ナショナルエディション

ついに緊急事態宣言は発令される段階に至りました。
福岡県も含まれており、食料ほか生活必需品を買いに行く以外、何もしちゃいけない雰囲気。
日ごろ普通にやっていたことが、ことごとく自粛対象となるようでもあるし、やはりこうなってくるとなにをするにも気持ちが整いません。

こんな中で、くだらんブログなんぞますます読んでくださる方もないとは思うけれど、もともと自己満足ではあるし、家で音楽を聴いたりブログを書くのは、感染リスクのないことなので、行動としてはマルの部類に入るわけで、そう考えると続けられるだけ続けていこうかと思います。


というわけでフランソワ・デュモンのCDから延長する内容。

ブックレットを見ると、ピアニストの名前のすぐ下に、わざわざ楽譜はヤン・エキエルによるナショナルエディションが使われている旨がさも大事なことのように記述されていました。

出ました、ナショナルエディション!
個人的な考えなので思い切って言わせていただくと、このナショナルエディションが唯一絶対のように扱われるようになってから、ショパンの演奏は、一気につまらないものになったような印象が拭えません。

ショパン研究の成果としては、それが最も正しく、原典版という権威を得ているのかもしれないけれど、個人的にはそれがなんだ!?としか思いません。
また、厳密には必ずしも正しいとは結論づけられない、絶対ではないとする意見もあるようで、どことなくポーランドがショパンの正統であるという覇権を握らんがための匂いを感じてしまいます。

ナショナルエディションによる演奏を聴いていると、ところどころに「あれ?」と思うような音が聞こえたりして、率直に言わせてもらうとあまり美しいとは思えません。
学究的には正しいことかもしれないけれど、なんだか違和感があるし、滑らかな音の流れの中に異物が混入している感じがあったりするのに、それがそんなにエライくて価値のあることなのかと思います。

ピアニストは自分の表現の自由までも奪われて、ナショナルエディションに従っています!というような演奏をせざるを得ないようになった印象があります。
ショパンコンクール自体がそれだから、それが世のショパン演奏の正統流派として大手を振り、大股で道路の真ん中を歩いています。
べつにポーランドに楯突くわけではないけれども、ショパンの研究と解釈という分野における強権的なものを感じて、マロニエ君はどうにも賛成しかねるものがあります。

コンクールに出るならまだしも、プロのピアニストが何の版を使おうが自由であるはずなのに、その呪縛と圧力があるのは疑問を感じます。

まだ指揮者のほうがいろいろなシンフォニーをいろいろな版で演奏したりしているけれど、ショパンに関してはそういう選択肢というか、自由は次第になくなっているような雰囲気を感じるのはマロニエ君の取り越し苦労でしょうか?

ショパン自身も演奏するたび、レッスンするたびに、細部を変更したり、書き換えたり、即興的であったり、本人でさえもどれが決定稿ということはなかったと伝えられています。
しかるに、まるで宗教が他派をすべて排撃するように、このナショナルエディションが唯一絶対のごとく君臨するのは個人的には違和感を感じます。

いまやコルトー版などはほとんど邪教のようで、芸術の分野で、そこまで厳しく限定するのは少しおかしくないかと思いますし、そもそも解釈とは突き詰めれば自分版だと思うのですが…。
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フランソワ・デュモン

新型コロナウイルスはますます猛威を振るって、いったいどうなるのかと、世界中が不安で厳しい日々を送っています。
TVニュースなどをつけていると、収束はおろか、日々怪物が巨大化していくようで、たまりません。
ブログでまでコロナコロナと喚いても仕方がないので、いつもの話題に。


またも期待してCDが外れました。

マロニエ君が好ましく思っているピアニストの中にフランソワ・デュモンがいます。
彼は2010年のショパンコンクールで第5位になったフランスのピアニスト。

第1位のアヴデーエワ以下、ゲニューシャス、トリフォノフ、ボシャノフと精鋭が並ぶ中、個人的には最も情感というコンクールではあまり期待できないものを感じ、聴いていて気持ちが乗っていけるショパンを演奏したピアニストということで、このデュモンの今後には期待していました。

純粋に技巧だけなら、4位以上の面々のほうが上かもしれないけれど、コンクールのライブCDを聴いていて、この人には他のコンテスタントにはないショパンの香りがあって、やはりフランスという国はさすがだなあと思ったし、何度も聞いてみたくなる唯一の人でした。

しかし、その後は期待されるほどのCDもリリースされず、わずかにラヴェルのピアノ曲集などを愛聴していましたが、やはりこの人にはショパンを弾いて欲しいと思っていました。

それから10年も経って、ようやく彼がショパンの21のノクターンをリリースしているのを知り、おお!!!というわけで、直ちに購入と思いましたが、あまり知名度がないためなのか、どこも「在庫なし/入荷予定不明」という状況。
今年のはじめに数カ月待ち覚悟で発注していたところ、さきごろ入荷のお知らせメールが届いて、ほどなく手許に。

期待に胸をふくらませながら聴いてみると…、ん???
第1番から固くこわばった感じで、なんだかいやな気配がよぎりました。
経験的に、良い演奏かどうか、少なくとも自分の好みかどうかは聴きはじめのごく短時間で決まってしまうので、好ましいものはすずしい空気を吸い込むように、ストレスなく耳に身体に入ってくるもの。

このCDで聴くデュモンは、ショパンコンクールでみせたみずみずしい語りかけや、詩的なものが随所に見え隠れするような絶妙さはなく、よくありがちな型通りの演奏で、この人ほんらいの良さがまるで出ていない印象でした。
必要なゆらぎやデフォルメがまったくない、プロなら誰でも弾けるような、取り立ててケチをつけるようなところもない…というだけのワクワクしない演奏。

マロニエ君が期待していたものは、あくまでもデュモンその人が感じたままのショパンであること。
それがほとんど感じられなかったのは、いったいどういうわけなのか。

とくにノクターンは、歌いこみのデリケートなイントネーションやアクセント、一瞬ごとの奏者の感性を受け取るところに醍醐味があると思っていますが、そういうものを丁寧に伝えようとする演奏ではなく、あくまでグローバル基準に舵を切ったような弾き方でした。
フランス語の多少はエゴもある演奏でいいのに、無理に英語を喋って常識的に振る舞おうとしているようで、だったらわざわざ長い時間待ってまでゲットする必要もなかったのにと思うばかりです。

現代のピアニストは売れるために個性を捨て、個性を捨てるから埋没するというジレンマに陥っているのかもしれません。

このデュモンのノクターン全集、いいところももちろんあるにはあるけれど、全体を通して何度か聴いてみて、後味として残るのはあくまで「普通」でしかありませんでした。
個性ある演奏家も、その個性を消さないといけないのだとすると、コンクールの基準は独り立ちしたあとのピアニストにもずっとついてまわるようで、それって何かが間違っている気がします。

間違っているとは思うけれども、世の趨勢というものには逆らえないものなんでしょうね…。
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チョン・キョンファ

BSのクラシック倶楽部でチョン・キョンファの2018年来日公演の様子を視聴しました。
以前にも放映され、再放送になっているものですが、ようやく再生ボタンを押しました。

チョン・キョンファのヴァイオリンは昔からとくに好きというほどではなかったけれど、この世代では世界的なヴァイオリニストのひとりとして数えられ、避けて通ることはできない存在だったから、折々には聴いてきたように思います。
つややかで洗練された演奏というのとは違うけれど、小さな身体の奥にいつも熱いものがぐつぐつとたぎっていて、演奏家としての誠実さと相まったものがこの人の魅力だったように思います。

彼女もすでに70代になり、若いころのような柔軟性やパンチはないけれど、情熱はまったく衰えずといった様子でした。
音形のひとつひとつに自分なりの意味を見出し、そのすべてに情念とでもいうべきものが込められているのは、最近のあっさりした演奏傾向とは逆を行くもので、断固としてそれを貫いている人だと思います。

ただ、自分でも驚いたことがありました。
それは最近のように、若い世代の演奏家の、ある意味無機質だけれど技巧的によく訓練されたスムーズな演奏が主流となって、好むと好まないとにかかわらず、そういう演奏を耳にすることが頻繁になってくると、不思議なことにチョン・キョンファの演奏がやたら古くさい、前時代的な感じがしたのです。
まるで昔流行ったファッションのようで、いま見るとちょっと「あれー…」みたいな感じ。

シャコンヌの入魂の仕方などは、バッハをあれほど直截に、劇的に、激く打ちつけ、苦しみ、思いのたけを吐き出すように弾いていましたが、マロニエ君のイメージでは、こういう曲はもう少し端正に曲を進めながら、人間の何か深くて激しいものがチラチラと見え隠れするほうがよほど聴く者の心を打つように思います。
バッハというよりは、なにか全身タイツの前衛バレエでもみているような感じでした。

フランクのソナタも、冒頭から一つ一つの音に呼吸と表情がつけられすぎているようで、これが彼女の解釈であり感じ方だと思うけれど、それがあまりにもこまかい刻みで入っていくため、フレーズが小間切れになり、却って曲の流れを損なっているように感じて、なんだか疲れます。

もうすこし力まずに音楽に身を任せたらどうかと思うのですが、こちらがそう思う陰には、先に書いたように最近の演奏傾向というものが──決して肯定はしていないけれど──知らぬ間に作用しているようにも思ったわけで、ちょっと複雑な気分でした。

チョン・キョンファは、おそらくは曲の解釈は入念にやっている筈だけれど、自分の主張のほうが優先されてしまうタイプの人で、若い頃はまだそこに一定の制御もできていたけれど、ある程度歳もとってくると、どうしても自我を抑える力が弱まるもので、結果的に自分に自分がふりまわされているように感じました。

えてしてこういうタイプの演奏家は、音楽に燃焼するのか、自己表出に気を取られてしまうのか、わからなくなるというのはままあることのように思います。

そうはいっても、こういうタイプの演奏家も出てこなくなるのかと思うと、それはそれで残念です。
やはり演奏家というものは「自分はこうだ」というものを一定の約束事の上に表現するのでなければダメで、誰が弾いているのかさっぱりわからないような、ただ上手くてきれいなだけの、規格品みたいな演奏なら聴く価値がありません。
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世代の響き

録画ではあるものの、このところ立て続けに3世代のスタインウェイによるコンサートをTV録画で触れることになりましたが、わりと短い期間であったため、それぞれの特徴があらためて確認できた気がしています。

少なくとも1960年代ぐらいから近年までに関していうと、大きくは3つに分けることができるように思います。
拙い表現でいまさら音色の特徴をあれこれ言っても始まらないので、今回は東京タワーの番組で見たような、時代の景色に喩えてみます。

1970年代までは雄渾な筆致の油絵のような風景の美しさ、光と闇がおりなす雄大な景色。
寛容で、ふくよかで、しかも力強さがみなぎり、人間臭い幅がある。
ピアノが必要以上に前に出ることはなく、ピアニストの一歩後ろに回っているが、必要とあらばどのような表現にも即応できる度量と潜在力を秘め、底知れぬ可能性がある。

1980年代を過ぎると、しだいに都市化が進み、ビルが建ってきて、飛行機が飛びはじめる感じ。
音色はより透明感を増して、ある種の洗練も経てスタイリッシュに。
音色の個性も整えられ、スタインウェイらしさがより明快に。

次の区切りがいつかはわからいけれど、21世紀とでもしましょうか。
ビルは高層化され、乱立し、一見華やかだけれど、もはや石やレンガ造りの貴重な建築はつぎつぎに建て替えられる。
ライバルの台頭、大衆社会の到来ですべてが競争条理に呑まれ、質より利益の戦いが露骨になり、合理化の気運があらわに。
有名コンクールでは、楽器メーカー側も同時進行的な競いの場になり、本来の音質よりも弾きやすさとか、単なる音の通りとかいったものを重視。

あきらかに音が小さく痩せて、鳴らなくなってコンチェルトなどでは、どんなにピアニストが熱演しても埋もれてしまう印象があります。
もしかすると、機械などで測定すると数値としては「何デシベルある」というようなことで、根拠の無い印象であり思い込みなどと言われるかもしれないけれど、実際そんなことはどうでもいいのです。
楽器というのは、聴いている人に与える印象が概ね真実だと思うのです。

かつてのボディや床を震わすような強烈な鳴りは失われ、他社ライバルと似たようなきれいに整っているだけのピアノになってしまい、よく「今の政治家は小粒になった」といわれるのと同じでは。

…とはいえ、ピアニストもそれじゃ困るような本物もあまり見当たらないから、それでいいといえばそうかもしれないけれど、やはり寂しく残念なことに変わりはありません。

新品から数年がピークで、予め賞味期限が見切られたような雰囲気で、これも時代の必然かと思うと、少なくとも自分はそうなる前の良い時代に生きられ、佳き時代のピアノの音をコンサートやCDで楽しむことができたことを幸運だったと思うしかありません。

たとえばアラウが残した名盤の数々は、演奏が素晴らしいのは言うまでもないけれど、あの太い指でおだやかに鳴らされる美音は、当時の楽器の素晴らしさも一役買っていたと思います。

品質には疑問が残るのに、価格は値上がりする一方で、どうなっていくのかとため息が出るばかりです。
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コロナとCD

世界規模にまで急速に拡大したコロナウイルス。
都市の封鎖や外出制限、各国の入国制限という厳しい状況になりました。

とりわけヨーロッパの感染拡大は衝撃的でした。
フランスでは全土で生活に必要な食料品店以外のすべてのカフェやレストランも営業停止、ルーブルも演劇も何かもがストップ、そうこうしているうちに「外出禁止令」が発令されたというのですから、この展開には驚くばかりです。
仕事、生活必需品の買い物、子どもや病人の世話以外は外出禁止。
違反をしたら罰金だそうで、第二次大戦のナチス占領下でも外出禁止は夜間のみだったそうで、昼夜を通じての禁止措置は仏史以来の初めてのことだとか。

今年は春を待たずにこんな厳しい事態が待ち受けていただなんて、誰が予想できたでしょう。
フランスに続いて、ニューヨークなどアメリカの各都市が外出禁止令となる気配があるそうで、もはや爆弾の飛んでこない戦時下のような様相。

当然のように、あらゆるイベントは中止に追い込まれ、スポーツも無観客試合などは日本でも当たり前になりつつあり、コンサートなども中止が当たり前のような状態で、テレビで大相撲の中継をちらっと見ましたが…なんとも堪らない気持ちになる光景でした。

当然なんでしょうが、クラシックのコンサートも軒並み中止という話を聞きます。
それでなくても、スポーツや他の音楽イベントとは違ってクラシックは慢性的な不況状態だったところへこんなことになったのでは、演奏家たちはもちろん、このジャンルそのものがどうなってしまうのだろうと思います。

まずは人の命であり、次に来るのが経済なのは当然ですが、その経済も世界規模で崩壊するのではという危機感が広がり、すでに「コロナ恐慌」などという言葉もちらほら出てきていて、とにかく困ったことになりました。

通常の経済活動が一斉にスイッチOFFみたいな危機に瀕しているわけで、もはやコンサートどころではないということでしょう。


最近読んだアンドラーシュ・シフの『静寂から音楽が生まれる』の中に書かれていて驚いたことが。
それは、一時期はこのピアニストの収入の約半分はCDによるものだったものが、現在ではわずか10分の1ほどまでに減少し、収入面ではコンサートの比重が増したというのです。

シフといえば、まあ世界のトップクラスのピアニストに数えられ、CDもバッハやベートーヴェンなど渋めのものではあるけれど、一時期は着実にリリースされてマロニエ君もよく買っていたものですが、このところ新譜があまりないなあという気はしていました。
かなりの人気演奏家であっても、新しいCDというのは激減しているのはひしひしと感じるところで、クラシック音楽の火はほとんど消えかかっているのでは?と思います。

とにかく、今どき、だれもCDなど買わない環境になったんですね。
さほど音楽なんぞに興味が無い上、その気になればYouTubeなどネットでほとんど無制限に聴くことができるようになり、それが当たり前の社会で生きているのに、わざわざ一枚につき2000〜3000円も出してCDを買うなんて、よほどの好きものか変わり者でないかぎりしないのでしょう。

もちろん、マロニエ君はその変わり者のはしくれなんでしょうけど。
今のうちに欲しいCDは買っておかないと、そのうちCDそのものが買えなくなる日が来るかも…ぐらいに思っていたほうがいいかもしれません。

このクラシック音楽不況の中で、小さな蝋燭の火のようになってしまっていたCD業界が、今回のコロナのひと吹きで消えてしまわないよう、音楽の神様に願うばかりです。
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HJ LIM-2

ついにWHOがパンデミック宣言をするに至ったコロナウイルス騒ぎ。
この渦中、のん気にピアノのことなんぞ書き連ねるのも違和感があるとは思いつつ「自粛」したところでなにがどうなるものでもなく、とりあえず従来通りにピアノ及びその周辺ネタで続けることにします。


HJ LIMのベートーヴェンにしばらくハマってしまい、このピアニズムによる他の作曲家の作品も聴いてみたいと思いCDを探したら、思ったほどありませんでした。
その中から、ラヴェルとスクリャービンで構成されたアルバムを購入。
ラヴェル:高貴で感傷的なワルツ/ソナチネ/ラ・ヴァルス
スクリャービン:ソナタNo.4/No.5/ワルツ op.39/2つの詩曲

平均的なピアニストにくらべればもちろん元気はいいけれど、一連のベートーヴェンで聴いた強烈なインパクトからすれば、ちょっと表現の振れ幅がセーブされた感じがあり、あの勢いでラヴェルやスクリャービンを料理したら、さぞかしエキサイティングで面白いことになるだろうという予想は、半分ぐらいしか当たらなかったという感じ。

パンチ、センス、自在さ、思い切りの良さ、どれもあるにはあります。
しかしベートーヴェンにあった全身で飛びかかっていくような突破感とか、次から次に音が前のめりに覆いかぶさってくるようなスリルはなく、最後の最後でやや制御が効いているような感じがあり、だれかから何か言われて、やんちゃ娘がほんの少しおとなしくしている感じが気にかかりました。

人が心を鷲掴みにされたり感銘を得たりするものは、その最後の紙一枚が違いが大きくものをいいます。

自分の感性の命じるまま、猫のようにしなやかになったかと思えば野生的であったりの変幻自在さ、いったんばらばらにしておいて最後で一気に引き絞って解決に落とすなど、その際どさ、さらにはそれを確かな技巧が下支えしているのがこの人の面白み。
人がどう思おうと私はこうなんだという物怖じしない度胸、エゴと大胆さが魅力であったけれど、どことなく常識の範囲を大きくはみ出さないよう制御している気配…。

本人はもっと暴れたかったのかもしれないけれど、CD制作会社とか録音スタッフがそれを許さず、キズのない常識寄りの演奏にさせたということかもしれません。

あるいは、ベートーヴェンで大胆に思えたことは、同じようなことをしてもラヴェルやスクリャービンで大して目立たず、作品の時代や構造そのものの違いによるものかもしれないということも、まったくないことではないかもしれません。

ただ、このCDのことはわからないけれど、一般論としてレコード会社だのプロデューサーだのが演奏のこまかい内容にまで口を挟み、あれこれ注文をつけて、駆け出しのピアニストであればあるほど、本人の思惑通りの演奏ができないということは往々にしてあるようです。
それがいい場合もあれば、個性をスポイルする場合もある。


それにしても、韓国には素晴らしいピアニストがいるものです。
思いつくだけでもクン・ウー・パイク、イム・ドンミン/ドンヒョク兄弟、ソン・ヨルム、そしてこのHJ LIMなど、それぞれ個性は違えど聴くに値する、素晴らしい人ばかり。

名前は覚えていないけれど、以前コンサートで聴いた若手の何人かもなかなか唸らされる演奏であったし、韓国はよほどピアノの教育制度が素晴らしいのかと思います。
音楽的な約束事がきちんと守られ、節度とコクがあり、しかも情感の裏打ちもされているから相応の感銘が得られる。
ショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンを推す人もあるかもしれませんが、彼は良くも悪くも今どきの薄味な感じを受けます。
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パンデミック?

新型コロナウイルスの騒ぎは日々拡大し、深刻さの度合いを増しているようで、困ったことになりました。
くわえてしんどいのは、収束の見通しなど、先が読めないことでしょうか。

このような危難に際して、一市民としては日々の情報には敏感でなくてはいけないとは思うのですが、連日にわたり朝から晩までコロナ関連の報道を浴びせられていると、それだけでも気分は滅入り疲れきってしまいます。

ウイルスという目に見えない敵を相手にするのは、最も陰湿な戦いを強いられているようなもので、世にはびこるのは不安と疑心暗鬼。

マロニエ君のように情報に対して常に周回遅れの人間にとっては、気づいた時にはもうマスクなど買えるはずもなく、スーパーに行った際に薬局などをいちおう覗いてはみるものの、どこも棚はガランとして品物はなく、「入荷の目処は立っていません」みたいな紙がプラプラと下がっているだけ。

たった一度だけ、偶然だったのか無いはずの棚に7枚入りのマスクがほんの少しあって、本能的に手を伸ばしてゾワゾワするような気持ちでレジに持って行き、どうにか購入できたことがありますが、それも支払いが済んだ時には、次々に人の手にとられて、あっという間になくなりました。
あとは家にあったわずかな買い置きのマスクをかき集めて、これをなんとか大事に使うのが関の山で、ここ最近ではマスクをなんとか手に入れようという意欲も失いました。

隔離、封鎖、さらには非常事態宣言などという言葉も、なんともいえず心に重くのしかかるというか、いやでも絶望的な気分にさせられます。
世の中のイベントやら経済活動やら、あらゆる「動き」が自粛や中止となり、社会が一気に沈鬱な色に。

さらに個人的には、追い打ちをかけたのがティッシュペーパーやトイレットペーパーの類が一斉に店頭から消えてしまったこと。
マロニエ君はちょっとしたストック癖みたいなものを抱えているために、これは人の何倍もダメージを感じます。

はじめの頃、大型スーパーで人目もはばからず大量買いしていく人達の動画がSNSでアップされ、これが非難の的になりましたが、たしかにあれは見ていて気持ちのいいものではありませんでした。

でも、だからといって、それをネットなどで非難する論調も、やたら正義正論の拳をふりかざして、個人的にはちょっといただけない響きがありました。
デマに乗せられて行動する人達を、エゴの権化、愚の骨頂、社会の恥のように厳しく言い立てて批判してますが、人は恐怖にかられたときに、そんなに冷静にデマと真実の見分けなんてつくのか?と思います。

ティッシュペーパーやトイレットペーパーが無いことが多くの人達のトラウマになり、いまだになかなか買えませんし、こう言っては申し訳ないけれど、うちに少しの買い置きはあっても、もし売っていれば…やっぱり買うと思います。

マロニエ君宅は先月、タイミング的に調律を控えていたのですが、このコロナ騒動のせいか、調律師さんもパッタリ連絡してこられず、きっと気を遣って遠慮しておられるんだろうと思います。
なんとなく、そんなことやってる場合じゃない!みたいな空気なので、どうしたものかという感じです。

驚いたのは、テレビで専門家が言っていましたが、アメリカの古くからの風習では、ウイルスが流行るとなんとかいうパーティーをやって、人が集まってわざと感染するんだとか。
これは薬など容易になかった時代からの知恵なんだそうで、一度感染すれば抗体ができて却って安心という、なんとも荒っぽい(でも理に適った?)やり方のようで、びっくり。
欧米は今でも基本的に風邪やインフルエンザでは病院に行く習慣がなく(医療費が日本のように安くないこともあり)、一部では今でも残っている風習というのですから、なんとたくましいことかと唸りました。
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東京タワー

『新・美の巨人』というTV番組がありますが、東京タワーが採り上げられたことがありました。
戦後復興の中で、テレビ/ラジオ放送が始まり、そのつど局ごとに建てられる電波塔乱立問題を解消するため、総合電波塔が建設されることになり、内藤多仲の設計によって1958年の暮れに竣工した当時世界で最も高い電波塔。

マロニエ君の子供時代は、叔父叔母たちが複数在住していたことから、休みになると足繁く家族で東京に赴いていましたが、羽田に着いてタクシーで首都高を走って都心に向かうと、横羽線がモノレールと平行して走るあたりから小さく見えてくるのが東京タワーでした。
それがだんだん大きくなり、環状線に入って芝公園付近に達するや、その圧倒的な姿はこれでもかとばかりに眼前に迫り、いつも胸踊らせながら食い入るように見つめていたものです。

東京タワーの高さは群を抜いており、これを脅かすものはひとつもなかったところに、まず霞が関ビルができ、次いで浜松町に貿易センタービルが登場して、大展望台並の高さのビルができたことだけでも驚きでした。
その後は新宿に京王プラザホテル、池袋にサンシャインとだんだんに高層ビルができましたが、それでもさほどの勢いではなく、東京タワーの高さと存在感はバブルの頃までは維持されていたように思います。

しかし時は流れ、六本木ヒルズをはじめ高層ビルの乱立がはじまり、ついにその優位性が名実ともに決定的に奪われたのは、東京スカイツリーの登場であることはいうまでもありません。
でも、それが却って東京タワーの数値ではない品格であったり、歴史遺産としての貴重な建造物としての存在価値を問い直す結果にもなったように思います。

さて、番組ではとび職による建造中の様子など、貴重な写真や映像が数多く紹介されましたが、「うわっ!」と声を出すほど驚いたのは、タワーそのものではなく、竣工時(すなわち60余年前)の東京の景色でした。
いったいどこの田園風景かと思うような、のどかな野っ原の上に、できたての東京タワーはえらく淋しげにポツンと立っているだけで、まわりにはウソのようになにもなく、足下に小石でも転がるように木造の粗末な建物がちょこちょこっとあるだけで、まさにガリバー旅行記の一場面のようでした。

それが今はどうでしょう。
林立する高層ビルが周囲を取り巻いて、かろうじて東京タワーだとわかるのは、昔よりも色目が派手になった赤の色と、夜は目にも鮮やかな照明技術により、美しく照らし出されている効果も大きいように思います。
まさにひとりぼっちでスタートした東京タワーは、いまや人混みの中に凛と立つ貴婦人といった感じで、その光景は時代そのものの激しい変化と、とどまるところのない競争社会を象徴しているようにも思えました。

日本人の精神の中には「判官贔屓」というのがあるから、今の東京タワーのほうが人々からより愛される存在になっているかもしれませんね。

ちなみに、設計した内藤多仲は「塔博士」とも言われる鉄塔設計の第一人者で、ほかに名古屋テレビ塔、通天閣、別府タワー、さっぽろテレビ塔、そして氏の設計した最後の塔が博多ポートタワーで、その下に遊園地があったことから子供の頃に何度も登った博多港の小さなタワーが、まさか東京タワーと同じ生みの親だったとは、今回はじめて知りました。

各タワーの写真を見比べてみると、なるほど鉄骨の組み方から逆台形の展望台の形状や窓の感じまで、どれも似ているというか、同じDNAであることがわかりましたが、その規模、スタイルからして、東京タワーがダントツにカッコイイですね。
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武家の奥方

BSプレミアム・クラシック倶楽部の録画から、田部京子ピアノリサイタルを視聴。
2019年12月浜離宮朝日ホール、シューマン:子供の情景より4曲、ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番。

田部さんのピアノは、すみずみまで掃除したての部屋みたいにきれいだけれども、どこかひんやりよそよそしさを感じるところが個人的には気になります。
あれほど型くずれもなく、ほとんどミスもなく正確に弾けるということは尊敬に値することですが、音楽・演奏に触れる醍醐味がそれで足りているのかとなると、どうなんでしょう。

ひとつ前にHJ LIMについて書きましたが、なにもかもが真逆とでもいうべきピアニスト。

それはシューマンの第1曲「知らない国々」のようなシンプルな曲がはじまった瞬間からも、ひしひしと伝わります。
たとえば、演奏に欠かせないもののひとつは呼吸だと思うけれど、田部さんのピアノには、むしろ呼吸という生々しいものを消し去ったところにある、なにかの細工物のような、端然とした佇まいといったイメージを覚えます。

慎ましやかで、愚痴をこぼさず、弱音を吐かず、しかも毅然と大きなものに挑んでゆく覚悟が秘められていて、まるでむかしの武家の奥方を思わせるような演奏。

ブラームスの3番のソナタのような曲を選び、準備し、コンサートのプログラムにあげるところにも決然とした気概のようなものを感じるし、何を弾いても終始一貫そのスタンスは変わらない。
解釈もアーティキュレーションも、少しもくせがなくて教科書的で、それをいかなる場合にも艶のある美音が支えている世界、それに徹することが田部さんの演奏家としての責任であり誠意なのかもしれません。

田部さんが楽壇に登場した頃は、大器などという言葉が使われたときもあったけれど、マロニエ君に言わせると、いかにも日本でピアノをやった人の美点を受け継ぐ人のようで、修練を重ねた手習いの成果のような、良い意味での日本人的な注意深い仕事ぶりを見る気がします。

それは見た目にも現れているというべきか、立ち居振る舞い、演奏する姿から衣装、人形のように見事に仕上がったヘアスタイルまで、すべてに細やかで一点のほころびもない完成度があり、これが田部さんの好む世界なんだろうと思われます。

どの曲においても、高い縫製技術で仕上げられたような信頼性がある。
そこには音楽を聴くワクワク感とはべつのもの、…あたかも口数の少ない人の話をじっと聞かされているようで、それはそれでひとつの個性なのかもしれません。
それでも、ブラームスの終楽章では、一種の到達の感動が得られたことは事実でした。


ピアノはそう新しくはない、おそらく1990年前後のスタインウェイのように見えましたが、いいピアノでした。

ネットによれば浜離宮朝日ホールは1992年のオープンとありますから、開館時に納入されたピアノだとすると27〜28年前ということになりますが、軽井沢の大賀ホールのスタインウェイとは明らかに世代が異なり、より現代的な要素を含みながら、それでもまだまだ「らしさ」が強く残っていた時代で、やはり今のものより格段に好みだと思いました。

それにしても、ブラームス・ピアノ・ソナタ第3番というのは、正直いわせてもらうと何回聴いてもダサい作品だと思ってしまいます。
随所にブラームスならではの味わい深い瞬間があるのはわかるけれども、全体を通して聴くと、やたら仰々しいものに付き合わされた気分のほうが勝ってしまい、もしかしてシンフォニーの下書きじゃないのか!?などと思います。

壮年期のポリーニあたりなら、壮大なピアノ作品として納得せざるを得ないような演奏をしたのかもしれませんが。
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HJ LIM

今年はベートーヴェンの生誕250年ということで、コンサートやCDなど、ベートーヴェンイヤーを意識したものも少なくないようです。

もはや、昔のような盛り上がりはないけれど、それでもベートーヴェンという巨大な存在ゆえか、それなりの注目度はあるのかも知れませんが。

コンサートなどもベートーヴェンイヤーにちなんだ企画やプログラミングになっているのでしょうし、CDもこの年にかこつけてベートーヴェンを録音発売(あるいは再販)というのはちょくちょく見かけます。

マロニエ君は今これが流行りと聞くとついソッポを向きたくなるほうで、世間がそれで注目したからといって素直に自分も歩調を合わせるといったことはしませんが、それでも、ベートーヴェンを耳にするチャンスが増えることで、そこから自分なりの聴きたいCDなどを引っ張り出してくるというようなことはあります。

実は、ベートーヴェンイヤーとは関係なく、昨年の秋ぐらいからすっかり彼の弦楽四重奏曲にハマっていたのですが、それはまた後日に書こうと思います。

その他のジャンルでは、思いつくままに聴いてはみるものの、これまでに繰り返し聴いたCDというのは、個々の演奏にある固有のちょっとした表情とか音のバランス、息遣いなど、演奏の指紋のように耳に残っているため、次がどうなると記憶にあるせいで、新鮮味がなくやめてしまうことがしばしばあります。
もちろん、ベートーヴェンともなると曲自体もあまりに耳慣れしてしまっていることが、あらたな楽しみとしては問題になることも。

ピアノソナタも長年聴いているし、下手ながら自分でも弾いたりしていると、さすがに飽きてくるもので、いまさらいずれかのボックスセットを取り出してしみじみ聴いてみようというところまでは達しないことが多いのも事実。

そんなとき、CD棚で別の探しものをしているときにふと目に入ったのがHJ LIMのソナタ集(中期の少ソナタを除く30曲)でした。
韓国の女性で、コンクールが嫌いというピアニスト。
購入したときは、ちょっとデフォルメがきつすぎるように感じたことと、ピアノの音(ヤマハCFX)があまり好きではないため、ひととおり聴いただけで放っていたものでした。

かなり鮮烈な演奏だった記憶はあったので、久しぶりに音を出してみると、これがかなり聴き応えのある素晴らしい演奏で驚きました。
奔放で恐れがなく、自分の感じるところに正直で、生きもの臭いぐらいな生命感が漲っています。
それが決して独りよがりでもなく、説得力のある演奏として成立しているし、さらに驚くべきは、HJ LIMというきわめて個性的なピアニストの演奏でありながら、ベートーヴェンをも常に感じるという点で、これはかなり稀なものではないかと思います。

伸縮自在、大きく掴んでは解決へと落としこむ、あれこれと疑義を発生させつつ最後にピタッと収支を合わせる、それでいて次がどうなるか予想がつかないスリルがいつもある。
演奏というものの魅力はまさにこういうところにあるのであって、世に横行する作品重視とクオリティばかりを前面に立てて安心するのは、演奏家としての自信の無さからくる逃げ道のように思います。
自分の考えを声にする自信がないから、当り障りのないニュートラルなスタンスにしておく安全策。

ベートーヴェンらしさとは何か、それが何かはわかりません。
しかし、いかにも楽譜を隅々まで検討しました、資料も読みました、自筆譜も見て検討しました、そうした研究や考慮を重ねた末にある演奏というものは、ある種の押し付けとか、あちこちに変なアクセントがついてみたりと、せっかくだけど何かが違うように思います。
よく言われることですが、ベートーヴェンは即興演奏の名人であった由。

苦難とこだわりの人生を送り、その作品は推敲に推敲を重ねたというけれども、その人物が存命中は即興の名人だったというのも有名ですね。
激情家で、現代でいうならクレーマーみたいな人物であったことを考えると、学級肌の学術発表のような演奏よりも、このHJ LIMのような一瞬一瞬の感興で掴みとったものをズバズバと音にしていくほうが、よほどベートーヴェンのに叶っているのではないかと思うのです。
とりわけハンマークラヴィア(とくに第4楽章)をあれだけの勢いで一心不乱に弾けるのは大したもの。

現代の一流とされる民主的な指揮者が、機能的なオーケストラを振って、全てがシナリオ通りに運んでいく、どこかウソっぽくて一向に炎のあがらないベートーヴェンよりは、いまだにフルトヴェングラーの雑味も含みながら正味で聴かせる演奏に満足と感銘を覚えるのは、理にかなったことかもしれません。
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1970年代のピアノ

BSクラシック倶楽部の録画から、佐藤卓史氏のピアノリサイタルを見てみました。

2018年6月1日、軽井沢大賀ホールでおこなわれた公演で、プログラムはシューベルト:楽興の時、ショパン:幻想即興曲/舟歌/英雄。

よく知らない方なのでネットで調べたら、芸大出身、ドイツなどの留学を経て、コンクールで入賞するなど、いわゆる日本人によくある王道を歩んでこられた方のようでした。
ホームページによれば、ライフワークとしてシューベルトのピアノ曲全曲演奏に取り組んでおられる由。

いかにもその経歴が納得という感じの堅い調子の演奏で、遊び心や微笑みといった要素は感じないけれども、カチッとしたスーツみたいな演奏を求める方には好まれるタイプのピアニストなんでしょうね。
ただ、シューベルトをライフワークとれているようだけれども、個人的にはもっとメロディのラインのおもしろみであったり、デリケートな呼吸の要素に気配りされたシューベルトのほうが聴きたいなぁというのも正直なところ。

ショパンも同様にいかつく、香り立つような要素は見い出せない印象でした。

インタビューでは、シューベルトもショパンも大きな会場で弾くよりは、サロンなど親しい友人などの前で演奏することを好んだ人達だから、このコンサートでも、聴衆の一人ひとりと親密なコンタクトを取るような演奏をしたいし、そのように聞いて欲しい、というようなことを言われていましたが、拙いマロニエ君の耳にはそのような演奏には聞こえず、むしろ大向うを狙った技巧主導型の演奏に思えました。

インタビューでの話の内容と実際の演奏が、合致していないように感じるのはよくあることですが…。


マロニエ君の記憶がまちがっていなければ、ずいぶん昔にミケランジェリが来日公演の折に持ち込んで置いて帰ったスタインウェイというのがあって、この会場のピアノは、それではないかと思いました。
軽井沢大賀ホールには、そういうピアノがあるというようなことを聞いたことがありました。

〜とここでネット調べてみると、やはりそのようでした。
ホームページにはNo.427700で1972年製とありますが、以前このブログ(2019.8.14)で正しいシリアルナンバーはエンディングナンバーとして判断すると、1973年製ということになるのかもしれません。

足などは新しい物に交換されているものの、鍵盤両脇の椀木のカーブの形状なども80年代以降のものとは微妙に異なるし、フレームのダンパーに近いあたりの上部にはエンボスの文字などが配されているのも、この時代までの特徴。

やはり、1970年台までのスタインウェイは、いい意味での素朴さがあり、ふくよかで厚みと太さがあります。
今のピアノは、どんな弾き方をしても華麗なサウンドでそれらしく鳴ってあげますよという一種の媚びがあり、一見奏者を選ばぬ許容量があるかのようですが、裏を返せばやたらピアノが前に出て、ピアニストや演奏を立てるというスタンスが失われている気もします。

その点で、この時代のスタインウェイは、パワーも表現力も非常にスケールの大きなものを秘めているけれど、主役はあくまでもピアニストであり音楽であり、ピアノは一歩引いた位置にあり、その潜在力を引き出すのはピアニストの技量や情熱に任されている感じ。

その点、スタインウェイに限らず今のピアノは表面的に音がきれいすぎて、整いすぎて、表現が悪いけれどそれがウザい。
それに対してこの時代のピアノは、一見おだやかそうにしているけれど、内側にはたくましい骨格と胸板と筋肉をもっており、ピアニストの扱い方ひとつで、詩人にもなればホール全体に嵐をも巻き起こせる可能性を秘めており、コンサートピアノはそうあってほしいものだと思いました。

ピアニストにとっても本当にいい演奏をしようと奮起するのは、やはりこういうピアノが現役を張った時代なのではないかと思いました。
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靴は大事

マロニエ君にとって、いつもウンザリすることのひとつが靴選び。
良いと思って購入したものが、いざ履いて出かけるとしばしば問題が起こり、普通に履き続けられるものがきわめて少ないのです。

靴が合わないというのは、単に足の問題だけにはとどまりません。
そこから体調やメンタルまで、心身の全域に悪影響がおよぶから困るのです。

なので靴選びはいよいよ念には念を入れて、サイズを始め、店内を何回もぐるぐる歩いてみたりと、それはもうしつこいばかりにチェックを重ねるのですが、本当のところは購入して実際に履いて出かけてみるまでわからない。
あれほど慎重に吟味して選んだはずの靴が、時間経過とともにじわじわとおかしなことになってきて、最後は脂汗をかきながら帰宅するときの、あの無念さといったらないのです。

したがって、マロニエ君にとって靴選びは少しも楽しいことではなく、また失敗したらという恐怖でしかありません。
「オシャレは足下から」なんていうけれど、正直そんなことはもはや二の次、そこそこ気に入った色とデザインで快適に履けるなら、安物で結構(というか高級品は買えませんが)。

昨年だけでも慎重に選んだつもりだったにもかかわらず、3足の靴がついに足になじまず、こればかりは人にあげるわけにもいかないので、数回履いただけの新品に近い靴をボツにせざるを得なくるのは、かなりのストレスです。

購入時はチェックも万全と思ったのに、後日、いざ履いて出かけてみると、はじめはほんの僅かな違和感からはじまり、それがだんだん募って確証へと変わり、やがて足先から毒素がまわるごとく全身に苦痛がひろがって疲労困憊するという流れ。
新しいからそのうち慣れてくる、革は伸びるなどと思って何度か試みますが一向に改善しない…どころか、時間が経てば経つほど靴の中はじんじんして熱を帯びたようになり、気分は落ち込み、体調までふらふらになってくる。

こうなると、恐怖が先に立って、でかけることにもビビってしまう始末。
ついには履きなれたヨレヨレのデッキシューズを車の後ろの床につんで出発しますが、やはりダメで、ものの10分でコンビニの駐車場に入って履き替えるといったことも何度かありました。
靴下のわずかな厚みによっても違うし、足の甲に当たっている感じのわずかな圧の分布のようなものが原因という気もしました。

では、そうならない靴はサイズが大きめでブカブカかというと、そうではなく、ちゃんと押さえるべき点は押さえていて、サイズの違いとも思えません。
でも合わないほうには、やはり変な圧迫感があるから、まずはそれを緩和したい。つまり広げたい。

靴の修理屋というのもあって、ここに持ち込んで広げてもらうよう依頼したこともありますが、結果的にほとんど効果はないし、ネットで見つけた「足になじまない革靴を広げるスプレー」というのも購入して試してみましたが、たいした効果はなく、万策尽きたというところでした。

そんなマロニエ君の靴事情ですが、過日ショッピングモールの靴店でバーゲンをやっていて、そこで試した靴が悪くない感じでした。
以前にも失敗したことがあるので、ここではもう買わないと決めていたけれど、1万円ちょっとのウォーキングシューズが30%offになっている上、PayPayが使えるとあって、それを使いたい気分にも後押しされて購入してみることに。

するとこれが全然疲れず、もともと1万円強のものだから品質もそれなりでしかないけれど、少なくともイヤなところがないのはとりあえず嬉しい限りでした。
マロニエ君の靴事情を知っている友人は、そんなのはきっと滅多にないんだから色違いを買っておけば?と言いますが、それも一理あるとは思いつつ、でもやはり2足目を買うほど魅力的でもないので、ただいま考え中です。

靴は大事ですね。
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カレンダー

ベヒシュタインのカレンダーというのがあるようで、先月たまたま手にしました。

ふた月ごと、大小2枚(計12枚)の写真があしらわれたもので、19世紀の工場の様子を描いた銅版画(おそらく)からはじまり、ワーグナー夫妻とリスト、ハンスフォン・フォン・ビューローがベヒシュタインの前で集う様子、ベルリンの国会議事堂に納品される写真、贅の限りを尽くしたヴィクトリア女王のベヒシュタイン、バックハウスとベヒシュタインなど、貴重な絵や写真にすっかり見入ってしまいました。

ロンドンの良質なコンサートが行われる会場として、現在もその権威を保ちながら存在するウィグモア・ホールは、もともとはベヒシュタイン・ホールであったとは!?今回はじめて知って驚きでした。

まさに、このピアノメーカーは、音楽の歴史とともにあったということが窺えるものでした。


これとは対照的だったのが、暮れにいただいたS社のカレンダー。

こちらもふた月ごと、6枚の写真があしらわれたいつものスタイルですが、今回のものはとくにパラパラッと見たときから首を傾げたくなる感じが。

後部ページには『S(ブランド名)のある暮らし』とあり、『世界中の邸宅でご愛用いただいているSピアノの美しい写真を題材に制作いたしました。』と記されています。
しかし、そこにあるのはまるで人の気配など感じないマンションの広告のような光景ばかりで、あまりの無機質な感じはピアノのある心なごむ空間どころではありません。
いまどきは、ちょっとした家電のタカログでも、もっとオシャレでヒューマンなぬくもりの演出は欠かせない要素となっているものですが…。

中でも5/6月と7/8月は際立っており、その言い知れぬ違和感に思わず見入ってしまいました。
すぐにわかったのは、なんとこの2枚のピアノは、アングルからイスの位置までまったく同じ写真で、いわゆる合成画像でした。
今の時代、報道写真でもないのだから、合成というのもアリかもしれません。
しかし、技術的にも、センスにおいても、これはいささか…と思いましたし、隣り合わせに同じ写真を使うというのも、もうちょっと配慮はなかったのかと思います。

部屋とピアノは、それぞれ光の感じも質感も違うし、部屋を写したアングルと、ピアノ写したカメラでは目線の高さがズレているのか、床と鍵盤が並行に見えないあたりは気持ちが悪くなりそうです。
今どきこんなレベルのフェイクがあるのかと、正直おどろきました。

メーカーにしてみれば、ただピアノを見せるのでなく、自社のピアノがさまざまな場所に置かれたイメージによって、ゆくゆくは販売に結びつけようという目論見があるのかもしれません。
とくに現在は何にも優先して新品の販売に的を絞っているのかもしれませんが、それにしてももうすこしやり方はなかったのかと首をひねりました。

それと、甚だ申し訳ないけれど、あれが「世界の邸宅」などとといわれても、本当にそう思う人なんているんでしょうか?
せいぜい海外のTVドラマのセットぐらいなもので、ましてそれがSピアノのイメージを高め、購入への一助になるなんて、とうてい思えませんが…。

ちなみに、今は「邸宅」の概念も変わっているのか、なにかというと総ガラス張りで海が一望できたり、タワーマンションの上層階で夜景が楽しめたり、友人とバーベキューができるみたいなことが贅沢の象徴とされており、ともかく文化のレベルが猛スピードで衰退しているように感じます。
そんなに海と夜景とバーベキューって重要ですかね?

少なくともそういう価値観に遠くないカレンダーでした。
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シフの協奏曲-2

アンドラーシュ・シフのピアノと指揮による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会。
それなりの予想はしていたものの、個人的にあまり好みの演奏ではありませんでした。
もちろん、高く評価する方もおいでのことだろうと思いますし、ここではあくまでもマロニエ君個人の感想です。

そもそも、なかば習慣的にベートーヴェンに期待するもの…。
たとえば、生々しい苦難と喜び、様式と非様式、改革者にしてロマンチスト、野趣、執拗、到達、炸裂があるかと思えば至福の美酒で酔わされるといったようなものとはどこか違っていました。
いかにもシフ流の、枯山水の境地のごとくで、生臭いベートーヴェンの世界に身を委ねる「あれ」とはずいぶん違いました。

個人的に一番好ましかったのは第2番で、続いて第3番、第4番で、この3曲はよく弾き込まれている印象。
ただし4番では、この典雅を極めた作品にはいささかタッチが荒いため音色への配慮に欠け、あちこちで似つかわしくないキツイ音がしばしば聞こえてくるのが気にかかりました。

いっぽう、第1番/第5番は、曲と演奏のキャラクターが噛み合っていない感じがついに最後まで払拭できずに終わりました。

このふたつは淡々と弾き進めばいいというものでもなく、全体に肯定的な推進力が必要。
あまり曲に乗れていないようであるのに、外面的には達観したような、すべてを見通した哲人が必要なものだけをうやうやしく取り出して見せているような風情があって、いささか独りよがりな印象を覚えました。

また(少なくともベートーヴェンを)レガートで弾くということがよほどお嫌いなのか、全体を通じて、やたらノンレガートもしくはスタッカートばかりで、バッハではよほどなめらかに自然に歌っているのに、なぜか腑に落ちない点でした。

ピアノフォルテ的な響きや表現も念頭に置いてのことかもしれないけれど、モダンピアノでその性能を充分に使い切らないような弾き方をすることに、どこまで意味があるんだろうとも思います。
以前書いた、古楽器奏者のブラウティハムは現代のスタインウェイできわめて美しく第5番を演奏をしていたことが、しばしば思い起こされました。
シフなりによく研究し、熟考を重ねてのことだとは思いますが、要は趣味が合いませんでした。

番組では、随所にシフのインタビューも挿入され、自分がベートーヴェンを弾くまでにいかに長い歳月を要したか、またベートーヴェンの偉大さ難しさ、人生や作品の特徴などを、まるで賢者のように自信たっぷりに解説していましたが、シフ自身は今の状況をとても楽しんでいるようでした。


アンコールには、バッハが聴けるのかと期待していたら、なんとピアノ・ソナタ(テレーゼ)が全曲演奏されました。
この曲を選んだ狙いとしては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番をもって終わり(op.73 1809年)、この第24番がop.78で同じく1809年に書かれたということから、皇帝のすぐあとに連なるピアノ作品という意味合いでもあったのだろうと思います。

もともと2楽章形式の短いソナタではあるものの、それをアンコールですべて弾くというのは意外でしたが、敢えてこの美しいソナタによって2日間の終わりを締めくくるといった意図でもあるのだろうと思われます。
それはともかく、この人はやはりソロのほうが好ましく思え、細かいニュアンスなどではっとさせられる瞬間があることも事実で、どうもコンチェルトでは真価が出ない人だと思いました。

最後になりましたが、使われたピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、超大型ピアノながら内気な性格のようで、ハスキーな小声にくわえて、ほとんどがつんつんとはじくようなタッチで弾かれるためか、このウィーンの名器を堪能するには至りませんでした。

ピアノはステージ中央でやや斜めに置かれ、前屋根をやや浮き上がった角度にするなど、こまかい演出もシフのこだわりだろうかと思われますが、この「ほんの少し斜めに置く」というのはとてもよかったと思います。
通常はソロであれコンチェルトであれ、ピアノはきっちりと横向きに置かれるのはまるで風情がないけれど、わずかに斜めに置くことで、やわらかな感じが出ていたし、雰囲気とはちょっとしたことでずいぶん変わるものだと思いました。
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シフの協奏曲-1

昨年11月、東京オペラシティーで2日間にわたって開催された、アンドラーシュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会の様子がEテレのクラシック音楽館で、2週にわたり放送されました。

実際の演奏会は、一日目が第2番、第3番、第4番、二日目が第1番、第5番というものだったようですが、放送順は逆でした。

その感想をブログに書こうと思っていたので、インタビューから演奏まですべてを視聴しましたが、約4時間という長丁場もさることながら、必ずしもマロニエ君にとって好みの演奏ではなかったこともあり、正直「時の経つのも忘れて楽しむ」というわけにもゆかず、むしろ頑張って見たというのが正直なところ。

まず全体を通しての、率直な印象でいうと、この人は必ずしもベートーヴェン向きの人ではないと思うし、さらには協奏曲向きの人ではないということでしょうか。

バッハのソロであれだけの見事な演奏を聴かせる人だから、シフは現代のピアニストの中でも屈指の存在だとは思うけれども、やはり演奏家というものは、自分に合った作品をもう少し厳選して欲しい…というか「すべき」だと思います。
この人は端然としながら確信にみちた演奏をする反面、曲によってはかなり面食らうような演奏もするから、波長の合った作品では右に出るもののない素晴らしさで聴く者を魅了するけれど、それがいつも期待通りに安定しているわけではありません。

むかしむかし、シフの素晴らしさに気づいたのはメンデルスゾーンの無言歌集であったし、決定的だったのはいうまでもなく一連のバッハ録音でした。
バッハは、ごく初期(録音が)のものは固さと慎重さが隠せなかったけれど、次第にツボにはまってこのピアニストの魅力が滲み出るものとなり、さらに後年2回目のバッハに至っては、各声部は代わる代わるに自在かつ即興的に飛び交い、まさ新境地を打ち立てたと言えるでしょう。
シューベルトのソナタでも、彼の人格そのもののような解釈で朗々と歌い出され、ある種とらえ難いシューベルト作品もシフの手にかかると、明瞭な意味と言語で視界がひらけて、あたかも曲自身の意志で流れ出すようでした。

いっぽう、あれ?と思ったのはモーツァルトがそれほどとは思えないものであったり、スカルラッティなどもいまいちで、こんなにもムラがあるのかと首をかしげることもしばしばでした。
とはいえ、近年の録音や動画で接した一連のバッハの素晴らしさは、そういう不満を吹き飛ばすほど素晴らしいもので、まさにバッハ演奏によって現代の巨匠の位置にまで駆け上がったように思います。

しかしながら、この人は、自分に合ったもの、自分が得意なものだけえは満足しないのか、シューマンなどのロマン派にも手を出し、さらにはベートーヴェン・ソナタ全曲にも挑み始めましたが、どこぞのステーキ店ではないけれど、いささか急速な事業展開をしすぎでは?という気がしなくもありませんでした。
そのうちのいくつかのソナタやディアベッリ変奏曲を聴いてみましたが、個人的にはバッハのような感銘を得るには至りませんでした。

シフ自身は自分のベートーヴェンをどのように思っているのだろうと思います。
世の中には、どんどんレパートリーを増やしていくピアニストもいれば、しだいにレパートリーを特定のものだけに絞って若いころ弾いたものでも弾かなくなってしまう人がいますが、シフは一見とても慎ましいイメージがあるけれど、レパートリーに関しては大胆な挑戦者であることを望んでいるようにも思えます。


とにかく、マロニエ君としては、このピアニストにベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏というのは、さほど食指が動かずCDも未購入でしたが、実際聴いてみて、やはり!というのが率直なところ。

ちなみに、カペラ・アンドレア・バルカというオーケストラは、アンドラーシュ・シフのシフが小舟という意味であることから、それをイタリア語に置き換えてアンドレア・バルカとなっている由。
シフの聖歌隊とでもいうのかどうか知らないけれど、シフの呼びかけで集まる非常設のアンサンブルのようで、名前からして彼が好きにやれる室内オーケストラということなんでしょう。

ネットによれば、今回はベートーヴェンの協奏曲を携えてのアジアツアーというものだったようで、全12公演、うち5回が日本、それ以外は中韓の各都市を回ったようです。
本人の言葉によればソナタの全曲演奏もすでに27回!!!もおこなっているというのですから、誠実で物静かな音楽家というイメージの裏側に、かなりの精力的なマグマがうごめいているのかもしれません。

つい長くなったので、続きは次回に。
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努力という才能

知人からの情報を得て面白い番組を見ました。

音楽やピアノにまったく関心のなかった海苔漁師の52歳の男性が、たまたまテレビでフジコ・ヘミングのラ・カンパネラに出会ったことがきっかけでスイッチが入り、自分もラ・カンパネラを弾きたい!という一大決心をしてピアノを開始。
その7年後、ついにはフジコ・ヘミング本人の前で演奏を果たすというもの。

奥さんがピアノの先生で、家にはグランドピアノがある環境ではあったようですが、「音大出の私でも弾けないのに、あんたに弾けるはずがない!」と一蹴されるも、まったく意思はゆるがず練習開始。
それまで、ピアノの経験は一切なく、酒をのんでは演歌を歌うぐらいなもので、楽譜もまるで読めないという、まさにゼロからのスタートだったとか。

練習方法は、タブレット端末のアプリなのか、音が画面内の鍵盤を光らせるようなものを見ながら、すべてを指の動きに叩き込んで覚えるというやり方で、番組によればまったくの独学というですから信じられません。

さらに驚くのはその尋常ならざる熱意と猛練習ぶり。
なんと毎日8時間、これを7年間、仕事以外のすべてを犠牲にして、全エネルギーをピアノの練習につぎ込み、ついにはこのラ・カンパネラをマスターしたというのですから、開いた口がふさがらないとはこの事です。

ピアノの常識でいうと、50過ぎてまったくの白紙からピアノに触り、いきなりラ・カンパネラという跳躍の多い技巧曲に挑んで、それを7年かかって成し遂げるということは、モチベーションの持続など、いろいろな意味からほぼあり得ないことですが、それをやってのけたこの方の驚異的な熱意と実行力たるや尊敬に値するもの。
とりわけ練習嫌いのマロニエ君には「練習とは、かくも尊いものなのか!!!」と考えさせられました。

それに比べたら、フジコ・ヘミングの前で演奏したかしないかは、個人的には大して重要とは思わず、これは要はテレビ番組の企画だと思いますが、それが企画として成立したのも、この方の奮励努力の末に奇跡的な結果を生み出したことが呼び寄せたことだと思うのです。

長年漁師をされてきたという浅黒く逞しい太い指が、慎重に鍵盤の上に置かれて演奏開始。
あの長い曲を少しもごまかすことなく、すべての動きをひたすら反復し、それを記憶し、自分の体に叩き込むことで立派に最後まで弾き通すということを、まぎれもない現実として多くの人が目撃したわけです。

このカンパネラを聴きながら、一途に努力を継続できることは、それ自体がひとつの才能だと思いました。
脇目もふらず、なにがあろうと、ひたすら努力を続けるのは、強靭な意志力が必要だけど、ただそれだけでできることでもなく、それが長年にわたりへこたれることなく続けられるという、ご当人の適性とかメンタルを含めて、さまざまな条件が揃わなくてはならず、だからこそ「才能の一種」だと思うのです。

マロニエ君はそれがゼロなぶん、この方がよけい輝いて見えました。

それともうひとつ触れないわけにはいかないことが。
それは、この方のラ・カンパネラには、非常にオーソドックスな良さがあり、曲は違和感なく恰幅があり、はっきりと音として作品の姿が見えたこと。
教師であれ、ピアノ愛好家であれ、やたら叩きまくるか、音楽性のかけらもない変な節まわしや意味不明のリズムやアクセントなど、指はどうにか動いても、それがなまじ偉大な作曲家の作品であるぶん冒涜的となり、聞くのはかなりしんどいものがほとんど。
そこには、曲への理解不足、第一級の演奏に対する無知と無関心、音楽経験の浅さ、さらにはこうした技巧曲を弾けるという自慢ばかりが横行している中、この方のカンパネラはなんとまっとうなバランスが保たれていたことか!
ここがマロニエ君にとって一番の驚きだったといってもいいと思います。

殆どの人は、この方がラ・カンパネラを弾けるようになったという、要は、きわめて困難な指の運動と記憶の作業をやり遂げたことに感嘆するかもしれませんが、それはもちろんそうだけれども、出てくる音楽がきわめて正常なものであったことはさらに瞠目させられた次第。

おそらく、フジコ・ヘミングという技術はそれほどではないけれど、とろみのあるずしっとした演奏を繰り返し聴かれたことで、知らず知らずのうちにその特徴までもが、この方の中にしっかり染み込んで根を下ろしていたのではないかと思います。
ピアノは練習しているのに、名演を聴かない(かりに聞いて技術的上手さだけ)人というのがあまりに多く、音楽はまず自分の練習時間と同等かそれ以上に聴きこみ、惚れ込まなければダメだということの証左でもあったように思います。
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美食の時代

正月休み中、ショパンのノクターンを通して聴きたくなり、ずいぶん久しぶりにダン・タイ・ソンのCDを聴いて過ごしました。

端正でスムーズ、嫌なクセがどこにもないのは、聴いていてまず快適で気持ちがいい。
全編に聴こえてくる肉付きのある温かい音、繊細さを損なわないのに臆さない芯もあるところがこの人らしさでしょうか。
かねてよりマロニエ君は数あるノクターン全集の中でも随一のものだと思っていましたが、いま聴いても(というよりいまのほうがさらに)魅力的で、非常に聴き応えのあるものだと思いました。

昔は、ダン・タイ・ソンの演奏は美しいけれど曲によってムラがあることと、いささか淡白な面があるところが気になっていましたが、今どきのハートのない無機質な演奏を耳にしていると、この人なりの明確な美意識とこまかく行き渡る情熱が裏打ちされており、あらためて感銘を覚えました。

彼のショパンすべてが良いとは思わないけれど、ノクターンはこのピアニストの美点と長所が最も発揮される分野だと思います。
こんなに素晴らしかったかといささか驚きながら、数日間、繰り返し聴きました。

ショパンのノクターン全曲は、それなりにいろいろなピアニストが録音しており、中には「同曲最高の演奏!」のように褒め称えられたものがいくつかありますが、マロニエ君はその評価には同意できないものが少なくありません。
とりわけ評価が取れるのは、いわゆるショパンらしさを捨て去って、無国籍風に、荘重で、劇的に、楽譜に忠実に、レンジを広く取ってピアニスティックな精度を上げて弾けば、おおかた高評価に繋がるイメージです。

ダン・タイ・ソンのノクターン全集は、1986年に日本で録音されたもので34年前ということになりますが、そこにはまだ演奏に対して、ひたむきな表現とそれを認めようとする価値観が支配していた時代だったことが窺えます。
この1980年代、まだ演奏者の個性や人間性が、いかに演奏上の息吹となって表現されてくるか、作品をどう解釈しているか、そのあたりを芸術性として、聴き手も強く求める気風が残っていたことが偲ばれます。

それと、やはりピアノが今のものと違い、無理なくとてもよく鳴っていることは唸らされました。
表面的な派手さみたいなものはなく、むしろ柔らかい音のするピアノなのに、現代のものに比べると深いところからずっしりと鳴っており、全音域にわたって音のエネルギーや迫力がまるで違いました。

今のピアノを聞いていると、いかにも精巧で整ってはいるけれど、音に肉付きがなく、心に響く(残る)ものがない。
もしや、自分がピアノの音をありもしないレベルに理想化し過ぎてしまっているのでは?と疑ったこともありますが、こういう音を聴いてみると、決してそうではないことが明白でした。

1986年録音ということは、必然的にそれ以前に製造されたピアノで、かといって1960年代ごろのピアノには感じない洗練や緻密さもあるから、おそらくは80年台の前半の楽器ではないかと(勝手に)思います。

ヴィンテージを別にすれば、個人的には一番好きな時代のスタインウェイです。
その時代の空気、そこに生きるピアニスト、楽器、そして作品となにもかもが揃っていたというか、端的に言って、音楽も昔はずっと贅沢で美食だったんだなぁと思いました。
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設定とキャッシュレス

スマホであれパソコンであれ、新しいものを使いはじめるときに、毎回必ず疲労困憊するのが各種の設定。
これをササッと難なくこなしてしまう方は大勢おいでのことと思うけれど、この手のことが格別苦手なマロニエ君にとっては、これはまぎれもなく苦行で、なんとかならないものかと思います。

そもそも、携帯のショップからして苦痛のはじまり。
機種選びからプランの決定、ああだこうだと作業は果てしなく続き、なにもかも終わってようやく椅子を立って外に出るまでに、べつに特種なお願いをしたわけでもなく2時間以上かかったし、これはきっと毎日それを扱い慣れているプロフェッショナルでも、かなり時間を要することなんでしょう。
加えて、メールの設定だのLINEの移行だのは、どうやら自分でやらなくちゃいけない作業のようで、これはもうマロニエ君のような人間にとっては病気になりそうなくらい疲れ果てること。

しかも、普通ならわからないことがあれば購入店に聞けば済むことが、そうはいかないのが携帯の世界。
ほんのひとつ教えてほしいことがあって出かけたついでに立ち寄ろうにも、どんな些細なことでもいちいち番号札を取って順番待ちをするところからはじめなくてはいけないし、前回じっくり付き合ってくれた担当者と思っても、よほどの偶然でもない限り、もう事実上言葉を交わすこともないほど対応する人は「その時かぎり」であって、まるで行きずりの☓☓のよう。

そんなことを考えたら、ショップに行く意欲もなくなり自分でやるしかなくなるわけですが、これがもう難儀で、結局はカスタマーセンターのようなところに電話しまくって、ひとつひとつを導いてもらうしかありません。
唯一の救いは、電話にでるオペレーターは皆さん親切なこと。
そこで指示されるあれこれの操作は、到底ひとりで奮闘したところでわかるはずもない複雑なもので、みなさんどうされているのかと心底疑問で仕方ありません。

とにかくあの「設定」というのはわからないことの連続で、今やこれ、マロニエ君が日常の中で最も嫌いなことのひとつに踊り出ています。
機械は正直だから、きっとこちらの操作が悪いのだろうとは思うけれど、設定どころかちょっとしたアプリ会員とかメンバー登録のたぐいでも、まあとにかくすんなり行ったためしがありません。

もはや「ログイン」とか「パスワード」とかいう言葉だけでも嫌悪感を感じてしまいます。
わずかのことで、何度でも情け容赦なく差し戻されて、しかもどこがいけないのかわからないから、いつもイライラかつクタクタ。

人に聞いたらPayPayがお得だというので、よせばいいのにこれを登録したら、これがまた設定だの連携だのとわからないことの連続で、何が悲しくてこんなことにエネルギーを消耗しなくちゃいけないのかと思いつつ、いったん始めたからには途中で諦めるのもくやしいから、文字通り歯を食いしばって高い壁を汗だくでよじ登るごとくになってしまいます。

そうまでして設定と連携が終わったPayPay。
…ところが、これが使える店というのは、実際まだまだで「なーんだ、まるで役に立たないじゃないか!」と思うほど使える店が少ないのには大いに落胆しました。
ダイソーが使えるのは逆にびっくりだったけど、現状ではネット専用と考えるべきかもしれません。

まだ交通系カードのほうが利用機会は多く、日本がこの分野で「遅い」というのを実感しました。
「便利」で「お得」という立て付けのもと、昔ならシンプルに財布から現金でお金を払えばすんだことを、今は「この店は何が使えるか/使えないか」をいちいちチェックする新習慣ができたりと、やっぱりトータルでいうと人の仕事はさほど減っていないように思います。

逆に、このところあまりにもキャッシュレスに囚われていたので、普通にサイフを出して、普通に現金で支払ったら、それが新鮮なほど単純明快で簡単で、けっきょくなんでこれじゃいけないのか!?と思いました。

AIだか何だか知らないけれど、末端の人間の消費行動のデータをせっせとどこかに献上しているようでバカバカしくもなったし、それによって得られるわずかのポイントやなにかは、このデータを売っている対価のようなものかも…。

テレビの討論番組などでは、キャッスレス化が進んで「じきに現金の優位性が落ちてくる」「サイフや現金が要らなくなる」などと経済アナリストがしたり顔でしゃべっていますが、ふん、いつのことだか!と思うこのごろです。
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iPhoneかわいい

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いくださいませ。


昨年12月、ついにスマホを買いました。

その理由は単純で、この先もガラケーで押し通すほどのサムライでもなく、iPadをカバンに忍ばせて持ち歩くのが重くて面倒くさくなったことと、スマホは今や時代の主役となって久しく、もはや時勢には逆らえないというあたりでしょうか。

知人のアドバイスもかなり後押しになったし、キャッシュレス、カメラ/動画、LINE等の通信手段、ナビゲーション、その他使いおおせないほどのありとあらゆるアプリがあふれ、これを世界の老若男女の大半が持っているわけだからすごいもんだと思います。

思い起こせば、むかしは21世紀になったら誰もが気軽に月旅行に行けたり、車は空を飛んでいるといった無邪気な空想をしていましたが、それはそうならなかったけれど、スマホはある意味それに匹敵する技術革新でしょうね。

世の中の仕組みも、スマホがあることを前提としており、そうではない人のことなど置き去って前進している。
誰もがあの小さな端末を握りしめ、生活の大部分を依存/支配されており、マロニエ君はべつに何かの活動家でもないし、もはやそれを使わない理由もないと思い至りました。

その気になれば、iPadでも似たようなことはできないことではないようですが、サイズも機能のうちで、いちいちあの重い板切れを取り出すのではその気になりません。
バスと普通車ぐらいの差があり、そのための使いにくさと煩わしさがあり、やはりiPadは「小さくない」し「重い」。

マロニエ君が使っていたのは、正しくはiPad mini なので、いくぶん小さく軽いほうでしたが、それでもカバンはズシッと重くなるし、独特の塊感があり長時間になると手や肩は結構な負担になるなど、それを前提としたカバンを持つ必要さえありました。

出かける際も、あれこれの支度に加えて、iPadはカバンに、携帯をポケットに!というのが忘れてはならない必須確認事項に組み込まれ、そうまでしてさんざん持ち歩いたあげくに一度も使わなかったなんてこともザラでした。

昔なら、それでもネット環境がかばんで持ち歩けるなんて夢のようで、そんな程度の重さなんてぜんぜん厭わなかったけれど、時代は常に「当たり前を更新」してしまい、いまではこれが苦痛として迫ってきていたのです。

巷で流行りのキャッシュレスやポイント/クーポンのたぐいも、レジでカバンの中をゴソゴソやってiPadを取り出して画面を開くという手順はけっこうな集中(というか緊迫!)を強いられて煩わしく、下手をすると普通に財布から現金で払ったほうが、どれだけ単純で楽かと思うことも。

ガラケー&iPadという組み合わせは4年間お世話になったスタイルでしたが、iPadとiPhoneは、電話機能を有無を除いてほとんど違いはないと思っていたけれど、実際は「似て非なるもの」でした。
しかもそれは、機能というより、気持ちの上での違いが大きいことも大きな発見でした。

いまごろやっとスマホを手にして、その感動をこうしてブログの文章に綴ることじたい滑稽のそしりを免れませんが、まあそれが事実なんだから仕方がありません。

というわけで、ついに手にしたiPhoneですが、これが想像以上に便利だしiPadにはなかった緊密性があり、長年2つに分かれていたものが小さく1つに集約できただけなのに、このほっこり感はなんだろう!?という感じ。

さらに言うなら、おかしなことに、なんというか独特の可愛さがあって、小さな相棒というか、まるで頼れる秘書を常に何人も引き連れているようで、これはiPadにはない気分でした。

かくて、4年間行動を共にした2台のiPadは自宅内のパソコンのない部屋用の中間端末へと降格されて、いつもテーブルの上にべたんと鍋敷きのようにへばりついています。
まるでホールに新しいピアノが来て、前のは練習やリハーサル用になるように。
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今年最後

今年も残すところ残り2日となりました。
月並みですが、本当に時の経つのが年々早くなってきている気がします。

世の中も不安定化が進み、国際社会はどこを見てもきな臭い話ばかりだし、自然災害も脅威の度合いが強まるなど、この先いったいどうなるのかと思います。

とりわけ文化の質の低下があらわになっているのは、専門家にいわせればいろいろな理由があるのだろうと思いますが、マロニエ君が端的に思うのは、やはり西洋文化の本場にして担い手でもあるヨーロッパの弱体化は要因のひとつだろうと思います。

ピアニストもいわゆる真の大物やスターは、どれだけ待ってもこの先当分は出てこないでしょう。
整った教育制度で培養された、コンクール出身の、芸術性より能力に秀でたピアニストが、似たようなレベルで、似たような演奏を職業的にしてまわるだけで、ワクワク感がないからテンションあがるわけがない。
高度な技術はあっても、表現に対するこだわりや冒険がなく、研ぎ澄まされた感性の導きとか、美に耽る様子などさらになく、すべてがフェイクっぽい空気感で、それで感銘を受けるほど聴衆の心はお安くはありません。

楽器のほうのピアノも、まるでわけがわからなくなりました。
大衆品ならいざ知らず、一流メーカーまでもが、どうも陰でコソコソやっているのが気に入りません。
見た目は立派で、ピカピカきれいで、同じマークをつけているけれど、生産過程は闇だらけのまるで信用に足らない状態になりました。

どこぞの国でかなりのところまで作って、最終仕上げだけを本来の国や工場で行うというのもかなり横行しているようで、どこまでが正当な分業で、どこからが欺きに近いものかの判断基準もあいまい、すべてが秘密裏にやられていてわからない。

一時は製造国を隠して販売することが商業道徳上の問題となったこともありましたが、現在その汚染は更に広がり、巧妙化し、より悪質になっている印象です。

…けれども、それをけしからんと嘆いても詮無いことで、要するに世の中はそういうところまで否応なしに来てしまったということだろうと思います。

こちらだってそうはいいつつ、日常生活の中では同様の思想や価値観やシステムで作られた「安くてよくできた製品」をさんざん購入し、それらにまみれてメリットを享受しておいて「ピアノだけはダメ」というのは、心情としてはそうでも、現実に通用する話ではないのでしょう。

わざわざヨットに乗って大海を往来して批判の声を上げる気骨もなく、欲しいものは安い通販を利用し、旅行となれば安価な航空券を探しまわるのですから、自分自身が完全にその構造の中に生きているわけで、これが時勢というものかと思うばかり。

せめて過去の遺産や名品を大事にしていくぐらいしか、今できることはないようにも思います。

さて、来年はどんな年になることやら、この日本丸の乗組員として成り行きを見守るだけですね。
年が明ければ令和二年となり、なんだか慌ただしい感じです。

ブログをお読みくださる皆様、今年もお付き合いくださりありがとうございました。
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アンゲリッシュ

クラシック倶楽部で、今年10月、紀尾井ホールで行われたニコラ・アンゲリッシュのリサイタルの模様を視聴。
曲は、バッハ=ブゾーニのコラール「きたれ、異教徒の救い主よ」とシューマンのクライスレリアーナ。

書くかどうか…実は迷うところではあったのですが、ネタも乏しく、あえて書くことに。

アンゲリッシュという人は、これまで実演を聴いたことはないけれど、いくつかのCDや動画によれば、とくに印象らしいものがない中堅ピアニストということぐらいで、あまり言葉が思い当たらない存在でした。

ところが、ネットでみるとかなりの絶賛ぶりに面食らってしまいます。
とくに宣伝においては、今どきなので、まともに受け取ることもないけれど、別の人のことでは?と思うようなものばかり。
「世界中から引っ張りだこのピアニスト」
「類稀なる鮮烈ピアニズム」
「多くの人に衝撃を与えた」
「アルゲリッチが絶賛!」などと書かれているけれど、彼女は自分が褒めることで他のピアニストを支援するというような使命感があるのか、とにかくだれでもやたらめったら褒めまくる人。
しかも、そのアルゲリッチ自身がインタビューの中で(少なくともマロニエ君が見たものは)アンゲリッシュをほめているのは『スターという感覚はないかもしれないけれど…』と人柄をいっており、演奏そのものを絶賛というようには受け取れませんでした。

プロフィールによると、アンゲリッシュはアメリカ生まれで13歳でパリ国立高等音楽院にいったとあるけれど、マロニエ君の耳には、あまりパリの水で顔を洗った人のようにも聴こえません。

とにかく、どこを切ってもおとなしい優等生のようで、レシピを見ながら真面目に作った料理みたいで、この手はやはりアメリカに多いタイプのような気が…。

この人を聴いていると、ビショップ・コワセヴィッチ、ギャリック・オールソン、エマニュエル・アックスなどに共通するものを感じて、あまりにも平凡、アーティキュレーションが不明瞭で、要するに曲に対してなにをどう目指しているのかも伝わってきません。
それから見れば、クライバーンなどはテールフィン時代のキャディラックのような、ある種の純粋なアメリカの魅力はあったように思います。

アメリカ(出身か育ちかはわからないけれど)という国は、自由のきくエンターテイメントはお得意でも、様式とか約束事の多いクラシックの演奏をもって最高を目指すといったことが体質的に合わない気がするし、その合わないことを努力でやっているからどうしても萎縮するのか、どっちつかずの結果になってしまうような印象。

アメリカ人には世界の超大国としての豊かさやおおらかさが気質としてあり、そこに切羽詰まったものがないからか、クラシックの演奏家でとくに秀逸な人材が育ちにくい国だというイメージがあります。
大戦を逃れて偉大な音楽家が大挙して流入したけれど、それでもどうにもならない壁がある…。

温厚でフレンドリーなのは、仲間として付き合うにはいいのかもしれないけれど、鑑賞として演奏を聴くぶんには(とくにソロは)マロニエ君は相当つらいというか、わざわざ彼である必要が見いだせません。

もちろんアンゲリッシュのような演奏を、奇を衒わず、安心感を持って聴けるとして好まれる方もおいででしょうが、中にはあえてこのタイプの人を賞賛することで、鑑賞者としての自分の慧眼をアピールするというパターンもあったりするから、やはり信じるのは自分の耳しかない。
そういう人達の推奨ネタとして、よくこのタイプの地味で演奏家が推奨される。

そこで混同されがちなのは、真面目で温厚な人柄と演奏評価がごっちゃになること。
個人的にお付き合いする相手ならそれも大事ですが、一介の音楽鑑賞者としは聞こえてくる演奏がすべてだから、ピアニストに演奏以外の要素を求める必要はない。
それより触れれば血がふき出るような才能とか、とにかく音楽のためになにか尋常ではないもの、ときに狂気さえも必要なもの。
プロフェッショナルのステージに凡人の居所はないというのがマロニエ君の考えです。


余談ながら、ネットで見ることのできるアンゲリッシュのプロフィールを見て、かなり驚きました。
出身、学歴、受賞歴はともかく、これまでの共演した指揮者やオーケストラ、ソリスト、参加した音楽祭など、その他さして重要とも思えないようなことまで、信じられない量を書き連ねるのはいかがなものか…。
本人の名前だけでは通用しないことを裏付けているようでもあり、逆効果ではと思いました。

少し話は逸れますが、マロニエ君は名刺に大げさな肩書をズラリと書き並べる人というのが、どうも信用できません。
ご当人にしてみればなによりのご自慢なのでしょうが、見せられた側はハッタリ屋のような印象しか抱けません。

アンゲリッシュがそれだというつもりは毛頭ないけれど、ああいうプロフィールを見たらどうにもシラケてしまい、却って本人の足を引っ張っている気がします。
人にはそれぞれの持って生まれた立ち位置というのがあって、俳優でも、人並み以上の容姿と演技力が備わり人気もあるけど、どうしても主役にはなれない人っていますが、そういうピアニストではないかと思います。
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ステファン・ポレロ

音楽が演奏される際、作品、演奏者、楽器、そのいずれもがきわめて大きな要素を占めるのはいうまでもありません。

さらに演奏会となるとホールの音響はたいへん重要となり、CDでは録音のやり方やセンスに負うところも大きくなります。
とくにホールの音響とCDの録音状態はかなり大きな要素で、これが一定水準を満たしていないとすべては台無しに。
コンサートや録音のほとんどは作品や演奏がメインですが、たまには楽器が主役になることも。

フランスにステファン・ポレロ(Stephen Paulello)というピアノ設計家がいます。
詳しいことは知らないけれど、中国のハイルンピアノでホイリッヒなどの設計をしているようでもあるし、フランスでは自身の名を冠したオリジナルピアノ(しかも交差弦と平行弦の両方)を作っているようです。

以前にもステファン・ポレロ・ピアノ(このときはおそらく交差弦)を使ったラヴェルのピアノ曲集など、いくつかのCDを気がつく限り購入しては聴いてみましたが、どこか無機質でこれといって際立った印象はなかったというのが正直なところ。

今回は、並行弦で奥行きは3m、しかも102鍵というベーゼンドルファー・インペリアルよりもさらに5鍵多いステファン・ポレロ・ピアノを使って録音されたというCDがあったので、早速購入してみました。
曲目はわざわざ書くこともないけれど、いちおう次の通り。

リスト:ロ短調ソナタ
シューベルト=リスト:白鳥の歌より3曲
ドビュッシー:前奏曲集より3曲
スクリャービン:詩曲、夜想曲/焔に向かって
演奏:シリル・ユヴェ

evidenceというレーベルの、立派な装丁のCDでしたが、まず音がやけに小さいことに驚かされ、初っ端からいやな予感が。
普通はロ短調ソナタなど開始間もなくの激しいオクターブなど、思わずドキッとすることが多いのに、演奏そのものもやけに力感がないことに加えて録音も音が小さいというダブルパンチで、まず普通に聴くことが難しく、何度も何度もボリュームを上げるしかなく、ついには普段やったことがないところまでつまみを回して、やっとどうにか…というものでした。

これは、意図あってのことかもしれないけれど、マロニエ君はこういう録音というだけでストレスで、聴こうという意欲をかなりそいでしまいます。
演奏も、とくにどうということはない地味なもので、この演奏と録音をもってステファン・ポレロ・ピアノをアピールしようとしても、かなり難しいのではと思いました。

ちなみにCDのジャケットにはStephen Paulelloのロゴがあり、タイトルも「OPUS 102」というこのピアノのモデル名のようなので、このアルバムはピアノが主役であることは疑いようがありません。

シリル・ユヴェというピアニストは、調べてみるとフォルテピアノのプレイエルやエラール、シュタイン、ジョン・ブロードウッドなどを演奏しているCDや動画あるようで、この手のCD制作に応じるピアノマニアのピアニストなのかも。

ここに聴くステファン・ポレロの印象は、どちらかというと冷たい音(それが良さかもしれないけれど)で、個人的には惹きつけられるものは感じられませんでしたが、こういう音が好きという人もおられるのでしょう。
何か特別なものが心に残るようなものはなく、平行弦のピアノの良さもわかるような…わからないような…。
全音域が均一というのは聴き取ることができる点で、一音一音が独立したトーンをもっており、すべての音がシャープでスパッと刀を振り下ろすような感じ。

写真を見ると、木目の外装にフレームが銀色、さらに鮮やかなブルーのフェルトが目を引きますが、いかにもそういうイメージの音だと思います。
かろうじてわかったのは、音に声楽的な要素はなくパワーも感じないけれど、音の分離と伸びが良いようで、これが並行弦故の特徴なのか、あるいは広大な響板と長い弦によるものなのか、それははっきりはわかりません。

ただ、ベーゼンドルファー・インペリアルにしろ、オーストラリアのスチュアート&サンズにしろ、超大型ピアノというのはどこか茫洋として(それを余裕と捉える向きもあるのでしょうが)、結束した感じに乏しく、低音域は似たような音になるような印象をもちました。

話を冒頭に戻すと、ピアノの魅力を伝えるには、やはりそれなりの魅力ある演奏と録音でなくては、ピアノの音に耳を傾ける前にその一風変わった録音と、まったく面白味の欠片もないモタモタした演奏にぐったり疲れてしまいます。
せめて、ナクソスのCDぐらいの演奏と録音であればと思うばかり。

バレンボイムもスタインウェイDベースに並行弦のピアノを作らせたりするぐらいだから、独特の良さがある筈だと思いますが、それを聴き手に伝えて納得させるには、奏法もそれに即したものでなくてはならないと思われますが、今はまだそういう演奏には出会えていない気がします。
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季節の変わり目

日ごと週ごとに寒さが身にしみる季節になりました。

歳時記風にいうと四季の移ろいは趣があって好ましいことのようになっていますが、身体には結構しんどくて、変化する季節への適応力が年々落ちてきている現実をいやでも思い知らされます。
これはもちろん自分が歳だということが第一でしょうが、では若い方が屈託なく元気に過ごしているのかというと、意外にそうでもないらしいことは折々に耳にします。
今どきは子供でもストレスを抱え、些細なことで体調を崩し、いちいちたいへんなのが現代人。
そして、熱が下がるようにすっきり回復することもない。

マロニエ君はもともと運動が苦手で元気溌剌というタイプではなかったけれど、それでも昔は体調管理だなんだということを意識することもなく無邪気に過ごせたことを考えると、昨今は生活形態の変化や、時代に流れる固有の空気のようなものの影響なのか、世の中全体が繊弱になっている印象があります。
多くの人がなにかしら心身の問題を抱えており、制約も多く、ごく単純にいって、昔のほうが人は自然でパワフルで生き生きしていたと思ってしまいます。
それでも平均寿命は現在のほうが伸びているのでしょうから、なんだか変ですね。

音楽にも似たところがあって、主観に導かれた大胆な演奏は許容されず、技術は優っているのに生命感がない。

季節の変わり目になると、往来にこだまする救急車の音も、その数はあきらかに増してくるような…。
これからの季節で気をつけるべきはいろいろあり、まず肝心なのは変化に対する充分なイメージというか、いわば覚悟で、その覚悟があるとないとではだいぶ違います。
覚悟といえば、マロニエ君にとって季節の変わり目はよその家などに行くのが危険な季節でもあり、ここにも密かに身構える必要があります。
「密かに」といっても、それをブログに書いているようじゃ始末に負えませんが。

季節の変わり目は、人によって、冷暖房の使い方は思いのほか差がでる季節でもあり、当然自分の家のようなわけにはいかないから、それがマロニエ君にとってはかなりしんどい事態を引き起こします。
夏なら真夏、冬なら真冬のほうがむしろよく、微妙な時期には冷/暖房をなかなか使わない自然派がおられますが、まさか暖房を入れていただけませんか?とも言えず、これが身に堪えます。

危ないのは外より運動量も少ない屋内で、まして人様のお宅に行って上着を取らないのは甚だ非礼だとは思うけれど、非礼でもなんでも寒いものは寒いのであって、それで風邪をひき、悪くすれば肺炎などに発展するよりはいいという究極の選択になります。
肺炎などというと「なにを大げさな!」と思われるかもしれませんが、ささいなことが引き金になることもあり、肺や気管支が弱い人間にはささいなことがおそろしいのです。
そういうわけで、やむなくアウターを着たままになりますが、相手もさるものでそれでこちらの窮状を察してくれる様子もなく、至って平然たる様子だから、それならこっちもこれでいいのかな?と思いつつ、まあできるだけ危険には近づかないに限ります。

スーパーなどで買い物をする際に寒いのは、こちらも気構えもあれば防寒もしているし、なにより売り場を歩きまわるという活動をしているからまだいいけれど、ただ椅子に座って話だけをしていて、身体はいつしか芯の芯まで冷え切ってしまうと、帰宅後はまず間違いなく体調を崩します。

結局、自分の身は自分で守るしかない。
我が家では夏冬の冷暖房は言うに及ばず、その前後もエアコンが途絶えるときというのがほとんどなく、どうかすると昨日まで冷房、今日から暖房というようなことにもなるのも何度もあり、これはいささかやり過ぎだとは思うけれど、そうなるのだからやむを得ない。
自律神経はみだれ、精神的にもかなりのエアコン依存といって差し支えなく、それ自体が問題とは思いつつも、すでに長年このスタイルで生きてきたんだし、もういまさら体質を変えられるわけもないから、このままいくしかないでしょう。

最後に話をむりにピアノに持っていくようですが、季節の変わり目はピアノも心なしかご機嫌ななめで、鳴り方に活気がなくなったり陰を感じたりするし、日によってばらつきを感じたりしますが、しばらくするとまた少しは回復して安定するところなど、まったく人の体調と変わらないなぁと思います。
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続ピアノカバー

ピアノは内部がこもったり錆びたりという観点から、できるだけカバーをかけないほうがいいというのは、技術者さん等がほぼ口をそろえて言われます。
のみならず、個人的なイメージでは、カバーの生地そのものが湿度を吸い寄せ、含み、内部へ送り込むような気もします。

それと、あのカバー姿のピアノが発するいかにもな日本式の雰囲気もいやで、いかにもピアノを習っている人がいて、その人のみが与えられた課題を練習し、その先には先生や発表会の世界があるといった、あの感じがどうも…。

ピアノの存在によって、音楽が傍にあるというイメージには必ずしもなっておらず、どこか取ってつけたような存在というか、違和感の中で孤立しているよう。
本を読んだり絵を見たりするのと同じように、ピアノがあって音楽を身近に自然に楽しんでいるという気配はあまりない。
むしろお稽古臭が強く、それをより引き立てているものが一連のカバーだと思うのですが、カバーそのものをかける最大の理由はなによりキズ防止とホコリがしないように…なんでしょうね。
多くの日本人は、音色や音質や表現力には寛容でも、キズだ汚れだとなると世界一なぐらい嫌いますね。

少し話は逸れますが、マロニエ君はピアノの保管状況を考える時、最も基本にしているのは自分の体感です。
温度が何度、湿度が何%かという数字も大事ですが、ピアノによい環境というのは人が快適に過ごせる状態と非常に近いものだと思っており、自分が快適ならピアノも同様だろうという勝手なルールです。
個人的に湿度には敏感なほうなので、まず部屋に入って肌で感じ、それから湿度計をみるとだいたい大ハズレはしません。
室温もあまり急激に上下すると身体がきついように、ピアノも同様だと考えています。

年間を通じて、一般家庭でホールのピアノ庫のような環境を作るのはぜったい無理なので、せめて実行可能なやり方としては、この体感方式はそこそこの妥協点ではないかと考えており、我が家ではずっとこの方式です。
あまり頻繁にエアコンのON/OFFなどせず、長時間出かけるときや夜中はともかく、なるべく一定を保つようにしていますし、季節によって除湿/加湿による調整を加えます。

で、この体感方式から判断しても、一般的なカバーのたぐいはピアノが快適だろうとは思えないわけです。
さらに前回書いたように、カバーは個人的にはビジュアル上も抵抗を感じるから、我が家ではどの角度からも使わないし、ピアノを購入するときも必要ないのでお断りします。

以前おどろいたのは、ネット掲示板のようなところで、技術者の方の書き込みでピアノにカバーを掛けるのは断じてよくない、百害あって一利なしと力説されたところ、猛然たる調子で抗議の書き込みがありました。
おおよその意味は「人には住宅事情などそれぞれ問題があり、貴方のいうようにピアノだけを中心に考えることはできない。我が家はリビングにピアノがあり、キッチンから飛散する油など、いやでもカバーを使用せざるを得ず、そういう個々の実情を無視して、一方的に理想ばかりを書き込み、正論として押し付けるのはけしからん!」といったものでした。

まあ、そういわれれば「なるほどと」は思いました。
でも、それでも、マロニエ君ならカバーは掛けません。
焼肉店じゃあるまいし、毎日油が飛び散るような調理をするわけでもなし、換気扇もあるでしょう。
リビングと言ったって、コンロの目と鼻の先にピアノがあるわけではないだろうし、生活の中でわからない程度に飛散する油ぐらいだったら、蓋を閉めておけばいいではないかと思います。

それを言ったら、該当する方は多いはずで、我が家も厳密に言うとキッチンのある空間の延長上にピアノを置いているし、調理で油を使うこともあるけれど、それでカバーが必要となるほど油が飛んだということはないし、厳密にはあるんだというのなら、そこまで厳格にしなくてはいけないのかという疑問も。
それなら、他のあらゆるモノや家具や家電、天井や壁等にも同じことがいえるわけで、それらはよくて、ピアノだけがいけないということでもないだろうにと、もうひとつ納得がいきませんでした。

結局、なんだかんだと理由はあるのでしょうが、要はカバーをしているほうが安心で好きなんだと思います。

以前、とある輸入ピアノ店のサイトを見ていたら、ドイツ製の世界最高のアップライトと言われる某社の最高機種の注文を得て、やがて実物が店に届き、入念な調整の様子などが写真でも紹介され、その気品と風格はため息が出るほどのすばらしいものでした。
ところが、いよいよ購入者のお宅に運び込まれる日を迎え、めでたく所定の位置に据え付けられました!というショットを見て愕然としました。

その世界最高峰のアップライトは、嫁ぎ先へと届けられ、無事に所定の位置に据え付けられたとたん、上部にはきわめて日本的なハーフカバーがかけられてしまい、その高貴だった姿は、たちまち夜のおかずの匂いがしてきそうな庶民的な姿に変身してしまっており、見ているこちらがいたたまれない気分になりました。
高いピアノだから大事にという気持ちはわかるけど、そんなにもピアノカバーというものが必要なのか、なかったらどれほどピアノが傷むとでもいうのか、マロニエ君はどうしてもわかりません。

ピアノカバーでわからないことのオマケは、フェルトをただ細長く切っただけの「キーカバー」というもの。
キーにホコリが付かないためなら単に鍵盤蓋を閉めればいいことだし、そこへあえてあのフェルトを一枚ぺろんとおくのは何なのか、どんな意味や役割があるのか、どう考えても意味不明。

「これからピアノを弾きます」「これで今日のピアノはおしまい」というけじめのための小道具?
あれをキーの上にかけると何がどういいのか、なかったらどのようなマイナスなのか、もしご存じの方がおられたらぜひとも教えていただきたいものです。
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ピアノカバー

普段から常にピアノにカバーを掛けるという習慣というかメンタルは、どうも世界共通のものとは思えない。
詳しいことは知らないけれど、印象としてはあれはどうも日本的な特徴で、そもそも日本人は大事なモノにカバーをかけたりキズの保護をしたりするのが体質として好きというのがあると思います。

これはマロニエ君の知る限り昔から、ピアノの先生、学校、よその家もみんなそうで、我が家もごくはじめの時期だけ付属品の黒いカバーをかけていた時期がありました。

グランドは譜面台のことを書いた時にも少し触れたように、楽器のためにあんな大仰なカバーをかけることの善し悪しにくわえて、なによりあの色がいただけない。
多くのピアノが黒だから、カバーも黒というのはまだわかるとしても、内側は強烈な朱色で、ピアノのカバーにこの二色を組み合わせるということがまず受け容れられず、その激しいコントラストは目にもストレスで、まずあれを見たくないというのがあります。
そのままハロウィンの仮装にでも使えるような毒々しいセンスとしか思えない。

あれは昔からそうだったけれど、誰が決めたことなんでしょうね。
外側が黒なら、どうして中も黒ではいけないのか。
もし表と裏を区別するためなら、そうと分かるぐらいのグレーとかでもよかったと思うし、もっとはっきりさせたいのならオフホワイトでもいいわけで、なぜ時代劇に出てくる吉原の遊女みたいな朱色にする必要があったのか、これが謎です。

某工房でヴィンテージピアノにかけられていたカバーは、ミルクチョコのようなやわらかな茶色で、これならずいぶんいいなあと思ったし、聞けば現在でも普通に売っているものだそうで特別なものではないようでした。
要するに、メーカー(もしかすると日本だけ?)が新品時に付属させるカバーがあの色なんでしょうか…。

いっぽう、アップライトにもカバーをかけるのが日本人は大好きで、カバーをしなくては居ても立ってもいられないのだろうと思います。
アップライトのカバーは一段と工夫が凝らされており多種多様、こうなっては上部の前屋根が開けられることは調律時以外はないんでしょうね。

カーテンなどのように素材や色やデザインが揃い、レース編み調のものから、重々しいベルベット調のものまで実にいろいろあって、あれはもうカバーというよりはピアノに着せる服なのかもしれません。
昔は上部だけを覆うタイプが主流でしたが、そのうち全体をマジシャンのマントのように覆ってしまうものまで登場、それがまたピンクとか淡い色の花柄模様であったり、光沢のあるフリルのたぐいがこれでもかとあしらわれたりしたものだったりと、いずれも壮絶を極めています。

ああいうものに、疑問や抵抗を感じない神経を持ちながら、演奏のほうは素晴らしいというようなことがあるのだろうか?とつい考えてしまいます。
なぜなら、ピアノの演奏とは基礎となる技術と、あとは、アナリーゼだの解釈など踏まえた感興であり、ひとことで言ってしまえばセンスに尽きるのだから。

日本は文化の歴史を見ても、斬新かつ深いところまで追求された美意識の歴史があり、その奥行きと洗練の度合は並のものではなく、西洋に与えた影響も小さくないものがある。
そんな稀有なバックボーンを持ちながら、こういうセンスはどこをどう間違って我々の生活域に流入してきたのか不思議です。
もし、明治以降の西欧化の取り違えの後遺症だとしたら、センスの池に外来種の怪魚でも放り込まれたようなものかもしれません。

少なくとも、写真や映像で見た欧米の家にあるピアノでは、せいぜいちょっとしたオシャレな布が一部にサッとかけられている程度で、ピアノが部屋の雰囲気とまったく自然に調和していて、さすがという感じ。
それにひきかえ日本はというと、部屋は変にシンプル、ピアノがドカンと力士のように鎮座していて、生活と音楽がバラバラというか、ピアノが楽しそうに見えずに浮いており、それが一種独特な雰囲気になっている。

それが「ピアノのある家」みたいなあの和風な感じは、他のものがいくらオシャレになっても変わらずに引き継がれているようで、これは今後もずっと変わらないような気がします。
そこではやっぱりカバーは重要なアイテムなんでしょうね。
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簡単譜面台

率直な実感として、グランドよりアップライトのほうが使いやすいと思うもののひとつが譜面台。

アップライトの大半は、鍵盤蓋を開けると横長のシンプルな形状の譜面台が折りたたまれており、それを手前に倒して楽譜をのせる…たったそれだけ。
手軽なだけでなく、グランドよりも目線が低くて近くにあり、見やすいことも素晴らしい。
ただし、すべてのアップライトがこの方式というわけではなく、中には「トーンエスケープ」とかいって、上前板の一部を手前にガチャッと引き出すと、それが譜面台も兼ねた作りになっていて、さらにその左右の隙間から中の音が出てくるという構造のものがあります。
デザイン性や高級感の演出には良いかもしれないけれど、機能的にはいささか疑問符も…。
メーカーやモデルによっても違うのかもしれないですが、ヤマハのそれは構造上角度にも制限があるから楽譜もかなり角度が立ちぎみで、しかも楽譜を置く足場も浅いしツルツルで、やや使いづらく機能としては問題なしとは言い難いもの。

それと、譜面台使用でこの部分を引き出したからといって、その両脇から中の音がでるのは、マロニエ君にしてみればよけいなお世話であって、できるだけ静かに譜読みをしたいというときに(現実にはそのほうが多い)、これは困るわけです。

譜面台を使うと音が大きくなるという点でいうと、それどころではないのがグランドで、いまさら説明するまでもなくグランドのそれは前屋根を開けた中に格納されており、楽譜を見る=必然的に音は大きくなるという構造。

大屋根と前屋根をすべて閉じた状態がグランドでは最も音が控えめなので、夜間などこの状態でちょっと楽譜を見ながら弾きたいと思ってもなかなかそれはできません。
よく前屋根の上に楽譜を平置きにして弾く人もおられるようですが、マロニエ君かかなり椅子が低いこともあってそれではまず見えないから、どうしても楽譜はあるていど立てたいけれど、前屋根を開けるまでのことはしたくない微妙な気分の時ってありませんか?

ピアノの先生などでよくあるのが、譜面台そのものをピアノ本体から引き抜いて、それを閉じた前屋根の上にのっけて使うというスタイル。
でも、ここからがマロニエ君のこだわりですが、あれは個人的には超ダサくて、まずビジュアル的に許せない。
さらに、いったんそれをすると面倒臭くて今度は前屋根を開けることさえも億劫になるわで、いずれにしろこれだけはぜったいにしたくないのです。
さらにすごいバージョンもあり、外が黒で内側が朱色のあのカバーを、前の方だけ鍵盤に掛からないようにたくし上げ、その上に外した譜面台が載せられて、どことなく黒魔術の祭壇のようになるスタイル。
こうなると、ピアノの上は楽譜はもとより、コンサートのチラシから筆記具、さらには変な置物からよくわからないものまで、ありとあらゆるモノが雑然と積み上がってしまうものらしく、見るもぶざまで暑苦しい姿になり、あれはちょっと見たくもないし、まして自分のピアノでなんて論外。

で、やっとここからが本題ですが、グランドの大屋根&前屋根を閉じた状態で使える簡易型の譜面台が欲しいというのが、マロニエ君の長らくのささやかな希望となりました。
繰り返しますが、中の譜面台を前屋根に載せるのだけはぜったいにしたくない。
あくまでも、夜など一時的な場合のもので、小さくシンプルで、便利で、パッと取り出して使えて、終わったらパッと片付けられるようなもの。

〜といってみても、そんな都合の良いものがあるはずもなく、自作しようかとも思ったけれど自信もないし、いらい数年が経過するうちにしだいに諦めてしまっていました。

それがつい先日のこと、洗面台周辺の器具を探しにニトリに立ち寄ったとき、レジ近くの雑貨を置いている棚に金属を折り曲げただけの、ただの骨組みだけの簡単な商品があって、それは「ワイヤーイーゼル」という名の、絵の額やフォトフレームなどを床やテーブル上に立てておくためのスタンドでした。
サイズは17cm☓17cm☓19cmというコンパクトさ。
価格はわずか300円ほどで、これはもしや?と思い即購入。

下にはキズ防止のためのゴムのようなものまでちゃんと4箇所付いているのも嬉しいところ。
問題は左右の骨組みだけで中央の支えがないから、そのままでは楽譜は背表紙から向こうにストンと倒れますが、そこに板一枚置いておけば問題ありません。
もうひとつ、下の部分にフレームが滑り落ちないよう、わずかなアールがつけられていて、これが楽譜をめくるときに干渉するので、ここもちょっとした板切れでもなんでもいいので置いておけば大丈夫でした。

重さも無いに等しく、使う時だけヒョイと出して、終わればすぐに視界から消せるので、なかなかいいですよ。
長年望んでいたものが、まったく思いがけないところにあったというわけで、嬉しいような、それにしてはずいぶんあっけない結末で拍子抜けした気分でもありました。
ただ、やっぱりグランドの前屋根の上に置く楽譜というのはかなり高い位置で、これで子供なんかがレッスンを受けるのは、上を見上げるようになり大変だろうなぁと思いました。
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電子決済

電子決済って最近かなり浸透してきているようですが、それでも、日本はずいぶん遅れていると耳にします。
欧米の事情は知らないけれど、ご近所の中国や韓国ではとてつもない勢いで広がっているようで、NHKのドキュメント番組だったか中国では個人経営の小さな屋台とか、言葉は悪いですが物乞いのような人まで電子決済の端末をもっていて、人々がスマホをかざしてピッ!とやっているのにびっくり。

そうなるについては、偽札の問題や情報管理など、いろんな側面もあってのことではあるでしょうが、それにしても日本という国は、新しいことに対する切り替えは明らかに遅いなあと思います。

〜と尤もらしいことを言っているマロニエ君がいまだにスマホも持たず、ガラケーとiPadでお茶を濁している身なので、こんなことを言うことじたいがギャグのようですが…。
電話するぶんにはガラケーは使いやすいことと、服のポケットに入れるのに大きい物は避けたいというのがあってガラケーを使ってますが、その代償として結構重量のあるiPadをいつもカバンに入れて持ち歩くのも面倒くさいし、なんだかばかばかしいようにも思えてくるこのごろ。

いくらガラケーのほうが電話器として使いやすいと言ってみても、今はメールありLINEありで、電話で直接話をする機会も減っており、いつまでも電話のしやすさばかりを言い立てることじたい、いささか実情に合わなくなってきた気もしてきています。

いっぽう、聞くところではスマホには多種多様なアプリがあり(その点はiPadもある程度同じですがほとんど使っていない)、いろいろな電子決済機能もあるし、中にはスマホ限定の特典などというのもあるようで、時代の流れにはかないません。


さて、現在マロニエ君が唯一使っているのが、スマホとは関係ない、カード式の交通系電子マネーです。
普段はクルマ人間なので公共交通機関を使いませんが、以前関西旅行に行ったとき、同行した友人がこれを準備してくれており、どの電車に乗ろうともこれひとつでスイスイ、切符も買わずに改札を自在に出入りできる便利さに仰天したのがはじまりでした。

さらにこれで買い物までできると知って驚きは倍増。
それからというもの、すっかりこの交通系電子マネーにハマってしまい、べつに現金で払ってもいいようなところまで、わざわざこのカードを使うようになりました。
なにがいいと言ったって、細かい単位の支払いやお釣りといった面倒から解放され、ピッ!という音がすればすべては一瞬でおしまい、こんなに爽快なことはない!と興奮したものでした。

惜しいのは上限が2万円で、予めチャージしておかなくてはいけないことと、以前はチャージできる端末が限られた場所にしかなかった(毎日駅などを利用する人はいいかもしれませんが)ことですが、今ではコンビニでも可能になり、この問題もほぼ解決されました。

店舗によっては、レジの対応が不慣れなところもあり、その操作に手間取ったり、いきなりこちらの手からカードをもぎ取り、お店の人が目の前の読取器(というのか知らないけど)に押し付けて「ピッ!」とやって「お返しします」などといって返してくること。
あのカードはいわば個人の財布ですから、それをヒョイと取られて「えっ?」と思ったことは何度かありました。

それより気になるのは、カードをかざす際、読取器との間にほんの少し距離(2〜3cm)をおいていると、注意口調で「機械につけてもらっていいですか?」などと怒られてしまうことがあること。

はじめはそうなのかと思ったけれど、これは経験上カードと機械を密着させるかどうかではなく、読取器がカードを認識し決済するまでにちょっとしたタイムラグがあるのを、レジの人のほうが待ちきれずに、カードのかざし方が不十分なためと思ってしまうようです。

でも、聞いた話では、頻繁に電車など利用する人はカードを財布に入れたまま改札を出入りしているとか!
改札にある読取器は、性能もよほど良いのかもしれないけれど、もしお店で財布のままかざしたらどうなるのか、そこまで挑戦してみる勇気はまだありません。

福岡ドームもヤフードームになり、いつの間にかヤフオクドームになっていると思ったら、近い将来PayPayドームになるんだそうで、なんともめまぐるしいことですが、それだけ電子決済はこれからの社会の主流になっていくのでしょうね。
もはやガラケーにしがみつく理由もなくなってきたようだから、次の契約更新では検討の余地がありそうです。
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ニュウニュウのいま

クラシック倶楽部の視聴から。
ニュウニュウ・ピアノリサイタル、プログラムはショパンの即興曲第2番/第3番、ソナタ第2番、スケルツォ第3番、リストのウィーンの夜会。
2019年6月、会場は神奈川県立音楽堂ですが、無観客なので同ホールでの放送用録画かと思われます。

6月といえば、福岡でも同時期に彼のリサイタルがあって、気が向いたらいってみようかと思っていたけれど(結果的には行かなかったのですが)、上記曲目がすべて含まれるものでした。
NHKのカメラの前での演奏であるほうが気合も入っているだろうし、マロニエ君は実演にこだわるタイプではないから、ただ巡業先の中の演奏のひとつを聴くよりむしろ良かったような気も。

中国人ピアニストといえば、すでにラン・ラン、ユンディ・リ、ユジャ・ワンという有名どころが日の出の勢いで活躍しており、ニュウニュウのイメージとしては、彼らよりもうひとつ若い世代のピアニストといったところ。
いずれも技術的には大変なものがあるものの、心を揺さぶられることはあまりない(と個人的に感じる)中国人ピアニストの中で、マロニエ君がずいぶん昔に唯一期待をかけていたのがニュウニュウでした。

10代の前半にEMIから発売されたショパンのエチュード全曲は、細部の煮詰めの甘さや仕上げの完成度など、いろいろと問題はあったにせよ、この難曲を技術的にものともせずに直感的につかみ、一陣の風が吹きぬけるがごとく弾いてのけたところは、ただの雑技や猿真似ではない天性のセンスが感じられました。
まさに中国の新しい天才といった感じで、うまく育って欲しいと願いましたが、その後ジュリアードに行ったと知って「あー…」と思ったものでした。

個人的な印象ですが、これまでにも数々の天才少年少女がジュリアードに行ってしばらくすると、大半はその輝きが曇り、小さくまとめられた退屈な演奏をする人になってしまうのを何度も目にしていたからです。
さらには俗っぽいステージマナーなどまで身につけるのはがっかりでした。
誰かの口真似ではないけれど、セクシーでなくなるというか、才能で一番大事な発光体みたいな部分を切り落とされてしまうような印象。
そうならなかったのは、五嶋みどりぐらいでしょうか?

冒頭インタビューで、ジュリアードでは舞踊やバレエの友人ができ、彼らから多くのことを学んだと語り、ピアノの演奏も視覚的要素が大切と思うので、演奏には舞踊を取り入れているというような意味のことを語っていました。
ステージに立つ人間である以上、視覚的効果も無視できないというのはわかるけれど、直接的にそれを意識して採り入れるとはどういうことなのか、なんだか嫌な予感が走りました。

で、演奏を視聴してみて感じたことは、音楽家というよりはパフォーマーとして活動の軸足を定めてしまったような印象で、舞踊の要素なんかないほうがいい!としか思いませんでした。
どの曲も危なげなく、よく弾き込まれており、カッチリと仕上がってはいるけれど、そこに生身の、あるいはその瞬間ごとの魅力や表現といったものは感じられず、誰が聴いても大きな不満が出るようなところのない、立派な演奏芸で終わってしまっている印象でした。

また、ニュウニュウに限ったことではありませんが、曲の中に山場や聴きどころのない、全体を破綻なく均等にうまく弾くだけで、ドキッ!とするような魅力的な瞬間といったものがないのは、これからを担う若い演奏家が多く持っている問題点のような気がします。
好きな演奏というのは、ある一カ所もしくは一瞬のために聴き返すようなところがありますが、現在のニュウニュウの演奏は何度も繰り返して聴きたい気持ちにはならないものでした。

音はいささかシャープで温かさが足りないかもしれないけれど、それでもかなりよく楽器を鳴らせる人のようで、この点では上記の4人中随一ではないかと思いました。
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シンプルは至難

BSクラシック倶楽部でスペインの巨匠、ホアキン・アチュカロの演奏に接しました。
この時の放送はアラカルトで、55分の放送時間のうち前半はキアロスクー四重奏団の演奏会だったため、アチュカロの演奏はファリャのスペイン小曲集から2曲と火祭の踊り、アンコールでショパン:ノクターンop.9-2、ドビュッシー:月の光、ショパン:前奏曲No.16というものでした。

ホアキン・アチュカロは日本ではさほど有名なピアニストではなく、マロニエ君も持っているCDで記憶にあるのはシューマンの幻想曲とクライスレリアーナぐらいです。
きわめて真っ当なアプローチの中に、温かな情感が深いところで節度をもって息づいていることと、音が美しく充実していたことが印象的でした。

この演奏会は今年の1月で、その時点で御歳86という高齢であることも驚くべきで、はじめのファリャは、想像よりゆるやかで落ち着いたテンポのなかで進められました。
普通はスペイン物となると、どうしてもスペインを強調した演奏が多く、激しい情熱、そこに差し込む憂いなど、交錯するものが多いけれど、さすがは本家本元というべきか、ことさらそれを強調することはなく、むしろゆったりとエレガントに演奏されたのが新鮮でした。
尤も、壮年期はもっと激しく弾いたのかもしれませんが…。

この30分ほどの演奏の中で、最も感銘を受けたのはショパンのノクターンでした。
きわめてデリケートな、ニュアンスに富んだ美しいショパンの真髄がそこにはありました。
アーティキュレーションの中で揺れるわずかな息遣いがハッとするようで、まさに鳥肌の立つような、泣けてくるような演奏。
決して完璧な演奏というのではないけれど、この一曲を聴けただけでも視聴した価値があったし、これはちょっと消去する訳にはい来ません。

同曲で感激したのは、記憶に残るものでは晩年のホルショフスキーがあったし、CDではリカルド・カストロにもマロニエ君の好きな名演があります。

この変ホ長調 op.9-2 は、ノクターンの中でも最も有名なもので、しかも多くの人が弾けるほど音符としては難しいものではないけれど、理想的な演奏ということになると、さてこれがピアニストでも至難という不思議な曲。
ひととおりの技術を身につけた人なら、音数の多い曲をあざやかな手さばきで弾いておけば、おのずと曲のフォルムは立ち上がりさすがとなりますが、ほんとうに難しいのは、こうしたシンプルで行間は全て自分で処理しなくてはいけない領域だろうと思います。

全般的に見ると、この曲は年齢を重ねないと弾けないものかとも思ってしまいます。
これほどショパンの大事な要素がぎっしりつまった曲というのはそうはないように思われ、親しみやすいメロディーの裏に次々に見落としてはならない要素が現れは消え、多くの弾き手がその多くを処理しきれず表面だけを通過してしまいます。

ショパンのノクターンといえば、遺作の嬰ハ短調 20番とされるものや、ハ短調 13番 op.48-1 などを好む向きもありますが、ある程度きちんと弾けばなんとかなるところがあるのに対し、op.9-2 は演奏上の背骨になるようなものがない危うさがあり、これを繊細かつ適切なニュアンスを保って聴かせるというのはなかなかできることではない。

単純に歌ってもダメ、ルバートやアクセントにもショパンのスタイルが要求され、f にもあくまで抑制を保つなど細心の目配りが必要で、なにか一つ間違えてもたちまち雰囲気が崩れてしまうのは、もしかしたらモーツァルト以上で気が抜けません。
だからといって、あれこれ注意を張り巡らせて弾いていると、今度はその注意と緊張で固くこわばってしまい、まさにあちらを立てればこちらが立たずとなる。

ピアノの難しさというと指のメカニックや超絶技巧、初見や暗譜の能力などばかりに目が行きますが、最後に行き着く難しさはこういうところにあるとマロニエ君は思うのです。

アチュカロはとくに気負ったところもない様子で、ホールの空気をこの曲の静謐な世界でたっぷりと満たしていて、こういう聴かせ方をする人は今後ますますいなくなることでしょう。
月の光も素晴らしかったけれど、やはりショパンのop.9-2が白眉でした。
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伝統と陰影

即位の礼も終わり、令和の時代も本格始動というところですね。

ああいうロイヤルイベント(皇室に使うべき言葉かどうかはわからないけれど)は結構好きなので、生放送を録画して、当日の夜はじっくり視てみました。
もっとも日本的な、簡素な美しさの頂点、そして日本という国の文化の根幹を目にする思いです。

ただ、畏れながら申し上げるといくつかの違和感がないでもなかったというのが正直なところです。
すべてが「伝統に則り」という文言がつけられますが、式典の舞台は当然ながら皇居新宮殿。

この皇居はむかしは言わずと知れた江戸城で、武家である徳川の居城。
明治維新によって皇居となり、しかも宮殿は空襲で消失、現在の新宮殿は戦後の技術の粋を尽くして昭和に建てられたもの。
いわば出自も時代もミックスされたもので、それは大変に素晴しいもの。

ただ、戦後に建てられた和のモティーフとモダンの類まれな融合である新宮殿と、そこへ両陛下が儀式のクライマックスでお入りになる高御座と御帳台が置かれている光景が、もうひとつ溶け合っているようには見えませんでした。
これらは平成の折には京都から運ばれたと聞きますが、新宮殿の最も格式の高い松の間に設置されますが、やはり前回同様、どこかしっくりこない印象が残りました。

あれがもし京都御所であったら、すべては美しいハーモニーのように響き合ったことでしょう。
平安絵巻から飛び出してきたような高御座と御帳台の姿形、大胆で独特な色遣い、これは建築にも同様の要素が求められるような気が…。

平安絵巻といえば、皇后さまをはじめ女性皇族方は御髪はおすべらかし、お召し物は十二単という平安時代からの伝統のものですが、それが新宮殿のガラスと絨毯が敷き詰められた現代風の廊下を静々と進まれる光景が、絵柄としてどうしても収まりません。

また高御座と御帳台が置かれた松の間の照明にも疑問を感じました。
よく見ると、松の間の両サイドの壁面上部には、まるで劇場用のような明器器具がずらりと配置されており、それらが一斉にこの空間をまばゆいばかりに照らし出していました。

しかし、両陛下および皇族方の装束、高御座と御帳台など、本来これほどの強力な照明にさらされるべきものだろうかという疑問が湧いてなりません。
昔の天皇は、映画などで見るように、御簾の向こうに静かにおわすばかりで、なにかと神秘のベールに包まれていたもので、そこにいきなり現代的な強力な照明をあてるのはどうなのか…と思うのです。

谷崎潤一郎の『陰影礼賛』という評論の中で、日本の文化は薄暗い光のなかで真価を発揮するよう、あらゆる事物が考えられ作られていると述べられています。
美しい漆に施された絢爛たる蒔絵や歌舞伎の舞台でさえも、本来は薄暗い光のなかで見るのがちょうどよいようになっている由で、ここでは白すぎる歯までもが、そういう美意識の中では好ましく無いというように書かれていた覚えがあります。

十二単のあのどこか生々しい色彩も、薄暗い御所の光を前提としてでき上がったものかもしれないと思うと、伝統と現代性の和解をもう少し探ってもよいのではないかと思いました。

普段は端正な美しさを極めた新宮殿も、どことなくホテルの催場ように見えてしまい、せめて高御座と御帳台が置かれた松の間の照明だけでも、もう少し繊細で幻想的なこだわりがあったら…という気がしました。
それにしても、自分の生涯で、すでに二度の即位の礼を目にできたとは嬉しきことでした。
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ジャン・チャクムル

トルコの若いピアニスト、ジャン・チャクムルの来日公演をBSのクラシック倶楽部で視聴しました。

最近のコンクールというものにほとんど関心がないこともあり、この人が昨年の浜松国際ピアノコンクールの優勝者ということも、この番組ではじめて知りました。
よく考えてみると、NHK制作のこのコンクールのドキュメントがあったのだから、それで覚えていてもよさそうなものですが、この時はある日本人ひとりに異常なほどフォーカスしすぎており、その他のコンテスタントについてはほとんど採り上げられなかったこともあって印象にありませんでした。

それで、はじめて浜松コンクールのことを検索したら、この人が昨年第10回の優勝者であり、このコンクールが3年に一度開催されていることも今回ようやく知りました。
マロニエ君はこれだけピアノが好きで、ピアニストにも興味津々なのにもかかわらず、関心がないところは切り落としたように目が向かないためか、しばしばこういうことが起こります。

今回視聴したコンサートは今年8月にすみだトリフォニーホールで行われたもので、プログラムはメンデルスゾーンのスコットランド・ソナタ、シューベルトのソナタD568、バルトークの組曲「野外で」という、個人的には好ましく感じるものでしたし、プログラミングという段階ですでにピアニストのセンスの一端が窺えるもの。

演奏を聴いて真っ先に感じることは、近頃の若いピアニストにしては呼吸と力の配分があって心地よさがあるということと、出てくる音楽に一定のフォルムと生命感があるということでした。
さらにいうと、演奏に際してわざとらしい自己主張など多くを盛り込むなく、作品の求める自然なテンポやアーティキュレーションを崩さないことは、今どきにしては珍しいタイプだと感じました。

多くの若者は評価のポイントが稼げるような演奏はいかなるものかを心得て弾いているのが透けて見え、必要以上にタメや間をとったり、どうでもいいような価値のないディテールの細部とかを見せつけることに専念しすぎたあげく、肝心の音楽が停滞することがしばしばですが、チャクムルにはそれがなく、心地よい運びで音楽が前進します。

いわゆる最上級の天才的なピアニストの演奏を味わうといったものではないけれど、楽曲の世界を心地よく周遊させてくれる、スマートな案内人のようなピアニストだと思いました。

それを裏付けるように、インタビューでも概ね次のようなことを言っていましたが、チャクムルはある程度その言葉通りの演奏ができている人だと思い、言行一致というか納得できるものでした。
「演奏家はコンサート中に情緒や感覚をそれほど重視しません。フレーズの開始やアクセントの位置、和音の解決などを現実的に考えます。音楽を正しく理解し伝えれば自然と意味が生まれます。演奏家が音楽に意味を吹き込むのではありません。正しい文法で弾けば音楽は自然に立ち上がります。練習や準備を重ね、そこを理解できるようにするのです。音楽の意味をすることと、ひらめきで弾くのとはちがいます。」

個人的には、この領域に留まる演奏というのはさして魅力を感じないことも事実ですが、演奏のプロフェッショナルとしては実際的で、変な自己アピールを押し付けられるよりは、こういう演奏をしてもらったほうがストレスなく快適というのも事実。
こういうピアニストが、知られざる作品を録音したり、実際のステージでも紹介してくれたらいいなぁと思います。


ピアノはカワイのSK-EXが使われていましたが、調べてみると、チャクムルは浜松コンクールの時からこれを弾いて優勝しており、かなりこのピアノを気に入って信頼もしているのでしょう。

実際にチャクムルの演奏や言葉に触れてみると、彼がSK-EXを選ぶというのもわかるような気がします。
マロニエ君もいつだったか最新のSK-EXをゆっくり触らせてもらいましたが、以前のカワイに比べて一段と洗練が進んで、没個性的ではある反面、嫌う要素も少なくなって、よりオールマイティなピアノにアップグレードしていると思いました。
とくに印象的だったのは、今回の演奏を聴いてもそうですが、カワイとしてはかなり雑音が少なくなっており、素朴で牧歌的でもあったものがぐっと都会風なテイストに寄せてきたという印象です。

チャクムルのようなスタンスで演奏をするピアニストにとって、ヤマハは華美にすぎるし、スタインウェイはピアノそのものが前に出すぎるだろうから、そうなると消去法でいってもカワイということになったのだろうと、勝手に想像し、勝手に納得です。

SK(シゲルカワイ)といえば、数年前に購入された知人がいて、先日お宅におじゃましてちょっと触れさせていただきましたが、いい感じに熟成されており、すっかり感心させられました。
「新品時がピーク」といわれる国内産ピアノでは、しっかりと成長しているのは素晴らしいことです。
この価格帯で買えるピアノとしては、かなり有力な存在で、好みにもよりますが有名メーカーのセカンドラインあたりを狙うよりは賢い選択となるのかもしれません。
ただし、あのロゴマークとカーボン素材のアクションに抵抗感がなければ…ですが。
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軽い!

楽しくありたいブログに、体の不調のことなど書いても意味がないし、だいいち無粋であり敢えて触れていませんでしたが、マロニエ君は今年の夏頃から少し膝の痛みを感じるようになり、整形外科など医療機関にもいちおう行ってみました。
これといって明確な原因もわからず、レントゲンを見ても幸い大したことでもないというわけで、その後は放置状態に。

主だった原因を強いて探すなら、運動不足と年齢的なもの、あとはストレスといったところが専門家のおおよその結論。
ただ、車の運転やピアノのペダル操作が、たまにつらい時があり、この先ピアノと車という人生2つの楽しみを取り上げられる時がくるのかと思うと、これはさすがに困ったことになったと思いました。

これで初めてわかったことですが、車のペダル操作に比べると、ピアノのそれは比較にならないほどの骨と関節と筋肉の労働であるということ。

さらにいうと、車のアクセルはなにしろ軽くて、そっと踏んで発進し、あとは交通状況に応じて離したり少し踏み足したりと、その動きもおだやかなものですが、ピアノのペダルときたら、ペダルじたいがかなり重く踏みごたえがある上に、その微妙な力加減や頻度というか踏む回数という点では、車とはおよそ比較にならないほどの運動量であることを知りました。

そもそも、車のアクセルはわずかな操作に終始すればいいのに対して、ピアノはまるで小動物のように絶え間なく踏んだり離したり、場合によっては小刻みにつつくような動きが必要で、しかもペダルもかなりの踏力を要することが判明、かくしてピアノは膝にとってはかなりハードな楽器であることを今ごろになって知りました。

幸いそれほひどい症状ではないから、注意してやれば弾けなくはないけれども、マロニエ君の場合、ピアノは純然たる趣味であるし、レッスンに通っているわけでも人前で弾くといった目的があるわけでもないので、弾かないならいつまでも無制限に弾かないで済んでしまいます。
そんなわけで自室のアップライトは気が向いたら触ることはあっても、リビングに鎮座しているグランドはほとんど手付かずの状態が続いていました。
しかも、そのグランドのペダルは標準的なものよりもやや重めで、技術者の方に聞いたら、中のスプリングを交換するとかあれこれの対策をいくつかおっしゃっていましたが、どうせ劇的に軽くなるわけじゃなし、面倒臭いこともあってついそのままに。

それを知人に話していたら、先日遊びに寄っていただいた折、なんとわざわざペダルの補助装置というのをお持ちくださっており、目の前に現れたそれは、金属製の手のひらにのるほどの小さな器具でした。
そういえば、こういうものがあることはネットか何かで見たような覚えはありますが、現物を見るのも触るのもこれが初めて。
それをペダルに差し込み、上からネジを閉めるだけで装着完了。

たったこれだけのことなのに、なんたることか、ウソみたいに軽くなっているではありませんか!
キツネにつままれているようでしたが、何回踏んでも、あっけないばかりに軽くて、どうしてこんなことができるのか、わけがわかりませんでした。
もともとのペダルにその装置を取り付けるから、踏む位置が約6cmほど手前に出てくるため、テコの原理でそうなるのか?とも思いますが、それにしてもその変化というのがあまりにも強烈で、こちらの頭のほうがついていけない感じでしたが、頭がついてこれなくても実際に重さはこれまでの数分の一というレベルになっているのですから、楽であることだけは紛れもない事実。

それにしても、なぜこんなに劇的に軽くなるのか、いまだに謎です。
テコの法則にくわえて、その装置じたいのわずかな重さも関係があるのかも…など思いを巡らすばかり。
もしそうだとするなら、これは鍵盤の法則を思い出させるもので、短いグランドより大型のほうが鍵盤も長くなり、そのほうが軽くコントロールもしやすいというのに似ているし、あるいは装置じたいの重さも一役買っているとしたら、これは鍵盤の鉛調整のようで、ピアノとはかくも微妙なバランスの上に成り立つ世界なのかと思う他ありませんでした。

いずれにしろ、思いがけなく良い物を教えていただきました。
あまりの効果に驚愕し、すぐに自分でも購入しようと思っていたら、なんともうひとつあるからどうぞ使ってくださいという望外のご厚意をいただき、とんでもないと思ったけれど、頑としてそのように仰るものだから、ついにはお言葉に甘えて使わせていただくことになりました。
かなり疎遠になっていたグランドですが、おかげで少し寄りを戻せるかもしれません。
なんともありがたいことでした。

ペダルの重さが気になる方は、断然オススメです。
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リシャール=アムラン

久しぶりにネットからCDを購入しました。

これという明確な理由があるわけではなく、とくに欲しいと思うCDがさほどなかったことと、すでにあるCDの中から聴き直しをするだけでも途方もない数があって聴くものがなくて困っているわけではないし、一番大きいのは新しい演奏家に対する期待が持てないことかもしれません。

また、慢性的なCD不況故か、リリースされる新譜も激減しており、店舗でもネットでも新譜コーナーには何ヶ月も同じものが並んでいたりと、この先どうなるのか?…といった感じです。
以前は、毎月続々と新譜がリリースされ、興味に任せて買っていたらとてもじゃないけど経済的に追いつかないほどでしたので、この業界も大変な時代になったということがよくわかります。

実際、若いピアニストでも興味を覚える人(つまりCDが出たら買ってみようと思えるという意味)というのはほとんどなく、大体の想像はつくし、もうどうでもいいというのが正直なところ。
そんな中で、わずかに注目していたのが2015年のショパンコンクールで2位になった、カナダのシャルル・リシャール=アムランで、彼のCDはショパン・アルバム(コンクールライヴではないもの)とケベック・ライヴの2枚はそれなりの愛聴盤になっています。

現代の要求を満たす、楽譜に忠実で強すぎない個性の中に、この人のそこはかとない暖か味と親密さがあり、けっして外面をなぞっただけのものではないものを聞き取ることができる、数少ないピアニストだと感じています。

とくにケベック・ライヴに収録されたベートーヴェンのop.55の2つのロンドとエネスコのソナタは、ショパン以外で見せるアムランの好ましい音楽性が窺えるものだと思います。
テクニック的にも申し分なく、しかもそれが決して前面に出ることはなく、あくまでも表現のバックボーンとして控えていることが好ましく、常に信頼感の高い演奏を期待できるのは、聴いていてなにより心地よく感じています。

さて、このアムランはそのショパンコンクールの決勝では2番のコンチェルトを弾きました。
このコンクールでは、決勝で2番を弾いたら優勝できないというジンクスがあるらしく、それを唯一破ったのがダン・タイ・ソンで、入賞後のインタビューで「なぜ2番を弾いたのか?」という質問に、アムランは「1番はまだ弾いたことがなかったから…」というふうに答え、「いずれ1番も練習しなくてはいけない」と言っていましたが、それから3年後の2018年に、そのショパンの2つのコンチェルトを録音したようです。
指揮はケント・ナガノ、モントリオール交響楽団。

前置きが長くなりましたが、今回購入したうちの1枚がこれでした。
添えられた帯には「アムランの芳醇なるショパン。ナガノ&OSMとの情熱のライヴ!」とあるものの、聴くなりキョトンとするほど整いすぎて、まさかライヴだなんて想像もできないようなキッチリすぎる完成度でした。

決して悪い演奏ではないけれど、演奏自体も録音を前提とした安全運転で、マロニエ君にはこれをやられると気分がいっぺんにシラケてしまいます。
演奏というのは、ワクワク感を失って額縁の中の写真のようになった瞬間にその価値がなくなると個人的には思っていますが、こういうものが好きな人もいるのでしょうが、個人的にはとてもがっかりしました。

リシャール=アムランという人は、自分を認めさせようという押し付けがなく、おっとりした人柄からくるかのような好感度の高さがあるけれど、このCDでよくわかったことは、でもキレの良さなどはもう少しあった方がいいということでしょうか。
それから、はじめのショパンのアルバムの時から少し気になっていたけれど、装飾音がいつもドライで情緒がないことは、今回もやはり気にかかりました。
とくにショパンの装飾音は、それが非常に重要な表情の鍵にもなるので、この点は残念な気がします。
初めに感じたことは、時間が経過しても曲が変わっても同じ印象が引き継がれてしまうのは、やはり人それぞれの話し方のようなもので、深いところで持っているクセなんだなぁ…と思います。

それでも全体としてみれば、今の若手の中では好きなほうのピアニストになるとは思います。
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シンプルで見えるもの

最近、つくづく感じることですが、ピアノを弾く上で極めて大切なこととして、音数の少ないスローな曲をいかに人の心を惹きつけるよう美しく演奏できるかということ。

これはアマチュアはもとより、プロのピアニストでもできていないことが多く、そもそも、そこに重きが置かれていないことを折にふれて感じます。
大事なことはもっぱら派手な、機械的な技巧ばかり。

技巧といえば、難曲を弾いてのける逞しい超絶技巧のことだと考えられており、そのあたりの思い込みはどれだけ時間が経っても変化の兆しさえありません。
シンプルな曲を美しく弾くことも、自分の演奏に対して常に判断の耳を持つことも技巧であり、タッチや歌いまわしや音色の変化を適切に使い分けることも技巧だと思いますが、それを建前としてではなく、心底そう思っている人というのはかなり少ないでしょう。

ピアノを弾く人の言葉からも、聞こえてくるのは「かっこいい曲」などというワードだったりして、それはほとんどが有名どころの大曲難曲を弾けることであって、そのための鍛えられた技術がほしいだけ。

たしかに、指が早く正確に確実に力強く動こくことは大切で、それなくしては音楽も演奏もはじまらないというのも事実。
だとしても、それだけしか見えていないことは、音楽をする上で致命的なことではないかと思います。
自分の技量に少し余裕をもてる曲を、美しく歌うように演奏するための努力や工夫をすることには、実際にはほとんどの人が関心がなく、仮にそうしたいと思っても、そのために何をどうしたらいいのか、いまさらわからない。
その点、機械的練習は、気力と環境さえあれば、一日何時間でもがむしゃら一本道で訓練を続けることが可能。


アマチュアばかりではなく、プロのピアニストでも同じような問題が見て取れることはしばしばで、いま注目される日本人の旬のピアニストといえば、だいたいあのへんか…と思う顔ぶれが5人〜10人以下ぐらい浮かびます。

この中で「音数の少ないスローな曲」を、センスよく美しく、聴く人の心の綾に触れるような繊細な情感と注意をもって適切に弾ける人がどれだけいるかと考えたら、かなり疑わしくなる。

キーシンが12歳でデビューして、ショパンの2つの協奏曲を見事に弾いたことで世界は驚愕しましたが、そのときにアンコールで弾いた憂いに満ちたマズルカ2曲と、スピードの中に悲しみが走るワルツの演奏は、12歳の少年とは信じられない人の心の奥底に迫ったもので、まさに大人顔負け、震えが出るものでした。

このところ、ピアノはスポーツ競技の別バージョンのようにして、コンクールを舞台にしたアニメや映画が盛んで、先日もとある番組でそれをテーマに出演者やピアニストがスタジオにゲスト出演。
いまや、ピアニストもこういう映像作品の演奏担当ピアニストに抜擢されることがブランドになるらしく、それからして演奏家の世界も時代に翻弄されているようです。

そのうちのひとりが、とある番組でドビュッシーの「月の光」を弾いていたけどよくなかったと知人から聞き、録画していたのでさっそく視てみたところ、なるほど!というべきダサくてピントの外れた演奏で驚きました。
有名な出だしは、やたら粘っこく間をとって一音々々意味ありげに行くかと思うと、急に意味不明に激しく燃え上がったり、ある部分はあっという間に通過してみたり、なんじゃこりゃ?と思いました。

好意的に見ても、まるで説明的に弾かれたシューマンみたいな演奏で、およそドビュッシーとかフランス音楽は一瞬も聴こえてきませんでした。
この人は、現在日本を代表するピアニストのひとりで、マロニエ君もベートーヴェンの協奏曲などはわりに好印象をもって聴いていただけに、こんな程度のものだったのか…とがっかりでした。

それだけ、ゆっくりしたシンプルな曲というのはその人の音楽上の正体を露呈してしまいます。
プロのピアニストにとって「月の光」なんて、技術的には取るに足らないものでしょうけど、それだけにその人の美意識やセンス、音楽的育ちやイントネーションなどがあからさまに見えてしまいます。

以前、アンヌ・ケフェレックが来日公演で弾いた同曲の夢見るような美しさがむしょうに恋しくなりました。

今どきのピアニストは演奏精度という点では一定のこだわりを持っているらしいけれど、ほぼ共通していることは、音楽が横の線になって流れてゆく生命力が弱いし、ここぞというツボにもはまらず、常に縦割りで拍とハーモニーが淡々と支配するだけ。

せっかく音楽を聴こうとしているのだから、ストレートに音楽を聴かせてほしいものです。
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アニメは苦手

マロニエ君の苦手なもののひとつにアニメがあります。

子供の頃は藤子不二雄だトムとジェリーだと、ずいぶん熱心に見ていましたが、最近の日本のサブカルチャーとして世界からも高く評価されているという最近のアニメは、きっと素晴らしいのだろうけれど、どうも我が身には馴染まないようです。

夜中にテレビなどでもよくやっていますが、ろくに見たこともないし、ジブリというのも言葉はよく耳にはしていたけれど、それが何であるのかも、実を言うとつい最近知りました。

というようなわけで、かなり話題になった『ピアノの森』もまったく見たことがなく、せっかくピアノがメインだというのにあまり見ようとも思いませんでした。
いつだったかNHKで再放送があるというので、「一度ぐらい」という思いから、念のために録画だけはしていましたが、見るほうはなかなか腰が上がらず、この夏ぐらいから一大決心の末にポツポツと見はじめました。

根本的にマロニエ君はアニメの楽しみ方というのを知らないし、慣れていないせいか、どうしても違和感や突っ込みどころのほうが意識のセンサーに引っかかり、いちいちそうなる自分が鬱陶しくさえ感じます。

これはアニメであって、映画でも現実でもないのだから、つべこべいわずに大きなところで愉しめばいいと自分に言い聞かせつつ、その単純なことがなかなか難しく、昔のアニメよりどこが優れているのかもすぐにはわかりません。

ひとつにはリアリティとファンタジーのバランスにも問題があるのでは?と思ってみたりします。
『ピアノの森』は出てくるピアノとかホールなど、特定のものはやけに正確に描写されているかと思えば、それ以外はかなりデフォルメされたアニメ調だったりと画調がまず一定でなく、中途半端にリアルすぎるんだろうと思います。
ショパンコンクールでのワルシャワフィルハーモニーホール、スタインウェイやヤマハなど、現実そのものをそのまま写しとったような絵柄がバンバン出てくるあたりも、この作品の魅力であるのかもしれないけれど、妙な生々しさも含んでいて、リアルならリアルに統一して欲しい気持ちになります。

テーマ曲がショパンのop.10-1というところは新鮮でよかったけれど、この作品のタイトルでもあるところの、森の中にスタインウェイDが捨ててあるという設定だけでも、湿度は? 雨が降ったら? …などと、アニメ鑑賞者としては甚だ無粋なことなんでしょうが、そっちが気になって仕方ない。

それと、あれ、絵はうまいんですか?
ごくたまに本当に曲のとおりに指が動いて、よくそこまで研究されているなぁと驚くシーンもあったけれど、全体としてはアニメというわりに静止画がやけに多く、演奏中の人物も、それを固唾を呑んで聴き入る聴衆も、ほとんどが静止画で、セリフや音楽だけが進行するのは、ちょっとした驚きでした。
今どきのことだから、昔に比べてよほど精巧緻密に絵が動くのかと思ったら、こうも静止画が多用されるのかとびっくりしましたが、考えてみれば絵を動かすことがアニメにとってコストに直結することだと思えば、静止画が多いのはコスト削減ということなのかもと、なんとなく残念な納得の仕方をしてしまいましたが、せっかくアニメを見ているのにそういう裏事情を考えることじたいがもう楽しくない。
いずれにしろ、こうなると、声優のセリフつき紙芝居&ときどき動くものと思ってしまうし、動いても画面の中の小さな一カ所だけであったり、焦る人物の眉毛だけがピリピリと動いたりで、昔のアニメのほうがよほど自然で滑らかだったのでは?と思いました。

また、演奏を担当しているのは現役の若い人気ピアニストだということで、その3人をスタジオに招いて演奏とトークの混ざった番組をアニメ本編より先に見ていました。
ならば、演奏はよほど本格的なものかと期待していたのですが、アニメの中で聴こえてくるのは、どれも線の細い、縮こまったような演奏ばかりで、どういう意図で演奏されているのかマロニエ君にはまったく意味不明。

せかっくアニメなんだから、演奏ももっと表現が強調されたものであってもいいような気がするのですが、全然そうではない。
そもそもアニメとはなにがリアルでなにが誇張されるのか、その線引もまったく不明。

そのあたりのことがさっぱりわからず、ことほどさようにアニメに入り込めないマロニエ君というわけです。
やっぱりアニメはドラえもんとかちびまる子ちゃんがしっくりくるマロニエ君でした。
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ズンとラー

ロシアを代表すバレエ団といえば、いわずとしれた「ボリショイ・バレエ」と「マリインスキー・バレエ」。

マリインスキーバレエというのが本来の名称ですが、ソ連時代は「キーロフ・バレエ」として知られており、むかしマロニエ君が子供の頃に来日公演をやっていた時代は、少なくとも日本では「レニングラード・バレエ」の名で親しまれていました。

そのマリインスキー・バレエの附属学校として有名なのがワガノワ・バレエ・アカデミー。
ここに入学するには、本人はもとより、両親の家系までさかのぼって、バレエにふさわしい体格の持ち主か、太る体質の心配はないかまで調べられ、さらに入学後も太ってきたら退学になるという徹底ぶりというのは、以前からかなり有名な話でした。

NHKのBSプレミアムで、この学校の男子生徒に密着し、迫り来る卒業試験から各バレエ団の入団オーディションまでを追ったドキュメントが放送されました。

5〜6人の男子学生がその対象で、校長(元ダンサーのニコライ・ツィスカリーゼ)自ら彼らに対して連日熱い指導が続けられます。

そこにはクラストップの有望株と目されて、すでにプロ並みのしっとりした表現力を身に着けた者、あるいは長身と甘いルックスに恵まれるも今ひとつステージのプロになるための気構えの足りない者など、いろいろな生徒がいます。
その中にアロンという、英国人の父と日本人の母を持つ青年がいて、非常に努力家で優秀な生徒でしたが、周りに比べると、やはり手足の長さが不足気味、身長もやや低めで、それが彼のハンディになっていました。

目鼻立ちや雰囲気にはさほど日本人っぽさはないように見えますが、いざ白いタイツを履き、ロシアや北欧などの青年と並んで練習に励むと、やはり日本人のDNAの存在を感じないわけにはいかず、日本人のコンプレックスの根底にあるものは、ひとことで言うなら体格に行き着くのではないかということをあらためて感じずにはいられませんでした。

顔も濃い顔立ちで、普通に街にいればむしろラテン系の良い部類のようにも見えそうですが、なにしろロシアバレエの精鋭が集まる場所というのは、たとえ学校でも、すべてにおいて基準が違います。

そのアロン君、日本的なのは体格だけではありませんでした。
お母さんが日本人というだけで、英国生まれの英国育ちで日本語も番組中はひとこともじゃべらないほどヨーロッパ人だし、その踊りはとてもうまいのだけれど、どこか日本らしさがあって、のびのびとした流れや軽さがありません。

すると指導にあたるツィスカリーゼ校長が、なんとも鋭いコメントを浴びせました。

曰く、「日本人の歌い方の「ズン!」という感じで踊っている、もっと「ラー!」という感じで踊りなさい。」
まったく仰せのとおりでした。
アロン君に限ったことではなく、日本人のバレエは技術はとっても上手くなっているけれど、この「ズン!」という感じはいまだにつきまとっているのは、精神の奥深くにある何かが作用しているように感じます。

テクニックがテクニックで留まり、決まりのポーズやステップを覚えて並べていくだけで、体の動きが開放された軽やかな踊りとして見えません。
やはり日本人が自己主張が気質として弱いため、高度なテクニックの獲得までが目的になっている気がします。

そのテクニックが表現の手段として用いられるステージに至らない。
なぜかと考えますが、日本人は生まれながらに自己表現は慎むように遠慮するように育ってきて、だから気がついたときには表現したいものがない、もしくは小さいからではと思います。
行き着く先は、磨き上げたテクニックだけを拠り所にするという結果になるのではないかと思いました。

言われた方のアロン君は、「日本の歌も知らないし…」と困惑していましたが、その日本らしさは無意識に踊りに出てしまうもの、これぞ先祖から受け継いだ遺伝子のなせるものか?と思いました。
これは器楽の演奏にも同じことが感じられます。

器楽は肉体そのものを見せるパフォーマンスではないから、いくぶんマシとは思うけれど、やはり「ラー!」ではなく「ズン!」であるし、さらにいうなら歌ってさえいないことも珍しくありません。
日本人のパフォーマンスというのは、どこか真似事のようで暗くて閉鎖的に感じることが多いです。
ヴァイオリンなどでは、マロニエ君の個人的印象でいうと比較的関西圏から優れた演奏家が出るように思いますが、関西は日本の中では最も自己主張の強い地域性ということが関係しているのかもしれません。
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時代の音

当たり前なのかもしれませんが、ピアノの音というのも時代とともに少しずつ変化していくもの。

他の工業製品のように絶えず新型が出てくる世界ではないけれど、ピアノもとりまく社会環境、時代の好みや価値観、弾く人のニーズによって変化していくようです。

〜ということぐらいはわかっていましたが、最近はひしひしとそれを感じ始めています。

それが、毎年少しずつ変化しているのか、ある程度のスパンや区切りで大きく変わるのか、そのあたりは定かではないけれど、たとえば10年単位で見てみると、大雑把な世代というものがあることに気づきます。

例えばハンブルク・スタインウェイでは、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代とそれぞれの時代の音があって、古いほど太くて素朴な音、新しくなるほど華やかさが増す一方で、腹の底から鳴るようなパワーは痩せてゆき、その流れはとどこまで行くのか…という印象があります。

とりわけ昨年あたりからの新型は、なんとなく本質的なところまで変わってしまったようで、表面的には「いかにも鮮やかによく鳴っているよね」といわんばかりにパンパン音が出るキャラクターですが、その実、ますます懐の深さや、表現の可能性の幅はなくなり、整った製品然としたピアノになっているようにも感じます。

味わいだの、陰翳だの、真のパワーだのという深く奥まったこと(すなわちピアノの音の美の本質)をとやかく論じるより、新しい液晶画面のように、明るくクリヤーでインパクトのあるもののほうが、ウケるということだとも思えます。
そうしないと、大コンクールという国際舞台でもピアノも選ばれるチャンスを逸するということかもしれません。

もちろん大コンクールでコンテスタントに選ばれることがそんなに大切なのか?と思うけれど、そういう考え自体がきっともう古いのであって、メーカーにとってはこれが最優先であろうし、だからもうブレーキが掛からない。
どれだけ本物であるか時間をかけて出る答えより、パッとすぐに結果が出ることのほうが優先される時代。

ヤマハはCFXが登場して10年ぐらいになるのでしょうか?
はじめはいかにも歯切れよく、リッチで上質な音が楽々と出るピアノというイメージでした。
当初は演奏会で聞いても、モーツァルトまでぐらいの作品であれば、場合によってはスタインウェイより好ましいかも…と思えるような瞬間もあるピアノでしたが、その後はまた少しずつ違うものになっていった印象。
個人的なCFXの印象では、年々音の肉付きが薄くなり、懐も浅くなってきた気がします。

実は、こんなことを書いたのは、ちょっとしたショックを受けたから。
最近プレーヤーのそばに置いているCDがかなり聴き飽きてきたので、なにかないかと棚をゴソゴソやっていたら、フランスのピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェによるベートーヴェンのハンマークラヴィーアが出てきたので、これを聴いてみることに。
久しぶりでしたが、その鮮やかな演奏もさることながら、ピアノの音にはかなり驚きました。

録音は2008年にフランスで行われたもので、ピアノはヤマハCFIIISなのですが、これが「今の耳」で聴いてみると、なかなかいい音しているのには、かなり驚きました。
大人っぽく、しっとりしていて、深いものがあり、ある種の品位すら備えていました。

10年前ならなんとも思わなかったCFIIISの音が、こんなにも好印象となって聴こえてくるのは、それだけ最近のコンサートピアノ全体の音質が変わってきているからにほかなりません。

一時代前はヤマハもこういうピアノを作っていたんだと思うと、いろいろと考えさせられるところがありました。

いまや最新工法によるスタイリッシュなタワーマンションばかりが注目されがちですが、一時代前のずっしりとした作りの高級マンションの良さみたいな違いがしみじみ伝わってくるようでした。

いずれにしろ「重厚」というものは手が抜けず、裏付けるコストがかかるから、もう時代に合わないのでしょうね。
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つづき

パリの様変わりは、おそらくはパリだけのことではないのでしょう。
いつからということはわからないけれど、ヨーロッパはどこもかつての輝きを失っている気がします。

マロニエ君はとりあえずパリの状況に仰天して別の友人にその話題したところ、彼の知る学生でヨーロッパに留学経験のある人は、大抵何度かは強盗被害みたいなものに遭っているのが普通!?だと言われてしまい、「だったら、治安に関しては北京や上海のほうがはるかに安全では?」と言うと、「もちろん!」とこともなげに言われてしまいました。
まるでこちらの認識が遅れているかのように!

少なくとも20世紀までの、文化の中心である憧れのヨーロッパというものは、実際にはかなり失われてしまっているようで、留学などするにしても、治安に関してはかなりの覚悟が必要とのことで本当にびっくりしました。

曰く、テレビなどでよくある街角歩きのような番組では、切り取って編集し、いいところだけを作り上げるだけの由。
出演するタレントなどは、一見自由に動き回っているようにみえるけれど、スタッフなど常に周りから守られて、撮影隊も集団で行動するため、それがひとつの防御形態になっており、表面だけを見て気軽に個人旅行などをするのはリスクが有るとのこと。
べつに行く予定もなかったけれど、マロニエ君のような全身油断まみれのような甘ちゃんが立ち入るところではないようです。

こうなる背景のひとつは、移民問題や、あまりに行き過ぎた経済至上主義が世界中に蔓延した結果だというのはあると思います。
なにかといえば経済々々と、世界中そのことばかり。
そうなってくると、文化や芸術は直接的にお金になるものではないから、どうしても二の次になり、価値観の多様化とあいまってじわじわと価値を失い、価値を失えば豊かだった土壌は痩せて、新しい芽は出ないばかりか既存のものまで次々に枯れていくだけということなのかと思います。

そういえば、10年ぐらい?前のことですが、新聞紙上である記事を見たことを思い出しました。
福岡県出身の油彩画家の方で、長年パリで活躍して来られたという方で、年齢的にもまさに活動の絶頂期というタイミングで、パリのアトリエを引き払い、故郷の福岡県のどこか(お名前も場所も忘れました)に戻ってきたので、それを機に個展を開くという記事が載っていました。

その方のインタビューがありましたが、細かいことは忘れたけれど、その方が若いころ渡仏した頃からすると、近年のパリのあまりの変質ぶりに大いに落胆させられた。
年々芸術的な雰囲気が失われ、殺伐として、パリはもうあのパリではなくなった。
これ以上、自分がそこに留まる意味を感じられなくなったため、この度の帰郷となったという意味のことが述べられていました。

この記事を見た時は、へぇ…とは思いつつ、芸術家特有のちょっとしたことへのこだわりや気まぐれ、あるいは失礼ながら自分自身の行き詰まりもあるのでは…ぐらいに思っていました。

しかし、昔からパリの芸術と文化をリスペクトしていたその友人の、100年の恋も覚めたようなその様子を見て、これはやはり本当らしいと思うに至りました。


このところ日本への外国人観光客がずいぶん増えているようで、しかも多くがまた訪れたいという好印象を抱いて帰っていくとのことで結構なことではあるけれど、マロニエ君は正直いって不思議でなりませんでした。

日本のどこがそんなにいいんだろう?と日本人がこう言ってしまっちゃおしまいですが、まず安全で、人もそう危なくはないというだけでも日本の魅力なのかと、なんだか思いもしなかったことから納得できたような気になりました。

昨日もニュースで、海外からの旅行客が日本で落し物をしたところ、届け出があって戻ってきたというようなことを絶賛していましたが、こういうことが世界から見れば文化なのか?
ついには、遺失物を本国の持ち主へ送り返すビジネスも開始されるとかで、たしかに日本ならではのことかもしれませんね。
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最近のパリ

最近のパリの話というのを、久しぶりに会った友人から聞きましたが、かなりショッキングな内容でした。

一年ほど前にパリに行って戻ってきたとき、「我々が知るパリはもうどこにもない…」というようなことを電話で言っていたので、「またまた、大げさな!」と思っていたのですが、今回じかに詳しく聞いてみたところ、そこから語られる数々の話には少なからず驚かされるものがありました。

普通パリといえば「花の都パリ」という言葉が思い浮かぶように、芸術、美食、ファッション、その他もろもろの文化にかけては歴史的にも世界の中心として君臨した街。
パリを愛した芸術家は数知れず、その美しい街並み、すべてのものに息づくシックで斬新なセンスなど、マロニエ君もずいぶん昔に行ったパリはまさにそういう場所でした。

ところが近年の状況はさにあらず、街は殺伐とし、いわゆるパリジャン、パリジェンヌの大半は姿を消し、まったく似つかわしくない違った様子の人達でパリの街は溢れかえっているといいます。

ありとあらゆることに変化が起きており、例えば、かつては街のいたるところにあった美しい菓子店など、どこを見渡しても一気に払いのけられたように無くなり、かろうじて残る店も、商品は日持ちのする魅力ないものに合理化され、さらには昼食時間帯にはマックよろしく、パン(パン屋ではないのに)に何かを挟んだテイクアウト用の軽食を販売するなど、もはや伝統的なパリの気の利いた繊細なスタイルの多くは、ゼロではないだけで大半は消滅しているのだとか。

街角で土産として売っていたエクレアには「I LOVE YOU」の英字が踊り、地元の人々の優雅な生活を感じさせるものはことごとく消えているとかで、街全体は殺伐としているといいます。
ランドマークである凱旋門、エッフェル塔、オペラ座といった建造物はあるものの、でもそれだけで、街全体はほとんどスラム化しているといいます。
思わず涙しそうなノートルダム寺院の大火災は、こうしたパリの変化を象徴した惨事だったような気もしてきます。

なにより強く訴えていたのは、美しいパリのイメージとはかけ離れた治安の悪さで、いたるところにどこから来たのかわからないような怖そうな人達がたむろしているから、ただ歩いて通過することさえたじろいでしまうため、街歩きなんぞしたくてもできない状況だとか。

いっぽうルーブルやオルセーなどの美術館は、いずれもアジアの大国の人達でテーマパークのようにごった返し、有名作品の前ではワイワイガヤガヤ大声が飛び交い、揉み合うようにして自撮り棒で写真をとるなど、名画の世界に浸ることなどまったく不可能だとか。
日本の美術館のように静かに作品を鑑賞できるところは、アメリカのことは知らないけれど、もしかしたら日本ぐらいではないか…ともこぼしていました。

さらに驚くべき事件が追い打ちをかけます。
そもそも、この旅にはクリニャンクールの蚤の市にあるらしい楽器店に行く企みがあったというので、またバカなことを!とは思いました。
家族にも内緒でまとまった現金を持っていたらしいのですが、オペラ座近くのメトロの駅階段を登っていたところで、日中、突然背後から襲われ、有無を言わさず背中のリュックのファスナーを開けて現金を強奪されたというのです!!!
まさに一瞬のことで為す術もなく、さいわい現金は2つに分けていたため、1つは無事だったものの、その被害たるや笑っては済まされないような額で、聞いているこちらが心臓はバクバク、頭はクラクラしてきました。

警察に飛び込んでも訴えるだけの語学力もないし、上記のような街の状況からしても、取り返すことなど不可能だと悟って、被害届も出さなかったというのです。
それからというものさらに気を引き締め、リュックは背中ではなく体の前に提げるなどして全身注意の鎧を固めていたにもかかわらず、後日なんと再び歩いているところを物盗りに襲われ、今度は必死に防御して被害はなかったというのですが、相手は複数の場合が多いから、下手をすれば物陰に連れ込まれて命の危険さえあることを肌で感じたそうです。

帰国していろいろな人に話したところ、フランスに限らないそうで、スペインではターゲットを路地裏に連れ込み、口元を殴って前歯を折られてパニックになっているところで、身ぐるみ剥がれるという手口が多いのだそうで、今どきのヨーロッパとはそんなにも恐ろしいところなのかと驚愕しました。

この友人は、ロッシーニではないけれど音楽と美食を心から愛するため、一人旅のくせに高級レストランに行くことも目的で、それでも意地でいくつかの有名店には行ったというのですが、さすがに店内はどこも安全だったけれど、食事が済んで一歩店を出ると、とたんに再び恐ろしい危険と緊張感が広がり、要するに街全体が一瞬も気の抜けない無法地帯のようになっているということのようです

これがパリの現在の姿だなんて、考えたくはないですね。
近年日本のアニメがパリでも大人気などという話を聞いて首をひねっていましたが、環境自体がこれだけ変わっているということも考慮しなくてはいけないのかもしれません。

その友人は、佳き時代の終わりの頃から4回ほどパリに行ったけれど、もう二度と行くつもりはないそうです。
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ブラウティハム

むかしと違って、何を聞いてもドキドキワクワクさせられることが極端に少なくなった、いわば演奏家の生態系が変わってしまったかのような今どきの演奏。
技術的な平均点はいくら向上しても、喜びや感銘を覚える演奏には縁遠くなるばかり。

そんなあきらめ気分の中、ひさびさに面白いというか、なるほどと頷ける演奏に接しました。

Eテレのクラシック音楽館の中からエド・テ・ワールト指揮によるN響定期公演で、冒頭がベートーヴェンの皇帝だったのですが、ピアノはロナウド・ブラウティハム。
オランダ出身のフォルテピアノ奏者として、旬の活躍をしているらしい人で、近くベートーヴェンの協奏曲全集もリリースされる予定ですが、ピアノは普通にスタインウェイのD。
(全集はフォルテピアノ使用の由)
その普通がとっても普通じゃないので、まずここで驚きました。

A・シュタイアーのときがそうであったように、フォルテピアノの奏者がモダンピアノを弾くと、どこか借りもののようなところが出てしまうことが往々にしてあるので、さほどの期待はせず視聴開始となりました。

ところが、その危惧は嬉しいほうに裏切られて、これまでに聴いたことのないような、センシティブな美しさに満ちた演奏に接することになりました。
とりわけ皇帝のような耳タコの超有名曲で、いまさら新鮮な感動を覚えるような演奏をするというのは生易しいことではありません。

なんといっても、聴いていて形骸化したスタイルではなく、音楽そのものの美しさが滲み出てくるのは強く印象に残りました。
もともとベートーヴェンの音楽は誇大妄想的で、葛藤や困難があって、それを克服する過程を音楽芸術にしたようなところがあるけれど、ブラウティハムはそこに意識過剰になることがないのか、曲本来がもつ純音楽的な部分をすっきりと聴かせてくれるようで、おかげでベートーヴェンの音楽に内在する純粋美を堪能させてもらえた気分でした。

特に皇帝でのソリストはヒーロー的な演奏をするのが常套的であるため、そうではない演奏となると貧弱で食い足りないものになりがちです。
ところが、この演奏は、そういうものとは根本的に別物。
深い考察や裏付けがきちんとしたところからでてくる音楽なので、そのような不満にはまったく繋がらなかったばかりか、これまで何百回聴いてきても気づかなかった一面を気づかせてくれたりで、これにはちょっと驚きでした。

それと、これまでの印象でいうと、一部の古楽器奏者には、自分達こそ正しいことをやっているんだという押しつけがあって、モダン楽器演奏の向こうを張るようなイメージがありましたが、ブラウティハムの演奏はそういう臭みがなく、ごく自然に耳を預けられる魅力がありました。

彼は決してピアノを叩かないけれど、それが決して弱々しくも偽善的でもなく、むしろ多くのモダンの演奏家よりも音楽そのものに対するパッションがあって、その上で、常にピアノを音楽の中に調和させようとするからか、音の大きくない演奏でも深い説得力があり、舌を巻きました。
ピアノがどうかすると弦楽器のようであったり、皇帝がまるで4番のようにエレガントに聴こえる瞬間が幾度もあって、とにかく美しい演奏でした。

今どきのピアニストによる、指だけまわって、型に流し込んだだけの簡単仕上げで、なんのありがたみもドラマもない、アウトレット商品みたいな演奏の氾濫はもうこりごりです。

アンコールでは「エリーゼのために」が弾かれ、そこでもわざとらしい表情を付けるなど作為が皆無の、節度ある自然なアプローチが、まるで初めて聴く曲のようだったし、2つの中間部も、これほど必然的に流れていくさまは初めて聴いたような気がして唸りました。

ベートーヴェンは、実はとっても優美な音楽ということを教えられました。
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定義と機会

前回の記述で、ハンマー交換に関連して思ったこと。
それは、ピアノのオーバーホールの定義とは?そもそもなにをもってオーバーホールと云えるのか?ということ。
その基準を明確に示すものはおそらくなく、ハンマーと弦とチューニングピンを交換するだけでもそう言ってしまうことがあるようですし、かくいうマロニエ君もずいぶん昔は単純にそんな風に思っていたこともありました。

当然それには異論もあり、それなら「ハンマーと弦とチューニングピンを交換済み」とすべきだとする意見は尤もで、オーバーホールというからにはもっと広範な意味が含まれて然るべき。

では、どこまでやったらオーバーホールと言っていいのかとなると、ピアノの状態にもよるでしょうし、技術者の考え方にもよるでしょうから、これは答えに窮する問題ですね。

アクションや鍵盤まわりのほぼすべての消耗品を新品に換える、ダンパーのフェルトも交換、弦を外しフレームを外して塗装、響板のニスを剥がして補修までやって、なんならボディの塗装まですべてやり変えることもあるし、中にはピン板を作り直したり、響板そのものまで張り替えるということもあることを考えると、これは正直いってどこまでという線引は簡単にできるようなことではありません。

やるとなれば際限がないし、厳密なことを言い始めたら、鍵盤も鉛を入れたり抜いたりで痩せて傷だらけだから新造し、アクションも新品にするならそれにこしたことはない。
すべてのクロスやバックチェックも交換もしくは張替えて、なんなら金属パーツも交換。
そうなると、本当に何もかもということになり、最後に残るのは、ボディとフレームぐらいになるのであって、そうなると完璧なオーバーホールというのを超えてしまって、新造の要素が勝ったピアノになってしまう気がしないでもありません。

では、そこまですれば最高の音が約束されているかといえば、それは別の話で、陶芸が釜から出してみるまでわからないというのと同様、オーバーホールもやってみるまでわからない、あるいはそこから数年経ってみないとわからないという面があり、なかなかおいそれと手が出せるものではないでしょう。
とくに作業をする人の腕前にも大きく左右されると聞きますし、さらにいえばそれを受け取って、弾いて、管理していく側にも責任の一端がありそうです。

加えて費用の面でも、やればやるだけ値は嵩み、そうなるとよほどの高級ピアノであるとか歴史的な価値がある等、ごく一握りの特別なピアノだけがこの超若返り術を受けることができるわけで、一般的な量産ピアノではほぼありえない話になってしまいます。

わけても量産ピアノの場合、コストとの厳しい睨み合いになり、最低限の消耗品の交換に留めることが現実的なオーバーホールということになりそうです。
それでもそれなりの費用となるので、日本ではとくに高級品ではない国産ピアノのオーナーでそこまでする理解と覚悟をもって作業依頼される方は、ゼロとは言わないまでも、普通はおられないと思います。

それでなくても日本人は基本的に新しい物が好きで、古いものを手入れをしながら使うという文化や習慣が薄く、住まいも、クルマも、そしてピアノも、経済さえ許せば買い換えに勝るものなしという感性なので、そこまでするなら倍の金額を出しても買い替えを選ぶように思います。
かくして、ピアノは下取りに出されることに。

量産ピアノが大修理を受けるのは、大抵の場合、いったん所有者の手を離れたこのときのような気がします。
おどろくばかりの安値で買い取りされたピアノが、消耗パーツを交換して再生品として美しく仕上げられ、そこに利益が上積みされて、新品を買うより安い…ぐらいの微妙なプライスで販売される場合。

そう考えると、日本でピアノのオーバーホール(のようなこと)がおこなわれるケースの大半は、所有者を失ったピアノが、再び商品価値を与えられる場合ということになるのかもしれません。
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続・軟化剤

〜前回の続き。
軟化剤というものを初めて使ってもらい、約2週間経ってみて感じるところは、少なくともハンマーフェルトの柔軟性復活のためにはこれはかなり有効ではないか、ということでした。

ひとくちにピアノといっても立ち位置はいろいろです。
コストを惜しまず理想を追求できるのはステージ用など一握りに過ぎず、多くは、言葉は悪いですが妥協的も必要という状況に置かれたものだろうと思います。
で、ここでは、あくまで普通に気持よく使えればいいというピアノに関しての話。

普通に気持よくとはいっても、ハンマーもある程度使い込まれていくと賞味期限が迫ってくるのは当然で、正攻法で言うとハンマー交換になるのでしょうし、それを機にピアノ本体を買い替えに仕向けるのがメーカーの狙うところでしょう。
まるで「ハンマーフェルトの寿命がピアノ本体の寿命」であるかのようで、車でいうと「タイヤが減ったら車ごと買い換えてください」みたいな感じで、さすがに車でそれは通用しませんが、ピアノは…。
これもすごいとは思いますが、まあ企業とはどのみちそのようなもの。

もしハンマー交換になったとしても、決して安くはない費用(少なくとも安い中古アップライトが一台買えるぐらい?)がかかるし、馴染むまでには調整だなんだと手間がかかり、普通の機械のように壊れたパーツを交換してハイ終わり!というようなわけには行きません。
シャンクやローラーはどうなるのか、周辺の消耗品もこまごまとあったりすると、そこをどうするか、これはもう判断を含めて簡単なことではないでしょう。

軟化剤はそういう場面での、ある種の救いの神だと思いました。
もちろん、それですべてが解決ではないけれど、差し当たり目の前に迫った問題を、一定期間先送りにするぐらいのことはできると思います。

しかしピアノの技術の中では、軟化剤の使用はほぼ聞いたことがなく、意図的に無視されているのか、よほど研究熱心な技術者の方でないとこれを試してみようということにはならない空気みたいなものを感じます。

大半の方は、言い方は悪いかもしれないけれど、技術的に主流ではない手段を敢えて使って、万一批判の対象にでもなろうものなら仕事にも支障をきたすという心配も働くのか、君子危うきに近寄らずで、あえてそんなものに手を出さないという判断かと思われます。

深読みすると、軟化剤はもしかすると、業界ではかなり疎まれる薬剤かもしれません。
なぜなら、あまりにも手軽かつ効果的にハンマーフェルトの延命措置となり得るので、これが一般的に浸透したら、そりゃあ好ましくないことも出てくるでしょうし。

マロニエ君はいうまでもなく業界の人間ではないので、純粋に軟化剤の印象をいうと、かなり効き目は高く、かつ耐久力もあると思います。
古いフェルトの場合、針刺しによる音の軟化は一時的に針穴を開けてクッションを作っても、フェルトじたいの柔軟性が落ちているので、その効果も短命で、ぺちゃんこの枕を手でほぐしてもすぐ元に戻るような感じがあります。
その点、軟化剤はフェルトの弾力そのものを復活させるので、しなやかさが増すという感じがあり、針刺しとはまったく違います。
少なくとも、硬化剤で固めるのにくらべたら、軟化剤で柔らかさを出すほうが、まだナチュラルかなとも思えるし、2週間ほど近くたってもとくに衰える(もとの硬い音に戻る)こともないのは、やはり「すごくない?」って思います。

おまけに、圧倒的に簡単かつ安価で、調整のやり直しなども必要ない。
ハンマーを交換するとなれば作業だけでも大変な上に、新しいハンマーに合わせた各種調整がフルコースで必要となり、費用もさることながら、その時間や労力は並大抵のものではありません。

交換か、買い替えか、そのままガマンか、その三択に迫られたとき、とりあえずこの軟化剤でしのぎながら、ゆっくり考えるにはちょうどいいと思います。
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軟化剤

ピアノの整音に使われる手段の一つとして硬化剤があります。

使い方も技術者によって違いはあるようですが、薄めた硬化剤をハンマーヘッドの要所に塗布してフェルトに硬さを与え、音の華やかさや輪郭を出すためのもの。

硬化剤の功罪についてはいろいろあるようで、中にはこれを好まず一切使わないというポリシーの技術者さんもおられます。
せっかく弾力のあるフェルトに液剤を染みこませて、カチカチにしてしまうのだから、シロウトが考えてもさほど好ましいことのようには思えませんが、そこはあくまで使い方次第であり、経験と技術に負うところが大きいだろうと思います。

さて、マロニエ君は以前、ある遠方の技術者の方から硬化剤の逆の作用をもつ「軟化剤」なるものがあることを聞いていたので、機会あるごとに技術者さんにそのことを聞いてみると、話には聞くけど使ったことはないという方がほとんどで、中には存在自体をご存じない方もおられました。

あるとき「持っています」という調律師さんがおられたので、聞いてみるとご自身の工房で所有しているピアノでは使ってみたことがあるけれど、あくまでテスト段階とのこと。

話が前後しますが、我が家には話題にするほどもないような、古いカワイのGS-50というグランドがあり、さほど酷使したピアノではないものの、製造から30数年が経過してさすがにハンマーもややお疲れ気味のところがあり、そうかといってハンマー交換が必要というには至っておらず、そこまでする熱意もありません。

なので、このピアノに軟化剤を使ったらいいのでは?という考えは以前からあり、それをやってくれそうな技術者の方が見当たらずという状況が続いていたところへ、この方が「使用歴あり」ということがわかり、さっそくやってみてほしい旨を伝えました。
しかし、未だ上記のような段階で実践にはまだまだと、なかなか色よい返事は得られませんでした。
テスト段階のものを、お客さんのピアノに使うわけにはいかないということらしいのですが、聞いていると、これまで試してみた限りではそう悪い印象ではないらしいこともわかってきました。

では、このピアノを実験台に使ってくださいと言ってみたものの、そういう訳にはいかないとの反応で、そりゃそうかもしれませんが、マロニエ君があまりしつこく食い下がるものだから、では自分の工房にあるピアノで使っていましばらく観察してみるので、お待ちをということになりました。

調律師さんというのは職業柄なにか作業をするにあたって、おしなべて慎重な方が多いのですが、中でもこの方はさらにもう一段二段思慮深いらしく、そこまでしなくても…というほど、何をするにも慎重の上にも慎重を期されるようで、数ヶ月待つことになりました。

というわけで、半分忘れかけた頃にご連絡があり、使う量やハンマーのどこに塗布するか、時間経過とともにどうなるかなど、さまざまに実験をされたようで、そこで一定の結果を確認されたのか、本当によろしいのであれば少しずつやってみましょうか…ということになりました。

作業はというと、これがあっけないぐらい簡単で、アクション一式を引き出してハンマーの狙った場所に塗っていくというか、液をわずかに落としていくというもの。
初回は、中音域から次高音ぐらいまでまさに微量でお試しということになり、その日は放置して翌日音を出してみてくださいということでこの日は終わり。

翌日、どうなっているかと期待しつつ音を出してみると、たしかに音にまろやかな膜がうっすら加わっており、その確かな効果を確認できました。
しかし、あまりに微量だったためか、変化はあまりにも僅かで、さっそく報告するとともに次は少し量を増やしていただくようお願いしました。

というわけで、二回目となり前回より少し量を増やして使っていただき、前回同様、一晩置いて弾いてみると、今度はかなりまろやかな音質に変化しており、これは相当な効果のあることを実感しました。

シロウトの印象でいうと、針差しで得られた柔らかさには、固いものが針でほぐされた、技術者の経験と技が作り出すふくよかさと、咲き誇る花もいずれは萎んでいくような一種の儚い美しさがありますが、軟化剤の柔らかさはもっと極めが細かく、まんべんなく柔らかさが出た感じで、すぐに元に戻りそうな感じもありません。

よって、音を創造的に「作る」という面では針刺しにはかなわないかもしれませんが、延命措置としては、これはかなり有効な手段なのかもしれません。
しばらく耐久性なども観察してみるつもりです。
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シリアルナンバーの見方

『ホロヴィッツ・ピアノの秘密 調律師がピアノをプロデュースする』(著者:高木裕 音楽之友社)という本を読んだところ、この本の中心的内容ではないけれど、長らくもやもやしていたものが解明される一節がありました。

スタインウェイ・ピアノのシリアルナンバーに関する記述で、実際に製造されたという年とシリアルナンバーがどうしても咬み合わないことがあり、疑問を感じていたものが解決することに。

具体的にいいますと、新品として仕入れた店が正確な記録として主張する製造年は、シリアルナンバーが示すものより1年以上新しいことがあり、このわずかな食い違いはなんだろうと思っていました。
べつに大したことではないし、こちらも業者でもないのでとくに深入りはせず、それで終わっていました。

スタインウェイ社のサイトなどを見ると、シリアルナンバーと製造年の対照表がありますが、その見方に関するガイドはなく、実はそこで重大な間違いがあったことが判明。

例えば553123(架空の数字)というピアノがあるとします。
表には、
554000 2000年
549600 1999年

というふうに書かれているので、554000より少し若い番号ということで、1999年製造のピアノなんだな…と判断していました。
これはマロニエ君のみならず、多くの技術者の方やディーラーなど専門家の方も、ほぼ同様だと思います。

ところが、この本を読んで思わず「えっ!」と驚いたのは、なんと、これらの対照表が示すのは
その年の「製造開始番号(Strarting Number)ではなく、Ending Number」とありました。
つまり、数字は「この番号から」ではなく「この番号まで」を表していて、それより「若い番号」が、その年の製造年となるので、553123であれば製造年は2000年ということになります。

これは「ニューヨーク本社の調律師ですら勘違いしている人が多い」のだそうで、ここを明確に説明されていることは、大きな収穫でした。
この説明によって、世の中の多くのスタインウェイは1〜2歳若返ったことになりそうです。
ちなみに数字は区切りであって生産台数ではないとのこと。


この本に書かれているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて製造されたニューヨークスタインウェイがいかに素晴しいもので、ピアノ史の中でも、それらがピークともいうべき楽器であるということが、全編を通じて述べられています。
その中の一台が、ホロヴィッツが初来日時にもってきたCD75というピアノで、現在は日本にあり、ほかに19世紀末のDなど、著者が代表を務める会社所有のピアノで、逸品揃いとのこと。

20世紀後半から現在に至るまでのピアノは、しだいに商業主義の要素を呑まされて、本来あるべき理想的なピアノとは言いがたいものになってきている面があることも頷けます。

この本を読むと、あらためてその音を聴かずにはいられなくなり、このところすっかり聴かなくなっていたホロヴィッツのCDを立て続けに5〜6枚ほど聴いてみました。
いずれも、1965年カムバックリサイタル以降のカーネギーホールでのライブ録音です。

ホロヴィッツのピアノは調整がかなり特殊だったらしく、とくに軽く俊敏なタッチにこだわったようですが、実際の音として聴いた場合どうなのかを確認してみたくなったというわけです。
果たして、耳慣れたハンブルクとはまったく別物で、風のような軽やかさと炸裂が同居し、魔性があり、その絢爛たる響きは、もう二度とこんなピアノは作れないだろうと思うものですが、ではそれが好みか…となると、そこはまた別の話。

触れたらパッと血が吹き出しそうな、刃物みたいな印象で、ホロヴィッツという、ニューヨークに棲む亡命ロシア人にしてカリスマ・ピアニストが紡ぎ出すデモーニッシュな音の魔術としてはうってつけだと思いますが、純粋に一台のピアノとして聴いた場合、ヒリヒリしすぎて必ずしも自分の好みは別として、これがホロヴィッツの好んだ音ということは確かなようです。

さらに上の世代のヨゼフ・ホフマンもニューヨーク・スタインウェイを弾いた大巨匠ですが、ホフマンの音はもっと厚みがあってふっくらしており、必ずしもホロヴィッツの好むピアノだけが、当時のスタインウェイを代表する音かどうかは疑問の余地がありそうでした。
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OHHASHIの本

いつもながら情報には疎いマロニエ君ですが、またも人から教えていただいて『OHHASHI 幻の国産ピアノ“オオハシ”を求めて いい音をいつまでも』という本が出ていることを知り、さっそく購入/読了しました。

本棚には『父子二代のピアノ 人 技あればこそ、技 人ありてこそ OHHASHI』というのがあるので、大橋ピアノに関する書籍はこれで二冊目となりますが、発行は新旧いずれも創英社/三省堂書店となっており、これはどうも偶然の一致ではないのでしょう。

大橋幡岩という日本のピアノ史の巨星が成し得たとてつもない数/量の仕事、人柄、その足跡、大橋ピアノ研究所の設立に至る経緯などが簡潔に述べられ、あらためて日本のピアノ界にとって避けて通ることのできない、極めて歴史的な存在であったことがわかります。

読むほどにピアノを作るために生まれてきたような人物ということが伝わり、日本楽器(現ヤマハ)、小野ピアノ、山葉ピアノ研究所、浜松楽器、大橋ピアノ研究所と折々に居場所を変えながら、どこにいってもその冴え渡る能力は常に輝きを失わず、10代前半から84歳で亡くなるまで生涯現役、まさにカリスマであったようです。

また、ピアノだけでなく、工作機械なども多数設計している由で、その能力はピアノという範囲にとどまりません。
目の前に必要や課題があれば当然とばかりに学び、頭が働き、たちどころになんでも作り出して問題を克服できるという、ものづくりの天分に溢れかえった人だったと思います。

ただ根っからの職人であり理想主義であるため、ピアノ製造においても妥協を嫌い、手を抜かず、とことんまでやり抜く厳しい姿勢は、当然ながら利益を優先したい会社と意見が合わなくなり、そのたびに辞職を繰り返し、最後に行き着く先が自身の大橋ピアノ研究所の設立だったことも、まさに必然以外のなにものでもないでしょう。

大橋幡岩はピアノ製作の天才であり、職人原理主義みたいな人だったのかもしれません。
彼に決定的な影響を与えたのはベヒシュタインであり、日本楽器が招聘した技術者であるシュレーゲルによる薫陶は生涯にわたってその根幹を成したようです。

驚くべき仕事は数知れず、通常のピアノ設計/製作以外にも、ピアニストの豊増昇氏の依頼でベーゼンドルファー用の幅の狭い鍵盤一式を作ったり、通常のアップライトの鍵盤の下に、引き出し式でもう一段細い鍵盤が格納された二段鍵盤、あるいは日本楽器時代には奥行き120cmの超小型グランドピアノを試作していたり、戦時統制下ではグライダーのプロペラから部品まで、とにかくなんでもできる万能の製作者なんですね。

また彼は若い頃から「記録魔」だったようで、生涯にわたって書き留められた膨大な資料が残っており、いまだに完全な整理はできていないとのこと、どこを見渡しても、この人は尋常一様な人物ではなかったようです。

幡岩の死後、わずか15年ほどで息子で後継者の巌が急逝したことで、OHHASHIピアノ研究所(いわば)が廃業に追い込まれたことは、残念というありきたりな言葉では言い表すことができない、やるせないような喪失感を覚えます。

たいへん興味深く読ませてもらいましたが、興味深い故の不満も残りました。
というのも、わずか全212ページのうち、大橋幡岩や大橋巌、およびOHHASHIピアノに関する著述は138ページまで、それ以降は24ページにわたってごく一般的なピアノの仕組みの解説となり、さらにデータ、資料が続く構成になっていました。

できればもう少し詳細に、大橋父子や、その手から生まれたピアノに関する深いところを深掘りしていただき、細かく知りたかったところですが、さほど分厚い本でもない中で、本編ともいえる部分は全体のわずか65%に過ぎなかったのは、いかにも残念でというか、「えー、もう終わりー?」というのが正直なところでした。
とくにピアノ関連の本ならいくらでもある「ピアノの仕組み」の章など、あえてこの貴重なOHHASHI本の中に入れ込む必要があったのか疑問です。

また、タイトルはOHHASHIかもしれないけれど、大橋幡岩の名器であるホルーゲルや、いまだにその名が引き継がれて生産されているディアパソンについても、もっと詳細な取材を通して切り込んで欲しかったと思います。
浜松楽器に時代に生まれたディアパソンが、どのような経緯や条件のもとでカワイに生産委託されていったのか、また同じディアパソンでも、浜松楽器時代とカワイでは、どういう特徴や違いがあるかなども、もっと突っ込んだところを書いて欲しかったと思いますので、続編でも出れば嬉しいです。

この本を書かれたのは、ピアニスト/音楽ライターという肩書の長井進之介さんという方です。
まったく存じあげず、ネットで検索してみると、ラジオDJなどマルチな活動をしておられるようで、野球のイチローをインドア派にしたような感じで、いろいろなことに挑戦をされているご様子にお見受けしました。
このような本を上梓されただけでもピアノファンとしては感謝です。


もう少しで読了するというタイミングで、知り合いの技術者さんから電話で聞いた話では、大橋の甥御さんという方が浜松におられてピアノに関わる技術のお仕事をされており、その仕事ぶりは高い信頼に値する見事なものだそうで、幡岩のDNAが実はまだ完全には絶えていないことを知り、なんだかホッとしたような嬉しいような気になりました。
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砂の器の設定

松本清張原作の『砂の器』はすでに何度も映画やドラマに繰り返される名作で、異なるキャストやそのつど時代背景などが変えられて、これまでにいくつものバージョンを観た記憶があります。

今年もフジテレビの開局60週年ドラマとして3月に放映されていたものを録画していて、最近ようやく見たのですがが、山田洋次さんなども制作に参加しているためか、細部が細かく作り込まれており(賛否両論あるようですが)、マロニエ君はわりにおもしろくできていると思いました。

当節はウィキペディアという便利なものがあるので、『砂の器』を調べてみると、テレビドラマだけでも6回も作られ、そしてこの作品を決定的にしたのは、やはり加藤剛主演の映画だったように思います。

『砂の器』というといつも思い出すのは、何十年も前のことですが親戚の女性が大真面目に発した一言。

当時はマロニエ君は、まさに軍隊的とでもいうべき厳しさで有名な音楽院のピアノのレッスンに通っており、当時はピアノの先生といえば暴君や独裁者は決して珍しいものではなく、まして高名な大先生ともなると、その仰せは天のお布令にも等しいものでした。
朝から晩まで、学校以外は一切の言い訳は通らないほどピアノ中心の生活を要求されていたものです。

当時はピアノのためといえば、それは生活のすべてに優先されるのが当然であり、学校のテストなどを理由に練習を怠ろうものなら、親子呼び出されて大目玉となるような時代でしたし、下レッスンの大勢の先生方も日頃から院長の存在にはピリピリの状態で、今どきの生徒をお客さん扱いする感性から言えば、まさに隔世の感がありました。

それでだれからも文句が出ることはなかったのですから、時代というのはすごいもんだと思います。
今だったらパワハラだなんだと、とうてい受け入れられるものではないでしょう。

親戚の女性は、そんな状況をいつも聞かされては呆れ返り、ピアノなんて子供にやらせるものじゃないと思っていたらしいので、そういう下地があるところへ『砂の器』を観たため、登場する親子が、故郷を追われて住む場所もないような放浪の幼年期を送っていたにもかかわらず、なぜか大人になったらピアノが弾ける人という設定がどうにも納得が行かないらしく、普通の安定した家庭でもピアノをやるのはあれほど大変というのに、いつの間にどうやってピアノの練習をしたんだろう?…と、そればかりが気になり、最後までそれが気になって仕方がなかったと言っていました。

そう聞かされて、マロニエ君も後年見たところ、父子が故郷を追われるようにして出奔し、悲しい放浪の身であった人物が、いきなり世間で注目の天才作曲家でピアノの名手になっているという、説得力のない展開には面食らったものでした。
映画なんだから、些事を気にせず楽しばそれでいいわけだけれど、いくらフィクションでも、あまりに説得力がないというのはマロニエ君も同感でした。

そのあたりが、最新のドラマ版では丁寧にフォローされており、幼少期からピアノが得意で発表会などにしばしば出場していたという設定に変わり、孤児院や養子先を経ながら、ついには日本のグレン・グールド?!?!と言われた山奥に隠棲するという天才ピアニストのもとにたどり着き、その人のもとで徹底的に腕を磨いたことになっていました。
これもかなり違和感がないわけではないけれど、それでもなんとか幼少時代からピアノをやっていて、音楽の才能があったという説明にはなっていたようです。

さらにいうなら、あの「宿命」という映画音楽のようなピアノ協奏曲のような、なんとも不思議な自作自演のコンサート、そういうものってどこかで開催されているのだろうか、これもかなり疑問です。


このところ、テレビCMなどを見ていても、グランドピアノがでてくるものがやたら増えてきている気がします。
また、いつだったか番組名はわからないけど、NHKでスタジオにヤマハのCFXと最小グランドの二台を並べ、「価格が1900万円と115万円の音の違い」みたいなことをやっていて、ホーという感じでした。

なぜ今ピアノが採り上げられる機会が増えたのかはわかりませんが、これだけあらゆることにハイテクが絡むと、ローテクの塊で、弾かれて音を出すこと以外に一切の機能がないくせに大きく重いグランドピアノという反時代的なものが、逆に面白がられているのかと思ったり。
アニメ『ピアノの森』の影響もあるのか…、今度は『蜂蜜と遠雷』も映画化されるようで、スポーツの延長で競い合いがウケているのか、そのあたりマロニエ君にはさっぱりわかりません。
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好きなピアノを-2

前回、一般のピアノ購入者だけでなく、ピアノ先生や技術者の方も専門的立場の意見として、YKが最も妥当な選択だと考えていることを思い出したので、もう少し。

何年も前のことですが、ある技術者さんとの間で、ピアノの評価が決定的に食い違いがあることを知って、内心非常に驚いた事がありました。

ある場所に貴重なハンドメイドのピアノがあって、それを所有者の方のご厚意で弾かせてもらったことがあるのですが、それはいわゆるYKのような量産ピアノにはない歌心、自然に広がるような響き、色の濃淡、心を通わす優しみがあって、それだけで楽しく、いつまでも弾いていたようなピアノでした。
ピアノとしての機能も充分で、いわゆるピアノという名の器具ではなく、本物の楽器といった趣がありました。

ところが、その技術者さんは至って冷淡というか、このピアノの良さをほとんど認めていないといった様子で、YKのような品質には及ばないと断じる発言がぽろぽろ出てきました。
所有者はご不在でしたので、技術の方も忌憚なく感想を言える状況だったのです。

低評価の理由は、音が均一でないとか、造りが曖昧でYのようにきっちりしていないなど、製品としての品質がまず気にかかるといった様子でした。
YKばかり触っている技術者さんは、どうしてもそれが当たり前となり、作りの精度や音が揃っているかということが判断のポイントのようで、そこに固執し、音質や表現力を一歩離れて判断してみようという気がないらしい印象をもちました。

もちろんある程度均一に整っていることは大事だけれども、そもそもの音質そのもの、曲が流れだしたときにどれだけ音楽的に歌える楽器かどうかのほうが重要で、人工的に味つけされた無機質な音がいくら整っていても、個人的にはそんなにありがたくはありません。

しかし技術者の方は、どうしても自分の職業上身についたポイントにフォーカスされて、そんな日常の習慣を急に変えることは難しいのかもしれないとは思いました。
また、専門家としての自負もおありだろうし、高名なピアニストなどが言うことならともかく、一介の音楽愛好家の意見や感想は、技術のことがわからないマニアのたわごとのように感じるのかもしれませんね。

たしかに技術者サイドで云えば、YK、とりわけYの製品は、仕事もしやすいようで技術者さんを悩ませるような問題もトラブルも皆無に近いのでしょうし、仮にあっても対処がしやすい、しかも音は揃ってよく出て、作りも機能も良いとなれば、評価が高くなるのも分からないではありません。

でも、技術者さんにとって仕事がしやすくても、無機質無表情な音がどれほど揃っていても、喜びがなければ意味がないし、それで本当に音楽をする心が育まれるのか、それが重要な点だと思います。
個人的には、簡単な曲を弾いているだけでも、そこに曲の世界が広がり、ニュアンスがにじみ出てくるような楽器であることが重要だと思うのですが、これはYK支持者にはいくら言ってもキレイゴトに聞こえるのか、なかなか届きません。

それと、技術者さんは半年か一年おきにやって来て、数時間そのピアノと接するだけで、終われば次のピアノにかかわるから、まあそんな安全第一みたいなことも言っていられるのかもしれませんが、弾くほうは年中そのピアノと付き合うわけで、そうなると表現力や喜びや楽しさは、何にも代えがたい最重要項目です。

キーに触れ、音を出すだけでちょっと嬉しくなるようなピアノ、そんなピアノで日々練習することの大切さは、そういうピアノと過ごしてみないとわからない。
ピアノというのはなかなか比較する対象もチャンスもないから、そこに気づかないまま長い期間をすごしてしまうことになり、かくいうマロニエ君も自分がそれに気づき始めたのは二十歳を過ぎてからのことでした。

今どきはみなさんコンビニ弁当やファミレスの食べ物などに含まれるという添加物への心配とか、食材の産地やオーガニックといったことにはかなりこだわりがあるのに、なぜかピアノとなるとずいぶん寛容だなあと思うばかり。

たしかに情報は極端に少ないし、専門家と称する方々やシェフに類するみなさんがこぞってコンビニやファミレスやレトルト食品を大絶賛して、街の小さな手料理を出すお店をけちょんけちょんにけなしまくるのですから、聞いたほうは「そういうものか」と思ってしまうのだろうとは思いますが…。

ピアノは人の言いなりではなく、本当に気に入ったものを側に置きたいものです。
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好きなピアノを

先日、知人と話題になったこと。
外国のことはわからないけれど、少なくとも日本では、どうしてピアノといえば大手の量産品、もしくは海外の高級有名ブランド、そのいずれしか売れないのか。

おそらく多くの人達はピアノを楽器として捉えるのではなく、車のような品質もしくはブランド性を求めているのではないかと思いました。
「楽器として捉える」なんて言ってみても、掴みどころがなく、「いい音」などといってみても基準がない。
ピアノ店に行ってもYかKばかり並んでいれば、しょせんはその中での相対的なもので、おおよそこんなものだと思ってしまうだけでしょう。

正直ボストンがどんな品質/位置づけなのかもわからないし、ディアパソンでさえも長年カワイが作ってきたにもかかわらず、マイナーブランドという括りから抜け出すには至らず、聞いたこともないという人のほうが圧倒的多数。

その判断となる耳を養うには、ひたすら多くを経験するしかありませんが、それも実際問題としてなかなか難しい。
仮の話ですが、もしもコンビニのデザート(便利で美味しいですが)しか食べたことがない人がいるとすると、味覚がそれに慣らされてしまって、突然手作りケーキなどを食べても、素直にそれを美味しいと感じることができるかどうか…。
要は耳を鍛える環境がほとんどないというのはあると思います。

YKであふれる店内に、もしぽつんと名も知れないピアノがあったとしても、不安しか感じないのはわかります。
逆にいかにYKが世間で認められ、多くの人がこれを選んできたということで頭のなかは整理され、買うならやっぱりYKの中からということになるような気がします。

ネットの質問コーナーなどを見ていると、回答者のYKがいいという異様なまでの偏重と思い込みには驚かされます。

まれにシュベスターその他に関心を持った人がいても、YKばかり触り慣れた技術者が出てきては全否定の嵐で、「手作りピアノなんて云うと聞こえはいいが、要するに町工場でトンカチで作っているようなものだから、品質のばらつきがあるし、リスクが高いからオススメはできません。もし音が気に入って、リスクがあることまでしっかり理解された上で買われるぶんはいいかもしれませんが、自分ならたぶん買わないです。」…みたいなことをいわれたら、そりゃあ大半の人はびびってやめてしまうでしょう。
「とんだ粗悪品をつかまされるところだった。やっぱり専門家の意見を聞いみるべき。」となり、せっかく開きかけた感性は潰されて、YKをお買い上げとなる。

でも、ばらつきが多いとかリスクがあるとか、見てきたようなことをいいますが、実際にどれだけの数を触り、経験した上で言ってるの?って思います。
YKでも、管理状態しだいでボロボロで、中古品では裁判に発展するような事案もあるとかで、当然ながらケースバイケースだと思います。
そのあたり、とくに技術者は現場を見てきた経験をもとに言いたい放題、「壊れても保証はないし、長く使われることを考えたら、品質が安定してオススメできるのはやっぱりYKということになりますね。」などと、まるで購入後数年で使えなくなる怪しい粗悪品でも買うように言うのですから驚きます。
こういう大手偏重の価値感が、日本の小さな良心的なピアノメーカーを駆逐してしまったようにも思います。

ピアノを楽器として見ようとする気持ちのかけらもなく、ただの工業製品としてしか捉えないのは、ピアニストなら片っ端から暗譜で弾けることだけを自慢にする御仁と同じようなもので、これほど魅力のない退屈なものはありません。

そもそも、昔の外車やパソコンじゃあるまいし、壊れるって何が壊れるんでしょう?
天下のヤマハだってアップライトのなんとかいうパーツは壊れたり切れたりするのが普通らしいし、グランドでもボンセンと言って巻線の弦が経年でダメになることもよくあることなのに、それらはまったく糾弾の対象になりません。

マロニエ君も過去何十年も、いろいろなピアノと付き合ってきましたが、自分の管理の悪さが原因のコンディションの悪化とか、消耗品の消耗以外で、壊れた、もしくは使うに値しない状態になってしまったということは一度もなく、技術者の言うリスクとはなんなのかいまだに不明です。
自分が使うピアノぐらい、一般論に縛られず、好きなものを側に置くことが最も大切だと思いますし、失敗しないため云々という言葉を聞きますが、それで好きでもないピアノを買ってしまうことのほうが、よほど深刻な失敗だと思うんですけどね。
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挫折で自慢

人の心の中には、自分をよく見せたいという欲望が潜んでいる…それ自体は珍しいことではありません。

中にはそういう野心も邪念なく、一切を飾らず清々しく生きておいでの方もあるけれど、多くの俗人は程度の差こそあれ、つい自分を飾ってしまうことはあるもので、それじたいを責められるものではないでしょう。

ただ、その意味するところや性質によって、笑って済ませられることもあれば、聞いていてあまり気持ちのよくないものもあるような気がします。

ピアノの世界にもいろいろあって、大半は書くわけにもいかないことばかりですが、このブログのネタ選びという観点から、ひとつを注意しながら書いてみることに。

世の中には、ピアニストをはじめ、先生からアマチュアまで、それなりに難曲を弾かれる方はたくさんいらっしゃるようですが、巧拙さまざまであるだけのことで、それだけではどうということもありません。
少なくとも譜面が読めて指が動くという点では、初心者より技術として上手いことは事実でしょう。
ところが、そこからとんでもない大風呂敷というか、いくらなんでもそれは止めたほうが…と思うような内容の発言があったりして、マロニエ君も直接/間接ふくめて、ひっくり返りそうな話をいくつも耳にしています。

たとえばそのひとつ、言葉はそれぞれですが、意味としては、
「自分にはむかし、芸大を受験して失敗したという、敗北の過去がある」というもの。

要するに、若いころ、結果はしくじったけれども東京芸大を受験した事があるという、コインの裏表みたいな意味を含んだお話。
すなわち、遠いむかしの自分には、芸大を受験するに値する実力があったんだという自己申告ですが、聞かされるほうは急に変なけむりでも吹きかけられるような心地です。

記憶にある数名の中で、その話が信用できたのは、たったひとりだけ。
やや下位の音大に行かれ、芸大で教えておられた高名な教師の直弟子となり、その後は長年にわたってリサイタルを続けておられるピアニストで、自主制作ながらCDも相当数あり、その演奏や話の前後からもこそに違和感がないことは、まあ納得できるものでした。

それ以外は…なんといったらいいか、ハッキリ言って万引きの現場でも見てしまったような感じ。
人より多少の難曲が弾けたり、いちおうどこかの音大を出て先生をやっているというような人の口から、ふいに、この手の言葉が出ることは非常に驚きで、たまらずその場から逃げ出したいような気分になるもの。

表向きは「受験に失敗した敗者である」という、我が身の不名誉をあえて告白するという立て付けになっているあたりが、まずもって悪質かつ甘いと感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

むかしのことで、もう時効でもあろうから話してもいいだろうといわんばかりに、自嘲気味な調子で語られるこの甚だしく野放図な発言。
失敗談という形式を借りて、芸大というブランドを無断使用しているようでもあり、そこに容赦なく流れ出すアンバランスは、オチのないジョークを聞かされたようです。

「落ちた」んだから、卒業名簿を繰られる心配もないし、昔の失敗した受験の証拠など、どこにもないということなのか。
そういうのはお止めになったほうがいいと思うんですけどね…。
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長江鋼琴

チャイコフスキーコンクールでの衝撃デビューとなった中国製ピアノの「長江」。

その音は実際の空間ではどんな鳴り方をするのかわからないけれど、少なくともネット動画で聴く限りは、ちょっと前のハンブルクスタインウェイ風で、強いていうなら、現在のスタインウェイよりもやや重みのある感じさえあるような…。

全体のプロポーションはもちろん、椀木の微妙な形状、他社に比べてやや上下に薄いボディの側板から支柱がはみ出ているあたりまでそっくりだし、突上棒なんてハンブルクスタインウェイそのものという感じです。

それでもしや…と思ったこと。
それは長江ピアノの登場と、スタインウェイのマイナーチェンジには、因果関係があるのでは?ということ。

あくまでマロニエ君の個人的な想像の範囲を出ませんが、長江が世に出てくることを察知したスタインウェイが、差別化のためにディテールの変更したということも、まったく考えられないことではないような気が…。
折しも、スタインウェイはニューヨーク製とハンブルク製の共通化という、二重の意味合いもあったのかもしれません。

新しいハンブルクのDには、ハンブルクだけの伝統であった大屋根を止めるL字のフックが無くなり、それにより、もともと無いニューヨークとの共通化にもなるでしょうし、長江との差別化という副産物にもなる。
突上棒もニューヨーク風の二段式に形状を変えたので、長江が三段式のハンブルクデザインをいただく。

長江のほうは、前足がやけに前方寄りになっていると書きましたが、これはスタインウェイのコピーじゃないんだというアリバイ作りのための、意図的な位置ずらしではないかと思うのですが、これもあくまで想像。

コンクールのステージなので、譜面立てのデザインがわからずネットで探したら、あー、やっぱりハンブルクスタインウェイのスタイルで、これもスタインウェイのほうが形を変えてしまっています。

この真相は那辺にあるのか、似すぎることを嫌がってスタインウェイのほうが形を変えて逃げているのか、あるいは両社である種の合意が裏で成立しているものなのか、疑いだしたらキリがありません。

そもそも、中国のピアノといえばパールリバーとかハイルンなどしか有名どころは知らなかったところへ、いきなり長江というブランドが世界のステージに躍り出てきて、きっと業界でも驚きが広がっていることでしょう。

調べると、どうやら2009年の創業のようで、わずか10年で国際コンクールの公式ピアノに認められたあたりも、いかにも中国らしい巨費投入と技術模倣によるタマモノなのか、常識ではあり得ないスピードですね。

長江ピアノのサイトを見ると、意外なことに人民元での価格が出ており、円換算すると、188cmモデルが約500万円、212cmモデルが約580万円、275cmモデルが約1550万円となり、なんか微妙なプライスですね。
前2つの価格からすれば、275cmも900万円台ぐらいでは?という気もしますが、コンサートピアノが安すぎると面子に関わるからあえて高く設定されているのか、そのぶん品質も違うのか…どうなんでしょう。

因みにこの3モデルは、それぞれスタインウェイのA型、B型、D型にほぼ該当するサイズで、やはり直球で中国版スタインウェイのようです。
ま、F-35の模造品といわれるステルス戦闘機まで堂々と作って飛ばして配備してしまうお国ですから、それに比べれば、たかだかピアノなんぞ驚くにはあたらないのかもしれませんが…やっぱり驚きました。

いずれにしろ、ピアノの世界も相当へんな事になってきているようです。
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