モスクワ音楽院

新聞のテレビ欄を見ていると、ふと「~モスクワ」という文字が目に止まりました。

『世界ふれあい街歩き』という番組で、モスクワ市街を周遊するものがあって、なんとなく録画しておきました。
行ったことのある人はともかく、普通はモスクワというと目にできる光景は大抵クレムリンや赤の広場などで、それ以外の街の様子がどうなっているか知らないし、ほとんど見たことがない。

最近は、動画サイトで車載カメラによる衝突映像などからロシアの一般的な風景も昔より目にするチャンスが増えましたが、それらはいずれもロシアならではのいかにも荒っぽい事故やトラックが衝突横転する様子などで、こちらもついそれにばかり気を取られつつ、全体的な印象としてはまあとにかくどこもかしこもやたら広くて、こう言ってはなんですが街中でもあまりきれいとは言いかねる荒涼とした風景が広がっているという印象です。

それでも、モスクワはなにしろあの大国ロシアの首都であるし、NHKのカメラがきちんと撮影したらいったいどういう街なのか、素朴な興味がありました。

果たして、ソ連が崩壊して四半世紀が経ったモスクワの町並みというのは、昔を知っているわけではないけれど、その頃からあまり変わっていないように見えたし、かなり地味で寂しげな街という印象で、そういう意味では少々驚きました。
改革開放以来のすさまじい発展を繰り返す中国の都市とは、まるきり対照的。

おもしろかったのは、マロニエ君にとってはやはり音楽関連で、なんとモスクワ音楽院がでてきたシーンでした。

道端の公園のようなところにチャイコフスキーの銅像があり、その下のベンチで4人の若い男女がしゃべっています。
カメラが近づいて声がけすると、彼らは傍らにある音楽院の生徒で、ピアノの練習をするため、教室が空くのを待っているところだといいます。

番組も彼らについていくことになり、威厳ある建物の、しかしずいぶんと小さなドアから中に入ると石造りの階段があって、そこを登って行くと、ずんずんと音楽院の内部へと潜入していきます。

モスクワ音楽院といえばチャイコフスキー・コンクールの本選会場であるばかりでなく、あの有名な大ホールでは、これまでいったいどれだけの名演が繰り広げられ、世界のコンサート史の一端を担っている重要な場所であるかを思うと、さすがにこの時はドキドキしました。

小ホールの入口というところでは、偉大な卒業としてラフマニノフなどの名を刻したプレートがズラリと並んでいたりと、やはりずっしり重い歴史が幾重にも刻まれていることを感じます。
教室に入ってみると、まったくさりげなくポンと新しめのスタインウェイDが置かれていて、ここにはそんな部屋がいくらでもありそうでした。これを生徒は自由に使えるのだそうで、ピアノは2台の部屋も3台の部屋もあるよね…などと軽く言っています。さっきの生徒ひとりがさっそくピアノの前に座り、弾き始めたのはさすがはロシア、バラキレフのイスラメイでした。
ピアノの音は酷使のせいかビラビラでしたが、でもなんかやっぱりすごい。

彼らが言うには、自分だけでは常に客観的に聴けるわけではないから互いに助言を頼むのだそうで、友人の意見が必要とのこと。至極もっともな意見ですがそんな当たり前のことに、ドキッとさせられる記憶が蘇りました。
それは、日本のトップとされる音大を出たピアニストが言っていたことで、(日本の)音大で最も嫌われることは「人の演奏に意見をいうこと」なんだそうで、だからそれは互いにタブーとされているという、とーってもヘンな現実です。さらには自分の好きなピアニストの名さえも言わないようにする(相手がそのピアニストを好きではなかった場合のことを考えて気を遣う)というのですから、その遠慮の度合には呆れてしまいます。

日本人の演奏能力がどれだけ上がっても、彼我の違いはこういう根本的なところにあるのだなあと思わずにはいられない一場面でした。

モスクワ音楽院で個人的には最も驚いたのは、廊下に長大なコンサートグランドが足を外された状態で、無造作に立てかけられたりしていることでした。それも場所によってはサンドイッチみたいに2台重ねてしかも前後にも2列、計4台がまるでただの大きな荷物みたいにゴロゴロ置かれているなど、「うひゃー」な光景でした。

ビデオで録画していたので、繰り返し注意深く見てみると支柱の形状やサウンドベルの位置から、それらはスタインウェイDであることが判明。また別の場所にはブリュートナーのフルコンが同じように立てかけられていたりと、やはりここはとてつもない所だと興味津々で、なんだかわくわくして胸が踊りました。
こんなところ思うさま探検できたら、どんなに楽しいことか…。
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流麗なんだけど…

どこか腑に落ちない演奏ってあるものです。

菊池洋子のピアノで、モーツァルトのピアノ協奏曲第20 KV466/21番 KV467のCDを聴いてみて、ふとそんな気分になりました。オーケストラはオーケストラ・アンサンブル金沢、指揮はKV466が井上道義、KV467が沼尻竜典。

日本人として初めて「モーツァルト国際コンクールのピアノ部門で優勝」したことがこの人の特筆大書すべき経歴で、いきおい日本の新しいモーツァルト弾きというようなイメージが定着しつつあるようです。
ところで、そもそも「モーツァルト国際コンクール」というものがどんなものなのかよく知りませんし、このコンクールからこれといった演奏家が出てきたという記憶もありませんが、マロニエ君の不勉強のせいでしょう。

菊池洋子さんは、NHKのクラシック倶楽部などでも聴いた記憶があり、そのときもやはりモーツァルトのソナタやピアノ四重奏をやっていたように思いますが、どちらかというと明るく明快な演奏ということ以外、詳しいことまで覚えてはいません。

印象に残っているのは、ゴーギャンの描くタヒチにでもいそうな、長い黒髪を垂らした異国的な容姿と、沈潜せず、サッパリした語り口で、張りのあるモーツァルトを弾く人というようなイメージでした。

今回あらためてCDを聴いてみて感じたことは、耳に快適で、指も心地よく回っているし、音に華があること、さらにはよく準備された誠実な演奏で、なかなかよく弾けてるなぁというものでした。
ただ、欲を言うと、もうひとつこのピアニストなりの個性が明確にはなっておらず、あくまで譜面をさらって、万端整えて出てきましたという感じが残り、演奏を通じて奏者の語りを聴くという域にはまだ達していないように感じます。

センスはとてもいいものを持っていらっしゃるようだけれど、大きなうねりや陰影がなく、ひたすら全力投球で真っ直ぐに弾いておられるのだろうと思います。モーツァルトは一見まっすぐに見えて、実はかなり屈折した造りでもあるので、そのあたりを感じさせて欲しいのですが。

ブックレットによれば、ご本人はモーツァルトの即興性を大事にされ、その場で音楽が作られたかのように毎回臨みたいというような事を云われていますが、たしかにそれは感じられ、ただの印刷のような演奏でないことは大いに評価すべきところだと思いました。
さらには、いちいちが説明的ではない点も好感をもって聴くことが出来ました。
それはそうなんだけど、惜しいのは全体にせかせかして落ち着きのない感じを与えてしまっているあたりでしょう。

このふたつの協奏曲は、ケッヘル番号も連番になっている通り、ほとんど同じ時期に書かれた作品ですが、短調と長調という違いに留まらず、陰と陽、表と裏、精神的な明と暗という、対照的な関係にあって、もし役者なら同一人物に内包する極端な二面性の演じ分けに腐心するところではないかと思われます。
ところが菊池さんの演奏では、どちらを聴いても同じような印象しか残らず、とくに20番のほうに楽しげな明るさを感じてしまったのは少々慌ててしまったし、第2楽章も川面に浮かんだボートでくったくなくスイスイ遊覧していくようで、いささか面食らいました。

このCDには2曲(各3楽章)で計6つのトラックがあるわけですが、極端に云えばどれを聴いても同じようなに聞こえてしまうわけです。菊池さんにとってモーツァルト作品は長くお付き合いされ本場で研鑽を積まれた結果なのでしょうから、一定の見識のもとにこのような演奏に至っておられるのかもしれませんが、マロニエ君にはその深いところが汲み取れませんでした。

さらに言ってしまうと、マロニエ君は新しいCDはとりあえず何回も繰り返し聴くのが習慣ですが、このCDはそれがちょっとつらくなります。
華やかな同じ調子の演奏が延々と続くことに、聴く側のイマジネーションが入り込む隙がないようで、だんだん飽きてくるし、マロニエ君としては、もともとモーツァルトの精神の暗部に敏感であるような演奏を好むためかもしれません。

プロフィールを読むと、フォルテピアノの演奏もお得意の由で、もしかするとそちらの楽器にマッチする方なのかもしれません。私見ですが、モダンピアノは潜在的な表現力がフォルテピアノにくらべると格段に大きいので、より雄弁で多層的な表現の幅が要求されるのかもしれません。
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『音楽の贈り物』

ブックオフでの思わぬ掘り出し物に気をよくして、また別の店舗に行きました。
ピアニスト遠山慶子さんのエッセイとCDをひとまとめにした『音楽の贈り物』が目に止まり購入。

これまで書店で買うには至らなかったものが、こうして安く中古で手に入るというのはわりにおもしろいなあと思っているこの頃です。

遠山さんは1950年代にフランスに渡り、あの伝説のピアニストであり教師でもあったコルトーの弟子になられたという経緯をお持ちの数少ない日本人だと思われます。

エッセイはどれも短編で、あっさりした語り口がこの方の人柄やセンスを表しているようで、これまでの経験や感じてこられたことのエッセンスのようなもの。そこにはご自分が接した音楽家や文化人の名前が綺羅星のごとく登場しますが、そういう良き時代だったことを偲ばせるものでした。
文字を追うだけで、まるで1950年代から60年代のパリの空気を吸い込むようで、これを読めただけでもなんというか、薫り立つような体験をさせてもらったような気になり、とても満足でした。

また、本と一緒に1枚のCDが添えられており、遠山さんのソロがいろいろと音として楽しむことができました。本来マロニエ君はこういうスタイルはどこか下に見ていたようなところがあったけれど、それはやはり書く人、弾く人しだいというわけで、これはなかなかに楽しめるものでした。

曲目はモーツァルト:デュポール変奏曲、シューベルト:ソナタD566、ショパン:ノクターンNo,5/8/11/16、ドビュッシー:子供の領分というもの。
この中で、シューベルトのソナタだけは遠山さんのご自宅のベヒシュタインが使われ、それ以外はベーゼンドルファーのインペリアルが使われているというのも、ピアノ好きにとっては興味をそそるもの。

とりわけショパンでは、そのピアノの音の甘くて艶があって繊細なことにまず耳を奪われました。
近年ではこれぞと思うベーゼンドルファーにはなかなか縁がなく、インペリアルなどは図体ばかりでかいくせして、一向に満足な鳴り方をしないピアノを何台も見たり聴いたりしていたので、こういう美音にみちた楽器もあるのだということが思わずうれしくなり、うっとりできました。

またシューベルトに聴くベヒシュタインも、いわゆる普通のベヒシュタイン然とした音ではなく、こちらも色艶があってどこか可愛らしくさえあり、併せて哀愁のようなものまで感じさせるピアノでした。

最も驚いたのは、ショパンのノクターンに聴くベーゼンの音で、どことなくプレイエルを想起させる雰囲気すらあったのには、思わず声を上げたくなるほど驚きました。こういうショパンもアリという点で、まったく予想外なものでした。
耳を凝らせばたしかにベーゼンドルファーの特徴的なつんとした声が奥に聞こえてはくるけれど、全体的な音のニュアンスとそこに流れる空気はあきらかにフランス的で、こういう音を聴かされてしまうと、このピアノを選ばれた遠山さんの意図がわかる気がしました。

遠山さんはコルトー仕込みであるのはもちろん、ご自宅にもプレイエルのグランドをお持ちなので、コルトー&プレイエルが醸し出すあの独特なパリのショパンの世界は重々わかっておいでのことでしょうし、まったく違った楽器を使ってこのような音の世界を創出されるというやり方というか感性にもただただ脱帽。

ここに聴くベヒシュタインとベーゼンドルファーはいずれもまるでフランスピアノのような香りをもっており、これはとりもなおさず遠山さんの美意識が求めた結果の音作りであっただろうと、聴きながらマロニエ君は勝手に深く納得するのでした。
同時に彼女の好みをよく理解し、それをピアノに反映させた調律師の存在も見逃すことはできません。

しかもベーゼンドルファーは、曲によってウィーンと草津、埼玉と3ヶ所で録音さらたもののようですから、当然ピアノも技術者も違うだろうと考えたら、ますます驚かずにはいられませんでした。しいて云うなら草津で録音されたモーツァルトはわりに普通のベーゼンドルファーの感じでしたが、それ以外はかなりフランス風でした。

エッセイの中でプレイエルのことを「軽く透き通るような音」と表現されていましたが、まさにその通りだと思うし、このドイツ系の2台のピアノもそれ風になってしまっているところが唸らせられます。
フランス風な奏法ということもあってそういう音が出ているのだとすると、日本人がただプレイエルを弾いてもそれらしい音は出ないという暗示のようにも感じられます。

演奏はおだやかで良識的で、知性あふれるマダムという感じでした。
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もこもこ音

ユーラ・マルグリスは楽器にもかなり積極的な興味を示すピアニストで、シュタイングレーバーのピアノに弱音器を装着してシューベルトの作品などを入れたCDも出しており、このブログにも書いた記憶があります。

その第二弾ともいうべきCDがあって、そうとは知らず、アルゲリッチとのデュオがあるために購入してみたところ、よくみれば全10曲中、9曲までがマルグリスのソロで、デュオは最後のムソルグスキー:禿山の一夜(マルグリスによる2台ピアノ版)のみというものでした。

本来ならこんなCDの在り方は大いに憤慨するところですが、アルゲリッチは例外なので仕方ありません。
以前マルグリスが別府のアルゲリッチ音楽祭(たぶん第1回)に参加したときにも、この禿山の一夜を二人で演奏していますが、その後この曲のCDらしきものはなく、十数年経ってようやくそれが手に入ったことになります。

ところで、この弱音器付のシュタイングレーバーはシューベルトの時とおそらく同じ仕様で、よく見ればレーベルもシューベルトのときと同じOEHMS。
弦の下で待機する帯状のフェルトが、ピアニストの操作(たぶんペダル)によって打弦点まで移動し、それによりハンマーはフェルト越しに打弦することになるというもの。
かゆい背中を、直に手で掻くのか、服の上から掻くかの違いみたいなものでしょうか。

ライナーノートには、アルゲリッチがこのマルグリスの消音器がもたらす音の効果を賞賛している一文が、直筆のまま掲載されており、おそらく彼女もこのピアノを試してみたことが推察されます。「ピアノの色彩や能力が増した」というような意味のことが書かれているようです。
まあ、なんでもすぐに褒めまくるアルゲリッチのことですから、大いに社交辞令も入っているものと思いますが。

たしかにその効果は明確で、これを使った音はハッとするほどまろやかになり、このような劇的変化はこれまでの弱音ペダルではとても達成し得なかったものであることは間違いありません。
ただ、しかし、その差があまりに大きく、使用時と不使用時の落差が却って気になることも事実。

通常の弱音ペダルではハンマーの弦溝をわずかにずらすことで、伸びの良いやわらかなトーンを出すものですが、このマルグリスが弾くシュタイングレーバーは、それどころではない変化がONとOFFという感じで起こり、マロニエ君の耳にはある種の違和感が残ります。
もちろんチェンバロやオルガンのストップもそうではないかといわれれば、そうなのですが、慣れの問題もあってモダンピアノではこれだけ大きな音色の変化には聴き手の耳がついていけないのかもしれません。

とくにシュタイングレーバーは弾きこまれると、かなり生粋のドイツピアノといった風情でエッジの立った音がするので、そこへいきなりフェルトが差し込まれることで、唐突にこもった音になったようにしか聞こえないのです。

マルグリスのソロではこのシュタイングレーバーが使われますが、最後のアルゲリッチとのデュオではあっさりスタインウェイになっていて、データによると録音はいずれも2014年のルガーノ音楽祭でのもの。
アルゲリッチもそんなに褒めそやすなら自分も弾けばいいのにと思いますが、どこまで本心かもわからないし、アーティストとピアノメーカーの関係、その他諸々の制約や契約上の縛りもあって、事はそう簡単ではないのかもしれませんが。

おそらく会場や録音環境も似ていると思われますが、一枚のCDでシュタイングレーバーからスタインウェイにかわると、思った以上にぜんぜん違った世界が広がります。
シュタイングレーバーは言うまでもなく素晴らしい第一級のピアノですが、生まれもった個性がまったく異なるため、続けて聴いていると喩えは悪いかもしれませんが、まるで田舎から都会に戻ってきたような感覚でした。
スタインウェイはやはり洗練された美しいトーンで、慣れの問題もあるのでしょうが、これが鳴り出すとやっぱりホッとするような気になってしまうのも偽らざるところです。

いつだったか、2台ピアノで違う楽器を使うことでブレンドの面白みがあるというようなことを書きましたが、その点で云うと、いっそシュタイングレーバーとスタインウェイを組み合わせるとどうなるのか、いっそそれで弾いて欲しかった気がします。
きっとかなり面白いものになるような気がします。
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逆の責任

どうもここ最近の気象は以前とは違うらしいことは多くの人が感じていることですが、今年は8月という早過ぎる時期から、台風とはあまり縁のないはずの東北地方や北海道にまで上陸するなどして、なんだか嫌な感じがしていました。

そんな中、ついに12号が南の海に発生し、今度は九州を目指しているらしい。
東北・北海道と慣れない地を荒らしまわった台風が、次はいよいよ九州沖縄という本拠地に到来というわけか、先週後半からなにかというと台風の進路予想図に目を留めるようになりました。

地震よりマシとは思うけれど、台風も非常に嫌なものであることに変わりはありません。
とくにマロニエ君宅は、隣家も含めかなりの大木があるので、万一のことを考えると気が気ではないのです。

九州直撃がどうやら確実というのがわかってきたのは金曜のことで、それからというもの、台風に備えての食料品の買い出しや、外の植木鉢やら何やらを玄関に入れるなど、その準備に追われました。
とりわけ今回の12号は速度が7~15km/hとかなり遅く、それだけ暴風雨の滞在時間が長いというようなことをニュースは言っていて、せっかくの土日もこの台風のおかげでお流れになったのはいうまでもありません。

時間の経過と共に、進路や到達時間が詳細になり、北部九州の台風通過は日曜夜から月曜午前中ということで、土曜の夜まではなんとか出かけることができたものの、さすがに日曜は迫り来る台風に身構える一日となりました。
「嵐の前の静けさ」という言葉があるように、日曜は我が家の周辺は終日、ふだんとはまったくちがう静けさに包まれて、その異様な静寂がいよいよ魔物が現れる予兆のようで、これはもう来るんだと観念しました。

ところが、夜のテレビニュースを何度か見ているうちに、画面に映し出される南九州の様子には不思議なほど風が吹き付けている様子はなく、リポーターの背後にある樹木も、ほとんど静かに枝を伸ばしたまま。

その後、ニュースを伝える言葉の中にもちょっとずつ変化が現れ、「この12号は、コンパクトな台風ですが、そのぶん突然風雨が強くなる可能性があり、充分注意してください。」などと言い始めます。「とくに北部九州では猛烈な雨が予想され、5日は200ミリを超えるところも…」などと、むしろ大雨に注意というようなことを言っています。
??
明け方に長崎県に上陸し、昼前に福岡県を通過という予想なので、問題は明朝から昼までということになり、今これ以上気を揉んでも仕方ないということで日曜夜はとりあえず眠りにつきました。

翌朝目を覚ますと、多少風が強くなって雨でも降っているのかと思ったら、どうもベッドの中にいる限りではそれらしい気配がまったくなく、さっそく外を見てみると、なんと風はおろか木々の枝葉は微動だにしておらず、それどころかうっすら太陽の光さえ射しているではありませんか。
木が折れたり倒れたりということが心配だったので、ともかくその危険は回避されたようでホッとはしてみるものの、これはいったいどうなっているのかと思いました。

TVをつけると、8時頃だったか「今、通過の真っ最中…」みたいなことを言っていますが、「うそぉ…」まるで喜劇でも見ているかのように現実にはなんにも起っていませんでした。
それからほどなくして台風は温帯低気圧になったとか。
風は全然吹かない、大雨どころか、小雨すらなく、この3日間すっかり騙されて過ごしたようで、気がつけば鳥の声などがしているのがずいぶんと嘲笑的に聞こえたものです。

どうやら最近の報道は、責任回避が何より優先のようで、少しでも小型台風だとか大したことないと言うことで視聴者が油断し、それでもし万一のことがあったら責任問題になるということなのか、ともかく大げさに大げさに発表する傾向があるようです。

少しぐらいそういう気持ちが働くのは分からないではないけれど、ものには限度というものがあり、これではまさにオオカミ少年のごとく、視聴者が逆に災害報道を割り引いて聞いてしまうという危険に繋がりはしないかと思いました。

今回の台風報道と結果のあまりにも無残な食い違いは、大したことなくてよかったというより、完全に気象庁とマスコミに騙されたというものでした。このため多くの学校は休校になり、休業になった会社も多くあったようでしたが、その責任はないのかと思ってしまいました。
備えあれば憂いなしとはいうけれど、やはり報道というものには正確さのクオリティというのは求められて然るべきで、なんでもかんでも最大限の報道をしておけば間違いないだろうというのでは、ただ世の中をむやみに不安に陥らせるだけだと思います。

正確な報道を前提として、万全の対策をとるという順序でなくてはならないとマロニエ君は思うし、今回のようにほとんどウソに近いような報道では、いかに安全第一とはいえ、いかがなものかと思います。
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保守点検

今年は年明けからなにかと慌ただしいことが続いて、ピアノの調整もまったくのゼロというわけではなかったものの、ほぼ放置に近い状況が続いてずっと気がかりでもあり、ずるずると引きずる憂鬱の種でもありました。
そうこうするうちに梅雨になり、あれこれの都合もあってさらに延期が続き、このたびようやく本格的な調整の手を入ることができ、やっと大仕事が済んだというところです

今回は思うところあって、はじめての調律師さんにやっていただきました。
これまでお世話になった方々は、むろん言葉では書ききれないほど素晴らしい方ですが、今回は視点を変える意味もあり、この方にお願いしてみようということになりました。

おそらく九州では皆さんよくご存じの方と思われますが、あまりくどくど書くことで差し障りがあってもいけないので、これ以上は止めておきます。
というのも、この業界はきわめて狭い世界なので、どこでどう話が曲がって伝わらないとも限らないし、本来ならばたかだかマロニエ君のピアノ1台を誰がどうしたなどと吹けば飛ぶような些事なのですが、それでもしお世話になった方に要らぬ不快やご迷惑をかけてはいけないと、それだけは常に心がけているところです。
ただ、言い訳のようですが、自分のピアノはあくまでも自分の自由であるわけで、義理や柵に足を取られてその自由を失うことはしたくないという考えがあります。


さて、事前にタッチに関する事など主な内容を相談したところ、スタインウェイのコンサートチューナーということもあり、まずはホールでやっている保守点検にあたることをやってみては…ということで、このなんでもないような当たり前の提案に大いに納得。
というわけで、初回にふさわしく保守点検メニューをお願いすることになりました。

前日の夕方、下見を兼ねて来宅され、1時間ほどピアノ状態を簡単に確認された上で、翌日の本番となりました。

アクションを外し、鍵盤を外し、鍵盤の高さからなにからを規定値に揃えて、さらに各種の調整作業が丸一日続きました。
朝の10時からスタートして、終わったのは夜の8時半だったので、単純計算でも10時間半!
まるでマラソンのようだといいたいけれど、マラソンだって2時間強なので、その4倍というわけです。

午後に遅い昼食をとるため、40分ほどピアノの前を離れられた以外は、ほとんど休憩なしでの連続作業で、あらためてこの仕事の大変さと、技術者の方の忍耐強さに感服しました。
保守点検はほんらい2日で行う作業ですが、それを1日でやろうというわけで、さぞかし大変だったことでしょう。

神経を使う繊細な作業である一方、アクションの載った大きく重い鍵盤を何度も出したり入れたりの繰り返しなどは、かなりの重労働であることも痛感させられます。

終わった時には本当に「お疲れ様でした」という気分です。

これでも本来の項目のうちの9割ぐらいまでしかできなかったとのことで、残りは次回に持ち越しということになりそうですが、ともかくもタッチや音がきれいに整って一安心でした。
とくに音質はきわめて素直な美しさにあふれていて、弾きながら思わず陶然となってしまいます。

こうなると、自分一人がつまらぬ弾き方をしてだんだん乱れていくのがもったいなくて、きれいなものをできるだけ汚したくないといった守りの気分に陥ってしまうのが我ながらダメだなと思います。

マロニエ君は根が貧乏症なのか、車でも内外をバッチリ洗車してしまうと、その状態をすこしでも長く維持したくなり、しばらくはあまり乗らなくなってしまうこともあったりと、却って思い切って使えなくなるところがあります。
そんなに惜しがらずに、良い状態を大いに楽しまなくてはといつも反省するのですが、美しい状態というのに変な執着があって、これを乗り越えるのがなかなか難しいものです。
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ネルソン・ゲルナー

1969年生まれで、アルゼンチン出身のピアニスト、ネルソン・ゲルナー。
その名前は何度か耳にしていましたが、演奏は一度も聴いたことがありませんでした。

今どきなので、その気になればYouTubeなどであるていどその演奏に触れることはできるとは思うけれど、マロニエ君はYouTubeは見るものであって聴くものではないという自分勝手なイメージがあり、音楽でこれを利用することはこのところはありません。
以前はずいぶんのめり込んでこれで夜更かしを繰り返したものですが、タダで盗み見をするようで、だんだんに音楽に対する姿勢も雑で不真面目になるように感じて、自分が楽しくなくなり、しだいに遠ざかるようになりました。

じゃあCDやDVDやテレビならいいのかとなりますが、自分としてはいいことになっています。どのみち実演ではないわけで、そこに明確な理屈は通らないけれど、マロニエ君としてはここに自分なりの一線を引いているのです。
ちなみに、コンサートでは実演に接することになりますが、たった一度コンサートに行ったからといってそのピアニストのすべてが分かるのかというと、これはこれで怪しいもので、出来不出来もあるし、不明瞭な音響のホール(これが多い)では、かえって伝わらないものが多くて悪印象のまま終わることも少なくありません。

ではCDや映像だけであるていどの評価をしてしまうことにも問題はないのかといえば、もちろんないわけではないけれど、マロニエ君の経験では、実演で大きくその印象に修正を迫られたことはほとんどないし、録音のほうが演奏のディテールまでより細緻に迫ることができるのも事実です。

CDをさんざん聴きこんで実演に接すると、一発勝負の粗さや完成度の低さ、ホールの雑な音響やピアノのコンディションなどよるスポイルを感じることはあっても、本質的にはやはりCDの印象はそのままで、信頼性はかなり高いと考えます。
さらに一度や二度では聞き逃していたものを、繰り返し聴くことで網ですくいとるように丹念に拾っていくことができるのも録音ならではの強みです。

つい前置きが長くなりましたが、今回はネルソン・ゲルナーのCDを購入したという話でした。
イギリスのウィグモアホールのライブシリーズで、曲目は大半がショパン。
幻想ポロネーズ、2つのノクターンop.62、アンダンテスピアナートと華麗なる…、12のエチュードop.10他といったものですが、聴き始めてすぐに「ああ、この人は南米のピアニストだな」と思いました。

南米のピアニストはアルゲリッチ、フレイレ、プラッツなどがそうであるように、音のひとつひとつを楷書のようにはっきり弾くことはせず、必要に応じて音の粒にぼかしを入れたり、そこはかとないニュアンスへと置き換えたりしながら、作品のフォルムや性格を尊重します。
さらには陰影の表現にもこだわり、自然な呼吸感を大事にして弾く人が多く、たとえば二度連続するパッセージなどは必ず陰と陽に分けられ、さらにそれが絶妙の息遣いをもっているなど、このあたりが南米の伝統なのかと思います。

ゲルナーは決してスケールの大きな人ではないようですが、非常に感受性の豊かな人ならではの瞬間が随所にあり、なるほどと納得させられるところの多いピアニストでした。
ここぞというパンチはないけれど、この人なりによく練り込まれた、繊細に表現されたショパンを充分に堪能することができました。

いかにもラテン的だったのは、12のエチュードでも、隣り合う曲によっては、ほとんど間をあけずに次に入るところなどがあったりして、そんなところにもこのピアニストの感性の綾のようなものが垣間見えるようでした。
そのまったく逆が、木偶の坊のようなピアニストが24のプレリュードやシューマンの謝肉祭のような作品を通して弾く際に、常に曲と曲の間に判で押したような同じ「間」を取ることで、却って聴くほうのテンションが下がってしまうことがありますが、このゲルナーはそういうストレスとも無縁の快適なピアニストでもありました。

ただ、どちらかというと日本ではこういう人はあまり評価が得られず、多少ダサくても一本調子でも、生真面目に弾く人のほうが好まれるのかもしれません。
少なくとも日本人は粋なデフォルメや遊び心より、職人的な技巧やお堅い仕上げを喜ぶのかもしれません。

残念だったのは、名高いウィグモアホールのライブシリーズというには音質がいまいちで、その点ではコンサートの臨場感があまり伝わらず、どちらかというと記録録音のような趣でした。
近年は名もないマイナーレーベルのCDにも驚くばかりの高音質のものが珍しくないことを考えると、これはずいぶんと不利だなあという気がしました。
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アヴデーエワのCD

ユリアンナ・アヴデーエワの新譜を買いました。
といっても動機は甚だ不純なもので、天神に出た際、駐車場のサービス券ほしさにCD店を覗いたのですが、近頃は店頭在庫もこれといったものはいよいよ少なく、限られた時間内に、強いて選んだ一枚がこれだったというわけです。

昨年9月にドイツで録音されたもので、内容はショパンの幻想曲、続いてなぜかモーツァルトのソナタニ長調KV284、さらになぜかリストのダンテを読んで、さらにさらにヴェルディ=リスト:アイーダより神前の踊りと終幕の二重唱ときて…これで終わり。
まずこの曲目の意図するところがわからない。
いろいろな意味や考察があって並べられたものかもしれないけれど、マロニエ君には一向にそれが意味不明で、なんの脈絡もない4曲がただ並んでいるだけといった印象しか得られません。実際に何度聴いてみても、なんでショパンの幻想曲の後にモーツァルトのこのソナタがくるのか、さらにそこへリストのダンテソナタやアイーダの編曲が続くのか…流れとか収まり、選曲の意図がまったくわからず、いつまでも首をひねりたくなるものでした。

演奏は、技術的には大変立派なもので、しかもすべてが知的かつある種の暖かさみたいなものさえある仕上がで、並み居るピアニストの平均値から頭一つ抜け出たものだと、まずその点は思います。
では、聴いていてストレートに素晴らしいと感じるかというと、非常に端正だけれど本質的にピアニズム主導で聴かせる技巧人という域を出ることがなく、一流職人の仕事を見せられるようで、有り体に言えばわくわく感がまるでありません。

予め綿密なプランを立てた上での、意図した通りの演奏であるのかもしれないけれど、あまりにその演奏設計が前に出すぎていて、音楽自体に生命感がないし閉塞感みたいなものを覚えてしまいます。

解釈や構成、さらには実際の演奏の進め方まで緻密に練り込まれているため、ピアニズム主導といっても単純な腕自慢をするようなあけすけな技巧ではないところがアヴデーエワの奥義でしょう。あくまで知的フィルターがしっかりとまんべんなくかかっていて、だからえらく思慮深い演奏のようには聴こえるなどして、そういう捉え方をするファンも多いのかもしれません。

もとより演奏の精度はとても高いし、音も豊かで上質感もあるなど、演奏評価を決定づける要素がきれいにそろっているために、さしあたりすごさを感じて欠点らしいものは見当たりません。ところが、それがよけいにこの人の演奏にまとわりつく違和感を増幅させ、それは何かと躍起になって原因を探しまわることになるようです。

充実した余裕あるタッチのせいか、誇張して言うと、どの曲を聞いてもいつも立派なので却って変化に乏しく、さらにいうと一つの曲の中でも起承転結の実感がなく、どこを取っても同じような調子に聞こえてしまいます。むらなく立派すぎることで躍動感を失い、音楽が均一になっているというべきか。

演奏というものはどんなに周到に準備されたものであっても、最後はその瞬間に反応する「発火」の余地を残していなくては、いかに立派なものでも予定調和に終止するだけとなり、聴く側も真の喜びには到達できず、有り体にいうとわくわく感がありません。

その点でアヴデーエワの演奏は、「策士、策に溺れる」のたとえのごとく、「プランナー、プランに溺れ」ているのではないかという気がするほど、前もって音楽を作りすぎており、それがこの人の最大の欠点のように感じるのです。
どんなに高揚感を要するフォルテシモやストレッタにおいても、それはあくまで奏者のコントロール下に置かれ、絶えず抑制感がついてまわるのは、マロニエ君の好みから言うと却って欲求不満に陥り、ストレスを誘発してしまいます。

尤もこれはいうまでもなくマロニエ君の個人的な感想なのであって、ピアノ演奏においても、ひんやりと黙りこんだような最高級工芸品的な仕上がりを望む方には、アヴデーエワの演奏はお好みかもしれません。

マロニエ君なんぞはさしずめ作りたて揚げたてのアツアツ感がないと、音楽を音楽として堪能することができないのだろうと思います。
むろんこれは、音楽はライブに限るというあれとはまったく違うものです。
何十回録り直した録音でもいいから、このアツアツ感だけは必要だと思っているわけです。

それにしても、耳慣れたはずのモーツァルトのソナタKV284が、こんなにも長ったらしい、あくびの出るような曲であったとは初めて知りました。
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ピアノつきトーク?

コンサートに行かないという禁を自ら破ってあるコンサートにいったところ、とんでもない目に遭いました。

言い訳のようですが、コンサートといっても楽器店が開催するイベントの中に組み込まれたものだったので、ちょっとした余興のようなものだろうと軽く考えていたのがそもそもの間違いでした。

このコンサートを聴くことになった理由は、知人とそのイベントそのものを覗いてみようということになり、曜日と時間をすり合わせた結果がたまたまコンサートにぶつかるタイミングになったという、それだけのことでした。
楽器店に問い合わせると、その時間はコンサートを聴かない人は展示会場にも入れないし、いても退出させられるということで、やむを得ずチケットを買うことに。

その日に登場するピアニストは、これまでテレビで数回その演奏を見たことはあったけれど、興味ゼロ、できるだけ早く終わってくれればいいという気持ちでした。
そこそこ有名なピアニストであるし、チケットを購入して聴いたコンサートなのだから名前を出してもいいのでしょうが、あまりにも驚いたし、わざわざ名指しで批判する必要もないのでそこは敢えて書きません。

味わいも説得力もなにもない、感性の欠落した「美しくない演奏」が堂々と目の前で続いているということが、悪い夢でも見ているようで、そこにいる自分というものがなぜか哀れに思えました。
技術以外はシロウトと大差ないというのが率直な印象でしたが、それでもその技術のおかげで、どの曲も音符をさほど間違えることなく最後まで行くところがよけい始末に悪い。
というか、シロウトでも本当に音楽を愛する人の演奏には、どこかしらに聴くに値する瞬間があるものですが、そんなものはかけらもありません。
いっそテクニックがめちゃめちゃだとか、ミスやクラッシュが続出といった演奏ならまだ諦めもつきますが、表面的には「ちゃんと弾いた」ことになり、中には満足した人もいるのかもと思うと、そこがまさに音楽の中でまやかしがまかり通る部分ということになり、頭がクラクラしてきます。

皮肉ではなしに、ああいうものでも素直に楽しめる人というのは、素直に羨ましいとさえ思いました。
どうせ同じ時間を過ごすなら、楽しめるほうが絶対に幸福ですから。

繰り返しますが、このコンサートはイベントのオマケのようなものと考えていたところ、実際はトーク付きの2時間半にも迫ろうという長丁場で、その間、マロニエ君は久々にこの種の忍耐を味わうことに。
音楽は、まさに「音」の芸であるから、ひとたびそれが自分の感性に合わないものになったが最後、猛烈な苦痛となって神経に襲いかかり、ひいては身体までも攻撃するものになることをリアルに実感しました。

自分一人なら、間違いなく途中で席を立って帰っていたところですが、なにぶんにも連れがあったため、その人を道連れにすることも、置き去りにすることもできず、脂汗のにじむ思いで石のようになってひたすら耐えに耐えました。

さらに堪らなかったのは演奏ばかりではなく、このピアニストはよほど人前でのおしゃべりがお得意のようで、ほとんど内容のない超長ったらしいトークが最初から最後までびっしりと織り込まれて、こちらのほうがメインかと錯覚するほどでした。

実際、この方は話している内容はともかく、語り口は今風のソフト調で声も良く、お客さんに向かっていやに低姿勢かつフレンドリーに語りかけるあたりは、ピアノよりよほどなめらかで自在な表現力をお持ちのようでした。ほとんどマスコミ系の人のようで、いっそテレビ局にでもお勤めになったほうがしっくりくる感じです。

この日は、マロニエ君にとっての悪条件が幾重にも重なって、よほど強いストレスで脳が酸欠を起こしたのは確かで、苦しい生あくびが際限もなく続き、節々は傷み、呼吸が苦しくなり、両目は充血し、疲れ涙が目尻に溢れているのが自分でわかりました。

2日も経つと疲れも癒えてきて、モノマネが得意なマロニエ君は、すっかりこの方のトークをマスターしてしまっていて、すでに何人かには聞かせたところ、ずいぶん笑っていただきました。
というわけで、これほど疲労困憊してまでネタを仕込みに行ったというのがオチなのかもしれません。
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オリンピック

ついこの前リオ五輪が始まったかと思ったらもう終わりのようで、いったん始まると毎日スラスラと競技が進んで、ずいぶんあっけないものだなというのが率直なところ。

オリンピックの話題となると、日本人選手の活躍をことさら興奮気味に一喜一憂しなくちゃいけないのがお約束のようで、そういうわざとらしい空気には閉口しますが、とはいっても、マロニエ君とて人並み(かどうかはわかりませんが)に応援の気持ちは持ち併せており、さらに日本がメダルを取れればむろん嬉しいわけです。
だからといって開催期間中つねにワクワクし、夜中までテレビ中継を見るというようなことはありませんが。

ただ、テレビのニュースやワイドショーはというと、冒頭から大半がオリンピック関連で連日独占状態になってしまうのは番組のつくりとしていささか抵抗を覚えてしまいます。そうまでせずとも、オリンピックの番組はNHKも民放も、連日充分すぎるほどあるのだから、せめて通常のニュースなどでは、やはりそれ以外の出来事にももう少し触れて欲しいと思いました。

マロニエ君はもともとスポーツはあまり得意ではないし、率直に言ってさほど興味もないほうなので、ことさらそういうふうに感じるのかもしれませんが、オリンピックの他にも、さらに高校野球、プロ野球と重なると、世の中いささかスポーツにまみれ過ぎでは?という印象。
なぜスポーツばかりにこうも力がはいるのか、正直まったく理解ができないし、その点じゃ息苦しさがあることも事実です。

非スポーツ系人間にいわせれば、スポーツがあまりに大手を振って世の関心の中心であるのは当然といわんばかりに闊歩するのは、あまり気持ちの良いものではなく、いつも黙ってガマンしている種族もいることは、きっとスポーツ好きの人達はご存じないでしょう。

わけてもオリンピックというのは別格中の別格らしく、この言葉の前にはすべてを薙ぎ倒してしまう力があるらしいのは驚くばかりです。

先の都知事選しかりで、「2020年の東京オリンピック・パラリンピック」が枕ことばとなり、あとは高齢化社会と待機児童問題が必須とばかりに語られる程度で、オリンピックがとにかく一番エライことには変わりありません。

予算も天井知らずに膨れ上がり、あんなもの、都民国民が納得するはずはない。
よほど悪い連中がオリンピック特需によだれを垂らしながら我も我もと群がっている結果としか、誰だって思えません。
オリンピックとはようするに世界の総合運動会じゃないかと思うのですが、あの五輪のマークさえつけば、どんな無理も通ってしまうのは怖いです。

現今はテロの標的にさらされる危険があるので、その対策に要する人件費だけでも途方もない金額になるなどとも言いますが、そうだとしても、たかだか半月ちょっと開催されるワールド運動会に開催都市が天文学的予算を組むだなんて、マロニエ君に言わせれば悪乗りが過ぎるというもので、ナンセンス以外のなにものでもない。

ついこの前、開会式を見たのに、すでに小池さんは閉会式で旗を受け取るべく現地入りされたようで、「さあ次は東京!」というところでしょうが、たかだかスポーツイベントのために何兆円も投じるなんて、ある意味なんとヤクザな金の使い方をするのだろうという気がして仕方ありません。
逆にいうと、祭りとはそもそもヤクザなものなのかもしれませんが。
東京オリンピックだって、始まればあっという間に終わってしまうのに…。

それはそうと、終盤になって日本のレスリングやバドミントンなど、ドバドバっと金メダルをとったのはすごかったですね。
総じて、女性はメンタルが強いし、言動もサバッとしていてさすがだと思いました。

対して男子のほうは(全員ではないけれど)いちいち執着的で、それを自分の口から言うか…と思うようなことをあえて言ったりと、なにかとねちっこいですね。

そういう意味では、これからはメンタル面、サバサバ感、実効性などさまざまな観点からも、女性が社会をリードする時代になっていくのかもしれない気がするし、それはそれでいいかもしれないと思います。
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コレクター

マロニエ君の古くからの友人にかなり重度のフルートマニアいます。
仕事の関係で長らく東京在住で、福岡に帰ると必ず連絡をよこしてくれますが、電話でも直に会っても、話はいつも唐突で、むやみに思いつめていて、早い話が「変人」といったほうがわかりやすい人間です。

酒と絵と音楽が大好きで、ピアノが好きで、そして何よりも彼は子供の頃フルートを習っていたこともあって、こちらは手のほどこしようのないディープなマニアです。

学生時代は親から買い与えられた普通のフルートを使っていましたが、成人して社会に出て、収入を得るようになるとしだいに彼の楽器熱はその本性をあらわし、はじめはゆっくりとした足取りではあったけれど、長年あたためていた自分の好みのフルートを少しずつ手に入れるようになりました。

ちなみに、ピアノと同じく、日本はフルート製造においても世界に冠たる地位を占めており、ムラマツ、パール、ヤマハなどの第一級品がひしめき、さらに世界に目を移せば、パウエルやヘインズなどの伝統あるブランド品があり、さらにさらに高じればヴァイオリンよろしくルイロットだハンミッヒだというオールドの領域が存在するようで、これはもう足を踏み入れた者にとっては、とてつもなく深く果てしない世界であるようです。

フルートの世界でもピアノ同様にヤマハはしっかりその一角を占めており、作りのよさ、信頼性、コストパフォーマンス、イージーな鳴り(高性能)などで世界の定評を得ているというのですから、そのぬかりない手腕には呆れるばかりです。

さて、その友人は、新品で買える主要なメーカーのフルートを着々と手に収めていったまでは、彼の熱狂的フルート愛を知るマロニエ君としてはまあ当然の成り行きだろうと思っていました。
当時のパウエルだかヘインズだかは、オーダーから納品まで数年を要したのだそうで、マロニエ君のような気の短い人間にはとても耐えられそうにもないなと、内心思ったものです。

彼と一緒に、東京の楽器フェアに行ったとき、フルートメーカーの展示ブースではかなり高額な黒い木のフルートをあまりにも真剣に試しているので、もしや買ってしまうのではないかとヒヤヒヤした覚えもありました。
(ちなみに、フルートは金管楽器と思いがちですが、ルーツが木の楽器であったためか、現在でも「木管楽器」として分類されています。)

その後、彼の関心の中心はついにヴィンテージへと移っていきました。
歴史に名を残す、ヨーロッパの名工の作品を求めて、それを所有するというブローカーや楽器職人がどこそこにいると聞いては遠方にまで出向いたりしていたようですが、この世界はリスクも非常にあるわけで、贋作はもちろん、長い年月の中で幾人ものオーナーの手を渡り、その過程で不適切な改造が施されたり、別のフルートのパーツと組み合わせられたりなど、さまざまな問題を抱えている場合も少なくないようです。
なにより自分自身の眼力がものをいうようで、マロニエ君なんぞは恐ろしくてとてもじゃありませんが、御免被りたい世界です。

東京にはフルートの専門店もある由で、そこのショーケースには名のあるヴィンテージのフルートがときどき姿を現したりするものだから、彼はいつもこの店に出入りしていて、むろん常連だか得意客のひとりとして認識されているようです。

彼は晩婚ではあったけれど、人生のパートナーともめぐり逢い、子どもも2人生まれて、さすがにもうこれまでのようなコレクション三昧はできないだろうと(本人も)思っていたのですが、そんな通り一遍の常識なんぞ、結局彼には通じませんでした。
真の趣味道趣味人というものは、俗世間の制約ぐらいですごすごと引き下がるようなヤワではないようです。

それから数年後、福岡におられた彼のお母上が大病を患われ、ごく最近他界されたのですが、このときはさしもの彼も見舞いやら葬儀やらで東京福岡を頻繁に行き来することを余儀なくされて、しばらくはフルートもお預けなのだろうと思っていました。
ところが、先日ふたりでゆっくり食事をした折に聞いたところでは、その間にも家族には内緒で、さるドイツの名工の作と謳われるヴィンテージフルートの売り物とめぐり逢い、それを購入するか否か、この間もずっとその品定めにかかわっていたというのですから、その放蕩ぶりにはさすがにひっくり返りました。

お値打ちフルートをどれだけの数もっているのか、マロニエ君さえも正確なことは知りませんが、こういう人間も生み出すほど、楽器というものには魔性があるということかもしれません。
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決め手なし

しばらく前に、クラシック倶楽部で数回にわたってショパンコンクール・入賞者ガラというのをやっていましたので、視聴してみました。

ショパンコンクールの入賞者であることでコンサートをやっているわけだから、彼らががショパンを弾くのは当たり前としても、ふとピアニストにとって、弾くのが最も怖い作曲家は、昔ならモーツァルト、今はショパンではないかと思いました。

どの人を聴いてもしっとりツボにはまらず、深いところから「ショパンが鳴っている」と思えるものがないのは、いまさら彼らだけでもありません。
ショパンは最もメジャーなピアノレパートリーなので、誰も彼もいちおうは弾くけれど、本当にショパンに触れた気にさせてくれる演奏はというと嫌になるくらい少ないのが現実です。

人から「ショパンの☓☓のCDを買いたいんだけど、誰のがオススメ?」というようなことを聞かれることがときどきありますが、そこそこのものは山のようにあれども、パッとオススメできるものほとんどないというのもまたショパンです。

ずいぶん前に、ケンプのショパンについて書いた覚えがありますが、ああいった謙虚さとか無私な心というものがショパンには必要であるのに、時代はますますそれとは逆の方向に向いているような気がします。
だって、なんにつけても自分々々の時代ですから。

ショパン特有の複雑なのに澄みわたる響きの創出、強すぎず弱すぎずの美的均整のとれたアプローチ、適切かつ印象的なルバートとやり過ぎない洗練、都会的な情の処理、常に怠ることを許容しない詩情と理知のバランス、軽妙な話術のような駆け引きなど、ショパンを弾くにはショパン独特の理解と配慮が要求されると思います。

誤解しないでいただきたいのはケンプのショパンが最高だとは思っていないということ。
ただ、おしなべてドイツ物が得意な人はショパンはわりに苦手で、ブレンデルもわずかにショパンを録音していますが、むかし買ったけれど凄まじい違和感があって二度と聞きませんでしたし、シフも映像でちょっと聴いたことがあったけれど、むしろ彼のキャリアの足しにはならない演奏だった記憶があります。
コロリオフもショパンのCDを少し出しているようですが、聴いてみようという意欲は湧きません。

アルゲリッチもショパンとは相性が悪く、娘の撮った映画ではステージ直前、やけにイライラする彼女に向かって秘書のよう男性が「今日はショパンを引くからさ」というような言葉を投げかけます。

少なくとも、オールマイティなピアニストがプログラムの中に他の作曲家と同列に差し込むといった程度では、とてもではないけれどショパンがその演奏に降りてくるということはない…。

昔から「ショパン弾き」という言葉がありますが、それはちょっと誤解され、軽く扱われたきらいもありますが、一面においてはそれぐらい専門性をもって取り扱わなくてはいけないほど難しい作曲家だと思います。

とくに聴いていられないのは、若手から中堅に至るピアニストの中には技巧と暗譜にものをいわせて、表向きは普通に弾けますよ的な、要点のずれたペラペラな演奏を平然とやっているときです。

今の若い世代は日常生活でもルールだけは素直に守りますが、音楽でも同様のようで、譜面上の表面的ルールはよく守るけれど、なぜそうなったのかという根拠とかいきさつには興味がない。ルールを守ってただクリアなだけの処理に終始し、表情やイントネーションまで借り物のようで、そこそこの仕上がりになっているぶん、かえって全部がウソっぽく聞こえます。

ショパン・コンクールの入奏者たちの演奏を聴いていても、ひとつひとつが悪くはないけれど、なんらかの真実に触れるようなものがないのは、きっと時代のせいなのでしょうね。
それでも敢えて選ぶなら、やや薄味で整い過ぎではあるけれどリシャール=アムランでした。
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追悼番組から

賛否両論あったけれど、中村紘子さんは日本のピアノ界ではともかくも大きな存在感を放つ方でした。

カラヤンや小澤征爾がそうであるように、とくに音楽に興味のない人でも、「中村紘子」という名前は大抵の人が知っている。こういう人は、そうざらにはいるものではありません。
中村さんの場合は日本国内限定ではあるけれど、その有名度は圧倒的で、今後はなかなかこういう人は現れそうにもありません。

近年、深刻なご病気をされたということは聞いていたけれど、先月の下旬、亡くなられたというニュースに接したときは、やはり胸がドキン!とするような衝撃がありました。
中村さんは、ピアノの腕前とか演奏そのものという以前に、とにかく華のある方で、なにかというと世間の注目を集めてしまう、生来のスターの要素を持った人だったと思います。

また彼女は戦後の高度経済成長という時代までも味方につけることができた、非常に恵まれていた方だったとも思います。

つい先日のことでしたが、NHKの追悼番組で『中村紘子さんの残したもの』という90分のドキュメンタリーが放送されましたが、お若いころのチャイコフスキーの協奏曲や英雄ポロネーズ、わずか数年前のサントリーホールでのバッハ、NHKのピアノのおけいこでの指導の様子など、いろいろな映像が紹介されました。

中でも最も興味をもって聴いたのは、中村さんが16歳のとき、N響初の海外公演のソリストとして抜擢され、公演先の一つであるロンドンで撮影されたショパンの1番を弾いたときのフィルムでした。
これまでにも、何度か部分的に見たことはあったけれど、今回は第一楽章がノーカットで放送されました。

残念なことに、ピントのずれたようなボケボケのモノクロ映像ですが、振袖姿の高校生だった中村さんは、堂々たるソリストを務めており、その瑞々しい演奏にはいろんな意味で驚かされました。
音楽的にも非常に真っ当で、後年のようなエグさのある特徴はどこにも見当たりません。
というか、ほとんど別人でした。
終始一貫しているし、テンポもよく、オーケストラとも調和しながら演奏が心地よくノッているのが印象的でした。

とくに全体が横の線で流れるように端然と弾き進められていくあたりは、どこかフランス的でもあり、これはもしかしたら安川加寿子さんの影響が当時の日本のピアノ界に色濃くあったのだろうか…等々、いろいろと想像しないではいられないものでした。
個人的に知る限りでは中村紘子さんのこれは最高の演奏ではないかと思います。

もしこのままの方向で成長していたら、あるいはどんなピアニストになったのだろうとも思いますが、ジュリアードに行ったこと、ホロヴィッツの魔性に魂を奪われたことなどが、なんらかの変化をもたらしたのかもしれません。

そういえば、むかしテレビでホロヴィッツの奏法を筑紫哲也氏や映画監督の篠田正浩氏を前に、ピアノを弾きながら解説していたこともありましたから、よほど熱狂的なファンで研究されていたのかもしれません。
彼女がプログラムに選ぶショパンの作品なども、どちらかというとホロヴィッツ好みのものが多かったりするのは、やはりかなりの影響があったのではと推察します。

中村さんのいない自宅が映し出されましたが、弾き手を失ったピアノが咲き乱れる花々の中でじっと喪に服しているようでした。


それにしても、今年の春からこちら、ずいぶんといろんな方が亡くなりましたし、お若い方が多いことも目立ちました。
中村紘子さん以外にも、ぱっと思い出すだけでも、永六輔さん、大橋巨泉さん、蜷川幸雄さん、鳩山邦夫さん、千代の富士さんなど…。
自分自身の周りでも、直接間接いろいろと思いがけないお別れが次々に続いて気味が悪いほどでした。

今年の猛暑は例年になく厳しいものでもあるし、せいぜい身体に気をつけて、まじめに生きていかなくては…などと柄にもないことを思ったりしているこの頃です。
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海峡を渡るバイオリン

友人が探したい本があるというので、数軒のブックオフを周りました。

ブックオフは今どきのコミック本やゲームなどを中心とする古本屋かと思っていたら、必ずしもそうではなく、通常の本屋のように各ジャンルの書籍があって見事に分類されており、その数も大変なもので意外でした。

本屋に行けば、だれでも自分の興味のあるジャンルを見るもので、マロニエ君は音楽・美術関係を中心に見て回り、安いこともあって、新刊なら買わないであろう本を数冊購入することに。

その中の一冊が『海峡を渡るバイオリン』で、これは韓国出身のバイオリン製作家である陳昌鉉氏の口述から起こされた本。これまでに書店では何度か手にしたことはあったものの購入には至らず、この機会に読んでみようというわけです。

バイオリン職人の本なので、てっきり製作や修理に関する内容だと思い込んでいたのですが、話はご自身の幼少期から始まり、いわゆる生い立ちの話が延々と続くので、いったいいつになったら楽器の話になるのだろうと思いましたが、さすがに4~50ページもこの調子だと、どうやらそれがメインの本だということが、そのころになってようやくわかりました。

まずこの点で、目的とはいささか違った内容の本ではあったけれども、これはこれで読んでいて面白いし、文章がとてもきれいな読みやすいものであったこともあり、わずか2日ほどで読み終えてしまいました。

陳昌鉉氏は1929年の生まれ、14歳の時に来日、いらいずっと日本で活躍された方のようですが、前半は当然のように戦争の影が色濃くつきまといます。陳氏が子供の頃の朝鮮半島の厳しい社会環境、日本に来てからの差別や貧しさなど、現代の日本人からは想像もつかないような過酷な苦しみが淡々と綴られているのは、読んでいて胸が苦しくなるようでした。
それでも陳氏は故郷に母や妹を残し、大変な苦労しながら大学を卒業。さらに厳しい肉体労働などをしながら、それからバイオリン製作をまったく白紙から独学でものにしていくのは、ただただ驚く他はありません。

そして、そんな陳氏が後年にはアメリカの弦楽器の製作者コンクールで6部門中5部門で最高賞を受賞するまでになり、ついには「東洋のストラディヴァリ」といわれるようになるのですから、まさに彼の辿った人生そのものが人生大逆転の映画か小説のようなものだと言って差し支えないでしょう。
ウィキペディアをみると、この『海峡を渡るバイオリン』は2004年にフジテレビによってドラマ化されているようで、草彅剛さんが陳昌鉉氏を演じたようで、なるほどと納得。

マロニエ君はこの本の存在は、ずいぶん前から書店で何度も目にして知っていたけれど、陳昌鉉という優秀なバイオリン作家がいて、しかも日本で製作を続けたということなどは実はまったく知りませんでした。
これまでにもバイオリンの本はかなり読んだつもりでしたが、陳昌鉉氏の名が出てくることもなく、すべてをこの本で知るに及び、深い感銘を覚えました。

人一倍、根性ナシで、努力嫌いのマロニエ君からすれば、陳昌鉉氏の生き様は別世界の出来事のようですが、それでも人生を懸命に生きることはなんと価値あることかと思わずにはいられません。

いっぽうで、これは対象がバイオリンであったからの話で、もしピアノなら大きさ、複雑さ、おまけに工業力を要するという点で絶対にあり得ないことです。
もしもピアノが、チェンバロぐらいの構造(つまり一人の作家が一人で製作できる)であれば、いろいろな作家のいろいろなピアノがあったはずで、そうなるとずいぶん楽しいことになっていたような気がします。
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猛暑

今年は梅雨の雨もひどかったけれど、それ以上にこのところの猛暑は凄まじいものがありますね。

ここまでくると、ピアノの管理以前に、人間様が日々無事に過ごせるようエアコンもフル稼働状態です。
湿度もかなり高く、除湿機も回りっぱなし。
ゲリラ豪雨のニュースも聞こえてくる中、北部九州には一向に雨の気配もありません。

猛暑日とは「一日の最高気温が35℃以上の日のこと」だそうですが、むかしはどんなに暑くてもそんな温度になることはあんまりなかったように思いますので、夏は確実にむかしより厳しいものになっていっているようですね。

全国どこでも概ね同じだと思いますが、連日のように35℃レベルの暑さになると、世の中の何もかもがグニャリと萎れてしまうようで、人の動きも鈍ってくるようです。
とくに住宅街では、目に見えて人の往来が少なくなり、すべてを焼きつくすような直射日光とは対照的に、あたりは異様な静けさに包まれます。本当に暑い時には、蝉の声すらしなくなり、蚊さえもあまりいなくなるような気がします。

こうなると、マロニエ君にとってはエアコンはまさに命綱といっても過言ではなく、もしこれが連日の酷使によって故障でもしたらどうなるかと、つい怖くてネガティブなことを考えます。
それでなくてもエアコン依存症のマロニエ君です。
以前から、もしも真夏にエアコンが壊れた時は、一時的にホテルにでも避難するしかないなどと思っていましたが、最近は福岡市も慢性的なホテル不足で、とてもでないけれど急な予約は難しいらしいという話を耳にするなど、それを考えるとゾッとしてしまいます。

暑さの影響はあちこちに波及し、例えばマロニエ君のような車好きになると、車の体調管理にも憂いが出てきます。
こんな暑さの中で、街中の渋滞などを這いずり回らすようなことをしていたら機械を傷めるように思ってしまい、日中はできるだけ車も動かさないようにしています。

これほどの炎暑ともなると、気象庁から発表される気温どころではないのがアスファルトの路上の温度であるし、さらにエンジンという自らも猛烈な熱源を抱える車にとって、こんな灼熱地獄で酷使されることは、機械にとってもかなりのストレスであり、消耗であるのは想像に難くありません。
日が落ちればいくらかマシになるので、夜間は乗っているものの、日中はさすがに躊躇してしまいます。

家の中に話を戻すと、常時エアコンを使っていれば、それはそれで冷風にさらされることになるし、一歩部屋から廊下に出たときの強烈な温度差がこれまた予想以上に全身が圧迫されるようで、こんな温度差の中を行ったり来たりしていては、身体にも良いはずはないだろうと思います。
とはいっても、まさか廊下までエアコンで冷やすわけにもいかないので、とりあえず気を張って毎日過ごしています。

ピアノも調律を頼まなくてはと思いつつ、こう暑くては、なにもこんな猛暑の中にそんなことをしてもというような、直接の根拠にならないようなことが理由になって、あれもこれも先送りにしてしまって、これではいかんと思いますが、なかなか…。

というわけで、いまさら暑中見舞いでもありませんが、皆さまもどうか無事にこの厳しい夏を乗り切ってくださいますように。
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小菅優

クラシック倶楽部から、樫本大進、小菅優、クラウディオ・ボルケスの3人によるトリオコンサートで、ベートーヴェンのピアノトリオ第1番op.1-1全曲とゴーストの第2楽章が放映されました。

ピアノトリオは演奏時間の長いものが多く、たったこれだけで55分の番組は一杯になるようです。

小菅優については、これまで折々に注目はしてきたけれど、今どきにしては元気のいいピアニストとは思いつつも、なんだかもう一つ決め手がない感じで、それ以上に興味が進みませんでした。
CDも少しだけ持っていますが、ずいぶん若い頃のリストの超絶技巧練習曲などいくつかあるものの、これといった強い印象はありませんでした。キレの良い演奏をする人ではあるようですが、残念なことにくぐもったような音がいつも気になってしまいます。

マロニエ君は音の美しさというか、音そのものに演奏上の必然的な声を帯びた凝縮された音を出してくれないと、どうも惹きつけられないところがあるようで、その点彼女は活気ある演奏をするわりには、この点がどうも冴えないという印象でした。

ところが、今回の演奏はそれさえも気にならないほどの素晴らしいものでした。
まず、とてもよくさらわれてすべてに見通しがきいて、熱いエネルギーと細心の注意深さが両立しながら隅々にまで行き届いて、聴く者の耳を捉えて離さず、音楽は一瞬たりとも弛緩するところがない。

冒頭の変ホ長調のアルペジョからして、弾むようで繊細、以降も小菅さんのピアノはヴァイオリンとチェロの間を、器用に、そして柔軟に飛び回り、それでいて決してピアノだけが表に出るということなく見事なアンサンブルに徹していたと思います。
それでも、ピアノはひときわ強く輝いていており、この日はまさにピアノが主役だったと思いました。

小菅さんの個性というか魅力のひとつは、最近のクラシックの演奏家としては珍しいほどリズム感に優れ、拍を疎かにしない点だろうと思います。
まず作品の求めるテンポや適切なアーティキュレーションを見極め、そのための不便不都合はすべて自分の側で背負って変な辻褄合わせをしないという、演奏家としての良心があり、これは最近では珍しいことだと思います。

おそらくそのあたりはご当人もかなりこだわっているというか、彼女の演奏を成立させる要素として譲れないところがあるのだろうと推察されますが、小菅優のピアノには常に良い意味での緊張感があり、いきいきしたメリハリがみなぎっていると思います。
指もまことに小気味良く動き、そこにリズム感の良さもあいまって、このベートーヴェンのop.1-1という文字通り若書きの作品が、目の前にみずみずしい姿を顕してくるようで、ときにロマンティック、ときにモーツァルトのようで、退屈する暇もないないまま一気に進んでいきました。

小菅さんの素晴らしさにすっかり感心して、気がついたら樫本大進とボルケスのヴァイオリンとチェロはあまり注意して聴いていなかったけれど、お二人とも輝くピアノをしっかり支えるような安定感のある演奏だったと思います。

どうしても小菅さんの話に戻ってしまいますが、彼女の演奏はどれを聴いても溌剌として熱気があり、それでいて日本的な繊細さも併せ持つ人であるという点で、無機質で正確なだけの日本人ピアニストが多い中、あれだけ音楽に集中できるのは貴重な存在だといえるでしょう。

少し感じたことは、手首を細かく上下させることで鋭利なリズムを刻んでいるようで、これが彼女特有の深みのない乾いた音の原因ではないかとは思いました。
よりしなやかな指先の圧力によってタッチ・発音するようになれば、今の何倍も輝くような音になると思うのですが、まあマロニエ君は専門家ではないのであまりそういうことには言及しないほうがいいかもしれません。

この人には、さらにいろいろな経験を積んで、さらに成長して欲しいと期待をかけています。
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デリカシーの妙

『オリジナル・プレイエル2台で弾くショパンのピアノ協奏曲』というCDを買ったのはいつの事だったか…よく思い出せません。
マロニエ君にとっては、プレイエルという特別な名前に心惹かれたこと、さらにはこういうCDは目の前にある時に買っておかなくては、そのうち…なんて思っていたら二度と自分の手に触れることができなくなるということを苦い経験で知っていたので、とりあえず買うだけ買ったものの、プレイエルといってもフォルテピアノなのですぐには聴かずにほったらかしにしていました。

存在さえ忘れていたところ、つい先日、山積みになったCDの下の方からひょっこりこれが出てきたので聴いてみたら、すっかりこれにハマってしまいました。

ここで白状してしまうと、マロニエ君はフォルテピアノというのがあまり好きではありません。
クラシック倶楽部のような番組で放送されるぶんには聴くこともあるし、わけてもアンドレアス・シュタイアーのような名手の演奏は素晴らしいと思います。でも、じゃあCDを買うかといえば、ゼロではないがなかなか…というところです。

歴史的な意味や、ピアノの祖先としての価値はわかっていても、積極的に聴きたいというほどの欲求にはならないし、古楽器奏者たちの醸しだす、自分達こそ正しいことをやっているんだというようなあの宗教家みたいな雰囲気も苦手です。

プレイエルについては、モダンピアノの時代になってからのものは大好きで、コルトーのCDなどはむろん彼の演奏を聴くためではあるけれど、それはプレイエルの芳しい音色ともセットになっています。
このせいで、好きでもない日本人ピアニストのショパン全集を出る度に都合12枚も買ってしまったのも、ひとえにプレイエルの音を楽しみたかったからにほかなりません。
いっぽう、時代物のフォルテピアノはというと、古ぼけた骨董の音を聴いているようで、どうも自分の求めるものではないという印象から抜け出すことが難しい。ポーランドのショパン協会が関わるCDにも、ショパン存命の時代のエラールを使ったものがいくつもリリースされているけれど、フォルテピアノでおまけにエラールというのでは購入する気になれません。

さて、それで購入から数ヶ月を経て初めて聴いてみたこのプレイエル2台によるCD。
2台のピアノのうち、1台は1843年(ということはショパンが亡くなる6年前に製造された)の平型で、これがピアノのソロパートを弾いているのに対し、オーケストラパートは1838年製のピアニーノ(アップライト)が使われているというのも大変珍しいものです。

演奏はスー・パクとマチュー・デュピュイという二人のピアニスト。

第一印象はやけにパワーのない、地味で精気のない演奏という感じではあったものの、まずは耳慣れたモダンピアノとの違いからくる違和感を乗り越えなくてはと思い、まあ待てと聴き続けていると、予想より早くこれらの楽器の音や演奏に耳と気分が馴染んでいきました。

感心したのは、さすがはプレイエルというべきか、モダンのプレイエルの音に通じる独特な声があって、構造も何も違うにもかかわらず、両者には共通する個性がはっきり聴き取れることに驚かされました。
マロニエ君はモダンのプレイエルにこの19世紀の音を重ねているけれど、本来はむろん逆で、この音をモダンピアノになっても継承されているというのが順序です。

柔らかさ、明るさ、伸びのよさ、それに軽やかでありながら常に憂いの陰が射しているところも、まぎれもなくプレイエルのそれでした。
オーケストラパートを受け持つピアニーノというアップライトは、これがまた味わいのある音で、さらに柔らかく、ほわんと宙に浮くように響くあたりは、とうてい現代のピアノから聴こえてくる音色ではないのは驚くばかりでした。

こうして、ショパンの生きた時代のプレイエルの音を聴いていると、ありきたりな言い様ですが、まさにショパンがお弟子さんと二人で自分のコンチェルトを演奏している様子というのは、おそらくこんなものだったのではないかと空想しないではいられませんでした。
しかも、誰のためということでなしに、ただ自分のために弾いているような、あくまでも私的でプライヴェートな響きというか、もっと直截にいえば孤独感に満ちていて、ショパンの生の息遣いに触れられたような気になりました。

演奏は趣味もよく、終始センシティヴ、決して楽器の限界を超えるような弾き方ではない点も見事。

とりわけこの時代のピアノのもつ「軽さ」は魅力で、現代のピアノは素晴らしい反面、あまりにリッチな高級車のようで、作品に対してそのリッチさがそぐわない面があるのも認めないわけにはいかないようです。

こういう演奏を聞いていると、フォルテピアノをもうすこし聴いてみようかという気になりました。
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体格からくるもの

何事においても身体的条件というのはあるわけで、コンサートピアニストにもそれは該当すると思います。

先日のギャリック・オールソン、そのあとに聴いたロジェ・ムラロのラヴェル、いずれも大きなピアノが少し小さく見えるような大男でしたが、彼らの演奏から出てくる音のある部分には共通したものがあります。
それは大雑把に云うと体格による力が強すぎて、ピアノの音の最も美しい部分をはみ出してしまうというもの。

さらに言うと、やはりあまりに大柄な人は、やはりどこか繊細さに対する感性が違うのか、大きな背中を丸めて小さな刺繍のようなことをやっているみたいだったりで、どうもピントが合わず、聴いていてつまらないというか、おさまるところにおさまっていないものに接しているような違和感がつきまといます。

逆に、小兵ピアニストにも特徴があります。

あくまでマロニエ君の好みとしてですが、極端に小柄なピアニストも、見ていて心底いいなぁとおもえるような人はあまりいないし、いるかもしれませんが、少なくともパッと思いつくような名前はありません。

それは楽器に対するバランスの問題につきるのだと思います。あまりに小柄だとハンディを補強しようとしてきつい音になり、弾き方や音楽もやけに攻撃的になったり…。
そうそう、書きながら唯一思い出した、小柄でも認めざるをえないピアニストとしてはラローチャがいましたが、その彼女でも音の問題は例外とはならず、やはり鋭角的で多少叩きつけるようなところがありました。

彼女のお得意のスペイン物においては、作品が情熱的で奔放なのでそれがマッチして説得力を帯びることも少なくなかったけれど、ベートーヴェンやモーツァルト、ショパンなどになると、やっぱり彼女の音質やタッチが気になったものです。
とくにコンチェルトになると一層力むためか、叩き出すフォルテが連続し、ずいぶん昔の来日公演では皇帝を演奏中に弦を切るというハプニングもあったほど、手首から先を硬直したように固め、落下速度にものをいわせて叩くので、弦にかかるストレスも大きいのかもしれません。

また小柄な人は、いわば小さなメカニズムで音を出すためか、表現の自由度が狭まり、楽器を朗々と鳴らすことが難しいように思われます。全体への目配りが疎かになると、音楽もどうしてもせかせかした小さなものになります。

もちろん個人差や例外はあることはいうまでもありませんが。
それを承知で、マロニエ君の好みをあえて大別していうなら、身長170~180cm台前半ぐらいの、どちらかというと標準から少し痩せ型の体格をもった男性ピアニストの音を好んでいるような気がします。
女性でも音の美しい方はおられますが、身長はせめて160cm以上ないと、みずみずしい美音はなかなか出せないような気がするのですが、こんなことを書くと叱られそうな気もします。
あくまで一般的平均的な話として捉えていただけると幸いです。

ただ、いずれにしても小柄な女性(男性)がちょこんとコンサートグランドの前に座って、悲壮感を漂わせながら腕や頭をふりながら熱演するのは、聴いているほうまで苦しみを背負わされるような気になるので、できればあまり聴きたくありません。
これと同じように、ピアノが小さく見える大男による、フォルテのたびにピアノの大屋根がゆらゆら揺れるような演奏も好きではないのです。

これ、楽器のほうのピアノにもいいサイズというのがあるのと同じです。
コンサートグランドも280cm越えてしまうと、持て余し気味のゆるい楽器になるし、小さなグランドピアノは、小型犬のようにワンワンと吠えまくってうるさいのと似ている気がします。

もちろん、中にはスタインウェイのS型のように、そんな常識をまったく寄せ付けない例外もあるにはありますが…。
例外といえば、ラフマニノフは偉大なる例外のひとりなのかもしれませんね。
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背後のオーラ

つい先日、知人と食事に行った時のこと。

自然の素材を使ったヘルシーな食べ放題という店に行き、テーブルに案内されて一息つき、それから料理を適当に取って席に戻ってきた時のこと、知人がなにか言いたげですがこの時点ではまだ何も言いません。

なんだろうと思って尋ねると「後で…」みたいな表情をするので、深追いはせずそのままとりあえず食べてはじめました。
数分ほどした時、知人はチャンスと思ったらしく「今いないけど、うしろの女の人、すごいね」というので、なんだろうと思って恐る恐る振り返ると、そこに女性の姿はなく、どうやら料理を取りに行っている様子。

テーブルの上は皿(ここは大皿はあまりなく、小型の皿に料理ごとに取るスタイル)やカップ類があふれており、長椅子の隅にはハンドバッグが置かれていて、また戻ってくる状態のようです。

ほどなく、女性があれこれの料理を手に戻ってきましたが、マロニエ君はちょうど背中方向なので、いちいちの状況まではわかりません。ただ、こちらも席をたつ時などにそれとなく見ると、30代後半ぐらいの痩せ型の女性が、もくもくと一人で食べており、そこだけちょっと違う空気が漂っていることはすぐにわかりました。

その後も、知人はときどき小さな声で「また行ったよ」などと、その女性の様子が気になって仕方ないようです。たしかにその食べている量はちょっと普通では考えられないものだし、びっくりしたのは、デザートを食べたかと思うとまた普通の料理に戻ったりと、いわゆる世に言う「大食い」の人だろうと思われました。

ただそれだけなら、まあ世の中にはそんな人もいるのだろうという程度で笑って終わりなのですが、その女性から出ている負のオーラみたいなものが尋常ではなく、それがとても気になりました。
むろんひとりなので笑顔にならないぐらいはわかるとしても、その目つきは周囲で目立つほど暗くて厳しく、食事をしているというより、なんだか差し迫った深刻な行為に挑んでいるかのようでした。

その後も何度も立って行ったり戻ってきたりの繰り返しでしたが、しだいに他のテーブルとのちがいに気づきます。
それは、この店には何人もの女性スタッフがいて、そばを通るたびに空になった皿を「お下げしてよろしいでしょうか?」といいながらササッと引き取っていって、テーブルには食べているもの以外の皿類があまりたまらないようにしてくれるのですが、なぜか後ろの女性のテーブルには食べ終わった皿やカップがあふれていて、店のスタッフがあえてそのテーブルには近づかないようにしているらしいことがわかりました。

想像ですが、おそらくこの女性は店側からマークされている人物で、だから片付けに関しても他のテーブルとは対処が違うのだろうと思いました。
こうなるともう、そういうことの好きなマロニエ君としては気になって仕方がありません。

テーブルの上の食器はたまる一方で、皿を何枚も重ね、その上にカップ類を上積みするなど、かなり荒れた状態です。

その後しばらくすると、知人が「…戻ってこないよ」といい、みるとその女性はいませんが、バッグはしっかりあるので帰ったわけではないようです。しかし、なるほど今度は不自然なほど長時間戻ってこなくなりました。
「おかしいよね」などといいながら、こちらもデザートなどを取りに行きますが、その女性の姿はもうどこにもなく、まるで消えたかのようでした。

テーブルに戻ると知人が「あれみて」というので通路側をみると、柱に張り紙がしてあり、「お客様へ お手洗いに行かれる際にはスタッフにお声をおかけください」と書かれた紙がラミネート処理されて貼り付けてありました。
どういう意味かわかりませんでしたし、今もわかりませんが、もしかしたらその女性はトイレに行ったのではという気がしてきました。しかし、ついに我々が店を出るまでの最後の20分ぐらい、その女性が不在のままこちらのほうが店を出ることに。
なので、残念ながらその後どうなったのかはわからずじまいで中途半端な気分。

マロニエ君も知人も考えたことは同じで、トイレで…胃をカラにしてまた食べるのではないかと思いましたが、おそらくあの調子では、なんにしても相当に普通ではない行動をとっていると思われました。

テレビでは大食いタレントみたいなのが出てきて、ワイワイやりながら面白おかしく食べていますが、現実に目にする名も無き大食いさんは、近くにいるだけで怖いようなオーラに包まれていました。
もしかするとある種の病気なのかもしれず、だとしたらお気の毒でもありますが、少なくともお店からは嫌がられることは間違いありません。

やっぱり世の中にはいろんな人がいるんだなあと当たり前のことを痛感しました。
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BSでシャオメイ

6月の終わりにシュ・シャオメイのゴルトベルクの新録音を買って聴いて、7月に入ってまもなくこのブログに感想を書いたばかりでしたが、それからわずか1週間後のこと、BSのプレミアムシアターでなんとシュ・シャオメイのドキュメントと演奏会の様子が続けて放送され、そのタイミングにぎょっとしてしまいました。

シャオメイは文革が終わったのち、1980年に渡米しさらにパリへ移住、いらい現在も同地で暮らしているとのこと。

そういえば、シャオメイの最初のゴルトベルクやパルティータなど手元にあるCDはフランスのMIRAREレーベルからリリースされているので、彼女のこんにちの名声はフランスによって発掘され育てられたものなのだと思われます。

その彼女が、周りの人々のすすめによって36年ぶりに中国に戻り、上海、北京はじめ幾つかの都市コンサートをする旅にカメラが同行したものでした。

上海生まれの彼女は、現在のこの街を見て「まったく別の場所、自分が生まれた家がどこかもわからない」といっていますが、たしかに現在の上海の恐ろしいような都市化ぶり(うわべの)を一度でも見た人なら、むべなるかなと思います。

中国では、実の姉妹、昔の恩師や友人などに出逢い、そのたびに互いに感激を噛みしめていましたが、長年中国に住み続けた人と、そうでない人の違いが如実に出たのが文革に関することで、シャオメイが「あの頃は…」とか「みんな死んでいなくなった」というような言葉を口にすると、相手は一様に苦笑いをするだけで、その問題には口をつぐみ何一つ言及しませんでした。

中国ではいまだに文革や天安門事件のような出来事はタブーだそうで、それに関する発言も書物も資料も厳しく制限されているらしいので、そのあたりの微妙な肌感覚は30年以上外国で生きてきたシャオメイにはうかがい知れない暗黙の空気感なのでしょう。

演奏の様子は、ドキュメントでも随所に織り込まれましたが、この帰国ツアーの最大の見せ場である北京でのコンサートの様子が、ドキュメント終了後に放送され、ゴルトベルク変奏曲全曲を視聴できました。

CDでは数知れず聴いているシャオメイのゴルトベルクですが、一発勝負のライブでは、CDとはかなりその様子は違ったものだったのはいささか落胆を覚えたのも事実でした。

むろんシャオメイらしい深い味わいや慈しみ、ジメジメしないセンス良い演奏表現など、彼女の美点にも多々触れることができましたが、コンサートでの演奏はやはりゴルトベルクがあまりに演奏至難かつ大曲であるためか、想像以上に乱れがあったことは事実であったし、正直言って全体のクオリティは満足の行くものではありませんでした。
CDに批判的な人に言わせれば「ほーら、だからCDはウソなんだ」ということだと思いますが、それでもマロニエ君はそんなふうには思いません。CDは問題箇所を録り直しなどをして、悪く云えばつぎはぎであるとも否定できませんが、それでもその人の最良の演奏を記録して編集したものであることから、繰り返し聞くにはやはり相応しい価値を有するものだと思います。

ただ、この人にあとひとつ欠けているものは残念なるかなテクニックだと思いました。
マロニエ君はいまさらいうまでもなく決してテクニック重視派ではありませんが、でも、安心して聴かせてもらえるだけのテクニックはないと、技術的問題で絶えずハラハラさせられたり不満を覚えてしまうようでは、プロの演奏に接する意味がないと思っています。

ドキュメントで驚いたのは、大バッハが眠るライプツィヒの聖トーマス教会でも、ピアノと聴衆とカメラを入れて、ゴルトベルクを弾いている様子が何度か出てきたことです。お見受けするところ、シャオメイ女史は非常に謙虚で誠実で音楽のしもべのようなお方のようですが、よりにもよってそんな大それたところで演奏するというのは、別に非難しているわけではないけれども、その度胸は並々ならぬものだと思いました。

シャオメイとは直接関係ないことですが、上海でも北京でも美しいホールが完備し、そこには新しめのスタインウェイDが当然のように備えられていて、北京のコンサートホールではステージに2台並べてピアノ選びのようなこともやっているほど、この面に関しても中国は急速に先進国の基準に達しているようでした。
達しているといえば、調律も以前とは違って非常に真っ当なもので、極上とまでは思わなかったけれども、聴いていてなんのストレスもない上質なものだったことは非常に印象的でした。

予定プログラムより、アンコールのほうが出来がいいというのはままあることですが、このときもやや苦しさを感じないわけにはいかなかったゴルトベルクよりは、拍手に応えて弾いたバッハ=ブゾーニの小品は、呼吸も整ってとても密度の高い、心打つ佳演でした。
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ギャリック・オールソン

今年5月、浜離宮朝日ホールで行われたギャリック・オールソンのピアノリサイタルをクラシック倶楽部で視聴しました。
曲目はベートーヴェンのソナタop.110、ショパンのエチュード、ノクターン、バラード、アンコールにラフマニノフの前奏曲。

何と言ったらいいか、言葉を考えるけれど…なにも出てこない。
その理由を考えたら、言えることはただひとつ、要は「何も感じなかった」からだろうと思います。
ベートーヴェンは魅力はないもののある程度まともな演奏だったのに対して、彼が得意とするはずのショパンは奇妙な演奏でただもうぽかんとしてしまいました。

マロニエ君としてはまず第一にがっかりなのは、音の美しくないピアニストだということです。
そして大味。
ショボショボした冴えない音か、割れるフォルテかのどちらかで、聴いていてまず音そのものに不満がくすぶります。やはりピアノを聴く以上、演奏や楽曲のことも重要だけれど、根底のところでは美しいピアノの音を楽しみたいという欲求があることがいまさら自分でわかりました。

ポツポツと切れるフレーズ、横線やカーヴとしてうねらない音楽、大切なポイントとなる音は素通りするかと思うと、意味不明なところで変なアクセントをつけて強調してみたりと、この人の意図がまるで解せません。

とくにショパンは、危機感を煽られるほどスローなテンポであるし、この人なりの個性や味わいもまったく見いだせないもので、マロニエ君の耳にはショパンどころか、自己満足的な一人芝居でも見ているようでした。

唯一やや共感を覚えたのは、13番ハ短調のノクターンで、途中から転ずるアルペジョの連続からフィナーレにかけての劇的な部分を、それを強調せずむしろやわらかに弾いたことでしょうか。
この部分を大半のピアニストは静かで孤独感あふれる前半を序奏のように奏し、それに対して激烈な後半というふうに弾くことに決めているらしく、ほとんどノクターンという前提などかなぐり捨てて、まるでスケルツォのように激しくピアニスティックに弾くのが通例となっているのはなぜなのか。かねがねマロニエ君はこのやり方に違和感を覚えていたし、ショパンにしては直情的でさほど洗練されているとも思えないこの作品がなぜ人気曲であるかも理由がわかりませんでした。

その点、オールソンは延々と続く和音の連打をぐっと抑えこんで、悲壮感あふれる旋律を静かに強調していたことはせめてもの救いでした。

とはいうものの、全体としてはあまりにも表現のポイントが定まらない、少なくとも聴いている側にしてみれば、演奏を通じてどういうメッセージを受け取ればいいのか、まったく見えない演奏だったように思いました。

とくにショパンの演奏に必要な美音、デリカシー、密度、シックなセンスなどは、この古いキャデラックみたいなピアニストには求めるほうが無理なのかもしれません。
いまさら古い話を蒸し返してもしかたがないけれど、46年前、なぜこの人がショパンコンクールで優勝したのか今もって不思議でなりませんし、2位だった内田光子が優勝していれば、その後の両者の活躍からしてもどんなにか収まりがよかっただろうと思わずにはいられません。

番組冒頭で紹介されたオールソンのプロフィールでは、「古典から21世紀まで80曲に及ぶピアノ協奏曲を演奏。膨大なレパートリーを誇る演奏家として活躍を続ける」とありましたが、それは、すごいことかもしれないけれど聴く側にはあまり関係のないことで、8曲でもいいから、なにか特別な魅力ある演奏であってほしいもの。

さらに驚いたのは本人の言葉。
「ショパンへの思いは、10代のころ直感的に湧き上がってきました。」「私と相性がいいと恩師が言い、水を得た魚のような感覚…」「最初のレッスンであなたは生来のショパニストだ。なんと素晴らしい才能…」等。
どうやらこの人は、ショパンにかけては特別な自負をお持ちと思われますが、演奏からそれを納得することはついに出来ませんでした。

今年5月の来日では福岡公演もあったようで、知人から「ギャリック・オールソンが来ますね。行かないんですか?」と聞かれたこともありましたが、マロニエ君はよっぽどのことでもない限り地元のコンサートは行かないことに決めているので行きませんでしたが、もしもそのよっぽどのこと(付き合いやらなにやらの事情)で行くはめにならず、とりあえずよかったと胸をなでおろしました。

実際に時間を使って、チケット代を払って、着替えをして、ホールに出かけ、車を駐車場に停めて、座席に座ったあげくにこんな演奏をされた日には、以降2日間はその精神的余波があると思うので、やはりマロニエ君のようなタイプは行かないほうが安全なようです。
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ピレシュの影

NHKの早朝番組『クラシック倶楽部』は、再放送もかなりやるので、ああまたこれか…というのも少なくありません。

以前このブログにも書いたユッセン兄弟の東京公演をまたやっていたので、雑用を片付けながら流していると、前回見たとき以上に、師匠であるピレシュの影響がいっそう強く感じられていまさらですがびっくりしました。

音楽というのは不思議なもので、それに目を凝らし耳を澄ませて集中しなくちゃわからないことがある反面、却って距離をおいて、何かの傍らに聴いたり、車の中のような騒音の中で聴くことで、逆に何か本質みたいなものがスパッと見えてくることがあるもの。
今回はそのおかげでピレシュの色があまりにも強いことにいささか驚いたわけです。

偉大な現役ピアニストの弟子になるということは、そうそう誰にでもあることではないのか、そういう幸運があれば多くの学生はよろこんで師事するのかもしれませんが、この二人の演奏を見聞きしていると、影響を受けるというより、先生の弾き方をほとんどそのまま生徒に移し付けられたような気がしないでもありません。

腰の座らない小動物のような指の動き、ちょっとしたパッセージの奏し方まで、ピレシュそのものというような瞬間がしばしばあらわれ、言い方は悪いかもしれないけれど、この若者まるでピレシュの操り人形になっているようで危険を感じてしまいます。
人はそれぞれ異なる可能性を持っているはずなのに、兄弟揃って、こうした一つの方向だけに染め上げられるというのは、本人達が満足ならいいのかもしれませんが、見ている側はかなりの違和感がありました。
それが気になりだすと、もうそればかりに意識が向いて仕方ありませんでした。

指の動きはパタパタとしなやかさがなく、やけに手首を上下させ、せわしく小さく弾く感じ。
また、なめらかに歌い込む場面や、楽節のポイントとなる音のマーキングや表現の綾の部分などをあえて避けて、パサパサしたコンパクトな音楽にしてしまうのもピレシュの指導だろうと思います。
腹の中で拍をとるのではなく、手首から先でビートを刻み、しばしばイラついたような急激なクレッシェンドを多様するのは、聴いていて迫りというよりもただドキッとさせられるだけで、音楽にゆったり耳を預けられません。

以前、NHKのスーパーピアノレッスンだったか(番組名は忘れましたが)、ピレシュのレッスンの様子をやっていたことがありましたが、そこでのピレシュは、かなり頑なな教師という印象で、生徒の個性を尊重するというよりもやや独裁的で、自分の考えを強く主張し、生徒にすべて従わせるという印象でした。
彼女が言っていることは、尤もなこともむろんあるけれど、全体としては自分の考えでがんじがらめにする感じで、他者を指導するということは、もう少し個性尊重と多様性に対応する幅をとったほうがいいような気がします。

どうやらその印象は間違っていなかったようで、各人が持っている美点を上手く引っ張りだすというよりは、自分のコピーを作ってしまう先生だったようだと、この兄弟の演奏を聞きながら思いました。

それでも、むろんピレシュのほうが本家本元であるぶん風格はあるし主張も強いけれど、そのぶんユッセン兄弟のほうがいくらかノーマルに近いようであるのは多少なりとも救われる気分。

この兄弟、テクニックなどは現代の標準では弱いほうだと思うけれど、それでもなにかを持っていそうではあるし、今後はしだいに自分達らしさに目覚めて、確固たる道を見極め磨きがかかっていくことを期待したいところです。
彼らの活躍の幅が広まるほど、ピレシュの影は問題になるような気がします。
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CFXの魅力

先日のEテレ『クラシック音楽館』では、尾高忠明指揮による5月のN響定期のもようが放送され、小曽根真/チック・コリアのピアノでモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲が注目でした。

このコンサートの会場はコンチェルトなどではいつも音が散ってしまうNHKホールだったものの、まったくそれが気にならないほど録音が好ましいもので、クリアかつ音量もあり、やはりこういう録音はやろうと思えばいくらでもできるんだということを証明しているようでした。
クラシックのコンサートというと、やたら小さく詰まったような音で録る場合が多いのは勘違いも甚だしく、ひとえに音楽的なセンスの問題だと思われます。

演奏自体は例によって、随所にジャズのテイストや即興を盛り込んだもので、今回はそれがわりに上手く行っているように感じられ、モーツァルトの原曲をぎりぎり損なうことなく、意外性に富んだ楽しめるアレンジになっているように思いました。
この点は、チック・コリアの采配なのかとも思いますが、そのあたりのことはよくわかりません。

ピアノは二人ともヤマハのアーティストだけに、当然のようにヤマハ。
CFXが2台、大屋根を外された状態で並べられると、いかにも日本製品らしい作りの美しさが際立っているし、大屋根はないほうが2台ピアノの場合、1台だけ外さず開けているいる状態より響きが均等になって好ましく思えます。
好ましいといえば、このときのCFXはとてもいい感じで、このピアノが出て5年以上経つと思いますが、マロニエ君は初めて心から美しいと感じることができました。

そう感じられたについては、録音、演奏、曲、調整などあまたの要素が相まってのこととは思いますが、ピアノそのものもムラなくレスポンスに優れ、明るくブリリアントで爽快感さえありました。
深みのある音ではないけれど、いかにも新しいピアノだけがもつ若々しい音でした。

またこの二人のピアニストは、タッチもわりに一定でダイナミックレンジが少なく、曲がモーツァルトということもあってか、花びらのような音の立ち上がりの良さもあって、CFXのもっとも良いところがでていたように思いました。
重量級の曲になると底付き感を見せたりすることがしばしばであったCFXですが、モーツァルトなどを明るく演奏するには最適なピアノなのかもしれません。

残念だったのは、ピアニストが両者ともタッチの切れがもたついていたこと。
とくにチック・コリアは、かなりのテクニックでならした人かと思っていたら、あれ?と思うような部分がないでもなく、さすがにお年なのかとも思いました。

小曽根さんを聴いていつも思うことは、今どきのピアニストとしてはテクニックは必要最小限でしかないけれど、それでもクラシックの演奏家が持ちあわせない、演奏というものが一過性の冒険で、純粋率直に楽しむことの意味を体験させてくれる点だと思います。
とくにそれをクラシックのステージで実践することは、失ってしまったものをぱっと取り出して見せられているような新鮮さがあって、なぜクラシックの演奏というのは、ああも必要以上に退屈なものにしてしまうのか、そのあたりは考えさせられてしまいます。

旧来のクラシックファンに向かってそういう問題提起をしているだけでも、小曽根さんの貢献は大きいというべきかもしれません。

ついでなので残念な点も書かせてもらうと、小曽根さんがつくづく日本人だと思うのは、彼のビジュアル。
お顔立ちがとっても和風ですが、いまどきヘアースタイルひとつでも、もうすこし彼が素敵に見えるものがありそうなものだと思うし、衣装があまりにダサいのは毎回感じるところです。

このときも昔のカーテンみたいな野暮ったいエンジ色のシャツで、しかも生地に少し光沢があるあたりは、まるで昭和のパジャマでも着ているみたいでした。
とりあえず、そこらのH&Mあたりで上下買ってきて着るだけでもよほど素敵になるような気が…。
とりわけジャズの世界ではスタイリッシュというのはとても大切な要素だろうと思われるので、この点はなんとか、もう少しオシャレというか彼の持ち味が引き立つようなビジュアルにされると、演奏の魅力もおおいにアップする気がします。

つい余計なことも書きましたが、全体を通じてなんとなく印象の良い演奏で、つい2度続けて見てしまいました。
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こわいのはどっち

先週のある夜、福岡市西部にある国道を市内方向に向かって走っていたときのこと。

片側2車線の右車線をマロニエ君は流れに乗って走っていたところ、突如、背後から尋常ではないスピードで迫ってくる車があり、思わず何事かと身構えました。
ほどなくその車(トヨタのコンパクトカー)はマロニエ君の左側から猛然たるスピードで抜き去っていき、その後も右に左に車線変更しながら交通の流れを縫うようにして走って行きましたが、ところがそれに続いてシルバーのクラウンが、さらにその後ろから黒い軽自動車が、同様のスピードでこれに続きました。

驚いたのはもちろんですが、そのゆくえに注目していると、3台は互いにもみあうようにしながら激しく左右に車線を変え、ときに右折車線にまではみ出しながらアッという間に視界から消えていきました。

路上では、一台飛ばす車があると、だんだん周りの車がこれに引き込まれるようにスピードアップし、なんとはなしにバトルのようになることがあるので、はじめはその類かと思いました。しかし3台のスピードはあまりに過激で、なにかトラブルでも起こったあげくの暴走ではと思いつつ、とりあえず先で事故らなければいいが…と思ったぐらいでした。

それからしばらくして、国道と外環状線という幹線道路が交差する大きな交差点(そこでは片側4車線)に信号停車しようとすると、前方にただならぬ気配があり、近づくと、信号停車中の車から何人もの若い男性が降りてきて激しく言い争いをしています。

咄嗟に、さっき追い越していった3台の連中であることがわかり、おお!やっぱりこういうことになったんだ!と思わずヤッタ!みたいな感じで(笑)、信号停車中はかなりジロジロ見物してしまいました。
どうやら、はじめに抜いていった先頭の車のドライバーが中年の男性だったようなのですが、彼を取り囲んで続く2台に乗っていた若い男性たちが興奮した様子で中年男性に詰め寄っており、その中のひとりは相手の襟首まで掴んで激しく揺さぶるなど、まあ早い話が路上でケンカです。
これを見た助手席の友人は「うわぁ、かわいそう…」と口にしましたが、たしかに中年ドライバーが運転上のことで若者とトラブルとなり、多勢に無勢で言いがかりをつけられてるように見えたのが、この瞬間の目撃者としては率直なところでした。

その後、信号が青になり、しぶしぶ現場に別れをつげて走っていると、しばらくして、なんとくだんの中年ドライバーが横をスーッと抜いていきました。
どうやら話がついて若者達から開放されたのか、こちらも内心「…散々でしたね」という気分でいたのですが、そのすぐ後から若者らの2台の車が、嫌がらせのように中年ドライバーの車を次々に追い抜いて走り去って行きました。

まあ、普通ならこれで終わりというところでしょう。
ところが、若者らの2台がいなくなったあとも、この中年ドライバーの車はしきりに右に左に車線変更したり、無理に隣の車線に割り込んだりの異様な動きを続ける始末で、「え、どういうこと?」と呆気にとられました。

ただ単に早く行きたいのであれば、スピード違反の問題は別にして、さっさと行けばいいのに、この人、やたら周りの車を煽るような、見ていてどうしたいのか、まったく理解できないような意味不明な動きを繰り返しており、だんだん、この中年ドライバーのほうが普通じゃないのだということに気づき始めます。

もちろん事の起こりの場面を見たわけではないけれど、この調子では、あの若者たちの車にもこういう動きでけしかけるようなことになったのだろうと思われました。
それで腹を立てて、火がついて、追尾してなんらかの報復をしようと思ったのでしょう。

危険運転は理由如何に問わずいけませんが、少なくとも動機はそうだったのだろうと思いました。

中年ドライバーも大したもので、普通なら路上であれだけ激しい状況となり、交差点で車から降ろされて大勢に取り囲まれ、襟首まで掴まれ面罵されたというのに、その直後、性懲りもなくまだこんな運転をしているのですから、マロニエ君としてはよっぽどこの男性の神経のほうに呆れ返りました。
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シャオメイの再録音

これまで何枚買ったかわからないバッハのゴルトベルク変奏曲のCD。
おそらく20枚以上はあるだろうと思うけれど、数えてみたことはありません。

ゴルトベルク変奏曲のCDは、聴くに耐えないような駄作率は意外に低く、どれもそれなりの仕上がりになっていることは大きな特徴のように思います。なんといっても作品そのものが圧倒的であることと、バッハは他の作曲者より演奏者の自由度が広いということもあって、弾ける人が弾きさえすれば、そうおかしなことにはなりにくいのかもしれません。

そんな中で、自分の好みという点では上位グループの中に、シュ・シャオメイがあります。
シャオメイは中国の文革を生き抜き、その後欧米に飛び出したピアニスト。文革という苛烈な経験の裏返しなのか、その人間味あふれる演奏は他のピアニストとは一線を画すものだと思います。
彼女は1990年頃にゴルトベルク変奏曲をレコーディングしてすでに高い評価を得ており、これはマロニエ君にとっても定盤なのですが、そのシャオメイがつい先ごろ、同曲を再録したものが発売となり迷うことなく購入しました。

さっそく数日にわたり繰り返し聴いてみましたが、なるほどディテールの表現が前作より角がとれ、深まりを見せているように感じられるところが多々あるなど、より自由かつ細密さを増しているのがわかります。
また、なによりもこの記念碑的な作品をリスペクトし、隅々までこまかく気を配っている真摯さが伝わり、四半世紀を経て、現在の彼女の心の内奥を覗き見るようでした。また、ところどころ、解釈の基軸にグールドの存在が見えるようです。

では、旧作に比べてどちらがいいかというと、さらに高まった純度や一段と練られたディテールなどを聴き取ることができるなど、大変に迷うところではあるものの、全体的な印象で言うなら旧作のほうにやや軍配をあげるかもしれません。
やはりなんといっても旧作には全体に新鮮さと活気、音色には温かさと色彩があって、ピアニスト自身にもパワーが充溢していたと思われるし、それでいて人の心に語りかけるような慈しみが充分あって、この点は今でも色褪せることはありません。

新録音ではさらにデリカリーとセンスが上積みされ、新旧2つはかなり拮抗しているというのが正直なところ。
一般論としても、満を持して録音された最初の録音というものには、演奏者自身が気づかぬくらいいろいろな要素が揃っている事が多く、結果、高い評価に至るというのはよくある事です。とりわけ意気込み、燃焼感、構成力などはあるていど若いときの演奏のほうがより充実しているものが少なくない。
それでも、本人にしてみれば反省点や新境地など不満点もあって、再録で問い直したくなるのはわかりますが、同時に前作にあった完成度のようなものが損なわれてしまうということがままあることも事実。

パッと思い出すだけでも、ゴルトベルクを再録したピアニストはグレン・グールド、アンドラーシュ・シフ、コンスタンティン・リフシッツ、セルゲイ・シェプキンなどがあり、グールドはあまりにも新旧違いすぎて単純比較はできないし、個人的にはっきり再録のほうが優ると言い切れるのは、表現の幅を広げて一気に円熟の艶を増したシフひとりで、リフシッツの再録は聴いていないし、あとはシェプキンかなぁというぐらいで、なかなか旧作を明確に上回ることは至難のように思います。

また、旧作はそれひとつで成り立つだけの独立性があるのに対し、再録というのは、あくまで旧作あっての再録という側面が少なくないようにも思います。

シャオメイの再録に話を戻すと、聴く者を惹きつけ、作品もしくは演奏世界に誘う力は旧作のほうがやや強かったように思うし、色彩感もこっちだったような気がします。新しい方はより独白的で、色彩もモノトーンというか、あえてモノクロ写真にしたような印象を受けました。尤もこれらはちょっとしたマイクの加減、調律の違いなどでも変わってしまうことがあるので、シャオメイが意図したものかどうかは計りかねますが。
いずれにしろ、シャオメイというピアニストは中国人ピアニスト(それも文革の世代の!)とは信じられないほど、中華臭のしない、音楽的には中道で誠実な演奏をする人という点で、稀有な存在だと思います。

毒のある魔性の芸術家も好きだけれど、こういう良心的な人柄そのもののような演奏もいいものです。

ライナーノートを見ると、ピアノについての記述があり、「For this recording a Steinway D274 was used.」と、中古というか、新しいピアノでないことがわざわざ記されていました。
録音はドイツ、レーベルはAccentus Musicですが、ピアノチューナーのところにはKazuto Osatoという日本人らしき名前がありました。
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百年企業

こないだの日曜だったか、民放BSで『市川染五郎が見た あっぱれ百年企業 ~これぞニッポンの仕事~』という2時間番組があり、そこで取り上げられた3社のトップバッターがヤマハ株式会社でした。

今は浜松ではなく、掛川にあるピアノ工場を染五郎さんが訪ねます。
広大な敷地の中にあるショールームのような建物に入ると、きれいに磨かれた自動ドアが開くなり、現社長の中田卓也氏が深々とお辞儀をしながらのお出迎え。
その中田氏のかたわらにはグランドピアノ型の電子ピアノが置かれていて、開口一番「これが私も開発に参加したピアノです!」といって、得意満面のご様子。

とはいっても、ここはヤマハ株式会社の本拠地なのだから、そこでいきなり電子ピアノというのは違和感を覚えました。
もしかするとこれが今のヤマハの最も代表する看板商品なのかもしれないけれど、やはり世界のヤマハを標榜する以上は、まずは電子ではなくアコースティックピアノであってほしかったと思います。

番組としては、電子楽器としてここまで発展したピアノが、元を辿れば明治時代のこの1台のオルガンから始まりましたという、社史を振り返る流れだったようですが、だとしても納得できない感覚は払拭できませんでした。

どうぞどうぞ!と促されて染五郎さんがポンポンと音を出しますが、テレビのスピーカーを通しても、いかにも電子ピアノらしい音が聞こえるものです。とくに電子ピアノは、最初に出た瞬間の音より、そのあとの余韻のところに人工合成された不自然を感じます。

そのあとで、社長自らも「展覧会の絵」のプロムナードの一節をちょちょっと弾かれました。
出迎えでのいかにも腰の低そうなお辞儀や物腰、若くてカジュアルで、あくまでフレンドリーに話しをされる様子、そして製品の開発にも参加するほどの技術者でもあること、おまけに少しは演奏もできるのですよということまで、冒頭のわずか1分ちょっとの間にこの方のプロフィールの要点を圧縮して披露されたという感じ。

社長さんのアピールはいいけれど、この一場面を見ただけでも、世の中は電子ピアノが圧倒的主流で、ヤマハ自身が生ピアノをさほど重要視していないかのような感じを受けたことは、どうも出鼻をくじかれた気分でした。

そのあとは創始者である山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理を頼まれたのが始まりで…というストーリーが再現ドラマによってしばらく続きます。
途中で、調律の簡単な説明がありましたが、染五郎さんがいかにもおっかなびっくりの手つきで自らチューニングハンマーを回し、うねりというか音の変化を感じてみせるあたりは、いかにも無理があるなぁ…という印象。

こう言っては申し訳ないけれど、あの一種独特な雰囲気をもつ歌舞伎役者と西洋音楽のグランドピアノというのは、どう見ても相容れないというか接合点が見当たらず、全然溶け合わない様子は想像以上で、妙なところでびっくりしました。
人でもモノでも、ふさわしい場所や相手を得たときにはじめて本来の輝きを得るものですね。

後半は、バックにCFXが置かれた場所で、染五郎さんと社長の対談ということになりましたが、とくに深い話はなく、楽器作りと歌舞伎の世界を比較しながらという、なんだか取ってつけたようなわざとらしい対話がつづきました。
現社長は、いわゆる旧来の社長然とした物腰態度をいっさいとらず、たえず笑顔、他者と同じ目線をもつ仲間のような人物であることをそうとう意識されているようにお見受けしました。

ただし、やや行き過ぎの面もあり、染五郎さんのちょっとした言葉にも、過大に頷いたり感心したりと反応してみせるあたりは、まるで役者に話を聞きに行ったアナウンサーのようでした。とくに関係もないのに、いちいち「歌舞伎の世界では…」とそちらに置き換えて話を振るのも、きまってこの社長さんのほうでした。
まるで威張らない腰の低い自分を「自慢しているように」見えるのはマロニエ君の目がおかしいのか…。

社長さんのほうはたっぷりとご尊顔を拝しましたが、ヤマハにカメラが入ったからには、楽器の製造現場をもう少しみせてほしかったのですが、それはほとんどなかったのは残念としかいいようがありません。
現在のヤマハはなんと100種類以上の楽器を作る世界的にも非常に珍しい「総合楽器製造会社」なのだそうで、弦楽器・管楽器の制作現場なども見たかったですね。

せっかくBSで番組を作るなら、もっとコアな部分に踏み込んだものにしてほしいものです。
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オーラ

ずいぶん前の録画ですが、N響定期公演でブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲が演奏されたのがあって、それをついに見てみることに。

なかなか見なかったのは、マロニエ君にとってこの曲は、大好きなブラームスの中ではさほど魅力的には思えないところがあって、つい後回しになっていたからでした。それでもソリスト次第ではそちらへの好奇心から引き寄せられることはありますが、今回はそういう感じでもなく、ずいぶん長いこと放置してしまいました。

指揮は、このところN響をよく振っているトゥガン・ソヒエフ、そして肝心のソリストは、ヴァイオリンがフォルクハルト・シュトイデ、チェロがペーテル・ソモダリで、共にウィーンフィル/ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーで、シュトイデ氏はコンサートマスターでもあり、この両者は通常公演の他にも、室内楽などの共演も積んでいる由。

冒頭インタビューでソヒエフ氏は、この曲はとくに高いアンサンブルが求められるもので、当日顔会わせしてリハーサル、本番、終わったらさようならというだけでは曲の真価が発揮できないというようなことを言っていました。
そして、この日のヴァイオリニストとチェリストがいかに理想的な二人であるかを述べたのでした。

しかし、実演を聴いてみると、マロニエ君はまったくそういうふうには感じなかったというか、むしろ逆の印象を受けてしまい、もともとさほどでもないこの曲が、これまでとは違う、あたりしい魅力をまとってマロニエ君の耳に響いてくるという期待は裏切られ、むしろさらなるイメージダウンになってしまいました。

いつも書いているように、演奏の良否(といえばおこがましいので、強いているなら自分にとっての相性)は始めの数秒、大事をとっても5分以内に事は決してしまいます。
この間に受けた印象は、最後まで、まずほとんど覆らない。

この二重協奏曲は、オーケストラの短い序奏の後でいきなりチェロのカデンツァとなり、そのあとヴァイオリンが和してくるのですが、なるほど二人の息はぴったり合っているし、アーティキュレーションも見事というほど一体感がありその点は、いかにもよく弾き込まれ、万全の準備をしてステージに立っていることが伝わります。
とくにウィーンフィルらしく、ちょっと嫌味なぐらい自信満々に演奏されていました。

しかし、どんなに素晴らしくとも、二人の演奏はソロではなく、あくまでも優秀なアンサンブル奏者のそれだとマロニエ君には聴こえて仕方がありません。

曲は隅々まで知り尽くされ、その上でいかにも闊達な演奏を繰り広げているけれど、それがどれほどヒートアップしても、それは協奏曲におけるソロの音…ではない。
よくヴァイオリンの鑑定などで「大変素晴らしい楽器です。しかし大きな会場での演奏よりは、むしろ室内楽などに向いているようですね。」といわれるあの感じで、とても熱っぽく弾かれているが、いかんせん楽器の箱があまり鳴っておらず、オーケストラが入ってくると、すぐに埋もれてしまいます。
これは別に音量の問題ではなく、ソロとしての輝きがないからでしょう。

また、年中オーケストラでオペラなどを演奏しているからなのでしょうが、演奏は正確で折り目正しく、決してアンサンブルから外れることはないのですが、それがこの曲では良い面に出ず、いかにも中途半端なものに終始しました。
ひとことでいうなら「あまりに合い過ぎて」つまらないわけです。
しかも時折ソロを意識してか、ハメを外すような弾き方をする場面もあるのですが、それも一向に効果が上がらず、却って虚しいようでもありました。

あれだったら、二人ともオーケストラの中に入って、適宜ソロパートを弾くほうが、このときの演奏には音と形がよほどあっているように思いました。

この二人に限りませんが、マロニエ君はオーケストラの団員出身者が、その後ソリストとして大成した人というのは、ゼロではないにしてもほとんど知りません。
ソリストというのは音楽上のいわば主役を張れる役者であり、長年オーケストラで過ごした人の大半は、もともとそういうオーラが無いのか、あるいは長い団員生活の中で退化してしてしまっているのかもしれません。日本人でも同様の経歴をたどって、ソロ活動へシフトした人が何人かいらっしゃいますが、どうしても真のソロにはないようです。

名脇役はどんなに名演であっても主役とは違うし、極端なはなし技術は少々劣っても、主役にふわさしい要素を備えている人というのがあるのであって、このあたりはキャスティングを誤ると、音楽でも決して最良の結果にはならないようですね。
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ふたを閉めて

このHPやっているお陰もあって、ピアノがお好きな方からメールをいただき、それがご縁となって、以降電話やメールのやり取りをするようになった方というのが、ごく僅かですがおられます。
そのうちの、福岡にお住まいの某氏と久しぶりにお会いすることになりました。

この方とお会いするのは二度目ですが、今回はマロニエ君の自宅に来ていただいて、中華の出前をとって食事などしながら、夕方から深夜まで音楽談義で過ごしました。

とても楽しいひとときで、ピアニストの話が多くを占めましたが、とりわけ印象的だったのは、すぐ脇にあるピアノを弾くということは、互いにほとんどなかったことです。

ひとくちに「ピアノ好き」といっても、ほとんどの人は「ピアノを弾くこと」が好きで、ピアノ好き→優れたピアニストの演奏に関心がある→つまり音楽好き…という図式はまったく通用しません。
ピアノは弾いても、それが終わるとピアノとはまったく関係ない雑談ばかりが延々と続き、音楽の話などしないのがこの世界では普通なのです。
マロニエ君もはじめはこの実態に驚愕しましたが、音楽やピアノの話に興じるほうがよほど特種で異端らしいのです。

通常の趣味の世界では、その道の最高峰がいかなるものか、あるいはもろもろの情報には嫌でも関心があるし敏感になるもので、テニスをやっている人がウインブルドンにぜんぜん無関心とか、世界ランキング上位の選手の名前も知らないなどというのはほぼあり得ないだろうと思うのですが、ピアノに関しては…それが「普通」なのです。

では、ピアノ趣味の人は普段なにをやっているのかというと、ただ教室などで習っている目の前の曲をマスターするまで練習し、それを発表会という晴れの舞台で弾くという、えらくシンプルな一本道にエネルギーを注ぐということの繰り返し。
真の芸術的演奏とはいかなるものか、あるいは膨大にある優れた楽曲を少しでも知りたい…というような方面にはあまり欲求がないというか、ほぼ無関心に近いのはまったく信じられないのですが、それが現実。

そしてパフォーマンスとしてかっこいい系の有名曲を弾くことが練習するにあたっての最大のモチベーションで、おそらくはラ・カンパネラとか英雄ポロネーズを発表会で弾くことが最高目標なんでしょうね。
音楽というより、単なる自己実現のカタチがたまたまピアノなんだろうと思われます。
もし仮にあこがれの英雄(第6番)に挑んだにしても、前後のポロネーズ、すなわちあの魅力的な第5番、あるいは晩年の最高傑作のひとつである第7番がどんな曲かなんてことは、まったく関心もない。

マロニエ君はべつに頭から発表会を否定しようというような考えではありません。
正直に云うと、個人的にはあの系統は好きではないし共感もできかねますが、そこにもきっとなんらかの意味はあるのだろうと思うし、それを好きだというのも自由なわけで、カラオケで熱唱するのが好きで、それに入れ込む自由があるのと同じです。
ただ、自由ではあるけれど、日々ピアノにふれ、何らかの作品を奏しながら、それでも音楽そのものにほとんど見向きもせず、ピアノが趣味という口実の道具に使われているように見受けられることについては、そこに発生する違和感まで消し去ることはできません。

あっと…もともとそんなことをくどくど書くつもりではなかったわけで、話は戻り、冒頭のその方とはいろいろとしゃべったり、お持ちのiPadからさまざまなピアニストの演奏や動画を見せていただくなどしているうちに、瞬く間に時は過ぎました。

普通は共通の趣味人同士が集うと、顔を合わせるなりたちまちその世界に入って、何時間でも疲れ知らずでしゃべっていられるものですが、ピアノの場合はこんな当たり前なことが、こんなにも稀有な事だというのをあらためて痛感しました。

今はなき往年の巨匠の演奏から、名も知らぬ才能ある子どもの演奏まで、ネット上には貴重な音源と映像が多数存在しており、この日は珍しい映像をいくつも見て聴いて堪能することができました。とくに人にはそれぞれ好みがあって、この人のこれが好きとか、これがたまらないというようなこともたくさんあって、大いに共感できること、そうでないことなど人の好みを聞いているのも面白いものでした。

話は尽きず、お開きになったのはもう少しで日をまたぐ時刻になりました。
ピアノは弾いてこそピアノという一面があるのもわからないではないけれど、かといってシロウトがやみくもに弾くばかりでは耳がくたびれるばかりです。
趣味として奥深いところで遊んでみるには、むしろピアノのふたは閉めておいたほうが面白いというのもひとつあるように思います。
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ブゾーニざんまい

久しぶりに感銘を受けるコンサート(TVですが)に出逢いました。
NHKのクラシック倶楽部で、まったく未知であったサラ・デイヴィス・ビュクナーというアメリカ人ピアニストによる、ブゾーニ生誕150週年記念コンサートの模様が放映され、これに大いに感激しました。

会場は京都府立府民ホール・アルティ。
ステージは低く、左右両側からゆるやかな階段状になった底の部分にピアノ(CFX)が置かれる。

ビュクナーはピアニストであると同時にブゾーニの研究家でもあるらしく、彼の義理の娘とも親交があって多くの事を学び、ビュクナーのニューヨークデビューには彼女も立ち会ったとのこと。

まず正直に云うと、マロニエ君はむかしからブゾーニの音楽があまりわかりませんでした。今でもわかりません。
バッハの編曲なども多数あるし、単独の作品もCDなど少しはあるけれど、聴いていて自分なりに何かが見えるとか掴める気がしないというか、いったいどこにフォーカスして聴くべきなのかがよくわからない。それでいてやたらデモーニッシュな印象のある作曲家でしたが、今回はビュクナー女史のおかげで、ほんの少しだけわかったような気がします。

演奏されたのは、ブゾーニの7曲からなるエレジー集、さらにブゾーニの影響受けたというカゼッラの6つの練習曲。アンコールにはビュクナーが書いたという「フェルッチョ・ブゾーニの思い出に」。

マロニエ君にとって昔も今もブゾーニは難解であることに違いなく、とくに謎だらけで解決に向かわない不協和声の連続などは、こちらの気持ちのもって行きようも覚束かないもので、このエレジー集も初めて聴くわけではない筈なのに、初めて聴くのと同様でした。
それでも、なんとはなしに、ブゾーニが新しい音楽を書こうという強い情熱をもっていた人だったということは、このビュクナーの凛とした演奏によって伝わってくるような気がしました。

とくに強く感じたのは、混沌とした時代に生き、人並み外れて情念の人だったのだろうということ。

しかしそのブゾーニの作品以上に感銘を受けたのは、ビュクナーの抜きん出た演奏でした。
かなりの難曲と思われる、この延々と続くエレジー集を、迷いのない、確信に満ちた演奏で弾き切ったことです。
マロニエ君にとっては曲が難解であるというだけで、演奏そのものは至って雄弁、しかも全曲暗譜という見事なものでした。
指はよほど分離が素晴らしいのか、10本すべてバラバラという感じであるし、柔軟かつきっぱりした表現でブゾーニの作品世界に案内してくれました。
また身体や指も完璧ともいいたい脱力状態で、技術的にも一切の破綻がなく、その自在な演奏は見ているだけでも惚れ惚れするようなものでした。

楽器に対する直感力もよほど鋭い人なのか、CFXのいい面ばかりを引き出し、このピアノ特有の響きの底付き感が出る一歩手前で鳴らしきるあたりは神業で、このピアノの良い面ばかりがでていると思いました。
はじめ、舞台に置かれたCFXが映ったときは、内心ちょっとがっかりしたのですが、始まってほどなくすると、そんな思いは消し飛んでしまい、しかも苦手な作品にもかかわらず、ひたすらこの素晴らしいピアニストの雄弁な演奏に引き込まれてしまい、あっという間の55分でした。

カゼッラの練習曲もいかにも演奏至難という感じでしたが、ここでも見事な演奏。まさに適材適所に高度なテクニックを駆使できる点は、この人の終始一貫した特徴のようです。

あとから調べてみると、この日のプラグラムには、ほかにブゾーニによるバッハのゴルトベルクの自由編曲、リストのパガニーニ練習曲の自由版などがあって、これはもうぜひ聴いてみたいところ。あとは頼みの綱のクラシック倶楽部アラカルトに希望を託すしかありません。

とにかくこれはずごいピアニストだと思って、さっそくCDを調べてみたところ、ブゾーニのゴルトベルクらしきものが一点あったけれど、すでに発売終了の商品で、それ以外にはなにも見つからずガッカリでした。
ビジネスや名声でなく、こういう地道な演奏と研究を続ける人もいるのだということを思うと、そういう人がなかなか表に出てこない世の中が恨めしく思われるばかりでした。

有名ではないけど真に良いピアニスト、良い演奏に触れる機会というのは、奇跡的に少ないのだというのが現実なんだろうと思うと、そういう機会を作ってくれたNHKはさすがと思うばかり。
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ひっかかる言葉

もうすでに類似のことを書いたかもしれませんが、最近よく使われる言葉や言い回しの中には、ちょっとしたことなんだけれど、聞いていてそのたびにクッと神経にひっかかるというか、聞き心地の良くない言葉というものがあります。

どなたにもひとつやふたつ、そういう言葉があるものと思いますが、それは人によっても違ってくるでしょう。

マロニエ君にとって、最近抵抗を感じるのはお礼を言うときに「ありがとね!」という、あれです。
幸い自分が言われたことはないけれど、外でちらほら耳にすることがあり、これがどうも嫌なんです。
その理由をなんだろうかと考えてみましたが、はっきりしたことはわかるようなわからないような。

強いて云うと、せっかくの謝意がちょっぴり品のない響きになってしまうという残念さがあると思います。
どうしてふつうに「ありがとう」「どうもありがとう」ではいけないのか…。

マロニエ君は個人的に、美しい日本語の中でも、「ありがとう」とか「さようなら」「お父さん(お母さん)」というのは、とくに平易な言葉の中でもとりわけきれいな言葉だと感じるのですが、それをわざわざ「ありがとね!」にしてしまうのは、聞いていて快適ではないし、せっかくのいい言葉(しかもよく使う)をわざわざこんな風に崩して使い、それがだんだんに勢力を増してきているのには閉口してしまいます。

もしかすると「ありがとう」や「どうもありがとう」では美しすぎるから、どこか気恥ずかしさがあるのかとも思いますが、こんなきれいな、まるで空中にふわりと浮かぶような言葉はなかなかないし、語尾が「…とう」でやわらかく終わるところに品位とほのかな美しさがあるように思います。
それをわざわざ「う」を取って代わりに「ね」で締めくくると、ベタッと地面に落ちてしまってニュアンスやデリカシーもなくなるし、「ね」の強さが相手側にキュッと指先で押し込むような暑苦しささえ感じます。
今どきの人は、よほど言葉に対する心得のある人でないかぎりは、「父」「母」のことも「父親」「母親」と敢えて第三者的な言い方をしますし、そうかと思うと、人の奥さんのことは誰かれ構わず「奥様」といったりで、とにかくてんでバラバラです。

奥様というのが悪いわけではないけれど、あるていど奥様という言葉にふさわしい相手であってほしいし、言う側も前後の言葉をそれなりのきちんと間違えずに流暢に操ることのできる人に限られるというのがマロニエ君の持論です。しかるに、そこだけ取ってつけたように「奥様」なんていわれたら、却ってぎょっとするし、言っている側も言われる側も蓮っ葉になるのが関の山です。

そもそも言葉というのは不足でも過剰でも美しくないもので、デパートの外商とか美容院ならともかく、普通は奥さんで充分だと思います。とくに男性は「奥さん」「お子さん」ぐらいに留めておいたほうが、むしろ好印象なのではないかと思います。

もはや笑ってもいられないのは、言葉に関しては訓練を受けているはずの司会者などが、そこらの芸能人の奥さんのことを馬鹿丁寧に「奥様」などといったかと思えば、同じ人が「天皇皇后両陛下がどこそこに行き、ひとりひとりに言葉をかけました。」などと平然と言うのですから、言葉文化はめちゃくちゃという気がします。

震災で傷ついた熊本城の痛ましい被害状況を見ると、みんな「うわぁひどい…なんとか再建しなくては!」と思うのに、言葉の文化で無残な崩壊状況があっても、大半の人がなんとも思わないので、修理も訂正もできない現状は非常にやりきれない気分になるばかり。
言葉の美しさは適材適所の使い分けでもあって、やたら丁寧語を乱発すればいいという今の風潮はなんとかならないものかと思います。
もう少し日本語の真の美しさに敏感になりたいものです。
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レーベル違えば

同時に購入した反田恭平氏のCD2枚のうち、先に聴いた『リスト』はまったく良い印象がなかったことはすでに書いた通りですが、もうひとつの『Live!』では、おやっ…と思うほど違っていて、通常こういうことはまずないので珍しいことです。

曲目はシューベルトのソナタD661、チャイコフスキー:ワルツ・スケルツォ第1番、ショパン:英雄、ミャスコフスキー:ソナタ第2番、スクリャービン:ソナタ第3番、チャイコフスキー:カプリッチョ、モシュコフスキ:エチュードop.72-6、リスト=シューマン:献呈というもの。
データを見ると『リスト』と『Live!』の2枚は、ほぼ同時期(2015年1月)に録音されていますが、細かく見ると不思議な相違点が散見できました。

ケースの雰囲気も似ているので全然気づかなかったけれど、まずレーベルがまったく違っていてびっくりでした。
それに『リスト』はDENONによるセッション録音であることに対して、『Live!』はNYS CLASSICSというレーベルの文字通りライブ録音である点も異なります。

2枚に共通しているのはピアニスト、それに使われたピアノがホロヴィッツが弾いたという1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD75であること。

レーベルが違えば、当然プロデューサーも異なり、『Live!』のほうがCD75という歴史的なピアノの魅力をよほど適正に捉えているように思います。
ひとことで言うなら、こちらのほうがピアノの魅力を知る人(どうやらこのピアノのオーナー氏)が録音の指揮をとったという感じで、その違いは聴く側にとってかなり大きな影響があり、このあたりは工学の専門家と、楽器や音楽の専門家とでは目指すところがかなり違っているようにも思われ、マロニエ君は後者を支持するのはいうまでもありません。

『Live!』を聴くことで、この非凡な楽器の魅力もようやく伝わりました。
刃物のようにシャープで、優雅さと猥雑さが同居していて、どこか魔物の声のようでもあるけれど、その中に不思議な温かみのようなものもある、今どきのありふれたピアノとはまったくの別物というのがわかります。
それで気を良くして、もう一度『リスト』を聴いてみますが、こっちはやっぱりダメでした。
こちらは音がむやみに攻撃的でとても聴いていられません。よほどマイクが近いのか、耳はもちろん手や顔の皮膚までジンジンするようで、途中で本当に頭が痛くなってしまったほどです。たまらずにSTOPボタンを押すとその音の洪水から開放されてホッとするほど強烈です。

演奏も何度もプレイバックを聴いては録り直しをさせられたのか(どうかはしらないけれど)、演奏行為を通じて奏者と作品の間に起こる自然の発火作用がなく、仕組まれた無傷というか、慎重さとかミスのなさばかりが目立ってしまい、うまいんだけどシラケてしまいます。
熱演ではあるけれど、空気感としてちっともエキサイティングじゃないわけです。
やけに遅いテンポ、不必要かつ過剰な間の取り方、ハンマーが弦に打ち付けるときの直接的な衝撃音まで入っている感じで、まさにピアノの至近距離で聞かないほうがいい雑音まで聴かされているようで、反田氏自身が本当にそういうCD製作を望んだのかどうか、甚だ疑わしい演奏に聴こえました。

これに対して『Live!』では、音楽に流れがあり、そこにある緊張感あふれる空気を感じることができるし、ピアニストの一回の演奏にかける意気込みのようなものがあって、こちらのほうが反田氏の正味の姿だろうと思われますし、当然好感度も大いにアップしました。とりわけチャイコフスキー、ミャスコフスキー、スクリャービンで見せた腰のある演奏は、この人がとくにロシア系の重厚かつ技巧的な作品に向いていることがよくわかります。

その点で言うと、リストは作品がいくら技巧的ではあっても、それをただ技巧派が弾くとこの人の作品は趣味の悪さがワッと前にでるので、リストを聴いてもただ単に技術をお持ちなことを「わかりました」となるだけで、反田氏の評価が本当の意味でアップすることはないような気がします。

『リスト』と『Live!』の2枚は、『リスト』で伝えることのできなかった多くの要素、あるいは直接的なマイナス要因を『Live!』は取り戻すための一枚で、だからほとんど同じような時期に収録されたのでは偶然か意図的かと、つい勘ぐりたくなるようなそんなCDでした。

同じピアノとピアニストが、録音の目指す方向性によって出来上がるものは唖然とするほど違ったものになるということがまざまざとわかる2つのCDで、これほどはっきり体感できただけでもこのCDを買った意味があったと思いました。

できることなら、『リスト』に収録された同じ曲目を、違う録音で聴き直してみたいものです。
ただしラ・カンパネラと愛の夢はもうたくさんですが…。
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舛添劇場

東京都の舛添さんの公私混同問題は、ものすごい盛り上がりですね。

猪瀬さんの時を上回る話題性というか、正確に言うならその持久力はたいへんなものです。
連日テレビは、この話題を朝から晩までこれでもかと取り上げ、ワイドショーでは、これに割く時間がしぼむどころか逆に日を追うごとに増してきている感じです。

コメンテーターもお馴染みの顔ぶれがレギュラー出演状態となり、あっちへこっちへと番組を渡り歩いているご様子で、辛辣な批判の陰で、内心「舛添さまさま状態」な方々もずいぶんいらっしゃるようです。

テレビのスイッチを入れれば、たいてい舛添さんの土色の顔と鬼のような眼光が映っており、それほど日本国内はこの話題に熱中(熱狂?)しているのは間違いありません。
かくいうマロニエ君も、毎日呆れつつそれを楽しんでいるくちで、ひさびさの野次馬根性全開状態です。

それにしてもほとほと感心するのは、舛添さんの「しがみつきパワー」でしょう。
あれだけ連日連夜にわたって、東京都民はじめ全国民が怒りの集中砲火を浴びせているのに、なんとしてもこの難曲を乗り切ってみせるという爬虫類のようなスタミナは、腹立たしくもあるし、とてもかなわないというため息が出てしまいます。

絶対にあんなふうになりたいとは思わないけれど、あのメンタルの異常な強さは、千分の一でもわけてほしいほど、通常の人間だったら到底耐えられるものではありません。
都議会の質問でも、代わるがわる「あなたはセコイ!」など、通常なら現職の知事にとても使わないような強い言葉を浴びせられても、どんな長時間の恥辱にまみれようとも、絶対に辞任はしないというあの異様なまでの強さは見ている我々を戦慄させ、それがますます引き下がれない批判のパワーを生み出していると思います。

またメディアの表現にはそれぞれ線引というのがあり、テレビでは言えないこともたくさんあるようで、週刊誌の広告に至っては信じられないような行状の数々がすっぱ抜かれており、とにかく並大抵の御仁ではないことは間違いないようです。

知事の場合、公金の政治活動費は5万円未満は使途の報告義務がないらしく、あるコメンテーターは「舛添さんは、要するにご自分と家族の衣食住を、ほとんど公費でまかなっているようなものですよねぇ。」と言いましたが、これ、知事としての彼の有りようをまさに一言で言い表しているようです。

猪瀬氏の時と違い、ネタも種類も多くて豊富、テレビもこれさえやっていれば視聴率が取れるので、各局競い合うように舛添ネタばかりですが、マロニエ君もいくら見てもおもしろいのでついつい飽きもせず見てしまってます。

今回とくに面白い要素のひとつは、政治家の金銭スキャンダルとしてはかつてないチマチマ感で、これまでの政界で普通だった巨悪に較べると、やれヤフオクで7000円だのクレヨンしんちゃんの本だのと、いかにも庶民の手にも取り扱いやすいネタが満載で、その細かさときたら舛添氏の人柄が織りなす緻密な手仕事を見せられるようです。

ご本人も、まさかこれほど鎮火のできない大火事になるとは思っていなかったでしょうが、この先どんなに粘ってみせても、さすがにここまでくれば辞職以外に世間もマスコミも承知しないでしょう。

だいたい、やれファーストクラスだスイートルームだ別荘だというような人間は、ムヒカさんではないけれど、精神的に非常に貧しい人特有の、とめどない貪欲な上昇志向と自己顕示欲から出てくるもの。
なかには「警備の問題からファーストクラスが必要だった」という馬鹿げた弁明もありますが、狭い機内で、ビジネスとファーストで警護をする上での違いなんぞあるわけがない。

いくら東京が大都市だといっても知事は知事、ビジネスクラスに乗り、良いホテルの通常の部屋に宿泊して、それできちんと仕事ができないようなヤワな人間なら、そもそもそんな仕事につく資格はないのです。

つらつら考えるに、今回の騒動では、渦中の舛添さんにも世間にひとつふたつは貢献したことがあるように思います。
ひとつは少々のドラマや出来事なんて物の数ではないほど、けしからぬ話題として大衆を楽しませたこと。
もうひとつは、この程度の細かいごまかしを日常的にやっている政治家は、実際にはうじゃうじゃいる筈なので、その連中もこの想定外の騒ぎを見ていささかビビっているだろうということです。
そういう意味では、格好の見せしめ的な事案になるわけで、そんなお役には立っているのかもしれません。

まだ収束したわけじゃないので、来週も楽しみです。
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雲泥の差

マロニエ君の生活圏(福岡市及びその近郊)にある回転寿司でイチオシなのは、魚米(うおべい)ということを以前書いたような気がしますが、記憶が定かではないので、重複するところがあったらご容赦ください。

魚米という店名はあまり耳にしたこともなかったけれど、元気寿司系のチェーン店のようで、ネットの店舗検索を見てもそれほど数もなくメジャー店ではないようですが、ここを知ってからというもの、ぱったり他店には行かなくなりました。

魚米の特徴は、全店すべてかどうかは知りませんが、いわゆる作り置きの寿司は一皿もなく、すべてタッチパネルから注文をするスタイルであること。さらに各テーブルへは、なんと上中下、実に三段からなる高速レーンを駆使して、注文の品がスイスイ運ばれてくることです。
くわえて、ネタが新鮮で大きいことも特筆すべきで、にもかかわらず寿司メニューの多くが100円という安さ。店の内装は白を基調とした清潔感あふれる都会的な雰囲気で、従来の回転寿司の標準からすれば完全に一歩先を行くものだと思います。

もともと回転寿司は、テーブル脇のレーン上にあれこれのお寿司が流れている中から好きなものを皿ごと取って食べるというものでしたが、これだと自分のテーブルの位置が川(レーン)の上流にあるか下流にあるかでかなり条件が違ってきます。仮にむこう側に食べたいものが流れていても、こっちまで周って来る間に途中で誰かに取られてしまう可能性があり、不公平感がありました。(…昔の話ですが)

そうなると別途に注文するしかないわけですが、テーブルまでのお届け方法として「注文品」として流れに混ぜ込むか、店員がお盆に乗せて運んで来るかだったものが、そのうちに注文したものをダイレクトにテーブルに届けるための、専用高速レーンが設置されるようになりました。
注文も、いまやタッチパネルを採用する店が主流になっているようです。

さて、回転寿司といえば最も有名なのがスシ❍ーだというのは多くの人が認識するところでしょう。
マロニエ君も、十年ぐらい前にいちど行ったことがあるものの、それほど美味しいとは思えず、いらい一度も行ったことがありませんでした。しかし、土日などはいつ見てもスシ❍ーの駐車場には誘導員まで立っているし、店の出入り口付近は順番待ちの人であふれており、その人気の高さ、いわば支持層の厚みが窺えます。

TV-CMなどを見ても、いかにも新鮮そうな大きなネタがスローモーションで舞い降りてくる様子など、見るからに魅力的な感じに作られており、もしかしたらグッと進化していて美味しくなっているのかも…という気がしなくもありません。
それで友人と調査がてら行ってみようかということになり、先日スシ❍ーで食べて来ました。

果たして、結果は惨憺たるものに終わりました。
たまたま行った店のみでの感想なので、すべての店舗で共通することかどうかはわかりませんが、まず店内の雰囲気が暗いし、タッチパネルではあったものの、棚の上部の固定タイプである上、パネルが超鈍感で、指先が白くなるほど力を入れないと反応しないのは、もうこれだけでいきなりテンション落ちまくりでした。

また、注文しても、ゆるゆると流れる川に他の商品と混ざってゆっくりゆっくりやってくるのは、ようするに回転寿司の第一世代そのままで、新型の高速レーンの快適さ(とくに魚米の三段レーン)を知る身には、あまりの落差に大きなストレスを覚えるほど。とくに案内されたテーブルは川が折り返してくる反対側だったので、その待ち時間の長さときたらはっきりいって苦痛以外の何ものでもありません。
まさに快適な新幹線に対してガタンゴトンの在来線のような違いでした。

肝心の味もあくまで普通(もしくはそれ以下?)でしかなく、「さすがは人気店だけのことはある!」と感心するような要素はまったくナシ。
それどころか、より多く注文させるためか、ネタを相対的に大きく見せるためか、シャリも小っちゃいしネタもコマーシャルでみるようなダイナミックなものひとつとしてなく、ただ上にぽちょんとのっているだけのものでした。

席も座面が擦り切れていたこともあり、たまたま古い店舗だったのかもしれませんが、食器類も激しく傷だらけで、醤油差しの上のゴムも弾力がなくなっているなど、いつもの魚米とはまさに雲泥の差でした。

帰りのクルマの中で「なんであんなに人気があるんだろうね…」とつぶやく友人。ごもっとも。
「ま、知名度なのかね…」と返しながら、不満タラタラなのに身体はいちおう満腹という、妙な気分のまま帰途につきました。

ひとつわかったのは、あんなテンポじゃ客の回転率がかなり悪いので、慢性的な行列を生むのか…とも思いますが、味の面では人気の理由がよくわからないまま、いちおう目的は果たしたとして調査終了です。
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修行のスタンス

過日、十四代柿右衛門さんのインタビューにあった基礎の大切さという点から端を発して、ピアノにおける技巧か音楽性かという部分に触れました。
しかしこれ、そもそも技巧と音楽を切り分けて訓練することじたいが出発点から間違っていると思わずにはいられません。

音楽性とテクニックの関係性は、あくまで一体のものでなくてはならないということです。
いかにテクニックが大切だといっても、音楽を後回しにして肉体的訓練ばかり積んで、後から「では音楽を身につけましょう」といってもなかなかそうなるものではありません。いったん身についた技術偏重の習慣は、大切な幼年期から思春期をそれで通してしまうと、あとからの方向転換は至難です。

音楽的様式と感性に裏打ちされた素晴らしい演奏を目標として、それを結実させるためのテクニックということであれば、多彩な音色やポリフォニックな弾き分け、音質の種類、必然的なアーティキュレーション、歌い込みの訓練など、ただ難易度の高い曲をこなすことが価値基準というような単純な訓練では済まなくなるのは明白です。

昔の(とりわけ)一流教師のもとでおこなわれた「スポ根的訓練」はさすがに衰退したようですが、それも音楽の本質に迫る指導するところまでは到達せず、真に曲の内面に切り込むことのないまま、楽譜上の音符の羅列として曲を扱う指導が大勢を占めていることに変わりありません。
だからどんなに上手いとされる人の演奏にも、どこか演技的な空虚さが漂います。

絵の場合、自分の描いたものは常に自分や他人が見ることができるため、たえず多くの批判の目にもさらされますが、ピアノは自分の演奏を後からじっくり確認するということは、録音でもしていないかぎりできません。
これは、音楽が絵のように止まることのできない時間芸術であるために、どうしても冷静かつ総合的な評価が手薄になっていく宿命といえるのかもしれません。

デッサンは様々なものを描いて練習を積むにも、常にそこには当人の美意識や感性が投映され、それと技巧が切れ目なく結びついていますが、ピアノで基礎技術を徹底するとなると、情緒面をシャットアウトしてしまう危険が大きく、むしろこれを同時並行させることのほうが困難といえるでしょう。

ハノンに代表される指運動の無味乾燥な教則本があることがその象徴ですが、絵の場合、毎日マルや直線といった技巧の訓練だけに費やす教本があるなどとは、少なくともマロニエ君は聞いたことがありません。
デッサンはいくらそれに明け暮れようとも、鉛筆をにぎる指の運動的な訓練という面がないことはないけれど、とうていピアノの比ではありません。出来栄えを常に見て、自分の目と感性とが連動した修練となります。

いっぽうピアノはスポーツ的な訓練および仕上がりに陥りがちな危険性に充ち満ちていて、日本の音楽教育というか、多くの先生方もそういうやり方で育ってきているので、どうしても指のスポーツが中心になるのでしょう。
珍しくない海外留学も、音楽の本場に行って修行を重ねるという表向きの意味のほかに、日本ではできない勉強を遅ればせながら現地でやってきます…という補填的ニュアンスにマロニエ君は感じてしまうのですが、残念なるかなあとから付け加えるのと、それ込みで育ってきた人とでは、埋めがたい溝があるような気がします。

ここで言いたいことは、ピアノの場合のテクニックというものは、冒頭に書いた通り、音楽と一体のものでなくてはならないということ。世界のトップレベルのピアニストの演奏を見ていると、各人の音楽性と技巧は深いところで一体化していて、その人の音楽的個性の方向に向かって技巧も発達していることが見て取れます。

その点でいうと、大半の日本人のピアノ演奏はまず万遍なく平均化された技巧があって、楽譜があって、それをマスターするついでに音楽的な表面処理をおこなっただけという印象があり、聴く者の心に侵入したり、情感に踏み込んでゆさぶられたり、思わずため息の溢れるような演奏になっていかないのは、至って当然という感じです。
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勘働き

人間には「勘」という優秀なセンサーがありますが、表向きそれはあまり重視されません。
勘というだけでは、まるでただの思いつきのようで、明確な根拠のない主情による決めつけにすぎないというイメージなんでしょうか。

しかしながら、マロニエ君は自分の「勘」をとても重視しており、それは少々の根拠や理屈より一段高い次元を行くものだという位置づけなのです。それは自分の深いところにある何か確かなもの、別の言い方をすると心の奥底にある純粋なものとストレートに結びついている気がするからでしょうか。
この勘が、まるで微弱な電流のように、自分自身に何ともしれぬ信号を送ってくれることがときどきあるものですが、これを巷では「勘働き」というのかもしれません。

つい見落としがちな「勘働き」は、常に人の内面で機能しているのであって、とくに人間関係においは真価を発揮するものだといえるでしょう。どれほど立派で好感度あふれる人でも、どこかしっくりこない、違和感がある、などと感じるのはまさにこの「勘働き」というセンサーが何かをキャッチしているからだと思われます。

にもかかわらず、人間はやむを得ぬ事情や損得が絡むと、この勘がしらせてくれている信号をないがしろにしてしまうことがしばしばありますね。
目先の欲得やメリット(のようなもの)を優先し、自分に都合のいいように後付けの理屈を並べて正当化し、論理・心理両面の取り繕いをしますが、それはほとんど場合、意味のないごまかしに過ぎません。

マロニエ君も歳を重ねるにつれ、物事を熟慮するようになった…とはさすがに言いかねますが、それでも今ごろやっとわかったことも少しはあって、そんな経験からもこの「勘」にはできるだけ逆らわないよう心がけています。それは結果として、勘というものの正しさの確率が圧倒的に高く、そこに信頼の重きを置かざるを得ないからにほかなりません。
とくに信心する宗教もなく、風水だの何だのの類に頼っているわけでもない中、この勘働きは自分が間違った方向にできるだけ進まないための、ささやかな道標のひとつになっている気がします。

また自分のささやかな経験を振り返っても、この勘に逆らい、別の理由で押し切って前進したときは、まあ大抵はあとで失敗していることがわかります。

最近もこの「勘働き」の正しさを証明するような、あっと驚くことがあったのですが、これはさすがに具体的なことは書けません。ただ言えることは、10数年前からずっと違和感を感じていて、一度もそれが晴れることがなかった某氏(しかもその人の職場では才能を認められ、長らく信頼され、厚遇されていた人物)が、最近になってついにメッキが剥がれたのか、20年近くも務めた職場を、きわめて礼を失するやりかたであっけなく辞めていったという話で、そこの社長さんから最近聞かされて驚いたものでした。
マロニエ君としては、長い時間を経て、自分の感じていたことがようやく日の目を見たようで、おかしな言い方ですがある種の勝利感みたいなものを感じてしまいました。

このとき、あらためて自分の勘に従順でなくてはならないことを悟りました。

今どきは、表向きはきわめて温厚で好人物のようにふるまいながら、そのじつ野心的な計算高さと演技が見えてしまう人がとても増えたように思います。
まあ、それはそれでこんな時代を上手に生き抜くための術なのかもしれませんが、それを単純に信じれば、あとで手痛い思いをするのはこちらですから、油断は禁物。そして勘こそが頼りだとますます感じるわけです。

動物が災害などをいち早く察知するのも、やはりこの「勘働き」ではないかと思いますし、そういう機能が人間にも僅かに残っているのだとマロニエ君は思うのです。

三島由紀夫の『金閣寺』にも、こんな一文がありました。
「感覚はおよそ私をあざむいたことがない。」
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技術と表現

十四代酒井田柿右衛門のインタビュー番組の中でもうひとつ印象に残ったことは、基礎の大切さということでした。

この十四代も学生時代は多摩美術大学で学ばれたそうですが、そこで徹底的に叩きこまれたことはというと「デッサン」だったそうです。来る日も来る日もひたすらデッサンばかりさせられ、当時の教授の中には「若いものが絵を描くなど!」と憤慨するほど、基礎であるデッサンをしっかり養うまでは絵を描く資格などないといった空気だったそうです。

何を表現するにも、絵の場合デッサン力がなければなにも表現できない、表現のしようがないというのが十四代の考えでもあるようで、それはたしかに説得力あふれるものでした。
いかに表現したい素晴らしいものがあったとしても、それを作品へと具現化するたしかな手段を備えていなくてはどうしようもないということです。

ところが、現代の美大では「個性を伸ばす」ということに重きがおかれ、以前のような基礎重視の考え方ではなくなっているとのこと。
その結果、根を張っていない、腰の座らない未熟な技法のままパパッとなにか描いてしまうのだそうで、そういう在り方には大いなる疑問があるというようなことを仰っていたわけです。

これは、ピアノにおいても「技巧か音楽性か」の問題に通じる気がします。
ピアノの場合、技術はとくに幼少期に鍛え込んでおかないと、あとからどんなに奮励努力しても越えられない壁があるのは周知の事実です。

ただ、一般的にピアノを弾く人の中には技術的レベルばかりに目が向いて、音楽そのものについてはほとんど無知・無関心というような人をやたら多く見かけます。口では「音楽性が大切」などと言うも、その演奏はまるで作品に対する敬意も愛情も感じられないカサカサなもの。やたら難曲を選んでは、ただスポーツ的に指を動かすだけの様子を目の当たりにすると、なにをおいても音楽性こそが重要だとついぶつけたくなるのが率直なところ。
長年ピアノに触れてきているにもかかわらず、音楽あるいは表現の勉強は信じがたいほどできておらず、名だたるピアニストの演奏も名前も知らない、ピアノ以外の音楽など聴いたこともないといった有様です。

それをじゅうぶん承知のうえで敢えて云わせていただくなら、でもしかし、技巧は音楽性と同じぐらい重要なものだと言わなくてはならないと、この柿右衛門さんの言葉を聞いてあらためて思いました。
たしかに難曲を弾けること、さらにはそれを自慢することが快感になっている人を目にすることは、ピアノの世界では珍しくありませんし、そういう輩はマロニエ君はむろん軽蔑しています。

そうなんだけれども、やはり最低でも一定の技術がなくては、まず音符を弾きこなすこともできないし、その奥に込められた作曲家の意図や真実を描き出すこともできないことも事実。
これは、どんなに清い心をもっていても一定の収入がなくてはまともな衣食住が成り立たないのと同じで、これが現実の厳しさだろうと思います。

演奏技術オンリーというのは問題外のことであるけれども、でもやはり技術がなくてはどうにもならない。ましてプロともなると、その要求は桁違いに高いものとなります。

また、アマチュアの世界でも、発表会その他で弾く曲を決めるにあたって、自分の客観的な技術を念頭において検討する人は意外に少なく、実力を遥かにオーバーした曲選びをする人が多い事には大いに首を傾げます。

たしかにアマチュアの限られた技術にいちいち相談していたら弾けるものはほとんどない、弾きたいものはなにひとつひっかかってこないという現実があるのもわかります。さらにそれでコンクールに出ようというのでもなく、人からチケット代を取るわけでもない、あくまで趣味であり楽しみなのだから、そこはどうあろうと自由だと言ってしまえばそれっきりです。

しかし、だからといってあまりにも趣味ゆえの自由に悪乗りして、とうてい身の丈に合わない難曲に手を付けたがるのは、決して良いことだとは思いません。いかに趣味とはいえ、どこかで身の程をわきまえることは教養の問題でもあるし、いわば音楽的道義の問題だと思います。
少しは技術的に余裕のもてる選曲をすることで、多少なりとも音楽表現へエネルギーを向けて、細かな表情などを磨いて整えることのほうが大切だと思うのですが…。

話がずいぶん脇道に逸れましたが、要するに技術に余力がないと何もできないということですね。
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不器用がいい

先日、録画したままになっていたBSの番組で、人間国宝の「十四代酒井田柿右衛門」のインタビュー番組を見てみました。
この番組は、2010年に放送されたものの再放送で、十四代はそれからわずか3年後の2013年に他界されたとのことで、いわば晩年の姿と話をとらえたものだったといえるようです。

本当は作品見たさに再生ボタンを押したところ、実際はインタビューばかりでいささか落胆していたのですが、訥々とした話しぶりの中から、なるほどと思われるような言葉が出てくるあたり、だんだん面白くなって結局最後まで見てしまいました。
90分の放送時間は、大半が柿右衛門さんへのインタビューで、あまり話好きな方のようにはお見受けしませんでしたが、渡邊あゆみさんの聞き方が巧みだったのか、時間が経つに連れてしだいに饒舌になり、いろいろと興味深い話を聞くことができました。

柿右衛門は濁手(にごしで)という特徴的な白の上に、柿右衛門様式にしたがって絵付けがされていくものですが、その鮮やかな絵柄とともに重要なのが、余白を占める「白」だそうで、これは地元の泉山というところで採れる石を使っているとのことでしたが、その太古からの自然の恵みを充分に含んだ石のもたらす風合いが肝心の由。

最も印象にのこったのは、「きれい」と「美しい」はまったく別のことだということ。
現代は科学技術の進歩で、陶器の地肌であれ絵の具であれ、純粋に精製されたきれいなものが安易に手に入るけれど、それらはきれいではあっても風合いや味わいがなく、柿右衛門さんは一切それらを使うことなく、昔の手法にこだわっているとのこと。

柿右衛門のあのどこか透き通るような、単純な白色ではないデリケートな風合いをもった地肌の上に、様式にかなった様々な絵柄が乗った時にえもいわれぬ仕上がりになるのだというのがあらためて納得です。
あれがもし単純な白、透明感のない単調な白であったら、それは柿右衛門とは似て非なるものになってしまうことは素人目にもはっきりとわかります。他の地域の石を使うと、色はきれいでしかも使いやすく、有田焼にもたちまち浸透した時期があったそうですが、柿右衛門窯では敢えて使いにくく「きれい」でもない地元の泉山の石にこだわったとのこと。

美しいものを作り出す伝統とは、そういうものだということですね。

また科学技術の進歩の代償として、日本の伝統工芸の技は急速に失われていくことは間違いないということでした。

これは楽器作りと全く同じことで、楽器にかぎらず、すべての手仕事の世界というものは、一見むだとも思えるような労苦の果てに到達するものですが、それを現代でも継承していくのは、よほどの気構えでないと難しいのだということをまざまざと思い知らされます。

現代でもっともコストの掛かるものは人件費であり、それを他に置き換えるために科学技術は多くの叡智をつぎ込んでいるわけですが、それはいいかえるなら真の意味での最高級品を絶滅させてしまう行為なのかもしれません。

陶芸でも楽器でも、ピラミッドの頂点にある最高級品のクラスだけは従来の伝統工芸なり製法が守られたにしろ、それ以外のほとんどは合理化の波をかぶったきれいなだけの無機質なものに姿を変えてしまっているということです。

べつに伝統工芸といわずとも、例えば古い電気製品でも、昔のものは現在ならおよそ考えられないようなガッチリした丁寧で頑丈な作りだったりすることに、処分をすることになってそれを手にした時、現在の製品との質感のちがいに思わずハッとしてしまうことがあります。

もちろん、普及品などは過度に手をかける必要もないけれども、ハイテクや合理化は決してジャストポイントでブレーキが掛かることはなく、大半は残す必要のある部分まで一気に飲み込んでしまうようです。

柿右衛門さんの言葉でもうひとつ印象に残ったことは、職人は「不器用なほうがいい」ということ。
真の職人は不器用な人で自己主張をせず、何十年をかけて決められた伝統手法の体得に生涯を捧げるのだそうで、器用な人というのはそこにどうしても自分らしさや個性がでてしまうので却って困るということでした。

どんなに立派な仕事をしても、そのあたりが作家と職人を隔てる一線のような気がしました。
ではピアノの技術者は音作りという点において、作家なのか職人なのかという問題を考えてしまいましたが、整音や調律によって音を作るという一面があるとしても、やはりそれは突き詰めていうなら作家ではなく「職人」の範疇に入れられるべきものだとマロニエ君は考えます。

いかに優れた音作りであっても、ピアニストや作曲家を差し置いて、ピアノ技術者の個性が演奏の前に出てくるようなことがあってはならないからで、その点で言うとピアノの調整技術に携わる人はやはり職人の伝統技法の世界に中にあるものだと思いました。

調整技術どころか、ピアノの製作においても、各セクションの職人さんはまさに職人なのであって、唯一作家であることが許されるのはピアノ設計者だけだろうと思います。
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ゆらぎ

スタインウェイ社自身がプロデュースするCDレーベルというと、そのものズバリの『STEINWAY & SONS』ですが、これがそこそこ面白いCDを出しているという印象があります。

中にはセルゲイ・シェプキンのような中堅実力者が登場することもありますが、多くの場合、一般的には無名もしくはそれに近いピアニストを起用しながら、独自の個性的なアルバムをリリースしており、マロニエ君は結構これが嫌いではないのでたまに購入しては楽しんでいます。

先日もスタニスラフ・フリステンコというロシアの若手が演奏する、FANTASIESというアルバムを聴いてみました。
演奏はそれなりで、とくにコメントすることもありませんでしたが、アルバム名の通り、シューマン、ブルックナー、ツェムリンスキー、ブラームスの各幻想曲を集めたものです。

めったに聴くことのないブルックナーのピアノ曲、初めて聴いたツェムリンスキーの「リヒャルト・デーメルの詩による幻想曲」などは大いに楽しめるものでした…が、それ以上に楽しめたのはやはりここでもピアノの音でした。

冒頭のシューマンの開始早々、うわっと驚くようなゆらぎのある響きというか、一聴するなり調律がおかしいのでは?と思うような特徴的なサウンドが部屋中を満たしました。
その正体はこれぞニューヨーク・スタインウェイとでもいう音で、とてもよく鳴っているけれど、ニューヨーク製らしい鼻にかかったような特徴のあるペラッとした音がなんだか楽しくもあり、どうかするとちょっと軽過ぎな感じにも聴こえてきたりするのですが、全体としてはきわめて魅力にあふれ、いかにも生のピアノを聴いているという実感に満ちています。

それにしても、出てきた音が揺らぐというか、陽炎ごしに見る景色のように響きが歪んで立ち上がってくるあれはなんなのかと、いまさらながら思いました。音の粒もどちらかというと各音によって音色や響き方にばらつきがあり、これは本来ならピアノとして問題視される要素かもしれませんが、それでもニューヨーク・スタインウェイには代え難い特徴というか魅力にあふれており、このあたりが簡単に❍☓では解決できない評価の難しいところだと思います。

マロニエ君も詳しく語れるほど知っているわけではありませんが、昔のメイソン&ハムリンやボールドウィンも似たようなややハスキーヴォイスを持っていますから、これは一世を風靡したニューヨークが生み出すピアノの特徴というか、地域が抱えもつDNAなのかもしれません。
アメリカの音楽には最適ですが、ヨーロッパのクラシック音楽にはときにちょっとそぐわない事もないではないけれど、いかにもアメリカらしいおおらかさと明るさ、ある種のアバウトさが日本やドイツのピアノづくりとは根底に流れる文化が違うことを感じさせられます。

ニューヨーク・スタインウェイを使ったCDを聴くと、わかっているはずなのに最初は耳があわててしまうのは、それだけ特徴的なピアノだからだと思いますが、しばらく聴いているとすっかり耳に馴染んでしまうあたりも、やはりタダモノではないということを毎回実感させられます。
しばらく聴いてNY製の音に慣れてしまうとそれが普通になり、その後にハンブルクを聴いたら、今度はこちらがなんだか遊び心のない、四角四面なピアノのようにも感じてしまうあたりは、いつも変わりません。

ここで使われているのは新しいピアノのようですが、今でもNY製の個性は健在であることがわかり、一度定まった音は信念をもって作り続けられることに敬意さえ覚えてしまいます。
どこぞのピアノのように、新型が出る度に、あっちへこっちへと方向を変えるメーカーとは、やっぱりそのあたりのぶれない自信とプライドがどうしようもなく違うようです。

この『STEINWAY & SONS』レーベルは、むろんスタインウェイ社のCDであるだけに、ハンブルク/ニューヨークは公平に使われているようで、両方の音が、メーカー自身がお墨付きを得た状態で聴いて楽しめることがなによりも特徴だと思います。
それにオーディオマニアでもないマロニエ君の耳には、録音も概ね秀逸ときているので、このレーベルを聴くときだけは演奏や作品よりも、「純粋にスタインウェイのサウンドをいろいろな演奏や作品を通じて聴く」ということに目的を特化することができるわけで、なんともありがたいレーベルです。
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R指定?

先日放映されたN響定期公演は、前後にR.シュトラウスの変容とツァラトゥストラを置き、間にシューマンのピアノ協奏曲を挟むという、ちょっと珍しいプログラムでした。
指揮はパーヴォ・ヤルヴィ、ピアノはカティア・ブニアティシヴィリ。

ヤルヴィとブニアティシヴィリは海外でも共演経験があるようではありますが、N響/ヤルヴィという組み合わせに、なぜあらためてこの女性が登場してくるのか、大河ドラマに話題の若手をムリに起用してミスキャストになるみたいでちょっと違和感がありました。
ブニアティシヴィリの演奏はこれまでにも何度か映像で接したことがあるけれど、その演奏がまったく好みではないのは言うに及ばず、あのエロ衣装でのセクシーパフォーマンスをそのまま日本でもやるのか?

どうせ録画されているのだから、怖いもの見たさでみてみたところ…やはり日本でもおやりになったようです。

この人は、ピアノを弾いているという建前のもと、合法ギリギリのところで自分の容姿や仕ぐさを見せつけることに快楽を覚えているのか、演奏家としてちょっと計りかねるものが心底にあるのでしょう。
男性と言いたいけれど、あれはもう老若男女だれが見たって、その衣装はイヤでも彼女のサイボーグのような体を見せるためのものだし、それをEテレで真面目に放送されたことにも呆れるだけ。むろんれっきとしたN響定期公演で協奏曲のソリストという「建前」があるから可能だったのでしょうが、その実質はかなり危ないものだと思いました。

子供が見るのも明らかにNGだし、彼女が登場するコンサートはR指定になってもさして不思議はないでしょう。

衣装だけではなく、強烈な真紅の口紅をひき、わざとそうなるようにしているとしか思えないヘアースタイルは、下を向くと髪は一斉に前へと落ちかかり、そこから顔を上げると、こんどは彼女の顔に黒髪が乱れるようにまとわりついて、ベッドとステージを間違えたようなあられもない表情がバンバン続きます。

たしかに演奏家はさまざまに陶酔的な表情を浮かべる人は少なくありませんが、ブニアティシヴィリのそれは音楽的裏付けは感じられず、ただステージ上で繰り広げられるセクシーパフォーマンスにしか見えません。

演奏は、やたら叩くか、はたまた聞き取れないほどの弱音かのどちらかで、いずれも練り込まれたタッチが生み出す実や芯がないため、ただのぺらぺら音で、真面目に弾いているようには(マロニエ君には)思えないもの。

時代が変わり、世の中の価値観も多様化し、クラシックコンサートのチケットが売れないから、今までどおりのことをやっていてもダメだという背景があるのはわかりますが、だからといってあれはないでしょう。

何度も何度も、量の多いカールした黒髪がドサッと顔面を覆い尽くすのは、見ているだけでもストレスになってくるし、まるで海中の藻の中に顔を突っ込んでいるか、真っ黒いモップを被って赤い口紅だけがその中で見え隠れするよう。着ているドレスも胸はギリギリ、背面は腰の下まで見えるような過激なもので、どう見ても意図して狙っているとしか思えないものです。

冒頭インタビューで彼女のネット動画の再生数が100万回とかなんとかで、これはすごい数だというようなことをヤルヴィが言っていましたが、そりゃあタダだし、クラシックのピアニストとしてはほとんど反則技に近いものだから、それならば少なくとも演奏で勝負したなんとかリシッツァのほうがずっとまともだと思います。

もちろん、今時なので違法でないかぎり、なんで勝負しようが構わない、自由だ、という意見もあるとは思いますが、少なくともマロニエ君はあんなのノーサンキューです。

拍手なども、いまいち盛り上がっている感じはなかったし、アンコールもなかった(あったとしても放送されなかった)ようでしたから、やはり聴衆にはそれほどウケてはいないのだと感じました。…それがまともだと思いますが。
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ブレンド

CDのアルゲリッチとバレンボイムのピアノデュオは、ベルリンフィルハーモニーで演奏された2台のピアノによる春の祭典をメインとするCDがありますが、今年の春には、同じ顔ぶれでもう一枚CDがリリースされました。

昨年の7月に、ブエノスアイレスのコロン劇場で収録されたライヴ盤で、ご存知の通りこの二人にとっては生まれ故郷での演奏会ということになります。
曲目は、シューマン=ドビュッシー編曲のカノン形式による6つの小品、ドビュッシー:白と黒で、バルトーク:2台のピアノとパーカッションのためのソナタ。

バレンボイムとの共演はそれほど興味をそそられるものはないけれど、そうはいっても前回はなにしろアルゲリッチが『春の祭典』を初めて弾いたわけだし、彼女のCDはどんなものでも買うことにしているので、既出のCD音源は海賊版などもあるためさすがに100%とは言いかねますが、数十年間買えるものは徹底して買い続けているので、新しいものが出れば迷うことなく購入しています。

というわけで、今回も当然のこととして購入して聴いてみたところ、やはりさすがというべきで、初日たちまち3回ほど続けて聴きました。とくに今回は全体に馥郁とした印象が強く、バルトークでさえ楽しめる演奏になっていることに嬉しい印象をもちました。
輸入盤でもあるしライナーノートは今更という感じで見ていなかったのですが、夜寝る頃になって、なにげなく机の上のケースが目に入り、このときはじめて中のノートを取り出して見てみることに。

すると、最初のページの写真をみてアッと声を上げたくなるほど驚きました。
互い違いに置かれた2台のピアノのうち、バレンボイムが弾いているのは、以前このブログでも書いた「バレンボイムピアノ」で、これはバレンボイムの着想により、スタインウェイDをベースにChris Maeneが作り上げた並行弦のピアノです。
バレンボイムはこの自分の名を冠したピアノを弾き、対するアルゲリッチはノーマルのスタインウェイDを弾いています。

音だけ聴いては、さすがに半分はこのピアノが使われているなどとは夢にも思わないものだから、うっかり気が付きませんでしたが、そうと知ったらこのCDのこれまでとは何かが違う理由が一気に納得でした。
並行弦で、デュープレックススケールを持たず、芯線も一本張りのこのピアノは、従来のスタインウェイとは全く違った響きをしており、全体にほわんとした余韻を残しているのです。

このピアノがお披露目されたことを知った時も、いずれはバレンボイムがこのピアノを使ってCDなどをリリースするのだろうとは思っていましたが、まさか遠くブエノスアイレスで、しかもアルゲリッチとのデュオでそれを持ち出すとは、まるで思ってもみませんでした。

以前、スタインウェイレーベルのCDで、ニューヨークとハンブルクの2台によるデュオというのがあって、それも通常とは微妙に異なる響きがあって楽しめましたが、今回の2台はそれどころではない面白さです。

ほわんとしたやわらかな響きの膜の中に、ハンブルクスタインウェイのエッジのきいた響きも加わって、これはとても面白いCDだと思います。意識して耳を澄ますと、なるほどその音色と響きの違いがわかり、このところすっかりこのCDが病みつきになっていて、もう何度聴いたかわかりません。

本当は音だけを聴いてこの「異変」に気がつけばよかったのですが、それは残念ながら無理でした。
しかし、この2台による演奏は、けっして違和感がないまでに調和がとれていて、なかなかステキなブレンドだと思うし、そもそも2台ピアノというのは同じピアノを2台揃えるというのが一応の基本かもしれませんが、弾き手も違うのだから、ピアノも違っていてなんら不思議ではありません。

そもそも、そんなことをいったらオーケストラだって、各自バラバラのメーカーの楽器が集まってあれだけの演奏をしているのであって、ピアノだけが同じメーカーである必要性はないでしょう。
もちろん調律師さんなど、技術者サイドからみれば、同じピアノであることが理想だという信念をお持ちかもしれませんが、実際にこういう演奏を耳にすると、同じピアノのほうが統一感があって安全かつ無難かもしれませんが、面白味という点ではぐっと幅が狭くなることがわかります。

コーヒーでもウイスキーでも、ブレンドがあれほど盛んなのは、それによって奥行きや複雑さが増すからで、マロニエ君などはインスタントラーメンでも二人分を作るときは、違うものを混ぜたりしますが、これがなかなか美味しかったりします。
カレーのルゥも然り、ファミレスでは子供がドリンクバーでジュースをあれこれブレンドして飲んでいますが、あれもやってみると複雑さや柔らかさがでて、ことほどさようにブレンドというのは面白いものだと思いました。

ブレンドはある種ハーモニーであり、まろやかさの創出でもあるのだと思います。
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反田恭平-2

いま日本で注目されるピアニストの一人、反田恭平氏のCDを購入しました。

まずは昨年収録された『リスト』というタイトルの、文字通りオールリストのアルバム。
特筆すべきは、この録音にはホロヴィッツが弾いていたニューヨーク・スタインウェイのCD75が使われていることで、これはあの「ひびの入った骨董」発言が話題となったホロヴィッツ初来日(1983年)の際に日本に一度来ているピアノで、その後のヨーロッパ公演にも使用されたとのこと。
1912年製といいますから、昨年録音された時点でも100年以上経っていることになります。

このピアノはホロヴィッツが好んだ数台のスタインウェイのうちの1台らしく、他のピアニストへの貸出も許可しなかったということですが、そういう逸話はともかく、聴いていて、このピアノを十全に弾きこなすのはなるほどホロヴィッツただ一人だろうということを諒解するのに大した時間はかかりませんでした。

反田氏の演奏の是非は置いておくとして、この特殊なピアノを中心に語るなら、この若者がそれなりにでも弾きこなしているかといえば、マロニエ君はまったくそのようには思えませんでした。
このピアノには、とくに音色の面で特殊な奏法と美学が必要とされ、その面では、反田氏の演奏をむしろピアノが拒絶しているように感じました。

ホロヴィッツに愛されたこの駿馬は、他の乗り手をなまなかなことでは受け付けようとせず、その音はしばしば悲鳴をあげているようにしか聞こえません。このピアノは炸裂するフォルテシモより、通常はマエストロがそうしたように、ビロードのような柔らかなタッチによって優しく愛でられることをよろこび、あるいは随所で様々な声部やアクセントを際立たせるといった弾き方に敏感に反応する特殊なスタインウェイのようです。
しかし残念ながら反田氏の演奏は、ホロヴィッツが駆使した魔性とエレガンスの対比で、聴く者を魅了するタイプではないようです。

立て続けに繰り広げられる強い打鍵、連続する和音の攻勢にスタインウェイとしては珍しく破綻したような音があらわとなり、弦がジンジンいうばかりのような音色は、ピアノが無理強いをさせられているようでちょっとまともには聞いていられませんでした。
いかに優れたピアノであっても、あまりにも枯れた響板故か(くわしいことはわかりませんが)、この歴史的な老ピアノをもう少し理解し手なずけて、その美質を引き出すような演奏であって欲しかったと、おそらくこのCDを聴く多くの人は感じると思います。
さもなくば、現代のふつうのスタインウェイで弾いたほうが、どれだけ良かったことだろうと思います。

CDの帯には「恐れを知らない大胆さと自在さ」とありますが、一流ピアニストならコンサートや録音に際して、使うピアノの個性を慎重に見極めるべきで、その特性を考慮せず、一律にばんばん弾くことが大胆とも自在ともマロニエ君は思えません。

反田氏の演奏は、個々の楽節でのアーティキュレーションではそれなりの集中や完成度があるようですが、各曲の性格やフォルムを見極め表現しているかとなると疑問で、高い演奏クオリティのもとにどれも同じような調子で弾かれてしまうのにも違和感と退屈を覚えました。
見事な演奏ではあっても、そこに流れ出す音楽で聴く者が惹き込まれるという点ではいまひとつで、どこにポイントを持って聴くべきか、ついに掴めないままになりました。

ボーナストラックとして、ホロヴィッツ編曲のカルメン幻想曲が収録されていましたが、もしホロヴィッツがあれを聴いたら何と言うか、ワンダ夫人はどんな顔をするのか、CD75は喜んでいるのか、誰よりもこのピアノの価値を知り、来歴にも詳しい技術者オーナーは本当に満足しているのかなど、いろいろなことを考えさせられました。

あえて率直に言わせていただくなら、このCDで聴く限り、この伝説的なピアノにひびが入っているとは思わないけれど、「骨董」としての音にしかマロニエ君の凡庸な耳には聞こえなかったのは事実です。
すくなくともこのピアノを敢えて使うという必然性が感じらず、違ったピアノのほうが反田氏の演奏にはよかったように思います。
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追加の演奏で

早朝放送されるBSプレミアムのクラシック倶楽部は、1回の放送でひとつのコンサートが取り上げられますが、ときどき変則的に「アラカルト」というのを放送します。
これは察するに、55分の番組内で紹介しきれなかったぶんの演奏を復活放送させる目的で、大抵は2人のアーティスト(というか2つのコンサート)を取り上げ、前回聞けなかった曲を追加的に楽しむことができます。

先日の放送では、キット・アームストロングのピアノリサイタルとユッセン兄弟のデュオリサイタルでした。

キット・アームストロングは、浜離宮朝日ホールで50年以上前の外装がウォールナット仕上げのスタインウェイDを使っての昨年の演奏でしたが、本編のときはあまり好印象ではなかったことを書いた記憶がありました。
たしかバッハのホ短調のパルティータとリストの作品をいくつか演奏したように思いますが、今回はわずか30分ほどの時間に、バッハのオルガン用のコラール前奏曲集から3曲、さらには自身の作曲である「B-A-C-Hの名による幻想曲」なるものが放送されました。

実は、今回聴いてみてこの人の印象が一変し、どれもが非常に素晴らしいもので、とくにポリフォニーの歌い分けの見事さには脱帽させられました。
しかも、多くのピアニストがそうであるように、意志的に知的に各声部を際立たせることに全神経を集中させて、そこにかなりエネルギーを割いている(というか、そうせざるを得ない)奏者が少なくないのに、キット・アームストロングはこの点があくまで自然体であるのは注目すべきでした。
必要に応じて上から下から、あるいは中ほどからいろいろな旋律が出てきては絡み合い、溶け合い、離れてい行くさまがいかにも自然で心地よく、本人の様子にもこれといって特段の苦労もないのか、ただ身についたことを普通にやっているかのようで、ときに嬉々とした感じさえ見てとれました。

このポリフォニーの歌い分けの自在さでは、ところどころでグレン・グールドを想起させるほどで、まだ10代だというのにこれは大変な才能だと思いました。また「B-A-C-Hの名による幻想曲」も、マックス・レーガーなどよりずっと世代感の進んだ斬新的な作品で、あんなものを本当に自作したとなると、ちょっと恐ろしげな才能でした。

ここに聴く半世紀も前のスタインウェイは、あきらかに現代の同型とは異なる音のするピアノでした。
ブリリアントな味付けがさほどされない頃のスタインウェイで、アラウやルービンシュタインなどの録音では、こういう重みのある朴訥な音がよく聞かれたように思います。洗練され華麗さを併せ持った後年のスタインウェイサウンドも素晴らしいけれど、多少渋みのある実直なハンブルクスタインウェイというのもなかなかいいものだと思いました。


後半はユッセン兄弟のリサイタルから、まず弟がモーツァルトのデュポールの主題による変奏曲、ついで兄がシューベルトのソナタの最終楽章、最後に連弾でシューベルトの行進曲というもの。
まずいきなり、弟の弾くモーツァルトの素晴らしさに心を奪われることに。

大ホールの演奏会で、モーツァルトをあれだけ聴衆の集中をそらすことなく、品位を保って終始充実した演奏で弾き切るというのはなかなかできることではありません。これがまずとても良かった。
ついで兄のシューベルトもすっきりしているのに立派で、ふたりとも、作品のありのままの姿を臆することなしに、自然体できっぱりと描き切っているのは特質に値すると思いました。

それに、二人ともよく曲をさらっていて、この点でも気分よく安心して聴いていられました。
ほどよく引き締まり、ほどよく無邪気さもあり、筋肉質になりすぎることも間延びすることもない自然な平衡感覚をもった演奏というのは、そうザラには転がっていません。

この二人はピレシュに師事していたようで、奏法/解釈のいずれにも多少その影響があることは隠せないけれど、師匠よりはテクニックもあるし、美に対するセンスも上回っているのか、むやみに押し付けがましい表現に陥らないところも高い評価の要素になりました。

どれを聴いても、演奏を通じて聞く者がまず作品に触れ、作曲者の顔を見せてくれて、しかもそれが「ピアノを超越して音楽しています」という上から目線でなく、あくまでピアノの率直な魅力にも溢れているところが、この兄弟が演奏家として特筆されるべき最も優れた点ではないかと思います。

キット・アームストロングから、切れ目なくユッセン兄弟に変わると、ピアノも一気に現代のスタインウェイになるので、その聴き比べもできましたが、現代のほうが音が基音が柔らかく倍音も豊富で、さらに音の伸びもあって耳慣れてもおり、やはりこれはこれでいいなあと感じたことも事実で、良いピアノはどれも素晴らしいという当たり前のことがよくわかった次第でした。

クラシック倶楽部の55分間で、こんなに終始充実感をもって集中して楽しめたことはめったにないことで、いい演奏というのはあっという間に時間が過ぎてしまいます。
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慣れの問題

『全国警察24時』みたいな番組ってそこそこ人気なのか、民放各局では似通ったものが結構あるようですね。
ニュースと朝ドラと音楽番組の録画以外はあまりテレビを見ないマロニエ君ですが、それでもいくつか視るものがないわけではなく、結構この警察モノは嫌いじゃありません。

街中を巡回するパトカーの隊員が、すれ違いざまに見た車のドライバーの一瞬の様子や動きから勘働きで目をつけ、後を追って職務質問が開始します。はじめは至極低姿勢だけれど、だんだんに相手の挙動や発言の問題点を見透かしていくのは、マロニエ君の野次馬根性を大いに満たしてくれます。
小さな話かけが、しだいに任意で持ち物検査や車内の捜索などに及び、あげくは違法な薬物の常習者だったりするところは、人間ウォッチとしても面白いので、この手の番組はわりに録画して視ることが少なくありません。

と、つい前置きが長くなりましたが、実は本題はこれとは関係なく、先日見たこの手の番組では、ある交通事故が車好きでもあるマロニエ君としてはとくに印象に残りました。

高速道路の料金所での映像で、ベンツの最高級車のひとつであるCLクラスというとても豪華な2ドアクーペが、料金所脇のポールにボディ左側を鋭く食い込ませ、ボディは大きく斜めを向いて、見るも無残なクラッシュ姿で止まっていました。

駆けつけた警察官には事故の状況がすぐには飲み込めない状況だったものの、運転者はというと無事で、その人物からの状況説明によって事故の経緯が判明したようでした。

それによると、なんとこの車は中古車ではあるものの購入後間もないそうで、これまでずっと右ハンドルの車に乗ってきたらしい50代の男性は、この車が初めての左ハンドルだったそうで、つまりは左ハンドルの運転に慣れていなかったために引き起こされた単独事故だったようです。

左ハンドルに慣れない人は、どうしてもはじめのうちは右寄りに走ってしまうものです。
とはいうものの、それは試乗などのごく初期の現象で、通常はしばらく注意しながら乗っていれば、時間とともに慣れてくるものですが、この事故は、慣れるより先にこの悲劇を招いたようでした。

つまり本来の位置よりも右に寄った状態で料金所に突入し、右タイアが縁石に乗り上げ、だからあわててハンドルを左に切ったのか、今度はその反動によって左側のポールに激突して止まったようでした。
その衝撃は相当なものだったようで、ナレーションは「車の修理代に加えて、破損した料金所の弁償も…」というようなことを言っていましたが、ひと目見て、車はとても修理のできるような生やさしい破損でないことは明らかでした。
フロントは完全にシャシー(車の骨格部分)までダメージが及んでいたし、リアタイヤもあらぬ方向へとグニャリと曲がってしまっていましたから、あれは間違いなく「全損」で、およそ修理代どころではないでしょう。

新車なら一千万の大台を遥かに越え、中古でも(そんなに古くはなかったので)何百万もする車が一瞬でオシャカになるのですから、慣れない左ハンドル故というには、あまりにもお気の毒というほかはない単独事故でした。

マロニエ君の車の仲間には、もとはといえば自分の趣味から奥さんにもずっと左ハンドルの車を運転させてしまったために、すっかり左の感覚が染み付いてしまい、いまさら右ハンドルへの転換が怖くて運転できないという状況に追い込まれた奥さんがいます。
ところが、以前とは違って、現在は輸入車も大半が右ハンドル化されており、一部の高級車とかスーパーカー的な車は別として、普通の実用車レベルでは左ハンドルはほとんどなくなりました。

こうなると自由な車選びができなくなり、左ハンドルであることを前提に車選びをするという主客転倒の状況となり、とうとう見つかったのがひと世代前のBMW3シリーズでした。
ところがこの夫婦、BMWがまったくお好みではないらしく、会う度に罵詈雑言、文句ばかり言いながら乗っています。

何から何までケナしまくりで、それは「乗ればわかる」というわけで、マロニエ君も何度か運転させてもらいましたが、言っていることは半分はまあわかりますが、とても良い部分もたくさんあって評価が辛過ぎるような気もしますが、いずれにしろハンドルの位置というのは、それほど人によっては大事だということで、最悪の場合、テレビで見たような大事故にもなるということがわかりました。

テレビのベンツは全損事故と言っても、所詮は物損事故でしたが、これで対向車と衝突でもして人身事故になる可能性もあることを考えるとやはり怖いです。

ちなみにマロニエ君はピアノは下手ですが、運転はとりあえず不自由なく楽にできるほうで、ハンドルも左右どちらでもまったくハンディなく乗れますが、それはひとえに慣れているからであって、つまり慣れないことはときに恐ろしい結果をもたらすものだと思いました。
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ゲニューシャスなど

クラシック倶楽部の録画から昨年6月のラルス・フォークトのピアノリサイタルを視ました。

会場は紀尾井ホールで、まず冒頭のシューベルトの晩年のハ短調のソナタを聴いてみるも、時間の関係から第1楽章と第4楽章のみで、あの美しい第2楽章は割愛されてしまいました。
尤も、フォークトの演奏ではなかなかシューベルトの切々たる美しさは伝わらず、これでは聴き逃してもあまり惜しくはないようでした。

その後はシェーンベルクの6つの小品op.19を弾き、そこから切れ目なくベートーヴェン最後のソナタへと続けられます。
インタビューではそうすることに意味があるというようなことを言っていましたが、マロニエ君は「そうかなぁ…」という感じでいまいちその意図は計りかねました。
シューベルトとベートーヴェンは共に晩年のソナタで、なおかつハ短調というところで統一したのでしょうか。
まあ、そのあたりはどうでもいいけれど、以前からどうしてもこの人の演奏には共感を得ることができず、それは今回の演奏でも同様の印象を上書きすることになりました。
もちろん、どんなピアニストでも全てに共感を得ることなどまずありませんが、ところどころで「なるほどね」とか「そういうことか」と思わせる何かがないと、聴いているほうはつまらないものです。

ひところでいうと、この人のピアノで最も気になるのはガサツさです。
解釈においても、ディテールにおいても、意味あって必然性に後押しされてそうなるというところが見受けられず、全体的に大味で、外国製の作りの粗い製品に触れるような感じがします。
なんでも最近ショパンのアルバムをリリースしたとかで、怖いもの見たさでどんなことになっているのやら聴いてみたいような気もしますが、自分で購入する気などさらさらないので、そのチャンスがあるかどうかわかりませんね。

リサイタルに戻ると、せっかく立派な曲ばかりを弾いているのに心に染み入るところがなく、ざっくりいうと音の強弱とテンポの緩急ですべてを処理している…そんな独りよがりな印象があるばかりです。

もうひとつ、ルーカス・ゲニューシャスのピアノでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(N響)を聴きましたが、いかにもロシア人といった野性が、本性を抑制しなくてはならないという意志の力と戦っているようです。
そうはいっても、体の作りから指のテクニックまで、すべてが分厚くたくましくできており、さすがに聴いていて不安感というものはありません。
小指も普通の男性の中指ぐらい優にありそうで、あれだけの体格でピレシュやケフェレックと同じサイズのピアノを弾くわけですから、まして音楽一家に生まれ育って訓練を積めば、そりゃあずいぶんと有利であることに違いありません。

しかし、感情が先行するロシアの演奏家にしてはもうひとつ酔えないし、どこか力くらべのような、タラタラと汗をかきつつガッチリと作法通りの演奏を確実に片付けていくだけで、この人なりの個性を楽しむ余地であるとか、いま目の前に作品が命を吹き込まれて立ちのぼってくるような感銘は個人的にあまりありませんでした。
あらかじめ予定され決められたことが、ほぼ間違いなく実行に移されている現場…というだけの印象。

不思議なのは、若い男性の、いかにも体温の高そうな汗ばんだ太い指から出てくる音は、期待するほど凛々しいものではなく、むしろ伸びのない、多くが押し潰したような音であったのは意外でした。

ときどきロシアのピアニストに見かけるパターンとしては、楽曲の一つ一つに自己の感興感性を照応させるのではなく、ピアノ演奏をパターンというか「型」にはめて処理することで何でも弾いていく人がいますが、ゲニューシャスもどことなくそのタイプのような印象を覚えました。
うわ!と思ったのは、コーダからはことさら意識的にヒートアップして、派手に締めくくってみせたのは、ウケを充分心得ているようで、そこだけ数倍も練習しているように見えてしまいました。

後半は白鳥の湖。
指揮者のトゥガン・ソヒエフがボリショイ劇場の音楽監督というだけのことはあって、N響がまるでロシアのオーケストラのように変身して、これにはさすがに驚きました。
ソヒエフ氏が選んだという特別バージョンの組曲でしたが、なんの小細工も施さず、チャイコフスキーの作品をあるがままに描き出すことを狙っているのか、誤解を恐れずにいうなら、恰幅がよく、同時に厚塗りだが平面的で、どこまでも広がる壮大な景色のように演奏されました。
テンポも強弱も一定で、ロシア人以外にああいった演奏は体質的にできないと思いました。

日頃から上手いことはわかっていても、いまいち好きになれないN響ですが、指揮者によってこれほど変幻自在なオーケストラであることがわかると、あらためてある種の凄みのようなものを感じました。

現代はカリスマ的な大物が出にくい反面で、平均的な実力や偏差値はとても上がっているご時世で、集団で緻密なアンサンブルとクオリティがものをいうオーケストラとなると、そりゃあN響のようなオーケストラが俄然力を発揮するのもむべなるかなという感じでした。
N響も紛れもなくジャパンクオリティのひとつに列せられて然るべきもののようです。
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畳とカーナビは…

我が家にある車の1台には4年ほど前のカーナビがついています。
パナソニックのゴリラですが、このカーナビは購入後3年ぐらいがったか、地図情報が無料で新しいものに書き換えることができるのが特徴でした。更新された地図情報をネットからSDカードへダウンロードして、それをカーナビへ差し込んで読み込ませるというものです。

ところが、最後の1年ぐらいは面倒臭くてしばらく最新版をダウンロードしなかったところ、気がついた時には無料更新の時期を過ぎてしまっていたので、ついにそのままになってしまっています。

普段は特に困ることもないので、約2年前の地図データのまま、過日ちょっとした車の旅行にでかけました。
広島を経由して、しまなみ海道へまわり、四国を横断するところまでは良かったのですが、佐田岬半島(四国西端の半島)からフェリーに乗って九州に再上陸(大分県)したところ、ここで地図情報が古いことがあらわになり、新しい道があるにもかかわらず、わざわざ遠回りするルート案内を繰り返すのは大いに面白くない気分でした。

最適のルートでないぐらいはやむを得ないとしても、古い地図データには存在しない道(それは大抵、広くて走りやすい道)がある場合、次々に不適切な回りくどいリルートをしてくるあたりは、カーナビがバカに思えてしまって、あれはどうもいけません。

それはカーナビの機能が悪いのではなく、ひとえに地図情報が古いのだから致し方無いわけですが、それはわかっていても、いま目の前に広くて新しい道があるにもかかわらず、それがナビゲーションに反映されないのを何度も見ると、やっぱりどうしようもなく嫌になってしまいます。

とくに帰路は震災の影響で大分自動車道の通行止区間にあたり、やむなく東九州自動車道を通りましたが、近年開通したルートなので、ナビ画面では何度も自車マークが空中を飛んでいるような動きになり、わかっちゃいても虚しいものでした。

むかし「畳となんとかは新しいのに限る…」というような言い回しがありましたが、カーナビの地図データこそまさにそれだと言えるようです。とくに最近は公共事業が盛んなのかどうか知らないけれど、次から次に新しい道があちらこちらで開通しているようで、そうなると、少なくとも見知らぬ土地に行くようなときには、常に「最新」とは言わないけれど、できるだけ新しいデータでないといけないことを思い知らされたわけです。

そうはいっても、普段は別に困るわけではないないし、更新するには以前ならタダだったものが1回につき1万円近くかかります。
データはというと、年に6回ほど更新されているらしく、さて、そういう状況の中でいつ更新したものか。
これが問題で、なかなか踏ん切りがつきません。

今回のように旅行の予定でもあれば、それを機に新しくすればいいわけですが、それはもう終わったし、しばらく遠出の予定もないとなると、だったらできるだけ先送りしたほうがいいような気もします。
とくに直近で必要がなければ、先送りして粘れるだけ粘れば、そのぶん最新データがゲットできるわけで、このあたりが、どうも我ながらみみっちいなと思いますが、でも…そうなんですよね。

それはそうと、松山市から佐田岬半島へと向かう海岸線の道路は、約90kmに及ぶ理想的なドライブコースで、日曜というのに交通量もきわめて少なく、道幅も広いし路面は良好、景色も抜群、信号はほとんどナシという好条件で、その心地よさは今だに深く心に刻まれています。
それにひきかえ、大分側に上がったとたん、ちまちました道幅の狭い道路にはガックリでした。

錦帯橋、厳島神社、大和ミュージアム、しまなみ海道、道後温泉などめぐって、走行距離にして900kmに及ぶ旅でしたが、残念なるかな今回はピアノ店訪問はひとつもナシでした。
でも、下手にピアノ店などに立ち寄っていると、それ以上の大事な見どころを逃してしまうことも少なくないので、これはこれでよかったと思います。
たまに旅に出るのは理屈抜きにいいものですね。
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練習を楽しむ才能

このブロクを読んでメールを下さった方で、同じく福岡市在住の方がいらっしゃいます。

とても個性的な方で、いわゆる一般的平均的な考えの持ち主ではありませんが、自分の感性と価値観を信じる生き方を静かに実践しておられる方とでも言えばいいでしょうか。いわゆるポピュリズム精神に重きを置かないためか、こういう人はとりわけ現代では異端児的で、ちょっと変わってる人というような位置づけになるようですが、なにかというと定見もなく、浅薄で迎合的な発想しかできない人間が大多数な中、まことにアッパレであることはいうまでもありません。

この方とはしばしばメールのやり取りもあり、電話でもずいぶん話して、いわば関係の「実績」を積んだことから、先日ついにその方のお宅に訪問することになり、思いがけなく食事までごちそうになってしまいました。
人間性もさることながら、むこうも男性だったのでお宅に行って二人で会うということもできたわけで、これがもし女性だったらそう気易くお尋ねするとこもできなかったかもしれません。

食事がすむと、ピアノのある部屋に案内されました。
いちおう個人情報という面にもあたるのかもしれませんし、今時のことなので、どんなピアノかというような具体的な記述は控えておきますが、とにかく普段ここでどのような練習をしているのかということをつぶさに説明していただき、ピアノの上達にかける情熱にはただただ圧倒される思いでした。

この方は大人になってからピアノを始められ、職業柄、別分野でひとつの事を極められている方なので、修行にはまず「基本」が大切であることをよくご存知らしく、基本なくしては何事もはじまらないし、しっかりした基本の上にこそ、とりどりの花も咲けば応用もきくという至極もっともなお考えらしいのはさすがです。

というわけで、もっか猛練習の毎日を送られているようですが、その練習というのが半端ではありませんでした。
曲は簡単なバッハの小品やブルグミュラーなどに過ぎませんが、単なる指練習であるハノンだけでも1時間2時間やってもまったく苦にならないのだそうで、後半は話をしながら指だけは休むことなくハノン練習で指はずっと上ったり下りたりしているという、これまでに見たこともない独特の光景でした。
さらに夜も更けると電気のキーボードに移行して、これで音を出さずに指練習を継続、車にも職場にも同じキーボードがある由で、僅かな時間を見つけてはハノンで指を動かすという、お仕事とその他生活の隙間にはすべてピアノの練習が入れ込まれているような毎日を過ごされているようです。
しかもそれが苦にならないどころか、「楽しい」のだそうですから恐れ入りました。

根っから練習嫌いのマロニエ君にしてみれば、自分とは真逆の人物が、目の前で真逆のことをやって見せながら嬉々としているのですから、これはもう、とてつもないものを見てしまった気分でした。

練習というのはしなくちゃいけないからするものだと思っていたマロニエ君でしたが、中には練習そのものを楽しむという方がおられて、これは仕事でも勉強でも同じでしょうが、嫌々やるのと楽しんでやるのとでは、もうそれだけで嫌々組はかないっこないわけです。

で、驚き、呆れ、圧倒されたマロニエ君でしたが、逆に心配なことも頭をよぎりました。
あまりの過剰練習からピアニストへの道を断念したシューマンのように、やり過ぎて手を壊しては元も子もないので、それだけは注意されたほうがいいのでは…と言いましたが、もちろん危ないと感じた時はすぐに止めて休ませているから心配には及ばないと、その点もぬかりはないようでした。
マロニエ君など、ろくに弾けもしないくせにショパンのエチュードなどやっていると、指というより手首から肘にかけての筋肉が無理をしてしまうのか、かなり痛くなって怖くなることがしばしばです。

そこは根性ナシのマロニエ君なので直ぐにやめてしまいますが、これを弾き続けることで克服しようなどと思って強引にやっていると、いつか手を壊してしまう可能性も低くはないでしょう。

いずれにしろ、およそ音楽とも言えないハノンのような無機質な練習をあれだけ楽しく積めるというのは、いやはや羨ましいというほかはありませんし、それで楽しめることそのものも「才能」だと思います。

考えてみれば、もともとピアニストなどは、ステージでの演奏など氷山の一角であって、いわば人生の時間の大半を練習につぎ込む職業でもあるわけで、やはりこれは練習のできるメンタリティを持っていることが必要で、それも重要な才能のひとつだと思います。
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服の流行

着なくなった服の整理というのはなかなか難しいものです。
とくに男性もののほうが、際立った流行に左右されないぶん、より困難かもしれません。

その点女性は、絶えずこの点にアンテナを立てトレンドに敏感なので、順次入れ替えていくことが半ば当たり前かもしれませんが、男性の場合は、よほどのことでない限り服をどうこうすることって…なかなかないのです。

でも、例えば10年(かどうか知らないけれど)前に比べたら、例えばワイシャツの身ごろというか、横幅が今はかなり細身になってきていて、マロニエ君も当初は最近の男性は身体が小さくなってしまったんだろうか…と勘違いしていた時期がありました。
首周りや袖丈は同じでも、身ごろは明らかにタイトな作りになりましたし、ジャケット然り、パンツなんて細すぎて「なにこれ?」と思うものも少なくありません。

マロニエ君は通常はLサイズなのですが、身ごろに限っていうなら、一昔前のMより今のLは細いかもしれないぐらい、気がついたら変わってしまっているようです。

シャツなどを必要に応じてちょこちょこ買っているぶんには、さほど気がつくこともありませんでしたが、だんだんと何年も前のシャツなどは着なくなってしまうようです。他の人も同じかどうか知りませんが、やはり新しく買ったものを着る機会が多くなり、以前のものはクリーニングから戻ってきたまま袋に入って状態でタンスの棚に眠っています。

それでも、例えばボタンダウンのシャツなどは、べつにデザインにそう違いはないだろうと思って昔のものを出して着てみると、中にはやけに幅広で(体型はそれほど変わっていないので)、以前はこんなものをなんとも思わないで着ていたのかと思うと、さすがにびっくりしてしまいます。

流行というのは恐ろしいもので、「普通」の基準点が変わってしまうことらしく、たかだかボタンダウンのシャツでも古いものは何だかおかしくてもう着られません。
そんなものがあちこちを占領しているため、限られたスペースはやたらひしめき合い、それが何の意味もないことにだんだん気が付き始めました。
とくに傷んでもいない、かつては気に入って買った服を廃棄するのはちょっとした抵抗感もありますが、さりとてこのままタンスの肥やしにしても何の意味もなく、ただそこにあってスペースを占領するだけで、結局じゃまなだけです。

で、この先、着ることはないであろうものを昨日ついに引っ張りだして、再検討し、間違いなく着ないと断定できるものだけをさらに選び出しました。
パンツ類は別で、この日の整理は上半身ものだけにしましたが、それでもIKEAの青い袋の中型がいっぱいになるだけの服が着ることはないアイテムとして認定され、廃棄の対象となりました。

そのときはちょっと複雑な気持ちも無くはなかったかれど、いったんおさらばしてみると却ってスッキリして、やはり以前も書いたように、とくに幸福感もないような無駄なモノに囲まれて生活するのは愚かしいことだというのは間違いないようです。

BSチャンネルでは、昔の映画やくだらぬドラマなどが流れていたりしますが、そこで目にする服装は、なんであんなにみんなダボダボのダサいジャケットやコートを当然のように着ていたのかと思うと、どうしようもなく笑ってしまいます。
その笑いの根拠となるのは、それがカッコイイ、ステキという大前提から、みんながおかしな服装をしているように現代の目には映るからだと思います。

若い人がピチピチの細いスーツなんかを着ているのを見ると、これもどうかと思うし、また年月が経てばそれをドラマなどで見て笑うことに必ずなるわけで、これの繰り返しでアパレル業界は成り立っているんでしょうね。
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苦手な音

地震の話は気が滅入るのでピアノの話に戻ります。

過日、ウゴルスキの音の美しさについて書いたばかりでしたが、このCDは単独でも持っているけれど、たまたま近くにあったグラモフォンのブラームス全集の中からピアノソナタを取り出して聴いたものでした。

で、なんとはなしにその続きを聴いてみようと続く番号のCDを見ると、主題と変奏(弦楽六重奏の第二楽章のピアノ版)、シューマンの主題による変奏曲、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガで、演奏はダニエル・バレンボイムと記されています。
たしか前にもこの全集を聞いている時、バレンボイムのピアノは苦手なのでこのディスクはすっ飛ばした記憶がよみがえったのですが、今回はどんなものか聴いてみることにしました。

果たして、身構えていた以上にバレンボイムの「音」がまさにいきなりスピーカーから飛び出してきて、わっ!と思いましたが、とりあえず一度だけでも最後まで聴いてみることに。

音楽的にもまったく自分には合わないし、どこか力ずくというか、ただ弾けよがしに弾いているだけとしか思えないものでした。まるで昔むかしの音大生が、ただ力んで弾いているだけといった風情で、よくこれで天才ピアニストが務まったものだと思います。
さらにその音は、マロニエ君が苦手としてきたまぎれもない「あの音」で、いつも音がペシャっとつぶれたようで、しかもその中に硬い針金が入ったようなツンツンしており、どうしたらこんな音ばかり出るのか不思議なくらいでした。

資料を見ると1972年の録音のようですから、すでに40年以上前の演奏で、おそらく30歳ぐらいだったのでしょうが、基本的に演奏というものは人の声のようなもので生涯変わらないということがよくわかります。

彼が指揮を始めたことは、むろんそれに値する天分があったなど複合的な理由からだろうと思いますが、その中にはピアノ一本でやっていくだけの力というか、ピアニスト業だけで生涯聴衆を惹きつけるだけの魅力には乏しいことを本能的に感じていたからだろうと勝手ながら思います。

調律師の故・辻文明さんは「一流のピニストにはソノリティがあるものだ」というような意味のことを言われたと、何かで読んだ記憶がありますが、たしかに、世界的に第一級のピアニストともなると、「その人固有の音」というのが明瞭に存在し、楽器の個性とか優れた調整による差を飛び越えてしまうことが珍しくありません。

最も甚だしいのがホロヴィッツで、彼は晩年になって日本やヨーロッパにも出かけて演奏するようになりましたが、ロンドンだったか練習用のハンブルク・スタインウェイを弾いたり、ロシアではスクリャービンの生家にあった古いピアノで弾いている映像がありますが、その音はまぎれもない「ホロヴィッツの音」になっていることには、ただただ舌を巻くばかり。
彼のあの独特な音は、ホロヴィッツのために厳選されたニューヨーク・スタインウェイだからこそのものだと思い込んでいたマロニエ君は、それ以前に、どんなピアノでも彼がひとたびキーに触れれば「あの音」になることを知り、強い衝撃を受けたものでした。

また近年はすっかりスタインウェイばかりを弾くアルゲリッチも、もう少し若い頃は、日本公演でもヤマハを弾くことが幾度かありましたが、そこで聞こえてくる音は(実演でも)ヤマハもスタインウェイも関係ないほど「アルゲリッチの音」でした。
むかしVHDディスクというのがあって、ヨーロッパで収録された「アルゲリッチコンサート」では、ラヴェルの夜のガスパールをヤマハで弾いていますが、これもピアノメーカー云々が問題でないほど彼女にしか出せないあの音だったので、ピアノが完全に道具にまわっていることが歴然です。

その点でいうと、グールドの晩年の録音のいくつかはヤマハで録音されていることは周知の事実ですが、とりわけ名演として名高いゴルトベルクは、マロニエ君には、その素晴らしい演奏にもかかわらずヤマハの音が耳についてしまって、これがグールドの魅力の幾分かをスポイルしているように聴こえるのは、かえすがえすも残念な気がします。

しかしこれはあくまで珍しい例というべきで、普通はこのクラスのピアニストになると、専ら本人のソノリティが前に出るので楽器の違いはマロニエ君個人はあまり気になりません。
そういう意味で、バレンボイムの音は個人的にどうしても受け付けないし、あの音は彼の奏法と音楽が、ピアノというきわめてセンシティヴな楽器によって精緻に投映されたものだろうと思うと、それを可能にするピアノという楽器にも感心してしまいます。
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恐怖

熊本では大変なことになり、いま、九州全体が揺れています。

はじめの地震のときはちょうど運転中だったのですが、突然、ポケットの中のケータイから「緊急地震速報」というのが鳴りだして、とつぜん警告音と警告の言葉が大きな音量で流れだしてくるのにはびっくり。
信号停車すると、揺れているのがはっきりわかりました。

家に帰ってTVをつけると、かなりの被害であることがわかり、これは大変なことが起こったと思いました。
0時を過ぎたあたり、今度はTVから強い警告音のようなものが鳴り出して、その直後に家全体がワナワナ震えだして、思わず固まってしまいました。

阪神淡路、福岡玄海沖、東日本など震災が続く中、今度は熊本というわけで、地震というのはまったく予想のつかいないところで、まったく唐突に起こるものだとというのをつくづく思い知らされます。

今度の熊本の大地震は震源が浅く、余震のしつこさが特徴のようで、これがなかなか収まりません。
それどころか、翌日の真夜中にさらに強い地震があって、TVによれば、前日の揺れは前震であったようで、こっちが「本震」というような言い方に変化してきていて、なんだかしらないけれど、いつまで続くのかと暗澹たる気分です。

いまさら言うまでもないことですが、地震というのは数ある災害の中でも、最高級に人がどうすることもできない最悪のものだと思います。ただただ全身恐怖に身を浸しながら、収まるのを請い願うしかありません。

ところで、以前の震災の教訓からか、上記の「緊急地震速報」というのがケータイを通じてかなりのボリュームで鳴るようになり、このあたりは以前に比べてずいぶんとシステムが進歩したことを痛感しました。

ただ、それは必要というのはわかるけれども、ある一定以上の揺れの場合だと思いますが、マロニエ君のケータイに限ってもすでにこの熊本の地震だけでも5回それが発せられており、そのたびに心臓はバクバクして、これはこれで神経が大いにすり減らされることも事実です。

海洋大国である島国日本では、国内の100%が危険地域だともいえるようで、地震だけは勘弁して欲しいところですが、どうすることもできません。

今回はマロニエ君の居住地である福岡は揺れるだけでこれといった被害も今のところありませんが、震源の熊本からはつぎつぎに恐ろしい被害が報告されて、それらを見るにつけぞっとするばかり。
今日の新聞には、天守閣の瓦が落ちてしまって無残な姿になった熊本城が一面トップに載っていましたし、多くの建物が倒壊、新幹線は脱線、高速道路は陥没し、橋はなくなり、これは大変なことになりました。

きっと復旧には、相当の時間がかかるでしょうね。
それにしても、あの家が揺れるときのあの感覚、加えてなんとも得体のしれないドドドという音は、まさに悪魔の仕業のようで戦慄します。
とにかく早く終わって欲しいです!!!
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ウゴルスキの音

音に特徴のあるピアニストというのはいろいろといるものですが、現在過去を含めて、つい先日、なんとはなしにふっと思いついたのがアナトゥール・ウゴルスキでした。

彼が不遇であったソ連から西側に亡命し、ドイツ・グラモフォンからつぎつぎに新録音が発売される度に、驚きと、これまでに体験したことのない一風変わったピアニズムにある種の違和感をも覚えながら、このケタ違いのピアニストの演奏にはいつも関心を持って接してきたように思います。

いかにもこの人らしい曲目としてはベートーヴェンのディアベッリ変奏曲、メシアンの鳥のカタログ、それにブラームスの3つのピアノソナタなどが真っ先に思い出され、久々にブラームスのソナタを聴いてみることに。

1、2番も壮麗で見事だけど、とくに3番の出だしの和音の輝くような鮮烈さには、とろんとした眼がカッと見開かされるみたいで、もういきなりノックアウトされました。
譜読みの上手くて指の動きが素晴らしいピアニストはごろごろいても、こういう腹から鳴るような音を出すピアニストというのはめっきりいなくなりました。叩きまくることを恐れてか、妙にスタミナのない、背中を押してやりたくなるような植物系ピアニストがずいぶん増えたように思います。
そんな耳に、ウゴルスキの演奏は食べきれない量の最高級ディナーでも出されたようです。
しかも、単なる轟音にあらず、どんな強打でも音が割れず、かといって体育会系のマッチョ演奏ともまったく違う、内的な表現とか、真綿でくるむようなpp、pppの妙技にも長けていて、この人がまぎれもない天分と個性をもった、他に代えがたい大器であったことを再確認しました。

こんなとてつもないピアノを弾く人が、ソ連時代にはピアノを弾くことさえも許されない状況が続いたなどというエピソードが有りますが、まったくもって驚くほかはありません。

たしか彼が西側デビューしてしばらくしたころ、日本にもやってきて、渋谷のオーチャードホールでディアベッリ変奏曲を弾いたリサイタルの様子はテレビ放映され、そこでも傑出した音の輝きが印象的でした。
録画はしていたものの、VHSで今や見ることも叶いませんが、当時つや消しだった頃の1980年代初頭のスタインウェイから紡ぎだされる燦然として重量感のある音色は今も深く印象に残っています。

ウゴルスキは最近どうしているのか、ネットで調べればわかるのかもしれませんが、とんと話題にならないところをみるとさほど演奏活動をしていないのかもしれませんし、だとすると非常に残念です。
CDで彼を最後に認識したのは、ドイツ・グラモフォンではないどこかのレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集を出したときで、それいらい音沙汰が無いような気がして、その動向が気になります。

ウゴルスキのあの絢爛とした音色の秘密は、ひとつには彼の指ではないかと思っています。
大きくて、太く肉厚で、しかもそれがクニャクニャした軟体動物のようで、あんな特殊な指の作りだからこそ、ダイナミクスにあふれた極彩色の音色のパレットとなり、どんなフォルテッシモでも音に一定のしなやかさがあって、決して叩きつけるような硬質な音になりません。

ウゴルスキに限らず、アラウとか、日本人では賛否両論のフジコ・ヘミングも、太いソーセージみたいな指から、温かな芳醇な音を出すところをみると、どんなに難曲を弾きこなせても、蜘蛛の足のように細い指をしたピアニストは、率直にいってあまり音に期待はできません。
パッと音色は思い出せませんが、若いころのポゴレリチもそんな魔物のような指をくねらせながら、あれこれと独特な演奏を繰り広げていたのをいま思い出しました。

音色でいうと、ミケランジェリやポリーニという人も少なく無いと思いますが、マロニエ君の好みで言うと、そのあたりはあまりにも苦悩のごとく追求され過ぎており、聴いていて開放感がないというか、もっと率直にいうと息が詰まってしまうようです。

ウゴルスキの音楽を全肯定しているわけではないですが、彼のピアノの音を聴いていると、ピアノという楽器の広さと深さを同時に押し広げられるような気がして、独特の快感があるのは確かでした。
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