版より大事なもの

楽譜選びについてよく耳にすることですが、先生から❍❍版を買いなさい、ショパンなら❍❍版じゃなきゃダメというような指示を受けることが少なくないとか。
それは基本として大事なことではないと云うつもりはないけれど、もっと大切なことは、いかに有意義な練習を重ね、解釈を極め、深く美しく演奏するか、聴く人にとっても喜びとなるような演奏を目指すことではないかと思います。

楽譜って経験的にこれはダメというような粗悪品はめったにないから、普通に売っているものを普通に使うぶんには充分だというのがマロニエ君の持論です。
昔から受け継がれているものも多く、それはそれなりで、そうそう決定的に間違ったことが書いてあるわけでもなく、別に先生が言われるほどの必要性をマロニエ君は感じません。

もちろん音大生やコンクールを受けるような何かの条件下にあれば、ショパンなら使用楽譜はナショナルエディションという指定があって、それに沿った準備をしなくてはいけないでしょう。
しかし、少なくともテクニックも不足ぎみの大多数のアマチュアが、大人の余技としてピアノをやる場合、先生の役割というのはいかに演奏を通じて音楽の表情を作るか、そのためのツボや要所はどこにあるか、また陥りがちな悪いクセを正すにはどうすべきか、そういうことのほうがよほど重要だと思うのです。

どうせ楽譜を買うのに、よりオススメの版の楽譜を買うようにアドバイスするのは結構ですが、ではその先生達はどの版のどこがマズくて、オススメの版ならどういうふうにいいのか、具体的に説明できる人はどれぐらいいらっしゃるのか、それほど「わかって言ってるの?」って思うのです。

昨今は楽譜も作曲者の直筆譜や資料を検証し、そこから掘り起こしたまさに原典主義であって、それは一面において正しいことではあるけれども、個人的にはいささか行き過ぎた風潮であるとも思うし、奏者の主観や解釈の介入を否定し、プロの演奏家でさえ自己を抑えて学術的な流れに従おうという流れにも疑問を持っています。

少し前のいろいろな版には、とくにアマチュアが弾くぶんには校訂者による親切なヒントがあったり、美しい演奏として仕上げるための有効な指示が添えられていたりで、これはこれで別に悪くないと思うのです。

ところが、そこまでこだわって最新トレンドに沿った楽譜を買わせるわりには、その指導内容は杜撰で、ただ音符通りに鍵盤を押さえているだけで、せいぜい強弱の指導をするぐらい。
作品や音楽に関する言及、あるいは音楽的に奏するためのヒントや理由やテクニック指導はなく、物理的に指を動かせるようになったら「次の曲」になることがあまりに多いという現実。
指導の具体的内容を聞くと、そんなことのためにレッスン料を払って通っているのかと驚くばかりだったり…。

曲の譜読みをして練習を重ねる、ひと通りの暗譜ができる、なんとか音符通りに動くようになる、そうしたら、そこからがいよいよ音楽を深めるための入り口にようやく立つことができた段階で、一番大事なことはまさにこれからというところで「次」というのは、アマチュアを見くびっているのか、はたまたその先にある芸術領域については指導する自信がないとしか思えません。

生徒のほうもそこまで望んでいないということもあるかもしれないので、そこで先生と生徒の関係が成立しているのだったらそれでいいのかもしれないけれど、だったらなぜ版にこだわってわざわざ高額な輸入楽譜などを買わせるのか、そのあたりの意味がまったくわかりません。

青澤唯夫著の『ショパンを弾く』の中で、ホルヘ・ボレットの言葉が引用されていますが、一部を要約すると「まず楽譜を忠実に勉強して、メカニック的に完璧に弾けるようにする。二三週間後にまたレッスンをし、以前よりよく弾けていたら、一度くずかごに捨てて(つまりそれらを忘れて)、あたかも自分が書いたように演奏させる」という意味のことが述べられています。

これはあくまでも一例にすぎないけれど、いい演奏というのは、そうやって深いところにあるものを繰り返し探し求めて、自分なりの答えを見つけ出すことであって、暗譜して指を動かすだけでは決して深化はしないと思います。

マロニエ君としては、使用楽譜がいかなる版であろうとも、それをもとに仕上げのクオリティを徹底して向上させること、自分の力の範囲でこれ以上はムリというところまで極めることのほうが圧倒的に大事だと思うのです。
繰り返しますが、版がなんでもいいと言っているのではないけれど、それに値する高度な指導がなされているのか、もっと大事なことは他にあるのでは?と言いたいわけです。
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有名曲を並べると

過日のこと、友人と立ち寄った古本屋で、ショパンとジョルジュ・サンドのことを綴った1冊の本が目に止まりました。

まだ読んではいないのですが、アシュケナージとアルゲリッチによる76分におよぶCD付きで、傷みはほとんどないのに価格はわずか186円!だったので、ろくに吟味もせず買ってしまいました。

とりあえず先にCDを聴いてみることに。
曲目は、ある程度予想はしていたものの「うわあ!」と思うほど超有名曲ばかりで、大半が「雨だれ」「子犬」「革命」「幻想即興曲」といったたぐいの曲ばかりベタベタに並んだものでした。
第1曲目がワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」とくれば、およそどんなものかご理解いただけるでしょう。

ま、ほとんどタダみたいな感じのものだから、どういうものでも割りきっているつもりでしたが、聴き進むうちに思いがけない状況に陥ったことは想像外でした。

どの曲もよく知るものというか、大半は下手なりにも自分で弾いてみたことのある曲なのに、こうしておみやげ屋の店先みたいに並べられてみると、ある種独特な雰囲気が出てくると言ったらいいのか、ひとことでいうと独特の俗っぽいイヤ〜な感じに聴こえてしまい、これには参りました。

それぞれの曲のひとつひとつは素晴らしい作品であるのに、抜きん出てポピュラーというだけで脈絡もなく並べられ、手当たり次第に聴こえてくると、もうそれだけでひどく日本的な妙ちくりんな世界になるんですね。

2曲目はノクターン第2番、続いて別れの曲、幻想即興曲、さらには遺作のノクターンとなっていくあたり、なんだか皮膚の表面がむず痒くなって体中に広がっていくようです。
まるでルノワールの複製画でも飾った、レースだらけの部屋にでも通され、へんな花柄のカップで紅茶でも勧められた気分。

この調子がずっと続いて、15曲目がバルカローレで終わります。
とくに前半はアシュケナージが7曲続き、こういう場合、彼の中庸な演奏が裏目に出るのか、ほとんど安っぽいムード音楽が聴こえてくるようで、だったらいっそ本物のムード音楽ならいいのに、なまじそれがショパンであるだけに、却って始末に負えない感じになっています。

とはいえ、作品や演奏に手が加えられているわけでもなく、ただ単に曲のセレクトと並べ方によるものだけで、こんなにも印象が変わってしまうというのは「本当に驚き」でした。
世にショパン嫌いという人は少なくないけれど、マロニエ君はどうもそれが今ひとつ理解し難いところがあったのですが、仮にこういう角度から見るショパンなら、たしかに納得ではありました。

こんなCDを聴いたら、きっと多くの人がショパンを手垢まみれの通俗作曲家のように思えてしまうだろうから、かえって罪作りではないかと思います。
すくなくともあれだけの高貴かつ濃密に結晶化されたショパンの世界はわからなくなっていたように思うわけです。

ピアニスト(あるいはレコード会社)が魅力あるアルバムとしてセレクトしたショパンアルバムというのはあるし、それでとくにどうとも思わなかったのですが、それらとは明らかに似て非なるもの。
このタイプの独特な強烈さがあることを知っただけでも勉強になった気はします。

折しもこのところ、アルトゥール・モレイラ・リマ(ブラジルのピアニスト 1965年ショパンコンクール第2位)のショパンが聴いてみたくなり、むろん廃盤なのでアマゾンなどを探したところ、あるのはいずれも上記と似たような内容の「名曲集」ばかりで、今回の経験に懲りて購入意欲が失せてしまいました。

のみならず、本も読む意欲が半減していまいましたが、とりあえず読んではみるつもりです。
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プロの資格

ピアニスト中井正子著『パリの香り、夢みるピアノ』というのを読みました。
パリ音楽院に留学された経験をあれこれ綴ったもので、少女趣味的な淡いタイトルから想像するより、はるかに読み応えのあるしっかりした内容の一冊でした。

70年代の頃のパリをはじめヨーロッパの雰囲気がよく出ており、飽きることなく一気に読みました。
カサド夫人である原千恵子さんとの交流、パリ音楽院の教授陣のイヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエらによるハイレベルのレッスン、また同じクラスにロラン・エマールやロジェ・ムラロなどがいたというのも驚きでした。

その中で印象に残ったもののひとつとして、中井さんがパリでとあるサロンコンサートを終えた時、その場にいた原千恵子さんがお客さんに向かって「どうだった?」と問いかけたというくだり。
原千恵子さん曰く「演奏家っていうのはね、人がどう思ったかを知らなくちゃいけないのよ。その人がちゃんと演奏を聞けているかどうか、正しいか正しくないかは関係ないの。自分が弾いたものに対して相手がどう思ったか知っておきなさい」と言われたとありました。

これは原千恵子さんが長年ヨーロッパで暮らし、夫のカサド氏から鍛えられ、そのような文化の真っ只中におられたからこそ身についたことだと思いますが、マロニエ君の知るかぎりでも、ヨーロッパ人はちょっとしたものから料理、日常の諸々のことまで、「あなたはどう思う?」「あなたは何が好き?」と意見を求めてくることがとても多いし、自分の意見を語るのが当たり前。

その真逆が日本人。
考えがあっても、感じることがあっても、意見を言いたくても、空気を読んで口をつぐむことが慎ましさであり美徳で、今ではそれが大人の常識として浸透してしまっているその感覚。
自分の意見は言わない、言える環境がない、言ったら浮いた存在になる、これは日本生まれ日本育ちの日本人であるマロニエ君から見ても違和感があり、ほとんど病的な感じがします。

そんな社会の延長線上にあるのだろうとは思うけれど、それは思わぬところにまで波及しています。
それはいうまでもなく、プロの分野。
ここでも、個人の意見や感想は、その暗黙の空気感によって見事に封殺され、それらは口にしないことが当然で、演奏家に対しても本音は隠して、「素晴らしかった」などヘラヘラと表面的な賛辞を挨拶として述べるのみ。

少なくともプロの芸術家の端くれともなれば、自分の作品やパフォーマンスに対する意見を聞きたいと思うのは当然というか、文化に携わる者はそれを欲することがほとんど「本能」の筈だと思うのですが、それが日本ではそうじゃないことに、いまだに驚きます。
かつて、日本人の演奏家から「どうでしたか?」という質問をされり「あなたの意見を聞かせてほしい」といった言葉を聞いたことは一度もありません。
これって、実はめちゃめちゃおかしいことではないですか?

いやしくもプロとしてステージで演奏するというパフォーマンスをやっておきながら、聴いた人にまったく意見を求めない、むしろ聞きたくないという気配があり、非常に歪んだ感覚で、これは異常なことだと断じざるを得ません。

そもそも感想というのはただの賞賛でも批判でもなく、どういうふうに受け止められたかということでもあるし、自分の演奏上の長所短所を知ることにも繋がります。いわば自分の演奏に関する重要な情報源です。

そこに耳を貸そうともせず、興味もなく、むしろフタをしようというのであれば、そもそもなんのために人前で演奏行為に及ぶのか、その根本がわからなくなります。
ただ、目立ちたいだけ?自慢?実績作り?

音楽が間違いなく行き詰まりを見せていることはいろいろな理由があるでしょうが、ひとつにはこのような演奏家自身の閉塞状況、真に良い演奏を目指し、音楽ファンを楽しませようという本気がないことも大きいように思います。
日本の演奏家は、意見を言われるのはイヤ。でもステージに立って賞賛はだけはされたいという、甚だ身勝手で一方的な欲求をもっているのは間違いありません。

これでは本物の演奏家など育つわけがありません。
アマチュアの発表会ならお義理の拍手だけで終わって構いませんが、プロの演奏家はもっと自分の演奏に責任をもつべきで、その責任をもつということは、もちろん良い演奏をすることではあるけれど、聴いた人の忌憚のない感想を求めなければ責任を果たしたとはいえない気がします。

聴いた人がどう感じたか、良くても悪くても、気にならないのかと思いますし、それが聞きたくないほど嫌ならば人前で演奏なんてする資格はないと思います。
それでは今どきの、親から一度も怒られたことのない子どもと同じで、聴いた人の意見を受け付けないプロは、プロではないということです。
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イケメン◯◯

昔は「美人何々」というのがよくあったけれど、最近ではどんなジャンルにも「イケメン何々」のオンパレード。

社会の建前として、人の容姿を問題にすることに対する賛否はあるでしょうが、現実には人の心の中では、それはかなり重要な要因となることは間違いないこと。
直接的なイケメンとは違うけれど、例えばその代表は総理大臣。

政治手腕や思想や、しっかりした能力がなくてはむろん困るし、リーダーとしての人間的魅力も必要ですが、要は国の顔であり、国際社会で世界の目にさらされて仕事をするのですから、やはりビジュアルというのは大事です。
誰とは言いませんが、過去の日本の総理には、サミットに行ったり外国の首脳と並ぶだけでも恥ずかしくなるような(それだけで負けたような気になる)人が、少なくともマロニエ君の記憶でも何人もおられたので、まずその点では、安倍さんはそういう気持ちにならずにすむのはありがたい。

ただ、一般社会のいろいろな分野の、本当にどうでもいいような場合にまで、いちいちイケメン何々というのはなんなのか…と思ってしまうのも事実。
もちろん見てくれがよく魅力的であるならそれに越したことはないけれど、それも場合によりけりで、本業に直接関わりのない場合に、むやみにこれをつけるのはいかがなものかと思うことがあります。

ことろで、イケメンってなんのこと?おもに顔?それとも醸し出す雰囲気を含むトータルなもの?
マロニエ君にいわせれば、男子の場合、そこには体格もあるのではないかと思います。
どんなに立派なお顔でも、肩幅の狭い貧相なボディに大きな頭部がドカンと乗っていたのでは、あまりイケメンとは言い難い気も。
大谷選手がアメリカに行っても目を引くのは、むろんその天才的な戦力故であるのはもちろんだけれども、加えてあの日本人離れしたのびのびした体格は見るたびに感心させられ、あれを見ると一瞬でも日本人の体格コンプレックスを忘れていられるところが嬉しいです。

ところで、マロニエ君のような昭和生まれの人間から見れば、今どきのイケメンの基準というものが理解不能である場合が少なくなく、そもそもその判断は少し甘すぎやしないか、いくらなんでもおかしいんじゃないかと思うことがしばしばです。

美人の基準も源氏物語のころからすれば全然違っているらしいから、人の美醜に関するものさしは時代とともに変化して、イケメンの基準もここ数十年でかなり違ってきているのかもしれません。

それはともかく、クラシックの演奏家にいちいちそれをくっつけるのはどうなんでしょう?
不況にあえぐ音楽事務所やレコード会社が、少しでもプラスの特徴になることをアピールしたいのだとすれば、まあそこはビジネスなんだからわからなくもないけれど、でもやっぱりこの分野は演奏こそが第一であって、そこに注目のポイントがあると思うのです。
ではまったくビジュアルが無関係かといえば、それはそうではなく、演奏の素晴らしさを納得させるだけの存在感とか芸術的な雰囲気みたいなものは必要だろうと思います。
強いていうなら、オーラのようなものとでも言えばいいんでしょうか。

少なくともクラシックの演奏家に対して芸能人の延長線上的なノリで、やたらとイケメンの文字が踊るのはちょっといただけません。
少し前に書いた、ピアニストの実川風さんも「イケメンピアニスト」として紹介されましたが、たしかにこの方はそう言われても違和感はなく、いちおう納得ができました。

でも、それ以外でイケメンと言われて、え、どこが?とびっくりするような人だったり、痩せこけた不気味な植物のようだったりと、基準そのものに唖然とすることが少なくありません。

ただ、これだけははっきり言っておきたいことは、美人バイオリスニストだのイケメンピアニストだのということは、却って彼らの足を引っ張ることになりはしないかと思います。
かのアルゲリッチのような美人でさえ、美人ピアニストなどという言葉で売りだしたわけではなく、ごく若いころに「鍵盤のカラス」といわれたぐらいで、あとはあの美貌で語られることはなく、本物の天才は、美人でも美人とは言われなくて済むものだというのがわかります。
逆にちょっとぐらい容姿が良くても、それをプラス要素として強調されているうちは、演奏家として中途半端だということでしょう。
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お寺とピアノ

日本のお寺や神社で行われるクラシックコンサートは、否定しているわけではないけれど、あくまでも個人的な感覚から言わせてもらうとあまり好みではないことは以前何度か書きました。

今は何事も物珍しさや耳目を集めることが優先され、異なるジャンルを組み合わせるコラボがブームのようですが、お寺で西洋音楽のコンサートというのもそういった発想に基づくものが発祥ではないかと思います。
大半が仏教や神道である日本人が、何の抵抗もなくクリスマスやハロウィンを楽しむという世界的に見れば変わったお国柄なので、その許容量からすればこれしきのこと朝飯前なのかもしれませんが…。

ただ、西洋のクラシック音楽というものが、根っこにキリスト教が通底していることを思うと、マロニエ君としてはそれを仏教や神道の施設内で演奏してその音楽を鳴り響かせることが、理屈ではなしに抵抗があるわけです。
そもそもお寺や神社でクラシック音楽を聴いたからといって、そのどこが素晴らしいのかが素朴にわからない。
異なる文化の融合であるとか、なにかひとつでも感覚に落ちるところがあればまだしも、ひたすら違和感しか感じないのです。

それぞれが素晴らしいからといって、異質なものを安易に組み合わせることは、下手をすればどこか冒涜的な色あいを帯びる恐れさえあり、個人的には関係者だけの自己満足ではないかと思うのです。

それにつらなる話かどうかはわからないけれど、知人がとある大型ピアノ店に行ったときに聞いてきた話によると、中古のスタインウェイのコンサートグランドを購入するのは、宗教関連が少なくないのだとか。

それってどういうこと?って思いました。
お寺の本堂にスタインウェイDを置くのか、あるいは宗教家の個人的趣味なのか…。

それを解明する手がかりになるかどうかわからないけれども、お寺とピアノの組み合わせを偶然にもテレビで目にしたので、うわぁ!と思わず食い入るように見てしまいました。

某所の由緒ある由のお寺には、高台に付設された広い墓所があり、その管理室という建物に入って行くと浴室に温泉がひかれていたりするほか、そこには総檜造りというホールがあって、そのステージにはスタインウェイDとベーゼンドルファーが置かれていていました。

ここをドヤドヤと訪ねて行ったのは、名前は知りませんがテレビで顔を見たことのある4〜5人のお笑いタレントの一団で、彼らを迎えるご住職がえらく気さくで、芸人さんたちに調子を合わせながらピアノに近づき「これはドイツのスタインウェイというピアノです!」と言い出し、「プロが使うものです」さらには「これで家が一軒建ちます」などと自慢しながら、慣れない手つきで蓋を開けて、大屋根の支え棒の刺し場所もおぼつかないご様子。

もちろん安いものではないでしょうけれども、剃髪して、いちいち合掌のしぐさをする和尚さんが口にする言葉としては「家が一軒建つ」などとは大げさだし、いささか世俗臭が強すぎではないかという感じが否めませんでした。

そのピアノは1960〜1970年代のダブルキャスターになる以前の時代のもの。
塗装は新品のように塗り替えられており、その際に入れられたのか、当時のスタインウェイにはない大きなサイドロゴがついているのがいかにもな感じだし、しかもかなりまちがった低い位置に付いていて、それが却って中古ピアノといった感じを強調する結果となり、非常に「残念な感じ」に映りました。

さらにタレントさんのひとりが音を出してみて「うわー」とか言っていたけど、くたびれた弦が交換されていないのか明らかに伸びのない音で、要するに世界の二大銘器がおかれているという、ブランド性こそが大事なのかもしれません。

この墓所の横のホールでは、しばしば演奏家を招いてコンサートが開催され、その収益を貯めて某基金に寄付しているとのこと。
その際の「僅かばかりですが」という言葉が妙に意味深で、コンサートの収益そのものが僅かなのか、あるいはその中から本当に僅かばかりを寄付というのことなのか、どっちにも取れる言い方だったのが苦笑を誘いました。

結構立派なホールでしたが、もしあそこでバッハの宗教音楽なんかやろうとしたら、OKが出るんだろうか?
一流ピアノにも、実にさまざまな生涯があるんだなぁと思いました。
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本物は気持ちイイ

音楽評論はじめ、音楽関係の著述家の中にはマロニエ君がとくに好んでいる人は何人かいらっしゃいますが、そのうちの一人が青柳いづみこさん。
いまさらいうまでもなく、ピアニストと文筆業という二足のわらじを実現しておられ、しかもそれぞれにおいて高いレベルのお仕事を積み上げておられるのですから、その才には驚くばかり。

普通ならどちらか一つでもなかなか難しいことなのに、それを二つも成就させるとは!
二つの道に手を出すことは、どっちつかずになる恐れがあるいっぽう、うまく組み合わされば相乗作用が起こって、より注目を集めるということも稀にあるということが、この青柳さんの成功を見ているとわかります。

さらに青柳さんはドビュッシー研究者としても知られており、何かひとつのスペシャリストになるということは、活動の大きな背骨になるから大切なんでしょうね。
マロニエ君も青柳さんの著作は全部とは言わないまでも、それに近いぐらいはだいたいは読んでいますが、ドビュッシー研究で培われたものが随所で役立っていることを強く感じます。

研究対象であるだけに、ドビュッシーに関する造詣の深さは大変なものだし、自身がピアニストである強味から、ピアニストに関するいろいろな評論は、いま日本人でこれだけ緻密な分析力を持ち、闊達な文章に表現できる人はそうはいないだろうと思われます。
演奏と著述、そのどちらも大変素晴らしいものではあるけれど、マロニエ君の私見でいうと、著述のほうがより格上のお仕事となっているように思います。

CDも書作と同じく「全部」ではないけれど、ほぼ主要なものは購入して聴いています。
とくにドビュッシーについては青柳さんにとって半ば義務でもあるのか、ソロ・ピアノ曲はほぼ網羅されていますが、CDの演奏に関する限り、どれも信頼度が高く素敵な演奏だけれども、決定盤といえるほどの最上クラスというわけでもなく、どちらかというと曲によってムラがあるような印象があります。

一番びっくりしたのは「浮遊するワルツ」というアルバムに収められたショパンのワルツのいくつかで、これはまったくマロニエ君の理解の外にあるもので、ショパンのある意味本場であるパリのセンスからも距離を感じるもの。
とはいえ、適当にお茶を濁したような無難なだけの演奏をされるより、自分の趣味と合わなくても、びっくりさせられても、演奏者自身の感性と考えに裏付けられたものであるほうがよほどマシというもの。
合わないものは合わない、そのかわり抜群にいいものにも出会える、これが演奏芸術の醍醐味でしょう。

さて、わりに最近ですが、NHKの『らららクラシック』でドビュッシーの「子供の領分」が取り上げられたときに、ゲスト解説者兼演奏者としてスタジオにやってきたのが、この青柳いづみこさんでした。
番組の趣旨に合わせて、あまり専門性の高い解説ではなく、わかりやすく平明なお話をされていましたが、どんなに砕いて楽しくお話されても、その背後には確固たる知識と研究の裏付けがあって、当たり前ですがさすがだと思いました。

常連解説者として、よく大衆作曲家のような人(名前も覚えていません)が出てきては、やたら馴れ馴れしい口調で、さっき思いついたような根拠も疑わしい俗っぽい解説を、さも知ったような顔で述べたり、あるときはモーツァルトと自分をただ「作曲家」という言葉だけで、まるで同列のような言い方をするなど、見ているほうがいたたまれないような気持ちになることがしばしばだったこともあり、たまに青柳さんのような本物の方が出演されると、一気に番組の格も上がり、気持ちまでホッとさせられます。

子供の領分の最終曲の「ゴリウォークのケークウォーク」の中に、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲の冒頭の動機が込められており、しかもそれを茶化しているなんてことは、言われるまでまったく気づきもしないことでした。

番組の終わり近くで、スタジオのピアノでゴリウォークのケークウォークを通して弾かれましたが、少しだけリズムにクセなのか崩れなのか、細かいところまではわからないけれども、聴いていて僅かな違和感があって、それがやや首を傾げました。
おそらくフランス流にデフォルメされた、流れるような演奏を狙っておられるのだろうとは思うけれど、どこか辻褄の合っていないような後味が残るのが気になりました。
それでも、物事を極める人というのは本質的に気持ちが良いものです。
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小菅優

久しぶりにピアノリサイタルに出かけました。
小菅優ピアノリサイタルで「火」をテーマにした珍しいプログラムでした。

マロニエ君がコンサートに行かなくなった主な理由はいくつかありますが、その中には、ニュアンスなどまるで伝わらない劣悪なホールの音響、聴いてみたいと素直に思えるような演奏家の激減、さらには飽き飽きするようなプログラムはもういいというようなものも含まれています。

その点で、小菅さんは実演には接したことがないものの、ちょっと聴いてみたいと思わせるものがあったことと、FFGホールという福岡ではピアノリサイタルには最も適した会場であったこと、さらにはめったにないレーガーやストラヴィンスキーのプログラムであることでした。

コンサートは3部に分かれており、
【第1部】
チャイコフスキー:《四季》より1月「炉ばたにて」
レーガー:《暖炉のそばでみる夢》より、第3、5、7、10、12番
リスト(シュタルク編):プロメテウス
【第2部】
ドビュッシー:燃える炭火に照らされた夕べ、前奏曲集第2巻より「花火」
スクリャービン:悪魔的詩曲、詩曲「炎に向かって」
【第3部】
ファリャ:《恋は魔術師》より、きつね火の踊り、火祭の踊り
ストラヴィンスキー:バレエ《火の鳥》より6曲

小菅さんの素晴らしいところは、今どき巷にあふれているスタイル、すなわち他者の演奏スタイルの寄せ集めではなしに、あくまでもこの人の感性を通して出てくる演奏の実体があり、その意味でニセモノではない点。
これは冒頭のチャイコフスキーを聴いただけでもすぐに感じました。

くわえて抜群のリズム感とメリハリにあふれ、音楽を自分の技巧その他の理由によって停滞させることがなく、どの作品もひとつの生命体と捉えて一気呵成に弾き進んでいくところでしょうか。
それはそのあとの難曲でも遺憾なく発揮されるこのピアニストの美点でした。

どの曲においても解釈やアーティキュレーションに確信があり、恐れなくピアノに向かっているからこそ可能な燃焼感があるのが印象的で素晴らしい。
中途半端な解釈を繋ぎ合わせて、辻褄あわせや言い訳だらけのつまらないピアニストが多い中、この点は抜きん出た存在だと思います。
さらには技巧の点でも危なげない指さばきで、この日のようなしんどいプログラムでもほとんど乱れることなく、一貫してホットに弾き通せる抜群の能力があることはしっかりと確認できました。

並大抵ではない高い能力をお持ちのピアニストであることは間違いありません。

気になった点を敢えていうと、終始音楽に没入して活き活きと演奏されているけれど、悲しいかな音に重みと芯がない。
緊張感あふれる際立ったリズム感、それを支える身体の動きなどは、ほとんどアスリートに近いような抜群の運動神経があり、敏捷な小動物のように両腕と指が自在に鍵盤上を駆け巡るさまは特筆すべきものがあると思いました。
けれども、いくら小気味良く駆けまわっても音に芯がないから、音が分離して聴こえてこないことがしばしばで、せっかくリズムや呼吸がすばらしいのに明晰さが損なわれ、音楽がしっかり刻印されないまま終わってしまうのを感じました。
巻き舌の多すぎる、アメリカ人の早口の話し方のように。

小菅さんの音に関しては、小柄ながらもしっかりした体格や、ピアノのためには充分と思えるだけの肉のついた腕からすれば、意外なほどその音には期待するだけの厚みがないのは、おそらくは手が小さいことと、手首から先の骨格が柔らかすぎるのではないかと想像しました。
手首から先の(すなわち指の)関節が柔らかいと、それが無用のクッションになって、いざというときにしっかりした音の出ないピアニストはわりに最近目立ち、ラン・ランやユジャ・ワンなどもどちらかというとそのタイプだろうと思われます。

それにしても、あれだけ耳慣れない、しかも難曲ばかりをきっちりと仕上げて、暗譜でリサイタルで弾くというのは並大抵のことではない、その能力には素直に脱帽です。

惜しいのは、けっして表現は決して小さくないのに、それが聴衆にとって大きな印象へと繋がっていないところで、なぜか心に刺さりません。
堂々たる小動物とでも言えばいいのか、あとひとつふたつの問題がクリアできたら、もっと大きな存在になられるような気がしてなりませんでした。
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テンポ

テンポというものは、なにも音楽だけのものではないのは当たり前で、話し方や、行動、思考回路などすべての人間の行動原理と深く結びついているもの。

それがわかりやすく出るのが、まず話し方、あるいは仕事や作業の手順、料理の手際とか車の運転のような気がします。
さすがにマロニエ君も最近の運転は、無謀な動きの自転車など路上に怖いものがあまりに多すぎて、以前よりはぐんとスピードが落ちましたが、それでもメリハリみたいなものがないと気が済まない部分があります。

たとえばスピードには本能に直に訴えてくる魅力があり、決して暴走行為的な意味ではなく、ドライビングがもたらす痛快さにずいぶん楽しんだ時期がありました。
車に興味のない人や運転が好きではない人は、そう急がなくても何分も変わりはしないといったことを言われますが、べつに急いでいるのではなく、爽快なスピードや機敏な動きで車を操ることを楽しんでいるわけで、これはある意味で音楽と相通ずる本質を有しているように思います。

音楽にも和声の法則や導音といったものがあるように、車の動きにも「こうなったら、必ずこうなる」という法則やシーンはいくらでもあるのですが、最近の道路環境ではどうもそういうことが崩壊しつつあるように思います。
狭い道で離合する際は、その場の状況に応じて、どちらがどう動くのが最も合理的かを互いにすぐ了解しあうとか、二車線あって、前にのろのろ走る車があれば、流れの良いレーンに車線変更するのは、マロニエ君にすれば音階でシになればどうしてもドに行き着くのと同じ意味を持っていますが、そういう感覚のまったく無いらしいドライバーがここ最近かなり増えました。

あまりに周囲から浮いたような交通状況に無頓着な動きで、よほど運転に不慣れな高齢者などかと思いきや、追い抜きざまにチラッと見るとやたら若い男性が真面目な顔で運転していたりしてエエエ!と驚くことがありますが、さすがに最近はそのタイプにもだんだん慣れてはきました。

いっぽう、若い人の演奏で、テンポ感や呼吸感、センシティブな反応の欠如を感じるのは、根底にあるものがきっとこういう無反応な運転をするのと同じでは?と感じることがしばしばあります。
演奏技術は文句なく素晴らしいのに、冒険もはみ出しもなく、借り物のような表情をつけるだけで、まるで語りになっていないのは、やはり感覚や本能から湧き出るものが欠けるせいなのか。

世の中はスピード社会などというけれど、逆にやけにのんびりした人が多いのもマロニエ君にしてみれば不思議です。
やたらとスローテンポで、ひとことするのにかなり時間がかかったりするパターンも少なくない。

同時に、マロニエ君は自分ではせっかちな面があるというのも認識するところ。

メールの返信など、人によっては間に何日も置いて、忘れたころにいただくことがありますが、こういうテンポ感が苦手で、べつに急ぐ内容ではなし、むろん相手が悪いわけでは決してないのですが、自分との波長が噛み合わず、無用のストレスを感じてしまったりはしょっちゅうです。

たとえば、今度会いましょうとか食事しようとなった時も、マロニエ君はできることならすぐに日にちを決めてしまいたいし、それも基本なるべく早い時期が好ましいのですが、これがまたやたらと気の長い人がいらっしゃいます。
もちろんお互いの都合にもよるけれど、人によっては「今月は忙しいので来月の…」とか、ただちょっと食事でもしましょうというだけなのにひと月も先の予定にされる人がいて、そういうとき内心ではもうすっかり意欲が失せて、じゃいいです!と言えるものなら言いたい、そんな性格だったり。

物事には気分的にも鮮度の落ちない、ほどほどのタイミングってものがあり、昔のほうが「鉄は熱いうちに打て」だの「善は急げ」だのと、キビキビしたテンポを大事にする風潮がありましたが、今はちょっとした約束ひとつするにも、なんだか手続きがややこしくて、言葉ひとつにも妙に注意して譲り合わなくてはならず、こうなると当然ノリが悪くなってしまうのは否めません。

なので、たまに時代劇などで、江戸っ子の意味もなく短気で、毒舌で、年中青筋立てて怒っているような、ほとんど感性だけで生きているような人がいますが、その滑稽な中にもどこか懐かしさや共感を覚えてしまいます。
もうすこし生き生きできたら、世の中もずいぶん楽しいものになるだろうにという気がします。
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似合いの音

音楽評論家の故・宇野功芳氏が、著書『クラシックの聴き方』の中での山﨑浩太郎氏との対談で、バレンボイムのベートーヴェン交響曲全集について触れておられました。
「すごく褒める人もいるが、僕は全然買わない。」としていて、さらに「とくに何があるかというと何もないし、響き自体が汚い。意味がない。」と手厳しく続きます。
オケはベルリン・シュターツカペレですが、山崎氏も批判的で、要約すると「シカゴ響のような機能性の高いオケを使わず、響きを整えられないシュターツカペレのような雑然とした響きがベートヴェン的だとバレンボイムは考えている気がする。様式の模倣に過ぎず安易」というようなことを言っておられます。

とくに宇野氏の主張は、バレンボイムのピアノにもそっくりそのまま当てはまることで、マロニエ君は昔からなぜ彼があのように一定の評価を得て、第一線の演奏家として生きながらえていられるのかがまったくわかりませんでした。
お好きな方には申し訳ないけれども、何もない、響き(音)が汚い、意味がない、はピアノでもまったく同様。

上記の交響曲全集は、バレンボイムの価値がわからないマロニエ君としては、指揮なら多少マシなのか?と思って、ずいぶん前に買ってみたようなあまりはっきりしない記憶があったので、CD棚を探してみるとやはり「あった」ので、我ながらずいぶん奇特な買い物をしたもんだと呆れながら、はてさてどんなものか恐る恐るプレーヤーに入れてみました。
全部を聴く気は到底ないので、とりあえず「英雄」を鳴らしてみると、宇野氏の言われる以上にまったく真摯な姿勢の感じられない、作品の表面だけをなぞったような、やる気あるの?これを褒める人がいるの?と思うような腑抜けな演奏に仰天。
神経にもあまりよくないので、第一楽章の途中でやめてしまい、CDは再び棚の奥深くへと戻しました。

ただし、この対談の言葉の中に、ちょっと気になるものがあったのも事実。
それは「雑然とした響きがベートヴェン的…」というもので、この対談では、それがバレンボイムの選択の誤りとして述べられてはいたものの、マロニエ君としては「場合によりけりだけど、それはあるかも」という思いが頭をよぎりました。

ピアノの場合、現代の整った美音のスタインウェイで奏されるベートーヴェンは、その音楽の内容とか特有の書法に対して、あまりに整然としたスマートなトーンすぎて、なにか物足りないものが残ることも個人的には感じていました。
かといって、バックハウスのようにベーゼンドルファーを使えばいいのかといえば、そうとも思わない。
グルダは昔はベーゼンドルファーでよくベートーヴェンを弾いていたようだけれど、録音ではスタインウェイだし、シフは全集の中で曲に応じてスタインウェイとベーゼンを使い分けているし、敢えてベヒシュタインを使うピアニストもちらほらいる。

そこでふと思い出したのが、オーストラリア(オーストリアではない!)の手作りピアノメーカー、スチュアート&サンズを使ったベートーヴェンのピアノソナタ/協奏曲全集。
演奏はジェラルド・ウィレムス(ジェラール・ウィレム?)で、非常に正統的な安定した演奏ですが、注目すべきはその音色です。

久々に聴いてみたら、むろん演奏にもよるだろうけれども、概してベートーヴェンにはこういうオーガニック野菜みたいな音のほうが単純にサマになると思いました。
一聴したところはドイツピアノのような感じが色濃く、個人的な印象としては、ブリュートナーとベーゼンドルファーを合わせたような感じで、基本的には木の音がするけれど、ほわんと柔らかい音ではなく、むしろエッジの効いた鋭く切り込む感じのピアノ。
さらには、ほどよく野暮ったさが感じられる音で、都会的なスタインウェイはじめ、今どきのヤマハやファツィオリとは真逆の、自然派ピアノとでも呼びたくなる音です。

あまりに整った美音ずくしで奏でられるベートーヴェンには、どこか落ち着かないフォーマルウェアで締めつけられたようなよそよそしさがあるけれど、スチュアート&サンズで弾かれるとそういう違和感がなく、より自然にベートーヴェンの世界に入っていける心地よさがありました。

やはり人それぞれ似合いの服や家や車があるように、似合いの音というのがあるんだなぁと感じたしだい。
それにしても、バレンボイムっていったいなんだろう?

ちなみにスチュアート&サンズ(Stuart&Sons)はたしか97鍵で奥行きも290cmぐらいある手作りで木目の大型ピアノで、マロニエ君は昔、結構苦労してこのCDを手に入れましたが、今はYouTubeなどでも音を聴くことが可能になりましたので、よろしかったらどうぞ。
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楽器か道具か

ピアノは本当に素晴らしいものなのに、我々のまわりには、とかく驚くような、ピアノの素晴らしさを蹂躙するような話がたくさん転がっているのはどういうわけでしょう。

ちなみにここに取り上げるのは、主にピアノを弾く事に関する人達であって、技術者は含みません。
つまり演奏者と指導者、さらにはそれに連なる学習者ということになるでしょうか。

今回言いたい驚きの中心テーマは、自分が弾く楽器に対する異常なまでの愛のなさです。
むろん、今どきのテレビ風の言い訳をしておくなら、中にはそうではない人ももちろんおられることは言うまでもないけれど、もっぱら大多数の人、すなわち圧倒的主流派のお話です。
みなさん楽器を楽器とも思わず、管理らしい管理もせず、ぞんざいに弾きまくり酷使しまくって、それが当たり前のように平然としている人がほとんどです。

さらに驚くべきは、ピアニストや教師の中には、過去に自分は何台のピアノを弾きつぶしたなどということを得意げに語る人もいて、それのどこがエライのか?と思わざるを得ません。
ピアノという大きくて強いものを、自分はねじ伏せた、勝利した、というような気分なのか。
これはもう立派な武勇伝であり、名うての剣士が、打ち倒した敵の数を自慢しているようで、その人達にとってはもはやピアノは戦うべき敵なのかもしれません。

ピアノという楽器が、大半が孤独な鍛錬に時を費やし、技術習得の困難な楽器であるために生まれた歪んだ現象のようにも思えます。

ほかにも原因はいろいろ考えられます。
いつもいうことですが、ピアノはあの大きさと重量ゆえに持ち歩きができず、「そこにあるピアノ」をいやでも弾かなくてはならないから、どんなものでも不服に思わず弾くことを要求されるもの。

ただ、そうだとしても、だから自分の楽器はどうでもいいということにはならないのが普通だろうと思います。
自分の楽器へのこだわりと愛で培われたものが、別のピアノでの演奏においても必ず役立てられるはずで、愛がなければ、その他のさまざまな感情も表現も実を結ばない。

もうひとつ大きな原因だと思うのは、海外のことは知らないから日本国内に限っていうと、日本の大量生産ピアノが及ぼした影響。
どんなに製品として優秀で、どれほど信頼性が高くても、しょせんは機械や道具としての存在価値しか示さず、徹底して無表情なピアノに愛が生まれないのも当然といえば当然。
多くの楽器が発する「ともに歌う音楽の相棒」という擬人化の余地がないばかりか、ときにふてぶてしく憎らしく見えたりと、とうてい愛情を注ぐ対象にならないこと。

せいぜいが、それにまつわる過去の出来事や家族のことなど、思い出が彩りをくわえているだけで、そこにピアノがたまたまあったというだけ。これは、そのピアノそのものに対する愛情とは似て非なるもので、単なる思い出の小道具にすぎない。

かくいうマロニエ君にも、そういう人を非難する資格もない過去があります。
幼稚園のころから弾いたピアノは、中学生のときに一度買い換えたので、成人するまでに2台のピアノと付き合い、それはいずれもヤマハでしたが、たしかに自分のピアノに対しての愛着は自分でも驚くほどありませんでした。
次のピアノに買い換える際も、手許に残しておきたいというような気持ちは皆無で、下取りで運びだされたときはせいせいするようでしたから、車でも長く乗ると古女房みたいになってくるのに、これってなんだろうと思います。

先日も知人から間接的に聞いた話が深いため息を誘いました。

ひとりは若いピアニストで、某サロンで小さなソロコンサートがありお付き合いで行ったそうですが、その人にどんなピアノが好きかと尋ねたところ、「ピアノにはまったく興味がなく、どんなピアノでも構わない」と即答されたというのですから唖然です。
ピアニストは弾くことに忙しく、ピアノの好みなんて言ってるヒマはないよというポーズなのか、なにかの強がりなのか諦めなのか、真意は図りかねますが、なんだかやりきれない気分になってしまいます。

またあるピアノ弾きの方は、ドイツ製のヴィンテージピアノ(とても状態のいい、現役としても十分使用可能な素晴らしい楽器)を前に、ろくに弾きもせぬまま「趣味ならいいけれど、自分が弾けばたちまち壊れてしまうだろう」というコメントを残して行かれたとか。
その方は日本製の頑丈が自慢のピアノをお使いだそうですが、格闘技ではあるまいし、苦笑しか出ませんでした。
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演奏の意味

テレビ場組『恋するクラシック』でピアニストの実川風(じつかわかおる)さんがゲスト出演され、実はマロニエ君はこの方をこのとき初めて知りました。
この番組じたいが演奏をじっくり聴かせるものではないので、いつも演奏はかなり制約を受けたものになります。

このときは、ショパンの子犬のワルツとベートーヴェンのワルトシュタインの第1楽章が、スタジオのピアノで演奏されましたが、子犬はこれといって特徴のない、いかにも今どきの演奏。
ワルトシュタインは、それに比べると遥かにこの人の演奏の特徴をキャッチ出来るだけの分量と要素が見られました。
今どきの若い人の中では、ところどころにメリハリはあるし、ベートーヴェンらしい強弱もちょっとあるところは、まずはじめに感じたこと。

しかし、やはりこの世代の特徴も多く見受けられ、自分の解釈や感性を問うことより、ミスなく型通りに弾くことに演奏エネルギーの中心が置かれ、個性と呼べるまでに至っている何かはほとんど感じられませんでした。
ああまたか…と思うのは、音楽が演奏を通じて呼吸をしておらず、なにか指先の細工仕事のように曲が進み、常にせかせかした気分にさせられる点。

どんなにスピードのある演奏でも、そこに作品上の意味と高揚感が伴わなくては意味がなく、自分だけ突っ走る自転車みたいでは、ただはやく目的地に到達することだけが目的のようにしか聞こえません。
聴く側はその途中に繰り広げられる、さまざまな出来事や景色のうつりかわりを、演奏者の解釈やテンペラメントやセンスで見せてほしいもの。
こういう無機質なスタイルがなぜこれほどまでに若い人の間(というか指導者を含めて)に浸透してしまったのか、コンクール世代の後遺症なのか、情報浸けの副作用なのか、理由はともかく、せっかくの演奏能力をもっと有効に使ってほしいものだと思うし、実際なぜそうしないのか不思議です。

その対極の頂にいるのが、たとえば内田光子で、その一音足りともゆるがせにしない姿勢、品格、説得力、音楽の鼓動、そういう真に芸術たりうる演奏。こういう探求の道のあることをもっともっと深いところまで考えてほしいもんだと思います。

それでも、若いピアニストが続々と出てくるのは驚くべきことではあるけれど、どこかよく出来た大量生産のピアノのようで、音楽家としての熟成が足りないということを感じるばかり。
少なくとも、顔や名前より先に、その演奏が記憶に残るような人が出てきてほしいし、その演奏を継続して聴くため、顔と名前を覚えようとする、そういう順序であってほしいもの。

いま言っていることは、べつに実川さんだけのことではないのは言うまでもなく、彼はむしろ同世代の中ではまだ音楽的実感をもっているほうだとは思いますが、それでもまだまだ足りない。

演奏中のテロップには、今後はベートーヴェンのソナタ全曲を録音したいというようなことが文字で流れましたが(いくら時代が変わったとはいっても)ちょっとそれは口にするのが早過ぎるのではないかというのが率直なところ。

昔はベートーヴェンのソナタ全集を録音するということは、ピアニストとしてはかなり大それたことで、誰にでも許されることではなかった。
むろん技術的に弾けるかどうかの問題ではなく、作品に込められた内容を表現でき得るかどうかという、芸術家としての成熟や適性を厳しく問われました。
今では信じられないことですが、中期以降のソナタなど、そもそも女性が弾くものではないというような考えさえあって──中にはエリー・ナイのような人もいたけれど──概してそういった空気があった(それがいいとも正しいともマロニエ君はもちろん思わないけれど)という歴史的背景があったということぐらいは頭の隅に留め置いていいことだとは思います。

指揮者の世界も同様で、むかしのドイツでは中堅ぐらいの指揮者になっても、ベートーヴェンを振るチャンスなどめったになく、とりわけ第九などは一生振る機会などないと思っていたところ、日本からの招聘など外国から第九を依頼されると、本人が感激に震えたというような話も聞いた覚えがあります。

これらはいささか権威が大手を振りすぎている時代の空気のようにも思えますが、ベートーヴェンというものはそれだけ高く聳える山だということに充分な敬意をはらい、少なくとも修行時代に弾くのとは違って、プロとして録音なりコンサートで取り上げる場合は、ぜひ居住まいを正して取り組んで欲しいし、まして全曲ともなると、あまり安易に取り扱わないでほしいというのが個人的な希望です。

今は演奏の是非よりも能力が問われる時代なので、技術があって、暗譜力があれば、はいそれでステージ、はい録音という流れになるのかもしれないけれど、それって意味があるのかと思います。
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アレクサンドル・トラーゼ

たまっているクラシック倶楽部の録画から、今年トッパンホールで行われたアレクサンドル・トラーゼのリサイタルを視聴しました。
曲目はハイドンのソナタ第49番変ホ長調、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章をカデンツァを含めてトラーゼ自身が編曲したもの、さらに2台ピアノによるピアノ協奏曲第3番の第3楽章。

本来なら、この手の外国人の(わけても旧ソ連系の重量級という言うべき人の)リサイタルとあらば、すぐにでも聴いてみようとする筈ですが、このトラーゼというピアニストはあまりよくは知らないというか、ずい分前に期待を込めてゲルギエフとの共演(オケはどこだったかわすれた)でプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDを購入、ロシア人(当時はそう思っていたが、トラーゼはジョージア人)によるネイティブな演奏を期待していたところ、それはまったく当方の期待に反するものでした。

具体的にどうだったかは忘れたし、そのためにわざわざCDを探し出して確認してみようというほどの熱意もないからそれはしないけれど、とにかくちょっと変わっているというか、ピアニストの個性なのか耳に逆らう変なクセのようなものばかりが目立った、すんなり曲を聴き進むことができないことに甚だしく落胆し、たしか全曲聴かずに放置した記憶があります。

「こういう演奏を期待して買ったわけではなかったのに!」という典型のようなCDでした。

なので、どうせ自分の好みではないだろうという先入観があり、つい先延ばしになっていたのです。

トラーゼ氏は番組内でインタビューに答え、正確ではありませんが、ざっと以下のようなことを言っていました。
「最近つくづく思うが、私は演奏そのものには興味がない」
「私の心を引きつけるのは、曲に秘められたストーリーを語ることだ」
「ハイドンのソナタ(この日演奏する曲)は、恋愛関係にあった女性歌手に献呈されたもの」
などといって第2楽章などを弾いてみせる。
「(作曲家の意図やストーリーを語ることは)間違っている事もあるかもしれないが、ただ音符をならべるだけの演奏より楽しんでもらえることは確か」
〜等々、この人なりに作品に込められたものを聴く人に伝えたいということが、人一倍あるらしいことはわかります。

ただし、ではトラーゼの演奏を聴いて、それが具合よく実現できているかといえば、残念ながらマロニエ君は成功しているとは思えませんでした。

冒頭のハイドンでは表情過多で、曲が必要とする軽快さや洒脱の味わいがまったく失われているというか、もしかしたら本来の曲とは少し違ったものに変質してはいないかという疑問さえ感じます。
トラーゼのいうストーリー展開も語りも、話としてはわかるけれど、古典派には、古典派なりのスタイルというものがあって、表現はその一定の枠の中で行われるべきものと思います。
古典派に限らず、音楽には音楽独自の語法というものがあり、さまざまな要素は音楽的デフォルメをもって間接的に表現されるべきで、言葉そのもののようなあまりに生々しい直接表現はマロニエ君は好みではありません。

トラーゼの演奏は、まるで一言一句が大げさな芝居のセリフのようで、ひとつひとつに意味を被せすぎ、音楽に必要な横のラインが随所で寸断されてしまうのは賛同しかねるもので、あれをもってハイドンの言いたかったこととは、マロニエ君にはとうてい思えませんでした。

次のプロコフィエフの編曲は、やたらと長ったらしく恥ずかしいほどもったいぶった曲でしたが、ただ第2協奏曲のモチーフを散りばめた即興演奏のようでもあり、コンサートに行って現場の空気を吸いながらこれを聴かされたらそれなりの魅力があるのかもしれないけれど、テレビで冷静に見る限りでは、あまり意味の分からないものでした。

最後のプロコフィエフ、ピアノ協奏曲第3番の第3楽章は愛弟子である韓国人の女性にもう一台のピアノでオーケストラパートを弾かせての演奏でしたが、旧世代のロシア系ピアニストを彷彿とさせる炸裂するフォルテなどが多用されるものの、テンポや曲の運び、アーティキュレーションなど、いずれも鈍重で恣意的、スピードの出ない旧式な戦車みたいな印象でした。
ただ、大きな音は出せる人で、低音域のそれはたしかに迫力があり、薄くてサラサラの演奏が大手を振る現代では、溜飲の下がるような瞬間もなくはないけれど、でもやっぱりそれだけでは困るのです。

指の分離もあまり良くないのか、個々の音のキレが良くないことと、特に右手が歌わないのは終始気になるところ。
こういう演奏に触れてみると、巷で言うほど好きではないソコロフなども、やはりあれはまったく次元の異なる第一級のピアニストであることを思い知らされました。

会場はトッパンホール、ピアノは二台ともスタインウェイDでしたが、トラーゼはソロでもコンチェルトでも手前のピアノを弾きました。
キャスターの感じからして奥のピアノのほうが新しいようで、勝手な想像ですが、やはり新しい個体のほうが鳴りが不足するというか、ピアノとしてのスケールが小さいのだろうか…ともかく相対的に古いほうがトラーゼの好みに合ったのかもしれません。

実際の演奏会では、コンチェルトは全楽章、他に戦争ソナタも演奏されたようです。
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若手の問題

某音楽番組で、日本人の若いピアニストがゲストとして登場されました。

子供のころから天才と評されて、ずいぶん話題をさらった人ですが、マロニエ君に言わせると日本のピアノ教育システムが生み出した典型のような人。
それがそのまま優れたピアニストかといえばまた別で、演奏家としての特別な魅力やオーラを感じるかどうかは人によって受け取り方が違うと思いますが、マロニエ君はまったく興味がわきません。
国際コンクールでは狙い通りの結果は出せなかったようですが、最近はCDなども出て、その方なりの活躍を本格始動されているのかもしれません。

番組MCから紹介を受けてまず1曲。
その後、場所を移してこれまでの経歴を中心とするかたちで雑談をし、再びピアノの前に進んで、もう1曲弾かれました。
いずれもロマン派を代表する作曲家による、超有名曲でした。

いまさらながら思ったことは、現代の演奏家は、まず聞く人を音楽の喜びを伝え導くことが大きな使命であること、いやそれ以前に弾く人が音楽への奉仕者ということを忘れているということ。
それを考えることもなく、受験競争のように技巧の卓越と仕上げのレベルアップだけできたのでは?ということで、これは指導者にも大きな責任があると感じます。
要するに、至難な曲の技術的に見事に弾き、それで膨大なレパートリーを抱えているだけ。

これは決してこの方に限った話ではありません。
多くの若い人の演奏には、作品から真の魅力を探しだし奏でることへの使命や、言い換えると音楽に対する愛情があまり感じられず、すでにあるものを、自分の能力(技巧と暗記力)を自慢する手段として使っているだけという気がしてなりません。
早い話が、自分のセンスの投映もないし、演奏には喜びや冒険やあそびがどこにもない。

当然ながら、情的にはかなりドライといって構わないでしょう。
さらにいやになるのは、曲の流れが断ち切られてしまうほどこれみよがしの間をとったり、まったく自然さを欠いた表情のようなものをわざわざ付け加えたり、意味のない虚飾などの連続で、これでは聴く人の感銘が得られるわけがない。
そんなもので人に感銘感動を与えられるほど人の心が動くはずはなく、ただ器用な演奏処理みたいなものをどんなに見せられても、本当のファンなど生まれるはずもない。

多くの人達が聴きたいものは、演奏者が自分の感性と信念からこうだと信じているウソのない音楽であり、そのひとなりの精神世界と作品のいってみれば最も幸福なコラボ。
そういうものに裏付けられたものが、ようやく本物の演奏と呼べるものだと思うのです。
音楽は小さな曲でも音による物語や旅でなくてはいけないわけで、その物語の世界に、演奏者の才能と感性で案内してほしいわけで、べつに偏差値的な能力自慢の目撃者になりたいわけではない。

別の番組では、スタジオで4人の演奏家による、日本の音楽祭を紹介するというのがありました。
チェロの御大、ヴァイオリンのベテラン、ハープの第一人者、そして若き俊英ヴァイオリンのホープでした。

ここで感じたのは、お話をさせると、どうしようもなく年配の方々は話に恰幅があって聞いていて楽しいし、自然で、言葉選びにもお顔の表情にも余裕があります。
一瞬一瞬の気持ちや内容は言葉と一体のものとなり、ほどよい抑揚をもってスラスラとお話が続きます。ところが最も若い某氏になると、とたんに語り口は硬直し、言葉も少なく苦しげで、結局は中味のないステレオタイプのコメントで終わってしまいます。
おそらく単純な演奏技巧でいうと、彼はこの場にいる先輩方の誰にも負けるどころか、もしかしたら1番かもしれませんが、お話を通じての人間力となると、年齢以上の差が開いてしまうのを痛烈に感じました。

どんなにテクニックが上手くて、初見も暗譜もお手のもので、なんでもヒョイと弾ける能力があっても、演奏者としての魅力はそれ以外のものと合体させたものでなければ真の魅力にはなりません。
上記のピアニストにも通じる、若い人たちの抱える、もっとも重大な問題点をまざまざと見せつけられた気がしました。

テクニックが向上したのと引き換えに、生身の人間のアーティキュレーションが著しく落ちていることでしょうか。
表現したいものがたくさんあるのにテクニックがついてこないのは悲しいけれど、テクニックがあるのに表現すべきものがないことは、もっとはるかに悲しい気がします。
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ときには刺激を

とある休日、以前ピアノを通じて親しくしていた方々が、お揃いで我が家にいらっしゃいました。

中には実に数年ぶりにお会いする方もあり、懐かしい限りでした。
挨拶もそこそこに、やはりこの顔ぶれはピアノを弾いてこそということもあり、さっそく演奏が始まりますが、ひとり始まれば、次から次へと回りだし、まるでプチ発表会の様相となりました。

皆さん、ピアノを弾くことに格別の喜びを感じておられて、日々の練習を怠らず、レッスンに通い、発表会その他で人前での演奏もかなり頻繁にやっておられる方ばかり。
口々に「緊張する!」と言われますが、なかなかしっかりした演奏をされることに感心させられます。

ピアノを弾くことは、自分自身が楽しいのだから、自分一人で弾いて楽しんでいればいいというのが、趣味としてのマロニエ君の基本スタンスで、それは昔も今も変わりません。
しかし、現実にこうしてアマチュアながら人前での演奏に臨んで、緊張と喜びに身を投じつつもピアノに向かい、楽しさと真剣さが同居する様子を目の当たりにしてみると、それはそれで価値のあることだと感じたのも事実でした。

人によって、曲も違えば、弾き方も違い、同じピアノが弾き手によっていかようにも変わってくるあたり、こうした遊びの中にも気付かされるピアノの奥の深さのような気がしました。
目の前で弾かれるピアノの音に身を委ね、のんびりくつろぐのも悪くないものです。

マロニエ君は普段、自分の好きなCDを聴き散らすばかりで、これといって目的を持って練習することはありません。
せいぜい、そのときときに弾いてみたい曲の中から、技術的に自分でもなんとかなりそうなものを探しだしては、だらだらと練習の真似ごとのようなことをやるだけ。
レッスンに通っているわけでも、なにか人前で弾くという機会があるわけでもなく、こういう状況ではどうしたって練習にも身が入りません。

基本的にはそれでいいと思っており、たいして弾けもしないものを、いまさらこの歳で目標を作ってまで遮二無二やらなくちゃいけない理由はないし、身が入らないなら入らないなりに楽しんでいられれば、それでいいという考えです。

と、普段はそうなのですが、この日、何人もの方が代わる代わるにピアノに向かい、とても熱心に弾かれている様子を見ていると、自分のそんな怠惰なあり方がちょっと恥ずかしくなるようでもありました。

だからというわけでもないけれど、ただシンプルにピアノを弾くということに素直な刺激を受けたと思われますが、この日を境に、マロニエ君にしては珍しくピアノに向かう時間が長くなりました。
すると、不思議なことがいくつか起こりました。

まず、ピアノというのは弾けば弾くほど調子が上がり──とはいってもいまさら上手くなるわけではなく、要は弾くことに集中度が増していくぐらいの意味で、ありていにいえば弾けば弾くほど楽しくなってくるということでした。
これまでは、まったくピアノに触りもしない日がいくらでもあり、触っても5分ぐらいというのはごく日常でしたが、少し続けて弾きだすと、それだけ自分が曲の中に没入し、それがピアノを離れても意識として残るようになって、そうするとまた弾いて、あれこれの表現やアイデアを試したり、なにかを解決したくなったりといった衝動にかられてくる。
そういう一連の行為や気分がだんだんおもしろくなるわけです。

下手は下手なりに、音楽にこだわってくると、理想の表現を求めて繰り返し弾いてみることが(自己満足といえども)こんなに楽しいことだったことを、このところ実感として忘れていたように思いました。
それを思い出させてくれて、ピアノに向かう時間が長くなっただけでも、この訪問者の方々にはお礼を言わなければならないと思っています。

それと、当たり前かもしれませんが、弾けば弾いただけ自分なりに指がほぐれて、少しずつ自分の体がピアノと仲良くなってくように感じるのは、ほんの僅かであってもやはり嬉しいものです。
当面の目標としては、目の前にある数曲の仕上げ(仕上がらないだろうけど)と、新しい曲をいくつかものにしたい(できないだろうけど)と思っているところです。

何年ぶりかで、ピアノに集中していると1時間なんてパッと過ぎてしまう感覚を、久々に味わっています。
CDで胸のすくような素晴らしい名演に接するのもいいけれど、やはり下手でも自分の意志で楽器を鳴らすのは、他に代えがたい格別なものがあることは間違いないようです。
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その後どうなる?

最近見た、ピアノ関連のTV番組から。

Eテレ『若手ピアニストの頂上決戦〜第86回日本音楽コンクール・ドキュメント〜』と題する、同コンクールのピアノ部門に密着したNHKのドキュメント。
202人が出場する第1次予選から始まり、いきなり47人に絞られての第2次予選、さらにわずか9人となる第3次予選、本選出場は4人で競われるというもの。

よく「コンクールは第1次が最も面白い」といわれますが、まさにそれが納得という感じが垣間見られました。
音大などの学生はもちろんのこと、中には会社員で休暇をとってコンクールに出場する人もいたりと、この第1次の様子は少しでしたが、なにやらとてもおもしろそうでした。
後半に進むに従って、精鋭ばかりが残っていくけれど、同時にある程度どんなものかもわかってくるのに対し、第1次はどんな人が出てくるやら楽しいというかドキドキ感もあって、もし自分が見に行くなら絶対これだと思いました。

第1次は演奏時間も短く、わずか10分。
その演奏如何で150人以上の人達が一斉に落とされてしまいます。
ところが、なんと会場のトッパンホールの客席は審査員はどこにいるの?と思うほど超ガラガラで、一般の人の入場はできないのだろうかと思ってしまいます。
それに対し、オペラシティで行われる決勝となると大ホールは満席で、チケットは売り切れというのですから、優勝者が出る場面を見てみたいというのもわかるけど、いささか偏り過ぎというか不思議な気がしました。

1位と2位はマロニエ君も予想していた通りで、ショパンコンクールのような大コンクールでは結果に納得のいかないこともしばしばありますが、この点では思い通りで満足できました。

ただ別の感想も抱きました。
このコンクールに出場されるような方は、当然ながら相当な腕前を持っておられて、普通のシロウトが徒歩から始まってせいぜいスクーターぐらいだとすると、新幹線ぐらいの差があると思いますが、ではそれでさらに世界的なコンクールに挑んで栄冠が勝ち取れるかといえば疑問であるし、ましてプロのピアニストになれるのかといえば、それはまったく別の話で、本当の意味でのピアニストになれる人は、その新幹線に対して飛行機か、場合によってはマッハで飛ぶ戦闘機ぐらいのレベルにならなくてはいけないわけです。

そうなると、なまじ才能があって、精進して、なんでも弾けるような腕前が備わったばかりに、引くに引けない状況になることがあるはずで、多くの人達はその先どうなるのかと思いました。
中には両親も応援に来られていて「30歳まで、あと2〜3年は見守ろうと思います」というようなことを言われたりと、家族を挙げての挑戦であることがわかります。
あれだけ弾けるようになるためには、どれだけの努力があったかを思うと胸が痛くなりました。


題名のない音楽会では『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』と銘打った、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
ソリストは、ショパンやチャイコフスキーで2位になったルーカス・ゲニューシャスで、マロニエ君にはまったく好みの合わない演奏。

やけに含みをもったような、さも自信ありげな弾きっぷりでしたが、テンポは遅く、躍動は断ち切られ、フォルテッシモを期待するところがヒュッと弱音になったり、かなり違和感を覚える演奏でした。

外面的な効果や慣例を廃して、徹底したコントロールされた新たな解釈を提示したつもりかもしれないけれど、マロニエ君にはまったく意味不明理解不能で、なんだかヘンなものを食べさせられて胃もたれをおこすようでした。

ゲニューシャスは作曲者と同じロシア人でもあるし、たしかかの名伯楽ヴェラ・ゴルノスターエワのお孫さんでもあり、ロシアピアノ界でもいわばサラブレッドであるはずですが、それ故こういう演奏もまかり通るということなのか…。

この番組のタイトルの『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』とは、どういう意味なのか、どこでどう熱くなればいいのか最後までさっぱりわからず、ぽつんとひとり取り残されているような気分を味わいました。
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最新スタインウェイ

最新のスタインウェイDはディテールなどがいろいろ変わったようで──それも必ずしも好ましくない方向のような気配のするところが気になります。

あてもなくYouTubeを見ていると、海外でのアルゲリッチの今年のコンサートの様子がアップされていました。
珍しくソロで『子供の情景』を弾いていますが、ステージには2台ピアノが向かい合わせに置かれており、あくまで2台ピアノのコンサートの中の一部として演奏されたソロだと思われました。

使われているピアノは疑いもなくスタインウェイのDだろうと思っていたところ、どうも音の感じが違います。
とくに違いを感じたのが発音の部分とでもいいましょうか。
よく耳に馴染んだスタインウェイは、どちらかというとやや遅めに立ち上がった音がターンと伸びていく感じがありますが、このピアノははじめからやけにハキハキと反応して、滑舌の良さをことさらアピールしてくるような感じ。

はじめはよほど腕利きの技術者が、スペシャルな仕上げをしたピアノかとも思いましたが、聴いていて、どうもそれだけではないような違和感を感じました。
で、「このピアノはなんだろう?」と疑いだしてチェックしてみますが、画質がよくない上、ステージの照明も黒基調でどちらかというとダークな雰囲気。さらにカメラワークも雑で、画面はアルゲリッチが中心であれこれのアングルや遠近の変化が少ないため、こんな大事なときに、もどかしいほど確認が取れませんでした。

こうなってくると、こちらもついムキになってなんとか確証を掴んでやろうと凝視することになり、せっかくソロを弾いているアルゲリッチには申し訳ないけれど、ほとんど演奏そっちのけで、音とピアノのディテールばかりに神経を集中させました。
結果は曖昧な部分を多く残しますが、視覚的にほぼはっきりしたことは以下のとおり。

1)別メーカーのピアノの可能性も疑ったけれど、いくつかの要素からやはりスタインウェイであるし、おそらくはハンブルク製。

2)最も目についたのは、長年(ことによっては100年以上?)にわたり当たり前だったボデイサイドにあった丸いノブ(大屋根のストッパー操作用。これはCとDに装着されるもので、B以下は非装着)がなくなり、そのため大屋根側に付けられていた受け側の金色の金具もなくなっていることでした。
これは、昔からニューヨーク製にはなく、スタインウェイではハンブルク製だけの特徴でした。

3)また、ハンブルク製ではおなじみのスタイルだった、突き上げ棒(大屋根を開けたときに支える棒)のデザインもまったく変わっていました。従来は下に行くに従って途中で1段階太くなり、ボデイの付け根に近づいたところでさらに幅広になるというもので、その太くなっている中に半開用の短いスタンドが格納され、そのまた下部にさらに低くて小さなスタンドというふうに、計3種のスタンドが美しくひとつにまとめられていたのですが、これがまったく違ったデザインになり、粗い画像でなんとか確認できたところでは、ニューヨーク製の突き上げ棒に酷似した感じでした。しかも高さは2段階に減らされているようにも見えました。

4)最も確認が難しく、はっきりわからなかったのが譜面立てのデザイン。
これも従来の左右上部に正方形がくっついたようなハンブルクの長年変わらぬデザインだったものが、どうも違うものになっている印象でしたが、その形状まではついにわからず、これまでのものとは違うということだけが、かろうじてわかりました。

音については現時点で断定は避けますが、パソコンを通じての印象でいうと、軽く弾いても簡単にパァーンとブリリアントな音が出るもので、メーカーがそういう方向のピアノを作り始めたんだという印象を受けました。
一見インパクトがあり、華やかなようですが、密度感とか深み、あるいは奥行きといったものとは違った、いかにも今どきのすべてのものに通じるうわべの効果を狙ったという印象。
さも鳴っているようですが「美しい」というのとはちょっと違い、表現の幅は一気に狭まり、ピアノ本来のスタミナはむしろ減っているのではと思いました。

海外のコンクールなどで選ばれ弾いてもらうには、ライバルの台頭もあって、このように単純明快な効果を狙ったピアノ作りにギアチェンジしたのだろうかと想像を巡らせるばかり。
たぶん他社の追撃をかわすための、スタインウェイなりの戦略転換なのかもしれません。

ずい分前に、それまで「最善か無か」のスローガンを掲げて我が道を行っていたベンツが、時代の波に押し切られてトヨタから多くを学びはじめたときのような、なんともやるせない気分になりました。
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ナゾ

自室のシュベスターにちょっと意外なことが起こりました。

ある技術者の方が来られ、この日はピアノを見ていただくだけだったため、何の手も入れられなかったのですが、帰られたあとで思わぬ変化があってびっくりすることに。

というのも、マロニエ君はもともとピアノの上に物を置くのはきらいで、グランドではなにも置かないようにしていますが、自室のアップライトではさすがにそこまで徹底できず、楽譜をあれこれを約20冊ぐらい置いて、思いつくままに手を伸ばしては譜面台に置くという感じにしています。

なので、その技術者さんが見えたときは、上の蓋を開けたりできるよう楽譜類をひとまとめにして、床の一箇所に置いていました。
はじめは上を開けただけでしたが、結局は前面上部の垂直の板と、鍵盤蓋を全部とって見られることになりました。

繰り返しますが、このときは何も作業をされることなく、ただ見たり音を出したりするだけで、ネジ1つも回されたわけではなく、最後にきちんと元の状態に戻して、あとは別室で雑談を少ししてお帰りになっただけです。
ところが、そのあと、なにげなく弾いてみると、なんだかよくわからないけれどいつもとちょっと様子が違いました。
すぐわかったのは、低音セクションが普段より力強く鳴っていること。

はじめは「ん?」「なんで?」という感じだったのですが、あきらかにこれまでよりビシッと鳴っているのがわかりました。
このところ、少しずつ練習しているショパンのマズルカを弾いてみますが、やはりバスを鳴らしたときの厚みが違っていて「エエエ!?」となりました。

はじめはマロニエ君がちょっと部屋を出た間に、技術者の方がなにか技でもかけられたのか…とも思いましたが、まさか黙ってそんなことをされるとはとても思えません。
で、その技術者さんが来られる前と後では何か違っていることはないかを、急いで考えました。

見渡してみたところ、ただひとつ目についたのは楽譜。
技術者さんが帰られたあと、床においていた楽譜の束をヨイショと抱え上げて、そのままピアノの左上にドサッと載せていました。
まさかこれ?と思い、それらを右側(高音側)に置きかえて弾いてみると、なんと低音のパワーははっきりと元の鳴り方にもどりました。
まさか…こんなことがあるなんて聞いたこともないし、とくにアップライト前面の蓋とか上部なんて、いうなればただの囲いにすぎず、開閉以外に音や鳴りという点において、そんな影響があるなんて思えません。

でも、それで変わったのは事実なので、それからというもの、高さ20cmほどの楽譜の塊を、左上に置いたり真ん中においたり、床に下ろしてみたりと、ハアハアいいながらずいぶん実験しました。
ところが、それを何度もやっているうちに、はじめの変化はなくなって行きました。

来宅された技術者さんにも電話して事の顛末を伝えましたが、むろん何一つ心当たりはないばかりか、そういう事例は聞いたことがないということで、そりゃあそうだろう…あれは単なる錯覚だったのか?とも思いましたが、でも、変化したときのあの「感動」は今でもしっかりと覚えています。

それいらい変化はなく、幸いなことにパワーはあるほうで定着しているようです。
むろん、原因はなにひとつ分からずじまいのまま。
思いもよらない出来事でしたが、こういう謎めいたことも手作り楽器ならではの面白さだと思うことにしました。
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冒険のお値段

5月に某ショッピングモールのピアノ展示販売会でグランフィール装着のピアノに触れて、そのタッチ感の素晴らしさ、コントロール性の大幅アップに感激したことはすでに書きました。

アップライトピアノの小さな革命といってもいいもので、自室のシュベスターに取り付けたいのはやまやまですが、なにしろその価格は税別20万円以上で、ちょっとした中古アップライトがもう一台買えてしまうほどの金額なので、やはりちょっと迷ってしまいます。

モールに出店していた楽器店のホームページを見ると、そこの展示場に行けば再度試弾できることがわかり、もう一度試してみたいと思って電話してみたところ、折よくグランフィールを取り付けられたという技術者の方が電話に出られ、説明もしていただけるとのことで後日行ってみることになりました。

ずらりと並ぶアップライトピアノの中に、1台だけグランフィール付きがあり、おそらく展示会にあったものと思われました。
ピアノの常で、モールの広い空間と一般的な展示室では印象の異なる点こそあったものの、概して好印象であることは変わりありません。
ところが、そのとなりには瓜二つと言ってもいいほとんど同じ機種のグランフィールが「ついていない」のピアノが並んでおり、グランフィールの有無を弾き比べることができたのですが、これはこれで悪くないタッチ感があり、その差は価格相応とまでは言えない気がしてきました。

ここで考慮すべきは、ピアノのタッチのように微妙なところがものをいう場合、並んでいるピアノを弾き比べることは必ずしもプラスばかりとは限らず、却って判断が乱れてわかりにくくなることがあることです。
そもそもタッチ感というのはある程度の時間をかけて弾いたときに、わずかなことが積もり積もって大きな違いとなって出てくることがあり、やたらあれこれ触ったりするだけで、簡単に結論を出せるようなものでもないようです。
例えば椅子などもそうですが、ショールームや売り場でいくら掛け比べしても、真の評価が下せるのは購入して何時間も何日も使ったときに判明するものだったりするように。

それだけグランフィールは奥の深い機構であることも事実でしょう。

付ければたぶん弾くのが数倍楽しくなると思いますし、中にはこれならグランドは要らないという人もいるかも。
とくにアップライト特有のあの上品とはいえないアバウトなタッチと、デリカシーに欠ける発音が好みでない人にとっては、目からウロコでしょう。
ピアノを弾く楽しさや気持ちよさが上乗せされることや、グランドへの買い替えと比較すれば安いという考えも成り立ちますが、現実の施工内容と価格を考えると、その判断はまさに人それぞれの価値観しだいというところ。

そもそもアップライトピアノというものは、ほんらい横が自然であるべきものを縦にするにあたり、無理を重ねた妥協の産物なので、生まれながらに構造上の欠陥があると思います。
早くから改良の余地のない完成形にまで行き着いたグランドアクションに対し、アップライトのそれは、改良できるのもならどしどしやってほしいところで、グランフィールはアップライトのアクションの欠陥や制約を補うアシスト機能といってもいいのかもしれません。

アップライトのアクションにはダブルエスケープメントがないせいか、なにかというとグランドに比べて連打性能のことばかりが強調されますが、マロニエ君はそんな超高速連打などあまりできないし、そこにはとくだんの不自由は感じていません。
それより大きく問題としたいのは、弱音域のコントロール性や、軽やかな装飾音の入れやすさ、音色の微妙な濃淡とか表情付けに対するセンシティブな反応であって、これらは場合によっては音よりも重視するところなのですが、アップライトではついワッと大きな音になったり、ベチャッとした音質になったり、音色変化に対する反応やコントロールの幅が狭いことには不満を感じます。

グランフィールはその点で、アップライト特有のクセや不自然さがかなり消えて、弾く人のイメージそのままに自在なコントロールが可能なタッチになっていることは、驚くべき画期的な発明だと思います。

ただし、今回わかった最も重要なことは、あくまで元になるピアノのタッチが基本となるので、グランフィールを取り付けるといっても、それぞれのピアノの状態からのスタートとなり、装着後の効果も各ピアノによって異なるということ。
その点でいうと、ヤマハは音に関してはいろいろな好みや評価があるものの、アクションのクオリティに関してはやっぱり一流だと思います。

その一流の上に取り付けられたグランフィールの効果が、どのピアノにもあてはまるものではなく、各メーカーの各ピアノによっても結果に差がでるのは当然といえば当然で、ここは見落としてはならないところ。
ただ、そうなると自分のピアノで結果がどうなるかは付けてみないとわからないということになり、一定の冒険心と覚悟は必要で、それにはやっぱりこのお値段は気軽に踏み出せるものではありません。
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スペシャル?

ネットなどを見ていると、技術者が仕上げたカスタムピアノとかスペシャル仕様というようなピアノがたまに目に止まりますが、これってどうなんでしょう?

外観に関することもあるかとは思いますが、ここでいいたいのは中古ピアノを商品として仕上げたりリニューアルする際に、弦やハンマーなどを純正ではない輸入物のブランド品に交換して、独自の調整を施すことでオリジナルよりもワンランク上の音を目指したというもの。
なるほどという気もしないではないけど、本当に言うほどの効果があるものでしょうか?

マロニエ君も過去に何度かそのたぐいのピアノに触れたことはありますが、おー!と思ったようなことは実は一度もありません。
そもそもその前の状態を知らないし、オーバーホールが必要なほど消耗品類がダメになっているピアノの場合、それらを新しいものに交換しただけでも見違えるようになるはず。
本当にスペシャルと言えるほどの違いがあるのかどうかを確認するためには、新しめのピアノでパーツ交換をしてみることだと思いますが、普通そんなことはしませんから、要するにどの程度の差があるか本当のところはよくわからないというのが実感です。

ハンマーなどは、メーカーによる個性や特徴もあるとは思いますが、それよりも等級というか品質のほうが重要ではないかと思います。
同じメーカーでも安いものから高級品まであり、大事なのはそれぞれのハンマーの品質。

中にはありふれた国産の量産ピアノにレンナーのハンマーを付け、ややダイヤモンド型に整形するだけして「スタインウェイ仕様のハンマー装着」などと書かれ、きっちり手を入れているから実質は世界の名品並みのように変身させているといったような記述を見ることがあります。

もちろんどんなピアノでも使うハンマーは良いものであるのに越したことはないでしょう。
ただ、ピアノの音や性格の根本となるのは当然のことながら設計であり、これで大方の良し悪しや方向性など個性が決まってしまうと思われます。
日本の伝説的なピアノ職人である大橋幡岩氏は、設計図を描いたらそのピアノの音が聴こえてくるとまで言っておられるほど。

設計による根本の器や性格が決まっているピアノに、後からどんなに良質の弦やハンマーを奢ってみたところで、しょせんは気休め程度の変化に留まるのでは?とマロニエ君は思うのです。

いつも書いているように、ピアノを生かすも殺すも技術者と管理しだいという基本は変わりませんが、それは、あくまでピアノが生まれ持っている能力を最良の状態で引き出すということであって、設計そのものの話とは次元が異なります。
設計如何によって各々のピアノ個性や音色や能力は決まるので、ここがやはり楽器としての根本であり、どんなに優秀な技術者であろうとも、設計を凌駕するような魔法みたいなことができるわけでもない。

それほど設計というのは動かしがたいピアノの潜在力と性格を決するものだと思います。
同じ設計の中で、違いが出せる要素は厳密にはいろいろあると思われますが、もっともわかりやすいところでは響板ではないかと思いますし、フレームの鋳造方法などもあるのかも。

響板の良否というのはかなり影響があると思われ、良質な木材を天然乾燥したものと、普及品を人工乾燥したものでは、同じ設計でもかなり音や響きの差がでるのは間違いないと思います。
いい響板だと音に色艶や深味がでるし、伸びがあって柔らか、ボリュームも出ますが、響板の質が劣ると音が人工的で鳴りが痩せていき、スケールの小さい楽器になってしまうのではないかと思います。

ただし、マロニエ君の拙い経験でいうと、基本的な音色や音の性格は、それでも設計に拠るところが大きいのか、材料の質が落ちても、ピアノ全体としての性格や音の傾向みたいなものはあまり変わらない気がします。

同じピアニストが軽くリハーサルで弾いたときと、本番で真剣に弾いた時の差ぐらいで、まあそれも大きな違いといえばそうなんですが、すくなくとも別人が弾くほどの差にはならず、根底は同じところから出てくるものということです。

車でいうと、タイヤやダンパーをちょっと別メーカーのいいものに交換しても、その差はなるほどあるにはあるけれど全体が変わるわけではなく、言ってしまえば自己満足レベルを大きく出ることはないのです。
すくなくとも、腕利きのメカニックがパーツ交換して高度なセッティングをすれば一定の好ましい変化が起こる場合はありますが、だからといって価格が何倍もする高級車並とかポルシェと同等なんてことには、絶対になりません。

ピアノはわかりにくいものだけに、専門家の意見を鵜呑みにしがちですが、それだけに気をつけたほうがいいかもしれませんね。中には技術者自身が素晴らしい良くなったと信じ込んでいるケースもあるので、こうなると判断はいよいよ困難を極めます。
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映画の開始時間

久しぶりに映画館を訪れて感じたこと。

マロニエ君は映画は普通に好きですが、かといって新作にアンテナを立てて公開中の作品をわざわざ見に行くほどの熱はありません。
よってふだんは映画館はまず行きませんので、『羊と鋼の森』を見るために久しぶりに映画館を訪れ、そのときにいろいろと感じるところがあり書くことに。

行ったのはショッピングモール内にあるシネマですが、入場券の購入方法も販売機の液晶画面を迷いながら見て、映画のタイトルや時間、人数、支払い方法などを順次押していくシステムで、こちらは映画を見に来たのに、機械相手に無事にチケットを買えるかどうか、いきなり試されてるようでもあり、終始だれとも口をきくことはありません。
つくづくと、今の世の中はこうして人と関わることが徹底して排除され、相手にするのはいつも液晶画面でありシステムであることを痛感させられます。

上映時間はむろん予めネットで調べてあったし、この発券機でも同じ時間が表示されています。

入り口のソファーで待っていると、各映画の上映時間が近づくたびに上映される部屋の番号と、どれが入場できる時間になったかということがアナウンスされます。
それにしたがってこちらも入場。

ところが、シートに着席して暗いスクリーンに灯が入ると、まずはコマーシャル、上映にあたっての注意などがくどいほど流され、それからというもの延々と洋画・邦画の各予告編や飲食店の宣伝などがいつ果てるともなく続き、目指す本編が始まったのは、本来告知されていた時間を20分もオーバーしており、これにはさすがに憤慨しました。

今どきのことなので、多少の宣伝や予告編があるのはわかるけれど、20分はあんまりです。
こちらはそこに出向いて、お金を払って、見たい映画を見るために来ているわけで、興味もないものを容赦ない大音響とともに延々と見せられることの苦痛はかなりのものでした。

これは映画館をよく知る人にとっては普通のことかもしれないし、慣れていればそれを見越した行動が取れるのかもしれませんが、たまに行くほうはそんなことは知らないし、何時と書かれていれば素直にその通りに受け止めるわけで、実際の上映開始がその20分も後になるなど考えもしませんでした。
同時にこれは、いささか問題ではないかと思いました。

もちろん、コマーシャルや予告編が悪いとまで言う気はないし、特に予告編に関してはそれを今後の参考にされる方も多いかとは思いますから、それはそれで否定するつもりもありません。
ただ、事前情報として、広告を含む上映開始は何時、本編開始は何時ということはもう少し明確にすべきで、今はやりの言葉で言うなら「正しい情報開示が必要」ではないかと思います。

なぜなら、広告や予告編を見るか見ないかは個人の意思によって決められるべきで、そこには選択の自由があり、本編直前に会場入りし、その映画だけを見たいという意向の人もいるわけです。
しかも鑑賞にあたっては定められた料金を払っているのですから、無料垂れ流しのテレビのコマーシャルとは本質的に違うし、ましてそれが断りもなく一方的に20分というのはマロニエ君にとってはまさに拷問に等しいものでした。

こんなことは映画だけであって、コンサートなどは何時開場、何時開演とあれば、当然そのようになっているわけで、開演時間になったらそのホールの今後のコンサートの予定などが延々と紹介されるなんてことはありません。
スポーツ観戦などはほとんどしたことはないけれど、試合開始何時とされながら、その時間になったら、別の競技の宣伝や近くのレストランの紹介などが延々20分もされたら、きっと観客は怒り出すのではないでしょうか。

これは映画だけの悪しき慣習だと言わざるを得ません。
ただ単に、予告編開始何時、本編開始何時、と明記しておいて、予告編が見たい人はその時間に合わせて行けばいいだけの話だと思うのですが。
この点に関しては、まったく罠にはめられたような印象で、その20分のおかげですっかり疲れてしまって、本編の開始時に新鮮な気持ちでスクリーンに相対することができなかったのは、すこぶる不愉快でまんまと騙された気分でした。
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『羊と鋼の森』

話題の映画『羊と鋼の森』、そろそろ終わる頃かと思って観てきました。

この作品、とりわけ調律師さんたちには好評のようで、中には普段映画館などまったく行かないような方までわざわざ足を運ばれていますし、しかも一様に好印象(中には絶賛)を得ているようです。
本業の方々からこれだけ評価されるということは、専門的側面だけでも成功といえるのではないかと思います。

マロニエ君は混雑を嫌って、夜の最終回に行ったところ、優に100人以上は入りそうなシアターに観客はわずか5人という貸し切り状態でした。

全体の印象としては、あの原作を映画にすれば概ねこういうことになるのだろうというもの。
調律師という仕事はピアノ芸術の根底を支える崇高なものでありながら、この職業がときおり出くわす理不尽、正しく評価され理解されることが稀な、孤独と誠実の交錯、ときどき訪れるほのかな喜び、そしてまた厳しい現実へと引き戻される様をよく表していたように思います。

個人的な映画の好みでいうと、ぽつんぽつんとしか台詞のない心情描写風の仕立ては、あまり得意ではありませんでしたが、ピアノ好きとしては見逃せないものだから、いちおう楽しむことはできました。
ただ、映画は読書と違って、2時間の中で役者を動かして表現するもので、映画としての構成やテンポが重要なファクターとなり、いったん始まれば監督はじめ作り手の運転するバスに乗せられることになり、その運びや見せ方が見る側の波長や感性に合うかどうか、それにつきるような気がします。

驚いたのは、リアリティの追求なのか映像上の演出なのか、とにかく画面がストレスになるほど暗く、これには閉口しました。
ビデオにでもなったら違うのか、それともあの暗さやピントの甘さは意図されたものなのか、いずれにしろ普段からテレビやパソコンで明るく鮮明な画面に慣らされている身には、この暗さはきつかった。

暗いといえば、それが良かった部分もありました。
調律師達が所属する楽器店の様子で、誇張して云えばニューヨークの下町みたいなレンガ造りで、相当の年月を経てきたらしい建物。通りから数段上がったところに入口があって、中は暗いけれど重厚な空気が漂っていて、いろいろなピアノが無造作に置かれているあの雰囲気はいいなぁと思いました。
できることならピアノはあのような店で取り扱ってほしいもので、今どきのやたら明るくモダンな展示スペース、ガラスと照明でピカピカした店舗などはまるでブティックか車のショールームみたいで文化のかけらもなく、ピアノを見る場所としては本質的に似合っていないと思うのです。
映画の中のあの店は、ある意味、マロニエ君のピアノ店はこうあってほしいという、ひとつの理想に近いものでした。

また、制作の裏事情は知らないけれど、いち鑑賞者としての率直な印象としては、出てくるピアノのどれもこれもがYAMAHA一色であったのはあまりにも不自然で、唯一の例外は外国人ピアニストのコンサートで「我々が触れられないピアノ」としてほんのちょっと出てきたホールのピアノだけ。

まるで日本で普通に使われているピアノはヤマハのみ!といわんばかりで、これはちょっとやり過ぎというか、カワイ系の人達は見ていて愉快ではないだろうと思いました。上記のように調律師の世界や画面の暗さなど、かなりのリアルさに迫っているように見せながら、出てくるピアノはすべてこの一社に統一というのはいかにも仕組まれた印象が拭えず、スクリーンの中にまでトップ企業の抗えないパワーが介入しているようでした。

そのいっぽう、いくつかの音の中には、ヤマハの音の魅力みたいなものを感じる瞬間があり、インパクトのある強めのアタック音からでてくる直線的で生々しい音は、これまであまり意識しなかったヤマハの良さかもしれないという新鮮さがありました。
もちろん映画の音声は別撮りであるのは常識で、よほど入念に調整され、更には電子技術で化粧された特別な音かもしれませんが。

意外だったのは、グランドに関して言えばヤマハの相当古い時代のピアノが多く、比較的新しかったのは姉妹の自宅のピアノのみで、これもまたリアリティなのか。

リアリティで忘れてはならないのは調律師役の俳優陣の職人的なこまかい動き。
みなさんこの映画のために特別な訓練をされたものと見え、かなり忠実に調律師の所作ができているのは驚きでした。とくに主役の山崎賢人さんと三浦友和さんは、調律師特有のいろんな手つき手さばき、ちょっとした視線の向け方、さらには彼らが漂わせる独特の雰囲気までよく研究されていて、それを演技の中で自然に表現できるとは、俳優というのは大したものだなぁと感心させられました。

いずれにしろ、きわめて珍しい映画であったことは間違いありません。
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弱音での調律

先日、自室のシュベスターで診て欲しいところがあり調律師さんに連絡していたら、出先からの帰りで時間ができたからといって、思ったより数日早く来宅していただきました。

診て欲しかったのは、止音がやや不完全なためにダンパーがかかった後にもわずかに響きが残るというもの。
グランドは上から下にダンパーが降りるので、物理的法則にも適っており、比較的問題が少ないようですが、アップライトでは縦についたダンパーが、縦に張られた弦の振動を止めるために、構造上どうしても無理があり、メーカーを問わずよくある事の由。
これに関しては対策を考えることになり、結論も出ていないので今回は書きません。

ひととおり診た後、ありがたいことに中音域から次高音にかけて手直し程度の軽い調律を自発的にしてくださいました。
ちょっと乱れを整えるという感じで、ずっと会話しながらで、時間的にもそう長いものではありませんでした。

ところがあとでびっくり。
帰られた後、弾いてみるとこれがもうかつてないような、少なくともこのピアノでは初めての、甘くて深みと透明感のある、いつまでも弾いていたいようなとろとろの音になっていたのです。

大袈裟にいうと、ただ指を動かすだけでピアノが勝手に歌ってくれるようで、これには参りました。
いらい数日が経ち、ややその輝きも薄らいできた感じがゼロではないけれど、まだまだその気配は十分残しています。

このピアノを診てくださっている調律師さんは、非常に拘りが強くて丁寧な仕事をされる方ですが、コンサートの仕事をされるだけあって調律にもいろいろなバージョンややり方をお持ちの様子。
ただ、いつもきちんとした調律されるときは、それなりの時間をかけ、調律時に出す音もわりと強めで、基本的にはタッチはフォルテを基調とした調律をされていました。

しかしこのときは、あくまで整え程度だっために、さほど気合も入っていなかったのか、タッチもごく普通のどちらかというとやわらかめでの調律でした。

マロニエ君は、実は、それが良かったのではないかと思っています。
以前、ネットで見た記憶があるのですが、某輸入ピアノのディーラーの調律研修会で、調律というものは突き詰めると、調律時に出す音の強弱やタッチによって結果が大きく変わるということで、調律師はチューニングハンマーだけを回し、音出しは他の人がやるという実験をやっていて、その音の出し方、あるいは別の人が音をだすことで、同じ人でも仕上がりに差がでるというものでした。

それを裏付けるように、某メーカー出身で、ヨーロッパの支店やコンクールの経験の長い技術者の方は、調律時にはpかmpぐらいの小さな音で調律され、フォルテは一瞬たりとも出されません。
はじめは驚き、それで大丈夫だろうかと思いましたが、それで実に見事な美しい調律が出来上がり、この方の調律によるリサイタルも何度か聴きましたが、fffでの破綻もないどころか、平均的なコンサート調律よりむしろ均一感があって、いずれもたいへん見事なものでした。

この方曰く「調律は、そのピアノのもっとも繊細で美しい音によって行うべきもので、可能なら弾く人に音を出してもらいながら調律できるなら、本当はそれがベストだと自分は思う」と言われたのに驚いたものです。

シュベスターがかつてないような美音を出したことが、この時の調律の音の強さにあったのかどうか、確たることはわかりません。
ただ、fやffで調律する人は、それによって破綻しない安定した結果が得られると思っておられるのかもしれないし、実際調律を学ぶ際のセオリーとしてどうなのかは知りませんが、こういうことが起こったということはひとつの事実だと思うのです。

ちなみに電話して、特別なことをされたのかどうか質問してみましたが、それは一切していないとのことで、電話の向こうの調律師さんはこちらが喜んでいるのでそれはよかったという感じでしたが、意外な展開にきょとんとされている感じでした。
マロニエ君があまりワアワアいうものだから、少しは小さい音での調律に興味を感じられたのか、あるいはただご希望通りにということなのか、そこはわかりませんが「じゃあ、今度はそれでやってみましょうか?」と言われましたので、次はぜひそのようにお願いするつもりです。
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再録願望

クラシック倶楽部の放送で、最近のエリザベト・レオンスカヤの演奏に好印象をもったので、機会があればシューベルトなどを聴いてみたいと書いていましたが、そんな折も折、CD店を覗いているとまるでこちらの意向を察してくれたかのように、彼女のシューベルトのBOXセットがワゴンのセール品の中に紛れ込んでいるのを発見して即購入。

WARNER CLASSICSによる6枚組で、2種の4つの即興曲、後期をすべて含む7つのソナタ、さすらい人幻想曲、ピアノ五重奏「ます」というもので、まあまあ主要な作品は押さえられている感じです。
しかも、価格は(正確に忘れましたが)たしか千円代前半ぐらいの、買う側にとっては大変ありがたい反面、演奏者には申し訳ないような破格値でした。

内容はやはり誠実一途な演奏で、どれを聴いても一貫した節度と厳しさと信頼感にあふれており、レオンスカヤのピアニストとしての良識・見識は疑いのないものでした。
ただ、どれもまだ現在にくらべると若い頃の演奏で、録音年を確認したところ1985年〜1997年の演奏で、一番新しいものでも21年、古いものは33年前の演奏ということになります。
もちろんそれでも満足の行くものではありましたが、最近のような表現の幅と自由さみたいなものは少なめで、やや硬い感じもあり、あえて欲をいわせてもらうなら、もうすこし力を抜いた微笑みがほしいというのはありました。

以前からマロニエ君はこのレオンスカヤの真面目一筋みたいな臭いの強すぎる演奏が苦手でしたが、当然ながらそれは曲にもよるわけで、シューベルトにはその折り目正しい演奏スタイルが向いていて、彼女のいい面がストレートに反映できる作品だったといえるでしょう。

そういえば吉田秀和氏が、ある著書の中でホロヴィッツのシューベルトに触れていたのを思い出します。
タイトルも忘れたし、うろ覚えですが、おおよその意味はホロヴィッツが弾くシューベルトを「あまりに作為的、香水がききすぎた感じ」という感じに表現し、「自分はもっとやさしみのある、正確さをもったシューベルトのほうが好み」といったようなことが書かれていたよう記憶しています。

これはまったく同感で、シューベルトというのはやっぱりそういう端正な演奏を好む音楽だと思うし、これをあまりに好き勝手にやられるとシューベルトの世界が崩れてしまいます。
かといって、あまりに細かい意味付けとハイクオリティをやり過ぎたのが内田光子で、全方位に意識を張りつめすぎた結果、聴くほうも強烈な疲労感に襲われ、最後は酸欠状態になりそうでした。

レオンスカヤにはそんな緊迫性はありませんが、もう少し丸く自由になっていただけたらいいと思われ、できることなら今のレオンスカヤにシューベルトの主要作品だけは再録してほしいと強く思います。

再録といえば、やはり評論家の宇野功芳氏は内田光子にモーツァルトのピアノソナタを再録してほしいと書かれていて、これまた激しく同感ですが、どうもその予定はないのだとか。

このように再録してほしいピアニストと作品の組み合わせはいくつかあるのに、なかなかそうはならない一方で、もういいよ!と思うようなものを、しつこく何度も入れる懲りない人もいたりで、どうも聴き手の要求と現実は噛み合っているとは言い難い気がします。
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カテゴリー: CD | タグ:

映画と特集と名簿

宮下奈都原作の『羊と鋼の森』が映画化されたことで、最近は何かとこれが宣伝されていますね。

マロニエ君は本が出てすぐに読みましたが、自分がピアノ好きで調律にも興味を持っているからこそ、まあそれなりに読めましたが、あの内容が一般人ウケするとは思えなかったし、まして映画化されてこれほど話題になるなんて、まるで想像もしていませんでした。

映画化どころか、もし自分が小説家だったら、ピアノ調律師の話なんか書いても誰も興味を示さないだろうというところへ行き着いて書かないと思うのですが、近ごろはマンガの『ピアノのムシ』みたいなものもあるし、何がウケるのかさっぱりわかりません。

もしかすると、小説も漫画も映画も、ありきたりな題材ではもはや注目を浴びないので、たとえ専門性が高くても、これまでだれも手を付けてこなかったジャンルに触れてみせることで世間の耳目を集めるということで、ピアノとか調律といったものも注目されているのか…。

雑誌『ショパン』でも巻頭でこの映画『羊と鋼の森』が大きく特集され、その繋がりで調律に関する記事にもかなりページが割かれていた(ように書店では見えた)ので、普段は立ってパラパラしか見ないのに、今月号は珍しく購入してみることに。

ただ、自宅でじっくり眺めてみると、期待するほど濃い内容でもなく、巻頭グラビアでは8ページにもわたって主役を演じた山崎賢人さんのファン向けとしか思えない、同じスタジオで同じ服を着た写真ばかりが延々と続き、そのあとにあらすじ、登場人物紹介、映画の写真館などのページとなり、なにも音楽雑誌でこんなことをしなくてもと思いました。
こういう芸能情報的なページ作りを得意とする雑誌は他にいくらでもあるはずで(知らないけれど)、『ショパン』ではピアノの雑誌としての独自の専門性をもった部分にフォーカスして欲しかったと思います。

映画紹介・俳優紹介のたぐいは実に24ページにもおよび、そのあとからいよいよ調律に関する記事になりました。
しかし、それらはピアノの専門誌というにはあまりにも初歩的で表面的なことに終始しており、見れば見るほど、買ったことを少し後悔することに。

変な興味をそそったのは、特集の最後に調律師の全国組織である「日本ピアノ調律師協会(通称;ニッピ)」の会員名簿が記載されていることで、ざっと見わたしたところ2千数百名の会員が在籍しておられるようでした。

それでついでにこの協会のHPを見ましたが、何をやっている組織なのか部外者にはよくわからないものでした。
会員になるにはまず技能検定試験の合格者であることが求められ、書類審査があり、会員の推薦が必要、その上で理事会の承認を得るという手順を踏んでいくらしいことが判明。
ただ、どこぞの名門ゴルフクラブやフリーメーソンじゃあるまいし、推薦まで必要とは大仰なことで、なんだかへぇぇ…という感じです。
さらに入会金と年会費が必要で、年会費だけでも32,000円とあり、ここに名を連ねるだけでも調律師さんは毎年税金を払うみたいで大変だなぁ…と思いました。

で、単純計算でも会費だけで年間7000千万円以上(HPでは会員約3000人とあり、その場合約1億円!)の収入となりますが、今どきのことでもあり、果たしてどういった運営・運用・活動をされているんでしょうね。
少なくとも、それだけのことをクリアした人は名刺にこの組織の会員であることが書けるということなのかもしれませんが、いちピアノユーザーとして言わせてもらうと、その人の技術やセンスこそが問題であって、ニッピ会員であるかどうかなんて肩書はまったく問題じゃないし、何も肩書のない人が実は素晴らしい仕事をされることもあり、とくに重要視はしません。
むしろあまり肩書をたくさん書き並べる人は、却ってマロニエ君としては警戒しますけど。

名簿の中にマロニエ君の知る調律師さん達の名を探すと、会員である方のほうがやや多いけれど、大変なテクニシャンでありながらここに属さない方も数名おられて、そのあたりにも各人の方向性やスタンスが垣間見られるようでした。
当然ながら、真の一匹狼を貫く方はここには属さないということなんでしょう。

陶器の酒井田柿右衛門が濁し手の作品で、工房の職人さんの描いたものには「柿右衛門」の文字が入るけれど、自身が手がけた作品には逆に何も書かないこと(文字を入れなくてもわかるだろう、真似できるものではないから名を入れる必要もないという自信の表れ?)を思い出しました。

さらにその後のページでは、『羊と鋼の森』の映画の効果で調律師を志す人が増えるだろうという見立てなのか、調律師養成の学校紹介や広告が続きましたが、たしかに映画の影響というのは小さくないものがあるでしょうから、これがきっかけで調律師になろうと人生の方向を定める若者がいるのかもしれませんね。
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最後のピレシュ

Eテレのクラシック音楽館で、マリア・ジョアン・ピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/NHK交響楽団によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を視聴しました。

最近は、この番組の冒頭、N響コンマスのマロさんが番組ナビゲーターをつとめていますが、あれってどうなんでしょう。
いつも独特のぎらっとした服装で直立不動、トークも硬くこわばったようで、どことなく怖い感じがするのはマロニエ君だけなのか。
トークの専門家ではないことはわかるけど、もうすこしやわらかな語り口にならないものか…。

そのマロさんの解説によると、ピレシュは今年限りでピアニストとしての引退を表明しているんだそうで、これが最後の来日の由。

マロニエ君がピレシュの演奏に始めて接したのは、モーツァルトのソナタ全集。
たしか東京のイイノホールで収録され、DENONから発売されたLPで、これが事実上のレコードデビューみたいなものだったから、ああ、あれから早40年が経ったのかと思うと感慨もひとしおです。

さて、引退を前に演奏されたベートーヴェンの4番ですが、マロニエ君の耳がないのでしょう、残念ながらさして感銘を覚えるようなものではありませんでした。

この人は指の分離がそれほどよくないのか、演奏の滑舌が良くないし、手首から先が見るからに固そうで、それを反映してかいつも内にこもったような音になっていて、彼女の出す音にはオーラのようなものを感じません。
それと、これを言っちゃおしまいかもしれませんが、もともとさほどテクニックのある人ではなかったところへ、お歳を重ねられたこともあってか、聴いていて安心感が失われてハラハラしました。

解釈については、本来この人なりのものがあるようには思うけれど、全体に限られたテクニックが表現を阻んでしまい、きっとご本人もそのあたりはよく承知されているはず…と勝手な想像をしてしまいます。
4番は早い話がスケールとアルペジョで構成されたような、弾く側にすればあやうい曲で、正確な指さばきが一定の品位の中で駆け回ることが要求されますから、ある意味、皇帝よりきちっとしたテクニックが求められるのかもしれません。

ピレシュの音楽は全体にコンパクトかつ虚飾を排したものであり、それがときに説得力をもって心に染みることもあるけれど、もっと大きく余裕ある羽ばたきであって欲しいと感じる局面も多々あり、この4番でも、音楽的にも物理的にももっとしなやかで隅々まで気配りの行き届いた演奏を求めたくなってしまうのが偽らざるところでした。

彼女のピアノが長年描いてきたのは、毒や狂気ではなく、音楽のもつ良識の世界だから、そこにまぎれてそれほど目立たなかったのかもしれませんが、この人は意外に穏やかな人ではなく、演奏もいつもなにかにちょっと怒っているようにマロニエ君には感じられ、ディテールは繊細とはいい難いドライな面があり、必要性のない叩きつけ等が多用されるのは、この人の演奏を聴くたびに感じる不思議な部分でした。

左手の三連音のような伴奏があるところなど、わざとではないかと思うほど機械的に、無表情に奏されることがしばしばあったり、ポルタートやノンレガートなどでも、手首ごと激しく上下させてスタッカートのようにしてしまうなど、決してやわらかなものではない。
もしかしたら、これらはテクニック上の問題かも知れず、名声が力量以上のものになってしまったことに、人知れず苦しんでいたのかもしれないなどと、こう言っては失礼かもしれませんが、ついそんなことを考えさせられてしまうマロニエ君でした。

ただ、それはピレシュが音楽的心情的にドライな人というのではありません。
同じト長調ということもあってか、アンコールではベートーヴェンの6つのバガテルから第5が弾かれましたが、これは初心者でも弾ける美しい小品で、これならテクニックの心配はまったくなく、実に趣味の良い、豊かな情感をたたえた好ましい演奏になっていました。

後半には短いドキュメントも放映されて、若い人へのメッセージとして心の音を聴く、芸術を追求するといったご尤もなことを繰り返し述べていましたし、それはご本人も実際にそのように思っておられることだろうと思います。
ただ、実際の演奏が、その言葉を体現したものになっているかといえば、必ずしもそうとはいえないところがあり、そのあたりが演奏というものが常に技術の裏付けを容赦なく要求する行為であるが故の難しいところなのかもしれません。

最後に、1992年の映像でやはりピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/N響、場所もNHKホールという、ピアニスト/指揮者/オーケストラ/会場が同じで、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番の第2/3楽章が放映されましたが、26年前とあってさすがに体力気力に満ちており、こちらはずっと見事な充実感のある演奏でした。
やっぱりこうでなくちゃいけません。
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安い席

以前から非常に不思議に感じていたことのひとつ。

それはコンサートのチケットが安い方から売れていくという現象です。
誰しも出費は安い方がいいのは当然ですが、コンサートにおける最安の席というのは、本当に節約に値するのか。
大抵の場合、ステージからは最も遠く離れた場所であったり、シューボックス型のホールでは、左右いずれかの壁の上部にへばり付いたような席で、しかも音響的にも視覚的にも、どう考えても好ましいとはマロニエ君には思えません。

一般的にいえばコンサートに行くということは、生演奏に立ち合い、それを通じて演奏者の魅力や音楽にじかに触れて、音楽が目の前で紡ぎだされる現場の空気を味わい堪能することにあるのだと思います。
その目的を達成するためには、ホール内のどの席に座るかというのは非常に重要で、聴く位置によって演奏から受ける印象は相当違ったものになります。

たとえば、空席の目立つ自由席の演奏会などで、前半と後半で席を変えてみると、思った以上に印象の違いがあることに驚かされることは一度や二度ではありません。この違いは、演奏者や楽器が変わるのに匹敵するぐらいの差があるといっても過言ではないでしょう。

秀逸な音響をもつ中型以下のホールの中には、どこに座ってもそこそこの音質が楽しめるようなところもごく稀になくはありません。
しかし、多くの場合、座る位置で音響は甚だしく違います。
おしなべて最前列付近は音のバランスが悪いし、壁際であれ天井近くであれ、いわゆる空間の偏った隅っこはいい音がしません。

とりわけ大きなホールになるほど、安い席は音は遠く不鮮明で、場合によっては演奏の良し悪しも何もわからないような、ほとんど遠くの霞んだ景色を眺めるような場合のほうが多いと言ってもいいでしょう。
輪郭さえおぼつかない反射音や残響音ばかりを耳にしながら2時間近く耐えることが、果たして音楽を聴いたと言えるのかどうか。

最安の席というのはだいだいそのあたりになっています。
いうなれば、ちゃんとそれなりの理由があるから安いわけで、コストパフォーマンスは低いというべきでしょう。
それなのに安い席から売れていくというのは、マロニエ君的にはまったく不可解なのです。

たとえば飛行機などの交通手段であれば、窮屈な席でも辛抱さえすれば、目指す目的地へと移動できるという実利があり、これはなるほど安い価値があるでしょう。

でももし、映画館で安い席はピントがボケボケだったりしたなら、それで観る人はまずいないだろうと思います。
映像と違って、音は響きとピンボケの境目がわかりにくいということかもしれませんが。

マロニエ君は何度も書いたように最近コンサートは食傷気味ですが、行く以上はせめて一定の席で聴きたいものです。
少なくとも何を聴いたかよくわからないようなものにチケット代を払うのは、一番もったいないと思うのですが。
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キーシンのベートーヴェン

キーシン初のベートーヴェンのアルバムがドイツ・グラモフォンから昨年発売されましたが、今年になって購入してしばらく聴いてみました。

ドイツ・グラモフォンからは、まだ少年の頃にシューベルのさすらい人などが入ったアルバムや、カラヤンとやったチャイコフスキーの協奏曲などが出ていただけで、その後はRCAなどからリリースされていましたから、久しぶりにこのレーベルに復帰したということになるのでしょうか。

内容はソナタが第3番、第14番「月光」、第23番「熱情」、第26番「告別」、第32番の5曲と、創作主題による32の変奏曲を加えたもので、2枚組となっています。

ただしスタジオ録音ではなく、すべてライブ録音。
しかも一夜のコンサート、もしくは一連のコンサートではなく、10年間にわたるライブ音源の中からかき集めたようなもの。
本人の説明では「私にとってのライブ録音は常にスタジオ録音を上回っています。」ということもあるようで、言葉通りに受け取ればより良い演奏をCDとして残すため、本人の希望を採り入れたということになるのかもしれません。

順不同でソウル/ウィーン/ニューヨーク/アムステルダム/ヴェルヴィエ/モンペリエという具合に、すべてが別の場所で収録されたもので、こういうアルバムの作り方は、現役ピアニストとしては珍しいような気もしました。

これはこれで悪いとは思わないけれど、強いていうなら40代という体力的にも充実しきった年齢にありながら、ひとつのアルバムの中の演奏に10年もの開きがあるというのは、演奏家にはその時期の演奏というものが意識/無意識にかかわらずあるので、できるならもう少し短い期間に圧縮して欲しいという気持ちもないではありません。

その点で云うとポリーニが始めに後期のソナタを入れていらい、その後数十年間をかけてベートーヴェンのソナタ全集を作り上げたのも、あまりに演奏の時期が広がりすぎてしまった結果、全集というものの性質を備えているかどうかさえ疑問に感じました。
いっぽうで、技術と暗譜力にものをいわせて、あまりに一気に全曲録音などしてしまうのも能力自慢と作品軽視みたいで好きではないけれど、できればほどほどのまとまった期間の中で弾いて欲しいという思いがあるのも正直なところです。

そんなことを思いながら、要はスピーカーからからどんな演奏が聴こえてくるのかということに集中したいと思いました。

ピアニストにとってベートーヴェンのソナタは避けては通れぬレパートリーではあるけれど、キーシンとベートーヴェンの相性は必ずしも良くはないと個人的には感じていて、実際聴いてみても、どの曲にも常にちょっとした齟齬というか、パズルのピースがわずかに噛み合っていない感じをやはり受けてしまいました。

暑苦しいほどの壮絶な人生がそのまま作品となっているベートーヴェンと、円熟の時期にさしかかっているとはいえもともと清純無垢な天使の化身のようなキーシンの、叙情そのもののようなピアノには、本質的に相容れないものがあるように感じます。

むろんキーシンらしく、極めて用意周到で一瞬もゆるがせにしない気品あふれる美しい演奏であるのは間違いないし、演奏クオリティの高さとピアニストとしての際立った誠実さを感じるのですが、その結果として演奏があまりに完璧な陶器のようにつややかで、ピアニストと作品の間に横たわる決して合流しない溝のようなものがあることを見てしまう気がしました。

ベートーヴェン的ではない天才が、努力して作曲家に近づこうとしているけれど、それが本質的にしっくりはまらない面があるのを聴いている側は感じるのがもどかしい。

初期のものと最後のソナタではどんな違いがあるのかとも期待したのですが、少なくともマロニエ君の耳には、初期のそれがそれほど初々しくも聴こえなかったし、中期の熱情や告別も含めて、どれも同じような調子に聞こえました。
というか、こういう演奏からは、そういう聴き分けはむしろ難しくなると思われます。

それはどれを弾いてもキーシンが前に出てしまうということかもしれませんが、少なくともベートーヴェンを満喫したという気分にはなれませんでした。
個人的に一番好ましく感じたのは自作の主題による変奏曲で、キーシンらしい破綻というものを知らない嬉々としたピアニズムがここでは遺憾なく発揮されていたと思います。
あまりに深沈として大真面目になっているときより、詩情や感受性の命じるままに嬉々として弾いている時のほうが、キーシンにはずっと似合っているとマロニエ君は思います。
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OHHASHIの210型

目的もなくネットを見ていたら、大橋グランドピアノの210cmというのが出てきて、目を疑いました。

しかも、ピアノ店の商品として「販売中のピアノ」ということがさらに意外で、あまりにも思いがけないことでただもうびっくり仰天したわけです。
それは京都市伏見区のぴあの屋ドットコムというピアノ店。
そこの店主自ら動画に登場して1台1台ピアノを紹介し、音まで聴かせてくれるというもので、ピアノが好きな人ならきっと一度は見られたことがあると思われる特徴的なサイトというかお店です。

「はい、みなさんこんにちわぁ。ぴあの屋ドットコムのいしやまぁです!」というおなじみのフレーズから始まるピアノ紹介は、数をこなすうちに腕が上がったのか、もともとなのかわからないけれど、ちょっとした芸能人のようにそのしゃべりは明快でフレンドリー、まるでこちらに直に話しかけられているような手慣れたもの。
ときどき珍しいピアノが登場することがあり、石山さんの演奏で音も聴けるということもあり、ついあれこれと見てしまうことがあります。

不思議なもので、この店の動画を見ていると、まるで石山さんと知り合いであるかのような錯覚に陥ってきますから、それだけ氏の語りがお上手ということなんでしょうし、ご自分の顔を躊躇なくアップで撮影されるところも、独特の親しみにつながっているのかも。
しかも、内容は簡潔、余計なことをくどくど言わず、誰が見てもわかるように必要なことだけを手短かに、しかもたっぷり親しみを込めて話していかれ、しかも営業的な押し付けがましさがないので、まったくストレスにならないのはこの手の動画としては珍しいことでしょう。

この店のスタイルを真似て、さっそくいくつかのピアノ店でも動画で説明・演奏ということをやっているところがありますが、どれひとつとしてぴあの屋ドットコムを超えるものはなく、いかに石山さんの明るいキャラとトーク術が突出しているかがわかります。

大橋ピアノに話を戻すと、この210型はわずか16台だけが製造されたモデルだそうで、これはもうヴィンテージ・フェラーリも真っ青といった希少性ですね。
「奇跡の入荷」とありましたが、たしかにこのピアノに限ってはそれも頷ける話です。
マロニエ君もむろん現物は見たことがなく、大橋ピアノ研究所の本『父子二代のピアノ 人 技あればこそ、技 人ありてこそ』の冒頭でこの210型の前に腰掛ける晩年の大橋幡岩氏が写っている写真で一部を見たことがあったぐらいで、まさに幻のピアノでした。

それがいま目の前の画面に売り物として掲載され、いつものように動画も準備されているのですから、思いがけないところでこの幻のピアノの音を聴くことができることに思わず興奮。
はやる気持ちを抑えつつ再生ボタンを押しましたが、実際にその音を聴いてみるまでこれほどドキドキワクワクしたピアノは他になかったかもしれません。
とりわけ興味があったのは、マロニエ君自身が以前所有していたのがディアパソンの210Eですから、同じ設計者、同じサイズで、片やカワイ楽器による量産品、片や設計者自らが立ち上げた製造所で最高の材料を使って手作りされたスペシャルモデルで、果たしてその音とはどれほど違うのかというところでもありました。

果たして、その音はというと、記憶にあるディアパソンに酷似しており、自分が持っていたピアノとの違いを探すのに苦労するほどでした。
もちろんパソコンを通じての音なので、現物の響き具合とか音量などがどのぐらいのものか…というところまではわかりませんが、ただ意外にそれでも、基本となるものはわかるものです。
全体のトーンはむろんのこと、低音の一音一音それぞれの鳴り方や特徴までそっくりで、設計者が同じというのはここまで似てしまうものかと、寧ろそっちにびっくりしました。

逆にいうと、カワイは、大橋氏の設計をかなり忠実に再現していたことがわかり、その点は素直に感心してしまいました。
聞いたところではディアパソンの名前と設計を譲渡する際、大橋氏は自分の設計に忠実に制作されることを強く望まれたそうですが、その約束は見事に守られていたのだということを、この幻の大橋ピアノの音が証明しているようでした。
音だけでなく、フェルトやフレームの色も昔のディアパソンそのままで、フェルト全体はちょっとエグイぐらいの緑、その中でアグラフに近い部分や鍵盤蓋の下などところどころが赤という、まるでグッチの配色みたいなところもそのままだし、やや緑がかったフレームの金色もディアパソンと瓜二つでした。

また、ディアパソンの一本張りというのは、大橋氏が採用したものではなく、カワイ傘下に入ったあとで追加されたものと聞いていましたが、たしかに大橋ピアノは幡岩氏が自分の理想を貫いたピアノであるにもかかわらず、弦は一本張りではないことも確認できました。
マロニエ君が持っていたディアパソンも一本張りではなかったことから、あれこそ大橋氏のオリジナルスタイルだったんだといまさらのように懐かしく思えました。

強いて違いをあげるなら、音の伸びだろうと感じました。
ディアパソンと瓜二つの音ですが、その減衰の度合いはゆっくりで、さすがにこれは響板(北海道産エゾマツ)の違いがもたらすものだろうと思われました。量産品との違いが一番出るのが響板なのかもしれません。

さて、この超希少な大橋ピアノ210型のお値段は398万円とあり、それをどう見るかは意見の別れるところかもしれませんが、大橋幡岩という日本のピアノ史に燦然と輝くピアノ職人の天才が最後に自らの名を冠したピアノで、しかも総数16台というその希少性からすれば、これはもう「なんでも鑑定団級の価値」があるわけで、安いのかもしれません。
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個性は普通さ

Eテレの録画から、今年3月サントリーホールでおこなわれたオーケストラアンサンブル金沢の演奏会を視聴しました。

冒頭にプーランクのオーバードがあって、そのあとは3曲のハイドンのシンフォニーという珍しいプログラム。
オーバード(朝の歌)は舞踏協奏曲という、バレエ音楽と言っていいのかどうかしらないけれど、ピアノと小規模オーケストラとの協奏曲のようになっているちょっと風変わりな曲です。

指揮は井上道義、ピアノ独奏は反田恭平。

プーランクといえば多くのピアノ作品がある他、オーケストラ付きではピアノ協奏曲や2台のピアノのための協奏曲は有名で、昔からこのあたりのディスクを買い集めると、大抵このオーバードも含まれており、積極的に聴いたことはないものの、他を聴くと流れで耳にしていたことは何度もありました。

大半がフランス人ピアニストの演奏で、中にはグールドの映像というような珍しいものもあるにはあるけれど、いずれにしろ普段ほとんど演奏される機会はあまりない作品で、マロニエ君もこの曲を現代の演奏(の映像)としてまじまじと視聴したのは初めてだった気がします。

全体的な印象としては、とりあえずきちんと演奏されたというだけでニュアンスに乏しく、正直ちょっと退屈してしまいました。
とくにこの曲の雰囲気とか、書かれた時代背景や大戦前のフランスの匂いのようなものを感じさせるところがなく、クラシックの膨大なレパートリーの中の珍しい一曲をもってきましたというだけの距離感でとどまっているようでした。
それと、これはやはり踊りがあったほうが生きてくる音楽なのかもしれません。

反田さんはいつもながら、きれいな姿勢で、大きな手で、無理なく指や腕を使いながらシャキッとしたピアノを弾かれます。
けれども、その先にあるべき音楽表現の何かを感じるには至らないのが(アンコールのシューマン=リストの「献呈」を含めて)いつももの足りない気分にさせられるのも事実。
この方は、髪を後ろで縛って、黒縁の眼鏡をかけて、一見それが個性的であるかのようでもありますが、実はマロニエ君は逆の見方をしています。
彼のそのようなビジュアルはじめ、ちょっとした彼のしぐさとか印象などにも表れているのは、音楽の世界の外にならいくらでもいそうな、いかにも「今どきの普通の青年」というところがウケているのではないかということ。

幼少期からずっと楽器の修行に明け暮れてきた人には、たいてい独特の雰囲気があって、純粋培養というか、よく言えば繊細、ありていにいえば特殊な人達という感じが漂うのが普通ですが、反田さんにはいい意味でそれがなく、普通にどこでバイトをしても、コンビニにいても、街角でギター片手に歌っていても、すんなりサマになりそうな今どきの若者の感じがあって、そんな人がピアノを弾くときに醸し出すどこかロックな感覚がある。
もちろん、抜群にピアノが上手いことは言うまでもないけれど、ただ抜群にうまいというだけではない…とマロニエ君は思うわけです。

演奏にもその普通さが良い面に働き、かび臭い不健康なところがなく、スケボーのお兄さんがあっと驚くような高難度の技に挑んでは見事成功させるようなおどろきと爽快さが反田さんにはありますね。
変な言い方かもしれないけれど、健康な若者の新陳代謝みたいなものが曲の組み立てにも息づいていて、それが萌える新緑のような若々しさにつながっている感じ。

ただ、ピアニストとしてそれで充分なのかというと、個人的には不満もあるわけで、彼の演奏には聴く人の心にふっと染みこんでくるような語りとか滋味といったものが不足しているのは聴くたびに感じるところ。

それと、物怖じしない健康男子のイメージとは裏腹に、演奏そのものはどちらかというと冒険を排した安全運転で、ときどきメリハリあるだろ?みたいな瞬間はあるけれども、全体としては個性のない優等生といったタイプ。

演奏を技術行為としてではなく、その先のある芸術表現を聴く人に向けて提示し投げかけてみること、ここにご本人がより強い興味を持ってくれたら、この人は器は小さくなさそうだからかなりいい線いくんじゃないかと思います。
そういう意味では、彼はまだまだ技術の人という場所にいると思いますが、まだ若いし、今後の深まりを期待したいところです。
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グランフィール

ピアノがお好きな知人の方から思いがけない情報をいただきました。
福岡の某ショッピングモールに買い物に行かれたところ、イベント会場で近隣の楽器店によるピアノの展示販売会が行われており、その中にヤマハの中古アップライトにグランフィールを装着したものがあった由。
曰く、タッチはピアニッシモが出しやすかったとのこと。

グランフィールは鹿児島県の薩摩川内市にある藤井ピアノサービスのご主人が考案され、特許も取得されたものらしく、アップライトピアノの構造上やむを得ず制約を受けるタッチを、グランドピアノ並みに改善するための発明…といえばいいのでしょうか。
すでに全国のピアノ店の多くがその取り扱い(正確には取り付け)をしているあたり、どんなものか興味津々でした。

実をいうと、何年も前に藤井ピアノサービスを訪れた際、このグランフィール付きのアップライトに触れたことはあったものの、この時はこの店が保有する珍しいピアノのほうに気持ちが向いていて、アップライトのタッチにあまり熱心ではありませんでした。

しかしここ最近は自室でシュベスターのアップライトを弾くようになり、たしかにアップライトのタッチ感は良いとは言えないけれど、アップライトはこういうものだからと諦めてしまえば、それはそれで馴れていたというのが正直なところ。

そこに飛び込んできたグランフィールの情報でしたので、それはぜひ!というわけで、翌日マロニエ君もさっそくそのモールのイベント会場に赴きました。

何台も並べられたアップライトピアノ(UP)の中で1台だけグランフィールを装着したヤマハの中古UPがあり、さっそく触らせていただきましたが、予想を遥かに超えたその効果にはただもうびっくりでした。
人差し指で、単音を出しても違いの片鱗は感じたけれど、周囲を気にしながらちょっと曲を弾くと、えっ、なにこれ!?
まるでUPとは思えぬコントロール性、音色の落ち着きは圧倒的で、わずか数秒で不覚にも感動さえしてしまったのでした。

情報提供者の「ピアニッシモが出しやすい」というのは、要はコントロールが自在ということで、通常のUPの出す音がどこかもうひとつ品位や深味がないのは音そのものではなく、タッチコントロールが効いていないから、いちいち無神経な発音になっている部分が大きいということが、グランフィール付きを弾いてみることでたちまち解明できました。

UPなのにスッキリした好ましいタッチの感触を知ってしまうと、これまでのUPのタッチは常に無用な重さとクセみたいなものに邪魔されていることがいやでもわかります。とくにストロークの上のほうが重く、そのあとはストンと落ちてしまいまい、そのストンと落ちるタッチから出る音が、UP独特のあのバチャッとした表情に乏しい音なんですね。

ピアノそのものは普通のヤマハの中古UPなのに、タッチがグランド並になっただけで表現力はたちまち倍加され、ひとまわりもふたまわりも格上の、やけに落ち着いた大人っぽいピアノのようになってしまうのですから、いかにタッチがピアノとしての価値や魅力を左右しているかを思い知らされ、とても貴重な体験にもなりました。

正直言って、自分で体験してみるまではこれほどとは思っていませんでしたし、わざわざそんな費用と手間をかけるぐらいなら、スパッとグランドにしたほうがいいのでは?裏を返せばUPはしょせんUP、グランドには敵わない…という思い込みがありました。
しかし、現実にこのような好ましいタッチのUPに触れてみれば、当たり前ですがむろんそれに越したことはないのです。

タッチの変なくせがなくなり自由度が増してくると、そこから出てくる音も決して悪くはないように聞こえるし、逆を言えば、グランドだってはっきりいって貧相な安っぽい音を出すものもあれば、そんなショボいグランドよりずっと威厳のある低音なんかを出せるUPもあることを思い出しました。

ともかく、このグランフィールの効果たるやまったく衝撃的で、できればすぐにでも我がシュベスターに装着したいところです。
しかし、その価格を聞くと20万円(税抜き)からだそうで、その効果は充分わかっていてもちょっと考えてしまう金額なのも事実で、少なくともマロニエ君にとっては即決できるようなものではなく、ひとえに価格だけが足を引っ張ってしまいます。
一部の高価な外国製UPはともかく、対象の多くが国産のUPだとすると、もう1台中古ピアノが買えそうなこの価格がネックとなって、付けたいけれど断念される方が多くいらっしゃるのではないでしょうか?

UPの長所は、自分で使ってみると痛感しますが、なんといってもグランドのように場所を取らないことで、さすがのマロニエ君でも、自室にグランドを置こうなどとは思いません。
なので、スペース的にグランドは無理だけど、タッチや表現にはこだわりたいという人には、これは唯一無二の解決策であるのは間違いないようです。
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春は忍耐

春は喜ばしいものだと、心からそう思い、感じ、疑いの余地などないかのように、昔から日本人は刷り込まれています。
でも、マロニエ君はやっぱりどう贔屓目に見ても現実の春はかなり過ごしにくく、おそらくは昔の生活環境からくる刷り込みだろうと思います。

隙間風の多い日本家屋、劣悪で脆弱な暖房手段などに痛めつけられて健康を害し、心も塞ぎこんで、冬が過ぎ去るだけで喜びがあったのでしょう。
しかし現代の多くが密閉性の高い住宅と、快適なエアコンやヒーター、当たり前のような給湯システムなどの快適装置、安価で暖かな衣類など幾重にも守られて生活しているので、昔ほど冬の厳しさに身を犠牲にすることなく済むようになったのは確かでしょう。

そんな現代人にとって、むしろ春は、花粉の飛散、めまぐるしく変化する温湿度や天候など、少なくとも心身の健康に欠かせない「安定した環境」という意味では、冬に比べてずっと厳しく過酷だと思います。
とくに免疫力が低く、ストレスを抱え、自律神経などを痛めた人には、温度調節ひとつとっても春の不快感は甚大なものがあります。
車のオートエアコンも注意深く見ていると、暖房になったり冷房になったりして機械でさえも迷って定まらないんだなぁと思います。
もちろん、マロニエ君は福岡や東京を基準としているので、北海道や沖縄のことはわかりませんが。

温湿度の変化がころころ激しく上下することは、楽器のコンディションにも如実に現れて、冬場よりも今の時期のほうがピアノもやや乱れ気味ですし、人間もマロニエ君の知る限り、周りの老若男女ほぼすべての人がなんらかの体の不調を訴え、小さな子供まで不快感と闘いながら毎日を過ごしています。
だから、春は個人的にはかなり苦手なのですが、なかなかそれが表向きの声としては聞かれません。

今でも冬は悪玉、春は善玉という構図はかわらず、春の優位性は揺らがないようです。
分厚いコートが要らなくなって、桜のような派手な花が咲いて、ゴールデンウィークなどがあるからで日本だけかと思ったら、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、シューマンの交響曲でも春は大いに礼賛の対象として謳われているし、ボッティチェリの至高の名作もプリマヴェーラ(春)であったりしますから、これは洋の東西を問わないものなのか。
また世界情勢でもプラハの春やアラブの春など、体制の変化や雪解けを意味するときにも春という言葉を使いますね。

ともかく古今東西、どれだけ春を持ち上げようとも、マロニエ君はこれだけは賛同できません。
春特有の濁ったような空気とむせるような匂い、暑さと寒さが一緒くたになったみたいな気候、それに続く梅雨が終わるまでは、じっとガマンの4~5ヶ月というわけです。


某番組では、シューマンを得意と自称する女性ピアニストが登場し、詩情の欠片もないトロイメライを奏し、ゲストとして持ち上げられてきゃっきゃとおしゃべりをした後は、再びピアノに向かい、ベートーヴェンの熱情の第3楽章をお弾きになりました。
終始ふらつくテンポ、何を言いたいのかまったくわからない、なぜこの曲を弾きたいのかも、何一つ見えてこないプラスチックの食器みたいな演奏にびっくりしました。
演奏後、司会者からこの熱情を含むこの方のCDが発売されると紹介され、それならよほど弾き込みができているはずなのにと思いましたが、ともかく宣伝も兼ねてのことのようで、やはり今どきはピアノの演奏そのものより、いろんなところで幅広く行動のとれる人であることが必要ということなんでしょう。
その成果かどうかは知らないけれど、こういう変にメディア慣れしたような人が、日本で最高ランクの音大で要職についているというのですから、出るのはため息ばかり。

トロイメライで思い出しましたが、ニコライ・ルガンスキーの日本公演の様子も視聴しました。
子供の情景やショパンの舟歌やバラード第4番といったプログラムでしたが、子供の情景では作品と演奏者の息が合わずあまりいいとは思いませんでしたが、ショパン晩年の2曲では、思ったよりも悪くない演奏で、これは少し意外でした。

ただ、もともとルガンスキーというピアニストがあまり自分の趣味ではないこともあり、ほとんど期待していなかったので、それにしては予想よりもいい演奏だっただけで、では彼のショパンのCDを買うのかといえば、それはないと思います。
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ヤマハの後ろ足

福岡市の近郊に「東京インテリア」という家具の店がオープンしたというので、暇つぶしに覗いてみました。

ホームページを見ると関東以北には数多く展開しているようですが、西は少なく、愛知県以西では、大阪、神戸、さらに飛んで福岡に開店したようです。
店の外観はずいぶん地味な感じだったけれど、一歩中に入ると店内は予想を裏切るほど広大で、安価な雑貨などを見まわしながらちょっとずつ奥に進むと、次第に価格帯が上がってきて、マロニエ君はさっぱり知らないような海外ブランド専用スペースなどが次々に並んでおり、果たしてここにあるのは廉価品なのか高級品なのか、よくわからないような不思議な感じのする大型家具店でした。

それは実はどうでもよくて、広い売り場の中央を縦に大きく貫くようにして喫茶スペースが設けられており、その一角にはいかにも艶やかな黒のグランドピアノが置かれているのが目に止まりました。
ひとりでに鍵盤が上下していることから、自動演奏付きのようで、新しいヤマハのC6Xでした。
近づくといちおう音は出ていたものの、ふわふわした小さめの音で、おまけに周りはガヤガヤしていてどんな音かはまったくわからずじまい。

マロニエ君は、ヤマハのグランドの中では(Xになる前の経験ですが)C6を最も好ましく感じていたし、特に不思議なのは、C3、C5、C7はピアノとしても血縁的な繋がりみたいなものがあって、似たようなDNAを感じながら奥行きが長くなるにつれ低音などに余裕が出るという自然な並びですが、C6はその系列というか流れからちょっと外れているようで、このモデルだけいい意味での異端的な銘器といった印象がありました。

もしマロニエ君がヤマハを買うとしたら迷うことなくC6です。

ヤマハでマロニエ君が個人的にあまり好みでないと感じる要素が、C6ではずいぶん薄まって、上品で、むしろヤマハのいいところがこの1台に結集しているような印象さえありました。
見た感じも、C6はヤマハの中では大屋根のラインなども最も美しい部類だと思います。

それなのに、なぜかC6は少数派のようで、どれもだいたいC5かC7になってしまい、なかなかC6というのは目にする機会も少ないのです。なので、マロニエ君にとってはC6はヤマハのカタログモデルなのにレア物的な感覚があって、実際めったにお目にかかれません。

それがこんなオープンしたての家具店で遭遇するとは、まったくもって思いがけないことでした。

なんとなく眺めていて気がついたことは、やはり工業製品としての作りの美しさ、高品質感においてはヤマハは立派だと思います。
逆に視覚的に残念な点は、ヤマハのグランドピアノ全般に言えることですが、真横から見ると後ろの足がやや内側(つまり鍵盤寄り)に入った、なんともあいまいな位置に付いており、そのわずかな足の位置のせいで見た感じもやや不安定でもあるし、ボディが鈍重に見えてしまうことだと思いました。

その点では欧米のピアノは、知る限りほとんどが後ろ足はもっと後方ぎりぎりに寄せた位置にあるので、視覚的にも収まりがよく、伸びやかでカッコよく見えますが、ヤマハはその位置のせいでちゃぶ台の足みたいになり、せっかくのフォルムがダサくなってしまっています。

ステージで見るヤマハのコンサートグランドも、遠目にもわかるほどボテッとしていて、スマートさというか、コンサートグランド特有の優美さがありません。
バレリーナでいうと、ロシア人と日本人のような差がありますが、なにも日本製だからといって、ピアノまで日本人体型にしなくてもいいのではと、いつも非常に残念に思うところ。

その点でいうと、カワイの後ろ足は横から見ても、ヤマハほど内側に入っていないので、ずっと国際基準のフォルムだと言えるでしょう。
が、しかし、カワイは足そのものの形状がメリハリに欠けており、そっちのほうでずいぶん美しさをスポイルしていると思います。

ついでにいうと、ファツィオリやベヒシュタインはボディ形状は決して美しくはないけれど、足の位置は適切でしかもスーッと伸びているから、それでかなり救われている感じです。

おいおい、楽器は音を出すモノで見てくれなどは関係ないこと、くだらない!とする向きもあるでしょうが、マロニエ君は断じてそうは思いませんし、何であっても「見た目のデザイン」というのは決して疎かにできない、とても重要なものだと思います。

花瓶ひとつでも、ただ花が活ける機能があればいいというものではなく、その姿や微妙なバランスがとても重要であるように、ピアノも楽器としての機能性能が第一なのは言うまでもないけれど、加えて視覚的な美しさ、デザインの秀逸さは絶対に大切だと思います。

2010年、CFXの登場を皮切りに、ヤマハのグランドはディテールのデザインが大きく変わりましたが、後ろ足の位置については以前のままで、何であんな位置にこだわるのか不思議でなりません。
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趣味の焦点

連休中のはじめ、ピアノ好きの知人の方が遊びに来られました。

主にピアノにまつわる話題が多かったけれど、それ以上に普段電話やメールではできないいろいろなムダ話が落ち着いてできたのが良かったなぁと思います。
実用的なやり取りなら通信手段には事欠かない現代ですが、やはり人との交流を育むには、会ってゆっくり話をすることに勝るものはなく、これがあまりにも省略されすぎることが、人と人との関係がカラカラに乾いてしまう大きな原因ではないかと思います。

現代人は、短い連絡はしきりにするけれど、落ち着いた会話をする機会や時間が激減したことは如何ともし難いことだと思います。
これはハイテクの進歩とビジネス社会の流儀が、それではすまない領域にまで蔓延したことによる弊害でしょうか。

相手の顔を見て、あれこれおしゃべりして回り道している中に、実は最も大事なものが含まれていると感じますし、それが自然と心に沈み、後に残っていくように思います。
昔はそれが当たり前だったので、ごく普通に出来ていたことなんですけどね。

そもそも人との関わりというのは、実用的伝達さえできたら済むというものではなく、むしろ実用以外の一見無駄と思えるようなところに人間的真実の核心があると思うので、マロニエ君はどんなに時代が変わっても、そこだけはなんとか踏ん張って大切にしていきたいと思います。

せっかくなのでピアノを弾いてくださいと言っても、手を横に降ってちょっとやそっとでは弾こうとされません。
こういう遠慮がちな態度に、日本人だけのDNAにある美徳を見るようで、なにやらとても懐かしい気がしました。
ピアノをなかなか弾かれないそのことというよりも、その背後にある、日本人の心の深いところにある慎みや恥じらいなどのセンシティブな精神文化に、久しぶりに触れられたことがとても心地よいものに感じられたように思います。

とはいえ、このままではキーに一切触れることなく帰られてしまうと思ったので、強く何度も奨めた結果、苦笑しながらしぶしぶピアノの前に座ってシューベルトやドビュッシーの小品を弾かれました。

演奏というものは不思議なもので、技術の巧拙とは一切関係なく、その人の人柄はじめいろいろなものが音に乗って出てくるものです。
このとき耳にしたのは、いやな色のまったくついていない、人知れず咲いている清楚な花のような、静けさと愛情に満ちた演奏でした。
音楽がとても好きで、ピアノを弾くことがとても楽しく、それを穏やかに実践している人のぬくもりがあり、ピアノや音楽、さらには趣味というものがもたらす豊かさを再確認させられた気がします。

ピアノと見ればがんがん弾きまくるのも楽しさのひとつなのかもしれませんが、マロニエ君はやはりこういう在り方のほうが自分の好みに合っています。
弾くばかりがピアノではなく、聴くことも、知ることも、語ることも、ピアノの魅力だと思うのです。

そんな価値観を共有できる人達との交流がクラブやサークルのような形をとってできたらいいと思うのですが、それがピアノの場合は至難です。
鉄道ファンが鉄道を語るように、自動車マニアが自動車談義に興じるように、何かの蒐集家がモノや情報を持ち寄って仲間と楽しい時間を過ごすように、ピアノでも同様のことができたらと思うのですが、ピアノにはそれを阻む数多くの壁があるようです。

その壁とは何か…それはまあ書かないでおきます。
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朝ドラのピアノが

NHKの連続テレビ小説は3月で『わろてんか』が終わり、4月から『半分、青い。』が始まりました。

『わろてんか』が吉本興業の創業者を描く、明治から先の大戦後までの物語であったのに対して、『半分、青い。』はいったいどんな話なのかよくわからないまま見ていますが、いまだによくつかめない状態です。
もちろんネットで調べれば、物語の概略くらいはわかるのでしょうが、そこまでして調べようという気もないから、ただ録画したものをときどきダラダラと見ているにすぎません。

放送時間に直接は見られないので、音楽番組と同様、たいてい深夜に録画したものを視ることになりますが、あまりテレビを見ないこともあっていつも数週間ぶんたまっていて常に周回遅れが常態化しており、4月ももう終わりだというのに今回もようやく第二週に入ったあたり。

新しいシリーズの第一週というのは、いつもだいたい面白くなく、主人公も子役がつとめます。
お約束のように、主役の女の子は現実ではあり得ないほど、無制限に明るくて元気なキャラクター。
それでいて普通とはちょっと違った天然な面もありますよというおなじみの設定で、これは半ば連続テレビ小説の条件なのかもしれません。

主人公はこれから人生をともにするであろう男の子の友人と、同じ日に同じ病院で生まれた、誕生したその日からはじまった特別な幼なじみということのようですが、その女の子の家は庶民的な食堂、対する男の子の家はちょっとハイカラな写真館で、お母さんは家でしずしずとピアノを弾いているような人です。

さて、驚いたことに、その写真館の家の住居に置かれているグランドピアノはハンブルク・スタインウェイで、はっきりはわからなかったものの、たぶんB型あたりだろうと思われました。
その男の子もピアノが弾けるということで、何度かピアノがある部屋のシーンが出てきましたが、さすがにロゴマークこそ写ることはないものの、まぎれもないスタインウェイでした。
それも新しめのピカピカしたピアノ。

ヒロインの女の子に懇願されて、その子役の男の子がしぶしぶ弾いて聞かせるシーンがありましたが、子供らしい童謡か何かが、みょうに整ったスタインウェイサウンドで響いてくるのが、なんか笑えました。

おそらく1980年代の時代設定で、むろん家庭にスタインウェイがあっても不思議とはいわないけれど、でもやっぱりNHKの朝の連続テレビ小説に出てくる、商店街の中にある友人の家という設定なので、いきなりスタインウェイというのは、ちょっとオオッ?という感じは否めませんでした。

この『半分、青い。』はどこ(東京か大阪か)のNHKが作っているのか知りませんが、さぞやNHK内にはスタインウェイがごろごろしていて、ピアノ=スタインウェイだから、却ってヤマハやカワイを準備するほうが難しいんだろうなぁ…と思ってしまいました。
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歩行者

すでに同様のことを書いたかもしれませんが、最近は以前より明らかに車の運転がしづらくなりました。
全体に速度が落ち、流れが悪くなり、個々の車の動きも円滑さを欠いていると感じますが、そこまでは「安全」ということを再優先に考えればやむを得ないこと思います。

しかし、その「安全」に対する一番の脅威は自転車であり、さらには一部の歩行者にも少しあるといいたい。
近ごろの自転車にたいする恐怖感は深まる一方で、実際にそこに潜む危険性はかなり高く、しかも改善される兆しもありません。
自転車の勝手気ままな動きはクルマのドライバーにとって、恐怖以外の何者でもありません。

車道でも歩道でもお構いなしで、夜間の無灯火なども当たり前。
それがコウモリのようにどこから突如現れるかも分からないし、おまけに大半の自転車は自ら危険を回避する気もなく、すべてはクルマ側の注意と動向にかかっているのはあまりに不条理で、おかげでマロニエ君は自転車の姿形を見るだけでもストレスを感じるようになってしまいました。

さらに最近では、自転車だけでなく、歩行者までもが自らの安全というか、自分も交通社会の一員だという認識がかなり低下していると感じざるをえないシーンが多すぎるように思います。
とりわけ感じるのが横断歩道。
横断歩道であるのをいいことに、クルマへの嫌がらせではないかというほどゆっくり渡るなど朝飯前で、中には横断歩道以外の横断もあり、しかもまったく慌てる風もなく「こっちは歩行者だ。注意しろ!」といわんばかりだったりすることも珍しくありません。

さらにはちょっとした特徴があって、世代による違いもあるようだと最近は感じます。

例えば、たった一人の歩行者であっても、右左折してくるクルマはその歩行者が横断歩道を渡っている以上、無条件に停止してじっと待つことになりますが、それがある程度年配の方であれば、自分のために車が待っていてくれていると察知して、ほんの少し小走りになるとか、できるだけすみやかに歩くなど、待っているクルマに対してなにかしら心遣いや意識が働いていることがわかり、こちらも「どうぞごゆっくり」という気持ちになるものです。

ところが、やや世代が下がってくるに従い、歩行者は横断歩道を渡ることを「権利」として捉えているように感じます。
いま自分は権利を行使しているのだから、待っているクルマへの心遣いなど無用だということでしょう。
それがわかるのが嫌なんです。
歩行者は道交法上の最弱者であり、ゆえに優先的に保護され厚遇されて当然で、その歩行者様がいままさに横断歩道を渡っているんだからクルマはいかなることがあろうと、横断が済むまで待つのは当然といった上下関係のような空気が漂います。
なんだかこれ、法権力をかさにきたパワハラでは?と感じるような空気が流れます。

ドライバーはまさにムッとするような気持ちで、不愉快を押し殺してこの場をやり過ごすことのみになります。

中には、待っているクルマには一瞥もくれず、音楽を聞きながらの悠々たる歩きスマホだったり、横の人物とだらだら会話しながら、まるで美術館でも歩くようなスピードで横断歩道を渡りますし、ひどい場合は歩行者用の信号が赤になってもこの人達はまったく急ごうともしないのは呆れるばかり。

これが多いのが、見たところだいたい20代~40代ぐらいで、意外なのは、実は子供から中学生ぐらいのほうがまともな人間性を感じることがあるのです。
彼らのほうが昔ながらにごく普通に渡ってくれるし、中には待っているこちらへ軽く頭を下げて勢い良く自転車のペダルを漕いでいく子などがけっこういるのは、とても意外であるし、殺伐とした中でせめてホッとさせられる瞬間でもあります。

もともとこれが自然であって、世の中の多くはお互い様の精神で成り立っており、上記のような態度には、どうみても人を待たせていることにいっときの快感であったりちょっとしたいじわるを楽しんでいるわけで、人の心の中にある醜いものがこんなちょっとした場面で顔を出しているように見えます。
中学生ぐらいまでは素直だった人が、社会に出て揉まれたり苦労を重ねていくうちに、こういう暗い憂さ晴らしも覚えていくのかと思うと、経験や学習というのは必ずしもプラスばかりではないなという気がします。
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翌週は…

前回書いたテレビ番組『恋するクラシック』の翌週の放送も見てみました。

今回は印象的なメロディで親しまれ、さまざまなジャンルにも用いられるベートーヴェンの悲愴の第2楽章が冒頭で取り上げられました。
オリジナルのピアノ演奏は前回と同じく佐田詠夢さんによるものでしたが、今回はやや残念なことに「月の光」のときのような好印象ばかりというわけにはいかなかった気がします。

全体に歌いこみが浅く、作品の実像や深みという部分では足りないものが随所に感じられ、どちらかというとアマチュアに近い感じの、軽いデザートみたいな演奏でした。
これがこの方のピアノのスタイルなのかも知れず、それが前回は「月の光」というフランス音楽でたまたまマッチしていたのかもしれません。

さて、今回はそのことを書こうと思ったのではなく、意外な発見をしたのでそれを。
この演奏時、通常の譜面立てではなく、角度をより寝かせた感じの見慣れぬ譜面台が使われていたので、おそらくひと通りの練習と暗譜はできているんだけど、まったく楽譜なしではやや不安という時などに、こういう楽譜の置き方をするのだろうと推察。

音符のひとつひとつをしっかり見るわけではないので、きっちり楽譜を立てるほどではないけれど、視線の先に楽譜があれば演奏の道しるべになって安心でもある…というほどのものでしょう。
またその程度のものなら、通常より寝せて視覚的にもあまり目立たないほうが聴くほうにもありがたいのは言うまでもありません。

しかし、これは普通はあまり存在しない、水平よりやや起きた程度の角度であるし、そもそも譜面台そのものがノーマルのものとは別物だったので、おそらく手製のものかなにかだろう…ぐらいに考えてさほど気にも止めていませんでした。

しかし、色は黒のつや消しで、手前と奥にはそれぞれカーブがついていたりと、簡単に日曜大工でできるようなものではなく、それなりに本格的に製作されたような感じです。
そんなとき、カメラが斜め上からゆったりと動いていくシーンのときに、思わぬものを発見!
その見慣れぬ譜面台の右の隅には、うっすらと金の文字で「FAZIOLI」と書かれていたのです。

ということは、FAZIOLIがこのような譜面台も製造しているのだろうと、とりあえず考えました。
でも、使われているピアノはスタインウェイのDで、その中にFAZIOLIの文字があることがとても奇異な感じに映りました。
まあ、たかだか譜面台ですから、役に立つなら何を使おうといいといえばいいわけですが、世界のコンクールなどではあれだけ熾烈な戦いを繰り広げているライバル同士でもあることを少しでも知っていると、やっぱり違和感はありました。

ただ、いずれにしても、譜面台にまでわざわざFAZIOLIのロゴを入れる必要があるのかというのが率直なところで、それだけ自社の名を徹底して書いておきたいということかもしれません。


後半はヴァイオリニストの松田理奈さんが登場し、イザイの無伴奏ソナタの一部と、フランクのヴァイオリン・ソナタの第4楽章を演奏されましたが、演奏後の司会の小倉さんの質問に、いともあっさりと、これらの曲は「それほど難しいというわけではない」ということが暴露され、これはマロニエ君も大変意外でした。

とくにイザイの無伴奏ソナタは、どれもいかにも演奏至難なヴァイオリン曲という強烈なイメージがありましたし、マロニエ君はヴァイオリンはまったく弾けないので、「エエッ、そうなの?」と単純に驚くばかりでした。
曰く、いかにも難しそうに聞こえるけれど、イザイはヴァイオリニストでもあったので意外に弾きやすいかたちに書かれているとのことだったし、フランクのほうでは、ピアノのほうが圧倒的に音数も多く、「演奏はピアノのほうが大変だと思います」とあっけらかんとおっしゃったのには、演奏家なのにえらく気前のいい発言をする人だなぁと妙に感心しました。

佐田詠夢さんもピアノ弾きとしての虫がつい騒いだのか、「私もこの曲を弾いたことありますけど…難しいですよね」と発言する場面もありましたが、マロニエ君は、この方とフランクのヴァイオリン・ソナタがどう考えても結びつきませんでした。
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月の光と革命

民放のBSで『恋するクラシック』というタイトルの、クラシック音楽をネタにする番組があることを発見、さっそく録画してみました。

司会は小倉智昭氏と佐田詠夢さんという女性で、番組そのものはクラシック音楽を身近で親しみやすいものにするためか、使われた歌やドラマから紹介するなど、とくに印象的な内容ではないと感じました。
ただ、ひとつだけそう悪くはないと思ったことが。

ドビュッシーの「月の光」をその司会の佐田詠夢さんが演奏したのですが、これが思いがけずきれいでした。
まったく知らないタレント風の人ですが肩書にはピアニストとあり、調べてみるとさだまさし氏のお嬢さんとのことで、へーという感じ。

ピアニストとしてどうかという事はさておいても、まあたしかにまったくの素人というレベルではなく、本格的にピアノを学んだ人のようではあり安定した技術をお持ちでした。
しかし、驚いたのはむろんその技術ではなく、彼女の「月の光」が新鮮さをもった鑑賞に堪える演奏だったことでした。

一般的に「月の光」というと、必要以上に夢見がちに、デリケートに、淡いニュアンスを意識して過度な演奏をする人がほとんどですが、佐田さんの演奏にはそれがなく、全体にやや早めのテンポで、無用な感傷を排した、すっきりした演奏だったところにセンスを感じました。
特に後半は、輝く音の粒が流れ下るようで、ちょっとアンリ・バルダの演奏を思い出すような、要するに目先のお涙頂戴ではないところで、この美しい小品を魅力ある音楽として聴かせてくれたのは意外でした。

趣味のいい、野暮ったさのない演奏だったと思います。
この曲はアマチュアにもよく弾かれる、悪く云えば手垢だらけになってしまった作品で、プロのピアニストでも「月の光」で聞く者の耳をその音楽に向けさせることは簡単なことではありません。
これぐらい有名曲ともなると、「あー、またこれか」という意識が先に立ってしまうもので、そんなマイナスの意識を引き戻して、本来の美しさを聴かせるということは至難です。

それ以外の演奏はどうなのか…聴いたことがないのでわかりませんが、少なくとも「月の光」は洒落た演奏だったと思います。

ところがその直後、番組ではプロのイケメンピアニストという人が登場。
プロなので名を伏せる必要はないのだけれど、あえて書かないことにします。

手始めにショパンの「革命」を弾かれましたが、これがもうコメントのしようもないもので、直前の「月の光」の美しい余韻はあとかたもなくかき消され、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされてしまったような印象でした。
これほど有名な曲なのにまったく曲が聴こえてこないし、ただ音符を早く(しかも雑に)弾いているだけで、強弱のつけ方もアーティキュレーションもまったく意味不明の、ただのがさつスポーツのような弾き方。
…というか、本物のスポーツのほうが実はよほど緻密で、それなりの丁寧さもデリカシーも必要とされるのではないかと思います。

音楽家というより、いわゆるテレビに出るためのひとつの指芸ということかもしれません。

その後、ピアノからゲスト席へ場所を移して、小倉氏の問いかけなどに導かれるまま、今どきのトークを妙に馴れた感じで展開。
すると、非常に優しげなソフトな語り口ではあるし、話の持って行き方や聞かせ方も巧みで、少なくともゴトゴトしたピアノよりトークのほうがよほどなめらかで、なんだかとても皮肉な感じでした。
内容はほぼ自分の自慢であったけれど、基本的に穏やかかつ低姿勢で、表面的な言葉づかいやマナーが悪くないために、スルスルと言葉が進み、ちゃっかり言いたいことを言ってしまって、しかも悪印象を抱かれないで終わりという手腕に、呆れるというか感心するばかりでした。

これを「話術」というのであれば、この人はピアノよりよほどトークのほうが(それも数段)お上手だとお見受けしました。この方は、ご自分のトークのようにピアノを弾いたら、それだけでずっと良い演奏になると思います。

話のあと再びピアノの前に座り、ラ・カンパネラを演奏されましたが、いたたまれない気分になり停止ボタンを押しました。
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遅咲きの名花

前に書いたポゴレリチに続くようですが、これまであまり積極的に聴かないピアニストにエリザベート・レオンスカヤがありました。

非常に真面目な、これぞ正統派という演奏をする人ですが、やたらときっちりして遊びや即興性が感じられません。
少なくともマロニエ君の耳には音楽の、あるいは演奏そのもののワクワク感とか面白さがなく、その演奏は「正しさ」みたいなものがプンプンと鼻につくようでした。

音楽は他の芸術と違って、とくに演奏芸術の場合、様々な約束事の上に成り立っているものなので、自由気ままという訳にはいかないし、全体の解釈はもちろん、個々の楽節や小さなフレーズに至るまで決まりとか法則があるといえばあるといえます。
とはいっても、あまりにその決まりずくめの演奏をされても、音楽を聴くことによる精神の刺激や快楽までも抑えこまれ、むしろ否定されているような時もあって、音楽を聴いているのにこんこんとお説教をされているようで、そういうことが苦手でずっと敬遠してきたピアニストです。

「こういうやり方もあるかも…」というのではなく、「こうしかないのです」と断定されているようでした。
ひとことで言うなら、あまりに先生臭が強い演奏でした…ある時までは。

ところが、いつだったか、何を弾いたかも忘れましたが、近年の来日公演の様子を見る限りこのイメージがずいぶん違ってきたようで、演奏に幅が出て、柔らかさや温もりのようなものが以前より格段に増しているように感じられたのです。
お歳を重ねられて少し寛容になられたのか、お若いころ突っ張っていたものが少しほどけてきたのか、理由は知る由もないけれど、味わいのある馥郁とした演奏をされていると感じたのでした。

もともとがかっちりとした基本のある正統派の人だけに、そこにちょっとした柔和さとか自然な呼吸感などが加わってくると、たちまちそこに色が加わり、蕾が花へと開いたように感じました。

そんな印象の修正が少しかかっていたところに、レオンスカヤの新譜が目に止まりました。
チャイコフスキーとショスタコーヴィチのソナタ、ラフマニノフの前奏曲などが収められており、曲の珍しさもあって迷いなく購入。

果たして、期待どおりの素晴らしいCDでした。
ショスタコーヴィチのソナタ第2番はほとんど馴染みのない曲でしたが、どういう作品であるかがよくわかる演奏であったし、ラフマニノフも見事なしっかりした演奏でした。
しかし、このCDのメインはなんといっても冒頭に収められたチャイコフスキーのソナタだと思います。
数あるピアノソナタの中でも、チャイコフスキーのそれは他の作品ほど有名ではないけれど「グランドソナタ」の名を持つ勇壮な大曲で、真っ先に思い出すのはリヒテルの演奏。冒頭ト長調の両手による和音の連続が強靭なことこの上なく、軍隊の行進のように始まり、あとには随所にチャイコフスキーらしさが感じられる作品。
全体を通しても、大リヒテルらしさ満載の、完全にこの作品を手中に収めた上での燃焼しきった演奏で、昔ずいぶん聴いた記憶があります。
しかし、クセの強い作品でもあるのか一般的なレパートリーとは言いがたく、実際の演奏機会は殆どないし、日本人も幾人かおられるかもしれませんが、パッと思い出すところではロシアものを得意とする上原彩子さんがCDに入れているぐらい。
上原さんはむろんリヒテルの強靭さはないけれど、確かな技巧と、ねっとりとした情念でこの大曲を弾き切っていました。

その点でレオンスカヤは、その二人ともまったく違って、必要以上に気負うこともせず、それでいて全体としてはまったく隙のないメリハリにあふれた演奏で、情緒のバランスのとれた、このソナタの理想的な演奏のひとつに踊り出たように思いました。
とくに終楽章などは傑作『偉大な芸術家の思い出に』を髣髴とさせる高揚感もあり、価値の高いCDという気がしています。

長いことどちらかというと避けてきたレオンスカヤですが、こういう演奏を耳にすると、少し他の演奏(たとえばシューベルトのソナタなど)も聴いてみたい気になってきて、こういう変化はマロニエ君にはめったにあることではありません。
前回のポゴレリチのように、だいたい天才というものは若いころに完成されているものだし、凡人とて人間の本質なんてそう変わるものでもないので、昔の印象というのは9割以上当たっているし変わらないものですが、たまにこういうことが起きるのは嬉しいことです。
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日本のピアノの本

ピアノに関する書籍というと、教本や作品に関するものが大半で、ピアノという楽器そのものを取り扱った本というのは非常に限られます。

そんな中、『日本のピアノメーカーとブランド ~およそ200メーカーと400ブランドを検証する~』という新刊があることをネットで知り、さっそくAmazonで注文しました。
著者は三浦啓市氏、発行元は按可社、定価は4,000円+税というもので安くはないけれど、マロニエ君としてはやはりこれは買うしかないと思い、迷わずクリックすることに。

届いた本は、今どきA4サイズという雑誌並みに大きな本で、付録として「日本のピアノメーカー年表(生産台数推移付き)」という一覧表も付いていました。
内容は、明治以来、日本には約200社にものぼるピアノメーカーが現れ、その大半が消えていったという歴史があり、それを可能な限り取りまとめた一冊でした。

前半は、日本のピアノメーカー、一社ごとの紹介。
そのほとんどが消滅したとはいえ、現役を含むそれらをひとつひとつ見ていると、大小これほどたくさんのピアノメーカーが誕生し、ピアノを製造したという足跡に触れるだけでも、まったく驚きに値するものでした。

後半は、各ブランドごとのカラー写真や社名、ブランド名がアルファベット順にこまかく並べられた部分となり、一社で複数のブランドを生産していた場合も少なくないため、こちらは実に400ブランドに達するというのですから、かつての日本は紛れもなくピアノ生産大国だったことの証左となる本だと言っても過言ではありません。

歴史上、ピアノ生産大国と知られるドイツやアメリカでは果たしてどれくらいの数になるのか、機会があればぜひ知りたいものだと思うと同時に、明治維新までほとんど西洋音楽の歴史もなかった東洋の日本が、いかなる理由でこれほどまでにピアノ製造に熱中したのか、それはマロニエ君にはまったくの謎ですね。

日本人が、これほど多くのピアノブランドを必要とするほど音楽好きとも思えないので、ここまでメーカー数ブランド数が増えた背景には何があったのだろうと社会学として考えてしまいます。

ひとつにはピアノを作るには、バイオリンのように職工ひとりで事足りるものではなく、生産設備や会社組織といった、いわば最低限の産業構造を必要とする楽器であり、ピアノ製造に将来を夢見た人達が集まったこと。
あるいは大きくて見栄えのするピアノは、家が一軒建つほど高価であったという過去があり、それを買い求めることはある時期までは人々の豊かさの象徴でもあり、ステータスシンボルでもあっただろうことなどが頭に浮かびました。

それにしても、ページをパラパラやっているだけでも、その途方もない数のメーカーとブランドが存在したことは、紛れも無い事実。
しかも、そのほとんどが消滅したというのは、いっときの夢ではないけれども、ちょっと信じられないような、なにか時代のむごさのようなものを感じないわけにはいきません。

もし家にドラえもんがいたら、タイムマシンに乗って一社ずつまわってみたいものです。

そこに掲載されるメーカーのほとんどすべてが倒産や廃業に追い込まれ、貴重な資料も失われていることから、できるだけそれを追跡し、まとめ上げたという、非常に貴重な本でした。

どうしても入手できなかったと見えて、ところどころに写真が空欄のままになっているブランドがありますが、このような資料性の高い本の出現によって、さらに現物が発見・確認などされることを望むばかりです。
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ポゴレリチ

誰でも苦手なピアニストや演奏家がいるものと思います。
マロニエ君の場合、ピアニストで言えばイーヴォ・ポゴレリチなどがその一人です。

べつに強烈に嫌いというわけではないけれど、少なくとも積極的に聴こうという気にはなれない、どちらかというとつい敬遠してしまう人。
1980年のショパンコンクールで独自の解釈が受け容れられず、それに憤慨したアルゲリッチが審査を途中放棄したことはあまりに有名で、良い悪いは別にしてそれほど独特の演奏をする人であるのは間違いありません。

たしか初来日の時だったか、日比谷公会堂でのリサイタルにも行きましたが、背の高い長髪の青年がわざとじゃないかと思うほどゆっくり歩いて出てきたこと、演奏も同様で、独特のテンポと解釈に終始していました。
とても上手い人だというのはわかったけれど、自分の好みではないと悟ったことも事実で、彼のCDなどもほとんど持っていません。

いらい、ポゴレリチはマロニエ君の苦手なピニストとして区分けされ、演奏会にも行かずCDも買わず、彼自信もそれほど積極的に活動するような人でもないこともあってか、その演奏を久しく耳にすることはありませんでした。

そのポゴレリチがBSのクラシック倶楽部に登場!
昨年来日した折に収録されたもので、通常のホールやスタジオではなく、奈良市の正暦寺福寿院客殿での演奏ということで、あいかわらず独自の道を歩み続けていることが再認識させられます。

番組は毎回55分ですが、ポゴレリチが境内やなにかをあちこちを散策するシーンが多くて、なかなか演奏にはならず、やっとピアノのある場所にカメラが来たかと思うと、大屋根を外したスタインウェイDが畳の上の赤毛氈の上にポンと置かれており、ようやく演奏開始。

いきなりハイドンのソナタ(Hpb.XVI)の第2楽章というので、ちょっと面食らいましたが、その後もクレメンティのソナタからやはり第2楽章、ショパンのハ短調のポロネーズとホ長調の最晩年のノクターン、ラフマニノフの楽興の時から第5番、最後にシベリウスの悲しいワルツというもので、本人なりにはなにか考えあっての選曲なんだろうけど、聴く側にしてみるとてんで意味不明といった印象。

全体として感じたのはやはりポゴレリチはポゴレリチだったということ。
テンポもあいかわらず遅めですが、テンポそのものというより、やたらと重くて暗い音楽に接したという印象ばかりがあとに残ります。
テンポそのものがゆっくりしていても、そこに明瞭な歌があったり、美しいアーティキュレーションの処理によっては、ちっとも遅さを感じさせない演奏もあるけれど、ポゴレリチの場合は、遅いことにくわえてタッチは深く、いちいち立ち止まってはまた動き出すような演奏なので、マロニエ君には聴くのがちょっときついなあというところ。

演奏スタイルには線の音楽とか、構造の音楽とか、いろいろなスタイルや表現があるけれど、この人の演奏をあえて言うなら「止まる音楽」でしょうか。

個人的に一番いいと思ったのはラフマニノフで、それは作品が重く悲劇的な演奏をどこまでも受け容れるものだからだろうと単純に思いました。

マロニエ君の好みで言わせていただくなら、悲しみの表現でも、さりげなさや美しい表現の向こうにじんわりにじみ出てくるようなところに悲しみが宿ればいいと思うのですが、ポゴレリチの場合は、あまりにも直接的なド直球の悲しみの言葉そのものみたいな表現を強引に押し付けられている感じ。

かつてのショパンコンクールでこれだけの才能に0点を付けたことに憤慨したアルゲリッチの気持ちも大いにわかるけれど、彼の演奏に拒絶反応示した側の気持ちも少しわかるような気がしました。
要するに40年近く経って、今も彼はそのままで、それがポゴレリチなんですね。

それとすでに書いたことがあることですが、個人的にはやはり日本のお寺などで行われる西洋音楽の演奏というのは、否定するつもりはないけれど本質的に好きではありません。やっている当人は文化の枠を超えた美しい環境の中で、型にとらわれない独自の試みをやっているつもりだと思いますが、それはいささか自己満足にすぎないのではと思います。

それぞれの名刹に刻まれた歴史の重み、風格ある建築や見事に手入れされたお庭、そこに込められた文化的背景や精神などが収斂されてはじめて成立している世界。
そこへスタインウェイをポンと運び込んで西洋音楽を奏でることに、マロニエ君の耳目にはどうしても文化の融合というものが見い出せず、ひたすら違和感を感じるばかりです。
じゃあベルサイユやサンピエトロ大聖堂でお能や文楽をやったら素晴らしいかと言われたら…やっぱり思わないのです。
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ジャズクラブのように

先日、録画していた映画を見ていてあることを思いつきました。

その映画の主人公はジャズクラブのオーナーで、店では毎晩のように生演奏が繰り広げられ、大勢のお客で賑わいます。
マロニエ君もずいぶん昔ですがブルーノートにチック・コリアを聴きに行ったことなど思い出しました。

はじめて目にする会場というか店内にはいくつものテーブルがあり、簡単な食事ができて、飲み物や軽いアルコールなどが当たり前のように提供される場所。
それでいて、あくまでこの場の主役は音楽であることが明確に成り立っている世界。
ふと考えさせられるのは、音楽を聴くということは人間の楽しみであり喜びであり、演奏する側も聴く側も共に楽しむという基本。

音楽を聞きに来たお客さんが、荷物の置き場もない狭いシートに押し込められて身動きもできず、咳払いにも遠慮しながらひたすら演奏を拝聴するというクラシックのストイックなスタイルしか知らなかったマロニエ君は、大変なカルチャーショックを受けたことを今でも覚えています。

映画でもそうでしたが、お客さんは娯楽的な空気の中で、各自がもっとリラックスして演奏に耳を傾けます。
その点ではクラシックの演奏会の聴き方はあまりにも固すぎると思いました。
もしジャズクラブのクラシック版みたいなものがあったらどんなにいいか。

音楽が人間の楽しみの重要な一角を占めるのであれば、やたら修行のようなことでなく、もう少し快適な環境で聴けるということも考えてみてよいのではないかと思うのです。
いくら音楽を傾聴すると言っても、ただひたすらそれだけというのではあまりにも享楽性に乏しく、そのためにも飲食を切って捨てる必要はないのでと最近のマロニエ君は思うのです。

もちろん演奏中の飲食はダメですが、開演前か終演後に軽い食事ができて、休憩時間には飲み物が普通にあるような場所。
そんな環境でクラシックのコンサートをしたら、行く側もどんなに楽しみが倍増するだろうかと思うのです。

考えてみればマロニエ君の子供の頃には市民会館などがコンサートの中心で、そこにはごく庶民的なレストランもあり、開演前に食べた素朴なメニューは今でも不思議に覚えています。

誤解しないでいただきたいのは、べつに飲み食いが目的というわけではなく、音楽をくつろいで楽しむための脇役として飲み物や軽い食事などが自然にある場所や時間というのは、音楽のためにも実はけっこう重要なのではないかということです。

そもそもオーケーストラならいざしらず、ピアノはじめ器楽のリサイタル程度なら、巨大なホールでやられても聴く方も遠すぎて楽しくないし、主催者だってチケット売りが大変、演奏者にかかる負担も必要以上のものが覆いかぶされうような気がします。
その点、ジャズクラブぐらいの規模で、せいぜい数十人規模のお客さんを相手に、もう少しゆったりと演奏を聞かせてくれたらいいのではないかと思うのです。

演奏時間も現在のホール形式では、休憩を除けば前後合わせてだいたい1時間半かもう少しといったところですが、これは少し縮小して2/3ぐらいの時間にしたらどうかと思います。
そして、客数がそれだけでは足りないでしょうから、それを数日間繰り返してもいいのでは。
そのほうが演奏する側だって、せっせと練習に打ち込んで一回こっきりの本番より、ある意味やりがいがあるのではと思います。

多様性という言葉がよく聞かれますが、だったらコンサートの世界にもこういう新しいスタイルが少しは試されてもいいような気がするこのごろです。
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演奏会現状

どうしたことか、最近はコンサートが苦痛でしかたありません。

自分で言うのもなんですが、これほど音楽が好きで、若い頃から数えきれないほどのコンサートに通い、いい加減それには慣れているはずのマロニエ君の筈ですが、現実はというと慣れるどころか、年々コンサートに行くのは苦痛が増し、自分でもその理由がなんだろうかと考えしまうことがしばしばです。

ひとつはっきりいえるのは、疲れるということ。
心が鷲掴みにされ何処かへもっていかれるような熱気ある演奏に接することがなくなったことが最大の原因かもしれません。
しかし、それだけではないとも思ってしまうのです。

その証拠にコンサートに行きたくないのはマロニエ君だけではなく、広く世の中の潮流というか、とくにクラシックのコンサートは慢性的な客離れで、閑古鳥が鳴いて久しいという現実もそれを証明しているように思います。

クラシック音楽そのもの、および、それを集中してじっと耐えるように聴くという鑑賞方法じたいが時代に合わなくなってきているということもあるのかもしれません。いっぽう演奏者も、なにがなんでも聴きたいと思わせる圧倒的なスターがいなくなり、さらには娯楽の多様性や時代の変化など、もろもろの要素が積み上がった結果が現在のようなクラシック音楽の衰退を招いているのでしょう。

具体的には、コンサートのスタイル、会場の雰囲気にも問題があるような気がします。
決められた日時に時間の都合をつけて開演に遅れないようホールに出向くということは、それがその日の行動の主たる目的になります。
その挙句、2時間前後身じろぎもせず、咳払いひとつにも気を遣い、体を動かすことも最小限に抑えるという厳しい態勢を強いられる。
しかるに多くの場合、本気度の薄いシナリオ通りの演技的演奏もしくは事務作業のような演奏は喜びやワクワクとは程遠く、これらにじっと耐えることは、ほとんど修行か罰ゲームのようで、終わったときには心身は疲労とストレスでフラフラ。

こういってはなんですが、むしろ演奏者のほうがスポーツした後のようなスッキリ感があるのかも。

エコノミークラス症候群などと巷で言われはじめて久しいけれど、コンサートは国際線の飛行機より時間こそ短いけれど、身じろぎひとつできず、水分もとれず声もだせない苦痛度としてはかなりのものじゃないかと思います。
身体は硬直し、血流は停滞し、おまけに精神面は退屈な演奏や劣悪な音響で消耗がかさみ、これでは疲れるのも当たり前だと身をもって感じます。

演奏が終われば、拍手でじんじんする手を止めると、すっくと立ち上がって、他者ともみ合いながらホールの階段を登り、外に出るなり歩くなり駐車場に行く、人によっては電車やバスに乗るなどして家路につき、それから食事もなんとかしなくてはならず、まだまだ疲れる行動はそう簡単には終わりません。
こうした一連のなにもかもがエネルギーの浪費ばかりで、要するにぜんぜん楽しくないわけです。
その疲労は翌日まで持ち越してしまうことも珍しくありません。

昔はここまでの苦痛を感じておらず、それはマロニエ君がまだ若くて体力があったからだろうか…とも思いますが、やはりそれだけではなく、それに堪えうるだけの魅力がコンサートがなくなってしまっていることも大いにある気がしてなりません。
ほんとうに素晴らしいものに接しているときは、時が経つのも忘れ、精神的にも良い刺激であふれているものですが、そんな忘我の境地にいざなってくれる演奏会は今は限りなくゼロに近いほどお目にかからなくなりました。

どんなに上手くて見事な演奏であっても、薄っぺらいというか、そこにはシラケ感や仕組まれた感が漂い、聴く側の心が感銘や喜びによって潤されていくような体験にはなりません。
チケットを買って、時間を作って、会場までの往復など、そこにはそれに値する見返りがないとなかなか人の足は向きません。

演奏そのものの魅力もむろん大切だけれど、こうなってくると鑑賞のスタイルや環境も少し変ったものがでてきてもいいのではないかと思うのです。
ちなみに、小さな会場で行われる小規模のコンサートなどは、ホールのスタイルをミニチュア化しただけで、椅子が折りたたみ式などへさらにプアなものになり、身体の苦痛はホールのそれよりもさらに痛烈なものになります。

~続く。
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??なアメリカン

ある日曜、友人と夕食に行くことになりました。
時間帯が少し遅くなったため行くお店も選択肢が狭まる中、どこに行こうかと考えたあげく、以前から気になっていたアメリカンスタイルの店に行ってみようということになりました。

外から見る限りはいかにもBar風というか、アルコール主体の店のようなイメージだったのですが、知人からあそこは食べるほうが中心の店ということを聞かされ、ならばいつか行ってみようかと思っていたのを折よく思い出したので、これは好都合とばかりに出かけて行きました。

事前に食べログなどで下調べしてみると、評価は普通ですが、店内の作りやメニューは徹頭徹尾アメリカンで、ずらりと並ぶソファなども原色の50~60年代のアメ車を思わせるようなもので、ハンバーガーも当然のようにアメリカンなビッグサイズ。

さっそくお目当てのハンバーガーとコーヒーを注文。
オーダーを受けてから調理するらしく、かなり待たされてようやく出てきたのは大型のプレートに、日本人のイメージの3倍はあろうかと思われる巨大なハンバーガーがフライドポテトなどと一緒にドーンと鎮座していました。

各テーブルに置かれた巨大サイズのケチャップとマスタード(必要なら塩/胡椒)を使って自分で味付けをし、バンズを重ねてかぶりつくというもので、さすがはアメリカンとこのときはなんだかわくわくしてしまいました。

ところが、実際食べ始めてみると、とくに不味いというのでもないけれど期待したほど美味しくもないことがしだいに判明。
見た目は豪快だけどあまり味がなく、ワイルドな感じのわりには塩分もかなり控えめで、ずいぶん健康面などにも気を遣っているような、なんだかよくわけのわからない微妙な味。

それというのも、調理中から期待させられたのは、ジャ〜〜ッという音とともに肉を焼く強い匂いが店内に漂いまくり、アメリカ産牛肉のステーキがコクがあって美味しいように、しっかりとした味を持つハンバーガーを想像していたのです。

はじめの数口は慣れの問題もあるからいまいちでも、口が慣れてくると本当の味がわかってくるということはよくありますが、途中で味が美味しいほうへと好転することはついにはないまま、最後のほうは少しガマンして食べたと言えなくもありません。

食べ終わったら、口の中にはなんだかへんな臭みみたいなものが残り、それがちょっと気になってきました。
マロニエ君の食べ物の評価基準のひとつとして「食後感」というものがあります。
食後感のいい食べ物はやはり美味しいものだし、材料もよく、調理もあまり変な小細工をしていない場合が多いというのが持論で、少なくともまともなもので作られた料理は食後感もすっきりさわやかです。

いっぽう、スーパーのお弁当とかファミレスの食べ物などは、やはりこの点がよくなく、いつまでも味や匂いが口の中で後を引くなど、すっきりしません。
いちおう美味しく食べたつもりでも、同時に悪いものも身体に入ってしまったというような印象を伴うことも。

そんな食後感でいうと、このハンバーガーは最悪でした。
店を出たあとはもちろん、その後4~5時間たってもなんだか口の中に何か残って消えない感じがあるし、ちょっとあくびをしてもさっきの肉の匂いがふわんと立ちのぼってきて、何度も気持ち悪くなりました。
こうなるとお茶やコーヒーをどれだけ飲んでも、歯を磨いても変化ナシ。

それも牛肉の匂いと言うよりも、なんだかケモノ臭的な感じがするのが気になりました。
こうなってくると、あれは本当に牛肉だったんだろうか?というちょっと気味の悪い考えまで頭をかすめてきて、そのたびにヘンなものを食べてしまったのではないかという疑いと不快感が消えなくなりました。

友人に聞くと、やはり同じらしく、「あれってジビエなのかなぁ?」などと言い出す始末。

お店に電話して聞いてみようかとも思ったけれど、もし表示と違うものを使っているならそう簡単に口を割るはずはないだろうし、すでに食べてしまったものはどうしようもないから、とりあえず諦めました。
もちろん、二度と行きません!
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新鮮でした

クラシック倶楽部の録画から。
昨年11月にハクジュホールで行われた津田裕也さんのピアノリサイタルは、ある意味とても新鮮なものに感じました。

というのも、実際のリサイタルでのプログラム全体はどのようなものだったかわからないけれども、この55分の番組で放映されたのは、すべてメンデルスゾーンの無言歌で埋め尽くされていました。

無言歌集に収められた多くの曲はどれもが耳に馴染みやすく、多くはよく知っているものばかりですが、実際の演奏会でプログラムとして弾かれることはそれほどありません。
メンデルスゾーン自体がプログラムにのることも少ないし、ピアノ曲ではせいぜい厳格な変奏曲やロンド・カプリチョーソなどがたまに弾かれるくらいで、無言歌というのは、あれほど有名であるにもかかわらず、プロのステージでのプログラムとしては、決してメジャーな存在とはいえない気がします。

理由はいろいろあるのだろうと思いますが、ひとつには音楽的にも技術的にも、プロのピアニストにとってはそれほど難しいものではないことや、どんなプログラム構成で演奏会を作り上げるのかという考察じたいもピアニストとして評価されるところがあり、そのためにも演奏曲目はよりシンボリックで難しい玄人好みのものでなければならないというような、暗黙の基準があるからではないかと思います。

その尺度でいうと、メンデルスゾーンの無言歌集は、あくまで「安易な小品」と見なされるのでしょうか?

そうはいっても、素人にとってはこの無言歌集は、耳で聴くのと同じように弾くのも心地よく簡単かと思ったら大間違いで、楽譜を前に弾いてみると、そうやすやすと弾けるわけでもないところは、意外な難物という気がします。
とくべつ超絶技巧は要らないけれど、少なくともショパンのようにピアニスティックにできていないのか、指が自然に流れるというものでもなく、下手くそにとってはイメージよりずっと弾きにくい曲だという感じがあります。

次はきっとこうなるなという流れで進んでいかないので、マロニエ君レベルにとっては馴染みやすい曲のわりには読譜も暗譜も大変で、流れに逆らうような合理性のない動きも要求されるなど、弾きたいけど苦手という位置づけになります。

では、プロの演奏会のプログラムとしてこればかりを並べたものとはどんなものかというと、聴いてみるまでは正直少し不安もありました。
数曲ならばいいとしても、延々こればかりではそのうち飽きてくるのでは?という懸念もあったのですが、実際に始まってみると、そんな心配は見事に裏切られ、聴いていてとにかく心地いいし、次にどんな曲が出てくるのかも楽しみで、一曲ごとに異なる世界が広がり、それに触れながら聴き進んでいくおもしろさがあり、たまにはこういうものもいいなあと素直に思いました。

まるでリートの演奏会のようで、ああ、だから無言歌なのかとも納得。

だれもかれもが、決まりきったような深刻な作品、あるいは大曲難曲をこれでもかと弾かなくてはいけないというものでもない筈で、そういう意味でももっとプログラムは自由であってもいい、あるいは「あるべきでは?」と考えさせられるきっかけになりました。
とくに最近は、指は動いても、内容的に練れていないまま技巧とステレオタイプの解釈だけで大曲を弾くのが当たり前みたいな風潮があって、正直ウンザリ気味でもあるので、久々にまっすぐに音楽に触れたような気になりました。

美しいピアノ曲を、真摯に紡ぐピアニストの真っ当な演奏に触れること。
それは必ずしも演奏至難な曲である必要はなく、音楽を聴く喜びで心が満たされることこそ最も大事なことではないかと思いました。
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再調整

シュベスターの2回目の調整の時、ハンマーのファイリングをやってもらったおかげで、すっかり音が明るくなり全体的にも元気を取り戻したかに思えたのですが、その後、予想外の変化が。

前回書いたようにファイリングのあと音に輪郭をつけるためのコテあては、とりあえずやらずに済ませたのですが、それからわずか数日後のこと。
日ごとに音がやや硬めの派手な音になっていき、こんなにも短期間でこれほど変化するとは、これまでの経験でもあまりなかったことなので、ただもうびっくりすることに。

マロニエ君が素人判断しても仕方ないのですが、おそらくは打弦部分だけは新しい面がでてある種のしなやかさを取り戻したものの、ハンマー全体には長いことほとんど針が入っていなかったので、ハンマーの柔軟性というか弾力が比較的なくなっているところへ、新しい弦溝ができるに従って音がみるみる硬くなったのではないかと思いました。

考えてみれば、あれやこれやとやることが山積で、なかなか整音にまで至らなかったために、この点が手薄になっていたことは考えられます。
さらには、技術者さんにしてみても、ファイリングした際にコテあてをやらないことになり、最近のカチカチのハンマーに比べたら、このピアノのそれは比較的柔軟性があったので、針刺しまでに思いが至らなかったのかもしれません。
でも実際にはこのハンマーなりに、そろそろ針刺しが必要な時期であったことはあるのでは?

枕だって、なにもしなければ一晩で頭の形にペチャっと圧縮されていきますから、ときどき向きを変えたり指先でほぐしたりするわけで、理屈としてはそんなものだろうと勝手に想像。

というわけで、またか?と思われそうではあったけれど、やむを得ず調律師さんに連絡して事情説明すると、数日後に三たび来てくださる段取りをつけていただきました。

直ちに整音作業かと思ったら、アクションを外して床において、ライトを当ててまずは細かい点検。
前回できていなかった部分なのか、場所はよくわからないけれどハンマーシャンクの奥にあるネジをずっと締めていく作業をしばらくされてから、ようやく針刺しが始まりました。

針刺しは弾き手の好みも大いに関係してくるので、少しずつやっては音の柔らかさを確認しながら、これぐらいというのを決めます。
3回ぐらい繰り返して、柔らかさの基準が定まると、そこから全体の針刺しが始まります。
とはいっても音の硬軟は音域によっても変わってくるので、低音はそれほど必要ないというと、調律師さんも同意見で、低音域にはある程度のパンチとキレがないと収まりが悪いのでほどほどでやめることに。
また、次高音から高音にかけては、少しインパクト性が必要となる由で、こちらはそういう音が作られていくようでした。

今回はこの針刺しだけなのでそれほど時間はかからない見込みだったものの、この技術者さんもやりだすと止まらないタイプで、マロニエ君としてももちろんお願いする以上は納得されるまでやっていただくことにしているので、2時間ぐらいの予定が3時間半となってしまいました。

果たして結果は、嬉しいことにとても好ましいものになりました。
その音は、キツすぎる角が取れて、馥郁とした音の中にも芯がきちんとあり、節度あるまろやかさで、おもわずニヤリとする感じにまとまりました。

もちろん弾いていけばまた硬くはなっていくでしょうが、とりあえず満足できるレベルに到達できたことは、とりあえずめでたいことでした。
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神様のブレーキ

きっとご同様の方がいらっしゃるだろうと思いますが、とくに目的があるわけでもないのにネット通販のあれこれやヤフオクなどを見てしまうことがよくあり、これはもう半ば習慣化してしまっています。

自分の興味のあるいくつかの対象をひととおり見てしまうのですが、中にはそんなに頻繁ではないけれど、むろんピアノも含まれます。

ピアノに関していうと、マロニエ君なりの一つの基準は、年代が古めのもの、あとはヤマハカワイはあまり興味がなく、それ以外の「珍品」を無意識のうちに探しているように思います。
なぜなら、見るだけなら圧倒的にそっちのほうが楽しいから。

ピアノに関してはあまり頻繁に見ないのは、他の商品と違ってほとんどと言っていいほど動きがなく、終了すれば再出品の繰り返しで目新しさに乏しいから、たまにしか見ません。
ところが今回目に止まってしまったのは興味のないはずのヤマハで、それは50年ほど前のアップライトでした。

おそらくは写真から伝わってくる、なにかインスピレーションのようなものだったと思われます。
外観はサペリ仕様で、木目が上から床近くに向かって力強く垂直に通っているのが大胆で、色も弦楽器のような赤みを帯びた深味のあるものでした。
そしてなにより惹きつけられたのは、全体からじんわりと醸し出される、佳き時代のピアノだけがもっていた堂々とした風格が写真にあふれていたことでしょうか。

このピアノは決して装飾的なモデルではないのに、細部のちょっとした部分まで凝っていて、板と板の継ぎ目であるとか足の上下などには、きれいな土台のように見える段が丁寧につけられているなど、いたるところに木工職人の技と手間暇と美しさを見ることができました。
機能的には一枚の板でも済むところへ、デザイン上のメリハリや重みになる窪みやライン、段差などがあちこちに施されることは、ピアノが単なる音階を出す道具ではなく、楽器としての威厳、調度品としての佇まいまでも疎かにしないという表現のようでもあるし、そこになんともいえぬ温かみや作り手の良心を感じるのです。

現在のピアノは(ヤマハに限らず)そういう、木工的な装飾などは極限まで排除され、板類も足もただの板切れや棒に機械塗装して、効率よく組み立てただけで、製品の冷たさや無機質な量産品という事実をいやでも感じてしまいます。

さて、そのオークションにあったヤマハは高さ131cmの大型で、かなり長いこと調律をされていないらしいものの、内部はまったく荒れたところが見あたらず、撮影された場所にずっと置かれていただけということが偲ばれました。
価格はなんと7万円台というお安さで、これに送料および内外装の仕上げなど、これぐらいの手間と金額をかければかなりよくなるだろう…などと勝手な妄想をするのはなんとも楽しいもの。
実は妄想というだけでなく、よりリアルにこれが欲しくなったのは事実でした。
しかし、なにしろピアノにはあの大きさと重さと置き場問題がイヤでも付きまとうので、「これ買ってみようかな!?」という軽い遊びに至ることはまず許されません。

さらにヤフオクの場合、中古の楽器を現品確認することなく買うという暴挙になることがほとんどで、そういう行為そのものがかなり邪道であるのは間違いありませんが、そういうことってリスクを含めてマニアとしては妙に楽しいことであるし、もとが安ければ失敗した時の諦めもつくというもの。

ただピアノがあの図体である以上、必要もないのに買って仕上げて遊ぶといったことは、よほど広大な空間の持ち主でもない限りまず不可能です。

マロニエ君の友人にフルートのコレクターがいることは、このブログでも触れたことがありますが、彼などは「銘器」といわれるヴィンテージ品だけでも優に10本以上持っていて、それでもまだあちこちの楽器店に出入りしては、ドイツのハンミッヒだのフランスのルイロットだのと一喜一憂しながら、悩んだ挙句ついまた買ってしまい、家では隠しているんだとか。

ピアノが、こんなふうに自分で持ち運び出来て、家でも隠せるぐらいのものなら、マロニエ君もどれだけそこに熱中するかしれたものではなく、ああこれはきっと神様が与えてくださったブレーキで、却ってよかったのだと思うしかありません。
ちなみにそのヤマハは終了時間までに見事に落札され(ピアノの場合は入札がかからないのがほとんど)ましたので、やはり他の方の目にも止まったんだなぁ…と納得でした。

ちなみに、ヤマハの音質はまさにこのピアノが作られた1970年ごろを境に大きく変わるという印象があります。
少なくとも1960年代までのヤマハは今とはまったく違っていて、あたたかみのある音がふわんと響く優しさで反応してくれるピアノで、マロニエ君は個人的には弾いていてかなり心地よい印象があります。

それ以降は良くも悪くも一気に近代的な、今風の華やかでエッジの立った音になっていきます。
時代がそういう音を要求したということもあるかもしれないし、材質問題や生産効率を突き詰めていくと、どうしてもそっち系の音になるのかもしれません。
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対応のまずさ

先日の夕方、注文していたものが届いたというので、それを受け取りにデパートに行った時のこと。
駐車場で珍しい経験をしました。

ここの駐車場は地下にあり、スロープを入ると中は4つのブースに分かれており、おそらくは車体のサイズでそれぞれに振り分けられるのですが、中で係の人が待機しており、車のサイズを判断して「❍番に行ってください」と告げられます。

指定されたブースにいくと、正面に鏡と「前進」「停止」などの電光表示のあるサインにしたがって車を止め、降りてPブレーキをかけてドアロック、横のドアから中に入ると、車の周りは無人になる。係の人が安全確認をしてボタンを押すと、車はザーッと横へスライドさせられて機械の中に入っていき、上からガーッと分厚い扉が落りてきてしばし車とのお別れになります。

この扉が閉まった時点で、駐車券が発行されるというシステムで、ここは入る時だけの場所。出るときは建物の正反対に行ってそこで精算をしたりサービス券を使ったりして、最後に自分の車を入れたブースの前に行き、駐車券を入れると順番に車が出てくるというシステムです。

さて、ひととおり買い物が済んで駐車場の精算所にいくと、ただならぬ雰囲気にびっくり。
平日にもかかわらず人でごった返しており、ここはよく利用するものの、こんな光景を見たのは初めてでした。

まずはサービス券をもらおうと、駐車券とレシートを出すと、「実は停電がありまして…」と初老の男性が話し始めました。
その説明がまったく要領を得ないもので、なんと言っているのかわからず、問いにも答えられず、困惑しているのがわかります。やむなく何度も人を変えながら情報収集した結果、概ね下記の通り。
停電があって駐車場の機械が全停止してしまった。店内の照明は自家発電で賄っているものの、駐車場のシステムは大量の電力を必要とするため、それでは動かない。
しばらくして停電そのものは復旧したが、一旦止まった駐車場のシステムは、専門家があれこれ設定しないと再開できないため、至急業者を呼んでいるところというもの。

いつ直るかもわからないため、店内で遊んでいるわけにもいかないという選択肢のない状態。

ほどなくして、作業服やつなぎを着た業者の人達が5〜6人やって来て、ああこれで動くのかと思ったら、そこからさらに時間を要することに。
各ブース脇についた液晶画面のようなものをしきりに操作しているものの、ウンともスンとも言わないのは傍目に見ていても明らかで、その間にも買い物を終えた人達が車を出そうとずんずん増えていきます。

この間、じっと待たされた我々にはほとんど説明らしい説明はなく、見通しも立たず、「お急ぎの方には往復分のタクシーのチケットをお渡しします。」というだけ。
最終的にはそれも検討しなくてはいけないことかもしれないけれど、そうしたらまた翌日車を取りに来なくてはならず、それも面倒なのでできればこの日の復旧を待って、乗って帰りたいと思いましたし、多くの人が同じなのか、タクシーで帰る人はほんの一握りでした。
マロニエ君を含めて何人もの人が係員に今どうなっているのか、見通しなどを尋ねますが「いま業者がやっていますから!」の一点張り。

それからしばらくして、第1ブースと第2ブースは復旧して車が出てくるようになったものの、第3と第4は依然としてまったく動き出す気配もないままで、ようやくわかったわずかな情報によると、第3と第4は機械内で車が移動している最中に停電したので、車を所定の場所に戻さないと再始動そのものができず、そのために業者が車を定位置に戻すべく、地下深くで手動で作業をやっているということでした。

もうこの時点で30分以上待たされています。
さらに、それからかなり経ったころ、はじめの車が手動で出口にスライドされてきて、それからついに機械が動き出しました。
結局自分の車が出てくるまでに、約1時間ほど狭い空間で待たされましたが、その間のデパート側の対応はお粗末を極めるものでした。

駐車場エリアには、デパートの社員らしき人はおらず、全員が駐車場担当のやや高齢の方ばかりで、あとは機械の業者のみ。
故障や不具合そのものはやむを得ないことだと思うけれど、あれだけ大勢のお客さん達が足止めを食って大変な迷惑を被ったのだから、デパート側としてはなんらかの責任ある立場の者が事態収拾の指揮をとり、お客さんにお詫びと説明と随時必要な対応をすべきではなかったと思いました。

しかも、そのデパートは日本最大手の地元でも老舗百貨店なのですから、これには失望しました。
幸いこの駐車場は、自分の車が出てきたことをガラス越しに確認し、仕切りドアのロックが解除されて車のある外へ出ていくシステムなので、寒い思いこそしなかったものの、広くはない待合室には自分の車を出したくても出せない人々がぎっしり押し込められていたわけで、もしマロニエ君だったら皆さんにキチッとしたお詫びと、せめて紙コップでいいからお茶の一杯ぐらい出しますね。

美しい店内に、高級品を並べることだけではなく、いざというときの対応や処理のしかたに、その店の質が顕われるもの。
マロニエ君の見るところ、この時の店側の対応はかなりマズイものだったにもかかわらず、大した混乱も不満も出ることなく終わったのは、ひとえに事態をおとなしく耐えてくれたお客さん達に助けられた面が非常に大きかったと思いました。
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モコモコから脱出

前回の調整で中音域のハンマーが全体に左寄りになっていることが判明、これを正しい位置に戻したら、弦溝の位置が変わってモコモコ音になってしまったことはすでに書いたとおりでした。

弦溝がずれて輪郭がなくなった音は、整えられた柔らかい音とはまったく違い、弾いていても鳴りもバラバラだしストレスがたまり、なにも楽しくありません。
とはいえ、新しい弦溝を刻むべく、ガマンしながら思い毎日少しは弾いてはいましたが、やはり本来の状態とはかけ離れただらしない音がするばかりで、ついに耐えかねて再調整というか、なんとかこの状態を脱すべく、調律師さんに再訪をお願いました。

調律師さんもそのことは充分にわかっておられたようで、前回は時間切れでもあったし、再度来ていただきました。
マロニエ君にはあまりわかりませんでしたが、調律師さんによればそれでも数週間ほど弾いたおかげでだいぶ落ち着いてきているとのこと。なにがどう落ち着いているのかよくわかりませんが、さっそく仕事開始となりました。

今回は、ハンマーが正しい位置に戻ってしばらく弾いたということで、ハンマーの整形をおこなうことに。
ヤスリを使って、一つひとつのハンマーを丁寧に薄く剥いていくことで、おかしくなっている打弦部分の形状を整え、新しい部分を表出させ、そこにコテを当てて音に輪郭を作るという作業プランのようです。

ちなみに我が家のシュベスターがたまたまそうなのか、シュベスターというメーカー全体がそうなのかはわかりませんが、調律師さんによるとハンマーのフェルトはそこそこいいものが付けられているそうで、薄く削られたフェルトはふわふわした雲のような綿状になっています。
一般的にハンマーの材質は近年かなり低下の一途を辿っているようで、とくに普及品ではフェルトを削ると、削りかすが粉状になってザラザラと下に落ちてしまうのはしばしば耳にしていたのですが、これは毛足の短い質の悪い羊毛をがちがちに固めただけだからとのこと。

ハンマーのメーカーはわかりませんでしたが、ともかく今どきのものに比べると弾力もあり、それだけでもまともなものが使われているということではあるようで、今はこんなことでもなんだか嬉しい気になってしまう時代になりました。
この作業が終わるだけでもかなりの時間を要しましたが、次は打弦部分にコテを当てて音に輪郭を出す作業だったのですが、モコモコ音があまりにひどかったためか、ハンマー整形しただけでも目が覚めたように音が明るくきれいになり、マロニエ君はこの時点ですっかり満足してしまいました。

すると「これでいいと思われるのであれば、できればコテはあてないでこのまま弾いていくほうが好ましいです。」ということなので、「じゃあ、これでいいです。」となりました。

そこから、調律をして音を整えるためのいろいろな調整などいろいろやっていただき、この日の作業が終わったのは夜の八時半。作業開始が2時だったので、実に6時間半の作業でした。
しかも、この方はほとんど休憩というのを取られず、お茶などもちょっとした合間にごくごくと飲まれるし、雑談などをしていてもほとんど手は止まらず作業が続きますから、滞在時間と作業時間はきわめて近いものになります。

つい先日の調整が4時間半だったので、今回と合わせると、ひと月内で11時間に迫る作業となりました。
アップライトピアノでこれだけ時間をかけて調整をしてくださる調律師さん、あるいはそれを依頼される方は、あまり多くはないだろうと思いますが、ピアノはやはり調整しだいのものなので、やればやっただけの結果が出て、今回はかなり良くなりました。

この調律師さんは、シュベスターの経験は少ないとのことですが、とても良く鳴るピアノだと褒めていただきました。
低音はかなり迫力があるし、中音には温かい歌心があり、さらに「普通は高音になるに従って音が痩せて伸びがなくなるものだけれど、このピアノにはそれがなく高音域でもちゃんと音が伸びている」んだそうです。

そのあたりは、やはり響板の材質にも拠るところが大きいのではないかと思われます。
人工的な材料を多用して無理に鳴らしているピアノは、すべて計算ずくでMAXでがんばるけれど、実はストレスまみれの人みたいで余裕がありませんが、美しい音楽には自然さやゆとりこそ必要なものだと思うこのごろです。
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何をしてるのか?

BSのクラシック倶楽部アラカルトで、一昨年秋のアンスネスの東京でのリサイタルから、シベリウスのソナチネ第1番とドビュッシーの版画を視聴しましたが、ピアノのほうに不可解というか、驚いたことがありました。

このときのアンスネスの来日公演では以前にもこのブログに書いた覚えがありますが、スタインウェイの大屋根が標準よりもずっと高く開けられていることが演奏以上に気になり、(アンスネスの演奏は非常にオーソドックスであることもあって)そちらばかりが記憶に残りました。
大屋根を支える突上棒の先にはエクステンションバーみたいなものが取り付けられて、そのぶん通常よりも大屋根が大きく開かれてピアノが異様な姿になっていることと、やたら音が生々しくパンパン鳴っているのは、今回もやはり同じ印象でした。

ところが、前回うっかり見落としていたことがありました。
よく見ると、ピアノの内部に普段見慣れぬ小さなモノがあって、はじめはスマホのようなものに譜面でも仕込んであるのかとも思ったのですが、カメラが寄っていくと、そうではないことがわかり、さらにはなんだかよくわからない物体がフレームの交差するところや、それ以外にもあちこちに取り付けられており、色や形もさまざま。

平べったいもの、黒い円筒形のようなもの、赤茶色のお鮨ぐらいの小さなものなど、自分の目で確認できただけでも10個はありました。
それが何であるのかは今のところさっぱりわからないものの、大屋根が異様に大きく開かれていることと何か関係しているよう思えてなりません。

音は、しょせんはBDレコーダーに繋いだアンプとスピーカーを通して聞くもので、現場で実演を聴いたわけではないけれど、いつもその状態で聴いている経験からすると、あきらかに大きな音がピアノから出ていることがわかるし、しかもその音はピアノ本来のパワーであるとか鳴りの良さ、あるいはピアニストのタッチがもたらすものというものより、何か意図的に増幅されたもののように聴こえます。
少なくとも昔のピアノが持っていたような深くて豊饒なリッチな音というたぐいではなく、いかにも現代のピアノらしい平坦で整った音が、そのままボリュームアップしたという感じです。

早い話が、マイクを通した音みたいな感じでもあり、果たしてどんなからくりなのか調律師さんあたりに聞いてみるなどして、少し調査してみたいと思っているところですが、いずれにしろこんなものは初めて見た気がします。

番組は、55分の1回で収まりきれなかったものをアラカルトとして放送しているようで、アンスネスのあとはアレクセイ・ヴォロディンのリサイタルからプロコフィエフのバレエ『ロメオとジュリエット』から10の小品が続けて放映されましたが、同じ番組で続けて聴くものだけに、こちらは前半のアンスネスに比べてずいぶん地味でコンパクトな響きに聞こえてしまいました。

もちろんホールも違うし、ピアニストも違いますが、いずれもピアノは新し目のスタインウェイDだし、そこにはなにか大きな違いがあるとしか思えませんでした。

マロニエ君の個人的な想像ですが、アンスネスのリサイタルで使われたピアノ(もしくは装着された装置)は誰かが考え出した、音の増幅のためのからくりなんではなかろうかと思います。
それも、ただマイクを使って電気的にボリュームアップしたというのではなく、もう少し凝ったものなのかもしれません。

そういえば以前お会いしたことのある音楽のお好きな病院の院長先生は、ゲルマニウムの大変な信奉者で、ご自分の体はもちろん大きな病院に置かれていた高級なオーディオ装置やスタインウェイD/ベーゼンのインペリアルに「音のため」ということで、フレームなどゲルマニウムがいたるところに貼り付けてあったことを思い出しました。

そういう類のものなのか、あるいはもっと科学的な裏付けや効果をもった装置なのか、そこらはわかりませんが明らかに音が大きくパワフルになっていたのは事実のようでした。
音を増幅させるということは一概に悪いことだと決めつけることはできないことかもしれないし、そもそも楽器そのものが音を増幅するように作られているものなので、どこまでが許されることなのかはマロニエ君にはわかりません。

なんとなく現時点での印象としては、ピアノがドーピングでもしているような、本来の力ではないものを出している不自然さを感じたことも事実です。
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昨年のバルダ

クラシック倶楽部の録画から、昨年東京文化会館小ホールで行われたアンリ・バルダのピアノリサイタルを視聴しました。

今回の曲目は、お得意のショパンやラヴェルとは打って変わってバッハとシューベルト。
平均律第1巻からNo,1/8/4/19/20という5曲と、シューベルトでは即興曲はD935の全4曲というマロニエ君にとっては意外なもの。

しかし、ステージ上に現れたときから気難しそうなその人は紛れもなくアンリ・バルダ氏で、お辞儀をするとき僅かに笑顔が覗くものの、基本的にはなんだかいつも不平不満の溜まった神経質そうなお方という感じが漂うのもこの人ならでは。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』を読んでいたので、バルダ氏の気難しさがいかに強烈なものであるかをいささか知るだけ、いよいよにそう見えるのかもしれませんが。

バルダ氏の指からどんなバッハが紡がれるのかという期待よりも先に、ピアノの前に座った彼は躊躇なく第1番のプレリュードを弾きはじめましたが、なんともそのテンポの早いことに度肝を抜かれました。
はじめはこちらの感覚がついていけないので、追いかけるのに必死という感じになる。

しかし不思議な事に、その異様なテンポも聴き進むにつれ納得させられてくるものがあり、バルダ氏のピアノが今日の大多数のピアニストがやっていることとは、まるで考えもアプローチも違うものだということがわかってくるようです。
まず言えることは、彼は作曲家がバッハだからといって特に気負ったふうでもなく、どの音楽に対しても自分の感性を通して再創造されたものをピアノという楽器を用いて、ためらうことなく表出してくるということ。

それは強い確信に満ち、現代においては幅広い聴き手から好まれるものではないかもしれないけれど、「イヤだったら聴くな」といわれているようでもあるし、「好みに合わせた演奏をするために自分を変えることは絶対しない!」という頑固さがこの人を聴く醍醐味でもあるようです。
今どきの正確一辺倒の演奏に慣れている耳にはある種の怖ささえ感じるほど。
その怖さの中でヒリヒリしながら、彼独特の(そしてフランス的な)美の世界を楽しむことは、この人以外で味わえるものではないようです。

コンクール世代のピアニストたちにとっては、およそ考えられない演奏で、現代のステージではある種の違和感がないではないけれど、そんなことは知ったことではないというご様子で、誰がなんと言おうが自分の感性と美意識を貫き通し、徹底してそれで表現していくという姿は、ピアニストというよりは、より普遍的な芸術家というイメージのほうが強く意識させられる気がします。
特に最近はピアニストという言葉の中にアスリート的要素であったりタレント的要素がより強まっていると感じるマロニエ君ですが、バルダ氏はさすがにそういうものはまったくのゼロで、そういう意味でも数少ない潔いピアニストだと思いました。

後半で聴いたシューベルトも、基本的にはバッハと同様で、サバサバしたテンポ。
しかし決して無機質でも冷たくもなく、そのサバサバの陰に音楽の持つ味わいや息づかいがそっと隠されており、それをチラチラ感じるけれど、表面的には知らん顔で、このピアニストらしい偽悪趣味なのかもしれません。
すべてにこの人のセンスが窺えます。

バルダの音は、スタインウェイで弾いてもどこかフランスのピアノのような、色彩感と華やぎがあります。
こじんまりとしていてシャープに引き締っており、バルダの音楽作りと相まって、それらがさざなみのように折り重なって、まるで美しい鉱石が密集するように響き渡り、ほかのピアニストでは決して聴くことのできない美の世界が堪能できるようです。

音も一見冷たいようだけど、それはパリのような都会人特有の、感情をベタベタ表に出さず、涼しい顔をしてみせる気質が現れており、いわばやせ我慢をする人の内奥にあるだろう心情を察するように聴いていると、このバルダの演奏が一見表面的な華やかさ軽さの奥に、深い心情や彼の人生そのものが見え隠れするようでもありました。
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