優柔不断に

我がディアパソンは、度重なる調整の甲斐あって、かねてより懸案であった軽快なタッチが達成できたことは大願成就というところでした。
繰り返えすようですが、技術者のもつ技術力に加え、各ピアノにはメーカーごとの個性や癖があるため、それを熟知した技術者さんの手に委ねるかどうかで結果は大きく違ったものになることをあらためて認識したところです。

仕上げには音色も整えていただいたことで完成度を増してくると、これまであまり感じなかった部分が見えてきて、我が家のディアパソン210Eの場合は、鳴りというかパワー感がやや不足気味という面を感じるようになりました。
一部例外を除くと、多くのピアノはオーバーホールすることで鳴りが悪くなることがよくあるようで、それなのか、もともとこのモデルがそういう性格であるのか判然としないものの、できればあとちょっとだけ鳴りの豊かさみたいなものがあればなぁというのが偽らざるところです。

この点を技術者さんに相談しますが、「ではまた見てみましょう」と快く言ってくださいます。
しかし、これはピアノとして根本のことだとも考えられるので、例えばすでにやっている弦合わせや整音をくりかえしても、それで解決できるとも思えず、結局まだお願いするには至っていません。

あえて単純な言い方をすると、ピアノ技術者がピアノにほどこす各種の作業というものは、煎じ詰めればタッチや音程や音色などの「乱れ」を細心の注意をはらいながら「整える」ことに尽きるだろうとマロニエ君は思っています。
その整え方に、技術や経験が問われ、限りない深さがあり、ひいては技術者各人の人柄やセンスまで表れる匠の世界というのは間違いありませんが、しかし設計者や製作者ではないということも事実でしょう。

ピアノ技術者(つまり調律師)はピアノのコンディションを最良最善の状態へと整えることが仕事のメインであって、楽器が生まれもっている個性やポテンシャルそのものは、さすがの技術者も変えることはできない(だろう)と思うわけです。

よってこの点は打つ手はないだろうと半ばあきらめ気分でいたわけですが、あるときのこと、ネット上で不思議なものを見つけました。

いちおう固有名詞は避けておきますが、それは、もう一歩ピアノが鳴ってくれないと感じるピアノをより鳴るようにするための器具だと説明されていました。
写真をみると「貼るだけのお灸」みたいな形で、木と金属で作られているもののようです。
これを響板とフレームの間へ差し挟むことで響板の響きをフレームへ伝達させ、ピアノをより一層鳴らす効果があるといいうものだとか。

これは果たして、ヴァイオリンの魂柱みたいなものなのか、あるいはスタインウェイのサウンドベル(これが正しく何なのか未だにわかっていないのですが)のような理論のものなのか…。それはともかく、もしもそれで一定の成果が得られるのなら一つの方法かもしれないと思ったわけです。

販売元は関東のピアノ工房のようでしたが、電話で問い合わせたところでは、効果は確かに「ある」とのこと。ただし、それは人によっても感じ方は違うでしょうし、ピアノによっても相性や効果の大小相違はあるのではと思いました。

価格は税込み32400円で、取り付けも出張のついでなど都合が合えば合計で4万円ぐらいとのことでした。
効果があって満足が得られればいいけれど、もしそれほどでもないと感じた時にキャンセルができるかどうかとなると、雰囲気的にそれはできないようでした。

きもち変わったかな?…というぐらいで、それ以上ではない場合、むしろこちらの耳が悪いから…みたいな展開になるのも心配ではあるし、たとえばインシュレーターでも安物と高級品では響きが違うといえば違うけれども、その違いは非常に微妙なものでしかないのがほとんどです。
ようするに最悪の場合、費用というか投資はいっさい無駄になることも厭わないという覚悟をしなくちゃいけないわけで、利用者や客観的な情報の不足もあって、ひとまず保留にしました。

ちなみに、器具を差し込むというあたりのフレームの穴から指を入れてみると、響板とフレームの隙間はせいぜい2cmあるかないかぐらいで、そうすると写真で見たそのパーツは、女性のイヤリングの片方ぐらいであることがわかります。
一概に、モノの値段は小さいから安い、大きいから高いというものでもないけれど、確認もできないまま購入するしかなく、その結果がはかばかしくない場合でも返品がきかないとなると、かなり迷ったのですが、ついに最後の決断がつきませんでした。

弦やハンマーのように、一度使ったら二度と売り物にならないような商品なら、キャンセルできないというのもわかるのですが…。
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雪の爪あと

1月最後の週末は、全国的に記録的な大雪でしたね。
ふだん雪とはあまり縁のない福岡も例外ではなく、土曜の夕刻から降り始めた雪はそのまま街全体を真っ白にしてしまうまで、しんしんと降り続きました。

雨と違って不気味なのは、雪には音がないところです。
まったく足音を立てずにやってきて、すべてのものを別け隔てなく純白に覆っていくさまは、とりわけ西日本の人間には馴染みがないため、打つ手もありません。

深夜、何度か玄関のドアを開けては外の様子を伺いますが、眼前に広がる景色は0時あたりで早くも「ここは北海道か?」というまでの立派な雪景色に変わっており、人の往来もほとんどありません。
日頃は車の出入りも多い向かいのマンションも、ぱったりと動きが止まり、周辺は異様なまでの静けさに包まれました。
結局丸2日間、ただひたすらエアコンやヒーターの風の無機質な音ばかりを聞いて過ごすことに。

それでも所詮は九州、大雪といってもそういつまでも降り続くことはなく、待っていれば必ず溶けていくものです。
火曜には少しずつ車も動き出し、我が家の前の道もしだいにアスファルトの黒い地肌が見えてきましたが、両側にはまだまだ雪の残骸が残っています。

これでようやく終りかとおもわれ、おそるおそる車に乗り始めます。ところがそれからのほうが、雪の残していった爪痕をあらわに感じることに。
まず、車が情け容赦ないまでに汚れてしまうのには参りました!

これほど自分の車が盛大に泥色になったことは記憶にありません。
ネット動画で、ロシアや中国などの車がドロドロに汚れているのを見たことがありますが、まさにあの種の汚れ方で、白くてきれいで風情があるはずの雪の現実はこんなにも汚いものかと今ごろわかります。

さらに幹線道路などでは融雪剤をまくため、その薬品なのか、単なる泥や砂なのかわからないけれど、タイヤが巻き上げる砂や異物のようなものがフェンダー内部に当たってチリチリパチパチと走っている間じゅう音を立てるのも嫌な気分です。

もうひとつ驚いたのは、大きな通りでは路面がザラザラになってしまっていることです。
タイヤチェーンによってアスファルトの滑らかな表面が削られているようで、とくにひっきりなしに行き交う路線バスの巨体が押し付けるチェーンの傷は痛手だったようです。
タイヤからのロードノイズが増しているし、ハンドルにもこれまでにない微かな振動が伝わります。

これは報道などでは云われないことですが、積雪による道路の傷みというのはおそらくすさまじいものだろうと思います。それでも、ひと雪でどれほど道路が損傷を受けるかというあたりは、きっと触れないことになっているのでしょうが、ものすごい被害だと思います。
というわけで雪は高いものにつくということを一つ勉強。

そうそう、高いというので思い出した安い方の話。
つい先日のこと、行きつけのスタンドにガソリンを入れにいったら、なんとハイオクが103円/Lとなっていたのには思わず声が出てしまいました。
このところ原油安がしばしばニュース等の話題になりますが、さすがにこういう価格になるとそれを肌で感じるものです。

いつごろであったか、じわじわと高騰が続き、これはもしかしたらリッター200円にもなるのでは?と思ったときもありましたが、世の中の動向というのはわからないものです。
これを見通して、投資などをする人達もいるのでしょうから、わかる人にはわかることかもしれませんが…。

アメリカのシェールオイルが一定のコストがかかることに対抗して、サウジアラビアが原油価格を下げることで対抗しているとか、エネルギーの巨大消費国である中国の景気減退の煽りによるものだとか、さらには世界的に将来を期待される再生可能エネルギーの開発を遅らせようという中東地域の思惑でもあるというような諸説があるようです。
きっとどれも事実でしょうし、それらが複合的になった結果なんだろうなあと思います。

いずれにしろ、なんだか不気味な安さです。
そりゃあもちろん、いま自分が必要とするものが、目の前で安いのは直接的には歓迎ではあるものの、この安さはなんとなく気持的に不安感を伴うというか、素直に得したと喜ぶ気持ちにはなれない危なさを感じてしまいました。

世界情勢は流動的で、ここ当分は不安定な状況が続きそうな気がします。
嫌なことが起こらなければいいですが…。
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田崎悦子

BSクラシック倶楽部で、昨年11月に東京文化会館少ホールで行なわれた田崎悦子ピアノリサイタルの模様が放送されました。

田崎悦子さんの実演は聴いたことはないのですが、CDは何枚か持っていて、バッハのパルティータなどは厳さの中に鬼気迫るような生命感が満ちていてとてもよく、ずいぶん聴いたCDでした。

このところCD店で目についていたのは、この方の新譜で、なんとブラームスのop.117/118/119、ベートーヴェンのop.109/110/111、シューベルトのD.958/959/960というこの上なく濃厚な作品を集め入れた、4枚組のアルバムでした。

なんと思い切ったCDか!というのが正直な印象で、昔ならこういう選曲はよほどの大家でもできなかったことかもしれません。
同時に、この三人の作曲家最晩年の象徴的な傑作ばかりを、3つずつ組み合わせて並べましたという、音楽的必然性のなさが見え隠れする印象もないではありません。
でもまあ、これはこれで面白いので、本当なら買ってみたいところでしたが、6480円ともなると安くもないし、それでも敢えて買うにはよほど内容に期待できるところがなければ…という面があり、まだ買っていないところにこの放送でしたから、まさにうってつけのタイミングだったわけです。

まずはベートーヴェンの最後のソナタ。
ステージにあるピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、これまでの田崎さんの、どこか自分を追い込んでいくような熱っぽい演奏の印象からすると、この選択は「???」という感じでしたが、その杞憂は開始早々現実のものとなりました。

冒頭の激しいオクターブとそれに続く和音は、なにやら虚しく、ずいぶんと頼りなげにほわんと響きました。
正直いうと、このベートーヴェンは少し予想外で、CDをリリースするからにはよほど手の内に入った、説得力のある演奏が期待できるのだろうという気がしていたのですが、少なくとも111では熟成不足という印象を免れないものでした。
また意外なことに、技術的にもずいぶん危なっかしい場所が散見され、この崇高なソナタを堪能するまでには至らなかったというのが正気なところ。それに追い打ちをかけるようにベーゼンの先の細い体質が浮き彫りとなり、残念ながらベートーヴェンの作品の姿を描ききることが苦手なように感じました。

ピアニストとピアノ、いずれの要素によるものかはともかく、何かが表現として伝わってくることはないまま、どこかハラハラさせられながら111は終わりました。

それが多少なりとも挽回したのは、時間の関係で第一楽章のみだったシューベルトのD.960で、ベートーヴェンに較べてはるかに自然で弾き込まれている様子がみなぎります。このピアニストの奥深いところまでこの作品が根を下ろしていることがわかり、印象は好転しました。
暗譜と練習成果に依存するのではなく、弾き手に作品が深く刻み込まれているおかげで つぎつぎに曲が自発性を持って展開します。

さらにはピアノもシューベルトとベーゼンは仲がいいようで、ベートーヴェンのときに感じたようなハンディはずっと後方へ退きました。

ベーゼンドルファーというピアノは、それ自体とても魅力的で個性的で、その丁寧な造りには工芸的な美しささえあるけれど、これ一台で演奏会をまんべんなくカヴァーしていくのは難しいなぁ…という気がしてしまうのは、今回も例外ではありませんでした。
この楽器でなくては出せない美しさや絶妙のニュアンスがあるのは確かだけれど、同時にダイナミクスやオーケストラ的な広がり、モダンピアノに求められるパワーやメリハリなど、多くの制限制約を受けることも実感させられます。

田崎さんはいわゆるハイフィンガー奏法なのか、いつも手の甲を立て、指はハンマーのように忙しく上下する様子は、思えば、昔の日本人はみんなこんな弾き方をしていたなあと、まるで昭和の思い出にふれたような懐かしい気がしました。
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うらがみ

わずか2回で整骨院通いをやめてしまったマロニエ君でしたが、その2度の施術が功を奏したのか、あるいはちょうどそういう時期に差し掛かっていたのか、このところ少し良くなる方向へ進んでいるようです。

これまでは椅子にすわる姿勢はもちろん、立ち上がる際には細心最大の注意が必要でしたし、わけても車から「降りる」ときは、それこそ切腹でもするみたいに決死の覚悟でしたが、それがいまでは、もちろん注意は必要ですが、以前の半分以下の痛みと労力で済むようになりました。

車中から意識して見ていると、整骨院のたぐいは街中の至る所に存在しており、その数にはいささか驚きました。これまでは意識したこともなかったけれど、ああも乱立すれば激しい競争に違いまりません。

さて、例の高額な電気治療ですが、機械の名前を覚えていたので、ネットで検索してみたところすぐにその発売元のサイトがあり、なんとそこには
「○○○導入で売上100万円超を実現」
「○○○導入した初月平均売上は80万円、そのうち37%が100万円超の実績」
「中には売上200万円以上を達成した院も」
「専門知識不要!カンタン操作」
「新しい自費メニューの導入は面倒だが売上を上げたい院(にオススメ)」

などと色とりどりの大文字で書かれていて、これを見ることで爽やかになるぐらい事情は飲み込めた気分です。

だとしても…毎回あの値段というのは、やり過ぎというものです。
何事もさじ加減というのは大事で、そのあたりプロの商売人ならどれぐらいにするか、客側の心理面なども勘案していい線を導き出すのでしょうが、そこがただの欲深いだけのシロウト感覚で決めてしまうのでしょう。
マロニエ君も、もしあれが半額だったら腰痛を治したい一心から、しぶしぶ通っていたかもしれませんが、毎回5000円強ではあれこれと懐疑的になるチャンスをいやでも与えてしまったようなものです。

しぶしぶならまだ相手を「信じよう」と努めるものですが、懐疑的になったら「疑おう疑おう」というふうに考えは向かってしまいます。
逆にいうと、だからそのおかげでサッパリご縁が切れたということでもあるわけです。

ちなみにこの機械を導入している他の院の料金はどれぐらいか調べてみると、おおむね3000円前後というのが多く、回数券の設定があって、3回5回10回となればさらに一回あたりは安くなるという仕組みのようです。

ところがマロニエ君の行った院ときたら、そんなものは一切無しで、毎回税込み4320円請求するのですから、小さなところなのに大した度胸だなぁと思います。昔だったらいざ知らず、今どきは誰でもネットでいろんなことが簡単に調べられるわけで、いくら強欲でも、もう少し慎重であるべきだったようです。

そういえば今回、はじめに治療計画を聞かされる際、ちょっとおかしなことがあったのを思い出しました。
その整体師は紙に書いてこちらに説明するため、アシスタントのお兄さんに「紙とってぇ」と言いました。お兄さんはハイといって、すぐに棚からコピー用紙を一枚とって整体師に手渡します。
ところが整体師は「これじゃない」「うらがみがあるから」と言われてお兄さんはキョトンとしています。
すぐに通じないので整体師はせっつくように「うらがみ!うらがみ!」「?」「その下にあるから!」というと、お兄さんが焦りながら探していると、「そこじゃない、その上!」などとやや声を荒げたあげく、ついに求める紙が手渡されました。

なんとそれは、コピーかFAXの使用済みの紙を捨てずにとってあるものらしく、うらがみは「裏紙」なんだということがこのときはじめてわかりました。
内々でメモにでも使うのならともかく、これから「腰を痛めたカモに」向って高い治療費の説明をしようというのに、コピー用紙一枚さえ惜しいとはなんなのかと思いました。

誰もが知るように、今どきA4のコピー用紙は500枚包で300円しません。
一枚あたり0.6円以下なわけですが、それを他人というか、いわばお客さんの前であれだけおおっぴらに倹約し、出した紙を突き返してまであえて裏紙を使うという行為にも驚きました。
ただ、それと、人から30分の電気治療だけで4320円せしめるというのは、実は同じ精神構造から出るものだろうと思います。

ま、それだけマロニエ君もマヌケだったということでもありますが、人の弱みにこうも容赦なく付け込むという行為はやはり容認はできません。
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チョ・ソンジン

昨年のショパンコンクール終了からひと月足らずと思われる11月20日のN響定期公演に、優勝ホヤホヤのチョ・ソンジンが出演して、ワルシャワで弾いてきたばかりのショパンのピアノ協奏曲第1番をさっそく東京でも披露していたようです。

Eテレのクラシック音楽館の録画で、その模様を視聴することができました。
指揮はウラディーミル・フェドセーエフ。

マロニエ君の個人的な印象では、とても良心的なピアニストだろうとは思うけれど、さて、この世界最高のピアノコンクールの優勝者にふさわしい「なにか」を感じとることができたか?というと、残念ながらそれはできなかったというほかはありません。

技術的にも音楽的にも、突出したものはないし、あれぐらい弾ける人は今どき珍しくはないと思ってしまいます。
ではそれ以外の個性であるとか、芸術的センスのようなもので勝負するタイプかというと、これも特段そうとも思えません。番組冒頭に、この人の経歴が字幕で出ましたが、チャイコフスキーやルービンシュタインで3位とあり、まさにそのあたりが妥当なところだろうというのが率直なところでした。

では、なぜショパンコンクールの優勝者となったのか、それはマロニエ君などにわかるはずもありませんが、コンクールというものは、スポーツと同じでその時その場の演奏で決着する勝負であって、時の運という面も大きいので、本人の出来不出来のほか、ライバルの顔ぶれによっても結果は大きく左右されるのでしょう。

過去に二回続けて優勝者不在という事態が起こっていらい、必ず優勝者を出すことがコンクールの固い方針となったというのも聞いた覚えがあり、昔のように大物ピアニストになりうる逸材を発掘し、ここから世界に送り出す場ではなくなったのだということをいまさらのように感じました。

チョ・ソンジンは潜在力としても軽量のピアニストだと思うし、とくにショパンの解釈や表現に関しても他の追随を許さぬものがあるわけでもなく、あくまで中庸を行く人でしょう。この人でなくてはならないという積極的理由が──マロニエ君の耳がないからかもしれませんが──ついに見つけられませんでした。

第二楽章がきれいだったと思いますが、なんとはなしにゆっくりした曲調がちょうど彼の波長に合っているようで、とくに決定的な要素とか、わくわくさせられるようなものとも違います。

むしろ細かい表現とかアーティキュレーションは、どこか学生っぽいというか、煮詰まっていない面を感じますが、ともかくこれみよがしではない正直な人柄みたいなものが漂うところ、見た感じのいかにも真面目で良い子のイメージそのままに、演奏にも決定的に嫌われるような要素というか、悪印象がないところがこの人の特徴だろうと思うしかありません。

好みを別とすれば、前回のアヴデーエワのほうがそれはもう断然大器で、彼女の場合は、まあいちおうは優勝したことが納得できる気がします。

時代は刻々と移ろい、いまショパンコンクールの優勝者に何が求められるのか、マロニエ君にはわかりませんが、演奏家というか芸術家に必要とされてきた個性や輝き、ときにエグさのようなものよりも、クリアで嫌味のない、平和な鳩みたいな演奏が好まれるのかもしれないと思うと、なんだかつまらない気がします。

ショパンコンクールの直後であるだけに、そりゃあやっぱりショパンをアンコールで弾くのだろうと思っていたら、案の定、拍手の中ピアノの前に座りました。ところが、弾きはじめたのはなんと24のプレリュードから最も地味で最もアンコールに期待されないだろう第4番であるのには、正直云っておどろきでした。
あとから、もしやホ短調ということで、協奏曲と調性を合わせたのだろうかとも思いましたが、ちょっとセンスがあるとは思えませんでした。

また、よくないことばかり言うようで恐縮ですが、ピアノがとってもヘンだと思いました。
おそらくNHKホールのスタインウェイだろうと思いますが、中音から次高音にかけて、アタック音ばかり目立つ伸びのない音で、実際の会場で聞いたわけではないけれども、まさかあれがショパンを意識した音作りというのなら、こっちが耳を洗って出直さなくちゃいけないでしょう。

ピアノもピアニストも、いろんな表現や在り方があふれるのは結構なことですが、それでも、いいものはいいのであって、価値観や好みを超越して輝くという一点だけは信じ続けたいと思うところです。
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いくらなんでも

しばらく耐えていればじきに治まると思っていたぎっくり腰は、やや長期戦に突入してしまいました。

とりあえず正月休み明けに近くの整形外科に行ったところ、レントゲン写真を何枚も撮られ、電気治療や痛み止めの注射などをされて、コルセットや湿布、飲み薬などを与えられました。

いらい一進一退を繰り返しながら約3週間経過したものの、椅子から立ち上がる際などに強い痛みが続き、ついに整骨院へ行ってみることにしました。以前行ったことのある整骨院で、そこ以外に知らなかったこともあり、数年ぶりに行きました。

はじめ、アシスタントみたいな男性が体の歪みをチェックするということで、衣服の上から数カ所丸いシールを貼られ、写真を数枚撮られます。しばらく待つと、呼ばれてモニター前の椅子に座るようにとのこと。
そこに写しだされた写真の上には二三本の線が引かれており、本来水平であるべき線が腰のあたりと肩のあたりで、それぞれ傾斜しており、一見して水平でないことがわかります。
すると、その男性は「これは…かなり…」などと言い、さらにはそれを見るためにやってきた整体師が「おーぅ、これはレアなケースですねぇ!」などと不安な言葉を口にします。

すかさず治療の段取りとなり、このままではいけないので歪みから直して…かくかくしかじかと、準備されたメニューみたいなものを示しながらテキパキと話は進みます。
ついては電気治療が必要ということで、これがなんと4000円の由。
否応ない状況で「どうされますか?」と聞かれても、どうもこうもないわけで、4万円なら断るでしょうが、とにかく痛いのをなんとかしたいという一念から、やむなく了承することに。

施術台に仰向けになると、ゴムシートのようなものを腹部にペタペタ貼り付けられて、それを機械と繋いでスイッチを入れるとジンジンするような刺激が走ります。これを30分間やって、そのあとにいよいよ本来の整体らしき施術に入りました。こちらは10~15分ぐらい。
終了後はたしかにスッキリなって、これまでは立ったり座ったり、あるいは朝ベッドから出るのもびくびくでしたが、はるかに楽に体が動くようになったことは事実です(時間経過とともに元に戻りますが、一時的でも気分はいい)。

マロニエ君の印象としては、電気治療ではなく、そのあとの整体術によってすっきりしたように感じましたが、終わった後も、さんざん電気治療の重要性と、それを続けることの大切さを繰り返し説かれます。
また、治ったと思って、治療をやめるとこうなるというような図などもたくさん見せられ、とにかく継続的にかよって治療を受けることが必要なんだと、ほとんど反抗できないような空気の中でこれを言い続けられます。
むろん心底から納得はしていなかったけれど、少しはそうかも…とこのときは思いました。

支払いは初診料が2000円弱、電気治療と消費税で合計6200円ほど請求され、さらに、「間を置くといけないので始めのうちは、できるだけ毎日来てください」と言われますが、平日にそんな時間もないし、だいいちこの料金じゃたまりません。

仕方なく翌日もう一度行くと、やはり電気治療30分と、今回は10分ぐらいの整体で、このときは5200円ほど。
しかも帰りには必ず次の予約を迫るので、あいだに一日おいてしぶしぶ応じましたが、やはりこれはおかしいのではと思いました。電気治療は、要するに器具を身体にパパッとセットしてスイッチを入れると、あとは機械任せで、カーテンの向こうからは雑談やテレビの音が聞こえてくるだけ。
整体師が手や身体を使ってもんだりほぐしたりやってくれるのでもなく、なんでこれが4000円もするのか納得がいきません。

ここ、昔はもっとせっせと身体をもみほぐしてくれていたのですが、その時間はずいぶん短くなっているし、そういえばお客さんも以前に比べてずいぶん少ない様子。
それに、いつまでかかるかもわからないものを、行くたびに5000円強というのでは財布もたまらないし、なにより整骨院側のカモにされているのでは?と思うと、腹立たしさがふつふつと湧き上がります。

そこで、専門は違うものの知人の医師に電話してこのことを聞いてみると、彼は「あくまでも個人的な意見」としながらも、自分は整体などは信じていないので、これまで一度も行ったことはないし、とりわけ電気治療は「まやかし」だと断言しました。

整体そのものは、たしかに整体師はからだの要所要所のことを知っているので、施術によって一時的に痛みが取れたり、固まった筋肉がほぐれて楽になったりという事はあるとしても、それは肩がこったときにマッサージするのと基本的に同じであって、電気治療に至ってはあんな外的要因でぎっくり腰が治るなんてことは「ぜったい無い!」と云われました。

ここまで聞くと、疑いは一気に確信へと変わり、もう二度と行くものかときっぱり決断できました。
予約だけはキャンセルしないといけないので、電話で「風邪をひいたのでとりあえず明日はキャンセル」してほしいと告げると、「わかりました、お大事に。」だそうで、まあそう言うしかなかったのでしょうね。

つくづく世の中油断できないと身にしみました。
よい授業料だったと思うことに。
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暇つぶしツール

ショップでタブレット端末を受け取る際、基本的な使い方というか、メールがこうして、アプリのダウンロードはこうするというふうに、主なことは一通り聞いていたはずなのに、いざ自分でやろうとするとよくわかりません。
それをなんとか手探りしてでもどうにかしようという意欲が湧いてこないところが、やっぱりマロニエ君はこの手の楽しみには向いていないのかもしれません。

慣れない画面を触って思い通りに動かせない状況は結構なストレスにもなるし、いざとなればどうしても自分なりにサクサク使えるパソコンへ逃げ込んでしまいます。

とりあえずはじめの1週間はほとんど触るのも嫌で過ぎてしまいましたが、やっぱりせっかく契約したわけだし、むろんタダでもないわけだから、やはり少しは使えるようにならなくてはもったいない!と思って触ってみますが、現時点ではあまり進展はありません。

それでもYahooやGoogleの検索画面の出し方がわかったので、出先で何かを見たり調べたりすることはできるわけで、なにも無いよりは大変便利になったことは確かですが、ここで留まっては宝の持ち腐れなので、そのうち誰かにレクチャーしてもらわなければと思っています。
いずれにしろ、いうなれば世の中の景色さえ変わるほど、スマホとは、どこがそんなにも魅力的で楽しいのか、その片鱗ぐらいはいつか知ることができるかどうか…ま、知る必要もないのだけれど。

ゆいいつ便利だったのは、ぎっくり腰で病院に行って待たされているあいだ、これを触っていると待ち時間もさほど気になることもなく過ごせたのは事実で、なにかと「待つ」ことが必要な場合には、これまでより退屈せず過ごせることは、たしかにこれは有効なおもちゃかもしれません。

いっぽう、先日も「これだからスマホはイヤなんだ…」と思うことがありました。
車の仲間の集まりがあって、このときは少人数がファミレスで会したのですが、5人中、ガラケーユーザーはマロニエ君を含むふたり、残る3人はスマホでしたが、ふと気が付くとスマホユーザーはいつの間にか押し黙って端末をいじるという場面が何度もありました。
べつに話を無視してスマホに熱中しているわけではないものの、折々の話題や情報を逐一ネットで確認しているらしく、そのつどスマホをいじってはその確証を得たように、あーこれね!という具合にやるわけです。
マロニエ君にいわせればべつに今しなくてもいいことにしか思えませんが、彼らは「今」が大事なんでしょう。

もちろん事と次第によっては、正確な情報を必要とする場合も稀にはあるけれど、大半はどうでもいいようなことを、いちいちスマホ操作のために話の輪から抜け出すのは、内心「またか…」という感じです。
それに、よほど若い世代の超絶技巧の持ち主なら知りませんが、普通スマホの操作というのは、本人は集中しているのでそれがわからないらしいのですが、周囲にとっては結構時間がかかって鬱陶しいものです。

繰り返しますが、本当に検索の必要のある場合は別ですが、多くはどうでもいいような事。
さんざん時間をかけてようやく出てきた画面はというと、小さくて、見にくくて、こちらも「へえ」とかいって見るふりはしますが、ほとんど意味を感じません。
やっぱりスマホ使いというのは即検索することが快感で、それをしなきゃ自分が落ち着かないんでしょう。

また、別の言い方をするなら、会話のいちいちを裏取りされているようで、あたかも人の言葉だけでは不安で、それをネット上で確認できてはじめて認定するみたいな流れでもあり、ちょっとヘンな感じです。

実はこのとき、バッグの中にはタブレット端末を持っていたので、ついでに使い方を聞くこともできたわけですが、そこでさらにそっちの世界に話題が傾いていくのもどうかと思い、ついに出さずじまいでした。

それはそうと、もともと機種変更する理由のメインであったバッテリーの保ちに関しては、予想以上の違いで、やっぱり新しいものはさすがだと感激しています。
これまでより何倍もタフになり、マロニエ君の使い方なら、充電は3日に1度でも余裕ですから、こんなことならもっと早く買い換えておけばよかったと思います。
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機種変更のつもりが

マロニエ君がスマホを避けて、未だにガラケーユーザーであることは折にふれて書いてきたよう記憶しています。

スマホそのものを否定しているわけではないし、便利な点ももちろん多かろうと思いますが、なにしろ、世の中どこもかしこもスマホをいじりまわす人々であふれかえり、その機能を云々するより先に、あの光景とスタイルが嫌になってしまったのが正直なところでした。

信号停車中、よく見るバス停などはいつ何時でも、待っている人達の2/3ぐらいはほぼ間違いなくスマホをいじっているし、とにかく、ありとあらゆる場所で、なにがそんなに緊急なのか、楽しいのか、必要なのか、暇つぶしなのか、ただ触りたいのか、そうしないと落ち着かない依存症なのか、理由はよくわからないけれども、目にする人間がみなあの姿形になっているのがうんざりなのです。

だいいち電話するには二つ折りのガラケーのほうが機能的であるし、ポケットに入れるにも、どうもあの中途半端なサイズのスマホは向かないようで、そういう使い方はできない気もします。

それと、マロニエ君は必要とあらば日中でもパソコンが使える環境にあるので、わざわざケータイ端末をパソコン化する必要もさほどなかったということもあるでしょう。要するに自分の日常の中で、とくにスマホが必要という差し迫った事情もないことがガラケーを使い続ける最大の理由だったかもしれません。

ところが、使い慣れたガラケーも5年も経つとバッテリーの寿命が短くなるようで、とくにここ1年ほどは、何回バッテリーを新品に替えてもひと月もすると目に見えて充電が保たなくなりました。
正しくいうとバッテリーの寿命というより、機械自体の電力消費が激しくなるということかもしれません。

それでとうとう機種変更すべく、ショップにいくことに。

予想していたことではあれども、ラインナップの大半はスマホが当然のように陣取っており、ガラケーの展示品は無いのかと思ったら、かろうじて隅の方の一角に申し訳程度に数種類があるのみで、その肩身の狭さは思わず笑ってしまいます。昔にくらべると選択肢も遥かに少く、そのぶん選ぶのは楽になったという印象。

ショップの店員さんも、さりげなくスマホにする意向はないのか聞いてはきたけれど、決して強くすすめてくるようなことはなく、ガラケーユーザーにはそれなりの信念があると理解しているようでもありました。
ただ、あれこれの話の中から、ガラケー+タブレット端末という組み合わせもあるということを知りました。

だいたい、スマホのあの小さな画面をちょこまかいじると思っただけでうんざりしていたマロニエ君は、その3~4倍ぐらいありそうなタブレットならいくぶん楽だろうと思ったし、料金も、この2台の組み合わせでもスマホ1台より若干安いというので、ここでちょっと「ふーん…」とは思いました。

たしかに出先などで、ちょっと調べ物とか情報を取りたいなどの場合、スマホがあればこういうときいいだろうなぁと思うことが、めったにはないけれど、ごくたまにあることも事実。
そういうわけで、マロニエ君としてはケータイが従来通りのガラケーで、タブレットと使い分けが可能という点でちょっとだけ心が揺らいでしまいました。

決定的だったのは、じゃあ見るだけ見てみようかというわけでタブレットを見せてもらうと、なんとそれはiPadで、昔からのMacユーザーでアップル製品に弱いマロニエ君としては、この時点でかなりその気になってしまったのは、自分でもまったく思いがけない展開でした。

あのアップルマークを見ると、なんだか急に欲しいような気分が湧き上がってきて、ついにはこれを契約してしまうことになりました。店員さんに確認したところ、スマホとタブレットの違いはというと、たったひとつ「電話をする機能」なのだそうで、それ以外はなんらスマホと遜色ないのだそうです。

というわけで、自分でも甚だ意外なことでしたが、ガラケーの機種変更をするつもりが、なんのことはない帰りはしっかりiPadをお持ち帰りという次第になってしまいました。
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いさぎよさ

CDを購入する際、昔は作品や演奏家に重点をおいていたものですが、最近は特にこの人という演奏家もめっきり減ってきたこともあり、レーベルや使用ピアノ、録音場所などで選んでしまうこともしばしばです。

以前、たまたまネットで購入したエデルマンのショパンは、レンガ積みの建物のような演奏に加えて、ピアノの音がえらく鮮烈でインパクトがありました。ショパンの演奏としては理想的とは言いがたいけれど、聴こえてくる音には近ごろは絶えて聞かれなくなった輪郭と力強さがあり、このCDには不思議な魅力がありました。

あとから知ったことですが、収録場所である富山の北アルプス文化センターにあるスタインウェイは評判がよく、レコーディングにも多く使われていることを知り、大いに納得したのは以前書いた記憶があります。
そこで二匹目のドジョウよろしく、同じ会場/ピアニストによるシューマンも聴いてみたところ、こちらはさらに打鍵が強烈で、残念ながらマロニエ君には楽しめないものでした。

そこで、やはり北アルプス文化センターで録音された菊地裕介さんのシューマンを買ったところ、演奏も清流を泳ぐ魚のようであるし、なにより音がきれいでみずみずしいことはエデルマンの比ではありませんでした。

演奏も好ましいもので、ひたすらピアノの音の美しさを楽しむ最良の一枚となり、ずいぶんと繰り返し聴いたものです。
曲もダヴィッド同盟とフモレスケという質・規模ともにシューマンのピアノ曲の中でも、最上級に位置する作品でしたが、あんまり聴いているとさすがに別のものも聴きたくなるのが人情です。

そこで菊地さんのディスクを探したところ、同じ会場で録られたベートーヴェンのピアノソナタがあることが判明。
とりあえず「ファンタジア」と銘打たれた2枚組は、初期の傑作である第4番からはじまり第9~15番までの8つのソナタが入っています。

第4番冒頭から、やや早めのテンポでスイスイと弾き進められ、重厚さを伴った伝統的なベートーヴェンのソナタ演奏とはまったく異なり、テクニックに任せてあまり深く考えることなく次々に音符が処理されていくといった印象を持ちました。ひとつひとつの意味や表情を深く掘り下げて思索的かつ深刻なドラマとして捉えるのではなく、いかにも現代的な軽さと流麗さが支配しており「ああ、この手合か」といささか落胆しました。

しかし、このCDを買った目的は好ましいスタインウェイの音を楽しむことだったと思い直します。演奏のディテールは気にしないことにして、とにかく音を楽しむことに意識を切り変えようとしますが、人間というのは皮肉なもので、演奏に集中しようと思うと楽器の音が気になるし、楽器の音を楽しもうとすれば演奏の在り方が気にかかるのです。

それでも仕方なしに一枚目を鳴らしていると、しかし不思議な事に、このえらく快適な感じのベートーヴェンを聴くことに不思議な気持ちよさが加わり、これはこれでそう悪くはないのでは…と感じ始めました。そのひとつは表現に嫌味や不自然な点がまるでなく、技巧が上手いといって、ただ弾けよがしに弾いているのでもない、終始一貫したひとつの世界が構築されているらしいことが時間経過とともに伝わってきたのです。

と、あらためて耳を凝らしてみると、この人、今どきのテクニック抜群のピアニストの中でも、さらに頭一つ出た相当上手い人だと思えるし、音符を執拗に追い回して、無理に意味をもたせ、それによって全方位的な評価を得ようといったような企みがないらしいことがわかりました。
前例に囚われることなく、「ぼくはぼく」とばかりに正直に自分の感性の命じるままに弾いているようで、しかも表現に芝居がかった偽装の跡がなお。そこが逆に純粋で俗っぽくないという感じを受けたわけです。

マロニエ君は折に触れて書いているように、音楽家のくせに、不感症のアスリートに近いような演奏家が、音楽を「感じている」ようなフリをした演奏が大嫌いです。それはウソの行為であり、いわば演奏上の卑猥さという気さえするからです。

その点でいうと菊地さんのピアノは、まず自分がこういう演奏がしたいというメッセージがはっきりしており、聴く者を心地よい音楽の世界へといざなってくれることがわかりました。そういう意味でひじょうにナチュラルな演奏ですが、同時に目的が明快で、あれもこれもという欲がなく、魅力を特化したとても勇気のある演奏だと言えると思います。

一見無機質な音の羅列に見える危険もある中、さにあらず、聴く者に音楽の心地よさと喜びと提供できるのは、菊地さんが虚飾を排した涼しい演奏に徹しておられるからこそだと思います。

音楽で虚飾を排するというと、だいたい質素なオーガニック調で、冒険を排し、全体に小さめの音で演奏しているだけ。あれこそ上から目線で、抑制していることを見せつけるイヤミな演奏だったりします。

まずは楽しめなくてはそもそも音楽の存在意義が問われることにもなりかねません。
情報過多の時代において、とりわけクラシックでは古典主義がいまだに中央を陣取っており、これも一度は通過することは意味が大きいと思いますが、清潔と安全管理が行き過ぎると、音楽の持つ恍惚感など本能的な魅力や創造性が失われ、どれもこれもが取りつくろった建前のような色合いを帯びてしまいます。

菊地さんのピアノを聴いていると、彼なりのスマートなやり方で、そういう間違った道筋に警鐘を鳴らしておられるような気がしてしまいます。
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瀬戸内寂聴

NHKによる瀬戸内寂聴さんのドキュメンタリーが(たぶん再)放送されたのは年末でしたか…。
「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」と題する、御年93歳の僧侶にして現役作家の今を見つめる番組で、なんとなく録画していて、このところ音楽番組も面白いものがなく、これを視てみることに。

いつもながらの飾らない軽妙な語り口には人を惹きつける魅力があり、いまだ衰えぬ明晰な頭脳とあいまって感嘆するばかりです。

ただ、NHKが500日も密着したせいもあるのかもしれませんが、いかに瀬戸内さんとはいえ、あそこまで自分の日常をカメラの前へとさらけ出し、それを公共の電波を使って全国に流す意味が果たしてあるのか…この点は大いに疑問が残りました。
しかも、度重なる交渉の末かと思いきや、瀬戸内さんのほうでも『私が死ぬまでカメラを回しなさい』とおっしゃっているとかで、そのなんとも高らかな言葉にはハァ…という感じ。

いまさらいうまでもないことですが、瀬戸内さんは瀬戸内晴美として作家業を続けられ、51歳のときに出家、俗世を捨てて寂聴となります。得度してからも作家業は継続するという二足のわらじ状態。
物書きを生業としながら激しい恋愛の渦の中に生きてきた女性が一転、剃髪し、僧侶となり、法衣をまとい、多くの人々に法話というお説教をしてまわっておられるのは多くの人の知るところです。

ところが、その日常は法衣はおろか、大阪のおばちゃんもびっくりするようなド派手なセーターとパンツ姿で、食卓には高カロリーのコッテリ系メニューが並び、おまけにアルコールが大好物だというのですから驚きです。

中でものけぞったのは、脂のほうが多いのでは?と思うような霜降り肉(マロニエ君はこれが苦手)がいつもテーブルに準備されていること、くわえて毎夜のごとく背の高いワイングラスにはなみなみと美酒が注がれ、声高く「カンパ~イ!」といってはたいそうなはしゃぎっぷりで、僧侶とは何か…わからなくなる瞬間でした。
もちろんこれ、個人の自由のことを言っているのではありません。
また、僧侶たるものがすべて品行方正な日常を送っているとも思っていません。

しかしマロニエ君の知る限りでは、僧侶の食事は本源的にはお精進であろうし、実際そうでないものを口にすることはあっても、それはあくまでちょっと控えたかたちでというのが長らくの認識でしたから、これには度肝を抜かれました。

すくなくともテレビカメラの前で、なに憚ることなく「牛肉牛肉…」といいながら、霜降り肉をがっつり頬張っては傍らのアルコールを流し込み、キャッキャとはしゃぎまわる寂聴さんの日常というのは、普通人でも相当にはじけているほうで、マロニエ君の目にはかなり奇異なものに映ったことは事実です。

逆にいうと、もともと小説家はいわば芸術家の端くれでもあるわけで、そんな道を歩んできた人が人生の途中で出家して、剃髪し庵まで構えたからには、それなりの一線や境地がありそうなもんだと思っていました。
これでは、出家前と現在とでは、精神的にどれほど違うのか、マロニエ君のような凡人にはよくわからなかったし、番組も瀬戸内さんの何を伝えようとしているのか意味不明に感じました。

そういえば年末の報道番組では、寂聴さんが安保法案に反対する永田町周辺の抗議活動の中へ出かけて行って、デモに協調する声を上げたことをして、穏やかながらも一定の批判めいた調子であることは印象的でした。
「戦争というものにはね、良い戦争も悪い戦争もないんですよ!」

戦争が悪いことだというのは、なにもいまさらこと改まって言われなくてもみんなわかっていることで、安倍さんだって百も承知のはずで、言葉のすり替えにしか思えません。
おまけに、永田町から京都の寂庵に戻った折にスルリと口から出たことは、「たまには出かけて、おもしろかった!」というのですから、それはちょっとどうかなと思いました。

出家して40年以上経ったこの方の様子を見ていると、逆に俗世間の匂いを感じてしまうのは、なんとなく皮肉な感じが終始つきまといました。そう思ってしまうと、カラフルなセーターの襟首からでたそのおつむりも、今どきのスキンヘッドのようにも見えてしまいます。
マロニエ君は普通に本は読む方ですが、思えば瀬戸内さんの作はほとんど読んだことがなく、唯一源氏物語だけは全巻揃いで購入してしばらく読んでいましたが、どうもしっくり来ないで半分にも達しないところでやめてしまったことを思い出します。

ちょっとおしゃべりを聞いている分には面白いし、とりわけ平塚らいてうなどを中心とする明治の女性の生き様や恋愛事情などを語らせるといかにもこの人の本領という感じはしますが、ここ最近はいささか手を広げすぎておられるのかもしれません。
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ゴルトベルクいろいろ

ギックリ腰発生からはや1週間。
本人は毎日、朝から晩まで苦しみの連続、病院にも行ってみるものの未だ快癒せずですが、毎回その話ではつまらないので話題を変えます。


昨年のことでしたがあるピアニストの方から郵便物がとどきました。
開けてみると「演奏会に行って感動したので聴いてみてください」ということで、某女性ピアニストの弾くゴルトベルク変奏曲のCDと、来年早々に行われるご自身の2つのコンサートの招待券を送っていただきました。

近ごろは驚くばかりにドライな感性が何食わぬ顔で横行する中、こういう温かな心配りをされる方もまだいらっしゃるというのは心が救われます。

さて、そのゴルトベルク変奏曲はライブ盤のようで、随所にいろいろな工夫のある演奏で、本番でこれだけ弾くというのは大変なことだろうと思います。昔はこの作品を演奏会で弾くなど、技術的な問題のほかに、プログラムとしての妥当性からいっても「とんでもない」という感じがありました。
演奏史から云ってもわずか60年前にグレン・グールドが事実上この曲を世界に紹介したようなもので、ほかにはロザリン・テューレック、アラウ、ややおくれてニコラーエワ、アンソニー・ニューマン、日本では高橋悠治など数えるほどしかありませんでした。

その後はだんだんと弾く人が増えてきて、ジャズのキース・ジャレットまでゴルトベルクをリリースするにいたり、その後は誰彼となくこの名曲に手を付けるようになります。
さらに近ごろではオルガン、ジャズアレンジ、弦楽合奏、ハープで、アコーディオン、2台ピアノ、ヴァイオリンとピアノなどというものまで出てきて、現在は最も魅力的なレパートリーの一角を占めるようになったのですから時代は変わりました。

むかし、日本人では熊本マリがCDを出したときは、ひええ!という感じで、とても驚いた覚えがありますが、それが今ではCDを出すくらいのピアニストなら誰でも弾けるレパートリーになっていくのを見ると、時代が変わるごとに誰も彼もが弾くようになるのは驚くばかりです。


さて、ゴルトベルクといえば、マロニエ君の手許にもずいぶんこの作品のCDが溜まってきているので、CDとチケットのお返しというわけでもないけれど、手近にあるものをいくつかコピーしていると、ついあれもこれもとなってアッという間に12枚入りのファイルがいっぱいになってしまいました。
まだまだあるけれど、あまりいっぺんに送っても、演奏会前のピアニストにとっては迷惑になるだけなので、ひとまずこれくらいでやめました。

ゴルトベルク変奏曲という作品でひとつ言えることは、それこそ何百回聴いても飽きない作品そのものの圧倒的な魅力があることは当然としても、さらには、この作品を弾くと、ピアニストの実力、資質、技巧、音楽観、センス、美意識、もう少しいうなら品性や教養までもが白日のもとに晒されるということが感じられて非常に面白くもあります。
もうひとつは、ピアノの良し悪しや技術者の優劣、音というか調律の方向性までもが非常にわかりやすいという点でも、面白さ満載の特別な作品だと思います。

グールドは彼の演奏活動そのものがゴルトベルク変奏曲のようで、事実上のデビューと最晩年の録音(のひとつ)がこれであったし、リフシッツはグネーシン音大の卒業演奏会ですでにこれを弾き、デビューCDもゴルトベルク、さらに最近二度目の録音を果たしたばかり。シェプキンも熟年期にあるバッハ弾きですが、すでに新旧二種のゴルトベルクを録音しており、日本公演でもその素晴らしさを披露しているようです。そうそう、バッハ弾きといえばシフも二度録音組です。

また、最近では無名に近いピアニストがCDデビューする際にも、ゴルトベルクでスタートを切るパターンがあるようで、この作品にはそれだけのインパクトがあるということでしょう。
逆のパターンで驚いたのは、バレンボイムがいまさらのようにこれを録音しているらしいのは驚かされます。
あれだけの巨匠になっても尚、なんにでも片っ端から手を付けなくちゃ気がすまない性格なんでしょうね。
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4日目

せっかくの新年を、人生初めてのぎっくり腰で迎えるというのは当人にしてみれば笑うに笑えぬ「事故」でした。
しかも、これが実際なかなか快方には向かわず、多くの場合、二三日で落ち着いてくるという話であったのに、想像より症状は軽くはないようでした。

実は3日は、ピアノ好きの数人が集まることになり、今回はマロニエ君宅のディアパソンの調整が一区切りついたこともあって、我が家へお出でいただく段取りになっていたのですが、直前まで様子を見ていたもののいまだ厳しい状況であるため、やむを得ず今回は延期とせざるをえなくなりました。

もともと、充分なもてなしができるわけではないけれど、なにかというと襲いかかる激痛を抱えながらというのでは、ちょっとお茶や菓子を出すことさえ難しいし、いかに遊びや雑談とはいえ身が入りません。
昨年末から約束をしていた皆さんには文字通りのドタキャンとなり、大変なご迷惑をお掛けする次第となりました。

のみならず、お正月のすべてが犠牲となり、外出もなにもできず、することもなく時間だけはあるので、おそるおそるパソコンの前に座っては、このようなつまらぬ文章を綴っているしだいです。
新年早々、温かいお見舞いのメールも頂戴するなどありがたいような情けないような…。

昨晩はお父上が整形外科のお医者さんという友人に電話して、カクカクシカジカで、さしあたりどういう点に注意すべきか聞いてもらったところ、基本安静にする、腰を温める、コルセットが望ましいが無ければバスタオルでもいいから強く巻いて腰を固定する、長時間同じ姿勢をとらないなどのアドバイスを受けました。

少しでもだらけた姿勢で椅子に座っていると、必ず恐ろしいほどの激痛に見舞われるので、これにはさすがに懲りて、嫌でもキチンと背筋を伸ばした姿勢を保って座るしかなく、気の休まる時もありません。ところがこれを3日もやっていると、あれ?…その姿勢で座ることにもだんだん慣れてきて、それ自体はさほど苦痛ではなくなってきました。
まさに昔の軍隊式ではないけれど体罰の恐怖で遮二無二鍛えられる感じです。

ということは、何事もこれぐらい本気で間断なくやっていればそのうち身につくもんだということが少しわかったような気がして、結局ピアノも同じだろうか…とも思います。
音大を受験するとか、コンクールに出る、あるいは演奏会を控えて猛練習などとなれば、それはもう気構えからして違うでしょうから、これを当たり前のようにやっていれば、たしかに劇的に鍛えられるだろうなぁと思います。


ピアノといえば、お正月番組で録画していた辻井伸行氏の2時間番組を暇つぶしに視てみました。
彼はまぎれもなく天才ですが、いわゆるクラシックのピアニストの常道というより、チケットの売れる人気ミュージシャンの方へと軸足を移してしまったのでは?という印象をあらためてもちました。

べつに、それの良し悪しを言っているわけではないのですが、一面においてそのスタミナなど大したものだと思う反面、一面においてはどこか残念な気もするのです。コンサートの様子では主に自作の曲をオーケストラと一緒に演奏するというもので、新作の童謡かなにかのようで、澄みわたるきれいな曲だとは思うけれど、マロニエ君の求める方向とはまったく違うものです。

後半はガーシュインのラプソディー・イン・ブルーで、危なげのない確かな演奏ではあったものの、この曲に必要な変幻自在な表現には至っていないというのが率直な印象でした。こういう曲は自分なりに美しく弾くというだけではサマにならない猥雑な要素を含んでいて、清濁併せ持つ人間臭さやエグさで聴かせるところがあり、辻井さんの清純さだけでは処理できない世界のように思いました。

一方、アメリカ・ボストンでは現地のアマチュアオケとベートーヴェンの皇帝を弾いていましたが、これはまた意外なほど軽い感じが目立ってしまい、ただ表面に水を流すようにサラサラ弾いて、作品の核心にはまだ触れていないような印象でした。ベートーヴェンにはやはり一定の構造感とか重厚さ、あれこれの対比などが欲しい気がします。

むろん感心させられる点も多々あって、いついかなるときでも音楽に対するノリの良さは抜群で、常に全神経が音楽世界の中で喜々として躍動し呼吸していることは音楽家として非常に重要な点で、だからこそ彼のピアノには生きた演奏のオーラがあるのだと思います。見るたびに思うのは、大きくて肉厚の、とても恵まれたきれいな手をしていて、まさにピアニストとして理想的であること。
これだけみても彼がピアノを弾くためにこの世に生を受けたのだということが感じられます。
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ぎっくり

前回は年頭の挨拶であるし、あえて書かなかったのですが、実はその裏でとんでもないことが起こってました。

大晦日の午後3時ごろのこと、石油ファンヒーターの灯油缶を持ち上げようとしたところ、とつぜん腰に強い電気のようなものがドキュンと走りました。
手と上半身をのばした横着な姿勢であったことから、筋か神経だかの大事なところを大いにひねってしまったことが瞬間的にわかりましたが、それは一瞬で、とくに大したことでもないようなので、このときはさほど深刻にも考えていませんでした。

ところが、それから1時間も経った頃、座っていた椅子から立ち上がろうとすると、腰回りに刺されるような傷みが走り、さっきの衝撃がまだくすぶっていることがわかりました。

それからというもの、時間経過とともに症状は悪化していきますが、この日は夕方からちょっとした買い物と年越しそばを外で食べるということになっていたので、用心しながら着替えをしますが、このときすでに靴下を履き替えるのがかなり辛いことは自分でも驚きで、不安を抱えながらの出発となりました。

クルマに乗るのもヨイショという感じとなり、さらに深刻だったのはバックでガレージから出るのに、後ろを見ようと上半身を捻ると、ここでも強い痛みを伴い、いよいよこれはマズイことになった認識しはじめることに。

お店は猛烈な人出で、駐車スペースを確保するのも容易ではない状況。少し待つと運良く一台の車が出て行ったのでそこに速やかに止めようとしましたが、やはりバックする際にガッと振り向けないため、いつものような迅速な動作ができません。一定角度以上には上半身が曲げられないのを、これ以上悪化しないよう何度も切り返しをして、ずいぶん下手くそな要領の悪い止め方で車を置きました。

止め終わってホッとするのもつかの間、さらに驚いたことには車から降りようにも、その動作に入ると腰に激痛がきて降りられないのです。
一度激痛が走ると、その波が収まるまでにしばらくの時を要するので、何度か繰り返しながらやっと下車…したものの、これでは先が思いやられます。

この日だけはなんとか頑張らなくてはと気を引き締め、蕎麦屋に行くも、そこでもやはりバックが思うようにできない、さらに降りるときの苦痛はさっきより一層ひどく、困難さが増しているのがわかりました。
食べている間も軍人のようにまったく姿勢が崩せず、少しでも背骨を曲げたような姿勢になるとズキンと傷みが走ります。

正直言って、何を食べているかもわからないほど必死で食べて帰ってきましたが、自宅のガレージにたどり着いたときには、もう何度やっても激痛で車から降りることもできません。半ば気が遠のくような痛みを伴いながら決死の思いで車から這いずり出て、家に入り、この日はとにかく安静にして、ちょうどもっていたロキソニンを服用して、いつもより早めに休みました。

横になっているとそうでもないので睡眠はそれなりにとれますが、ちょっと寝返りをうつこともできずそのつど痛みで目が覚めます。ずいぶん窮屈な思いをしながら目が覚めたりまた寝たりを繰り返しながら元日の朝を迎えました。
とりあえずベッドから出ようとすると、これがまたとてつもない激痛で、とにかくどういう角度であれ起き上がろうとすると、息もできないほどの痛みが次から次へと襲いかかってきて、ようするにベッドから出られなくました。

30分近くかけて、脂汗にまみれながらようやく這い出したものの、着替えも満足にできず、正月早々とんでもないスタートを切る羽目になりました。
午後はパソコンの前に座るのもびくびくして、新年早々、痛みと疲れと落胆でもう何もする気も起きません。それでも元日のブログは前日に少し書いていたので、なんとかそれを完成させてアップしたのでした。

これが「ギックリ腰」というものかどうか…正確なことはわかりませんが、たぶんそうなんでしょう。
これまで腰痛の苦心談はあこれこれと耳にしてはいたけれど、たまたま自分が経験したことがなったこともあって、もうひとつ実感が湧きませんでしたが、いやぁ…これほどまでに凄まじいものとは知りませんでした。
まるで腰回りをナイフで刺されるか電流でも流されるようで、その痛みは恐怖以外のなにものでもありません。

日常生活の何気ない動作の中で、いかに腰が体の芯となって重要であるかをこれほど思い知らされたことはなく、健康のありがた味をしみじみ痛感しているところ。年明けからついていない…ではやってられないので、新年早々からよい勉強をさせてもらったとでも思うことにするしかありません。

意外だったのは、安静のためにポロポロとピアノを弾いてみると、ピアノは必然的に良い姿勢となるし、弾けばやっぱり楽しいし、おかげでずいぶん慰められました。
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2016年元日

あけましておめでとうございます。

毎年同じことを繰り返すようですが、友人にすすめられるままに始めたこのブログも、6年目に突入することになりました。
義務や努力がめっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、こんなことが丸5年間続いて現在も進行中というのは異例中の異例で自分でもびっくりです。
裏を返せば、こんなつまらないことでも人様がそれを読んでくださるというのは、素直に嬉しいし、ありがたいことで、それが大きなモチベーションになっているのは確かなようです。

さらには、数こそ多くはありませんが、見ず知らずの方(ときには海外から)からあたたかいメールを頂戴することもあり、ときどき自分は大それたことをしでかしているのではないか?という怖さを感じることもありますが、それだけに、内容は一定の慎重さと節度を肝に銘じつつ、今後もできるかぎり思ったままを書いていくつもりです。


昨年はディアパソンに通暁した、このピアノ生え抜きの技術者の方との出会いがあり、これはまったく思いがけないことでした。
福岡とか九州という枠を超えて、ディアパソンの最高ランクの技術者さんが、地元にまさか二人もおられるなんて夢にも思わなかっただけに、これはほとんど僥倖に等しい気がしています。
お二人は親しいご友人でもいらっしゃるようで、長らく浜松のディアパソン本社で開発改良などにも取り組み、会社自体をひっぱっておられた方でもあり、それこそ裏の裏までご存知なわけです。

おかげで、座り込んだ牛のように、にっちもさっちも行かない我が家のディアパソンは、繊細なタッチコントロールにも細やかに反応する、軽快で整然としたタッチを有するピアノへと生まれ変わりました。
しかも、ハンマーを交換することも削ることもせず、さりとて特別な技や装置を用いるでもなく、正攻法でここまで達成できたことに驚きと尊敬の念を禁じえませんでした。

マロニエ君自身はこれといって自慢できることもありませんが、昔から素晴らしい技術者の方にご縁があるのは、ずいぶん恵まれていると思います。とくに東京大阪でもなく、福岡という地方都市において実に多くの優秀な方々とのご縁があることは我が身の幸運を感謝するばかりです。

さて、ピアノはこれだけ整ったというのに、弾くほうは一向に前進がないばかりか、無能と、歳のせいと、絶対的に弾く時間が足りないせいとで、ますますダメになりました。
とくに新曲を練習するのは億劫になり、暗譜にも苦労するし、指もあきらかに動きが悪くなりました。
若いころは、まだそれなりに覚えられていたことを思うと、やはり脳が衰退しているせいかと思いますが、まあこればかりはどうしようもありません。

仮に努力しだいで「少しはなんとかなる」としても、努力とは本人の意志の問題であり、マロニエ君の性格じゃどう転んでも無理でしょうから、やっぱりどうしようもないことになります。

マロニエ君の周りのアマチュアピアノ弾きの方々は、皆さん相当きちんと練習されているようで、どうしたらそんなに熱心に練習できるようになるのか、その秘訣でもあれば伺いたいもの。
特に大人になって始められた人達は、却って自発的によく練習されるようですごいもんだと思います。
それにひきかえマロニエ君の練習量のなさといったら、我ながら情けなくなるほどで、これではピアノ好きを標榜する資格もないのかもしれません。

ただ、練習の成果を身をもって感じることもたまにはあって、どうかした具合で、ごくまれに1時間ほども弾いていると、たしかに自分なりに指はずいぶんほぐれ、ピアノはよく鳴り、普段よりずっと楽にザクッと弾けて感激することがあり、そんなときは自分で自分を弾けなくしていると猛省したりもしてみるのですが、ま、それもその場限りで持続しないのです。

あいも変わらず、こんな調子ですが、本年もよろしくお付き合い願えれば身に余る喜びです。

マロニエ君
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良いお年を

ネットのCD通販サイトを見ていると、とくにハッキリとした理由もないのに、何気なく買ってしまうCDというのがあります。
最近のそれは、ニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというピアノデュオによる2台のピアノのためのゴルトベルク変奏曲で、編曲はラインベルガーとマックス・レーガーによるもの、このバージョンはたしか他にもCDをもっています。

なぜこれを買ってしまったのか、商品が届いた頃には、クリックしたときの気分は消え失せていることもしばしばで、自分で言うのも変ですが、「へぇ、こんなの買ってたんだ…」などと他人事のように気分で聴いてみることになります。

聴いて最初に感じたことは、ピアノの音が品がないなぁ…ということ。ところがライナーノートをみると、なんとベーゼンドルファーのモデル280とあり、そのギャップにますます驚いてしまいました。
まるで弾きっぱなしの調律をしていないピアノみたいで、記述がなければベーゼンの280というのはわからなかったかもしれません。かなり使われているピアノなのか、ギラギラした音で、今どき録音するのにこんなピアノを使うのかと驚きました。

演奏はかなり自在な感じで、バッハらしい節度とか様式感を保った礼儀正しさより、感覚的でドラマティックに弾いているといった趣です。音といい演奏といい、はじめはずいぶんくだけたバッハという印象が強く、こんなもの買ってとんだ失敗だったとため息をついていたのですが、とりあえず最後まで聴いているうち(78分)にだんだん慣れてきて、ついにはこれはこれで面白いと思うまでになりました。
今では何度も繰り返し聴いているCDなのでわからないものです。

さらには面白い一面もありました。
ピアノは好ましい技術者によってきちんと整えられたものがいいに決まっているし、録音ともなると、最低でもそれなりに調整された音であるのが半ば常識です。
ところが、こんな言い方はおかしいかもしれませんが、このCDのピアノはずいぶん雑な音であるし、演奏もどちらかというと抑揚のあるテイストなので、一歩間違えれば聴いていられないようなものにもなりかねませんが、このCDにはいつもとは違う危うい面白さみたいなものがありました。

しかも荒れたベーゼンドルファーというのは、どこか退廃的ないやらしさがあって、それが結果として生きた音楽になっているという、じつに不思議なものを聴いたという感じです。
ピアニストのニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというふたりは初めて聴きましたが、なかなか達者な腕の持ち主で、息もピッタリ、テンポにもメリハリがあって、緩急自在にゴルトベルクをまるで色とりどりの旅のように楽しませてくれました。

調べてみると、TWO PIANISTSというレーベルで、しかもこの二人がレーベルの発起人だといい、録音は南アフリカの大学のホールで行われている由で、なにもかもがずいぶん普通とは違うようです。
録音も専門家の意見はどうだか知りませんが、マロニエ君の耳には立体感も迫力もあり、湧き出る音の中心にいるようで、とても良かったと思いました。


ついでに、もうひとつ、思いがけなく買ったCDについて。
いま人気らしい、福間洸太朗氏の新譜がタワーレコードの試聴コーナーにあったのでちょっと聴いてみると、演奏者自身の編曲によるスメタナのモルダウが、えらくピアニスティックでリッチ感のある演奏だったので、ちょうど駐車券もほしいところではあったし、続きを聴いてみようと購入しました。

自宅であらためて聴いても、なかなかのテクニシャンのようで、どれも見事にスムースに弾けているのには感心です。
きめ細やかな、しなやかなタッチが幾重にも重なり、独特の甘いピアノの響きを作り出すあたりは、いかにも女性ファンの心を掴んでいそうな気配です。

曲目はモルダウのほか、ビゼーのラインの歌、青きドナウの演奏会用アラベスク、メンデルスゾーン/ショパン/リャードフの舟歌、リストによるシューベルト歌曲のトランスクリプションなどで、メロディアスな作品が並びます。
敢えて言わせてもらえば深みというより、耳にスッと入ってくる流麗さと快適感で楽しむ演奏で、オーディエンスの期待するツボをよく心得ていて、ファンに対するおもてなし精神みたいなものを感じます。

まあ、そのあたりが気にならなくもないものの、本来、音楽は人を楽しませることが第一義だとするならば、それはそれでひとつの道なのかもしれません。

福間氏は20代の中頃にアルベニスのイベリア全曲を録音しており、以前店頭でそのCDを見て「うそー?」と思った記憶があります。技術的には弾けても作品理解や表現力のために、そこから5年も10年もかけて熟成させたうえで公開演奏に踏み切るといった時代ではなくなったことは事実でしょう。
音楽家としての自分の個性や思慮深さより、なんでもできるスーパーマン的なものでアピールしていく、これが良くも悪くも今どきのスタイルなんだろうとと思います。


気がつけば、今年も残り二日間となりました。
来年こそはより良い年でありますように。
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もうひとつの戦い

NHKのBS1で『もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い〜』が放送されました。

これまでコンクールのドキュメントというと、演奏者側にフォーカスするのが常道で、コンクールにかける意気込みやバックステージの様子など、悲喜こもごもの人生模様を密着取材するものと相場が決まっていました。

ところが、今回は公式ピアノとして楽器を提供するピアノメーカーおよび調律師に密着するという、視点を変えたドキュメントである点が最大の特徴で、途中10分間のニュースを挟んで、実質100分に及ぶ大きなドキュメンタリーでしたから、その規模と内容からみて、これまでには(ほとんど)なかったものではなかったかと思います。

テレビ番組の情報などに疎いマロニエ君は、だいたいいつも、後から気が付くなり人から聞くなりしてガッカリなのですが、今回はたまたま当日の新聞で気がついたおかげで、あやうく見逃さずに済みました。
こんな珍しい番組を見せないのもあんまり可哀想なので、今回ぐらい教えてやるかというピアノの神様のお計らいだったのかもしれません。

前半は主にファツィオリとカワイ、後半はヤマハが中心になっていて、スタインウェイは必要に応じて最小限出てくるだけでしたが、とくにスタインウェイ以外の調律師が全員日本人というのも注目すべき点だろうと思います。

ヤマハとカワイは日本のピアノだから日本人調律師が当たり前のようにも思いますが、だったらファツィオリはイタリア人調律師のはずであるし、もし本当に必要ならヤマハもカワイも外国人技術者を雇うのかもしれません。それだけ、日本人の調律師がいかに優秀であるかをこの現実が如実に物語っているとマロニエ君は解釈しています。

さて、近年あちこちのコンクールでも健闘している由のファツィオリは、今回のショパンコンクールでは戦略の誤り(と言いたくはないけれど)から弾く人はたったの一人だけ、しかも一次で敗退するという結果でしたが、現在のファツィオリを支える越智さんの奮闘ぶりが窺えるものでした。

ショパンにふさわしい温かな深みのある音作りをしたことが裏目に出てしまい、ほかの三社がパンパン音の出るブリリアント系の音と軽いタッチであったことから、ピアノ選びでは皆がそっちに流れてしまいます。そこで、急遽派手めの音を出すアクションに差し替えることで、限られた時間内にピアノの性格を修正しますが、時すでに遅しといった状況でした。
しかし、よく頑張られたと思いました。

カワイは小宮山さんというベテランの技術者が取り仕切っておられ、ピアノの調整管理以外にも演奏者へのメンタル面のケアまで、幅広いお世話をひたすら献身的にされていたのが印象的でした。フィルハーモニーホール内には通称「カワイ食堂」といわれるお茶やおやつのある小部屋まで準備されており、そこはコンクールの喧騒から逃げ込むことのできる、安らぎの空間なんだとか。

しかし一次、二次、三次、本選と進む中、最後の本選でカワイを弾く人はいなくなり、そこからはヤマハとスタインウェイ2社の戦いとなります。

ファツィオリの越智さん、カワイの小宮山さん いずれも技術者であり楽器を中心とするこじんまりとした陣営で奮闘しておられたのに対し、ヤマハはまるで印象が異なりました。
ヤマハは人員の数からして遥かに多く、見るからに勝つことにこだわる企業戦士といった雰囲気が漂います。
まさにショパンコンクールでヤマハのピアノを勝たせるための精鋭軍団という感じで、周到綿密な準備と、水も漏らさぬ体制で挑んでいるのでしょう。

各メーカーいずれも真剣勝負であることはもちろんですが、その中でもヤマハの人達の独特な戦士ぶりは際立っており、ときにテレビ画面からでさえ言い知れぬ圧力を感じるほどで、こういう一種独特なエネルギーが今日の世界に冠たるヤマハを作り上げたのかとも思います。

ファツィオリも、カワイも、各々コンテスタントのための練習用の場所とピアノなどを準備はしていましたが、ヤマハはまず参加者(78人)が宿泊するホテルの全室に、80台の電子ピアノを貸出しするなど、ひゃあ!という感じでした。
また、いついかなるときも、ヤマハのスタッフは統制的に動いており、カメラに向かって言葉を選びながらコメントする人から、何かというと必死にメモばかり取っている人など、組織力がずば抜けていることもよくわかりました。

ステージ上でも、何人ものスーツ姿の男性達がわっとピアノを取り囲んでしきりになにかやっている光景は、一人で黙々と仕事をする調律師のあの孤独でストイックな光景ではなく、まるで最先端のハイテクマシンのメンテナンス集団みたいでした。

はじめは本戦出場の10人中3人がスタインウェイ、7人がヤマハということでしたが、直前になって2人がスタインウェイへとピアノを変えたことで5対5となり、優勝したチョ・ソンジンが弾いたのはスタインウェイでした。

大相撲で「気がつけば白鵬の優勝…」というフレーズが解説によく出てきますが、気がつけばスタインウェイで今年のショパンコンクールは終わったというところでしょうか。

それにしても、コンテスタントはもちろん、ピアノメーカーも途方もないエネルギーをつぎ込んでコンクールに挑んでいるわけで、それを見るだけであれこれ言っていられる野次馬は、なんと気楽なものかと我ながら思いつつ、番組終了時には深いため息が出るばかりでした。
いずれにしても、とても面白い番組でした。
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悪質な番号の検索

先日のパソコン本体へのSDカード誤飲騒動では、ネット情報によって命を助けてもらったばかりですが、どうやらネットの使い方というのは、日々より広範で多様化し、マロニエ君なんぞの知らないものが際限もなくあるらしい…ということを知るに及んで驚いています。

マロニエ君はいちおう仕事用と個人用の携帯電話を持っていますが、仕事用は問い合わせという側面もあるため、着信履歴をそのまま放置というわけにもいきません。とくに登録のない番号の中にも重要なものがある反面、相手の声を聞くなりイヤになる営業目的もしばしばで、運転中出られない場合など、車をわざわざとめてコールバックしてみると、なんと株取引の勧誘であったり、「お近くの不動産を探しています」とか、いきなり「現在のお住いはマンションですか?持ち家ですか?」「お使いにならない宝石などを買取りしています」といった内容で、憤慨することしばしばです。

まあ、相手だって仕事のために必死にやっていることと思えば一定の理解はできますが、何度かかけ直したあげくやっと通じたと思ったら、なんとこの手合だったりすると、やっぱりムッとしてしまいます。

昨日もそれがあり、30分ほどしてこちらからかけましたが夕方だったためか繋がらずで、そうなるとどこか気になってしまうもの。相手の分からない番号へ日を跨いでまで掛ける必要もないかと思いますが、近頃のネットは何が出てくるかわからにというへんな経験があったものだから、試しにその電話番号を検索にかけてみると、なんとなんと、いわゆる悪質な相手の番号であるかどうかを知らせるサイトがあって、その番号がひっかかってきたのにはびっくりでした。

その番号を元に、多くの人の口コミがあって、それをいくつか読むだけで、たちどころに電話の主がどんな相手かがわかりました。

それによれば、ただの営業ではない、限りなく詐欺行為をはたらいている相手らしく、テレビなどで悪徳業者の手口として紹介されるような内容そのままで、こういうものが自分の電話にかけて来たかと思うとやっぱり驚きます。
そんな相手とも知らずにわざわざこちらからかけ直しをしていたなんて、なんたることか!と思うばかりです。

そのサイトでは、当該電話番号に対するだけでも数十件の書き込みがあり、共通しているのが、尤もらしい会社名を名乗って「白熱灯が生産中止になることで、この制度を利用すると助成金が出るためのご案内です」というようなことをペラペラ言ってくるのだそうで、しかも断っても何度もかけてきて「しつこい」というような苦情がずらりと並んでいました。

もちろん、直接話せば断固として断りますが、まるで国の制度がどうのという専門的な話(しかもそれを悪用して収入を得ようという提案)を延々聞かされて、中には、ついその気になってしまう人もいるかと思うと、やっぱり怖くなりました。

くわばらくわばらと思って、その番号は敢えて消去せず、アドレス帳登録して名前を「出るな!」という言葉で登録しておきました。
すると昨日、今度はまったくちがう番号から電話がかかったので出てみると、相手はしっかりこちらの名前を確認し、続いてきちんと会社名(横文字のなんだかわからないような名前)と自分の名前を名乗り、いかにも手慣れた感じのプロみたいな話口調で女性が淡々と喋り出しました。
ところが、その内容というのが、まったく同じ「白熱電球生産中止に伴う…」という話であったのにはびっくり。

「せっかくですが、そういう予定も考えもまったくありませんので、悪しからず!」と決然とした調子でいうと、そういう手合には話してもムダだと思うのか、意外なほどあっさりと「左様でございますか。承知いたしました。お忙しいところ失礼致しました。」といって電話は終りました。

たぶん話に引っかかって来そうな相手かどうかは、絶えず感性を研ぎ澄ませているんでしょう。
それにしても同様の業者がたくさんいるのか、何本もの電話で一斉にかけまくっているのか、いずれにしろよほど気をつけなくてはなりません。

個人情報保護法なんぞ、世の中を暗くするだけのくだらない法律だと感じていましたが、こういう手合が暗躍する時代だということを考えれば、なるほどやむを得ないと思えてくるようです。
皆さんもおかしいと思う番号に遭遇した際は、番号を検索してみられることをおすすめします。
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ふれんち

少し前に放送されたNHK交響楽団とパーヴォ・ヤルヴィによる演奏会には、オールフランスプログラムというのがありました。世間の受け止め方は知りませんが、個人的にはこの組み合わせでフランス音楽というのはずいぶん意外でした。

ドビュッシーの牧神の午後、ラヴェルのピアノ協奏曲、後半はベルリオーズの幻想交響曲というものですが、ヤルヴィとフランス音楽というのはどうなんだろう?という思いを抱くのが、なんとはなしに率直なイメージです。
ヤルヴィのみならず、そもそもN響とフランス音楽というのも、デュトワとはずいぶんやったかもしれませんが、それでも個人的イメージではしっくりはきません。
ボジョレー・ヌーボーが解禁などと言って、どれだけワイワイ騒いでみても、悲しいかなサマにならないようなものでしょうか…。

幻想交響曲のような大仰な作品はまだしも、ドビュッシーやラヴェルというのはこの顔ぶれではまったくそそられないのですが、そうはいってもヤルヴィはパリ管弦楽団の音楽監督であった(現在も?よく知らないが)のだから、まあそれなりの演奏はおやりになるのだろうと思いながら聴いてみることに。

出だしのフルートからして、いきなり雰囲気のない印象で、曲が進むにつれ、しっくりこないものがだんだん現実となって確認されていくみたいです。さだめしスコア的には正しく演奏されているのでしょうが、そもそもこの曲ってこういうものだろうかという気がしました。

牧神の午後に期待したい異次元の光がさすような調子というか、名も知らぬ花がしだいに開いていくような空気は感じられず、ただ普通にリアルで鮮明な演奏であることで、むしろ難解に聴こえる気がしました。
個人的にはヤルヴィの本領は別のところ、すなわちドイツ音楽やロシアその他の、いわば立て付けのしっかりした強固な作品にあるような気がします。

彼に限らず、現代の(それも第一級とされる)演奏の中には、わざわざ説明するようなことではないことまで敢えて説明しているような演奏にしばしば出会うことがあります。野暮といっては言葉が悪いかもしれませんが、ようするにそんな感じを受けることが少なくない。

それは進化した技巧と洗練されたアプローチによって、作品の隅々まで見渡すような爽快さがある反面、理屈抜きに音楽を掴む直感力だとか演奏者のストレートな感興、音がそのまま言葉となって聴く者に訴えてくるような醍醐味はやや失っているのかもしれません。
理知的な解像度の高さばかりに目が向いて、率直な感受性や表現意欲の比重が減っているのは、多くの現代演奏に感じるひとつの大きな不満ではあります。

ラヴェルのピアノ協奏曲のソリストはジャン・イヴ・ティボーデ。
昔から、この人の演奏はあまり好みではなかったので、まったく期待していなかったのですが…だからかもしれませんが、意外にもこのときはそう悪くない演奏だったので、これは申し訳なかったと心の中で思いました。
無意味なピアニズムや情緒に陥らず、ラヴェルの無機質をむしろ前に出してきたことで、そこにだけパッとフランス的な屈折した花が咲いたような趣がありました。
また、以前と印象が違ったのは、いかなる音にも好ましい肉感と節度があって、これがもしブリリアントなだけの派手派手しい音であったなら、ラヴェルの無機質が咲かせる花は、またずいぶん違った姿形になったように思います。


フレンチピアニストの名前が出たついでに書くと、ジャン=クロード・ペヌティエのCDで、フォーレ・ピアノ作品第1集を買ってみました。というのもペヌティエというピアニストのことはほとんど何も知らず、ラ・フォル・ジュルネで来日して好評であったということがネットでわかったぐらいで、音としてはまったくの未体験であったので、ぜひ聴いてみたいと思ってのことでした。

あれこれの評価では「弱音の美しさ」「洗練された味わい」「ペダリングの素晴らしさ」といったものが目に止まりましたが、マロニエ君に聴こえたところはいささか違いました。
まず印象的なのは、フランスのピアニストにしては渋味のある楷書の文字をていねいに書くような演奏で、しかもそこに余計なクセや装飾が一切存在せず、純粋に楽曲を奏することにピューリタン的な信念をもったピアニストというふうに映りました。
シューベルトの後期のソナタもあるようなので、マロニエ君のイメージではフランス人のシューベルトというのは痩せぎすで、それほどありがたいもんじゃないと思っていますが、これだったら聴いてみたくなりました。

ピアノはまったく気が付かなかったけれど、ジャケットの中の記述をよく見ると小さくBechsteinとありました。へぇ!?と思って耳を凝らしてもそれらしい声はさほど聴こえてこないので、おそらく最も普通に洗練されていたD280だろうかと、これまた勝手な想像をしているところです。
ペヌティエは教師としても名高いようで、かなりのベテランのようですが、スタインウェイでもヤマハでもないピアノを選ぶあたりに、氏の目指す独自の境地があるのかもしれません。
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ドイツ人とは?

車の月刊誌、CG(カーグラフィック)に面白いことが書いてありました。

ドイツ人とは、いかなる民族なのかということ。
永島譲司さんというドイツ在住30年余になる自動車デザイナーの方(有名なのはBMWの先代3シリーズで、あれは日本人のデザインなのです)が、長年の経験の中から書かれたものですが、読むなり呆れ返ってしまいました。

一般のドイツ人のイメージというのは、ありきたりですが、勤勉で真面目で冗談が下手で、でもバッハやゲーテ、ベートーヴェン、ハイネ、アインシュタインなど、とてつもない歴史上の偉人が綺羅星のごとく何人もいる、非常に優れた能力を有する民族というイメージがありますね。
世界の主たる近代文明の中で、ドイツ人が果たした貢献は計り知れないものがあることは誰もが認めることでしょう。

そんなドイツ人ですが、外から想像するのと、実際に長くその地で暮らしてみるのとでは、どうやらかなりの隔たりがあるようなのです。

ドイツ人は「ルールが好き」というのはあるていど認識されていることですが、実際のそれは、予想をはるかに超えたもののようです。
公園のブランコ、公衆トイレ、ホテルデパートのエスカレーターに至るまで、自己責任で使用すべしという但し書きがやたらめったら散りばめられていて、それをいちいち承諾した人だけが利用することができるようになっているのだとか。

ドイツでは何事によらず、氏の表現によれば「チョー細かいことまで」ルール化し、さらにそれを明文化するのが好きなのだそうで、書かれたものを厳守することがむしろ心地よいのか、精神的にもそれが落ち着くような気配だというのです。

たとえば、ドイツでは自販機のコーヒーから高級店のコニャックまで、すべての有料の飲み物には「何mlに対していくら」という価格と液体量が表示されていて、コーラなどを頼んでも量が正確にわかるように氷などは一切入っていないそうです。
こんなことを聞くと、ドイツ人が大好きなビールも、ジョッキには目盛りでも入っていて、まずそれを確認してからハメを外すのだろうか?などと思います。

唖然としたのは、カップルが結婚する際の手続きでした。
これから婚姻届を出そうというのに、将来何らかの理由で離婚する場合に備えて、財産分割に関する書類を作るのだそうで、そこには預金や不動産などは言うに及ばず、このテーブルはテレビはどちらが取り、この冷蔵庫と電子レンジはどちらの所有かということをすべて取り決め、事細かく書き出して、公証人の前でその書類にサインすることで法的な力を持つとあり、それがごく普通なんだそうですから、朝ドラ風にいえば「びっくりぽんや!」といったところですね。
日本でそんなことをしたら、たちまち破談になるだろうと思いました。

交通マナーに関する記述もあり、永島氏がドイツでの生活をはじめられたころ、フランクフルト市内の大通りでパーキングメーターにバックで駐車しようとすると、不思議な光景を見たとあります。
自分の車の後ろに10台ほどの車がズラーッと並んでおり、何で自分の後ろにそんなに車が並んでいるのか、はじめはその理由が皆目わからなかったというのです。

氏はその後も同様の経験を何度も何度も繰り返すうちに、ついに理由がわかったのだそうで、それによれば、ズラリと並んだ多数の車はただ単に前の車が駐車をし終えるのをずーっと待っているだけだというのです。

驚いたのはその状況で、そこは2車線の大通りで他に交通量も少くスカスカだったそうで、普通ならとなり車線から抜かしていくのが普通であるのに、多くの車は目の前の車が駐車が完了するまで身じろぎひとつせずにじーっと待っているというのです。

氏いわく、「要するに彼等って頭がタカイというか、思いつかないのである。」「目の前で誰かが駐車をはじめるとその車ばかりに気をとられるせいかとなりの車線に一瞬入れば前に行けることに気が付かない。いや、となりの車線がスカスカであることがそもそも目に入らない!良く言えば一点集中力がものすごく高いともいえるが、概してドイツ人というのはそんな具合でただただ一直線。」と書かれています。

予期していない事が起こったりしたときに頭を切り替える器用さに欠けるのだそうで、だから何にでも「規則」を必要とすると分析しています。
すべてのことに「チョー細かい規則」を張り巡らせて、それにしたがってみんながキマリ通りに動くことが前提となり、予定外のことが突如起こると、それに対応するのが不得意なんだそうで、ここまでくると規則に依存するあまり、頭も使わないのかと思えてしまいます。

ドイツも自転車の事故は問題のようで、交差点で車はスピードを落とす規則が「ある」のに、自転車にはそれが「ない」から、車に気づいてスローダウンしなければ衝突することがわかっても自転車はスローダウンしないらしく、おまけにゲルマン民族の健脚で走らせる自転車はたいてい30km/hから40km/hは出ているというのですから、相当怖いようです。

そんなドイツ人が例のフォルクスワーゲンのディーゼルエンジンの排ガス不正問題を引き起こしたのですから、これは珍しく頭を切り替えて器用な対応をやってみた結果なのでしょうか。
しかも、不正のやり方まで、ずいぶんと一直線だったようですね。
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心理と味わい

近ごろはCDの聴き方ひとつにも、人それぞれの方法があるようです。
マロニエ君はスマホも持たず、音楽を聴くのは専ら自宅か車の中に限られ、まずイヤホンで聴くというのはありません。そのつど聴きたいCDをプレイヤーに入れて再生するという旧来のスタイルで、自分がそうなので、いつしかこれが当たり前と思い込み疑問にも感じていませんでした。

ところが、あるとき知人のメールによれば、CDをパソコンに読み込んで編集すると、曲のタイトル(トラック名)が表示されないことがあるらしく、それが非常に困るというのです。
トラック名なんてマロニエ君は意識したこともないことで、はじめはなんでそんなことが重要なのかピンとこなかったのですが、スマホやパソコンに音源を落とし込んで、そこからイヤホンなりスピーカーなりに繋いで聴くというスタイルでは、操作画面にトラック名が出ないことには曲を呼び出すこともできないわけで、ははあと納得した次第。

実は、マロニエ君もずいぶん前にiPodを買って、はじめは大興奮でずいぶん遊んだものの、しばらく使ってみて自分には合わないことがわかり、さっぱり使わなくなったことを思い出しました。さらに最近は、車にもハードディスクがあって音楽も相当量がここへ記憶させることができるので、一度読み込みをしてさえいればいちいちCDを出し入れする必要もありません。

こちらも始めの頃は感激して、せっせと読み込みに専念し、あげく一大ライブラリーといえば大げさですが、そういうものを作ったものでした。
ところが、車に乗り込み、エンジンをかけてさあ出発という一連の動作の中、あるいは走行中の信号停車中などに、この呼出操作をするのが(マロニエ君が苦手なせいもありますが)甚だ煩わしく、時間もかかり、鬱陶しくなり便利なはずのものが却ってストレスの原因になることがわかりました。

また、何を聴こうかという当てをつけるのも、トラック名がやみくもに並んでいるだけでは興が乗らず、最後はいつも適当というか、妥協的なものを聴くハメになるだけでした。
要するに選択範囲が多すぎて、しかもそれを液晶の無機質な文字だけでパパッと選択するという行為が、感覚上の齟齬を生み、自分にとっては快適な流れが生まれなかったわけです。

その点でいうと、自宅でCDケースの山の中から何を聴くかを決めるのが自分には自然であるし、車の中でもせいぜい50枚足らずのコピーCDを差し込んだファイルケースをぱらぱらめくりながら探すくらいが規模的にもちょうどよく、無用な神経も使わず、以来ずっとこの方法で通すようになりました。

しかし、今や時代の波はそんな悠長な感覚を顧みるひまもないほど進化し、すでにCDという商品を購入することさえどこか時代遅れの行為となりつつあって、とてもではありませんが感覚がついていけません。

本でも電子書籍などがどれほど流行っているのかいないのか知りませんが、とてもそんなものに切り替えようとは思いません。もちろんちょっとしたニュースをネットで走り読みするぐらいはいいけれど、いわゆる読書をするのに、液晶画面を相手にしようとはまったく思わない。
実際の本を買うほうが、値段も高く、場所もとり、将来はゴミになるかもしれないという主張もあるようですが、それならそれで結構。それでも紙に印刷された本のページを繰りながらゆっくりと読み進むことが読書の楽しみだと思うのです。

その点では、音楽は実際のコンサートでない限り、イヤホンやスピーカーから良質な音が出てくればいいわけで、この点では読書よりいくぶんマシのようではありますが、しかしマロニエ君にいわせれば、そこにもちょっとした違いはあるように思います。

昔はレコードを聴くといえば、大きなLPを注意深く取り出して、うやうやしげにターンテーブルの上に置き、慎重に針を滑らせてという、いまから考えればいささか滑稽ともいえる手順が必要でした。
しかし、その中に、音楽を聞くための心構えや集中力、期待感などもろもろの心理がうごめいて、出てくる音を耳にする前段からそれなりの盛り上げの効果があったようにも思います。

同じようなことが、今ではCDをケースから取り出してプレイヤーに入れ、再生ボタンを押すまでの手順の中に少しは生きているような気がしなくもないのです。少なくとも電話やメールをして写真や動画を撮って、ゲームに興じ、さらには無数のアプリ満載の小さな機械の中に一緒くたに入った音楽を聴くよりは、よほど情緒的なアプローチのようにも思うわけです。

実務実用の事ならそれも構いませんが、音楽や文学に接するときまで、極限まで追求された便利の恩恵に預かろうというのは、なんだかスタートから違うような気がするのですが、まあこれも今自分がやっているスタイルを無意識のうちに肯定しているだけなのかもしれません。
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恐怖の20分

パソコンが生活の中に入ってきたことで、計り知れない恩恵に浴してきたことは事実であるいっぽう、同時に神経消耗の機会も断然増えたように思います。

とくにパソコンがめっぽう苦手なマロニエ君にとっては、いろいろなトラブルに見舞われるたび、疲労困憊し、時には寿命を縮めるような目にも遭ってきたのは事実です。

最大のものは、10年ほど昔のことだったと思いますが、CD-RWをしばしば使っていた時期があり、用済みのものは消去して書き換えていたところ、あるとき確認不足もあって、ハードディスクに記憶された内容を全て消してしまうという大ミスもやらかしました。

画面上、CD-RWとHDのボタンが上下隣り合わせであるのが設計の不親切だと今でも思いますが、ともかく一度消えたものはどうしようもなく、友人知人を総動員して修復機能など、あらん限りの策は尽くしてもらったものの、修復できたのはごく一部でした。
まさに身体中の血が一気に下へ落ちていくようで、胸はえぐられ、顔から両肩へかけての皮膚が焼かれるような思いをしたあげく、茫然自失、大切なものを多く失い、こんなことはもう二度とゴメンだと心底思いました。

そんなことから、だいぶ用心するようにはなったものの、それでも慣れというのは恐ろしいものです。
戦慄の瞬間は、ついにまたやってくる事になりました。

マロニエ君のパソコンはiMacなのですが、デスクトップの大きなモニターは本体と一体型です。CDドライブももちろん内蔵されていて、メディアは画面横の右側面から挿入するという構造。
さらに、CDドライブのすぐ下にSDカード用の挿入口があり、はじめの頃は目でよく見ながら出し入れをしていたものですが、だんだん使い慣れてくると右手がおおよその場所を覚えてしまって、忙しいときは、いちいち見ないで挿入するようになりました。

ところがです!
昨日、SDカードをいつものようにヒョイと入れたところ、なんだか右の指先に伝わる感触がいつもと違いました。
ん??と思って上半身を右に傾けて見てみると、なんと、CDドライブの挿入口にSDカードを差し込んでしまっており、しかも下に傾いた状態で入ってしまって、SDカードの小さな青い角がほんの1mmぐらい出ているだけでした。

これはえらいことになったと思って、慎重に爪の先でつまんでみたのですが、やはり気持ちが焦っていたのか、取り出すどころかあっという間に中に入ってしまいました。まるで溺れる犬の足をつかみそこねて、氷の張る池の中へ無残に吸い込まれていったようでした。
挿入口はホコリが入らないためか、スポンジ状のものが左右ピッタリと合わさっているため、中の様子を窺い知ることはまったくできません。しかもその間隔は2mmほどだし、パソコン全体もネジ一本緩めるような場所はなく、機械をバラして取り出すことはどうみても不可能です。

この時点で、心臓はどうしようもないほどバクバクし、血圧が上がったか下がったか知りませんが、ともかく真っ青というか絶望的な気分になってしまい、思考力もほとんど停止状態でした。ようやく思いついたのは、事務用クリップを伸ばして先だけ曲げ、それで引っ掛けて取り出そうということですが、これは何度やってもまるでダメで、そもそもSDカードらしきものに触っている感触すらありません。

そのSDカードには仕事上非常に大事な写真が多数入っていることを思うと、あまりに突然のことで、神経の作用だと思われますが両手両足まで痺れてくるのがものすごく不快でした。明日は本体を抱えてアップルストアに行くのかなど、いろいろイヤな想像がめぐります。

そんなとき、ふと思ったのが、ネットで検索でこの緊急事態の解決法が万にひとつもないものかということで、ショックで思うように動かない指先に力を込めて、あれこれの言葉を連ねてキーボードを叩いたところ、同様の目に遭った人の書き込みを発見!
やはり針金のたぐいでは細すぎてダメだとあり、なんと厚紙をコの字型にカットして、それを奥まで差し入れてSDカードごと引っ張りだすというものでした。なるほど!!!と思うや、さっそく机の周りを見渡します。

果たして、これはどうだろうと思ったのが、amazonからCDが送られてきたときに入っていた薄手のダンボールの封筒でした。それを大急ぎで解体し、あまり慌てて怪我をしないよう注意しながらなんとかそれらしきものを作り、さっそく挿入口に差し込んでみますが、なかなか思うようにはいきません。
5~6回やってもダメなので普通なら諦めるところですが、もはや他に手立てがないため、泣きたいような気持ちを抑えながら、それでもひたすら試しました。紙なので、コの字型の付け根の部分がだんだん弱ってきて危なくなってきたころ、天の助けというべきか、ついにSDカードの青色がわずかに顔を出したときの嬉しさといったら、思わず狭い自室で叫びたいほどでした。

今度こそはと慎重の上にも慎重にそれを掴み、ついに無事に取り出すことができました。
世の中には、なんというありがたいことを書いてくださっている方がいらっしゃるのかと、その方にはひれ伏して拝みたいくらい感謝しています。
本当に救われましたが、金輪際こんなことイヤで…非常に疲れました。
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さらにひと手間

タッチが軽く生まれ変わったディアパソンでしたが、喜びもつかの間、想定外の変化が待っていました。

本当に軽くてごきげんな状態にあったのは、厳密にいうとはじめの一日のみで、その後は弾くにつれ、時間が経つにつれ、しだいにまたも粘りのようなものが出てきて、ちょっと様子がおかしくなってきたのです。
「ん?」とは思っているうち、数日後にはあきらかに状態が変わっていることを認識せざるを得ないまでの状態に後退してしまいました。

かといって、完全に昔のタッチに戻ったわけではないものの、軽やかさは潮が引くがごとくみるみる失われてしまったのは事実でした。ダウンウェイトを量るとおしなべて数グラム増加しており、やはりなんらかの変化が起きているようです。
ちなみにダウンウェイトを量る錘は、このピアノをOHしてくださった技術者さんが昔プレゼントしてくださったもので、こういうものがあると、なにかと重宝します。

さっそくBさんに報告すると、すぐに様子を見てくださることに。
果たして、ほぼ全域にわたって粘りのようなものがでているのは、キーを触るなり確認・同意され、さっそく再調整がはじまります。

概ねの見立ては次のようなものでした。

キャプスタンと接するウィペンのヒール部分のフェルトが、キャプスタン位置の修正によって、これまで接触していなかった毛羽立った弾力のあるフェルトの一部を含んでいたため、そこが使われ始めたことで短時間で凹んでしまい、結果的に打弦距離が伸びるなどして変化を起こしたのではないかということですが、あくまで推測の域を出ず断定ではありません。

結局、打弦距離などはたらきと言われる部分の再調整などをあれこれされたようです。

で、3度目の正直ではないですが、再び軽快なタッチを取り戻し、それから一週間ほど経ちますが、今度はとても落ち着いているようです。

タッチも音色も整ったことで、現在はとてもまとまりのあるピアノになりました。
ダイナミックでもゴージャスでもない、むしろ渋みのある控えめな音ですが、これまでが音色がバラバラでまとまらないイメージもあるディアパソンでしたので、いまはかなり端正なフリをして取り澄ましているようにも見えます。

細かい点をあげつらえばキリがないけれど、いちおうの完成形にかなり近づいたと思います。
これでもマロニエ君はあまり深追いはしない質なので、とりあえず満足ですし、やはりBさんのお仕事は見事だと思います。

それにしても、ピアノのタッチというものは、いまさらながら繊細精妙な領域で、各部のフェルトのわずかな馴染みひとつでも全体のタッチ感に思わぬ影響があるなどは驚きでした。
こういう経験は、日常のあれこれの場面においてもものを見る目が変わるようで、たとえば料理でも、素材の切り方、わずかな火加減、調味料のほんのひとふりでたちまち味は変わり、ひいては全体の印象を左右するということにも繋がるような気がします。


さて、昨夜は車仲間のお茶会があり、まったく同じ型の車でも、わずかな製造年の違いなどによって、微妙な、しかし明らかな乗り味の違いがあるのはなぜかということが話題になりました。
その中で一人が言うには、設計からスペック、タイヤやホイールのサイズまでまったく同一であっても、例えばホイール(アルミ)のデザインが違うことで、アルミ素材の違いがあったり、形状の違いから回転時の質量のバランスが微妙に違う、あるいはそもそも重さが僅かでも違えば、それは即ハンドリングや乗り味に影響する可能性があるというのです。

車のバネ下重量(サスペンションに取り付けられるタイヤやブレーキ装置などの重さ)は、一説によれば車体側の重量の15倍に匹敵するといわれており、これはピアノのハンマーの重量が、鍵盤側では5倍に増幅されるのと似ています。やはりすべての複雑で精密な機構というものは、わずかの違いや変化が、思いもよらぬ結果となって現れることは「ある」ようです。

ディアパソンに話を戻すと、タッチの問題なども考慮していることもあって、現在はどちらかというとこじんまりとした穏やかなピアノになっていますが、奥行き210cmのピアノという点からいうなら、もうひとつ腹に響くものが足りていないようにも感じます。
しかし、ディアパソンの醍醐味は、変な色付けのされていない、素材そのものの味を味わう料理のようなものだと思います。それをいうなら、果たして使われた素材がどれほどのものかという疑問もあり、いうまでもなくこのピアノは高級品ではありません。

それでも、現代のピアノが化学調味料満載の味付けによる、コンビニスイーツみたいな設計された味だとすると、ディアパソンには化学によるトリックはなく、素朴で普及品なりの本物であることは間違いなく、だからこそ気持ちがホッとさせられるピアノなのだろうと思います。
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ウエイトレス

とある平日の午後のこと。
仕事の都合で昼食を取ることができず、午後に外出したついでに、軽くなにか食べておこうとマロニエ君とこのときの連れの二人で、某ビルの地下にある中華料理店に入りました。

時刻は16時30分ぐらいで、ちょうど客足が途絶える時間帯なのか、店内に入ったときお客さんはゼロ、準備中かと思ったほどでした。

と、すかさず「いらっしゃいませ~、どうぞ~!」と声がして、ウエイトレスが出てきて奥の席へ案内されました。
奥は通常より床が15cmぐらい高くなったエリアで、壁際には電車のような横長のシートが配され、その前に幾つかのテーブルが並び、それに相対するほうだけ一人掛けの椅子が置かれるという、よくあるスタイル。

こちらもお客さんはゼロでした。
マロニエ君は連れのほうへ奥の席を譲り、一人掛けの椅子に腰を下ろし注文を済ませましたが、無意識に鞄を隣の椅子の上に置き、相方はシートが横長につながっているため、自分の少し横にやはり鞄を置いていました。
それにもうひとつ、やや大きな荷物があり、それをテーブルの真横に置きました。
いま考えても、この状況では特に問題になるようなことではなかったと思います。

するとウエイトレスは注文を聞き取った後、メニューを抱えたまま、「こちらは、ご遠慮いただいてよろしいでしょうか?」とマロニエ君の鞄のことを言い出しました。
さらに畳み掛けるように「それと、こちらのお荷物(テーブルの横においた荷物)は、あちらに置いていただいてよろしいでしょうか?」といささか命令調に言いました。

みると3mぐらい先に、わずかなスペースらしきものがあって、そこが大きな荷物の置き場であるということを言いたいようでした。すかさずウエイトレスは大きな網カゴのようなものをどこからか持ってきて床に置き、「バッグはこちらにお願い致します」というので、やむなくそこに鞄を入れました。
それに続けて相方も鞄を入れようとすると、「あ、そちらはそのままで結構です」といちいちこまかく干渉してくるのが気に触り始めました。

この時点でふたりともかなりムッとしていたのですが、まだ抑えていました。
ところがウエイトレスは、どうでも大きいほうの荷物を向こうへ移動させないと気がすまないらしく、「こちらのお荷物は、あちらにお願いしてもよろしいでしょうか?」と同じ言葉で二度言ってきたので、面倒くさくなり「どうぞ」といって知らん顔しました。要は『そんなにあそこに置きたいのなら、あなたが持って行けば…』という意味ですが、ウエイトレスはお客が「自分で」移動させることに強くこだわっているようで、じっと横に張り付いて、こちらが自分で動くのを待っています。
「なにがなんでも自分の指示に従わせる」ということのようです。

そりゃ、お店が混んでいれば、いわれなくても鞄を隣の椅子の上に置いたりはしないし、あれこれの協力は惜しみません。しかし、繰り返しますが、広い店内にお客は我々を除いて「ゼロ」であるにもかかわらず、飛行機ではあるまいし、なんでこの女性はこうまでムキになってひとつひとつの荷物の位置にこだわり、すべてを自分の采配に従わせようとするのか。

ついにマロニエ君もカチンと来て「どうして、鞄の置き場ぐらいで、そこまでうるさく指示するの?」というと、「は? こちらに置かれていると、他のお客さまをご案内できませんので」と虚しいような建前を振りかざしますが、実際は誰ひとり居ないのですから、これはもう嫌がらせ同然です。
好意的に解釈しても、物事を柔軟に考えることができず、自分はあくまで正しいことを言っているというつもりでしょう。

繁閑の別なく、いつもそうしているのか、荷物はこうだというカタチにさせないと「この人が、個人的感情で気がすまない」のだろうと思います。世の中にはときどきこういう性格の人がいるもので、臨機応変に判断するのではなく、自分こそがカタチで覚えて込んでいるため、状況を問わずそのカタチに収め込んでしまわないと許せないのだろうと思われます。

こういうことに無抵抗では従わないマロニエ君としては、最近はだいぶおとなしくしているつもりですが、大きい方の荷物を手ずから移動させることは、あまりにバカバカしいので絶対にしませんでした。
しかしウエイトレスもさるもので、決して自分で運ぼうとはせず、ついにそのままになりました。

もともと軽く食事でもしようということが、思いがけず嫌な雰囲気になったことはいうまでもありません。相方は「どういうこと? こんな店、食べる気しないですよね」というので、マロニエ君も大いに同感で、まだウエイトレスが立ち去って1分経つかどうかぐらいだったこともあり、サッと席を立ちました。

我々が出口に向かおうとすると、あれだけ口やかましく言ったウエイトレスはぽかんとした表情。その口から出た言葉は「もう、オーダーは通ってますけど…」とさっきよりトーンも低めでしたが、まだやっと鍋を出したぐらいのことはわかっているので、「こんなにガラガラなのに、あんなに命令的に指図をされてまで、食事をする気がしないのでやめます」といって店を出ました。
もう二度と行きません。
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ショパンの本

書店で『ショパンの本 DVD付』というのが目に止まりました。
これは音楽之友社から出ているムックで、この手はどちらかというとあまりそそられないマロニエ君ですが、今回はパラパラやって読んでみたい気になり買ってみることに。

ちなみに、ムックとはWikipediaによれば「雑誌と書籍を合わせた性格の刊行物で、magazineとbookの混成語、和製英語。」とあります。へええ。

本自体は、ショパンの生涯のダイジェストからはじまり、主要作品の解説、エディションや装飾音などについての記述など、ひとつひとつが深く掘り下げているわけではないけれど、ちょっと読むぶんにはそれなりに面白くできていると思います。
とりあえず半分ほど読んだところで、とくに印象に残ったのは矢代秋雄さんの「私のショパン」という文章で、ショパンをピアニズムや響きの美しさでばかり捉えるのは間違いで、その卓越した作曲技法や構成力のすばらしさ、対位法の手腕に高い価値を認める内容はさすがだと思いました。
言い古された安全な内容を、ただ並べ替えるだけのありふれた音楽評論家とはまったく違った、作曲家という創造者としての独自の視点と考えには、学ぶ点が多々ありました。

そうこうしているうちに、付属で綴じられたDVDがスムースにページを繰るにもじゃまになるし、その内容はどんなものだろうかと思い、読むのを一時中断してこっちを見てみることに。

果たしてピアニストの高橋多佳子さんによる演奏と、上記のショパンの一生のダイジェストをさらにダイジェストしたようなものの組み合わせで約60分の音と映像でした。

冒頭、ショパンの生家の写真を背景に初期のポロネーズが流れてきますが、そのピアノの音にぎょっとしてしまいました。かなりギラついた派手な感じの音で、ピアノは調整の仕方や演奏される環境によって音はかなり変わるものだとしても、まずスタインウェイとは思えないし、ベーゼンドルファーはさらに違う、ベヒシュタインのようなドイツ臭さもないし、むろんプレイエルでもない。
消去法でファツィオリか…とも思いましたが、残念ながらその短時間ではついにわかりませんでした。

で、そうこうしているうちにピアノごと演奏シーンが映しだされましたが、なんとそこにあるのはヤマハのCFXで「うわあ、そういうことか!」と思いました。なぜかヤマハというのはまったく念頭になかったので、答えを知ってみれば「なるほど」と思いましたが、あとからそんなことを言っても遅いですね。

善意に解釈すると、ショパンを意識した甘酸っぱい音作りがなされたのかもしれません。
戦前のプレイエルが、ふわっとやわらかな軽い響きの中で、一種独特の、腐敗しかけた果物のような甘い音を出し、それがショパンの音楽に見事にマッチングするのですが、しかしそういう複雑な音色とも違った印象でした。

さて、このDVDを見ていて、ふと目が釘付けになったことがありました。
カメラが鍵盤近くまで寄るシーンが何度かあり、ゆっくりした曲のときにそこで見えた鍵盤の動きです。

ヤマハのCFXなので必然的にピアノも新しいし、鍵盤は一分の隙もなく完璧な一直線に並んでおり、弾かれたキーだけがえらく従順に軽々と下にさがるかと思うと、指の力が抜けたとたん、一気にサッと元に戻ります。
これ、ごく当たり前のことを書いているようですが、その当たり前の動きをつぶさに観察していると、なんだか恐ろしいまでに磨きぬかれた、洗練の極致に達した精巧さというものの凄味をひしひしと感じずにはいられませんでした。

下に降りるときも、ただストンと下に落ちるのではなく、奏者の力加減を常に斟酌しながら、それが正確なタッチの動きとして反映されていて、まるで人間の指とキーのメカニズムがつながっているような動きと言ったらいいでしょうか。
さらに驚くべきは、返り=すなわち鍵盤が元の高さに復帰しようとする動きで、その際のこれ以上でも以下でもないというまさに適正な素早さといったら、見ているだけでほれぼれするような美しい動きで、「指に吸いつくような」とはまさにこういうことなんだと思いました。

マロニエ君はCFXは弾いたことはありませんが、視覚的にこれほど弾きやすそうな様子がこぼれ出ている映像は初めて見たような気がします。
これだけでもこの本を買った甲斐がありました。

音には好みなど主観の部分もあり、単純な優劣を決めるのは難しいものですが、その点でいうと、奏者の意のままになるアクションおよび鍵盤周りというのは、優劣の明快な領域ではないかと思います。
とりわけヤマハのアクションは、おそらく世界最高の精度を持つ逸品なのだろうとあらためて感じ入ったしだいで、ヤマハピアノを買うことの中には、ヤマハの優秀なアクションを手に入れるという意味も大きいのかもしれません。
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ショパンコンクールのピアノ

今年はショパン・コンクールの年だったにもかかわらず、詳しい日程などもよく知らないうちにコンクールは始まり、そして終わっていました。

ネットニュースで韓国のチョ・ソンジンが優勝というニュースを見るにおよんで、ああ彼か…と思うと同時に、ソンジンは日本でもかなりコンサートなどをやっていたこともあり、ショパンコンクールからまったく未知の新人が登場したという新鮮味もないのはいささか残念でもあります。
ですが、最近はすでにステージの経験も積んだセミプロのような同じ顔ぶれが著名コンクールを渡り歩くのが常のようでもあり、まあそういうところか…と思うことに。

終了しているのに今更という感じもありましたが、逐一配信されているはずの動画を探してみると、コンクールのホームページには行き当たったものの、最近はサイトの作りも大掛かりなわりに、単純に動画を見ることが意外に容易ではないようです。

こういうことの得意な人には雑作もないことかもしれないが、めっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、あれこれ苦労している間に興が削がれてきて、だんだんどうでもいいような気になってきたりで大変です。

コンクール自体が終了して、サイトの内容も日ごとに変わっているのどうかわかりませんが、あるとき、出場者と使用ピアノが記された表のようなものを見ることができました(もう一度見ようと思っても、もうわかりません)。それによると例の4社のピアノのうち、今年はヤマハとスタインウェイが大半を占め、カワイはほんの僅か、ファツィオリに至っては一人か二人で、後半の出番は皆無だったようです。

以前どこかのコンクールでは、ファツィオリに人気が集中したというようなことも聞きましたがが、今回はまた一転どうしたわけなのでしょう。

せめて限られた動画だけでも見てみようと、たまたまあった第1次で8人ぐらい出てくる4時間ちょっとの映像があったので、それをかい摘んで見てみました。果たしてそこに聴くヤマハ、スタインウェイ、カワイの順で出てきたピアノは、どれもかなりきわどい感じでマロニエ君の好みとは程遠いものでした。

共通しているのは、コンクール用の特別仕様なのか、やたらパンパン鳴るばかりで深みのない、どちらかというと電子ピアノ的な音で、とくにヤマハなどはいささか疲れてくる感じの音に聴こえますが、そのヤマハを選ぶ人がずいぶん多かったようです。
スタインウェイも似たような傾向で、キーを押せばたちまち会場内に鳴りまくるといった感じで、馥郁たる響きやタッチによる音色の妙などというものは感じられません。
カワイはそこにちょっと東欧的な郷愁のようなものがあるけれど、基本的には似た感じで、3台とも極限までチューンナップされたコンクール用マシンのようなイメージでした。
極端な話、コンクールの間だけ保てばいいというような考え方なのかもしれません。

こうなると、ファツィオリはどんな音だったのか、いちおう聴いてみたくなったものの、これがなかなかうまくいきません。

あれこれ探しているうちに、どなたかのブログに行き当たり、コンクールのピアノを担当した技術者にインタビューというのがあって、それを読んでいると、ファツィオリの有名な日本人技術者によれば、ショパンらしくあたたかい音に調整したアクションと、もうひとつチャイコフスキーコンクールで使ったアクションを準備していたところ、他社のピアノの傾向からショパン用のアクションは陽の目を見なかったというようなコメントが目に止まりました。

ピアノメーカーも戦いというのはわかりますし、出る以上は選ばれて弾かれないことにははじまらないのもわかります。でも、それがあまりに過熱してしまうと、それぞれのピアノの本来の持ち味というより、ショパンコンクール仕様の特別ピアノの戦いという限定枠バトルという感じで、そう割り切っておけばいいのかもしれませんが、なんとなくマロニエ君は釈然としないものも残ります。

もちろん企業たるもの、きれい事では立ち行かないのが世の常ですが、理想のピアノの追求というものとは、少し方向が違っているような印象を覚えます。むろん現地で聴けば素晴らしいものかもしれませんが。

気になったのは、あれだけ製品に自信満々だったファツィオリは、more powerをもとめて早くもフレームなどのモデルチェンジを敢行したとのことで、奇しくもマロニエ君がパワーピアノだと感じたチャイコフスキーコンクールでのファツィオリはそのニュータイプだったそうで、どうりでと納得でした。

コンサートグランドたるもの、大きなホールでオーケストラにも伍して使われるピアノなので、力強い鳴りというのもわかるけれれど、だんだんラグビー選手のようなマッチョピアノになっていくとしたら、個人的には嬉しいことではありません。

どんなピアノが選ばれるのか、どんなピアニストがどんな演奏で入賞するのか、どんな絵や小説が賞をとるのか、すべてはまず情報戦というか、それに特化した戦いの色合いを帯びてきているこの頃、やたらと先鋭化するばかりで、どうも素直に楽しめないものになってしまったようです。
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軽くなりました!

9月の中旬からスタートした調律師Bさんによるタッチの改善作業は早くも5回目を迎えました。

ピアノの調整というものは、やりだすと際限がないものですが、いちおうの山も見えてきたことでもあり、マロニエ君としては願わくはここらで一区切り(終りという意味ではなく、あくまでも区切り)をつけていただければと考えて、できれば整音と調律までやっていただきたいとお願いしてみました。

今回はキャプスタン位置修正後、未完となっていた調整作業の続きが第一の目的でしたが、このさい調律もしてもらって、いちどきれいに整った音で弾いてみたくなったのです。
その結果を含めながら先に進みたいという目論見です。

今回は約4時間ほどの作業となりましたが、その結果はというと、懸案であったタッチ改善は大成功で、長年背負ってきた荷を下ろしたように軽快になり、めでたくこのピアノのオーバーホール以来、最も弾きやすい均一なタッチを獲得するに至りました。

さらに整音と調律がなされたことで、これまでとはかなり違った表情をみせるピアノへと変貌し、ついにここまで来たか!と思うと、その長かった道のりは感慨もひとしおでした。

ダウンウェイトを計ってみると、概ね50g未満となっており、もはやスタインウェイ並の数値です。
もともと重い部類に属するディアパソンとしては、これは望外のものであるし、タッチの感触も軽快で、フレーズの終りなど手首を上へ抜いていくような局面でも、細やかにきちんと表現できるものになったことは予想以上でした。

なにより特筆大書すべきは、鍵盤の鉛調整であるとか、ハンマーを軽いものに交換もしくは整形によって軽くするなどの方法は一切とられていないという点です。
以前にも書いたように、ずれていたキャプスタンの位置を修正した以外は、ひたすら各部各所の調整によって達成されたもので、これはピアノの整調において、最もオーセンティックなやり方であったと思います。

マロニエ君は、Bさんの技術者としての思慮深さと、結果に対して尊敬と感謝の念を禁じえません。やはり中途半端に諦めてはいけないということであり、単に嬉しいだけでなく、いい勉強にもなったというのが率直なところです。

重く暑苦しいタッチに慣れてしまったためか、はじめは戸惑うほど楽々とキーが沈み、かつ速やかに元に戻ります。しかもpやppもなめらかでコントローラブルであることは、Bさんの技術の奥深さと技術者魂をまざまざと感じます。

軽くてもストンと一瞬で下に落ちてしまうタッチでは、強弱や音色のコントロールがしづらく楽しくありませんが、入力に対していかようにも反応してくれるタッチは、自分の体とアクションがダイレクトにつながっているみたいで、とくに装飾音などがきれいにキマってくれたりすると、弾いていて俄然楽しくなります。

実はマロニエ君は、以前にも経験があったのですが、冴えないタッチを改善するための策としては、特にこれという特効薬のような技法があるのではなく、セオリー通りのきちんとした調整を忍耐強く積み上げることによって、ようやく達成できるものということを理解したことがありました。
そうはいっても、ピアノの調整はプロの専門領域なので、技術者の方の判断こそが決め手となり、持ち主は何の手出しもできません。そのためにこういう難所を越えられないまま、ずっと弾きにくい状態が続いているピアノはものすごくたくさんあるはずです。

そういう意味では、ホールのピアノの保守点検などは、いわば調整領域のオーバーホールみたいなところを含んでいると思われ、これは確かに必要なんだということが痛感させられます。

我が家のディアパソンでは、結果として対症療法的な解決ばかりを探っていたのかもしれず、かくなる上はタッチレールというアシスト装置の取り付けすら考えていたわけで、今回は、そのタッチレールを取り付けるかどうかを判断する、最終確認という意味もあったので、きわどいところだったという気もします。

ではこれで終りかというと、どうでしょう…そうでもあるような…ないような、問題がないわけではないけれど、あまりそういうことにばかり気持ちが行っていると、一番大切な「ピアノを楽しむ」という部分が置き去りになってしまうので、しばらくはこの状態を楽しむべきだと思っているところです。

持ち主が楽しめば楽しむだけ、当人はむろんのこと、ピアノも幸せであるし、なにより技術者さんも腕をふるってくださった甲斐があるというものですから。
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CDいろいろ

ピアノがお好きな知人の方から、ひさびさにたくさんのCD-Rが届きましたので、その中から印象に残ったことなど。

イーゴリ・レヴィットというロシアのピアニストは、CDを買ってみようかどうかと迷っていたところへ、今回のCDの束の中にその名があり、これ幸いに初めて聴いてみることができました。
曲はバッハのパルティータ全曲、奇をてらったところのないクリアないい演奏だなぁというのが第一印象。
いまどきメジャーレーベルからCDを出すほどの人なので、技術的に申し分ないことは言うに及ばずで、安心して音に乗っていける心地良さに惹きつけられました。

近年、いわゆるスター級の大型ピアニストというのはめっきりいなくなったものの、それと入れ替わるように、音楽的にも充分に収斂された解釈と、無理のない奏法によって、趣味の良い演奏を聴かせる良識派のピアニストがずいぶん増えたと思います。

レヴィットは、他にベートーヴェンの後期のソナタやゴルトベルク/ディアベッリ変奏曲なども出ているようなので、おおよそどんな演奏をする人かわかったことでもあるし、近いうちに買ってみようとかと思っています。

それにしてもロシアのピアニストも新しい世代はずいぶん変わったものだと思います。
20世紀後半までは巨匠リヒテルを筆頭に、ときに強引ともいえるタッチでピアノをガンガン鳴らし、どんな曲でも重量感のあるこってりした演奏に終始したものですが、それがここ20年ぐらいでしょうか、見違えるほど垢抜けて、スマートな演奏をする人が何人も出てきているようです。
少なくとも演奏だけ聴いたら、ロシア人ピアニストとは思えないような繊細さを、ロシアのピアノ界全体が身につけてきたということかもしれません。

ほかには自分では買う決心がつかなかったヴァレンティーナ・リシッツァのショパンのエチュードop.10/25全曲がありました。

この人はまずネットで有名になり、YouTubeに投稿された数々の演奏が話題を呼んで、そこからCDデビューを果たしたという、いかにも現代ならではの経歴を持つ人です。
そのネット動画でチラチラ見たことはあったものの、CDとして聴いてみるのは初めてのこと。

ムササビのようなスピード感が印象的で、それを可能にする技術は大したものですが、すごいすごいと感心するばかりで、好みの演奏というのとは少々違う気がします。どちらかというとトップアスリートの妙技に接してようで、そういう爽快さを得たい向きには最高でしょう。

あくまでも卓越した指の圧倒的技巧がまずあって、音楽的抑揚やらなにやらはあとから付け足されていった感じを受けるのはマロニエ君だけでしょうか…。
一音一音、あるいはフレーズごとに音楽上の言葉や意味があるのではなく、長い指が蜘蛛の足のように猛烈に動きまわることで、いつしか精巧なレース編みのような巣が出来上がっていくようで、そういう美しさはあるのかもしれません。

それでも曲によってはハッとさせられるものがあることも事実で、個人的に最高の出来だと思えるのはop.25-12で、まさに「大洋」の名のごとく、無数の波のうねりがとめどなく打ち付けてくる緊張感あふれる光景が広がり、その中で各音が細かい波しぶきのように散らばるさまは圧巻というほかなく、素直に感嘆しました。

いっぽうテンポの遅い曲では、やむを得ずおとなしくしているようで、やはりスピードがアップし音数が増してくると本領発揮のようですが、音色や音圧の変化、ポリフォニックな弾き分けなどは比較的少なめで、音楽的な起伏という点ではわりに平坦で、均一な演奏という印象。
楽器や技術者に於いては「均一」は重要なファクターですが、演奏においては褒め言葉にはなるかどうか微妙なところですね。

リシッツァとはおもしろいほど正反対だったのが、故エディット・ピヒト・アクセンフェルトによる同じくショパンのエチュードop.10/25全曲でした。
冒頭のop.10-1から、一つ一つの広すぎるアルペジョをせっせと上り下りするのは、聴いているほうも息が切れるようですが、その中に滲み出る独特の味わいがありました。

リシッツァでは上りも下りも風のひと吹きでしかないのに対して、アクセンフェルトは一歩一歩大地を踏みしめていくようで、各音の意味や変化を教義的に説かれているみたいです。
世の中にあまたあるショパンのエチュードの録音は、きっとこの両極の中にほとんど入ってしまうのかもしれません。

あれ?…まだたくさんあったのに、これだけで終わってしまいました。
また折々に。
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『ピアノのムシ』3

『ピアノのムシ』の中に描かれているあれこれの内容は、多くのピアノ技術者および業界が抱える内なる心情が澱のように堆積していること、すなわちピアノを取り巻くの社会の恒常的不条理をマンガという手段を得て、おもしろおかしくフィクション化したものだと思います。

主人公の蛭田は、とてもではないけれど実社会では通用しそうにない不適合人物として描かれながらも、このマンガの中の真実を伝えるナビゲーターとして縦横に動き回ります。ここでの蛭田のワルキャラは、いわば意図された偽悪趣味なのであって、本当のワルはいずこやという点が、まるで対旋律のように流れており、これこそがこのマンガの核心であることは明白でしょう。

大手メーカーと小さな販売店の関係。あるいは販売店同士の戦い。
いたるところに見え隠れする卑怯で悪辣な手口。
ホールの官僚的な管理体制と、そこにつけこんで結託する指定業者の壁。
すべてを調律師のせいにするピアニストはじめピアノを弾く人達。
無理難題をサディスティックに押し付けてくる大メーカーや各関係者。
実力もないのに勘違いでピアノを弾くピアニスト。

いっぽうで、専門性を武器にお客にウソをも吹き込んで、無用の修理や買い替えを迫る技術者。
楽器の特質を知らず、却ってピアノをダメにしてしまう技術者。

とりわけお門違いの要求やクレームをつけてくる演奏者側のくだりは、マロニエ君も伝え聞いて知っていることも少くないし、いずこも同じらしいことを痛感させられます。

また調律師ばかりが被害者というのでもなく、これ自体もピンキリで、ピアノの修理に疎い客が、悪徳技術者に弄ばれることにも警鐘を鳴らしています。これをして「調律師と詐欺師は紙一重」だとまで言い切っているのは痛烈です。
調律師の個人的な悪行もあれば、メーカーの営業サイドの思惑を背負わされたケースもあり、まあどんな世界でも油断はできないということですね。

各場面で発射される蛭田の暴言の中には、実はとても聞き逃すことのできない、物事の深いところを突いた言葉が散見されます(具体的には書くのは控えますが)。
蛭田は、楽器メーカー、大手販売店、ホール、ピアノのユーザー、ピアニスト、ピアノ教師、さらには今どきの同業者など、ピアノ業界を生きていく上で避けては通れないもろもろの人物の大半を、一様に見下して軽蔑しているのでしょう。

しかも、それが本質においては勝手な決めつけではなく、蛭田の主張のほうがよほど常識的で、正当な根拠のある場合が多く、いちいちニヤリとさせられます。
それを蛭田というはみ出し者のキャラクター、さらには一見無謀な態度にかぶせながら、実はちゃっかり真実を語っているあたりは、なるほどマンガの世界にはこういう表現方法があるのかと感心してしまいます。

蛭田の痛烈な罵詈雑言の数々は、まともな技術者なら一度は言ってやりたい誘惑(衝動?)にかられる本音であり、場合によっては「叫び」なんだろうと思います。

蛭田には、調律師の国家資格もなければ、エメリッヒ(おそらくスタインウェイ)の認定技術者でもなく、調律師の協会すら所属していません。
肩書なんぞ「うそっぱち」というところでしょう。
実力ひとつで勝負しているまさに一匹狼というわけですが、その勝負にすら積極的ではなく、ほとんど世捨て人同然の生き方をする中で、唯一熱中するのが格闘技観戦というのもわかる気がします。
自分の身を置く世界には何ひとつ希望はないという諦観の表れかもしれません。

そういえば、マロニエ君の知る調律師さんの中にも、ピアノの音や響きには人一倍のこだわりがありながら、いわゆる群れをなさず、趣味はなんとボクシングという猛者がおられるのを思い出しました。
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うたかたの軽快

位置のズレたキャプスタンを調整するため、ディアパソンの鍵盤一式を持ち帰っていただいて1週間余、作業は無事に終わったとのことで、いよいよ「矯正」されて戻ってくる日を迎えました。

我が家は外の入り口から玄関まで階段があり、調律師さんと二人、これをエッサエッサと抱えて上まで登るのはなかなかに骨の折れる力仕事です。無事にピアノ前の椅子に置いて手を離したときは、両肩が上下するほど息遣いも荒くなりました。

近ごろは女性のコンサートチューナーも増えていると聞きますが、さらに奥行きのあるフルコン用の鍵盤一式を自在に動かせないとこの仕事はできないでしょうから、かなり大変だろうなあと思ったり。

さてさて、果たしてどんな結果になるか興味津々ですが、さすがにマロニエ君も、この領域は期待した通りに右から左に事が進むことはなかなかないことを自分なりに経験してきているので、単純にさあこれで解決というようには思わないぐらいの覚悟は一応ついています。

それでも、ズレていたものが正しい位置に戻ったことによる良さはきっとあるはずなので、期待はまず半分ぐらいに抑えながらキーに触れてみると、ん?!?
ホ、かるい!
少なくともこのピアノと過ごした数年の中で、一度も経験したことのなかった軽さに到達できていることに、嬉しいとも驚いたともつかない、むしろじんわりした達成感が遅れてやってくるような…不思議な気分になりました。

長らく預けていたこともあって、あれこれのチェックや調整もしていただいたようで、この軽さがキャプスタンの位置の修正のみによるものではなかろうと思いますが、とにかく、軽くなったことは間違いなく今眼の前にある事実なわけで、ひとまずは大願成就というところで胸を撫で下ろしました。

マロニエ君としては、ひとまずこれで充ーー分満足なのですが、調律師さんとしては、仕上げた鍵盤一式をポンとピアノへ放り込んでハイ終わりというわけにもいかないようで、ここからまたピアノに合わせてさらなる現場調整と相成ったのはいうまでもありません。

こちらは何はともあれ、軽くなったことばかりを喜んでいるわけですが、聴けば鍵盤がやや深めになっているとかで、工房での作業時の状態と、実際のピアノの棚板に置いた状態では微妙な違いが出てくるのだそうで、要するにそのあたりの調整作業に取りかかられました。

しばらくののち、一区切りついたところで弾いてみると、ん?んんん?
軽くなったはずタッチがまた少しネチャっとしてきたようで、さっきのはつかの間の喜びだったのかと思いました。
調律師さんももちろんこの変化はすぐに感じ取られ、その後もあれこれの調整をされましたが、あいにくとこの日は時間切れとなり、少し挽回したところでまた次回へ持ち越しということになりました。

不思議なのは、最低音から五度ぐらいの間はひじょうに軽やかなのに、そこから上になると、しだいに変な粘りみたいなものが出てくるという状況です。一度はひじょうに軽快になったことは事実だったので、状態としてはそこまできていると思われ、再度の調整に期待することになりました。
本音をいうと、軽くなったところで微調整はそこそこにして、整音と調律をしてもらって、ひとまず気持よく弾いてみたいものですが、要はここらが自宅での作業の限界を感じます。我が家がクレーンの必要ない環境なら、ピアノごと調律師さんに預けたいところです。


余談ですが、季刊誌『考える人』の2009年春号に掲載された松尾楽器の技術部長の方の談よると、整音に使うピッカーの針は通常3本なのに対して、この方がフェルトの幅に沿ってより均等にゆるませるために針数をふやしたピッカーを作ってみたところ、良い結果がでたというようなことが書かれています。

雑談中、たまたまそんな話になったところ、「あ、私も自分で作って持ってます」と無造作に工具かばんをゴソゴソされて、果たして何本もの「それ」が目の前に出てきたのにはびっくりでした。

技術者というのは皆さんすごいもんだとあらためて思いました。
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ペライア雑感

Eテレのクラシック音楽館で今年のNHK音楽祭から、ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団とマレイ・ペライアのピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を視聴しました。

ペライアはレコーディングされたものに関しては、主だったところはだいたい聴いてきたつもりですが、初期を除くと、きれいなんだけどよくわからないピアニストだという印象があります。
いつだったか指の故障に見舞われて、演奏活動を休止したことがありましたが、見事に復活して今日に至っているのは幸いですが、ピアニストとしての方向性というか定めるべき本質のようなものはずいぶん変質してきたというのが率直なところでしょうか。

マロニエ君にとってはこの指の故障前までのペライアはそれなりに好きなピアニストだったし、彼がどのような演奏を目指していたのかもわかるようで、素直について行くことができました。
デビュー盤(正確にそうかどうかは知りませんが)のシューマンの清冽さ、イギリス室内管弦楽団とのモーツァルトのピアノ協奏曲全集はこの時期の出色の演奏だったと思いますし、いまでも時折聞いているディスクです。

マロニエ君のおぼろげなペライアのイメージとしては、アメリカ出身のピアニストとは思えぬキメ細かな配慮、趣味の良いリリックな語り口、こまやかで緻密に動く指と幸福な美音で聴かせるピアニストで、強いていうなら、リパッティの後継者のような印象と期待をもって眺めていた覚えがあるのです。

しかし、当時からベートーヴェンなどになると、やや軽量な感じが出て、表現にもエグさが足りず、こちらの方面には向いていない人だという印象でした。

当人はそれに満足しなかったのか(一説にはホロヴィッツの助言もあったなどといわれていますが)、よりヴィルトゥオーソ的な技巧面に踏み込みはじめ、しだいに大曲なども手掛けるようになります。そうかと思うと、バッハやショパンにまでレパートリーを拡大していくのは、ますます異質な気がして首を傾げました。

もちろんその間のペライアの考えだとか、個々の事情などはわかるはずもありませんが、ともかく表に出てくるものは、専門店がだんだんデパート的になっていく感じとでもいえばいいでしょうか。

昨年のソロリサイタルや、今回のベートーヴェンの協奏曲4番も、ペライアが本来生まれ持った資質(やや小ぶりだけれどもとても美しいもの)の枠をはみ出してしまったようで、聴いていて何か収まりが悪いというか、演奏構成の弱さが感じられてしまうのです。
誤解しないでいただきたいのは、ベートーヴェンの4番がペライアの技量以上の作品といっているわけではなく、彼がやろうとしているパフォーマンスの目指すところが、潜在的な資質とは食い違ったもののように聴こえるということです。

喩えていうと、室内楽向きの優れた中型ピアノでチャイコフスキーやラフマニノフの協奏曲を弾くような、シューベルトの歌い手がヴェルディのオペラを歌うような、器の限界を超えてバランスを崩すようなものでしょうか。
生来の器にそぐわぬ「無理してる感」が、どうしても安心して聴けない原因なのかも。
指はよく動いて、テキストの流麗な美しさを追いかけるのはお手のものですが、上モノが重すぎると腰の座った演奏にならずに、作品の持つ内奥へどうしても入っていけません。

それでも、ペライアの出すブリリアントな音には品位があり、渦巻くような装飾音やスケールのたとえようもない美しさなどは健在で、このあたりはさすがというほかありません。ペライアのピアノは、演奏を通じて作品の核心に迫るというより、この随所に出てくる極上の装飾音やスケールに魅力があり、それを耳にするだけで価値があるのかもしれません。

ただし、フォルテシモなどでは上から叩きつけるような強引な弾き方になるのは、この人にそぐわない猫パンチみたいで、あまり無理をすると、また手の故障になりわしないかと要らぬ心配をしてしまいます。

ついでながら、以前もインタビューでベートーヴェンの熱情ソナタを何かの物語に喩えた発言に首をひねりましたが、今回は第2楽章が「オルフェオとエウリディーチェ」なんだとか、…。
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本当にかんたん

すでに先々週のことですが、注文から3日ほどした頃、ブルーレイレコーダが届きました。
が、自分で取り付けることを考えると気が重く、すぐに開けてみる気にもなれません。

さらには、これまで使っていたDVDレコーダのHDDの中には、まだ視ていない番組がゴロゴロたまっているので、それをどうしたものかというのも正直なところ。

下手に取り外して、新しいレコーダを首尾よく取り付けられなかったら、その時こそ視ることも録画することもできなくなるわけで、それを思うとつい一日延ばしになってしまいます。

むかしとは違い、なんでもコンセントに差し込めば使えるという時代ではなく、パソコンの周辺機器を取り付けるだけでも、設定やらなにやら、頭が痛くなりそうな操作の連続という記憶があります。もともとその方面の自信はないし、現在のテレビとレコーダの時もお店の人がやってきて、画面を見ながらずいぶんややこしい設定作業をやっていた記憶があるので、考えただけでうんざりでした。

…では、取り付けの自信もないのに、なぜネット通販で買ったのかというと、レコーダの取り付けはシロウトにも可能か?というたぐいの検索をしてみると、異口同音に「かんたん!」「だれでもできる」「小学生でもできる」などと事もなげに書かれているので、そうなんだ…と思い、安さの魅力もあってこちらで購入してしまったしだい。

それでもなんとなく手をつけるのが億劫であることに変わりはなく、送られてきたままの姿で数日放っておくと、ついに家人から「いつになったら取り付けるの?」と言われ出し、よく聞いてみると、BSが復活するのをずっと「待っている」のだそうで、ついに覚悟を決めて着手することに。

箱を開け本体を取り出してみると(今どきの機械はどれもそうですが)、スペックは格段に進歩しているにもかかわらず、よりコンパクトで、軽くて、はじめはなんとなく物足りないような感じがします。くわえて、作り自体も新しくなるだけ明らかに安っぽくなっていくようで、こういうところにも時代を感じるものです。

まあ、壊れたらパッと買い換えるには、このほうが未練も残らずいいかもしれませんが。

さて、慣れない作業をするには準備が大変で、背後に刺さっているコード類を間違えないようにクリップで目印をつけながらおそるおそる引き抜いて、同じように新しい機械に差し込むと、これは意外に短時間で済みました。
しかしチャンネル設定などが大変だろうから、ここからが本番だと思って取説片手に画面を操作してみると、なんのことはない、指示にしたがって「はい」か「いいえ」のボタンを何度か押し、郵便番号などを入力するだけで、スルスルと終わってしまいました。

「だれでもできる」というのはまさしく本当で、逆に、こんなことをするだけで大型電気店では4000円も取るのかと思いました。
数年前とはずいぶん様子が変わっているようで、悩みの種であったチャンネル設定などは、機械のほうですべて自動的にやってくれるようで、このあたりはさすがに技術の進歩が身にしみました。

初めての経験は、2番組同時録画という機能で、さっそくこれを試してみたところ、たしかに同時刻に2つの番組が両方録画されているのは感動的でした。
毎週連続して録画する番組の同時刻に、これは録画しておきたいというようなこともたまにあると、二者択一に悩ませられたものですが、これからはその必要もないわけで、こういうときはやはり新しい機械はいいなぁと思う瞬間です。

それでも、HDD内は空っぽで、これから順次たまっていくとは思うものの、見るものがないというのは心細いものがあります。
録画したい番組は実はそうそうないので、旧に復するにはひと月はかかるかもしれません。
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芸能人化?

知人がコンサートに行って、一通りでなく憤慨して帰って来られたようでした。

その方はユンディ・リのピアノリサイタルに行かれたものの、そのあまりの演奏の酷さに驚き呆れ、その不快感が翌日になっても収まらず、まだ続いているというのです。

曲目はオールショパンで、バラード全曲や24の前奏曲などであったようですが、冒頭のバラード第1番から、まったくやる気のない演奏で、「この人、ピアニストをやめるつもりか…?」とさえ思ったといいます。

どの曲でも楽譜を平置きにして、それを自分でめくりながら弾くというもので、大きなミスがあったり、パッセージごとすっ飛ばされたりと、とても本気で弾いているとは思えないもので、会場もまったく盛り上がらず、拍手もまばらだったといいます。
とりわけ24の前奏曲はCDの新譜が出たばかりで、普通なら時期的にもよほど手の内に入っているのが普通であるのに、この日のユンディ氏はこれの暗譜もおぼつかないといった様子で、ずっと楽譜を見ながらという状態が続いたそうです。

今も日本ツアーが全国各地で開かれるようですが、リサイタルという名のもとにギャラを取りながら練習しているといった風情で、自分の名声をどう思っているのかと首を傾げるばかりです。

ソロリサイタルでも、楽譜を見ながら弾くこと自体が悪いことではなく、晩年のリヒテルはじめ、ルイサダ、メジェーエワなど、現役でも楽譜を置いて弾くピアニストはいますし、楽譜を見て弾いたからといって、即それが非難されるものではありませんが、ユンディ氏の場合、どうもそういうこととは様子が違うようです。

むろんピアニストも生身の人間なので、上手くいくときもいかないときもあるし、気分が乗らないこともあるでしょう。しかし、いったんステージを引き受けた以上、プロの世界が厳しいのは当たり前。とくに一流人は、どんなに調子が悪くても「演奏クオリティの最低保証」ができないようでは、ステージに立つべきではありません。

わけてもユンディ氏は、ショパンコンクールの優勝者で、ドイツ・グラモフォンの専属アーティストで、世界を股にかけて活躍する第一級のピアニスト、チケット代も最高クラスのひとりですし、当然それに相当するギャラをしっかり受け取っているはずです。

ちなみに知人が聴いたのは3階のB席で9000円、S席は13000円だそうです。
しかも多くの人は数カ月前から前もってチケットを購入して楽しみにしていたのはもちろんのこと、この金額ともなれば、それなりの演奏を期待しているのは当然です。音楽的アプローチやセンスや解釈が合わないことはやむを得ませんが、無気力な演奏で惨憺たるステージになってしまうというのは、いったいどういうことなのかと思います。

そんな話に呆れていると、別の友人が変な話を持ってきてくれました。
11月2日(月)のYahoo!ニュースによると、この福岡シンフォニーホールでのリサイタルのわずか二日前、ユンディ氏はソウルでショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏中、指が止まってしまうというアクシデントがあり、それを「指揮者とオーケストラに責任転嫁した」と報じられた由。それはブログで本人が否定と謝罪をしたけれど、韓国での批判は収まらず「芸能界で悪ふざけしすぎ」「芸能人だから練習するひまもない」「サイドビジネスが忙しいようだ」「ラン・ランを見習うべき」といったコメントであふれているとあります。

それに関連して他の記事にも目を向けると、まだありました。今年10月に開催され終了したショパンコンクールにおいても、ユンディ氏は史上最年少の審査員に抜擢されながら、そのうちの3日間を欠席したというもの。その理由というのがちょうどこの時期に上海で行われた人気俳優とモデルの結婚式に出席するためというのですから、こちらも「恥さらしな行為」として大ブーイングだったようです。

さらに別の記事(Record China)によると、最近のユンディ氏は女性スキャンダルばかりが話題で、台湾女性、中国の人気女優、香港の女優など次から次にお相手を変えては世間を騒がせているといいます。
もちろんクラシックの音楽家が聖人君子であるなどとは思ってもいませんし、多少のことはむしろ大目に見られる世界だろうと思いますが、なんとなく全体として受ける印象が、あまり気持ちのいいものではないのも事実です。
「かつては記者に追いかけられ、スキャンダルを捏造される被害者的な立場だったが、最近では進んで話題を提供し、自らを“娯楽化”していると批判も浴びている。」ともあります。へええ。

世界的な演奏家などが、ある意味何をやっても許されるのは、あくまでも本業において一流の仕事をやってのけることへの代償としてですから、肝心のピアノがボロボロになるようではだれも見向きもしなくなるような気がします。
せっかくあれだけの才能がありながら…惜しいことです。
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油断禁物

ある日突然、BS放送が一切映らなくなりました。
我が家は地上波の放送はケーブルテレビですが、BSはベランダにアンテナを取り付けてそこから受信しています。

このBSアンテナのすぐそばに木があって、枝葉が茂ると受信電波を阻害するので、今回もそれだと思って「高枝切り」を使って可能な限り周辺の枝を切り落としました。

高枝切りというのは自重もある上に刃先との距離があるぶん、作業はやり辛く、腕から肩にかけてガクガクに疲れるので、できるだけやりたくないのですが映らないとなればやむを得ません。
「さあこれでよし!」というわけで勇んでテレビをつけてみますが、果たして何の変化もなく、あいかわらず画面には「受信できません」という無情な警告が出るばかり。

それで購入した電気店に電話したところ、アンテナの調整に来てくれることになりました。
テレビとアンテナの間を何往復もしたあげく、設定などもやり直した結果、めでたくBSは復活し、出張料や作業代を支払って一件落着となりました。BSの電波受信もすこぶる良好とのことで、その点も一安心でした。

…のはずだったのに、それから数時間後、なんとなくBSにしてみると、なんと、また「受信できません」の警告が出ていることに愕然!
すぐに電話しましたが、その日はどうしても他の予定があるというので、翌日また来てくれて、DVDレコーダ内のBSアンテナ設定というのが「切」になっていたというので、「入」にすると映るようになるようです。

で、その設定画面の呼び出し方なども教えて帰って行かれましたが、信じがたいことに、また時間を置くと「受信できません」となり、どうやらひとりでに設定が「切」になってしまうようでした。それを伝えると、受信状況に問題はないことからも、レコーダの故障以外には考えられないということでした。
やむなくレコーダの修理受付に電話したら、出張代+修理代で、金額も見てみないとわからないということで「できれば買い替えられたほうが…」という決まり文句を聞かされる羽目に。

店側に残っている記録によれば、購入後7年が経過しており、それを修理するより、もはやブルーレイレコーダでも買ったほうが得策だというのもたしかに一理あります。出たてのころはずいぶん高かったブルーレイレコーダも、今では安いものなら3万円台からあるようで、さらに機種によっては容量が1TB(現在の250MBから一気に4倍)となったり、2番組同時録画なども可能だったり、なんと無線LAN機能のある機種同士なら別の部屋のレコーダと内容を共有することもできるなど、いま使っているものとは比較にならない多機能ぶりのようです。
ブルーレイレコーダは、これまでのDVDディスクの再生も可能だというので、それならDVDレコーダにこだわる必要もなく、けっきょく新しく買うことになりました。

できれば前回同様の大型電気店で買って、5年保証などのアフターサービスなどにも期待したいという漠然とした考えがあったのですが、よくよく話を聞いてみると、いざ故障というときは来てくれるのではなく、自分で店舗まで機器を持って行かなくてはならない(ということは取りにも行く?)など、その内容は期待ほどではないことがしだいにわかってきました。

近くの店頭で購入しても、いざ故障したときはそんな手間隙がかかるならメリットも薄らぐようで、ネットでもっと安く買ったほうがよほどせいせいするというものです。
ネットでは、これというお目当ての機種は4万円台前半で買えるのですが、これを店頭で買うと、どこも6000円から10000円ほど高くなり、しかも取り付け料も数千円が別途請求とのこと。ふーん…。

で、ネット購入に絞ったわけですが、こっちにもオプションで5年保証というのがあり、それに加入するには、これもまた店によって差がありますが、おおよそ3000円ぐらいが相場のようでした。
せめてこれぐらいは付けておいたほうがいいかなと思いつつ、遠方の店から通販で買った場合、どういう流れで保証を受けるのか気になったので直接電話して聞いてみることに。

その結果わかったことは、1年以内はメーカーの保証を使い、それ以降5年以内に発生した故障に関しては、購入店ではなく「保証会社」へ自分で連絡して手続きを行うというもので、機器も自分で取り外して、自分で梱包して、メーカーの修理受付の手続きをした上で発送するという、要するにすべての作業を自分の手でおこなうというものでした。

さらに手続き開始から修理完了まで、早くても2週間、場合によっては一ヶ月ほどかかることもあるらしく、その間は当然ながらレコーダは無しの状態になるわけです。代替機のことを聞くのは忘れていましたが、あの調子ではそんなものあるはずがないという印象でした。
それでもいいという方もいらっしゃるかもしれませんが、マロニエ君にしてみれば「そんな面倒くさいこと、ヤなこった!」というのが偽らざるところです。

ちなみに「安心」や「信頼」を標榜する大型電気店とどこが違うのかというと、どちらもメーカーで修理することに変わりはなく、大型店では修理の受付を店頭窓口で代行するという、たったそれだけの事!のようです。要するにネットで買ってもメンテ上のデメリットはほとんどなく、購入価格が安いだけマシだというのが率直なところです。

5年保証などと謳い文句だけは尤もらしいけれど、実際にそれを使うとなると、煩雑きわまりない現実が待っていることがわかって、自分の性格からしても、そこでまた不愉快やストレスでヘトヘトになるのは目に見えており、これもやめてしまいました。フウフウいったあげくに一ヶ月もビデオのない状態になるくらいなら、安いレコーダでも買ったほうがマシかもしれません。

なんだかトリックのようで、印象としては、安心や信頼とは真逆の、なにかにつけ気を許せない世の中だなぁという後味だけが残ります。こんなことも「自己責任」ってやつかと思いますが、何にしてものほほんとはしていられない時代なんだなあと思うばかりです。
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ふたりの達人

今年後半になって、我がディアパソンの調整は新たな段階を迎え、Bさんというディアパソンに精通された技術者さんに来ていただくようになったことはすでに書きました。

これまでに2回、計7時間ほどかけて基本的な部分に手を入れていただきましたが、つい先日3回目を迎えました。
今回は、BさんがさらにCさんという技術者さんを伴っての、お二人での来宅となりました。

ご当人の了解を得ていないので、Cさんがいかなる方であるかの詳しい記述は差し控えますが、ひとことで云うと数年前まで浜松のディアパソン本社でお仕事をされていた方です。
Bさんとしては、さらにディアパソンの大御所の意見も聞いてみようということのようですが、こんなお二人が揃うという事じたい、浜松や東京ならいざ知らず、福岡では僥倖に等しいような気がします。

しばらくは黙って音を出したり、あれこれの和音を鳴らすなどのチェックを繰り返されましたが、その後はBさんとお二人での協議が続きました。

その結果は、ウィペン下部のサポートヒール部分とキャプスタンの位置が大きくずれている事がタッチがスッキリしない原因ではないかという点で、見解はほぼ一致したようでした。

これを正しく説明する自信はありませんが、あえて挑戦してみます。
キャプスタンは鍵盤奥のバランスピン(支点)よりさらに奥側に取り付けられた、金色の小さな円柱状の金属パーツで、上部はもり上がるようになめらかなカーブがつけられています。
このカーブの真上に位置するのが、アクションの要であるウィペンです。そのウィペン下部のサポートヒールという出っ張り部分がキャプスタンと接触しており、鍵盤を押さえると、テコの原理でバランスピンより先にあるキャプスタンは上へあがり、それに連なってウィペンが突き上げられることでジャックが動き、ハンマーが発進し、打鍵に繋がります。

指先がキーを押さえた(弾く)力は、このキャプスタンからウィペンのヒールへと引き継がれていくため、ここは打鍵のための力の密接な伝達という意味で、非常に重要な部分というのはシロウトが見てもわかります。
そのため、ヒールの真ん中をキャプスタンが上に押し上げるようになっていなくては無理のない力の伝達はできません。ちなみにヒール最下部にはキャプスタンの上下動を受け止めるべく、厚手のクロスが貼り込まれています。

さて、我がディアパソンではキャプスタンとヒールの位置関係に見過ごせないレベルのズレがあることが確認され、このズレがあるかぎり、他の何をどうやっても対症療法に終わるので、まずはこの部分を本来あるべき状態に戻すことが基本であり急務であろうというのが結論でした。

クルマでも車軸のアライメント(設計上定められたタイヤの内外左右の微妙な角度)が狂ったまま、他のことをいくらあれこれやっても、気持よく真っすぐ走ったり、安定して曲がったりできないのと同じことでしょう。

具体的には、キャプスタンの位置よりもヒールが前方にずれており、Cさんがおっしゃるには、ダウンウェイトは決して重くないにもかかわらず、正しい力の伝達ができていないために、キレの悪い、もったりしたような感触が残ってしまい、それがタッチが重いと感じてしまう原因だろうとのこと。
タッチにキレがあれば、今の数値なら重いと感じるようなことはないはずとのことでした。

元はといえば、ウィペンをヘルツ式にわざわざ交換したのも、タッチを軽く俊敏にするための手段だったわけですが、このヒールとキャプスタンとの位置関係が悪いために、むしろねばっこいようなタッチになってしまっているというのはなんとも皮肉なことでした。

これを改善するための最良の方法は、キャプスタンの位置を変更することのようです。
鍵盤一式を持ち帰ってもらって、キャプスタンを88個すべて外し、その穴を埋木して、ヒールの真下に来るように位置を定めて付け直すというやり方のようです。

はじめからこの辺りまで目配りと調整ができていればよかったとも言えなくもありませんが、マロニエ君にとってはピアノは趣味であり、こういうことを通じていろいろ勉強にもなったほか、新たな技術者の方々とのご縁ができるなど、そこから得たものも大きく、これはこれでひとつの有意義な道のりだと思っています。

またCさんは、「前の方はとても良い仕事をしておられると思います」と言われていましたが、マロニエ君もその点はまったく同感で、信頼できる確かな仕事をしていただいたことは今でもとても感謝しています。

というわけで、近いうちに鍵盤一式を取りに来られることになりました。
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黄金期のホロヴィッツ

『ホロヴィッツ・ライヴ・アット・カーネギーホール』は少しずつ聴き進んでいますが、1953年〜1965年までのコンサート休止期間の前後では、何が変わったかというと、最も顕著なのは録音のクオリティだと思いました。

というか、演奏そのものは本質的にあまり変わっておらず、40年代までは多少若さからくる体力的な余裕を感じるのも事実ですが、50年代に入ると演奏も黄金期のホロヴィッツそのもので、12年間の空白の前後で著しい変化が現れているようには思いませんでした。
ただ、久しぶりに聴いた1953年のシューベルトの最後のソナタなどは、やはりこの魔術師のようなピアニストにはまったく不向きな作品で、どう聴いてもしっくりきません。

このボックスシリーズでは、従来は編集されていた由の音源にも敢えて手が加えられず、ミスタッチなどもコンサートそのままの演奏を聴くことができるのは楽しみのひとつでしたが、とくに耳が覚えている1965年のカムバックリサイタルなどでは、それがよくわかりました。

冒頭のバッハのオルガントッカータなどもより生々しい緊迫感が漲っているし、続くシューマンの幻想曲もホロヴィッツとは思えぬ危なっかしさに包まれてドキドキします。この日、12年ぶりのコンサートを前に緊張の極みでステージに出ようとしないホロヴィッツを、ついには舞台裏の人間がその背中を押すことで、ようやくステージに出て行ったというエピソードは有名ですが、この前半の演奏を聴くとまさにそんなピリピリした緊迫感が手に取るように伝わってきました。

バラードの1番などはたしかにアッ…と思うところがいくつかあって、ここでもオリジナルは初めて耳にしたわけですが、逆にいうと、昔から音の修正技術というのはかなり高度なものがあったのだなぁと感心させられます。

翌年の1966年のカーネギーライブは、前年のカムバックリサイタル同様のお馴染みのディスクがありましたが、66年は4月と11月、12月と三度もリサイタルが行われており、この年だけでCD6枚になりますが、その中から選ばれたものが従来の2枚組アルバムとなったらしいこともわかりました。

これを書いている時点では、とりあえず1966年まで聴いたところですが、カムバック後の10数年がホロヴィッツの黄金期後半だろうと思います。晩年は肉体的な衰えが目立って、演奏が弛緩してくるのは聴いている側も悲しくなりますが、この時代まではハンディなしのすごみに満ちていて、まさに一つ一つがあやしい宝石のような輝きをもっています。

破壊と優雅、刃物の冷たさと絹の肌ざわりが絶え間なく交錯するホロヴィッツのピアノは、まさに毒と魔力に満ちていて、この時代の(とりわけアメリカの)ピアニストがそのカリスマの毒素に侵されたであろうことは容易に想像がつきます。

ホロヴィッツの魔術的な演奏を支えていたもののひとつが、彼のお気に入りのニューヨーク・スタインウェイです。メーカーのお膝元で、数ある楽器の中から厳選された数台のピアノがホロヴィッツの寵愛を受け、自宅や録音やコンサートで使われたといいます。

それでも、よく聴いていれば音にはムラもあり、今日で言うところの均一感などはいまひとつですが、ニューヨーク・スタインウェイ独特のぺらっとした感じのアメリカ的な音、さらにはドイツ系のピアノにくらべると、音に厚みがなく精悍な野生動物のようなところもホロヴィッツの演奏にピッタリはまったのだと思います。

でもそれだけのことなのに、30年以上むかし、日本のピアノメーカーの技術者達は、ホロヴィッツのピアノにはなにか特別な仕掛けがあるのではということで、日本公演の折だったかどうかは忘れましたが、開演前のステージへ数人が許可なく這い上がっていってピアノを観察したあげく、あげくには床に仰向けになって下から支柱や響板などの写真に撮ったりしたというのですから驚きます。

まあ、それほど強い興味と研究心があったということでもありますが、この時代はまだそんなことがただの無礼や苦笑で許された時代だったのかもしれませんね。

まだまだ聴き進みますが、ホロヴィッツばかりずっと聴いていると、神経が一定の方向にばかり張りつめるのか、ときどき途中下車してほかの演奏が聴いてみたくなるのも事実です。
でも買ってよかった価値あるCDであることは間違いありません。
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『ピアノのムシ』2

マンガ『ピアノのムシ』は、順調に読み進んでいますが、いろいろな意味で感心させられるものでした。

まず読み始めから驚くのは、主人公がピアノ技術者というだけあって、いたるところでアクションや弦や鍵盤など、絵にすることが極めて困難と思われるピアノの内部構造が頻出し、それはほとんどごまかしもなく、あきれるばかりに正確に丁寧に描かれていることです。アップライトの上下前板を外したところひとつ描くのも並大抵の手間ではないでしょう。
この点だけでも、漫画家というのは秀でた画力はもちろん、たいへんな忍耐労働ということがわかります。

また、ピアノを口実にした成功物語やラブストーリーの類ではなく、各章が独立したピアノ技術上あるいは業界に巻き起こるあれこれの裏実情のたぐいが話のネタになっており、勢いかなり専門性の高い内容となっている点にも驚かずにはいられません。

マロニエ君などのピアノ好きが喜ぶのは当然としても、世間一般を見渡せば、ピアノなんてほとんど誰も興味のないものであるし、ましてその調律がどうしたこうしたなんて意識したことさえないでしょう。そんな世間を相手に、このマンガが訴え問いかけて行くものは何のか?さらにはメインターゲットとなる読者はだれかという疑問が終始つきまといます。
たしかにマロニエ君を含む一部の好事家や調律師さんなど業界関係者にはおもしろいととしても、まさかそんな超少数派を相手に、雑誌に連載するマンガとして成り立っていくものだろうかと不思議な気分。

もし自分なら、まったく興味のないジャンルで意味もわからない専門的なことの羅列だったら、きっとページを繰る気もしないでしょう。しかるに連載が継続し、順次単行本(現在6巻まで刊行)になっているのですから、果たしてその購読層というのはどういう人達なのか…まあここが最大の不思議です。

また、一読するなりわかりますが、そのストーリー立てやそこで取り沙汰されている内容は、とても一漫画家の書けるようなものではなく、よほど専門家が張り付いて指南と確認を繰り返しているに違いないと思っていましたが、巻末のページに取材協力をした調律師さんやピアノ店などの名前が列記されており、やはり!と納得でした。

巷ではよく「マンガの影響で」とか「あれはもともとマンガがルーツ」などというような話を耳にすることがありますが、その流れでいうと、これを読んで、一流調律師を目指す若者が出てくるのでしょうか?…だとしたら、それはそれでおもしろいと思います。というのも、普通に調律学校や養成所などにいってそれなりの技術者になるより、どうせやるなら始めから一流を目指して挑むというのは大事なことだと思うからです。

マロニエ君の認識では、おしなべてマンガの主人公というのは、何らかのかたちで「英雄」である場合が多いのだろうと思われますが、その点でいうと、主人公である調律師の蛭田は、業界(とりわけ技術者)の間で作り上げられた一種の「英雄」なのだろうという気がします。

物事に拘束されず、昼から酒を飲み、超のつく無礼者、相手が誰であろうと言いたい放題、仕事も選びたい放題、嫌なものはイヤだと完膚なきまでに拒絶しまくる、正道から外れた一匹狼、それでいて技術者としての腕は突出して天才的で、おそろしく繊細な耳を持ち、どんな難題難所でもたちどころに原因を突き止め解決してしまうという、いわばカリスマ的超一流調律師とくれば、(数々の振る舞いはともかく)これはもう調律師の理想の姿でありましょう。

並外れた才能と実力ゆえに、人の顔色をうかがうこともなく、組織の一因として汲々とすることもなく、三船敏郎演ずる素浪人のように、哀愁を秘めつつ好きなように生きていくニヒルなサムライの姿に通じるのかもしれません。

これは裏を返せば、蛭田の取っている行動は、世の調律師さんのの置かれた忍従の世界を、逆写しにしているようにも受け取れます。
忍従のちゃぶ台をひっくり返すように展開されていく一流調律師の目の前に広がる数々の出来事、それがこの『ピアノのムシ』なんだろうと思いますし、そんな奇想天外が許されることこそマンガの醍醐味というところでしょう。

それにしても、繰り返すようですが、よくぞこんなマンガが出てきたもんだとその僥倖には素直に驚き、素直に喜びたいと思います。
ありきたりの発想では商売もままならない世の中、ニッチ商品なる言葉を初めて聞いたのがいつ頃の事だったわすれましたが、これはまさにマンガのニッチ作品なのかもしれません。
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運の波

1年ぐらい前だったか、正確なことは忘れましたが、『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』というCD41枚+DVD1枚という大型のBOXセットがSONYから発売されました。
ホロヴィッツが1943年から1978年までにカーネギーホールで行った主なコンサートを収録したもので、箱もカーネギー・ホールの外観を模したもので、発売当初から目にとまっていたものでした。

マロニエ君は取り立ててホロヴィッツのファンというわけではありませんが、1965年のカムバックリサイタルの冒頭の緊迫したガラスのようなバッハや、この日の興奮の頂点となったショパンのバラードなどは、きわめて深い印象を残す録音であったことは間違いありません。

子供の頃、カーネギーホールという音楽の殿堂がニューヨークにあるということを知ったのも、ホロヴィッツの存在を知ったことと同時だったことをよく覚えています。
亡命ロシア人であったホロヴィッツがアメリカに移り住んで終生暮らしたのがニューヨークで、カーネギー・ホールは彼にとっても最も慣れ親しんだ最高のステージであったことでしょう。

そこでおこなってきた数々の演奏の軌跡を網羅的に聴くことが出来るなんて、現代人は幸せです。
…とかなんとか言いながら、マロニエ君はこのBOXセットが出た時にすぐに買うことはせず、「そのうちに」という気持ちでいたのがいけなかったのです。
つい最近、ホロヴィッツの別のセット物が発売されることになり、それにも興味津々だったものの、順序としてその前にあれを買っておいかないと…と思い立って探してみると、あれ?…どこにもないのです。ネットのHMVやタワーレコードで検索をかけても出てこないので、こちらもむきになって探していると、その片鱗のようなものはなんとか出てきたものの、要するに限定発売だったものが完売してしまっており、だからもう通常の商品として検索にもひっかからないということが判明。ガーン!!!

今どきはCDもどうせ売れないのだから急がなくても大丈夫などと悠長に構えていると、こんなことになるのだと思い知りましたが、無いものは無いのだからじたばたしても始まりません。

こんなときの頼みの綱であるAmazonで検索したら、さすがにこちらではあっけなく出てきました。
どれもほとんど新品ですが、値段はほぼ定価に近い2万円が最安で、高いものでは5万円を超えるものまであるのには驚きました。
まあ、それでも大手CD店では軒並み完売しているものが今なら新品で手に入るのだし、なにより自分が出遅れたせいで、多少安く買える時期に買わなかったことが原因でもあるし、ほぼ定価なら仕方がないと納得はしてみました。しかし、やはりこのぐらいの値段になると、じゃあ直ちに購入ボタンを押すのも気乗りせず、残り一点というわけでもないから、またしても先送りにしてしまいました。

と、そんなとき。天神での待ち合わせのための時間調整のためにタワーレコードを覗きました。
過日書いたように、このところCDは負けが続いて、しばらく買うのはよそうと思っていたので、この日は正真正銘の見るだけだったのです。

見るだけなので、普段はあまり見ないコーナーなどを見て回り、積み上げられたBOXセット(大抵ろくなものがない)のところに来て、あれこれ眺めていると、ふと何か気になる模様が目に止まりました。
それを認識するのに、1~2秒ぐらいはかかったか、かからなかったか、そこは正確には覚えていませんが、とにかくほんの一瞬の空白を挟んで、あんなに探した『ホロヴィッツ・ライブ・アット・カーネギーホール』がいま目の前にポンとあることがわかり、さすがにこの時は胸がズーンとしてしまいました。

すかさず手にとって見ますが、まぎれもなく「それ」でした。
すぐに価格を見るため箱を上下左右に動かしてみると、隅の方に「9,800円」という赤い線の入ったシールが貼ってあります。アマゾンの最低価格の半分です。

迷うことなく、いそいそとレジへ直行したのはいうまでもありません。

というわけで、こんなラッキーがあるなんて、すごいなあ~とルンルン気分でしたが、これによって、このところをのCDの負け続きを一気に取り返すことができたのだと思うと、嬉しさと不思議さが半々でした。
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ルールの死角

つい先日、友人とIKEAに行って、ついでに食事をしていた時のことです。

この日は平日の夜だったので、店内もガラガラでレストランもお客さんは少なめでした。
カートで食べ物を運んで適当にテーブルに座ると、すぐとなりに高校生らしき制服姿の男子生徒が3人で来ていて、テーブルの上には本やノートや筆記用具がこれでもかとばかりに広がっていました。

なんと彼らはそこで試験勉強をやっているらしく、マクドナルドなどの店内で長時間椅子とテーブルを占領して勉強のようなことをやっているのはしばしば目にしていましたが、それがついにはIKEAのレストランにまで進出してきたのかと思いました。

見たところ、食べ物はなにひとつ無く、ドリンクバー(たぶん120円)のためのカップとグラスがあるばかり。
とりあえず勉強という目的があるためか、それほどおしゃべりはしませんが、3人が代るがわる飲み物を取りに行くのは視界の中でもいささか目障りなほど頻繁で、まずい席に座ったものだと思いました。

ときどき骨休めなのか、断片的な会話が聞こえてきますが、飲み物を持って戻ってきたひとりが椅子に座りながら「8杯目!」などと言ってはニヤリと笑ったりしています。
それからも、おかわりのための往復はとめどなく続きました。

いまさらこんなことは珍しい光景でもなし、新鮮味もない話題かもしれませんが、見ればこの3人は、4人がけのテーブルを縦につなぐように占領しており、つまり8人分の椅子とテーブルを3人で広々と使っています。この日は空席のほうが多いくらいでしたから、それで直接的な迷惑が発生したというのではありませんが…。

それにしても、こういう場所で勉強するというのは、どういう感覚なのかと理解に苦しみます。仲間と一緒に勉強したいという気持ちはわかるとしても、そのために店舗の飲食のためのテーブルを目的外に長時間使用するというのはどう考えてもいただけません。

さらには友人が見たと言っていましたが、彼らの足元には大きなスポーツバッグが置いてあり、おかわりを持ってくるたびに何かをそこへさっと放り込んでおり、帰りしなにファースナーが開いているので中が見えたんだそうですが、そこには未使用のミルクや砂糖やティーバッグなどがたくさん入っていたとのこと。
こうなると、ドロボウではないのか!?

最小限度の注文をアリバイにして長時間テーブルを占領し(空いているのをいいことに8人分のスペース)、延々とおかわりを繰り返したあげくに、モノまで持って帰るというのは言語道断です。

これがいっそ万引きなどであれば、店や警察に捕まる危険もあるし、犯罪として明確な罪科があるのに対し、こういうやり方は、いわば店が定めたルールの上に乗って悪用する行為であって、最終的に罪に問われることもないことを見通している点が、なんとも現代的で抜け目がなく、その浅ましさには横にいるこちらのほうがイライラさせられました。

しかもどの顔を見ても、悪事どころか、いかにも善良そうな面立ちで、そこに却って凄みを感じます。

昔の学生時代が良かったなどというつもりはありませんが、あんなに若い頃から、ルールの死角をすり抜けるような悪辣な行為を公然とやってのけて、それを当たり前のようにして育っていくというのは、なんだか末恐ろしい気がしました。

昔のように、無邪気に互いの家に往き来できないような、いろんな複雑な背景が現代にはあるのかもしれないと思いますが、とにかく難しい時代になったものだと思います。

この3人、マロニエ君達が来る前からいて、食事が済んで、お茶をして席を立つ頃も、一向に帰る気配はありませんでしたから、きっと閉店までいるのでしょう。
あの言葉の調子ではひとり10杯として3人で30杯、テーブルを2つ占領され、ミルクや砂糖やティーバッグまで大量にお持ち帰り、それで払った料金は3人合計360円となれば、お店はたまりませんよね。

当人たちは、そういうことは関係ないし、考えもしない、もしくはIKEAは世界的な企業なんだから、それっぽっちのことは痛くも痒くもないはずと思うのでしょうか…。
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『ピアノのムシ』

以前から書こうと思いつつ、つい書きそびれていたこと。

マロニエ君は本はそれなりに買うものの、マンガは日本の誇るサブカルチャーなどと云われていますが、基本的に興味がありません。
ただ、いつも行く福岡のジュンク堂書店は、4Fが音楽書や芸術関連の売り場なので、1Fからエレベーターで直行し、そこから下りながら他のフロアにも立ち寄るというのがいつものパターン。

4Fでエレベーターのドアが開くと、そこはものすごい量のマンガ本売り場で、狭い通路を左に右にとすり抜けたむこうが音楽書や美術書のエリアとなっているため、よく通る場所ではあったのです。

最近はクラシック音楽やピアノを題材にしたマンガもあるようで、その最たるものが「のだめ」だったのかどうか…よく知りませんが、楽譜やCDまでマンガから派生したアイテムが目につくようになり、もはや「ピアノ」という単語の入ったタイトルぐらいでは反応しなくなっていました。
ところが、あるとき本の表紙を見せるように並べられた棚を通りかかったとき、一冊のマンガ本の表紙には、グランドピアノを真上から見たアングルで男性が調律をしている様子が描かれているのが目に入りました。しかもそれが、やけに精巧な筆致で、フレームの構造およびチューニングピンの並び加減から、描かれているのはスタインウェイDであることが明白でした。
「えっ、これは何…?」って思ったわけです。

フレームに「D」と記されるところが「E」となっているのは、まさに内容がフィクションであるための配慮で、歌舞伎では忠臣蔵の大石内蔵助が大星由良之助になるようなものでしょう。
これがマロニエ君が荒川三喜夫氏の作である『ピアノのムシ』を認識したはじまりでした。

そういえば、アマゾンで書籍を検索する折にも、近ごろは関連書籍として「ピアノの…」というタイトルのマンガが多数表示されてくるし、それもいつしか数種あることもわかってきていたので、いったいどんなものなんだろう?…ぐらいは思っていましたが、もともとマンガを読む習慣がないこともあって、ずっと手を付けずにきたというのが正直なところです。

さらに店頭ではマンガは透明のビニールでガードされて中を見ることができず、「見るには買うしかない」ことも出遅れの原因となりました。

話は戻りますが、その表紙の絵ではアクションを手前に引き出したところで、そもそも、あんなややこしいものをマンガの絵として描こうだなんて、考えただけでも大変そうでゾッとしますが、それが実に精巧に描かれているのは一驚させられました。
察するに、これは弾く人を主人公としたメランコリーな恋愛や感動ストーリーではなく、あくまで調律師を主軸とした作品のようで、帯には「ピアノに真の調律を施す唯一の男」などと大書されており、さすがにここまでくると興味を覚えずにはいられません。

「買ってみようか…」という気持ちと「いやいや、バカバカしいかも」という思いが入り乱れて、とりあえず時間もなく、この日買うべき本もあったので、このときはひとまず止めました。

その後はちょっと忘れていたのですが、アマゾンを開くと、過去に検索したものや、頼みもしないのにさらに関連した商品が延々と提案されるのは皆さんもご存知の通りで、その中に再び『ピアノのムシ』があらわれました。
いちど興味が湧いたものは、どうも、その興味が湧いたときの反応まで記憶されるものらしく、書店であの表紙を見たときの気分が蘇り、やっぱり買ってみようかという気に。

こうなると、書店に出向いて、あの膨大な量のマンガ本の中から1冊を探す億劫を考えたら、とくにアマゾンなどは1クリックですべての手続きが済むのですから、ついにポチッとやってしまいました。

こうして、我が家のポストに『ピアノのムシ』第1巻が届き、以降続々と増えているところです。
感想はまたあらためて書くことに。
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もう少し弾く…

「できれば、もう少し弾いてください」
先日ディアパソンの続きの調整にこられた調律師さんは、帰りしなマロニエ君にこう云われました。

以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、よろず機械ものというのは、適度に使うことで好ましいコンディションを維持できるものだということを、今また、あらためて感じさせられています。
人の体や脳も同様で、これが関係ないのはデジタルの世界だけかもしれないですね。

むろん使うといっても酷使ではいけないし、機能に逆らう過度な使い方もいけない。
逆に使い方が足りない、あるいは放ったらかしというのも、消耗がないというだけでこれまた良いことはありません。

最も良い例が家屋で、人のいなくなった家というのは、恐ろしいスピードで荒れ果て、朽ちていくのは誰でもよく知るところです。人が住んで使われることで、家はその命脈を保っている典型だと思います。

これはピアノにもある程度通じることです。
ピアノも長年ほったらかしにされると、弦はさび、フェルト類は虫食いの餌食になり、可動部分は動かなくなるかしなやかさを失ってしまうのはよく知られています。かといって教室や練習室にあるピアノのように、休みなくガンガン酷使されるのも傷みは激しいようで、バランスよく使うというのは意外に難しいもの。

マロニエ君宅のピアノはそのどちらでもないけれど、強いていうなら、弾き方が足りないのは間違いないと自覚しています。もともとの練習嫌いと、技術的な限界、さらには趣味ゆえの自由が合わさって、つい弾かなくなることが多いのです。

楽譜を見て、パッと弾けるような人ならともかく、マロニエ君などはひとつの曲を(自分なりに)仕上げるだけでも、相当の努力を要します。しかも遅々として上達せず、それをやっているうちにテンションは落ち、別の曲に気移りし、結局どれもこれもが食い散らしているだけで、なにひとつものになっていないというお恥ずかしい状態です。

知人の中には、ひとつの曲を半年から一年をかけてさらって仕上げていくという努力一筋の方もいらっしゃいますが、あんなことは逆立ちしてもムリ。見ていて、ただただ感心するばかりで、「よし、自分もがんばろう!」などという心境にはとてもじゃないけどなれません。
むしろ、どうしたらあんな一途なことが出来るのか不思議なだけで、むろん自分のがんばりのなさもホトホトいやになるのですが、そこまでしなくちゃいけないと思うと、ますますピアノから遠ざかってしまいます。

心を入れ替えて、一つの曲の練習に没頭するなどということは到底できそうにもないし、だいいち自分には似合いません。たぶん死ぬまで無理で、これがマロニエ君の弾き手としてのスタイル(といえるようなものではないけれど)だと諦めています。

根底には、いまさらこの歳で、ねじり鉢巻で練習したところでたかが知れているし、根本的に上手くなれるわけはないのだから!という怠け者特有の理屈があるのですが、どこかではこれはそう悪い考えでもないとも思っています。

話が逸れましたが、だからピアノにはあれこれこだわるくせして、実際どれくらい弾いているのかというと、毎日平均すると5分~10分弾かれているに過ぎないというのが実のところですし、それも厳密に言えばダラダラ音を出しているだけで、「弾いている」と胸を張って言えるようなものでもない。

で、冒頭の話にもどれば、これではやはり使い方が少なく、楽器の状態としても理想ではないと思うわけです。本当ならきちんと弾いて使って、その上で技術者さんにあれこれ要求するのが順序というものでしょう。

ところがごく最近のこと、たまたま楽譜が目についたので、ショパンのマズルカを1番から順々にたどたどしく弾いていると、ちょっとおもしろくなって、珍しく2時間ほど弾いたのですが、後半はピアノがとても軽々と鳴ってきたし、アクションも動きが良くなったように感じました。

また30分以上弾くと、弾かないから日ごとに硬化してくるように感じていた指も、いくらかほぐれて活気が戻り、ちょっとは動きも良くなるし、そのぶん自由がきいて脱力もできてくるのが我ながらわかって、こういうときはさすがに嬉しくなってしまいます。
この壁を突破すると、いささか誇張的な言葉でいうなら陶然となれる世界が広がるわけです。

普段からきちんと練習を積んでいるような人は、いつもこの「楽しい領域」に出入りしていて、だから練習もモリモリ進むものと思われますが、マロニエ君の場合、滅多なことではこの状況は訪れてくれません。何ヶ月に一度あるかないかの貴重な時間ですが、たしかにこの刹那、やっぱり練習もしなくちゃいけないし、楽器も弾かなくてはと思うのは嘘偽りのないところです。

そうなんですが、その気分が持続しているのはせいぜい翌日ぐらいまでで、それも前日より弱くなっていて、3日目にはきれいに元に戻ってしまいます。マロニエ君自身がそうなってしまうのは一向に構わないけれど、それにつれて、ちょっぴり花ひらいたかに思えたピアノが、また少しずつ眠そうになってくるのはもったいない気がします。

谷崎潤一郎の何かの文章の中に「怠惰というのは東洋人特有のもの」というような意味のことが書かれていて、読んだときはたいそう意外に思った記憶がありますが、その点で言うとマロニエ君はまぎれもなく東洋人なんだということになるんだろうなぁと思います。
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ケンプのショパン

よろず趣味道において、掘り出し物に出会うことは共通した醍醐味のひとつかもしれませんが、これがなかなか…。

演奏家やレーベルなど、ほぼ内容がわかっているものは安心ではあるけれど、そのぶん発見の楽しみや高揚感は薄く、予定調和的に楽しんで終わりという場合も少くありません。もちろん予想以上の素晴らしさに感銘する場合もあれば、期待はずれでがっかりということもあります。

いっぽう、セールや処分品などでギャンブル買いしたものは、パッケージを開けて実際に音を聞いてみるまではハラハラドキドキで、中にはまるで知らないレーベルの知らない演奏家、知らない作品と、知らないづくしのものもあったりで、そんな中から思いがけなく自分好みのCDなどがあると、その快感はすっかり病みつきになってしまいます。

最近はCD店も縮小の波で小さく少くなりましたが、この冒険気分というのはなかなか抜けきらないもので、ときには気になるCDを手にすると、処分品でもないのに一か八かの捨て身気分でレジに向かってしまうこともあったりしますし、ネットでも同様のことがあるものです。

ギャンブル買いである以上は、ハズレや空振りも当然想定されるわけで、それを恐れていてはこの遊びはできません。それはそうなんですが、このところはすっかり「負け」が込んでしまって、いささか参りました。

良くないと思うものの具体名をわざわざ列挙する必要もないけれど、日頃のおこないが悪いのか、運が尽きたのか、マロニエ君の勘が鈍ったのか、連続して5枚ぐらい変てこりんなものが続き、内容が予測できるはずの演奏家のCDさえも3枚はずれてしまいました。さらにその前後にも、なんだこれはと思うようなもの…つまり返品できるものなら返品したいようなCDが続いてしまい、こうなるとさすがにしばらくはCDを買う気がしなくなりました。

そんな中で、かろうじて一定の意味と面白さが残ったのは、ヴィルヘルム・ケンプのショパンで、1950年代の終りにデッカで集中的に録音されたものが、タワーレコードの企画商品として蘇った貴重な2枚組です。
内容はソナタ2番と3番、即興曲全4曲、バルカローレ、幻想曲、スケルツォ第3番、バラード第3番、幻想ポロネーズその他といった充実した作品ばかりです。

ケンプといえば真っ先に思い出すのはベートヴェンやシューベルトであり、ほかにもバッハやシューマンなど、ドイツものを得意とするドイツの正統派巨匠というべき人で、そんな人がまさかショパンを弾いていたなんて!と思う人は多いはずです。

しかも聴いてみると、これが予想以上にいいのです!
とりわけマロニエ君が感銘を受けたの4つの即興曲で、これほど気品と詩情でこまやかに紡がれたショパンというのはそうざらにはありません。わけても即興曲中最高傑作とされる第3番は、これまた最高の演奏とも言えるもので、こわれやすいデリケートなものの美しい結晶のようで、ケンプのショパンの最も良い部分が圧縮されたような一曲だと思います。

逆にソナタやバルカローレなどはやや淡白な面もあって、もう少し迫りやこまやかな歌い込みがあってもいいような気もしますが、それでも非常に端正な美しいショパンです。

ただし、全体としてはケンプらしい中庸をいく演奏で、どちらかというと良識派の模範演奏的な面もあるといえばいえるかもしれませんが、それでもショパンを鳴らせるピアニストが少ない中で、けっこうショパンが弾けることに驚きました。
晩年はなぜショパンを弾かなかったのだろうと思います。

本人ではないのでわかりませんが、やはり当時は今以上に自分につけられたレッテルに従順でなくてはならなかったのかもしれない…そんな時代だったのだろうかとも思いました。ただ、実演ではベートーヴェンなどでもレコードよりかなり情熱的な演奏もしましたから、そんなテンションで弾かれる巨匠晩年のショパンも聴いてみたかった気がします。

このCDの中では幻想曲などが、やや情の勝った演奏だという印象があり、ケンプという人の内面には、実はほとばしるような熱気もかなりあったのだろうと思わずにいられませんでした。

なんでも手の内を見せびらかして、これでもかと演奏を粉飾してしまう現代のピアニストとはずいぶん違うようです。
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カテゴリー: CD | タグ:

報道のセンス

今どきのニュースは、後味の悪いものが年々増えてくるようで、世の中はどうなっていくのだろうという出口の見えない不安にかられることがしばしばです。
政治や外交のこと、経済のこと、内外の殺伐とした事件など、憂慮すべき問題はあとを絶ちません。

そんな中では、最近はようやく安堵できる大ニュースが複数あったのは幸いでしたが、ここで政治や思想に関することを書く気はないので、それには敢えて触れないでおきます。

ニュースに関する不満は、ニュースそれ自体の内容もさることながら、マスコミの報道の仕方も大いに関係していると云うべきでしょう。思想的偏向があるのはもちろん、とくにTVニュースなどでは、つまらぬ流行の押し付けや視聴者の不安を煽って楽しんでいるかのような趣味の悪ささえ感じます。
また、基本となるべきニュースはそこそこに、すぐに地域型の美談のたぐいに走るとか、特集などと称してお涙頂戴の話題に切り替わるのは、いつもながら「こんなものがニュースという枠内で取り上げるべき事柄だろうか…」と違和感を覚えることが、あまりに多すぎるように思います。

もうひとつは、あれほどまでにスポーツを大々的に、何かというと国民最大の関心事であるかのように、わざとらしいテンションで取り上げるのもいかがなものかと思います。
それに連なって、スポーツの場で最高の競技をすることが本分であるアスリートにどうでもいいようなことを喋らせて、それをありがたがるという風潮もどうにかならないものか…。
そもそもスポーツってそんなにまでエライんでしょうかね。

いずれにしろ、マスコミ自身がまず報道するネタの取捨選択をするわけですが、その尺度からしておかしいと思うわけです。

昨日のニュースを例にとっても、第3次安倍改造内閣が発足したにもかかわらず、それはずっと後で、どのチャンネルも申し合わせたように冒頭からノーベル賞一辺倒、これが放送時間の大半を占めています。
知るかぎりで、NHKの7時のニュースはそうではなく、それが珍しいくらいでした。
日本人がノーベル賞を受賞することは、むろん嬉しいことではあるけれども、それを取り扱うニュースの在り方はというと、これはまったくいただけないもので、受賞の根拠となる業績や研究成果などについての説明はパパッと通り過ぎるだけで、あとは受賞者の家族や友人や恩師などの喜びの様子をやたらと取り上げて、それのくどいことには閉口します。

むろん偉大な研究の影には、それを支えた多くの協力者がいるはずですから、家族その他のコメントなども少しはあるとしても、ものには限度というものがあり、あくまでも主役は受賞者でありその業績なのですから、それをはき違えたような捉え方はどうもいただけません。

だからといって、シロウトに専門的な高度な科学の話などをされてもなかなかわかりませんが、やはりそこを少しでも噛み砕いて、一般人にもわかりやすく紹介すべきではないのかと思います。
しかし、マスコミは受賞者の功績より、受賞したという結果だけに興味があるようで、「おらが村から…」的な視点で地元や身内の人間が今とばかりに前に出過ぎることは、せっかくのノーベル賞がただのホームドラマへと変質していく気がします。

マスコミは「喜び報道」の名のもとに、せっかくのノーベル賞をこんなにベタベタと手垢だらけにしていいものかと思います。少なくともマロニエ君はノーベル賞ぐらいのことになれば、もう少しスマートなやり方で栄誉を称えていくことを望みます。

芸術分野では世界的権威である高松宮殿下記念世界文化賞などは、受賞者の取り扱いもよほどまともで、どうしてこんなふうにできないものなのか。
スポーツや科学は巨大なビジネスになるが、芸術はなりにくい…その差なのか。

ともかくノーベル賞の報道は、ほとんどスポーツのノリで金メダル感覚というべきで、これまでの受賞数が20いくつというようなことを繰り返し繰り返し言うのは、やっぱり金メダルでしかないんだなあと思います。
むろん日本は大したものだと思いますが、数でいうならアメリカなどは300人以上ですから、そういうことを言うのもほどほどに願いたいところです。

何かというと「オトナの対応を…」などとしたり顔でいうけれど、ノーベル賞受賞の喜び方というのは、日本はずいぶんと洗練を欠き、ベタベタした家庭色が強すぎて、見ていて喜ばしい気持ちがいくぶん差し引かれてしまうのは、却って受賞者の高い功績をマスコミが汚してしまっているように思います。

喜びをストレートに表すことと、理知的であることは、両立しないものなんでしょうか。
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まんべんなく

使いすぎる害と、使わなさすぎる害。

来る日も来る日もふたは閉じたままの使われないピアノも哀れですが、逆にあまりに繁忙を極めるピアノというのも、どこかブラック企業に就職した人のような痛々しさを感じることがあります。

先日もある調律師さんからお電話をいただいて、近くのファミレスでお茶をしていたときのこと。
この方は、福岡のあるホールの保守管理をされているのですが、今年も弦とハンマーの交換をされたらしく、驚いてしまいました。

たぶん20年以上経ったスタインウェイDですが、これまでにも何度か弦とハンマーは交換されており、稼働率の高いホールのピアノというのは、こうも消耗が激しいのかと思うばかりです。

年がら年中、本番のステージとして、力の限りを尽くすピアニストによって本気で演奏されるピアノは、見方によってはピアノ冥利に尽きるとも言えそうですが、リハーサルから含めると、そのピアノが鳴っている時間と密度は恐ろしいほどのものだろうと思いました。

同じスタインウェイDでも、殆ど使われることもないまま何年もピアノ庫で眠っている個体があるかと思えば、このようにひっきりなしに使わ続けるピアノもあるわけで、同じ工場で製造出荷された同じモデルでも、行先によって本当にさまざまな生涯を送るようです。

どちらが幸せかといえば、それはもちろん頻繁に使われたピアノのほうだと思いますが、そうはいってもあまりの酷使で数年おきに弦やハンマーを交換されるとなると、なんとはなしに可哀想な気もしてしまいます。
しかも、ホールで本番に供されるピアノともなると「言い訳」は通用しないことから、換えたてのハンマーでもいきなり豊麗で熟成した音でなくてはならず、勢い不本意な調整もしなくてはいけないとのこと。
使われるピアノにも、それなりの大変さはあるようです。

先日、マロニエ君の乗るフランス車のパーツのサプライヤーの方と電話でしゃべっていると、話題は古い車の維持管理に及び、その方いわく、「結局は、なんだかんだ言っても、やたら走行距離の多い車と高速などで猛烈に飛ばす人の車というのは、どうしようもなく傷んでいますね」と云われました。

一般的には、遠出もせず渋滞などでノロノロ運転ばかりさせられる車は気の毒で、その点でいうと、ヨーロッパ大陸に生息する車達は大陸間の移動や旅行に供され、高速道路などを縦横無尽に駆けまわって幸せなイメージですが、現実はどうやらそういいことばかりでもないようです。
全力を振り絞るように使われた時間の多い機械は、それだけ至る所にストレスがかかっているというのは、まぎれもない事実のようです。

それがそのまま、そっくりピアノにあてはまるかどうかはわかりません。
でも、稼働率の高いホールのピアノは高速道路や山道を飛ばしまくった車に、レッスン室のピアノはタクシーのように昼夜休みなく走り回る多走行車といったイメージと重なり、消耗もそれなりに激しいことは間違いないでしょうね。

むろんそれはそれで意味のあることなので、決して否定しているわけではありませんが、なんでもぬるま湯式の感覚で、自分のピアノとの使われ方のあまりの違いを考えると、ついこういうことを考えてしまうのです。

そういえば知人のピアノ好きで、大人になってピアノをはじめ、好ましい時代のスタインウェイをもっているひとりは「自分はハノンはやりたくない」というのです。
その理由というのが普通とは違っていて、「ハノンは特定の音域の白鍵ばかり使っておこなう指の訓練なので、あんなものを毎日15分とか30分とかやっていたら、弾かれる白鍵のハンマーばかり傷んでしまって、楽器としておかしなことになるから嫌だ」というのですが、これはマロニエ君もまったく同様のことを考えていたので、へぇぇ同じことを考える人もいるのか!と大いに共感したものです。

だったら黒鍵を交えて半音階全音域でやっていけばいいのでしょうけど、それはまた相当難しいことになるので、なかなかそうもいきません。
だいたいこういうことを考えてあれこれ悩むのは決まって男のようで、女性はあまり気にならない領域のことなのかもしれませんが…。
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本質はいずこ

世の中、ちょっとおかしいのではと思わざるを得ないことは枚挙に暇がないほどですが、先ごろもYahoo!ニュースで目にした記事は、その違和感という点でとりわけ強烈なものでした。

「タダで食べ放題の相席居酒屋で、毎日ご飯を食べていたら退店させられた。ネットの掲示板で、大食い女性の投稿が話題となった。」という文章でそれは始まります。

全部コピペするわけにもいかないので、マロニエ君なりに概要をまとめると、次の通り。

見知らぬ男女が同席する「相席居酒屋」では、男性が飲食代を支払い、女性はタダというところが多いのだそうで、ここからして初めてそんなものがあることを知りました。
投稿者である女子学生は、食費を浮かすため相席居酒屋に通っていて、なんと「一日4食がアベレージ」「ご飯は2、3升におかず数キロ」を食べていたというのです。
さらに同じ系列のお店に、店舗を変えながらほぼ毎日通っていたところ、ごはんをおかわりしようとしたタイミングで、店長らしき人から「申し訳ありませんが、退店してほしい」と言われたというもので、その女性はネット掲示板に事の顛末を投稿することになったというもの。

すると、この件に関して質問を受けた消費者問題に詳しい弁護士というのが、法的な観点から退店を要求したことが正しいか否か、コメントしているというものですが、それによれば、
「飲食店は、客を選べないわけではありませんが、これは入店時においての話です。」
「いったん受け入れた客については、無条件に退店させることができるわけではなく、契約内容がどのようなものだったかによります。」
「通常は、食べ放題・飲み放題の契約として受け入れたのであれば、予想以上に食べる人だったからといって、飲食を拒否することは許されません。」
「ただし、前もって、そのような条件がお客側に示されていたような場合は、別に考える余地があります」

などと、読んでいてばかばかしいような文言が並んでいました。
まだありますが、延々と引用しても意味ないでしょう。

まあ、弁護士という法律のプロの観点からみれば、そういう事になるのかもしれませんが、問題はそんなことはどうでもいいということでしょう。そもそもこういう非常識かつ厚顔無恥な女性が非難されずに、退店を願い出た店側ばかりが問題視されるのは、普通の感覚をもった人なら誰だっておかしいと感じるのではないでしょうか。

こういう場合も「普通の感覚をもった人」って誰のこと? 普通ってなに? 誰が決めるの?
といった類のことを言うような人がいますが、こういう場合にそういうことをいちいち言う人間が、正に普通ではない感覚の持ち主だとマロニエ君は思うわけです。

この女性、食費を浮かすためとはいえ、店のシステムにつけこんで飲食代を支払う赤の他人である男性達と店の両者にたかり行為を繰り返し、食べ放題であることを理由に連日連夜この店に通いつめて「ご飯は2、3升におかず数キロ」などとは、社会に巣食う病原菌のようなものだと思います。

こんな人間の振る舞いが、さほど非難されることもなく、あまさかさまに「女性は飲み放題、食べ放題をうたっているにもかかわらず、客が食べすぎているという理由で、店側が一方的に退店を求めることはできるのだろうか。」というような理由で弁護士に問い合わせをするというところが、社会の感性がまともな平衡感覚を保てなくなっている証ではないかと思います。

一度や二度ならともかく、これほどの「悪質な常習犯」ともなれば、顔を覚えられブラックリストに載るのも当然です。店は難民受入所ではないのであって、あれこれのアイデアを講じながら厳しい商売をやっているのですから、これはいわばルールを悪用した限りなくドロボウに近い行為ともいえるのではないかと思います。
そんな人間はつまみ出されるのが当然で、それはルールや法律家云々の以前の問題でしょう。

いっぽう、ルールやシステムにさえ適っていれば何をしてもいいという風潮はエスカレートしていくばかりで、ルールの盲点や死角に着目できる人間は、まるで優秀でエライかのような取り扱いにも問題があるように思います。

法律はじめ、個別のルールやシステムももちろん大事ですが、それ以前の人間としての品位を保てる教育環境こそが大事だと思います。恥を失った人間というのは、怖いものがないぶん恐ろしいですね。
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ディアパソン続き

Bさんの初回診断によれば、ダウンウエイトの数値じたいが極端に重いというものでもないということで、差し当たり基本的なところから整えていくべきということでした。

そこで、まずは建築でいうところの基礎工事をしっかりやるということです。まあこれは調律師さんならどなたでも異口同音におっしゃることではありますが、特に今回は早急に見直すべき部分がそこここに確認されたことも事実でした。
基礎がしっかりしていないことには何も先に進めないというわけで、至極ごもっともなことです。

というわけで、初回は正しい土台を作るための「整調」に5時間近くを費やされましたが、それでもまだ時間が充分とはいえず、こちらの都合で時間切れとなったため、また後日続きをやっていただくことで、とりあえずこの日は一区切りつけていただきました。

マロニエ君は、ピアノの調整中にちょっと弾いてみてくださいといわれても、普段と違って大屋根は開いているし、譜面台はなく、鍵盤蓋も左右の拍子木も外されて、いたるところから音がドバドバ出てくるため、これだけ違う条件の中で僅かな違いを感じとるのは、あまり自信がありません。
大きな違いはわかっても、繊細なところ(しかも、そこが非常に肝心なところ)はすぐにはわからないので、帰られた後しばらく弾いてみるのが恒例ですが、まずはずいぶん弾きやすくなったことは確かでした。
一番の目的であるタッチが軽くなったわけではないけれど、その動きに滑らかさと好ましい質感がでていることはよくわかり、これまでのタッチがいくぶん高級になったという感じです。

機構や消耗品を入れ替えるのではなく、整調のみによってタッチに高級感を作り出すというのは、考えてみるとかなり大変なことではないかと思いました。ただ軽くとか早くとか、動かないものを動くようにするのとは違い、高級なフィールというのは繊細な事々の積み上げでしか成し得ないもので、この点にまず感心しました。

翌日、現段階での感想を報告しようと電話したついでに、全体的な印象というか評価を聞いてみました。
というのも、マロニエ君は現在のディアパソンは個性やポテンシャルとしては気に入っているけれど、その音色はもう一つ納得できないものがあったので、この点をディアパソンのスペシャリストとしてはどうお考えか聞いてみました。
しかし、それはなかなか言われません。
長所ならすんなり言えても、その逆は言いにくいのだろうと推察され、そこをあえて忌憚なく言っていただきたいと頼むと、ようやくこちらの心情を理解され率直な感想を聞くことができました。その内容はマロニエ君が感じていることとほぼ同じもので、この点でも大いに納得できました。

こういう印象が一致していないと、今後の進展にも不安が残りますが、そういう意味でも却って安心感が得られました。

余談ながら、マロニエ君は新たな調律師さんにお願いする際には、普段面倒を見てもらっている調律師さんにも必ず事前にお断りを入れて、了解を得るようにしています。現在の調律師さんも、タッチ問題に悩む先代調律師さんが別の方に「セカンドオピニオンを聞いて欲しい」と言われたことがきっかけでした。
というわけで、今回も快く承諾していただき、その方がどういうことをされるか興味があるので後日ぜひ教えてほしいということで、マロニエ君のピアノは、こうしていつも、いろいろな技術者の方に触っていただくようになっています。

中には調律師さんとの関係をよほど特別で厳粛なものと思っておられるのか、かなりの不満があるにもかかわらず、まるで江戸時代の貞操観念のごとく、じっと耐えに耐えながら、ピアノの操を守られる方も結構いらっしゃいます。
しかし、そんなことは甚だしい時代錯誤だとマロニエ君は思います。車の整備でもケースバイケースで、オーナーの判断でディーラーに行ったり専門ショップに行ったりと、そこは所有者の全く自由裁量の領域であるはずです。
その点では楽器メンテの世界はというと、多少の閉鎖性があるともいえるでしょうが、それなりのマナーを守っていれば基本は自由であるはずで、それでも機嫌を損じるような調律師さんなら、もともと大したことない方だと思います。

Bさんは仕事に関しては信念があり厳しさが漲っているけれど、同時にとても気さくで正直で愛嬌のある素晴らしいお人柄の方でいらっしゃる点も併せて嬉しい点でした。技術者である以上は、むろん技術が大事なのは当然としても、やはりそこはお互いに生身の人間なので、人としての波長も合えばそれに越したことはありません。

素晴らしい方との出会いは無条件に嬉しいもの、今後のディアパソンの変化が楽しみです。
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4台ピアノ

ディアパソンの続きを書こうと思っていましたが、ちょっと珍しいコンサートに行ってきたので、そちらを先に。

「浜松国際ピアノアカデミー 第20回開催記念コンサートシリーズ ピアノの饗宴 ピアニッシシモ!!」という長たらしいタイトルのコンサートで、なにがどうピアニッシシモなのかよくわかりませんが、要は過去にこのアカデミーを受講した経歴を持つピアニスト4名が出演されて、それぞれがカワイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、スタインウェイという4台のピアノを弾くという趣向でした。

同じ会場で、違う銘柄のピアノを聴き比べることができるというのは、めったにないことなので、これは行くしかない!と覚悟を決めた次第。会場はアクロス福岡シンフォニーホール。

ちなみに、聞いたところではカワイのみSK-EXが持ち込まれ、残り3台はホールのピアノが使われたようです。

トップはカワイですが、演奏開始早々、このホールの野放図な音響にはいきなりのカウンターパンチというか、あらためて度肝を抜かれました。
音響といえば言葉はもっともらしいけれど、要はだだっ広い空間で音は乱反響を繰り返すばかりで、響きの美しさとか収束感などはみじんもありません。ピアノの音は盛大なエコーがかかったようで、はっきり言って何を聞いているのかさえわからないほどで、よくもまああれで苦情が出ないものだと思います。

ホールというより、銭湯か温泉の大浴場にピアノを置いて弾いているようで、聴き手の耳に到達するのは、ピアノから発せられた音があちらこちらで暴れまわったあげくのピンボケ写真みたいなもの。音楽の輪郭もあやふやで、むろんピアニストのタッチの妙などもほとんどが霧の中で伝わらず、ただ音が団子状になって聞こえてくるだけ。
あれだったら古い市民会館で聴いたほうが、よほどマシです。

第一曲が始まった時、「これはえらいことになった…」と思いましたが、とりあえず忍耐しかありません。…というか、これだからコンサートは行きたくないのです。なんでお金を払って、時間を使って、そのあげく「忍耐」にエネルギーを費やさなきゃいけないのか、これは単純素朴な疑問ですね。

というわけでエコーまみれの音の中から、そのピアノの音色をイマジネーションを働かせて探すしかありませんが、カワイはブリリアンスとパワーを重視しているのか、音の中にある暗いものと華やかなものが相容れず、まだその決着がついていないという印象でした。
ちなみに、カワイはホームページによればフラッグシップはEX-Lに変更されているにもかかわらず、いまだSKシリーズがステージで活躍しているのはどういうわけなのか…。今年開催されたチャイコフスキーコンクールでもカワイはSK-EXでしたから、EX-LとSK-EXの違いがよくわかりません。もしかしたら…いやいや憶測はやめておきましょう。

次に弾かれたのはベーゼンドルファー・インペリアル。カワイの後だけあって音に輪郭と透明感があるのが印象的で、やはりこのピアノ固有の美の世界があることが頷けます。ただ、音色の変化が乏しいのか(確かなことはわかりませんが)、しばらく聴いていると、その艶やかな音にも少々飽きてくる…といったらベーゼンのファンの方に叱られそうですが、マロニエ君の耳にはいささか一本調子に聞こえてしまいます。
もちろん好みもあるでしょうが、マロニエ君はもう少し美音の中にも陰影がある方が好きだなぁと思ってしまいます。

後半最初はヤマハ。最新のCFXでなはく、おそらくCFIIISだろうと思いますが、これが意外に好印象でした。カワイとベーゼンを聴いた耳には、音の構成というかまとまりがそれなりにあるためか、演奏におさまりがつくようです。個人的にはヤマハのコンサートグランドは現代の好みを追いすぎたCFXよりは、少し前のピアノのほうが懐もそれなりに深いものがあり、きれいに調整されていればこれはこれだと思います。
それでも随所で聴こえてくるのは、日本人の耳に深く浸透した、あのヤマハの音ではありますが。

最後はスタインウェイでしたが、こうして順に聴き比べてくると、やはり一台だけ次元が違うというのが偽らざるところでした。ピアノの音に必要な各音域の美しさ、深み、フォルム、バランス、強靭さなどは、やはり抜きん出ていることが一聴するなりわかります。とりわけ重音やフォルテになるほど音が引き締まり、破綻や乱れとは無縁になっていくあたりはさすがという他ありません。
また、異論もあろうかとは思いますが、どのピアノより音はやわらかなのにヤワではなく、シャープな中に甘いトーンが混在します。
偽善的でダサい木の響きでもなければ、神経に障るような金属音とも全く違う、スタインウェイだけの孤高のサウンドが広がると、不思議な安堵と快感を覚えます。
スタインウェイの音はこうしたいくつもの要素が複雑に折り重なることで達成された、まったく独自の境地だと思いました。

最後は4台揃って、ミヨーの4台のピアノのための組曲「パリ」から数曲が演奏されましたが、そこには混沌とした騒音のかたまりがあるばかりで、熱心に弾いてくださったピアニストには申し訳ないけれど、どことなく喜劇的でした。
こんなにもホールの響きが演奏者の足を引っ張るとは、出るのはため息ばかりです。
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好きという強み

調律師のAさんとのご縁がきっかけとなって、福岡にディアパソンを得意とされる、知る人ぞ知る技術者さんがおられることを教えていただいたのは、ずいぶん前のことでした。

「ディアパソンなら自分はBさんが一番だと思います。」と静かに、しかし自信をもって迷いなく言われたことがとても印象的でした。
どんなふうにいいのか聞いてみると、「とにかく丁寧で、Bさんが調整したピアノはとても弾きやすい。あの方はすごいと思います。」と事もなげにいわれました。言っているご本人もれっきとした調律師さんなのですから、同業者がそこまで太鼓判を押すというのは、よほどであろうと思いました。

マロニエ君のディアパソンはというと、懸案のタッチの重さを含む問題は未だ解消には至らず、それがあって、音色などの詰めの調整ももうひとつその気になれないという状態です。それでも今どきのピアノにくらべると、本質においてはそれなりに楽しいものだから、なんとなく現状でお茶を濁してきたというのが正直なところ。
しかし、別のピアノの調律などがパリッとできたりすると、やはりディアパソンのコンディションはタッチを含めて、とても本来のものとは言いがたい事は認識せざるを得ません。

また、以前書いたようにタッチレールというキーを軽くするための製品があることも、関東のピアノ店の方がわざわざ教えてくださり、一時はこれの装着をかなり真剣に考えました。
しかし、ここはやはり基本的なことをもう一度洗い直してしてみることが先決で、それらのことをやりつくし、万策尽きた時にそのタッチレールも使うべきだろうという結論に達しました。

連休中に再度調整をお願いするはずだった調律師さんが、たまたまこの時期の予定が確定できない状況になったということで延期になり、ならばこの際、思い切ってディアパソンがお得意のBさんに一度診ていただき、ご意見を伺えたらと思いました。

そういう流れでAさんを通じてBさんへ連絡していただきました。
「話はしているので、どうぞいつでも電話をしてみてください。」と番号を教えていただき、さっそくお電話したのは言うまでもありません。

電話に出られたBさんは、とてもあたたかで礼節あふれるお人柄という印象でした。
さっそくこちらのピアノの状況と希望を電話で伝えられるだけ伝えると、「どこまでご期待に応えられるかはわかりませんが、ともかく一度見せていただきましょう」ということになり、日時を約束することに。

さて、ここからはちょっとウソみたいな話ですが、そのBさんが来られるわずか2日前というタイミングで、まったく見知らぬ方からメールをいただきました。
メールの主は、ありがたいことにこのくだらないブログを読んでくださっている方らしく、その方もディアパソンのグランドをお持ちで、福岡市に隣接する市にお住まいの方でした。文面によると「(自分は)いい調律師さんに恵まれていて、その方は某区のBさんという方で「ディアパソン大好き」で、お客さんもディアパソンの愛用者が多いようです。」と書かれているのにはびっくり!

マロニエ君もBさんとは一度電話で話しただけで、まだお会いしたこともなく、たまたま名前だけの一致ということもあるかもとは思いましたが、メールの方とは翌日電話で話をする機会を得て、やはりBさんは同一人物であることが判明し、先方も驚かれているようでした。
やはりこのBさん、ディアパソンにはかなり精通した方のようで、ますます期待は高まりました。

約束の日時、ついにBさんがいらっしゃいました。
実際にお会いして、さっそくピアノを診てもらいつつこれまでの経緯を説明します。

非常に驚いたことには、電話でごく簡単に説明しておいた話から、タッチに関するあれこれの可能性を想定され、そのための部品や道具などを幾つも準備されていたことで、どれもがこれまでの調律師さんとは一味も二味も違っており、しかもそれがかなり核心に迫ったものであるだけに驚いてしまいました。
こういうところに技術者としてのスタンスというか、心構えのようなものが表れているようでした。

それらをひとつひとつ書きたいところですが、それはとりあえずここでは控えておきます。

Bさんのやり方は、ピアノを触って、考えて、また触って、またじっと考えるということを繰り返され、しだいに方向性が収束していったのか、「どこに問題があるか」「作業の手順として何を優先するか」、そして「今日はなにをやるか」ということが見えてきたようでした。

何度も「…ちょっと考えさせてください」とおっしゃるあたり、静かに自問自答しておられる様子です。

以前、医者の娘だった友人が、「いい皮膚科のお医者さんっていうのは、患部をジーッと時間をかけて観察する人なんだって…」と言っていたのをふと思い出しました。
パッと見て、即断即決して、対症療法的な作業をされると、却って本質的な解決が遠のいてしまい、こちらにとっては一番困るのですが、その点でもBさんはずいぶん違うように感じました。

さらには「ディアパソンが好き」というのはなにより強みです。
いかに優れた技術でも、それを嫌いなものへ仕方なく向けるのと、好きなものへ向けるのとでは、結果は格段の違いが生じる筈ですから。
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アイノラのピアノ

アイノラといえばシベリウスが家族と暮らした住まいとして有名です。
そこはヘルシンキから北へ30キロのヤルヴェンバーという美しい場所だそうで、シベリウスが30代のとき、その地に1500坪ほどの土地を購入して木造の家屋を建て、家族と共に終生ここで生活したと伝えられています。

アイノラという名は、最愛の夫人の名がアイノであることから、「アイノがいる場所」という意味でつけられ、家は現在も保存されて夏季には一般にも公開されているとか。
そのアイノラには、シベリウスが50歳の誕生日にプレゼントされたというスタインウェイがあり、このピアノを使ってシベリウスの作品を録音したCDがあることを知り、さっそく購入してみました。

演奏はシベリウス研究家としても有名なピアニストのフォルケ・グラスベックで、録音は2014年5月。

シリアルアンバーは#171261で、調べてみると1915年製とのこと。
シベリウスは1865年生まれなので、まさに彼が50歳の時に製造されたピアノのようです。

ネットからもアイノラの自邸内部の写真をあれこれ見てみましたが、なんとはなしにB型のように見えますが、もうひとつ確証は得られませんでした。

その演奏は、さすがにシベリウス研究家というだけあってか、非常にこの作曲家を尊敬し、畏敬の念を払った丁寧な演奏で、落ち着いて作品に耳を澄ませることの出来る演奏だったと思います。

さて、最も興味をそそられた、シベリウス自身が使っていたという収録時点で99年前のスタインウェイですが、そのふわりとした柔らかい音にいきなり惹き込まれてしまうようでした。

楽器の音には時代が求める要素も反映されているとはいうものの、現代のピアノが軒並み無機質に感じられてしまうほど、温かい響きで、ストレートで飾り気がなく(飾らなくても充分に雰囲気を持った)、まったく耳に負担にならない性質の音であることに驚かされてしまいます。
とりわけ一音一音のまわりに波紋のように広がる余韻は、やわらかで、現代のピアノが機械的な音になったことを思い出さずにはいられないものです。

むろん、素材の違いやらなにやらと、いろいろあることは承知しつつも、こういうピアノを聴くとピアノ本来の音というのは那辺にあるのだろうとつい考えさせられてしまいます。

音の感じからして、弦やハンマーも、もしかしたらオリジナルのままという気もしないではありませんが、根底にもっているものの素晴らしさは、情感が豊かで温かく、こういうピアノを持っていたら新しいピアノには完全に興味を失ってしまうのではないかと個人的には思ってしまいました。

それでも耳を凝らせば、低音がいささか痩せていたり、ところどころに音が伸びきれないようなところもあるけれど、なにしろアタック音が生き物の声帯のように自然で、同時にまわりの空気がふわっと膨らむような豊かさに満ちています。

これにくらべると現代のピアノは、表面上はずいぶんゴージャスで、ある種の高級感さえ漂っていますが、機械的な冷たさや無表情を感じずにはいられません。
こういう音を聴いてしまうと、現代のピアノはどこかハイテクっぽくもあるし、我々の想像も及ばないような技術によって、鳴らないものを遮二無二鳴らしているような印象さえ覚えます。

同じ才能でも、こういうピアノを使うのと現代の新しいピアノを使うのとでは、湧き出るイマジネーションもずいぶん違ったものになってくるような気がします。
耳に刺さるような、印刷されたような音を出すピアノを使っていれば、しらずしらずにそういう要素が作品にも影響してくるように思うのです。

その証拠に現代のピアノ弾きは、音楽的な演奏をしようとするとやたらビビって骨抜きになり、注意ばかりが先に立つ演奏になって奔放さや活力を失っています。とくにアマチュアはいちいち深呼吸のような身振りをしたり、小節やフレーズのおわりでは一つ覚えのように大仰にスピードを落とすなどして、それがあたかも音楽表現だと錯覚するのでしょう。

もしマロニエ君に経済的な余裕があるなら(ありませんが)、ぜひとも戦前の美しい声をもったピアノを買いたいものだと思いました。
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暴走世代

何年か前の事だったと思いますが『暴走老人』というタイトルの本が流行ったことがありました。

マロニエ君は読んだことはありませんが、イメージとして、最近この本のタイトルを連想させるようなことが少くありません。

運転をしていても、まったく身勝手な割り込みや、片側2車線のうちのひとつが工事中で、順次二列の車が交互に合流していくような場面でも、前車に鬼のようにビッタリくっついて絶対に他の車を入れようとしない車などは、見れば大半が熟年〜高齢者の運転する車だったりします。

つい先日もある駐車場でこんなことが。
駐車券をとり、空きスペースを探しながら徐行していると、後ろのクルマが追突せんばかりにくっついて何度もクラクションを鳴らしてくるので恐ろしくなりました。こちらが駐車し終えると、むこうは目の前に車を止めてすごい剣幕で睨んでいます。一体なに?と思ってこちらも見ていると、ついにドアが開き、中から初老の男性が降りてきて「トロトロ走るな!!」といきなり大声で吠えました。
だってここは駐車場、徐行して場所探しをするのが普通だと思うのですが、この方にはそれが許せなかったらしいのです。

テレビでよくやる万引き摘発の様子を見ても、万引き犯じたいも高齢者が多いのに加えて、捕まったときの逆ギレ的な態度がすごいのも、どちらかというとこの世代のほうが多いという印象があります。

またつい最近、とある関東の有名ホールに勤める知人から聞いた話ですが、さる業界のイベントがそのホールで行われたところ、ケータイの電源を切るどころか、暗い客席では無数のスマホがいじられっぱなしで、その光が異様なほど目障りであっただけでなく、なんとあちこちで着信音が鳴り、客席で構わず話をする、長引くと話しながら外に出ていくという驚きの光景だったとのこと。
コンサートではないとはいえ、このような行動を取る大半が、分別もあるはずのいい歳をした人ばかりだったというのですから仰天です。

世間一般でいうと、礼儀や公衆マナーの悪さに憤慨するのはだいたい中高年で、されるのは「若者」とか「新世代」だと相場が決まっていたものですが、どうも最近はそのあたりも怪しくなっているのか、古い世代もかなり荒れ放題のようです。
そして、事と次第によっては若者世代のほうがよほどマシという場合もあるのは、マロニエ君もチラホラ実感しているところ。

若い世代のほうが、何事においても規制の厳しい窮屈な世相で育ってきているためか、いったんルール化されたものには、とりあえず素直に従うという習慣というか体質をもっているのかもしれません。
いっぽう、中年以上の世代の若いころは、今よりももっとダイナミックに生きて来たという下地があるからか、なんでも無抵抗に従順ではないのだろうと思いますが、その悪い面が出てしまっているのかもしれません。

先日も、こんなことがありました。
マロニエ君は10年ほど前の数年間、県内のコンサート情報誌の発行に友人と携わった時期がありました。
掲載は無料、大小すべてのクラシックコンサート情報を網羅したもので、とても好評となり、一時はかなり支持されたときもあったのですが、情報誌というものは凄まじいエネルギーを要するもので、生活の片手間にできることではなく、数年間ふんばってみたもののついに廃刊することになりました。

マロニエ君のケータイ番号はその当時と変わっていないので、しばらくは掲載依頼や問い合わせの電話がよくかかっていましたが、さすがに10年近くも経てば、それもまったくなくなりました。

ところが先日、見知らぬ番号から電話がかかり、いきなりコンサートがどうのこうのという話をはじめられました。
ちょっと聞いた感じは、上品そうな女性の声、丁寧な言葉づかい、コンサートをされる方のご家族なのか、話しぶりと声色でそこそこ年配の方だということはすぐにわかりました。…が、すぐには話の要領を得なかったので、「恐れ入りますが、どちらにおかけですか?」と聞くと「あのぅ…◯☓◯☓◯☓じゃございませんか?」と昔の発行所の名を言われたので、すぐにこちらも理解でき「あれは、もうずいぶん前に廃刊になりました…」というと、ほんの一瞬の空白のあと、いきなりブチッと電話は切られてしまいました。

普通なら「ああ、そうですか」ぐらいの言葉はあって然るべきだと思います。
勝手に電話して、一方的に自分の話をし、廃刊になったと告げられるや、もう用はないとばかりに無言で電話を切るという行為が信じられませんでした。

掲載は無料だったので、要するにタダでコンサートの情報を載せてほしいという目的だけがあっただけで、こちらは電話に出て事情を言っているのに、いやはや、なんとも凄まじいものです。

しかも相手が年配の方であっただけに凄みさえ感じ、思わず寒いものが走りました。
きっと普段は、用のある相手には、あの調子で、いかにも上品におしゃべりしている方なんだろうと思うと、べつに人間がきれいなものとは思っていないけれども、しみじみとイヤになりました。
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ヘクサメロン

『ヘクサメロン変奏曲 6人の作曲家の合作変奏曲』というCDを購入してみました。

19世紀前半のパリでは、リストをはじめとするピアニスト兼作曲家たちがアイドルさながらに腕を競っており、社交界ではリスト派とタールベルク派のファン達が対立するほどの過熱ぶりだったとか。

そんな中、ベルジョイオーゾ公爵夫人のアイデアにより、6人の作曲家による合作によって完成したのがこのヘクサメロン変奏曲だそうです。
ヘクサメロンとは「6編の詩」を意味する言葉で、ベッリーニのオペラ『清教徒』の中の『清教徒の行進曲』から主題がとられ、リスト、タールベルク、ピクシス、エルツ、ツェルニー、ショパンに依頼された由。

中心的な役割を果たしたのがリストというのがいかにも彼らしく、イントロダクション、主題、第二変奏、フィナーレの4つを書いたのみならず、ピアノ独奏版のほか、6台ピアノ版、2台ピアノ版、ピアノ&オケ版などのバージョンも手がけたようです。
リストとは対照的に、この手の企画には気乗りせず、最も消極的で仕事の完成も遅れたのがショパンだそうで、まさにイメージ通りという感じです。孤高の作曲家であるショパンがこの手の企画に賛同し、嬉々として寄稿するなんておよそ考えられませんから。

このアイデア、なんだか同じようなことが他にもあったような気がしましたが、そうそう、ディアベッリの主題による変奏曲で、この求めに賛同しかねたベートーヴェンは、ついには単独で同名の傑作を生み出し、現在ではこちらのほうが広く知れわたっているのはご承知のとおりです。
やはり音楽歴史上、抜きん出た天才は、他者との共同作業といった、いわば平等社会の一角を与えられるようなものは向かないであろうことは、理屈抜きにわかる気がします。

折しも世の中は、あれもコラボ、これもコラボというご時世ですね。
マロニエ君にいわせれば、コラボなんてものの大半は、単独で何かを成立させる力のない人達が、実力、資金、責任、集客などを分散させて行うつまらぬイベントのことだと思います。

さて、このCDでは、各変奏を6人のピアニストによって、時にソロで、時に一緒に、代わる代わるに弾くというスタイル。
ヘクサメロン変奏曲じたいは23分ほどの作品で、あとはこの変奏曲を手がけた6人の作曲家の単独の作品が収められています。

はじめに出てきたピアノの音を聴いたとき、なんだかとても存在感のある音にハッとしたものの、咄嗟にどのメーカーであるかは見当がつけきれませんでした。いつもやるこの当て推量は、間違っていることもあるけれど、たぶん◯◯だろう…という予想は立ててみるのが楽しみのひとつですが、このピアノは容易にはわかりませんでした。

ちなみにライナーノートに使用ピアノが明示されていることもありますが、マロニエ君はできるだけはじめはこれを見ないようにしています。
ファーストインプレッションとしては、中音域に甘みはないけれど、枯れた感じとたくましさを併せ持っており、ベヒシュタイン???いやいや、それにしては低音の透明感とか絢爛とした美しさはベヒシュタインとは別種のもので、スタインウェイかと思いましたが、それにしてはやや響きに素朴さがあり、やっぱり違うと思ってしまいます。

まず絶対に違うのは、ベーゼンドルファー、日本の2社などで、自分なりにずいぶん粘ってみましたが、どうしても見当がつけられません。一番近いのはスタインウェイのようにも思いますが、それにしてはある種の泥臭さというか野趣のようなものが混じっており、スタインウェイ然とした洗練に乏しいと思いました。

で、ラーナーノートを探してみると「アッ、そういうことか」と思わず声が出そうになりました。
1901年のスタインウェイDだそうで、そこには#100938というシリアルナンバーまで記されています。

このナンバーを手がかりにネットで調べてみると、それらしきピアノのことが出ており、ドイツのスタインウェイ社でピン板まで修復されたようなことが書かれていますし、このピアノで録音された多くのCDもあるようで、それなりに有名なピアノのようです。

洗練に乏しいと感じたのは、それほど昔のピアノは表面の耳触りに媚びない、飾らない楽器だったということでもあるのだろうと思われます。
修復されているとはいうものの、まさか110年以上も昔に作られたピアノだなんて信じられないほど力強い音を出す健康な楽器であることは間違いなく、ピアノもこの時代の一流品になると、その潜在力にはすごいものがあることをあらためて思い知らされました。

後半の5曲目にはリストの葬送がありましたが、この曲は冒頭からフォルテの低音を多用する作品ですが、そこで聴こえてくるのは荘厳な鐘のようで、まさにスタインウェイの独壇場といえるもの。新しいスタインウェイにはたえて聴かれない凄みのあるサウンドです。
まあ、この作品のあたりでは答えを知った上で聴いたわけですが、葬送まで我慢して聴いておけばこの低音だけでスタインウェイだと確信できただろうと思います。

マロニエ君は使用ピアノへの興味からCDを購入することも少くありませんが、今回はまったくそういうことは知らずに買ったものだっただけに、思いがけずこんな素晴らしいピアノの音が聴けるとは、えらく得をしたような気分でした。
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