平衡感覚

いつだったかNHKのプロフェッショナル?とかいう番組で、五嶋みどりの現在を追った番組が放送されました。

10代前半という若さでアメリカからセンセーショナルに世に出た天才少女も、すでに40代半ばに差しかかり、演奏家としてのみならず、いろいろな意味でも、いま人生の絶頂期に差しかかっているのかもしれません。

彼女はその圧倒的な名声にもかかわらず、演奏活動のみをひた走ることを早い時期から拒絶し続け、自身のスタイルを押し通し、とうとうそれで周囲を納得させてしまった人だと云っていいのでしょう。

天賦の才があり、ニューヨークという最難関の場所でメータやバーンスタインから認められ、さらには演奏中に2度も弦が切れるという、いかにもアメリカ人好みのアクシデントにも恵まれ(?)、当時望みうる最高のデビューを飾ったのは間違いないでしょう。

多くの場合、これほどのスター街道が目の前にパックリと口を開けて広がれば、迷うことなくそこに飛び込み、以降、忙しく世界中を飛び回る生涯を送るはずです。

しかし彼女は演奏活動だけに邁進することを頑として拒み、他の勉強をはじめたり、のちにはヴァイオリンを使っての奉仕活動などにも打ち込むほか、アメリカの音大で最も若くして教授になるなど、何本かの柱によってしっかりとバランスが保持されているようです。
教育者でもあり、アメリカの弦楽器の組織の理事のようなこともやっている由で、勢い彼女の生活は演奏以外の仕事も目白押しで、演奏活動はその中の一つという位置付けのようです。

立派といえばもちろん立派ですが、そこにはいろいろな理由があってのことなのだろうと推察します。

マロニエ君のような凡人からでも、おぼろげにわかる気ようながするのは、いわゆる音楽バカ(といったら言葉が悪いですが)で世界を飛び回り、超多忙な演奏を繰り返すだけの薄っぺらなタレントにはなりたくないという心情と必然があったのではと思われます。

一流演奏家として認められれば、年がら年中演奏旅行に明け暮れ、人生の大半を飛行機とホテルとホールで過ごすばかりで、他の文化に触れたり、豊かな旅や時間を満喫すること、あるいは自身の時間の中で思索するといったこととは縁遠くなるでしょう。
寸暇を惜しんで効率よく練習し、次々に待ちかまえる移動とリハーサルと本番、拍手のあとでは各地の主催者や地元の名士と交流することも義務という、見る者が見ればまったく馬鹿げた生活を繰り返すことを意味しており、それが五嶋さんには耐えられないのだと思います。

しかもオファーがあって体力が続く限り、それは老いるまで延々と続きます。数年先までの予定が決まっていて、それに従って各地と予定を飛び回るだけの生活。そしていったんこの流れに乗れば、止めるに止められない状況に呑み込まれていく。
そこに疑問を持つ人間にとっては、まさに地獄のような生活です。

しがない演奏家からみれば夢のようなスターの生活でも、それが10代から一生続くとなるとやはり尋常なことではなく、まともな平衡感覚をもっていたらできることではありません。昔で言うサーカスの空中ブランコのスターと、いったいどこが違うのかとも思えます。
いかに素晴らしい演奏をして、それに見合った喝采を受けても、そんな生活を一生続けるなんて一種の狂気であるような気がします。

五嶋さんは非常に頭のいい人のようで、だから自分の人間性と精神のバランスを保つためにも、あえていろんなことを「自分のために」やっているんだと私は見ています。もちろんそれが結果としては世の中のためにもなっているとは思いますが、出発点は、まずは自分が「人がましく生きたい」という主題から出発した事だったのだろうというのが、この番組を見て感じたことでした。
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晩年の秀吉

NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』を見ていると、つくづくと考えさせられるところがあります。

これまで幾多の太閤記はじめ戦国乱世の物語が書かれて本になり、映画やドラマ化が繰り返されました。
太閤記といえば、日本史の中でも立身出世のナンバーワンで、裸一貫から天下人という最高権力者に登りつめるその物語は、読む者、見る者をおおいに楽しませるものです。

しかし、マロニエ君からみると太閤記がおもしろいのは、本能寺の変の急報を得て、手早く高松城を水攻めにし、息つく暇もなく中国大返しを敢行。光秀が討たれたのち、清州評定の場で秀吉は信長の遺児である三法師を抱いて現れ、自らが天下人になる布石を打つ…あのあたりまでだと思います。

天下統一を成し遂げた後の秀吉は、およそ同一人物とは思えぬほどすべてにおいて精彩を欠き、常軌を逸し、老いには勝てずにこの世を去ることで、豊臣の天下は一気に衰退、物語は家康を中心とした関ヶ原へと軸足が移ります。

しかしその前にある利休の切腹、関白秀次の処分など、解釈の余地を残しつつも、天下人となってからの秀吉を正視し、ここに時間を割こうという流れはあまりなかったように思います。さらには無謀の極みともいうべき朝鮮出兵についても、その顛末を正面から語られることがあまりないのは、痛快なヒーローである秀吉のイメージが変質することで、映画やドラマの魅力が損なわれるのを避けたようにも感じます。

信長の死後、秀吉の天下は駆け足で過ぎ去り、関ヶ原/大阪の陣を経て家康が権力を手中にするという流れで話が進むのが毎度でした。

ところが今回の『軍師官兵衛』では、天下人となった後の秀吉がしだいに崩壊していく様がかなりリアルに描かれており、この点では出色のできだったと感じます。
最も信頼を寄せるべきかつての仲間をことごとく退け、代わりに石田三成という現代でいうところの霞ヶ関のキャリア官僚みたいな人物があらわれて、無謀なまでに政の多くがこの男へと丸投げされます。

無学で政治力統治力に疎かった秀吉は、そのコンプレックスから三成のような官吏肌の人間に精神的な負い目があったともいえるのでしょう。

いかに下克上の世とはいえ、文字通り裸一貫からのスタートですから、信長の家来のうちはまだいいとしても、天下人ともなれば家格もなく、譜代の家臣もないまま頂点へと成り上がったツケがまわって、一気にその歪みがあらわれます。家中はバラバラ、反目の視線ばかりが飛び交います。

信長に使えていた頃の秀吉はなにより殺生を好まず、数々の難所でも知恵を絞り、和睦などを巧みに用いて平和的に解決していったことは有名ですが、晩年は別人のように家来でも身内でも容赦なく首をはねまくります。

マロニエ君が興味を持つのは、出世という上り坂の活劇ではなく、人は器に見合わぬ力や権威を得ると、豹変して猜疑心ばかりが募り、ときにそれが狂気へと突っ走る部分かもしれません。

この狂気の部分が今回の大河ドラマではよく描かれており、これは、人がその前半生や器にそぐわぬ不釣り合いな地位や権力を得た為に、もろい建物のようにガタガタとすべてが崩壊していく典型のようにも思います。
おそらくその人を構成してきた多くのファクターに齟齬や矛盾が生じ、機能不全を起こすためでしょう。パソコンでいうとOSとソフトがまったく相容れないようなものでしょうか。

明るく陽気なイメージばかりが先行する秀吉ですが、晩年の暗い陰惨な所業にあらためて驚かされ、そういえばこの点を背景として描いていた作品に、有吉佐和子の『出雲の阿国』があったことを思い出しました。
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小さな巨人

ピアノ仲間が久しぶりに集まりました。

ピアノ弾き合いサークル系は苦手なマロニエ君ですが、こうして個人同士で声かけあって顔を合わせるのは大歓迎で、楽しい時間を過ごすことができました。

今回は戦前のハンブルク・スタインウェイをお持ちの方の自宅に集まっておしゃべりをし、気が向いた人がピアノを弾くというゆとりある時間のすごし方でした。

ここにあるのはスタインウェイのグランドの中では一番小さなModel-Sで、奥行きはわずか155cmに過ぎませんが、ドイツでリニューアルされており内外はピカピカ、木目もあでやかで、なにより全身が発音体のように鳴り切るのは、いまさらながらスタインウェイの伊達じゃない凄さを感じずにはいられません。
まさに小さな巨人と呼びたくなるような極上のピアノです。

奥行き155cmといえば、ヤマハでいうならC1よりも小さく、定番のC3とくらべると31cmも短いのですから、いかにスタインウェイとはいえ、そこはサイズなりのものでしかないと思うのがふつうでしょう。
ところが、そんな常識がまったく通じないところがスタインウェイのすごさで、サイズからくるハンディは実際には微塵も感じません。もちろん同様コンディションのより大きいモデルを並べればさらなる余裕が出てくるでしょうが、一台だけ弾いているぶんには、まったくそれを感じさせない点はスゴイ!というよりほかありません。

とくに通常の小さなピアノでは避けられない低音域の貧しさ、音質の悪さは如何ともしがたく、あきらめるしかない点ですが、このピアノではそんな言い訳もあきらめもまったく無用です。

このピアノの購入にあたっては、マロニエ君もいささか関与した経緯もあって、それがあとから疑問を抱くようなことになれば責任を感じるところですが、このピアノは弾かせていただくたびに新鮮な感銘を覚えます。
実はこのピアノのオーナーは、購入時このピアノの存在は知りつつも、スタインウェイ購入ともなれば大型楽器店からの購入を本意とせず、むしろ名のある技術者がやっている専門店から、その技術もろとも買いたいというこだわりを持っておられました。

むろん名人のショップにも足を運び、そこにあるハンブルクのA(こちらもリニューアル済み)にかなり傾いておられたのですが、マロニエ君としてはもうひとつ納得が行かず、大型楽器店にあるSのほうが断然いいと感じたので、こちらを強く推奨しました。

もちろん最終的にはご当人が正しい決断が下されてこのピアノを買われた次第ですが、それは数年を経た今でもつくづく正解だったと思います。
このピアノは商業施設のテナントである有名な大型楽器店の店頭に置かれていましたが、ずいぶん長いこと売れない状態でした。おそらく店の雰囲気とスタインウェイという特別なピアノのイメージがどこかそぐわず、このピアノの有する真価が見落とされてしまったものと思います。

今どきのような表面上のキラキラ系の音ではなく、輪郭と透明感がある太い音、加えてコンパクトなサイズをものともしないパワーがあって、このピアノなら、会場しだいではコンサートでもじゅうぶん使うことが可能だと思います。

とくに、ちょっと離れた位置で聴くその艶やかな音は感動ものです。
この日、全員が体感したことですが、ピアノに手が届くぐらいの距離で聴いているといろいろな雑音が混ざって生々しい音がするのですが、そこからわずか2〜3m離れただけで音は激変、まるでカメラのフォーカスがピシッと決まるように美しい音となり、流れるように広がります。
それはスタインウェイがどうのと云うより、純粋にみずみずしく美しいピアノの音で全身が包まれるようで、マロニエ君もいつかこんなピアノが欲しいものだと思ってしまいます。

もちろん戦前のピアノには長年の管理からくる個体差も大きく、リニューアルの仕方によっても結果はさまざまで、すべてのヴィンテージスタインウェイが同様だと云うつもりはありません。
でも、丹念に探せば、中にはとてつもない魅力にあふれた個体があることも事実です。
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エル=バシャの平均律

アブデル=ラハマン・エル=バシャによるバッハの平均律第二弾である『第2巻』が発売され、先に書いたエマールの『第1巻』と同時購入しました。

エル=バシャのバッハは前作『第1巻』での望外の快演にすっかり心躍ったものです。これはもう何度聴いたかわからないくらい気に入ってしまい、ほぼ似たような時期に発売されたポリーニのそれがすっかり色褪せて感じられたのとはいかにも対照的でした。

演奏そのものの素晴らしさに加えて、このときの録音にはベヒシュタインのD280が使われており、その音や響きにも併せて心地よい印象を覚えたものでした。

これに続いて第2巻が収録・発売されるものと思っていたところ、なかなかそうはならず、第1巻(2010年)から実に4年近く待たされたことになります。

はやる気持ちを抑えつつ、再生ボタンを押して最初に出てきた音はというと、正直「ん?」というもので、第1巻にあったような輝きがないことに耳を疑いました。
よく見ると前回とは収録に使われたホールも違えば、ピアノもD282に変わっています。

演奏そのものはエル=バシャらしい大人の落ち着きと余裕を感じるもので、やわらかな語り口の中にも確かな音楽の運びがあり、安心して聴けるものではあるけれども、強いて言うなら第1巻のほうがより集中力が強くて引き締まっていたようにも思います。
もちろん今回も素晴らしい演奏であることは確かですが…。

むしろ気になるのは今回の録音で、第1巻とはあまりにも録音の性格が違いすぎて、同じピアニスト/レーベルであるにもかかわらず、これでは「両巻が揃った」という収まりのよいイメージには繋がりにくいようにも思われました。
とくに気になるのは残響が多すぎて響きに節度感がなく、各声部の絡みやピアニストの繊細な表現の綾が聞き取りづらいのは大いに疑問だと言わざるを得ません。
録音の常識から云うと、これは到底ホールの違いのせいとは思えません。

また、使用ピアノも第1巻がベヒシュタインのD280だったのに対して、第2巻ではD282になっています。聞くところでは、ベヒシュタインのコンサートグランドはざっと2年前ぐらいにモデルチェンジをしているようで、D282ではよりパワーアップが図られている由です。
フレームの設計が違うようで、具体的には弦割りが変わったという話です。

CDを聴く限りではパワー云々の違いはわかりませんが、純粋に音として見れば、マロニエ君はあれこれのCDからの判断にはなりますが、D280のほうがずっと好みでした。
D280にはベヒシュタインの味わいを残しつつ、ほどよい洗練とスマートさがあり、現代的な輝きがありましたが、D282では再びそれを失ったという印象。

ピアノはパワーを求めすぎると、音が荒れるという側面があるのか、昔のベヒシュタインのような「ぼつん」とか「ぼわん」という音が耳につきます。あえて先祖帰りさせたというのなら目論見通りということになるのかもしれませんが、音にも時代感覚というものがあり、その点でどっちに行きたいのかよくわからないピアノになってしまった気がしました。

ベヒシュタインの発音を「あれはドイツ語の発声なんだ」という言う人もあり、確かにそうなのかもしれません。
でも普通に聴く限りでは、どちらかといえば無骨で、板っぽさを感じさせる、打楽器的な音にしか聞こえず、なんだか、やっと街の生活に慣れてきた人が、また田舎に帰って行ったようなイメージです。

音の個性を、渋みや落ち着きなどの味わいとみるか、野暮ったさとみるか、ここが聴く人の好みや美意識による分かれ目でしょう。

エル=バシャもどことなく気迫がない感じで、ラヴェル全集なども高評価のわりには温厚路線で、もともとこの人はそういうピアノを弾く人で、むしろ前作の第1巻のときがちょっと違っていたのかもしれませんし、あるいは録音のせいで活気が削がれて聞こえるのかもしれません。
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エマールの平均律

他の人はどうだかわかりませんが、ピエール=ロラン・エマールは不思議なピアニストだと思います。

はじめてこの人を認識したのはもうずいぶん前のことでしたが、当時、リゲティの複雑なエチュードとかメシアンなどをつぎつぎに弾きこなす、現代フランスの前衛的なピアニストというイメージでした。

そんなエマールが次第に有名になるに従い、ラヴェルの夜のガスパールやドビュッシーを録音し、そのあとにはアーノンクールの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲録音していきますが、個人的にはこのベートーヴェンにはそれほどエマールのいいところが出ているようには思えないというか、要するに何度聴いても「もういちど聴きたい」という気にさせるものではありませんでした。

それからはこの人のCDを買う意欲がいささか薄れ、シューマンのシンフォニックエチュードとか、リストのロ短調ソナタなどは聴いていません。

そのあとだったか、バッハのフーガの技法が出て、こればかりは無視して通ることができず再びエマールを買い始めることに。この演奏には賛否両論あるようですが、マロニエ君はとても好きな演奏で、もはや何度聴いたかわからないほどです。

近年ではドビュッシーのプレリュードなどをリリースしますが、個人的にはバッハを待ち望んでいたわけで、このたびその念願叶って平均律第一巻が発売されました。

エマールという人は、とりたてて分かり易い感性の切れ味とかセンスの良さ、あるいは目も醒めるような指さばきなど、いわば表層的な部分で聴かせる人でない点は徹底しています。
その演奏には、常に必要以上やりすぎない知的なバランス感覚とか、身についた節度みたいなものがあり、その中で内的密度を保って展開されていく音楽だと思います。瞬間的な表現やテクニックに心を奪われたり酔いしれるということはなく、そのぶん直接表現を控え、音楽をあくまでも抽象的なものとして普遍性を崩さぬようエマールの美意識による歯止めがかかっているように窺えます。

そのためか、エマールの演奏には、聴く者がそれぞれに解釈したり感じたりする余地がふんだんに残されており、これこそがこの人の魅力だとマロニエ君は思うところです。

そういう演奏なので、はじめに聴いたとき、いきなり衝撃を受けるとか、深い感銘へと引き込まれるということはさほどなく、繰り返し聴いて何かを感じ取ることがエマールの(すくなくともCDの)前提になっているように思うのです。

今回の平均律も、その例に漏れませんでした。
平均律ともなると、その演奏には名だたるピアニストの傑出した演奏に耳が慣れているものですが、はじめは固くて面白味のない、特徴のない演奏のように聞こえました。

しかし終わってみるとなんとも言い難い味というか風合いのようなものが残っており、「もういちど聴いてみようか…」という気になります。そして幾度もこれを繰り返すうちに、エマールの不思議な魅力に取り憑かれていくようです。

マロニエ君の感じるところでは、この人はどちらかというと人に聴かせるためというより、自分のためにピアノを弾いている感覚が伝わってきて、それが心地いいのかもと思います。
むろんこれだけコンサートピアニストとしてのキャリアを積んで、現在進行形で世界的に活躍している人ですから、まさか純粋に自分のために弾いている…などとウブなことを思っているわけではありません。

当然ながらコンサートでは聴衆の、CDではそれを買って聴くスピーカーの前のリスナーを意識しない筈はありませんが、それでも、この人の基本のところに身についたものとして、どうしても自分の満足や納得が先行してしまうという、いかにもプライヴェートな感覚があって、ピアニストの自宅練習室へ透明人間になって忍び込んだような面白さがあるのだと思います。
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ラッカーとポリエステル

我が家のカワイはGS-50というモデルで、カワイの系譜として見ればことさら特殊でもないけれども、いわゆる保守本流でもないという、いわば過渡期的なシリーズのようです。
中途半端といえばそれも否定できません。

製造年は1985年あたりで、すでに約30歳ですが、この時期のカワイグランドはKGシリーズ全盛期で、そこへ別流派として発生したモデルというべきでしょうか。

聞くところでは、ヤマハがGシリーズと同時並行的にCシリーズを発売し、より華やかな音色のピアノが支持されたことで、同じ市場を狙ってカワイが対抗機種として発売したものだとか。
GSシリーズはスタインウェイを意識してか、弦のテンションを低めに設定するなど、さまざまな新基軸を盛り込んだようですが、それがどういうわけかアメリカで高い評価を受けたといいます。

GSシリーズは30を皮切りに次第にサイズを拡大し、ついにはGS-100というフルサイズのコンサートグランドまで作られます。これはEX登場までのカワイのフラッグシップでしたし、EX登場後も長いこと、GS-100はちょっとお安いコンサートグランドという、よくわからない立ち位置でカタログに載っていました。

実際にGS-50を長年使ってみて、そんな逸話がふさわしいほどのピアノだとは…正直思っていませんが、それでもカワイの沈んだような音色がそれほど顕著ではないし、かといってキンキンうるさいタイプの音でもないのがこのシリーズの特徴かもしれません。特筆すべきは、キーがカワイとしては例外的に軽いなど、いわゆる「これぞカワイ!」という基準からは、あちこち外れたところのあるピアノだとは思います。

積極的にこれを選ぶ理由もないけれど、意に添わないヘンなピアノよりは、よほど良心的といったところでしょうか。このGSシリーズが後のCAシリーズに受け継がれます。

すっかり前置きが長くなりましたが、わけあってこのピアノを一度磨いてもらうことになり、ピアノの塗装の専門業者の方に来ていただきました。
下見のときにわかったことですが、このピアノはなんと今はほとんど使われることのないラッカー塗装で、いわれてみるとなるほどと思う音の響きがあることに気がつきました。
もともと大したピアノではないので、たかが知れているものの、ラッカーはそれなりに音が柔らかくふわっと響くと思います。

その点、ポリエステル塗装はやはり響きが固い印象です。固いのみならず、むしろボディのもっている響きというか、全身が振動しようとするのを、ポリエステルで押さえ込んでしまっているという印象です。

近年はスタインウェイでさえポリエステル塗装が当たり前のようになっていますが、その理由はまさにコストと強靱さのようです。塗りの工程も簡単かつ塗装面が強くておまけに製品的に美しいので、多少の響きを犠牲にしてでもこちらが選ばれるのは現代の価値観からすれば当然なのでしょう。
全般的な材質の低下などと併せて、要はこういう要素が幾重にも積み重なることによって、現代のピアノのあの感動からほど遠い音ができているのだということが納得できるようです。

さて、そのGS-50ですが一時間ほどの手磨きでしたが、かなりピカピカになって気分も新になりました。本格的な磨きになれば機械を使っての大々的な作業になるようです。

ピアノの木工や塗装を得意とする職人さんとはじめてお話しできましたが、なんとなれば黒から好みの木目ピアノにもリニューアルできるなど、なかなかおもしろそうな世界のようで、聞いていてウズウズしてしまいました。
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デセイとルグラン

少し前のBSプレミアムから、今年の6月にヴェルサイユの庭園で行われた、ナタリー・デセイとミシェル・ルグランらによる野外コンサートの様子を見てみました。

ミシェル・ルグランはフランスジャズ・ピアニストの雄で、同時に『シェルブールの雨傘』などの映画音楽も数多く手がけたこのジャンルの巨星です。

広い庭園に設えられた広いステージには、無造作に大屋根が半開きにされたスタインウェイDと、その他ジャズのためとおぼしき機材が置かれていますが、そこへミシェル・ルグランが登場。
簡単な挨拶のあと、まずは最近作ったというピアノ協奏曲を弾き出しましたが、この時点ではべつにどうということもない印象しかありませんでした。

しかし、その後にナタリー・デセイが登場して歌い始め、その他のメンバーが加わってきて、ミシェル・ルグラン本来の世界がやわらかに展開されて行ったのは圧巻でした。

ナタリー・デセイはフランスを代表するソプラノ歌手ですが、この日はオペラのアリアなどは一曲もなく、ルグランの作品などをいかにも手慣れた調子で歌いきったのには感心しました。
通常は、オペラ歌手がポピュラー系のものを歌うと、むやみに一本調子に声を張り上げるばかりの、まるで柔軟性のない「でくの坊」みたいな歌唱に失笑させられてしまうものですが、デセイには一切そんなところがなく、シャンソンの有名歌手であるかのような堂に入った歌いっぷりは見事でした。

さらに驚いたのは、ルグランはこの2時間近いコンサートを、最初から最後まで、休むことなくピアノを弾き続けたことです。
すでに82歳という高齢ですが、そのピアノにはまるで老いたところがなく、軽やかで、品位があって、バツグンのセンスが漲り、ミスもなく、これだけの長時間を一気呵成に弾き続けるその途方もない才能とスタミナには、ただただ脱帽でした。

普段はほんのごくわずかのジャズを除いては、ほぼクラシックしか聴かないマロニエ君は、こんな放送にでも巡り会わないかぎり、なかなかこういうコンサートを耳にするチャンスはないのが正直なところですが、ここには音楽にほんらい宿っているべき楽しさや喜び、心に直に訴えてくる様々なファクターに満ちていて、久々に新鮮な感動と満足を得ることができました。

わけても注目すべきは、ピアノ、ドラム、ベース、ギターのいずれもが、いついかなる場合もリズムが弛緩することなく、生演奏故につきものの、ちょっとした加減で互いの呼吸に乱れが出たりということさえもなかった(少なくともマロニエ君にはそのように思われた)点は驚くべきで、作品や演奏の素晴らしさと併せてその点にも大きな感銘を受けました。

かねがね思っていたことで、この際だから言ってしまいますが、ことリズムや呼吸というものに関しては、クラシックの演奏家はまったくだらしがないと言わざるを得ないというのが率直なところです。

器楽奏者は高度で複雑なテキストをつぎつぎに課せられ、演奏として処理していくだけで神経の大半をすり減らしているのはわかります。しかし、しばしば大筋の流れを停滞させてまで、自分の演奏や解釈を見せつけたり、必然性のない強調をしてみたりというのは、趣味としてもいかがなものかと思います。
のみならず、音楽が本来の拠り所とする、聴く者の気分を音楽によって喜びへといざない、楽しませるという、最も根元のところの使命感が稀薄になっていると思わざるをえません。

クラシックの演奏家がこの「聴く者を楽しませる」という課題にぶつかると、ただ大衆向けの名曲プログラムに差し替えることだけにしか頭が回らないのは、まったくの思い上がりと勘違いと怠慢であって、まずは自分が音楽を楽しまなければ聴く側が楽しいはずはないのです。

そういうことを、けっして押し付けがましくないやり方で、サラッと教えてくれたコンサートでもあった気がします。
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謎の自転車

昨日の午前中、我が家のガレージのシャッター前に見知らぬ自転車が止まっていました。

ここは、すみに寄せるかたちで、うちに通勤してくる人の自転車が2台と原付バイク1台を止めるようになっているのですが、そこへもう一台、普段ないはずの自転車が、さも当たり前のような感じて止まっていました。

てっきり誰か来ているのかと思ってしばらくそのままにしていましたが、午後になっても一向に動きがなく、誰に聞いても心当たりがないようでした。

ガレージ前といっても、道路ではなく、れっきとした我が家の敷地内のことなので、どう考えても人が間違って置くような場所ではありません。
しかも、他の自転車ときれいに並べるようにして奥側に止められており、おまけに車輪には鎖で施錠までされているので、単なる放置自転車とも思えません。よって、この自転車をめぐって持ち主探しにかなりの時間と神経をとられることになりました。

しかし、まるで手がかりナシで、数時間経過するとだんだん気持ち悪くなってきました。なにしろ、よその敷地内に侵入して平然と自転車を置き、鍵をかけてその場を立ち去るというのは、まともな神経の持ち主のすることではなく、こちらとしてはかなり不気味です。

のみならず、中の車の出入りも非常にしづらい状況となっており、現実的な迷惑でもあるわけで、午後には道路までは移動だけはしました。もちろん片輪は施錠されているので、そちらを持ち上げながらですが、触るだけでもいい気はしません。

そうこうするうちに、あたりは暗くなる時刻(午後5時半過ぎ)となり、ついに警察に通報することにしました。
警察官が来てくれたのは6時少し前で、もうすっかり暗くなっていました。
状況の説明や確認をやっていると、そこへなんと、ひとりの若い女性が突如としてあらわれ、無言のままその自転車の鍵をさっさと外し、平然とした調子でその場を立ち去ろうとしています。

これを見て、あわてた警察官は、「貴女が止めたんですか?」「ここは他人の敷地内ですよ」と声をかけますが、それで動作が止める様子はありません。
捨てぜりふみたいな不機嫌な言い方で、小さく「すみません」という言葉は聞き取れましたが、警察官がちょっと待って!というのも無視して、サーッと走り去っていきました。

???…これってどういうこと…信じられない光景でした。

つくづく自転車のタチが悪いのは、こういう状況でも警察官はその人が立ち去ることを強制的に阻止するとか、追いかける権限がないということだろうか…と思いました。
少なくとも車やバイクは免許証というものがあるので、こんな勝手な行動(というか逃亡)なんてぜったいに許されませんが、どうやら自転車はその限りではないのでしょう。

あとに警察官とマロニエ君はポカンと取り残されたのみ。

そして、それ以上、どうすることもできません。
「もし同様のことがあったら、交番でも、110番でも構わないので、すぐに連絡してください。」と言い置いて帰っていきました。

それにしても、警察官相手にとっさにこういう態度をとるというのは、まともな市民の感覚とは思えませんが、つい今の若い人の悪しき行動パターンの典型のようにも受け取れました。

あとから考えれば、道路上に移動させないでおいたほうが警察官も明確な態度が取れたのかもとも思いましたが、それはあくまでも結果論に過ぎず、再び敷地内に入られることのほうがやはりイヤですね。

釈然としない、後味の悪い出来事でした。
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玉石混淆

これは名前を出すべきではない内容だと思われるので、一切の固有名詞は伏せての文章となることを予めお断りしておきます。

あるピアニストのことを採り上げた本を読んでいると、マロニエ君もむかし一度だけ行ったことのあるピアノ店の名前がしばしば出てきました。この店ではピアノを販売するかたわら、音楽教育にも熱心なようで、様々な先生や演奏家を招いて講習会などを開催したり、中には海外のピアニストを招いてのレッスンまでやっているということが書かれています。

どんなものかと興味を覚え、この店の名を検索してみると、すんなりホームページにアクセスすることができました。

そのトップページに、なんだかちょっと気になるピアノの写真が出ていますが、詳細に見るには小さくてよくわかりません。全体としてはスタインウェイのように見えるものの、どうもそうでもない…。

そこでこの会社の取り扱いピアノを見てみると、その中に、これまで聞いたこともない仰々しいネーミングのピアノが紹介されているのを発見。それは世界的に有名なある建造物の名で、そんなブランドのピアノがあるなんて、すくなくともマロニエ君はまったく知りませんでした。

説明によれば、ずいぶん古い歴史のあるブランドのような記述があるものの、ほどなくこれは中国製ピアノであることが判明。
中国メーカーがよく使う手で、廃絶したヨーロッパのピアノブランドの商標を安く買い取ってはなんの繋がりもないピアノにその名を冠し、さも由緒正しきピアノであるかのようにでっち上げるというもの。

このピアノ、実を言うとマロニエ君にはちょっとした心当たりがありました。
数年前、上海のあるピアノ店を覗いたときのこと、スタインウェイのA型と瓜二つの外観をもったピアノが置かれていましたが、鍵盤蓋に刻まれた名前は日本のある県名のようでまったく意味不明、書体もダサダサ、音はビラビラのまさに三流品以下といったものでした。
しかし全体のフォルムから細かなディテールにいたるまでハンブルク・スタインウェイそのもので、まさに外観はModel-Aのコピーといって差し支えないものでした。
さすがは中国!ピアノもここまでやるのかと呆気にとられたものでした。

後でこのピアノのことをネットで調べてみると、上海のピアノメーカーのようで、その日本的な名前が何に由来するのか、中国語ではまったく知ることはできませんでしたし、それ以上の努力をしてまで知りたいという意欲もありませんでした。

話は戻り、日本で売られているらしい、この仰々しい名の付いたピアノは、おそらく上海で見たあのスタインウェイもどきだと直感しました。むろん確たる裏付けはありませんが、細かいディテールに関することもあり、おそらくそうだと思います。さらに中国産ピアノでは、まったく同じピアノにあれこれの名前をつけ換えて別ブランドにするなど朝飯前です。

それにしても、それほど教育活動にも熱心で、海外の一流ブランド品まで取り扱うようなピアノ店が、なぜこんな怪しげなピアノを売るのか、そこが理解に苦しみます。
もちろん中国製ピアノは粗利が多いのだそうで、おそらく仕入れ値などは信じられないほど安価なんでしょうから、営業サイドからすれば儲かると判断したのかもしれません。でもこんなピアノを扱うことで店のイメージは大いに損なわれ、ひいては利益どころか取り返しのつかないマイナスだとマロニエ君が経営者だったら考えるでしょう。

ましてや世界的名器に混ぜ込むようにして、そんなピアノを販売するということは驚き以外のなにものでもありません。最高ランクのものを熟知している店が販売しているのだから、決して変なものではありません、良心的なピアノですよ、という言外の品質保証を匂わせているようなものです。

聞くところではウソの名人というのは、真実の中にウソを巧みに織り込んでいくのだそうで、世界的名器や著名ピアニストに混ぜてこんなピアノをお買い得品として推奨するのは、ある意味最も悪質という気がします。

動画でそんなピアノの宣伝の片棒を担がされている先生やピアニストも、ただただお気の毒というほかはありません。
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理性の采配

Eテレのクラシック音楽館では先月おこなわれたNHK音楽祭の模様がはやくも放送され、ユリアンナ・アブデーエワのピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴きました。
指揮はマルティン・ジークハルト。

隅々までぬかりなく堅固な意志の行き届いた、お見事と云わせる演奏でした。
音の粒立ちが素晴らしく、とくに1/3楽章の速いパッセージなどでは音符のすべてが明晰かつ凛としており、アブデーエワの持つ演奏技術の素晴らしさをまざまざと見せつけられるようでした。

しかし、音楽の根底にあるものが歌であり踊りであるということを考えると、アブデーエワの演奏はいささかそれとは異なる目標が定められているのでは…とも感じられます。

あまり多くはない歌いまわしやルバートも、自然発生的というより台本で予定されている観があり、モーツァルトの音楽には少々そぐわない気がしたことも事実。基本的にはこの人の演奏は、遊びや冒険を排した理性の采配そのものと、随所に覗くピアニスティックな要素で聴かせる人だと思いました。

それなりの解釈の跡も見受けられますが、むしろ傑出した指の技術と、それを決してひけらかすためには用いないという自己主張が前に出ていて、「できるけどしない」というかたちでの力の誇示が、却って大人ぶっているようで鼻につく感じがあります。
それでも、これぐらい揺るぎなくきっちり弾いてもらえるなら、とりあえず聴くほうは演奏技巧の見事さに感心するのは確かです。

全体を振り返って感じるのは、この人に著しく欠けているのは音楽に不可欠の即興性や燃焼性、もっと単純にいえば率直さだろうと思います。
いかなることがあろうとも情に動かされない、不屈の精神の持ち主のようで、音楽家でが音楽的感情に動かされないということが、本来正しいのかどうか…。

ともかく、その日その場で反応していく「霊感の余地」を残さないのは、このピアニスト最大の問題点のような気がしますし、わけてもモーツァルトのような一音々々に神経を通わせて、センシティブな呼応を重ねていくような音楽で、事前にカッチリ錬られた作り置きみたいなパフォーマンスを完結させることはどうも感覚的にそぐわないものを感じます。

まあ、ひとことでいうなら、いかなる場合も決して波長がノッてこないのは聴く側の期待する高揚感をいちいち外されていくようで、なぜそんなにお堅く処理してしまうのかわかりません。

単に上手いだけでない、器の大きなピアニストを聴いたという印象には確かなものがある反面、いい音楽を聴いたという満足とはちょっと食い違った印象が手足を捉えて離してくれない…それがアブデーエワのピアノだという気がしました。

アンコールでショパンのマズルカを弾きましたが、こんな場面でちょっとした小品を弾くのにも、絶えず強い抑制がかかっているようですっきりできません。ひどく窮屈な感じがあり、少なくとも演奏によって作品が解き放たれる気配がないのはストレスを感じます。

余談ながら、黒のパンツスーツ姿がトレードマークのアブデーエワですが、それがさらに進化したのか、黒の燕尾服のようなものにヒールのある靴を履いた姿はまさに男装の麗人、川島芳子かジョルジュ・サンドかという出で立ちでした。
実はこれまで、服装は音楽とはとりあえず関係ないと思ってきましたが、彼女の優しげな眼差しはまるで少年時代のキーシンを思い起こさせるようでとても可愛らしいのに、そんなビジュアルの逆を行かんばかりのガチガチの服装は、その演奏の在り方にも通じるのではないかと、さすがの今回は思わずにはいられませんでした。
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うわさのこわさ3

本のタイトルは忘れましたが、櫻井よし子氏の著書の中で、次のようなことが書かれていたのをふと思い出しました。

大まかな意味だけしか覚えていませんが、要するに、本当に大事な話とか、大切な内容をしっかり人に伝えるには、相手の目を見てゆっくりと静かに語りかけることが必要であるというようなことでした。

討論の場でも、大きな声を張り上げて自説をまくし立てるのは得策ではなく、あわてず冷静に、むしろ静かな調子で話をするほうが、相手は自然と耳を傾けるのだそうで、これはなんとなく「音楽的感動の多くがピアニシモに依存されている」という原理とも符合しているように思えました。

そして多くの調律師さんは、まさにそういった要素をある程度満たした語り術をごく自然のうちに身につけているようにも思えてしまいます。

一般論として、調律師さんの大半が話し好きであることは折に触れ書いてきました。
技術系の人が自分の技術の話をするのは、専門家としての自負と、一般に理解されないという欲求不満とがないまぜになって、ことさら語りたい願望があるのかもしれません。
わけても、調律師さんは仕事柄、お客さんと一対一で静かに話がしやすい状況にあり、その点では恵まれた舞台がけを持っているということになるようにも思えます。

なにかというと出てくる武勇伝は数知れず、他者の批判やさりげない否定は三度のメシよりお好きといった向きも少なくありません。しかも、一部例外はあるとしても、大半は言葉や態度はきわめてソフトであるし、いかにも慎重めいた言い回しをされるなど、これはまさに周到なトーク術というべきものだと思います。

マロニエ君などは聞いているぶんにはいろんな意味でおもしろく、じっさい勉強にもなるので調律師さんの話を聞くのは嫌いじゃないというか、むしろ好きなほうだと思います。
ただ、いかにも「ここだけの話ですが…」的な調子で、しかも自宅という閉鎖された空間で、他者に遮られることも反論されることもないまま、ひたすらひとりの技術者の話のみを聞いていると、つい相手に引きこまれてしまうという特別な状況下におかれることも否定できません。

とくにこの手のトークに免疫のない人にとっては、まさに赤子の手を捻るも同然で、一種の催眠術的…といえば大げさかもしれませんが、抵抗力の無い人間がいかに語り手の狙い通りに話を聞いてしまうかというのは人間の心理作用としてすでに証明されていることです。
少なくとも聞き手はこの時点で、一時的な痴呆状態に陥っているともいえるでしょう。

おまけに意味深かつ表現力のあるピアニシモで語られると、これは変な喩えですが、ある意味、くどきにも似たエロティシズムも加わって、イヤでも納得させられる状況に追い込まれます。同時に、そんなトークのネタにされる同業他者はたまったものではないだろうなぁ…と思うこともないではありません。
それでも楽しく聞いてしまうマロニエ君もマロニエ君ではありますが。

ウワサ話やおしゃべりは一般的には女性の得意分野のようにされていますが、本当にこわいのは男の知性でコントロールされた「それ」なのかもしれません。
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うわさのこわさ2

ピアノの調律の極意や判断基準がどこにあるのかは、マロニエ君もいまだにわかりません。

調律する際に出す音、もしくはタッチ如何によっても大きく違ってくるようで、我が家に来られる技術者のおひとりは、終始繊細なピアニッシモで調律をされ、それはそれで長い話になるほどの理由と根拠があってそうされているわけです。

しかし、おそらくはフォルテで行う調律にもある一定の理由があり、むやみに全否定してしまっていいものか…というのがマロニエ君の偽らざる印象です。
ウワサの対象になった方の調律によるコンサートは何度も聴いていますが、ピアノの音に感銘を受けたことも幾度かあったほか、まったく同じピアノ/ピアニストで別の調律師がおこなった調律では、明らかに音が平凡で輝きも迫りもなく、それに気付いた人も何人かおられたほどでした。
やはりこれは誰にでもできることではないと思います。

むろん好みはあって当然で、マロニエ君も素晴らしいとされるものにも自分の好みでないものはたくさんあります。しかしひとりの技術者としての在り方を根本から否定するのであれば、それがどこまで正鵠を得ているのかと、ここは強く疑問に思うのです。

…しかし、しょせんウワサや悪評というのは、そもそもが好い加減で、そのための検証とか真偽の確認なんてされることのほうが少なく、大抵は無責任で残酷なものだと相場は決まっています。することなすことすべてが否定や非難でおもしろおかしく語られ、人から人へと広まっていくのは、なんだかとてもやりきれないものを感じてしまいます。

それに拍車をかけるのは同業者による批判でしょう。
職人とか技術者というのは伝統的に閉鎖的かつ自己肯定型の世界です。それだけ他者や他の流儀を受け容れない本能みたいなものがあるのかもしれません。(中にはその体質を逆手にとって「自分は人の技術も大いに認めていますよ」という謙虚さを妙にアピールする人もいたりします。)

いずれにしろ、専門家は専門家であるが故に、いかにも説得力ありげな自説を展開でき、さらには門外漢にその判定は甚だ難しいために、反論もできずに一方的にお説を承ることになります。

おしなべてピアノ技術者は相手がなるほどと思ってしまうようなトークが不思議なほど上手いので、大抵の人は意のままにコントロールされてしまうでしょう。ここで言う「大抵の人」とは、技術者ではないほとんどの人達で、むろんピアニストや教師の類もこれに含まれます。

このような同業者のコメントによって、ウワサは単なるウワサではなくなり、いわば専門家によって裏書きされたものとなって、さらにエネルギーを増していきます。

この先生の場合も、ウワサの予備知識があったところへ、名人らしき出入りの調律師さんがこの件ではずいぶんいろいろなコメントをして帰ったようで、それが決定的となり、件の調律師さんの悪評はいよいよ不動のものとなってしまったようです。
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うわさのこわさ

むかし、「ウワサを信じちゃいけないよ!」と歌い出す歌謡曲がありましたが、ウワサというのはえてして信じやすく、とくに悪いほうのそれは一種魔物のような恐さを感じることがあるものです。

それが真実であっても、なくても、ある段階を超えると、いつしか事実以上の力をもってしまうのがウワサの恐いところです。とくに否定的な内容であればあるだけ、そのウワサには勢いがついて闊歩するさまは、ほとんど竜巻みたいなものかもしれません。

ある調律師さんに関するウワサを耳にしましたが、この方は調律の際の音出しで、フォルテを多用して仕事をされるのが特徴のひとつです。
マロニエ君もよく知っている人ですが、この方の調律はたしかに独特で、いわゆる平均的・標準的な調律ではなく、長年にわたり独自の調律を追求されてきた方です。

ひとことで云うなら遠くへ美音を飛ばすことを旨とされ、この調律を嫌いな人もいる反面、これがいい!という熱烈な支持者も少なくなく、この人を指名してコンサートや数多くのレコーディングを続けている有名ピアニストもあるほどです。

ところがどういう理由からなのか、この方に否定的なウワサが立っているようで、長いお付き合いの音楽の恩師(しかもピアノではない)からまで、この人の仕事を非難する内容の話が出てきてびっくりしました。

この先生は長年にわたりお世話になった、とても生徒思いの立派な方ではあるし、しかもピアノの調律がこのときの話題の中心でもなかったので、マロニエ君もこのときは空気を読んで敢えて口を挟みませんでしたが、その技術者が保守管理をされているホールのピアノがいきなり槍玉にあがりました。どうやらこの会場でコンサートをしたピアニストの話などがベースになっているようです。

その内容は惨憺たるもので、あまり具体的なことは書けませんが、とにかく話だけ聞いていれば「そんなひどい調律師がいるのか」と誰もが思うような話になってしまっていました。

しかし、マロニエ君はその人の調律を悪くないと感じていた時期もあるし、今は好みが少し変わりましたが、すべてをダメと決めてしまうのは、いくらなんでも極端すぎて「こわいなあ」と思いました。
その方は、ご自身の信念と美意識に基づいて、理想とするピアノの音や響きを追求して来られた人であることは確かで、少なくともただ音程合わせしかしない(できない)調律師でないことは素直に認めるところです。
したがって好き嫌いの話ならわかるのですが、技術者としての価値を全否定するようなウワサとなっているのはさすがに驚きでした。

繰り返しますがこの先生はピアノの方ではありません。
そもそもピアノを弾く人の世界というのは、他の器楽奏者のように楽器の状態や音に敏感でもなければこだわるほうではないのが一般的で、本当にピアノの音や状態の良し悪しがわかる人、もしくはわかろうとする意欲のある人は驚くほど少数派なのが現実です。

ピアニストは向かった先にどんな楽器が待ち受けていようと、ひるまず、不平も言わず、与えられた「その楽器」で正確に弾き通せる逞しさを備えることが必要とされ、下手に楽器に敏感でないほうが身のためだという側面もあるかもしれません。

さて、くだんの調律師に話を戻すと、そんな人達に囲まれたピアノであるだけ、行き過ぎた悪評が冷静な判断によって修正されることなどまず望めません。いったん悪評やマイナスのウワサが広がると、もうそれを止める術はないわけです。
悪評の根拠となるまことしやかなエピソードには尾ひれがついて象徴的に語られ、「そんなひどい人がいるのか」「そんな人には絶対に任せられない」と誰しも思ってしまうのが聞かされた側の人情です。

しかもだれも責任はとらないのがウワサです。
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驚倒

「CD往来」というタイトルで、知人との間でオススメCDのやりとりをしていることを書きましたが、いまだにときどき続いています。

過日送っていただいた中には、コンスタンティン・リフシッツの「フーガの技法」、ドイツの若手であるダーヴィッド・テオドーア・シュミットによるブゾーニの編曲ものばかりを集めたアルバムが含まれていました。

この二つに共通しているのは、いずれもベヒシュタインを使っているという点で、それを事前に聞いていたので興味津々でした。

手許にあるリフシッツの「音楽の捧げもの」はとくに記載はないものの、ほぼ間違いなくスタインウェイと思われるものだったので、それから数年を経た録音でベヒシュタインを使っているということは、きっとそれなりの理由あってのことだろうと大いに期待したわけです。

小包が届き、御礼メールをしたためながら、まずフーガの技法を鳴らしてみることに。
果たしてそこから出てくる音は、伸びのない、ただ茫洋とした古い感じのピアノの音で、メールを書く間の20分ほど鳴らしていましたが、てっきり旧型のベヒシュタインが使われたものだと思い込んでしまいました。その旨の感想を書いたところ、後刻、先方からジャケットの裏表紙の写真がメールに添付され、そこにはD282と書かれていたのには驚倒しました。

D282といえば現行のベヒシュタインのコンサートグランドで、エルバシャの平均律や近藤嘉宏のベートーヴェンなどもこのピアノが使われており(いずれも日本での録音)、そこで聴く音は、ベヒシュタインらしさを残しつつも、それ以前のモデルにくらべれば遥かに現代的かつ折り目正しく整ったピアノであることが確認されていました。
今どきの好みや要求を適度に汲み取ってパワーと安定感が増し、美しい音を併せ持ったなかなかのピアノという印象を得ていたのです。

ところが「フーガの技法」に聴くピアノの音は、それらとはかけ離れたもので、おそらくピアノの調整、弾き方、録音環境/技術などが絡み合っての結果だろうとは思われました。
とりわけピアノの調整についてはピアニストの要求もあったのか、それともよくある「お任せ」なのか…。

レーベルはオルフェオで、これは「音楽の捧げもの」も同様ですが、どうもこのレーベルの音質じたいにどこかアバウトさがあり、音に核がなく平坦、しかも残響が多くてフォルム感がなく、あまりその点に厳しくこだわるほうではない傾向なのかもしれません。

それにしても、日本で録音されたD282が、あれほど正常進化ともいうべき要素を備えていることを訴えていたにもかかわらず、場所や技術者が変われば、ただ古いだけのベヒシュタインみたいな音にもなるというのは、まったく予想だにしていませんでした。
一皮剥けばこんな旧態依然とした地声だったのかと思うと、好印象を得ていたのは特別な技術者によって入念に作られたよそ行きの声だったみたいで、なんだかがっかりしてしまいました。

別の見方をすれば、根底にはこのメーカーのDNAが脈々と受け継がれているということでもあり、その遺伝子こそが伝統なのだと言えないこともないのかもしれません。
ENからD282への進化は、むき出しのピン板がフレーム下に隠されたり、デュープレックスシステムを備えるなど、いかにもドラスティックなもののような印象がありましたが、実際には単なるマイナーチェンジに過ぎなかったのかもしれません。

CD往来では、いろいろな刺激や発見が次から次で、とても勉強させられます。
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アンリ・バルダ

青柳いづみこさんの著作『アンリ・バルダ』は、読者レビューによれば評判はそれほど芳しいものではなく、むしろ否定的な意見が多く見られたようでした。

普通ならこういう書き込みを見ると購入意欲を削がれるものですが、アンリ・バルダというピアニストは一度テレビで視たきりで、よく知らなかったこともあるし、そもそも青柳女史が一冊の本として多大な時間と労力を賭して書き上げるからには、それなりの意味と価値があったのだろうと思われ、敢えて購入に踏み切りました。

果たしてマロニエ君にとっては、否定的どころか、この本は青柳氏の数々の著作の中でも出色であったように思われ、始めから最後まで、概ねおもしろく読むことができました。

バルダという気が弱いのに我が儘な、傲慢なのに優しげな、いかにもヨーロッパにいそうな昔気質の音楽家の姿がそこにあり、傷つきやすい繊細な心象を抱きつつ、それを守ろうともせず矛盾の渦の中に自分をつき落とし、後悔を繰り返しながら、それでも本能のようにピアノを弾いている、はや初老のフランス人ピアニストの半生でした。

本を一冊読み終えてみると、無性に演奏が聴きたくなるものですが、手許には一枚もCDがありません。オペラ座バレエのジェローム・ロビンスの舞台では長年ショパンを弾いていた由ですが、以前マロニエ君がこれを見たときは別の女性ピアニストになっていて、そこでのバルダも聴いてみたかったなどあれこれと興味ばかりが沸き立ちました。

本によると、ときどき来日してはコンサートやレッスンをやっているようではあるし、そのうちまたクラシック倶楽部でもやるかもと思っていたら、その念願が通じたのか、それから早々のタイミングで「アンリ・バルダ・ピアノリサイタル」が放映されたのには却ってこちらのほうが驚きました。

2012年の浜離宮でのリサイタルで、ラヴェルの高雅で感傷的なワルツ、ソナチネ、ショパンのソナタ第3番というものでしたが、不機嫌そうにステージに現れたバルダは一礼をするとサッと椅子に座り、一呼吸する間もなく演奏を始め、見ているほうが大丈夫か?と不安になるほどです。

本を読んでいたこともあると思いますが、次第にわかってきたのは、このバルダのステージ上の素っ気ない態度は、ひどく緊張している自分との戦いのようにも思われました。

バルダのピアノはタッチの多様さというものが少なめで、悪く言うとタイプライターのように容赦なくキーを叩いて演奏をひたすら前進させ、その疾走するスピードにときどきバルダ自身さえもが煽られているようなときもあるようです。

あまりに出たとこ勝負的な演奏なので、途中で本人もマズいと思っているのかもしれないけれど、笛が鳴って飛び込んだら、ともかくゴールを目指して泳ぎ続けなくてはいけないスイマーのように、遮二無二、終わりに向かって進んでいくといった感じでもあります。
よく聴いていると情感はあるのだけれど、それを正面から出すのが彼のセンスに合わないのか、むしろドライぶって仮面を被っているようでもありました。

ラヴェルは彼の十八番のひとつのようですが、現代の演奏に慣れてしまった耳で聴くと、すぐにその良さは伝わりません。むしろデリカシーのない、思慮を欠いた、荒っぽい演奏のように聞こえてしまうでしょうし、事実マロニエ君もはじめのうちはそんな印象で聴いていましたが、だんだんにこの人が紡ぎ出す音楽の美しさと、作品そのものの美しさが和解してくるようです。
音楽が奏者の感性を通して演奏となり、それが音として実在してくるという一連の流れが、とても芸術的だと感じるようになりました。

バルダの主観によって捉えた音楽を、ありのまま出してみせるという、まるで画家の自由奔放な筆使いを見るようで、他のピアニストでは決して味わうことのできない面白さを満喫することができました。

もちろん欠点はたくさんあるし、「それはあんまりでしょう!」といいたくなるような部分も随所にありました。でも例えばショパンの第三楽章の悲しみの中に沈殿する透明な美しさや、それを隠そうとする恥じらいなど、バルダの心中のさまざまなうごめきが伝わってくるようで、もっとこの人の演奏に付き合ってみたいような気になるのは、まったく不思議なピアニストだと思いました。

アンコールではショパンのノクターンが弾かれましたが、これがまたエッ!?!というような賛同しかねるもので、最後の最後まで苦笑させられました。

でも、マロニエ君はいつも思っていることですが、物事の良し悪しというのはその残像としてとどまるものに証明されると思います。その点で言うとバルダは、結局は非常に後味の良い、魅力あるピアニストであったことは間違いないようです。

甚だ辛辣で偽悪趣味のパリジャンもなかなかカッコイイものです。
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プライドもどき

プロフェッショナルのスタンスに関連して思い出したことを少々。

世の中にはビジネスをやっているにもかかわらず「ありがとうございました」という言葉、もしくはそれに準ずる挨拶を決してしない人が(ごく稀に)いるというのは首をひねるばかりです。

医療関係や学校関係がそれをいわないのは、まあなんとなく社会の慣習として定着していますが、それにも当たらない大半の業種では、これなしではなかなか場が収まりません。

であるのに、毎回どうにかしてこの言葉をすり抜け、あげくには、あま逆さまにお客側に御礼を言わせてしまうという摩訶不思議な状況になるのは、呆れると同時に、なぜそこまでこだわるのか理解に苦しみます。

その理由は、きっと心の深いところにわだかまっていて、体質や細胞にまで染み込んでいるのだと思います。
ふと振り返っても、通常の仕事はもちろんお客さんを紹介するなどしても、一度としてその言葉を聞いたためしがないとなると、これはよほど重症なのだろうと思われます。

「ありがとうございました」という言葉は通常の人間関係でも日常語であり、ましてやビジネスともなれば、ほとんど呼吸同然に身についているのが普通です。食べ物屋に行っても、モノを買っても、金融でも、技術でも、サービスでも、100円ショップでさえも、この言葉は過剰ともいえるほど繰り返し聞かれ、言う側も、言われる側も、これなしでは関係が立ちゆきません。

心からの感謝の気持ちかどうかは別にして、皆ごく当然の流れで「ありがとうございました」を口にしていますし、これは商行為のケジメであるし、仕事というものはどのみちそんなものの筈です。
それでも、この言葉を極力発したくないというこだわりがあるとしたら、そんな人はそもそも商売なんかせず、勉学に励み、医者か官僚にでもなればいいのです。

ビジネスに対する意欲や情熱は人一倍あるのに、この言葉を頑として口にしないというのは、明らかに意識的としか思えません。きっとそこには心の屈折がある筈で、ひとくちに言ってしまえば、よほど自信がないことの証明だと思って間違いないでしょう。
御礼を言うことは自分が頭を下げて負けるようであり、そのぶん相手が上に立って優勢になるというような、卑屈で脅迫的なイメージが固定されているのかもしれません。

これと同じことは、「申し訳ない」や「すみません」にもあらわれ、これがスッパリ言えない人にはやはり卑屈さがあり、むやみに勝ち負けを意識する思考回路になっているのでしょう。

コンプレックスから意識過剰になり、卑屈になって、挨拶が挨拶以上の意味に感じられて、それを口にしたくないということもありそうです。
子供が好きな女の子にかえって意地悪をするように、人間は本心は悟られたくないときに場違いな強気の態度をとってしまうという防衛本能があるのかもしれません。
とはいえ、ビジネスの現場にまでそれを持ち込むのは、いかがなものかと思います…。

そもそも、自分に自信のある人というのは、心にも余裕があるからおおらかで気持ちも明るく、何事も偉ぶらず、御礼やお詫びなども、臆せずに、堂々と、盛大に言うものです。

自信のある人は、どんなに感謝やお詫びの言葉を口にしても、それで自分の立ち位置がけっしてブレることがないことを知っています。
逆にそういう言葉を避けたり惜しんだりする人は、自分ではそれこそがプライドのつもりなのかもしれません。しかし、悲しいかな目論見どおりには人の目には映ることは決してなく、むしろ力んでばかりいる臆病な小動物みたいに見えてしまいます。
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プロの矜持

今年、縁あって知るところとなった自動車のメンテナンスショップがあります。
ここのご主人がたいへん立派というか、見上げた心がけの持ち主で、すっかり感心してしまいました。

それは故障の修理にあたって、いろいろな可能性や方策が講じられ、「それで結果がでたら、これこれの料金で…」というスタンスを取ることです。

故障しないことが当たり前の日本車にお乗りの方はご存じないかもしれませんが、輸入車に乗ると、ほかに代え難い魅力がある反面、信じられないような故障やトラブルに悩まされることになります。とくに保証期間が切れると、以降は何があっても費用は自腹を切らなくてはなりません。

まず大変なのはトラブルの原因究明ですが、これがやっかいです。
ライトが切れたとか、タイヤがパンクしたというのなら話は早いのですが、現実のトラブルはとてもそんなものではありません。機械の奥深い部分に、考えられないような原因があることは珍しくなく、それを正確に突き止めることが至難の技です。

さらに現代の車は大小様々なコンピュータまみれで、これが悪さをすると、なにが原因かを特定するのは困難を極め、そのためのテスターなども実は限界があって決して万能ではありません。

突き止められなければどうなるかというと、問題の可能性がありそうなパーツを交換して、あっちがダメならこっち、こっちがダメならそっちといった具合で、オーナーは車が直って欲しい一心でその成り行きを見守ることしかできまません。

実際、部品を換えてみないとわからないということも確かにあることはあるのですが、多くはメカニックが独断的な見立てをして部品を発注、さてそれを交換してみたものの一向に改善されない…といったことがよくあるのです。
これはつまり、結果からすれば交換の必要がなかったパーツだったということになり、じゃあその部品代や交換工賃はどうなるのかというと、これは車のオーナーの負担になります。

常識で考えれば、「プロの見立てが悪いのだからそっちの責任」ということになって然るべきですが、実際はなかなかそうもいかないのです。
修理する側にしてみれば、直すための努力をやっている過程で発生したやむを得ない手順のひとつというわけで、それを容認できないようなら「うちじゃ診きれません」というようなことになるわけです。

しかも、輸入車の場合は診てくれる工場も多くはなく、見放されては困るという乗り手側の事情もあって、理の通らない請求にもじぶしぶ応じることになるわけです。

ところが、このショップでは工賃もリーズナブルな上に、結果に対して責任を持つ姿勢であることは、本来なら筋論として当たり前のことですが、それがほとんど実行されない現状に慣らされているぶん、マロニエ君は大いに感激してしまいました。
今の世の中、当たり前が当たり前として機能し、実行されることはそうはないのです。

プロというものは、基本として結果に責任をもち、そこに報酬を得ることのできる専門職のことであって、結果に至るまでの未熟さや紆余曲折の過程で発生した部品代や手間賃をいちいち請求するのは、ほんらいプロとして恥ずべき事だと思います。

ピアノの世界でも、せっかくいい仕事をされるのに、作業内容や料金に対して一貫したポリシーをもてない人がいたりすると、それだけでしらけてしまいます。
はじめに聞いたことと、いざ請求するときの金額や内容が微妙に違っていたりするのも、こちらは敢えて追求はしないけれども、内心ではむしろ鮮明にきっちりわかっているだけに、そんなとき見たくないものを見せられるような気がします。

小さなことは実は決して小さくはないということでしょうか。
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コンラッド・タオ

いつだったかCD店の処分セールのワゴンの中から買ってみたもののひとつに、コンラッド・タオという中国系アメリカ人のアルバムがあり、このとき初めて聴きました。

ピアニストで作曲家、おまけにヴァイオリン演奏もプロ級という大変な才能の持ち主のようで、このアルバムでもラフマニノフのプレリュードやラヴェルの夜のガスパールのほかに自作の作品もいくつか含まれていました。
すでにダラス交響楽団からケネディ大統領暗殺50年のための委嘱を受けるなど、作曲家としてもすでにかなりの評価を受けているようです。

まだ二十歳前という若さにもかかわらず、非常に洗練されたスタイリッシュかつ雄弁な演奏であるのは印象的で、技巧的にも申し分なく、あらためて音楽の世界は若い時期にその才能が決定してしまうことをはっきり思い知らされるようでした。

いかにも中国人という感じの、あまり期待させるジャケットではなかったので、よけいにその趣味の良い完成された演奏、さらには自作の作品もなかなかのもので、こういう優れた才能が存在していることに驚かされました。

気をよくしてyoutubeで検索したところ、その中の映像ではさらに若い頃のものか、リストかなにかを弾いているものがありましたが、なんとそこでの彼は中国節全開で、到底CDの演奏と同一人物とは思えないようなものであるのに愕然とさせられました。

この点はたいへん不可解ではあるけれども、善意に解釈すれば、その後の研鑽によって一気に国際基準の語り口を身につけ、現在のようなスマートな演奏が確立されたということかもしれません。真相はわかりませんが、今のところはそう思っておきたいと思うのです。

マロニエ君の好む演奏のひとつに、繊細なのに音楽的な熱気があるというスタイルですが、コンラッド・タオのピアノにはそれを感じ、中国の才能も大したものだと思います。
ああ、またか、と思われる向きもあるでしょうが、これだけいろいろな才能がある中で、なぜランランのような人がひとりスター扱いを受けるのか、この点が甚だ納得がいきません。

ランランで思い出しましたが、どうして中国人青年の若い頃というのは、だれもかれも昔の板前さんみたいな五分刈り頭で、まわりから浮いてしまうほど場違いな雰囲気を発散するのかと思います。

ある意味で、いまや伝説の映像となっている、若いランランがデュトワ指揮N響と共演したラフマニノフ3番のときもこれだったし、ニュウニュウもはじめはそれ、そしてアメリカで育った筈のコンラッド・タオでさえやはりこのスタイルなのは唖然としてしまいます。
例外はユンディ・リだけでしょうか…。

まあ、それは余談としても中国の音楽家の良いところは、演奏がぶつぶつ切れるような縦割りではなく、好き嫌いはあるとしても、みんなある一定の流れを持っているところのような気がします。
ひょっとすると、これは複雑な発音を流暢にしゃべる中国語にその源流があるのかもしれません。

なにかにつけ優秀な日本人ですが、こと外国語の発音だけは本当に苦手で、今回のノーベル賞受賞者といい小沢征爾さんといい、もう少し上手くて当たり前だと思うような国際人でも、どこかカタカナを並べたようで、やはり日本語という言語に深い理由があるのかもしれません。
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カテゴリー: CD | タグ:

予報と結果

今年も台風の季節となっています。

とりわけ沖縄や九州は、多くがその最前線に立たされる地勢的な運命にあり、やっと夏の暑さから解放されると思うのも束の間、お次は台風の到来を覚悟しなくてはなりません。

むかしから春の陽気が体調に合わないマロニエ君にしてみれば、春→梅雨→夏→台風と一年のほぼ半分が過ごしにくい時期となるわけで、考えてみればうんざりの時期も長いはずです。

むかし毎年のようにメキシコへ旅する知人がいましたが、彼の地は「常春」すなわち年中春なのだそうで、蒸せるような夏の暑さも、肺と血管が収縮するような冬の寒さもない、温良な季節ばかりが年がら年中続くのだそうです。
なんと羨ましいことかと思ったのですが、どうやら現地の人はそれほどでもないのだそうで、あちらから見れば(とくにメキシコ在住の日本人によると)、日本のように四季の移り変わりがあることにある種の憧れみたいなものもあるらしいという話を聞いてとても意外だったことを思い出します。

年中過ごしやすい春というのは、差しあたってはいいのでしょうが、その反面変化に乏しく、そこに住み暮らす人々もどことなく怠惰で、いつも平坦で刺激もなく、これが必ずしも人間の暮らしにとって最良とは言い切れないということを聞いたとき、そんなものかなぁ…と思ったものです。

そうはいっても、日本の四季も、言葉だけは美しくて叙情的な響きがありますが、実際にはけっこう苛酷だなぁ…とも思います。天候だけでいうなら、日本は必ずしも住みやすい地域とは云えないような気がするのですが、かといって世界を知らないマロニエ君には本当のところはよくわかりませんが。

さて、冒頭の台風に戻ると、今年は梅雨の延長のようだった夏から、季節外れの台風の情報に翻弄されたように思います。
今月も18号に続いて19号が北上、九州付近から右折して、列島を嫌がらせのように横断していくというパターンが二週続き、土日や連休は台風一色で終わってしまいました。

自然現象はどうすることもできないとしても、これに際しての気象庁の発表する台風情報、あるいはテレビが報道する台風の情報には、個人的にはいささか疑念をもつようになりました。

早い話が、いくらなんでも大げさに言い過ぎる傾向が以前よりも強くなり、毎回どれほどの巨大台風がやってくるのかと、過ぎ去るまでの数日間は右往左往させられるのですが、実際はほとんど予報や報道とはかけ離れた平穏な状態です(少なくとも九州は)。

もちろん用心に越したことはないし、結果的に大事に至らなかったのはなにより結構なことではあるけれども、あまりにそれが毎回で、さすがにどういうことなのか?と思ってしまいます。

夏の台風でも「かつて経験したことがない規模の猛烈な」というフレーズが何度も繰り返され、それは福岡地方も完全に含まれており、学校の類はすべて休校、街はすべてが台風にそなえた形となりましたが、実際は台風どころか、むしろ無風といってもいい状態のままそれは通過していきました。

先週もやや強めの風が少し木の枝を揺らしていた程度ですし、さらにそれよりも北にコースをとった19号も、いつどうなったのかほとんどわからないまま東へ進んでいき、あとから多少の風雨となった程度でした。
宮崎・鹿児島が最も危険な進路上にありましたが、宮崎市内に実家のある友人が電話をしてみたところ、「なにもなかった」とのことで、これほど甚だしく予報と実際の食い違いがあるというのはちょっと問題ではないだろうかと思います。

気象観測の技術も昔にくらべれば格段の進歩を遂げているはずですが、もう少し、リアリティのある予報であってほしいものだと思います。

もちろん防衛費などに代表されるように、社会の安全や、人々の健康というものは、ほんらい何もなくて当たり前、その当たり前を実現し維持ためには多大なコストやエネルギーを要するのはわかりますが、それにしてもこのところの台風情報はどこかおかしいのでは?と思えてなりません。
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続・CD往来

前回書いた通り「CD往来」のおかげで、聴いたことのなかったヴァイオリンのCDを一気に楽しむことができました。

2度にわたって送っていただいたCDは実に21枚!にも達していますが、とりわけ集中しているのはパガニーニの24のカプリスとイザイのソナタ全6曲で、いずれも無伴奏の作品です。
これらが各6枚ずつで12枚、さらにバッハの無伴奏ソナタとパルティータが2枚、ロッラという作曲家のヴァイオリンとヴィオラの二重奏など、無伴奏のアルバムが多くを占めました。

パガニーニのカプリスは昔パールマンのレコードをよく聴きましたが、その後はそれほど熱心に探してはいなかったこともあり、五嶋みどりなど数枚がある程度でした。
そこへ今回一気に6人もの超一流奏者によるカプリスを手にすることとなり、急なことで耳が驚いているようです。

昔の印象と違ったのは、この曲集はやはり技巧ありきの作品で、演奏はどれも卓越したものであるのは云うに及びませんが、作品としては意外に飽きてくるという事でした。

その点では、イザイのソナタにはそれがありません。
どれもが濃密な人間ドラマのようで、聴くたびにわくわくさせられるし、演奏者によってもその台詞まわしやカメラアングル、演出がみな異なり楽しめました。
とはいっても、無伴奏ばかりを延々と聴いていると、ときどき疲れてきて違うものが聴きたくなりますが、やはりおもしろいので、一息つくとまたプレイヤーに入れてしまいます。

さらに飽きさせないのはやはりバッハです。ポッジャーというバロックヴァイオリンの名手がはっとするような清新な演奏を繰り広げるのにはかなり驚きました。
昔は、フィリップスから出ているクレーメルのこれが一番だと思っていたし、最近になってイザベル・ファウストの鮮烈がこれを抜き去ったように感じていました。そこへこのポッジャーというファウストに勝るとも劣らぬ名演が加わり、充実のラインナップと相成りました。

これまでにもイザイやバッハは買ったはいいが大失敗で、演奏者の名前すら覚えていないというのもいくつかあり、その点ではヴァイオリンに通じた方が選ばれたCDはまさに精鋭揃いでした。

ヴァイオリンの音色もさまざまですが、これに関してはマロニエ君はどうこういえるほどよくはわかりません。ただ好きな音、それほどでもない音があるのはピアノと同様ですが、それが演奏によるものか、楽器によるものかなどはもうひとつ判然としないというのが正直なところです。

ちなみに最近ここに書いた樫本大進の演奏でも、チャイコフスキーでは終始音がつぶれ気味で美しさがなかったのに、アンコールのバッハでは違う楽器のような美しさを感じたのはちょっとした驚きでした。やはり楽器の美しさを楽しむには無伴奏は最適ということなのかもしれません。

ひとつ発見したのは、無伴奏ヴァイオリンのCDは、どれも録音が素晴らしいという点です。リアリティがあって立体感があって、しかも全体像も掴みやすいし、楽器から出ている直接の音と残響の区別もつけやすいし、まるで楽器が目の前にあり、演奏者の息づかいに直接接しているようで生々しい高揚感があります。
こんな面白さや魅力は、ピアノの録音ではなかなか望めないことだと思いました。

考えてみれば、ピアノという楽器は、音域もダイナミックレンジも異様に広く、それをひとつの録音作品として遠近をまとめ上げるのは並大抵ではないのだろうと思われます。
むかしオーディオマニアだった友人が尤もらしく言っていたところでは、録音技術者はピアノのソロを満足に録れるようになったら一流なのだそうで、それが今ごろになって納得させられるようです。

ピアノの場合は、録音の巧拙が残酷なまでに明らかで、それは定評のあるレーベルに於いても、アルバムごとに音質というか、要するに録音ポリシーみたいなものが常に不安定なことでも察することができるようです。
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CD往来

遠方の音楽好きの知人と電話をしているとき、ピアノの調律に話が及び、調律師によって実にいろいろなやり方や個性があることが話題になりました。

とりわけ一流どころになると、調律は明らかに芸術性が問われる高尚な領域に突入します。ひたすら職人技に終始するか、はたまたそこから芸術の領域に足を一歩踏み入れるか、ここが分かれ目です。

しかしこればかりは、どんなに言葉を労してもその音を伝えることはできません。
『百聞は一見にしかず』のごとく、聴覚もこの点は同様です。
そこで、オクタビアレコードからリリースされているCDで、我が主治医殿がピアノの調律を担当しているものをコピーして送ることになりました。だって聴いてもらうしかないのですから。

CDのコピーというものはあまり大っぴらに云っていいことかどうかはわかりませんが、パソコンなどはそれができる機能を有しており、べつに販売するわけでもなく、とりあえず「個人が楽しむ」という制限付きならば許されていることだと解釈しています。

マロニエ君は車の中の音楽はすべてコピーCDで聴いているので、ときどき車用を作るのですが、考えてみると、このところずいぶん長いことこれをやっておらず、これを機に久しぶりにCD作りに精を出しました。

どうせ送るのなら、ほかにも話の種に聴いて欲しいものもあり、思いつくままにコピー作業をやったのですが、これが案外楽しかったのは自分でも妙な発見でした。
車用を兼ねて2枚ずつ作るというのも合理的であるし、なんだか貴重な音楽CDを自分の手で作っているような子供じみた面白さもあって、数日というもの、夜はすっかりこれにはまってしまいました。

ある程度の枚数を送ると、なんと先方でも同様のことをしてくださり、ほどなく分厚いCDの包みが届きました。中を開けると予想を遥かに上回る枚数のCDが出てきてびっくり!
相手の方はヴァイオリン出身の方なので、ヴァイオリンのCDを相当お持ちで、そこには自分ではまず買わなかったであろうCDがズラリ! 一通り聴くだけでも大変な量です。

その「自分では買わなかったであろうCD」というのがポイントで、自分だけでは趣味趣向がどうしても偏ってしまって限界があります。マロニエ君ならどうしてもピアノが優先になるし、その取捨選択も、知らず知らずのうちに同じような尺度でばかり選んでしまうようです。

その点では、他者が他者の興味や価値観によって手に入れたCDというものは実におもしろいもので、ドキドキの連続、予想外の音楽や演奏に出会える恰好のチャンスとなりました。
はじめて聴くことができた演奏家や作曲家もあって、やはり所詮一人で動いていては限界があることを痛切に感じます。

マロニエ君は、趣味は基本的に、孤独でもじゅうぶん楽しんでいけるだけのものでなくてはならないと思ってます。たしかに同好の仲間がいるのは楽しいけれど、趣味という名のもと、価値観の違う者同士が無理して肩寄せ合って、口にはできないストレスを感じながら妥協的な時間を過ごすのは本末転倒で、好きではありません。

車などは同好の士が集まるのはとても楽しいのですが、こと音楽とかピアノになると、何故か知らないけれど、何かが違うというか、最も大切な核となる部分が悲しいまでに噛み合わないことがあまりに多いというのが偽らざるところでしょうか…。

むろん中にはそうではない方も僅かにおられますが、これは本当に一握りの方々です。
そういう方との交流や情報交換はやはり貴重ですし、それによって自分が大きな恩恵に浴していることは確かです。
とくにヴァイオリンのCDに関しては、おかげでグッと視界が広がったような気がしています。
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男の自意識?

今年7月にサントリーホールで行われた山田和樹指揮のスイス・ロマンド管弦楽団の演奏会から、樫本大進のソリストによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をNHKクラシック音楽館の録画から聴いてみました。

全般に力の入った演奏で、会場はたいそう拍手喝采でしたが、個人的にはそれほど好みではなかったというのが正直なところです。

音楽的にも、これという個性やメッセージ性があまり感じられないにもかかわらず、自分という存在の主張だけは怠りないものが感じられました。

マロニエ君の印象としては、樫本氏は、現在の彼が背負っている肩書きというか、手にしているポストの高さを日本の舞台でも立証してみせることのほうに意識が向いているようで、演奏もそちらの要素が主体のものであったような気がしました。

もちろん、それは目先の技巧ばかりを見せつけるような単純なものではなく、各所での思慮深さなどを充分考え、深めた上でのものだという体裁にはなっているものです。なんだかそこまでのしたたかな思惑が見えてくるようで、要するに、聴く側に演奏が深く染み込んでくると云うことがあまりなかったのが個人的な印象でした。

ソリストでも名を馳せ、それになりの活躍をして実績を積んだ上で、さらにはベルリンフィルの第一コンサートマスターに就任したということが、飛躍的な地位の格上げになったものは間違いないでしょう。

ただ、真実それにふさわしい演奏ができているのか、あるいはそれに値する器の持ち主かということになると、マロニエ君は正直よくわかりません。

チャイコフスキーの協奏曲ではオーケストラの序奏に続いて、すぐにヴァイオリンのソロが入りますが、それがあまりに意味深で芝居がかったようで、いきなり曲の流れが途絶えたようでした。この気配というのは、ほんのわずかのことではあるけれども、そのわずかはとても重要で、聴く側にとっても独奏者がこれからどういう演奏で行こうとしているのか、おおよそ方角が決定されるように思います。

そして、なんとなく、あのフレンドリーな笑顔が印象的な樫本氏にしては、かなり自分を前に出すなぁ…という印象でした。

ナレーションで言っていましたが、樫本氏と指揮の山田和樹氏はドイツでも親しい間柄なんだそうですが、終演直後のステージマナーのちょっとした所作では、名門スイス・ロマンドと山田氏に対して、かすかに上から目線な態度だったように感じられたのは、思わず「ほぅ」と思ってしまいました。

男の競争心というのは、どんな世界でも上を極めるほどに凄まじいものがあるものですが、ここにもチラッとそれを見てしまったようでした。

ちなみに、山田和樹氏の演奏には、これまで好感の持てるものにもいくつか接していましたが、このチャイコフスキーではまるで作品にLED照明でも当てたみたいで、あまりに憂いがなく、この点にはちょっと馴染めないものを感じてしまいました。
オーケストラはサイトウキネンではなくスイスロマンドなのですから、もしかするとこれが最近の明晰な演奏のトレンドなのかとも思われました。

かつてのロシアのオーケストラのような、どこかアバウトだけれど、叙情的でやわらかな響きのチャイコフスキーというのは、もはや時代に合わないものになったのか…いろいろと考えさせられました。
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北アルプス文化センター

エデルマンのショパンアルバムに聴くスタインウェイが、久々に逞しいパワーと深いものをもったピアノだったので、このところ虚弱体質の新しい同型が多い中、まだまだこういうピアノも存在していることがわかって溜飲の下がるような、あるいはホッとするような思いがしたものです。

エデルマンの演奏はやや強引なところがあるものの、この好ましい英雄的なスタインウェイサウンドを聴く快感を味わいたくて、ずいぶん繰り替えし聴きました。
データには収録場所が、富山の北アルプス文化センターと記されており、なんでそんなところへわざわざ遠征して録音するのだろうとはじめは思っていました。以前も同じレーベルで、ある日本人が弾くリストのアルバムを購入してたところ、これが演奏といい録音といい、およそマロニエ君の好みからかけ離れたもので、我慢して2回聴いてあとは完全なほったらかしとなっていたのです。

そのときも北アルプス文化センターとあったので、きっと楽器も会場もよくないのだろうと思った記憶がおぼろげにありましたが、エデルマンに聴くピアノの音がただならぬものなので、もしやと思ってあれこれ検索してみることに。
すると、北アルプス文化センターは、そこにあるスタインウェイが評判がよい由、さらにはホール側も録音に協力的なためにここで録音するピアニストが多いというような書き込みを目にしました。

へえー…そうだったんだ!と思って調べてみると、ここは1985年ごろのオープンなので、おそらくその時代のスタインウェイが納入されていると考えていいでしょう。この時期は近代のスタインウェイではマロニエ君の最も好きな時代のひとつなので、聞こえてくる音の充実感に膝を打ちました。
こうなるといてもたってもいられず、別のディスクも聴いてみたくなり、とりあえずここで録音したピアノのCDを探すことに。

その結果、菊地裕介氏の弾くシューマンのダヴィッド同盟やフモレスケのアルバムが見つかり購入。レーベルはやはり同じオクタヴィアレコードです。
2日後ぐらいに届いて、さっそく鳴らしてみると、冒頭のアレグロh-mollが始まるや、なにかが上から降りそそいでくるかのような華麗で重厚な美音の雨に総毛立ってしまいました。

録音もエデルマンのショパンほどマイクが近すぎず、さらには菊地氏はエデルマンのように強引な打鍵ではなく、より自然な過不足のない鳴らし方をしており、音としてはずっと好ましいものだったことも収穫でした。

絢爛とした甘くてリッチな音色、美しい鐘のような低音、現代性と圧倒的なタフネスを兼備して、ひとつの完結された個性がそこにあり、まるで生命体が発するようなオーラを感じます。

こういう音に接すると、やはりある時期までのスタインウェイは他を寄せ付けぬピアノだったことを思い知らされますが、その後は音質はもちろん、ピアノとしての潜在力がじわじわと下降線を辿り始めたのはただただ残念というほかありません。

どの時代のスタインウェイがもっとも好ましいかという意見はいろいろあって、80年代のものでも厳しい人はダメだと一蹴されるでしょう。しかし、マロニエ君はせめてこの時代ぐらいまでの音質を維持していれば、他のメーカーの猛追に脅かされることもなかったように思います。

この時代までは、かりそめにもこのブランドに相応しい魔力のようなものを感じる雲の上のピアノでしたが、それ以降は少しずつ飛行機が高度を落としていくように、雲の下まで降りてきて、現在は高級な量産品の音になっているというべきかもしれません。

あとは賢明な判断力のあるホール管理者が、安易な買い換えなどをせずに、佳き時代のピアノをできるだけ大事に使っていってほしいと思います。
名のある演奏家などが、「ホールのピアノはほぼ10年で寿命となる」などと、堂々と発言したりするのを目にすると、楽器屋と結託しているのかと本当に驚いてしまいます。
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水の音

マロニエ君の自宅の裏には、マンションが背中を向けてそびえ立ち、我が家とは土地の高低差があるので、マンションの土台部分は一面のコンクリートの壁状になっています。

これが幸いし、さらに両隣のお宅も住居部分がそれぞれ離れていため、ピアノの音でご近所に気兼ねすることがそれほどでもなく、控え目な音であれば深夜までピアノが弾ける環境であるのは恵まれていると思うところです。

そのマンションから、下水か何かよくわかりませんが、我が家との境界線付近にある排水口らしきところへかなりの勢いで水が流れ落ちてきて、その水の音は、隣人としては改善を願い出てもおかしくないほどの音量に達しており、それがどうかすると24時間連日続きます。

たまに我が家に訪れた人は、その絶え間なく流れ落ちる水の音に驚き、何事か!?と感じる向きもあるようです。

ところが我が家では、誰もそのことでマンションへ苦情を言ったことがありません。それは水の音というものが、うるさいと思えば確かにそうだけれど、どこか嫌ではない性質の音であるからで、勝手に自宅の裏に小川が流れているような風情を感じたりしています。

どちらかというとマロニエ君は不眠症ぎみで、ちょっとした事や物音でも寝付くことができずに苦労するほうなのですが、この川のせせらぎのような音だけは、たえず耳には届いてくるものの、なぜか心底イヤだと感じたことがありません。

これがもし別の種類の音だったらば、たとえ音量が半分でもとても我慢できるものではないでしょう。
それだけ、音にもいろいろあるというわけで、個人差はあるとしても、おおむね人は自然の発する音には寛大で、ときにはそこに心地よささえ覚えるものだということを感じないわけにはいきません。

その証拠に、春秋の季候のよいころになると、ごくたまにではあるけれども、そのマンションの住人が窓を開け放ってパーティみたいなことをやっているのか、ずいぶん楽しげにわいわいやっていることがあるのですが、こちらはそれほどの音量でもないけれど、たえず耳について気になって仕方がありません。

それに較べると、水の流れる音は音楽の邪魔にさえなりません。
人が木の感触に説明不要の感触を覚えるように、ちっともイヤではないばかりか、例えばベートーヴェンのシンフォニーやソナタの緩徐楽章のその向こうで水の音がするのは、その楽想に合っているかどうかは別として悪くはない感触です。

こういうことを考えてみると、この先、どんなにめざましい技術が生まれてピアノの響板などに流用できたとしても、それでは人の本能とか潜在的な部分を慰めることはできないだろうと、これだけは確信をもって思います。
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演奏会雑感

福岡市の南の丘に佇む芸術空間、日時計の丘ホールの企画公演である『バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会』も5回目を迎え、今回は場所を福岡銀行本店ホールに移して、少し大きな規模で行われました。

ピアノはこのシリーズ唯一のピアニスト管谷怜子さん。
前半はパルティータ第1番、6つの小前奏曲、フランス風序曲、後半は弦楽五重奏を迎え入れてのピアノ協奏曲第1番というものでした。
このシリーズで協奏曲が登場したのは初めてのことです。

演奏はいつもながらの端正かつふくよか、まったく衒いのない、真摯なバッハが描き出されます。
終始一貫、気品にあふれつつ音楽的な迫りも十二分にあり、作品がピアニストの手によってみずみずしい養分を与えられ、それが生きた音となって自然に語りかけてくるようです。

フォルムの端然とした美しさ、適切なダイナミクス、決して潤いを失わないしなやかな音色は、このピアニストの大きな美点のひとつであることを聴くたび毎に感じさせられます。

いつもと異なる点は、会場が大きいぶん、日時計の丘のブリュートナーを至近距離で聴くときのような細かな表現のあれこれや、走句や表情の弾き分け、妙なる息づかいなどが、完全には聴き取れないというもどかしさがあった反面、こういう響きの素晴らしいホールだからこそのリッチな音響に与る楽しみもあり、どちらにも捨てがたい魅力があるものです。

管谷さんも会場の大きさを考慮してか、いつもより打鍵が強めになっているように感じましたが、なにぶんマロニエ君は後方の席で聴いたので、たまたまそういうふうに聞こえただけかもしれません。

この日は全曲を暗譜で演奏されましたが、始めから終わりまでバッハだけで弾き通すというのは並大抵のことではなく、通常のリサイタルよりも数段しんどいだろうなあというのが率直なところでした。


さて、いささか迷いましたが、聴衆の一人としてあえて少し触れておくと、この日の調律はどちらかというとこの日のプログラムに適ったものだったかどうか…そこが個人的にはやや疑問に感じたことは否めません。
休憩時間はロビーに出たし、席に戻ったあともピアノの調整はなかったので、どなたがされたのかわからずじまいでしたが、ともかくこれはマロニエ君の率直な感想です。

知らないことを幸いとしているわけではありませんが、まったくありきたりな平凡な調律だと感じたことは少々残念というべきでした。とりわけコンサートでは、わずか2時間の本番に全力を尽くすピアニストと、それを聴きにやってくる聴衆、その両者のために、いかにピアノを音楽的に好ましく鳴らすかというのがピアノテクニシャンの勝負だろうと思います。

オール・バッハ・プログラムというからには、当然それにフォーカスした調律がなされて然るべきで、それによって演奏は際立ち、助けられ、より深い説得力をもつものになる筈です。
今回そういうものがあまり感じられなかったのは、もしかしたらマロニエ君の耳のほうがおかしいのかもしれませんが…。

一般的にピアノのコンサートは、ピアニストの技量や音楽性ばかりが問題にされますが、それを一方で強く支えているのは楽器です。とくにスタインウェイは、最もオールマイティなピアノだといわれますが、それはあくまでも潜在力の話であって、普通に調律しておけば何を弾いてもOKということではない筈です。
同じピアニストでも、バッハとラフマニノフでは弾き方を変えるのは当然ですが、おなじことが調律にも云えるとマロニエ君は思うわけです。
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小兵の魅力

N響定期公演に中野翔太という若いピアニストが登場し、はじめてその演奏を聴きました。
曲はグリーグのピアノ協奏曲。

一見して、ステージ人という雰囲気のまったくない、日本のどこにでもいそうな青年ですが、そのピアノには好感をもちました。

いやなクセがどこにもなく、はじめは今どきのいわゆる無味乾燥な楽譜通りの演奏のようにも感じますが、聴き進むうちに必ずしもそうでもないことが少しずつ伝わります。

日本人的な精度の高さと繊細さが支配的ですが、その中になんともいえない均整感のよさのようなものがあり、ディテールの閃きや華やかな技で聴かせるのではなく、全体を通じてじわじわと染み込んでくる心地よさが印象的でした。

その風貌や体格、あるいは指さばきをみても、いわゆる大器というタイプではありませんが、全体に好ましい配慮の行き届いた、いわば小さな高性能という印象です。ピアノは大きな楽器ではありますが、誰でも彼でもロシア人のようにパワフルで技巧的なことが絶対ではないことはいうまでもありません。

相撲でも小兵力士というのが格別な魅力を持つように、細やかな息づかいやアーテキュレーションで音楽の深いところにいざなってくれる、気の利いたピアニストというのも捨てがたい魅力を感じます。

マロニエ君はこの中野さんのピアノはこの1曲しか聴いたことがないので断定的なことは云えませんが、作品の隅々まできちんと見通しがきいて、それが演奏へと緻密に反映されているようです。それでいてメリハリもきちんとあり、必要なアクセントや輪郭はぬかりなく押さえているのは立派でした。

とりわけ協奏曲の場合は、ソロとオーケストラの音量のバランスも大切ですが、この点もほんのちょっとだけ弱いぐらいの印象があり、けなげにピアノが鳴っているという感じが絶妙でした。
それが却ってひとつの作品としての一体感を生み出し、これはこれで聴いていて非常に心地よいものだということが良くわかります。

それにしても昔はグリーグのピアノ協奏曲といえばこのジャンルの定番で、似たような演奏時間とイ短調ということもあってか、多くがシューマンのそれとカップリングされて録音されていたものですが、近年はどちらかというとあまり演奏されない曲になってしまった気がします。

以前、キーシンが弾いたのを聴いたときも非常になつかしい、忘れていたものを聴いたような記憶がありましたが、それいらいのグリーグでした。
あまりにも有名な和音とオクターブによる冒頭部分などが、幻想即興曲のように、ちょっと恥ずかしい感じの名曲に分類されてしまったのかもしれません。

その点では中野さんは、そういった名曲についてしまった長年の汚れや手あかを洗い落として、すっかりきれいにクリーニングでもしてくれたようでした。
こういう派手ではないけれど良質な演奏家が、たんなるピアノを弾く有名人としてではなく、その美しい演奏が評価されることによって愛聴されていくことが必要だと思いました。

演奏以外のことで有名になり、タレントみたいなピアニストなんてもううんざりですから。
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スマホの支配

携帯のことをもう少し。
携帯(=ケータイ)の普及は、実は「普及」というおだやかな言葉は似つかわしくない、異常繁殖とか侵略と云いたいぐらいの、とてつもない勢いで世界中が呑み込まれました。

まるで、穏やかだった池や湖に、獰猛な外来種を放り込まれることでそれまでの環境が激変するように、突如、ケータイという新種によって従来の社会の多くのものが食い尽くされ、絶滅させられているという印象さえ抱いています。
まさに生態系が変わったというべきか、これにより人の精神まで変化をきたし、一部は破壊もしくは死滅させられたというほうが適当なのかもしれません。

ケータイやネットの恐ろしいところは、人が誰でも自分の幸福を望んだり、お金が欲しいのと同じように、その圧倒的な機能や利便性を武器に、否応なく社会に侵食してきたという点です。すでに世の中がケータイ/ネットを前提とした構造に様変わりしてしまった現在、よほどの変人でもない限り、これを拒絶することは不可能です。

ひと時代前のことですが、嫌がる高齢者に家族がケータイを持たせるようになりましたが、これなどは「持っていてもらわないと周りが迷惑だ」というレベルにまで到達したことのあらわれでした。

ここまで徹底してケータイが社会を侵食していったその苛烈さが、まさに獰猛で手に負えない外来種同様だとマロニエ君には思えるのです。もはや身を守る術はないも同然と見るべきで、ここまで社会環境が変化した中で、我一人ケータイを持たないと踏ん張ってみたところで、ほとんど意味は見出せません。

そうまでして便利になった世の中のはずですが、話はそう簡単ではないのも皮肉です。便利になるということは、その代わりの不便がちゃんと身代わりのように発生していることを、近ごろ痛感させられて仕方がありません。

例えばつくづく思うのは、昔のように気軽に人に電話をするということが甚だ難しくなっているのは、便利が生んだ不便そのもので、いちいちもう…面倒臭いといったらありません。

とりわけ30代以下の世代では、電話をしてもまずすぐに出ることはない。
電話に出るタイミングとかけてきた相手を向こうで「選んで」いることはあきらかで、こういう微妙な失礼はいまや日常茶飯です。
おそらくは自分が必要と思った相手にだけ、自分の都合のいいタイミングにかぎって出るか、あるいはコールバックするわけです。このため事前に電話する旨をメールでお伺いをたてるなど、実際に会話に漕ぎ着けるまでには、毎度々々そういうプロセスや手順を踏まなくてはならないような空気があるのは、面倒臭いのみならず、気分的にも鬱陶しい。

仕事関連の電話でさえ、スムーズにサッと連絡が取れることは当たり前ではなく、多くがまずは出ない、メールをしても返事に時間を要することが多く、じかに話ができるのは、早くても最初のアクションから1時間後ぐらいであったり、ひどいときは数日も後になってようやく短い事務的な連絡が来たりで、時間がかかって仕方ありません。これじゃ世の中、流れもテンポも停滞するのは当たり前です。
現にマロニエ君は人に連絡を取ることが、以前よりはるかに面倒な手続きが増えたせいで、昔にくらべて遥かに煩わしく億劫になりました。

驚くべきは、例えば生徒を募集する音楽教室なども、ホームページはあっても電話番号は書かれていないケースが多く、中には「メールを送っても返信がない場合は、2〜3日してもう一度メールしてください。」とあり、やる気があるのか?と思ってしまいます。
言葉では音楽教室とはいってみても、要は人様からお金をいただく商売なんですから、こんな身勝手なスタンスで繁盛するわけありません。

人と人との関係は生き物で、それなりのテンポと熱気と感性なしでは、良好な関係や快適な時間を送ることはもうできないだろうと思います。現に若い世代は誤解を恐れずにいうなら、話をしていても、頭の回転があまりよろしくないと感じることは少なくありません。

自分より、遥かに若くて体力もあり、しなやかな脳細胞ももっているはずの若者が、何を言っても聞いても、飲み込みが悪く、理解できないことが多いと感じます。やっても老人のようにトロいスピードでしか対応できない様は、ほんとうに奇妙です。
そんな連中が、ひとたびスマホの操作となると、目にも止まらぬスピードで操作する姿を見るにつけ、ほとんどグロテスクな感じを受けてしまうこともあるのです。
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振り返えれば

マロニエ君は自分なりの考えもあってスマホは持たない主義なので、いまだに通称ガラケーを使っていますが、スマホの進化はどこまで行くのか、そのうち腕時計型なんてものまで出てくるらしく、聞いただけで疲れます。

スマホを敬遠する理由はひとつではありませんが、実用の点からいうと、必要時にパソコンがほぼいつでも使える環境であることがあるように自分では思います。
裏を返せば、スマホは電話機能つきの携帯パソコンだと思っているわけで、なにかとネットのごやっかいにはなっているものの、外出先でまでこれを「やりたくない」という自分なりの線引きがあるわけです。

それと個人的なセンスとして、人がスマホを操作しているあの姿がどしても好きになれず、自分がそのかたちになりたくないという、つまらぬこだわりも多少あるでしょう。さらには過日のiPhone6発売日の騒動などを見るにつけ、完全にそのエリア外にいる自分がむしろ幸せなような気がしています。

それにしても、公衆電話が当たり前だった時代を思い出すと、この分野の進歩は恐ろしいばかりだったことをいまさらながら思わずにはいられません。

むかし携帯電話が登場した頃は、大げさな発信器のようなものに大きな受話器がちょこんとくっついた、そのいかにも重そうな機械一式をショルダーがけにして、当時の先端ビジネスマンやある種のお金持ちなどが、得意満面でこれを持ち歩く姿が記憶に残っています。

まるで昔のスパイ映画に出てくる爆破装置のように大げさなものでしたが、当時これを持っている人は、その重い装置の持ち運びも、その圧倒的優越感の前では、まったく苦にならなかったことでしょう。

そうこうするうちに自動車電話が登場、走行中、車の中で電話がかけられるというのは007のボンドカーなどでしか見たことのないもので、その利便性もさることながら、多くの人の虚栄心にも一斉に火がついたようでした。
またたく間に多くの高級車のリアのトランクリッドには、電話用の甚だ不恰好なアンテナが取りつけられていきました。しかし、人間の認識とはふしぎなもので、このヘンテコなアンテナが高価な自動車電話をつけている証となると、そのダミー(電話はないのに見せかけのアンテナだけをつける)製品まで売り出される始末で、街中にこのアンテナをつけた車が溢れかえりました。

中でも中型以上のベンツやBMWなどは、これがあるのが当たり前といった状況だったのは思う出すだけでも笑ってしまいます。

やがて携帯電話も日進月歩で小型化され、わずか数年の間に爆破装置サイズから、わずか数分の1の、片手で持てるサイズにまで縮小されます。
初期費用も格段に安くなり、マロニエ君がはじめて携帯電話を持つようになったのもこの時期でした。

しかし縮小されたとはいっても、普通のようかんぐらいの大きさと重さはあり、まだとてもポケットに入れるような代物ではありませんでした。
音質は悪く、通話料は高く、不通エリアなんてそこら中で、家の中でも、窓辺に行かないと使い物にならないといった状況でしたが、それでも、線のない電話があって、それを自分用として持ち歩くことができるというのは大いに感激したものです。

これがたかだか20数年前の話ですが、今から思えばほのぼのした時代でした。
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秋吉敏子

過日は知人から事前に教えてもらって、日本の現役最高齢ジャズピアニストである秋吉敏子の現在を追った番組を見ることができました。

ニューヨーク在住、御歳84だそうで、普通なら健康に毎日を過ごすだけでも難しくなるというのに、いまもって新しい編曲やステージに挑戦しているのですから、その驚くべきタフネスと音楽に対する情熱には恐れ入りました。

とりわけジャズにとってパッションやビート感は命で、これが弛緩することは許されないことでしょうし年齢が言い訳にはなりません。毎日の欠かさぬ練習や本番ステージという勝負の場を抱えながら、それが維持されているのは驚異というほかありません。

有り体にいえば感心だなんだという言葉になるのかもしれませんが、ここまでくると、生涯ひとつの道を歩んできた人の「本能」なんだろうとマロニエ君は考えます。
もちろん大変なことではあるけれど、おそらくは「やっていないと調子が悪い」というところにまで脳や身体がすっかりそういう作りになっているんだろうと思いました。

なんとなく思い出したのは90歳を越えた瀬戸内寂聴で、いつだったか伊藤野枝や平塚らいてうなどを中心とする明治の情熱的な女性達を語る番組をやっていましたが、そこで話をする寂聴さんの驚くべき饒舌、記憶力、古びない感性、立て板に水を流すようなトークのスピードなど、それはもう大変なものでした。
世の中にはこういう例外的な存在というのがあるもんだと感嘆させられますが、秋吉さんもおそらくそっちの部類なのでしょう。

夫はサックス奏者、娘はヴォーカルといずれもジャズミュージシャンで、孫もその道の修行を始めつつあり、まさに音楽に囲まれた生活のようです。忙しく家事をこなし、人に料理をふるまい、そして練習や創作を怠らない生活はさぞや充実したものだろうと映りました。

マロニエ君はどうしても出てくるピアノにも目が行ってしまい、ときどきそんな自分が嫌にもなりますが、秋吉さんのニューヨークの自宅にあるのは意外にもヤマハでした。意外というのは、以前も何かでこの場所の映像を見たことがありましたが、そのときはメーカーは忘れましたがビンテージ系のピアノだった覚えがあったからです。

意外ついでに云うと、置かれたピアノの向きが不思議で、レンガ状の壁に高音側をくっつけるようにして置かれていることです。通常ならグランドは、直線のある低音側を壁と並行もしくは斜めに置くのが一般的で、大屋根も高音側に開くのでどうしてもそっち向きになるものですが、これは余人には窺い知れない理由があるのでしょう。

郊外の仕事場や秋吉さんが演奏するジャズクラブにはニューヨーク・スタインウェイ、日本でのコンサートではベーゼンドルファーやファツィオリなど、いろいろなピアノが入れ替わりに出てくるのも楽しめました。
中でも圧巻だったのは、秋吉敏子を中心に日本の各ジャンルのピアニスト達が集まった様子で、サントリーホールのステージには実に6台のヤマハCFXが並べられ、いかにもこの公演のため会社の威信をかけて運び込んだという感じでした。

秋吉さんは車のドライバーとしても現役のようで、ニューヨークの道をドライブしながら話します、「ジャズミュージシャンは反射神経が猛烈に発達しているから事故はあまりないと思う」。
へええ…クラシックでは、ミケランジェリやグールドの運転は、同乗者の証言によると「生きた心地がしなかった」ほどお粗末なものだったようで、その点でジャスは違うということなんでしょうか。
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アブドゥライモフ

ウズベキスタン出身のベフゾド・アブドゥライモフは、近ごろ少し注目されているらしい若いピアニストで、すでにメジャーレーベル(デッカ)から2枚のCDが発売されています。

協奏曲ではチャイコフスキー1番/プロコフィエフ3番、ソロアルバムでは、プロコフィエフのソナタ6番、悪魔的暗示、サン=サーンス:死の舞踏、リストのメフィストワルツなど、その曲目を見るだけでおよそどんなタイプのピアニストか、なんとはなしに察しがつきそうです。

ジャケットを見てそれほど「何か」は感じなかったので、そのうち聴けるチャンスはあるだろう…ぐらいに思っていたところ、その機会は早々にやってきました。

今年6月のN響定期公演に出演し、ラフマニノフの3番を弾いた様子が『クラシック音楽館』で放送されました。指揮はアシュケナージ、会場はNHKホール。

出だしユニゾンの第一主題は、ねっとりと間を取りながらの歩みで、ピアノを中心に右の聴衆と左のオーケストラの両側を同時に牽制しているようで、この若者から「慌てなさんな」と云われているようでした。が、そこを抜け出すとアブドゥライモフの指は忽ち解放されたように疾走をはじめます。

その手は大きく厚く、楽々と動いては確かなタッチに結びついて、発音にはその骨格からくる力強さが漲り、それが随所で心地よく感じることも事実でした。スタミナもあり、轟然たるフォルテッシモの連続投下などはお得意のようで、大舞台で大曲難曲を弾かせるにはうってつけのピアニストというのは間違いないでしょう。

この人の魅力は、なんといってもその力強い芯のあるタッチと、密度感のある冴え冴えとした音にあるのではないかと思いました。近年のピアニストの多くは、いろいろなことに配慮するあまり、ある種の覇気を失ってしまい、燦然と輝くようなピアノの音を出さなくなりました。
叩きまくるピアノが否定され、知的に統御されたピアニズムが良しとされる風潮もあってか、悪くいうとしっかり音を出さぬまま弾いています。そんな風潮に反旗を翻すような筋力を魅力とした演奏で、オーケストラのトゥッティにも決して負けない打鍵の逞しさは、どこか英雄的でなつかしくもあります。

ただし、アブドゥライモフが肉食系だといっても、昔のように無邪気な筋肉自慢のそれではなく、正確な譜読みやコントロールされた打鍵など、周到な準備には怠りない上でそのマッチョなテクニックを披露していく周到さは、いかにも今風のぬかりのなさを感じます。

ただ、聴いていると、一本調子でだんだん飽きてくる感じもあったのは事実です。
弱音や繊細なパッセージなども、あとに待ちかまえるフォルテッシモや随所での炸裂にいたる伏線のようでしかないのは、音楽の深いところに触れるというより、やはりどこか鍛えられたアスリートのパフォーマンスを見るようです。

終始激しく、際限なく飛び散る大量の汗の飛沫も、そんな印象に拍車をかけたかもしれません。曲が曲だったせいもあるでしょうが、むしろオリンピックの男子体操競技を見ているようで、難所難所を通過するたび、スポーツ解説のように「C難度!」「E難度!」「うーん、ここも見事にクリア!」「残るはコーダのみ!」といった実況中継を付けたくなりました。

こういう人の弾くラフマニノフの3番というのはあまりにもベタな印象で意外性がなく、もしかするともっと軽い曲を弾かせてみると、そこでどんな味わいがでてくるのかと思ったりもします。

それにしてもNHKは、オーケストラの録音となるとなぜああまでくぐもったような、ショボショボした小さい音にしてしまうのか、わけがわかりません。視聴者に音楽を楽しませようという意志がないのか、普段の5割増ぐらいのボリュームにしてもダメで、なんのための音楽番組かと思います。
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違いはいずこ

ネットの書き込みというものはまさに玉石混淆の世界です。
貴重で有効な情報が得られるいっぽうで、無責任な憶測や独断に満ちたものが無数にうごめいており、それをどう選び取るかが読者に科せられた課題でしょう。

いつもそういう前提を忘れないようにしながら読んでいるつもりですが、日本製ピアノに関する書き込みを見ていると、ふと注目すべき内容が目に止まりました。

すでに安定した評価を得ているプレミアムシリーズに関するもので、業界の方らしき人物による一種の暴露的コメントでしたが、それによると、材質面だけでいうならレギュラーシリーズとの差はほとんどないという衝撃的なものでした。「設計は同じでも、材質こそ最大の違いのはず」と思っていたマロニエ君にしてみれば目からウロコでした。
しかし、その説明は納得できる面もある気がします。

それによれば、響板も違うとされているけれど特別なものではなく、基本的には同じだといいます。となると「響板はどこそこの何々」というのはどういうことか?と思いますが、その中から多少いいところを選んでシーズニングにより時間をかけているといった程度で、言われるほどの違いはほとんどないのだといいます。

では、あの価格差を裏付けるだけの何が違うのか…。
最も大きな違いは、製造および調整段階に於ける、人手を使う割合だと述べられています。
ひとことでいうなら、プレミアムシリーズはより多くの手間暇がかけられている点がプレミアムたるゆえんで、レギュラーシリーズとプレミアムの差は基本的にここなんだそうです。
それほど楽器にとって、熟練職人の入念な手仕事がもたらす効果は大きいという証しともいえるのでしょうし、少々の材料の差より入念な技のほうがよほどコストがかかるというのもわかります。

マロニエ君は少なくともピアノ制作に関しては、「単純に機械化が悪い」とも、「なんでも手作り手作業が最上だ」とも思いません。機械と人手は、それぞれに長所短所があるわけで、最良の使い分けをすることが理想だろうと思います。
精度と均一さが要求されるパーツ制作などは機械化できるものならそれがいいに決まっていますし、発音に影響する部位の精妙な組み付けや調整などは熟練の職人技がものをいうでしょう。

以前からA社のプレミアムシリーズには大変懐疑的で、弾いても聴いても、普及型との価格差はとても納得のいくようなものではないというのが率直なところでしたし、B社のそれは非常に評判がよく、確かに普及品より明らかな上質感があるのはわかりますが、そこにはピアノが生まれもった素晴らしさというより、より良い響板の存在と、職人による入念さの勝利という印象が拭えませんでした。

日本製ピアノの出荷前の調整は近年はますます最小限で済まされているのだそうで、工作精度の高さに依存したコスト削減だとも聞こえてきます。もし高級外国製並に入念な職人の調整をやったら、それだけコストは跳ね上がるでしょう。鍵盤の鉛詰めなども、一斉かつ均等な作業と、一鍵々々を確認しながら適材適所でやっていくのとではぜんぜん違いますから。

この時点で、レギュラーとプレミアムを差別化するだけの違いはかなり明確に生まれるような気がします。そして見事に調整されたピアノは、それ自体が大きな魅力であり、そのことがプレミアムであるのは否定できません。でも、その奥に所詮はレギュラーと同じ本質が透けて見えてしまうとなるとそれでも満足が得られるものなのか…。

やはり高級ピアノを名乗るからには、基本的な構造など設計そのものから特別なものであってほしいとマロニエ君は考えますし、大衆車にどんなに高級パーツを奢っても、根本の生まれを変えることはできません。

今や海外の一流メーカーも、ビジネスとして廉価モデルを併売する時代ですが、マロニエ君の知る限り、両者の基本設計が同じというのは外国製ではひとつも知りません。

レギュラーシリーズをベースに、そこからプレミアム云々を派生させるというやり方は、いかにも日本的なモデル構成で、だからなんとなく基本が弱く、かつ物欲しそうな気配が漂ってしまうのかもしれません。
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シェプキン

このところバッハ弾きとして頭角をあらわしているらしいアメリカ在住のロシア人ピアニスト、セルゲイ・シェプキンのバッハとはいかなるものか、聴いてみたくなり、まずは1枚CDを手に入れました。

店頭でもシェプキンのアルバムは何度か目にしていましたが、バッハではなくブラームスのop.116/117/118/119というもので、曲はいかにもいいけれど、そのジャケットの写真はブラームスというより酒場っぽいイメージで、どうもそそられずに買いませんでした。

それからしばらくして、彼がバッハ弾きとしても実績と評価を積んでいるようなので、ともかく一度は聴いてみたいという気になり、まずはネットで中古のディスクを買いました。
曲目はパルティータの第1番から第4番までの4曲。

シェプキンはバッハ演奏に際してさまざまな考察を行い、装飾音などにも自分自身の解釈や創案を織り込んでいるらしく、その独自性が非常に注目されているようです。また、すでにゴルトベルク変奏曲も2度録音し、新しいものでは新解釈を世に問うているようですが、こちらは新旧いずれも聴いたことがありません。

ともかく現在はパルティータしかないシェプキンのバッハを聴いてみることに。
あまりにも有名な第1番の出だしから、なるほど装飾音に異質なものを感じますが、それは保留のまま聴き進みます。
一通り聴くのに1時間強かかりますが、差し当たり、言われるほどの新鮮さは感じませんでした。このディスクの録音は1995年ですから、もしかするとシェプキンの演奏としては充分に熟してはいないということもあるのかもしれません。

その後、何度も繰り返し聴くうちに、少しこの人の演奏にも耳が慣れてくる自分を感じはするものの、正直なところ、彼の解釈が取り立てて斬新だとも創意に溢れているとも、さほど思いませんでした。
ただ、ロシアの優秀なピアニストの例に漏れず、相当のテクニックをもっていることは痛感させられましたし、シェプキン本人には悪いけれども、その音楽性云々というより、その技巧を楽しむことのほうがはるかに魅力だというのがマロニエ君の受けた率直な印象でした。

何がすごいかというと、その確かな打鍵による、ピアノを十全に鳴り響かせる男性的な音色と、瞬発力にあふれた指さばきでした。
最近は時代のせいか、ピアノを正面から鳴らしきることのできるピアニストが減ってきており、よりスマートで軽やかに弾くスタイルが主流ですが、その点ではシェプキンの演奏はその音色やダイナミズム、タッチそのものに男性の骨格でないと決して出てこない余裕と固い芯があって、これはこれで久々に胸の支えがおりるような爽快感がありました。

むろん叩きまくりのピアノは嫌いですが、なよなよした線の細い演奏であるのに、それをさも音楽的であるかのようなフリをした演奏が少なくないのも事実ですから、たまにはこういう根底の力強さに支えられた、スタミナあふれる演奏に身を委ねるのもいいなあと思いました。

ピアノはニューヨーク・スタインウェイが使われていますが、こちらのほうが強靱なタッチにも決して根を上げない鷹揚さがあり、多少ざらついた乾いた音色でありながら、こまかいことにはこだわらずにピアノが鳴りまくっているのは、これはこれで快感でした。

続けてパルティータの残り5/6番とフランス風序曲を入れたCDを買いましたが、おおむね似たような印象でした。なんとなくブラームスも少し聴いてみたくはなりました。
ブラームスの後期のピアノ曲は、あまりに枯淡の境地を強調しすぎるきらいがあり、それの行き過ぎない演奏を聴いてみたい思いがあり、もしかしたらシェプキンはそれに該当しているかもしれませんから。
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医者もどき

最近は大病院はむろんのこと、開業医やクリニックでも、その傍には必ずといっていいほど薬局が付帯していて、病院から出された処方箋を手にここに立ち寄り、そこで薬を受け取って終わりというパターンが定着しています。

院内処方でむやみに待たされるより、これはこれでシステムとしても簡潔でいいとは思うのですが、この手の薬局でときどき疑問に感じることがあります。

薬の受け渡しの際に、薬を取り扱う者としての責務上必要というところで、あれこれと立ち入った質問をしてくる人がときどきいて、そこに漂うニュアンスには薬剤師の領域とは似て非なる言動が見受けられることが時折あるのです。

どうみても薬剤師の立場を踏み越えたような質問をしたり、中には余裕たっぷりに処方箋を見ながら「えーっと、今回はどうされましたかぁ?」などと、ほとんど医師のような物言いで、内心思わずムッとしてしまいます。
そんなことは、直前に診察室で医師と充分しゃべったことで、その結果として出された処方箋なのですから、そこに疑問があるのなら、処方箋を書いた医師に連絡すればいいことでしょう。

年配の方などには、昔の「お医者さんは偉い人」というイメージを引きずっておられる方がときどきおられ、看護士さんから受付の事務員、果ては薬局に至るまで、ひたすら低姿勢で恐縮したような態度に終始する方もいらっしゃいます。

こういう相手と見るや、いよいよこの手の薬剤師は水を得た魚のように指導的な物言いを発揮して、ひどく勿体ぶった、自分が何かの権威者で上意下達のごとき振る舞いになるのは、傍目にも気持ちのいいものではありません。

たしかに薬剤師は薬のプロではあるでしょう。
薬事上のさまざまな知識が求められ、薬を渡す際に効能や飲み方、注意点など必要な説明を添えるというようなルールもあるでしょう。だからといって、それに乗じて医者もどきの言動に及んでいいということにはなりません。

真面目に仕事をしていますよという、いわば安全な建前の中で、それをわずかに踏み越えて、個人的な愉快を得ているのは、すぐに伝わってきて不快なものを感じます。あたりまえのことですが、薬剤師は医師ではないのですから、そこには厳然と守るべき一線があるはずです。

目に余る場合は、「たった今、病院で先生にお話ししたことを、もう一度ここでお話しするのですか?」と問い質すと、もともと忸怩たるものがあるのか「あっ、いえいえ…」と、いささか上気した感じですぐに質問を取り下げるあたりは、いかにそれが不必要であるかの証明のような気がします。

いちおう白衣は着ているし、医療機関という環境の中で一般人を相手に仕事をしていると、だんだん勘違いしてくるものだろうかと不思議です。

もちろん、こういう人は少数派で、大半は普通です。
しかし、この手合いがときどきいるのも現実で、マロニエ君は自分が、そんな他者の甚だ個人的な快楽の素材にされてはなるものかと、つい警戒してしまいます。
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ラトルのマノン

今年、バーデンバーデンの復活祭音楽祭で上演されたプッチーニの『マノン・レスコー』の録画を見てみましたが、まだ第二幕の途中までで、最後まで見続けられるかどうかは甚だ疑問です。

というのも、ここに展開される舞台と演奏は、およそマロニエ君の考えるイタリアオペラのそれとは、本質的なところでの齟齬を感じて消化不良ばかり感じるからです。

オーケストラはラトル指揮のベルリンフィルで、さすがにその名に恥じないハイクオリティな演奏だということは随所に感じられますが、そのことと、その作品に適った演奏というのはまた別の話です。

このオーケストラがオペラに慣れていないのか、その他の理由なのか、やたらきっちり交響的に整然と鳴らしていくばかりで、オペラの勘どころや息づかいというものがまるで感じられませんでした。

主役のデグリューはマッシモ・ジョルダーノというイタリア人ですが、ただ一直線に絶唱するだけで、この作品の主役であるデグリューという情熱的な青年の存在感は稀薄なものでした。スピント・テノールという力強い方向の歌い手ではあるようですが、柔軟性や演技力に乏しく、いつも客席に向かって棒立ちでフォルテで吠えまくるのみという印象。
タイトルロールのエヴァ・マリア・ウェストブレークもそうですが、ふたりともワーグナーの楽劇のほうが、よほどお似合いでは?と思いました。

全体としても大味で細かな配慮が感じられないものでしたが、唯一の救いは、それなりの舞台装置があったことでしょうか。近年は装置も何も簡略化され、登場人物も現代的な衣装であったり、どうかするとほとんど普段着のようなものを着てモーツァルトやヴェルディなどの大作を上演するのが流行で、さもモダンな主張があるようなフリをしつつ、実際は舞台のコストダウンもここまでやるかというもので、とてもオペラを見る醍醐味とは程遠いものが多すぎます。

マノンはプッチーニのオペラの中でも初期に書かれた作品ですが、最も旋律的であるのが特徴でしょう。
そのめくるめく劇的旋律の妙と物語進行が、これほど噛み合わず、舞台上の出来事と音楽が混ざり合わない演奏・演出も珍しく、とりわけ全体に感じられる無骨さは如何ともし難いものがありました。
いかにも融通のきかないドイツ的な調子で、根底にしなやかさや遊び心がありません。イタリアオペラとはまったく相容れない体質があまりにも前に出て、ひどく無骨で野暮ったいものにしか感じられませんでした。

そもそもイタリアオペラはドイツ人の資質とは対極のものかもしれません。
そういう意味では、ある種おもしろいものを見たとも言えそうですが、続きはもう結構という感じです。

マノンレスコーで忘れがたいのは、若くして世を去ったジョゼッペ・シノーポリがこのオペラに鮮烈な解釈で新たな命を吹き込んだ快演で、個人的にいまだにこれを凌ぐものは出ていないと思います。

CDではマノンをミレッラ・フレーニ、映像ではキリ・テ・カナワ、デグリューはいずれもプラシド・ドミンゴという最高の顔ぶれでしたが、いま聴いても圧巻で、やはり彼らは大したものだとしみじみ思います。
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価値を買う

価格というものが高いとか安いという判断は二つあるように思います。
ひとつはこれといった基準もないまま絶対額を差す場合。もうひとつは価格を分母、対価を分子においてなされるところの、いわゆるコストパフォーマンスの原理です。

何事においても、うわべの数字ばかりに目を奪われがちなのは凡人の悲しき習性ですが、数字の安さに誘惑されているだけで、本当に得をするなんてことは滅多にありません。
自分なりに正しく判断したつもりでも、結果的にそれなりのものでしかなかったという事が少なくないのも現実で、そうそう都合のいい話が転がっているわけがないのです。

とくに今は昔のように骨董屋で掘り出し物が見つかるようなのんびりしたご時世でもありません。
これでもかとばかりに無数のビジネスが出現し、ものの価値は隅々まで検証され、整理され尽くして価格へと反映されています。さらにネット社会が追い打ちをかけ、情報は溢れ、自分だけ甘い話に与ることなんてそうはないのが当たり前です。

だから、安いものには安いだけの理由があると考えるのが順当でしょう。
物品、食べ物、技術、サービス、安全等いずれに於いても、安いものはやっぱりそれだけのものしかないわけで、これは至って当たり前のことでなんですね。

自分に潤沢な経済力がないものだから、差し当たり、できるだけ安く済ませたいという誘惑があり、知らず知らずのうちにそちらに流れている自分が確かにいるようです。それを尤もらしく理由付けしたり正当化しているのは、要は身勝手な辻褄あわせに過ぎません。
他人のことなら「質は二の次で、安さを優先」などと批判的な目で見ているくせに、自分もよく考えてみたら同様だったりするわけで、これには思わず赤面してしまいます。

自分のことは、どうしてもそれなりの事情や理由に直面しているため、無意識のうちに都合のいい判断をしてしまいますが、冷静に考えたら、これは自分自身に対する詭弁だと思います。

電気製品などを買うなら単純に安さを求めてもいいかもしれませんが、技術や質、付加価値など、事としだいによっては、価格はちゃんとそれなりの裏付けがあると見るべきで、こういう局面での節約は、まったく節約にならないことをとりわけ痛感するこの頃です。

数字に惑わされることなく、冒頭のコストパフォーマンスをいかに正しく見極めることができるか、これが一番大切だと思います。

マロニエ君も自分を振り返ると、それなりに得をしたと思い込んでいたものが、実はそれほどでもなかったと後で気がついたことは一度や二度ではありません。

早い話が、大して必要もないものをバーゲンだからといってむやみに買ったりするのは無駄だと思いますし、あまり大事にもしませんが、本当に欲しいものを定価で買うと、静かな喜びと愛着がわくものです。
長い目で見るとこっちのほうがよほど価値があると思うのです。

今後も同じような失敗をしないという保証はまったくありませんが、できるだけ少なくするよう肝に銘じておきたいところです。
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再放送から

BSのクラシック倶楽部は、いつごろからか定かではありませんが、以前に較べると同じものの再放送がずいぶん多くなりました。
ものによっては3回ぐらい繰り返しやっているように感じます。

見逃したものや、あとになってもう一度見たいと思っている場合は、この再放送/再々放送によって大いに助けられる反面、できるだけいろいろなコンサートの様子を楽しみたい側からすれば、「あー、またこれか…」となるのも率直なところです。

それでも、録画を消してしまう前に、なぜかちょっと見てみようということも少なくありません。
つい先日も、女流として世界的に有名なピアニストとチェロとのデュオの再放送があって、これもすでに一度見てはいましたが、消去ボタンを押す前についまた見てしまいました。前回の印象がさらに強まり、小柄な人ということもあるのかもしれませんが、この人が得ている地位からみれば技巧的にも余裕がなく、しかも音らしい音がほとんど出ていないことにあらためてびっくり。

曲はベートーヴェンのチェロソナタ3番のような傑作ですが、まったく潤いも活気もないパサパサした演奏で、随所に散りばめられた聴き所とか、期待している和声進行などがまったく伝わらず、この演奏のどこに耳を傾けるのかポイントさえわかりません。坪庭の控え目な植木のように地味に小さな音で弾くことがさも精神的で正しいことのような気配であるのは、ある種の傲慢さのようでもあり、かなり欲求不満がつのりました。
驚くべきは、決して大きな音でもないのに、音にはいささかの潤いも色艶もなく、素人が弾いてももっと美しい音が出せそうなもんだと思いました。

このまま就寝してはすっきりしないので、口直しに、つづけて聴いたのはデュオ・アマルという若手の男性二人によるピアノデュオで(これも再放送)、シューベルトの4手のための幻想曲D940から始まりました。
セコンドが漕ぎ出す静かなヘ短調の伴奏に続いて、プリモの単音による第一主題が乗ってきますが、繊細に弾かれながらも、ピアノがきちんと鳴っていることに、のっけからまず胸のつかえがおりるようでした。
この喩えようもない悲しみの音楽に耳を委ねますが、タッチにはじゅうぶんな注意が払われて芯があり、肉がある。いかにも男性ピニストらしい力の余裕と音色の透明感があり、ああなんと美しいことかと、さっきまでとは気分が一変するのは大いに救われました。

それにしても、4手のための幻想曲という作品の素晴らしさには、あらためて感銘を覚えることになりました。自分なりにじゅうぶん聴き込んだつもりであっても、演奏によって、新たに作品の偉大さを認識させられるのは、それだけ優れた演奏であるということの証であるといえるでしょう。

もともとシューベルトの作品は構造感が見えやすいものではないけれど、晩年(といってもわずか31年の生涯ですが)になるほど、ますますそれはとらえにくく、ピアノソナタなどにもある種の冗長さがつきまといます。

確かな設計図とか、明確な着地点を定めた上で、そこに到達させるべく緻密にペンを走らせたというより、感興の命じるまま切々と音符がしたためられた印象です。

ふつう連弾というと、ソロよりも娯楽的であったりフレンドリーな要素の作品というイメージがありますが、少なくともこの4手のための幻想曲は、そういう既成の枠をはるか飛び越えてしまった、高い芸術性をもつ稀有な作品で、連弾というイメージからはかけ離れています。
よくよく考えてみれば、少なくともマロニエ君の知る連弾(1台4手)作品の中では、突出した傑作ではないかと思いました。
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森の中

芸術の分野に限ったことではありませんが、新しいことに挑戦することは、古典を尊重することと同様に大切なことで、これを失えば何事も息絶えてしまうでしょう。

モーツァルトが当時の人が受け容れられないほど新しい音楽を書いたこと、ベートーヴェンが常に新しいものへの挑戦のスピリットを失わず果敢な創造行為に挑んだおかげで、こんにちの私達はどれだけその恩恵に浴したかしれません。

そういう前提を踏まえたにしても、どちらかというとマロニエ君(もとより創造者ではありませんが)は音楽に関しては、ある意味の保守派だろうと認識しています。
これは音楽そのものというよりは、おもに低下の一途を辿る評価基準への抵抗といえるのかもしれません。とりわけ現代の興行としての演奏および演奏家の在り方には、強い違和感を覚えることが多く、なかなかそれに馴染めないことは否定できません。

リヒテルが蕉雨園でコンサートをしたり、アフェナシェフが日本のどこかのお寺にスタインウェイを持ち込んで演奏したり、五嶋みどりが各地のお寺をまわってバッハを演奏するというようなことをやりますが、あのセンスがマロニエ君自身はどうもしっくりこないのです。

またコラボというのも個人的にはあまり歓迎の気分は持ち合わせません。むろん全面否定ではないのですが、そこにはよほどの主題とか必然性など、興味を喚起する要素がなくては、ただの意外性狙いの無節操な取り合わせになるばかりです。

スポーツの世界にも異種格闘技というものがあるそうですが、イベントとしてはおもしろくても、真のファンにとってそのジャンルの醍醐味が味わえるようなものとは思えませんし、いわばちょっと酔狂であったり、余興的な世界に属するものだと思います。

ところが、近ごろは変わったことをしないと人が関心を示さないという、音楽市場においてもやむにやまれぬ事情があるようです。それはわかるのですが、だからといってあまりに話題作り目的であったり目立てばいいという心底が透けて見えるようなイベントが多すぎるように感じて仕方がありません。

つい先日もビジュアル系ピアニスト?のブニアティシヴィリが、ドイツのどこだかの森の中へスタインウェイを運び込み、木立の中でピアノを演奏するということをやっていました…が、まるで何かのCM撮影のようで、そのいかにも上っ面の発想という印象しか抱けませんでした。

ピアノの前には形ばかりのわずかな聴き手がいて、この演奏を彼女の「お母さんに捧げる」と銘打った体裁になっていましたが、森、ピアノ、演奏、作品、どれもがバラバラで馴染まず、ひとつとして溶け合っているようには見えませんでした。ただただ空疎な感じが拭えず、聴いている人の後ろ姿もしらけ気味に見えました。

ブニアティシヴィリの演奏は好みではない上に、なにしろ森の中なので、音は悲しいばかりに周囲に散ってしまい、果たしてこの企画にどういう意味や狙いがあるのか、マロニエ君にはさっぱりわからないままでした。

そもそもピアノを野外に持ち出して演奏するということが、まず自分の体質には合いません。映画『アマデウス』では庭園のようなところでコンチェルトを弾くというシーンがありましたが、あれは音楽家が宮廷のお抱えだった時代の話でしょうし、なにしろ映画です。

わざわざ現代のコンサートグランドを森の中なんぞに持ってこなくても、森や自然にはそれにふさわしい楽しみ方、味わい方があると思います。あれだけの美しい森ならば、ただ自然の音に耳を澄ませながらゆっくり散策するだけでもじゅうぶんに感銘を受け、心の中でいろいろな思いや音楽が鳴り響くはずで、なにもそこで実際にピアノを弾いていただかなくても結構ですという感じでした。

要は森でもお寺でも、安易な思いつきだけで変な使い方や取り合わせをすると、その透徹した美はかえって反発し合い、殺し合い、魅力が損なわれてしまうように思えてなりません。
すべての世界には侵してはならない見えざる境界が自ずとあるはずで、それが作法だと思いました。
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楽器と天候

今年の夏の異常気象といったらありませんね。
梅雨明けというのも言葉の上だけで、実際は夏全体が熱帯地域の雨期さながらです。これほど鬱陶しい天候に覆われたことは、過去にもちょっとなかったように思います。

通常なら梅雨が明けると、おおむね強い陽射しによる夏日が続き、その暑さにぐったりするというのが例年のパターンですが、今年は晴れ間そのものが無いに等しい状態です。

数日に一度、本来の夏らしい陽射しがあると、思わずなつかしいものを見るようでそれだけでパッと気分も明るくなりますが、それも1〜2時間もすると怪しくなり、ウソのようにあたりは暗くなってザーッと雨が容赦なく降り始める。

考えてみれば今年の夏、一日でも安定して晴れた日があったかどうか…たぶんなかったように思います。まだ夏が終わったわけではないけれど、新聞やネットの週間予報はいつ見ても曇り/雨マークがズラリと並んでいて、これを見るだけでウンザリします。

マロニエ君はもともと夏は好きなほうではないし、これといって野外活動をするわけではありませんが、それでもお天気というものが日々の生活の中でいかに大きい影響があるかということを、今年の夏ほど切実に感じたことはなかったように思います。

広島をはじめ、痛ましい被害が出たところもあるとおり、地鳴りのするような猛烈な雨が夜中じゅう降り続いて、かなり恐怖を感じたことも幾度かありました。

こんな状況ですから除湿器にも休む間がありません。
我がディアパソンは、予想以上に湿度に左右されやすいピアノであることもこの夏しみじみとわかりました。
エアコン+除湿器でガードしていても、終日激しい雨が降り続くとさすがに調律も乱れぎみになり、焦点の定まらない鳴り方をします。あるときなど、ちょっとした油断から半日ほど除湿器の水を捨て忘れて止まっていたことがありましたが、そのときは変なうねりが出てくるほど大きく乱れてしまいました。

あわてて除湿器のスイッチを入れたことはいうまでもありませんが、驚いたのはその後で、一夜明けて湿度も元に戻ることでピアノの狂いもかなりのところまで回復しており、これにはちょっと感動しました。このような変化と復元は、理屈ではわかっていても、自分でその一部始終を体験してみるとやそれなりの感慨があるものです。

外部からホールなどに運び込んだピアノが開梱されると、急激な温度差などでせっかく調整されていたピアノが狂ってしまい、数時間たつと自然に元に戻るという話をよく耳にします。そのとき技術者は何もしないで「待つこと」が必要のようで、ピアノがステージの環境に馴染まないことには何をしても無駄だというのが実感としてわかります。

こういう環境の変化に楽器がプラスにもマイナスにも反応して、調子を崩したり復調したりというようなことに接すると、これも生の楽器ならではの魅力だと思います。

スイッチさえ入れれば季節も調律も関係ない電子ピアノは確かに便利でしょうが、このように維持管理に一定の手間暇がかかるところも楽器と付き合う上での面白さではないかと思います。

天候不順で楽器が調子を崩すのはむろん困りますが、そうかといって、もし降っても照っても、夏でも冬でも、温度にも湿度にも、なんら影響を受けないピアノがあるとしたら、それはそれでつまらないだろうと思います。
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宮崎国際音楽祭

今年の宮崎国際音楽祭から、総監督である徳永二男のヴァイオリン、野平一郎のピアノでシュニトケのヴァイオリンソナタ第1番と、漆原啓子、川田知子、鈴木康浩、古川展生による弦楽四重奏とソプラノの波多野睦美による、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番が放映されました。

いずれも12音で書かれた20世紀の作品ですが、これが思いのほかおもしろい作品で、終始集中して楽しむことができました。

いずれも徳永氏の解説で述べられたとおり、演奏される機会は極めて少ないものの興味深い作品で、シュニトケのヴァイオリンソナタ第1番は「芸術音楽と軽音楽が融合し、さらには映画音楽やジャズの要素まで混ざり込んでいる」というものでしたが、かといって決して娯楽一辺倒のものではありません。

またシェーンベルクの弦楽四重奏曲は全4楽章からなり、彼の30代中頃の作品ですが、なんと第3/4楽章にはソプラノが加わるという驚きの作品でした。徳永氏によれば、第1楽章ではまだ調性音楽の要素を留めているものの、これが第2楽章以降に進むに従い、次第にそれが危うくなって12音音楽に到達するということで、この一曲の中で、19世紀後期ロマン派の調性音楽から20世紀に台頭する無調の音楽への変遷が凝縮されているようでした。

シュニトケのソナタでは、聴き込んだ曲ではないので断定的なことは云えませんが、徳永、野平両氏の演奏は四角四面すぎて、まあ立派ではあるけれど、個人的にはもう少し表現の幅を持った雄弁なアーティキュレーションがほしかったと思いました。
とはいえ、まずは充分に楽しめたことは収穫でした。

続くシェーンベルクの弦楽四重奏曲では、まず上記4人によるクァルテットのアンサンブルが見事で、いまさらながら日本人の演奏精度の高さを感じずにはいられません。
第3楽章からは、背後の椅子に控えていた波多野さんが前に出て、朗々と、そしてどこか怪しげな世界を歌い上げます。

第1楽章からしてどこか荒廃した地の果てを垣間見るような空気感があふれ、それが後半への布石となるのか、ソプラノの登場によってさらに決定的なものへと展開していくようです。
ただ、独特な魅力ある作品だとは感じつつも、ソプラノが加わって以降というもの、マロニエ君の耳には歌曲としか認識ができず、これを弦楽四重奏として受け取るほど自分の耳が鍛えられてはいないことを実感します。まあ良い音楽であることの前では、音楽形式の枠組みがどうかということは大したことではありませんが。

全編を通じて感じたことは、東京の演奏会などより、演奏者もこころなしか気合いが入っているようで、音楽というものは奏者の気合いとか本気度で、その魅力はまるで変わってしまいます。
冷めたような義務的な演奏が横溢するなか、音楽への情熱と作品の真髄を聴衆に伝えようとする意気込みはなによりも大切で、その点で今回の演奏は大変立派なものだと思いました。

ピアノは20数年前にこの文化施設竣工時に収められたと想像される、ちょっと古いスタインウェイですが、これがまたなかなか音に深みと艶のあるピアノで、この時期が本当にスタインウェイらしい音をもっていた最後の世代ではないかという気にさせられます。

良いピアノというのは、聴いていて、一音一音に重みがあり、個性と艶があり、それだけでも聴くに値するものだということをいまさらながら感じました。
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自虐マスコミ

かねてより思うことですが、世の中を必要以上に不幸にしている、あるいは間違った方向に誘導している要因のひとつに、マスコミの不可思議な体質もかなり責任があるのでは?と感じます。

なにもここで、集団的自衛権や沖縄の基地問題に触れようとは思いませんが、どうして日本のマスコミは日本人の心をあえてざわつかせるようなネガティブなことばかり言い立てるのだろうと、この点はまったく理解に苦しむことがあまりに多すぎるよう思います。

そもそもマスコミの体質の底流にあるものは、体制批判であり、権力に対する抵抗精神かもしれませんが、それがいささか不健全というか、そのことと国民の利益を考えることは本来矛盾するものではない筈だと思います。

外交や防衛といったハードなものでなくても、たとえばニュースで連休やお盆など長期休暇に流れる内容は、ここ数年というもの「倹約ネタ」がずっと主役の座を占めていて、休暇の過ごし方、楽しみ方ひとつが、いかに節約ムードであるかということばかり、くどいばかりに採り上げます。

「元気をもらう」などという歯の浮くような言葉は巷にあふれていますが、本当の意味で元気の出るようなニュースなんてまるでなく、どこそこの温泉は通常価格に対して何人限定で○○円とか、あちこちで開催される「無料体験」「無料イベント」にいかに多くの人が列を作るかというようなことを、これでもかとばかりに言い立てます。

政府の急務は景気回復というようなことを口ではいいながら、市井の話題となるとタダもしくは異常とも思える破格値の話題などにカメラを向け、早い話が世の中がケチになったという話ばかりを追いかけ回し、これを視聴者へ無制限に垂れ流します。

「無料の工場見学が人気で、連日何千人が訪れ、帰りにはお土産までもらえる」というようなことばかり聞かされると、まともな出費をすることさえ馬鹿らしいような気分になって、いつまでたっても精神的デフレから脱却できるはずはないでしょう。
これじゃあ世の中が内向きで倹約指向になるのも当然です。

お金を使うことが単純にエライだなんてむろん思いません。しかし、人は過度の倹約節約にとらわれると、だんだん嫌な人間になっていくものです。ほどよい無駄は人を柔和にするものなのに、それをあれもこれもカットしていると、いつしか心がすさんでしまいます。

あるていど購買意欲が湧いて、消費行動へと繋がっていかないことには景気もGDPもあったものではないでしょうし、それは人間性の保持のためにも必要なことだと思います。

しかるに、次から次へと浅ましいことを考えついて、そのための情報を手繰りよせることがまるで賢いことであるかのような、そんな価値観と思考回路を作った責任の一端は、間違いなくマスコミの報道にもあると思うのです。

日本人は自虐趣味などとしばしば言われますが、それを生み育てたのもマスコミではないかと思います。どんなに頑張っても良かったとは言わず問題点ばかり探し出し、ダメの解説ばかり聞かされているようで、これじゃあいじけてしまうのも無理はありません。

少しは世の中のことを明るく捉えて、元気を取り戻させてほしいものです。
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下味つきピアノ

古い録音などを聴いていると、つくづくピアノの音が今とは違うことを痛感させられます。
うわべの派手さを追い求めず、質実剛健でありながら、腹の底からピアノが力強くふくよかに鳴っていることがわかります。

その点では、現代人のピアノの音色に対する好みは、明るくブリリアントな音であることで、これがほとんど当然のような尺度になっているようです。

この点ばかりが強調される陰で、基音は痩せ細り、楽器としての器は萎んでしまっているのに、ムラのない甘ったるい音を出すピアノがもてはやされ、賞味期限を過ぎたら迷わず新しいのに買い換えるのが正しいといわんばかりです。
しかも、もともと賞味するに値するほどの音でもないのが笑止です。

この流れをつくったのはやはり利益優先の企業体質のようにも思いますし、高級ピアノに追いつけ追い越せとダッシュをかけてきた日本のメーカーにも責任の一端はあるのかもしれません。

今や覇者であるスタインウェイでさえ理想的なピアノ作りの道筋が怪しくなって久しく、この先さらにどうなっていくのかと思わずにはいられません。

個人的な印象ですが、今のピアノの大半は、いわばはじめら下味の付いた売出用の食材みたいで、しかもその味が本当に好ましいものであるかどうかも疑わしく、奏者の表現に対する意欲や情熱を大いにスポイルしているように思われます。

だいいち、あらかじめ下味の付いたピアノの音色なんて、どことなく不気味です。
それを「いい音」だと感じているうちはいいのでしょうが、いったんその不自然に気がついてしまうともうノーサンキューで、ここから後戻りはなかなかできません。

まるで、ピアノが揉み手をして擦り寄ってくるようで、「あなたはただキーを押すだけ。あとはこちらで上手くやっておきますよ。」とでもいわれているようです。

その点では、佳き時代のピアノはまったく奏者に媚びを売りませんが、そのかわりに楽器と共に音楽をする喜びやいろんなアイデアを与えてくれるようです。
むろん前もって砂糖をまぶしたような甘味もなければ、貼り付けた笑顔みたいな変な明るさもなく、すべては作品と演奏によって表現されるものという楽器としての本分を備えているということでしょう。

現在のピアノの「おもてなし」に慣れた人が古いピアノを弾くと、くだらない欠点とか愛想のない無骨さばかりを感じてしまい、いい面がすぐには理解出来ない可能性があります。しかし、そういうピアノでいろんな表現をして音楽が姿をあらわしたときの深い説得力というものは、現代のピアノとは比較にならないほど純粋で濃密なものがあります。

もう一度原点回帰して、ピアノ音はあくまでも実直な性格に留めおいて、あとは甘いも辛いも演奏によって表現されるべきものという基本に立ち帰ってほしいものです。

そもそもピアノメーカーなんて、経営が大変なほど大きくなること自体が間違っているのではないかと思います。むろん小さければやっていけるというものでもないでしょうけれど…。
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泡発生器

昨今の100円ショップの商品の充実ぶりは目を見張るばかりで、ここで新製品に出会うことも珍しくはありません。先日、シャンプーなどのボトルが並んでいる中に、「泡の出る容器」というのがありました。

そういえば、我が家にはないけれど、お店などの洗面所などで使った覚えのある、ノズルを押すとシュワシュワときめの細かい泡が出てくる手洗い用の洗剤があり、これは市販もされていますから、すでにご自宅などでお使いの方も多くいらっしゃることでしょう。

あれはたぶんノズルの構造に秘密があるのだろうと思っていたのですが、まさにそういうものが100円ショップで売られているということは、やはり泡の正体は洗剤そのものではなく、洗剤が通るノズル部分であるということを直感しました。

おもしろそうなので、さっそくこれを買ってみたのですが、説明書きによると、使う洗剤の指定や制限はとくになく、何かしらの洗剤を容器に入れて、それを「10倍に薄める」と指示されていました。
ここでなるほどと思ったことは、使用時に瞬時に細かい泡を発生させるには、濃い洗剤だと却ってその妨げになるようで、これは例えばシャボン玉遊びをする際にも、使う石けん水の濃度というか、薄め具合が重要なポイントになることを思い出しました。

さて、手を洗うのに中性洗剤というわけにもいかないので、とりあえずボディソープを入れて、それを指示通りに(厳格にではありませんが)約10倍になるまで水を加えました。よく振り混ぜた後、いよいよ問題のノズルを数回押してみると、果たしてかわいらしい雲のような泡がモコモコとでてくるのに思わず感心しました。同時に、こんなカラクリによって泡の手洗い洗剤などが市販されていることにも、なーんだ!という気分でもありました。

泡というのはおもしろいもので、最近は下火かもしれませんが、ひところブームだった美白用洗顔石鹸などがしきりにCMなどで宣伝されていましたが、それによれば、石鹸そのものの成分もさることながら、専用のネットに石鹸を入れて両手で数回こすると、まるでメレンゲのような泡ができて、それをお肌にどうこうするというものでした。

マロニエ君宅でも、一度だけ(1個だけ)これを購入して家人が使ってみたことがありましたが、なんだか顔がヒリヒリするというので、それっきりになってしまったのですが、その価格は決して安くはないものでした。そのふわふわの泡を作る専用ネットというのが箱に入っていましたが、どう見てもただのナイロン網を何枚かに折り重ねて袋状にしただけのものにしか見えず、はああ?といった印象でした。

すぐに変なことをしてみたくなるマロニエ君としては、どうも、その特別な石鹸の性質だけがあのなめらかな泡を作り出すとは思えず、その網袋に普通の石鹸を入れてみたのですが、果たしてまったく同じような濃密なクリームのような泡がいとも簡単にできました。
では、その網袋が特別なものかと云えば、これもさにあらず。色が白で、石鹸サイズに縫われているという以外、とくにどうということもなく、極端にいえば、台所の排水口用ネットと大差ないもののようにも思えました。
そこで、これに普通の石鹸を入れて、適当に折り畳んで両手でこすってみると、いとも簡単に洗顔石鹸専用の網袋の場合と同等の、きめの細かいふわふわした泡がいくらでもできることが判明しました。

要するに、どんな石鹸や洗剤からでも、あの手の泡は作り出せるというわけです。
だからどうした…ということもないのですが、意外になんでもないことってあるんだなあという、まことにくだらない確認をしたという話でした。
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リピート

過日クラシック倶楽部で、ゲルハルト・オピッツとN響のメンバーによるシューベルトの室内楽演奏会をやっていました。

時間の関係からアルペジョーネ・ソナタ(第一楽章)と、ピアノ五重奏「ます」(第三楽章抜き)が採り上げられ、いずれも引きこまれるような魅力はないけれども、安心して聴くことのできる大人のプロの演奏である点が好ましく思いました。
本来ならテレビ収録されるぐらいの演奏家にとって、「安心して聴かせる」ことは当たり前とも思うのですが、実際には…。

とくに解釈やアーティキュレーションで奇を衒わず、まずは真っ当に曲が流れる演奏であるだけでホッとさせられ、それが実行できているだけでもポイントが上がります。

さて、アルペジョーネ・ソナタは今回はヴィオラとピアノでの演奏で、素晴らしい作品であることは疑いないところですが、第一楽章だけでもかなり長い曲で、提示部の終わりまで行くと、リピートでパッとまた振り出しに戻ってしまうのは正直云ってちょっとうんざりしてしまいます。「ます」も同様で、要するにリピートリピートで疲れてくる。
曲そのものは心底すばらしいと思っているのに、リピートはうんざり…というのはなぜだろうと思うことが少なくありません。

アルペジョーネはマロニエ君も下手ながら友人とやったことがありますが、練習は別にして、合わせるときはリピートなしでやっていました。弾いても聴いても、提示部の終わりまでやっと来たのに、また始めからというのは、体育の先生から「もう一週してこーい!」といわれているようです。

リピートのうんざりで他にも思い出すのは、たとえばベートーヴェンのクロイツェルの第一楽章などがマロニエ君の感性としてはこれに該当します。この場合、曲想の点からも提示部が進めば進むだけ激しい情念が増幅してきて、もはや前進あるのみという気分であるのに、くるりとまた第一主題冒頭へ引き返すのは、うんざりというより「あらら…」と気が抜けてしまうようで、この曲の切迫感というかテンションがガクンと落ちてしまう気がします。

ショパンのソナタでも3番の第一楽章はまだいいとして、2番の第一楽章提示部のリピートはいただけません。ここでも後戻りできないまでに疾走してきているのに、それを断ち切って、またはじめに戻るのはどうしても興ざめします。
ピアニストの中には、なんと序奏部分にまで引き返す人がいて、やはりこれもうんざりしてしまいます。なので、たまにこれをしないで一気に展開部へ突入していく人がいると、もうそれだけでよしよし!という気になってしまいます。

ところが同じベートーヴェンのヴァイオリンソナタでもスプリングになると、こちらはリピートがあったほうが収まりがいいし、ワルトシュタインや最後のソナタなどでは、逆になくてはならないものだと思います。
シューベルトも最後の3つのソナタなども、長大ですがこちらは必要な気がしますから、リピートとはなんとも不思議なものです。

そういえば思い出しましたが、ショパンの第2ソナタの第一楽章のリピートは、自筆譜にある筆跡を専門家が見ると、その書き方が微妙で、リピートではない可能性もあるのだそうで、だとするとそもそもショパンの意図したものではないということにもなるようです。

グールドのゴルトベルクなども、各変奏ごとにリピートしたりしなかったりということをやっているようで、ここは演奏者が随時判断ということが最良なのかもしれません。

要は先に行きたい気分の強いものと、そうではないものの違いなのかもしれず、音楽は聴く人の気持ちの自然の運びにあまり逆らわないことも大切ではないかと思います。
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検索の極意

ネット検索はいまや日常的に誰でもやっていることですが、どうもマロニエ君は自分でこれが得意ではないという思いが以前からありました。

理由は簡単、自分が探せなかったものを他者が探してくるということが多々あるからです。

その中の一人、ピアノ関連の知り合いの方で、ネットの情報を教えていただくことがとても多いことにいつもながら感心させられていました。

同じようなキーワードを打ち込んでいるつもりでも、その方が教えてくれる情報は自力では到達できないものだったことが、これまでにも何度もありました。
そんな情報を教えてもらう有り難さもさることながら、どうしたらそんなに探せるのか不思議なくらいで、ついには自分の検索の仕方が根本的に間違っているのでは…とまで思い始めました。

そんなマロニエ君は、一度教えてもらったものでも、再び見ようとしたときにはあっというまにわからなくなるので、ちょっとしたことでも「お気に入り」に入れておかなくては危険なのです。お陰でお気に入りはいつも大入満員状態で、ひどいときにはそのお気に入りの中からひとつを探し出すのにさえ苦労する始末で、我ながら情けないといったらありません。

非常に珍しいピアノやピアノ店の情報を教えていただき、見てみるとなるほどというピアノや、派手ではないけれども興味深いお店があることがわかり、これまでにも自分なりに全国のピアノ店のHPは相当見てきたつもりですが、まだまだ掘り起こせばディープなお店はあるのだと認識をあらたにしているところです。

電話で話をしている折でしたが、どうやって検索すればあんな珍しい情報が出てくるのか、いわばその秘訣を聞いてみました。すると、その方はべつになにも特別なことはしていないという返事がかえってくるばかりで、はじめは肩すかしをくらったようでした。
ところがその先にアッと驚く検索の極意がさりげなく語られたのでした。

その方曰く、自分が検索する場合は、とにかく10ページぐらいは見てみるようにしていると言われました。「えっ!? 10ページも??」

多くの方が経験がおありでしょうが、なんらかのワードで検索すると、その結果はアクセス数の多いなどの順(かどうか知りませんが)にズラリと表示されます。
しかし、ほとんどの場合は1〜2ページにこそ欲しい結果が集中し、それ以降はだんだん質が落ちたり同じものが何度も繰り返し出てきたりで、大半が無用なものばかりになってしまいます。

考えてみると3ページ以降を見たことなんてほとんどなく、その方のような丹念さが自分には欠けていたことを痛感しました。

本当に貴重な情報とは、そんな無用なものの中に埋もれるようにひっそりと存在しているものだということで、まるで森の中でトリュフでも探すようなもんだと思いました。
要するに、何事においても粘り強さが必要だということなのでしょうが、悲しいかなそこがマロニエ君の一番苦手なところなのです。
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ケフェレック

今年の5月、王子ホールで行われたアンヌ・ケフェレック・ピアノリサイタルを録画からみてみました。

曲目は、演奏順にショパンのレント・コン・グラン・エスプレッシオーネ、幻想即興曲、子守歌、舟歌、リストの悲しみのゴンドラ第2番、波を渡るパオラの聖フランシス、ドビュッシーの月の光、ヘンデルのメヌエット。

やはりというべきか、この人は大曲より、小品を弾くことで作品に可憐な真珠のような輝きを与えるタイプだと思いました。ただ大曲でも、波を渡るパオラの聖フランシスはよく弾き込まれていて感心させられ、逆に舟歌などは作品の重量が意図的に削り落とされたような印象でした。
幻想即興曲は全体に雑な印象で、これほど誰でもが知っている曲は、弾く側もそれなりの準備がなくては却って不利になると思われます。いっぽうドビュッシーやヘンデルでは、ケフェレックの小兵故のハンディが出ず、もっぱら彼女のセンスの良さで聴かせる佳演でした。

月の光は、技術的にも困難ではなく、これまた超有名曲のわりには満足のいく演奏がなかなかない作品だと思いますが、ケフェレックのそれはフランス人らしい趣味の良さと、いわばネイティブの響きが俄然光りました。
しっとり歌う部分とサラリと流す部分、音を滲ませる部分と個々の音の輝きを強調する部分、アクセントをつけてはならない部分とつけるべき部分の見極めなどがいちいち的を得ているのは、さすがというべきで、この曲を弾く、多くの人が学ぶところの多い演奏でした。

ショパンは全体にあまりにさらさら流しすぎて、せっかくの凝った響きや音型がすっとばされていくようで、もうすこしショパンが作品に込めたひとつひとつの端正な言葉とか精緻の限りをつくした音の組み立ての妙を味わわせてほしいという不満が残ります。

その点で、リストは演奏者に与えられた自由度が比較にならないほど広いことを実感します。
白状するなら、どちらかというとマロニエ君はあまりリストが好きなほうではないというか、率直にいうと苦手なのですが、その中では、この日弾かれた2曲は比較的嫌いではないほうの作品です。

むろんリストが音楽史の中で果たした功績の大きさ、とりわけピアノを語る上では欠くべからざる存在というのはわかっていても、理屈でなしに苦手なものはやっぱり苦手なのです。

画家にもありますが、並外れた才能と卓越した筆致力はあるとしても、片っ端から多作乱作するタイプというのがあって、なんだかそういう要素を感じます。フェルメールのように作品が少ないのも残念ですが、やたらと数ばかりが必要というものでもありません。
レスリー・ハワードというピアニストがリストのピアノ作品録音をしていますが、その数なんとCD約100枚ですから驚くべき作品数で、これでは個々の作品に手間暇をかけているわけにもいかなくなるでしょうね。

詳しい方からは叱られるかもしれませんが、この2曲も終始大げさで芝居がかったようで、リストの作品にはある種のいかがわしさを感じてしまうのです。ものものしいわりに途中で何をいいたいのやらわからない意味不明な時間が長く続き、ようやくなにかが見えてきたと思ったらそれが押し寄せるクライマックスと解放といういつものパターン。

よくわからないのは、フランス人というのはおよそフランス趣味とはかけ離れたリストを採り上げる機会が意外に多いという点です。メルセデス・ベンツとか、もっと昔はキャディラックなどを口では大いに軽蔑しながら、実際はそれらをとても好むという一面をもっていましたから、同じようなものかとも思います。
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乱乱

クラシック不況というのをやたら耳にする昨今ですが、そんな実情を表しているように感じるのが、西洋音楽の本拠地であるウィーンやパリで近年催される一見派手な野外コンサートです。

ベルリンフィルなどは以前からやってはいましたし、イタリアでもヴェローナの野外オペラなどがありますが、ここ最近の新しい野外コンサートは、どうも趣が少々違っているように感じられて仕方がありません。

先日もエッシェンバッハ指揮のウィーンフィルで、『シェーンブルン夏の夜のコンサート2014』というのをやっていましたが、こう言っては何ですが、派手さだけが売り物の大イベントというだけで、およそ良質の音楽を聴くためのコンサートとは思えません。

あのシェーンブルン宮殿を上品とは言いかねるライティングで染め上げ、オーケストラの入る透明屋根の小屋とその周辺の作りは、ほとんど安っぽいサーカスのようで、ウィーンの至宝であるウィーンフィルがこんなことをやらざるをえない状況というのが、なにより現在のクラシック音楽の置かれた状況を物語っているようです。

プログラムの中ほどにリヒャルト・シュトラウスのブルレスケがあって、ピアノは〝またしても〟ラン・ランでした。
オーケストラも指揮者も、そしてピアニストも、だれも本気で演奏している気配はなく、この異色の作品が、お気楽で平面的な音の羅列に終わっていることに驚かされます。
この難曲を安全に進めるためか、テンポもマロニエ君の耳には遅めでキレがなく、ラン・ランも以前にくらべてもいよいよその演奏は粗製濫造の気配を帯びてきたように感じます。

エッフェル塔の下で似たような野外イベントがあったときもやはりラン・ランがソリストで、この時のラヴェルのコンチェルトはほとんど破綻していて、それなのに、なんでこの人ばかりにオファーがあるのか不思議でなりません。
もはや演奏の質や音楽性などどうでもよく、ただ知名度のあるタレントであることだけが必要ということなのでしょう。

シェーンブルン夏の夜のコンサートで驚いたのは、ピアノの詰まったような、音とはいえないような音でした。
よく見ると、鍵盤サイドの右手(客席側)に水滴のようなものがあって、よくよく目を凝らしてみると、やはりそれはまぎれもなく水滴であったのは「まさか!」という感じでした。
ピアノが置かれる前縁は雨が降り込んでくるのか、ボディもあきらかに濡れてサイドのSTEINWAY&SONSの文字のあたりはキラキラ光っているほどで、さらには大屋根の傾斜に沿って水滴がザーッと斜め下に落ちているのも確認できました。

マロニエ君も数多くスタインウェイを使ったコンサートや映像を見てきましたが、ピアノが雨に濡れながら演奏される光景は初めて見ましたし、なんというか…とても嫌なものを見てしまった気分でした。
きっと今のピアノは材質も昔のそれとは違い、おまけにボディ、響板、フレームなど大半の部分がほとんどコーティングのような分厚い塗装をされていて、もしかすると濡れても大した問題ではないのかもしれません。…が、やっぱり見ていて強い嫌悪感を覚えました。

のろのろテンポのブルレスケのあとは、アンコールにモーツァルトのトルコ行進曲を弾きましたが、こちらは打って変わって超ハイスピードの、ほとんどやけっぱちみたいな演奏で、名前を乱乱と変えたほうがいいような、そんな雑な演奏ぶりでした。

宮殿の庭に陣取る大勢のオーディエンスは、おそらく本気で音楽を聴きにきた人々ではなく、大半が観光客などであろうとは思います。
世の中、むろん経済発展は大切ですが、だからといって文化がここまで身を落として蹂躙されるのは納得がいきません。
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天才のゆくえ

いまからおよそ30年近く前、キーシンの登場をきっかけとして、いわゆる「神童ブーム」というものが湧き起こったように記憶しています。

パッと思い出す代表的な名前だけでも、エフゲーニ・キーシン(P)、コンスタンツィン・リフシッツ(P)、セルジオ・ダニエル・ティエンポ(P)、ヴァディム・レーピン(Vl)、マキシム・ヴェンゲーロフ(Vl)、五嶋みどり(Vl)、サラ・チャン(Vl)、マット・ハイモヴィッツ(Vc)などで、まだまだ忘れている名前がたくさんあると思います。

こうした神童ブームは、声楽の世界にも及んで、アレッド・ジョーンズなど天才と呼ばれる少年が幾人か含まれていましたが、その中で破格の才能を示していたのがアメリカのベジュン・メータでした。

彼を知ったのはデビューCDを購入してみたことで、そこにはヘンデルやブラームスの歌曲が収められており、記憶違いでなければ収録時の年齢はたしか14、5歳ぐらいだったと思います。

天才少年少女達は、とてもそんなティーンエイジャーとは信じられないような老成した音楽性とテクニックで世間の注目を集めたものでした。そんな中でベジュン・メータの何が特別だったかというと、すでにこの歳にして人間の憂いと悲しみ、そして人の心の中にわだかまる深いものを見事に演奏に投影していた点だと思います。

とくに歌には歌詞があり、歌詞は器楽曲に較べると楽曲の意味するものに、言葉という具体性が附随しています。そこに多く語られているものは、愛と悲しみ、歓喜と絶望であり、それはつまるところ人間の抗うことのできない宿命のようなものを土台としています。

ベジュン・メータは歌唱力という点においても格別でしたが、それに加えて彼の天才を最も表しているのは、すさまじいばかりの表現力で、そこには他の追従を許さぬ圧倒的なものがありました。繊細かつ大胆、聴く者の心の中に手を突っ込まれて縦横無尽に引き回されるようでした。

ところがマロニエ君がベジュンを聴いたのはこの十代の頃のCD一枚きりで、その後は名前も耳にしなくなったので、とても気になっていました。

ロシアに、アリーナ・コルシュノヴァといったか…、闇夜に一条の蝋燭の火が灯るような暗い雰囲気を持ったピアノの天才少女がいて、彼女のデビューCDを聴いたときも、その鳥肌の立つような世界に圧倒されたものでした。

ショパンの嬰ハ短調のワルツなどは、マロニエ君はこれ以上の憂いと美しさに満ちた演奏を聴いたことはなく、いまだにこれを凌ぐ演奏に出会ったことはありません。
このとき彼女はたしか十代前半で、この先どんなふうに歳を重ねていくのやら、無事に大人になることができるのか想像ができず、まさに天才ならではの心の闇と悲劇性を一身に背負ったような少女でした。

案の定、その後、彼女の名前やCDを目にすることは一度としてありませんから、きっと何かが彼女の身の上に起こったのではないかと今でも思っています。

そしてベジュン・メータの場合も、ぱったりとその名を聞くことがなくなり、同様の危惧を感じていました。
ところが少し前にBSで放送されたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でタイトルの写真を見たとたんアッと思いました。主役のオルフェオはすっかり大人になったベジュンその人で、昔とほとんどかわらぬカウンター・テナーとなって見事な歌唱を聴かせました。

十代の頃の美質はまったく損なわれることなく、その存在感は何倍にもなったようで、まさに圧倒的。この古典の名作オペラにもかかわらず、まるで彼一人が際立ち、他は添え物のようでした。
彼が歌うと、そこには得体の知れないエネルギーがあふれ、あたりには一陣の風が巻き上がるようでした。
まさに感銘の再会で、ひさびさに深い満足に浸ることができました。
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ルールと平等

先日もニュースで言っていましたが、最近はとにかく音楽CDが絶望的に売れないのだそうで、そんな話を聞くと、こちらまで暗い気分になるものです。

むろんこれはポップスなどの最も高い人気と購買力のあるジャンルでの話です。それをなんとかして販売へと結びつけるため、さまざまなイベントと抱き合わせにするなど、業界でも必死の知恵を絞っているのだとか。
もとよりクラシックなど、すでにものの数にも入っていないのでしょう…。

そんな世相の中、マロニエ君はCDだけは良く買うほうだと思いますから、この点だけは業界から頭のひとつも撫でられていいような気がします。購入はネットもしくは店頭の新品が主流で、中古品はよほどでないと買いません。
べつに潔癖性で中古が嫌だというわけでもないのですが、期待するほど安くもないことと、新品のほうがショップの情報や在庫の整理整頓などが洗練されており、要は見やすい探しやすいというのが一番の理由かもしれません。

ところが廃盤になっているCDの場合は、やむを得ずアマゾンやネットオークションで中古品を探すことになります。

最近も欲しいものが廃盤となっていたところ、幸いオークションで見つかり、購入しようと詳細を読むと、2品以上購入すると送料無料になると書かれています。
終了日までにはまだ幾日もあるし、同じ出品者のその他の商品を見てみると、どうやら業者のようで、実に5〜600枚ものCDが出品されています。

これだけあれば欲しいCDはあるだろうと思い、他日あらためて腰を据えて全商品を見てみた結果、まあそれなりに興味を覚えるものがいくつか見つかり、ざっとリストアップすると計9点ほどになりました。

そこで出品者にメールして、これだけの点数をまとめて購入したいと伝えたところ、先方から返事があり、商品は二週間取り置きができるという内容でした。
そうはいっても、9点もの商品をひとつひとつ連日連夜、パソコンの前に張り付いて落札していくのも大変だし、そこまでの気力もないので、できたら一括購入したい意向であることを伝え、検討をお願いしました。

ちなみに数百点の出品に対して、冒頭のごとくCD不況のせいか、入札されているのは数えるほどまばらで、そのほとんどが最低価格もしくはそれに準ずる価格で終了するように見受けられました。
もしマロニエ君が出品者だったらめげてしまうくらいでしたから、感覚的に一括購入はすぐに応じてくれるだろうと、なんとなく思っていたのです。

ところが再び届いた返信には、前置きもなく「オークションのルールにそって、皆さんに平等に参加して頂いております。」とにべもなく書かれており、その情感のひとかけらもないロボットのような反応には唖然としました。
できないならできないで、言葉の選びようもありそうなものだと思います。

とりわけ心外だったのは「ルールにそって、皆さんに平等に」というくだりで、これは購入希望者に対してほとんどお説教です。いきなり相手にこういう物言いをする人というのは、基本のところで何か大きな勘違いをしており、現代はこの手合いが蔓延していると思いました。

こういう人に限って、自分ではルール通りの正しい対処をしているつもりでしょう。
さらには、そちらに同調する人も結構いるはずで、こういう殺伐とした感性の前では人情の機微など一文の値打ちもないのでしょうし、そもそもそういうものの存在すらご存じないと思います。

いっぺんに気分も冷めて、ウォッチリストもすべて白紙撤回しました。
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ハズレの機械

マロニエ君は体質的な事情もあって、ピアノに勝るとも劣らないほど湿度が苦手です。

当然ながら梅雨は人一倍苦手で、慣れるということがありません。今年は全国的にも大雨の被害が続出、それにともなって猛烈な湿度に見舞われました。この梅雨という名の長いトンネルをくぐり抜けるだけでも毎年の大仕事となっています。

ようやく梅雨明け宣言が出されたと思ったら、今度は入れ替わりにサウナのような猛暑となり、厳しい自然の試練に翻弄されるのは大変です。

そんなマロニエ君は、かなり重度のエアコン依存症であることはずいぶん前に書きましたが、もはや快適器具という枠をはるか飛び越えて、気持ちの上では生命維持装置のような趣です。

そんなに大切なエアコンですが、自室のエアコンは使い始めて10年ほどになり、信頼性バツグンの筈の日本の有名メーカーの製品であるのに、これが完全にハズレの機械でした。初めの2〜3年こそ問題なく使ったものの、その後は故障が頻発。水漏れしたり、冷房能力が低下したりの繰り返しで、そのつど修理依頼となり、メーカーの修理担当者と顔なじみになるほどでした。

修理代も馬鹿にならず、一度などはコンデンサーだかなんだか名前は忘れましたが、主要な部分の全交換などという事態にまで発展するなど、このエアコンに関する限り、高い信頼性を誇る日本製品とはほど遠いもので、いつも不安でだましだまし使うという状況が続いていました。

そしてついに恐れていたことが、最も困るタイミングで起こりました。
他の部屋の温度に較べて、いやに自室だけどろんとした効き方をしているなあと思ったら、その翌日には明らかに冷房力が低下していることが判明。
しかしこの日は事情があってどうしても動きが取れず、やむを得ずそのまま我慢しましたが、次の日にはさらに状況は悪化して、廊下との温度差もごく僅かとなりました。

とっさに不安を覚えたのは、梅雨明け早々の連日34〜5℃という猛暑の中、エアコン業者はどこも終日出払っているだろうということ。
以前我が家全体のエアコン工事をしてくれた業者に連絡しますが、予想通り、この猛暑のせいで電話に出る暇もないほど忙しいようです。どうにか電話は繋ったものの、案の定予約はびっしり、まさに東奔西走の毎日で、お店などは閉店後の作業開始となるのだそうで、寝る暇もない極限的な状態が続いている由で、今日明日はどうにもならないようです。

仕方なく、メーカーに電話をして出張修理の予約だけはとりつけたものの、あぁ、また場当たり的な対処をされたところで先が見えているし、それで今年の夏を安定的に乗りきれるかとなると、甚だ不安です。もう10年もこのエアコンを我慢して使ったのだから、もういやだと思い、この際買い換えることを決断しました。

善は急げとばかりに、あちこち電気店などに電話しましたが、工事に来てくれるのは早くても5日から一週間かかるらしく、それではとてもこっちの身体がもちません。
これは大変なことになったと、こんなときこそネットを駆使して業者を検索しまくり、電話をしまくりました。どこも似たような状況でしたが、一件だけ「明日の午後なら空きがありますから行けます」という真っ暗闇に一条の光を見るような声を聞きました。

ところが「機械はお客さんのほうで準備されているんですよね」と普通にいわれ、「えっ?いえいえ、してませんが」というと、なんでも最近はネット通販で機械を安く購入し、取り付けだけを依頼してくる方がほとんどだというのには驚きました。
機械もそちらでお願いしたいと云うと、それはすんなり手配してくれることになりました。
その翌日、マロニエ君の自室の壁に10年間へばりついていた薄汚い室内機はついに役を解かれて下に降ろされ、代わりに真っ白な新しいエアコンが取りつけられました。寸法は僅かに小さくなっていますが、冷房能力はひとまわり強力だそうで、そのピカピカした感じがなんとも頼もしげです。

それにしても、本体価格、古い機械の取り外し、新規取り付け、外した機械の処分やリサイクル費用などを含めても、望外の安さであったことは驚きでした。こんな値段なら、あんなに修理を重ねてきたこの数年間はなんだったのだろうと、その間の不愉快と手間暇と出費を考えるとドッと疲れがこみ上げますが、ともかく今は新しいエアコンがサワサワと冷風を送ってくれるので救われます。
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現代の優位性

楽器としてのピアノの質が材質と製造の手間暇につきるのだとすると、現代のピアノの優位性は無いと云うことなのか…。

優れたピアノを作るための基本的要素が、好ましい材料(天然資源)と、それを理想的に組み上げる人の手間暇(人件費)だとすると、いずれも今の時代に背を向けるような、効率重視の価値観にはまるでそぐわないものであることは明らかです。

手間暇に関しては、あとから技術者の努力によってまだしも挽回できる部分があるとしても、材質に関しては生まれもつものなので打つ手がありません。

とりわけボディを構成する材料は、そのピアノの生涯にわたる価値と個性を決定するもので、これはいったん作られてしまうと後手を差し込む余地がありません。したがって粗悪な木材や代用品など安価なまがい物で作るという方針である以上、どれほどの高度な技術を投入しようとも、本質に於いていいピアノができる筈はないと見るべきでしょう。

したがって木材や羊毛など優良品の確保が難しい現代では、ピアノの品質低下は当然の成り行きと云えます。この点に於いては少量生産のごく一握りの例外を除いて、ほぼすべてのピアノに見られる傾向だといえるでしょう。

どれほど技術の粋を凝らしても、好ましくない素材や工法で作られたピアノは、表面的な美しさや弾きやすさで一時の気を引くだけです。無機質で優秀な工業製品としての色合いが強まり、楽器の要素を大胆に手放してしまっているという事実は否めません。

ピアノには、天然素材を必要とするという前提が横たわっている限り、いかにテクノロジーが飛躍を遂げようとも、黄金期のそれを凌駕することは本質に於いてないのでしょう。

では、黄金期のピアノより現代のほうが優れている面がまるきりゼロかというと、必ずしもそうとも思いません。

たとえば廉価品のピアノに関して云えば、実はマロニエ君もよくは知らないのですが、昔のピアノの安物ときたらそれはそれは酷いものがあったようです。技術者が唖然とするような構造であったり、ほとんど冗談みたいなちゃちな作りのピアノも多々あったと云いますから、その点で云えば、すくなくとも量産ピアノの構造や品質は飛躍的に上がっているように思います。

高級品まで含めた範囲で云うなら、現代のほうが優れているだろうと思える部分は鍵盤からアクションに至るセクション、すなわち機械的部分ではないかと推察できます。アクションは要するに小さくて精密なパーツの集合体であり、それらの正確な作動は、つまるところ箇々のパーツの精度に行き当たります。

こればかりは、手作りや職人芸を尊ぶことより、機械による均一で精巧なパーツであることがなにより重要な分野だと考えられるからです。その点ではコンピュータによる正確な図面、さらには人の手の及ばぬ精巧無比の仕事をする工作機械の登場によって、昔とは比較にならないレベルへと向上した筈です。

おそらく昔のピアニストは、アクションやタッチに関してはかなりの妥協を強いられていたのではないかと思われますし、グールドなども現代のアクションがあれば晩年のピアノ選びの苦労はなかったのではと思われます。

と、ここまでは技術者的見地の話ですが、では、あまりにむらのない、限りなく完璧に近い理想のアクションがあったとして、それが即、芸術的演奏に直結するのかというと、これはまた別の話のような気がするわけで、かくも楽器とは難しいものということでしょう。
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