ゆずれないもの

ある調律師の方のブログでの書き込みがマロニエ君の心を捉えました。

概要は次の通り──歳を取るにつれ、少量でもいいから本当に美味しいものだけを口に入れたいように、音楽も同様となり、だからアマチュアの演奏会は「本当にごめんなさい」というわけだそうです。
つまりアマチュアの演奏は聴きたくない、申し訳ないけれどもこればっかりはもうご遠慮したいというようなことが書いてありました。

しかもこの方は調律師という職業柄、我々のように音楽上の自由な趣味人ではないだけに、そこにはいろんな意味でのしがらみなどもあっての上だろうと思われますから、それをおしてでも敢えてこういう結論に達し、しかもそれをブログに書いて実行するということは、よほどの決断だったのだろうと推察されます。

本来ならば調律師という職業上、ときにはそうした演奏も浮き世の義理で、我慢して聴かざるを得ない立場にある人だろうと思われるのですが、それでもイヤなものはイヤなんだ!と言っているわけです。
これをけしからん!と見る向きもあるかもしれませんが、マロニエ君は思わず喝采を贈りたくなりましたし、このように人には最低譲れないことというのがあるのであって、そのためには頑として信念を通すという姿勢に、久しぶりに清々しい気分にさせられました。

同時に、この方はただ単に調律師という職業だけでなく、ブログではあれこれのCDなどに関する書き込みなども見受けられますから、そのあたりを総合して考えると、これはつまり、よほど音楽がお好きな方ということを証拠立てているようです。

音楽というのは知れば知るほど、聴けば聴くほど、精神はその内奥に迫り、身は震え、耳は肥えてくるもので、そうなるとアマチュアの自己満足演奏なんて聴けたものではないし、たとえプロであってもレベルの低い演奏というのは耐えがたいものになってくるものです。

とりわけクラシックのピアノは、弾く曲は古典の偉大な作品である場合が多く、それらの音楽は大抵一流の演奏家による名演などによって多くの人の耳に深く刻みつけられていたりするわけですから、それをいきなりシロウトが(どんなに一生懸命であっても)自己流の酔っぱらいみたいな調子で弾かれたのでは、聴かされる側はいわば神経的にきついのです。

つまり弾いている人にはなんの遺恨はなくとも、苦痛の池にドボンと放り込まれるがごとくで、塩と砂糖を間違えたような食べ物を口にして美味しいというのは耐えがたいのと同じかもしれません。
そんなものに拍手をおくってひたすら善意の笑顔をたたえているというのは、実はこういう気分を隠し持つ者にしてみれば、ほとんど拷問のように苦しいわけです。

それでも、子供の演奏とかならまだ初々しい良い部分があったりしますが、大人のそれには耐え難い変な癖や節回しがあったりで、場合によっては相当に厳しいものであることは確かです。
いっそ思い切り初心者ならまだ諦めもつきますが、始末に負えないのは、中途半端に指が動いて楽譜もいくらか読めるような人の中に、むしろ自己顕示欲さえ窺わせるものがあり、これを前に黙して耐え抜くのはかなり強烈なストレスにさらされることになります。
弾いている本人にお耳汚しですみません…という謙虚な気持ちが表れていたらいくらか救えるのですが。

この調律師さんの言っていることは、本当に尤もなことだと思いました。
ときたま、こういう気骨のある人がいらっしゃるのはなんだかホッとさせられます。
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モーツァルトの極意

『集中力が大事です。どの作曲家でもそうですけど、特にモーツァルトの時は、過敏ではない集中力といいますか…。過敏になってはいけない。ゆったりとしたものが必要な集中力なんです。そこから音の響きができるわけですから、体が緊張していてもいけないし。そういう意味でモーツァルトの演奏は大変です。』

これはずいぶん昔のものではありますが、ピアニストの神谷郁代女史がモーツァルトの演奏に際して語ったもので、さいきん雑誌をパラパラやっているときに偶然これを目にして、それこそアッと声が出るほど激しく同意しました。
…いや、「激しく同意」などというと、まるでさも同じことを認識していたようですが、これは正しい表現ではありません。なんとなくずっと直感的に感じていたものが、明確な言葉を与えられて、考えが整理され、よりはっきりと認識できたというべきでしょう。

それにしても、これは名言です。
これほどモーツァルトの演奏に最も必要な精神的な根底を成すものを的確に見事に表した言葉があっただろうかと思います。まるでその無駄のない言葉そのものがモーツァルトの音楽ようでもあります。

これはすでにひとつの哲学といっても差し支えない言葉であり、モーツァルトへの尊敬と理解をもって弾き重ねた人でなければ表現できるものではありません。弾き手の考察と経験が長い年月の間に蓄積され、そこに自然の息吹が吹き込んで、ついにはこのような真理を導き出すに到達したものと思われます。

マロニエ君はモーツァルトの理想的な演奏(ピアノの)としてまっ先に思い浮かぶのは、ヴァルター・ギーゼキングのモーツァルトですし、ヴァイオリンソナタではハスキル、コンチェルトではロシアの大物、マリア・グリンベルクの24番などがひとつの理想的な極点にあるものだと思っています。

その点では、評価の高いピリスにもある種の固さを感じますし、内田光子などはその極上のクオリティは充分以上に認めつつも、いかにもゆとりのない張りつめた緊張の中で展開されるモーツァルトであることは否定できません。

多くのピアニストがモーツァルトを怖がってなかなか弾こうとしないのも、この神谷女史のいうところの、集中と緊張の明確な区別がつけきれない為だろうと思われるのです。
とりわけモーツァルトのような必要最小限の音で書かれた作品は、一音一音に最大限の意味を持たせようと、あまりに言葉少なく多くを語らねばならないという脅迫観念に苛まれるのだろうと思われます。

神谷女史のお説に依拠すれば、ギーゼキングのモーツァルトなどは、なるほどまったく気負ったところがないばかりか、モーツァルトにおいてさえこの巨匠の磊落な語り口には今更ながら圧倒されてしまいます。
グリンベルク然りで、まさに呼吸と重力に一切逆らうことなく、モーツァルトをありのままにひとつの呼吸として描ききっているのはいまさらながら舌を巻いてしまいます。

どのみちマロニエ君などは、モーツァルトを弾こうなどという大それた考えは持っていませんが、それなりのテクニックと音楽性のあるピアニストであれば、「過敏にならない集中」を旨とすれば、素敵なモーツァルトが演奏できるはずだという気がしてきます。

神谷女史のこの言葉は、どれほどのレッスンにも勝るモーツァルト演奏の極意を授けられたような気がして、なんだかたいそう得をしたような気分になりました。
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ホールに潜む危険

福銀ホールの階段で女性がマロニエ君の背後でしたたかに転倒して周囲や主催者を慌てさせたことを書いたばかりでしたが、続くアクロスシンフォニーホールでの2台のピアノの第九のコンサートのときには、ソロの途中で演奏者が入れ替わる際、ステージ上ではピアノの入れ換え作業がおこなわれたのですが、そのときにマロニエ君の座っている席から真横のごく近い位置の通路で、またしても女性が転倒されました。

しかも、今回の転倒はいささか深刻なようで、なかなか起きあがることもままならないようで、周辺にはちょっとした緊張が走りました。
通路のすぐ横に席に座っていた女性がすかさず助けにはいり、あれこれと様子を見てあげているようでしたが、やはり立ち上がることが難しく、このころにはよほど転び方が悪かったのかと気を揉みました。

ついには助けに入った女性が抱きかかえるようにして、転倒して怪我を負っているらしい女性を会場から連れ出すべく努力され、なんとかゆっくりとした足取りで衆目の見守る中を退出していかれました。
驚いたことには、床には大量の流血のあとがのこり、思いがけなく目にした鮮血の赤が痛ましくも衝撃的でした。
これはたいへんな事が起こったと思いましたが、それとは気づかずにステージは続行されました。

マロニエ君の想像ですが、ちょっと時間に遅れてしまった女性が、演奏中は動けないので、ピアノの入れ替えをしているタイミングで急いで座席に着こうとして、段差に躓いて転倒されたのではないかと思いました。

かねがねホールの段差というのはなんとなく要注意だと感じていたので、マロニエ君なども自分はもちろん、家人と一緒に行くときには毎回現場で注意を促しています。
広いし、なんとなく薄暗いし、人は多く、席を探しながら段差に次ぐ段差のある通路を進むのはけっこう難しい動きだと思います。

あえて言いたいことは、ホールの段差には、段の縁などに色の違う滑り止めのようなものをつけるなど、もう少しお客さんの足元の安全に配慮して欲しいものだということ。
近ごろは、こういう分野ではなにやかやとうるさい時代で、世の中の認識もだいぶ進んでいますし、中にはそんなことまでしなくてもというような安全策まで講じられている中で、ホールの段差などは一向にその気配があるようには感じられません。

通常の動きでもこうなのですから、これがもし災害時などみんなが一斉に避難すべき状況にでもなったら、果たしてどんなことになるやらと思います。

もともとマロニエ君は、こんな安全面がどうのというようなことを高らかに言うのは好きではないし、そんな趣味はないのですが、やはりホールは老若男女不特定多数の人達が利用する場所でもあるし、こうも立て続けに転倒事故を目のあたりにすると、そのうち自分かもという気もしますし、この点では施設側にももう少し細やかで実際的な配慮が欲しいと思います。
ちなみにその段差には縁に形ばかりの微かなくぼみはあったものの、ほとんど無いがごとしで、とくに高齢者などは最上級の注意が必要となり、これは早急な改善を望みたいと思います。

とくに最近のコンサートホールは高級になるほど、つるつるした木の床だったりするのが仇になっているようです。
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2台ピアノの第九

近藤嘉宏&青柳晋の2台のピアノのコンサートに行きました。

前半は両者のソロで、愛の夢だのカンパネラだのと、ひとまずお土産売り場みたいなプログラムが5曲並んでいましたが、それはこの日のあくまでも序章に過ぎません。
メインはリスト編曲によるベートーヴェンの交響曲「第九」で、はっきり時計を見たわけではありませんが、おそらくは1時間を超過する長丁場でした。まあ第九の全楽章ですから、それも当然といえば当然です。

実は、2台のピアノによる第九というのはCDはあるものの、実演で聴いたのは初めてです。
開始直後こそ特段どうということもなく、やはり耳慣れたオーケストラの音に較べたらずいぶん薄く小さいなあという感じでしたが、しだいにつり込まれて、第3楽章の世にも美しい調べに到達したあたりではベートーヴェンの壮大な世界の住人となり、第4楽章ではつい2台ピアノということも忘れて、すっかりこの曲と共に呼吸することに没入させられてしまいました。

近ごろでは、コンサートに行ってもめったなことでは感動が得られなくなってしまっている中で、めずらしくこの言葉を使うに相応しい気分になりましたが、それだけやはり圧倒的な作品でした。
演奏はソロでは近藤氏のほうが幅があって好ましく思いましたが、第九ではプリモを弾いた青柳氏が常に流れをリードしていたようで、近藤氏はむしろ脇に回っている印象でした。

作品が作品だけに、終わったときにはちょっとした感動的な拍手が起こりましたが、さすがにお疲れなのかアンコールはなしで、これで終わりだというアナウンスが早々に流れました。
ピアニストの肉体的疲労だけでなく、聴衆も長い時間聴き続けたということもあるし、そもそも第九のあとに弾くべき曲があるかと言われたら…ちょっと思いつきませんよね。
かてて加えて2台のピアノともなれば、いかにクラシックの膨大なレパートリーをもってしてもそこに据えるべきアンコール曲は皆無だと思われます。

ベートーヴェンはピアノソナタでも同様で、最後のop.111の精神的地平を見るような第2楽章が終わった後に弾くべきアンコールは、ピアニストが最も悩むところだと思われます。
この曲では昨夜同様、一切アンコールを拒絶するピアニストも少なくないほか、日本公演でのシフなどは、熟考の末と思われたのは、バッハの平均律から、op.111と調性を合わせてハ長調で、しかも幕開けの気配に満ちた第1巻ではなく、第2巻のそれを演奏したのはなるほどと思わされました。

昨夜のピアノはソロでもデュオでも両氏の弾いたピアノは固定されていて、ソロでは途中で関係者総出でピアノの入れ替えをおこなったのはちょっと珍しい光景だと思いました。
2台ともスタインウェイのDで、おそらく年代的にも同じものだと思いますが、ピアノの個性なのか調律の違いなのか、そのあたりは判然とはしなかったものの、ともかくずいぶんと音の違うピアノでした。

マロニエ君的には迷いなく片方のピアノが好きで、もう一方はほとんど感心できませんでしたが、それはこれ以上書くのは止しましょう。
座席は12列目のセンターでしたが、この会場の音響がふるわないのはほとほと嫌になりました。
もっと後方であれば多少は違ったのかもしれませんが、常識的な位置としては決して悪い席ではなく、出し物によってはGS席にあたるエリアですから、これはいかにも承服できないことです。

ピアノのアタック音が壁に激突して反射してくるのがあまりにも露骨で、まるで音が卓球かビリヤードの玉の動きみたいで、いわゆる美しい音による心地よさとは無縁です。
これがそのへんの体育館とかであれば致し方ないとしても、ここは地域を代表する本格的なコンサートホールなのですから、ただただ残念というほかありません。
つい数日前に行った福銀ホールは、その点では夢のようでした。
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会話がない!

過日、ちょっと気の利いた定食を出す店に行ったときのことです。
そこは美味しくて値段も安いので、週末ともなると順番待ちが出るような人気店で、必然的にテーブル同士の距離もかなり狭く詰めた感じになっています。

マロニエ君が入店してほどなくして、ひと組の親子がすぐ隣の席にやってきました。
小学校3、4年生ぐらいの女の子と、おそらくは30代と思われるサラリーマン風の若いお父さんでした。

二人でメニューを覗き込んで、あれこれと相談しています。
はじめは麗しい光景のように思えたのですが、注文が終わると女の子は横に置いていた袋をポンとテーブルの上に置いて、中から買ってもらったばかりとおぼしき分厚い本を取り出しました。
チラッと視界に入ったところでは漫画本で、いきなりお父さんそっちのけでそれを読み始めたのはありゃという感じでしたが、今度はお父さんもやおら文庫本を取り出して、黙ってそれを読み始め、いらい食事が運ばれてくるまで、二人はそれぞれ本を相手に沈黙状態となり、まるで図書館のようでした。

しばらくすると料理が運ばれてきたのを潮に女の子は本を椅子において食べ始めます。
するとお父さんは自分のお盆からメインの料理を取り出して、自分と女の子の間の僅かな隙間にこれを置いたので、娘にも食べろという意味だろうと思いました。
ところがそうではなく、そうやって空けたスペースに読んでいた文庫本を置いて、本を読みながらの食事が始まったのには唖然としてしまいました。

男がたった一人で食事をする際に、スポーツ新聞なんかを読みながらというのは感心はしませんが、人によって状況しだいではあるとしても、小さい娘と二人きり向き合ってせっかく食事をするのに、なにもそうまでして本を読まなくてもと思います。

その若いお父さんは、口はパクパクさせながらも、目はひたすら本の文字を追い続け、ひと言も、本当にひと言も娘と会話がありません。ときどき「お父さん…」と呼びかけて、タレがどうとかお皿がどうとか言っていますが、それにもまともな反応はなく、「んー?」とかいうだけです。

横のテーブルをチラチラ見るのもどうかとは思いましたが、なにしろテーブル同士がかなりくっついているので、嫌でも視界に入るわけです。驚いたことには、文庫本は開かれた状態で完全に長方形のお盆の中に入っており、口はモグモグ、お箸はサッサと動かしながらも、かなり真剣な様子で読みふけっているのは、技巧と集中力には感心させられました。
娘の顔を見るとか、くだらないことでも話をするという気持ちが微塵もないことがわかり、マロニエ君はもともとあまりベタベタしたことをいうセンスではないのですが、さすがにこれはどういうつもりなんだろうかといささか憤慨しました。

そのうち娘のほうは食べ終わりましたが、そのあとはマンガを読むでもなく、お父さんが食べ終わるのをじっとなにもせず、足をプラプラさせながら待っている姿がなんとはなしに哀れになりました。
それでもお父さんの方は娘の状態になど一瞥もくれず、最後の最後までマイペースを崩しませんでした。

あれじゃあ、行儀やらなにやらの躾もなにもあったもんじゃないというのは一目瞭然で、家の中でも実用会話以外はほとんどないまま、好き勝手にテレビでも見ているんだろうと思います。
正しい日本語の使い方とか挨拶のしかたなどは、家庭内の日常生活の中で自然に覚えていくものだと思うのですが、ま、あの様子では到底期待できそうにはありません。

さりげなくすごいものを見たという気分でした。
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男のたしなみ?

先日ピアノリサイタルをされた川本基さんは、終演後、拍手に応えてカーテンコールに応じられたあと、マイクを持って再びステージにあらわれました。

マロニエ君はまったく個人的な好みとして、演奏者がトークをするのは好きではありません。
演奏は聴いても、下手なトークで上っ面だけの曲の解説など聞いても仕方がないからですが、この川本さんの話はそれとはまったく違いました。
演奏も済んだばかりで、いまさら音楽の話をしてもつまらないので、ちょっと僕の日常のことを話しますと前置きされ、ドイツでの生活や、長年の目標だった運転免許をついに取ったというような話をされたのですが、その語り口が実に穏やかで、言葉が滑らかで、内容も面白く、人柄からくる品の良さがあって、こういうトークなら歓迎だと思いました。

とくに印象に残ったのは運転免許に関する話で、川本さんによれば東京で暮らしていたときはなかなか車を運転するという環境ではなかったし、ドイツでも交通網が発達していて、現実的には敢えて運転免許がなくても実生活にはなんら支障はないけれども、しかし自分はやはり男の子なのだから、やはりどうしても運転がしたいという願望があったのだそうで、今年は年頭から発奮して免許を取るという目標を立て、ついに念願叶ってそれを手にしたという話などを、ドイツの運転免許取得事情などと絡めておもしろおかしくされました。
そして現在、ドイツでは車を手に入れて、あちこちへの移動にはこれを使っているということでした。

もちろんその語り口もなかなかよかったのですが、ぜひ車の運転をしたいという男性的な可愛気のある気分それ自体が久しぶりに聞いたようで、今どきの発言としてはとても新鮮でした。
近ごろの日本ときたら、血気盛んなはずの若者は一様にしょんぼりしているし、車にもまるで興味がない由で、なにがなんでも車を手に入れるといったたぐいの情熱は失って久しい気がします。
そして、今では街中には傍若無人な自転車が無数にあふれ出て、あたかも昔の中国のようで、その中国のほうが今や世界最大の自動車購入国になっているようですから、世の中どうなるかわかりません。

川本さんはずいぶん若い頃に日本を離れてはや十数年ということですし、以前マロニエ君は拉致被害者で帰国された蓮池薫さんの書かれた文章を読んで、そのあまりの美しい日本語の素晴らしさに驚嘆したことがありますが、このように多感な時代を外国で暮らしてきた人のほうが、むしろ溌剌とした情感・情熱を失っていないような気がしていまいます。

現代の若者はもはや免許さえ取ろうという意欲もあまり無いし、取るにしても、それは車に乗りたいという願望からではなく、就職に必要な資格といった非常にさめた色合いです。当然ながら、巷には運転が猛烈にヘタな男の多いことは日々唖然とするばかりです。
こういう言い方をしちゃいけないかもしれませんが、昔はのろのろ運転をしたり、駐車場でもスパッと一発でとめられないのは決まって女性ドライバーで、その点では男の運転は実に達者でダイナミックでしたが、今はまったく状況が変わりました。もしかしたら女性のほうが上手いかもしれません。

アホみたいな運転をして周囲の流れから浮いていても、本人が気付きもしないのは大抵若い男性の運転で、この一点をみても世も末だという気がしています。
昔は、男で運転が下手ということは大変な不名誉で、もうそれだけで男じゃありませんでした。初デートでモタモタ運転でもしようものなら、いっぺんで女性から軽蔑されるような時代でしたし、運転の巧拙は、古い言葉で言うならセックスアピールにさえ繋がっていたように思います。

男も女も「らしさ」というものは、ヘンな意味ではなく色気があっていいと思うのですが。
女性が韓国の俳優に惹かれるのは、きっとそういう本能がどこか刺激されるからではないかと思います。

イケメンなんて言葉のない時代、日本の男子はもっと本質的にかっこよかったような気がします…。
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得した気分

先日、疲れた体に鞭打ってヤマハを覗いたところCDの処分市みたいなことをやっていました。
とはいっても、量的にはごくごく少数でしたが、なんと定価の半額以下みたいな値札が貼り付けられている上に、さらにそれは最終段階に達しているらしく、どれも3枚で999円という表示がされています。

おおお、これはすごい!と思ってさっそく物色開始となりましたが、なにぶんにも数がない上に、もはや大したものは残っていませんでしたが、それでもありました。

●ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 シュターツカペレ・ドレスデン
R.シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき/ドン・ファン DENON

●ポール・マクリーシュ指揮 ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズほか
ハイドン:オラトリオ《天地創造》2枚組 ARCHIV

●田部京子(ピアノ) マルティン・ジークハルト指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番 DENON

という、しごく真っ当なCDを3点購入して千円札を出して1円おつりをもらうのは、さすがに申し訳ないような気分でした。

とりわけR.シュトラウスはマロニエ君としては文句のつけようがない名演で、オーケストラも超一流なら、作品との相性も最上のもので、実を言うとブロムシュテットのR.シュトラウスは初めて聴いたのですが、これほどのものとは予想もしておらず、そのあまりの素晴らしさに衝撃を受けました。あと2枚、ティルや英雄の生涯、メタモルフォーゼンなどが発売されているようですから、これはぜひとも入手しなくてはならないCDとなりました。
R.シュトラウスはこれまで、ずいぶんいろんな指揮者のものを聴いていましたが、これは一気に決定版に躍り出たという気がしました。これひとつでも大収穫です。

《天地創造》は解説によると、マクリーシュはハイドンをウィーンの伝統様式の中で捉えることはせず、ヘンデルに連なる大編成の崇高な音楽としてこのオラトリオを手がけているのだそうで、聴いていてなるほどそうかと思いました。また初版に添えられた英語版のお粗末さを払拭すべく、練りこまれ熟考された歌詞やレチタティーヴォで演奏されている点も注目です。
演奏は迷いのない、きわめて信頼性の高い安定したもので、音質も良く、この長大な音楽を美しく、そして精密かつキッパリと表現しているのは見事というほかありません。2枚組で定価は5000円もする商品で、こんなに安く買えたことは嬉しいけれど、録音も新しいのになぜ?という気がしてなりません。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、田部京子のピアノが美しく繊細ではあるものの、いささか安全運転にすぎてもうひとつ面白さとか引き込まれるものがありませんでした。この人はもともと感情表現はいつも押さえ気味で、きっちりとした和食の盛りつけのような演奏をする人なので、こういう演奏になるのも頷けますが、そこはやはりベートーヴェンなのだから、もう少し何か迫りが欲しかった気がします。
日本人的繊細さと、塵ひとつない整然と片づけられた部屋のような美しさは立派ですが、音楽はただきれいに整えたら済むという世界ではないのだから、もっと本音で直截に語って欲しいものです。

たまにこんなことがあるから、やっぱり天神に出るとお店を素通りはできないなぁという確信を、またも深めてしまったようです。
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福銀ホールの変身

土曜は考えてみるとずいぶん久々の福銀ホールだったのですが、会場に入ってリニューアルされていることをはじめて知って驚きました。
なんと座席がすべて一新されおり、ずいぶん立派なブラック基調のシートへリニューアルされているではありませんか! 調べてみると1年以上経っている様子で、それだけご無沙汰だったということでもあり、なぜか誰からもこのことを聞かなかったのです。

このホールの最大の自慢はなによりその素晴らしい音響で、とりわけピアノリサイタルなどには最良の響きを持つホールだと言えることは、以前もこのブログに書いたような気がします。

開館当時はホールの音響というものにそれほど注意が払われない時代だったこともあり、音楽雑誌などでもこのホールの音の素晴らしさが何度も話題になったりしたものですが、それは現在も第一級のレベルとして健在なのは嬉しい限りです。

しかしながら音響以外ではこのホール固有の欠点もあり、福銀本店が天神の一等地という恵まれた立地にありながら、そのホールはやみくもに地下深くにあり、しかも人を下へと運ぶためのエレベーターなどが一切ないため、このホールを訪れる人はまるで音楽を聴くための苦行のように、延々と連なる下り階段の洗礼を受けることになります。
まるで地下鉱脈へでも赴くように黙々と階段を降り続けると、ようやくホールロビーに到達。
ホールの入口にはロダンの考える人(本物で福銀が購入したもの)が鎮座し、その左右両脇の2ヶ所のみから会場に入るわけですが、そこはしかし客席のあくまでも最上部に過ぎず、着席するにはさらに地底へと階段を降り重ねなければなりません。

しかも、設計が古いためか、細かいところが今どきのように人に優しい作りではなく、その会場内の段差の間隔が不規則でバラバラなために、一瞬たりとも気が抜けずに、まるで探検隊のように足元が悪いのです。

この日もマロニエ君の背後で中年の女性が足を引っかけてものの見事に転倒する一幕があり、主催者のほうがそれを聞きつけてきて、ケガなど無かったかどうかなど大変な気の遣いようでした。折しもこのホールでは足元に用心しなくてはとしゃべっていた直後のことで、まったく言葉通りのアクシデントでした。

さらに終演後は、さんざん降りた分だけ今度は上らなくてはならず、ここへ来たときは、帰りは決まって登山感覚で一気呵成に階段を上り続けなくてはならず、地上へ出たときは、それこそ体がじっとりと汗ばみ息はハァハァとなるほどです。
身体的に辛いのは2時間前後ずっと座って音楽を聴くと、それだけでも疲れるし体は動かない状態になっていますが、その態勢からサッと腰を上げていきなりビルの4〜5階分の階段を登るのは相当ハードです。

階段の話ばかりになりましたが、このホールのもうひとつの弱点が、時代故のサイズの小ぶりな貧相な座席で、色も朱色系のあまり趣味のよろしいものとは言いかねるものでした。
それがこの度、見るも立派なシートに変わっており、シート自体も大型化している上に、その間には立派な木製の肘掛けが備わり、余裕もずいぶん生まれたのは目も醒めるような驚きでした。

おそらく座席数は減少したはずですが、掛け心地もよく、以前のことを思うと本当によくなったと、嬉しいような気分になりました。
階段はむろん以前のままですが、このホールの欠点のひとつが見事に改善されたことは間違いありません。

残るは最大の欠点である階段問題ですが、なにしろ大きな銀行なのですから、この際思い切ってエレベーターをつけて欲しいし、高齢者はもちろん体の弱い人にもどうぞ来てくださいという態勢を作って欲しいものです。
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SK-EXのコンサート

昨日は福銀ホールで行われたカワイ楽器主催のピアノリサイタルに行きました。

演奏者は川島基(かわしまもとい)さんというドイツ在住のピアニストでしたが、偶然チラシを見て行ってみる気になりチケットを購入したのですが、驚いたことにはカワイに連絡すると、すぐに自宅に持ってきてくれるサービスの良さで、このあたりに主催者の力量の違いを感じずにはいられませんでした。

おかげでプレイガイドまでわざわざ行く手間が省けただけでなく、チケットぴあなどは、表示されたチケット代金に追加して、安くもない「発券手数料」なるものを一枚毎に取られるのはかねがね納得がいかない気がしていましたから、この点も助かりました。
チケット屋がチケットを売るのは当然なのに、あれは一体なのでしょうね?

さて、このリサイタルはカワイ楽器の主催なので、当然ピアノはカワイで、福銀ホールにはカワイがありませんから、最新(たぶん)のSK-EXを持ち込んでのコンサートでした。

おそらくカワイ楽器所有の貸出用のSK-EXでしょうから、ものが悪いはずもなく、最初の曲(シューベルト=リスト:「春の想い」「君は安らぎ」)が始まったときには、緩やかな曲調だったこともあり、おお、なかなか良いじゃないか!というのが第一印象でした。

しかし、コンサート全体を通じて感じたことは、やはりCDなどで抱いていた印象に戻ってしまい、残念に感じる部分を依然として残しているというのも率直なところでした。

気になるのは、ハンマー中心部にコアを作るという思想なのかもしれませんが、はっきりした打鍵をした際には、音の中に針金でも入っているような強くて好ましからざる芯があることで、そのためかどうかはわかりませんが、全体にツンツンペタペタした印象の音になり、だんだんうるさく感じてきてしまうことです。

ヤマハとはまた違った意味で、もっと深いところからピアノを鳴らして欲しいというのが偽らざる印象です。
というのも、ピアノ自体はそんな音造りはしなくても、非常によく鳴っていると思いましたし、パワーも昔に較べるとかなりあると思いました。
ただし、全体のまとまり感があきらかに欠けており、その点ではヤマハが一歩上を行くような気もします。
そうはいっても潜在力は非常に高いピアノだと思えるだけに、画竜点睛を欠くのごとく、却ってそこが残念に感じるのでしょう。

もう一つは、これはカワイの普及品にまで等しく言えることですが、根本的に音質が暗いのはこのメーカーのピアノの生来の特徴という気がしましたし、この点はSK-EXにまで見事に受け継がれているようです。
ひとくちに言うと、単音で聴く音に、甘さやふくよかさがなく、どこか寂しい響きがあるということ。
ステージで活躍するコンサートグランドには、当然ブリリアントな面も持たせようとしているのでしょうが、地味な目鼻立ちの顔に、無理に派手なメイクをしているようで、どこか不自然さがつきまといます。

ドイツピアノの中には決して甘い明るい音は出さないけれども、毅然とした音色を持っているピアノがいくつかありますが、そういうピアノでもなく、このあたりがカワイの個性がもうひとつはっきりしない点かもしれません。

構造的な音の印象としてはフレームが硬すぎるという感じも…。
このどこか寂しげで冷たい印象が取り払われたときに、カワイの逆転劇は起こるような気がしました。
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湿度計への不信

ある調律師のホームページでオススメだった温湿度計を購入して数ヶ月経ちますが、このところ古い湿度計との間に常に10%の違いがあって、どっちが正しいのかと迷っています。

古い方は同じものが二つあるのですが、共に同じ値を示し続けているのが、またなんとも不気味で、もしかして…これはこれで正しいんじゃないかという気もしています。

新しいほうはその調律師オススメのエンペックスというメーカー品だけあって、一定の信頼性は置いていたのですが、なにしろもの自体がたいそう軽くてピアノの上ですべりやすいために、実は弾いたときの微振動によって二度ほど床に落ちてしまった経緯があります。
我が家の床はじゅうたんなので、それほど深刻な衝撃ではなかったんじゃないかとも思いたいのですが、でもやっぱりそれで狂ったのでは?という疑いもあるにはあるわけです。

新しいほうがこのところ常に10%ほど低い値を示しており、それが本当なら50%ほどで数値としては理想的なのですが、ちかごろは季節変化によって冷房を入れない時間が増えてきているので、果たして信用していいものかどうか迷っているわけです。

体感的にはやや湿度がある感じがしないでもないものの、この値が本当に正しのならいいわけですが、これを確かめるには結局もう1台買ってくるしかないのかと迷っています。

でもねえ…ひとつの部屋に新旧4つもの湿度計を並べることを考えたら、さすがに自分のおバカ度も好い加減にしなくてはと躊躇してしまうのです。

まさか人に湿度計を一日貸してというのも変ですし、こんなことなら新しい湿度計の下に滑り止めのゴムでも貼り付けておけばよかったと思いますが、でも、そもそもそんなちょっとしたことは、なんでも親切設計の日本製品なんだったら初めからつけておいてくれてもよかったんじゃないかとも思います。

まあダンプチェイサーもつけていることでもあり、もう少し様子を見てもいいとは思いますが、なんとなくチラチラと気には掛かる今日この頃です。
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続々エアコン依存症

マロニエ君のような困った体質を持つ者にとっては、季節の変わり目というのは、その時期をなんとか無事に通過するだけでも普通の人以上に大変です。

このところは朝夕は肌寒ささえ感じるまでになってきましたが、それでも、つい数日前までは夏の名残のある一時的なものだったから、折々に冷房をいれるなどして不快感を凌いでいたのですが、一昨日所用があって天神に出た折には、中途半端な気温だったところへ、あまつさえ雨まで降り出しました。

通常、雨が降れば同時に温湿度は上昇するものですが、この日は湿度のみが上がり、気温のほうは上がらずに肌寒さが加わるという変則的なものとなり、それでついにマロニエ君の体になにか異変が起こったようでした。

用事を済ませ、それでも這いつくばるようにしてヤマハなどをちょっと覗いた後に帰宅しましたが、このときはずいぶんと不当に疲れたという印象がありました。

巷ではいま、風邪がとても流行っているということを耳にしますが、ついに自分も風邪をひいたかと思うほど疲れがおさまらず、何よりも大きな変化は、ついに体が寒いと感じはじめたことでした。
本当に寒いのか、発熱のための悪寒なのかは判然としないまま、薬をのんだり寝具をやや温かなものへ変更したりと、マロニエ君が騒ぎ出すと家人も大慌てです。
この半年近く、冷房これ一筋で過ごしてきたマロニエ君の口から、ついに「寒い」という言葉を聞くのは、家人もささやかな驚きに値することらしいです。

これはなんとなく自分でわかるのですが、体内の夏冬の切り替えが一昨日を境にして、ついにガッチャンと切り替わったような気がしました。それまで多少寒くても冷房だったものが、いったんこれが切り替わると今度は一転して、ちょっと肌寒くても暖房を入れたくなる、ここがまさにエアコン依存症のタチの悪さといったところです。

自室でもそれは続き、前日まで冷房を入れるたびにフゥ〜と生き返るような気分を味わっていたものが、翌日には一転してあたりが妙に寒々しく感じられて不安になり、つい暖房を入れたくなってそわそわしてくるのです。
さすがにそれはマズかろうと一日は我慢しましたが、こんな一時しのぎはそういつまでも続くはずもなく、マロニエ君の部屋に暖房が入るのもそう先のことではないはずで、困ったもんだ…という感じです。

マロニエ君のような体調の持ち主も困りものですが、親しい医者にいわせると、もっと危ないのは倹約が体に染み込んだ高齢者なんだそうで、やみくもに電気代のかかるのを嫌がって夏はエアコンを極力使わず、自宅にいてさえ熱中症になったり、冬は暖房をケチったがために心臓や血管にストレスがかかって体調を崩す、悪くすれば入院、最悪の場合落命なんてこともあるそうで、これは専らメンタル面の働きのなせる技のよです。

こういう人達は冷暖房によって自分の体の健康を守って維持するという観念がまったくなく、自然が一番などと心底信じ切っているから、いわば無意識のうちに我が身を苛み犠牲にしてまで倹約に勤しんでいるわけで、まあそれに較べたら、エアコン依存症のほうがいくらかまだマシかぐらいに思っています。

とはいっても、マロニエ君のエアコン依存症もきっとメンタル面からくる欲求が大きいわけで、べつに健康のためでもなければ、長生きをしようとしてやっていることではありませんけれども。
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アメリカ産牛肉

最近は円高のお陰もあるのでしょうが、ずいぶんと肉類の値段が安くなったように感じます。
とくに牛肉が安くなったように思うのですが、実際のところどうなんでしょう。

輸入肉から連動してのことなのか、国産牛もなんとなく以前より安くなっているような気がするのですが確かなことはわかりません。

さて、輸入牛肉なんて、昔はただの安物で、国産を高級品に押し上げるための肉といった印象がありましたが、あるころからこれに固有の美味しさがあることに気がつきました。
たぶんマロニエ君の記憶違いでなければ、1999年にオープンしたコストコホールセールで買うようになってらだと思うのですが、ここはアメリカの倉庫型ショップで、文字通り店内はアメリカそのもの。
牛肉などもごく一部を除いてほとんどがアメリカらの輸入品でした。

それ以前はオーストラリア産が主流でしたが、こちらは大したことなく、同じ輸入牛肉でもアメリカとの味の差は見過ごせないものがあると感じます。

これを痛感したのはコストコで販売されている、特大サイズの分厚いステーキなどで、はじめは日本人の習慣で硬さばかりを意識して、ゆっくり味わうところまでは至りませんでした。
その後、普通の国産牛のステーキなどを食べてみると、たしかに柔らかさは勝って食べやすいから味まで美味しいように感じていましたが、それでもコストコホールセールに行く度に、その気前の良い厚さや量など、買いたくなる誘惑に負けてアメリカ産牛肉も買ったりしているうちに、硬さの問題でつい見落としていた独特の美味しさがあることに気が付くようになりました。

いったんそれがわかると、その違いはより明確なものになりました。
アメリカ産にはそれ自体にいかにも牛肉らしい旨味があり、それとは対照的に味が薄いのがオージービーフだと思うようになりました。ここがもしかしたらあの飼料の違いなのかもしれませんが。
ともかく、味がいいから、今後はアメリカ産牛肉中心で行こうと思っていた矢先に、例の狂牛病問題が沸き起こり、一時は吉野家などでも大騒ぎとなって、せっかく気に入っていたアメリカ産牛肉の輸入が途絶えてしまいます。

それから数年が経って、最近ではようやくスーパーの店頭にもアメリカ産が復活してきているのは嬉しい限りです。
最近はときどきこれを食べますが、やはりアメリカ産にはカウボーイ的な野趣溢れる独特な肉の美味しさがあり、これは病みつきになります。

ところが日本人というのは、いったん刷り込まれたイメージというのは少々のことでは覆ることがありませんから、おそらくは90%以上の人が輸入肉はたんなる安物という先入観があって、あまりこれを好んで買おうとはしていないようです。
例の騒ぎの後遺症もあって、位置付けとしてはアメリカ産はオージービーフのさらに下で、国産を頂点にしたヒエラルキーが消費者の意識の中にしっかり出来上がっているような気がします。

国産牛の場合、我が家は最上級品なんて買いませんから、せいぜい中ぐらいのものと較べると、たしかに国産牛は味もそこそこで、食べやすい感じはあるものの、アメリカ産の独特のコクのあるワイルドな味に較べたら個人的には国産牛が味に関して上だとは言い切れない気がします。

先日など、スーパーでスライスしたアメリカ産の牛肉がかなり安く売られていましたが、そのスーパー自体が極端に変なモノは置いていないので、試しにこれを買ってみたところ、やっぱりあのアメリカ産独特の濃密な肉の味がありました。
牛肉はやっぱりこうじゃなくちゃと食べるたびに思ってしまいます。
少なくとも輸入ピアノと日本製ピアノの音色の違い以上のものがあるとマロニエ君は感じています。

アメリカ産は格下だと思い込んでいる方、いちど偏見を取り払ってアメリカ産牛肉特有の美味しさを味わってみてはいかが?
なによりも、安全性の面を最優先に心配される方には向かないかもしれませんが。
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ベーゼンとクラヴサン

最近はちょっと変わったCDを聴いています。

演奏がイマイチなので、演奏者の名前は敢えて書きませんが、日本人の女性ピアニストのもので、ドビュッシー、ショパン、ラヴェル、グリーグ、リストなどの作品が弾かれているもの。
なんで買ったのか、よくはもう覚えていませんが、おそらくベーゼンドルファーのインペリアルでなく275を使っている点と、もうひとつはマロニエ君がドビュッシーの中でもとくに好きな作品のひとつである「沈める寺」が入っているので、それが275で演奏されるとどういう感じになるのかという興味があったのだろうと思います。

ところが演奏にがっかりしてそのまま棚の中に放り込んでいたのです。
曲を聴くにも、ピアノの音を味わうにも、演奏がちゃんとしてなくてははじまりません。
それを再挑戦のつもりで、もう一度ひっぱり出して聴いてみる気になったのです。

ピアノ自体は素晴らしい楽器で、コンディションもまことによろしく、艶やかさと気品が両立しており、この点では理想的なベーゼンドルファーではないかと思われます。とくに「沈める寺」で度々登場する低音はスタインウェイとはまた違った金色の鐘のような響きだし、全体にはひじょうに明確な色彩にあふれていたと思います。

ショパンのバルカローレなどもひじょうに美しい世界で、それなりに納得させられるものがあったのは事実ですが、それはこのピアノの調整、とりわけ整音が素晴らしく良くできている点に尽きるという気がしました。
それは、変な言い方ですが、ある意味ベーゼンドルファーらしくない音造りをされていて、このピアノの持つウィーン風のトーンのクセみたいなものがほとんどないために、その音はただひたすら美しいデリケートな楽器のそれになっていたようです。あと一歩ウィーン側に寄ったらショパンは拒絶反応を起こすのではないかと思われます。
そんな中ではラヴェルとリストが最もベーゼンドルファーに相性がいいようにも感じました。

全体としてはとても美しいけれども、根底にフォルテピアノを感じさせる要素があるのも間違いなく、そこがまたベーゼンドルファーが何を(誰が)弾いてもサマになる万能選手ではないことがわかり、そのピアノはその儚い美しさこそが魅力だろうと思われます。

もう一枚は、フランスのジャック・デュフリによるクラヴサンのための作品集で、演奏はインマゼール。
デュフリは1715-1789年の生涯ですから、クープランやラモーの後に続く宮廷音楽・クラヴサンの名手というとこになるでしょう。フランス以外ではバッハとモーツァルトの中間の時代を生きたことになります。
デュフリがもっとも影響を受けたというのがラモーだそうですが、なるほどその曲調はどれもラモー的でもあり、この時代のクラヴサン作品の中ではやはりフランス的な華やぎと、それでいてどこか屈折した享楽が全体を覆っています。

またバッハのような厳格なポリフォニックの作品ではなく、すでにメロディーと伴奏という様式と後に繋がるロマン派的な萌芽も随所に感じることの出来る、聴いていてなかなか面白い作品です。
デュフリの作品は当時の王侯貴族にも受け入れられ人気があったといいますから、当時の貴族社会を偲ぶ手立てとしてもこれは聴いていておもしろいCDだと思いました。
そしてなによりもマロニエ君の耳を惹きつけたのは、そのクラブサン(チェンバロ)の音色でした。

大抵のチェンバロは弦をはじく音が主体で響板がそれを小さく増幅させていますが、ここに聴くチェンバロには思いがけない肉厚な響きがあり、しかも弦楽器のように、響板がぷるぷると振動しいているのが伝わってくるほどのパワーがありました。しかもきわめて色彩的。

ただツンツンと寂しい音しか出さないチェンバロも少なくない中で、ここで用いられている楽器はなんともゴージャスで艶やかな潤いのある音を出すのには驚きました。
1600年代に作られた楽器のコピー楽器で、1973年に作られたものだそうですが、なんとなくその色彩感や華やかさがベーゼンドルファーの響きにも通じるものを感じたところでした。
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仮の嫁入り

日曜は、現在ピアノ購入を検討している知人のご夫妻がマロニエ君宅に来られて、しばらく我が家のピアノを弾いていただきました。
ピアノは(他の楽器もそうかもしれませんが)、自分が弾いているときに耳に聞こえてくる音と、人が弾いている音を少し距離を置いて聞くのではかなり印象が違い、とても客観的に聞くことが出来るので、マロニエ君自身にも大いに楽しめる体験でした。

とくに大屋根を開けることは普段まずないので、こういう機会を幸いに全開にして弾いていただきましたが、普段とはまったく違う自分のピアノの一面を知ることができて有意義でした。

我が家で2時間近く過ごしてから、楽器店に移動。

そこにあるピアノは小型のグランドで、既に弾いたことのあるものではあったものの印象が良かったために再度見に行くことになったのでした。
前回とは別の場所に置かれていたましたから、置かれた環境によってピアノがどのような変化をするか、つまりピアノそのものがもつ基本的な特徴がどの程度のものであるかまで確認することが出来たわけですが、場所が変わってもまったくその長所が衰えることも影を潜めることもなく、はっきりと我々にその力強い魅力を訴えてきたように感じました。

驚いたことには、席を外された奥さんが再び店に戻ってくる際に、遠くまでこのピアノの音が周辺の喧噪を貫いて朗々と鳴り響いてきたとかで、やはりスタインウェイの遠鳴りは大したものだと思いました。

知人は、ついにピアノ自体については概ね納得するに至りましたが、残るはこのピアノを購入して自宅に置いた場合、同様の鳴りや音色がこのまま得られるかという点で悩み始めたところ、この日はたまたま決定権のある営業の人物が先頭に立って対応していたこともあり、だったら家にピアノを入れてみましょうか?という思い切った提案をしてきました。

購入するかどうかもわからない高額なピアノをいきなり自宅に運び入れるというのは、驚きもあり抵抗感もあったようですが、マロニエ君はこれ幸いだと思いました。
まさかこっちからそれを頼むわけにはいきませんが、店側が自発的にそれをやってくれるというのなら、現実的にこれに勝る確かな確認方法はないわけですから、この際そうしてもらったらどうかと、すかさず小声で言いました。

果たしてそのような手続きを取ることとなり、後日このピアノは知人の自宅へと、いわば仮の輿入れをしてくることになりましたが、はてさて結果はどうなりますことやら。

購入すればきっと一生の宝になること間違いなしだとマロニエ君は思いますが、あとは細かな条件的なものもあるのかもしれません。
いつもおなじことを書いて恐縮ですが、ピアノを買うというのは実にいいもんですね!
人の事でも楽しくなってしまいます。
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コンサート会場の規模

ヨーロッパ人の有名ピアニストによるプライベートなコンサートがあり、仲間内と聴きに行ってきました。
雰囲気のある美しい会場で、コンサートも楽しめるものでしたが、その暑さには参りました。

このところエアコン依存症のことを書いていた矢先だっただけに皮肉だったのは、会場の空調が思わしくなく、暑苦しさにめっぽう弱いマロニエ君は、正直音楽なんてどうでもよくなるほどフラフラになってしまいました。なにかの修行のように暑かった。

ところで、小さな会場のコンサートには、一般的なホールのそれとは違った味わいがあるといわれますが、定義としてはいちおう理解はしても、ホールのほうが優れている面も多いとは思います。
しかし、巷では普通のホールでのコンサートにめっぽう否定的で、小さなサロンコンサート的なものを必要以上に有り難がって称賛する一派があるのは、いささか考えが偏りすぎじゃないかと思います。

(今回のコンサートとは直接関係はない話ですが)この手の人達の主張としては、音楽とはそもそもそれほど大きな会場で大向こうを唸らすためのものではなく、小さな会場で行われるものこそが、もっとも本来的に正しく、味わい深く、音楽の感動も深く、演奏者の息づかいを直に感じ、生の感動が得られる理想的なもので、それがいかにも贅沢だというようなことを胸を張って言いますし、心底そう信じているようにも見受けられます。

これは、言い分としてはわからないでもない部分もあり、例えばNHKホールとか東京国際フォーラムみたいな巨大会場でピアノなんぞ聴いても、音は虚しく散るばかりで、たしかにこれが本来の姿ではないでしょう。

しかしながら、大きめのホールの演奏会すべてに批判的で、小さな会場のコンサートばかりを最良のものと言い募る主張にも、現実的には大いに疑問の余地ありだと思うわけです。
マロニエ君自身、小さな会場のコンサートにはもうあちこちずいぶん出かけてみましたが、結果として納得できるものであった記憶は、実をいうとほとんどありません。
理由はそのつどさまざまですが、ひとつ共通して言えることは、小さい会場には小さい会場固有の弱点が多々あり、けっして上記のような良いことばかりではないからです。

具体的には、やはり狭いところに人が鮨詰め(一人あたりの前後左右の寸法はホールの固定席より遙かに狭い)となり、息苦しい閉塞感に苛まれること、イスが折り畳みなど小型の簡易品になるので、これにずっと座り続けることの身体的苦痛(骨まで痛くなる)、奏者も含め大抵は同じ高さの平床なので最前列以外は見たくもない他人の後ろ姿ばかりが眼前に迫り、演奏の様子など満足に見えたためしがない、小さな空間では響きらしきものも望めず、楽器との距離が近すぎて音は生々しく演奏が響きによって整えられない、ピアノもほとんどがコンサートに堪えるような楽器ではないなど、現実はやむを得ない妥協と忍耐の連続なわけです。

だからサロンコンサートなんて言葉だけは優雅なようでも、現実には快適なホールにはるかに及ばない厳しい諸要素が少なくないわけです。遊びならどんなに素晴らしいスペースであっても、それがひとたびコンサートともなれば、ちっちゃな空間故の限界が露呈するというのが掛け値のない現実だと感じます。

要するに、普通の住環境でも、なにも豪壮広大な邸宅で暮らしたいとまでは思いませんが、できることならゆとりのあるそこそこの広さをもった住居が望ましいわけで、狭くて小さなマンションこそが理想的で贅沢で味わい深いなんてことはまさかないでしょう。
これと同じで、音楽がゆっくりと翼を広げられるだけの、ゆとりのある場所にまず奏者や楽器を据えてから、しかる後に奏される音楽に身を浸したいものだと思うのです。

そういうわけで、べつにマロニエ君は小さなコンサートというものを頭から否定するものではありませんが、最終的・総合的に最も心地よくコンサートが楽しめるサイズがどれくらいかと考えた場合、一般的に言うところの中ホール(500人〜800人ぐらいな規模)ぐらいで行われるコンサートだろうと、個人的には思うのです。

東京では紀尾井ホールや東京文化会館小ホール、福岡なら福銀ホールぐらいのサイズです。
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ANAの背面飛行

パイロットの操作ミスで、沖縄から東京に向かっていたANAのボーイング737が浜松付近でほとんど背面飛行に及んでいたことがわかり、このところの報道メディアはしきりにこれを取り上げていました。

この事故は、飛行中トイレに立った機長が戻ってきたときに、副操縦士が操縦室ドアのロックボタンを解除する操作をしたとき、誤って機首を左右に動かすつまみを2回(たぶんドアが開かないからもう1回となったのでは?)操作し、それにより機首が急激に左を向いて同時に下向きになり、機体は自らの重量を支えられずに、ほぼ裏返しになりながら1900メートルも急降下したというものです。

最近の飛行機はテロやハイジャック防止のために操縦室のドアがいちいちロックされる仕組みになっているとかで、中からロックを解除しないと開かないようになっているんだそうです。

機体がほぼ裏返しで急降下したというのは、ごく最近フライトレコーダーの記録解析に基づいてANAが発表したものでしたが、この事故が起こったときにマロニエ君は友人らと話していたことは、「操縦室のドアロックを解除する」と「機体の方向を変える」という、まったく次元も性質も異なる内容の操作を、訓練を受けたパイロットが間違えるなんてことがあるのだろうか、という点で大いに疑問でした。

飛行機の操縦室のことは知りませんが、常識的にいうと、操作ボタンなどはその機能によっておおよその位置が分類され、人間の感覚を必要以上混乱させないような配慮がされているはずで、とりわけ多くの人命を預かる乗り物などにおいて、それは工学設計の半ば常識だと思ったからです。

ところが、ほどなく新聞紙上に問題のスイッチ周辺の写真が掲載され、間違えた二つのつまみに2つの赤いマルがつけられていましたが、それは大きさがやや異なるものの、驚いたことにいかにも似たような色と形状で、しかもその二つはごく近い(写真で見た印象では10センチ以内ぐらい)だったので、これを間違えるのはなるほどあり得る話だと思いました。

もちろん詳しい状況はわかりませんから、何かを断定することはできませんが、写真を見た限りでは機体の設計のほうに問題があるようにも思われ、ミスをおかした副操縦士が少々気の毒にも思えてきたのでした。
マロニエ君がパイロットならそれこそ2回に1回は間違えそうです。

ところがワイドショーなどでは、この問題で元パイロットまでスタジオに呼んできて、えらく深刻な様子で、とくに司会者やタレントのコメンテーターはつまみを間違えた操縦士を非難しまくっていました。
最近は本来必要と思われる自分の考えとか社会に対する批判などはろくにできないクセに、ひとたび人命などという建前がつくと、一気に語調を強め、総攻撃となるのは見ていて違和感を覚えます。

しまいには、ある若いタレントが、「パイロットはお客さんの命を預かっているという自覚がないのではないか」「たかだか3時間のフライトでトイレに行くなんて、たるんでいるからだ」「自分達でも仕事の時はトイレに行けないことがなる」などと、まるで人間の生理現象まで否定するような言い方をしたのは驚きでした。

もちろんパイロットには最上級の慎重さをもって操縦にあたってもらわなくちゃ困りますが、だからといって生身の人間ですからトイレぐらい行くのは当たり前でしょう。
わざとらしいコメントもほどほどにして欲しいものです。
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続エアコン依存症

エアコン依存症のくるま編。

人の車に乗せてもらうのはありがたいことなんですが、マロニエ君の場合、自分の車でないときは、車内環境に関して、ちと心配があるというのが正直なところ。
とくに感じるのはエアコンの調整が自分とは違うと感じることが多々あり、しかも、まさかこちらが手を出すわけにもいきません。

マロニエ君はエアコンは文字通りエア・コンディショニングとして使いたいし、そこには一時しのぎではない快適な状態を「持続させる」という意味合いもあると自分なりに思っています。

でも、多くの場合、人の車に乗せてもらって感じるのは暑いか寒いかのどちらかで、あとは思いついたように温度を上げたり下げたりする場合が多く、適温を維持するという認識が意外に少なく感じるのは不思議です。
家のエアコンでそうする癖がついているのか、エアコンを必要最小限に絞っている人が少なくないし、かろうじて汗が出ないギリギリぐらいにしている人がいますが、なんで?と思ってしまいます。

特に車は、それで電気代がかかるわけじゃなし、だいいち車内は狭くて揺れ動く環境だから、人が存在する空間としては心地よさへの配慮が普通以上に求められる空間と思うわけです。マロニエ君の個人的な感覚からすると、普通より、より静かで涼しくすることで乗員を清新な気分に保つことが大切で、例えば涼しいより暑苦しいほうが車酔いなども誘発しやすくなるし、疲れもたまりやすいと考えられます。

ところが、結構ネチョッと汗が出そうなぐらいの温度設定にしている人って多いんですね。
マロニエ君にしてみれば、「よくこんな温度でなんともないもんだ…」と感じてしまいます。

それどころか、ちょっと涼しくなると窓を開けて走ったりする人がいますが、マロニエ君にすればこんなのは言語道断。だいいち窓を開けて走るなど車内もほこりで薄汚れるし、自分なら絶対にしませんが、路上でも前後左右の窓全開で走っている車をときどき見かけて呆れてしまいます。

どこへでも極力自分の車で行くのが好きなのは、ひとつにはこのエアコンその他の点で自分の自由が利くからというのがあります。さらには人を乗せておいてラジオや音楽のボリュームを落とさないでぜんぜんへっちゃらな人がいますが、あれなんてどういう心境なのかと思います。

マロニエ君ならそれがどんなに素晴らしい音楽でも、好きな曲でも、人を乗せているときは、その人との会話がメインなわけで、音楽は消すか、ごくごく小さくして会話の妨げにならないようにしますし、そもそも車の中のような狭い空間では、音も苦痛と不快の原因となるので控えるのが心配りだと思うんですけどね。

よく電話中でも、来客中でも、食事中でも、テレビは漫然とつけっぱなしという人がいますが、おそらくあの感覚なんでしょう。

エアコンに関してだけでなく、何事も日本人はチビチビと節約モードでやるのがしょせんは好きな民族なんだろうと思います。海外に行くと、例えばご近所で日本の影響が大きい言われる台湾などでも驚かされるのは、そのなんとも豪快な冷房の入れ方で、どこに入っても建物内は胸がすくほどビシッと冷えています。
当然ながらタクシーなども同様で、いささかもケチケチせず冷房ガンガンなのは、それだけで元気が出るようです。
そういえば日本も昔はこうだったなぁと、何事も元気だった昔がなつかしいほど、今はなにかにつけてガマンの時代のようです。
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エアコン依存症

アルコール依存症のように、人によって○○○依存症というのがいろいろとあるようですが、その点で言うならマロニエ君はさしずめエアコン依存症のような気がします。
「…気がします」ではなく、完全にそうだと断言すべきかもしれません。

エアコン(とく冷房)は必需品で、盛夏は言うに及ばず、前後の時期もどうしてもエアコンを使ってしまいます。

そんなエアコン依存症にとっては、とくに最近のように朝晩が涼しく、あるいは肌寒くなるときがクセもので、この時期、普通の人がエアコンを入れなくなる時期というのがマロニエ君にとっては、ある意味、真夏よりも辛かったりする時期となるのです。
なぜ自分が依存症だと思うかいうと、暑いのが嫌だというのを通り越して、エアコンを入れていない状態、機械の音が消えて妙にシンとなり、空気が動かない、あの状態というだけで不安になり、精神的に耐えがたく、実際に体調まで悪くなるからでしょうか。

ひとつには湿度の問題があり、エアコンは頼まなくても除湿してくれますから、室温が下がるだけでなく、このサラサラがまず快適なわけです。秋口などに世の中がしだいにエアコンを入れない状態になると、却ってネチョッと暑くなり、空気自体も湿度を含んで重い感じになり、それがもうダメなんですね。

この時期になると、よそのお宅などにも出来る限り行きたくないのは、まさか礼儀上も「あのう、エアコンを入れてもらえませんか」なとどは言い出せないからです。
とくに涼しくなるとエアコンを早々にOFFにして、それを疑いもなく当然のような顔をしている人を見ていると、もうそれだけで違和感を覚えて気が滅入ってしまいます。

たしかに今の季節、あまり冷房を入れすぎるとヘタをすると風邪をひく危険性も高まりますが、そんなことは問題ではなく、鼻水をすすり頭痛がしても、まだまだ冷房を使わざるを得ないので、自宅では現在でも常につけたり消したりの繰り返しをやっています。
さすがにここまでくれば体も鍛えられたのか、少々のことではこたえないようになりました。

考えてみるとマロニエ君のまわりにはエアコン中毒が昔から多く、親しくしていた親戚とか叔父夫妻なども冷房病は重症の口で、何ヶ月もスイッチを入れっぱなしなんていうウソみたいな話もありました。
また寒いときはクーラーを切るのではなくコタツのスイッチを入れたりと不道徳なことをする者もいたりと、当時は現在のような節電の観念なども薄い時代で、驚くべき話ですね。

こういう周囲の環境も多少は影響があるとみえて、夜などもたった一晩でもエアコンがないと眠れませんし、ましてやキャンプだなんてとんでもない話です。
たしかにつけると寒い、でも消すとモワッとして不快感が増すので、それをエアコンの力で絶えず打ち消しているということだろうと思います。

普通は、春秋はときに窓を開けて「吹き寄せる穏やかな風が心地よい」などとさも風流ぶっていう人がいますが、マロニエ君はまっぴらゴメンで、ただのケチを正当化してるように見えるだけ。
また、世の中にはエアコンそのものが嫌いだと高らかに公言して憚らない人がいますが、そういう人とはたぶん一日たりとも一緒には過ごせないだろうと思います。

こういう人は、エアコンの使いすぎは健康に良くないとか、寒いからとか、なんだかんだと言い募りますが、多くの場合もとを辿れば倹約精神からきていると思います。正真正銘寒いのが苦手というのなら、その人達は冬こそはよほどぬくぬくにしているかといえば、だいたいさにあらず、暖房のほうもやはりちびちびしか使っていない場合が多いのをマロニエ君は見逃しません。

ともかくマロニエ君にとっては、エアコン(冷房)は命綱にも等しく、体も完全にそれを前提とした体質になっており、もはやこれがなくなればたぶん生きては行けないだろうと自分で思います。
そのかわり冬の暖房は最低限で構いませんから、自分なりに筋が通っているつもりです(笑)。
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電子ピアノのタッチ

ピアノクラブの方から電子ピアノのオススメはないかと尋ねられました。
この方はマンションのご自宅にグランドをお持ちなのですが、練習用に電子ピアノの購入を決心されたようです。

ご当人が試弾してみて、このあたりかなあと思ったのが「カワイ CA13(15万くらい)、同CA63(20万くらい)、ヤマハ CLP440(18万くらい)」だそうで、「指を動かすくらいに練習したいので、あんまり高いのは考えてない」とのことなので、ほぼ下記のような意味の返信をしました。

まず、基本的にマロニエ君は電子ピアノのことはぜんぜんわからないということ。
以前聞いた話では、このジャンルでは断然ローランドなんだそうで、へぇそんなもんかと思うだけです。

ただ、もしも自分が買うとなると、もっぱら情緒的な理由だと思いますが、電子ピアノを楽器に準ずるものと捉えれば、やはり楽器メーカーの製品を買いたくなってしまいます。

電子ピアノで最も大事な点はなにかと考えた場合、電気製品としての機能は横に置くとして、あくまで個人的な印象ではタッチの優劣にこそあると思います。
これが安物になればなるほどプカプカとした安っぽい単純バネの感触に落ちぶれてしまい、高級品ほどタッチのしっとり感や深み、コントロールの幅などがあるようです。
音はどうせ多くはスタインウェイからのサンプリングで、ヤマハ/カワイは自社のコンサートグランドから採っていますが、所詮は電子の音なのでこの点はどうでもいいと言っちゃ語弊がありますが、それよりは物理的なタッチ感がいかに本物のピアノに少しでも近づけているかという点に興味の的を絞ると思います。

その点で言うと、本物のグランドピアノのアクションをほぼ使っているヤマハのグランタッチなどは電子ピアノのいわば究極の姿で、現在はアヴァングランドに受け継がれているようですが、お値段も立派。
グランタッチは以前は中古でもかなり高価で、それでもタマ数のほうが不足しているくらいでしたが、最近は世代が進んだせいか、中古価格も一気に安くなり、どうかするとネットオークションなどで10万円台のものもチラホラ見かけます。もっとも何年も使用された中古の電気製品という意味では、故障の心配もないではないでしょうが。

また、安めの現行品の中から探すなら、私の最近の微々たる経験で言うとカワイの電子ピアノの中に「レットオフフィール」という機能がついた製品が頭に浮かびました。

レットオフというのは、本物のピアノのキーを押し下げたときに、最後のところでカクンと一段クリック感みたいなものがあり、これはレペティションレバーがローラーを介してハンマーを押し上げたときにジャックという部品が脱進してハンマーを解放するときの感触(だと思いますが間違っていたらすみません)ですが、この本物っぽいタッチ感を電子ピアノで作り出している機種があるわけです。
これにより、少しなりとも電子ピアノの味気ないタッチに生ピアノ風の(とくにグランドに顕著なこの感触を)演出しようという試みでしょう。
私なら練習用として割り切って買う電子ピアノなら、専らこの点と価格を重視するような気がします。

調べてみると、候補に挙げておられたCAリーズならCA93という最上級モデルでないと付いていませんが、CN33という機種なら標準価格17万弱の製品にはこれが搭載されてています。

その結果、この方は再度あれこれ試してみられた結果、CN33よりもCA13のほうが実際のタッチが良いと感じられたそうで、ついにこれを購入されたとのこと。
ちなみにCAシリーズは木製鍵盤がウリとのことで、電子ピアノでそれはポイント高いと思いました。
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福岡ピアノクラブ2周年

ピアノクラブの発足2周年の節目に当たる定例会が行われました。

会場はパピオビールームという福岡市が運営する音楽練習場で、そこの大練習室。
この施設を利用するにはすべて抽選での申し込みが必要で、数ヶ月だか半年だか忘れましたが、抽選に参加して、どうにかこの日この会場が当選しての利用というわけです。

大練習室はオーケストラの練習が楽にできる広さがあり、この施設内でも文字通り最大の練習室で、ちょっとしたコンサートなども行われており、ピアノはスタインウェイのDとヤマハのC7があります。
ここのピアノはずいぶん昔(まだ新しい頃)に数回弾いた事があり、そのころはまだ気軽に利用できていたのですが、ここ最近はすべて抽選になるほどの高い利用率の会場であるだけ、ピアノもさぞ酷使されているだろうと思っていましたが、これが思いのほか状態がいいのは嬉しい誤算でした。

この施設が出来た時に収められたピアノで、すでに20年以上経過したはずのピアノですが、なかなか甘い音色と柔らかな響きを持っていて、現在のスタインウェイにはない麗しさがありました。

ただスタインウェイには、このメーカー独特のタッチやフィールがあるために、メンバーの各人ははじめはちょっと弾きづらいというような声も聞こえましたが、マロニエ君に言わせると、むろん完璧とはいいませんが、むしろ良い部類のスタインウェイだったと思いました。
とりわけ公共施設の練習場のピアノとしてはモノも状態も文句なしというべきでしょう。

弾き心地というか、いわゆる弾き易さの点でいうと、たしかに日本のピアノは弾きやすいのも事実で、それが標準になっているのはマロニエ君を含めて多くの日本人がそうだろうと思われますが、ストラディヴァリウスなども初めはどんなに腕達者でもてんで鳴らないのだそうで、その楽器固有の鳴らし方や演奏法を身につけるには、最低でも一ヶ月はかかるといわれますから、ピアノも同様、すべての楽器は本来そういうものだと思われます。

その点では日本の楽器はピアノに限らず、管でも弦でも、あまりにイージーに過ぎるという意見もあるようです。誰が弾いてもだいたい楽々と演奏できるのは、日本製楽器の特徴でそれはそれで素晴らしいのですが、そのぶん何かが鍛えられずに甘やかされているといえば、そうなのかもしれません。

クラブのほうは、定例会が行われる度に新しい方が加わり、いまやかなりの大所帯になってしまっていることが驚くばかりです。

こんな一幕も。
ある方が演奏を終えて席に戻ろうとされたとき、新しく参加された方がその人に歩み寄ってしきりと挨拶をしておられて、一瞬何事かと思いましたが、なんとクラブ員の方が一年前にピアノを新しく買い換えられた時に、前のピアノをネットで売りに出して、そのピアノを買った人が偶然クラブに入ってこられたというわけで、その売買のとき以来はじめて顔を合わされたようでした。

世間は狭いという、まさにそんな光景でした。

いつも通り、定例会終了後は懇親会の会場へと場所を移して、大いに飲み食いして、大いに語り合ってのお開きとなりました。
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主役は機械

連休中、家人が食事の支度ができず外食することになりましたが、思いつく店はどこも気が進まず、けっきょくはやりの回転寿司店に行きました。

何事でも、マロニエ君は行列とか順番待ちみたいなことが苦手なことは折に触れ書いてきた通りで、それを避けるため夜の8時過ぎに家を出てお店へ向かいましたが、それでも連休ということもあってか、まだ順番待ち状態なのには驚きました。さてどうしたものかと思いましたが、他に行くアテもないので今回は腹を括って待つことになりました。

この店には入口脇に順番待ちのための広いエリアがあり、そこの長イスには子供連れなどがズラリと並んでいます。
そこで目についたのは、いまさら珍しい光景ではないものの、実に多くの人が携帯(とくにスマートフォンが目立つ)とのにらめっこ状態で、普通に話などをしている人は全体からすれば少ないようで、生きた人間よりも携帯の方が親しい間柄のように見えました。
あとからやって来る人も同様で、親子連れやカップルですが、腰を下ろすとサアとばかりに携帯を取り出し、それぞれが黙してなにやらせっせと画面操作などをやっています。

携帯電話→メール→スマートフォンと進歩するにつれ、人と人とのまともな会話とか人同士の生な関係というのは確実に少なくなってしまったという事実をまさに眺めるようでした。
いまや自転車をこぎながらでもメールをやりとりする時代ですから、家にいるときも、その他の時間もおおよそ似たような状況だろうと思われます。

マロニエ君の目には、あの携帯端末を操作しているときの人の姿というのは、まったく美しくない姿として映ってしまいます。同じ人でも、そんなものは手にせず、まわりの人達と普通におしゃべりしているときのほうが、どれだけ眺めがいいだろうかと思います。

しばらくして、まるで銀行か郵便局同様に順番がきたことを番号でアナウンスされ、その折に伝票とおしぼりをセットでパッと手渡されて、向かうべきテーブルの番号と方角が伝えられます。そこへ座ってあとはひたすら注文画面との格闘になりますから、以降食べ終わるまで、店員との接触さえ断ち切られることになります。
注文するのも項目別に分類された画面をあれこれと繰り出しては、種類、数、確定まですべて指操作によって成し遂げなくてはならず、これがまた、手が上げっぱなしになって肩から腕がひきつって、ピアノを弾くよりよほど疲れます。

お茶や醤油などの準備がセルフなのはもちろんのこと、リニアモーターカーのおもちゃみたいな機械が自動的に注文品を運んでくるので、それっとばかりにお皿を下ろして、忘れないように車輌を送り返すボタンを押して…と集中力をもって一連の動作をせっせとやっていると、なにやら食べることまで「食べる作業」のような感じになるんですね。

ここですべての中心になっているものは何をおいても「システム」であって、そのシステムに対応できない人は回転寿司さえうかうか食べられない忙しさです。
入店時の順番待ち登録も、そこに置かれた機械の画面を操作して人数やテーブル/カウンターなどの区別も含めて自分で入力し、ぺろっと出てくる番号の紙を持って呼び出しを待たなくてはなりませんから、こういうことに馴れないことには、ただ平穏に食事をすることさえ困難だろうと思われます。

そう思ってみると、高齢者のお客さんというのはやはり少ないし、見かけても家族とおぼしき若い人と一緒で、高齢者の方だけでこういう店に来るというのはかなり厳しいだろうと推察しました。
こんなところにも、さりげなく社会の弱者が切り捨てられているという現実を見たようです。
しかし、値段は安いし、たしかに文句はいえないのですが。

人の手作業になるのは唯一会計の時だけで、ここまでやるならいっそ駐車場のゲートみたいなものを置いて、機械にお金を投入するようにしたら、よほどせいせいするんじゃないかと思いました。
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この夏の技術者

この夏の間に、期せずして数人のピアノ技術者に直接会ったり、あるいは電話であれこれと話をしたりする機会がありましたが、同じ調律師という職業でも本当にさまざまな方がいらっしゃるものです。
いろいろ障りがあるといけませんので敢えてお名前は伏せますが、接した順番にご紹介。

Aさん。
数年前に知人を通じて紹介された方。多芸で非常に営業熱心な方。我が家のピアノも見ていただいたことがあり、長時間かけて細かい調整などをしていただいたことがあります。ある会場で偶然にお会いしましたが、あいかわらず熱心なお仕事ぶりでした。この方に全幅の信頼を寄せる方も少なくないようで納得です。技術もさることながら、そのいかにも謙虚な態度がお客さんの心を掴んでいるんでしょう。短い時間でしたが久しぶりにあれこれと話ができました。

Bさん。
我が家のピアノの主治医のお一人で、大変真面目で、ホールの保守管理やコンサートの調律などもやっておられる本格派ですが、決して自分の腕をアピールされないところにお人柄が現れています。あくまでもマイペースを守りながら納得のいく仕事をされる方で、多方面からの厚い信頼を獲得されているのも頷けます。とくにオーバーホールなどでは一般的な技術者の3倍近く時間をかけられるようで、仕事に対する情熱とひたむきさは特筆ものです。その人柄のような整然とした調律をされ、ときどき我が家のピアノのことを心配してお電話くださいます。

Cさん。
あるヴィンテージピアノによるリサイタルに行ったところ、そのピアノ状態がいいので感心していたら、なんとこの調律師さんの調律でした。我が家のピアノの調律も以前やっていただいたことがあり、とてもきちんとした素晴らしい仕事をされます。それが高く評価されてのことでしょうが、いろいろなところでお見かけしますが、ご当人は至って控え目な優しい方です。コンサートでお会いした数日後のこと、あることで何十年も前の古い雑誌を見ていたら、この方がまだうんと若いころに小さな写真付きで、対談に出ておられるのを見つけて、偶然の連続にびっくりしました。

Dさん。
この方も我が家の主治医の一人で、全国で広く活躍するかたわら、本を出したり主催コンサートのCDを出したりと、果敢な精神の持ち主で、業界の不正とも戦う闘士の側面を持っておられます。それでいて非常に純粋な心の持ち主で、およそ駆け引きなどのまったくできない直球勝負の方です。この方の音に関するこだわりは並大抵のものではなく、自分が理想とする音色を作り出すためにはあらゆる労苦を厭わないスタンスを長年貫き、この方の支持者は全国に大勢いらっしゃいます。見方によっては風変わりな方でもあるけれど、話していると少年のようでとても味のある愉快な方です。

Eさん。
マロニエ君がある意味最も親しくしてもらっている調律師で、普段から多岐にわたってお世話になっている方。あかるくおおらか、声も大きく、まるで調律師という雰囲気ではありませんが、ひとたびピアノに向かうと別人のように研究熱心で誠実な仕事師に変貌します。なにかと頼りになる技術者で、ちょっと疑問を投げかけるとすぐに飛んできてくれますし、何かがわかればわざわざ専門的な内容でも説明付きで電話をくださったりですが、何事も決して断定されないところが謙虚です。マロニエ君のよき相談相手で師匠でもあります。奥さん共々家族ぐるみのお付き合いがもう長いこと続いています。

Fさん。
以前、このホームページを見て連絡をくださった他県の有名な調律師の方。メインはベーゼンドルファーのようですが、九州のホールにはまだないファツィオリなども経験しておられるなど、いろんな輸入ピアノの経験が豊富な方。我が家のピアノが抱える問題を見に、わざわざ寄ってくださいました。ご自身、ピアノがとてもお好きということで、興味深い話をあれこれと聞かせていただきましたが、やみくもに世間に媚びることのない、自分らしいスタンスをお持ちの方とお見受けしました。海外のメーカーにも自費で留学するなど、ピアノにかける情熱は並々ならぬもので、またゆっくりお会いしたいものです。

存じ上げている技術者の方はもっとおられますが、とりあえずこの夏に接した方々です。
ただピアノが好きと言うだけで、こんなにもたくさんの技術者の方がお付き合いくださり、なんだかマロニエ君のピアノの味方がたくさんいてくださるようで心強い限りです。
篤く々々御礼申し上げます。
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監督の責任

現代の演奏が、店頭に並ぶつややかなフルーツのように、味よりも見てくれを重視して仕上げられていくというのはまったく商品主義のあらわれというべきで、悪しき慣習だと思います。
とりわけ録音演奏では、その傾向がより顕著になるようです。

もちろんセッション録音はライブとは性格が違うので、明らかなミスや不具合があってはならないのはわかりますが、それを求めるあまり音楽が本来もつ勢いとか、生命感までもが損なわれるのはなにより許しがたいことです。
おそらく現代の価値観を反映した結果で、目先のことに囚われて、大事な本質がなおざりにされるのはまさに本末転倒というほかありません。

感動は薄くても落ち度だけは努々無いようにそつなくまとめるという、現代人の気質そのものです。

録音に関しては、とりわけ有能なディレクターが関わらないと、昨日書いたピアニストのような失敗作が生まれる可能性が大だと思います。
録音現場ではディレクターの存在は大きく、ときには演奏家をも上回る権力と重責があるとも言われますが、それも頷ける話で、演奏者はひたすら演奏に専心するわけで、それを統括する芸術性のある責任者・判断者が必要となります。

プレイバックはもちろん演奏者本人も聴きますが、そこで有効な方向を指し示すのはディレクターの役目です。
演奏者が迷っているときに、「もっと自由に」「もっと情熱的に」と言うのと「もう少し節度を持って」「落ち着いてテンポを守って」と指示するのでは真逆の結果がもたらされるでしょう。

とりわけセッション録音には、ライブのような一期一会の魅力はない代わりに、何度も取り直しができるのですから、演奏者の持つ最良の面を理解し、そこを引き出しつつ、限界すれすれのところを走らせるべきだと思うのです。
そのためにも音楽に対する造詣と、演奏者の資質や個性に対する深い理解が求められます。

そういう能力を発揮して、演奏者からは最良の演奏を引き出すべきなのであって、ただ表情の硬いだけの、車線からはみ出さない安全運転をさせるだけなら、そんなディレクターはいないほうがまだましです。

時代の趨勢と言うべきですが、こんにち音楽の世界で最も幅をきかせているのは「楽譜に忠実に」という考え方で、それが絶対的な価値のようになってしまっています。
この流れに演奏者はがんじがらめとなり、若い人はその中で育つから、自分の感性をあらわにする主観的情緒的な演奏が年々できなくなってしまっているようですが、これは音楽の根幹を揺るがす深刻な問題だとマロニエ君は思います。
それはつまり、演奏家から最も大事な冒険や躍動や霊感を奪い取ることに結果としてなっていると思われるからです。

よく、目を閉じて聴いていると器楽のソロもオーケストラも、現代の演奏は誰が弾いているのかさっぱり区別がつかないと言われますが、まったく同感で、そんな同じような演奏家を何十何百と増やしても無駄だと思います。
それに輪をかけたように、凡庸この上ないCDをどれだけ作り重ねても、嬉しいのは当人およびその周辺の人達だけで、社会的にはほとんど意味を失います。

そして最終的にはそういう演奏家や、その手のCDの氾濫によって、結局それがまわりまわってお互いの足を引っぱる結果となるのですから、みんなでせっせと市場を疲弊させ落ち込ませているようなもので、この流れには早く終止符が打たれることを望んでいます。
そのためにも、芸術監督には演奏家を勇気づけ、叱咤激励して、魅力的なCDを作って欲しいものです。
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ライブとセッション

もうかなり前になりますが、NHKのクラシック倶楽部で、ある一人の日本人女性のピアノリサイタルの様子が放映されましたが、その人の演奏というのがマロニエ君はいたく気に入りました。
どちらかというと小柄な女性で、関西の出身で現在はパリに住んでいるという話でした。

曲目はシューベルトの最後の3つのソナタからハ短調D958、ラフマニノフの第2ソナタなど。
語り口がデリケートで、楽節の繋ぎや絡みがとても自然で歌があり、それでいて押さえるべきところはしっかり押さえるという、まことに筋の通ったもの。エレガントでメリハリのある演奏でした。
とくに気に入ったのが解釈が真っ直ぐで深みがあり、溌剌とした歯切れの良いリズム感、歌心があるのにそれをやりすぎないバランス感覚、さらには曲全体が美しい曲線のようになめらかに流れていくところなどでした。

マロニエ君は気に入ったものはDVDにコピーして保存するようにしていますが、この人の演奏はもちろんそれをしているものの、レコーダー本体から消去するのもしのびず、ときどき気が向いたときに何度も聴いているほどです。
一見パッと目立つタイプではなく、演奏もいかにもどうだという感じではなく、こういう本物の音楽作りを目指して静かに活動している人というのは、世の中にはいてもなかなかお目に掛かれるチャンスは少ないものです。
どうしても表に出てくる人というのは、違った意味での勝者である場合が大半です。

さて、その人はYouTubeを探すと、数は多くはありませんがいくつかコンサートの様子がアップされており、その演奏もやはり大変すばらしいもので、ここでもまた小さな感銘を受けることになります。

で、さらに、ホームページはないのだろうかと思って探したら、すぐに見つかりました。
そうしたら、現在はやはりパリ在住ですが、主にサックスの奏者と組んでコンサートをおこなっているようでした。
それはそれでひとつのカタチなのでしょうけれども、もうすこしソロを弾いて欲しいし、あれだけの演奏ができる人が惜しいような気がしたのも偽らざるところでした。

ここの情報を見ていると、日本で初のCDを録音してすでに発売されていることがわかりましたが、普通の店頭に置いているとも思えないので、そのCDを管理している関西のアーティスト協会を通じて購入することになり、代金を振り込むと数日後に届きました。

期待に胸躍らせてプレーヤーにCDを押し込んだところ、出てきた演奏はのっけからちょっと何かが違う感じでした。
冒頭はクープランの小品、続くモーツァルトのソナタも、ショパンもドビュッシーも、概ね同じ調子でした。
栗東のファツィオリのあるホールで3日間かけてのセッションだったようですが、彼女の良さがほとんどなにも出ていない固い演奏だったのはほんとうにがっかりしました。

レコーディングではキズのない完璧な演奏を目指して何度も取り直しなどがおこなわれるのですが、それに留意するあまりなのか、理由はともあれ、あきらかに演奏が死んでいました。
とりわけこの人の魅力だった流れやしなやかさがなくなり、ただ硬直した凡庸な演奏だったのはまったく驚きで、幼い言い方をするなら裏切られたようでした。

データを見ると、上記のサックス奏者がアートディレクターを努めており、なにがどうなっているのやら、いよいよ不可解な気分に陥ってしまいました。
単純に日本語でいうと芸術監督でしょうから、すくなくともピアニストの持っている力を十二分に発揮させるよう誘導すべきところ、まるで別人のように平凡な演奏に終始してしまっているのには、一体なにをやっているんだかと思いました。

ピアニストも初録音ということで緊張したのかもしれませんが、いずれにしても本来その人が持っている力、とくに魅力を損なうことなくセッション録音をおこなうということは、たいそう難しいものだということだけはわかったような気がします。
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駅アレルギー

週末は知人と遠方へ出かけることになり、久しぶりに山陽新幹線(博多以北は山陽新幹線)に乗りました。
今年の春、九州新幹線に乗ったときは、その乗り味があまりよくなかったことを当時のブログに書いた覚えがあります。車内は安っぽい振動と騒音に浸されて、まるでスピードの速いちょっと高性能な電車という趣で、降りたときはホッとしたことをまだ覚えています。

ところが今回乗った山陽新幹線(のぞみ)は車輌が何系なんてことは知りませんが、一転してずいぶん快適で、マロニエ君が以前からイメージしているあの新幹線のフィールでした。すべるように疾走して、なんだか別世界へ駆け抜けて行くような感触は、ふたたび新幹線へのイメージを取り戻した感があります。
この点で本当に素晴らしいと記憶しているのは、むかしの、つまり初期の0系とかいう新幹線から少し発展したタイプだったように思います。まるで油の上を流れるようで、しかも乗り味には懐の深さがあって、当時の技術の粋を集めた最高級の乗り物に乗っているという満足がありました。

今回は帰りも同じくのぞみでしたが、やはりすこぶる快適で疲れもなく、こういう乗り味が現在も残っていること自体に嬉しいような安心したような気分でした。
それというのも、最近はなんでも合理化だのコストダウンだので物の質が低下する一方なので、本当に残念に思っているところです。飛行機も然りで、マロニエ君の乗ったすべての旅客機の中で最高の乗り味を示したのがボーイング747-400で、頼もしく安定性抜群、やわらかで、騒音も音量も抑えられ、高周波の音も少なく、申し分のない機体でした。
これで何度東京往復したかしれませんが、その後最新鋭の777が登場したときには乗り味の質があきらかに低下したのにはひどくがっかりしたものです。わけても日本航空は747-400の世界最大級の保有数を誇るエアラインであったにもかかわらず、経営が事実上破綻し、その合理化の波をまっ先に受けて、すでに全機が売却されてしまったのは言葉もありません。

新幹線に戻りますが、博多駅を基点に北に向かうのと南に向かうのとでは、なぜこれほど快適感が違うのかというのが疑問です。まさかレールの品質なんてことはないでしょうから、やっぱり使用される車輌の問題だろうと考えないわけにはいきませんが、とにかくのぞみの乗り心地にはいたく満足でした。

それはそうと、マロニエ君は昔から駅というのが苦手で、とくに人の波がうねっているような大きな駅は列車の乗り降りで利用するだけでも圧迫感があって気が滅入ってしまいます。
むかしカラヤンが「自分は駅こそ嫌悪する場所だ。なぜなら人の悪意を感じる場所だから。」と発言している文章を読んで、大いに膝を打ったことがありました。
人の悪意というのは極端としても、少なくとも生きて行くことの厳しさ、他人の冷淡さをことさら感じる場所のひとつが駅であるという印象をマロニエ君は昔から持っています。

夜、博多に戻ってきたときに、ついでに食事をしましょうということになり、それは大いに賛同したのですが、新しくできた駅ターミナルの上にあるレストラン街はどうかと言われたときは、さすがに申し訳ないと思ったのですが、できれば駅以外のところがいいと希望して、車でまったく別の場所に移動しました。

わがままを言って申し訳ないとは思いましたが、あれで駅の人並みをかきわけかきわけレストラン街まで到達し、そこでまた行列(これが多い!)などさせられようものなら、ぐでんぐでんに疲れただろうと思いますので、だったらうどんでもハンバーガーでも何でもいいから別のところに行きたいわけです。
マロニエ君の場合困るのは、苦手なものは冗談ではすまされないほど徹底して苦手で、こういうことで本当に体調まで悪くなるという深刻な体質を持っていることで、さすがに自分でも情けない。

とりわけ駅というのが精神的に合わないらしく、空港のほうがよほどまだ許せます。
こういうことを書くと、じゃあ空気のきれいな田舎が好きですか?などと言われそうですが、さにあらずで、田舎や田舎暮らしなどこれがまた超苦手で、ようするに街中に暮らして車でばかり移動するようなパターンでしか生息できないみたいです。とほほ。
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本を開けると痒い

アマゾンで嬉しいことは、廃刊になっている本が古書として買えるチャンスがでてきたことです。
これをいちいち古本屋回りで探すなんてほとんど不可能ですから、これはしめたとばかりにときどき利用しているのですが、強いていうならちょっとだけ引っかかるのは自分の目で確認できない中古品だということでしょうか。

マロニエ君は性格的に中古品というのがあまり得意ではなく、だからリサイクルショップなどに行くと、あの独特な重ったるい臭いだけですっかり気が滅入ってしまいます。
べつに新品じゃなきゃイヤだというようなこだわりがあるわけではないつもりですが、誰が使ったかもわからない品々を前にすると、顔の見えない生活臭を感じて少なくとも明るい気持ちにはなれないのです。
それだけ物には使い手のなにかがこもっているのかもしれませんが。

本の場合は、小学生の頃から図書館というものにも親しんできたし、新書ばかりにこだわっていたら欲しいものが永久に手に入らなかったりするので、そこは自分なりに少し割り切りが出来ています。
それに、本は子供のころから伯父伯母から古い本をもらったりすることもあったし、父の汚い蔵書にも馴らされていたせいか、比較的抵抗はないほうだと思います。
アマゾンは中古といっても、ほとんど新品では?と思うようなものが届いたことも何度かあり、そんなときはすっかり得をしたような気分です。

なによりも書店では絶対に買えない本が、こうして再び手に入る可能性が開けたというのはとても貴重なことなので、喜びのほうが先行してしまうらしく、中古品であることはほとんど気にしません。
でも、それがもし自分にとって何の価値もない本だったら、そうそう好意的には受け止められないだろうと思われますから、これは専ら自分の都合と気持ちの身勝手な絡み合いだと思います。

ただ、そういう気持ちの問題とは別にちょっと困ることがあるのも事実です。
先日もずいぶん古い本をアマゾンで探し出して購入したのですが、送られてきた包みを開けたときは、とりあえず本の状態などを確認すべく表裏や中のページなどをパラパラと確認するのがいつもの習慣です。

ところが古い本は、それをやっていると両方の手首から先ぐらいが妙に痒くなってくる場合があるのです。
もしかしたら、ここに書くのも恐ろしいようなものが長い年月の間に付着しているんでしょうか。

比較的新しい本の場合は古書でもそういうことはまずないのですが、先日は数十年前の絶版書だったために、油断して自室で開いてパラパラやっていると手がチクチクしてきたので、すぐに中断し、本は廊下に出してすぐに手を洗うととりあえず治りました。

こういう場合は、お天気の良い日に虫干しをするとすっかり良くなりますが、そういうときに限って何日も曇天だったりしてヤキモキさせられます。
マロニエ君の場合、本は寝て読むので、就寝中も本はいつも枕の脇に置いているのですが、こういう本で処理が悪いと、本からシーツへと何かがぞろぞろと移動することもあるのかと思うと、ウエエ、それだけは耐えられません。

アマゾンに出品している店舗情報によると、商品は除菌してから梱包して送る旨書いてありますが、それはちょっとあてにはならないようです。
本を殺菌する電子レンジみたいなものがあればいいんですが…。
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グールドのピアノ

「グレン・グールドのピアノ」という本を読みました。

グールドはその独特なタッチを生かすために、終生自分に合ったピアノしか弾かず、それがおいそれとあるシロモノではないために、気に入ったピアノに対する偏執的な思い入れは尋常なものではなかったことをあらためて知りました。

彼がなによりも求めたものは羽根のように軽い俊敏なタッチで、これを満足させるのがトロントの百貨店の上にあるホールの片隅に眠っていた古びたスタインウェイでした。
グールドはこのCD318というピアノで、あの歴史的遺産とも言っていい膨大な録音の大半を行っています。

1955年に鮮烈なデビューを果たしたゴルトベルク変奏曲は別のスタインウェイだったのですが、これが運送事故で落とされて使えなくなってからというもの、本格的なグールドのピアノ探しがはじまります。
そして長い曲折の末に出会ったのがこのCD318だったわけですが、実はこのピアノ、お役御免になって新しい物と取り替えられる運命にあったピアノだったのです。

ニューヨークのスタインウェイ本社でも、グールドの気に入るピアノがないことにすっかり疲れていたこともあり、この引退したピアノは快くグールドに貸し与えられ、そこからグールドは水を得た魚のように数々の歴史的名盤をこのピアノを使って作りました。

グールドはダイナミックなピアノより、音の澄んだ、キレの良い、アクションなど介在しないかのような軽いタッチをピアノに求めました。驚くべきは1940年代に作られたこのピアノは、グールドの使用当時もハンマーなどが交換された気配がありませんでしたから、ほぼ製造時のオリジナルのピアノを、エドクィストという盲目の天才的な調律師がグールドの要求を満たすよう精妙な調整を繰り返しながら使っていたようです。

しかし後年悪夢は再び訪れ、このかけがえのないCD318がまたしても運送事故によって手の施しようないほどのダメージを受けてしまいます。フレームさえ4ヶ所も亀裂が入るほどの損傷でした。録音は即中止、ピアノはニューヨーク工場に送られ、一年をかけてフレームまで交換してピアノは再生されますが、すでに別のピアノになっており、何をどうしても、以前のような輝きを取り戻すことはなかったのです。

それでも周囲の予測に反してグールドはなおもこのピアノを使い続けるのです。しかしこのピアノの傷みは限界に達し、ついにグールド自身もこのピアノを諦め、あれこれのピアノを試してみますがすべてダメ。そして最後に巡り会ったのがニューヨークのピアノ店に置かれていたヤマハでした。この店の日本人の調律師が手塩にかけて調整していたピアノで、それがようやくグールドのお眼鏡に適い、即購入となります。
そして、死の直前にリリースされた二度目のゴルトベルク変奏曲などがヤマハで収録されました。

ただし、グールドがこだわり続けたのは、なんといってもタッチであり、すなわち軽くて俊敏なアクションであって、音は二の次であったことは忘れてはなりません。音に関してはやはり終生スタインウェイを愛したのだそうです。
この事を巡って、当時のグールドとスタインウェイの間に繰り返された長い軋轢はついに解消されることはなく、ヤマハを選んだ理由も専らそのムラのないアクションにあったようで、やがてこのピアノへの熱はほどなく冷めた由。

たしかに、アメリカのスタインウェイ(とりわけこの時代)の一番の弱点はアクションだと思いますが、これを当時のスタインウェイ社に解決できる人、もしくはその必要を強く認めた人がついにいなかったのは最大の不幸です。

のちにアメリカの調律師でさえ、現在の最先端修復技術があれば事態は違っただろうと言っていますし、当時のグールドの要求を実現してみせる技術者は、実は40年後の日本にこそいるのではとマロニエ君は思いました。
現在の日本人調律師の中には、グールドが求めて止まなかったことを叶えてみせる一流の職人が何人もいるだろうと思うと、タイムマシンに乗せてトロントへ届けてやりたくなりました。
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砂の器の疑問

先週の土日、テレビ朝日で二日間にわたって松本清張原作のドラマ『砂の器』が放映され、とろあえず録画していたものを数日間かけてぼちぼち見てみました。なかなか面白く見終えることができました。

『砂の器』は以前も連読ドラマがいくつかあったし、最も有名なのは加藤剛主演の映画版でしょう。

そのときも今回も、同様に大いに疑問に感じたことがあります。
和賀英良という名の犯人となる人物は、小さい頃の不幸な出来事からやむを得ず生まれ故郷を去り、父親と二人でお遍路の旅に出て各地を彷徨うという苦難の少年時代を過ごします。ときに食うもの寝る場所にも困るほどの苛酷な旅で、さらにこの少年は旅の途中で世話になった親切な巡査の家まで逃げ出して、いらい行方知れずとなり、以降の少年期・青年期をたった一人でどのように生きてきたかもわからないという設定です。

戦後の混乱期に乗じて、自分の過去を隠すため戸籍まで他人になりすますなど、この男が絶望の淵で逞しく生きてきたというところまではわかります。しかしその男が、一転して今では世間を賑わす天才作曲家兼ピアニスト(もしくは指揮者)として華々しい活躍をしているというのは、どうにも首を捻ってしまいます。

音楽の世界ぐらい幼児教育がものをいう世界もないと思いますが、この少年は、これほどの筆舌に尽くしがたい放浪の年月を過ごしながら、はて、いつの間に音楽の勉強、ましてやピアノの練習などをしたのかと思ってしまいます。
父親と離ればなれになってのち、この少年がどのようにして音楽と出会ったのか、恩師のこと、ましてや音大に行ったなどと説明する場面もセリフも、映画にもドラマにも一切ありません。

もちろんこれはフィクションなのだから、そんなことを言うのは無粋者だと言われるかもしれませんが、いくらフィクションでも、多少の状況的な説得力というのは必要であって、この点の設定の曖昧さ不自然さは、見ていてずっと気に掛かるし、そのせいでこの作品が大きな弱点をもっているように思えてしまいます。

今回のドラマでは売れっ子の作曲家兼指揮者に扮し、大きなホールで自作の曲を発表するコンサートが華やかにおこなわれ、オーケストラを熱っぽく指揮して喝采を浴びるシーンがありましたし、昔の映画では最後のクライマックスがやはり自作のピアノコンチェルトを演奏中、舞台の袖で刑事達が取り囲むということで、いずれも時代の寵児ともてはやされる天才音楽家という設定です。
まるで「天才」といえば、勉強も修行もしないで、パッと魔法のように作曲でもピアノ演奏でもできるといった趣です。

松本清張はよほど音楽に疎かったのか、世に立つ音楽家は例外なく幼少時から厳しい研鑽を積み重ねることが不可避であることを、もしかしたら知らなかったのかもしれません。
ことに天才ともなれば、言語よりも先に音楽の才能をあらわすことも珍しくはなく、周囲もその天才を正しく開花させるべく最善の教育を与えながら成長していくものですが、この和賀英良は音楽とはなんの関わりもない北陸の山間の村に生まれて、貧しく厳しい放浪の半生を送るというのですから、いくらなんでもちょっと無理があるのでは?という気がするわけです。

さて、今回のドラマでは、大詰めの場面で、和賀がピアノを弾きながら作曲中とおぼしきシーンがありましたが、そこには2度ほど古いブリュートナーが出てきたのは意外でした。
いかにも年季の入った艶消しのボディと、現在のものとは違って大きく流れるような筆記体のロゴは、おそらくは戦前のものだと思われますが、こんなドラマにこんな珍しいピアノが出てきたのはどういうわけかと思いました。
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プレイエル&横山4/5/6

はやいもので、「プレイエルによるショパン・ピアノ独奏曲全曲集」全12巻のうちの第2期の4、5、6が発売されています。演奏は横山幸雄。

今回は第4巻が3つのエコセーズなどワルシャワ時代の遺作の小品からはじまり、第5巻ではパリ時代の初期の作品が登場しはじめて、op.27の二つのノクターンやバラード第1番なども含まれ、いよいよ円熟の時期を迎えるようです。そして第6巻ではパリの初期のマズルカから入って作品25のエチュードに至ります。

録音データを見ていると、ほぼ毎月にわたって月の中頃に石橋メモリアルホールにて毎2日間、同一のスタッフにより収録されているようですが、横山氏の演奏はどれをとっても安心感のある余裕に満ちたもので、危なげなく淡々と弾き進んでいくのは、好みは別としても大した力量だと思います。

解釈もいかにも中庸を得た薄味なもので、とくに突出しているものはありません。
まさにショパンの、音による作品事典のようで、これだけ一定のクオリティを維持するというのは、聴けばなんということもないようですが、実際には並大抵ではない力を必要とすると思います。

ただ、ときどき横山氏のピアノの語り口に小さな変化が起こるのは、エチュードなどの難易度の高い超有名曲になると気が入ってしまうのか、ことさら技巧に走りすぎてしまうところがあるのが残念な点だと思います。
ちょっとした小品や、普段あまり弾かれる機会の少ない曲などに、隅々まで神経の行き届いた確かな演奏をするわりには、有名曲の技巧的な部分で、ぎゃくにレコーディングには似つかわしくない粗っぽい部分を感じることが何度かありました。

しかし全体としては、全集の名にふさわしい内容を伴ったシリーズだといえると思います。
欲をいえば、もう少し味わいというか、ショパンが我々の耳にじかに語りかけてくるような面があると素晴らしいと思いますが、それは望みすぎというものでしょうか。
現状ではどちらかというと、いかにもテクニシャンによる模範演奏的で、デジカメ写真のような、解像度は高いけれどもクールな感触である点が、マロニエ君などにはもうひとつもの足りない気がするのです。

プレイエルのピアノについては、100年も前のデリケートな楽器を常に整ったコンディションで維持するのも大変だろうと思いますが、それもほぼ達成されているように思われ、技術者のご苦労は大変なものだろうと推察されます。
強いて言うなら、第6巻ではちょっとピアノの御機嫌があまりよろしくないような印象を受けました。

それから以前も書きましたが、やはりプレイエルのような楽器をあまり精密に、完璧指向に追い込んだような調整をするのは正しいことなのか…という疑問があり、それはこのシリーズを聴きながら常に感じさせられる点です。
多少バランスを欠いたとしても、生来の個性を生かした音造りのほうがこのパリ生まれのピアノも本領を発揮すると思うのです。

思わずンー!とため息が出たのは、ある関東のピアノ店で、プレイエルの小型グランドが販売されていて、ネット上にそのデモ演奏がアップされているのですが、そこに聴くのは、あのコルトーの古いレコードそのままの、やわらかで華やかなのに憂いのある音、ショパン以外の音楽を弾いたらどうなるのかわからないような、甘く悲しげな、あのイメージの通りのプレイエルのちょっと崩れかけた美音がそこにありました。

もちろんどちらがマルで、どちらがバツだと決めつけることはできませんが、少なくともマロニエ君のセンスでいうなら、このようないかにも危うい感じの、なにかギリギリの場所に立っているような、そんなプレイエルの音に強く惹かれるのです。
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双方の意思

趣味の集まりというのは楽しいけれども、玄関のドアの開閉には気をつけないと、ひじょうに複雑かつ微妙な人間関係が枝を伸ばしてくることは避けられない問題のようです。
あまり原則的なことをくだくだしく言っても始まりませんが、要するに人には理屈じゃない相性とか好き嫌いがあり、本当のことを言えば人品骨柄もいろいろだとは思います。

よろず趣味のクラブというのはどれも基本は遊びです。
生きるための手段である勤労の場においては、身を粉にして、我慢して、あまたのストレスにどっぷり浸かりながら、息も絶え絶えに頑張らなくちゃいけませんが、趣味までその延長線上におかれるのではなんのための楽しみだかわかりません。

だからこそ、せめて趣味や道楽の場にあっては、その点の慎重さは何より大切だと思われます。
世の中の、大半の趣味のクラブやサークルがそうだと思われますが、新メンバーの入会に際しては、事実上、入会する側の一方的な意志による場合が多く、クラブ側が入会者を選ぶということはめったにありません。
マロニエ君はこれが根本的な間違いだと最近強く思います。

クラブというものの発祥は英国とも聞いたような覚えがありますが、そもそも英国が貴族社会であったこともあるでしょうが、そこに根付いたあれこれのクラブは誰でも希望すれば入会できるというものではなかったようです。
紹介者を必要とし、様々な審査があり、充分な期間を経た上でようやく会員と認められます。
その判断については、要するに自分達の仲間としてやっていける相手であるという点が認められなくてはなりません。

何ゆえ誰でもどうぞではダメかといえば、それはクラブの「楽しさの質」を維持するためだと思われます。
「たかだか趣味」と言いますが、趣味こそは人間の心の滋養の場ですから、人との交流・友誼こそは最優先事項であって、そこへ空気を乱すような人物があらわれると、たちまちその雰囲気は崩れてしまいます。
すぐに目に見えて結果が出ないにしても、のちのちこれが元となり均衡や調和が損なわれるのは必然です。とくに現在のようなネット社会ではどんな人物が現れるか、その点は全く未知数です。

現代は、やれ個人情報だセキュリティーだと表向きはわかったようなことを言いますが、このようなクラブの入会に関しては事実上まったくの野放し状態で、ここに一種のチェックが機能しなくては、既に会員であるメンバーの居心地や楽しみまでもが侵害されることになると思います。

もちろんせっかくの入会希望者をむげに断ることはできないし、人のご縁というものは大切に取り扱わなくてはいけませんが、あまりにイージーな入会の許諾はしないほうが賢明です。いったん入会してしまうと、特段の事情や落ち度でもない限り、そう易々とは退会させるわけにはいかなくなりますし。
なんらかのお試し期間的なものが存在し、入会者がクラブを選ぶように、クラブも入会者を選ぶ、これが本来当然の姿ではないかと思います。
結婚と同じで、これは「双方の意志」によるものでなければならないでしょう。

時代が違うのですから、「来る者は拒まず」「お好きな方はどなたでも」などと寛容ぶって禅坊主のようなことを言っていたら、厳しい現実の前にとんだしっぺ返しをくらうことにもなりかねません。
人の集団というのは、なんらかの異物や邪心の持ち主を抱え込むと、とりかえしのつかないことになるのです。
そういう意味では、リーダーは昔以上にリーダーたる者の目配りの利く才覚が求められていると思います。

たとえ遊びでも、人を相手にするということは難しいものだと思います。
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10分で終わります!

過日、久しぶりに友人の夫婦と会って夕食やお茶などしましたが、おかしな話を聞きました。

外が暗くなったころ、我が家に迎えに来てくれたのですが、当初の予定よりもずいぶん遅れてしまい、それは別にかまわないのですがそれなりの理由があったようです。

その日の午後は二人で博多駅へお出かけだったそうで、奥さんのほうは駅内のある教室に通っているらしく、その間は別行動を取ったのだとか。なんでも奥さんの行く教室では、ちょうどその日で一区切りついて、以降はあらたに契約をするという状況を迎えたそうでした。

そのためには一定の手続きが必要となるのだそうですが、教室の営業のおねえさんとしてはぜひともその日のうちに契約を完了したかったようで、それを強く勧めてくるそうです。
奥さんとしてはダンナさんと駅内で待ち合わせをしているので、時間的な面で躊躇していると、そのおねえさん曰く、手続きは「10分で終わりますので!」と熱心に言ってくるそうで、じゃあ…ということになったそうです。

ところが、10分と思って手続きを開始すると、これがなかなか終わらない。
今どき故か、その更新手続きはiPadもしくはiPad的なもので行うらしいのですが、この操作に思いのほかてこずってしまったのだとか。
その間にもダンナさんとは電話でやり取りを交わして、どこだか場所は知りませんがお待たせ時間をズルズル延長していたようです。

そうこうするうちに時間ばかりが経過して、倍の20分となり、電話の向こうのダンナは、人を待らせているんだから早くするように相手に伝えるよう促し、奥さんもそれに従ったようですが、それでも手続きはようとして進まず、とうとう約束の3倍である30分をもオーバーしてしまったそうなのです。

それでついにマロニエ君の友人であるダンナは、頭に来て自らその教室に乗り込んできたらしいのです。
そして更新手続きをする女性に抗議したということでしたが、奥さんによるとそれが周囲でちょっと目立っていたというのです。はじめはマロニエ君も奥さんに同情していましたが、話の全容が見えてくるうちに、そりゃあ仕方ないなぁと思うようになりました。

マロニエ君の想像も入りますが、今どきの営業サイドにすれば「また今度」なんて悠長なことをいってると、相手はその気がなくなってしまうか、別の教室に通うようになるか、要はお客を取り逃がす可能性があるわけで、そんなものはアテにならないというわけでしょう。

要はお客さんの気が変わらないうちに、いま、その場で、間髪入れず更新手続きをさせるよう、日頃から教育されているのだろうと思われます。そのためには無理だとわかっていても「10分で終わります!」と言って、とにかく手続きに着手させることが肝心だと考えたのではないでしょうか?

結局、その時間的しわ寄せがその後の別の場所での予定にも響いてしまい、おまけに夕方の渋滞なども重なって、我が家に到達したときには予定より1時間を遙かに超えるほど遅くなっていました。
ずいぶんお疲れの様子でしたが、食後の話によると、奥さんは状況は自分もわかるけど、いささかダンナが怒り過ぎのようなことを言い始めたのです。するとダンナはサッと顔色が変わり、とても承服できないといった表情というか様子になりました。

それでも彼はいったんは話を止めようとしましたが、それに素直に従うようなヤワなマロニエ君ではありません。
なにがなんでも泥を吐けとばかりに猛然と追求しまくった結果、ダンナがしぶしぶ言い始めたことによると、逆に奥さんを待たせたときの奥さんの怒りようときたら、とうてい自分なんぞ足元にも及ばない激しいものだそうで、しかも自分は今日は、奥さんに文句を言ったのではなく、あくまで10分で終わると無責任な発言をした営業の女性に言ったのだということで、これはなるほど尤もなことだと大いに納得し、大いに笑いました。

話は両方から最後まで聞いてみるもんです。
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ピアノは気楽

もし自分が天才的な才能に恵まれて、世界中を駆け回るほどの演奏家になれるとしたら、ピアニストとヴァイオリニストのどちらがいいかと思うことがあります。世界的な奏者になるということはヴァイオリンの場合、当然それに相応しい楽器を必要とする状況が生まれてくることを意味するでしょう。

しかし、オールドヴァイオリンにまつわる本を読めば読むほどそういう世界とかかわるのは御免被りたいというのが正直なところです。
そしてピアノは、ともかくも楽器の面では遙かに健全な世界だと思わずにはいられません。

いまさら言うまでもなく、ピアニストは世界中どこに行っても会場にあるピアノを弾くのが基本ですから、そこに派生する悩みは尽きないわけで、リハーサルなどは寸暇を惜しんで出会ったばかりのピアノに慣れることに全神経を集中するといいます。
ピアノに対していろんな希望や不満があっても、技術者の問題、管理者の理解、時間の制約などが立ちはだかって、ほとんどは諦めムードとなり、残された道はいかにその日与えられたピアノで最良の演奏をするかということになるようです。

あてがいぶちのピアノに対する不安や心配、愛着ある楽器で本番を迎えられない宿命、こういうときにピアニストは、どこへ行こうとも自分の弾き慣れた楽器で演奏できる器楽奏者が心から羨ましくなるといいます。

しかし、何事も一長一短というがごとく、ヴァイオリンの場合、手に入れようにもほとんど不可能と思われるような巨費が立ちはだかります。あるいは大富豪やどこかの財団のようなところから貸与の機会を得るなどして、めでたく名器を弾ける幸運に恵まれたにしても、さてそれを自分自身で持ち歩かねばならず、さまざまな重い責任が生じ、そんな何億円もする腫れのものみたいな荷物を抱えて世界を旅をして回るなんぞまっぴらごめん。
ましてやそれが借り物だなんて、マロニエ君なら考えただけで気が滅入ってしまいます。

実際にあるヴァイオリニストが2挺のオールドヴァイオリンを持って楽屋入りし、1挺を使って演奏中、使われなかったほうの1挺が盗まれたというようなことも起こっているそうです。
しかもそのヴァイオリンが再び世に姿をあらわしたのは、奏者の死後のことだったとか。

貴重品扱いでホテルのフロントなどが預ってくれるかどうかは知りませんが、いずれにしろ四六時中気の休まることがないはずで、とてもじゃありませんがマロニエ君のような神経の持ち主につとまる行動ではありません。
ちょっと食事をする、人と会う、買い物をする、ときには音楽から離れてどこかに遊びに行くこともあるでしょう。
そんなすべての時間でヴァイオリンの安全が頭から離れることはないとしたら、これは正に自分がヴァイオリンの奴隷も同然のような気がします。
しかも相手は軽くて小さな楽器で、簡単に盗めるし、足のひと踏みでぐしゃりと潰れ、マッチ一本でたちまち炭になってしまうようなか弱いものです。楽器の健康管理にも気を遣い、定期的に高額なメンテに出さなくてはいけない、そんなデリケートの塊みたいなものと一緒に過ごすのですから、弾けばたしかに代え難い喜びもあるでしょうが、それ以上に鬱々となりそうです。

こういうことに思いを巡らすと、その点ピアノは、なんとまあ気楽なものか。
多少のガマンもあるにせよ、持って歩く楽器特有の管理などという煩わしさは一切なく、身の回りの物以外は手ぶらで会場に行って、演奏をして、また体ひとつで身軽に帰っていけばいいわけです。
ああ、なんという幸せでしょうか!
これだけでもピアノを選びます。
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ヴァイオリンの闇

最近、ヴァイオリンの名器にまつわる一冊の本を読了しました。
著者はヴァイオリンの製作者にして調整や修理なども行うヴァイオリンドクターでもあり、さらには鑑定や売買の仲介などもやっておられる方でした。

長年こういう仕事をやっている人ならではのおもしろい話がてんこ盛りで、世界中の有名演奏家やオーケストラの多くからもその方の技術には多くの期待と信頼が集まっているようでした。
出てくる名前だけでもびっくりするようなアーティストが続々と登場し、ピアノの調律と同様、このような高等技術の分野における日本人の優秀さは今や世界的なものであることが痛感されます。

本そのものは内容も面白く、平易な文体で、まさに興味深く一気に読んでしまいましたが、読了後の気分というのはなんとはなしに快いものではありませんでした。
それはヴァイオリンという楽器が持つ一種の暗い、得体の知れない、ダーティな部分にも触れたからだろうと思います。
とりわけクレモナのオールドヴァイオリンの世界は、骨董品の世界と同様で、どこか眉唾もののヤクザなフィールがつきまとうのです。
その途方もない価格と、怪しげな価値。
真贋の境目がきわめて不明瞭で、世にも美しいヴァイオリンの音色は、常にその怪しい世界と薄紙一枚のところに存在しているという現実がよくわかりました。
鑑定などといっても絶対的なものはほとんどなく、大半が欧米の有名な楽器商が発行したものや鑑定家の主観の域を出ないこともあり、状況証拠的で、狂乱的な価格を投じても真贋が後に覆ることもあるとかで、とてもじゃありあませんが堅気の人間が足を踏み入れるような世界ではないというのが率直な印象です。

この本を読んでいると、次第にこの世界すべてのものに不信感を抱くようになる自分が読み進むほどに形成されつつあることに気付きはじめました。
要するになにも信頼できるものは定かには存在せず、こういうヴァイオリンに関わる人すべてに不信の目を向けたくなってきます。もちろん演奏家も含めて。

ヴァイオリンには悪魔が宿るというような喩えがありますが、まさにその通りだと思いました。
そもそも300年以上経っても現役最高峰の楽器として第一線にあるという生命力ひとつとっても、なにやら魔性の仕業のようだし、あの正気の沙汰とは思えぬ億単位の価格なども、げに恐ろしい世界であることは容易に嗅ぎ取れるというものでしょう。

むかし車の世界にも「ニコイチ」というのがあって、例えばポルシェやフェラーリの事故廃車の同型を二台切ってつなぎ合わせて一台の中古車を作り上げるという詐欺まがいの行為が横行した時期がありました。もちろん大変な作業ですが、それだけの手間とコストをかけても、高値で売れて儲かるからこういう悪行が発生するわけです。

これと似たような発想で驚いたのが、なんと1挺のストラドを解体して3挺のストラドを作り上げるなどという、まるで映画さながらのことがおこなわれていたらしく、それも過去の話だと言い切れるでしょうか。
一部でも本物のパーツが存在すれば本物として通用するという発想で、それぞれ他のオールドヴァイオリンと精巧に合体させて一流の技術をもって作り上げれば、3挺のストラドが存在することになり、儲けも3倍というわけでしょう。

さらには歴史に残るヴァイオリン製作の過去の名匠達は、精巧無比なストラドやグァルネリのコピーを作っているのだそうで、それが後年真作として売買されるケースがあるとか。しかも困ったことに、これらがまた本物に勝るとも劣らぬ申し分のない音を奏でるのだそうで、その真贋騒ぎはますます混迷の度を深めるようです。

ここまで来るとコピーといえども相当の価格が付くのだそうで、いやはや大変な世界です。

最近ではデンドロクロノジー(年輪年代法)というハイテク技術を用いることで、使われた木の伐採年代などを調べられるようになり、それによって300年前の製作者が使っていた木の膨大なデータと照合するのだそうです。
科学技術の力でこの世界の闇のいくぶんかは光りを得たといえるのかもしれませんが、まさに指紋照合みたいなもので、美しい音楽の世界というよりは、専ら警察の犯罪捜査に近いものを感じてしまいます。
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あんぷ

自分のクセとか気質は容易なことでは訣別できるものではありませんね。

札つきの練習嫌いだったマロニエ君は、このところまたしてもその過去の悪癖が覆いようもなく顔を出して、練習なんててんでまっぴらゴメンだという気分に陥っています。
その理由は様々ですが、そのひとつに、どうも暗譜力が衰えたということもあるようです。
もともと読譜力も弱いし、暗譜も得意ではなかったマロニエ君ではありますが、それでもむかしは何度か弾いているとある程度自然に覚えていたものが、だんだん難しくなってくることを痛感しています。

歳を取るのはイヤなもんだと思うのはこういうときですね。
むかしはそれなりに暗譜できていたこともあって、しばらくすると楽譜を見ないで練習することが多かったのですが、最近はなんとか弾けるようになったと思った曲でも、楽譜がないとパタッと止まってしまいます。
こういうときに気分は一気に落ち込んで、練習そのものまでイヤになります。

続けるには、仕方なく楽譜を見て弾くことになるわけですが、暗譜していくテンポのトロさが自分で気になりだして、それがまたやる気を失うわけです。とくにイヤになるのは同じ箇所がいつまでも覚えられない。
こんな調子では自分なりの効率的な練習などできない、人にはできることが自分にはできないと思ってしまい、それでまた練習がますますイヤになる一因となってしまうのです。
暗譜ができにくくなってくると、腹立ちまぎれに、暗譜の方法が間違っているんじゃないか?そもそも暗譜って音と指の運動で覚えるものか、はたまた楽譜そのものを写真で撮ったように記憶することなのだろうかなどと、いまさらそんなことを考えはじめてしまいます。

よく優秀なピアニストの中には、楽譜だけを読んで、それだけで暗譜が出来てしまい、ピアノの前に座ったときにはある程度弾けるなんて人があるものですが、そんなこと、マロニエ君から見たら宇宙人としか思えません(笑)。
やはり音符は実際の音と自分の指の動きをつき合わせながらでないと、到底できることではありませんし、しかも大いに苦労している次第。

それでも、懲りもせず新しい曲を弾いてみたいという意欲ばかりは多少なりとも持っているのはせめてもの救いかもしれませんが、それらはいずれも人前で弾くなんてことはまったく念頭にはなく、すべて自分一人の楽しみのためでしかありません。
でも、これが楽しくなければ本当のピアノ好きとはいえないような気がするのですがどうでしょう。

人前で弾く、何かの折に発表するといったことが練習の目的になるというのを頭から否定するつもりはありませんが、それがないと練習もしないというのではピアノを弾く動機が不純すぎると言いたいのです。基本的にはあくまでその曲と自分が交信しているその瞬間こそがピアノを弾く喜びの中核でありたいものです。

例えばマロニエ君はろくに弾けないくせにコンチェルトなどもしばしば弾いてみます。
いくらかやってみて、よしんば上達しても、それを人前で弾くとか、ましてやオーケストラと共演なんて天地がひっくり返ってもないことですが、ただそれでじゅうぶん楽しいわけです。

オーケストラの序奏部を長々と弾いた末にやって来る、ソロの出だしなどは、ちょっとたまらないものがありますが、こんなこともひとり遊びだからこそできることでしょう。

今更ですが、有効な初見の上達法、暗譜の上達法などはあれば挑戦してみたいものですが、ま、無理でしょうね。
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好ましいホール

知人から誘っていただいて、過日、福岡の郊外にあるホールへピアノを弾きに行ってきました。

道が空いていればマロニエ君の自宅から3〜40分ほどの距離にある総合文化施設で、ここの音楽室はピアノクラブの定例会でも何度か利用したことがあるのですが、今回の会場は600席弱のメインホールで、ピアノはスタインウェイのD274がありました。
ここに限らず、今どきは郊外のあちこちに作られた各ホールにも、多くの場合スタインウェイが収められている気前の良さには今更のように驚かされます。

マロニエ君の知る限りにおいて、このホールではこれというコンサートがあまりないため、これまで内部に入ったことがなかったのですが、それが思いがけず、予想外の良いホールであったのは驚きでした。
ホール内の趣味も良く、とりわけ余裕のある大きめの客席のシートの立派で上質なことには目を見張りましたが、これは福岡市内のコンサートがしばしば行われている、いかなるホールと較べても突出して優れたものでした。

さらに音響がなかなかいい。
近ごろの新しいホール(とくに新しいものは)はやたらめったら響きすぎる、残響という名のただ音がワンワン暴れるだけのホールが多くて好きになれないのですが、ここの響きには音の輪郭を崩さない節度があり、この点がたいへん好ましく感じました。
音楽専用ホールには残響の数値などにこだわりすぎるのか、結果として非音楽的なもの、あるいは演奏家の妙技が伝わらない場合が多いのですが、その点ではいわゆる多目的ホールのほうが音がまだしも自然で、マロニエ君としては遙かに好ましく感じる場合が多いという印象です。

ホールというのはあらためて大したものだなあと感じたのは、最後列に座っても、そこへ到達してくる音は前方に較べてほとんど遜色なく、空間全体が豊かな音に満たされるのは今更ながら感銘を覚えます。
お客さんの入ったコンサートでは演奏中にひょいひょい席を移動するなどの聴き比べはしたくでもできませんので、そういう意味でもこういう機会にいろんなことがわかります。

このような好ましいホールで行われるピアノリサイタルなどもぜひ聴いてみたいものですが、悲しいかなアクセスが不利なため、催しの中身のほうが施設設備に追いついていない観があるのはなんとも残念なことです。
コンサートの情報はそれなりにアンテナを立てているつもりですが、ここのホールとピアノに相応しいコンサートが行われたという記憶はあまりありません。
大半が地元レベルのイベントやコンサートに留まっているようで、なんとももったいない話です。

これぐらいのホールこそ(規模の点でも、音響の点でも)市内中心部にぜひもうひとつ欲しいもんだと思わせられる、そんな素敵なホールでした。

ピアノは製造後7ー8年ぐらいしか経っていない比較的新しいものでしたが、なかなかバランスの良いピアノでしたし、調整もきちんとなされていることが弾いてすぐわかるものでした。
少なくとも現在の新しい同型よりは、まだ「らしさ」が残っており好ましく感じました。ただこの頃のピアノから、次第に基礎的なパワーは少しずつ落ち始めているように感じるのも事実で、中音域の厚みとか、低音の鐘のような迫力などはやや薄味になっているようです。
それを補うように、全域ブリリアントな音色ですが、できたらもう少し腹の底から歌って欲しいところ。
こうして様々な年代の異なるDを弾いてみると、それぞれの製造時代ごとの僅かな違いが手に取るようにわかり、それは多くのCDなどから得た記憶ともほぼ正確に一致するものなので、ピアノ好きとしては興味深い体験させてもらえる気がしています。

管理や調整にもそれぞれ差がありますが、生まれ持った器というのは、それを超えたところにあるもののようです。
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無言の真剣勝負

行きつけの大きめのスーパーに、このひと月ぐらいのことでしょうか、精肉売り場の前にある大型の冷蔵ボックスみたいなところが、割引品を置く専用の場所となりました。

以前は、その時期毎に量販を目論む肉類とか、チラシ広告の品など、内容がいつも入れ替わる場所だったのですが、このところは通常の商品で、加工日が一日遅れたものがここに一斉に投下されるようになったのです。
そして値段はというと、この場所にあるものはすべて半額ですから、すぐに食べるものであれば加工日の一日遅れぐらい問題ではなく、それこそいろんなものがあるので、マロニエ君も何度か買ったことがあります。

ところが、この半額コーナーができてしばらく経った頃からある現象みたいなものが起こってきたことに気付きました。
たまたま買い物に来たら安いコーナーもあるから、そっちも覗いてみようかという流れではなく、あきらかにそこだけを目的にやってくる種族があらわれたようなのです。

この人達の態度というか動きというのが、どうにもマロニエ君は好みません。
まずそのコーナーの前に立ちはだかって、安くなった商品のあれこれをしらみつぶしに見て回り、他のお客さんもいるから場所も少しは遠慮するとか、人にも少し場所を譲らなくてはという気配などまったくナシ。
マロニエ君はこういう人と競い合うように商品を見るのがイヤなので、しばらく他を見たりして時間つぶししたりしていましたが、この人達はちょっとやそっとでは動く気配がありません。
まさに好きなだけこの場所と時間を占領していて、それ以外は一切シャットアウトといった感じです。

それでもちょっと人が途絶えたときにそこに行くと、いい歳をした女性がサッと近づいてきたかと思うと、人の前にいきなりグッと手を伸ばして、お肉の入ったパックを2つ3つをまさに奪い取るように、ものすごい勢いでとってしまいました。
べつにマロニエ君はそれを買うつもりでもなかったものの、その鬼気迫る動作は呆気にとられるものでした。

この女性、あとから気がついたのですが、そのいくつかのパックを全部お買い上げかと思いきや、そうではなくて2mほど離れた場所に移動しておいて、こんどはゆっくり時間をかけながら真剣な眼差しであれこれと見比べています。
しばらく経ったころ結論が出たのか、またこちらに近づいてきたと思うと、いらないものをポンとぞんざいにこちらの目の前に戻して去っていきました。
つまり買おうかなと思った物はとりあえずたくさん持ち去っておいて、場所を変えて一人でゆっくり選んだ後、要らないものだけをまた売り場に戻すという手法のようでした。そして、見るとその人の買い物かごの中には、赤い丸の半額と書かれたシールの貼られた肉類ばかりがたくさん入っていました。

しかしこの女性などはまだいいほうで、カートに乗せたかごからあふれんばかりにこの半額コーナーのものばかりを買っている開き直ったような人もいて、見ていてなんだかとてもやるせない気分になってしまいます。
もちろんマロニエ君だって、半額となれば魅力ですから、欲しいものがあれば買いますし得した気分にもなりますが、ものには限度というものがあるように思います。

まるで戦いのような真剣さで漁りまくる人のお陰で、その場になんともいえない張りつめた緊張感が生まれて、そうなるとこちらもつい焦ってしまう自分までがたいそう浅ましいようでイヤになってしまいます。

ここで勝負に身を投じている人達は一様に無言ですが、ほしいものをゲットするための高いテンションがピリピリしていて、はっきりいってコワイのです。
びっくりしたのは、それを小さな子供とお父さんがやや離れた場所からおとなしく見守っており、やがて戦利品を携えてお母さんはニコリともせずに二人のもとへ戻っていくのですが、まるで荒野の生存競争さながらです。

さて、昨日の夕方またそのスーパーに行ったら、すっかりそのコーナーはなくなっていました。
あの感じでは夕方まで商品が残っていないのか、あるいは店が側が廃止にしたのか、どちらかでしょうが、以前の落ち着きが戻っていて妙にホッとしました。
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ベーゼンの販路拡大

月曜の読売新聞の朝刊文化欄には、ずいぶん広々と紙面(6段抜きで大小3枚の写真付き)をとって「ウィーンのピアノ継承」というタイトルでベーゼンドルファーの記事が載っていました。

この伝統あるピアノメーカーをヤマハが買収したというニュースは衝撃的でしたが、あれから3年半が経ったらしく、経営合理化も完了して、今後は世界的な販路拡大へ本格的に乗り出すのだそうです。

ベーゼンドルファーはピアノ製作に関して例外的に手間のかかる作業を熟練職人がすべて手作業でやっているということを、事ある毎に標榜するメーカーで、例えば、完成した楽器には付けられるのは製造番号ではなく、作品番号である云々など、それらは執拗に繰り返されるフレーズだという印象さえありました。
ところが実際には手作業は8割だそうで、裏を返せば2割は機械化されているということでしょうか…。

「なあんだ、スタインウェイと大体おなじじゃん!」って思いました。
もちろんベーゼンドルファーの隅々にまで行きわたる工芸的な美しさは抜きんでたもので、この点ではまさに世界の一流品というに相応しいものであることは間違いありませんが。

ベーゼンドルファーといえばピアノ界の至宝のように言われて、何かといえばウィーンの伝統、独特のトーン、貴婦人のよう、というような言葉が今もこの楽器のまわりには朝靄のように漂っています。
さぞかし世界的な需要もあるのかと思いきや、販売台数はヤマハの助力を得てもさほど伸びていないようで、2009年/2010年はそれぞれ220台に留まっているとか。損益分岐点が260台の由で、なおも赤字ということのようです。

製造に手間暇がかかるというのもあるでしょうが、販売量が伸びない理由のひとつには、あの独特な個性とピアノとしての汎用性の薄さに原因があるようにも思います。
あれだけ音色的にもスイートスポットが狭く、弾く作品も選ばざるを得ないとなると、オールマイティであることがピアノにとっては現実的性能とも同義になりますから、好きでも諦めるという人は少なくないような気がします。
よほどのお金持ちならいろんなピアノをそろえて、モーツァルトとシューベルトのためのピアノということで一台買うのも一興でしょうが、普通はなかなかそうもいきません。
また以前はホールでもちょっと贅沢なところはスタインウェイとベーゼンドルファーを揃え置くのが通例のようになっていましたが、今はそのあたりも少し変わってきている印象です。

驚いたのは、ヤマハがベーゼンドルファーの買収のきっかけになったこととして、そもそもヤマハがウィーンフィルの管楽器製作を請け負っていることからウィーンとの関わりを深めていったという側面があったらしく、これはまったく知らなかったことでした。
ウィーンフィルの管楽器がヤマハ…、これは考えたらすごいことだと思います。
その関わりの中でヤマハの高い品質への理解が深まったことで、そこからヤマハがベーゼンドルファーの伝統を守ろうという考えに繋がったようなことが書かれていました。
ま、そのあたりは冷徹非情なビジネスの世界のことなので、あくまで表向きの話かもしれず、半分聞いておけばいい気もしますが。

ただ、ヤマハは管楽器の分野でもその品質や鳴りの良さには定評があり、最近ではヴァイオリンなどでも高い評価を得ているといいますから、電子楽器を含む、ほんとうにあらゆる楽器を一つのメーカーが一つのブランドのもとに作っている(しかもどれもがクオリティの高い上級品!)という点で、これは史上例を見ない会社ではなかろうかと思います。
もしかしたら、そのうちヤマハの楽器だけを使ってのオーケストラやピアノコンチェルトなんかもできるかもしれませんね。そうしたらギネスものです。
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レクチャー&コンサート

横山幸雄氏によるレクチャー&コンサートに行ってきました。

チケットが千円というのが信じられないほどの内容で、前半は2人の生徒を相手に公開レッスンがおこなわれ、後半は横山氏のリサイタルという構成で、休憩を挟んで2時間を優に越す内容でした。
指導も演奏もして、自らマイクを持っておしゃべりもすれば、ロビーにはCD販売コーナーが設置され、終演後はサイン会まであるのだそうで、有名ピアニストもいまや多角経営とサービスの時代のような印象。

安く聴いておいて不満を言ったら叱られそうですが、こっちだって遠くまで頑張って行ったわけだし、この世界は安ければなんでもいいというわけでもないので、そこは申し訳ないけれども敢えて率直なところを書いてみます。

レッスンでは小学生と中学生の2人が指導を受けましたが、横山氏の声量がマイク付きでもずいぶん小さく、話し方もぼそぼそとつぶやくようで、言葉が聞き取りづらいのが残念でした。ホールにお客さんを入れて衆目の中でレクチャーをする以上は、もう少し広く見せて聞かせるに値する性格のものであってほしいと思いました。
レッスン自体は頷ける内容も多々ありましたが、細かい指示を矢継ぎ早に出しすぎるという印象で、もう少し音楽全体に通じる本質に迫るほうがこういう場には好ましいように感じましたが、まあそこは横山氏のやり方なのでしょう。

音楽家である以上、その話し方にも抑揚や強弱などのメリハリ、もう少しその本業からも汲み取ったであろう表現があればと思いますが、その話しぶりはピアノでいうと機械的な演奏みたいでした。
生徒に「あまりシステマティックにならないように」と指示した箇所がありましたが、それは貴方の話し方にも言えることでは…とつい思ってしまいました。

後半のソロ演奏は、指のメカニックはなるほど達者ですが、やっぱり音楽もどちらかというと平坦でドライ、作品に対する愛情深さが感じられずに、もう一つ満足が得られなかったのが正直なところです。
曲目はショパンの第1バラード、エチュード5曲、リストのカンパネラや献呈など5曲と、アンコールにもリストとショパンが演奏されましたが、すべてに共通するのがさらさらと譜面が進行していくだけで、もう少しの深みと、路傍の花にも目を向けるような情感があったらと思いました。

メモリーに余裕があってサクサク動くパソコンみたいな爽快さはありますが、少なくともマロニエ君は聴いている人間への語りかけとか、心にぐっと食い込んでくる何かが欲しいと思うわけです。
あれだけの秀でた才能とメカニックがあるのだから、もうひとつ踏み込んだ味わいがあったらどんなにか素晴らしいだろうかと思います。

ピアノはベーゼンドルファー275とスタインウェイDが使われて、レッスンでは生徒がスタインウェイを、リサイタルではショパンをベーゼンドルファーで弾き、途中でピアノを入れ換えて、続くリストではスタインウェイを弾くという面白い趣向で、この点は大いに楽しめましたが、いかんせんマロニエ君の好みではいまさらながらベーゼンドルファーでのショパンはいただけませんでした。

ベーゼンドルファーが大変優れたピアノであることはまぎれもない事実ですが、このピアノでショパンを鳴らすと、まるでピアノの音色がしわがれた老婆の声のように感じられてしまいます。
ミスマッチというのはまったくこの事で、良し悪しの問題ではなく、世の中にはどうしてもソリの合わないものがあるのだと思います。
逆に使ったらずいぶん違っていただろうと思いますが。

会場が遠かったことや、折からの台風の影響による終日の悪天候も加勢して、帰宅したころにはずいぶんとぐったり疲れてしまいました。
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シロウト内閣

マロニエ君にとって音楽はなによりも大切なものであり、それだけに理想主義的になり、演奏の質などにもある一定のレベルを求めてしまうところがあるのは否定できません。
無邪気な趣味は別とは思っていますが、シロウト芸というものはどうしても善意で捉えられることが多いものの、実際にはそれほどかわいいものばかりではなく、ときにシロウトの作り出すものは不愉快でグロテスクであったりするのが現実です。

そのシロウト芸が最も人々に害悪を及ぼす最悪の場所は永田町で、ここで行われるのは天下の政(まつりごと)ですから、音楽どころの話ではありません。

こんなブログに政治的なことを書くつもりは基本的にありませんし、そもそも書くだけの知識も見識もないのですが、それでも一人の国民あるいは有権者・納税者としてあえて言わせていただくなら、今度の組閣は一体なんだ!?と思いました。

菅さんの場合は、あの異様なしがみつきが終わるのを待ちわびて、ともかくも日本のために一日も早く辞めていただくことだけを切望していましたが、念願かなってやっと新しい代表が選ばれたかと思ったら、またも新たな失望のスタートです。
代表選で小沢氏が差し向けた海江田氏が落選したところまでは当然としても、野田新内閣のスタートを見て、思わず我が日本はいよいよ終わりじゃないかと思いました。

当選早々に「ノーサイドにしましょう」などと言ったかと思うと、党の要職にまた小沢氏の存在に気を遣いまくったような人物を配置するなど、またも同じことの繰り返しが再出発したという印象。
とくに幹事長という党の金庫番と選挙の後任権をあちらに持って行かれちゃお終いでしょう。
党内融和・挙党体制などと言いつつ、誰からも嫌われまいと論功行賞のオンパレード。

とりわけ昨日発表された組閣では財務や外務のような最重要クラスの大臣ポストに、まるで経験のない、そのへんの兄ちゃんみたいな人を任命するなど、開いた口が塞がりません。

だいたい党員の資格さえ停止処分されて、強制起訴されているような人物ひとりに、なぜそこまで気を遣ってゴマすりみたいなことしなくちゃいけないのかと思うと腹立ちさえ覚えます。
震災復興のみならず、落ち込む経済、ますます厳しさを増してしたたかさが求められる外交に対して、あんな顔ぶれでこの難局に対処できるなどと思っている人は誰もいないでしょう。

ああ、またも外国からナメられ、足元を見透かされたような屈辱的な状況がこれからも延々続くかと思うと、情けなくてどうしようもありません。

そもそも「どじょうのような男」とか「泥臭く」などと自ら言ってのけるセンスからしてなんとかしてほしいところ。
普通の人がどじょうでも泥臭くても構いませんが、日本のリーダーたる総理の特色が「泥臭い、どじょう」なんぞマロニエ君はまっぴらです。
泥臭いということを、それだけ真面目で不器用で誠実だというイメージに結びつけたいのでしょうが、あの眼差しでそれを言われると聞くたびに背筋がブルンとなってしまいます。
これで、なにもめざましいことができないまま、後に残ったのは増税だけとなるようではやりきれません。

世界的に見ても日本はなんでもレベルが高いと言われますが、何故こうも政治家のレベルが絶望的に低いのか、これはまったく日本人でありながら理解に苦しみます。
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中国高速鉄道

中国の高速鉄道の事故は記憶に新しいところですが、中国ほど何事においても「世界一」の称号を好む国柄はないのだそうです。

この中国版新幹線も、共産党立党90周年に合わせて、過去に類を見ないような猛烈な突貫工事によって、遮二無二開業が急がれたことは今や広く知られるところですが、つい最近も車輌から煙が出て緊急停止だの、中国開発の車輌は故障が相次ぐためにすべてが回収されるなど、ここ当分は問題は尽きないようです。
しかし、高速鉄道に関しては報道規制がかかっているらしいので、ニュースとしては聞こえてこないかもしれませんが。

たまたま書店で立ち読みをしていると、ある月刊誌の新号に、日本人ジャーナリストで中国の高速鉄道全線に乗車した!という強者がいて、いろいろとおもしろいことを書いていました。
中国版新幹線の特徴としては、あの広い大陸故に、日本と違うのはいわゆるカーブがほとんどなく、大半が直線を超高速でひた走るのだそうです。区間によっては時速300キロを超える瞬間もあるとかで、東京ー熊本よりも長い北京ー上海間を実に4時間台で切る速さで駆け抜けるのだとか。

安全面はさておいても、乗り心地は大変快適で上々であることが書かれていましたが、これはマロニエ君も高速鉄道ではありませんが、中国で鉄道を利用した際になんとなく感じた点でした。鉄道にはさっぱり疎いマロニエ君ですが、ずいぶん大きな車輌のように感じていたところ、後日この点に詳しい友人の話によると、中国の鉄道は軌道の幅自体が日本のものより広いのだそうで、自然車輌のサイズもより大型であるという話でした。
道理で、なにやら悠然としたその乗り心地はともかく快適で、動きもどこか鷹揚な感じを受ける気持ちの良いものだったことは印象に残っています。

さて、技術的・専門的なことはさておいても、利用者から見ると甚だ奇異に映る点があるのだそうで、あまりに計画・開業を急ぎすぎたためか、大半の駅が新駅となり、それがまた悉くひどく不便なところにあるのだそうです。
そしてそのアクセスに関する情報がほとんどないため、わかりにくいバスを乗り継いだり、街中から1時間もタクシーをすっ飛ばしてようやく駅へ辿り着くといったことが珍しくないといいます。
さらには切符を買うための職員がひどくつっけんどんで不親切であったり、セキュリティーの通過だけに20分を要したりと、総合的な利便性と迅速性という観点でも、まだまだすいぶんと問題が残されているようです。

それでいて、座席の等級によっては飛行機よりも高額で、およそ中国の一般人が気軽に利用するための交通手段からはほど遠い一握りの富裕層のものでしかないというのは、あいもかわらず変な話です。

とりわけあの事故いらい、最大の利用が想定されていた北京ー上海間は、実際には2ー3割しか乗客が乗っておらず、ずいぶん計画も狂ってしまっているのだとか。

中国はいまだに賄賂社会であることはつとに有名ですが、今年逮捕された鉄道省のトップには、なんと18人!もの愛人がいたり、その部下達もアメリカに豪邸を買い漁るなど、想像を絶する額の裏金が動いているとのことでした。
オリンピックや万博然りで、中国では大事業をやるには、実際にかかるコスト顔負けの賄賂が必要だそうで、これではなかなか確かな安全システムなどは構築できない気がします。

上海では空港からリニアモーターカーが走っていますが、これもなるほど中国の好きな地上を走る「世界一」の速さですけれども、その駅は街の中心部からずいぶん距離のあるところで、実際に不便に感じたことを思い出しました。
これに乗れば、そこから30キロほどの空港までわずか7分余で到着しますが、その駅へ行くには、重いスーツケースを引きずりながら混雑まみれの地下鉄に乗るか、タクシーではやはり1時間近くを要しますし、タクシーの運ちゃんもろく場所を知らなかったりします。

そのリニアモーターカーも今また乗るか?ときかれたら…やっぱりこわいですね。
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6枚のCD

過日、CDのワゴンセールを漁って買い求めた6枚について。

『山本貴志のショパン』については既に書いたので省略します。

『ミヒャエル・コルスティックのシューマン』
男性的な表現のスケールが大きいのは魅力ですが、音色の問題と、もう一つはドイツ人故なのかどうかはわからないものの、聴く者の詩的情感に訴えるような面がやや希薄で、説明的かつ堂々とし過ぎたシューマンだったように思いました。ゆるぎないガッチリ体型のクライスレリアーナ&謝肉祭を聴きたいという時にはもってこいの1枚でしょう。
ただし、あまりにドシッと腰の座ったシューマンというのは却って妙でもあり、そもそも音はあてどなく彷徨い続け、ひっきりなく情緒が揺れるところがシューマン作品の魅力でもあるので、これがドイツ的なシューマン演奏かといわれたら確かに疑問ですが、それでもとにかくひじょうに聴きごたえのあるアルバム。

『アンジェラ&ジェニファー・チュン(ヴァイオリン)のファンタジー』
演奏自体はとくだん光ったものがあるとも感じなかったものの、両者ともたいへん上手くて息が合っていて、じゅうぶん観賞に値するものでした。
演奏曲目が魅力的で、マルティヌーの2つのヴァイオリンとピアノのためのソナタ、ショスタコーヴィチのヴァイオリンデュオのための3つの小品、ミヨーの2つのヴァイオリンとピアノのためのソナタ、イサン・ユンのソナタなど、普段あまり聴く機会の少ない作品ばかりなのは得をした気分でした。
マルティヌーは革新的でありながらリズムの刻みなどが耳に心地よく、ショスタコーヴィチは、えっこれが?と思えるほどやさしげな旋律、ミヨーのエキゾチズムなど面白いものばかり。
この二人のヴァイオリニストは名前からも写真からも、きっと中国系のアメリカ人姉妹だと思われます。

『ヴォイス・オブ・ザ・ピープル』
こう題されたアルバムは、大半がフランクの作品と思いこんで購入したものの、よくみるとあのセザール・フランクではなく、ガブリエラ・レナ・フランク?という少なくともマロニエ君はこれまで聞いたこともない作曲家でガックリ。
どんなものやら聴いてみると、これがまたなんともへんな曲ばかりで、しばらく我慢して聴いていまたものの、ついに嫌になってストップしました。後半にはショスタコーヴィチのヴァイオリンソナタが入っていますので、それは後日あらためて聴いてみたところ、これがまたどうにもつまらないもので、演奏のせいもあるかもしれません。
これは完全に失敗でした。

『スザンヌ・ラング ピアノリサイタル』
若い女性ピアニストによる演奏で、リスト、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ヤナーチェク、スメタナ、シューベルト、シチェドリン、ファリャ、プロコフィエフという、なんとも目まぐるしいほど多彩な作曲家の作品が登場するアルバムですが、その選曲の意図も目指す方向も不明で、聴いていて何も魅力を感じませんでした。
演奏レベルもあまり高くなく、いまどきのピアニストとしては、わざわざCDまで作って売るような腕前ではないという印象。なにしろ演奏がパッとしないので、とうぜん曲のほうでもこれといった力を得て本来の姿をあらわしてくるところがありません。
これなら日本人の名もないピアニストの中にもっと優れた演奏をする人がいくらでもいるはずです。これもまた失敗でした。

『スカルコッタス ピアノと室内楽作品集』
近年再評価が著しいといわれるニコス・スカルコッタス(1904-1949)の室内楽作品集で、これはなかなかに聴きごたえのあるもので、6枚中最高のヒットでした。シェーンベルクにも学んだという十二音技法の作品は、しかしシェーンベルクやベルクがこの分野の開拓者だとすると、より一層自由になって近代的なセンスがきらめいており、ある意味では十二音技法をよりしなやかに使いこなした作曲家といえるのかもしれません。
ピアノのウエリ・ヴィゲットという人が、これまたなかなか上手いのには舌を巻きましたし、ピアノの音はいかにも美しいスタインウェイの音。
収録時間もたっぷりで80分を超えるほどですが、何度も聴いても飽きることがなく、これはまさに拾い物だったと思います。

6枚中失敗は2枚、まあまあが3枚、ヒットが1枚であれば充分以上に元を取ったと言えそうです。
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中古スタインウェイ

知人がピアノ購入を検討しているらしく、大手楽器店にある戦前のスタインウェイのS型を先日見に行きました。
戦前のモデルですが、ほぼ完全なオーバーホールがされており、見た感じではパリッときれいな印象で、とても70年以上経ったピアノには見えないものでした。

とくにきれいだと思ったのはボディの塗装で、赤みがかった美しいマホガニーの上にクリアーが上手く吹き付けられており、こういうことは直接音とは関係ない部分ですが、やはり購入を検討する中古品の場合、楽器としての内容もさることながら、視覚的な美しさは大きな魅力になると思います。

人間にとって、視覚的要素というのはやはり小さくない部分で、その影響を受けるのが普通ですし、逆にそれを完全に度外視するということの方が極めて難しいと思われます。
とりわけピアノは中古でも輸入物の一級品となるとかなり高額な買い物ですから、心情として見た目の美しさもたいへん重要になり、音や響きはもちろんのこと、目を楽しませるものでもあってほしいものです。
見た瞬間の第一印象というのは後々までその影響を引きずりますから、もしマロニエ君が中古ピアノ販売の経営者なら、内容の充実は当然としても、見た目も重視するでしょう。そのために少し値が張っても、視覚的な要因にもじゅうぶん堪えるような仕上げをするだろうと思います。
どんなに麗しい音色を紡ぎ出す楽器であっても、見た目がぼろぼろの傷だらけでは購入意欲もそがれますから。

さてこのピアノ、率直にいうと整調面でまだまだ手を入れるべきと思われる部分もありましたから、現状のままでもろ手をあげて勧める気にはなれませんでしたが、基本的には大変健康な元気のあるピアノだと思いました。
驚くべきは、とにかく良く鳴る溌剌としたピアノで、その音はとても戦前生まれの奥行きが僅か155cmしかない小さなピアノとは思えません。いまさらながらスタインウェイの持つパワーと、その持続力には脱帽させられました。
(ちなみにこれ、ヤマハのCシリーズ最小のC1よりもさらに6cmも短いサイズで、もっとも一般的なC3などは186cmですから、それより31cmも短いピアノです)

日本のピアノ(少なくとも現行普及品であれば)なら、もっと何サイズも大きなモデルでも、このスタインウェイの最小モデルに、ピアノとしてのパワーの点ではとても敵わないという印象でした。
もちろん音質然りで、とくに少し距離を置いて聴いていると、その密度の高い聴きごたえのある音ときたらさすがというほかなく、つい欲しくなるピアノでした。
先日の練習会での100歳のブリュートナーの枯れた感じもとてもよかったけれど、この73歳のスタインウェイのパワーはまだまだ若々しく、さらに次元の違いを感じます。

外装やフレーム、響板なども全塗装され、内部の消耗品や弦までかなりの部分が新品の純正パーツ(という話)に交換されているので、総合的にみるとじゅうぶん納得できる価格設定のように思われました。
ここの営業マンが主に関東に集中する同社の在庫表を見せてくれましたが、大半のピアノが純正パーツを使ってOH(オーバーホール)されており、これが真実言葉通りなら、その販売網と相まって輸入ピアノ業界では脅威だろうなあとも思いました。

普通はスタインウェイの本格的なOHともなると、国産の新品グランドが買えるぐらいの費用がかかりますから、それを思うと、一気にコストパフォーマンスが増してくるようです。
ただし、真正な作業であるかどうか、本当に純正パーツを使っているかどうかまではマロニエ君にはわかりかねますが。

すくなくとも「オリジナル」と称して、消耗部品にはなにも手を付けず、表面的な調整だけでお茶を濁して、ずいぶん立派な値段で売っている輸入ピアノはごろごろしていますから、それよりはよほど良心的な気がしました。
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ダルベルトの迫真

フランスの中堅だったミシェル・ダルベルトも、もはや50代後半、ある意味では今が絶頂期にあるピアニストかもしれません。
彼のリサイタルの様子がBSで放送されました。

この人は昔から名前は聞くものの、なんだかもうひとつわからない人という印象で、CDなどもいまいち買う気になれない人でした。少なくともマロニエ君にとっては。

今年、すみだトリフォニーホールで行われたリサイタルから、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」と「謝肉祭」が放送されました。この人の演奏を見ていて最も気になるのは、フレーズの間でもやたらパッパッと手を上げることで、あんな奏法がフランスの伝統的奏法にあるんだろうかということです。

パリ生まれのパリ育ちで、コルトーの影響を受け、ペルルミュテールに師事したといいますが、そこから想像されるフランスらしさみたいなものは感じられませんし、そもそもそういう演奏を期待するとまったく裏切ってくれるのが決まってこのダルベルトでした。
いわゆるフランスピアニズムとは故意に外れた道を行こうとしている印象。
レパートリーもいわゆるドイツロマン派を得意とする、フランス人の音楽的ドイツコンプレックスというのはわりにあって、現在もグリモー、古くはイーヴ・ナットなどもその部類でしょう。

ただし、フランスピアニズムといっていることその自体がこちらの勝手な思い込みかもしれません。堅固な構成力とか論理性よりも、フランス人は流れるような線の音楽を描き出したり、どこか垢抜けたセンスを表出させたりするというイメージが我々に根強くあるからでしょう。

ところがこのダルベルトはそういった要素から全くかけ離れた、その見た目の甘いマスクとも裏腹に、木訥でごつごつとした肌触りの悪い音楽です。洗練の国フランスどころか、むしろそれは無粋で益荒男的で、音楽はフレーズごと、否フレーズの中のさらに小さな楽句によって途切れ、寸断され、そこにいちいち上げた手が、これでもかという無数のアクセントや段落を作り出すのは、聞いていてちょっとストレスになることがあります。

こういう具合で、ダルベルトのピアノはあまり好きではないのですが、それでもひとつだけ大変満足させられるものがありました。
それは迫真的にピアノを良く鳴らし、演奏を決してきれいごとでは済まさないという点で、この点は最近では希少価値の部類だと思います。
ダルベルトはどちらかというと小柄で、手足の長さも日本人と変わらないような体型ですが、それでも椅子が低く、そこから上半身の重さと筋力のかかった硬質な深みのある音を出します。
激しいパッションが燃え立ち、低音なども迫力ある深いタッチが随所に現れ、ピアノがいかんなく鳴らされているのは聴きごたえがあり、この点だけでも近ごろではめったにない充足感に満たされました。

最近の若いピアニストは、楽々と難曲を弾きこなして涼しい顔をしていますが、そのぶん音楽に迫力がない。
その日その場での演奏に何かをぶつけているというナマの気概というか、情熱のほとばしりがないのです。
たしかに汚い音もあまり出しませんが、全身全霊をこめて絞り出すフォルテッシモもなく、淡々と合理的な練習成果を披露するのみ。まるでスーパーで売っているカタチの揃ったきれいだけど味の薄い、小ぶりな野菜みたいで、土と水と太陽の光で育まれたという真実味がない。

その反対のものを見せてくれただけでもダルベルトを聴いた価値があったように思いました。
とりわけ左手の強いピアニストというのは、それのないピアニストにくらべると何倍も充実した響きを作るようです。
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ペトロフ

ペトロフのグランドを弾ける機会があり、知人と連れ立ってお試しがてら行ってきました。

小型グランドで外装は木目のチッペンデール、音も含めて個性的なピアノでした。
ペトロフのユーザーに言わせると、このピアノはスタインウェイなどとは目指す方向が違うもので、いわば「木の音」がするということを強く主張されている方などもあるようです。この意見にはマロニエ君の少ないペトロフ経験でいうと、いささか疑問に感じる面もありましたが、今回もその疑問が覆ることはありませんでした。

スタインウェイと方向性が違うことには異論はありませんし、いわゆるデュープレックスシステムを持たないピアノなので、響き自体にある種の直線的な率直さを感じる音色ではあると思います。

しかし、ペトロフの音には倍音と雑音の両方がむしろ多めで、しかもかなり金属音を含んだするどい発音のピアノだという印象があり、これがペトロフ独特の音色を作り出していると思います。
そしてその音は、東欧に流れる気質そのものみたいな響きで(チェコじたいは中央ヨーロッパに位置する国ですが)、こういう音を好む人も多くおられると思います。
ひとつひとつの音に重さがあり、いわゆる明るい現代的なトーンの対極にあるピアノでしょう。
また、ドイツ的な理性と秩序の勝ったピアノでもなく、生々しい野性味さえ感じる音ともいえそうで、やはりこれはまぎれもなくドヴォルザークやスメタナを生んだ国の、深い哀愁に満ちた音だと思います。

ペトロフは価格に比して材料がよいピアノであることも有名でしたが、それはその通りだと思います。
ただしそれはあくまで音に関する部分だけかもしれません。
とりわけ白っぽい目の揃った響板などはそれを如実に物語っていたように思いますし、音自体にも良い材質を使ったピアノならではのパワーがあり、音が太く、よく鳴っていたと思います。

ただし、工作や仕上げのレベルは率直に言ってそれほどでもなく、この点では中国やアメリカのピアノ並で、全体の作りとか仕上げは残念ながら一級品のそれには及ばないものがありました。
製品としての仕上げには価格に対して必要以上のことはしないという、はっきりした割り切りがあるようにも感じられ、ピアノはここから先を工芸的に美しく仕上げるとなると一気にコストが上昇するという感じが伝わってくるようでした。
その点では日本のピアノが大量生産でありながら、あれだけの(仕上げの)クオリティを保っているのは、なるほど世界が目を見張るだけのものがあると理解できます。

さて、今回弾いたピアノはタッチ面で無視できない大きな問題を抱えていました。
キーが重めで、しかもストロークの比較的浅い部分で発音してしまうので、指先とハンマーの反応に一体感が得られず、コントロールがおおいにしづらい状態でした。大音響でバンバン弾く分にはともかく、デュナーミクや表情の変化に重きを置く演奏にはまったく向きません。

ただし、現代のペトロフはアクションはすべてレンナー製のごく標準的な基準で作られているらしいので、これは調整次第でじゅうぶん解決できることだと思われました。
それだけピアノに本来の輝きを与える役どころは技術者の熱心な仕事にあるということでもあります。

どんなに鳴りの良いピアノでもタッチコントロールが効かないことには魅力も半減ですが、しかし、逆を言うと生来鳴る力のないピアノを鳴るようにすることはまず不可能ですから、この点でペトロフの潜在力は旺盛で、おおいに可能性を秘めたピアノだという印象でした。
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なんちゃってスタインウェイ

知らぬ間にポスティングされているフリーペーパーの中には、60ページに及ぶオールカラーのそれこそ写真週刊誌ぐらいの立派なものもありますが、今回は下記のような内容のため、あえてその冊子の名前は書くことは遠慮します。
内容は大半が食事の店の紹介などで、後半にはエステなどの広告に至るという、わりによくあるタイプです。

新聞を見た後、朝ポストに入っていた9月号とやらをぱらぱらやっていると、この冊子のプロデューサーという人物が、あるレストランを訪問して、そこの若いオーナーと誌面で対談をやっていました。
その内容はここでは関係ないのですが、そこに掲載されている大きな写真がマロニエ君の目を惹きつけました。

このレストランは食べ放題形式で、音楽のライブ演奏をやっているらしく、対談する二人は店内に置かれたグランドピアノの前で、プロデューサーは手振りを交えてさも何かを語っているところ、迎えるオーナーはスッと左手をピアノに添えて、両者かっこよく立ち話をしている感じの写真が大きく載っていました。

ピアノは大屋根を閉じた状態で、斜め後ろからの角度でしたが、普通の小型グランドにもかかわらず、サイドに金色の文字とマークがあり、そこには明らかに「STEINWAY & SONS」の文字とその中央上に例の琴のマークがあるのです。
はじめはへええと思ってみていたのですが、んー?という違和感を覚えるのに大した時間はかかりませんでした。

マロニエ君はごく有名どころのピアノであれば、マークを見なくてもディテールの特徴などから、だいたいどこのメーカーかはわかります。
その上でいうと、この写真に写ってるピアノはどうみてもヤマハだと思いました。
それで写真を凝視すると、果たして4つの点でヤマハである根拠が見つかりました。それはとりもなおさずスタインウェイではないという証明にもなるわけです。

対談にはピアノのことは触れられていませんでしたが、このレストランのホームページを見てみると、やはり後方から大屋根を開けた状態の写真があり、そこでさらに3つの点でスタインウェイにはない特徴を見出しました。
合計7つの根拠をもって、このピアノがスタインウェイでないことは明白なのですが、なぜそんな偽装表示みたいなことをしているのか…単なるブランドのパクリでしょうか。

ピアノのロゴマークは真鍮のパーツきちんと入れるなら塗装屋など専門家に依頼しないと、とても素人が出来ることではありません。あるいはもし、これがレーザーカッターなどで作られたデカール(ステッカーのたぐい)だとすれば、鍵盤蓋にあるロゴマークはどうなっているのかと思います。
正面には「YAMAHA」、サイドには「STEINWAY & SONS」というのもちょっとねぇ、考えにくいです。

もし両側に真鍮のロゴパーツを埋め込んでいるのなら、これはもうかなり本格的な作業です。
お店では毎週木曜から日曜までディナータイムにジャズや映画音楽の生演奏をやっている由ですが、演奏する人達はこういうピアノを前にしてどんな気分なのかと思います。

できれば実物を見てみたい気もするので、近くだったら見物がてら食事に行ってもいいのですが、あいにくと北九州方面なので、そうまでしてわざわざ行く気にもなりませんが、こんなピアノ1台があるというだけで、なにやらお店の印象まで変わってくるようです。

このなんちゃってスタインウェイ、だれか北九州方面の人にでも頼んで、偵察してきてほしいところです。
くだらないけれども、そうざらにはないピアノだとは思います。
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雨天順延

全国的にも大雨が頻発して列島いたるところが荒れ模様のようですが、福岡でもなかなか天候が定まりません。
先日など市内で竜巻まで発生して被害が出たというニュースには驚きました。

梅雨のようなしとしと雨ではなく、降り出すとかなりな勢いでの猛烈な雨であることが特徴です。
それが少しも一定せず、収まったかと思うと、またものすごい雨音に包まれます。

やっと晴れ間が出たかと思えば、午後は一転してにわか雨になったりと、とにかく天候そのものが迷走気味でころころ変わる日々が長らく続いています。

今年のちょうど梅雨明けぐらいの時期に、除草剤を撒き散らして雑草を根絶やしにしていた我が家では、これが功を奏して今年の夏の草戦争は見事に休戦となりました。
それに連なってか、蚊の発生も例年よりはうんと少ないものでしたが、その点に関しては放射能の影響がつぶやかれているようでもありますから、実際どちらの影響なのかはわかりません。

さて、その除草剤散布の効果で、今年は雑草のまるでない庭を見るたびにヤッタヤッタと喜んでいたところでしたが、どうやら効力に期限も見えてきました。8月に入ったあたりから、新たな雑草が小さくポツポツと出てきたかと思うと、日に日にそれが成長し、今ではかなりの部分があてつけがましい緑で覆われはじめました。
緑色それ自体はなかなかきれいな色で、色彩的としては結構なのですが、しかしその正体があの憎らしい雑草の再襲来かと思うと、とてもじゃありませんが楽しんでなどいられません。

早いうちに再度除草剤を再投下したいと狙ってはいるものの、こうも天候が著しく不安定では、いつまで経っても実行できない状態が続いています。現に、よほど今日やってしまおうかと思いながらも躊躇したところ、夜には集中豪雨のようになったりすることが何度もあり、そのたびに撒かなくてよかったとつくづく思うわけで、こんなことが3回も続くと、よほど天候が安定しないと迂闊にやっても無駄になるばかりです。

しかし、そうやって一日延ばしにしている間にも、雑草は確実に成長して、もう今では以前の勢力へと着実に近づきつつある気配ですから、まさに地面と空とを見比べる毎日です。
昨日は珍しく雨が降りませんでしたが、平日で実行できず、次の機会を伺っています。

そういえば、裏のマンションとの境目なども細長い雑草天国の様相で、この部分はマンション側の敷地なのですから向こうできちんと処理をして欲しいものですが、これがまた、ものの見事にほったらかし。
連絡しようにも管理人の電話番号もわからず、表はセキュリティまみれみたいな排他的な感じなので、普通の家のようにちょっと訪ねていくという雰囲気でもなく、こういう点は、やはり現代はいやでも人間の関係が希薄だということをしみじみ感じます。

まあ、このマンションの高い壁に助けられて、夜遅くまでピアノを弾いたりしていますから、大局的にはありがたいところもあるのですが、そうはいってもやはり敷地内の雑草の処理ぐらい、せめて年に一度ぐらいはして欲しいものです。
下手に草の話を持ち出して、逆にピアノの音のことでも言われるなら、それこそ藪蛇というものですから、だったら触りたくないですが…。
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動物の謝肉祭

フランス人のセンスに感服することは折に触れてあるものですが、またしても驚かされるハメになりました。

サンサーンスの動物の謝肉祭がひとつの可愛らしい、あっさりとした白の世界に作り上げられた素晴らしい映像を見ました。
指揮はチョン・ミョンフン、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団と二人の若い女性ピアニストによる演奏ですが、床も周囲も真っ白のスタジオで演奏され、別所で収録された子供部屋での親子が動物の謝肉祭の絵本を見ることで、ページを繰るごとに音楽が引き出されていくというスタイルです。
この父親役となったのはフランスで有名な人気喜劇役者スマインで、彼の名演技がこの映像をより素晴らしいものにするのに一役買っていたことは間違いないでしょう。

さらに圧巻なのは、その演奏中の現実のオーケストラの中に、なんとも可愛らしいアニメーションの動物たちが現れ、のしのし歩いたり、飛んだり跳ねたりと、さまざまにデフォルメされた動物たちの動きが実にまた精妙で、よほど周到な準備がされたものだろうと思われます。この絵の動物たちが、親子が見ている本の中から飛び出して、チョン・ミョンフンの傍に行ったり、奏者の間であれこれの動きや遊びを展開します。

後半には父親役のスマインがやってきて指揮棒を振る場面がありますが、それがまたなんともサマになっていて、いわゆる役者の俄仕込みとは思えない、そのいかにもコミカルで音楽的な動きには感心しました。

全体に横たわる趣味の良さ、垢抜けた感性はさすがはフランスというべきで、日本人にはどう転んでも作り出せない世界だと思います。動物といえば緑をふんだんに使ったりと、うるさいような装置がごてごてと並ぶことになるような気がします。
とりわけ白の使い方は絶妙で、日本人が白の世界を作ると、雪の世界か、さもなくば温かみのない殺伐としたビルの内装のような冷たい世界か、あるいは味も素っ気もない病院みたいな世界になるように思われます。
フランス人は白を他の色と対等な、白という色として捉えているような気がしますが、どうでしょう。

親子を登場させるにしても、こんな絵本の世界でやさしく子供に読み聞かせる愛らしい情景となると、日本ではゴツイおじさんと小学生ぐらいの息子という設定はまず絶対に考えられない。
まず思いつきもしないでしょうし、誰かが提案しても、理解が得られずまっ先にボツになるに違いありません。
おそらくは猫なで声を出す若くてきれいなお母さんと、幼稚園ぐらいの可愛い子供のペアといったところでしょう。

しかしそれではただきれいな作り物の世界になるだけで、ここで見られるような自然な親子の間にある触れ合いとか味のある情感が自然に滲み出てくるということがないと思います。
この映像を見ていて、常に対照的なものとして頭から離れなかったのが、NHKの音楽番組などで使われるスタジオの野暮ったいセットの数々でした。いかにもあの紅白歌合戦に通じるような、くどくてわざとらしい、結婚式の披露宴的な世界を次から次に作り出しては、そこでクラシックからポピュラーまでの様々なパフォーマンスが収録されますが、一体全体あのセンスはどこから来るのかと思います。

この映像の監督はアンディ・ゾマー、ゴードンということでしたが、まさにその首尾一貫したあっぱれな仕事ぶりには脱帽でした。
くやしいけれど、やっぱり彼らにはどだい適わないと思います。

ちなみに、ここで使われた2台のピアノはヤマハのCFIIISで、やっぱりフランス人はよほどヤマハが好きらしいことはここでも確認できました。
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演奏は誰のため?

ピアノクラブという、いわゆるピアノの弾き合いクラブに所属して秋に丸二年を迎えようとしていますが、その間、以前なら想像だにできなかった赤面の極みであるところの人前演奏というものにも挑戦しました。

それを前提としたクラブに入る上はやむなしとして、ここに一定の覚悟をもって入会に及んだわけです。

そのための必要に迫られて、長年親しんできた「自分流」のピアノ遊びを一部棚上げし、まことに微々たる量ですが、人前で弾くということを念頭においての練習に時間を割くようになったことは、以前もどこかに書いたような気がします。

クラブの定例会はほぼ毎月開催され、その都度、人の居並ぶ会場の正面に置かれたピアノに向かってひとり歩を進め、そこでなにがしかの曲を弾かなければならないということは、マロニエ君にとっては相当にハードなことです。
こんな状況に追い込まれたというべきか、要は自分の意志で入会したわけですから、つまりは自分の意志によって己を追い込んだということになるわけですが、いまだそれに馴染まない自分がいることは、もはやどうにも手の施しようがありません。

人が聞いたら一笑に付されるかもしれませんが、正直言って、自分でもよく頑張ったもんだと感心しているほどで、それはささやかな練習をしたことではなくて、人前でピアノを何回も弾いたという点においてすこぶる感心しているわけです。
十人十色という言葉があるように、人前でピアノ弾くということに対する感覚の持ちあわせ方もさまざまで、それを無上の喜びのようにしている人を何人も目撃するにつれ、自分との違いに呆然とするばかりでした。

自分がおかしいのか、はたまたその逆か、そこのところは敢えて追求しないとしても、その甚だしい違いはどうみても解決する見込みのないことだと悟らずにはいられません。

さて最近、ちょっとそんな自分の様子が変化してくるのを薄々感じ始めていました。
本来の自分とは違うことをやっていると、場合によってはこれが習慣となって身に付く場合もあるかもしれませんが、ピアノの人前演奏だけはそうはいかないようです。

やっぱり本来自分にない無理を続けたのが祟ってきたのか、切り落とした枝がまた伸びてくるように、もとのスタイルに戻りつつあるのを自覚しはじめました。あるときふとそれを自覚するや、まさに坂道を転げるように、そのための練習がすっかり苦痛になりました。
マロニエ君には、人前で弾くためではなく、ただ単に自分がやってみたい曲がいろいろあって、どうもピアノの前に座るという限られた時間内にやりたいことの優先順位が元に戻りつつあるようです。

ピアノ教室などは、ともかく発表会だけは是が非でもやらなくてはいけないご時世だそうですから、やはり今は誰も彼もが平等にスポットライトを浴びて、一時の主役になるということが大切だとされているのでしょうが、そのあたりがまたマロニエ君の理解困難な部分なのです。
スポットライトなんてものは、一握りのそれに値する人達だけが浴びるものだという認識自体が、お堅くて古くてズレているのかもしれません。むかし竹下登が考案提唱した永田町の総主流派なんてものがありましたが、今は一億総主役というわけなのでしょう。

先日さる御方が、「音楽は自分一人でやっても意味がない、それを人に聴かせるということが大事なんだ。」という言葉をさも深い含蓄ありげに発せられました。むろんその場で反論はしませんでしたが、マロニエ君はまったくそれには不賛成でした。

そういう美しげな尤もらしい言葉を鵜呑みにし盾にして、現実にはどれだけの勘違いが発生しているかと思うと、そんな言葉も絵空事のように響きました。
むろん演奏の心得として、人に聴かせるぐらいな気持ちで演奏しなくてはいけないとは思いますが、それを現実に実行するとなると、これはまた別の話でしょう。
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増幅と収束

このところ個人所有のスペースにもかかわらず、ひじょうに音響の素晴らしいふたつの場所でほんのちょっと弾かせていただく機会に恵まれて、その響きの美しさに感心させられました。

そのうちのひとつでは、音響のためのさまざまな工夫がなされており、そこには専門家の助言なども反映されているそうですが、最終的に決定を下すのはオーナー自身の耳でしょうから、やはりまずはよい耳、つまり判断力を持った敏感な耳を持つことが何よりも大切だろうと思われます。

音響の素晴らしい場所では、その響きに助けられて、ピアノなども大いにその能力を発揮するのはいうまでもありませんから、同じ楽器でも果たしてどういうところで使われるかによって、まさに運命が決まるといえるようです。

逆に、巷にあっていかがなものかと思うのは、れっきとしたピアノ店の店舗などであるにもかかわらず、音響的な配慮という点で、まったくなんの配慮もなされていないところがあるのは、なんとも腑に落ちないところです。
しかもマロニエ君はそういう場所を何カ所か知っています。

コンクリートやツルツルした石材などに囲まれた店内は、見た目はともかくとして、響きすぎる銭湯みたいな場所にピアノを並べているようなもので、音はビリヤードの玉のようにあちこちに跳ね返って暴走するばかり。とても本来の音を聴くことなどできません。
とりわけお客さんが弾いてみて音を確認する場としては、著しく不適合な環境だと思うのですが、それでも商売として成り立っていくというのであれば、なにか違った要素や事情で売れていくのかもしれませんが。

とりわけマロニエ君が個人的に感じるところでは、ピアノの音の一番の敵はガラスだということです。
もちろんガラスといってもその面積によりますが、例えば広い壁一面がすべてガラスといったような状況では、ピアノの音はことさら鋭く反射して、とてつもなく攻撃的な音になってしまいます。

ピアノの音は本体の塗料の質や仕上げによっても大きく影響を受けますが、ましてやいったん発生した音がどういう環境で鳴り響くかということは極めて重大な影響があると思われます。
ガラスや光沢のある石材はおそらく最悪で、次がコンクリート。これもかなり厳しい音になりますが、しかしガラスよりはいくぶんマシな気がします。
ただし、カーペットなどを敷いているところは、いくぶん相殺されているようですが。

福岡県内には、驚くべきことにホール内部にガラスの内装材を多用したホールがありますが、そこの響きは音楽愛好家の耳には極めて厳しいものだと言わざるを得ません。

その点、木はいくぶん良いものの、それも程度によりけりで過信は禁物だと思います。
「木は音に良い」という盲信があるのか、木のホールなどと言って、やたら木材で床や壁を覆い尽くしたような空間がありますが、これがまた必ずしも好ましい音で鳴ってはいない場合があるように感じます。
木であってもやりすぎれば音はやはり相当暴れてしまい、節度ある響きではなるということでしょう。

その暴れ方がガラスやコンクリートに比較すれば木であるぶん多少マイルドという程度の差であって、ただ音がワンワンするだけの音の輪郭も定かでないような状態でも、関係者は「木だから響きが良い」などと信じ込んで自慢さえしているような場合もあるようです。

必要なのは発音された音を響きとして増幅させることと同時に、そのあと、その音がどのように収束されるかという点にも注意を向けるべきだろうと思います。
上記のふたつはその点、すなわち増幅と収束が優れていると思いました。
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イスの高さ調整

週末は内輪の練習会に参加しました。

会場へのアクセスがひじょうにわかりにくいところだったために、各々はネットなどを使って参集しましたが、やはり心配した通り、ストレートに来られない人などもいて揃うのに少々時間を要しました。

マロニエ君はこのところろくに練習らしい練習もしておらず、さらには人前でピアノを弾くことに対する苦手意識がまたしても再燃してきていましたので、今回はピアノを弾くつもりはなく、それでも予備的に楽譜だけはちょっとバッグに偲ばせての参加となりました。

この会場の素晴らしさはすでに何度かこのブログに書きましたので敢えて繰り返しませんが、たくさんの絵画に囲まれた会場の雰囲気、さらにその響きと古い名器のピアノが醸し出す絶妙な音色は、心安んずる清澄な空間でした。
そして、空間の響き如何も楽器のうちだとつくづく思いました。

どんなに良いピアノでも、響きの悪い場所におけばその魅力は半減です。
ましてや防音室などにピアノを入れるのは、もちろん現実的な面で致し方のないことで、それを好んでやっている人はいないと思いますが、それでもやはり楽器の魅力を敢えて封じ込めてしまう、響きの面からだけ言えばなんとも残念な現実だと思います。

音響のよい空間では、ちょっとCDなどをかけても、それがべつに大した再生装置やスピーカーでなくても、出てきた音が空間の響きに助けられて、とても素晴らしい音となって聴く者の心を潤してくれますから、ある意味でこれに勝るものはないかもしれません。

この会場にはヴァージナルというチェンバロの一種ともいえる楽器のレプリカもあるのですが、その繊細な音色も、もちろんこの会場の好ましい響きもあって、意外なほど耳に迫る音色を発していたのが印象的でした。

今回ちょっと残念だったのは、このヴァージナルとピアノが同時に別の曲を弾かれてしまったということでした。
いやしくも楽器を弾く人は、楽器の音が汚い騒音になるような心ないことだけは厳に慎みたいものです。

さて、弾かないつもりでいたマロニエ君でしたが、とうとう一曲だけ弾くハメになり、まことにお粗末な演奏を披露することになりました。
そのとき思ったのですが、椅子の高さがやや気になったものの、ちょっと弾くだけのためにおごそかにダイヤルをグルグル回して高さを調整するのも躊躇われ、まあいいや…という気で弾いたのですが、これがとんでもない失敗でした。

普段のマロニエ君の椅子よりは少々高めだったのですが、慣れないピアノである上に、お尻の高さが違うというのは、猛烈な違和感となり、それで気分的にもガタガタに崩れてしまいました。
個人差もあるとは思いますが、やはり椅子の高さというのはマロニエ君にとっては予想以上に大事なことで、ここを疎かにするととんでもないことになるという、いい教訓になりました。

その点でいうと、ピアノクラブのように多人数で代わるがわるピアノを弾く場合は、背もたれ付きのトムソン椅子であるほうが高さも瞬時に変えられるので適しているようです。
昨日はあいにくダイヤルを回すタイプなので、面倒臭くてなかなか調整まではしませんでした。

自宅では生意気にもコンサートベンチを使っていますが、マロニエ君以外にピアノを弾く者はいないので、いつでも自分にちょうど良い高さになっており、それが当たり前のようになっていたこともあり、こういうちょっとしたことが変わるだけでも、冷や汗が出るほど焦ってしまいました。
とりわけ、低すぎるより高すぎるほうが個人的にダメだということを肝に銘じたしだいです。

こんなことがあると、ますます人前で弾くのが恐くなるばかりですが、そこは自分の性格もあるでしょうから、こればっかりは変えようもないので仕方がありません。
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