調律師さんの共通点

これまで出逢ってきた調律師(本来はピアノテクニシャンというべきですが)の方々は、年齢も性格も出身も活動地も各々違うのに、その職業がそうさせるのか、彼らにはどこか共通した特徴のようなものがあるようです。

調律師さんというのは、ごく一部の例外を除くと、おおむねとても控え目で、どちらかというとちょっと地味な感じの雰囲気の方が平均的だと思います。さらに腰も低いなら言葉もかなり丁寧で、その点じゃちょっとやり過ぎなぐらいに感じることも少なくありません。

マロニエ君に言わせると、ピアノの調律師というのは技術者としても専門性の高い高度な職人なのだから、そこまでする必要があるのかと思わせられるほど低姿勢に徹して用心深い人が多い気がしますが、そこにもそうなって行った必然性のようなものはあるのだろうと察しています。

ところが、この調律師さん達の多くは初めの印象とは裏腹に、お会いして少し時間が経過して空気が和んでくると、大半の方はかなりの話し好きという、そのギャップにはいつもながら驚かされてしまいます。
専門的な説明に端を発して、その後は仕事には関係ないような四方山話にまで際限なく話題が発展するのは調律師さんの場合は決して珍しくはありません。

マロニエ君などは調律師さんと話をするのはとても好きですし楽しいので一向に構いませんし、加えてこんな雑談の中から勉強させてもらったことも少なくないので個人的には歓迎なのですが、だれもかもがそうだとは限らないかもしれません。
もちろんだから相手によりけりだとは思いますが。

職業人として気の毒だと感じる点は、非常に高度な仕事をされている、あるいはしなくてはならないにもかかわらず、それを正しく理解し評価する側の水準がかなり低いということです。
人間は自分の能力が正しく評価され理解されたいという願望は誰しももっているもので、これはまったく正当な欲求だと思います。

ところが、どんなに込み入った高等技術を駆使しても、そこそこにお茶を濁したような仕事をしても、多くの場合、どう良くなったのかもよくわからないまま、ただ形式的に調律をしてもらったこと以外に評価らしいものもされずに、規定の料金をもらって帰るだけという寂寥感に苛まれることも多いだろうと思います。

調律師さんが普通とちょっと違うのは、どんなに低姿勢でソフトに振る舞っても元は職人だからということなのかもしれませんが、それだけ話し好きというわりには、いわゆる基本的に社交性というものが欠落していて、どちらかというと人付き合いも苦手という印象を受けることが多いような気がします。
あれだけみなさん話し好きなのに社交性がないという点が、いかにも不思議です。

もうひとつはその盛んな話っぷりとは裏腹に、メールの返信などは直接会ったときとはまるで別人のように素っ気なく、メールでも返ってくるのはほとんどツイッター並みの最小限の文章だったりするのは甚だ不思議です。もちろんそうでない人もいらっしゃいますけどかなり少数派です。

そこにはやはり調律師という職業柄、知らず知らずに身に付いた特徴のようなものがあるのでしょうね。というか、逆に考えれば、調律を依頼するお客さんのほうの性質もあるから彼等をそんなふうにさせてしまっているのかもしれません。
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快速無灯火魔

昨日の夜は出かけていて、帰りに博多区の国道三号線を走っているとすごい車を見かけました。
すごいのは車そのものではなく、正確に言うとドライバーがすごいのです。

他地区ナンバーの軽自動車でしたが、いきなりマロニエ君の右後方からスーッと追い抜いてきて、前を斜めに横切って、さらにひとつ左の車線に移動しました。

はじめにあれっ!と思ったのは、夜の11時ごろだというのに完全な無灯火、つまりまったくライトを付けていないことでした。これだけでもどういう神経をしているのかと思います。
この無灯火車というのは意外なことにときどき見かけますが、わりと田舎のナンバーの車などがそうだったりすると、真っ暗闇の田舎道とは違って、夜でも明るい街中に慣れていないんだろうぐらいに笑っているところですが、ゆうべの車はそういう無邪気さとはちがった何か異常な感じが漂っていて、はじめから妙に目立っていました。

しばらくその車の傍を走る状況になったのですが、やや荒っぽい運転ではあるけれども「暴走」というほど激しいわけでもなく、でも、どういいようもなく動きも気配もヘンであるのは間違いない。一体どんな奴が乗っているのかという興味ばかりが募ります。
しかし、信号停車ではなかなか隣に並ぶチャンスがなく、しばらくやきもきさせられましたが、ついにチャンスが訪れました。

はじめは真横ではないものの、斜め後ろぐらいに信号停車すると、なんとその車の運転席にはカーナビどころではない大きさのモニター画面がハンドルのすぐ前にドンと付いていてビックリ。夜目にも鮮やかに映っていて、なにやらアニメ映像みたいなものがずっと流れています。
そうです、この軽自動車のドライバーは運転しながら、この画面のほうに熱中しているらしいことがひと目でわかりました。これを見ながらスイスイ飛ばして走っているわけです。

あんな大きなサイズの車用モニターがあるのかどうかしりませんが、ひょっとしたらタブレット型液晶かもしれません。そこのところは結局よくわかりませんでした。

さらに次の信号では横に並ぶことになり、もうこちらもたまらなくなってドライバーの方を覗き見ると、それなりの年齢のメガネをかけた中年男性が、周りのことなど全く意に介さない様子で、まさに自分の世界を作ってそこに浸りきっており、耳には白いイヤホンが差し込まれています。
おそらくアニメの音声なんでしょうね。

そしてトドメは、口は終始モグモグしていてしきりに何かを食べています。
ときおり助手席に手を伸ばしてはパッと口になにかを放り込んで、またモグモグでずっと食べているうようでした。と、信号が青になると、これがまた結構な勢いでブンブン加速していき、相当のスピードで走っているのには心底呆れかえりました。

夜の国道に、無灯火の黒い物体がかなりのスピードで走り抜けて、まさかこんな全身危険まみれみたいな車を追いかけるつもりもないので、こちらは自分のスピードで走っていると、そのうち見えなくなってしまいました。

あとから考えれば110番通報すべきだったかとも思いましたが、まあとにかく変わった人がいるものです。ただ、事が車ともなれば、あんなドライバーのせいで事故でも起こればたまったものではないですから、本当に注意していなくてはいけませんね。
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休日過多

やれやれというべきか、いわゆる年末年始といわれる時期がやっと終わった気がします。

どうしてだか自分でもはっきりわかりませんが、マロニエ君はむかしからこの時期がとにかく苦手でした。
とりわけクリスマスを過ぎて、あと数日で新年を迎えるという時期になると、それまでの師走の忙しさや賑わいによる一種の興奮状態がウソみたいに消えて静まり、街中は一転してガランとしてしまいます。この感じがたぶん嫌なのです。

まるでチャイコフスキーの悲愴交響曲のように、第3楽章の異常なまでの活気や喧噪のその向こうに、対極の陰鬱な世界ともいうべき第4楽章があるように、そこには打って変わった、静まりかえった、すべての動きが止まって眠りについてしまったような空気に街全体が覆われてしまのが嫌いなんでしょうね。

昔ほどではないにせよ、お店というお店はあまねくシャッターが降りるなど閉店状態となり、形だけの門松や謹賀新年の文字とは裏腹に、人のいない死んだような真っ暗な店内など、視界に入るだけでも嬉しくはないわけです。

普段は渋滞するとイライラしているくせに、この時期は車も激減して、道は皮肉なほどスイスイと流れ、それが幾日も続くのは何十ぺん経験してもなぜか慣れるということがありません。

とりわけ今年はカレンダーの都合から、休みが異様に長く、世の中が一応動き出すまでに10日はかかったわけですし、それが本当の意味で平常に戻るのはもう少しかかるのかもしれません。

欧米やその他の諸外国では、どのような年末年始の過ごし方をしているのかは知りませんが、日本のそれは表向きの建前とは裏腹に、なんとも暗くて冗長なだけで、人々が真からこの時期を楽しんでいるようには思えないのですが他の人はどうなんでしょう。

マロニエ君は決して勤勉ではないどころか、大いに怠け者の部類であることは自認していますけれど、そんな人間からみても最近の日本はいささか休みが多すぎるように思います。
昔は週休2日なんてものもなかったし、それをみんな不満にも感じずに土曜まで働いていましたし、学校もお昼までですが行かなくてはなりませんでした。
これだけでも年間50日も休みが増えたことになります。
さらに祝日も増え、それが日曜と重なると今度は振り替え休日になり、どうかすると休日の間にポツポツ平日が挟まっているようで、これでは物事がはかどるはずもなく、事を進めようにもむやみに時間ばかりかかって、一体なんのための休みかさえもわかりません。

そういう意味では、昔は携帯もネットもなかったけれど、みんな一人ひとりに覇気があって、世の中全体にも熱気があって、活力ある生活を送っていたようにも思い出されてくるこのごろです。戦後の高度経済成長はそんな活き活きとした頑張りの中から達成されたものでしょう。

個人別に話をすると「休みが多すぎて持て余している」という声はほうぼうから異口同音に聞こえてきますが、一旦休みになったものを制度として返上することはなかなかできないことなんでしょうね。

もとはといえば、政治家が国民へのくだらないゴマすりのために祝日を増やしたり振り替え休日を作ったわけですが、いささかげんなり気味のマロニエ君です。
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続・五嶋みどり

五嶋みどりさんのことをもう少し…。
彼女ほどの世界的な名声を得ながら、なにがどうあっても電車やバスを乗り継いでひとりで移動し、夜は自分でコインランドリーに行くという価値観は、それを立派と見る人にはさぞかしそう見えることでしょう。でもマロニエ君は非常に屈折したかたちの一種の「道楽」のようにも感じました。

そんなにまで普通の人のような粗末なものがお好みなら、終身貸与された、時価何億もするグァルネリ・デル・ジェスなんてきれいさっぱりオーナーに返上して、いっそ楽器も普通のものにしたほうが首尾一貫するようにも感じます。

思い出したのは、司馬遼太郎さんは生前、頻繁に取材旅行に出かけたそうですが、なんのこだわりもない方で宿はどこでもいいし、大好きなうどんかカレーライスがあればそれでよし、編集社にとってこんな手のかからない作家はいなかったということでしたが、そういう事と五嶋みどりさんの場合は、流れている本質がちょっと違っているような気がしました。
何かを貫き、徹底して押し通そうという尋常ならざる強引な意志力が見えて疲れるわけです。

ツアー中、ビジネスホテルのロビーでも、ちょっと時間があるとたちまち大学の資料に目を通すなど、まさにご立派ずくめで一分の隙もありません。遊びゼロ。それが彼女の演奏にも出ていると思います。
インタビューの対応も、いつもどこかしら好戦的でピリピリした感じがします。

「同じ服を着るのはよくない…etcと云われるのが、私には、いまだによくわからない」と言っていましたが、頭も抜群にいい彼女にそんな単純な事がわからない筈がない。むしろ彼女は誰よりもその点はよくわかっているからこそ、よけいに自分の流儀を崩さないのだとマロニエ君には見えました。
もちろん随所にカットインしてくる演奏はあいかわらず見事なものでしたが、教会はともかく、日本の寺社仏閣を会場として、キリスト教とは切っても切れないバッハの音楽をその場に顕すというのは、マロニエ君は本能的に好みではありません。

太宰府天満宮、西本願寺、中尊寺など由緒あるお宮やお寺と、キリスト教そのもののようなバッハの組み合わせは違和感ばかりを感じてしまうからです。

こういうことを和洋の融合とか斬新だとかコラボだのと褒め称えることは、言葉としてはいくらでも見つかるでしょうが、どんなに好きな西洋音楽でも仏教のお寺などは、その背景に流れるものが根本から違っているだけに、マロニエ君の感性には両方が殺し合っているようにしか見えませんでした。

以前、アファナシェフが京都のお寺でピアノを弾くという企画をして、それが放送されたときにも言い知れぬ抵抗感を感じました。
これらは決して非難しているのではありません。ただ単にマロニエ君は個人の趣味としてどうしても賛同できず、却って薄っぺらな感じを覚えるというだけです。

ただし、ひとつだけは個人的な趣味を超えていると感じたこともあり、それはとくに京都の西本願寺の対面所の前にある能舞台で弾いたときには、運悪く真夏の大雨となり、盆地の京都ではこのとき湿度はなんと90%にも達していたとか。もちろん屋根と細い柱以外に外部とはなんの囲いもありません。
そんな中で借り物のグァルネリ・デル・ジェスを晒して弾くというのは、楽器に対する芸術家としての良心として、自分なら絶対にできないことだと思いました。

マロニエ君だったら、グァルネリはおろか、ヤマハやカワイのピアノでもできないことだですね。
衣装に凝らず、公共交通機関を使い、ビジネスホテルに泊まって、夜はコインランドリーにいくということは、世界の名器に対する取扱いもこういうことなのか?…と思ってしまいます。
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五嶋みどり

暮れに民放のBSで、五嶋みどりさんのドキュメント「五嶋みどりがバッハを弾いた夏・2012」という番組をやっていたので録画を見てみました。

彼女を始めて聴いたのはズカーマンとの共演によるバッハのヴァイオリン協奏曲のCDで、修行のためアメリカに渡った日本人の天才少女ということで認められ、大変な話題になったことがきっかけでした。写真を見ると本当に小さい華奢な女の子ですが、その演奏はまったく大人びた堂々たるもので驚嘆した覚えがあります。

その後は実演にも何度か触れましたが、その演奏は繊細かつ大胆で、どの曲も驚くばかりに周到に準備され、隅々にまで神経が行きわたっており、天才たる自分に溺れることの決してない、常人以上の努力家であることを伺わせるものでした。少なくとも楽譜に書かれたものを再現するという点においては、まったく隙のない出来映えで、どの曲を弾いてもそこには徹底して譜読みされ、構築され、練習と努力で磨き上げられた果てに到達する完璧という文字が浮かんでくるようでした。

ただ、マロニエ君は昔から、五嶋みどりはすごい、素晴らしいとは思っても、好きな演奏家というものにはどうしてもなれない何かがつきまとっていました。
演奏は文句の付けようがないほど練り込まれ、なるほど立派だけれど、ただ立派なものを見せつけられて「畏れ入りました」と頭を下げるしかないような不満が残ります。それはマロニエ君にとっては、彼女の演奏は聴いていて良い意味での刺激とか喜び、とくに「喜び」の要素が感じられなかったからだと思います。
要するに味わいや遊び心がないわけです。

それがこの番組を見て、一気に長年の謎が解けたようでした。
今回のツアーは長崎五島からはじまって、各地の教会やお寺などでバッハのヴァイオリンのための無伴奏ソナタとパルティータを演奏するというものでした。その質素の極みのような生き方も含めて10人中10人が感心して褒め称えるようなものなのでしょうが、あくまでマロニエ君が感じたところでは、なんだかちょっと嫌味な感じがありました。

彼女は現在ロス在住で、どこかの音大の弦楽部長という責任ある地位にもあるそうで、毎日朝の6時から夜の12時まできわめて忙しい生活を送っているとのこと。
その合間に自分の練習をし、コンサートやツアーこなし、泊まるのはどこでも常にビジネスホテル、移動は絶対に公共交通機関でなくてはならないなど、まるでストイックな禅僧がヴァイオリンケースを担いで修行のひとり旅をしているようでした。

もちろんマロニエ君は、ちょっと著名なコンクールに優勝するや忽ちコマーシャリズムにのって、売れてくると贅沢に走り、どこへ行くにも特別待遇を当然のように思ってしまう勘違いの演奏家などは云うまでもなく嫌いですし、芸術家としても尊敬できません。
でも、それと同じように、こういう求道者のようなスタンスにことさら固執して、いかなる場合も、何があろうとこれを譲らず、自分の特異なスタイルを堅持していくというセンスも逆に嫌いなのです。なぜなら、それはコマーシャリズムに走る演奏家や価値観を、ただ逆さまにひっくり返しただけの強い主張のように見えてならないからです。

そのために周りの迷惑も厭わず、ひじょうに強情な人間の姿を見るような気がするのかもしれません。昔の言葉ですがやたらツッパッテいて余裕がないし、しかもそれがストイック志向であるだけに、とりあえず立派だということになるし尊敬の対象にさえなり得る。
でも、主催者や周りにしてみれば、ある程度のお膳立てにのってくれるアーティストのほうが楽なはずで、そういうことを無視するのは一見いかにも自分というものがあるかのようですが、同時に甚だしいエゴイストのようにも見えてしまいます。

あくまでもマロニエ君の好みや受けた印象の話ですが…。
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明るい日本に!

昨年は、秋から年末にかけて政治の世界はめまぐるしい変化の連続で、ついに安部さんが再び日本の操縦桿を握ることになりました。

このブログで政治的なこと書くつもりは全くありませんが、少なくとも民主党政権樹立後から3年間というもの、良いことはまるでなかったなかったような印象しかなく、大半の人々は理屈抜きにホッとしているというのが偽らざるところではないでしょうか。

民主党の稚拙な政権担当能力もさることながら、リーマンショック、東日本大震災、それに端を発する原発問題などが重なって、惨憺たる状態が長いこと続きました。先の見えない円高、株価の低迷、そして消費税増税、尖閣問題など暗い問題を背負いながら、民主党内部のゴタゴタや内輪もめの連続など、日本丸はどす黒い雲の下の荒れた海をあてどもなく彷徨っていたようでした。

野田さんの「近いうち解散」も騙されたということは半ば公然たる事実として諦めムードが漂い始めていたとき、自民党の総裁選が行われ、安部さんが総裁に選出されるや、いきなり株価は上昇しました。これが初めの突破口だったように思います。

その後の党首討論の席上で突如、具体的な日にちまで口にした野田さんの発言によって、一気に世の中は選挙モードに突入し、結果は予想を上回る勢いで自民党が第一党の議席を獲得し、自公連立によって衆議院の3分の2さえ獲得するまでになりました。
聞くところでは民主党内では、総理には絶対解散をさせないでおいて代表だけを交代させる、いわゆる「野田降ろし」が始まり、野田さんは逃げ場のないところまで追い込まれたのが直接的な解散誘因だという説もありましたが、まあ結果から見ればそれもよかったということでしょう。

第二次安部政権では、さっそくにもさまざまな手が打たれ、毎年2%のインフレコントロールなど、即効性のある対策も実行されるようです。むろんこれを疑問視する声もあるにはありますが、ともかく昨年暮れの東京株式市場では大納会で最高値をつけるなど、ここ数年でひさびさに明るい気分で新年を迎えることができたように思います。

安部内閣発足直後には、デパートなどではさっそくにも「ちょっといいものを…」という絶えて久しかったニーズが復活しはじめて即座にそれに対応した商品構成に転じているといいますし、クリスマスケーキもこれまでの平均15センチが早くも21センチへとサイズアップした由です。
これは一見取るに足らない小さな事のようですが、でも、こういうことが積み重なって、明るい気運が湧き起こってくるところこそ景気を盛り上げる最大のエネルギーにつながる気がします。

年末にある調律師さんに電話してみると「この1、2ヶ月は過去にないほどピアノが売れた!」という、これまたえらく景気のいい話を聞きました。
まさに不景気も好景気も、要は「気」、気分の問題といわれる所以がここにありそうです。

いつだったか、選挙の頃、新聞に福沢諭吉の言葉で『政治とは悪さ加減の選択である』というのが載っていて、思わず唸りまました。
この意味でいうなら、なにも自民党や安部さんが最高とは云わないまでも「悪さ加減の選択」によって現在の政権が誕生したことは、やはり消去法によるベターな選択だったということなのだと思います。

今年も始まったばかりではありますが、なんとなくこの明るい調子が続いてくれればと思います。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。
このブログをはじめて4年目のお正月を迎えることができました。

先月暮れには日本にも政権交代という大きな変化が起こり、なんとなくですがいつになく世の中が少しずつ明るくなっていくような気がしているところです。

マロニエ君の毎年のこだわりである、その年の最初になんのCDを鳴らすかということですが、今年はそれほど迷わずに、すんなり決まりました。

J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻。
いまやバッハの名手のひとりとして数えられるに至ったハンガリーのピアニスト、アンドラーシュ・シフによる演奏です。

シフはもうずいぶん前にバッハの主だった鍵盤楽器の作品を12枚ほど録音していますが、近年はゴルトベルクやパルティータなど、別レーベルからの再録が進んでいます。
そして昨年も終わり頃になって平均律が第一巻・第二巻あわせて4枚組で発売されましたが、これがまたなかなかの名演でずいぶん聴きました。

昔の演奏よりも、より深く確信を持って、しかも自由で自然に弾いていると思います。
とりわけ第二巻はより明るい作品で、第一曲のハ長調は新年のスタートにもいかにも相応しいように思いますし、とくにフーガでの見事なことは何度聴いても感嘆します。

シフは好んでベーゼンドルファーも弾くピアニストですが、それは作品によって分けているようです。ベートーヴェンのソナタなどは曲の性格によってスタインウェイと引き分けていますが、バッハに関しては一貫してスタインウェイを使っています。
シフのコメントによれば、バッハとウィーンはまるで関係がないのだそうで、だからスタインウェイでしかバッハは弾かないとのこと。ただしベーゼンドルファーでおこなったコンサートのアンコールなどにバッハを弾く場合は、やむを得ずベーゼンで弾くけれども…なんだそうです。

本年もできるだけ思ったこと感じたことを、ブログ/ネットという場所で、許されると判断される範囲で「本音で(でも常にブレーキペダルに足をのせながら)」綴っていきたいと思いますので、どうかよろしくお付き合いくださいますようお願い致します。
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追記の追記で最後

ポリーニの日本公演の様子を見てみて、今回あらためて思ったことは、彼は実はとても音量の大きなピアニストだという事でした。これはよく考えてみると新発見に近いものだったと思います。

同じボリュームでも、ポリーニの演奏になると音の鳴るパワーが全体に違うことがわかりました。
ポリーニは甘くやわらかな音のピアノに向かって、全体に均等に分厚い音を朗々と鳴らしますが、そのタッチ特性からくる発音に一定の品位がある上に、楽器にもうるさい彼はメタリックな音のするピアノを好みませんから、それらが合体して粗さのない、非常に充実したオーケストラ的な響きになるのだろうと思います。

若い頃のポリーニのリサイタルには何度も足を運びましたが、とにかくその圧倒的英雄的演奏に打ちのめされて、毎回上気した気分と深いため息を漏らしながら帰途についたものです。たった一台のピアノから、あれほど充実した響きと演奏を聴かされて、まるで何らかの記録樹立者が汗まみれになって目の前にいて、それを見守り熱狂する我々観衆というような感動と興奮を味わえることこそ、ポリーニの生演奏の特色であり最高の魅力でした。

それは煎じ詰めれば、彼のピアノ演奏が際立ったものであるのは当然としても、聴衆を圧倒する要素のひとつにあの音量があったとは気が付きませんでした。おそらく、通常の人なら音量が大きい場合に不可避的につきまとう音の割れや粗さが彼の音には微塵もないために、ただ演奏が筋肉的にしなやかで、ずば抜けたテクニックと迫真性ばかりに浸っていたように思います。

ポリーニは20世紀後半を代表する最高級のピアニストのひとりであったことは云うまでもありませんが、強いて不満を云うならば、彼の演奏には歌の要素やポリフォニックな要素が稀薄だというところでしょう。むしろピアノ全体を均等に充実感をもって鳴らし切ることと、正当で流麗な解釈、それを構造学的な美学志向で積み上げていくタイプのピアニストでした。

この点でもうひとつ気付いたのは、ある程度歳を取ってからのポリーニの指先です。関節が非常に固く、おまけに爪がおそろしいまでに上に反っています。
このジャンルの草分け的存在であり大御所でもある、御木本澄子さんの説によれば、芯のある強靱な音を楽に出せるピアニストの指に必要なものは固く固まった第一&第二関節なのだそうで、ケザ・アンダの指などはほとんどこの部分の関節は動かないまでに固まっているのだそうです。

ポリーニのあの独特なやわらかさを兼ね備えた甘くて強靱な美音は、まずはこの固い関節がタッチの土台を支えているからこそだと思いました。
また一般論として、肉付きと潤いのある美しい音色を出そうとすると、上からキーを高速で叩きつけるのではなく、ほとんどキーに接地している指を加速度的に静かに力強く押し下げていくしかないと思いますが、ポリーニの美音と迫力あるボリュームの両立は、彼がその奏法を用いながら、さらに類い希な指(特に指先)の強靱な力の賜物だと思われます。

この奏法であれだけの大音量を出すという演奏形態を長年続けてきたために、彼の指先はあのように上に反り上がってしまったものだろうと思いました。


気が付けばこれが今年最後のブログになってしまったようで、あわてて年内にアップします。
お付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。
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ポリーニ追記

今回のポリーニの来日公演、実際は知りませんが、少なくともテレビ放送ではベートーヴェンの5つのソナタが演奏され、出来映えは大同小異という印象でしたが、強いて云うなら27番がよかったとマロニエ君には思われ、逆にテレーゼ(24番)などは、どこか未消化で雑な感じがしました。

それに対して最後の三つのソナタ(30番、31番、32番)は、個人的に満足は得られないものの、ともかくよく弾き込んできた曲のようではあり、身体が曲を運動として覚えているという印象でした。
しかし、残念なことにこの神聖とも呼びたい、孤高の三曲を、いかにもあっけらかんと、しかもとても速いスピードでせわしなく弾き飛ばすというのは、まったく理解の及ぶところではありませんでした。

中期までのソナタなら、場合によってはあるいはこういうアプローチもあるかもしれませんが、深淵の極みでもある後期の三曲、それも今や巨匠というべき大ベテランが聴衆とテレビカメラに向かって聴かせる演奏としては残るものは失意のみで、甚だしい疑問を感じたというのが偽らざるところでした。

リズムには安定感がなく、音楽的な意味や表現とは無関係の部分でむやみにテンポが崩れるのは、聴く側にしてみるとどうにも不安で落ち着きのない演奏にしか聞こえません。まるでさっさと演奏を済ませて早くホテルに帰りたくて、急いで済ませようとしているかのようでした。
何をそんなに焦っているのか、何をそんなに落ち着きがないのか、最後の最後までわかりませんでした。
次のフレーズへの変わり目などはとくにつんのめるようで、前のフレーズの終わりの部分がいつもぞんざいになってしまうのは、いかにも演奏クオリティが低くなり残念です。

とりわけ後期のソナタになによりも不可欠な精神性、もっというなら音による形而上的な世界とはまるで無縁で、ただピアニスティックに豪華絢爛に弾いているだけ(それもかなり荒っぽく、昔より腕が落ちただけ)という印象しか残りません。

それでも、日本人は昔からポリーニが好きで、こんな演奏でも拍手喝采!スタンディングオーべーションになるのですから、演奏そのものの質というよりは、今、目の前で、生のポリーニ様が演奏していて、その場に高額なチケット代を支払って自分も立ち会っているという状況そのものを楽しんでいるのかもしれません。
もはやポリーニ自身が日本ではブランド化しているみたいでした。

ピアノはいつものようにファブリーニのスタインウェイを持ち込んでいましたが、24番27番では、これまでのポリーニではまず聴いたことのないようなぎらついた俗っぽい音で、これはどうした訳かと首を捻りました。ポリーニの音はポリーニの演奏によって作られている面も大きいのだろうと思っていただけに、このピアノのおよそ上品とは言い難い音には、さすがのポリーニの演奏をもってしても覆い隠すことができないらしく意外でした。

日が変わって、最後の三つのソナタのときは、それよりもはるかにまともな角の取れた音になっていて、音色という点ではポリーニのそれになっていたように思います。
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ポリーニ来日公演

今秋サントリーホールで行われたマウリツィオ・ポリーニ日本公演~ポリーニ・パースペクティブ2012の様子がBSプレミアムで4時間にわたって放映されました。

マンゾーニの「イル・ルモーレ・デル・テンポ(時のざわめき)~ビオラ、クラリネット、打楽器、ソプラノ、ピアノのための~」からはじまり、ところどころにポリーニがソロで出てくるというものでした。

この一連のコンサートは、そこに一貫した主題を与えるのが好きなポリーニらしく、ベートーヴェンの存命中のコンサートでは常に新しい音楽が演奏されていたという点に着目して、ベートーヴェンのソナタと現代音楽を組み合わせながら進行するという主旨のプログラム構成でした。

今回はポリーニの息子のダニエーレ・ポリーニ氏も来日し、父のインタビューの傍らに座ってときどき似たようなことを話していたほか、ステージではシャリーノの謝肉祭から3曲を日本初演する機会を得ていたようです。

ポリーニは現代音楽ではシュトックハウゼンのピアノ曲を2曲を弾いたのみで、それ以外はベートーヴェンの5つのソナタ、第24番、第27番、そして最後の三つのピアノソナタを演奏しました。

さて、このときのポリーニのことを書くのはずいぶん悩みました。
それはさしものポリーニ様をもってしても、そこで聞こえてきたものは、どう善意に解釈しようにも、もはや良い演奏とは思えなかったからなのです。しかし、彼を批判することはピアニストの世界では、なんだか神を批判するような印象があるから、やはり躊躇してしまいます。

しかしプロの世界、それも世界最高級のレヴェルの芸術家なのですから、やはり彼らは自分の作品(演奏家の場合は演奏)に厳しい批判を受けることも、その地位に科せられた責務だと思いますので、あえて控え目に書かせてもらおうという結論に達しました。

ポリーニの肉体の衰えはかなり前から感じていましたが、それはいかに天才とはいえ生身の人間である以上、だれでも歳を取り老いていくのですからやむを得ないことです。ただ、最高級の芸術家たるものは肉体の衰えと引き換えに、内的な深まりや人生経験の少ない若者には到底真似のできないような奥深い世界への踏み込みや高みへの到達など、ベテランならではの境地を期待するものですが、少なくともマロニエ君の耳にはそのようなものは一切聞こえてくることなく、何かがピタリと止まってしまっているような印象でした。

インタビューではどんなことに対しても、自説を展開し、歴史まで丹念に紐解いて論理的にながながと講釈をしますが、それほどの斬新な内容とも思われませんでしたし、とくにベートーヴェンの後期の作品に対する解説も、ピアノ曲以外の作品まで持ち出してあれこれとかなりやっていましたが、実際のステージでの演奏は、そういうこととはなんの関連性も見出せないような、こう言っては申し訳ないですが、むしろ表面的なものにしか感じられなかったのは非常に残念でした。

ベートーヴェンの音楽を聴いた後に残る、魂が高揚した挙げ句に浄化されたような気持ちになることもできませんでしたし、老いたとはいえこれほどの大ピアニストの演奏に接して、何かしらの感銘らしきものを受けるということもなく、ただただ若き日のアポロンのようなポリーニの残像を自分なりにせっせと追いかけるのが精一杯でした。
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ビジネスのくじら

仕事の都合上、室内の一部をやむなくリフォームすることになりましたが、リフォーム会社というものは優劣さまざまで以前から要注意業界でもある旨をテレビなどで再三にわたって聞いていましたので、果たしてどうしたものかと思いました。

マロニエ君よりもずいぶん年上ですが、信頼という点にかけては間違いのない昔からの知り合いがいましたので、さっそく連絡してみました。その人は直接のリフォーム業者ではなく、業界の職人さんなのですが、なんと激変する時代に嫌気がさして少し前に廃業してしまい、付き合いのあった仲間達も散り散りになったという衝撃的な話を聞かされました。

やはりというべきか、今どきの時流の変化と厳しさは、いかなる業種にも容赦なくその荒波が襲いかかり、建築関係においてもまったく例外ではないようです。いや、もしかすると、この業界こそ儲け主義と技術革新甚だしい急流の部分にあるひとつなのかもしれません。

よくテレビなどで、長年親しまれた地元の商店街の近くに、突如として大資本の大型スーパーやショッピングモールが進出してきて、周辺のお客さんは、まるで潮の流れが変わったようにそっちへ奪われてしまい、小さな個人商店の集まりなどでは手も足も出なくなるという構図がありますが、まさに似たような話でした。

以前なら、建築関係の世界にも各分野ごとに、いわゆる腕利きの職人さん達がいて、何かというと彼らは個々に、あるいは互いに連携して柔軟に仕事を進めていたといいます。なにしろ技の世界ですから、若い頃から親方のもとで辛い修行を積んで、一人前になるのは生半可なことではないとか。
彼らは家を建てることから、ちょっとしたお風呂の修理まで、依頼内容に応じてあちこちへ出向いたり、適材適所に仲間を紹介したりされたりで、それぞれが誇りあるプロとして納得のいく仕事をしていたのだそうです。

ところが今はなんでも大資本・大企業が業界を席巻し、まさにクジラのようにあらゆる仕事をそっくりのみ込んでいくのだそうで、それが何社も重なり合うようにして地域ごとに進出するため、個人の職人さん達の出る幕など皆無なんだそうです。中には上手い具合に企業にもぐり込んで、かろうじて仕事を続ける人もあるそうですが、多くは年齢的なことや新技術の習得など様々な事情が重なって、廃業してしまう人が圧倒的に多いのだそうです。

実は、マロニエ君がスピーカー作りの際、土台部分の木材の円形カットをやってくれる工場を探した際にも耳にしたことですが、昔はちょっと田舎なら、あちこちに普通に木工所といわれるものがあったらしいのですが、こちらも今は激減し、残っているのはことさら手作りとか工房とかいう類のものだけで、ありがたげなこだわりや付加価値を謳いながら、ひとつひとつを丁寧に注文製作するようなところばかりで、値段もゼロがひとつ違うんじゃないの?というほど高額で、とても気軽に立ち寄って、「これこれの寸法に切ってください」「ほいきた!」という感じにはいかないようです。

というわけで、今どきは(例外はあるかもしれませんが)どんな世界でも、大半は大会社だの大手企業だのが仕事の大小にかかわらず、圧倒的組織力にものをいわせて、いわば集塵機で根こそぎチリを吸い集めるようにしてビジネスを奪い取ってしまうという、なんとも恐ろしい事態が起きているようです。

こうなってしまうとどんなことでも、仕事をするにはまずもって大会社、もしくはそれに連なる系列に身を置かなければ仕事そのものにありつくことができず、だからますます大会社至上主義のようになるんでしょうね。

そういう意味では、どんな仕事でも、自分のペースで淡々とやっていける人の数というものは、ほとんど絶滅危惧種並みに少なくなっていると思われます。そしてそれが可能な人は、まずそのこと自体が大変な幸福だと思わずにはいられません。
「格差社会」という言葉はあらゆる機会に言われて久しいものですが、古い知り合いであっただけに、なんだか象徴的にその具体例を見せられた気がしました。

少しでも明るい社会になるよう、なんとか安部さんの手腕に期待したいところです。
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行列と満腹

昨日はどうしてもという必要に迫られて、あまり行かないことに決めたはずだったIKEAに行くことになり、友人に同行を頼みました。

23日は折悪しく連休中でもあり、さらにはクリスマスイブの前日ということも重なってか、予想通りのたいへんな人出でした。
当然ながら、そんな日の昼間に行くなんて無謀なことをする勇気はありません。マロニエ君達が駐車場に入ろうとしたのは、たしか午後6時ごろでしたが、この時間になってもまだあたりは車でひしめき合って、さすがに満車ではなかったものの、隅々までびっしりと車が並んでいました。

季節柄、日もどっぷりとくれているというのに、ヘッドライトの先にはまだ誘導員がいて、車の流れを忙しげに整理していますから、おそらくは今年最後の盛り上がりというところなのでしょう。

なんとか車を置いて、店内に入って目的の商品を見ていると、どうやら今の時期は「期間限定」のいろいろなイベントをやっているようで、二階のレストランでもスウェーデンのクリスマス・ディナーと銘打ったバイキングをやっていると店内アナウンスが言っていました。

大人1500円こども600円の「ドリンク付き食べ放題」とやらで、友人はどうやらそれに行きたがっているような雰囲気をプンプン醸し出しはじめ、内心「まずいなぁ…」と思いました。
でも、たしかに時計の針は夕食時ではあるし、マロニエ君は特別食にこだわりがあるほうではなく、そこそこ美味しく食べられれば何でもいいというタイプなので、それならば…とそこに行ってみると、目に飛び込んだのはかなりの長蛇の列で、たちまち恐怖を覚えます。
マロニエ君単独の意志なら、この行列を一目見て迷わず通り過ごすところですが、友人は「今だけ食べ放題のスウェーデンのクリスマス・ディナー」という謳い文句に抗しがたい魅力を感じているようでした。
こちらとしても遠くまで付き合ってもらっているわけで、ここまできて相手の希望だけ無視するわけにもいかないので、マロニエ君としても覚悟を決め所と思い定めて、ついに列に並ぶことになりました。

はじめに1500円也を支払って列の最後尾につくわけですが、この列が完全に停滞して一向に進む気配がないのには、いきなり怖じ気づきました。
なぜ進まないかというと、料理は進行方向の一列のみに配置されていて、前の人が取り終わるまで次の人以降の列全体がそれを待つことになり、それが延々と連なって、まるで連休の高速道路の渋滞のようになり、想像を絶する超低速の進行状況を作り出しているわけです。

こうなると、いくら食べ放題とはいっても、料理を取るチャンスは事実上一回限りだということが、誰の目にも明らかです。
そのかわり、列の入口には奇妙なカートが置かれていて、皆さん等しくそれを使っているのがわかります。カートは三段構造になっており、少し先にはちょうどサイズの合う長方形のトレイが重ねられていて、その横にはミート皿がうず高く積まれています。

すると、みんな専用カートを引き寄せ、トレイを三段それぞれに配置して、さらにはお皿を6枚取っています。これが並んで待っている間になすべき準備であることを、人は皆、先人の行動を見ながらたちまち学習し、無言のうちにサッサと同じ作業をしています。

列はニクロム線のように行ったり来たりしながら、ちょっとずつ料理が置かれたエリアに近づいていくのですが、途中で隣の列の人達と対面して進行(ほとんど動かないが)する部分があり、そのときが自分を含めてなんだかとても滑稽な気分になりました。
子供は比較的無邪気ですが、大人は一様に疲労感と忍耐を隠せない表情ですが、同時に戦いを目前にして並々ならぬ覚悟を決めたような緊張感をも必死に押し殺しているようで、なんともいえない奇妙な空気がピーッと張りつめていました。

おそらくは30分ぐらい待ったあげく、マロニエ君もここまでくれば仕方がないと腹を括ってそれなりに料理に手を伸ばしましたから、いまさら自分だけは別だと言うつもりは毛頭ありませんけれども、でも、中には本当にすごい人達がいて、そのすごさをあれこれと目撃させられました。
人の本性が垣間見えるときというのは、可笑しさと恐怖が無秩序に交錯するものだというのがわかりました。

とはいうものの、結果的にひとり1500円で猛烈な満腹状態になったのですから、文句も言えませんね。
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ふとん店

手作りスピーカーで余談をひとつ。

スピーカーに不可欠の吸音材に使う素材はいろいろあるようですが、そのうちの定番のひとつが「綿(わた)」であることは、恥ずかしながら今年になって知りました。
これには100%ウールのものから、一定量化繊の混じっているものまでいろいろあり、自作オーディオの専門店でも扱っているようで、ネットで購入も可能ですが、マロニエ君は量なども実物で確認したかったので、市内のふとん店に問い合わせてみることにしました。

しかし、今どきはふとん店そのものが昔に較べてずいぶん少なくなっているようでした。
さらには中の綿だけを小売りしているような本格的な専門店となると、なかなかそうざらにはありません。今は生活用品ならなんでもスーパーなどで簡単手軽に安く買えてしまう時代ですから、それもそうだろうと思います。

そこでふっと思い出したのが、ときどき通る道沿いに、派手ではないがちょっと古い感じの大きめのふとん店があったのを思い出して、そこに問い合わせをしてみたら、さすがというべきかちゃんと商品としての取扱いがありました。
オーディオ店同様に、100%ウールをはじめ化繊の混合など数種類そろっているようです。

我が家からもそう遠くない場所なので、さっそく行ってみると、外から見るより店内は遙かに立派で、これには思いがけず驚きました。それも今風のピカピカした感じの立派さではなく、建物などは結構古くはなっているけれども、昔ながらの商売を守り続けているといったガッチリした店内で、置かれている布団のセットなども値段もそれなりだけども法外なものでもなく、いわゆる特別高級な何々というのではなくて、きちんとしたものを正当な価格で普通に売っているというもので、まずその点も近ごろでは却って懐かしく新鮮でした。

さらには店内中央から吹き抜け階段になっていて、どうやらその上は作業場のようでした。布団の縫い込みや綿の打ち直しなどの仕事スペースに違いなく、こんな昔ながらのお店がちゃんと今でも残っていること自体がホッとするのを通り越してちょっと感動的な気分にさえなります。

来意を告げると、応対に出た女性がすぐに二階に取りに行って、しばらく待たされたあと、真っ白い綿を持って降りてきました。その方曰く、綿は湿気を非常に吸い込みやすく反面、放湿は苦手なので、どうしても綿の中に湿気がたまりやすくなる性質があるとのこと。布団の場合はお天気の良い日に日干しをしたりすることになるけれども、スピーカーじゃそれも出来ないでしょうからという判断で、混合のものをひとつ購入することになりました。

ひとつといっても相当の量で、大きめのビニール袋がいっぱいになるぐらいで、とても全部は使い切れない量がありましたが、値段がまた安く、オーディオ専門店などもおそらくほとんど同様の品だと思われますが、価格は数倍に及ぶようですから、この点もなんだか得したような気分になりました。

なんでも、この店は創業120年なんだそうで、現在は販売の他に遠方から綿の打ち直しなどの依頼があるという話でした。スーパーやネットもたしかに便利ですが、欲しい物を直接手にとって、お店の人と会話しながら納得ずくで購入するというオーソドックスなスタイルでやりとりをすると、ふしぎに気持ちもゆったりしてどことなく幸福な気分になるものです。
昔はこういうなんでもないところからも、人の心の在り方が違ったんだというような気がしました。
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音にフォーカス

月刊誌『ピアノの本』では、このところ連続してヤマハの技術者の方を取り上げた記事が載っていて、マロニエ君も特に楽しみな連載コーナーなのですが、11月号は酒井武さんというヤマハアーティストサービス東京に在籍する方でした。

過日NHKのクラシック倶楽部で放映されたニコライ・ホジャイノフはヤマハCFXを使って好ましい演奏をしていましたが、記事にはホジャイノフと酒井氏のツーショットも掲載されていますから、日頃からコンサートの第一線で活躍されるヤマハ選りすぐりの技術者であるだろうことは容易に推察できます。(ホジャイノフは、この来日時にはCD収録もしたようです。)

ところで、この酒井氏の経歴で目についたのは、ある時期に「本社工場・特機制作室」という部署へ異動されたと書かれている点でした。ヤマハピアノの本社工場・特機制作室とは何をするところなのか…というのが率直な疑問で、マロニエ君なりにあれこれと察しがつかないでもありませんが、それは想像の域を出ませんから、それを敢えてここで書いたところで意味はないでしょう。
まあ、ともかくも、ヤマハにはそういう、なんとなく秘密めいた想像をかき立てる部署があるということは確かなようです。

今回の酒井氏の言葉にも、いろいろと含蓄のあるものがありました。
たとえば、調律師としての感性を磨くための心がけは?という問いに対しては、「生活のすべてにおける感動する気持ちが大切〜略〜些細なことにも五感を働かせて“感じる”ことで、センスや自分自身を磨いていく」というものでした。
ピアノを細かく調整して、芸術的な音を作り出すような職人が、仕事以外ではごくありふれたラフな気分で生活していたのでは、そういう至高の領域での仕事はできないということでしょう。タッチや音色の微細な違いを感じ分け、より良いものを作り出す能力は、まず自分自身がよほど性能の良いセンサーそのものである必要があるのでしょう。
そして、この高性能なセンサーと合体するかのように、ピアノ技術者としての専門的かつトータルな能力があるのだと思います。

マロニエ君もパッと思い起こしてみても、ピアノ技術者の皆さんはいうまでもなくそれぞれの個性をお持ちですが、わけても一流と感じる人達は、皆非常に繊細な感性の持ち主です。
この点に例外はないとマロニエ君は断定する自信があります。

もうひとつ興味深いお言葉は「楽器に入りすぎて視野が狭まり、思い込みによる調律をしてはいけません。」とあり、演奏を聴いていると、調律師という仕事柄どうしても“音”にフォーカスしてしまうことが多いのだそうで、これは技術者の方は多分にそういう方向に流れるだろうと思っていました。「しかし、聴きながら“音”への意識が消えるほどに良い音楽が流れていたとき、振り返るとそれはまさに“良い音”が鳴っている瞬間だったと気がつく」とあり、これこそ大いに膝を打つ言葉でありました。

調律師の中にはなかなかの能力をもっておられるけれども、自分の音造りに拘ってそのことに集中するあまり、逆に音楽的でないピアノになってしまうという例もマロニエ君はずいぶん見ています。
こうなると調律師が作り出した音や調律が主役で、ピアノは素材、ピアニストはただそれを弾いて聴かせる演奏係のようになってしまいます。

楽器は重要だけれども、あくまでも演奏を音にし、音楽を奏でるための道具という域を出ることは許されないと思います。パッと聴いた感じはいかに華麗で美しいものであっても、そればかりが無遠慮に前面にでるようでは結局音楽や演奏は二の次で、あとには疲れだけが残るものです。

本当に一流というべきピアノ技術者の方の仕事は、ピアニストや作品を最大限引き立てるようなものであり、楽器としての分をわきまえていなくてはならず、あくまで演奏や音楽を得てはじめて完成するという余地のようなものを残していなくてはならないと思います。
それでいて音や響きは美しく解放されて、印象深くなくてはならず、演奏者をしっかり支えてイマジネーションをかき立てるようなものでなくてはならないわけで、非常に奥深くて難しい、まさに専門領域の仕事であるといわなければならないでしょう。

中には派手な音造りをすることが自分の拘りであり、他者とは違う自己主張のように思い込んでいる人もいますが、この手は初めは美味しいような気がするものの、すぐに飽きてしまう底の浅い料理みたいなもんです。
要は「音にフォーカス」するのではなく「音楽にフォーカス」すべきだということで、これはまったく似て非なるもので、後者を達成するのは大変なことだろうと思います。
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午後8時解禁

一昨日は総選挙のテレビをずっと観ていて、ブログ更新もできませんでした。

いまどきの選挙に関して印象に残ったことは、公平を期するという観点からか、公示日以降はいずれのテレビ局も、あまりにも各政党や候補者の事柄を伝えなくなり、どこも足並みを揃えたように中立的な立場を取るのは、甚だつまらないと思いました。
むろん、法的にもそれが正しいことなのかもしれませんが、それにしてもあまりにも行き過ぎでは?と感じました。

各メディアが、本当に法を遵守するというスタンスをとっているというよりは、いまどきの人のメンタリティの表れのようで、とにかくトラブルを避け、横並びで、責任問題が発生しないようにすることのほうに主たる注意が払われている印象です。
もちろん各メディアは公正さということを無視してはなりませんけれども、いやしくもジャーナリストたるもの、そのスレスレの領域をかすめながら自分の職務を全うすべく、あらゆる取材を通じて我々に正しい報道をもたらしてほしいのですが、近ごろはそんな性根のある、腹の据わった記者もいないのでしょうし、いてもその上司が掲載や放送を差し止めるに違いありません。
これでは、御身大事の役人根性とまったくおなじです。

12もの大小政党が乱立する中、「どこも公平」の一点張りでは、そりゃあ日頃からよほど政治に関心を持ってアンテナを張っている人以外は、どこに一票を投じるべきかわかりにくいというのも当然です。
それをわかりやすくするのはマスコミの責務でもあるとマロニエ君は思うのですが、それはせず、投票率が低いとなると、またそこのことを単独にネタとして取り上げて、国民の政治的無関心をただ政治家のせいだけにして由々しきことだとわあわあいうだけです。

なにより驚いたことは、NHKの選挙速報番組が、投票締切の夜8時の5分前、すなわち午後7時55分からはじまりましたが、冒頭いきなりアナウンサーが「まもなく大勢が皆さんにお伝えできます」と前置きして、前座のように当確を出す際の説明のようなことを言いながら時計の針が8時になるのを待ちました。

その状況は、まるで年越しかボジョレーヌーボーの解禁のごとくで、8時を過ぎたとたん「自民党の圧勝です!」「政権交代が実現しました!」と何度も伝えるのは驚きでした。
午後8時で投票の締切・即日開票ということは、そこから票数えが始まるわけでしょうけれども、マスコミ各社(とりわけNHK?)は出口調査を徹底させているらしく、投票結果を独自に掴んで準備していたものをただちに出して見せて「どうだ!」といわんばかりでした。

マロニエ君の子供のころなどは、まさにアナログの時代ですから、即日開票といっても開票状況が1%という段階から刻々と結果が伝えられ、おおよそのことがわかるのがようやくにして深夜、正確なことは翌朝にならなければわからなかったという記憶があります。
それがいまや、8時の投票締切と同時に、投票結果の全容はいっぺんにわかり、あとは具体的な数や人の名前が追っつけ伝えられるにすぎませんから、ありがたいといえばありがたいけれども、なんだか味も素っ気も面白味もないなあという印象でもありました。

現代は、なんでもがこういうテンポで事が進むので、途中のプロセスにあるものがどれもすっとばしになってしまい、とりわけ情緒面が失われたような気がします。選挙結果を知るのに情緒もなにもないだろうと言われそうですが、マロニエ君はやっぱり「ある」と思うのです。
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2台のスタインウェイ

タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートでは、2人のピアニスト、すなわちピーター・ゼルキンとエマニュエル・アックスが登場しました。

ピーターがベートーヴェンの合唱幻想曲をトリで弾いたのは前回書いた通りでしたが、アックスのほうはハイドンのピアノ協奏曲のニ長調から2、3楽章を演奏しましたが、この両者は、同じ日の同じ会場ながら、オーケストラも違えば、使うピアノもまったくの別物が準備されていました。

アックスのほうはハンブルクのDで、それもおよそアメリカとは思えないような繊細で、純度の高い美しい音を出すピアノで、まずこの点は良い意味でとても意外でした。
というのも、以前のアメリカではハンブルク・スタインウェイでもニューヨーク的な音造りをされたピアノが珍しくなく、アメリカ人の感性の基準にある整音や調律とは、こういう音なのかと驚いたことがありました。

それでも以前のアメリカではハンブルクは稀少で、大抵のステージに置かれるピアノはほぼ間違いなくニューヨーク・スタインウェイだったものですが、近年はどのような理由からかはわかりませんが、ハンブルク製も続々とアメリカ大陸に上陸しているようで、聖地ともいうべきカーネギーホールでも今はハンブルクが弾かれることが少なくないようです。キーシンやポリーニなどはいうに及ばず、最近おこなわれたという辻井伸行さんのカーネギーホール・リサイタルでもステージに置かれているのはハンブルクのようでした。

アメリカ人で意識的積極的にハンブルク製を使うようになった最初のアメリカ人ピアニストは、マロニエ君の印象ではマレイ・ペライアだったように思います。アメリカ人の中にもハンブルクの持つ落ち着きと潤いのあるブリリアンスを好む人達がいるという流れの走りだったと思います。

いっぽう、今回のタングルウッド音楽祭でもピーター・ゼルキンはニューヨークを使っていました。
それも最近数が増えてきた艶出し塗装のニューヨークです。私見ですが、ニューヨーク・スタインウェイってどうしようもないほど艶出し塗装が似合わないピアノで、無理に気に沿わない礼服を着せられている気の毒な人みたいな印象があります。
ただし、見ていてああニューヨークだなと思われるのは、その塗装の質があまりよろしくないという点でしょうか。とくにピアニストの手をアップすべくカメラが寄ると、最近のカメラ映像と液晶テレビの相乗作用で鍵盤蓋の塗装の質まで手に取るようにわかるのですが、あきらかに塗装の質がハンブルクに較べて劣っているのがわかります。

逆に、ニューヨークの面目躍如とでもいうべきは低音のさざ波のような豊かさで、これは現在のハンブルクが失ったものがこちらにはまだ残っているような気がします。ただし欠点も欠点のまま残っていて、たとえば次高音あたりになると音のムラが激しくなり、音によってはほとんど鳴りと呼べないような状態のものまで混ざっていて、このあたりが格別の素晴らしさがあるにもかかわらず、ニューヨーク・スタインウェイの全体としての評価の下げてしまっている部分のように思われます。

おや?と思ったのは、真上からのアングルのシーンが何度が映し出されましたが、どうやらこのピアノはスタインウェイ社のコンサート部の貸し出し用のピアノと思われ、フレーム前縁のモデル名とシリアルナンバーが記されている三角形部分には、通常の6桁のシリアルナンバーはなく、代わりに「D」の文字に寄ったところに3桁の数字が記されていました。
想像ですが、コンサート部の貸し出しの年季が晴れて、外部に売却されるときに通常のシリアルナンバーへと書き直されるのではないかと思いましたが…これはあくまでも想像です。

それはともかく、アメリカのコンサートではなにかというと飽きもせずアックスやP・ゼルキンがいまだに出てくるようですが、もっと違った輝く才能もどしどし登場させて欲しいものです。
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ピーター・ゼルキン

先日のBSプレミアムでは、タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートの様子が放映されました。
出演者もさまざまで、ボストン交響楽団、タングルウッド音楽センター・オーケストラ、エマニュエル・アックス、ヨーヨー・マ、アンネ・ゾフィー・ムター、ピーター・ゼルキン、デーヴィッド・ジンマン、その他のスター達が入れ替わり立ち替わり演奏を披露しましたが、トリを務めたのはなんとマロニエ君にとってある意味鬼門でもあるピーター・ゼルキンをソリストとしたベートーヴェンの合唱幻想曲でした。

「やはり」というべきか、出だしから、マロニエ君にはまったく理解不能なピーターの演奏が始まり、私はこの人のピアノは何度聴いても、ご当人がどういう演奏をしたいのかまったくわかりません。ただ単に自分の好みではないということに留まらず、むしろ疑問と抵抗感ばかりが増してくるのが自分でも抑えられません。

テンポが遅いだけならまだしものこと、音楽であるにもかかわらずマロニエ君の耳にはリズムも語りもまるで恣意的な、一口でいうとめちゃめちゃなものとしか捉えられないのです。
指も何か病気なのではと思うほど動かないし、あちこちに?!?という意味不明なヘンな間があったり、聴いているこちらはまったく波長がズレてしまうばかりです。そればかりか、あきらかに鳴らない音なども頻発したりと、これではピアニストとしての基本さえ疑います。
それに、なにかというと打鍵した指を弦楽器奏者のヴィブラートのようにプルプル震わせる、あの仕草も神経に障ります。これをやるのは日本人有名女性ピアニストにもいらっしゃって見ていて鳥肌が立ちます。

さらにこのピーター・ゼルキンで驚くのは、彼を表現者として絶賛するファンがとても多いことで、彼の欠点には目もくれず、彼こそ真の芸術家というような調子の褒め言葉を濫発させるのには、いつもながら驚いてしまいます。
彼の価値がわからないということは、音楽そのものの真価がわからないとでも言いたげな論調で、まったく呆れるばかり。
まるでピアノは勝手にワガママにのろのろと下手に思いつきのようフラフラに弾いた方が、よほど芸術家扱いされるかのごとくです。

実はマロニエ君には苦い思い出があって、そこそこ親しくしていた関東在住のあるピアニストと雑談をしているときに、たまたまピーター・ゼルキンの話が出たのですが、私はあまり好きではないというような意味のことを言ったら、みるみるその人の態度が変わり、それ以降のお付き合いにまで距離ができてしまったことを思い出してしまいます。

しかし、今回もあらためて大編成の合唱幻想曲を聴いてみて、前半のピアノソロの部分なども、その遅いテンポをはじめとしてまったく彼個人の自己満足としか思えず、聴衆の顔にも明らかに退屈と困惑の表情が見て取れましたし、名門ボストン響のメンバー達もテンションが下がりまくりで、ともかくこのコンサートの最後だから無事に終わらせようとしているようにしか見受けられませんでした。
後半の歌手達の出だしなども、ピーターの勝手なテンポとフラフラのリズムのせいで、おっかなびっくりで歌っているのが明らかです。

それでも素晴らしい人にとっては素晴らしいのかもしれませんし、そこは主観なのでもちろんご自由ですが、マロニエ君の耳目には、ひどく鈍感で空気の読めない、偉大な父と自分の個性表出に汲々としてきただけの、歪んだエゴイストにしか見えませんでした。
フルオーケストラと6人の歌手、それをとりまく合唱団は、たったひとりのこのワガママ老人のようなピアニストのせいで、本来の実力とは程遠い演奏を余儀なくされたという印象を拭うことはできませんでした。
指揮者のジンマンにしたところで、彼の鮮烈デビューはキレの良い、まるでモーツァルトのようなシャキシャキとしたベートーヴェンだったものですが、当然ながら別人のような、まるでピアニストを指揮者という立場から介護でもしているような棒でした。

これだけ大勢の音楽が出揃っていながら、演奏には覇気がなく、とくにピアノパートではこんな肯定的な有名曲にもかかわらず、ふと何を聴いているのかさえわからないような箇所があちこちにありました。
むかし、交通標語に『荷崩れ一台、迷惑千台。』というのがありましたが、この合唱幻想曲はまったくそんな印象でした。
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安物買いの銭失い

『安物買いの銭失い』という有名な言葉がありますね。
念のため、ネットで意味を調べてみると「安いものを買って得したように思えても、品が悪く何度も買いかえることになり、結局損をしてしまうこと。」とあり、まさに今の自分のことでした。

ここ数年のことでしょうか、電気ケトルというものがしだいに浸透してきて、我が家でもずいぶん前からこれを使うようになりました。

説明するまでもなく、読んで字のごとし、電気でお湯を沸かす要は「電気やかん」です。
これがいいのは、笛吹ケトルなどと違って、お湯が沸騰すると自動的にスイッチが切れるし、安全清潔で取り回しがいいし、プラスチック製なので火傷の心配も低いなど、とても便利で、もはやこれ無しでは困るところまで我が家の生活に馴染んでいました。

しかし電気ケトルには欠点もあって、水と熱にかかわる電気製品だからかどうかはしりませんが、ティファールなどの有名メーカーの製品であっても、だいたい数年でスイッチが怪しげな感じになり、最後はほぼ間違いなくダメになって買い換えを余儀なくされます。

まあそのときは新しいものを買えばいいじゃないかといえばそれまでなんですが、我が家で使っているものは容量が1.7Lという電気ケトルの中では大型に属するサイズで、そこそこの値段がする上に、買おうにもこれが少々のことでは見つかりません。
どこでも売っているのはほぼ間違いなく0.8〜1Lぐらいの小さなサイズだけで、これではコーヒーを1〜2杯ならいいでしょうが、それ以外は、何度も立て続けに沸かさなくてはなりません。

はじめはコストコホールセールで購入し、次は人に頼んでアウトレットモールでいずれもティファールを買ってきてもらいましたが、その2号機も先日オダブツになりました。だいたい3年ぐらいが寿命みたいな印象です。

で、ネットを見ていると、やはりこちらでも大型は商品数が圧倒的に制限されてしまい、数が少ないからなのか価格も決して安いとはいえません。そんな中にほんのわずかですが激安品を発見!
どうも中国製のようですが、「急速沸騰」と書かれ、値段は他社の5分の1ぐらいだし、有名メーカーの製品でも生産拠点はだいたい中国だったりするので、要するにお湯が沸けばいいわけだし…というように安易に考えてしまい、ついこれを買ってみることにしました。
安いことは甚だ結構でも、送料と代引き手数料のほうが製品代を上回るなど、出だしからなんだかひっかかるものがありましたが、まあともかく開けて使ってみることに。
驚いたのは箱や入れ方があまりにも簡素なことに加えて、説明書の紙切れ一枚さえ入っていないことでした。

フタを開くと、底のほうには銀色をした熱線らしきものがくねくねと無秩序に曲がりくねっており、これが熱を発してお湯を沸かすという構造であることは容易にわかりました。
軽く洗ってさっそくコンセントを差し込んで、いかにも頼りなさげなスイッチを入れましたが、果たしてなかなか反応がありません。ティファールではほどなくグツグツいいはじめて、いかにもお湯沸かしの仕事を始めましたよという印象でしたが、まずこの段階で異常に時間がかかり、はじめはよほど「静かな設計」なのかと思いましたが、そうでもないらしく、かなり経ってからようやくそれらしい音がしはじめました。

さらに沸騰するまでもだいぶ長くお待たせ時間が続き、およそ「急速沸騰」とは程遠い印象。この時点でやっぱり安物という気配が濃厚になりました。ずいぶん経ってやっと沸騰へと辿り着きましたが、こんどはスイッチが切れません。いつまでも中のお湯はグラグラと踊り狂っている状態で、ここは手動なのかと思ったら、忘れた頃にいちおう自分でポチッと頼りなく止まることは止まることがわかり、要はメチャメチャ性能が悪いという以外に解釈のしようがありません。

これではスイッチONのトータル時間がものすごく長く、いくら本体は安くても電気代ばかり喰うのは目に見えています。しかもデザインがお洒落なわけでもないし、中の熱線を見たら安全性だって疑わしいし、まったく良いこと無しです。で、いまさらこんなことを言うのもなんですが、名も知れぬ中国メーカーの製品ともなれば、素材にどんなものが使われているかも知れたものじゃない気もしてきて、下手をすれば身体に害のあるものをこんなちんけな製品を使ったばかりに毎日体内に流し込む可能性もあると思うと、いっぺんで使う気が失せました。

というわけで、お金を使って次回の燃えないゴミの日に捨てる物をひとつ増やしただけという、まことに愚かな顛末でした。
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グリモーの4番

先日、グリモーのモーツァルトがマロニエ君の好みでなかったことを書いたばかりでしたが、ふとしたことから彼女が1999年にニューヨークでライブ録音したベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を聴いたところ、こちらは手の平を返したような名演で、まさに感銘を受けました。
指揮はクルト・マズア、ニューヨークフィルとの共演です。

もともとグリモーは、若い頃からフランスの女性というイメージに敢えて反抗するように、フランス音楽やショパンに背を向けてロシア音楽を好み、ドイツ音楽に傾倒しているなかなかの重厚な趣向の持ち主で、その見た目と彼女の内面はずいぶん違うピアニストと云っていいと思います。

したがってベートーヴェンの協奏曲(中でもあの4番!)を通りいっぺんの演奏をする凡庸な人とは思っていませんでしたが、それは遙かに想像を超えるものでした。少なくともマロニエ君は、これほどまでに活気と情熱に溢れ、しかもそのことがまったくこの傑作の品位をおとしめていない、表情豊かな自発性に満ちた4番の演奏を聴いたことがありませんでした。
普通なら、いわゆるベートーヴェンらしい3番と豪壮華麗な5番「皇帝」に挟まれた、この貴婦人のような4番に対して自分の考えを強く演奏に反映させて個性的に弾くピアニストはなかなか見あたりません。それは作品そのものが全編を通じてデリカシーと気品を絶え間なく要求してくるし、自分を表出させる隙がない難しい曲ということもあるでしょう。さらにはこのような至高の傑作を自分の演奏でよもや傷つけてはいけないという慎重さが働いて、大半のピアニストはほとんど用心の上にも用心を重ねながら安全運転で弾いているようにしか聞こえません。

あえて名前は書きませんが、ある日本の有名な女性ピアニストは3番&4番という二曲を収めたアルバムを以前にリリースしていますが、それは優等生の手本のような型通りの、何事にも一切逆らわず、ひと言でも自分の考えを言わない、テストなら満点の取れそうな演奏で、こんな運転免許の実技試験みたいな演奏が出来るということに逆に驚くほどでしたが、それほど4番はそういう傾向の平凡な演奏をされることの多いことがこの作品の悲しい運命のような気がしていました。

ところが4番に聴くグリモーはそんな畏れなどまるで無関係といわんばかりの体当たり勝負で、自分のパッションに正直に曲を重ねて活き活きと語り進んでいきます。同時にそれが普遍的な美しさと魅力を湛えているのですから、これは見事というか天晴れだと思わずにはいられません。

グリモーは、技巧的には現代のピアニストの中では取り立てて自慢できるようなものをもっているわけでもなく、むしろその点ではやや弱さを抱えている部類とも思いますが、にもかかわらず、自身の音楽的趣向と感性に従って重厚な曲に敢えて挑戦を続けている姿勢は10代の時分から変わっていないようです。

マロニエ君の感じるグリモーの魅力を云うならば、力量以上の大曲に挑む故か、常にハイテンションな全力投球の演奏から聴かれる熱気と、作品に対する畏敬の念がもたらす手応えの強さだと感じます。そのためにグリモーの演奏には作品の偉大さを常に感じさせ、全力投球の演奏行為が醸し出す重量感が溢れ出し、余裕のテクニシャンには却って望み得ないような緊迫した演奏が聴かれるところではないかと思います。

この4番の他には、なんと後期のソナタのop.109とop.110が入っており、これもまたなかなかの瑞々しさの中に奥行きのある演奏で、なかなか立派なものでした。
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塩鮭のゲット方法

行きつけのスーパーはいくつかあるものの、マロニエ君が行く時間帯は主に夜が多く、たまに時間や出先の都合などで昼間に行くことがあります。
同じスーパーでも、昼と夜とで大違いなのは生鮮品で、とりわけ鮮魚売り場などは昼間だと全く別の店のようなすごい活気があるのに驚かされます。

甚だ所帯じみた話題で恐縮ですが、あるスーパーの塩鮭はとても品物が良く、美味しいのでマロニエ君のお気に入りで、行けば必ず買ってくるようにしています。
昨日、たまたま昼間ここへ行けたので、塩鮭を買うべく売り場に行くと、あるある、美味しそうな甘塩の切り身が山のように盛られており、手前には厚手のビニール袋が備え付けてあります。
それへ専用のトングを使って各自必要量を袋に入れてレジで精算するという、ごくごくありふれたシステムです。

すぐ脇には、同じものがパック詰めされたものもありますが、自分で一切れずつ選んだほうがより好みの部位をチョイスできるという利点もあり、マロニエ君としては、あまり鮭のお腹に近い方の脂の強いところは避けたいので、いつも自分で選んで買うことにしています。

この日、その売り場に行ったときには誰もいませんでしたから、ビニール袋を片手にあれこれと選んでいると、ほどなく一人の女性がやってきてしばらくじっとこちらの様子を見ていましたが、ある瞬間から決断がついたのか、自分もとばかりに袋を取って切り身をあれこれと漁り始めました。

すると、さらにべつ方向からもうひとりおばさんが現れて、マロニエ君の横にぴったりくっつくようにしながらこの光景を凝視していますが、まだ詰め込み作業が済んでいないこちらの身体の前に腕をよじるように、強引に手を伸ばしてきて、ビニール袋をもぎ取るように一枚取りました。
内心「すぐ済むからちょっと待ってよ…」と思いましたが、それができないようです。

さっそくにも自分も手を出したかったのでしょうが、二つあるこの売り場専用のトングはいずれも「使用中」のため、そのおばさんは袋の中に手を突っ込んで切り身を掴んで、さっと袋を裏返すことでゲットしています。
と、そんなことをしているうちに、さらにもう一人!おばさんが横から現れましたが、この人はほとんど人を押しのけるようにしてなにがなんでもビニール袋をむしり取り、な、なんと素手!で塩鮭を鷲づかみにして二三切れ袋に放り込みました。

こうなふうに文章で説明すると、マロニエ君がよほどぐずぐずしていたように取られるかもしれませんが、決してそんなことはなく、できるだけサッサとやっていたつもりですが、なにしろこのたぐいのパワーは凄まじいものがあって、いったん始まってしまうと、あっという間のことでとても敵いません。
もともと誰も見向きもしていない売り場だったのに、誰かが袋に詰めしたりしていると、たちまち人が寄ってくるという一種の人の心理も働いているようにも思います。

それにしても、マロニエ君もスーパーではいろんなものを目撃していますけれども、生臭いむき出しの塩鮭の切り身をまさか素手で掴むおばさんというのは初めてお目に掛かりました。悪いとは思いましたが、あんまりびっくりしたのでその売り場を離れる際、思わず顔を見てしまいましたが、ごく普通の身なりで、頭にはきれいな帽子まで被っていて、とてもそんなワイルドなことをしそうな御方には見えませんでした。
あのあと、生の塩鮭を掴んだ右手はどうしたのかと、ずっと考えてしまいました。

なんにしても現代はまぎれもない競争社会。
たかだか塩鮭の切り身ひとつ買うにも、時として「戦い」の様相を帯びるのだということであります。
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中華アンプの魅力

またもチープなオーディオの話で恐縮ですが、みなさんはデジタルアンプというものをご存じでしょうか?
それも日本のメーカーが出しているような高級品のそれではなく、いまマロニエ君が熱中している安い中国製のデジタルアンプです。

手の平にのるほど小さく、価格も数千円から高いものでもせいぜい一万円台ぐらいですが、これが信じられない高性能で、マロニエ君も初めは半信半疑だったのですが、ひとつ買ってみて初めに音を出したときの驚きといったら目からウロコでしたね。

これまでの大きくて重いアンプは何だったのかと思うような、小さなボディから逞しくも美しいクリアな音がびゅんびゅん惜しげもなく出てくる中国製デジタルアンプはまさに衝撃で、これもまた従来のオーディオの常識を根底から覆すようなものだと思います。
もちろん、凝りに凝った真空管アンプに拘る人とか、超高級品の世界を彷徨うようなディープなマニアは別としても、ごく普通に、良い音楽を、良い音で聴きたいと考えている大半の人には、ほぼ間違いなく納得できるもので、その高性能ぶりには従来の常識を覆すような驚きと満足を覚えることだろうと思います。

サイズはタバコの箱よりはいくぶん大きく、文庫本を3冊重ねたものよりも小さいぐらいといえばおわかりでしょう。重量は軽く、ボリュームのつまみを回すたびに本体が動いてしまうほどです。
そかもデジタルときているので、何時間聴いても本体はまったく熱くならず、いつ触ってもヒヤリとしているのは却って不気味なくらいです。

ネットの情報によると、ブラインドテストという、使用する機器を隠して音だけを聴くテストで、この手の小さな中国製アンプは100万円もするような高級機種をアッサリ打ち負かしたという話までありますが、その真偽のほどはともかく、それぐらいすぐれたものであるというのは確かなようです。

普通の電気店などではまず扱っていませんが、ネットなら簡単に手に入れることが可能で、主に5000円前後のものが主流になっているようです。
マロニエ君はすっかりこの中華アンプにハマッてしまい、すでに恥ずかしいぐらいの数台を購入するに至っていますが、中には期待はずれな商品もあり、メーカーによってある程度の差があるようでもあるし、一台はちょっとした不具合があって交換してもらうなど、日本の製品のような信頼性と均質感はありませんが、なにしろ信じられない低価格ですから、じゅうぶん楽しめる素晴らしい商品だと思います。

このところの日中はずいぶんと険悪な空気になってしまって、先日交代した最高指導者はこれまで以上に対日強硬主義者だそうで、すでに様々な報復措置もはじまっているようですから、こんな小さな商品でも、その流通過程においてどんな不自由や障害が起こるとも限らず、もうひとつぐらい予備に買っておこうかという気にもなってまた買ってしまいましたが、まあ中国側にしても商売はしなくちゃいけないでしょうから、国交断絶などにならない限りは手にはいると思います。

ちなみに中の主要パーツはちゃっかり日本製が数多く使われているようですし、日本人が監修しているものも多いらしいので、精度もそれなりで性能もほぼ安定しているようで、目下のところは良いことづくめのようです。
一部屋に一台ずつ置いているような人もいらっしゃるようですが、このべらぼうなコストパフォーマンスを考えるとそんなことをするのも納得です。
みなさんもおひとついかがでしょう?
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らららの辻井さん

先々週でしたか、NHK日曜夜の音楽番組『らららクラシック』に辻井伸行さんがメインで出演されました。
辻井さんの映像や演奏は、クライバーンコンクールでの優勝以降、折あるごとに接する機会が増えたことは多くの方々も同様のことだろうと思います。それも僅か3年あまりのことですが、もともとお若いせいもあるのか、見るたびに少しずつ感じが変わってくるところがあるように思います。

食べることが大好きというご本人の言葉にもありましたが、一時はかなり恰幅も良くなって「おや、大丈夫?」と思ったときもありましたが、先日見たところではそれほどでもなくなり、逆にどことなく少し大人っぽさみたいなものが加わったような気がしました。

さらに変化を感じたのは、その演奏でした。
辻井さんは今どき稀少な超売れっ子のコンサートピアニストのようですから、年間のステージの回数だけでも相当の数にのぼるものと思いますが、そういう場数や経験からくるものなのか、あるいはもっと奥深い辻井さん自身の内面から湧き出るものなのか、それはわかりませんけれども、以前に較べるとよりブリリアントでピアニスティックな演奏になっているように感じられて少々驚かされました。

それは番組のはじめに、スタジオで弾かれたショパンの革命にも端的にあらわれていたように思います。その後、番組が進行するにしたがって以前の映像などもいろいろ紹介されましたが、そこにあるのはたしかに以前の辻井さんらしい清楚であっさりした演奏でしたから、やはりなにか変化が起きているとマロニエ君は思いました。

もし今後、辻井さんがより華やかで力強いピアニスティックな方向の演奏にシフトしていかれるとしたら、きっと賛否が分かれるところかもしれません。昨年のN響とのチャイコフスキーなどはまだ以前の辻井さんという印象ですが、スタジオでの革命やラ・カンパネラ、あるいは最近のコンサートでの自作の映画音楽『神様のカルテ』などでは、ちょっと新しい辻井伸行を聴いた気がしました。

いっぽう、スタジオでの司会者とのやりとりなどを聞いていても、辻井さんの話にはとてもなつかしいような率直さがあり、これは今では逆に新鮮というか、ときにはちょっとハラハラするような発言が多いのもこの方の個性であるし魅力なのかもしれません。

すでに世界の著名な指揮者など一流の音楽家達との共演も重ねておられるわけで、当然といえば当然なのかもしれませんが、どんなに世界的な人物や先輩の名前などが出てきても、その都度、テレビ放送という場に於いても臆せず「ぜひ共演してみたいですね」とか、ご自身が作曲されることにも絡んで偉大な作曲家の話が出る度に「僕もそういうふうに…」という、現代人の標準的感性からすれば、かなり思い切りのいいフレーズが、自然な笑顔とともにサラリと出てくるのはドキッとしてしまいます。

これは辻井さんの純粋な心のありようと飾らない真っ正直な人柄はもちろん、彼がいかに心温かな人達に囲まれた豊かで恵まれた毎日を過ごしておられるかという事実を端的に裏付けているようで、どことなく羨ましいような気さえしてきます。
それに例によって、折り目角目のある美しい日本語を自然に話されることも、マロニエ君の耳には彼のピアノ同様、奇を衒わずまともであるということに、まず新鮮な心地よさを感じるところです。

一般的には、相当の天分や実力を持ってしても、そうそう無邪気な発言を自然にしてしまうと、俗人は無防備と考えるほうが先行して、とても恐くてできないことでしょう。
現代人は何かと計算高く、用心深くなりすぎて、まず大半のことでは本音を漏らさないクセが身に付き、それはほとんど常態化していますから、それだけでも率直に振る舞うことのできる辻井さんが眩しく感じられるのかもしれません。
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魔性の音造り2

どんな世界でも共通することだろうと思いますが、基本を正しく理解して、そこそこ間違っていない事をやってさえいれば、ある程度のレベル達成までは比較的順調にいくものです。さらにそこに磨きをかけて洗練を目指すことも、手が慣れてくれば、おおよその要領もわかって、これもできないことじゃない。

ところが…。
さらにその上のあと一歩か二歩をよじ登ろうとすると、これがどうにも手に負えない鉄壁であることを思い知らされ、まずだいたいはそのあたりで挫折を味わうようになるというのが常道的な図式ではないでしょうか。
つまりその最後のたかだか一歩か二歩に到達することは、実はこれまでの全行程よりも困難だということでもあるようです。ハイエンドクラスの高級品が法外なようなプライスを堂々とぶら下げることができるのも、つまりはこの最後の鉄壁を凌駕している事への勲章みたいなものでしょうね。

このスピーカー作りで学んだことのひとつもまさにそこで、普通で云うなら、自分で云うのも憚られますけれども、なにしろ第1作にしてはそこそこのものは出来ていると思います。
試しに、ある夜、我が家にやってきた友人に聴かせたらこっちが意外なほど感激してくれて、空間を満たす音楽の奔流にただただ圧倒されているようでした。

黙って聴いて、いきなり変な質問をされました。
「もうひとつ同じものを作れといわれたら作れるか?」と。作り方も材料も全部わかっているので「そりゃあもちろんできるよ」というと、あまり音楽に関心のない彼が、「ぜひ自分にも作って欲しい」と嬉しい事を云ってくれました。

彼はマロニエ君が夏頃からスピーカー作りに尋常ならざる意気込みで入れ込んでいるのをそれとなく知っていましたし、性格的にもやる以上はそこそこ物事を追求するタイプなので、それなりのものは出来ているだろうぐらいには思っていたようでした。
ただ、それでもしょせんは素人の手作りなので、要は「手作りケーキの域」は出ないだろうと思っていたらしいのですが、彼の耳に聞こえてきたものは予想を覆すものだったようで、本当に驚いてくれて、こっちがびっくりでした(マロニエ君自身は手作りケーキの域だと自認していますが)。
おまけに自分にも作って欲しいとまで云ってくれたのはまったく望外のことでした。

したがって、そういうふうに感激してもらえたことは嬉しいことですが、それはそれ。マロニエ君としてはまだ自分が納得していないので「よしわかった」と友人のためにもう一台作るわけにもいきません。

そうはいっても、もはやマロニエ君のシロウト作業では限界に近づいているというのもわかっていますが、あとやってみたいことはいくつか残っていますので、やはりそれをこれから先、やってみないことには終止符は打てないようです。

毎夜、部屋の中央に佇むスピーカーを見たらいじりたくなるけれど、同時にもう触るのもこりごりという気分になるときがあるのも事実で、もはや自分がどうしたいのか自分でわからないときもあるのが事実。
気が付いてみると、このスピーカー作りおかげで、このふた月以上というもの、ほとんどピアノも弾いていませんでした。それも当然で、これだけスピーカー作り時間を費やせばピアノなんて弾く時間はまったくないのは当たり前なわけです。

先日、久しぶりにちょっとピアノの前に座って何だったか忘れましたが弾いてみたら、驚くほど指が動かなくなっていることに我ながら愕然としました。
ま、別にそれでどうなったって構やしません。自分が愉快に過ごしていられればそれが一番ですし、このスピーカー作りはマロニエ君にとっては予想に反して、いろんな意味で貴重な体験となり、勉強になったことは紛れもない事実ですから、あれこれお試しの連続でコストも相当かかりましたが、自分にとってムダではなかったと思っています。
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魔性の音造り1

スピーカーの音造りというのは、やってみるまでは、どちらかというと繊細な作業の繰り返しかと思っていましたが、実際には結構な重労働であるのに驚かされました。通常の、いわゆる箱形のスピーカーの場合はしりませんが、少なくとも円筒形スピーカーに於いては、力勝負が続いてどうかすると全身がワナワナしてきます。

こういう作業は、ほんらいマロニエ君の趣味ではないのですが、それでもいったんやり始めると「もう少し」「あと一回だけ」というような、無性に追いつめられたような意地っ張りみたいな気分に駆られて、そこから抜けられなくなるものです。
考えてみるに、「音を作る」という行為には、大げさに言うと一種の魔性があるのかもしれません。
自分の手を下したことが微妙な音の変化としてあらわれてくるのは、これまでに体験したことのないもので、これは不満と満足、挑戦と挫折の織りなす興奮状態でもあり、不思議な魔力みたいなものがつきまといます。その後も性懲りもなく吸音材を足したり引いたり場所を変えたりと、周りからみれば呆れられるような抵抗を続けています。

とはいっても、基本的に素人のマロニエ君にはスピーカーユニットそのものに手を加えて改造するようなことはできませんから、今やっていることは要するに吸音材による音造りのセッティングと云うことになるわけですが、これがもう一度もう一度と繰り返すうちに、この作業をすでに何十回やったのか、もう自分でも遙かわかりません。

ちなみにスピーカーにおける吸音というものは、スピーカーの音や響きを決定付ける重要な項目で、なにもしない裸のスピーカーユニットは好ましくない雑音を多く排出しており、ここからいかに要らない音を取り除いて必要なクリアで美しい音だけを残すかということになるわけですが、この局面こそがスピーカー製作の醍醐味だろうと実感しています。

新たな挑戦のたびに筒からスピーカーの内部構造を引き出しては、吸音材の付け方や、素材、量、位置を変えたり、ときには重りの量の変更、そしてまた元に戻したりと、自分でも何が正しくて何が間違っているのか、まったくわからないわけです。

例えばアルミ管の内側に貼り付ける吸音材だけでも、なにも無しからスタートし、固いスポンジ状の素材、カーペット素材、オーディオでは定番のニードルフェルト、エプトシーラーという素材まで5種類試してみましたし、その量の変化を加えると試行数はさらに増えたことになります。

もちろん自分としてはやみくもにやっているわけではなく、やるからには良かれと思ってふうふう言いながら試しているわけで、そのたびに音や響きに僅かな変化が現れて、一喜一憂を繰り返します。それを聞き分ける耳も鍛えられて次第に精度を増す反面、どこか麻痺してくるようでもあり、さっきは良いと思った音が、30分もするとやはり変じゃないかというような悪循環に陥ります。

アルミ管の内側よりさらにやっかいなのは、仮想グランドという、スピーカーから伸びる1m近いボルトとナットによって構成される部分の吸音です。これも実に様々な素材を試しましたが、これだという決定打は未だありません。巻き付ける吸音材の量の違い、紐で縛るその力加減による違い、紐の材質など、まさに数学で言う順列組み合わせの世界で、まるでキリがないわけです。

ひとつ何かをやってみるには、いちいちアンプからスピーカーコードを外して、重い重量物を引っぱりだして何らかの改造をしたら、また逆の作業をせっせと経てアンプに繋ぎ、今度こそはと音を出してみます。
そしてその違いに耳を澄まし、悲喜こもごもの感想を自分なりに下して、問題点を整理し、次の作業にとりかかります。あまりに疲れるとそのまま数日間放置する、そしてまた手をつけて、もうこんな馬鹿馬鹿しいことはやってられない!やめた!という決心をするのですが、2、3日も経つと「…やっぱり、あそこをちょっと変えてみようか…」という気になってくるわけです。

まさに取り憑かれているわけで、だんだんスピーカーが疫病神のようにも思えてきますが、それでもやめられなくて次の方策を講じているのですから、音作りというものそれ自体がよほどの魅力があるというべきでしょう。あるいは自分の手で「音を作る」ということを初めてやってみて、その苦悩と魅力にすっかり魅せられているのかもしれず、これは大人のハシカみたいなものかもしれません。

ピアノの技術者さん達とはやっていることはまったく違いますけれども、どこか通じるところもあるようで、彼らの悪戦苦闘の苦しみが少しわかるというところでしょうか。

映画『ピアノマニア』でシュテファン氏が取り憑かれたようにエマールの満足する音造りを繰り返し、昼夜を厭わず、孤独に挑戦を続けている気持ちの片鱗みたいなものが、ちょっぴりわかるような気がしました。
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偏見

ネット上にはいろんな質問や相談事を受け付けるところがあり、ピアノのことも結構取り上げられています。随時さまざまな回答者が登場しては思い思いの持論を展開していて、それは読む側も楽しいものです。

面白い質問&回答がたくさんありますが、そのうちのひとつに、スタインウェイの一番小さなグランドとヤマハのSシリーズだったらどちらを目標(購入するための)にすべきかという相談がありました。

この両者、価格はかなり違っていますが、スタインウェイでは最小モデルに対して、片やヤマハのプレミアムシリーズであり、サイズでいうと中型というところで、総合的見地からどっちがいいかというわけでしょう。

多くの回答者からさまざまな書き込みがあり、それを読んでいると面白いことがたくさん書いてあるのですが、そんな中に、この手の回答でよく目にする、いかにも正論のような論調ではあるけれども、ちょっと首を捻りたくなる主張があり、それはほかでもときどき見かけるお説です。

曰く、ピアノで最も大事なことは調整の問題であって、とくに調整如何によってピアノはどうにでも変わるのであるから、従ってブランドに頼ってはいけないという、とりあえず本質を突いたかのような意見です。
管理と調整がいかに大切であるかは、むろんマロニエ君も日頃から痛感していることで、調整の巧拙はいわばピアノの生殺与奪の権を握っているといっても過言ではないと思います。

ところが、この手の質問の回答者の多くに見られる傾向は、スタインウェイではなぜか調整は悪いであろうという予断と偏見があり、そこへ「ヤマハでも丁寧に調整されたものはじゅうぶん素晴らしい」のであって、従って問題はメーカーではない!という論理を展開される片がいらっしゃいます。
さらには「調子のいいヤマハは不調のスタインウェイを凌ぐ」的な発言もみられますが、調整の良否は個々の楽器の状態にすぎず、こういう較べ方はちょっとフェアでない気がします。

不可解なのはどうして同じコンディションでの比較をしないのかということです。
大事な点はそれぞれ理想的に調整されたスタインウェイとヤマハ(機種はともかく)を比較して、果たしてどちらがよいかという話になるべきで、不調のスタインウェイを基準として、だからそれを欲しがるのは名前だけが頼りのブランド指向では?…などと言ってもナンセンスだと思うのです。

調整はどんなピアノでも例外なく必要なものであるのは論を待ちません。
それぞれのメーカーのピアノが最も理想的な調整を受けて、その持てる能力を十全に発揮できている状態で比較したときに、果たしてどちらが弾く人にとって価格を含めた総合的価値があるかという点で冷静な判断をすべきだと思います。

スタインウェイというのは圧倒的なブランド力があるためか、どうかすると必要以上に叩かれるという一面はあるように思います。たしかにマロニエ君も、いつもトップに君臨して、それが当然みたいな在り方というのは人でも物でも嫌いで、ある種の反発さえ覚えますが、それでもその実力がいかなるのものかという点はやはり固定観念や偏見抜きに、真価を正しく理解する必要が大いにあると思います。

偏見を取り払って公正な判断ができたときにようやく見えてくるものこそが個性であり好みでしょう。
それがつまりは自分との相性だと思うのですが。
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グリモーのモーツァルト

購入して一度聴いて、ピンと来るものがないままほったらかしにしてしまうCDというのは、マロニエ君の場合、決して珍しくありません。

エレーヌ・グリモー&バイエルン放送響室内管によるモーツァルトのピアノ協奏曲第19番&23番もそんな一枚でした。一聴して、そこに聞こえてくる世界に、自分の好みというか、なにか体質に合わないものがあると感じてそのままにボツになってしまっていたわけですが、たまに積み上げたCDを整理するときに、こういうCDと思いがけず再会し、せっかく買ったわけでもあるし、もったいないという気分も手伝って再びプレーヤーへ投じてみることになりました。

やはり基本的には、最初の印象と大きく変わるところはありませんが、二度目以降は多少は冷静に聴くことも可能になります。なにが自分の求めるものと違うのかというと、ひとくちに云うなら、モーツァルトには演奏が非常に「硬い」と感じる点だろうと思われます。
彼女のレパートリーにも関連があるのかもしれませんが、これらのモーツァルトの協奏曲を自由に表現するには指の分離がいまいちという印象があり、軽やかであるべき(だと思う)箇所がいかにも硬直したような感じが否めないのは最も残念な点だと思います。

グリモーの魅力は演奏のみならず、プログラミングに込められた独自の主張でもあり、ただレコード会社の命じるままに凡庸なプログラムを弾いていく平凡なピアニストとは異なります。
今回のCDでも2つの協奏曲の間にはコンサートアリアKV505「心配しないで、愛する人よ」が納められており、モイカ・エルトマンが共演しています。この作品は第23番の協奏曲と同時代に作曲されていることも選曲された理由だと思いますが、こういう組み合わせにも彼女の独自性が感じられて、そのあたりはさすがだと思わざるを得ません。
とくにこのコンサートアリアは同時期に仕上がったと思われる「フィガロの結婚」の要素が随所に見られて、この時期のモーツァルトの筆も乗りに乗っていることを感じさせる魅力的な作品ですし、ソプラノ、オーケストラ、ピアノという編成も珍しいと思います。

この曲を聴くだけでもこのCDを買った意義はあったな…と思いましたが、両協奏曲に聴くグリモーのピアノは冒頭に書いた硬さのほかに、どこかに息苦しさのようなものを抱えていて、マロニエ君としてはもう少し楽々としなやかに翼を広げるような自由とデリカシーの両立したモーツァルトを好みます。
ひとつにはグリーモーのタッチの重さと、さらには音色のコントロールがあまり得意ではないということで、いかにも固い指を必死に動かしているという印象が拭えません。
その必死さと音色の重さ(彼女はキーの深いところで音を出すピアニストのようです)がモーツァルトとは相容れないものとなり、聴いていて解放される喜びが味わえないのだと思いました。

しばしば見られるロマン派のような表情やルバートにもやや抵抗があり、とくに第23番の第二楽章などはこんなに重々しく弾くとは驚きでしたが、救いは第三楽章でみせた快速が、かろうじてそれをぎりぎりのところで洗い流してくれるようでした。

ある方の書き込みによると、レコード芸術によればグリモーはホロヴィッツとジュリーニが協演した23番を聴いて感銘を受けて、自分もブゾーニ作曲のカデンツァを弾いて録音したそうです。ところが協演のアバドがこれに難色を示して直前になってモーツァルトのカデンツァを練習して別に録音をしたとか。しかしグリモーは「どのカデンツァを選ぶかはソリストに権限があるはずだ」と譲らずに、結局アバドとの録音はお蔵入りとなったとか。
マロニエ君もグリモーの主張には全面的に賛成で、アバドともあろうマエストロがくだらない事をいうもんだと思いましたし、それに怯まないグリモーの見識と主張には脱帽です。
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ねこ

猫の里親になろうかと見学まで行ったことは書きましたが、その後、いろいろと思案した挙げ句に、とうとう一匹の猫を引き取ることになり、今月の中頃に現在の施設の責任者の方に連れられて我が家にやってきました。

背中には茶色のキジ模様、胸からお腹にかけては雪のような真っ白という、すでに9ヶ月になる雄猫で、可愛い上になかなか姿の良いイケメン君でした。
我が家の家族は、犬との生活についてはそれなりに熟知しているつもりでしたが、猫はほとんど初体験に近いので、事前には言われるままフードやトイレ、遊びのためのタワーなどをあれこれと買い揃え、ベッドは猫は段ボールが好きだということでマロニエ君が奮闘してそれらしいものを2つ(2部屋ぶん)作りました。
このところのスピーカー作りで、多少は工作にも手先が慣れてきていたこともあり、自分で言うのもなんですが、スイスイと作業は進み、アーチ型の出入口や窓をつけたりと、なかなかの寝所が出来上がりました。

決められた日の午後、小さなバッグに入れられてやってきた猫は、やおら室内に出されて初めて見る我が家を緊張気味に歩き回りますが、ただ可愛いだけでなく独特な妖しさや、ネコ科独特のしなやかな美しさがあることもわかり、今日からの生活が楽しくなりそうでした。

やはり家の中に生き物が増えるというのは、なんとなく空気が明るく活き活きとしてくるようで。思い切って里親になったことを心から喜びました。

ところが夜寝る時間になると、状況は一変します。
就寝時間にはマロニエ君の自室に連れて行くわけで、もちろんこそにもトイレもベッドも揃えているのですが、この時間帯のせいか場所のせいかはわかりませんが、ニャーニャーと絶え間なく鳴き始めて、その鳴きのエネルギーには大いに弱りました。
このブログも夜中に書くことが多いのですが、なかなかこれまでのような動きが取れず、もっぱら猫の御機嫌取りに多くの時間を費やしました。とりわけ初日は猫にとっても環境が激変したわけでおとなしくできないのも仕方がないと思い、徹底的に遊んでやりました。

その後も日中の生活は日を追う毎に慣れてきてくれましたし、大半がベッドや椅子の上などで寝て過ごしていましたが、夜になると俄然目は輝きを増し、絶え間なくニャーニャーと鳴き出すというパターンになり、さらにはあれこれと思いもよらぬ悪さをするようにまでなり、次第に片時も目を離せないという状況に追い込まれていきました。

マロニエ君もともと自分が夜行性であることを自負していましたが、猫のそれは次元の違うスーパー夜行性で、とてもかないませんし、まるでこちらに挑戦するかのように激しく荒々しく叫き散らします。
またマロニエ君の部屋にはCDなど多くのものが積み上がっていますが、どんなところへも軽くジャンプして好きなようにしなくては気が済まないらしいということもわかりました。

動物のすることなので大概のことならガマンするのですが、中にはどうしてもそれだけは困るというものもあるわけですが、そんなことは一切お構いなし。鳴き声にもときどきやけくそ気味の叫ぶようなトーンが混ざってきたりで、その騒ぎかたときたら、とても自分の時間を持つとか、果ては就寝するというようなことがほとんどできない次元にまで達しました。

それでも数日すれば慣れてくるはずという一縷の望みをもって頑張りましたが、猫の夜中の荒々しさは日増しに酷くなるばかりで、それが4時間でも6時間でも延々と続くのですから参りました。こんなことを続けていたらこっちがおかしくなるという危惧も、この頃には頭をよぎるようになりました。
まさにそんなタイミングで、施設の方から様子を尋ねるメールが届いていましたので、まったく情けない気もしましたがとりあえず現在の窮状を包み隠さず伝えました。

話が前後しますが、この施設の責任者の女性の方というのが非常に立派な素晴らしい方で、猫を連れてこられたときから感じていたのですが、その方が翌日の朝一番に電話をくださり、それではこちらの生活が心配だからと大いに心配され、話し合いの結果、甚だ不本意ではありましたが結局その猫はお返しすることになりました。
マロニエ君も自分の不甲斐なさを恥じましたが、そのための「お試し期間」なんだからと頼もしく言っていただき、距離を厭わず、すみやかに迎えに来てくださり、お昼過ぎには来宅されました。てきぱきと快く対応され、その猫はまたバッグに入れられて我が家を去っていきました。
車でしたので、フードやタワー、ベッドなどはそっくり猫にプレゼントしました。

わずか4泊5日の生活でしたけれども、夜中以外は非常によくなついてくれていたし、本当に可愛く思っていたので、彼がいなくなった家の中はまるで気が抜けたようで、しばらくはあふれ出る涙をどうにも押さえることができませんでした。
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演奏も演技化

近ごろの演奏を聴いていてしばしば感じること。
それは、技術的にはとても上手いのに要するに演奏の根本であるところの音楽的魅力がなく、つまらないと感じてしまうことは多くの人が経験しておられることと思います。

理由はマロニエ君なりにいくつか考えましたが、ひとつは台本通りに仕組まれ、その通りに進行する演奏であるということではないかと思います。音数の少ない静かな箇所は極力それを強調し、技術的に難しいところは敢えて通常のテンポ以上のスピードで走って見せて高度なメカニックを披露し、さらには楽譜に忠実であることで決して独善的ではない、アカデミックな解釈と勉強もぬかりはなく、トレンドにも長けている。

さらには曲の要所要所では聴衆が期待するであろう通りにテンションを上げ、終盤ではいかにも感動を誘うような音の洪水となってどうだとばかりに締めくくります。
でも、人の感性は敏感です。
仕組まれたものと自然発生したものの違いは、演奏家達が思っている以上に聴いている方というのはわかるのであって、むしろそれに疎いのは演奏者のほうだと思います。
演奏者が真から作品のメッセージを汲み取り、さまざまな経路を辿ることで必然的な表現となり、納得の終わりを迎えているかどうかということは、かなり見透かされていると思うべきでしょう。

政治家でも芸能人でもそうでしょうが、100%ということはないにしても、あるていど心からそう思い信じてしゃべっていることと、台本通りに建前をしゃべっているのとでは、どんなに意志的に抑揚をつけても超えがたい一線というか違いがあります。
超一流の役者ならいざしらず、普通はどんなにそれっぽく演技をしても、やはり本人が本当にそう思っていないものは表に出てしまうし、ましてや役者でなく、音楽や美術のようなその人の内奥からの表現そのものが芸術として成立する世界は、存在理由そのものにもかかわる重大問題です。

絵の世界でも、ここ最近は、誰からも文句の出ない、わっと人が喜びそうな要素を熟知した上で制作に取りかかる作家というものが少なくありません。見ればなるほど良くできているし、たしかに一見きれいですが、見る人の心に何かが残るような真実はそこにはありません。

そういう意味ではマロニエ君は最近、古い演奏も良く聴くようになりました。
だからといって声を大にして云っておきたいことは、マロニエ君ばべつに新しい演奏の否定論者ではなく、懐古趣味でもありません。現代の演奏は上手いし洗練されていて録音はいいし、その点では昔の演奏は朴訥でどうかすると聞くに堪えないものがあるのも事実です。

それでも、昔の演奏の中に見出す素晴らしさは、とにかく自分がこうだと思ったこと、感じたこと、つまり自分の感性に対して正直だということではないかと思いますし、それが出来た時代だったというべきかもしれません。つねにレコードやチケットの売り上げやライバルの動向、評論家ウケを念頭において、無傷で度胸のない演奏をするのではなく、新しい解釈の基軸などにあくせくすることなく、素直に大らかに演奏しているその個性的な演奏に心を打たれることが少なくありません。
聴衆も演奏家を信じていましたし、それに演奏家も応えていた幸福な時代でした。

音楽を聴くときぐらい、演奏家の真意を信じたいものです。
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メールのご紹介

ベーゼンドルファーに携わるヤマハの方から下記のようなメールをいただきました。
ヤマハ自身がピアノの製作会社であるにもかかわらず、この老舗の親会社となってからも、ウィーンの名器の伝統工法と志は大切に受け継がれているようで、さらにはヤマハの社員の方まで、こうしてベーゼンドルファーを熱愛していらっしゃることは、このメーカーの最も幸せで偉大なところだと思われます。

ぜひともこのブログでもご紹介したく、ご当人様の了解を得ましたので下記の通りその文面を掲載致します。この方は現在ウィーンに来ておられる由、ウィーンからのメールとなりました。
個人名のみ控えますが、それ以外は、改行なども一切手を加えず「オリジナル」のままお届け致します。

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突然にメイルを差し上げて失礼します。 時にこのブログを拝見し、
内容の濃さにいつも感心しております。 

私はヤマハに勤務するものですが、2008年初めよりベーゼンドルファーに
関わっております。 当初、ヤマハが経営することに、ベーゼンドルファーが
変わってしまうのではと、多くの方が心配されました。 

しかし、自信を持って言えることは、ベーゼンドルファーの独特な音色を
維持することを第一義に考え、現在も開発から製造まで
オーストリアのベーゼンドルファー本社で全てを執り行っていることです。
逆に言えば、ヤマハの一番恐れることは、ベーゼンドルファーの
性格が変わってしまうことです。 此れからもウィーンの至宝と呼ばれる
ベーゼンドルファーを、しっかり守って行きたく存じます。

お書きになったようにインペリアルは100年以上の歴史を持つモデルですが、
これ以外にも現行モデルの中、170/200/225も100年以上も
継続して生産しています。

今年発表した155も基本的な構造は、伝統的なベーゼンドルファーの
製造方法を踏襲しております。 例えば支柱の構造や材質、
側板の組立て方や材質、アクション、鍵盤など。 尚、鍵盤やアクションは
170と同じであり、サイズから来る演奏性を犠牲にしていません。

また、肝心な音は小型ピアノとは思えない豊かなものになりました。
これは製造方法が他の大きなモデルと同様なため、当たり前のことかも
しれませんが。 

こんな風に書きますと自慢話になってしまい恐縮です。 ただ、
ベーゼンドルファーの独特な音色に魅かれると、仕事を離れても
つい声が大きくなってしまいます。 

残念ながら、九州にベーゼンドルファー特約店が無く、試弾して頂く
機会が少ないかと思います。 ただ、八女市オリナス八女ホールに
ベーゼンドルファー280が昨年納品されました。 それ以来、八女市では
ベーゼンドルファーを大変愛して下さり、これはとても嬉しく思っております。

勝手にベーゼンドルファーのことばかり書いてしまいましたこと、
どうぞお許し下さい。 東京にお越しならば、是非声を掛けて下さい。
中野坂上のショー・ルームをご案内したく存じます。 また、
ベーゼンドルファーに関してご意見があれば、どうぞお聞かせ下さい。

宜しくお願い申し上げます。
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猫の館

車を一時間近く走らせて到着した猫カフェは、まるで一般の住宅と喫茶店の中間のような印象で、中に入ると、まず普通の喫茶店と違うのが、はじめに手を石鹸で洗わなくてはいけないことでした。
それから猫と接する際のもろもろの注意を聞き、滞在時間を決めて、いよいよ猫達のいるスペースへ移動します。

中に入ると、あちこちで自由気ままに遊んでいた猫達が我々に気付いて、一斉にこっちにやってきます。とはいってもそれは犬のようなストレートな大歓迎とは違い、あくまでも猫らしく、一定の距離感を保ちつつ侵入者をちょっと「見に来る」という感じでした。

マロニエ君の目はまずは当然サムライ猫を探しました。
すると、決して前には出てこないものの、たしかに彼はその一隅に居て、なるほど他の猫達とは趣が全く異なっているのが一目でわかりました。あくまでも自分なりの距離を取っているし、その後はほとんどこっちに自分から出てこようとはしませんでした。
マロニエ君も何度か接近を試みましたが、聞きしに勝る警戒感の強さで、これはちょっと手強いというのが率直な印象でした。お店の人さえ「なかなか抱かせてもらえない」というのも頷けます。

それにしてもその部屋には至るところに猫、猫、猫がいて、それぞれに個性があり、性別も、色も、体つきも、性格もさまざまで、あれこれ見ているだけでも興味は尽きません。
自分から人に寄ってくる猫がいるかと思うと、まったく何の関心も示さない猫がいるし、せわしく移動を続ける猫がいるかと思うと、ひとところに陣取って微動だにしない貫禄充分な猫もいます。

たしかにマロニエ君はサムライ猫の写真に見る風格みたいなものに惹きつけられていましたけれども、こうして大勢の猫達を見て触ってみると、ほんとうにさまざまで、ことさらサムライ猫にこだわる必要のないこともやがてわかってきました。
月並みな言い方ですが、本当にどれもかわいいです。
ビビリモードだった友人もあにはからんや、すっかりくつろいで猫達と遊んでいます。

はじめの10分ないし15分ぐらいはどの猫ということもなしに、ともかくこの非日常の猫まみれの世界にどっぷり浸かりきり、ただ圧倒されていましたが、後半はだんだんそれぞれの猫を覚えて、識別できるようになります。

そうなると自然に自分と合いそうな猫と、そうではない猫に大別されてきます。
これは…と思える猫はすぐに3〜4匹だとわかりました。
この時点でサムライ猫はもうその中には入っていませんでした。彼の魅力はたしかに他に代えがたいものがあることは最後まで変わりませんでしたが、このひとくせもふたくせもある尋常ならざる特別な猫を飼い慣らせる人はそうざらにはいないでしょうし、ましてやマロニエ君のような猫の初心者が到底手に負えるものではないことは肌で感じてわかりました。
「10年早いよ」と表情でいわれているでした。

途中から、さらに女性が二人あらわれて、それぞれに猫と遊んでいましたが、そのうちの若い女性などはある猫とよほどの懇ろのようで、もはや一心同体という趣でソファにもたれかかり、なにをするでもなしに、ただ黙って猫との触れ合いを噛みしめ、瞑想でもしているようでした。

こういう濃密だけれども抽象的な空気感というのは、犬にはない猫だけのものだなあとすっかり感心させられました。約束の1時間はたちまち過ぎて、ひとまずこの日は退散しました。
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サムライ猫

猫の里親になろうかという考えは、以前に綴ったような経緯もあって、自分としてはいったん心の奥底にしまい込んだつもりだったのですが、やはりどんな理屈をつけてみても、気になるものは気になるわけで、その後も思いつくままにホームページをチラチラと「流し見」したりしていました。

するとその中に、なんともマロニエ君好みの、凛とした高貴な表情が見る者を引き寄せる、濃いグレー系の身体をした雄猫が目に止まりました。保護されてすでに3ヶ月も経つというのに、いまだに人や環境と馴れ合うことをせず、施設でもいわゆる一匹狼を通している由でした。
現在の保護者でさえ、めったなことでは抱っこすることも難しく、人を頑として拒んでいるそうで、よほど苛酷な目に遭ってきたものか、はたまた生来の孤独なサムライ気質の猫殿というわけでしょう。

以前の電話で「写真が可愛かったから連絡されたのですか?」という、まったく頓狂な質問をされて憤慨したばかりでしたが、今回も甚だ不本意ながら、一枚の写真に魅せられてその猫のことが気にかかり始めました。
マロニエ君はとくだん面食いという訳ではありませんし、ましてや人や動物の美醜だけを追いかけ回すつもりは毛頭ありませんが、それはそうなのですが、自分にとっての判断基準として、やはり視覚的要素というものはかなりの要素を占めることもまた事実で、やはりここを疎かに出来ないことも確かです。

ま、そんなくだくだしい言い訳をしても始まりませんが、とにかく、ひと目そのサムライ猫が見てみたくなって、ついには、その施設へ赴く次第と相成りました。
自宅からは結構な距離もあるようでしたが、まあ半分はドライブのつもり行ってみることに。そこは一応予約をして行くことがルールのようになっているので、いちおう電話して大まかな到着時刻だけを伝えると、あっけなく希望する夕刻の時間帯が確保できたので、これはもう行くしかありません。
ちょっと不安もあるし、一人で舞い上がってもいけないので友人に同行してもらいました。

HPによれば、ここにはもう一匹気にかかるのがいて、こちらはひたすらキュートなタイプの猫で、まだ生まれて3ヶ月なんですが、これはこれでたいそう気に入っていたのですが、こっちはすでに里親が決まってしまった由、やはりなんらかの魅力ある猫であればあるだけ、嫁ぎ先も決っていくということが実感されました。

ちなみにそのサムライ猫は、その人を寄せ付けないサムライ気質である故か、まだ施設にいるとのことで安心といえば語弊がありますが、ともかく目的とする猫には会えるということが確認でき、週末の夕方で混み合う街中を車を走らせました。むろんサムライ猫に限らず、そこには相当数の猫がいるようなので、多くの猫達に囲まれるというのもひじょうに楽しみではありましたが、同行する友人はよくよく聞いてみるとそういう経験のないとのことで、まもなく到着という段階になってはやくもビビリモードになっています。

昔は知らないところへ行くのは、マロニエ君は生まれつき方向感覚などは悪くはなかったのでそれほどの苦労はしないながらも、やはり地図を広げて下調べなどが必要でしたが、今はカーナビのお陰でどんなに見知らぬ場所へ行くにも、エンジン始動後にパッパッと情報を打ち込むだけで、いっさい迷う事無く、至ってスムーズに目的地を目指せるのはいまさらながら便利になったと痛感する瞬間です。

果たして到着したところは全く馴染みのない、これまでに一度も足を踏み入れたことのないエリアの住宅街で、カーナビも最終的なルート案内を終えようとしている頃、HPで見覚えのある特徴的な建物が暮れなずむ目の前に現れました。
どんな猫達がいるのやら…。
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吸音の素材

筒型スピーカーは、構造そのものでいうと至ってシンプルです。
塩ビ、硬質パルプ、アクリル、アルミなどから管の素材を選び、直径が10cm前後、長さ1mほどの管を垂直に立てて、その上に直径わずか8cmの小さなフルレンジスピーカーを取りつけというもの。

ただし、そのフルレンジスピーカーの背後には「仮想グランド」という名の仕掛けがあり、大半の人は寸切りボルトという建築資材や小さめの鉄アレイなどを流用し、いろんな工夫の上にこれを取り付けて管の中にこの一式を忍ばせます。これだけでも相当の重さがあるのですが、さらに重量を増すためにここへ大きなナットをいくつもとりつけることで音や響きの骨格をつくっていくようです。

それにしても直径わずか8cmのスピーカーというものは、普通のスピーカーを見慣れた目には、ほとんど冗談としか思えないほど小さく、ツイーター(高音用スピーカー)のようにしか見えないような心もとないサイズです。ところが、上述の仮想グランドなどと組み合わせることによって、これがズッシリとした低音からきらめく高音まで、文字通りのフルレンジを賄うスピーカーとしてその能力を遺憾なく発揮することにことになるのですから、まずこの点に驚かされます。

もし本当に、こんな小さなスピーカーひとつで事足りるのなら、これまでいろいろと目にしてきた、あの東西の横綱が鎮座したような高級家具調のあれは何だったのだろうかとも思います。

さて、構造は簡単でも、問題の音造りともなると、これはとても容易なことではありません。
音や響きのために様々な試行錯誤に着手するわけですが、なにぶんにもこちらは素人で何の知識も経験もないときているのですから、いかにも無謀な挑戦というわけです。
本当にオーディオに詳しい人はスピーカーユニットでまで手を加えてあれこれの特性を引き出したり、逆に封じ込めたりするようですが、マロニエ君などはとても手の及ぶ事ではないので、とりあえず管の中の吸音対策がチューニング作業のメインとなります。

今回マロニエ君が使用するのはアルミ管であることは何度か書きましたが、このアルミ管には特殊な加工などを施さない限り、アルミ独特の鳴きというのがあるらしく、それははじめの段階で自分の耳でもイヤというほど確認し、まずはこれを押さえ込むことから始めなくてはいけないことを痛感します。

ところがネット情報によると、このあたりも作る人の考えに左右され、中にはまったく吸音無しで音を作っていくという猛者もいるようですし、吸音するにしてもその素材は、何種類かの定番素材はあるものの、これが絶対というのものはないようです。
これがマロニエ君の場合の悲劇の始まりで、まずはこの管の内側の吸音材を何にするかで、3日に一度はホームセンターに通い、あれこれの素材を買ってきては試すことになりました。

驚くべきは、管の内側の吸音材を貼ると劇的に音が変わり、しかもそれは一気に音楽的なものへと近づいてみたりするので、そうなるとこちらの作業熱も俄然ヒートアップしてきます。
ところが、しばらくすると良くなったはずの音に疑問が出てきます。より詳しくいうなら、耳が鍛えられて、そこに含まれる欠点が聞こえるようになってくるといったほうが正確かもしれません。

そうなると、とてもそれでは満足できなくなり、せっかく取りつけた吸音材を惜しげもなく全部取っ払って、また別のものに交換するという、初心者のクセに分相応の満足を知らぬマニアックな世界に突入するわけです。
こうなるとコストも度外視とは云わないまでも、ムダにつぐムダの連続です。

あとになって袋一杯捨ててしまったフェルトの山を、やっぱり取っておけばよかったなんて何度も思いましたが、これが開発コストというものだ!などと自分を納得させているところです。
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やっぱり土台が

スピーカー作りをやっていてあぁ羨ましいと感じるのは、多くのピアノ技術者さんは自宅の他に作業のための工房をもっておられて、あんな作業場があれば一連の作業もはるかに効率的で楽しいものになっただろうと思われることです。

マロニエ君宅には幸いにも、わりに恵まれたシャッター付きのガレージがあるので、当初はそこを作業場にしようかと考えたのですが、当然車の出入りがあることと、スピーカーはいちいち音を出しては変化の具合とか、ちょっとした事を音で確認しなくてはいけないので、これが深夜に及ぶとさすがに近所迷惑になってもいけないということで、まずこの点が最も心配されました。

さらには、マロニエ君は、普段は超ナマケ者のくせして、いったんやるとなると行動が集中型で、思い立ったらいつでもすぐに着手しなくちゃ気が済まないという性格でもあるため、そんなときいちいち離れたガレージに行く煩わしさを考えると、やはりボツになり、結局2台のピアノの足元で、まわりがどんなに散らかって足の踏み場もなくなろうとも、この場でやるしかないという結論に達しました。

いまさらですが、何回見ても、台座のカットの不様さは気にかかりますが、まあこれは覚悟を決めて潔く諦めるより仕方がないようです。そう結論づけて諦めているはずなのに、またそこが目に入って気になってくるから、やっぱり覚悟が決まっていないということですが、まあここはよほどスピーカーが奇跡的に上手くいったときにはもう一度、別の方法で作り直すということも可能ですから、とりあえずそこは考えないということにします。

いや、考えないことに決していることを、見るたびに思い出してはまたそっちのことに思い悩むのですから、つくづくと自分の性格は、形やディテール、すなわち枝葉末節のことが気になってそこに拘るという、まことに損な性分なんだと思いますね、自分でも。
そういう意味ではつくづくとマロニエ君は日本人的で、細かいことが美しく出来上がっていないと、そのあとに続くべき意欲そのものを喪失してしまいます。

もうずいぶん前のことですが、ある田舎の演奏家の方で、なにをやらせても大雑把で仕事の粗い女性がいました。あるとき何かの必要があって彼女から荷物が届いたのですが、届いた梱包の雑で汚いことと云ったらひっくり返るほどで、ほとんど感動すらおぼえて家族総出でしみじみと「観賞」しましたが、ご当人は、中身が届けばいいというわけで至って平気な様子でした。

マロニエ君には逆立ちしてもできないことで、間違ってもあんな風になりたいとは思いませんが、それでもご当人にしてみれば、そこそこ楽しく、明るく、健康的で原始的な、それなりに充実した人生を送っていらっしゃるのかもしれません。
つまるところ、人間の幸福というものは本人の心の中にあるわけで要は「認識」の問題なのですから、皮肉を込めて云えば羨ましい限りです。

その逆のスタイルで思い出すのは、マロニエ君のピアノ調整で今もお世話になっている方ですが、あまりにも鋭い、専門的な、ほとんどマシンのような耳をお持ちであるがために、音楽は嫌いじゃないのにコンサートもダメ、CDなどはどれを聴いてもその劣悪な音質に耐えられずに「買わない聴かない」というお気の毒な状態です。仕方がないので敢えて別ジャンルの観賞などに心を通わせていらっしゃるようです。

その点では、何事もそこそこの価値を理解して、深入りせず楽しんで、享楽的に過ごせればそれに越したことはないのかもしれませんが、まあそれは一般凡人の話であって、そこそこの範疇を突き破ったところへ出現するのが芸術家ですから、彼らに「そこそこ」は逆に危険エリアということになるでしょう。

さて、件のスピーカー作りは、できれば身の程もわきまえず、そこそこを多少ははみ出したものにしたいところですが、そう上手くいきますかどうか…。
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調整が目指すもの

連日におよぶスピーカー作りを一休みして、週末は再び知人のスタインウェイの調整を見学させてもらいました。
このピアノは、もともと大変素晴らしい楽器なのですが、オーナーがこのピアノにかける期待にはキリがないご様子で、さらに上を目指して素晴らしいピアノにしたいというその熱意はたいへんなものがあり、より高度な調整を求めていらっしゃるようです。

前回と同じピアノ技術者さんで、この日はやはり各所の調整や針刺し、とくに弦の鳴りをよりよくするための作業などが進められましたが、技術者さんが仰るには、やり出すと調整の余地はまだまだ大いにあるのだそうで、今後(果たしていつまでかわかりませんが)を楽しみにして欲しいというものでした。

確か前回が8時間ほど、今回も5時間ほどが作業に費やされましたが、ピアノの調整というのは精妙を極め、しかも部品点数が多いということもあってなにかと時間がかかるし、明快な答えがあるわけでもないため、これで終わりということのない無限の世界だということを再認識させられました。

とりあえずこの日の作業終了後にマロニエ君も少し触らせてもらいましたが、その変化には一瞬面食らうほどで、たしかに音には芯と色艶が出ているし、以前よりもたくましさみたいなものが前に出てきたように思います。さらにはよりダイナミックレンジの大きな演奏表現をした場合に、ピアノが無理なくついてくるという点でも、音の出方の限界を後方へ押しやったのだろうと思われます。

しかし、楽器というものが極めてデリケートで難しいところは、以前このピアノがもっていたある種のまとまり感みたいなものもあったように思い出され、あれはあれでよかったなぁ…なんてことを感じなくもありませんでした。
ピアノも云ってみれば一台ずつに「人格」があり、そこにいろいろな個性がうごめいているのだと思います。生まれながらに持った性格もあれば、あとから技術者によって意図的与えられる性格もあるでしょう。

たしかに、基本的なところから正しい調整がされることは非常に大切で、変なクセのあるピアノだったら一度ご破算といいますか、一旦リセットされたようになる場合も多く、とりあえず楽器としての健康な土台みたいなものが新しく打ち立てられるというのは、作業の流れとして順当なところだろうと思います。

しかし、それ以前にあった、そこはかとないやさしみや味わいみたいなものはひとまず洗い流されてしまって、ちょっと残念さも残ったりと、このあたりが人の主観や印象の難しいところです。しかし、新たに鍛え直されて健康なたくましさが出てきたことはやはり歓迎すべきで、弦の鳴りから細かく調整されたことで、さらにサイズを上回るパワーが出たのも事実でしょう。

ただし発音が溌剌とはしているけれど、どんなときでも背筋を伸ばして、正しい発声法で一直線に歌っている人のようで、マロニエ君はそこにもう少し陰翳があるほうを好む気がします。
音色そのものはいじっていないので同じ方向の音にあるといわれますが、総体としてのピアノと見た場合、後述する要素を含めて前とはあきらかに別物に変化してしまったというのがマロニエ君の印象です。

もともとよく鳴っていたピアノでしたから、それがさらにパワフルに鳴るようになることは技術者サイドで見れば順調かつ正常な進化なんだろうとは思いますが、弾く側にしてみると、心に触れる「何か」を残しておいてほしいのも事実かもしれません。

また、別物に変化したというもうひとつの大きな要因は、タッチがぐんと重くなったことと、音の立ち上がりを良くしたとのことでしたが、それはたしかに体感できたものの、タッチコントロールがかなり難しくなってしまったことも小さくない驚きでした。
このピアノには比較的大きめのハンマーが付いているようで、重いのはそのためだと云う説明でしたが、もしかすると以前の調整はそのあたりも含めて絶妙の調整(メーカーの設定とは違っていたにしても)がされてたということかもしれません。

このピアノの以前の状態が良くも悪くも職人の感性も含んだセッティングであったのか…そのあたりはマロニエ君のような素人にはわかるはずもありませんが、ただ、あれはあれでひとつの好ましいバランスがあったというのはおぼろげな印象としてのこりました。要するにそれなりの帳尻は合っていたと云うことでしょうか。

ひとつの事に手を付け始めると、そこから全体がドミノ倒しのように変わっていく(変えざるを得ない)のはピアノ調整で日常的にあることです。このあたりは技術者さんの考え方や作業方針にもよるし、弾く人の好みの問題もあり、ひじょうに判断の難しい点だと思いますね。
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正論の陰で

猫の里親の件では、なんだかまったく予想だにしなかった奇妙なものに触れてしまったようで、そのついでにこっちの気分も一度リセットする気になっています。

あまり書いてもどうかと思いますが、ネタついでということで今回まで。
あの手の人達はマロニエ君の最も苦手とするタイプのひとつで、前後左右のことも考えず、ただ目の前の正論を振りかざして、リアリティのないことを上から目線で訴えることに自ら酔いしれているような気がします。

以前も、さもありなんと思ったのは、敢えて名前は書きませんが一時期「朝まで生テレビ」などで舌鋒鋭く正論をまくし立てては、並み居る論客達をメッタ切りにしていた若き才媛が、その主張とはまったく裏腹な実生活を週刊誌にすっぱ抜かれたことがありました。

しかも、そこにはたしかな根拠もあった由で、それを裏書きするごとくアッという間にメディアから消えていきました。
討論の席上ではずいぶんと鋭い調子で日々変化する社会問題に真っ向から向き合っているというようなコメントの連発で、当時の政治家の体たらくから女性問題まで容赦なく弁じていましたが、そんな働く女性の理想的代表みたいな人が、実生活ではごく常識的なゴミの分別さえもせず、たびたびマンションの管理人や町内から注意を受けいたとか。それでも一切自分の態度は改めることなく、その一帯では悪い意味での有名人だったという話でした。

これに限らず、だいたい市民運動とかボランティアといったものに手を染めている人の中に、この手合いが数多く棲息しているという確率が高いように思います。もちろん、そうではない善良誠実な活動家がいらっしゃるのは無論ですがまさに玉石混淆。
高齢化社会に伴う老人介護の問題などにも積極的に取り組み、日夜講演やなにかで毎日ほとんど自宅にもいないような女性が、実は最も身近で現実的な自分自身の年老いた親をほったらかしにしているとか、子供の教育や虐待問題に取り組む専門家とやらが、自分の子供には毎日のようにインスタントラーメンを自分で作らせて食べさせているようなことをしながら、大舞台ではしっかりギャラを取って「子供にとって最も必要なものは親の愛情で、子供は親を選ぶことができません!」などという話を演壇からしているのだそうですから、世の中そんなものだといってしまえばそれまでですが、やっぱり呆然とさせられるのも事実です。

この猫の里親斡旋の女性がどんな方かは知る由もありませんが、言っていることを鵜呑みにすれば、生活はほとんど猫様中心で、猫さえ元気に恙なく生活できればその他のことは人間がどれだけ負担を強いられても当然で、それくらいの覚悟がなければ動物なんて飼う資格はないといわんばかりでした。

この方の話を聞きながら思い出したのは、江戸時代の悪政のひとつとして有名な『生類憐れみの令』で、心ない人がペットを簡単に捨てたり殺処分するというおぞましい現実があるかと思うと、その逆にこのような極端ともいえる御犬様感覚が正論として闊歩しているのは、いずれの場合もバランス感覚の欠如が問題ではないかと思われます。

人間が救いがたいのは、自分が正しいことをしている・言っていると頑なに思い込んでいる、その瞬間ではないかと思います。こんな人が、果たして自分の子供をどんな育て方をし、どれほどご立派な家庭生活を構築していらっしゃるのかと、ちょっと意地悪く想像していまいます。
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続・里親になるには

電話の向こうの女性は、話し方はえらくドライですが、こちらのこととなると何の躊躇もなく矢継ぎ早に質問され、それは今どきの個人情報とかプライバシーに対して過剰なぐらい相手に気を遣う、当節の慣習からかけ離れたような大胆さで、ズカズカと踏み込んで来られるようでした。

家は一軒家か、現在の家族構成から、家を留守にする時間や頻度、さらには家族全員の年齢もこまかく聞かれて、その挙げ句に私の親(今は元気にしていますが)に対し、その方よりも猫のほうが長生きをする可能性がありますから、先におうちの方が亡くなられたときの対策も考えておくべきだと言われたときは、そのあまりの無礼さに、人と動物のどちらが大切なのかと思い、不快感で全身じっとりと汗がにじむようでした。
こういう発言はあきらかに動物愛護の精神を逸脱した、人の道義を踏みにじるものだと思いました。

ついマロニエ君も、そんなことを言い出すなら、人は誰しも生身であるわけで、私もいつ交通事故で死ぬかもわからないでしょうというというと、「そうなんです。ですからそういうときのためのネットワークを構築するわけです!」と一瞬もひるみません。
同様の理由から、一人暮らしの人間は動物の里親にはなれないことになっているという論旨には開いた口がふさがりませんでした。たかだか(といっては悪いかもしれませんが)猫一匹を飼うのにも、今どきは独り者(マロニエ君は一人暮らしではありませんが)ではその資格さえないというのでは、これはもう立派な差別に当たるのではないかとさえ思いましたね。

今どきの通俗的な言い方をするなら、一人暮らしでも、責任をもってきちんと愛情深い動物のお世話をされる人もいらっしゃるわけで、現にマロニエ君はそのような人を知っています。しかし、こういう人達の物差しで見るなら、一人で健気に子育てをしているシングルマザーなんか、即親権剥奪ものでしょうね。

さらに続きます。「ご近所にご家族はお住まいですか?」といわれ、今どき田舎でもなしそんな人はいないというと、もしも飼い主が病気で入院などをした際に、猫ちゃんの世話をするための連絡先を「私達が把握しておく」というのです。
そんなことは飼い主たるものの責任で解決するのが当たり前であって、なにかというと、いちいち元の保護者およびその一派が介入してくる事ではないと思います。それ以外にも、室内飼いをすることを確約すること、網戸には必ずストッパーを付けることが条件、さらには頻繁に猫の状態を保護者に報告する事、などなど。
アナタ、一体に何様ですか?という気分でした。

一週間のトライアル(猫とのお試し生活)を経て、向こうが求めるすべての要件をクリアし、晴れて里親として「認められた」ときに、いよいよ書類を取り交わし、そこに署名(法的に有効なものかどうかはしりませんけど)をさせられ、さらにあれこれの事細かな約束をさせられるようです。

たしかに動物の命は大切です。努々好い加減な気持ちで飼ってはいけないことは重々承知ですし、世の中には心ない飼い主がいることも事実でしょう。でも、それはそんな女性から上から目線で云われなくてもマロニエ君のほうがよほほど承知しているという自信もあります。
言っていることはえらく大上段に構えて正論めいていますけれども、率直にいうなら殺処分されかねないその猫たちを引き取って愛情をもって育てましょうというこちら側の意向あってのことなのですから、少なくとも新しい里親になろうという人に対しては、もう少し普通に人間としての品格をもって接するべきだと思いました。

そんなに猫の生活や飼い主の心得が大事なら、ペットショップの店頭にでも行って、見に来たお客さんすべてにそれらの考えを伝達して、動物を飼う際の20年先までの飼い主の健康および環境の保証、万一に備えたネットワークまで必要だという心得を諄々と講義したらいいと思います。

しかも驚くことに、電話を切って30分もしないうちに同じ人から電話があり、保護者に連絡したところ先に話を進めている相手がいて決まりそうとのこと。それならば仕方がないというものですが、「それとは別にいま、早良区に急遽里親さんを探している人がいらっしゃるので、よかったらその方をすぐにご紹介したいのですが?」という、これまた一方的な申し出がありました。
もちろん写真の一枚もない言葉だけの急な話で、なんの判断材料もないまま電話口で返答を迫られても返事など出来るはずもなく、言下にお断りしたのはいうまでもありません。すると「じゃあ、○○さんは、さっきの猫ちゃんはネットを見て写真が可愛いから連絡をされたんですか?」と切り返してきたのには本当に驚きました。
あまりにも呆れたので、はっきりと「そうです。可愛いというだけではなく、全体の雰囲気なども自分の好みだと感じたからです。」といいましたが、「ああ、そうなんですね…」でおわりました。
全体的に立派なことを言われますが、一皮剥けばえらく勝手で一方的だなぁ…という印象しか残りませんでした。

だいたいこういう人は、自分達こそは正しいことをしているという勘違いと思い上がりがあるということを嫌というほど感じました。いわゆる市民運動家などもそうですが、この手の人達は正論を錦の御旗にして、人には上から偉そうにお説教しますが、自分のことになるとあきれるほど勝手でだらしがなく、押し付けがましく自己中なのががほとんどです。

そんな彼らに行き先をいいように差配される猫たちのほうがよほど気の毒というものです。
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里親になるには

マロニエ君は、自分がこの世に生まれたその日から、家には大型犬がいたほど動物には親しんで暮らしてきました。といっても大半は犬ばかりで、人生のあらゆるシーンにはさまざまな犬達と暮らしてきた深い思い出があり、最後に飼ったのがひときわ愛情深く賢いラブラドールレトリーバーでした。

その死があまりに強いショックとなり、それ以来、もう当分はペットは飼わないことに家族で結論が出るほどどその喪失感は大きなものでしたが、それから早5年が経ち、生活の中に動物がいないのは、やはりあまりにも不自然な気がしてきたのです。

夜、寝床などにはいると、無性に犬と遊びたくなってそれで寝付けないような日も出てくるまでになりましたが、そうはいっても、犬は何かと手がかかるのはまぎれもない事実です。それでも小型犬は我が家の好みではないので犬を飼うなら必然的に大型犬ということになり、それはやはり現実的にどう考えてみても現状では無理というのが偽らざるところ。

そこで比較的手のかからないとされる猫を飼ってみようかという、マロニエ君にしてみれば小躍りしたくなるような流れになり、もともと血統やブランドなんかはどうでもいいので、里親探しのサイトを覗いてみることにしました。福岡限定でもかなりたくさんあるのには驚かされました。

見ているといろいろいるもんです。
その中の一匹が気に入ったので、ログインしてさっそく相手と連絡を取りました。
もちろんマロニエ君がこの手のサイトを利用するのは初めてですから、なにかにつけて不慣れなことばかりです。

気が付くと、ほとんど見落として当然みたいな場所へメールが来ていて、それによるといきなり何時何分に電話をして欲しいということが書かれていました。すでに数時間が過ぎていましたがとにかく電話してみると、電話口に出てきた女性は、いかにも今風な乾いた感じの話し方で会話もなかなか続きません。それでも全体としての「流れ」の説明をなんとかはじめました。

まず意外だったことは、現在猫のいる場所が北九州市なのですが、まずこちらからその猫に会いに出かけて行かなくてはならず、それは当然としても、そこで相性やらなにやらを保護者(現在の猫の所有者でこれから人に譲渡しようと云う人)の人からこちらが里親として適任か否か「審査」された挙げ句、お眼鏡に適えば晴れて「合格」とみなされるようです。
じゃあそれで終わりかと思うとそうではなく、その次は、我が家に場所を変えて「トライアル」という一週間の猫との共同生活お試し期間が始まるとのことでした。

その際には、必ず現在の保護者の人(この場合は北九州の方)がこちらの自宅まで猫を連れてくるのがルールなんだそうで、要するに他人様の家や居住環境を「猫のため」という大義名分のもとにあれこれとチェックされるようです。
しかもそのための交通費の負担もさせられるようで、自分から敢えて行くというのに、その交通費を相手に請求というのもそんなもんだろうかと思いますし、だったらはじめに北九州まで見に行く交通費も負担して欲しいというのが、偽らざる素直な理屈です。

また、これまでに接種されたワクチンなどの各医療費も新しい里親が(さすがに全額ではないようですが)負担しなくてはいけないとのことで、このあたりから話が少しおかしいなあという気がしはじめました。
サイトによっては金銭の要求は一切してはいけないと謳っているところもあるようですが、そのあたりはサイトの管理者の考えによっても変わるということかもしれません。

もちろん相手は動物なので、事は慎重にという基本の考えはわかりますが、こちらの意向を問われることはあまりないまま、先方の都合ばかりを一方的に押しつけられるような気がしはじめて、少し気分が萎えてくるようです。
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汚い音が混在

とりあえずわかったことは、スピーカーにコードを結びつけて、コードと電源でアンプを中継し、そこへプレーヤを繋げばなんにしろ音は出るというです。そんなこと当たり前だ!といわれそうですが、なにしろ自作スピーカーなんて初挑戦なものでこんな段階から感心しているわけです。
しかし、その段階で出てくる音は、本当にただ単なる電気的な非音楽的な音なのであって、なんの秩序も無く音が好き勝手にガンガン出いてる状態であって、円筒形スピーカーの場合は、その筒の中を音があてどもなく走り回り、ぶつかり合い、反射して、音楽なんぞというものからはかけ離れたものであることがわかりましたね。

いわばリズムと音階の付いた騒音と云ったほうが正しいかもしれません。

ここで痛感したことは、市販のスピーカーは例え安物であってろうとも、その道のプロがそれなりにチューニングをして、チープなものはチープなものなりの尤もらしい音になるように、最低限の音響みたいなものには整えられているということです。

マロニエ君も初めて知ったのですが、スピーカーというのはそれがお馴染みの箱形にしろ、今回のような円筒形にしろ、ユニットさえいいものを買っておけば、とりあえずそこからは美しい音が出るもんだと思っていたのですが、そこからしてまず大間違いだったようです。

たしかにスピーカーユニットの前面では美しい音が出ているのかもしれませんが、それもなにもぶちこわすように背後から汚い、聴くに耐えない、すべてを台無しにする雑音が盛大に、遠慮会釈もなしに出ているということでした。

つまり、極言するなら、スピーカー作りの基本は、いかにして汚い音を消し去り美しい音だけを残すかと云うことのようでもあります。
と、口で言えばいかにも簡単ですが、これが大変なのであって、ある意味これほど難しいものはないのだということがわかりました。汚い音を消すと、同時にせっかくの美しい音やダイナミクスまで消してしまうことにもなりかねません。そこのノウハウや技についてはもうさんざんネットで視力が明らかにおかしくなるほど調べていたわけですが、ついにはこれという決定打は見つかりませんでした(あまりに専門性の高いことは理解できないほど高度でした)。

それは皆さんが、自分の技術を出し惜しみしているのではなく、数学のようなこれだという決定的な答えがないからということもやってみてわかりました。
ですから、人様がやっていることは大いに参考にはなるけれども、それが自分にとっても即実践できるものとは限らず、大抵はヒントや大まかな方向性ぐらいにしかなりません。

そうして、実際に自分の手足を動かしてあれこれと試してみるよりほかに道がないということも肝に銘じました。だいいち筒の長さや、材質や、直径、さらには使用するスピーカーユニットが変わるだけで音はいかようにも変化するし、さらには個人の好みの問題や聴く音楽のジャンルにもよっても評価は異なってくると思われます。

というわけで、とどのつまりは大枠での理論を勉強した後は、あとはひたすら実践しかないわけです。何度も言いますが長年DIYの趣味もなく、必然的にこれといった工具も作業場もないので、作業は毎夜ピアノの横の床スペースになり、ここはかつてなかったほどまでに盛大に夥しく散らかり、まさに足の踏み場もありません。

お客さんなんてきたら、まさかここに上げるわけにもいかないので近所の喫茶店にでも連れて行くしかないでしょう。
まあ、ここまでして、最後にそれなりのスピーカーができれば救われますけどね。
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聴くに耐えない音

知人と一緒に円筒形スピーカー製作することになり、この三ヶ月ほどでお互いに揃えたパーツ類が相整い、いよいよ互いの手許にあるものを交換する時期になりました。それによってスピーカーを組み立てるための基本的な材料は揃ったというわけで、いよいよ組立作業に取りかからなくてはいけません。

前にも書きましたが、マロニエ君はDIYの類はもともとまったくやらないのですが、そのくせ性格的にモノを作ったりする際には、自分で云うのもなんですがキチッときれいに仕上げないと気が済まないところがあります。
とうぜん今回のスピーカーも当初の目論見としては、一分の隙もなくなんていえばいかにも大げさですが、まあそれぐらいビシッとしたものを作ってやろうじゃないか!という意気込みのようなものはありました。(ま、少なくとも、ちょっと前までは…)

ところが、前回も書いた通り、土台部分になる木の円形カットがこちらが考えていたような仕上がりにはならなかったことで、一気にそのあたりの自己満足的完全主義みたいなものが一気に崩壊していくことになります。
当初は組み立てる前に塗装もするつもりで、そのための下地から上塗りまでの計画もあれこれ立てていたのですが、土台のカットが満足できなかったことがすべての原因となり、これひとつのせいでなにもかがイヤになりました。

意欲がなくなったら、そもそも塗装なんて面倒臭いこと、やってられるか!というところで、とりあえず部品を組み立ててみることから先に手を付けることに決定。半ばやけくそで2枚ある土台の板を木工用ボンドで貼り合わせますが、そんなときにも2枚の板がキチンと段差なく美しい円にならないことに、ついため息が出るし、作業にも熱が入りません。

この他にも片側3本、左右合計6本の足の接着や、アルミ管内部の金属の構造物(詳しいことを書いてもつまらないので省略しますが)に金属同士の強力な接着を要する部分があって、とりあえずそれらを予め取り揃えておいた各接着剤で接合し、一晩置くことになります。

翌日見てみると、どれもがっちりと接着されているのは予想以上で、とくに金属同士の接着は、その下に相当の重量物が取りつけられる事を考え得ると一抹の不安も残りますが、ともかくビクともしないまで強固に接合されているのは、接着剤もたいそう進化したんだろうなあとこんなところで感心させられます。
パッケージに踊らんばかりの文字で大書されていた「速乾!超強力接着!」というのもあながちウソではないようです。

なにやかやで、ともかく組み立てるだけの準備は整ったわけで、あえてここで作業中止する理由も見あたらないので、ついに慣れない手を動かして、散々ネットで見て覚えたスピーカーをいざ自分の手で組立ることになりました。

はじめはざっくりと組むだけ組んでみて、まずどんな音がするのやら様子見の気持ちでやってみると、組立そのものは1時間もあればすんなり出来上がり、さっそく音を出してみました。
第一声がでる瞬間というのは、やっぱり緊張するものですし、ある種の厳粛な気持ちも手伝います。ましてやマロニエ君は生まれて初めて手作りスピーカーというものに挑戦していることもあるわけで、その期待と不安はかなりのものに達しています。

ついに音が出ました…。
それは、なんと形容詞して良いやらわからない、いかにも低級で、間の抜けた、変な音でした。少しなりともYshii9に近づこうなどと淡い夢のようなことを考えた自分の甘さが、これほど愚かであったかと痛感したのもことのときでした。
このときに直感したことは、スピーカー作りは材料を揃えて組み立てることよりは、試行錯誤を繰り返して最もこのましいチューニングを施すことのほうがよほど大変だということです。

これからが、マロニエ君の不慣れな「音造り」のための奮闘の日々がスタートすることになるようです。
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ピアニストの意見

音楽雑誌の記事やメーカーのホームページなどでしばしば目にすることですが、楽器メーカーはピアノの新機種の開発、とりわけコンサート用のピアノの製作にあたっては、かなり積極的に外部の人物の意見や感想などの、いわば聞き取り調査を行っている由で、それらを検討し、反映させながら開発を進めていくのだそうです。

中でも重きを置かれるのがピアニストの意見で、メーカーに招いて試弾をしてもらって、その感想や要望、アドバイスなどを拝聴するというもののようです。

では実際の現場でそれがどの程度の重要性をもっているのかということになると、マロニエ君はそれを見たわけではないのでなんともわかりませんが、少なくともそういうことをしばしばやっていると書いてある文章を何度も目にするので、それならそうなのだろうと思っているわけです。

たしかにピアニストこそは実際にピアノを演奏し、訓練された身体と感性を駆使して直接的に楽器を鳴らす現場人という意味で、メーカーとしても一目置くべき格別な存在であるのは頷けます。演奏者なくしてピアノはピアノの価値や魅力を広くあらわす機会はないわけで、だからこの人達の意見は尊重され、深く受け止められるのは当然だろうとも思います。

ただし、まったくマロニエ君の個人的かつ直感的な意見ですが、だからといって、これも度が過ぎるといかがなものかと思わないでもありません。
ピアニストも様々で、本当にピアノのことをわかっている優秀な人も中には少数いらっしゃいますが、逆な場合が実は大多数だという印象があります。何曲を弾きこなすことは得意でも、楽器としてのメカニズムの知識はまったく素人並みで、それでも自分はピアノの専門家という自負があるので、ときにとんちんかんな意見となり、これはよくよく注意すべきでしょう。

いろいろ耳にすることですが、ピアニストのピアノに対する要望というのは、多くがまったく個人的な事情に基づいたものであることが多いし、中にはとんでもないことを真顔でまくし立てる人もいらっしゃるそうです。とりわけホールのピアノにそういう個人的な感性を要求し、場合によっては元に戻せない状態になってもなんの斟酌もないというのはどういうことかと思います。

ましてや、これが普遍性をもった全体の響き、広い意味での音色、様々な特性を持つホールで、いかに理想的に音が構築され、あらゆる環境に適合する最も理想的に音が鳴り響くかという点においては、ピアニストにそれが適切にわからないのは当然です。

別にピアニストに判断力が頭から無いと云っているのではなく、その分野の判断力は、彼らの専門とは似て非なるものだと云いたいわけです。

だいいちピアニストは誰でも、永久に、自分の生演奏を客席で聴くことはできません。
要するにピアニストの好みと都合で作られたピアノというものが、聴衆にとって理想的な楽器であるとはマロニエ君はどうしても思えないわけで、もちろんメーカーがそういう側面だけでピアノを作っているとは思いませんが、あまりそれに翻弄されないほうが、むしろ素晴らしい楽器が生まれるように感じてしまいます。

優秀な専門家達のコンセンサスと科学の力によって、キズのない、上質な、優等生的な楽器を作ることはチームの力でできるかもしれませんが、果たしてそれで聴く者の魂が真に揺さぶられるかというと、大いに疑問の余地あると思います。

やはり、楽器造りはそれそのものが芸術だとマロニエ君は思いますので、すこぶる優秀な、できれば天才級の製作家が、自ら厳しく追求し判断し最終決定することだとしか思えないのです。煌めく楽器造りのためにはどこかにエゴがあってもいいと思うのですが。
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なんじゃこりゃ!

自作スピーカーの続きになりますが、製作にあたってはマロニエ君が懇意にしているピアノの知り合いの方と、材料等を互助的に共同購入しながら調達しています。

というのもマロニエ君一人では材料を揃えるだけでも、たぶん絶対に無理だったと思われ、この方がいたからこそ不慣れな挑戦もやってみる気になれたのです。
いうまでもなく、それぞれが自分のスピーカーを作るわけで、二人分の材料を同時購入するなどして、手間と情報の共有化を図るほか、送料なども合理化しているというわけです。

さて、前回書いた土台ですが、これなくしてはスピーカー本体(アルミ管)を垂直に立てることが出来ませんが、他の材料は日々揃ってきているのに、これが思うに委せないからといって、いまさら後へも引けません。

人の顔を見るたびにこの件をぼやいていたら、ある友人の情報でここに聞いてみたら?という話が舞い込み、さっそく連絡を取ってみると、いささか距離はあるものの円形カットを引き受けてくれるという職人さんが見つかりました。
次の日曜にさっそくその人のところへ行きましたが、かなり年配の方で、お見受けした感じでは昔はその道のプロだった方がリタイアされて、今はちょこちょこと簡単な木工仕事などをやっていらっしゃるという印象でした。

見取り図を見せると、至って単純なものなのですぐに理解してもらえましたが、なんでもジグソーという機械を使って手作業で切るため、コンパスで線を引いたような正確な円のカットは出来ないという話で、これは実はかなりガックリきました。
そういうことがピシッとしていないと性格的に気が済まないマロニエ君としては、内心ひどく落胆したのは事実でしたが、そうかといって他にあてもなく、すでにこの土台の件だけでも問い合わせ等相当の労力を費やしているので、もうこのあたりでそれぐらい妥協しなくてはいけないと諦め気分にもなり、ついにお願いすることになりました。

お願いしたのはいいけれど、ええ?っと思ったのは、待っている間に出来るような作業じゃないのだそうで、出来たら電話しますとアッサリ云われてしまい、往復50キロある道矩を、もう一度取りに来なくてはいけないのかと思うとウンザリしましたが、ここまできたらやるしかない!という使命感みたいなものに突き動かされて、その点もついでに呑み込んで承知し、後日取りに行くことになりました。

数日後、平日の夕方に時間を作って取りに行ったところ、なぜか作業をされたご当人は不在で、若い人から袋入りのカットされた品物をドサッと渡されて受け渡しはそれで終わり。すぐさま来た道を引き返し、いざ自宅で中のものを手に取ってみたときはびっくり仰天でした。
円のラインはガタガタで、中には木の一部が欠損していたり、大きなヒビがあってなんと明らかに割れている部分もあり、なんだこれは!と途方に暮れました。だいいち断面は無惨なほどガザガサで、普通ならお愛嬌にも軽くペーパーぐらいはかけるもんじゃないのかと思いました。
さらに驚いたのは、作業の際のものと思いますが、生木の表面に油性ボールペンで何本も線が引いてあり、とてもじゃないけどこんなものは知人には渡せないと思い、もう目の前は真っ暗。

知人には事情を説明して、その中から良いものを2つ渡し、マロニエ君は残ったものでガマンするつもりでその通りに実行しましたが、やっぱりどう考えても、見れば見るほど、これでは使う気になれす、正気なところ「ふざけるな!」と言いたかったですね。
そもそも、安いとはいえ工賃もちゃんと払って依頼した作業なんですから、文句のひとつも云って然るべきところですが、なにぶんにも相手は年配の方ではあるし、「自分は心臓が悪くて来週は検査入院する」というようなことも云われていたので、そんな方へ抗議するのも忍びず、結局は割れがあったことなどを伝えてもういちど作ってもらうことで決着しました。

その結果できたものは、前回の作業とクオリティこそ大差はありませんが、割れがないぶん良しとしなくてはいけないようです。
こういうことが重なってくると、もともとDIY人間ではないマロニエ君としては、だんだんやる気を失ってイヤになってくるのですが、すでにこの「共同プロジェクト」にはかなりの費用も投じていることでもあり、ここはなにがなんでもやり遂げるしかないようで、こういう場合にも一人だったら投げ出していたかもしれません。
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草間彌生

先月のNHKスペシャルだったか、水玉の芸術家、草間彌生さんのドキュメンタリーをやっていましたが、これがなかなかおもしろい番組でした。

草間彌生さんといえばまっ先に思い出すのはもちろんあの原色の水玉に埋め尽くされた絵画や彫刻ですが、さらには自らも作品だといわんばかりの独特な出で立ち──とりわけオレンジ色の髪の毛とそこから覗く強い眼差し──は見る人に強烈な印象を与えるでしょう。とくにいつも何かをじっと凝視して創造力を働かせているような大きな瞳は独特で、ほとんど笑顔らしきものはありませんけれども、そこになんともいえない不思議な愛らしさと純粋な魂が宿っているよう気がするものです。

マロニエ君は勝手に彼女はニューヨークに住んでいるものと思っていたら、それは大間違いで、ニューヨークはもう何十年も昔に引き上げた由、現在は日本に在住して東京都内にアトリエがありました。

驚いたのは御歳83歳ということですが、実年齢を知らなければ誰もそんな高齢とは思わないでしょうし、現に毎日のようにアトリエにやってきては、高い集中力をもって精力的に大作に挑んでいらっしゃいます。
足元などはたしかにふらふらとおぼつかないことがあり、主な移動は車椅子のようですが、アトリエに入ると人が変わったようにエネルギーが充溢しはじめ、原色が塗られた大きなキャンバスに向かって一気呵成に筆を進めていくのは圧巻でした。さらに驚くべきはその筆の動きと決断の速さで、彼女は番組の中で「自分は天才よ」と言っていましたが、普通なら自らそんなことを云うのはどうかと思うところでしょうが、草間さんに限ってはその迷いのない筆さばきや旺盛な製作意欲などをみても、とても常人の出来ることではなく、つい自然に納得させられてしまいます。

今年はヨーロッパのモダンアートの殿堂といわれるロンドンのテイト・モダンで、アジア人初の大規模な個展が開催されて大きな注目を浴び、大盛況のうちにヨーロッパ各地とニューヨークまで巡回したようでした。
番組では、その為の100枚の新連作として、200号はありそうな巨大な画布に、毎日果敢に挑み続ける姿を追いましたが、そのゆるぎない才能と製作態度には圧倒されっぱなしでした。

この番組では驚かされることの連続でしたが、これだけの大芸術家となり世界的な名声も獲得したからには、さぞ立派な自宅があるのかと思いきや、草間さんの生活拠点はなんと精神病院で、院内の粗末な個室が彼女の家で、ここが一番落ち着くというのですから唖然です。そして毎日この病院からアトリエへ通い、夕刻仕事がおわったら病室に戻ってくるという、俄には信じられないような生活です。

なんでも若い時分から統合失調症という病を患い、いまだにその治療を受けながらの創作活動ですが、番組中も彼女の口からは自殺したいという言葉が何度も飛び出してくるのですが、長年彼女のお世話をしてきた人達がそのあたりのこともじゅうぶん心得ているようで、できるだけ草間さんの負担にならないよう配慮しながら上手く支えている献身的な姿がありました。

この番組の中で、ヨーロッパの巡回展のほかに、ニューヨークではルイ・ヴィトンとのコラボが進行中で、そのオープニングには草間さんも駆けつけ、例の水玉模様の製品が数多く作り出されていましたし、ショーウインドウの中は草間さんの作品である無数のタコの足のような彫刻が上下から空間を埋め尽くし、もちろんその不気味な物体は赤い水玉でびっしりと覆われています。

それから一週間ほど後、マロニエ君が天神を歩いていると、偶然バーニーズの前を通りがかったのですが、一階のルイ・ヴィトンのショーウインドウはなんと数日前にテレビで見たのとまったく同じ、ニョロニョロした物体に無数の水玉をあしらった草間ワールドになっているのには思いがけず感激してしまいました。グロテスクと紙一重のところで踏みとどまったそれは、とても斬新で美しく芸術的でした。

「もうすぐ死ぬのよ」と連発する彼女に、「草間さんはあと何枚ぐらい絵を描かれますか?」という番組の問いかけがあったのですが、すかさず「何枚でも描きたい。とにかく描きたいの。千枚でも二千枚でも描けるだけ描いて死にたいの」と、何の躊躇もなくあの射るような目つきで真顔で仰っているのが印象的でした。

ほとほと感心したのは、どんなに体調が悪く、頭はグラグラで、起きあがることも出来ずに死にたくなっているようなときでも、絵を描き始めると俄に調子が良くなってくるのだとか。まさに彼女の肉体・魂・血液・細胞はひたすら作品を作り出すことにのみ出来上がっているようで、これぞ天職であり天才なのだろうと思います。

あのような芸術家に対して「いつまでもお元気で」などと平々凡々とした言葉は浮かびませんが、強いて云うなら天が彼女を見放すその瞬間まで創作活動に身を捧げて欲しいものですし、実際そうされるだろうと思われます。それが天才の使命というものだと思いますから。
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予想外の不便

この夏からYoshii9型の円筒形スピーカー(通称;塩ビ管スピーカー)の自作に向けての情報収集や材料を準備していましたが、スタートから実に約3ヶ月余を経てやっと材料が揃いつつあります。

この円筒形スピーカーは、至ってシンプルな構造にもかかわらず、なにがそれほど時間がかかるのかというと、製作者であるマロニエ君に基本となるスピーカーの知識や経験がまるでなく、大半の知識をネットから辛抱強くすくい上げることと、そもそも通常の箱形であれば、手作りスピーカーのためのある程度の材料は専門店であれば揃っているものの、円筒形スピーカーの場合はまるきりそういう環境がないという点が大きなネックになったと思います。

この円筒形スピーカーの構成部品の中で必ずオーディオ用のものを使う部分といったら、基本的にはフルレンジのスピーカーユニットぐらいなもので、あとは筒本体、土台、仮想グランドという筒の内部の構造体など、あらゆるものが市販の建築資材などを随時応用しながら使うのですが、建築資材など、まさに無知のジャンルでしかもとてつもなく膨大ですから一朝一夕には事は運びません。

そんな中からスピーカー作りにちょうど良さそうなものを探し出すのは、工作少年でもなかったマロニエ君のような者にとってはまさに気の遠くなるような作業なわけです。
時間がかかるのは当たり前、調べ方さえもよくわからないし、部品部材の名称もわかりません。形状やサイズも様々なので、簡単に購入するわけにもいかず、手許に届いて少しでもサイズが違えば何の役にも立たないのでいよいよ慎重にならざるを得ません。

ごく単純な部品の調達などでも、専用品がなく規格外ともなると、ちょっとしたことでも困難が生じて、思いもよらぬ足止めをくらいます。
たとえばスピーカー本体となる1mのアルミ管を垂直状態に支えるための土台は、木の板を円形のドーナツ状に切り抜く必要があるということになり、そのためのカット作業は自分ではできないけれども、専門家に頼めば簡単にすむだろうと思っていたところ、さにあらず、とてもそう思い通りにはいきませんでした。

少し具体的に言いますと、厚さ3、4センチほど板を直径21センチの円に切り出して、さらに真ん中に10センチの穴を開けるという、たったそれだけのことが今どきはものすごい困難なわけです!
板は厚いものがなければ薄いものを貼り合わせればいいと思っていましたが、板なんてものはいくらでもあるようで、要は「円形に切る」というのが少々の所ではできないのでした。

ホームセンターの類に聞いても、直線のカットはできるようですが円形となると軒並みできませんという返事が返ってきますし、昔は結構あったように思える木工所の類も、ネットで見る限りよほど遠方に行かないとありません。

やむを得ず、複数の知人にこの件を相談したのですが、彼らはマロニエ君が送った寸法見取り図をもとに、すぐに知り合いの木工職人の方に掛け合ってくれたのですが、結果はいずれもマロニエ君にとってはゼロをひとつ間違えているんじゃないの?といいたくなるような金額を提示されて、驚きつつ、とてもではないとすごすご引き下がりました。

最近では、いわゆる普通の素朴な木工所というものがなくなっているようで、たまにあるのは手作りの高級家具をオーダー製作するといったような、いわば家具作家の工房のような性質の店になっており、とてもこちらの目的と予算に合うような手軽な感じで引き受けてくれるところがありまません。

素人の考えとしては、たかだか土台なんですから、そんな上質なこだわりを持った仕事ではなしに、目的と要望に応じて、二つ返事でサッと作ってくれる職人さんみたいな人がいそうなものだと思っていたのですが、どんなにネットで探してもそういう店はありませんでした。
何事も世の中が飛躍的に桁違いに便利になったこの頃ですが、その陰で、こういう人の手を必要とする類の作業依頼となるとものすごく不自由で、「なんで?」と思うほど小回りの利かない世の中になってしまったものだと思いましたね。
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旧時代の設計

過日、ベーゼンドルファー最小の新機種がでたということを書いたことをきっかけに、あらためて同社のホームページを見てみたのですが、そこには意外なことが書かれていました。

Model 280 の説明文の中に、新型は「鍵盤の長さを低音から高音へと変化させ、それに従うハンマーヘッドの重量配分で最適なバランスを実現」とあるのですが、これまでベーゼンドルファーのアクションなどをしげしげと見たことがなくて知らなかったのですが、わざわざそう書いているということは、旧型のModel 275 では鍵盤は92鍵もあるにもかかわらず、鍵盤の長さはすべて同じだったのか!?と思いました。

ふつうグランドピアノの場合、おおよそですが2m未満の小型グランドの場合、鍵盤の長さ(ハンマーまでの長さ)は全音域で大体同じですが、それ以上のピアノでは低音側がより長くなり、さらにはピアノのサイズ(奥行き)に比例するように、鍵盤全体の長さもかなり長いものとなります。
もちろんそれは鍵盤蓋から奥の、普段目にすることのない部分の長さですから、演奏者にはわかりませんが。

確証がないので何型からということは控えますが、スタインウェイでもヤマハでもカワイでも、中型以上では鍵盤長は低音側がより長くなるというは常識で、これはてっきり現代のモダンピアノの国際基準かと思っていました。

そういう意味では、ベーゼンドルファーは旧き佳き部分があり、それ故の美点もあった代わりに、現代のピアノが備えている基準とは異なる点があって、そこを現代の基準を満たすべく見直すという目的もあったのかもしれませんね。
マロニエ君はいまだに新しいシリーズのベーゼンドルファーは弾いたことがありませんが、これまでに何台か触れることのできたModel 275 やインペリアルは、その可憐でピアノフォルテを思わせるような温かで繊細な音色には感銘を受けながらも、現代のホールなどが要求するコンサートピアノとしてパワーという点では、どちらかというとやや弱さみたいなものを感じていました。

もちろんマロニエ君のささやかな経験をもって、ベーゼンドルファーを語る資格があるとは到底思いませんけれども、それぞれの個体差を含めても概ねそのような傾向があったことは、ある程度は間違いないと思ってもいます。

そのあたりを思い出すと、鍵盤の長さなども旧時代の設計だったのかもしれないと考えてみることで、なんとなくあの発音の雰囲気や個性に納得がいくような気がしてきます。

そういう意味では、新しいモデルがどうなっているのかは興味津々です。
福岡県内にもModel 280 を早々に備えている新ホールがありますが、なにぶんにも距離もあるし、開館前の話ではピアノを一般に解放するイベントも検討中とのことでしたが、なかなか腰も上がらないままに時間が流れました。そのイベント自体も実行されているのかどうかわかりませんが、もしやっているようならいつか確かめに行ってみたいところです。
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楽器の受難

今年8月、堀米ゆず子さんの1741年製のグァルネリ・デル・ジェスが、フランクフルト国際空港の税関で課税対象と見なされて押収されたというニュースは衝撃的でしたが、翌9月にはさらに同空港で有希・マヌエラ・ヤンケさんのストラディヴァリウス「ムンツ」が押収されたと聞いたときには、さらに驚かされました。

「ムンツ」は日本音楽財団の所有楽器でヤンケさんに貸与されており、入国の際の必要な書類もすべて揃っていたというのですからいよいよ謎は深まるばかりでした。

それも文化の異なる国や地域であるならまだしも、よりにもよって西洋音楽の中心であるドイツの空港でこのような事案が起こること自体、まったく信じられませんでした。
しかも税関は返還のためには1億円以上の関税支払いを要求しているというのですから、これは一体どういう事なのかと事の真相に疑念と興味を抱いた人も少なくなかったことでしょう。

その後、幸いにして2件とも楽器は無事に返還されるに至った由ですが、これほどの楽器をむざむざ押収されてしまうときの演奏家の心境を考えるといたたまれないものがありました。
背景となる情報はいろいろ流れてきましたが、そのひとつには高額な骨董品を使ったマネーロンダリング(資金洗浄)への警戒があったということで、途方もなく高額なオールドヴァイオリンは恰好の標的にされたということでしょうか。さらには折からの欧州の不況で、税徴収が強化されている現実もあるという話も聞こえてきます。

それにしても、こんな高額な楽器を携えて、世界中を忙しく飛び回らなくてはいけないとは、ヴァイオリニストというのもなんとも因果な商売だなあと思います。
マロニエ君だったら、とてもじゃありませんが、そんな恐ろしい生活は真っ平です。

その点で行くと、ピアニストは我が身ひとつで動けばいいわけで、至って気楽なもんだと思っていたら、ピアノにもすごいことが起こっていたようです。
そこそこ有名な話のようで、知らなかったのはマロニエ君だけかもしれませんが、あの9.11同時多発テロ発生の後、カーネギーホールでおこなわれるツィメルマンのリサイタルのためにニューヨークに送られたハンブルク・スタインウェイのD型が税関で差し押さえられ、そのピアノは返却どころか、なんと当局によって破壊処分されたというのですから驚きました。

破壊された理由は「爆発物の臭いがしたから」という、たったそれだけのことで、詳しく調べられることもないままに処分されてしまったというのです。関係者の話によれば、塗料の臭いが誤解されたのでは?ということですが、なんとも残酷な胸の詰まるような話です。

この当時のアメリカは、どこもかしこもピリピリしていたでしょうし、とりわけ出入国の関連施設は尋常でない緊張があったのはわかりますが、それにしても、そこまで非情かつ手荒なことをしなくてもよかったのでは?と思います。
現役ピアニストの中でも、とりわけ楽器にうるさいツィメルマンがわざわざ選び抜いて送ったピアノですから、とりわけ素晴らしいスタインウェイだったのでしょうが、当局の担当者にしてみればそんなことは知ったこっちゃない!といったところだったのでしょう。

そのスタインウェイに限らず、この時期のアメリカの税関では、似たような理由であれこれの価値あるものがあらぬ疑いをかけられ、この世から失われてしまったんだろうなぁと思うと、ため息が出るばかりです。
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信頼できる技術者

現在、ヤマハのアーティストサービス東京に在籍される曽我紀之さんは、ピリスやカツァリス、仲道郁代さんなど多くのピアニストから絶大な信頼を寄せられるヤマハのピアノ技術者でいらっしゃるようで、マロニエ君もたまに雑誌などでそのお名前を目にすることがありました。
小冊子「ピアノの本」を読んでいると、その曽我さんのインタビューがありました。

それによると、なるほどなぁと思わせられたのが、曽我さんがヤマハのピアノテクニカルアカデミーの学生だった頃に、『調律は愛だ。愛がなければ調律はできない。』というのが口癖の先生がいらしたとのこと。
当時の曽我さんたちは、それを冗談だと思って笑って聞いていたそうですが、今ではその意味がわかるとのこと。

これは素人考えにもなんだか意味するものがわかるような気がします。
調律に愛などと言うと、なんだか意味不明、ふわふわして実際的な裏付けがない言葉のような印象がありますが、調律という仕事は甚だ繊細かつ厳格であるにもかかわらず、ある段階から先はむしろ曖昧な、明快な答えのない感覚世界に身を置くことになるような気がします。
このインタビューでも触れられていましたし、通説でもあるのは、同音3本の弦をまったく同じピッチに合わせると、正確にはなっても、まったくつまらない、味わいのない音になってしまいます。

そこでその3本をわずかにずらすというところに無限性の世界が広がり、味わいや深みや音楽性が左右されるとされていますが、いうまでもなくやり過ぎてはいけないし、その精妙なさじ加減というのはまさに技術者の経験とセンスに基づいているわけです。それは、云ってみれば技術者の仕事が芸術の領域に変化する部分ということかもしれません。
そのごくわずかの繊細な領域をどうするのか、なにを求めてどのように決定するか、その核心となるものをその先生は「愛」と表現されたのだと思います。

この曽我さんの話で驚いたのは、彼には技術者としての理想像となる方がおられたそうで、その方はピアノ技術者ではなく、なんとかつての愛車のメンテナンスをやってくれた自動車整備士なんだそうです。
しかもその愛車というのはマロニエ君が現在も腐れ縁で所有しているのと同じメーカーのフランス車で、信頼性がそれほどでもないところにもってきて非常に独創的な設計なので、なかなかこれを安心して乗り回すことは至難の技なのですが、曽我さんはその人に格別の信頼を寄せていて、「彼がいる限りこの車でどこに出かけても大丈夫だと思っていることに気がついた」のだそうです。
そして、自分もピアノ技術者として、ピアニストにとってそのような存在でありたいと思ったということを語っておられます。

マロニエ君もふと自分のことを考えると、2台それぞれのピアノと、ヘンなフランス車、そのいずれにも非常に信頼に足る素晴らしい技術者がついてくれている幸運を思い出しました。このお三方と出逢うのも決して平坦な道ではなく、回り道に次ぐ回り道を重ねた挙げ句、ついにつかまえた人達です。

この3人がいなくなったら、今のマロニエ君はたちまち不安と絶望の谷底に突き落とされること間違い無しです。お三方ともそれぞれにとても個性あふれる、やや風変わりな方ばかりで、相性の悪い人とは絶対に上手くいかないようなタイプですが、本物の仕事をされる方というのは、えてしてそういうものです。
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栄冠の在処

いま、スポーツの世界ではオリンピックをはじめ、勝利したアスリート達は差し向けられるマイクに向かって、判で押したように「これは、自分一人で取ったメダルではない」「支えてくれた人達がいたからこそ」「家族の励ましがあったから…」というような言葉を並べ立てるようになりましたが、聞く側・観る側は本当にそんなことが聞きたいのでしょうか?

このようなコメントが一大潮流となったのは、横並びの大好きな日本人のことだから、自然に同じような言葉を発するようになったのかとも思いましたが、あまりの甚だしさに、あるいは上からの指示で、受賞インタビューではそういう受け答えをしなさいと厳命されているのでは?とさえ疑います。

もちろん、スポーツに限ったことではありません。
どんなジャンルであろうと、その頂上へ登りつめるまでの厳しい道のり、血のにじむような努力など、本人はもとより、その過程において多くの人の協力や支援があったことは紛れもない事実だと思います。
しかし、そうではあっても、最終的に各人が世に出て認められるに至ることは、あくまでも本人(あるいはチーム)の実力や才能、研鑽、さらには運までも味方につけて達成できた結果なのであり、その栄冠は当人だけのものだというのがマロニエ君の考えです。

むしろ、恩師や支援者、家族、その他背後にある人間は黒子に徹するところに美学があり、それにまつわる周辺の尽力談やエピソードは、あとから追々語られてゆくほうがよほど麗しいとも思います。

ところが、今では本人以外の面々も堂々と表に出て称賛をあびるし、本人の口からもまっ先にその事が語られるのは礼節を通り越して、いささか美談を押しつけられるようで、なんだかスッキリしないものが残ります。

お世話になった人達に感謝の意を表すのは人として大切ですが、何事も度が過ぎると主客転倒に陥り、まるで集団受賞の代表者のような様相を帯びてきています。もし心底本気でそう思っているのなら、もらったメダルも人数分に切って分けたらいいようなものです。

それに、どんなに手厚い周りの支えがあったにしても、結果が出せないことには世間から一瞥もされないというのが現実なのですから、やはりそこは当事者とそれ以外の一線があるべきだろうと思います。

このほど、ノーベル医学・生理学賞を日本人が受賞したのは誇らしい限りですが、その山中教授までもが記者団の前に夫妻で登場し、いきなり「家族がいなければ…」「笑顔で迎えてくれた…」という調子のコメントが始まったときは、さすがにちょっと驚いてしてしまいました。

もしも、モーツァルトが生きていて、自分の芸術に対して「僕の音楽は僕ひとりが作ったものとは思っていません。これまで育ててくれて、ほうぼう演奏旅行に連れまわしてくれた父と、一緒に演奏した姉のナンネル。パリでなくなったお母さん、結婚した後は側で見守ってくれたコンスタンツェなど、多くの人の支えがあったからだと思っています。だから、みんなで作り上げた作品だと思っています。これからも御支援よろしくお願いします。」などと答えたら、果たしてまわりは納得するでしょうか?
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いい顔と信頼感

来月大統領選挙を控えるアメリカでは、現職有利の原則に反してオバマ氏の支持がもうひとつ定まらず、対する共和党のロムニー候補は失言などをかわしながらも残りをどう巻き返すかというところですね。

政治のことはよくわかりませんが、オバマ氏苦戦の理由として考えられるのは、アメリカ経済の建て直しにこれという手腕が発揮できないだけでなく、彼はなにかにつけていい顔をしすぎて大統領としてのふるまいが消極的という印象があります。

彼は、一般的な理想論を魅力的に演説するのはお得意だそうですが、山積する現実面での諸問題に対する有効な対処能力には欠けているとされ、決定的な失策とかスキャンダルがあるわけでもないのに人気がなく、なんとなく孤立しているような印象があります。

就任早々にもヨーロッパで核廃絶をテーマに大演説をぶちましたが、アメリカこそ世界最大の核保有国であるのに、その大統領の口からそんな空想的な理想論が飛び出たことで、表向きは歓迎されたかたちにはなったものの、実際にはしらけきったという話を聞いた覚えがあります。

今もイスラム諸国が反米の気炎をあげていますが、オバマ大統領には不思議なほどこれといった明確な反応も発言もなく(あっても少なく)、なんとなくこれまでの合衆国大統領とは違った雰囲気を感じてしまいます。

ここからつい連想してしまうのですが、我々の周囲を見ても、さも分別ありげに誰にでもいい顔をする人というのがいるものだということです。
そういう人は、なるほど誰にでもあたりはいいのですが、その不自然なほどの温厚さは、どこまで本気にして良いのかわからず対処に困る場合があるものです。

誰とでも均等にそつなく上手くやって、本人もそこそこ楽しめるというのは、これはこれで今どきの有効な処世術でしょうし、マロニエ君などはこれが大いに欠落している点なので、ときには少し勉強させて欲しいぐらいなものです。

でも、そうは言っても、そうしてまでお付き合いのチャンネルばかり増やしても、それではどこにも実体がないように思います。もちろん個人差もあり、それで充足できる人も今どきは多いのかもしれませんが、そうではない人もいるということで、これは要するに価値観とスタイルの問題かもしれません。

ただ、ご当人はいくら中立的に上手く立ち回っているつもりでも、周りからは察知されているし、結局はいつでもどこでも誰にでも同じ調子なわけですから、有り難みもないというものです。そればかりか、あまりあちこちでいい顔ばかりしていると、最後は誰からも信頼されなくなる危険性も孕んでいるようにも思います。

マロニエ君は個人的には、少々変わり者でも、困ったところのある人でも、人間的に真実味のある人ならかなり許容できるのですが、いわゆる「いい人」はどうも苦手で、接していてもお付き合いの機微とか悪戯心がなく、勢いそつのない演技になり、表面は良好でも後に疲れが残ります。

実際のオバマ氏がどんな人間なのか知る由もありませんが、彼をメディアで目にする度に、なぜかいつもこういうことを連想してしまいます。
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Model 155

ベーゼンドルファーは、製品ラインナップを長い時間をかけながら順次新しい設計のモデルに切り替えているようで、現在生産モデルは新旧のモデルが入り乱れているというのはいつか書いたような覚えがあります。

そんな中で最大のインペリアルは古いモデルの生き残りのひとつであると同時に、今尚ベーゼンドルファーのフラッグシップとしての存在でもありますが、あとは(マロニエ君の間違いでなければ)Model 225を残すのみで、それ以外は新しい世代のモデルに切り替わってしまっているようです。

新しいシリーズでは、ベーゼンドルファーの大型ピアノで見られた九十数鍵という低音側の鍵盤もなくなり、現在のコンサートグランドであるModel 280では世界基準の88鍵となるなど、より現実的なモデル展開になってきているようです。いまさら88鍵に減らすというのは、従来の同社の主張はなんだったのかとも思いますが、ある専門業者の方の話によると、さしものベーゼンドルファーも新世代はコストの見直しを受けたモデルだとも言われています。

どんなに世界的な老舗ブランドとはいっても、営利を無視することはできないわけで、それは時勢には逆らえないということでしょう。完全な手作り(であることがすべての面で最上であるかどうかは別として)であり、生産台数も少なく、製造番号も「作品番号」であるなど、高い品質と稀少性こそはベーゼンドルファーの特徴であるわけですが、そんなウィーンの名門にさえ合理化の波が寄せてくるというのは、世相の厳しさを思わずにはいられません。

そんな中にあって、つい先月Model 155という小型サイズのグランドが新登場して、これはスタインウェイでいうSと同じ奥行きが155cmという、かなり小型のグランドピアノです。ヤマハでいうとC1の161cmよりもさらに6cm短く、日本人の考えるグランドピアノのスタンダードとも言うべきC3の186cmに較べると、実に31cmも短いモデルということになり、このあたりがいわゆるグランドピアノの最小クラスということになるようです。

この一番小さなクラスが加わったことで、ベーゼンドルファーのグランドは大きさ別に8種ということになり、そのうちすでに6種が新世代のピアノになっているようです。
合理化がつぶやかれるようになっても、お値段のほうは従来のものと遜色なく、この一番小さなModel 155でさえ外装黒塗り艶出しという基本仕様でも840万円という、大変なプライスがつけられていますが、どんな音がするのやらちょっと聴いてみたいところです。

マロニエ君は以前から思っていることですが、メーカーは各モデルで演奏したCDを音によるカタログとして作ったらいいのではないかと思います。
もちろん楽器のコンディションや録音環境、演奏者によっても差が出ると言われそうですが、しかしそれでもすぐに現物に触れられない人にとっては、ひとつの大きな手がかりにはなる筈です。
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ピントのずれ

ひと頃は、公共の場で小さな子供が奇声を発したり、あたり構わず走り回るなど好き勝手に騒いで、周囲の顰蹙を買おうとも、我関せずまったく叱るということをしない若いお母さんの姿などを見ることがしばしばでしたが、このところほんのわずかな変化が起こっているような気がするときがあります。

その変化とは、つまり親が子に躾をしている場面を目にするようになったということで、そのこと自体は大いに結構、喜ばしいことなのですが、ただちょっとそこに違和感を感じることがあります。

例えば、ふつうのお店で買い物をして、支払いが終わり、品物を受け取ってその場を離れる際に、ほら、ほら、と子供の背中を軽くつっついて店員に向かって「…ありがとうございました」と云わせるような光景をマロニエ君は何度か目にしています。

また、ある病院でのことですが、診察が済んで、受付で保険証や処方箋などを受け取ってその場を立ち去るとき、子供の手を握っていた若いお母さんは、しきりに子供になにかをさせようと小声でぶつぶつ言っています。握っている手もそのつど何度もぐいぐい引っぱられて、その子はどうも嫌だったようですが、お母さんの度重なる指令に抗しきれずに、ほとんど出かけたドアの向こうからひときわ大きな声で、「ありがとうございました!!」と叫ぶように言って帰っていきました。

お店で買い物をした際は、そもそもマロニエ君の目には、最近はお客さんのほうがしきりに店員に対して「すみません」とか「ありがとうございます」という言葉を乱発して、双方の立場が逆転しているのでは?というような奇妙な状況をよく目にします。
礼儀はとても大切なことですし、それが最近ではだいぶ失われていると嘆く気持ちがある反面、こういうどこかちぐはぐなやりとりをしばしばに目にするのは、どうにも心が気持ちのよい場所に落ちていきません。

店で買い物をしたら、御礼を言うのは基本的に店のほうであって、お客さんのほうは自然に「どうも」程度のことで済ませればいいわけで、丁寧も度が過ぎると却って卑屈にしか見えません。

でも、この手の人達は、それが礼儀にあふれた大人の正しい振るまいだと信じ込んでいるのでしょうし、小さな子供の親などは、それを我が子にまで教え込もうとしているのかもしれません。
病院も、これは経営サイドから言わせれば、患者はまぎれもないお客さんでもあるわけですが、そこは長年続いてきた慣習もあり、診察を受けた際、医師にお礼を言うところまではわかりますが、受付の事務仕事をしている女性に向かって、帰る際に親が自分だけでは飽きたらず、小さな我が子にまで「ありがとうございました」と盛大に言わせるというのは、どこか躾のピントが外れている気がします。

誰しも低姿勢に出られて、御礼を言われて怒る人はいませんけれども、礼儀や挨拶というものは、なんでも丁寧なら良いというものではなく、それをどれだけ適切的確に正しく用いる(使い分ける)ことができるかどうかに、その人の育ちや品位・見識が現れるとマロニエ君は思います。

これらのお母さん達は、もちろん親なので子供のためということもあるでしょうが、心のどこかにそういう挨拶をさせている親としての自分と、それを実行する子供の両方を世間に見せることで、まわりから感心されている筈だと思い込むことに満足しているように感じてしまいます。

現にその病院でのお母さんは、最後だけはいかにもという感じでしたが、待合室ではマロニエ君と肩が触れ合うぐらいの隣に座っていながら、真横にいるこちらのことなどまったくお構いなしに、かなり大きな声で子供にしゃべりまくり、あげくには変な抑揚をつけながら絵本の読み聞かせが延々と続き、なにしろ真横ですからかなり迷惑でした。

人にそんな不愉快を与えない気遣いができることのほうが、礼節という点ではよほど大事だと思うのですが、どうも本質的に感覚が違うようです。
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