表情過多

昨年6月にパリのサル・プレイエルでおこなわれたパリ管弦楽団演奏会の様子が放送されました。
指揮は日本人の若手で注目を集める(らしい)山田和樹で、曲はルスランとリュドミーラ序曲、ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの悲愴というオールロシアプログラム。

山田さんは芸大の出身で小林研一郎の弟子、2009年のブザンソンコンクールの優勝者とのことで、このコンクールで優勝する日本人は意外に少なくなく、その中で最も有名なのが小沢征爾だろうと思います。

マロニエ君は実は山田さんの指揮を目にするのは(聴くのも)初めてだったのですが、いろいろな感想をもちました。演奏は、現代の若手らしく精緻で隅々にまで神経の行き届いた、いかにもクオリティの高いものだと思いますし、とくにこの日はロシア物とあってか、パリ管も最大級の編成でステージに奏者達があふれていましたが、その演奏は完全に山田さんによって掌握されたもので、どこにも隙のない引き締まった演奏だったと思います。とりわけアンサンブルの見事さは特筆すべきものがあったと思います。

ただ、そこに音楽的な魅力があったかということになると、少なくともマロニエ君にはとくにこれといった格別の印象はなく、悲愴などでは、どこもかしこも、あまりに細部まで注意深く正確に演奏しすぎることで流れが滞り、これほどの有名曲にもかかわらず、却ってどこを聴いているのかわからなくなってくるような瞬間がしばしばありました。
そういう意味では、山田さんに限ったことではないかもしれませんが、今どきの演奏はクオリティ重視のあまり作品の大きな輪郭とか全体像というような点に於いては逆にメリハリの乏しいものに陥ってしまっている気がします。ひたすらきれいに仕上がったピカピカの立派なものを見せられているようで、もっと率直に本能的に音楽を聴いて、その演奏に心がのせられてどこかに連れて行かれるような喜びがない。

ちょっと気になったのは、山田さんの指揮するときのペルソナは、いささか過剰ではないかと思えるような情熱的・陶酔的な表情の連続で、これは少々やりすぎな気がしました。
指揮の仕方もどこか師匠の小林研一郎風ですが、彼の風貌および年齢ではそれが板に付かないためか演技的になり、いちいち目配せして各パートを指さしたり、恍惚や苦悩、歓喜や泣き顔などの連発で、いかにも音楽しているという自意識が相当に働いているようで、あまり好感は得られませんでした。

マロニエ君の私見ですが、そもそも演奏中の仕草や顔の表情が過剰な人というのは、パッと見はいかにも音楽に没頭し、味わい深い誠実な演奏表現をしているように見えがちですが、実際に出てくる音楽とは裏腹な場合が少なくありません。ヨー・ヨー・マ、小山実稚恵、ラン・ランなど、どれも音だけで聴いてみるとそれほどの表情を必要とするほどの熱い演奏とは思えず、むしろビジュアルで強引に聴衆の目を引き寄せる役者のようにも感じてしまいます。
小山さんなども、その表情だけを見ていると、あたかも音楽の内奥に迫り、いかにも深いところに没入しているかのようですが、実際はサバサバと事務仕事でも片づけるようなドライな演奏で、その齟齬のほうに驚かされます。

ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲では、ジャン・イヴ・ティボーデが登場しましたが、このピアニストもこの曲も、昔からあまりマロニエ君の好みではないので、とりあえずお付き合い気分で第1楽章だけ聴きましたが、あとは悲愴へ早送りしてしまいました。
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驚愕の模型

模型を作る人達のことを、俗に「モデラー」というようですが、この人達の作り出す作品の凄さには、子供のころから人一倍強い憧れを持っていたマロニエ君です。
どれほどガラスケースの外側からため息を漏らしたことか…。

マロニエ君はもっぱら完成したものを眺め尽くすのが好きなクチで、とても自分からその世界に入って、自らから挑戦してみようなどと思ったことはありませんでした。これはきっと自分の特性には合わない世界であり、たぶん無理だということを本能的に感じていたからだろうと思います。

それでも、飛行機やお城などの完成模型を欲しいと思ったことは何度あったか。でも完成模型というのはいつも「非売品」で買ったことは一度もありませんし、もし売られることがあっても、相当に高額なものになるに違いないでしょう。
いちおうはプラモデルなども相当数作りましたが、その出来はとても自分が満足できるようなものではありませんし、それでも自分の技術を高めようという思いにはついに至りませんでした。

あるとき、なにげなくネットを見ていると、「ピアノを作ろう!」というブログに行き当たりました。これまでに見たこともないフレーズで、しかも「1/10で」となっているのは、はじめは何のことやらまったく要領を得ませんでした。

さっそく見てみると、なんとその方はスタインウェイのD型(コンサートグランド)の1/10のサイズの模型を数年かけて作られたようで、その製作の過程や、完成後の動画などが見られるようになっていましたが、そのあまりにも見事な出来映えには、ただただ驚き、感銘さえ覚えました。
ディテールなどもここまでできるものかと思うほど忠実で、ぱっと見た感じは、写真の撮り方によっては本物に見えてしまう可能性が十二分にあるほど、それは抜群によくできています。

もちろんプラモデルなどではなく、すべて自分で型を取るなどされて、100%手作りによってここまで完成度の高いものが作り出せるという、その技と情熱には驚きと敬服が交錯するばかりです。
ここまで精巧なピアノの模型というのは初めて見ましたが、これまでのマロニエ君の経験では、よくできた車や飛行機の模型でさえ、ディテールの細かな形状が不正確であったり、全体のシルエットにちょっと違和感があったりと「残念」が散見されるのが普通ですが、このスタインウェイにはまったくそういったところがないのです。

なんでも一台完成させるのに5年近くを要されたとのことで、それも驚きですが、その作品は完成後まもなくさるピアニストのところへ行ってしまい、現在は2台目を制作中とのことですが、その制作過程からも窺える見事さにはまったく呆れるほかはありません。

さっそくその作者の方と連絡を取って、リンクの承諾を得ていますので、論より証拠、どうぞみなさんもその素晴らしい作品をみてください。
リンクページの一番下に『ピアノを作ろう!1/10で』というのがあります。
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ウインドウズの恐怖

マロニエ君はパソコンはもともとマックでスタートを切ったということもあり、もうずいぶん長いことマックユーザーなのですが、数年前から事情があってウインドウズも少し使うようになりました。

このピアノぴあのホームページは、開設時たまたまウインドウズを使っている友人がお膳立てをしてくれたために、あえて不慣れなウインドウズがベースになりました。

これが今考えても出だしを誤ったと思われてなりません。
以前も書いたかもしれませんが、マックユーザーにとってのウインドウズというのは、これほど使いにくいものはなく、マロニエ君も使い始めから早3年以上が経ちますが、いまもって勝手がわからず、できる限りはマックを使っていますが、ホームページに関してはどうしてもウインドウズを使わなくてはなりません。

そのウインドウズでは、インターネットエクスプロラーを使っているのですが、今年の梅雨頃だったと思いますが、何の前触れもなく、とつぜんホームページの更新ができなくなりました。
はじめは何がどうなったのやら訳がわからず、パソコンの前で自分なりにずいぶん格闘しましたが、ようやくわかったことは、インターネットエクスプロラーのバージョンが新しくなってしまっているようで、そのために突如環境が変わり、ホームページの更新機能などが一斉に停止してしまったのでした。

パソコンのメーカーのサポートセンターなどにも何度電話したかわかりません。
みなさんもよくご承知だと思いますが、近ごろは名前こそサポートセンターなんぞと頼もしげな名前がついていますが、一度電話するだけでもこれが一苦労です。しかも、基本的には故障やトラブルはメールで質問して、メールで回答を得るというスタイルのようですが、緊急の時にそんなまだるっこしいことはやっていられないし、だいいちパソコンなどがめっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、適切な言葉で今自分が立ち至っている症状を書き綴ってメールにするなんてとてもできません。

そこで「何が何でも電話」ということになるわけですが、それがまた番号を調べて、音声ガイダンスとやらでいくつもの段階をくぐり抜けて、いよいよオペレーターと会話ができる状態に漕ぎ着けるまでが大変です。
おまけに会話は「録音されている」というのですからたまりません。

必死に状況説明を繰り返すもなかなか原因がわからず、ついにはパソコンを異常になる以前の状態に戻すべく、「修復」という作業を、電話で逐一指示を受けながら操作すると、たいそうな時間を要した挙げ句にパソコンは数日前の状態に戻り、やっと解決したかに思えました。

ところが悪夢はまだまだ続きます。夜中になると、なにやら潜水艦みたいな変な音がポヮーンとしてパソコンを開くと、またおかしな状態に戻ってしまっています。これが5、6回も続くと、さすがに神経がおかしくなりそうでした。
要は、インターネットエクスプロラーは新しいバージョンを、ユーザーへの通告も断りも選択の余地も無しに、一方的かつ強制的にバージョンアップしていたわけで、それによって否応なしに環境が変わってしまい、甚だ不本意な状況に追い込まれてしまうのでした。これをどうするかという対策はもはやマロニエ君の能力を大きく超えてしまっていたのです。

結局は、友人に自宅に来てもらい、アンインストールとやらの設定とかいうのをやってもらいましたが、それはというと普段見たこともないような専門的な画面での専門的な操作による設定で、こんなにも大変な処置をする必要があることを勝手に自動更新するなんて、まったく信じられませんでした。

その後もまた別件でトラブル発生、この解決にも大変な労力を要することとなり、ほとほとマロニエ君とウインドウズは相性がよくないようです。
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CXシリーズ

ヤマハのグランドピアノのレギュラーシリーズとして、長年親しまれてきたCシリーズがこのほどモデルチェンジを行い、新たに「CXシリーズ」として発売開始されたようです。

サイズごとの数字がCとXの間に割って入り、C3X、C7Xという呼び方になりました。
外観デザインも何十年ぶりかで変更になり、鍵盤両サイドの椀木の形状はじめ、足やペダル部分のデザインはCFXに準じたものとなっています。個人的にはどう見ても(登場から2年経ちますが)美しさがわからないあのデザインがヤマハの新しいトレンドとなって、今後ラインナップ全体に広がっていくのかと思うと、なんとはなしに複雑な気分になってしまいます。

先週ヤマハに行ったとき、はやくもこの新シリーズの人気サイズになるであろうC3Xの現物を目にしたのですが、正直いってあまりしっくりきませんでした。
しかも一見CFシリーズと同じデザインのように見せていますが、よく見ると椀木(鍵盤の両脇)のカーブはえらく鈍重で、足も、ペダルの周辺も微妙に形が違っており、これはあくまでレギュラーモデルであることを静かに、しかしはっきりと差別化されていることがわかります。
決してCFシリーズと同じディテール形状なのではなく、あくまで「CFシリーズ風に見せかけたもの」でしかないことは事実です。

いずれにしろ、新型の意匠はどことなく、今やヤマハの子会社であるベーゼンドルファー風であり、より直接的に酷似しているのはドイツのグロトリアンのような気がします。
とりわけヤマハのC6Xとグロトリアンの同等サイズ(チャリス)、C7Xと同等サイズ(コンチェルト)は全体のフォルムまでハッとするほど似ているとマロニエ君には思われて仕方がありません。

もうひとつ、C3Xの現物の内部をのぞいてドキッとしたのがフレームの色でした。近年のヤマハのグランドのフレームは、シックで美しい金色だったのですが、それがCXシリーズでは、一気に赤みの強い金になり、この点も弦楽器のニスの色に近いとされるベーゼンドルファーの色づかいをヒントにしたのかとも思ってしまいますが、それにしても色があまりにもハデで、ちょっと戸惑います。

この色、見たときまっ先に連想したのは、ウィーンの出自という名目で、現在は中国のハイルンピアノで生産されている格安ピアノのウエンドル&ラングのそれでした。
ウエンドル&ラングの赤味の強いフレーム色は、中国的なのか、ちょっと日本人には抵抗のある色だと思っていたところへ、なんとヤマハが似たような色になったのは驚きでした。

全体的には、そこここに昔(Cシリーズ)のままの部分も多く、マロニエ君の目には要するにちぐはぐで中途半端な印象でしかなく、なんとなく釈然としないものを感じるばかりでした。
なかでも足の形などは、シンプルというより、ただの3本の棒がボディを支えて、下には車輪がついているだけのようで、その造形の良さや狙いが那辺にあるのか、これはデザインなのかコストダウンなのか、一向に理解できないでいます。

本当にその気があれば、もっとヤマハらしい個性に沿った美しいピアノのデザインというものはいくらでも作り出せたのでは…と思うと残念です。
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診断力

ピアノ好きの知人が、自宅のスタインウェイの調整に新しい技術者の方を呼ばれることになり、その作業の見学にということでマロニエ君もご招待をいただいたので日曜に行ってきました。

狭い業界のことなので、あまり具体的なことは書けませんが、その方はお仕事のベースは福岡ではなく、依頼がある毎にあちこちへと出向いて行かれるとのことでしたが、地元でもいくつものホールピアノを保守管理されている由で、周りからの信頼も厚い方のようでした。

作業開始早々から、あまり張り付いて邪魔をしてもいけないと思い、マロニエ君は4時過ぎぐらいから知人宅へと赴きましたが、到着したときはすでに作業もたけなわといったところでした。
はじめてお会いする技術者さんですが、事前にマロニエ君が行くことは伝わっていたらしく、とても快く受け容れてくださり、作業をしながらいろいろと興味深い話を聞くことができました。

また、このお宅にあるピアノに対する見立てもなるほどと思わせられるところがいくつもあり、当然ながらその診断によって作業計画が立てられ、仕事が進められるのは云うまでもありません。つくづくと思ったことは、技術者たる者のまずもって大切な事は、何が、どこが、どういう風に問題かという状況判断が、いかに短時間で適切に下せるかというところだと思いました。
作業の内容や方向は、すべてこの初期判断に左右されるからです。

どんなに素晴らしい作業技術の持ち主であろうと、事前に問題を正しく見抜く診断能力が機能しなくては、せっかくの技術も意味をなしません。いまだから云いますが、マロニエ君も昔はずいぶん無駄な労力というか、不適切だと思われる作業を繰り返されて、こんな筈では…とさんざん苦しんだこともありました。そんなことをいくら続けても、決して良い結果は得られるものではないのですが、技術者というものは誰しも自分のやり方やプライドがあり、とりわけ名人と言われるような人ほどそうなので、そういうときは無理な要求はせず、思い切って人を変えるしか手立てはありません。

ピアノに限りませんが、技術者が問題点を見誤って、見当違いの作業をしても、依頼者はシロウトでそれを正す力も知識もないまま、納得できない結果を受け容れる以外にありません。少しぐらい疑問点をぶつけても、相手はいちおうプロですから、あれこれと専門用語を並べて抗弁されると、とてもかないませんし、おまけに「仕事」をした以上、依頼者は料金を支払う羽目になるわけで、こういう成り行きは甚だおもしろくありません。

そういう意味では、技術者の技術の第一のポイントは「診断力」であるといっても過言ではないと思われます。これさえ正しければ、結果はそれなりについてくるように思われます。とりわけ専門的に鍛え上げられた鋭い耳と、指先が捉えるタッチの精妙さは(ピアノの演奏はできなくても)、いずれも高度に研ぎ澄まされたカミソリのようでなくてはならないと思いました。

それなくしては、作業の目的も意味も立ちませんし、これを取り違えると核心から外れた作業をせっせとすることになりますが、この日お会いした方は、この点でまずなかなかの鋭い眼力をお持ちのようにお見受けしました。
驚いたことは、調律の奥義の部分になると、使う工具(チューニングハンマー)によって、作り出す音が変わってくるということでした。なんとも不思議ですが、きっとチューニングハンマーにも「タッチ感」みたいなものがあるんでしょうね。

素晴らしいピアノ技術者さんと新たに知り合うことができたことは望外の喜びですし、それはピアノを弾く者にとってはなによりも心強い存在で、有意義な一日でした。
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アヴデーエワ追記

ユリアンナ・アヴデーエワのことを商業主義に走らない本物のピアニストと見受けましたが、それはショパンコンクール後の彼女の動静を見てもわかってくるような気がします。

大半のピアニストはコンクールに入賞して一定の知名度を得たとたん、このときを待っていたとばかりに猛烈なコンサート活動を始動させ、大衆が喜びそうな名曲をひっさげて世界中を飛び回り始めます。中でも優勝者は一層その傾向が強くなります。そして大手のレコード会社からは、一介のコンクール出場者から一躍稼げるピアニストへと転身した証のごとく、いかにもな内容のCDが発売されるのが通例です。

ところが、アヴデーエワにはまったくそのような気配がありません。
コンサートはそれなりにやっているようですが、他の人に較べると、その内容は熟考され数も制限しているように見受けられますし、CDに至っては、まだ彼女の正式な録音と言えるものは皆無で、どこかのレーベルと契約したという話も聞こえてきません。
すでにショパンコンクールの優勝から2年が経つというのに、これは極めて異例のことだといえるでしょう。同コンクールに優勝後、待ち構えるステージに背を向けて、もっぱら自らの研鑽に励んだというポリーニを思い出してしまいます。しかもポリーニのように頑なまでのストイシズムでもないところが、アヴデーエワの自然さを失わない自我を感じさせられます。

とりわけ現代のような過当競争社会の中で、ショパンコンクールに優勝しながら、商業主義を排し、自分のやりたいようなスタイルで納得のいく演奏を続けていくというのは、口で言うのは簡単ですが、実際なかなかできることではありません。それには、よほどのゆるぎない信念が不可欠で、芸術家としての道義のあらわれのようにも思われます。

選ぶピアノもしかりで、ショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾き続けた彼女でしたし、ヤマハを弾いて優勝者が出たというのも同コンクール史上初のできごとでした。折しもヤマハは新型のCFXを作り上げ、国際舞台にデビューさせたとたんヤマハによる優勝でしたから、きっと同社の人達は嬉しさと興奮に身震いしたことでしょう。これから先は、この人がヤマハの広告塔のようになるのかと思うと、内心ちょっとうんざりしましたが、事実はまったく違っていました。
まさかヤマハがさまざなオファーをもちかけなかったというのは、ちょっと常識では考えにくいので、アヴデーエワがそれを望まなかったとしか考えられません。

事実、コンクール直後の来日コンサートをはじめとして、その後のほとんどの日本公演では、さぞかし最高に整えられたCFXが彼女を待ち構えているものと思いきや、なんと予想に反してスタインウェイばかり弾いています。あれだけヤマハを弾いて優勝までしたピアニストが、ヤマハの母国にやって来てスタインウェイを弾くというのも見方によっては挑戦的な光景にさえ見えたものです。
さりとて、まったくヤマハを弾かないというのでもないようで、要するにいろいろな事柄に縛られて、ピアニストとしての自分が無用の制限を受けたくない、楽器もあくまで自由に選びたいということなんだろうと思います。
現に昨年の日本公演の重量級のプログラムなどは、ヤマハではちょっと厳しかっただろうと思われ、スタインウェイであったことはいかにも妥当な選択だった思います。

これはピアニストとして最も理想的というか、本来なら当たり前の在り方だと思いますが、それを実行していくのは並大抵ではない筈で、アヴデーエワがまだ20歳代のようやく後半に差しかかった年齢であることを考えると、ただただ大したものだと思うしかありません。
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感動のアヴデーエワ

一昨年のショパンコンクールの映像やCDを見聞きしてもピンとくるものがなく、さらには優勝後すぐに来日してN響と共演したショパンの1番のコンチェルトを聴いたときには、ますますどこがいいのか理解に苦しんだユリアンナ・アヴデーエワですが、彼女に対する評価が見事にひっくり返りました。

BSで放送された昨年11月の東京オペラシティ・コンサートホールでのリサイタルときたら、そんなマイナスの要因が一夜にして吹っ飛んでしまうほどの圧倒的なものでした。

曲目はラヴェルのソナチネ、プロコフィエフのソナタ第2番、リスト編曲のタンホイザー序曲、チャイコフスキーの瞑想曲。当日はこのほかにもショパンのバルカローレやソナタ第2番を弾いたようですが、テレビで放映されたのはすべてショパン以外の作品で、そこがまたよかったと思われます。

どれもが甲乙つけがたいお見事という他はない演奏で、久々に感銘と驚愕を行ったり来たりしました。やはりロシアは健在というべきか、最近では珍しいほどの大器です。

あたかも太い背骨が貫いているような圧倒的なテクニックが土台にあり、そこに知的で落ち着きのある作品の見通しの良さが広がります。
さらには天性のものとも思える(ラテン的でも野性的でもない)確かなビート感があって、どんな場合にも曲調やテンポが乱れることがまったくない。政治家の口癖ではないけれども、彼女のピアノこそ「ブレない」。

どの曲が特によかったと言おうにも、それがどうしても言えないほど、どの作品も第一級のすぐれた演奏で、まさに彼女は次世代を担うピアニストの中心的な存在になると確信しました。
こういう演奏を聴くと、ショパンコンクールでのパッとしない感じは何だったのだろう…と思いつつ、それでも審査員のお歴々が彼女を優勝者として選び出した判断はまったく正しいものだったと今は断然思えるし、やはり現場に於いてはそれを見極めることができたのだろうと思います。

アヴデーエワに較べたら、彼女以外のファイナリストなんて、ピアニストとしての潜在力としてみたらまったく格が違うと言わざるを得ません。その後別の大コンクールで優勝した青年なども、まったく近づくことさえできないようなクラスの違いをまざまざと感じさせ、成熟した大人の演奏を自分のペースで披露しているのだと思います。

彼女の演奏は、ピアノというよりも、もっと大きな枠組みでの音楽然としたものに溢れていて、器楽奏者というよりも、どことなく演奏を設計監督する指揮者のような印象さえありました。
良い意味での男性的とも云える構成力の素晴らしさがあり、同時に女性ならではのやさしみもあり、あの黒のパンツスーツ姿がようやく納得のいく出で立ちとして了解できるような気になりました。

さらには、いかなる場合にもやわらかさを失わない強靱な深いタッチは呆れるばかりで、どんなにフォルテッシモになっても音が割れることもないし、弱音のコントロールも思うがまま。しかも基本的には、きわめて充実して楽器を鳴らしていて、聴く者を圧倒する力量が漲っていました。芯のない音しか出せないのを、叩きつけない音楽重視の演奏のようなフリをしているあまたのピアニストとはまったく違う、本物の、心と腹の両方に迫ってくる大型ピアニストでありました。

それにしても、他のピアニストは大コンクールに入賞すると、ぞくぞくとメジャーレーベルと契約して新譜が発売されるのに、アヴデーエワはショパンコンクールのライブと、東日本大震災チャリティーのために急遽作られたライブCD以外には、未だこれといった録音がなく、そのあたりからして他の商業主義と手を結びたがるイージーなピアニストとは一線を画していて、あくまでも独自の道を歩んでいるようです。

ああ、実演を聴いてみたい…。
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オーディオ道

オーディオにほとんど興味のないマロニエ君でしたが、今年は降って湧いたような自作スピーカーという課題ができてからというもの、俄にこのジャンルに興味を持つようになりました。

もちろんこのジャンルなどと一人前のことを云っても、たかだか自作スピーカーを中心とするその周辺のことに限定されていて、何十万何百万といった高級機器なんぞは自分にはまったくご縁のないものとして見向きもしておらず、あくまでも現実的な安物の範囲の話です。

ただし、昔からそうでしたが、オーディオの世界ばかりは高級品さえ買っておけば、その価格に応じて音質が段階的に間違いなく上がっていくのかというと、これはまったくそうとも云えない難しさを持っていて、このあたりの実情は現代でもさほど変わっていないようです。

もちろん、基本的には安物は安物で、それなりの音しかしないでしょうし、高級品も同様にそれなりの製品になると、それなりの音が出るという原則はあるでしょう。
ただし、そこには設計者の思想や理念もあれば、聴く側の主観や好みもあるし、組み合わせる機器の間に生まれる相性や、部屋の環境、聴く音楽のジャンルなど、そこにはもろもろの要素がそれこそ無限大に絡み合っていて、これが絶対という答えが永久にないだけに、そこがオーディオの奥深さにも繋がっているようです。

とくに高級品になればなるほど、その音の違いと価格差は甚だ曖昧かつ微細な領域に突入し、それだけの客観的な価値を見出すのは極めて難しいものとなっていくでしょう。
しかし、低価格帯ではある程度、価格と品質の関係というのは信頼に足るものがあり、たとえば2万円のスピーカーと10万円のスピーカーを較べたなら、ほとんどの場合は後者のほうがまず優れていると思われます。
しかし、これが高級品の世界になると、100万のアンプより300万のアンプのほうが確実に素晴らしいのかというと、これは一概に何ともいえない世界になるようです。

スピーカーも然りで、オーディオは高級品の世界になればなるほど、道楽の様相を一気に帯びてきて、それこそそれなりの経済力があって、この世界に足を取られてしまうと、まさに湯水のごとくお金を使ってしまうようです。最後には、オーディオの能力を発揮させることを前提にした家を造ったりすることにも及ぶようで、まさに終わりのない世界です。

しかも絶対というものはなく、たえず何らかの不満が残り、どこまでやっても「妥協」という文字から解放されることはないようです。

だからかどうかはわかりませんが、そんな頂上決戦の真逆を行くのが、チープなものを掻き集めて、いかに尤もらしい音を出すかという挑戦が昔からあって、マロニエ君にしてみればマニア道としても、こっちのほうがよほど無邪気であるし、知恵を絞り、アイデアを紡ぎ、失敗に笑い、発見に喜び、どれだけ面白いかと思っていますが、それは貧乏人の言い訳なのでしょうか…。
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テレビの不思議

台風16号が沖縄本島に上陸、さらに北上を続けているとのことですが、台風情報を見ようにもテレビでは決まりきった天気予報やニュースの一部以外ではなかなかその情報が得られません。

こんなときしみじみと感じるのは、そもそもテレビというものは、どうでもいいようなことはまたかと思うほど繰り返し放送するくせに、こちらが必要とする肝心なものはほとんど放送されないという矛盾です。

自然災害など、終わった後はえらく盛大に報じられますが、台風のような今まさにこちらに向かって近づいてくる危険に関しては何故こうも情報が最小限で不親切なのかと思います。

今回の台風は「猛烈な大型台風」「瞬間風速は最大75m」といいますから、こんなものがこっちに向かってやって来ると思うと身も縮む思いになりますが、テレビのどのチャンネルを見てもほとんどそれらしいことは伝えておらず、すまして平常通りの番組が放送されているだけです。

NHKもまったく同様で、台風なんぞまるで消えて無くなったかのような知らん顔状態なのには呆れてしまいましたが、夜になってかろうじて総合だけが、申し訳程度に台風情報を流し始めたのみです。
どうかすると、せっかく録画した映画や音楽番組にも、遠く離れた地で小さな地震が発生したというようなテロップが出てきて、大事な画面が台無しになってしまうことがしばしばなのは多くの方が経験されていることだと思います。

しかも、ひとたびこれが出はじめると、その無粋な文字は何度も何度も繰り返し画面に表示され、そのしつこさといったらありません。
それでも、NHKなどは公共放送であるという性質でもあるのでしょうから、そこは諦めて我慢しているわけですが、自分のいるエリアが実際的な危険にさらされる恐れがあって、くわしい状況を知りたいと思っても、その情報がほとんど得られないのはまったく腑に落ちない気分です。

少なくともよほど注意して天気予報やニュースを待ち構えていないかぎり、台風情報などはほとんど伝えられないのが実情だということがよくわかりました。

要するにテレビは、済んでしまったことを後から殊勝な調子で報告するだけのメディアではないかと思いましたが、こんなことを書いている間に外は次第に風がザワザワしはじめたようです。
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ノラや2

動物好きにとって、自分で飼って生活を共にしている動物というのは、まさに家族同様の存在で、ときにその存在の大切さは人間以上のものにさえなってしまうこともないことではありません。

お隣の犬猫ハウスから猫がいなくなったという必死な捜索の電話があってからしばらくすると、今度は新聞紙面で、市内の方のビーグル犬がいなくなったとのことで、写真付きの捜索の広告が出ているのを見て思わず胸が塞がりました。

興味のない人からすれば、たかだか犬猫にそこまで必死になることを、愚かで馬鹿らしいことのように感じられるかもしれませんが、飼い主にしてみれば、それは家族を失うことに匹敵するような出来事で、さぞかし沈痛な毎日を送っておられるだろうと思います。

この新聞広告というところから、また内田百聞の「ノラや」を思い出したわけですが、高い新聞掲載料を払ってでもこのような広告を出した時点で、すでにかなりの時間が経過しているのでしょうし、八方手を尽くした挙げ句の苦渋の決断だろうと思われます。
おそらくは、めでたく見つかって飼い主のもとに戻ってくる可能性は極めて低いとマロニエ君は内心思ってしまい、それがまたいよいよお気の毒なところです。

すでに、この新聞広告は2度、目にしていて飼い主の方の悲痛な心の裡が忍ばれます。
なんでも、ある女性がこの犬を連れ去るところを見たという目撃証言があるのだそうで、写真を見てもなかなか器量好しのビーグルでしたので、そういう証言があるところをみると、心ない人によって連れ去られたのだろうとも想像します。

この広告が「犯人」の良心に訴えるものがあって、もとの飼い主へ返そうという気分になってくれたらそれに越したことはないのですが、なかなかそうはならないだろうと思われます。
相手が動物とはいえ「誘拐」もしくは「盗み」という悪事をはたらいておいて、いまさら名乗り出るのは引っ込みがつかないという心理があるでしょうし、動物は飼い始めるとじきに愛情愛着がわいてきますから、エゴであっても手放すこともできなくなるという事情があるだろうと思います。

警察に届けても、犬猫は飼い主にとってはどんなに家族同様でも、法的にはモノとしか扱ってもらえないのだそうで、そこがまた悲しいところです。
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楽器と同じ

このブログの8月21日に書いた塩ビ管スピーカーは、ネットを見ると、ずいぶんたくさんの人が作っているように思えますが、マロニエ君のまわりには自作はおろか、御本家のYoshii9の存在すら知らない人が圧倒的ですから、やはり全体としてみれば今どきオーディオなどというものは、ごくごく少数のマニアだけが騒いでいるだけのことかもしれません。

昔は、オーディオマニアは決して珍しい部類ではなく、電気店に行っても、オーディオ売り場は一種独特のハイグレードな空気があってひときわ魅力あるカテゴリーのひとつでしたが、最近はすっかり衰退して、かなり隅っこに追いやられてしまっています。
やはり今は音楽分野もネットやiPodのたぐいが主流で、オーディオそのものが世の中の関心事から大きく遠ざかってしまっているようですが、それでも、本当に音楽を聞き込もうとする欲求と姿勢がある人なら、小さなイヤホンを耳にひっかけるだけでは事は済まないはずで、最低限のオーディオ機器は絶対不可欠だとマロニエ君は思います。

これはどんなにすばらしい電子ピアノが登場しても、生ピアノから得られる喜びや感動を超えることは出来ないことにも通じることのような気がします。

さて、その塩ビ管スピーカーの名前の由来ですが、小さなスピーカーユニットを先端に乗せるための細長い筒の材質のことで、塩ビ管とは、すなわち配水管などに使われるネズミ色の塩化ビニールのパイプ(管)を使ってスピーカーを作ることから、この名前が生まれ、やがて定着したようです。

長さ1m、直径わずか10cm前後の筒を垂直に立てて、その先端に8cmほどのフルレンジのスピーカーが乗っているという形状で、通常のスピーカー同様に左右2つで一対になるわけですが、なにも知らないと、パッと目はスピーカーに見えることはなく、新型の空気清浄機とかちょっと変わった照明器具のように見えるかもしれません。

マロニエ君も、柄にもなくすっかり作ってみる気になり、だいぶあれこれ調査しましたが、このスピーカーのいわばボディにあたるパイプの部分は、使う材質によっても音がずいぶん変わってくるらしいことがわかりました。
塩ビ管は要するにプラスチックで、ホームセンタなどわりに簡単に手に入る上、安いのが魅力ですが、硬度の関係から音がやや柔らかめでクリア感には乏しいようです。

塩ビ管以外にも、あえて硬い紙の筒を使って作る人もいるようですし、硬さの点からアルミ管やアクリル管という選択肢もあるようですが、こちらは塩ビ管に較べるといささか値が張ります。
御本家Yoshii9は何を使っているかというと、これもネットで知り得たところではアルミだそうですが、それにさらに特殊な処理が施されていて、それもあの美しい音に一役買っているものと思われます。

塩ビ管には塩ビ管なりの味わいがあるらしく、これはこれで奥の深い世界なんだそうですが、Yoshii9の素晴らしさのひとつがすっきりとした音のクリア感にあるので、やはりここは硬さのある材質が望ましいように思われます。その点ではアクリルもいいらしいのですが、アクリルは万一倒したりした場合、割れたりヒビが入るということもあるらしいので、そのあたりも考えあわせてマロニエ君の第一作としてはアルミ管とすることにしました。

基本となるスピーカーユニットの選択、パイプ部分の材質、中の構造物など、これはまさに楽器の構成要素にも大いに通じるところがあって、それをどのように組み合わせて、どんな音を引き出すか、これは考え始めると相当おもしろい体験になるような気がしています。
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ノラや

我が家のとなりには、昔の家でいう物置小屋ほどもある大きな犬小屋があります。

それというのも隣家のガレージがいつのまにか犬小屋となり、もう長いこと、そこを近所の愛犬家が借りているのです。
中では数匹の犬猫が飼われていますが、飼い主はここから少し離れたところにお住いで、毎日、夕方になると散歩をはじめエサやら掃除やらで、必ずやってきては懸命にお世話をされています。

今年の夏、そのガレージが建て替えられて、より大きく立派な犬舎に生まれ変わりました。
新築の住まいを与えられて、飼われている犬猫たちもさぞ喜んでいることだろうと思っていたところ、先日その飼い主さんから電話があり、その中の猫が一匹いなくなって、もうずいぶん探し回っておられるようですが、いまだに見つからないとのこと。

特徴などを知らされ、見かけた折には一報をと頼まれ、もちろん快諾したのはいうまでもありませんが、猫の場合、いったんいなくなって帰ってきたという話はなかなか聞いたことがなく、そこが必ず飼い主のもとに帰ろうとする犬と猫の最大の違いのようにも思われます。
猫は猫なりに、人になついているのだと思われますが、犬のそれのようにまっしぐらなものではなく、一捻りも二捻りもある愛情の持ち方のようでもあるし、そもそも猫には犬に備わっているような方向感覚なんかも少し弱いのかもしれないと思ったりもしています。

この話を聞いて思い出したのが、内田百聞(正しくは「聞」ではなく、門構えに月ですが)の作品「ノラや」でした。
野良猫だったノラが内田家にいついてから、だんだん百聞先生の愛情を受けるようになり、日々おいしいものを与えられて、幸福な毎日を過ごしていた真っ只中、いつものように出かけたきりノラは帰ってこなくなり、その悲嘆の顛末を縷々書き記した作品。

来る日も来る日も、夫人とともにノラを探し回る日々が続き、その間、百聞先生ほどの文豪が、心身をすり減らし、涙に明け暮れ、捜索の新聞広告も数度にわたり掲載されますが、月日ばかりが虚しく流れていきます。そして、その悲願も虚しく、ついにノラは帰ってきませんでした。

猫は、人の愛情を受けながらも、どこか勝手気ままで謎の部分が多く、それ故に猫に魅力を感じる人も多いようですが、マロニエ君はやっぱり犬が好きである自分を見出してしまいます。

もちろん一日も早く見つかることを願っていますが、正直言うと難しいだろうなぁと思ってしまいます。そもそも突然いなくなる飼い猫というのは、その後いったい、どこでどんな行動をとっているのか、できればNHKのドキュメントなどで取り上げてほしいテーマです。
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高橋アキ

天神の楽器店でCDの半額コーナーを漁っていると、いくつか目につくものがありましたが、その中から、以前何かで読んで評価が高いとされている高橋アキさんのシューベルトの後期のソナタを発見し、これを購入しました。

シューベルトの後期の3つのソナタとしては、すでに最後のD.960を含むアルバムが先に発売され、今回購入したのはそれに続くもので、その前の後期ソナタ2作であるD.958とD.959でしたから、曲に不足のあろうはずもありません。

また、前作のD.960を含むアルバムは第58回芸術選奨文部化学大臣賞を受賞しているらしく、レーベルはカメラータトウキョウ、プロデューサーはこの世界では有名な井坂紘氏が担当、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、とくに高橋アキさんお気に入りのベーゼンがある三重県総合文化センターで収録が行われたとあって、とりあえず何から何まで一流どころを取り揃えて作り上げられた一枚ということだろうと思います。

というわけで、いやが上にもある一定の期待を込めて再生ボタンを押しましたが、D.958の冒頭のハ短調の和音が開始されるや、ちょっと軽い違和感を覚えました。

まずは、名にし負うカメラータトウキョウの井坂紘氏の仕事とはこんなものかと思うような、縮こまった曇りのある感じのする音で、まるでスッキリしたところがないのには失望しました。マイクが妙に近い感じも受けましたが、インペリアル特有の低音の迫力などはわかるのですが、全体としてのまとまりがなく、ピアノの音もとくに美しさは感じられず、ただ鬱々としているだけのようにしか聞こえませんでした。
もう少し抜けたところのある広がりのある録音がマロニエ君は好みです。

また肝心の高橋アキさんの演奏もまったく自分の趣味ではありませんでした。
後期のソナタということで、それなりの深いものを意識しておられるのかもしれませんが、むやみに慎重に弾くだけで、演奏を通じての音楽的なメッセージ性が乏しく、奏者が何を伝えたいのかさっぱりわかりません。
作品全体を覆っている深い悲しみの中から随所に顔を覗かせるべきあれこれの歌が聞こえてくることもなく、ソナタとしての構成も明確なものとは言い難く、暗く冗長なだけの作品のようにしか感じられなかったのは、まことに残念でした。

全体として感じることは、重く、不必要にゆっくりと演奏を進めている点で、そこには演奏者の解釈や表現というよりは、主観や冒険を避けた、優等生的な演奏が延々と続くばかりで、聴いていて甚だつまらない気分でした。
これでは却って晩年のシューベルトの悲痛な精神世界が描き出されることなく、作品の真価と魅力を出し切れずに終わってしまっていると思いました。

今どきは、しかし、こういう演奏が評論家受けするのかもしれません。
音楽として演奏に芯がないのに、いかにも表向きは意味深長であるかのような演奏をすることが作品の深読みとは思えません。どんなに高く評価されようと、立派な賞をとろうと、聴いてつまらないものはつまらない。これがマロニエ君の音楽を聴く際の自分の尺度です。

高橋アキさんはやはりお得意の現代音楽のほうが、よほど性に合っていらっしゃるように思います。
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ばわい

「言葉は時代とともに移ろいゆくもの」という原則はわかってるつもりでも、このところの言葉の乱れはあんまりで、耳を疑うようなものが多すぎるように感じられてなりません。

とくにテレビは直接生きた言葉が流される媒体なので、放送局は正しい日本語を発信するという役割は極めて大きいはずですが、実際には、ほとんど元凶のごとき役割を果たしているのがテレビであり、唖然とするばかりです。

民放はいうに及ばず、NHKでさえこの点は例外ではなく、なんでもないようなことまで変化が起こっています。
例えば、むかしは当たり前だった「○○するかどうか検討中です」というようなフレーズは今はほとんど消えて無くなり、最近はニュースのアナウンサーなどは、例外なく「○○するか検討中です」「命に別状はないか確認中です」というように変わり、間に「どうか」という副詞(たぶん)が入らなくなってから、言葉はずいぶん乾いた、味わいのない、殺伐とした響きをもって耳に届くようになりました。

また、一種の流行的な使い方なのかもしれませんが、寒い、暑い、旨い、安いというような言葉を使う際にも、今は「寒っ」「暑っ」「旨っ」「安っ」という言い方が大勢を占め始めており、はじめはなんということもなかったようなことが、だんだん耳に障るようになりだしています。

語尾にむやみやたらと「…みたいな」や「…かな?」をくっつけるのなどは、もはや方言を飛び越して日本列島にあまねく定着した観があり、ほとんど共通語のようで、ちょっと不気味でさえあります。

最近、薄々感じはじめていたことで云うと、「場合」を「ばわい」という言い方で、はじめはメールなどの書き込みでちょっとふざけた、可愛気を出した感じの使い方が広まっているぐらいに思っていましたが、なんとテレビ局のキャスターがごく普通にこう言っているし、さらには、れっきとしたアナウンサーが、真面目なニュースを読み上げる際にもこの言い方をするのは、どうかしているんじゃないかと思います。

つい先日なども、電力供給の問題をスタジオで解説する際に、準備されたボードを指し示しながら、大真面目な表情で何度も「このばわいは」「そのばわいは」とあきらかに「わ」と発生していることに愕然とし、もしかしたらこっちの勘違いではないかと、念のため手許にある国語辞典で確認してみましたが、むろん「ばわい」などという日本語があるはずもなく、場合は「ばあい」と明記されています。

さらにこまかく云うと、テレビで聞く「ばわい」の言い方は、それをせめてなめらかに言うならまだしものこと、「わ」を敢えて強調するかのような、「ばウァい」という感じに発音するのには、ほとほと呆れてしまいます。

未来の辞書には場合=「ばわい」(「ばあい」とも)などと書かれるのでしょうか…。
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テレビその後

過日、画面がいきなり暗黒になってしまった我が家のテレビは、アンテナケーブル接続部の不具合という些細なことが原因と判明、めでたく復旧したことは以前書きましたが、実は続きがありました。
メーカーの技術者は画面が復旧したというのに、なにか違う問題にしきりに関心を寄せている様子で、それからまたずいぶんと時間を要して、予想外の第二幕となりました。

てっきり修理完了後の調整や確認をしているのだろうと思っていたのですが、技術者いわく、なんと液晶に異常があるとのことで、そう言われて目を凝らしてみればなるほど、ほんのかすかな筋が左側にあること、また通常の放送画面ではまったくわからないものの、調整のための単色に近い画面にすると、右下にわずかな曇りのようなものがあるとのこと。とくに曇りなどは、言われるまでまったく気づきもしませんでした。

すると、これを要修理と判断したようで、技術者の方は持参してきたノートパソコンを見ながらパーツ類の調達のために電話で会社としきりにやりとりしているようで、こちらが頼みもしないうちから交換のための手はずがどんどん進んでいて、その流れは呆気にとられました。

「部品の準備が出来たらまたご連絡しますので」と言い残してこの日は帰って行かれたのですが、この時点でマロニエ君はそんなことよりもテレビ画面が3日ぶりに復活したことばかりを喜び、そのうち液晶のことなど忘れていました。

数日後、本当に忘れていたら、メーカーから電話があり、準備が出来たのことですぐに来宅され、作業には1時間半ぐらい要するとのことで、そのときはずいぶん大変なんだなあ…ぐらいに思いました。玄関脇にはテレビがそのまま入りそうな大きな段ボールが置いてあり、ちょっと違和感は感じていましたが、礼儀正しく淡々と作業を進めているので、そのまま部屋を後にしました。

2時間近く経過して、やっと作業が終わったと知らされて戻って説明を聞くと、なんと液晶画面をそっくり新品に交換しているほか、メインをはじめとするいくつかの基盤などまで新品に交換されていると聞いたときは驚愕しました。
素人考えでも、ということは、これまで使っていた部分は、主に外枠や背後のカバーなどと思われ、中の主要な部分はほとんど新品になっているようです。

しかもすべて保証扱いですから、こちらの負担こそゼロなんですが、なんとも大胆なことをするもんだと思うと同時に、つい先日「カミナリ」という言葉を口にしたが最後、保証の適用から外されかけた危機を思い出すと、今度は、どこが悪いのかわからないような些細なことで、これだけの大胆な修理をするというのは、なにがどうなっているのやら、まったく狐につままれたような気分でした。

要するに、いずれの場合も定められた「システム」がそうさせるということでしょう。
システムに適ったことなら、いかに高額な修理でもどんどんするし、逆に適用外となったが最後、たとえユーザーが自分の落ち度でもなく、かつ、どんなに困っていることでも保証とはならず、かかった料金を請求するというわけで、たしかにある種の理に適ったことではあるのでしょうけれども、とてもじゃないですが心情的についていけない世界だということがわかりました。

テレビが実質新しくなったことはいかにも結構な結果だったわけですけれども、なんだか釈然としないものが残り、妙ちくりんな世の中になったもんだというのが率直なところでした。
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低コストオペラ

今年8月のザルツブルク音楽祭から、プッチーニのオペラ『ボエーム』が放送されましたが、お定まりの新演出によるもので、時代設定は現代に置き換えられるという例によってのスタイルは、まったくノーサンキューなものでした。

本来のオペラなら演出家の名前も記しておきたいところですが、この手合いは覚える気にもなれません。
フィガロでもマノンでも、とにかくなんでもかんでも最近はこの新演出という名の安芝居みたいなステージが目白押しで、かつてのようにまともにオペラを楽しむという気分にはなれません。

今回のボエームもとりあえず全4幕のうち第2幕まで見ましたが、これが本当にあのザルツブルク音楽祭だろうかと思うような軽薄で品位のない舞台で、どこかに良さを探そうとするのですが、どうしてもみつかりません。

たしかに芸術は、ただ伝統的なものを継承し、おなじことを繰り返すだけではだめで、絶えず新しいものが創り出されて、それらが淘汰され昇華しながら後世に受け継いでいかなくてはならないという面はありますが、近ごろの新演出は、マロニエ君の目には到底そんな芸術的必然から出たようなものには見えません。

なぜ最近のオペラは伝統的な舞台が激減して、斬新ぶった子供だましのような空疎な舞台が多いのかと思っているオペラファンは多いはずです。
一説によれば、それはもっぱらコストの問題だという話を聞いたことがありますが、それも頷けるような露骨なまでのやっつけ仕事で、ことによると作品への畏敬の念すら疑わしくなるようです。

たしかに本来の伝統的な舞台を作るには、高額な装置や衣装などが必要で、生半可ではないコストがかかるのはわかりますが、そもそも、それを含めてのオペラじゃないかと思います。
少なくとも、あんなものを堂々とオペラと称するぐらいなら、いっそ演奏会形式でやったほうがどれだけ潔いかわかりません。

今回のボエームに限りませんが、主役をはじめとするせっかくの出演者達が、本来の扮装とはかけ離れたジーンズやTシャツで堂々と舞台に現れて、下品な仕草で現代の役柄を演じるのはさぞかし不本意だろうなあと思います。
そればかりか、時代設定を現代に置き換えることで、劇の進行や台詞のひとつひとつの意味にも矛盾や齟齬が生じて、まるで説得力がありません。音楽的にもステージ上で展開されているものとは何の繋がりもないようなものが噛み合わないまま空虚に流れていくのは、なにやら耐え難い気になってしまいます。

もし若い人で、はじめて見たオペラがこの手の新演出で、オペラとはこういうものかとその経験を記憶に刻むとしたら、とても恐ろしいことのように思います。

主役のミミにはアンナ・ネトレプコ、オーケストラはウィーンフィル、合唱団はウィーン国立歌劇場合唱団といかにもな一流揃いですが、演奏はそれぞれが上手い点はあるものの、全体のまとまりや流れもなく、みんなバラバラな印象で、ろくに練習も積んでいないといった感じでした。
一体に、最近はテンポもノロノロした演奏が多いという印象がありますが、これも要は練習不足の表れのような気がします。かのカルロス・クライバーの快速は、まわりが呆れるほどの練習の賜物だったわけですが、練習を繰り返すことも、つまりコストのかかる事というわけでしょう。

オペラさえまともに上演できないほど、ヨーロッパの不況も深刻だということなのでしょうか…。
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利害関係

現代の人間関係は、ひとむかしの前のそれとはまったく様子が異なるようです。

これは時代のめまぐるしい変化によるもので、わけてもネットをはじめとするいろいろなツールの出現は、社会に深く根を張り、私達の実生活はむろんのこと精神的にも大きな影響を与えたことは間違いないようです。それに伴い、人とのお付き合いの在り方も、気がつくとかなりの変化が起こっているように思います。

さまざまなツールの登場は、便利さや多様化する選択肢などという点において劇的な変化をもたらしましたし、じっさい以前なら思ってもみなかったような新たな可能性が生み出されたことも、なるほど事実でしょう。
しかし、本当に人はそのぶん、その通りに、豊かに、幸福になっているかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

携帯やネットには目には見えない弊害も多く、結果だけを見るなら、世の中の多くの人が、結局は深刻な出口のない閉塞感と孤独に追い込まれたように思います。

友人知人の関係というものにも今昔の違いがあり、かつては無邪気に気の合う者同士が結びつき、ごく自然で率直な付き合いをしていたものですが、今は、携帯やパソコンのアドレス帳には人の名が溢れていても、いざ本当の友人ということになると甚だ怪しいものです。

そして、現代の人間関係とは、何をもって互いを結びつけているかといえば、多くは「利害」であることも少なくありません。この場合の利害というのは、もちろん金銭やビジネスのことではなくて、主にプライベートな時間を過ごす上での意味合いです。

予定帳の空白欄を埋めたい、無為な休日を楽しく過ごしたいといったたぐいの者同士が、ネットを介してふと結びつき、傍目にはあまり相性がいいとも思えないような組み合わせが誕生。互いに相手を利用して寂寥を埋め合うという点で利害が一致、まさに相互メリットによって交際が成立してしまうこともあるようです。

そもそも人間は本質論的に孤独といえばそうなのですが、それが観念の上ではなく、実際的孤独へとしだいに変質しているといえないでしょうか。多くの人は孤独に陥っても、それを声にすることもできず、ひたすら耐え忍ぶしかありません。そこへ、たまたまなにかのチャンスがめぐってきて、似たような境遇の人同士が出会うと、堰を切ったように空虚な交流が続けられることがあります。
しかもより多くの期待をかけたほうがパワーバランスで不利になり、このような関係はなかなか上手くいきません。

マロニエ君もそういう例をここ数年で何度か目撃したことがありますが、そこに漂うどこか必死な感じは、なんともいたたまれないものがありました。もともと何の繋がりも実績もない即席の関係は、いつどこで終わりになるかもしれないという危うさを常に孕んでいて、そこは当人達も空気としてどこかで悟っているのかもしれません。
もしそれで本当の友人になれたらめでたい事ですが、それはいわばくじに当たるぐらい難しく、大抵終わりは突然サラリとやってくるようです。

こういうことになる原因のひとつは、ネットなどでまったくバックボーンのわからない者同士が、安直に出逢うことのリスクであり代償だと思います。その点、時間や手間暇はかかりますが、人との出会いは従来のスタイルのほうがよほど確かだと思いますが、それもある程度の世代から以降はほとんど消滅しているのかもしれませんね。
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アミール・カッツ

「俺のショパンを聴け!」
ピアニストのアミール・カッツは、あるインタビューでこのように言ったといいます。
それでは仰せの通り聴かせていただきましょうというわけで、2つリリースされているショパンのCDのうち、より新しい録音であるバラード/即興曲の各4曲を購入しました。

バラード第1番の冒頭部分からして技巧に余裕ある、クオリティの高そうな演奏であることが早くも伺われます。
さらには、ひとつひとつのフレーズから彼の音楽に対する細やかな息づかいが感じられ、ただきれいで正確に弾くだけのピアニストではないことが感じられる同時に、どこにも奇抜なことを仕掛けるなどして聴く者の注意を惹こうとしている軽業師でないのも伝わります。
それでいて、少なくとも、これまでに聴いたことのなかった新しいショパン演奏に出逢った気がしますし、その新しさこそ彼の個性だろうと思います。

しかし、どうももうひとつ乗れないものがある。
曲は確かにショパンだけれども、どうもショパンの繊細巧緻な作品世界に身を浸すのではなく、あくまでもこのカッツというピアニストの手中でコントロールされつくした整然とした音楽としての音しか聞こえてこない。

ポーランドの土着的なショパンでもなければ、パリの洗練を経たショパンでもない、あくまでもこのカッツというピアニストの感性を通じて、既成概念に囚われず、正しくニュートラルに弾かれた、無国籍風の堂々たるピアノ音楽に聞こえてしまうわけです。

非常に注意深く真摯に演奏されていることも認めますが、あまりにも筋力と骨格に恵まれた男性的技巧によって余裕をもって弾かれすぎることで、却ってショパンの細やかな感受性の綾のようなものや、複雑で整理のつけにくい詩情の部分などが力量に呑み込まれてしまった観があり、立派だけれども、聴いていてちっとも刺激されるものがありませんでした。

マロニエ君が思うに、ショパンの作品は芸術作品としてはきわめて完成度は高いけれども、どこかに危うい構造物のような緊迫を孕んでいなくてはいけないと思うわけです。
少なくとも、完全な土台の上に建てられた、強固でびくともしない建築のようなショパンというのは、どうしてもしっくりきません。

云うまでもなく、ショパンをひ弱な、少女趣味のアイドルのように奉る趣味は毛頭ありません。
しかし、誰だったか失念しましたが、ショパンのことを『最も華麗な病人』と評したように、ショパンには適度な不健康と煌めくブリリアンスの交錯が不可欠で、過剰な頑健さとか野性味、すなわちマッチョであることはマイナス要因にしかならない気がするわけです。

カッツのショパンは、力強さと構成感が勝ちすぎることで、却ってショパンの世界を小さくつまらないものにしてしまった気がします。
しかし、こういうある意味ではスケールの大きい、荷物の少ない寡黙な男のひとり旅みたいな演奏をショパンに求めている向きもあると思いますので、そこはあくまで好みの問題だと思います。

全体にバラードのほうがよく、それはピアニスティックに弾ければなんとかなる面が即興曲より強いからでしょう。
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カミナリとテレビ

このところ、晴れていたお天気が急変して、猛烈な雷雨に見舞われることが何度も続きました。当然のように湿度も耐え難いまでに上がって、まるで熱帯地方のようです。

その日も、昼間の強い陽射しと青空がウソのように夕方から猛烈な雷雨となり、かなり長い時間、まさに荒れ狂う嵐の様相を呈しました。

ようやく外の気配もおさまった夜半のこと、突如としてリビングで使っているテレビが映らなくなり、それこそ説明書と首っ引きで1時間以上、なんとか回復させようと格闘してみたものの、まったく無駄でした。
これはもう素人の手には負えるものではないと観念し、翌日、購入した電機店に修理依頼の電話をしますが、電話口で再三にわたって念を押されたのはカミナリが原因だった場合は、天災ということで保証の対象外となることを、予めご了承くださいということでした。

その電話から待つこと10時間近く、夜になって、ようやくメーカーの修理担当者から電話があり、来宅の日時を告げられました。その際にも、故障の状況を調べた結果、落雷によるものと判断された場合は保証の対象外となる由を念を押すように言われました。
見る前から、何回もこういう承諾の言質を取られるのはあまりいい気持ちはしないものです。

こちらにしてみれば、その日の夕方カミナリが鳴ったのは確かですが、そのあとも至って普通だったこと、他の部屋のテレビはいずれもまったく正常ということから、一概に落雷の影響というのではないのかもという気もしていたわけです。テレビの電源は入るし、ビデオなどを見るぶんにはまったく差し支えがないので、案外ちょっとしたことではないか…という気もわずかにしていました。

異常発生から3日目にして、ようやく待ちかねたメーカーの人がやって来ましたが、はじめは基本的な動作確認などをくりかえしていましたが、いずれも首を捻るばかりで、しだいに細かな領域に入っていきました。
果たしてわかったことは、アンテナの端子の中央にあるべき芯線というのが何故か欠落しているということが判明。これを正しい状態に戻すとあっけなく映像が戻り、テレビはめでたく復旧しました。

部品のひとつも使用せず、出張料金などは保証部分でカバーされているようで、まったく出費もなく、事前にずいぶん脅かされたわりにはあっさりと解決してしまったのはラッキーでした。

ちなみに、あとからネットを見て驚いたことは、たとえカミナリによる故障であっても、少なくともユーザーのほうからわざわざ「カミナリで」という言葉を発するのはタブーなのだそうで、それを認めると保証適用外となって修理費を負担しなくてはならなくなるとかで、あくまでも「ただ単に故障」という事実だけでじゅうぶんなんだとか。へええ…です。

上記の電話内容も、マロニエ君が不用意にカミナリと言ったために、たちまちその方向付けをされているのだということがわかり、今回はあきらかにカミナリが原因でなかったことが幸いでしたが、こんなちょっとした発言にも注意が必要とは、なんだか気が抜けないなぁという気分です。
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調律師という言葉

家庭のピアノにおけるピアノの調整について少し補足を。

いまさらですが、ピアノの健康管理に欠かせないのは、技術者による入念な調律・整調・整音の各作業、およびオーナーによるピアノを置く場所の温湿度管理という2つが大きいと思われます。

この際、調律を何年もしないような人は論外として、一般的にピアノに必要なケアといえば年一回の調律だと思い込んでいる人は少なくありませんし、これが大半だろうと思います。
したがって多くのピアノが本格的な整調・整音などの作業を受けないないまま、長年に渡って使われて、やがて消耗していくようです。

この作業がおこなわれないのは、決して技術者の怠慢というわけではありません。
人によっては調律だけを短時間で済ませて、他のことは一切手出しをしないで、さっさと帰ってしまう儲け主義の方もあるとは聞きますが、マロニエ君の知る範囲でこの手の方は皆無で、みなさんピアノに対する理想理念をお持ちの良心的かつ強い技術者魂のある方ばかりです。

整調や整音が正しく理想的におこなわれない理由は、ひとことで言うと、その必要性がピアノの持ち主にほとんど認識されていない点にあると思います。極端な話、これらをまともにやろうとすれば、調律どころではない時間と手間がかかり、料金もそれに応じたものになるので、とても現実的に浸透しないのでしょう。

多くのピアノユーザーの認識は、調律師さんにきてもらってやってもらうのは文字通りの「調律」なのであって、それ以外の調整なんて、ついでにサービスでちょこちょこっとやってもらうもの…ぐらいなものです。
だから調律師さんサイドでも、要請もない、調律以上に大変な仕事をすることはできず、ましてやそのために調律代以外の技術料を請求することもできないというジレンマがあると思われます。
いっそ明確な故障とかなら別ですが、ピアノは少々タッチに問題があっても弾けないということはほとんどなく、整音に関しても同様の範疇にあるので、時間的にもコスト的にも、なかなか仕事として成り立たないというのが現実だろうと思います。

そもそも、まず一番いけないのは「調律師」という言葉ではないでしょうか。
この名称では、あたかも調律だけをする人というイメージで、はじめから仕事内容を規定してしまっているように思います。つまり調律師という言葉の概念が先行して、本来の正しい仕事に制限を与えてしまったということかもしれません。

かくいうマロニエ君も、慣習にならってつい調律師さんと言ったり書いたりしていますが、やはり本来は「ピアノ技術者」もしくは、もうちょっと今風にいうなら「ピアノドクター」などでなくてはいけないような気がします。

英語ではTunerというようですが、そこにはきっと「調律」にとどまらない、もっと広義の意味が含まれているような気がするのですが…。
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調整の賜物

「ニューヨークスタインウェイの音にはドラマがある」ということで思い出しましたが、マロニエ君が塩ビ管スピーカーの音を聴きに行った知人のお宅には、実はニューヨークスタインウェイがあるのです。

この日は、あくまでスピーカーの音を聴かせてもらうことが目的でしたから、前半はそちらに時間を費やしましたが、それがひと心地つくと、やはりピアノも少しということになるのは無理からぬことです。

今回驚いたのは、その著しいピアノの成長ぶりでした。
このピアノは比較的新しい楽器で、以前は、強いて言うならまだ本調子ではない固さと重さみたいなものあり、タッチやペダルのフィールもまだまだ調整の余地があるなという状態でした。
といっても、納入時には調律や調整などをひととおりやっているわけで、それでピアノとして特に何か問題や不都合があるというわけではなく、普通なら取り立てて問題にもならずに楽しいピアノライフが始まるところでしょう。

しかし、オーナー氏は早くもそこに一定の不満要因を見出しており、その言い分はマロニエ君としてもまったく同意できるものでした。
マロニエ君として伝えたアドバイス(といえばおこがましいですが)は、これを解決するには再三にわたって粘り強く調整を依頼して、それでもダメな場合には技術者を変えるぐらいの覚悟をもってあたるということでした。
そもそもピアノの整調(タッチなどアクションや鍵盤の精密な調整)は、家庭のピアノでは慣習として調律の際についでのようにおこなわれることがせいぜいで、それはあくまでもサービス的なものなのでしかなく、当然ながらあまり入念なことはやらないのが普通です。

しかし、ピアノを本当に好ましい、弾いていて幸福を感じるような真の心地よさを実現するための、最良の状態にもっていくには、整調は絶対に疎かにしてはならないことですし、作業のほうもこの分野を本腰を入れてやるとなると、調律どころではない時間と手間がかかります。

そのために、整調を調律時のサービスレベルではなく、それをメインとして作業をして欲しいということを伝えたようで、そのために調律師さんは数回にわたってやって来たそうです。
数回というのは、一回での時間的な限界もあるでしょうし、その後またしばらく弾いてみて感じることや見えてくることもあるからで、どうしても望ましい状態に到るには、とても一日で終わりということにはならないだろうと思います。

そんな経過を経た結果の賜物というべきか、ピアノは見違えるような素晴らしい状態に変身していました。

まずタッチが格段に良くなり、なめらかでしっとり感さえ出ていましたし、以前はちょっと使いづらいところのあったペダルも適正な動きに細かく調整されたらしく、まったく違和感のない動きになっています。
そして、なにより驚いたのは、その深い豊かな音色と響きの素晴らしさでした。
ハンブルクスタインウェイの明快でブリリアントなトーンとはかなり異なるもので、どこにも鋭い音が鳴っているわけではないのに、ピアノ全体が底から鳴っていて、良い意味での昔のピアノのような深みがありました。

このピアノは決してサイズが大きいわけではないのですが、その鳴りのパワーは信じられないほどのものがあり、あらためてすごいもんだと感銘を受けると同時に、このピアノの深いところにある何かが演奏に反映されていくところに触れるにつけ、過日書いた別の技術者の方の「ドラマがある」という言葉の意味が、我が身に迫ってくるような気がしました。

やはり誠実な技術者の手が丹念に入ったピアノは理屈抜きにいいものですし、すぐれた楽器には何物かが棲みついているようです。
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ドラマがある

いつも思いついたように電話をいただくピアノ店のご主人にして技術者の方がいらっしゃいますが、この方は昔から米独それぞれのスタインウェイをずっと手がけておられます。

以前はニューヨークのスタインウェイにも、ハンマー交換の際にはご自身の経験と考えに基づいて、敢えてハンブルク用のハンマーを付けるといった、この方なりの工夫をしていらっしゃいました。
いまさらですが、この米独ふたつのスタインウェイには様々な違いがあり、ハンマーもそのひとつで、むしろここは著しく異なる部分といっていいようです。

ドイツ製の硬く巻かれたハンマーを、針刺しでほぐしながら音を作っていくハンブルクスタインウェイに対して、ニューヨーク用の純正ハンマーは巻きそのものがやわらかく、それを奏者が弾き込みながら、時には技術者が硬化剤を使いながら音を作っていくというもので、そもそもの出発点というか、成り立ちそのものがまったく違うハンマー理論に基づいているようです。

この技術者の方がニューヨークスタインウェイにもハンブルクのハンマーを使っていた理由は、とくに聞いたわけではありませんが、マロニエ君の想像では、やはりくっきりとした輪郭のある音を求めた結果ではないかと思っています。
この試みは、ある一定の効果は上がっていたようにも思いますが、では双手をあげて成功だったか?というと、その判定はひじょうに難しく、少なくとも、ある要素を獲得したことの引き換えに、失ったものもあったようにも思いますが、何かを断定することまではマロニエ君にはできません。

それが、いつごろからだったか定かではありませんが、ニューヨーク製にはニューヨーク用の純正ハンマーを使われるようになりました。きっと好ましい状態のオリジナルハンマーをもったニューヨークスタインウェイに触れられたことで何か心に深く触れるところがあったからではないかと思います。

その深く触れるところがなんであったのかはともかく、ニューヨークの純正ハンマーには他に代え難い良い点があることに開眼されたのは確かなようでした。とくにピアノとの相性という点で格別なものがあったらしく、その点への理解をこのところ急速に深められ、最近も一台仕上がったピアノがやはりニューヨーク製で、思いもよらないような独特の響きを醸し出すことに、誰よりもまず、ご自身が深い感銘を受けておられる様子でした。

音にはことのほか拘りがあり、その面での執拗な探求者でもあるこの方は、一気にニューヨーク製の音色の素晴らしさを悟り、お客さんの家にある何度も触れてきたピアノからも、今また新たな感銘を受けておられるようです。
たしかに、人間の感性というものは不思議なもので、理解の扉というものは突然開くようなところがあり、そのあとは雪崩を打つように広まっていくという経験は誰しもあることです。

それからというもの、すっかりニューヨークの音色や響きに魅せられておられるようで、抑えがたい興奮を伴いながら電話口から聞こえた言葉は「ニューヨークの音にはドラマがある!」というものでした。
たしかに全般的に響きがやわらかいぶん、温かみがあり、今どきのキラキラした音とはまったく違う価値観の音であり、音がゆらゆらと立ちのぼっていくのがニューヨークスタインウェイの特徴のひとつだろうと思います。

その店には、すでに次なるB型も到着した由ですが、曰く、そのB型にはそのニューヨーク製が備えているべき味がまったく失われている由。上記の仕上がったピアノと併せて、ぜひ見に来るようにとの再三のお言葉ですので、今度は思い切って行ってみようかと思っています。
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塩ビ管スピーカー

いま一部のオーディオマニアの間で、ささやかなブームになっているのが、塩ビ管スピーカー作りではないかと思います。
実はこういう世界があることは最近知ったのですが、マロニエ君の部屋にて拙文『Yoshii9』として書いている、同名の円筒形スピーカーを模して、自主工作によってその類似品を作るという人達がいるのです。
Yoshii9のもつ比類ない完成度の高さと、そこに聴かれるまさに輝く清流のような美しい音に魅せられた多くの人達がマニア魂に火をつけられ、この数年というもの、このスタイルのスピーカーの自作に挑戦奮闘しているようです。

自作が流行る最大の理由は、その無指向性型のスピーカーから流れ出る音の心地よさと、構造そのものは至ってシンプルで、一説によると通常のボックス型スピーカーを作るよりも簡単で、使う材料によっては安価でもあるということだろうと思われます。
しかし、では、ただ作ればいいのかといえば、そうではなく、問題はそこからいかに美しい極上の音を引き出せるかという点にあり、そのため各々試行錯誤を繰り返し、その悲喜こもごもの顛末はおもしろおかしく記録されて、多くのホームページなどで窺い知ることができます。

しかしそれは、マロニエ君にとって、世の中にはそんな趣味人がいるということでしかありませんでした。ある人からメールを受け取るまでは…。
ひと月以上前のことでしたが、マロニエ君のごく親しくしているピアノの知人がこれを作ったということを、何の予告もなしに、完成後にいきなり写真付きメールで知らせてきたのです。
まるで寝耳に水で、折しもYoshii9のもつ脅威的な音の世界に触れたことで、その鮮烈さに興奮さめやらぬというタイミングでしたので、なおさらのことそのモドキを作る人が、こんなにも自分の至近距離にいたなんて二重にびっくり仰天したわけです。

すぐにも聴かせて欲しいところでしたが、こういうときに限ってなかなか都合が合わずのびのびになっていたのですが、ようやく日曜にそれが叶い、聴き慣れたCDを携えて彼の自宅へ潜入することになりました。

彼はボディとなる円筒の材質別に、すでに3種類合計6本のスピーカーを作り上げており、見るとあれこれのホームページで見たものと同様のセオリー通りに製作されており、ただただ唖然とするばかりでした。

音のほうは、さすがに御本家のYoshii9には及ばないものの、それでもなかなか柔らかで好ましい、心地よい音を奏でていたことは特筆に値するものでした。
マロニエ君も製作してみないかと言ってくれますが、なにしろ工作の類はまったく得意でないというか、これまでにほとんどそれに類する事はやったことがないし、ましてやスピーカーなんてものは買うものであって、自分で作るなどとは考えたことさえありませんでしたから、はじめはまったくその気になれませんでした。

しかし、身近にそれを実行した人がいて、現物を見ると、知らず知らずのうちにその気になっていく自分が恐いような、笑ってしまうような、そんな気分です。

すでに、かなりその気になってしまい、早くも材料調達のためのいろいろなサイトを見て調べはじめていますから、このぶんではどんなヘンテコなものであれ、ひと組は作ってみることになりそうです。
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IKEA続編

せっかく決死の思いで行ったイケアでしたが、べつに取り急いで買いたいものとてなく、だからといって手ぶらで帰るのもつまらないので、LEDライトで取り付け部分がクリップ状になっている小型の電気スタンドを買いました。

クリップを譜面立てに挟んで、楽譜を見るための照明にしようという目論見です。
ところが使ってみると、照射範囲があまりに小さく、とても楽譜全体を明るく照らすことはできないことが判明。加えて位置や角度を自由に変えるための細い蛇腹のようになった棒状の部分が、狙った通りの位置に止めるのが難儀で、すぐに動いたりくだけ曲がったりして、なかなか思ったようになりません。

少なくともマロニエ君の用途にはまったく不向きであったのはがっかりでした。しかしよく考えると、店内に「気が変わっても大丈夫。90日以内なら返品が」できるようなことが大書してあったことを思い出しました。

しかしです、そのためにはまたあそこまではるばる行かなくてはなりませんから、マロニエ君としてはあまり積極性はなかったのですが、友人が「使わないならもったいないから、行こう!」というので、またしても行くことになりました。
考えてみれば往復のガソリンと時間、そしてなによりそのハードな労力を考えると、引き合わない気もしましたが、他に良いスタンドがあれば交換してもいいという考えが少しあったのも事実。

再び到着し、店に入ると、また例のシステムずくめの世界に突入するわけで、返品・交換のための手続きをどうするのかも、しばし探らなくてはなりません。
やがてわかったことは、入口から見て広大なフロアの一番奥にその手続きカウンターがあること。そこまで行くのがまた遠いので思わずため息が出ます。

3つあるカウンターのうち、ちょうど手の空いている女性に返品のことを告げようとするや、冷ややかに「番号札を取ってお待ちください!」と制されて、あたりを見回すと、側の柱に番号札の発券機がちょこんとあって、それを取って待つことになります。
とくにここは行列というわけでもなく、2組ぐらいのお客さんが返品の手続きをしているようですが、店側の対応におそろしく時間を要し、何かというと2、3人の若い店員が集まってヒソヒソ相談しています。きっと処理の方法を確認し合っているのだろうと思いますが、あとは延々とパソコン画面を見つめてしきりになにかやっているようですが、とにかくそれが遅々として捗らない。
この状態が30分以上も続き、これだけで気分は下がりまくってしまいます。

こちらの手続きを完了させてこの場を離れるまでに、軽く40分以上が経過したことは間違いなく、なんのためにこんなことをやっているのかという気にもなります。
それでも、せっかくここまで来ているわけだし、適当な照明器具はないかと疲れた気分に抗って、ほとんどやけくそ気味に売り場を見てみましたが、結果としてこれというものはありませんでした。

前回同様クタクタになり、ちょっと飲み物か軽食でもという気分でしたが、レジの近くにある飲食コーナーは、セルフサービスはまあ当然だとしても、なんと!すべて「立ったまま飲み食い」しなくてはならず、そんな厳しい場所は御免被りました。
こんな空港みたいに広い売り場をさんざん歩きまわらせたあげくのお客さんを、ちょっとのあいだ座らせようかという考えもないところに、日本とは完全に異なる、異国の感性と思考回路をまざまざと見せつけられたようでした。
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IKEA体験記

お盆前のことでしたが、イケアに行ってきました。
マロニエ君としては、例年にも増して暑い時期ではあるし、人の多い新名所みたいなところは苦手だし、いま必要な家具があるわけでもなく、別に行ってみたいとは思わなかったのですが、友人に背中を押されて、ついに行く羽目になりました。

少しなりとも混雑を避ける意味から、金曜日の午後7時近くに到着しましたが、それでも駐車場には車がぎっしりで空きスペースを探すのもなかなか大変です。
そこからトボトボ歩いて店の入口まで行くわけですが、内心もうこの時点で疲れた気分。

店に入ると目の前に「さあこちら」といわんばかりにエスカレーターが迫り、店内をどう動いていいのかもわからないので、ひとまずそのエスカレーターに乗りました。
果たして2階はメインの展示フロアで、イケアの商品展示の方法は、家具などの各アイテムが実際に生活の中で使われているようにリアルに配置されている点にあるらしく、細かく仕切られたそれぞれのスペースは商品を使ったいろんなスタイルの小部屋のようになっていて、要はそれを見てまわるというもの。

ところが、これがだだっ広いフロアの大半を埋め尽くしており、うねうねと曲がりくねった順路を歩きながら展示物を見て回らされるのは、あまり自由な気分ではありません。しかもその距離の長いことといったら、正直いって2階の展示スペースを一巡するだけでかなり疲れました。
なんとか終点まで達すると、今度は1階へ下りるべく大きな階段があり、そこは各種インテリア小物の売り場でしたが、ここがまたうんざりするような距離を延々と歩かされるわけで、つまり2階を見終わった時点で、歩くべき距離はやっと半分に過ぎないということがようやく判明。

話が前後しますが、2階の家具の展示場には店員らしき人はほとんど見あたらず、おどろいたのは、もし気に入った家具を購入しようとすれば、順路のところどころのスタンドに置いてある紙と鉛筆を使い、自分で商品タグを手繰りよせて、商品番号かなにかをこの紙に書きつけることが手順の第一歩。
その番号をもとに1階の順路の最後のエリアにあらわれる、思わず頭上を見上げるような広大な規模の倉庫の中から、紙に書いた商品番号を頼りにその商品を見つけ出し、それを自分で運び出し、カートに乗せて、レジで精算、さらに駐車場まで運んで車に積むというのがここの基本システムです。
帰宅後には、これを展示スペースで見たのと同じ姿形になるよう、自分でせっせと組み立て作業をやらなくてはならないというものです。

センスの良し悪しや価格のことはさておくとしても、この店に行って好みの家具を買うということは、それなりの体力と、張り巡らされたシステムの理解力と受容力、ちょっとやそっとではへこたれない忍耐強さが必要で、高齢者とか、こういうことが苦手な人には困難がつきまとうというのが率直なところです。

マロニエ君がイケアに行く少し前でしたが、テレビの地方ニュースによると、イケアの出来た周辺エリアでは「イケア効果」なるものが起こっているらしく、イケア開店の影響で、売り上げが伸びた業種と落ち込んだ業種があるらしく、なんと直接のライバルであるはずの大型家具店の売り上げは、予想に反してかなり伸びたといいます。

それによると、少しぐらい割高でも、笑顔の店員に迎えられて、商品選びに同行、適宜アドバイスなどをしてくれ、購入すればお届けから設置までしてくれるし、組立などする必要もないという、日本人が慣れ親しんだ販売スタイルが脚光を浴びているらしく、以前よりも売り上げが3割増!だといっていたのですが、たしかにその日本式のこまやかな接客がひどくなつかしいもののように思い起こされました。

イケアの流儀に較べれば、ドライだと思っていたアメリカのコストコ・ホールセールでさえ、まだフレンドリーさと穏やかさがあり、ほとほと北欧は厳しいなぁ…というのが実感です。きっとものの考え方や商売のセンスがまったく違うのでしょう。
わずか2時間余の滞在でしたが、車に戻ったときは疲労困憊。会話をするのも煩わしいぐらい、ぐでんぐでんに疲れて、マロニエ君にとっては真夏のスポーツにも値するものでした。
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練習用には

我が家のピアノのハンマーヘッドに1gほどのウェイトを追加したことで、タッチ/音色ともに激変して驚いたことはマロニエ君の部屋に書いた通りですが、いらいひと月以上が経過しましたが、予想に反して今でもそのままの状態を続行しています。

音も太くなって気分がいいし、腰砕けな指をわずかなりとも鍛える良いチャンスだとも思っているわけで、ある一面においては、このように楽ではないタッチのピアノで練習するというのも一片の意味はあるように思うこの頃です。

弾きやすいことだけを主眼に置いたピアノでは、練習の中のひとつの要素である肉体的鍛錬という点でいうと、身体は必要以上のことはしないので、目の前にあるピアノが弾きやすい分だけ、指は逞しさを失っていくという事実はあると思うようになりました。
もちろんマロニエ君のようなアマチュアのピアノ好きにとっては、指の逞しさがあろうがなかろうが、大勢に影響はないわけですが、それでも、まがりなりにも弾くという行為に及ぶ上においては、少しでも余裕を持って弾くことが出来るなら、やっぱりそれに越したことはないわけです。

このひと月半というもの、以前よりもずっと重い鍵盤に耐えながら弾いていると、やはりそれだけ指に力が付くらしく、別のピアノを弾いてみたときに、遙かに楽に、余裕を持って弾けるということがわかり、まあこれは至極当然のことではあるでしょうが、やはり身体というものは甘やかさず適度に鍛えなくてはいけないということを痛感した次第です。

もちろんピアノの練習とは指運動だけではなく、フレーズの繊細な歌い方や、デュナーミクにおけるタッチコントロールの多彩さなど、あらゆる要素が複雑に絡み合っているわけですから、一元的な要素だけでものを云うわけにはいかないことはわかっているつもりです。
一例を云うと、長年、鈍感なピアノで練習してきた人は、やはり耳も感性も鈍感なのであって、ドタ靴で走り回るような演奏を疑いもせず繰り広げてしまうことは珍しくありません。自分の出している音を常に聴いて、そこに注意を払う習慣を養うためには、タッチに敏感なデリケートな楽器に慣れ親しんできた人のほうが強味です。
しかし、その点ばかりを音楽原理主義のようにいっていると、やはり指のたくましさは必要最小限に留まり、どうしても筋力に余裕がなくなるのは否めないと、今あらためて思います。

とりわけピアニストは、普段の練習用のピアノがあまりに楽々と弾けてしまう楽器だとすれば、どうしても身体はそのフィールを中心としてしか反応しなくなり、さまざまなピアノにまごつくことなく対応する能力が落ちてしまって、そのぶん本番は辛いものになるでしょう。

ピアノは自分の楽器を持ち歩けないぶん、いろいろな楽器を弾きこなせるだけの、ある意味で図太さみたいなものが必要で、その図太さ、言い換えるなら楽器が変わったときに慌てないだけの余力を養うためにも、練習用のピアノはちょっと弾きにくいぐらいがちょうど良いのかもしれません。

今回のことでわかったことは、軽いキーのピアノから重いほうへと変わるのはかなりの苦痛と忍耐と時間が必要ですが、その逆はまったく楽で、むしろ面白いぐらいにコントローラブルになるというものでした。
ピアノも他の楽器のように、目的に応じて何台も持ち揃えることができればいいのですが、サイズの点だけからも、なかなか難しく悩ましいところのようです。
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弦楽伴奏版

ソン・ヨルムは、2009年のクライバーンコンクールおよび2011年のチャイコフスキーコンクールでいずれも第2位に輝いた韓国の若い女性ピアニストです。

少し前にショパンのエチュードのアルバムが発売になっていますが、これは遡ること8年も前に韓国で録音発売されていたものが、ようやく日本でもリリースされたもので新しい録音ではないようです。
同時期に出たもうひとつのアルバムにノクターン集があり、これは2008年、つまり彼女がクライバーンコンクールに出場する前年にドイツで録音されたものですが、これは非常に珍しい弦楽伴奏版というものであることが決め手になって購入してみました。

オーケストラはルーベン・ガザリアン指揮のドイツのヴュルテンベルク室内管弦楽団で、2枚組、遺作を含む21曲のノクターンが収められていますが、そのうちの4曲のみ弦楽伴奏はつかず、オリジナルのピアノソロとなっています。

演奏はいずれもクセのない、繊細でしなやかな、概ね見事なもので、そこへ弦楽伴奏が背後から乗ってくるのはいかにもの演出効果は充分にあると思いました。
編曲は韓国の二人の作曲家によるもので、ソン・ヨルム自身も編曲作業には深く関与したという本人の発言があり、オリジナルの雰囲気を尊重し壊さないために最大限の努力と配慮が払われたということです。

それは確かに聴いていても納得できるもので、ショパンの原曲が悪い趣味に改竄されたという感じはとりあえずなく、どれも情感たっぷりにノクターンの世界を弦楽合奏の助力も得ることで、より印象的に描き込んでいるという点ではなかなか良くできていると思いました。

ただ、不思議だったのは、ひとつひとつはそれなりに良くできているようでも、続けて聴いていると次第にその雰囲気に満腹してしまって、その味に飽きてしまうことでした。

どことなく感じるのは、たしかになめらかなショパンではあるけれども、同時に韓流ドラマ的な臭いを感じてしまうことでした。韓国人の編曲だからということもあると思いますが、一見いかにも夢見がちで流れるような美しい世界があって耳には心地よいのですが、魂に触れてくるものがない。
たとえば弦楽伴奏付きの第1曲であるホ短調op.72などは、聴くなりまっ先にイメージしたのは何年も前に流行った「冬のソナタ」でした。

マロニエ君としては、ショパンはあの甘美な旋律などに誰もが酔いしれるものの、その真価は知的で繊細で、奥の深いどちらかというと男の世界だと思っています。ところが、この弦楽伴奏版ではその甘美な世界が、いわゆる少女趣味的な甘ったるい世界になっているのだと思いました。

世の音楽好き中には「ショパンは嫌い」「ショパンはどうも苦手」という人が少なからずいるものですが、その人達は何かのきっかけでショパンをまるでこういった音で表す少女小説のように捉えてしまっているのではないかと、その気持ちの断片が少しわかるような気がしました。

だからといってマロニエ君はこのアルバムを否定しているのではなく、あまたあるショパンのノクターンアルバムの中にこういうアレンジがあるのは面白いと思いますし、そういうことに挑戦したソン・ヨルムの決断力にも拍手をおくりたいと思います。
少なくとも、正確でキズがないだけのつまらない演奏よりはよほど立派です。
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ひびしんホール

この夏、北九州市黒崎に新しくオープンした北九州市立ひびしんホールに行きました。

ここには3台の異なるメーカーのコンサートグランドが納入されたようで、7月のオープンに続き一連のピアノ開きのためのコンサートがそれぞれおこなわれ、トップを小曽根真さんがヤマハCFXを、次が小山実稚恵さんでスタインウェイDを、そして今回は最後で及川浩治さんがカワイの新機種EX-Lをお披露目されました。

以下、簡単に感じたところです。

【ホール】大ホールは、今どきのコンサートにちょうど良い800人強のサイズですが、すぐ近く(およそ3kmぐらい?)に同規模の、こちらも「北九州市立」の響ホールがあるにもかかわらず、当節のような景気の低迷とコンサート不況の続く中で、何故いま、このようなホールがもうひとつできたのか、その真相はよくわかりません。

それはそれとして、久しぶりに新しいホールに行くのは興味津々というところでしたが、率直に言って、ちょっと期待はずれなものでした。
その建物は、残念なほうの意味でおそろしく今風で、内も外も、ただパーツを組み上げただけのような無味乾燥なもの。どこをどう見渡しても、低コストに徹したという印象ばかりが目につき、ホールに求める文化的な雰囲気とか有難味のようなものがまったくありません。
その点、ずっしりと作られている響ホールは、何年経っていようが、まるで格が違います。

ホール内にはロビーらしきものもなく、ちょっとリッチな公民館といった風情だと云ったほうが話は早いかもしれません。ホールの内装は木の趣を凝らしたというところだとは思いますが、まるで竹ひごで編んだ虫籠のようで、そのモチーフがステージ上の反響板にまで連続して続くため、大きな虫籠の中央にポンとピアノが置いてあるようで、マロニエ君の目にはちょっと奇異に映りました。

コンサートというよりも、どことなくホタルや浴衣なんかが似合いそうな感じで、ホームページの写真で見るのと、実際に現場で見るそれは、相当イメージが異なるものだというのも痛感。
響きは、取り立てて変な癖やストレスもなく、それなりに素直でよかったとは思いましたし、新しい建物は空調などの効きがよく、その点はこの季節でもあり快適でした。

【ピアノ】カワイのコンサートグランドがシゲルカワイの名を返上し、再びKAWAIを名乗ることになった新機種が今回このホールに納入されたEX-Lです。
それを証明するように、サイドのロゴは鍵盤蓋と同様のがっちりとした書体でシンプルに「KAWAI」となっていますが、以前のいささか安っぽい装飾文字を思い出すと、ようやく本来あるべき姿に落ち着いたようで、この会社の良識的判断にホッとした思いです。

さて肝心の音は、かなりの期待を込めていたのですが、マロニエ君の耳には、従来型に較べてなんら進歩の後がないものでしかなく、これまでとまったく同じようにしか感じられなかったことは甚だ残念でした。 
基本的な音色が暗く(重厚とは違う)、音にザラつきがあるところまで、すべてが引き継がれていて変化らしきものが何も感じられませんでした。

とくに中音域でそれが顕著で、ピアノの個性が決まるともいうべきこの大事な音域が、なんの色気も麗しさもない、濁った水のような音しか出てこないのはどうしてだろうと思います。
それに対して、低音はやや鈍さはあるものの、カワイらしい響きの豊かさとパワーがあり、せめてこの点は評価したいところです。
中音域を中心として、もっと澄んだ音、艶のあるふくよかな音が出たら、格段に良いピアノになると思うのですが、メーカーは不思議なほどそこには目を向けないようです。ちなみに、音の色艶とか美しさというのは、そのピアノのキャラクターに合わない整音をして、耳障りな音にすることとはまったく違うもので、やはり根本的にボディの問題だろうと思われます。

【ピアニスト】については…やめておきます。
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『はじける象牙』

先日書いた、ピアニスト兼文筆家のスーザン・トムズの『静けさの中から〜ピアニストの四季』には、とりどりの面白い文章が満載ですが、その中で、驚いたことのひとつ。

スーザン・トムズはイギリスを代表するピアニストの一人であるばかりか、幅広い知識を持ち合わせたインテリでもあるようで、その深い教養とピアニストとしてのキャリア、そのトータルな文化人としての存在感にも英国の人々は大いに注目しているところのようです。
さらに夫君は音楽学者の由。

そんな、なにもかもを兼ね備えたようなスーザン女史ですが、こと自分のピアノの管理に関する著述では、ちょっと信じられないようなことが本の中で語られていました。
それによると、部屋の環境のせいで、鍵盤の象牙があちこち反り返っているらしく、ひどいものは剥がれしまうという信じられないような現象が起こり、ときにそれ(象牙)が大きな音を立てて部屋の中をすっ飛んでいくのだそうで、ピアノの横にはそれらを拾い集めるお皿まであるとのこと。

スタインウェイ社に連絡をしても、もはや象牙パーツはないとのことで、古いピアノから調達してくるか、ダメな場合には最終的にプラスチックに甘んじるかということ。

ところが、スーザン女史がフランスで19世紀のプレイエルを使ったコンサートをすることになり、その際にずっと付き添ってくれた、古いピアノの修復などに詳しい技術者にこの事を相談したそうです。すると、その技術者曰く、象牙は温湿度の影響は受けにくいもので、原因は象牙ではなく、その下に隠れている木材が伸縮している!ということを知らされるのでした。

スーザン女史は、自分が大きな思い違いをしていたことに気付くのですが、そのピアノはというと、暖炉の側に置いてあるらしいことが書かれています。
なにぶん現場を見たわけではないので、断定的なことはなにも言えませんが、彼女ほど、良心的な演奏活動をこなし、文化人としての深い教養を持ち、コンクールの審査員の中でもひときわ静かな威厳をただよわせて、周囲からも一目おかれているという彼女をもってして、ことピアノの管理となるとこんなものかというのが驚きだったのです。

何枚もの象牙が我慢の限界に達して、音を立てて、空中を飛んで、剥がれ落ちてしまうほどまで、下の鍵盤の木材が盛大に伸縮をしている環境というのは、ピアノにとって、どう考えても尋常ではない状況だと思われます。

この話は、数ある器楽奏者の中でも、ピアニストほど自分の奏する楽器に対して無頓着、もしくは間接的な関心しか寄せていない、あるいは技術者任せの専門領域のような意識でいる人が、なんと潜在的に多いか!という証左のように思いました。
もちろんそうでない人もわずかにはいらっしゃるでしょうし、中にはピアノオタク的なピアニストもいるにはいますが、それはあくまでも「珍しい」ほうで、圧倒的にピアノに対して愛情不足という人が多いというのがマロニエ君の認識です。

しかも驚くべきは、このスーザン女史が、ピアノをただの道具のようにぞんざいに使うようなタイプの人物ではなく、路傍の花にも必ず温かな手を差し伸べるような深い愛情の持ち主ということがこの本を通読してわかるぶん、この章に書かれていることは、より衝撃的な驚きを伴って迫ってくるのでした。
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音の3要素

あるピアノ技術者の方からいただいたメールに、面白いことが書かれていました。

これは「マロニエ君の部屋」の実験室という拙文に関することなのですが、つまるところ、ピアノの音はハンマーの「形」と「硬さ」と「重量」でほとんど決まってしまうということでした。

これはなるほどそうだろうと、素人のマロニエ君も直感的に思いました。
ピアノは、自分で設計して一から製作でもしない限り、既存のピアノに自分なりの音色の変化を与えるには、(調律を別とすれば)行きつくところはハンマーしかなく、そのハンマーとはこの3要素の兼ね合いによって成り立っているわけです。

響板やボディが健康な状態なら、あとはせいぜい弦の違いでしょうが、これは古ければ定評のあるメーカーの製品に張り替えるだけですし、巻き線も名人の巻いたものを張るのがせいぜいで、技術者の感性や技によって音を作り出すというような余地はほとんどないと思われます。もし仮にあったにしても、それはハンマーの3要素ほど劇的なものではないのかもしれません。

ハンマーの形は主にダイヤモンド型、洋ナシ型、たまご型で、その形状からしておおよその音の方向性は察しがつくというものです。ベヒシュタインのボムというドイツ語の発生そのものみたいな音がたまご型ハンマーであるなどは、いかにもイメージそのままで嬉しくなってしまいます。

フェルトの硬さは製造時に硬く巻かれたものと、そうでないものがあるし、あとは技術者が作り出すクッションのさじ加減という、これこそ芸術的な領域によるものだと思われます。

そこへ、今回その重要性がマロニエ君にも痛感できた重量の問題が掛け合わせれてくるのでしょう。
これはハンマーヘッドそのものの重さとそれを支えるシャンクとの合計ですが、たとえ総量は同じでも各部の重さの配分によっても音は当然変わってくるはずです。

あとはハンマーのメーカー固有の個性とか、使用されるフェルトの素材そのものがもつ性質からくる違いもあると思いますし、シャンクのしなりの特性によっても変わるでしょう。

この技術者の方が教えてくださったのですが、アメリカにはデイビッド・スタンウッドさんという、ハンマーの重さとタッチや音色の関係を研究している技術者がいらっしゃるのだそうで、ホームページもあるようです。
(LINKページの「海外のピアノ関連サイト」に掲載済み)

アメリカ人でこういう領域のエキスパートがいるというのは、ちょっと意外な印象を持ちましたが、日本人も本来得意な分野のはずで、実は深いところまで突き進んでいる方がいろいろとおられるのではないかと思います。ただ、あまり表にはあらわれず、そこがまたいかにも日本的なのかもしれません。
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聖トーマス教会合唱団2

この合唱団の少年達は、むろん普通の勉学も課せられますが、しかしなんといっても歌が生活の中心にあり、音楽漬けの日々を送るようです。

日常的にバッハを練習し、毎週礼拝で演奏するというのが普段の流れだそうで、さらにあれこれの行事や海外への演奏旅行なども含まれます。
(バッハ以外の作品も歌うようですが、やはり大半はバッハ)
先生の話では、普通であれば一曲仕上げるのに半年もかかるカンタータを、聖トーマス教会合唱団の少年達はわずか一週間で仕上げなくてはならないのだそうで、そのハードさとレヴェルの高さは並大抵ではありません。

ちなみにバッハのカンタータは教会カンタータだけでも200曲近くあり、これだけでCDの60〜70枚に相当するほどで、カンタータ以外にもたくさんあるのですからとてつもない世界です。

このドキュメンタリーで紹介された南米各地の公演では、なんとバッハの合唱作品における最高傑作といわれるミサ曲ロ短調が演奏曲目でしたが、CDでも3枚にもなるこの大曲を荘重かつ活き活きと披露していたのは圧巻でした。
あんな少年達が当然のような顔をしてこんな大曲を歌い通すだけでも驚きですが、その指導をする先生がまた素晴らしく、あふれ出る音楽は気品に満ちて活気があり、聴く者に感銘を与えずにはおかない彼らの能力にはまったく脱帽でした。

クリスマスには当然ながらこれまた傑作の誉れ高いクリスマス・オラトリオが登場しますし、このドキュメンタリーの後には、今年4月におこなわれた聖トーマス教会での「マタイ受難曲」までやっています。
南米公演に選ばれなかったあどけない少年が、いろいろ質問された挙げ句に「僕は受難曲が好きです」などとごく普通に言うのですからたまりません。
彼らはバッハの膨大な作品と真髄に10代という最も多感な時期に深く触れて、魂の飛翔と超越をその身体に刻み込むのだろうと思うと、素晴らしい反面、なにか恐ろしいような気さえしてきました。

指揮者であり、トーマス・カントール(バッハもここで同じ職務を果たした)のゲオルク・クリストフ・ビラー先生は、自身も同合唱団の卒業生で、生徒達を忍耐強く献身的に指導していらっしゃいました。
音楽的な指導はもちろん、人としての心構えや演奏会での注意など、厳しさと愛情深さに裏打ちされたその教えは実に多岐にわたり、こういう偉大な先生と出会うことひとつをとっても、この合唱団に入って10年の歳月を過ごす価値があるというものでしょう。

このビラー先生というのが見るからにドイツの音楽家然とした風貌で、その面立ちは白いカツラを被せればそのままバッハになるようでしたし、じっさい彼の頭の中にはバッハの全作品が克明にインプットされているといった印象でした。
この合唱三昧の様子を見ていると、いかにバッハの音楽というものがポリフォニックな多声部の重なりによって成り立っているかということを、あらためて、新鮮に、認識させられたようでした。
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聖トーマス教会合唱団

NHKのBSで放送されるプレミアムシアターは、音楽に関する興味深い映像を見ることのできる貴重な番組ですが、過日放映された「聖トーマス教会合唱団のドキュメンタリー~心と口と行(おこな)いと命~」は、とりわけ心に迫るものがありました。

バッハといえばライプツィヒ、ライプツィヒといえばバッハ。
ほかにもメンデルスゾーン、ブリュートナー、そしてゲヴァントハウス管弦楽団であり、バッハが音楽監督としてつとめ、彼の墓もそこにある聖トーマス教会といった連想をしてしまうほど、この地はバッハの音楽とその魂が地中深くまで染み込んでいるような印象です。

聖トーマス教会合唱団はなんと創立800年!!なのだそうで、そこに在籍する9~18歳の少年たちの寄宿生活と音楽への献身ぶりにカメラが入りました。

各地から集まった少年というよりは子供達の中から、厳しく選ばれた者だけがこの歴史的な合唱団への入団を許されますが、その栄誉と引き換えに、10歳になるかならぬかの若さで、住み慣れた我が家と両親に別れを告げて、この合唱団の仲間との生活に入らなくてはなりません。

ホームシックに耐えながら、彼らはトーマス校での勉学と歌の練習に明け暮れます。厳しい寄宿生活には楽しさもあるけれども、いわゆる個人のプライバシーとか自由といったものとはほとんど無縁で、厳しい集団生活のルールの中に組み入れられます。
新入生の直接の面倒を見るのは上級生の役割で、いろいろな指導から生活の世話をやく兄の役目まで、この合唱団のメンバーが第二の家族となり、寝食を共にしながら、バッハの音楽を中心とする厳格な音楽生活を送るのは驚きでした。

こんなに幼い少年の頃から寄宿生活を強いられ、同時に荘厳かつ豊饒なバッハの音楽の中に身を置いて10年間を過ごすというのは、人生経験として途方もないことだと思います。
もうそれだけで人々の尊敬を集める立派な音楽家であり、卒業間近の青年達は二十歳前というのに皆おだやかな大人のような眼差しをしており、高い人格教養まで身につけているようでした。
謹厳な先生達の面々、聖トーマス教会の圧倒的建築、周辺の威厳に満ちた街の景色、美しい、まるで絵のような森や植物など、とにかくあまりにもなにもかもが違っていて圧倒される他はありません。

どこがどうというような次元の話ではなく、そこにある空気、差し込む光、すべてのものが独特で、根底に流れる精神的価値がまったく違うのは、いわば世界が違うことでもあり、ドイツには今でもこういう部分があることに感嘆しました。
西洋音楽は、国境や地域を越えて広がった共通文化となりましたが、それでも、その地に生まれ育ったものでなくてはわからない機微や領域というものがあるのは確かだと思います。

唐突ですが、今回のオリンピックでは日本の男子柔道が史上初の金メダルなしという結果に終わったのだそうですが、その要因として、日本人は「一本」に拘るからという意見がありました。
でも、柔道のことなど何も知らないマロニエ君から見ても、柔道をするなら一本に拘るのは理屈抜きに当然だろうと思います。それが今後、もし、国際試合に勝つために、判定基準に合わせて、ちびちびと小技のポイントばかりを掻き集めていくような柔道になるとしたら、それは一気に柔道の本質的な精神と魅力を失うような気がします。

聖トーマス教会合唱団のバッハには、歴史の遺物をただ敬うだけではない、まさにその本質と魅力が今も受け継がれて脈々と流れているようでした。
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史上二位の炎暑

過日はある方のお宅へ伺うことになっていましたが、あいにくこの日は福岡の観測史上に記されるほどの炎暑となり、午前中から気温はみるみる上昇、午後にはついに史上二位の37.5℃に達するほどの苛烈さでした。
ここまでくると、見慣れた景色もどことなく違ってくるようで、とりわけ目に映るものの色がぎらぎらと腐敗寸前のように生々しくざらついて見えるような暑さでした。

途中寄るところがあり、いったん車を置いて外に出ると、まるでフライパンの上に降り立ったようで、頭はボーッとするし、身体の動きも明らかに鈍くなる感じがしますね。
車に戻るって何気なく見たルームミラーに映る自分の顔が、短時間のうちに赤く火照っているのがはっきりわかりました。

以前にも思ったことですが、夏の中でも本当に猛烈に暑い日というのは、誰もができるだけ外出を控えるようで、意外にも道を走る車の数も普段より少な目でがらんとしていますし、我が家の周辺も昨日今日は普段にも増して深閑としているようです。

おそらくはその所為だと思われますが、目的地のお宅まで向かっているつもりが、いつもより車が少ないために予想したよりスイスイと進んでしまうし、そんなときに限っていつもは決まって赤信号になる交差点などでも、陽炎の立ちのぼる無人の青信号だったりして、それでまた車は先へ先へと進んでしまいます。

あまり早く着くのもどうかと思い、さらにゆっくり走りますが、こんなときは何をしても車が止まることがありません。急ぐときに限って渋滞にはまり、にっちもさっちも行かなくなるのとまるで正反対の状況ですが、往々にしてこういうものですね。


夕方、おいとまして車に戻り、走り出してしばらくするとなにやら目の前で物がドサッと落ちてきました。
あまりにも咄嗟のことで、何事か一瞬状況を呑み込めませんでしたが、オンダッシュのカーナビのスタンド部分がこの異常な暑さのせいで吸着力が弱まっているところへ車が動き出したらしく、赤信号が青に変わって発進したときの加速の勢いで、カーナビがいきなり手前側に倒れてきたのでした。

反射的に片手で抑えて完全落下こそ免れましたが、ひとりで運転中とあってはなす術もなく、とりあえず次の信号で停車するまでこのまま走るしかありません。片手にハンドル、もう片方には落ちかかったカーナビ、それを背中を浮かしながら運転している自分が滑稽でたまりません。
ところが、こんなときにも往きと同様で、一刻も早く止まって欲しいのに、信号は信じられないぐらい次々に青信号という皮肉の連鎖となり、可笑しさ半分、思わず叫び出したくなりました。

ようやく止まったのは、2キロほども先で、記憶では5つほどの青信号の交差点を不本意ながらスルーさせられた挙げ句のことで、そこでなんとか吸盤部分を付け直すことができました。

それにしても、今年の暑さは異常な気がします。
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内村航平

オリンピックもほとんど熱心に観ることのないマロニエ君ではありますが、唯一、体操の内村航平選手の演技だけは見たいものだと思っていたところ、昨日の夜中、「今やっている」と教えられてようやく途中からですが、ライブで見ることができました。
おまけに結果は金メダルですから文句なしです。

彼はひとことで云うなら「天才」だと思います。
むろん他のどの選手も、ここまでくるにはずば抜けた才能と努力があったのは云うまでもありませんが、内村選手には、そういったありきたりな要素ではとても収まりきれないものを以前から感じていました。

努力努力の積み重ねも尊いものですが、一観戦者として演技を見る場合、マロニエ君はなにか突き抜けた天才的なものに触れることに喜びを感じ、そこに非日常的な感銘と刺激を受けたいと思うわけです。

これは音楽であれ美術であれ、天才という、どうにもならない、常人が越えがたい領域に住むことを許された者だけが放つ、一種独特な輝きに魅せられるときの快楽みたいなものが身についているからかもしれません。

内村選手はその佇まいや、顔の表情からして他の選手とはまったく違ったものを感じます。
いつもどことなく伏し目がちで、一見無表情のように見えますが、それが却って彼独特の激しい内面の表れのようでもあり、燃えたぎる闘志の裏返しのようにも解釈してみたりします。
同時に彼のそこはかとない静けさのようなものが、天才特有の孤独性のようにも感じられる…。

スポーツ選手特有の汗くさい、動物的な、ぎらぎらした感じがあまりなく、いつも淡々と自分自身と向き合っているような気配も、並の選手には見られない特徴でしょう。

演技自体の専門的なことはまったくわかりませんが、素人目に感じることは、他の人と比較して動きが非常に軽やかで大きく、閃きがあり、ひとつひとつの動きの緻密さと全体の躍動が有機的に自然につながっていることでしょうか。
無理を重ねて苦しみ抜いている印象がなく、乗れば乗るほど演技が凄味を増し、むしろ解放へと向っていくところにも彼の尋常ではない天分を感じます。

今回はそれでも、オリンピックということもあってか、全体として慎重確実な演技でまとめる意志が働いていたようですが、いつだったか、国内での大会で見せた鉄棒の脅威的な迫力とスピードなどは、恐ろしいようなものがあり、その実力は底知れぬものがあるのでしょう。

彼こそ金メダルに相応しいとは思っていましたが、やはりオリンピックの本番というのはなにが起こるかわかりませんから、ともかくも、その通りの結果が出てホッとしているところです。
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節約リバウンド

少し前の新聞に、「節約はダイエットと似ている」という内容の記事が掲載されていました。

それによると、長引く景気低迷で、どの家庭も何かしらの節約はしているだろうけれども、節約にはリバウンドというダイエットと同様の反動があるのだそうで、無理な節約を続けると「自分へのご褒美」などと言い訳して結局は無駄遣いするのが悪しき典型なんだそうです。

取材に応えた人物は『やってはいけない節約』という本を出版したフィナンシャルプランナー(?)の男性で、危ない節約として代表される4つパターンが表にして記載されていました。
要約して書くと、
(1)スーパーなどの買い物先のすべてのポイントカードをためる
(2)徹底的にクレジットカードのポイントをためる
(3)家族に節約を強要する
(4)雑誌等の節約術をうのみにして実践する

これらの節約で危ない理由は、
(1)ポイントはオマケと考えるべきで、もっと安い店で買うほうがお得
(2)カードはお金を使っている実感が稀薄で、しかるにポイント目的にカードを使うのは危険
(3)無理強いされた節約はストレスを生み、やがてリバウンドという大きな出費を招く
(4)節約に力を入れすぎて、仕事など本来大切な事がおそろかになったりと、本末転倒の事態が起こる

という事だそうです。
これに対して、当たり前のこととして粛々と行える「習慣化された節約」が最も効果があるのだそうですが、マロニエ君に言わせれば、これも個人差によるところが大きいような気がします。
節約などと口では簡単に言ってみても、行き着くところは個人の感性とか価値観、ひいては人生観が問題となってくるのであって、その意義の軽重には個人差があり、極端に云うとそういうことが好きで自然に身に付いている人と、そうでない人がいると思われます。

マロニエ君などはお金もないのに節約が苦手で困りますが、ときどき人格の中にまで節約精神が深く根をおろしているような人を見ると、とても驚くことがあるものです。
こういう人は、必要な節約というよりは、そもそも支出をする事自体が苦痛のようで、だから節約は半ば喜びでさえあり、ごく自然に楽に実践できるのに対して、不本意にやっている人は苦痛を伴うのですから、似たようなことをするにもストレスの量で大差がつくわけで、これもひとえに個人差だと思います。
そして、苦痛の人はリバウンドの恐怖が待ち受けているということでしょう。

思い出しましたが、かのJ.S.バッハは大変な吝嗇家(つまりケチ)で、収入には充分恵まれていたにもかかわらず、何事も節約で通したのだそうです。五線紙の使い方にもそれはあらわれているそうで、手書き稿を研究家が見ると、他の作曲家とは比較にならないほど音符もビチビチに詰めて書いているし、曲のおわりに余白ができると、そこへまったく別の曲の冒頭を書き込んだりしたのだそうです。

音楽の世界ではほとんど神にも等しいようなバッハですが、それが実際に生身の人間として存在し、勤勉で、節約家で、収入の額などに強い拘りがあり、子供が20人もいたなんて聞くと、なんとなくイメージがまとまらないものですね。
バッハとは対極に位置する浪費家タイプの大天才がモーツァルトだそうです。
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静けさの中から

わりに最近出た本ですが、スーザン・トムズ著『静けさの中から〜ピアニストの四季』を読みました。

スーザン・トムズはイギリスのピアニストでありながら、すでに何冊かの本を出版するほどの文筆家としての顔も持っているようです。
女性として初めてケンブリッジ大学キングス・カレッジに学んだというインテリだそうで、またピアニストとしても極めて高い評価を得ているらしく、ソロのほか、フロレスタン・トリオのメンバーとしても多忙な演奏活動をおこなっているそうです。CDも室内楽などでかなりの数が出ているとのことですが、残念ながらマロニエ君はまだこの人のピアノを聴いたことはありません。

ピアニストにして文筆家といえば、日本では青柳いづみこさんをまっ先に思い出しますが、世の中には大変な能力の持ち主というのがいるもので、どちらかひとつでも通常なかなか出来ないことを、ふたつながら高い次元でやってのける人間がいるということが驚きです。

この本は、いわゆる随筆で、彼女が日々の生活や演奏旅行の折々に書きためられたものが本として出版されたものですが、その内容の面白いこと、強く共感すること、教えられることが満載で、大いに満足でしたが、もうひとつびっくりしたのが翻訳の素晴らしさでした。

訳者はなんとロンドン在住の日本人ピアニスト、小川典子さんで、彼女がこの本を読んでいたく感銘を受け、すぐに自分が翻訳をしたい!という気持ちになったといいます。
この衝動から、すぐにスーザン女史にその旨を申し出たのだそうで、めでたく諒解が得られ、日本語版の出版への運びとなり、やがてそれが書店に並んで、現在の我々の手に届くようになったということです。

ピアニストとしての小川典子さんはマロニエ君は実は良く知りません。CDも棚を探せばたしか1、2枚はあったと思いますし、リサイタルにも一度行きましたが、とくにどうというほどの印象はありませんでした。
しかし、この本の文章の素晴らしさに触れることで、こちらの側から小川さんの人並み外れた能力を見た気がしました。

なによりそこに綴られた日本語は、力まずして雄弁、適切な語彙、自然なリズムを伴いながら、どこにも不自然なところがないまま、もとが英語で書かれたものであることを忘れさせてしまうような、心地よい品位のある文章で、頗る快適に、楽しんで読み終えることだできました。

以前、このブログで、技術系の専門書で、愚直すぎて読みにくい翻訳文のことを書いたことがありましたが、まさしくそれとは正反対にある、活き活きとした流れるような日本語での訳文に触れることができたのは、望外の驚きでした。
小川さんによる巻末のあとがきによれば、彼女の翻訳作業には、もうひとり春秋社のプロによる編集の手を経ていたのだそうで、やはりそれだけの手間暇をかけなくては本当に淀みのない美しい文章は生まれないということを痛感しました。
もちろん原文を綴ったスーザン・トムズ女史のずば抜けた頭脳と感性、小川さんの広い意味での語学力があってのことではありますが、さらに編集によって丁寧に磨かれることで、ようやくこの本ができあがったのだということをしみじみと思うのです。

あたかも、ピアノが優秀な技術者の手をかけられればかけられるだけ素晴らしくなっていくように。
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氷ドロボウ

ちょっとした事情と流れから、福岡市の郊外にあるスーパーで買い物をして帰ることになりました。

自宅まではやや距離があり、この季節なので、レジを通ったあとサービスで備え付けられている氷をビニール袋に入れようと製氷器の前に行くと、そこには身をかがめて氷を袋にせっせと詰めている男性がいました。
中年のごくごく普通の、いたって善良な感じの男性です。

繰り返しスコップを氷に差し込んでは、かなりの量を袋に詰め込んでいるようで、ちょっと違和感がありましたがやがて終わったので、その後に続いてマロニエ君も氷を袋に入れますが、買ったものが傷まないための保冷が目的ですから、その量もたかがしれています。

適当に入れ終わって、製氷器の扉を閉めようとすると、さっきの男性が近づいてきて「あ、いいですよ。」と言うので、なにかと思ったら、またさっきと同じように氷をザクザク取り始めました。

マロニエ君はすぐ脇のテーブルで買ったモノを持参した袋に入れていると、その男性は目の前に戻ってきて、同じテーブルに置かれた発砲スチロールの大きな箱の中へビニール袋へ詰めた氷を入れていますが、なんとその中にはズラリと同じ状態の氷ばかりが入っています。そして、またもピッと袋を一枚とって製氷器の前に戻り、繰り返し氷を袋へせっせと掻き込んでいます。

その製氷器の上には特大サイズの警告の紙が何枚も貼られていて、「クーラーボックスなどで氷を持ち帰らないように」といった類の注意書きが嫌でも目に入るよう大書してあるのですが、その男性の態度はまったくそんなことは意に介する風でもなく、むしろ淡々とした調子で、氷を袋に詰めて上部を縛っては箱の中へとどんどん投入していきます。

しかもその男性の周辺には、ここで買い物をしたらしい形跡はなにひとつなく、来店したのは氷を持ち去る事だけが目的というのがしだいに明らかになってきました。
こういう不逞の輩がいるから店のほうでも困ってこんな派手な貼り紙をしているのだと思いますが、そんなことはまるで知ったことではないという態度で、ひたすら氷を発砲スチロールの箱の中へ移す作業だけが続きます。

やがてその箱は蓋が閉まらないほどの氷であふれ、もはやこれで終わりと思いきや、今度は目の前の閉鎖中のレジに悠然と向かい、そこに置かれている店名が印刷されたレジ袋の大きいのをサッと取ってきて、今度はそっちにビニール袋入りの氷を入れ始めました。

その態度たるや、なんの悪びれたところもなく、製氷器の前ではときどき他のお客さんに「どうぞ」などとわざとらしく身をよけて順番をゆずったりしながら、あくまで悠然と氷の盗み出し作業に専念しており、その慣れた感じからしても、到底これが初めてではない常習犯であろうと思われました。

店の氷を大量に盗んでいることに加えて、そのナメたようなふてぶてしい態度に、すでにこちらの心中は穏やかであろうはずもなく、気分は不快感でムカムカしてくる始末です。
…とはいうものの、今どき本人に直接注意する勇気もないし、いきなり逆ギレされちゃ敵いません。

しかし、このまま捨て置くのも業腹なので、店を出るとき、レジの店員さんに「氷泥棒がいますよ、ものすごい量を今持ち去ろうとしていますよ。」と伝えました。
店員さんは目が点になって、ひとこと「ありがとうございます…」といったきりマロニエ君は店を出ました。その店員さんはすぐにレジを離れて動き始めたようでしたが、さてそのあとどうなったかまでは見届けませんでした。

それにしても、あんなに大量の氷を盗んでいったい何にするのだろうと思いましたが、おそらくはこれから釣りにでも行くのだろうとしか思えませんでした。
そこは海がわりに近いのです。
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行ってみたい!

いまや中国は世界最大のピアノ生産国であるばかりでなく、ピアノを習う子供の数も桁違いに多く、それは必然的に世界最大のピアニスト生産国ということになるのかもしれません。

ラン・ラン、ユジャ・ワン、ニュウニュウ、ユンディ・リなどはみな逞しいメカニックの持ち主で、ここ当分は、この国からスターピアニストが登場してくる状況が続くのだろうと思われます。
現在の学習者の数は、一説には2000万人とも3000万人とも言われますので、それはもう途方もない数であることに間違いなく、世界中の権威あるコンクールには中国人が大挙して参加してくるのは当然の成り行きなのでしょうね。

かたや欧米ではピアノを幼時より始めて音楽家を目指すという流れが、ここ20年ぐらいでずいぶん変わったと聞いています。まず根底には欧米における若者のクラシック離れの風潮に歯止めがかからず、多くの若者はより実利的になってステージから客席へと移動してしまったと言われます。
つまり音楽を演奏する側から、観賞する側に、自分達の居場所を変えてしまったというわけでしょう。

それに変わって台頭したのがアジア勢で、いまや中国を筆頭に韓国なども、次から次へと傑出した才能を世界のステージへ送り出しているようです。

そんな中国ですから、当然ながら大都市では楽器フェアだのピアノフェアだのといった見本市の類が開かれているようで、しかもそこは中国のやることですから、その規模も大きなものであるらしく、マロニエ君もいつかは一度行ってみたいものだと思っているところです。

そんな中国のピアノフェアですが、最近ネットで偶然にもその様子を捉えた写真を見かけたのですが、それはやはり期待にたがわぬ驚愕の光景でした。
まずピアノは黒というような、固定したイメージのある日本とは真逆の世界がそこにはあり、無数に並べられたあれこれのピアノはアップライトもグランドも、まるで遊園地かおもちゃ売り場の商品のようにカラフルな原色であるばかりでなく、それぞれのピアノには、奇抜などという言葉では足りないほどの、度肝を抜くアイデアや様々な趣向が凝らされ、あらんかぎりの装飾の数々が散りばめられていたりします。

少し前にヨーロッパのツートンのピアノのことを書きましたが、ここにあるのはそんな生易しいものではありません。
赤、青、黄などの原色に塗って模様があるぐらいは当たり前、グランドピアノ全身が陶器の絵柄のようなもので埋め尽くされていたり、全身ヒョウ柄のピアノだったり、極め付きはさすがに展示用とは思いますが、UFOらしき物体の一部がくり抜かれてそこに鍵盤がついていたり、ロケットかスペースシャトルのような形のグランドピアノで後ろのエンジンの部分がかろうじて鍵盤になっているなど、その発想は日本人が逆立ちしてもできないものばかりで、その底抜けな無邪気さにはただもう楽しんで笑うしかなく、世界中でこんなおもしろピアノフェアが見られるのは中国をおいて他ではまず絶対ないでしょう。

中国といえば、いうまでもなく日本の隣国で、漢字や仏教なども中国から伝わったものであるし、だいいち同じ東洋人ということで、肌の色から顔立ちなども近似していますから、つい東洋という共通点があるように思いがちですが、マロニエ君に言わせれば、かの民族は最も日本人とはかけ離れた、欧米よりもさらに遠いところにあっても不思議ではないほどの異国のそれであり、とくにそのメンタリティは悉く我々とは根本から違ったものを持っているようです。

その最たるもののひとつは美意識に関するジャンルで、これはもう我々にはまったく理解の及ばない世界があり、美術の世界などでも、彼らの作り出すものには何度腰を抜かすほど驚いたかわかりません。

いつの日か、機会があれば恐いもの見たさに、ぜひ覗いてみたいものです。
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梅雨のおきみやげ

ようやく梅雨が明けたのはいいのですが、我が家の庭には、今年の梅雨の途中からたいそう不気味なものが現れています。

はじめてそれを見たときは、朝方から激しく降り続く雨でうっすらとぼやけた視界の向こうに、いやに生々しい白っぽい物体が浮かび上がっているようで、目の錯覚かと思いつつゾッとしたものです。

以前、お隣との境界線近くにわりに大きな木があったのですが、どうしたわけかその木は隣家の敷地へばかり枝を伸ばし、落ち葉はもちろんのこと、これ以上成長しては隣家に多大な迷惑がかかるために、やむを得ず引き抜いてしまうことになりました。

とはいって胴回りが1m以上はありそうな木だったため到底素人で手に負えるものではなく、植木屋さんを呼んでその旨を伝えました。ところが、これぐらいの木になると地中にも相当強い根が張っていて、専門家をもってしても簡単に引き抜くなどできわけがないと、当方の無知を薄笑いされるほど。どうしてもやるというのなら重機などを使った相当大がかりな作業になるといわれました。

しかし、まるでお隣の敷地に寄りかかるごとく盛大に太い枝々を伸ばしている状態をこれ以上放置するわけにもいかず、引き抜くのは無理だから、そういう事情なら切ってしまうこと勧められ、やむを得ずそうすることになりました。

果たして植木屋さんが切ったのは(いまだにその理由はわかりませんが)、地面から1メートルぐらいの部分で、おかげでその後は太い切り株というよりは、もっと背の高い、奇妙な太い木のオブジェみたいな恰好で我が家の庭の隅に居残ることになりました。

それから数年間というのはとくにこれという変化はなく、ときどきあらぬ方向から新芽が出てくるので、まだ生きているらしいとは思いつつ、そんな新芽をそのままにしていると、気がついたときにはまた手遅れになることになるので、早め切ってしまいます。

この切断された太い木は、目立たない普通の木の色をしていましたが、今年の梅雨も半ばに差しかかった頃、ある朝、気がつくとハッとするほど白くなっていて、それもちょっとやそっとの変化ではなく、まるで人の手で色をかけたようなあからさまな白色に変わっています。

まずは、ただ驚き、とっさに何かこの長雨のせいだろうと推量しましたが、なんとなく近づくのも薄気味悪いのでうっちゃっていましたが、数日後やはり気になり、思い切って傍まで見に行ってみることにしました。
近づくにつれて、それは想像以上の不気味な様子に変化していることがはっきりしてきて、思わず肌が粟粒立ちました。

全体にびっしりと分厚くて白いスポンジのような物体が覆い被さり、嫌だったけれど、おそるおそる指先で押すとかすかな弾力がありました。
きっと変な種類のキノコかカビか、とにかく今年の厳しい梅雨がもたらした熱帯雨林みたいな環境のせいで、そんなようなものがこの背の高い切り株を覆いつくしてしまったのだろうと直感しました。

こんなもの、どうしたらいいものか…何ひとつ対策も考えも浮かばず、仕方なくそのままにしていますが、部屋の窓から見ると、梅雨の明けた強い陽射しの下に、まるで巨大な怪物の骨がゴロンと庭の向こうに置かれているようです。
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速読はエライ?

週末の昼間だったか、なにげなくテレビをつけてみると、ある女優さんが数人のアナウンサーらしき人達に囲まれて話をするというスタイルの番組をやっていました。

すると、同じドラマで共演する別の女優さんからメッセージのような映像が流され、そこで「○○さんは雑学にとても詳しくて撮影の合間などにいつもいろいろ教えていただいてます」というようなことが語られました。

それがきっかけとなって、スタジオではこの女優さんは雑学知識が豊富だということに話題が転じて、実は大変な読書家だということが視聴者に紹介されました。
読書家というのは大変結構なことで、今どき感心な人だなぁとはじめは思いました。

そもそも読書家になったきっかけというのが、優秀なきょうだいの末っ子であったらしい彼女は、少しでもなにかの知識を披瀝することで自分を主張し、いわば出来の良いきょうだいをやっつけるために、知識の情報源としてあれこれの本を読み出したのだそうです。

ちょっと変な動機だなとは思いましたが、それは子供の時分のことではあるし、たとえどのようなきっかけからであろうと、本をよく読むようになるというのは素晴らしいことだと、この時点ではまだマロニエ君は好意的に捉えていました。

ところが、だんだん話は思わぬ方向へ向かい始めます。
この女優さんは大人になってからも読書家であることは変わらず、司会者の手許には事前の情報があるのか、今でも相当お読みになるんでしょう?というようなことを話しかけながら、童話に至るまでのあれこれの本をひと月に200冊ぐらい読まれるそうですね、というと、なんとなくその場にどよめきが起こりました。

その女優さんは、謙虚そうに「いえいえ、今は忙しいのでそこまでは…」といいつつも、大筋は否定せず、時間さえあればそれぐらいのペースで読めますよということを暗に匂わせました。
すると、その場にいた数名はいかにも感心した態度を露わにし、かたわらにいた女性が話を引き取って「だいたい、読書家の人って、読むのが早いんですよねぇ…」と、本は早く、たくさん読むことが価値であるかのように、この女優さんの速読の能力を褒めちぎりました。

以前にも、別の番組でこちらは男性のコメンテイターでしたが、やはり一日に本を4、5冊ぐらい読んでいるというようなことをさも誇らしげに言っていたのを思い出しますし、書店に行くと速読ができるようになるためのHow to本が何冊も集められているコーナーを見た覚えもあります。

でも、マロニエ君から見ると、本を読むのに速読なんて基本的な読書の姿勢として価値があるとは到底思えません。現代人は何をするにも忙しくて、時間がなくて、本を読むにもスピードが必要ということなのか、理由はどうだかしりませんが、本を読むのさえそんなに急がなくてはいけないものかと思います。

とりわけ文学書を速読なんぞしようものなら、その人の教養さえも疑いたくなります。
作家の書いた文章をゆっくりと味わい、しばしその世界に身を委ねることがマロニエ君にとっての読書です。
いってみれば、本は読みたいから読むのであって、その結果として言葉や、知識や、思想や、その他の文化意識が身に付いてくるものだと思っていましたが、はじめから情報収集のために目的を絞って速読でむやみにあれこれの本を読み漁って、それで私は読書家でございますと言われても、それはまったく別の次元の話のようにしか聞こえません。

それでも、今どきは、こういう人が一般的には有能な勉強家ということになるのかもしれませんが、なんとなく寂しい気がします。
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ホジャイノフ

ロシアの若手ピアニスト、ニコライ・ホジャイノフのリサイタルがBSで放映され、やっとその録画を見ました。

今年の4月19日に行われた日本公演の様子で、会場は武蔵野市民文化会館小ホール。
曲目はプロコフィエフのソナタ第7番、ショパンのバラード第2番、シューベルト幻想曲さすらい人で、初めのプロコフィエフの演奏が始まってすぐに、これはなにかありそうだと直感しました。

全体に実のある、流れの美しい演奏で、戦争ソナタでさえも非常に澄んだ叙情性を保ちながらこの暗いソナタの内奥に迫りました。全体的に3つの楽章が自然と繋がっているような演奏で、プロコフィエフの蔭のある香りのようなものが、叩きつけるような攻撃的な表現でなしに、気負わず自然に(しかも濃密に)描き出してみせるその手腕は若いのに大したものだと思いました。

さすらい人でも詩情が豊かで、衒いのない、自然に逆らわない流れが印象的でした。しかも繊細さや作品の意味などをわざと誇張してみせるようなことはせずに、攻めるべきところはどんどん攻めながら果敢に弾いているのですが、その合間からシューベルトの作品が持つ悲しみがひしひしと伝わってくるのは見事だったと思います。

彼はまだ20歳で、モスクワの学生とのことですが、すでにはっきりとした自己を持っており、単なる訓練の成果をステージ上で再現しているのではなく、音楽の内側にあるものを自分の知性と感性を通して表現しているピアニストでした。
テクニックなども立派なものですが、いかなる場合も音楽上の都合と意味が最優先され、そのために僅かなミスをすることもありますが、ひたすらキズのないだけの無機質で説明的な演奏ばかり聴かされることの多いなかで、ホジャイノフの内的な裏付けのある演奏を聴いていると、そんなことはほとんど問題ではなく、純粋にこの人の演奏を聴く喜びが味わえたように思いました。

唯一残念だったのは、真ん中で弾いたショパンで、これだけは評価がぐんと下がりました。
合間のインタビューでは、バラードの2番が持つ静寂と激しさのコントラストが好きだというようなことを言っていましたが、それを表現しようとしているのはわかるものの、作品とのピントが合っているとは言い難く、このバラードの本来の姿があまり聞こえてこなかったのが残念でした。他の作品であれだけ見事な演奏をしているわけですから、おそらく彼の資質とショパンの音楽がうまく噛み合わないだけかもしれません。

ショパンの作品は本当にたくさんの人が弾きますが、実際にショパンと相性のいいピアニストというのは滅多にいないことがまたも証明されてしまったようでした。ショパンは演奏者の多様な個性に対してあまり寛容ではありませんから、そこにちょっとでも齟齬があると作品が拒絶反応をしてしまうようです。

このホジャイノフは、2年前のショパンコンクールでファイナルまで進みながら、入賞できなかったのですが、それはこのバラードひとつを聴いてもわかるような気がしました。
どんなに優れた演奏家にも作品との相性というものがあり、彼は今のままでも十二分に素晴らしい演奏家だと思いますし、ピアノのレパートリーは膨大ですから、今後が非常に楽しみな逸材だと思いました。

ピアノはヤマハのCFXでしたが、印象はこれまでしばしば述べてきたことと変わりはありませんので、とりあえずおなじことを繰り返すのは控えますが、陰翳が無く不満が残ります。
ただし、シューベルトのような曲では、このピアノの良い部分がでるように思います。
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都市高速環状線

福岡都市高速道路の環状線がついに全線開通しました。

とはいうものの、これまで福重JCTの繋ぎのところで一部未開通部分が残っているだけでしたから、今回開通したのはわずか1kmにも満たない区間に過ぎません。
それでも、これまではいったん下の道に降りて、すぐ先のランプへ再び入るという乗り継ぎをしなくてはならなかったことを思うと、そんな必要が一切なくなり、これをもって環状線としてきれいに完成したわけで、ずいぶん長かった工事期間を思うとやれやれという感じです。

なにも開通の当日早々、勇んで走る必要もなかったのですが、ちょうど休みで友人と行ってみることになり、夕食後とりあえず外回りを走ってみました。

日本の都市高速道路で環状線があるのは首都高速都心、阪神高速1号、名古屋高速都心に次いで福岡都市高速が4番目とのことですが、内回り外回り、いずれの方向へも走行が可能な環状線ということでは首都高速に次いで全国2番目とのことです。

新しく開通した区間を通るとき、おや?と思ったのは、これまでの福重ランプの降り口のすぐ先に福重JCTが続き、いきなり道が3つに枝分かれするようで紛らわしいことと、さらにはJCTの構造が進行方向に対して左に向かう西九州自動車道へ連なるルートが右の車線で、ほんらいそれよりも右方向に向かうべき天神方面が左の車線によって左右に分かれるということでした。

一度覚えてしまえばいいのかもしれませんが、実際の方角と、自分が進むべき車線の左右の関係がまったく逆というのは、人間の自然の感覚に反することで、これではとっさに間違ってしまうドライバーがいるのではと思われていささか心配になります。直前に気付いて急な車線変更でもしようものなら事故の危険もあり、これはぱっと見た感じは納得のいかない造りではありますが、おそらくいろいろな事情が絡んでこのような構造になったのだろうと思います。

さて、その環状線ですが、首都高速のそれが14.8kmなのに対して、福岡都市高速では35kmと首都高の優に2倍以上という長さになります。
新聞によるとJR山手線が一周ちょうど35kmでほぼこれに匹敵しますが、ひとまわりするのに何分かかるか時計を見ていると、夜で流れがよかったせいもあってか、快調に走って約25分ほどでひとまわりできました。

ただし、言葉では「環状線」と云うものの、途中通過する千鳥橋JCT、月隈JCTでは別方向へ向かうルートのほうが本線の扱いとなっており、環状線へ進むには特に意識してそちらへ積極的に枝分かれしながら走行しなくてはならず、首尾良く走るには安閑とはしていられないという印象を持ちました。

ループ橋を越えたあたりで気付いたのですが、昨夜は夜だというのに博多港には例の超大型客船が入港・停泊しており、船からこぼれ落ちる眩いばかりの無数の光にあふれたその一場面は、周辺の景色まで違って見えるようで、まさにゴージャスな映画のワンシーンを彷彿とさせるようでした。

マロニエ君は特にそういう趣味はありませんが、この景色はさすがに圧倒的で、好きな人にはきっと感に堪えないものがあるだろうと思われます。
だからというわけでもないのでしょうが、昨夜はとりわけ他県ナンバーの車が多く目につきました。
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湿度計の針

昨日はいつにも増して暑苦しい、ムシムシした不快な一日でした。

もともとピアノの為以前に、自分自身が温湿度にめっぽう弱いマロニエ君ですが、今年の厳しい梅雨のお陰で、自分自身が歩く湿度計になったように湿気を肌で感じるようになりました。

部屋に入るなり、現在の湿度がどれくらいか、およその見当がつくようになり、湿度計で確かめるとそれほど外れてもいません。

この蒸し暑いのに用事があって、夕刻天神に出たのですが、その不快感ときたら、最近よく耳にする言葉でいうなら「これまでに経験したことのないような」ものでした。
とりわけ猛烈だったのは湿度の高さで、小雨が降ったり止んだりと、こういうお天気は一定した雨天よりもよほどムシムシするところへ、人の往来で混み合う天神の雑踏の熱気とコンクリートの風通しの悪さが加わると、そこはまったく熱帯ジャングルのようでした。

むしろ外のほうがいくらかまだマシなぐらいで、天神のあちらこちらでは時節柄、節電も実施されているようで、その環境の厳しさは自分の体がおかしくなったのか…と思うほどでした。
場所やエリアによってはエアコンの効いているところと、そうでない部分とが入り交じってまだら状態になっており、ただ歩いているだけでも身体の調節機能もぐらぐらに狂ってしまいそうでした。

早めに用事を済ませてなんとか車に戻り、エンジンをかけると天国のようで、ようやく生き返りました。

帰宅して、ものは試しにピアノの上にある湿度計を外に出してみると、5分もしないうちにたちまち70%を突破しました。
普段そんなところを指したことのない我が家の湿度計に、急激にそんな環境の変化をあたえて壊れてしまわないかという気がしてきて心配になり、早々に屋内へ戻しました。
すると、部屋に戻るなり、湿度計の針はみるみる下がってもとの定位置へ戻ろうとします。

湿度計の反応はよほど遅いものと思い込んでいたところ、状況次第ではこんなにも動きが早いとは予想もしなかったことで、その針の動くのを肉眼で見たのは生まれて初めてのことでした。
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light

少し前にこのホームページの「マロニエ君の部屋」にタイムドメインのYoshii9というスピーカーの事を書きましたが、さすがにすぐに購入という価格でもないので、ひとまず小型で安い、同社の「light」というスピーカーを買い求めました。

マロニエ君の自宅には、普通のステレオ装置はあるものの、夜間など落ち着いて音楽を聴く時間の大半は自室のほうで、そこでは小型のヤマハのCDコンポを使っています。
とくに自慢するような高級機ではありませんが、まったくの安物でもなく、オーディオに興味のないマロニエ君にとっては狭い自室で聴くにはこれで充分だと(今でも)思っています。

しかしYoshii9の純粋でやわらかな美音を耳にしてからというもの、少しでもその手の音に触れてみたいという気持ちがあるのも事実で、それがlightではあまりに格が違うとは思いつつも、ものは試しという気分も手伝って購入にいたりました。

タイムドメインのスピーカーに詳しい調律師さんの談によると、同社のスピーカーを楽しむにはCDのプレーヤーなどは安い簡素なものでいい(というか、安物のほうがいい)とのことなので、量販店に行って3千円もしない中国製のポータブルプレーヤーを買ってきて、さっそくこれに繋げました。

lightは全体が白で形も可愛らしく、どことなくアップルの製品のような品のよさと存在感があります。
スピーカーコーンそのものの直径は4cmにも満たない超ミニサイズで、箱から取り出した感じでは、ほんとうにこんなもので聞くに堪える音が出るものだろうかと思ってしまうほどですが、果たしてそこからなんとも可憐な美音がでてくるところが不思議です。

さすがにヤマハのCDコンポに較べるとパワーはなく、ボリュームを大きくするとたちまち音が割れてしまうところなどが残念ですが、このスピーカーに無理のない、やや絞った音で聴いてみると、Yoshii9に通じる(気がするような)音が立体的に立ち現れるのはさすがです。

とりわけ良い意味での生の音がして、演奏者がドラえもんのライトで10分の1ぐらいに縮小されて、近くで演奏しているような気分が味わえるのはこのスピーカーの一番の魅力だろうと思います。
このスピーカーにはアンプも内蔵されているので、なんにでも繋げて手軽に楽しめるのはなかなか便利で、いろいろな可能性があるように思います。

便利なのはいいのですが、マロニエ君には困ったことも起こりました。
当然パソコンに繋ぐこともできるわけで、そうするとiTunesの音源はもちろん、広大な海のごときYouTubeをこのタイムドメインのスピーカーで聴けるようになったのは甚だ困りました。

それからというもの、ひとたび見始めると際限のないYouTubeの魅力が倍増し、真夜中に、たちまち2〜3時間が過ぎ去ってしまうのは新たな悩みの種になりました。
アル中の人が悪いとわかっていながら、あと一杯…あと一杯…と繰り返すように、もう一曲…もう一曲…と深みにはまってしまい、本当に止めてトイレに立とうとすると身体がまるで硬直していて、あちこちの骨がきしむような目に何度も遭いました。

さすがにこれはまずいと思い、できるだけ自重して、これまで通りにコンポでCDを聴くなどしていますが、休日前の夜などはつい誘惑に駆られて始めてしまうと、やはりどんなに短くても2時間はパソコンの前にまんじりともせずに身体を固定することになり、これはどう考えても不健康だと思わずにはいられません。

美しい音が心を慰めるのか、はたまた健康を害するのか、目下わからなくなっている状態です。
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ピアノフェスタ

博多駅のJR九州ホールで開催されるようになった島村楽器のピアノフェスタが今年も3連休に合わせておこなわれ、覗きに行きました。

マロニエ君が行ったのは3日間ある開催期間中の最終日で、この日はザウターピアノの6代目社長ウルリッヒ・ザウター氏による同社の紹介と、ザウターピアノを使った島村楽器のインストラクターによる演奏も聞くことができました。

入口からロビーにかけては電子ピアノの数々、さらにホール内部にはアコースティックピアノが数多く展示されていましたが、最終日の夕刻ということもあってか売約済みのピアノもちらほら目に止まりました。

昨年と違っていたのは、とりわけ輸入物のグランドピアノが数多く並べられているエリアでは、若干の「厳戒態勢」が採られ、ピアノのまわりには物々しい赤い布のテープが張り巡らされて、容易にはピアノへ近づけないように配慮されている点でした。
これらのピアノを見ようとすれば、たとえそれが目の前にあっても、いちいち赤いテープの途切れる地点まで回って、そこから「入場」しなくてはならず、ちょっと煩わしいという印象。

さらにはいずれのピアノにも「試弾ご希望の方は係員に…」という札が鍵盤の上に立てられており、ちょっと音を出してみるのも厳重に管理されている雰囲気でした。

わずかな音出しでも係員に断りを入れなければいけないというのも面倒臭いので、マロニエ君は忽ちどうでもいいような気になりましたが、同行者もあるし、わざわざ駐車場に車を止めて、休日でごった返す苦手な駅の人混みの中を掻き分け掻き分けした挙げ句にやっとここまで辿り着いたのだから、その労苦に対してもやはりちょっとぐらいは音のひとつも聞いてみなくては、なんのためにやって来たのかわかりません。
やむを得ず、近くに立っている係員に許しを請うと、はるか向こうで弾いている人が一人いることを理由に「もうしばらくお待ちください」と制される始末。

こんなにも、どれもこれもが「触れられないピアノフェスタ」というのも、なにやら諒解しがたいものがありましたが、かくいうマロニエ君も覗きに来ただけなので、べつに何か困るわけでもなく、それならばそれで構いません。

ところがその後で状況は一転することになります。
夕刻の1時間、ウルリッヒ・ザウター氏のお話と演奏によるイベントが終了した後は、社長自らステージ上にあるザウターピアノを「みなさん、お時間の許すかぎり、どうぞ弾いてください!」という試弾おすすめの言葉があり、それがきっかけとなって、その場に居合わせた多くの人々は、以降ピアノに自由に触れて歩く許可を得たかたちとなりました。

するとザウターピアノに留まらず、会場にあるピアノが弾かれはじめ、次第に騒然とした雰囲気に変わりました。
さも厳重な感じに張り巡らされていた仕切りの赤いテープも、この時点ですっかりその意味を失って、とくにベヒシュタインやスタインウェイが居並ぶエリアでは、入れ替わり立ち替わり腕に自信のあるらしいピアノ弾きの人達の自由演奏会のような光景と化してしまったのはびっくりでした。

何人もの人が難易度の高い曲をずいぶん熱心に弾いていらっしゃいますが、隣り合わせにズラリと並べられた何台ものピアノがそれぞれの弾き手によって、同時にまったく違う曲を弾かれているカオスが延々と続き、あれでは自分が弾いているピアノの音色や響き具合などわかるはずもありません。

このときに至って、ようやく厳かなる赤いテープの意味が少し理解できた気がしました。
ピアノの展示会では「無礼講」になったが最後、それはもう収拾のつかない状況が繰り広げられてしまい、限られた時間の中で本当に購入を検討する人は、到底その目的が達せられないだろうと思います。

そのあたりのお店の判断も難しいところでしょう。
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強力な助っ人

昨日あたりからようやく少し晴れ間が覗くようになったものの、今年の梅雨が、こんなにも長くて重苦しいものとは想像もしていませんでした。

梅雨の入口あたりから酷使されていた我が家の除湿器ですが、購入後わずか数年にして明確な故障ではないものの、いまひとつ除湿能力に翳りが出てきたように感じていました。

これは以前にも少し書きましたが、これを故障であるかどうかの診断を仰ぎ、もし故障の場合は修理をするとなると、本体をメーカーへ送るなど、その手間暇と時間、さらにはコストを考えるならとてもそんなことを実行する気にはなれず、思い悩んだ末に新しい除湿器を購入しました。

これまでのものよりより除湿力の高い機種を選ぶことで、少しでもその能力に余裕を持たせたいという目論見もありましたし、そのほうがトータルでは得策だろうと判断しました。

マロニエ君はCDなどを購入するときは、巷の評判など人の言うことはまず信じませんが、こと家電製品などを選ぶ場合は一転してネット上のユーザーの評価などを大いに参考させてもらっています。
とくにサイトによっては機種毎の評価や口コミなどが事細かに寄せられており、しかもこういう場所には普通のユーザーからやたら詳しいマニアックな人まで、いろんな人達がたくさんいて、いいことしか書かないメーカーのホームページよりも格段に頼りになるという印象です。

そこでは、さまざまな評価をもとにしながら、これだと思える機種を絞り込むことができるだけでなく、購入の意志が固まれば、そのまま一般の電気店で買うよりかなり安く購入できる点も併せて便利でありがたいところです。

注文すると数日で届き、さっそく使っていますが、これまでの除湿器が本調子ではなかったということもあってか、まったく次元の違う除湿能力にはすっかり満足していると同時に、今年の厳しい梅雨の途中で、この強力な助っ人があらわれたことは本当に幸いでした。

やはり家電製品などは、全般的に新しいもののほうが効率が良く、性能にも余裕があるような気がしますが、確かなことはわかりませんし、耐久性という点に於いては疑問もあるかもしれません。先代ではほとんど休みなく回りっぱなしでかろうじて40%後半を維持していたのが、新機種では、油断すると湿度計の針が30%台になることもあって、ときどきOFFにしたりしていますから、やはり潜在力が違うようです。

この除湿器が稼働しはじめてからほどなくして、北部九州は各地で被害が出るほどの猛烈な雨に見舞われることになり、当然のように家全体、街中全体がジメジメしたジャングルのようで、連日の分厚い雨と高湿な空気に包まれ続けています。しかもそれがとてつもなく長期間にわたっているところが今年の梅雨の厳しさだったように感じますし、未だ終わったわけでもありません。

マロニエ君としては他のことはさておくとしても、ピアノだけはなんとか湿度から保護したいわけで、今年の手強い梅雨を相手になんとかそれができているのは、ひとえにこの新しい除湿器のお陰であって、買って正解だったとしみじみ思っているところです。
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遊びごころ?

最近、新しいピアノが入荷した旨、あるピアノ店から写真付きメールをいただきましたが、そこには荷を解かれたばかりのヨーロッパ製の美しいグランドピアノが写っていました。

以前、マロニエ君もちょっと触らせていただいて好印象を得ていたメーカーのピアノで、より大型のものが入荷してきたようでした。以前のものよりもよりやわらかな音がするとのことです。

今回のピアノの特徴は、その外装の仕上げでした。
黒と木目(赤っぽいブビンガ)のツートンで、木目は主に内側に貼られており、大屋根の内側、ボディ垂直面の内側、譜面台、鍵盤蓋の内側などが派手な木目になっています。

このスタイルはヨーロッパのピアノではときおり目にするものですが、国産ピアノでは一度も見たことがありません。もともと日本人はピアノといえば厳かな黒というイメージがあることに加えて、木目仕様では安くもない追加料金も発生することもあってか、それほど人気があるようには思えません。
ましてやツートンなどとんでもないというところかもしれませんが、たしかカワイなどは輸出向けモデルには、あらゆる色やスタイルの外装がラインナップされていて驚いたこともあります。

ヨーロッパの人達は、ピアノを置く際にもインテリアとの調和を大事にするようで、部屋の雰囲気や他の調度品とのバランスなどにも大いに意を注ぐのは、それだけ自分達の居住空間には東洋人よりも強い拘りと伝統に根ざした美意識があるのだろうと想像します。

そんな中で、この「内側だけ木目」という仕上げのピアノがどのような位置付けなのかは東洋の島国のマロニエ君にはわかりませんが、ひとつの遊び心でもあるような気がします。
蓋を閉めている状態では普通の黒のピアノが、演奏するために蓋を開けると、そこへ強い調子の鮮やかな木目が現れるのは、それだけでも人の心をハッとさせる意外性が込められているように思います。

というのも、このツートン仕上げは、マロニエ君の個人的な印象でいうと、普通の木目ピアノよりもさらに鮮烈な印象を与えるようで、それは主に黒と派手な木目の強いコントラストが生み出す独特な雰囲気のせいなのは間違いないでしょう。まるでネクタイやカマーバンドだけ色物を使ったタキシードのようで、多少の遊び心もありますが、それだけ好き嫌いの分かれるところかもしれません。
ちょっと前に流行った言い方をすると「ちょい悪オヤジ」みたいな感覚でしょうか。

見方によっては一種のエグさみたいなものがあって、そこがこういうセンスの心意気であり魅力だと思うのですが、たぶん日本人にはそのエグさがあまり幅広くは受けないのかもしれません。

しかし、考えてみれば日本人もむかしのほうが遊び心というのもあったようで、地味な羽織の裏地に目もさめるような派手な柄をあしらったり、琳派の絢爛たる屏風や襖絵などをみると、今よりよほど遊びに対するセンスと文化意識があったようにも思われます。

その点では現代のほうがよほど保守的で堅実になってしまった観がありますね。
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好ましい変貌

一昨日の夜は久しぶりの田中正也ピアノリサイタルに行きました。

曲目はショパンの英雄、子守歌、op.48のハ短調のノクターン、ベートーヴェンの熱情、ラヴェルの夜のガスパールからオンディーヌ、ラフマニノフのエチュードタブローop.33-9、スクリャービンの3つの小品、プロコフィエフの7番の戦争ソナタ、アンコールはワーグナー=リストのイゾルデの愛の死、リストのカンパネラという、ずっしりしたものでした。

田中正也さんのピアノはすでに何度も聴いていたので、ある程度の予想はしていたところ、わずか2、3年の間に著しい変化が起こっているのは驚くべきことでした。冒頭の英雄で「んっ?」と思い、ノクターンに至ってそれはやがて確信に変わりました。

10代の半ばからロシアに渡り、モスクワ音楽院で修行され、とりわけパーヴェル・ネルセシアンに師事したことが彼の根底となるピアニズムを決定したという印象があり、良くも悪くもネルセシアン臭を感じないわけにはいかない演奏であったことが、これまで聴いた彼の特徴だったように思います。

ところが今回の田中さんはかなり違っていて、見事に一皮剥けたというか、独りよがりではない客観性が備わり、いずれの作品も磨かれたレンズではっきりと見通せる好ましい演奏に変化しているのには驚きました。
どこか恣意的で自己完結風でもあった演奏が、あきらかに人に向けて聴かせるに演奏になり、説得力のある堂々たる音楽を紡ぐピアニストへ変貌していました。

テクニックは以前から見事なものがありましたが、それに心地よい曲の運びと情感が加わったのは、まさにそこが以前の彼には足りないと思っていたものだっただけに瞠目しました。
さらには、ほどよい緊張とリラックス感の調和が取れており、聴く側もまったく安心してその演奏に身を委ね、彼の演奏に乗って音楽を旅することができました。

ごまかしのない丁寧さがありながら、音は決して痩せることがなく、分厚い響きや、ときには轟音のような力強さも兼ね備えているし、クオリティも高くなかなか立派なものです。

終始ゆるぎのない、筋の通った見事なピアノリサイタルで、過去に聴いた田中正也さんの演奏会中、最もよい出来映えであっただけでなく、おそらくマロニエ君があいれふホールで聴いたコンサートの中でも最高レベルのものだったと思われ、久しぶりにピアノらしいピアノを聴いた気分で会場を後にしました。

そのあいれふホールですが、マロニエ君は後ろから2列目の席で聴きましたが、あいかわらず音が鋭くわめくような響きのホールで、音響的には快適とは言えないものでしたが、これは如何ともしがたいところです。

ピアノはここのスタインウェイで、ちょっと違和感のある調整でしたが、田中さんはそれをものともせず、まったく手抜きのない素晴らしい演奏によってホールやピアノの不備を見事に覆い隠してしまい、途中からそんなこともまったく気にならなくなりました。
逆説的な言い方ですが、少しぐらいの不備があったほうが却って演奏家は真価を発揮しやすいのでは?という気さえしました。完璧に調整されたピアノを、理想的な響きのホールで弾くのでは、なにやらあまりに条件が整いすぎという感じで、弾く方も聴く側もどことなく居心地が悪いようにも思います。

もうひとつ、改めて感銘を受けたのはスタインウェイの底知れない真価でした。少々の不調などものともせず、重量級の曲をどれだけ壮絶に追い込んでも、激しい和音がどれほど折り重なっても、決してピアノが崩れるということがないのは呆れるばかりで、その比類ない音響特性の逞しさは、まさに圧倒的なものがありました。
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オトナを演じる

世の中はすっかりネット社会で、もはやそれなしには何事も立ち行かなくなってしまいました。

テクノロジーの進歩は、それを使う側のあり方が常にこの分野の尽きない副主題であり、優秀で便利な革新技術が生まれれば、それだけ倫理性や節度というものが問題となるは当然ですが、これが難題です。

とりわけネットの普及には、世の中の在り方自体をひっくり返してしまうほどの力があり、今やほとんどすべての物事がネット主導で動いており、現実社会は、それを追認し具体化するだけの場所になり果てているように感じることもままあります。

昔は(といってもたかだかマロニエ君が知っている昔ですが)、何をするにも今にくらべると何かと手間暇がかかり、不便といえば不便でしたが、それは現在の便利を知ってしまった結果そう思うだけで、当時はそれを不便だなどと感じることはほとんどありませんでした。

振り返ればそこにはいいこともたくさんあり、その手間暇の中には、今から思うととても人間的な情緒的な温かみや味わいがあって、昨今、加速度的に失われていく多くの人間臭いものが、ごく自然な手続きとして含有されていたように思います。

もはや生の人間関係すらどことなくネットの延長上にあるようで、直接会っている人との感触においても、ネットのルールや発想から完全には逃れることはできず、そこになにかしら縛られている気配を感じてしまうこともしばしばです。

すくなくともネット上での慣習、パソコンの操作感触や体験が、しだいに人の心の深奥にまで侵食してしまい、現実社会でもその流儀が横行してしまっていると感じることが多々あるのは、とても恐ろしいことのように思います。

人との関係も、なんの縁故もない者同士がネットで出会うなど、そのこと自体にも賛否がありますし、その手の出会いは僅かな例外を除いて大抵は関係が希薄で、ささいなことであっさり終わってしまいます。

それで得心がいったこともあり、だから今の人間関係には、いつかそんな瞬間が来るのではという予感と覚悟を多くの人が本能的にしているようで、よけい表面的に関係が良好であるよう振る舞うことにエネルギーを費やし、口にすることも必然的に無害な当たり障りのない安全なことばかりになるのでしょう。

「ケンカをするのは仲が良い証拠」という言葉はもはや死語に等しく、今どきはケンカはおろか、どこか不自然な感じがするほど良い人ばかりなのは、つまりケンカができないからなんですね。むかしは、ケンカは、煎じ詰めれば「もっと仲良くなるためにすること」ぐらいな認識でいられましたが、いまはちょっとでも関係がつまづくと、まずそれで関係は終了です。

つまり失敗が許されない。双方が理解し許し合うだけの許容量も情愛もない。
しかし生身の人間関係で失敗がないなんてことがあるでしょうか? だから誰もが本音は胸の奥深くにしまい込んで神経をすり減らしてでも偽りの善人を装い、それを徹底して貫くために毎日を芝居のように演じているのだと思います。
そしてその芝居が上手くて持続力のある人のことを、現代では「いい人」とか「オトナ」という尊称で呼ぶようです。

不思議なもので、役者が役になりきるように、そんな芝居でもとにかく毎日やっていればそれに慣れもすれば上達もして、しまいには意識まですっかり立派な人物のような気になるのでしょう。

要は、みんな孤独で、恐くて、ピリピリしているだけのことかもしれません。
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フレイレのショパン

ネルソン・フレイレの弾くショパンのノクターン全集の評判がいいようなので聴いてみました。
2009年12月に録音された2枚組CDで、レーベルはデッカ。

とくにハッとするような何かはないけれど、なるほどどれもがよく錬られた誠実な演奏で、趣味も悪くないし、どこにも嫌なところのない好ましい演奏だと思いました。
とくに自分の主張は二の次で、ひたすら作品に献身している姿は印象的です。

この人はいまさら云うまでもなくブラジル出身の世界的ピアニストで、その信頼性の高い深みのある演奏には以前から定評がありました。それでも若い頃はもう少しはラテン的というか、ときには激しいところもあったように記憶しますが、近年はいよいよ円熟を深めているようです。もともと音楽優先で自己顕示性の少ないピアニストでしたが、その度合いをいよいよ増しているようで、決して作品の姿を崩さず、さすがと思わせられるところが随所にあります。

南米出身でありながら、ヨーロッパの音楽にこれほどまでに正面からひたむきに取り組むピアニストとして思い出されるのはアラウですが、彼らはヨーロッパの生まれでないぶん、よけいに虚心な気持ちで数々の偉大な作品に畏敬の念を覚えながら好ましい解釈を求めて演奏に取り組むのかもしれません。

フレイレを聴いていつもながら見事だと思うのは、まさに練り上げられた大人の演奏に終始する点で、ときに演奏家の存在感さえも見えなくなるほどです。
昔から感じていることで唯一残念なのは、あと一歩というところの華がないというところでしょうか。
これだけの素晴らしい演奏をしていながら、もうひとつフレイレでなくてはならないという積極的な理由が稀薄な点が、裏返しの特徴なのかもしれません。

もちろん、ここでいう華というのはうわべの派手さという意味ではなく、一人のピアニストとしての存在感とでもいえるかもしれませんが…それは欲というものでしょう。あまたのピアニストの中でこれほど誠実な演奏をする人が今円熟の真っ只中にいることをなにより尊重したいというのがマロニエ君の素直な気持ちです。

このCDに関して特筆すべき残念な点は、やはり最近のデッカ特有のまったく理解に苦しむ音質だったことです。トリフォノフのショパン、プラッツのライヴ、ウー・パイクのベートーヴェンなどすべてに共通した、広がりのない詰まったような音、中音域は衝撃音が突き刺さって来るような不快なあの音だったことは、この美演の真価を何割も割り引いてしまっていると思うと、甚だ残念で仕方がありません。

プロデューサーの名前などを調べると、必ずしも同一人物ではないにもかかわらず、出来上がった音にこれだけの著しい共通点があるということは、よほどデッカではこれを良しとしているのかと、その不可解な疑問はいよいよ深まるばかりです。
しかし、いずれにしてもこれだけ音質に落胆させられることが明瞭にわかってくると、今後はデッカのCDは極力避けるしかないということでしょうか…。
本当に気の毒なのは、優れた演奏をしているこのレーベルのピアニスト達です!
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