっては打ちのめされたいということもあるでしょう。それが何であるかは、演奏によっても受け止める側によっても異なりますが、なんらかのメッセージを得られないことにはホールに足を運ぶ意味がありません。

厳寒の公園を早足で駐車場へ向かいながら、優勝の「該当者なし」という判断が二度も続いた当時の審査員の苦悩がわかるような気がしました。
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展覧会の絵

「ウマが合う/合わない」という言葉があります。
人間関係の中には互いにそこそこ尊敬し、関係も良好であるのに、どうしても呼吸というか波長というか、何かが合わない相手というのがあるものです。
わだかまりもなく、むしろ積極的に親しくしようとしているのに、なぜか気持ちがしっくりこないといえばいいでしょうか。

これがウマが合わないということだと思います。
取り立てて理由もないのに、どうしても好きになれないと言うのはある意味深刻で、これはどうしようもないことで、運命とでも思って諦めるよりほかはないようです。

歯車の噛み合わないものは、もともとの規格が違うのだからつべこべいうことでもない。

こんな事が、実は音楽の中にもあると思います。
いかなる名作傑作の中にも好きになれない曲というのがあって、これはきっと、どなたにもそんな曲のひとつやふたつはあるだろうと思います。

中には、自分が未熟なためにその作品の魅力を理解できなかったというような場合もあれば、理想的な演奏に恵まれず、良い演奏に出会ってようやく好きになるというようなパターンもあるでしょう。

あるいは自分の年齢的なものにも関係があり、若い頃好きだった曲がそうでもなくなったり、逆にある程度の年齢になって興味を覚える作品もあるわけです。
マロニエ君の場合は、ベートーヴェンの弦楽四重奏やブラームスのピアノ曲、マーラーやブルックナーのシンフォニーなどは、若い頃はもうひとつ魅力を感じず、遅咲きだった記憶があります。

さらにはモーツァルトやシューマン、チャイコフスキーなどのめり込んだ時期があったかと思えば、その反動から聴くのが嫌になって長いこと遠ざかったりと、まあ自分なりにいろんな山坂があるものです。

ところが、中には時代/年齢その他の理由を問わず、終始一貫どうしても好きになれない曲というものがあります。
マロニエ君にとって、その代表格が例えばムソルグスキーの展覧会の絵で、これは何回聴いても、いくつになっても、どうしても好きになれません。あれだけの作品なのですから、悪いものであるはずはなく、自分の耳がおかしいのか、理解力が及ばないのだろうなどとあれこれ思ってはみるものの、要するに嫌なものは嫌なのであって、いわば生理的に受けつけないのです。

有名なラヴェルの管弦楽版も、だからまともにしっかり聴いた覚えがないほどです。
しかし、オリジナルのピアノソロは演奏会でもしばしば弾かれる(それもプログラムのメインとして!)ことがあり、あのプロムナードの旋律が鳴り出すや、条件反射のようにテンションが落ちてしまいます。
このときはできるだけ気を逸らし、会場のあちこちを観察したり、楽器や音響のことを思ったり、あるいは明日の予定はなんだったかなどまったく別のことを考えながら、ひたすら終わるのを待ちますが、音楽というのは待っていると長いものです。

今年のいつごろだったか、ファジル・サイが福岡でリサイタルをやりました。最近では珍しく「聴いてみたいピアニスト」であったにもかかわらず、プログラムに「展覧会の絵」の文字を見たとたん気分が萎えてしまい、けっきょく行きませんでした。

マロニエ君は基本的にプログラムは二の次で、誰が弾くのかという点がコンサートに行く際の決め手ですが、ここまでくると二の次というわけにもいかないようです。
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ごりっぱ

現代のバッハの名手であるエフゲニー・コロリオフの弾くシューベルトを聴きました。

曲目はピアノソナタD.894「幻想」とD.959という、晩年および最晩年の大曲。
D.894は1826年に書かれ同時期には交響曲のザ・グレートがあり、翌年にはドイツリートの金字塔である「冬の旅」が、さらに翌年には3つの最後のソナタD.958─960を書いたのち、同年11月、31才という若さでシューベルトはこの世を去ります。

ディスクには2012年12月の録音とあり、この感じなら追ってD.958とD.960もカップリングされてリリースされるような気がします。

コロリオフは1949年モスクワ生まれのロシア人ですが、すでにロシアよりもはるかに長い時間をドイツで過ごしており、その演奏から聴こえてくるのは、音楽的には完全にドイツ圏に帰化したピアニストと云って差し支えないと思われます。

さて、このシューベルトの2曲ですが、さすがにコロリオフらしく一音たりともゆるがせにしない真摯さにあふれ、解釈もきわめて正統的で注意深く、すべての音は磨き抜かれています。それでいて尊大さがないのはこの人の良心的な人柄のなせる技なのかもしれません。

コロリオフこそはピアノに於けるノイエ・ザハリカイト(芸術を主観に任せず、客観的合理的にとらえる考え方。音楽では楽譜を尊重し解釈演奏する)の現役旗手とでもいうべき人で、楽譜に忠実な演奏がそこに広がり、ここまでやられるとぐうの音も出ない感じです。

まるでドイツの最高権威の演奏とはこういうものですよという模範が示されているようでもあり、加えて聴きごたえじゅうぶんの濃厚さと、全体を貫く気品が見事に両立している点もいつもながらさすがです。
おそらく音楽の研究者や、直接の演奏行為に携わるピアニストなどは、専門的関心や解釈など何かと参考になりやすく、こういう演奏を崇拝する向きも多いだろうと思われます。

ただ個人的には、このような全方位的完璧を達成した演奏は、100点満点の答案用紙を束で見せられるような気もしないでもありません。純粋に音楽を聴く喜びや意義という点からいうと、音符に対してすべてが正しく吟味された演奏であることだけが必ずしも正解か否かを考えさせられるところ。

それぞれが4楽章からなるソナタで、CDには計8つのトラックがありますが、どこを取り出して聴いても理路整然とした折り目正しい解釈と、それを実現した演奏がそこに確固として存在し、最高級の工芸品が8つ、整然と並べられているようでもあります。

悲痛に満ちた晩年のシューベルトの生身の心に触れる演奏というより、すべてが確信を持って書き上げられた堅固な芸術作品のようで、それを最高の精度で再生するというところに特化された演奏のようでもあり、そこに一種の単純さを感じなくももありません。

いまさらですが、やはりマロニエ君はシューベルトの歌やうつろいの要素を随所で感じさせてほしいというのが正直なところで、コロリオフの演奏が本当にシューベルトの本質に迫っているものかどうかは判じるだけの自信は持てません。でも素晴らしい演奏というものは、もうそれだけで途方もないパワーと魅力があるもので、そんなことを感じつつ何度も何度も聴いてしまいます。

ふと、デヴィッド・デュバル著の『ホロヴィッツの夕べ』(青土社)に、次のような一節があったことを思い出したので、それを付記します。
「現代の演奏は、十九世紀後半の自己耽溺への反動で、作曲家の楽譜を神聖視する。─略─ 楽譜の文字を信じ、それはしばしば作曲者への尊敬になった。この姿勢と完璧な録音は、音楽の解釈を単一化することになり、無感動の元になった。これは音楽の生命を脅かし、多くの若い演奏家たちを音楽の心から切り離した。」
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演奏姿勢と音楽

いつだったかNHK日曜夜のクラシック音楽館で、我が地元である九州交響楽団の演奏会の様子が採り上げられ、小泉和裕氏の指揮で演奏機会の少ないブルックナーの交響曲第1番のほか、前半にはアンドリュー・フォン・ オーエンをソリストに迎えてシューマンのピアノ協奏曲が演奏されました。

会場はアクロス福岡シンフォニーホールで、見慣れた会場がテレビカメラを通して見ると、実際より立派なところのように見えることに驚きました。映像というのは不思議で、立派なものがしょぼくれて見えることがあるかと思えば、このようにそれほどでもないものがやけに立派に映し出されたりするようです。

九州交響楽団は福岡市に拠点を置く九州でもっとも歴史あるオーケストラですが、なかなかコメントする気にはなれないというのが正直なところ。

ピアノのアンドリュー・フォン・ オーエンは、少なくともマロニエ君にとっては特別な個性や魅力をもったピアニストとは言い難く、かろうじて回る指をもっていることからなんらかのチャンスを得てピアニストになってしまったのか、どちらかというとプロ級の腕をもったアマチュアといったら悪いけれども…そんな印象です。

最近は女性の演奏家の中には明らかにビジュアル系で売っている人が少なくありませんが、このオーエンも失礼ながらそちら系というか、ピアノの弾けるイケメンでステージに立っている人という気がしなくもありません。

彼を見ていて、今回はあるひとつのことに気がつきました。
いい演奏というものは、そのパフォーマンス中の姿勢や身体の動きにも現れるということです。
演奏姿勢の美しい人は演奏それ自体も無理がなく、音もリズムものびのびしていますが、身体の動きのおかしな人は、それが演奏になんらかの影響が現れているといえるようです。

極端に低い椅子で演奏したG.G(グレン・グールド)などは、その点で例外ともいえそうですが、彼の腕から指先の動きはきわめてまともで、とりわけ手首から先の無駄のない動きに至っては見ているだけでも惚れ惚れするほど美しいことこの上ありません。

オーエンの上体は意味不明な動きを繰りかえし、それが音楽的な必然とも思われず、見ていて気にかかります。左手など、なにかというとシロウトのようにだらしなく手首を下げたりと、いわゆるプロとしての修行をきちんと積んだ人なのか疑わしくなります。
音楽的にも線が細くて一貫性に乏しいのは、この人がこれといった根幹を成していないためではないかとも思えました。

そういえば、朝の番組で放送された日本音楽コンクールのピアノ部門でも、上位4名が抜粋で紹介されましたが、演奏にあまり好感のもてない人は、やはり姿勢や動きが不自然で、気合いだけでピアノをねじ伏せるように弾いているようでした。
ひとりだけまあまあと思える女性がいましたが、その人はピアノと格闘せず、音楽の波に乗った演奏ができていたと思いましたが、やはり姿勢もとてもきれいなことが印象的でした。

ピアノに限りませんが、楽器や機械を操作する、あるいはなにかの動作をするというときに、その姿が美しいのは、単にみてくれが良いというだけではなく、そこには機能美としての裏付けがあるからだと思います。
ゴルフのスイングひとつ見てもわかりますが、プロはまったく無理のない最小限の動きでボールをいとも軽々と遠くへ飛ばしますが、政治家などアマチュアのそれは変なくせがあって無惨なばかりのフォームです。

演奏の姿勢や動きがどこかおかしい人は、やっぱりそこから紡ぎ出される音楽も、姿形があまり美しくはないという、考えてみれば当たり前のようなことを確認できたということでした。
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無個性の心得

TVニュースなどを見ていると、現代人は一億総役者か総タレントではないか?と感じることが少なくありません。

政治・経済・事件・事故などあらゆる場合に応じて、一般人がふいにカメラとマイクを向けられても、大半の人が、概ね似た感じの、きわめて無個性なありきたりな内容のコメントをするのは何なのかと思います。

しかも、おおよその口調や、語尾に「かな…」「みたいな…」をつけて、自分の意見としてきっちり結ばないところにも、大きな特徴があるようです。

まるでマイクを向ける側が、こういう答えを欲しがっているというのを察しているのか、それに添って答えているようにも感じられます。みなさん申し合わせたように何かを心得ておられて、まるで大雑把な台本があるかのようです。

それが練習の必要もないほど、一般的な意識として浸透しているのだとしたら、これは考えてみたらすごいことだと思います。

もしマロニエ君が同じようなシチュエーションに遭遇したら、まず間違いなく逃走してしまうでしょうけれど、万が一にもなにか答えるとしたら、とてもあんなふうな言い回しはできないと思うばかり。

どんなにつまらぬ意見であっても、話すからには自分のオリジナルの考えを述べるべきで、多くの人がこう考えるであろうというあたりを自分の考えとして滔々としゃべるなんて芸当は、そもそもマロニエ君にはできもしませんが、それじゃ何の意味もないと思います。

さらに戦慄するのは、そんな言い回しや思考回路が子供世代にまで波及していて、小学生ぐらいのコメントを聞いていても、そのしゃべり方・内容・ちょっとした間の取り方や調子まで、今どきのオトナのそれのようで思わず背中に寒いものが走ります。

自分の意見というものは、もっと素朴で正直で自由があっていいのではと思います。
しかるに多くの人達は、正直どころか、できるだけ一般的な感性から逸れないよう発言にも妙な折り合いをつけるよう努めているようで、もしかすると自分が一般的な意見の代弁者たることを目指しているのかとも思います。

すべてはご時世かとも思いますが、ひとつだけそれは違う!と声を大にして言いたいことがあります。
時あたかも衆院選を控えている時期で、若い世代の投票率がいよいよ低いことが問題視されていますが、若い人にインタビューすると恥じる様子もなく投票には「行かなーい」「行かないですね」とあっさり言い放ちます。
そこまでならまだしものこと、いかにもさめたような調子で「誰がなっても同じだから」として、だれもかれもがこれを選挙に行かない理由としています。

しかし、まさかそんなことがあるでしょうか。
たしかに55年体制まっただ中における慢心した派閥政治の時代ならまだいくらかわかりますが、現在の自公政権と先の民主党政権は誰が見てもまったく違うし、安倍さんと菅さん、どちらが総理でも同じだと本気で思っているのでしょうか?
何をいいと思うかは各人の判断するところですが、誰がやっても「同じではない」ことだけはハッキリと言いたいわけです。その違いはウインドウズとマックどころではないですよ。

投票に行かないことは、これはこれでひとつの意思表示かもしれませんが、己の無知を恥じぬままスタイルとして蔓延するのはきわめて憂うべきことだと思います。
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見えていない自分

人の言動の中には、あくまでもさりげなさを装いつつ、なんでそんなに自分を上に見せようとするのかと感じることがあるものです。

ある病院に行ったときのこと、終って駐車場に向かっていると、偶然向こうからそこの先生の奥さんとばったり会いました。
この奥さんとはべつに知り合いというわけではなく、ときどき受付などにもすわっておられるので、しだいに顔見知りになったというだけの間柄です。

ところがこの方、なぜかマロニエ君の自宅の場所などもご存じらしく、「あのあたりは…」というような話をしばしばされるのには以前から少し違和感がありました。

病院に行くには健康保険証などを提示するので、そこから個人の住所なども知るところとなるわけですが、それを情報源として患者への雑談のネタにしていいかというと…それはちょっと違うような気がします。

さらに驚いたことには、マロニエ君の知るお若い演奏家兼先生をその方も何かの繋がりでご存じだったようで、その人物のことを「○○クン」と何度も繰り返し口にされるのには、いささか驚きました。

若いといっても相手は学生ではありません。
コンサートで演奏を重ね、先生として教室の長としてやっているからには、それなりの呼び方があるはずですが、あえてそう呼ぶことで自分の優位性を作りだし、そこを相手に印象づけるかのような心底が見えてしまいます。
百歩譲って純粋に親しみをこめてだとしても、相手(マロニエ君)は身内ではないのですから、表向きは「さん」か「先生」と呼ぶのが見識というものですが、この場合は「くん」である必要があったのかもしれません。

そもそも、この「クン呼ばわり」というのはテレビなどでも見かける、発言者の浅薄な自己宣伝手段としてしばしば用いられる印象があります。
社会的に話題の人であるとか、スポーツでめざましい結果を上げて注目を浴びているようなスター級の選手などを語る際に、あくまで自分にとっては対等の友人、家族ぐるみの付き合いをしている、もしくは目下の若者にすぎないよ…といわんばかりに、むやみに親しげな口調で不自然なコメントすることは少なくありません。

その相手を、わたしは「くん」で呼ぶだけの資格があるんだという、たったそれっぽっちのことで、自分の立ち位置を高いところへ引き上げようという、あまり上等とは云えない狙いが透けてみえるのです。
これを言ってサマになるのは、直接指導に携わった文字通りの先生や恩師だけでしょう。

マロニエ君はこの手の人を見るたびに、なんとも教養のない、世俗的な神経の立った、ハッタリ屋のように思えて仕方がありません。
ほとんどの場合、「さん」で呼ぶほうがどれだけ自然かわからないのに、それでも意図してまでクンとかチャンといってしまうのは大抵自己アピールで、ひどく物欲しそうな小さな人物に見えてしまいます。

政界にも、かつての石原慎太郎氏や、引退した渡辺恒三氏などは、相手が総理であれ大臣であれ、だれかれ構わず○○クン○○ちゃんとぬかりなくいっていましたが、今はさすがにそんな手合いもいなくなりましたね。「ぬかりなく」というのは、クン呼ばわりする相手がエライほど、そこには意味と快感があったはずだからです。

本人は至ってさりげない発言のつもりのようで、だから相手は感服しているという読みなのでしょうが、その考えは甘いというものです。聞いている側は、そこがいちいちわざとらしく、よけい耳障りに響くのですが…。
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フーガの技法

まったく個人的な見解ですが、バッハのありのままの魅力というか、多くの作品を気負わず素直な気分で楽しむことを阻害してきたのは、ひと時代前に蔓延していた、大上段に奉られた、いかめしいバッハ像にあったような気がします。
過度の宗教性、厳格なスタンス、楽しむものとは一線を画する、聖典のような音楽といった趣で、これは時代そのものが作ったバッハのかたちであったように思います。

音楽の純粋な愉悦とは対極の位置に押しやられてしまったバッハ、荘重荘厳でなくてはならないバッハ、むやみに神聖化しすぎたバッハ像は、却ってこの偉大な大伽藍のごとき作曲家を人々から遠ざけてしまった一面があったのかもしれません。

これを打破した象徴的ひとりがG.Gであり、多くの音楽家がなんらかのかたちでそれに続いたことは否定できないでしょう。バッハ演奏にあたって、ポリフォニーの明晰な弾き分けは当然としても、随所に散りばめられた多くの歌、幾何学のモダンと斬新、舞曲としての遺伝子を無視した即興性に欠ける、西洋のお経のようなバッハは、マロニエ君はあまり聴きたくありません。

だからといって、ただ定見なく楽しく自由に演奏すればいいというものではなく、そこには切っても切れない宗教との絡みがあることは厳然たる事実でしょう。ただ、宗教とは人間全般の悲喜こもごもの生から死までの全般を引き受けるものであって、楽しみの要素のないことが宗教的敬虔さというふうには考えたくないのです。

ポリフォニーは音による緻密な編み物であり、その頂点に位置するのがバッハであることは異論の余地はありません。そしてその絵柄やモティーフは宗教的なものが多いとしても、それを教会の空間にばかり浸し続けるのは、この孤高の芸術を却って矮小化する行為のようにも感じてしまいます。

とくに晩年の傑作であるフーガの技法は、演奏する楽器の指定さえもないという、時空にひょいと放り投げられた崇高で謎めいた音楽のひとつでしょう。未完であることさえ、バッハの音楽が永久不滅であることをあらわしているかに思えます。
これはソロピアノによる演奏もあって、多くはないものの、いくつかのCDも出ています。

残念なことにG.Gはフーガの技法では前半をオルガンで弾いたり、ピアノで部分的な映像があったりするものの、ゴルトベルクのような決定的な録音は残していませんし、ニコラーエワのものももうひとつ決め手がない。
近ごろでは、幻のピアニストのように珍重されているソコロフのCDにもフーガの技法がありますし、コリオロフにもいかにも彼らしい名演があります。若手ではリフシッツもこれに挑んでいます。

ソコロフとコリオロフは個性は違えども、共にロシア出身のピアニストですが、その個性は対照的です。自己表出を極力押さえ、作品へのいわば滅私奉公を貫くことで、書かれた音符を生きた音楽に変換することの伝道者のようなコロリオフ。同じようなスタイルに見せながら、「音楽に忠実」を貫いている自分をいささか見せつけるふしのあるソコロフ。
ソコロフのサンタクロース体型に対して、コロリオフの痩身長躯も対照的。

共に驚異的なテクニックの持ち主ですが、ソコロフはリヒテルを彷彿とさせる巨人的な大きさで聴く者を制圧しますが、コリオロフはより緻密で論理的陶冶を旨としながら威厳があり、まろやかなのに張りのある音と細部までゆるがせにしない隙の無さで聴く者をしずかに圧倒します。

マロニエ君が本能的に聴きたくなるのはコリオロフとエマールです。

その理由をひとことでいうのは難しいですが、この2つはどうしても外せないもので、どちらも聴いていると「これが一番!」と思わせられてしまいます。
エマールの前衛と隣り合わせの時代を超越したバッハ、コロリオフの滑らかで緩急自在、優れた考証と最高度のバランスで聴かせるバッハ、どちらも捨てがたい魅力に溢れていて、このふたつがあれば今は大いに満足です。
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SKの使い道

ロシアのピアニスト、アンナ・マリコワによるスクリャービンのピアノソナタ全集を聴きました。

スクリャービンのソナタ全集は何種類か持っているものの、これという決定盤は思いつきません。名前もろくに思い出せないようなピアニストのものがいくつかある中で、ウゴルスキがようやく出てくる程度です。

ウゴルスキの演奏は見事ではあるけれど、どちらかというと重々しく芝居がかった朗読のようで、スクリャービンとピアニストの個性が合っているかにみえて、実はそうともいいきれないものがあり、こってりしたものをさらにこってり仕上げているようで、それほど好みでもありませんでした。

その点ではマリコワの演奏は、良い意味での現代的に整った演奏で、作曲家に充分な敬意を払いつつも必要以上の思い入れや表現を排した、客観性を優先した点が心地よく聞こえます。
作品が完成された音となって耳に届くのはありがたいというか、とりあえず快適であるし、ロシア人であるだけに、必要な厚みや熟考の後もあり、これといった演奏上の不満はありません。

非常に明晰かつ淀みなく流れるスクリャービンと言っていいと思います。

このCDでの聴き所はもうひとつあり、ドイツでの録音でありながら、ピアノはシゲルカワイEXが使用されている点でしょう。

驚いた事には、SK-EXとスクリャービンの意外な相性の良さで、これはまったく思いがけないことでした。
カワイの個性というのをひとことで云うのは難しいですが、少なくともコンサートグランドに関しては、ことごとくヤマハとは対照的だというのがマロニエ君の印象です。

誤解を恐れずにいうなら、ヤマハとカワイはそれぞれに日本的な暗さをもったピアノだと思います。これは、たんなる音の明暗ではなく、ピアノとしての性格や全体に漂う雰囲気です。
ただ、両者はその暗さの質がまったく異なります。

少なくともカワイはピアノ全体から流れてくるものが、朴訥で不器用、ある種の真面目さがあり、少なくとも洗練とかスタイリッシュといったものではないところに特徴があるように感じます。

このところ、プレトニョフをはじめとするロシアのピアニストの間でカワイの評価が高いのかどうか、はっきりしたことは知りませんが、カワイの持つどこか湿った感じの悲しげな響きが、ロシア人の感性にマッチするとしたら、これは大いに納得できることです。

それとヤマハと違う点は、カワイのほうがより演奏者にあたえられた表現の幅が広いという点で、ヤマハのほうがある程度の結果を規程してしまっている点が、演奏の可能性を狭めているように思います。

カワイが生まれもつ、どこかほの暗い雰囲気がスクリャービンとドンピシャリというわけで、これまでSK-EXがかなり高いところまで行きながら、あと一歩の決め手がないと感じてきましたが、ロシア音楽こそがその最良の着地ポイントであったとしたら、これはなかなかおもしろい事になってきたと思いました。

長年にわたってロシア御用達であるエストニアなどはもうひとつざらついていたり、ペトロフなどはあくまでも東欧であってロシア風とは似て非なるものを感じます。

その点でカワイ(とりわけSK-EX)は、ピアノとしての高いポテンシャルと完成度があり、日本製品としてのクオリティを持ちながらもキラキラ系で聴かせるピアノではない。さらに意外な懐の深さや逞しさもあり、ここにロシア方面からの注目が集まったとしてもなんら不思議はないと思いました。

現代のピアノは、やたら音の「明るさ」ばかりを重要なファクターであるかのよう強調されますが、何を弾いても職業的スマイルみたいな薄っぺらな笑顔ばかり見せるピアノより、渋いオトナの表現ができるピアノがあることは評価していい点だと思いました。

このCDで聴くスクリャービンには、スタインウェイでも、ヤマハでも、もちろんファツィオリでも聴く事のできない、カワイだからこそ結実した独特の雰囲気が漂っているとマロニエ君は感じます。

なんとなくカワイのピアノってロシア製の旅客機みたいで、ちゃらちゃらしない、質素な魅力があるのかもしれないと思いました。
和服でいうと結城や大島の紬みたいなものでしょうか。
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女性の進出

長いデフレのトンネルから抜け出すのは容易なことではなく、安倍さんをリーダーとしてさまざまな努力がなされているのでしょうが、なかなか目に見えるような効果は出てきません。

経済評論家の言うことなどは半分も信じていないマロニエ君ですが、ときには「なるほど」と唸ってしまう発言があったりするものです。

デフレ脱却が難しい理由はさまざまでしょうが、そのひとつは、世の中の人間が「倹約の味を覚えた」からなのだそうで、これはある意味では贅沢の味以上に切り替えが難しいものだというのです。
いうなれば「倹約・節約」というパンドラの箱を開けてしまったと云えるのかもしれません。

本質的に人間は欲深でケチな生き物なのかもしれませんが、自分だけでは体裁や恥ずかしさ、さらにはいろんなかたちの欲が絡んでこれを断行するのはなかなか勇気がいるものです。着るものひとつにしても、あまり安物では恥ずかしいというような心理が働くでしょう。

しかし不況を機に世の中全体が節約ムードになり、みんながそっちを向いて、お店も何もが自虐的な低価格や無料といったものであふれかえると、それが当然のようになり、しだいに個々のケチも恥ではなくなり、いわば木を森に隠すようなものになる。
それが長期化すると、いつしかそれしか知らない世代まで育ってきます。

もうひとつは、女性の社会進出だそうです。
一般的に考えれば妻が専業主婦になるより、女性も働いて収入を増やすほうが消費も拡大するように考えがちですが、これがそうではないらしいのです。
ひとつは男性の平均的な収入が昔に較べて相対的に落ちていて、男だけの稼ぎでは一家を経済的に支えることが難しくなっていて、たしかにそんな印象があります。

それに加えて、そもそもでいうと消費の主役は女性なのだそうで、たしかに家や車といった大きな買い物をべつとすれば、その他の日常的な消費はほとんどが女性に委ねられていたというのも頷けます。
「夫が必死に働いて得たお金を、妻が平然と使う」というのが景気のよかった時代のスタイルです。

では、なぜ女性の社会進出が消費拡大に繋がらないのかというと、女性が自分でも働くことでお金を稼ぐことの大変さを身をもって経験するようになり、夫が稼いでくる時代のように無邪気な消費ができなくなったというのです。

昔の女性の消費は男性の稼いでくるお金に依存しており、その労働の辛苦にはあまり斟酌していなかったのかもしれませんが、今の女性は働いて報酬を得ることの厳しさをよく知っており、鷹揚な支出や買い物は激減したというのも納得でした。

たしかに、稼ぐ人と使う人が別でいられた時代のほうが、人々の心には単純な明るさがあって、消費にも勢いがあったのだろうと思います。高度成長の時代は、なんだかわからないけれどもみんな希望があり、給料も銀行振込ではなく、お札の入った月給袋を内ポケットに入れて帰宅し、それをそっくり奥さんに渡すというのがひとつの形でした。

現代とくらべて、社会学的にどちらがいいのかはわかりません。
ただ男女いずれも、低い賃金/不安定な雇用環境の中でせっせと仕事をせざるを得ない社会環境では、やはり消費が伸びないのも致し方のないことだろうと思います。
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