3つの病院

椎間板ヘルニアになって二月半、結果的に3つの病院に行きました。

はじめは、整形の専門病院として定評のある、かなり大きな病院でした。
簡単な問診のあとレントゲンを撮られ、それを見た医師の診察によると骨に異常は見当たらず、腰回りをあちこち押したり、足の反応を見るなどして、これ以上のことはMRIを撮らないとわからないとのこと。
ただし、MRIは予約制で最短でも一週間後のことになるらしい。

この時点で少し軽く考えてしまい、様子を見ることにしてMRIの予約はしませんでした。
しかし処方された薬の効果もなく、それから一週間もしないうちに症状は確実に悪化、MRIの予約をしなかったことを悔いました。
いまさら予約しても、そこからまた一週間以上先の話になるので、とても痛みに耐え切れず、とりあえず別のペインクリニックに行くことに。

ここでもまたレントゲンを撮られたものの、やはり骨には異常はない由、ヘルニアの可能性が大とのことで、その痛みの様子からとりあえずブロック注射を打つことに。
ヘルニアは手術もしくは自然治癒以外には治療方法がないようで、ブロック注射は麻酔で痛みを和らげることを目的とした対症療法です。
打ったあとは、横になったまま安静を命じられ、1時間ほどで看護師さんに促されて立ち上がりますが、はじめは自力では靴も履けず、介添えされてようやく待合室まで移動するほど足腰が立たなくなっていることに、麻酔の威力(と怖さ)を思い知りました。
安静時も15分毎に血圧をチェックしにくるなど、ずいぶん慎重な様子でした。

これを二回続けるも改善の兆しはなく、やがて診察中も椅子に座ることができず立ったままの体勢となり、待ち時間もベッドを借りて横になるなど、あまりの痛がりように医師も口をへの字にして、ついにMRI画像が必要との判断に至りました。

クリニックにはMRIの設備がないため、大きな病院に委託する形になり、外科としては地元では有名な専門病院と連携しているようで、後日そちらへ赴くことになりました。
その病院のほうが自宅から近いこともあり、こんなことなら始めからこっちに行っておけばよかったとやや後悔。

そういうわけで、私は生まれて初めてMRIというものを3つ目の病院で体験することになります。
前開きの着物のようなものに着替えて、長い廊下を指示される部屋に案内されると、中には真っ白の大きな機械が鎮座し、中央には人ひとりが通るような穴があって、細い寝台のようなものが繋がっています。

看護師さんや撮影技師の方が「狭いところは大丈夫ですか?」「閉所恐怖症などと言われたことはありませんか?」「気持ち悪くなったらいつでも言ってください」「具合が悪いときは、このボタンをおしてください!」「では、ごめんなさいねぇ、がんばりましょう!」などとあまりにも繰り返し言われるものだから、そんなに念を押すほど恐ろしいことが始まるのか?と、却って恐怖心を掻き立てられるようでした。
身体が前後左右に厳格に位置決めされ、撮影中動かないように幅広のマジックテープのようなもので左右からがんじがらめに固定され、頭にはヘッドホンが取り付けられて、リラクゼーション音楽のようなものが虚しく響く中、穴の奥へと押し込められて行きます。

撮影開始後、なにより驚いたのはその不快な音の恐怖。
ピコピコどんどんカンカンといった、なんとも不気味な音が盛大に襲いかかり、この音に耐えられずに断念する人もいるとかで、それも納得というほどのイヤな音に攻撃され続けます。
文字通り機械に縛り付けられた体勢で、こんな非日常の音を容赦なく浴びせられながらの30分は、さすがに疲れました。

二日後クリニックに行くと、やはりヘルニアが確認できるとのことで、とくに手術を希望しないのであればブロック注射などをしながら保存療法で行こうということになりました。
ただ、この時点では、そう遠いわけでもないクリニックに通うのさえ痛みでクルマに乗ることさえ難儀していたので、MRIを撮った病院が最寄りでもあることから、紹介状を書いていただいて、こちらに行くことになりました。

診察初日、またしてもレントゲンを撮るというのにはうんざりでしたが、病院としてはこれナシでの診療行為は不可能であろうから、そこで抵抗してもはじまらないしのでしぶしぶ応じましたが、診察室でMRI画像とレントゲンを見ながら医師の口から出た言葉は「典型的なヘルニアだと思います」というのに加えて「骨格はしっかりしておられますね」というお褒めの言葉で、これまで自分の骨格がしっかりしているなどとは考えたこともなかったので、相も変わらぬ痛みの中、ちょっとだけうれしい気持ちになりました。

ヘルニアは早い場合で一ヶ月、おおむね2〜3ヶ月で治るというのが一般的だそうで、私の場合すでに70日ほどを経過しましたが、ここにきてようやくピーク時に比べれば多少は楽になってきて、ともかくも一息ついた感じです。
まだ痛み止めなどの薬は欠かせませんが、このまま少しずつでもいいから、おさまってくれたらいいのですが…。
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古き佳き

NHKのEテレで放送されているクラシックTVでは、ピアニストの清塚信也氏がMCをつとめられ、会話を交えながら必要に応じてピアノも弾くというスタイル。

この番組は、とくに熱心に見ているわけではないけれど、らららクラシックのころからの録画設定がそのままになっており、自然にたまっているのをたまに視ることがあります。

スタジオの中央奥のやや右手にスタインウェイDが置かれ、清塚氏の定位置はそのピアノの前なので、クルッと方向を変えるだけでピアノが弾けるようになっています。
以前はここで使われるピアノは入れ替わりがあり、艶出しの新しめの楽器と、つや消し仕様の椀木の形状から、おそらく1980年代以前のものと思われる楽器があります。

始めの頃はしばしば入れ替わっていたので、使えるピアノの都合なのか、もしくは曲目等に応じて入れ替えられているのか…ぐらいに思っていましたが、ここ最近は(間違いでなければ)ずっと古いほうのつや消しのほうだけになったように見受けられます。

ということは、やはり清塚氏の好みの問題で、こちらに定着してしまったように感じますが、むろん真相はわかりません。
艶出しのピアノは最新ではないけれど、サイドロゴの大きな我々が最も聴き慣れたタイプのスタインウェイの音で、キラキラしたブリリアントな音のするタイプ。
それに対して、古いほうは、きれいにオーバーホールされ、再塗装もされているのか傷などもなくきれいで、経年でくたびれている感じも一切ないし、足はダブルキャスター用の短いタイプに換装されているなど、製造年が古いというだけで、とても大切に手を入れられたピアノという印象です。

このピアノのほうが出番が多くなったのが、もし清塚氏の意向なんだったらその理由がなへんにあるのか想像するしかありませんが、少なくとも聞いている限りにおいては、こちらのピアノのほうがふくよかで、音そのものの太さがあると思います。
ふくよかというと、キレの良さより柔らかい音とイメージしがちですが、そうではなく、きちんとした輪郭もあるところがさすがという気がします。
はじめからブリリアントを狙っている音ではなく、基音が力強く骨太で、深さがあり、ソフトにも華麗にも、繊細にもパワフルにも、如何ようにも弾き手次第という感じがあって、だれが弾いても輝く音がすぐ出てしまう新しめのピアノとは決定的に違うような印象です。

どちらがいいかは簡単には決められないことでしょう。
昔ながらの良さを好む人達にはこちらが本来の姿で、使っている材料も素晴らしいなどと言い分はたくさんあるでしょうし、むろん私もそちらに近いのですが、その後の、多少キラキラ系の華麗さを前に出したスタインウェイも、やはりこれはこれで抗しがたい魅力があります。
他のメーカーがこれを表面だけを真似たものは、ケバケバしく、耳にうるさいだけというものもありますが、スタインウェイの場合はやはりなんといっても圧倒的な美しさがある点が決定的に違うところでしょう。

ただ、数は少ないけれど本当に弾ける、芸術的な演奏をするピアニストの場合、自在な表現、楽器を思いのままにコントロールできる音色の幅や懐の大きさのある、少し前の楽器のほうが向いているようにも思います。

新しい世代のスタインウェイは、誰が弾いてもそこそこ美しく仕上がるという点で、それも大したものだと思いますし、それを時代が求めたということであれば、そのように変化したというのもわからないでもありませんが…。

むかし関西のスタインウェイ技術者として有名な方が、自分が過去にNHKで聞いた最も良いと思ったスタインウェイは、長いこと体操番組で使われているアレや!とおっしゃって、大いに膝を打ったことを思い出します。
重厚かつ明晰、ピアノからこんな音が出るのか!といいたくなるような美しいその音は、体操の伴奏には不釣り合いなほど冴えわたっており、これぞ他を寄せ付けぬスタインウェイ!というオーラがあったことを私も子供の頃の記憶としてしっかり覚えています。

おそらくピアノ自体は第一線を退いて演奏収録などにはより新しい楽器が使われて、体操番組などで使われる2軍選手として下げ渡されたものかもしれませんが、そちらのほうが素晴らしかったというのも皮肉な話です。

もしピアノが運搬のハンディのない楽器だったら、きっと大半のピアニストは自分の愛器にこだわり抜くだろうし、新しいピアノがいまのように大手を振ることは絶対にないだろうと思います。
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藤田真央

ヘルニアは少しずつ改善に向かっている(と思いたい)ので、毎日数行ずつ書いています。

少し前のプレミアムシアターから、ルツェルン音楽祭2022で藤田真央さんがソリストを務めた、ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番を視聴しました。指揮はリッカルド・シャイー/ルツェルン祝祭管弦楽団。

小柄な体格ゆえかドシッとした安定感は感じないけれど、リスのような俊敏さがあり、この曲の演奏に期待してしまう大技や重厚なロマンティシズムの代わりに、正確で目の細かい音楽として楽しむことができました。

とくに藤田さんの特徴として感じるのは、どんな音楽も決して大上段に構えるのではなく、もったいぶらず、断定せず、自分の感性に従ったものを臆することなく表現していくところは、なるほど新しい演奏の在り方なのかと思いました。

協奏曲ではオーケストラのトゥッティからピアノが引き継いでいく箇所などは、普通ならソリストとしてのインパクトを示したいようなところでしょうが、藤田さんは川が合流するように流麗にピアノが流れ込み、縫い目のない布のように扱われるし、テンポにおいてもアーティキュレーションにおいても、自己主張より連続性を優先させるあたりは、もっと自己顕示的をしようと思えばいくらでもできるのに、それをしないのは注目に値する点かもしれません。

よほどの自信なのか、そこが彼の個性なのかよくはわからないけれど、これはなかなか勇気のいることでしょう。
風貌も話し方も少年のようでありながら、健康的な大きな手をしていて、それが自在かつ正確に鍵盤上を喜々として駆け回るさまは見事という他ありません。

彼の演奏には、泥臭さ汗臭さが微塵もなく、かといって中身のない無機質な演奏でもなく、キレの良さや繊細芸で聴かせるタイプ。
しかも繊細芸で聴かせるタイプは、聴くものに静寂と集中を強要する場合があるけれど、藤田さんの場合はそれもなく、自由に好きな様に聞いてくれという空気を作り出しているところが、とても珍しいように思います。

尤も、全面的に肯定しているわけでもなく、上記のような特徴のためか、深く歌い込んで欲しいところや、メリハリとなるような明確なポイントとなる強い音が欲しいときなど、もうひとつ物足りない面もあって、個人的には何度も繰り返し聴きたくなる感じではなく、いちど聴けば充分です。

とはいえ、何もかも兼ね備えるというわけにはいかないので、その人にしかない良いところを感じられたらそれでいいのかとも思います。
詳しくは知らないけれど、噂によれば、藤田さんの真骨頂はモーツァルトにあるのだそうで、すでにソナタ全集なども出ているようですが、いつか機会があれば聴いてみたいものです。

いくつか動画で見たことはありますが、なるほどと思う時と、首を傾げる時の両方があって、個人的な評価はまだ定まりませんが、大変才能豊かなピアニストであることは間違いないようです。
ただ彼に好感が持てる点は、そつのない解釈やウケ狙いではなく、彼独自のスタンスで演奏しているように見受けられるところでしょうか?
とくに、今どきの若手の中にはことさら無意味な間をとってみせたり、必要もないのにもってまわったような情感表現をする人もすくなくない中、藤田さんはそういうことには目もくれず、我が道を行っているよう見受けられるのは好感が得られました。

これは今どきの情報過多で、過当競争が激しい時代にあっては、なかなかできることではないと思います。
強いて言うなら、モーツァルトで確かな立ち位置を築きながら、片やラフマニノフの3番のような重量級の演奏もこなしているのは、軽量ピアニストに見られないためのバランス取りというか、防衛策なのかもしれませんが。

何かで見たけれど、ヨーロッパにある彼のアパートでは、ベヒシュタインの中型アップライトを使っておいでのようで「おお!」と思いました。
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ヘルニアの地獄

ずいぶん長いことお休みしています。
このブログを始めていらい、これほど書き込みを怠ったのはおそらく初めてのことです。

その理由は「椎間板ヘルニア」というものになり、「椅子に座る」という姿勢がまったくとれなくなったのです。
腰の骨の間にある軟骨が何らかの理由で飛び出し、それが神経に触れ圧迫するために引き起こされる激痛です。

思い当たるのは6月8日、ベッドのシーツを取り替えていたところ、あらかた終わってマットレスをギュッと数センチ奥へ押し込んだとき、わずかに腰に変な感覚がありました。そのときはさほど気にもとめずにいたのですが、あとから考えればこれしか思い当たることはなく、そこから徐々に痛みが発生し、数週間をかけて悪化の一途をたどり始めました。

なにより困るのは座る姿勢が取れないということ。
これは生活する上で致命的で、想像を絶する不自由であることをいやというほど思い知らされます。
食事はもちろん、ちょっとコーヒーを飲むことも、ソファで映画やテレビを見ることも、そしてピアノを弾くことなど、椅子に座ることは激痛によってすべてできなくなりました。
当然、車の運転もできないし、病院に行ために助手席に座るだけでも猛烈な痛みとなり、だからパソコンにも迎えずブログも更新できないというわけです。

それにしてもその痛さときたら凄まじく、私のような極度の病院嫌いでも、これほどの激痛にさらされると、もはやそんなことも言っていられないようになり、ついには病院に行く気になりました。
ただ、個人的な印象ですが、医療関係の中でも「整形外科」というのはピンキリというイメージを勝手に持っており、実際へんな整形外科にいったばかりに却って悪くなったというような話も耳にします。

そこで、定評のある大型病院に行ったところ、レントゲンを何枚も取られ、それをもとに医師が判断を下すというものでした。
幸い、骨には異常は見られないとのことで、これ以上の詳細についてはMRIを撮ってみないとわからないとのことですが、MRIを撮るには、予約をして改めて出直さなければならない由。
医師の雰囲気からしても大事ではないという感じであったので、薬を処方されて帰宅したものの、坐骨周辺の痛みは日々増すばかりだから、翌週、街中のペインクリニックにともかく痛みを抑えてもらうため行ってみることに。
ここでまたレントゲン撮影となり、併せて腰周辺の骨をあれこれ押さえたり足を動かすなどの細かいチェックを受けましたが、やはりここでも骨に異常はないようで、しばらくはブロック注射と内服薬で様子を見ることになりました。

ところが、症状は収まるどころかますますひどくなっていくため、ついにはMRIを撮ることになりました。
ペインクリニックではMRIの装置がないので、近くの昔からある外科病院を紹介され、そこで生まれて初めてMRIなるものを体験しました。(これに関しては長くなるので、また別の機会に譲ります)
2日後、その外科病院からペインクリニックへMRIの結果が引き渡され、その結果を聞きに行くと、やはりヘルニアが認められますということで、診察結果が確定しました。

ネットでもいろいろ調べたところ、椎間板ヘルニアには有効な治療というものがなく、ブロック注射や薬で痛さを凌いで、保存療法(要は時間とともに直るのを待つ)で経過を見守るか、歩けないほど症状の酷い場合や短期解決を望む場合は手術ということになるようです。
手術と言っても大したことではないようだから、いよいよという時はそれでもいいのだけれど、私としては入院というのが何よりも嫌なので、なんとか保存療法で直ることを願いつつ、痛みに耐える毎日を送っています。

とはいえ、こんな不自由な生活が一月以上も続いており、もうそろそろ治ってもいいのではないかと切に願っているところです。
この文章も、座ることができないため、パソコンの前にクッションを置いて膝をつき、毎日数行のテンポで書いています。
自分の身に起こるまであまり知りませんでしたが、ヘルニアや骨の不具合で苦しんでいる人は意外に多いのだそうで、4カ所の整形外科に行きましたがどこもうんざりするほど患者さんで満杯でした。

皆さんもくれぐれもお気をつけ下さい。
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ファブリーニの本−3

いささかしつこいようですが、もうひとつピアノの話題で記憶に残ったものとしては、次のような一文が。

19世紀から20世紀にかけてヨーロッパには素晴らしいピアノメーカーがいくつもあったけれど、アジア大手の台頭によって押しつぶされ、ピアノの音の均一化が避けられなくなってしまった、と。
均一化については頷けるものの、アジアの大手のせいでヨーロッパの伝統的なピアノが押しつぶされたというのは、正確にはどうでしょう?
個人的には、大戦後の時代変化によって多くの伝統的なピアノメーカーが生息できるだけの需要がなくなり、(とても残念ですが)淘汰された結果であって、アジア勢(おそらく日本)の台頭はその後ではないかと思います。

均一化については、日本人のピアノ関係者の方々は、美しく芸術的な音質や響きのことより、パーツの「精度」とか、なにかにつけ「均一化」ということを金科玉条のように信じ込んでおられる印象はあります。
おそらくそういう価値観に基づいた教育を叩きこまれて技術者になったのでしょうし、もともと日本人は「揃える」といったたぐいは民族的に好きで得意なところですから。
そこでいう均一とは全音域のことでもあるだろうし、タッチやアクションのことでもあり、高品質大量生産が手工業に打ち勝つことを是とするもので、日本人はこういうわかりやすい正義を与えられると俄然本領発揮です。

低音から高音までむらなく整えられていることは大筋で大事とは思うけれど、言われるほど均一が絶対的に正しいことなのかどうか、以前から疑問でしたのでここは膝を打つ思いでした。

スタインウェイなどはセクションごとに音質が異なり、個人的にはそれがまた素晴らしいと思っています。
各音には個性があり、極端に言えばところどころの隣り合う音の個性がむしろ違っていたりするけれど、それが曲になるとなんとも言えない深みを帯びたりところにも西洋的な魅力を感じていたので、均一というものの価値がどうもわかりません。
弦楽器に例えるなら、もしコントラバスからヴァイオリンまでのすべての音域を均一にまかなえるものがあったら、そのほうがいいのか?というと、私はとてもそうは思いませんし、それぞれの楽器の個性があればこそ、多層的な魅力になっていると思います。

ピアノはオーケストラのような楽器だと喩えられることがありますが、だとするならむしろ過度に均一であってはならないような気がするし、様々な要素を内包しているからこそ計り知れない魅力や可能性を秘めているとも思うのです。
音域によって張弦されたセクションが変わったり、芯線が巻線になったら、音質が変わるのは当然で、それを最大限活かすのがピアノづくりの極意じゃないか?という思いが拭えず、ただスムーズな音の高低だけに整えることは、ただきれいにまとまっただけのものにしかならないような気がします。

実際そのような方向で作られたピアノに触れると、ある一面においては感心はしてもやはりあまり面白くはないし、想像力が掻き立てられず、なにやらピアノの表現力そのものが小さく限定されてしまったような気がしました。

ショパンが、人間の指はどれも同じではなく長さも構造も違い、それぞれに個性があるのだからスケールでもロ長調やホ長調などが自然で、逆にハ長調が一番難しいといったように、各音域はそれぞれの個性を隠そうとしないほうが、演奏した時にさまざまな色合いや雰囲気が立ち現れるように思います。

最後にもう一つ思い出しましたが、ファブリーニ氏によれば調律は上手か下手ではなく、美しいかどうかで判断すべきとあり、これには大いに膝を打つ思いがしました。
もちろん、ある程度以上の次元でのお話だと思いますが、ただ定規で計ったようなカチカチの調律をすることを正しいと思っている調律士さんがいらっしゃいますが、心に訴える美しい調律であってほしいものです。
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ファブリーニの本−2

前回書ききれなかったことなど。
個人的に意外な印象があとに残ったことがありました。

ピアノといえば一にも二にも音こそが最重要だと思っていましたが、弾き手にとって直に演奏を左右する主役は実は思っていた以上にタッチかもしれないということ(決して音が二の次という意味ではないけれど)。

音は極論すれば楽器生来のもの、すなわち固有のもので、それを最良最大に活かすことが限界であり、それ以上その個体が持っているものを望むことはできないし、どうしても容認できない場合はピアノ本体を取り替えるしかない。
それに比べればタッチは入力の変換装置であり物理領域であるから、精緻な技術をもつ技術者しだいでは極上を目指すことも不可能ではない可能性を感じます。

自分のピアノへのこだわりが強く、常になにかしらの不満や悩みがつきない場合、大抵は音色/響き/タッチなど複数の要素がないまぜになっていることが解決への明確性を阻んでいるのかもしれません。
とりあえず音色や響きのことは横に置いて、徹底的な整調、つまり鍵盤からアクションまわりの可動部分の質的向上に注力して、ここを極限まで高めてみるのは意味のあることではないか?
そのためには高度な技術はもちろん、消耗品などもためらわず交換して、誤解を恐れずにいうならメーカーが求める以上の厳しい基準に高めることで、鍵盤からアクションに至る動きを繊細かつ徹底して滑らかなものにすることができるかもしれません。

そして、もしやそれをやっているのがファブリーニ氏だろうか?という考えも頭をよぎりました。

タッチがこの上ないものとなれば、音や響きに対して格段に寛大になれるような気もします。
逆にいえば、いい音がしていてもタッチが足を引っ張り邪魔をして、いい音として正しく認識できない場合もあるかもしれません。
この極上タッチを実現するためには、その重要性を理解し、実行してくれる技術者さんの存在が問題となりますが、これがなかなかの難関かもしれません。
技術者というのは自信やプライドがあるもので、自分の流儀が出来上がっているとそれを崩すのは容易ではない。
こちらがいくら要求しても「音はタッチに左右され、タッチは音に左右される」「それぞれが関連し影響し合ってのタッチであり音であるので、切り離して考えることはできない」などと意味深長ことをいわれたあげく、中にはタッチの問題を整音や調律で解決しようとする、甚だありがたくない独善的な方も現実にいらっしゃいます。

それを断固否定すれば決裂にもなりかねないので、「少し良くなった気がします…」などと心にもないことを言ってお引き取り願い、技術者さんは解決できたと勘違いされるのがオチ。
この手合にかかると、延々とお茶を濁されるだけで、いつまでも問題は解決しません。

メカニカルな領域は四の五の言わずに、物理的なものとして潔く割りきって作業にあたっていただきたいものです。
真の美音は、このような音以前の手間暇のかかった基盤の上に支えられているべきものかも…という気がしたのは事実です。

プロがここぞという勝負の演奏をするときなどはともかく、普段のピアノライフを真に豊かなものとして充実させるためには、自分の思い描いた通りになるタッチというものは、これまで考えてい以上に大切だということをそっと教えられた気がしています。
そういう意識が芽生えただけでも、この本を読んだ価値があったような気がします。
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ファブリーニの本

このブログで知り合った方で、折にふれ興味深い情報を寄せてくださるご親切な方がいらっしゃいます。
今回はファブリーニの本が出ているというもので、すぐにAmazonから購入して読みました。

ファブリーニについては、ピアノ/ピアニスト好きの方なら今更説明するまでもない、イタリアを拠点に世界のステージをピアノ付きで飛び回る有名ピアノ技術者。
その顧客はまさに一流ピアニストが名を連ねるもので、多くのコンサートや録音にファブリーニのピアノが使われているのはご存じの方も少なくないでしょう。
とりわけミケランジェリのように楽器に対するこだわりが尋常でなく、そのためコンサートのキャンセルすら厭わなかった鬼才のピアノを担当していたことや、やはり楽器に対する要求の強いポリーニの御用達でもあるなど、ピアノ技術界の有名人でしょう。

ポリーニやシフの演奏動画を見ると、側面のSTEINWAY&SONSの文字の下には「Fabbrini」のロゴが映り、ありきたりなスタインウェイではないことを主張しています。

いつだったか、まだ若い頃のジャン=マルク・ルイサダが来日時のインタビューの中で、「自分は先日ファブリーニのピアノを弾く幸運に恵まれた」「ヨーロッパでは彼のピアノを弾けるということは、ピアニストにとってステイタスなんだ」というようなことを言っていたような覚えがあります。

そんなファブリーニ氏が書いた本というわけで、いやが上にも期待は高まりワクワクしながら読み始めたのですが、意外なことにピアノという楽器に関する氏の考えや技術的な言及は少なめで、もっぱら自分と名だたるピアニストたちの交流録のような内容でした。
素人ながら氏の専門分野における極意や美意識などを少しでも知りたかったので、予想とはやや方向性が違っていましたが、もちろん面白かったのも事実です。

驚いたことに、ファブリーニ氏はこれまでにスタインウェイのD(コンサートグランド)だけで約200台!を購入したのだそうで、スタインウェイ社は2008年にファブリーニ氏の名前入り記念デカールが響板に貼り込まれた記念モデルまで製作したというのですから、その猛烈な数に仰天させられました。
200台というのは過去数十年間での総数で、平常何台ほどのDが待機しているのかは知らないけれど、それから15年が経過していることを考えると、その数はさらに更新されているんでしょうね。
名だたるピアニストとの関係が増えれば、その要望を満たすピアノを提供するためにそこまでしなくてはいけないものなのか…私などにはおよそ想像もつきません。
しばしばピアノの入れ替えも行われているようですし、さらにはステージで使ったピアノを、ピアニストやコンサートを聴いた人が購入希望してくることもあるようで、そうなると同業者との軋轢などが発生するのは万国共通で、敵が多いというようなことも少し触れられています。
ファブリーニ氏の店はスタインウェイの代理店も兼ねているようで、同業者にしてみればこんなやり手が近くにいたらたまったものではないでしょうね。

エピソードのひとつで、ハンブルクのスタインウェイにB型を4台買うつもりで行ったところ、使われた木材のロットでつながりがあることがわかり、試しているうち全部を持ち帰りたくなり、交渉の結果(といったって、お互いビジネスだから一台でもたくさん売りたいわけでしょうが)10台買うことになったといういきさつなどが書かれていたりで、この辺になってくるとやや意味がわかりませんでした。
B型はいわゆる家庭や小規模スペース用のピアノだから、本格的なコンサート用の貸出にはならないことを考えると、主には販売目的の仕入れと思われますが、スタインウェイというそもそもの銘器に、さらにファブリーニというブランドがコラボされれば、10台仕入れても売れる算段があるということでしょう。

とはいえ、本のタイトルは『ピアノ調律師の工具カバン』となっており、そのタイトルに対して内容はいささか「ビジネスの成功本」的な後味は残りました。
ピアニストたちのかかわりにしても、フランツ・モアの『ピアノの巨匠たちとともに』のほうが味わい深く面白かったように思います。

とはいえ、一読しただけで片付けてしまうのもどこか納得の行かないところもあり、念のため始めからもう一度読み返してみましたが、
ピアノに対することがまったく書かれていないわけではなく、そこから見えてきたものは、ファブリーニピアノの主な特徴はタッチにあるらしいことが少しわかった気がしました。
もちろん調律や整音にもさまざまな工夫をこらしているようですが、それ以上にタッチ重視のようで、アクションの存在を忘れさせるような、なるなめらかで意のままになるタッチに仕上げることがファブリーニピアノの一丁目一番地であるような印象が残りました。

これは単にキーが軽いとか重いとかではなく、弾き手の指先(あるいはイメージ?)が弦と直結しているかのように正確に反映されること、つまり奏者と楽器が一体化するような感覚を目指しているのかもしれません。
終演後のニキタ・マガロフから「今日はアクション無しで弾けたよ、と言われたのが私にとっての最高の賛辞だった」とあるのも、そこが最大のポイントだということでしょう。
考えてみれば、キーが多少重かろうが軽かろうが、徹底してなめらかでコントロールしやすいピアノには有無を言わさぬ上質感と親密性があり、喜びと興奮と演奏のイマジネーションが広がるものだから、それは当然ステージ演奏を本業とするピアニストにとって、これに優る心強さと安心感はないのだろうと思います。

上記のルイサダが、その後ヤマハを使うようになったのは、もしやファブリーニのピアノがもつアクションの心地よさがきっかけでは?などと勝手な想像をしたりしています。
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とうとう

ピアノ関連のある本のことを書いていたのですが、体調面のことがあって続けられずに遅くなっています。

それなのに、こんなことを書いたものかどうか迷いましたが、敢えて書いてみることに。
実はこの時期になって、ついに新型コロナに感染(たぶん)してしまったようなのです。

最近はマスク無しの人もチラホラ見るようになってきたし、なんとなく収束方向というイメージもあって油断していたこともあり、土曜にちょっとした集まりがあって長時間会食したりしていたのですが、それからキッチリ二日後の月曜の夜になって、体にわずかな倦怠感を感じるようになったのがはじまりでした。

とりあえず熱を計ってみると、36度台の後半になっていて、通常は36度未満というのが当たり前なので「あれ?」と思いましたが、深夜には37度を軽々と越えてしまいました。

(たぶん)と書いたのは、症状の動きの激しいインフルエンザとはあきらかに違う気がしたし、コロナであればどうせ薬はないだろうというわけで病院にも行っていないから、医療関係から正式にコロナという診断結論を得たわけではないためです。
それから5日間経過してようやく治まってきた感じがあり、素人判断ではありますが、自分ではほぼ確信をもって新型コロナだろうと判断してます。

幸いにして、熱は聞いていたほど高熱には至らず、激烈な苦しみなどもなかったけれど、ただ、長年生きてきて、これまでに体験したどんな風邪やインフルエンザとも明らかに違うものが我が身を侵食しているというイヤな感覚があり、それが「新型」という未知の感じを裏付けているようでした。
発熱は最高で37.7度でしたが、はじめの4日間ほどの大半はほぼ37.1〜37.5度をキープしており、上下というのかほとんど波がなく、解熱剤を服用するとしばらくは36度台にまで下がるものの、効能が切れるとサッと元に戻る変な安定感にも独特な怖さがありました。

もちろん倦怠感や頭痛、鼻水、咳などがありましたが、どうも文字ではその不気味な感覚が伝えきれません。

かなり前、ワクチンも都合3回打ったし、個人的になんとかこの世界的なパンデミックをやり過ごしたかなぁと思っていたところへ、コロナウイルスはしっかりと我が身にも忍び寄ってきていたわけで、油断の間隙をつかれたというわけです。
知人によれば「ワクチンを打った人のほうが、却って感染しやすい」のだそうで、ワクチン効果に助けられただけで何の抵抗力もついていないから、そんな人がワクチン効果が切れた状態になると、もともと未接種の人よりも感染リスクが高まるのだと事もなげに言われ、変に納得してしまいました。

思い出せば、最近はインフルエンザと新型コロナの両方が流行っているとか、市内の学校でいまだにクラスター発生などニュースとしては聞いていましたが、なにしろすっかり緊張の糸は切れ、そんな情報は耳を素通りし、以前ほど深刻に受け止めなくなっていた矢先の出来事でした。

報道によれば、中国では今また経済活動を揺るがすほどの新たな波が押し寄せているのだそうで、どうやらこの夏も終わりじゃないようです。
皆様もどうかくれぐれもご注意ください。

【追記】熱や咳や倦怠感ばかりに気を取られていましたが、気が付いたら嗅覚がかなり失われていました。ここ最近は食べ物の味もイマイチで、塩分ばかりを感じ、それは体調のせいだろうぐらいに思っていたのですが、熱もどうにか収まったあたりで冷静さを取り戻すと、なんと一様にものの匂いがしないことに気づいたというしだい。
蚊取り線香のような強烈な匂いのもので、やっとかすかにわかる程度で、これは相当なものです。ネットによれば「コロナの後遺症」だそうで、回復には2週間から長い場合は半年ということもあるそうです。
コロナに感染したことは自己判断であることは書いていましたが、この嗅覚の件をもって確定していいと思います。
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ユニクロの憂鬱

私は特定のものにはこだわりが強いほうかもしれないけれど、そうではないところにはまったく無頓着で、衣服などがそれにあたります。
むろん色やデザインは人並みには吟味しているつもりですが、いわゆる高級品だのどこそこのブランドだのなんだのということにはまるで興味がないし、自分が気に入ったものなら安物で一向に構いません。
自分のセンスといえば大げさですが好みに適ったもので、いちおうの身だしなみを満たすものなら、それで充分というわけです。

普段着るものならユニクロなどで充分なのですが、残念なことにあそこの商品はサイズがまったくダメで、こればかりはどうにもなりません。
パンツ類や防寒着のたぐいはまだいいとして、普通の襟のあるシャツ類になるとまるで体型に合わないし、とくに長袖になると絶望的です。

S、M、L、XLといった区別はあるけれど、それに合わせて首回りや袖の長さが固定化されており、世の中にはさまざまな体型の方がいらっしゃるはずなのに、よくこれで商売になるもんだと思います。
胴体を適当に合わせれば、あとは安物なんだからガマンしろ、それが嫌なら買わなくて結構といわれているようです。

ずいぶん前ですが、まだ世界的に物価が安かった頃、アメリカからの通販などに依存した時期がありましたが、あちらのシャツ類は基本のサイズに加えて、首回り/袖丈などを自分の体型に合わせて選べるようになっており、おかげで望む通りのものが楽に手に入っていました。

またコストコなどでも、シャツの大半は同様で、同じMやLでも首回り/袖丈が(インチ表示で)書かれており、その中から自分に合うサイズを選べるようになっています。

しかるにユニクロはそれが全く無く、私は全体としてはLなんですが、それにすると首回りが大きくて不格好な隙間ができてしまいます。
襟付きシャツの場合、首回りのサイズが大きすぎると、いかにも貧相でみっともない感じになり、極端なことをいえば一番上のボタンを外すようなシャツなら、一番上のボタンはきつくて留められないぐらいがバランスがいいのです。
ところがユニクロは全く逆で、一番上を留めても喉元にはまだ三角形の隙間ができてしまいます。
かといってMにすると、今度は身幅がタイトになるのはまだガマンできるとしても、袖が子供用のように短くなってしまってまともに着れたものじゃありません。

ユニクロが徹底した合理化やコスト削減によって現在の地位にまで登りつめた企業だとしても、いまや世界有数の衣類メーカーだというのに、サイズに対してはひどく鈍感というか杜撰というか、洋装に関する最低限の見識を持ち合わせていないようで、このあたりはやはり服飾文化をもたない、しょせんは東洋のブランドという気がします。

その点でいうと、H&M(スウェーデン)なども細かいサイズは選べないけれど、ユニクロのように「首回りが大きくて袖丈は短い」というようなことはないので、さすがは北欧だと思っていましたが、あまりにも雑で生地がペロンペロンだったりします。

そんな折、無印良品でセールをやっていたのでダメモトでちょっと試着してみたら、意外なことにかなりマシというか妥協の範囲であることを発見、さっそくセール品を二枚ほど買い求めました。
無印良品はご承知のように西武系の日本発祥のブランドにもかかわらず、基準になっている寸法はユニクロよりはるかに好ましく、こんなに違いがあるとは思っていませんでした。

そこで、論より証拠というわけで、「ユニクロのL」と「無印良品のM」のごく普通の長袖シャツを重ね合わせてみると、なんたることか着丈も袖丈もほぼ同じで、無印良品のほうはMにもかかわらずわずかに肩幅/身幅が広く、逆に首回りはメジャーで計ったところでは約3cmほど細い作りになっていました。
つまりユニクロのメンズのLサイズのシャツは、無印良品のMサイズ相当で、そこに首回りだけを広げてLサイズと称しているようで、これまでのモヤモヤが一気に解明されました。
どうりでユニクロのMを試着したら、首周りはいいけれどそれ以外はえらくちんちくりんになる筈で、確認こそしていませんが、おそらく無印でいうSサイズだろうと思われ、できればLサイズの袖丈の欲しい私にとって、どうあがいてもムリなことがよくわかりました。

最近は新しい商業施設やショッピングモールができると、ユニクロは抜け目ないほど必ず出店しているあたり、この分野で並ぶもののない大手であることは誰もが知るところですが、そんなに圧倒的な大手なんだったら、すこしは着る側のことを考えてせめてシャツのサイズに関しては若干のバリエーションを追加して欲しいものです。
サイズが増えればムダも出て、そのぶん少しお高くなったとしても、サイズがきちんと合えば私は買いますが、これはシロウトの甘い考えというものでしょうか?
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強制買い替え

早いもので今年も除湿機が必要な季節になりました。
冬の暖房時には加湿器、梅雨以降は除湿機と、水を「注ぎ足すか」「捨てるか」の作業を一年の大半において日課としてやらされるのは日本のような気候に住み暮らす者にとって、湿度管理する上では避けられない宿命みたいなもの。

高級な機器をお使いの方もいらっしゃることでしょうから、そのへんのことはわかりませんが、私はできるだけ安価で必要な機能さえ得られればそれでいいという派なので、我が家にあるものの大半は単純機能のものです。

加湿器は故障も少なく、なによりお安いので気楽ですが、除湿機の故障にはこれまでどれだけ悩まされてきたかと思います。
前シーズンまで何の問題もなく使えていたものが、次の季節、物置から引っぱりだしてスイッチをONしたはいいけれど何時間たってもタンクに全く水が貯まらないということは一度や二度ではありません。

昔は主にコロナ(メーカー)を使っていましたが、何度も同様のことが起き、懲りて別メーカーのものにすべく、ひとつはダイキン、もう一つはシャープに買い換えたのが数年前でした。

ところがそのいずれにも同様のことが起ったのは驚きでした。
ダイキンは私にしては訳あって高級機だったにもかかわらずで、驚きつつ修理依頼をすると、すぐに宅急便で回収されて連絡待ちということになりましたが、数日後にかかってきた電話によれば「異常が確認でき、今回は新型に交換させていただきます」という事になりました。
保証期間の1年は過ぎていましたが無償対応となり、さすがは名の通ったブランドということも併せて感じさせるものがありました。

ただ、その点はコロナも同様で、これまでに修理に出した結果、新品交換という対処をされたことが何度かありました。
しかるに今回自室で使っていたものはシャープの最も売れ筋のモデルだったのですが、何の問題もなく4年ほど使っていたのに、今季使用開始したところ、機械は動いて風は出ているのに、肝心の除湿機能が働かずタンク内は何時間たってもカラカラのままで、一滴の水も落ちてきません。

いろいろと操作を変えたり、説明書を見返したり、コンセントを抜き差しするなど、数日間というもの自分でできる範囲のことは考えられる限りやったにもかかわらず、タンクの中は無情にも乾ききっており情けないと言ったらありません。

しかたなくカスタマーセンターに電話したら、応対に出てきた女性からひと通りのことを聞かれ「それでは見せて頂く以外にありません」ということで、その際「修理にだいたい10000円〜15000円程度、引取に5500円、熱交換器などの故障になりますと5万円以上になることもありますが、よろしいでしょうか?」と、演技でも困っているユーザーに寄り添うような気配はゼロ、至って事務的でサバサバ感が目立つ言い方で他の二社とはずいぶん違うものでした。
そんな金額、よろしいわけがない!

この除湿機自体が、もともと2万円ちょっとぐらいのものなのに、その修理費用のあらましを聞かされただけでバカバカしく、まして5万円以上になることもあるという脅しのような念押しをしてくるあたり、ユーザーに対する礼節のかけらもないもの。
「ということは、現実的には修理せずに新品に買い換えなさい、ということですね」と皮肉をいうと、あっさり「そうですねぇ…」とスパッと言われたのは不快のダメ押しでした。
当然ながら、このメーカーに対するイメージが一気に低下しました。

それにしても、除湿機の故障というのはいつも同じで、必要な季節になって半年ぶりぐらいに使い始めた時、なぜか機能を失っている(故障状態になっている)というパターンなので、使わない時間が長いと機械的になにか問題が起こるのか?と思い、そのあたりも質問してみましたが「いえ、とくにありません」というAIみたいな言葉が返ってくるばかりでした。

除湿機ナシでは快適性の面でも、ピアノの健康管理のためにも済まされないので、結局は新たに購入する以外になく、安さで定評のホームセンターに行ったところ、SKジャパンという名のピアノや基礎化粧品を連想するようなメーカーで強力&大容量を謳った製品があり、しかも価格は除湿力半分の他社製品並、急ぎネットで調べたところ、日本のメーカー(?)で生産国は中国、口コミなども少ないけれど好意的なものがあり、思い切ってそれを購入しました。
品質やアフターの心配が頭をよぎったけれど、いざとなったら今回のように高額な修理代を告げられて買い替えさせられるのだから、有名メーカーの安心感なんぞなんの役にも立たないし、急いで欲しいこともあってそれを購入しました。

強力&大容量というだけあってやや大型ですが、これまで取り切れていなかった湿度がスイスイと下がり、とりあえず一安心ということろです。
それと思いがけず気に入った点は、デザインが望外に好ましい点です。
大半の日本メーカーの家電というのは、各社申し合わせたように似たり寄ったりのデザインで悪い意味で日本的、それもいまだに昭和を引きずったようなダサくてカッコ悪いものばかりで、やたら意味のない丸みをつけたり沈鬱な色使いなど、そのビジュアルが少しも良くならないのは不思議というほかありません。
唯一の例外は、もはやデザインの余地のなくなった液晶テレビぐらいなもので、他の製品はどんなにモダンなインテリアだろうが、それひとつ置いた瞬間に昭和のお茶の間のようになってしまう独特な存在感のものばかりで、家電は日本のデザインの中でもっとも洗練から遮断された分野ではないかと思います。
その点、SKジャパンの除湿機は無駄がなくキッパリしているぶん機能美さえ感じられ、それだけでセンスのいい外国製品のような雰囲気も大いに気に入りました。

外国製といえば、このSKジャパンというメーカー、ネットで簡単には調べたぐらいではその素性はよくわかりません。
製造は中国のようで、どこぞの海外メーカーの日本法人なのか、純粋に日本の新興メーカーなのかもわかりませんが、もうそんなことはどうでもよく、これまでの経験を踏まえれば3〜4年使えればと願うばかりです。
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民族性?

新型コロナが感染症法の2類に分類され続けていることに対して、疑問の声が上がりはじめていたのはいつ頃だったか、よくは覚えていませんがかなり前だった気がしますが、なかなか聞き入れられないようでした。
「反対派」の声は大きく、その裏には医療関係の利害に関する事情なども絡んでいるようで、補助金の類は湯水のように垂れ流され、コロナのおかげで黒字転換できた病院も多いともいわれるなど驚きです。
それがついに今春から5類相当に引き下げとなりました。

何事も複雑な裏事情が絡んでいるのはこの世の常なので、一般人が簡単に考えるようなわけにはいかないようで、とくに我が国は何事においても決定決断が遅い体質であることは感じるところ。

くわえて、何事につけても「もしもの場合、誰が責任を取るのか?」というお馴染みの、ほとんど脅迫的なブレーキがかかり、関係者も自分に累が及ぶことを恐れて手を付けきれないのがいつものパターン。
さらに政治家は、それが選挙に与える影響を案じる本能から逃れられないなど、これらの体質が作り出す毎度おなじみの現象なのでしょう。

コロナといえばマスク。
日本人はよほどこれがお好きなのか、いまだに外さない人が少なくないことと言ったら驚くばかり。
感染対策として本当にマスクが必要と思っている方もいらっしゃるでしょうけれど、大半は自分がマスクをしないことで、社会性の欠如した人間として忌避されないための安全マークとしてつけているようにしか見えなかったり…。
私は念の為にポケットなどにしのばせてはいますが、基本的にはもう付けません。

何ヶ月も前の話ですが、ヨーロッパなどはずいぶん早い時期にコロナ前の活気を取り戻し、マスクなしの人でごった返えしているというのに、成田に降り立ったとたん人はまばら、ターミナル内はシャッター街と化し、その上マスクをつけざるをえない状況に強烈な違和感を覚えるのだとか。
用心することは大切だし、日本人のもつ生真面目さや慎重さはむろん素晴らしい面がたくさんあるけれど、素晴らしいばかりではない印象も拭えないのも正直なところ。
とくに個人主義とは真逆の、横並び主義と同調圧力でがんじがらめにされるのは同じ日本人でありながら息苦しく、しばしば反発を覚えます。

以前も書いたかもしれませんが、一台の車に一人で乗っているにもかかわらず、ドライバーはマスクをしている様子に、それを見た外国人が驚愕したそうですが激しく同意します。

海外ドラマを見ていると、携帯電話の使い方にも彼我の違いがあって驚かされます。
日本は、よほどの理由がないと気軽にはできないものというのが常識化しており、これひとつでも陰気で窮屈です。
LINEやショートメールなどで前ふりして、その上で「必要時」だけ直接通話となる雰囲気。
また、常時マナーモードにしておく人も珍しくなく、職場や病院などならわかるけれど、常時というのは何なのか…。
そうする人にその理由を聞いてみたら、公共交通機関や人の多い繁華街、店舗内など他人のいる場で呼び出し音が鳴ったら、周囲に迷惑をかけると真顔で答えられ、それを正しいと考えて自信を持っている様子にびっくりしました。

呼び出し音といっても、別に大音響が響くわけでもなく、今どきは殆どの人が電話を持っているのだからお互い様であるはずなのに、これではいったい何のための電話か?と思います。
電話が個人のものとなって以降のほうが、メールや着信履歴を相手が見るまで待ち状態となるなど便利どころか却って手間隙がかかり、気疲れするようになり、固定電話の時代の気軽さが懐かしく思えることも。

海外の映画やドラマでは、いつどこにいようが容赦なくバンバン電話が鳴って、上記のような斟酌のかけらもありません。
むろん実生活の面でどうなのかはわかりませんが、しかし日本のように過剰に着信音その他に細かく注意を張り巡らせたり、内向きの縮こまったような用心の鎧で身を固めるということは、ずっと少ないだろうと思うのです。
電話ひとつにこれだけ用心深さを費やすというのは、細やかな心遣いや繊細さなどといえば聞こえはいいけれど、日本人固有の体裁や臆病、卑屈さも相当加勢しているのではなかろうかと感じます。

ついでにもうひとつ書くと、夕方のあるチャンネル(民法の全国放送)のニュースでは、番組構成には心の底から呆れています。
全体は2つに分かれ、後半でメインのニュースを扱うようですが、それでも全体はれっきとしたニュース番組であるにもかかわらず、前半はほとんど毎日のように野球のニュースが長時間占めて常態化しているのは尋常ではありません。

そこでいつも必ず取り上げられているのは、アメリカで活躍するあの日本人選手で、たしかに彼は野球の神様から選ばれし天才でしょうし、日本人の誇りであることにも異論はありません。
だからといって、毎日ニュースの冒頭から彼の姿を見せられ、その名を繰り返し聞かされなくてはいけないのは理解に苦しみます。時間も30分以上これに割かれることも珍しくはなく、スポーツニュースでもないのにこのようなことがなぜ許されるのか?と疑問は募るばかり。
これではご当人の責任ではないのに、だんだん見るのもその名前を聞くのもいやになってくるのは、ご本人にとっても逆に迷惑なことで彼の足を引っ張っているのではないでしょうか。
日本には「贔屓の引き倒し」とか「褒め殺し」というのがありますが、ふとそんなことを連想してしまいます。

決定の遅さやマスクにも通じることで、これを民族性だと言ってしまえばそれっきりですが。
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ホテルの読書灯

所用にかこつけて、4月に車で旅をしたことは書きましたが、いつもホテルに泊まると不便に感じることがあるため、今回はその備えをして出かけましたが大成功でした。

以前から感じていたことですが、ホテルのベッドの枕元には、ちゃんと本が読めるよう照らす機能を備えた読書灯が一見ありそうで、実はほとんどないことが疑問でなりませんでした。
パッと目はいちおうそれらしい照明器具はあるようで、それら大半はデザイン優先なのか読書するに適当とは言いがたい代物ばかり。
装飾としての照明の趣が強いのか、さてそれで就寝前の読書ができるかというと、照らす場所はまったく違うし、暗くて角度の調整は限定される、もしくは固定され全く動かなかいなど、要するに機能的にものの役に立ちません。
結果的に非常に劣悪な明かりで本を読むことになるのは、およそ快適とはいいがたく、いつも閉口させられるばかりでした。

そこで、今回はきわめて簡易的なLED照明具を持っていくことにして、電源はUSBから取る方式で、電源にはモバイルチャージャーという小型の携帯型バッテリーを準備しました。
これはホームセンター等どこにでも売っているし、価格もメーカーや容量によって多少は違うけれど基本的にどれも安価で、私の場合は10000mAhとかいうのを1000円ちょっとで買いました。

これをコンセントに繋いで充電しておけば、あとは充電器として使えるわけで、就寝時はその照明具を繋ぐことで様相以上に実用を満たしてくれて、快適に本を読むことができました。
容量もなかなかのもので、読んでいるうちにそのまま寝てしまうことも何度かありましたが、そんなときは朝までライトはつきっぱなしで、それでもバッテリー自体は殆ど減っていないほど保ちがよく、これはなかなか心強く重宝しました。

それにしてもホテルの枕元というのは、なぜどこも機能的な読書灯がないのか不思議でなりません。
まさか大半の人は就寝前に本を開くことをしないのか?とも思いますが、映画など見ていてもベッドに入ってから寝付くまで本を読むというシーンはよく見かけるし、やはりその理由がわかりません。
例えば飛行機でさえ読書灯はちゃんと使用に堪えるものが各シートの上面に付いているのに、よりくつろぎを求めたいホテルになぜこの点の配慮が疎かなのかは全く解せません。

それでなくても、睡眠というのは導入剤なども多数あるように、現代人は不眠に苦労している人も少なくなく、ましてホテルという普段とは違う環境や寝具となると、寝入るまでが問題となる方はますますいらっしゃるのではなかろうかと思うのです。
そのためにも、睡眠へ移行するための一助としてもベッドでの読書というのは大切でないはずはないと思うのですが…。

ちなみに私も寝付きには苦労しているほうで、少しでも睡眠に入るチャンスを逃せば眠れない状態が延々と続き、ヘタをすると窓の外がしらじらと明るくなってくることも。
そういう意味でも、寝る前の本とのお付き合いはとても重要で、うまくすれば1ページほどで眠りにつくこともあります。

いずれにしろ、ホテルという人の睡眠も預かる業種において、ちょっと枕元で本が読める照明具をつける程度のことは、今どき大したコストでもないはずなので、この点は認識の周知と早急な改革をお願いしたいところです。

逆に、さすがは時代を反映しているなぁと感心したのは、今回利用した6ヶ所すべてのホテルでは一つの例外もなくWi-Fiが使えるようになっており、おかげで使い古したiPadなども役立ったのは大いに助けられました。
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脱ライバル

近ごろ日本の若手有名ピアニストの皆さんの活動で目につくことのひとつは、2台ピアノなど、さまざまな組み合わせによる共演が目立つところでしょうか?

これまでなら、多くのプロ(とりわけ実力あるソロアーティストや、話題の演奏家)などの同業者同士は、少なくとも表立って交流したり、ステージやメディアで共演することは非常に稀であるのが普通で、人気・実力も上がるほどライバルとなり近づくことさえない印象があり、世の中もなんとなくそういうものだと自然に思っていたように思います。

それ故、驚きとして印象深いのは、1970年代だったかカーネギーホールで史上最大のコンサートというのがあり、ホロヴィッツやフィッシャー=ディスカウ、ロストロポーヴィチ、アイザック・スターン、バーンスタインなどが同じ舞台に立ったことは「奇跡じゃないか!?」というほどの事件でした。
それほど音楽の分野ではソロアーティスト同士の共演(弦などのアンサンブルを除く)というのは、少なくとも一般人に見えるかたちではゼロとは言わないまでもほとんどなかったように思いますし、とくにピアニストはその傾向が強かったと思います。

それを打ち破ったのがアルゲリッチで、彼女が多くのソリストはじめ、ピアニストとも連弾や2台ピアノなどで共演をはじめたのは、それじたいがちょっとした驚きだった覚えがあります。
彼女の場合はとにかくソロがいやで、誰かと一緒だったらステージに出るという特殊事情による副産物だったのかもしれませんが、結果的に演奏家間の風通しを良くするきっかけになったように思います。

最近はそのあたりの常識がさらに進化/常態化したのか、違った側面からの動きなのか真相はわかりませんが、少なくとも日本の名だたる若手演奏達は互いに垣根を超えて、あらゆる組み合わせでこだわりなく演奏し合っており、コンサートという名のイベントとして盛り上げる戦略なのかもしれないけれど、いずれにしろそれが今のトレンドのようです。

もはやかつてのような圧倒的なスターや巨匠など、カリスマ性を持った大物がいなくなったことも時代背景としてあるのでしょう。
そもそもそういう大スターや巨匠というものは、時代の求めによって現れてくるもので、逆に言えば現代はそういうものをさほど望んでいないということなのかもしれません。

さらに演奏者の技術的レベルが向上して、なんでも弾けて当たり前の時代だから技術的に少々のことでは興味を掻き立てられることはなくなり、同時に弾く側も聴く側も音楽的芸術的深度の追求は薄まって、もっとカジュアルで芸能人やスポーツ選手感覚に近いものとして捉えられているようにも感じます。

少なくとも今はクラシックのコンサートといっても、御大層に構えていられるご時世ではないことも、このようなスタイルが生まれてきた背景としてあるような気がします。
名のある若手演奏家達は、互いの知名度や人気を今風にいえばシェアして、クラシックのコンサートそのものを新しい手段で活性化しているという事かもしれませんし、これからの時代はそれもアリなのかもしれません。

先日見た『題名のない音楽会』でも、2台ピアノ特集で角野隼人&小林愛実、小曽根真&藤田真央、反田恭平&藤田真央と言った具合に次から次へと組み合わせが変わっていたし、ピアニストも同業者に対してライバルからお友達に変質したようで、結果的に昔とはずいぶん違ったもんだと思います。

同業者として仲良しというのは基本的に結構なことではありますが、一般人にすればある種の特別を求めたい人達が、みんな平和に仲良しですよという在り方は、どこかしっくりこないものを感じる自分がいることも正直なところ。
炸裂する個性、エゴと芸術の危うさ、ヒリヒリするようなライバル関係、すれ違うだけでも火花が散るようなスリルも、我々が彼らに求める特別のひとつですが、今の世代はそういうものは端から求めていないのかもしれません。

老若男女だれもがストレスまみれであるこのご時世に、ライバル同士が確執の炎を上げ続けるのも疲れるだろうし、そのままだと潰し合いになる可能性もあるなら、いっそフツーに仲良くしていたほうが消耗も少ないし、演奏機会という市場規模も拡大できるとなれば結局はメリットも多く、総合的に得策なのかもしれません。
これもいま流行りの「効率化」「費用対効果」と思えば納得がいくし、もっと生々しい言葉を使えば「新しいビジネスモデル」なのかもしれません。

若い世代はこういう波に上手に乗っているようですが、それよりも上の世代になると、そう簡単に方向転換できるものではないでしょうし、なにかと難しい時代になったのかもしれません。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

草むしり

ゴールデンウイークは取り立てて行くところもなく、もっぱら庭の草取りやら掃除やらで過ごしました。

自慢じゃありませんが、私は徹底したインドア派でおまけに怠け者ときているので、庭の草取りなど年に数えるほどしかやらないので、そのぶん毎回大変です。
いつも視野に入っているはずなのに、無関心と逃避意識のなせる技か、そのあたりは自分でもわからないけれど、要するに日頃はほとんど目に入っておらず、なにかの拍子で見てしまった時には愕然とし、雑草の猛烈な繁殖力にただもう戦慄するばかり。1

とくにこのところは春の陽気となって、雑草の伸び方にもぐんと勢いがついたのか、かなりとんでもないことになっていました。
折からの大型連休到来となり、この機を逃してはかなり恐ろしいことになるという恐怖が湧き上がり、ついには腹をくくって「草むしり」に着手することになりました。
大型バケツ(20Lのペール缶)をぶらさげて、庭の端から格闘がの開始です。
さすがに素手ではできないので軍手を使うことになりますが、それだけでは不十分というのは経験済みなので、まずビニールの作業用手袋をつけ、その上から軍手というように二重にすると、いささか暑苦しいけれどこれで爪の間などに泥が入ることは一切なく、庭仕事などにはオススメです。

作業量/時間からして、ただ膝を折ってかがんだスタイルで済むことではないので、野外作業用にしているお風呂の椅子を引っぱりだしていざ開始…したのはいいけれど、いままでサボっていたぶんちょっとやそっとで終わるようなもの甘いものではありませんでした。
いよいよ始めてみれば結構夢中になり、とくに草を土から引き抜く際の、あの独特な抵抗感を伴う感触には妙な心地よさを感じながら…。
30分ぐらいはなんでもないものの、それ以上になると腰には相当の負担が溜まって固まってしまうのか、バケツの中に溜まった雑草や落ち葉を捨てに行こうとすると、立ち上がろうにもにわかには身体がまっすぐできないほど腰の痛みを伴います。

これを数回繰り返すと、だんだんその痛みも強くなってくるので、2〜3回で止めるようにしており、これを数日にわたって繰り返しました。

さらに自分でも自覚しているところですが、私はヘンなところにヘンなこだわりをもつタイプだから、普段は庭などまったく見向きもせずガーデニングなどの趣味もゼロであるのに、いったん着手すると雑な作業というのがいやで、庭の隅から丁寧に取っていかなくては気が済まないものだから、それもあってひどく時間がかかるのです。

普段は放っているくせに何を言っているんだ!という感じですが、そうしないと気が済みません。
さらに、落ち葉の処理などもあり、掃除ごとのキモは「隅っこ」だと思っているので、隅っこをそこそこにしてお茶を濁すことができず、地面に這いつくばって奥へ手を突っ込んだりしながら、かなり徹底的にやる癖があります。
家の掃除でも、洗車でも、窓拭きでもそうですが、「隅っこ」までしっかり作業が行き届いているかどうかで仕上がりがまったく違います。隅がきれいだとくっきり感がでるんでしょう。

「四角な部屋を丸く掃く」という言葉がありますが、掃除で最も肝心なのはゴミや埃のたまりやすい隅っこなので、ここが疎かだとその効果も半減するので、それだけは許せないのです
普段サボりまくっているくせに勝手なものです。
そこまでせずとも、その半分か3分の1でもいいからもう少し頻繁にやればいいものを、それができない自分が我ながら愚かしく、ずいぶんとバランスを欠いた性分なようです。

こんな調子で腰の痛みと相談しながらの作業となるので、決して広大な庭でもないけれど、どうしても数日がかります。
身体にも結構負担がかかるようで、普段とあまりに違った身体の使い方をするせいか、はじめは右手指が硬直的に痛くなり、そのうち肩が生活に影響が出るほど痛くなり夜には湿布薬を貼ることになり、あと少し作業は残っているけれど一区切りをつける判断となりました。
残りは後日ということになり、連休中に完了しなかったのは悔しいけれど、それでも一定の満足というか効果は得られました。

草むしりを含めて掃除ごとのいいところは、手をつくしたぶん明確な結果が出ることで、投じた労働に対して目に見える好ましい結果が出るというのはかなり爽快で喜びに包まれます。
何かで読んだことがありますが、下手な運動をするより掃除のほうが身体を無理なくまんべんなく使うし、やればやるだけきれいになるという精神的な嬉しさを伴い、そこが心身両面にとって好ましいことだというのですが、それは本当にそうだなぁと思います。

というわけで一区切りをつけたところ、翌日からは「それでは」とばかりに雨が降り出し、いずれにしろ作業は続けられなくなりました。
その雨は勢いが強く、しかもこのブログを書いている時点でもう3日も休みなく続いて尚やむ気配はなく、ここにも近年の異常気象を思わせる不気味さがあり、まるで家も街も水浸しになってしまうようです。
せっかくの連休というのに、最終日までこのうらめしい雨のせいで台無しになった方も大勢いらっしゃることでしょう。
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メイソン&ハムリン

YouTubeで、日本ではなかなかお目にかかれないピアノの紹介動画に行き当たりました。
メイソン&ハムリンのModel 50というアップライトピアノです。

メイソン&ハムリンは説明するまでもない、アメリカの名門メーカーで、スタインウェイはじめボールドウィン、チッカリングなどと覇を競ったピアノというイメージですが、日本ではアメリカ製のピアノはほとんど国内で流通しておらず、スタインウェイ以外はほとんど触ったことがなく、じっさいの感触などはよくわかりません。

産業革命以降、ピアノに大音量やパワーが求められるようになってから、家内工業的な製作方法であったピアノ製造は、堅牢な金属フレームや外板の強力な曲げや圧着製法など工業力を必要とする生産品目になったと背景もあってか、19世紀後半からアメリカがピアノ生産大国だったようです。
とくに大ホールの多いアメリカのような環境では、広大な空間に轟くパワーが必要とされ、石造りのサロンのような空間がメインだったヨーロッパとは、ピアノに対する要求も背景も違っていたのでしょう。

というわけでかつてアメリカは世界に冠たるピアノ生産国となり、そんなアメリカのピアノ黄金期を代表するブランドの一角を担っていたのがメイソン&ハムリンです。
私はメイソン&ハムリンに触れたことは一度もありませんが、数少ないレコード/CDなどで聴いた限りではNYスタインウェイと互角に渡り合えるピアノという印象がありました。しっとり感があり、やや雑みのあるボールドウィンより音や響きのクオリティは優っているのでは?と感じることも何度かありました。

メイソン&ハムリンのグランドの写真では、響板の張力を調整するための金属装置が裏側の支柱と響板の間に装着されており、その効果がどのようなものかはわからないけれど、いずれにしろ様々な工夫を凝らして素晴らしいピアノを作ろうという各社の意気込みがあふれていたことが察せられます。

さて、そのModel 50というのはアップライトで高さは127cmですが、YouTubeを通して聴く限りにおいては、温かく語りかけてくるような落ち着きがあり、やわらかい音色と伸びやかさがあり低音も重厚、くわえて良い意味でのアメリカらしいおおらかさがあり、こういうピアノを聞くとヨーロッパのピアノはもちろん素晴らしいけれど、やさしみというより緊張感みたいなものがあるようにも思ってしまいます。

このピアノが鳴り出すと、ふわんとあたりの空気が動きだすというか、音楽の楽しさに誘い込まれていくようで、これはタダモノではないかも…と感じました。実物に触れても同様に思えるかどうかはわかりませんが、聴いている限りにおいては、ふくよかな心地よさが漂ってくるようです。

なんとなく新品のような気配があり、だとするといまだにこんなピアノが作られているということ自体、驚くべきことだと思いました。
楽器とはそもそもそういうものでなければならないのではと思うというか、楽器の本質というものを失っていないというか、大半のピアノはその逆で、華やかなようでいてカサカサの乾燥肌みたいなピアノのなんと多いことか!

ちなみに、グランドの写真にあった響板のテンション調整のための装置は、なんとこのアップライトにも装着されており、さらに背後の支柱はこれまで見たことがないほど堅牢で、両サイドを入れると、6本もの太い支柱が縦に並ぶさまは圧巻です。

アップライトの支柱といえばX型のものがグロトリアンにあり、これを模して一時期高級機にX支柱を取り入れたのがヤマハでしたが、その効果の程はどうなんでしょう?
あくまで聞いた話ですが、アップライトピアノで重要なのは天地方向の強度だそうで、X型支柱の効果には賛否両論あり、少なくとも他のメーカーでは縦支柱以外は見たことありません。
しかも、高級品ほど支柱の数が多くて太く、安いものはその逆のようで、やはり縦の支柱こそが大事という説は、このメイソン&ハムリンの裏側を見ると、納得してしまうようでした。

その後、YouTubeでこのModel 50を検索するといくつか出てきましたが、さほどと思えないものもあったのも事実で、もしかすると潜在力はあるけれど調整がずさんなのでは?という気がしなくもありませんでした。
またグランドの紹介動画でおや?と思ったのは、メイソン&ハムリンはカワイのような非木材の真っ黒なアクションを使っており、アメリカという国は妙に贅沢なところがあるかと思えば、合理化のためにドライに割り切ってしまう、ふたつの面を併せ持っているようなイメージがあります。

価格を調べてみると$35000強で、ちなみにボストンの同サイズが$16400と、その倍以上もするピアノなので、それなりの高級品なのかもしれません。
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悪しき例外

4月の上旬、所用があって車で関西方面へ数泊の旅にでかけました。
ホテルは今はやりの検索サイトで簡単に予約できるのは、つくづく便利な時代になったことを痛感します。
しかも、さすがは日本というべきか、どのホテルも一定の基準が満たされ、一長一短はあるにせよ安く泊まるにはほぼ満足の行くもので、また同様の機会があればぜひ利用したいと思います。

ただし、ものごとには例外もつきもので、帰りに泊まった倉敷のホテルだけは、どうにも納得の行きかねるものでしたし、一事が万事という言葉があるように、それはあらゆるところに及んでいました。

車の旅なので別途駐車料金がかかりますが、宿泊する場合どこも1000円以内で、神戸のど真ん中のホテルでさえ800円でこれが最高額でした。
ところが、その倉敷のホテルはすぐとなりに大きな駐車場があったにもかかわらず、それは他のホテル用の由、当該ホテルの駐車場の場所を尋ねると、さっぱりわからない妙ちくりんな地図を渡されます。
わかりにくい路地裏のようなところで、見知らぬ土地でこの紙切れ一枚を見てすんなり行けるところではなく、探しまわったあげくについにそれらしきものを発見、到着早々ここを探し出すだけで一苦労でした。
しかも、驚いたことに入り口前には小川のような大きな溝が流れており、そこを渡るため大型の鉄板が渡してるものの、ガードレールのような見切りになるもの一切なく、おまけに夜は真っ暗闇。
少しでも運転を誤れば一気に溝に転落してしまう作りで、今どきこんな危険なものは初めてで目が点になりました。

そこはホテルの駐車場とは程遠い、周りは民家が立ち並んだ土地に線を引いただけの暗くてうら寂しい場所で、こんな最低な雰囲気の駐車場に行かされただけで気分はかなり落ち込みました。

その鉄板を細心の注意でどうにか無事に渡り終え、そこからホテルまで数分歩かなくてはならず、歯をキリキリさせながら正直これは失敗だったというのが去来します。
予約時のネット写真などはさもオシャレさを売り物にしたようなホテルだったので、そのギャップたるや甚だしく、イメージと現実の差をまざまざと見せつけられた思いでした。
ようやくホテルにたどり着くと、中はいかにも今風のスタイリッシュなしつらえにはなっているけれど、ホテルというのにフロントがないのか、玄関脇に小さな司会者用の小机のようなものが立っており、そこで一人の女性がチェックイン業務を担っており、そこでさらに信じられない言葉を聞かされるハメに。
あの遠くて、不便で、不気味で、さらに出入りの危険な駐車場の利用料が一晩2000円!だというのです。

繰り返しますが神戸のど真ん中のホテルでも、宿泊客の駐車料金は800円だったのに、この法外な料金は悪い夢でも見ているようでした。
さらに、ホテルはオシャレ風を気取っているのに、その女性の服装はこのあたりがデニムの産地か何かはしらないけれど、全身デニム地の、まるで主婦が部屋着そのままでいるようで、これもいかがなものかと思いました。

部屋は幸いさほど狭くはなかったものの、ベッドと壁際の机以外あまりにガランとしてなにもなく、窓のそばは椅子の一脚もフロアスタンドも、さらにはコンセントさえもない、倉敷とかオシャレさを微塵も感じないひどく殺風景なもので、ロビーだけいくらスタイリッシュにしてみても、これじゃあ却って悲しくなります。
更に驚きは続きました。
4月上旬は暦の上では春かもしれませんが、まだまだ夜はかなり気温は下がって寒くなるもの。

だいたいホテルというのは、客室に入るとやや暑すぎるぐらいが普通であるのにここはやけにひんやりで、エアコンを入れても、設定温度をいくら上げても一向に温かくなりません。
操作が悪いのかとホテル側に聞いてみようにも、どこにも電話器がなく、しかたがないので携帯からかけようとすると、チェックイン時に渡されたカード類にもいっさい電話番号らしきものはなく、とうとうネットで調べてやっと出てきた番号は、0570で始まる通話料20秒10円のものだけ。
宿泊客がホテルスタッフに連絡しようにも0570の電話だけとは、ほぼ電話は拒否という印象しかなく、なんだか倉敷のイメージまで悪くなるようでした。
しかもその番号さえ、どこにも記載されておらず、これでは急病とか災害など緊急時に迅速な連絡もできず、最悪の場合、人災をも引き起こすのでは?と思わざるを得ません。

しかたがないので着替えて1Fへ降りて行ったらロビーは無人で、こちらも粘ってウロウロしていたらやっと一人の男性スタッフと出会いました。
部屋が寒いと訴えたところ「現在はすべて冷房になっておりまして、暖房はお使いいただけません」とのにべもない返答で、開いた口がふさがりませんでした。

ホテル側も少しは認識しているのか、同様の苦情があるのかはしらないけれど「毛布をお貸ししましょうか?」といいながら奥からそれらしきものを馴れた感じで持ってきました。
仕方がないから、それを手に部屋に戻りガタガタ震えながら一夜を過ごしたわけですが、もっと安手のホテルでもフロントはあるし深夜でもスタッフの一人は必ずいるし、いなければベルを鳴らせば奥からすぐに出てくるのは常識では…。
さらに今どき、各部屋のエアコンは利用者が自由に冷暖房の切り替えが容易に利くものになっているのが普通で、ここまで表面だけのお客を馬鹿にしたようなホテルがあるのかと相当驚きました。

表面だけといえば、宿泊客にはロビーで紅茶などの飲み物が無料で振る舞われるようですが、そのサービスもどこかわざとらしく、まさに何が大事かという本質を履き違えていると言わざるを得ません。
フロントがないので、部屋のカードはチェックアウト時にどうするのかというと、エレベーター内の壁に貼り付けられた「箱」に放り込むだけ。ホテルを出る際だれとも接触することなく一言の挨拶もないまま終わりで、これじゃあラブホテルと大差ないですね。

お客さんの不便不快の上にホテルにとって都合の良いやり方を押し通しても、それは合理的とも機能的ともいえるものではなく、二度と利用するつもりはありませんし、ここ以外のとくにカッコもつけていない実用的なホテルがいかにまともだったかとわかるものでした。
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やわらかい

一週間ほど自宅に不在だったため、すっかり書き込みの間隔が空いてしまいました。

隣県のピアノ店のご主人から、50年ほど前のスタインウェイDを仕上げたので、いちど触ってみてくださいというありがたいお申し出があったこともあり、先日ちょっとだけ立ち寄って触らせていただきました。

そこにあったのは、ある意味懐かしいディテールをもつD型でした。
ちょうど70年台から80年台に切り替わる時代のピアノで、鍵盤蓋のロゴは現在のものより全体に太字で、足にはダブルキャスターもなければサイドロゴも入っていないものの、椀木やフレームなどはそれ以降の現在と同様の形状となっているなど、まさに過渡期のモデルだったように思います。

このピアノは、近年亡くなられた有名な某ピアニストの個人所有だったそうで、そのためホールのピアノのような外観上の傷みはなく、安全な場所で大事にされたピアノという印象でした。

アクションはオリジナルのものと、この店のご主人が独自に作った「入れ替え用」の2つがあり、これはこの店の昔からの流儀で、ピアニストの好みで適宜使い分けることができるようになっています。
さっそく音を出してみると、少なくとも80年代からこちらの耳慣れた華やかな音ではなく、人によっては地味と感じるような優しい感じのするピアノで、スタインウェイのDといえばおおよそこんな感じという感覚があるものですが、音を出した途端、その範疇に入っていないのはちょっと戸惑うほどでした。

その時点で入っている鍵盤〜アクション一式は新たに作られたものなので、よけいそうなのかどうかはわからないけれど、とにかく柔らかで慎ましさを感じさせる音は意外でもあったし、正直いうとこれでコンサートができるのか?と思うほど。
ご主人のありがたいお申し出により「オリジナルのアクションも弾いてみてください」というわけで、ものの数分で鍵盤一式をごっそり入れ替えてみるとことに。
こちらは長年にわたりこのピアノを鳴らしてきたものなので、多少それらしい音がするのかと思っていたら、こちらも意外なことに似たような感じで、ハンマーが旧いぶん、より輪郭が曖昧なような感じがあり、ようするにそういう性格のピアノなんだなと思いました。
もちろん、硬めのハンマーで鳴らせばそれなりの音で鳴ってくるのだろうとは思いますが、それよりもピアノそのものの核となる性格みたいなものを感じさせられました。

個々のご主人曰く、どんなにあれこれやろうとも、そのピアノが生まれ持っている個性や器は変えられないということで、そのあたりもピアノというのは面白いもんだと思いました。
このピアノに触れてみて感じたことですが、いわゆる我々が「スタインウェイサウンド」と思っているあの輝かしい音は、半生記も前の時代背景の中で、いまほど細やかな整備や消耗品の交換などもされず、ただ使うに任せてハンマーは硬くなり、やがてギラついた音になっていたのでしょうか?
しかもスタインウェイともなると潜在力が違うので、それはそれで銘器の音として魅了されていたのかもしれないな…などと想像がぐるぐる回りました。

おそらくは調整を重ねながら、新しいハンマーも弾き込まれて馴染んでくると、より深みのあるトーンが出てくるような気もしますが、実際のところどうなるのかはわかりません。

いずれにしても、この時代以降のスタインウェイはよりダイレクトにブリリアントな方向に舵を切り、またそれが時代の求めでもあったでしょうから、そちらの道へ進むことに拍車がかかったのだろうと思います。
とくにハンブルクはその傾向が強く、まだニューヨークのほうが一定のクラシックなスタンスが守られていたのかもしれません。

ただ、面白いのは、どの時代のどのスタインウェイに触れてみても、直接的な音はいろいろあるけれど、本質的な部分のスタインウェイらしさというのはまったく変わっておらず、こういうことを血脈というのか、なんとも不思議なような面白いような気がしました。

スタインウェイは弾く人と聴く人では、ピアノが発する音が大きく異るということは、これまでにも再三書いてきたことですが、もしこのピアノを何処かのホールのステージに上げてコンサートをやったら、今回の印象とはまたぜんぜん違うものになるのかもしれません。

たとえば某メーカーのピアノなどは、狭い空間で聴いたらそれなりの悪くないものに聴こえるけれど、コンサートに使ったらいっぺんにアラが見えてしまうようなことがあるので、やはり本物というのは秘めたる力がどこまで破綻しないかと言えるような気もします。

こんなことを書いていて思い出しましたが、昔のピアニストの演奏を聴いていると、ピアノの音は絶えずキラキラしているわけではなく、音にも底知れない厚みがあったように思いますし「スタインウェイを弾きこなせるか…」という事もよく言われたものでした。
現代のスタインウェイは誰が弾いいても美しい音が泉のようにこんこんと湧いてきますが、昔はそうではなく、それなりの人がそれなりの演奏をした時に、ようやくピアノの真価も出てくるように多層的に作られていたのかもしれません。
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ハオチェン・チャン

クラシック音楽館の4月2日の放送は、今年3年ぶりに来日したというトゥガン・ソフィエフの指揮で、ブラームスのピアノ協奏曲第2番/ベートーヴェンの交響曲第4番が放送されました。
ソリストは2009年のクライバーンコンクールで辻井伸行と同時優勝した、中国のハオチェン・チャン。

全体として、細部までしっかり弾き込まれたクリアな演奏で、全体として見事なものだったという印象。
とくにブラームスの協奏曲はシンフォニックな要素が求められ、若書きの第1番と同様、ピアノ付き交響曲と言ってもいいような作風でで、演奏時間も50分前後と数あるピアノ協奏曲の中でも最も演奏時間の長い部類であることは有名です。

その長さも納得のきわめて素晴らしい作品であえるにもかかわらず、コンクールでブラームスを選択すると入賞できないなどというジンクスもまことしやかに囁かれており、コンクールという審査員も聴衆も次々に演奏を聴かなければならない疲労感の中で、この長大な協奏曲に付き合わされるのがウンザリなのだそうで、笑うに笑えない話です。

それは余談として、ほんとうに素晴らしい作品であるのは誰もが知るところです。
ハオチェン・チャンは従来のこの第2番のいぶし銀のようなイメージ(第1番よりは明るい曲調だとしても)ではなく、華やかさを絶やさないピアノコンチェルトとしてのアプローチなのか、ときにチャイコフスキーあたりを髣髴とさせる瞬間もあったほどピアノの存在と輪郭ががはっきりしていたように思いました。

そういう意味では、いわゆるブラームス臭がプンプンするような演奏とは感じなかったけれど、古いものに新しい照明をあてて、これまで見ることのなかった新鮮な景色があったように感じ、これはこれで一つのやり方だろうという気はしました。
これまでブラームスといえば、佳き時代の都会のシックで陰鬱な夜みたいな、どこかあやふやで仄暗い大人のトーンが聞きどころだったけれども、どちらかと言うと古典の要素を踏まえつつもリメイクされたアップデート版という感じでしょうか。
どうしても不足しているように感じたのは、光と影のコントラストの交差なのか、特にブラームスでは影の表現は大事だと思うだけに、その点が少し平坦過ぎたようにも思えたり…。
とはいえ、いかなる場所も隅々まで危なげなく弾き込まれ疾走感があり、いかにも一流のクオリティをもって演奏されているあたりはN響にも通じるようで、そういう意味でもこの両者は相性が良いような気がしました。

ちなみに、中国人ピアニストを視聴するたび共通して感じるのは、よく鍛え込まれたテクニックとメンタルの強さが見事に合体している点が強みなのかどの人も自信たっぷりで、ときに快楽的なほどの自我表出を堂々とやってのけるあたりに毎回独特な印象を受けてしまいます。
演奏じたいもしっかりしたものではあるけれど、それは欧米風でもなければ東洋的な繊細さというのでもなく、表情の付け方などもためらいとか痛みなどのデリカシーの妙よりは、中国という風土と訓練によって身についた演技的なものを感じるときがあります。

演奏中は、顔の表情も百面相のように変化めまぐるしく、笑ったり怒ったり、陶酔や喜びに浸っているかと思えば、一瞬にして予期せぬ恐怖に身構えて目をむくような表情になったり、ついそちらに目が行ったり。
どうかすると目は怒っているのに口元は笑っていたり、あるいは難しいパッセージでもまったく手元を見ることなく、空を見つめながら忘我の境地のようになるなど、幼少期からの指導法がまるで違うのかもしれません。
その代表格がラン・ランでしょう。

ハオチェン・チャンの場合はラン・ランよりはよほど抑制的ではあるけれど、見ていればそれらの要素はやはり随所にあって、そこは中国人ピアニストに共通して流れるDNAなのかと思います。ただし、音だけを聴いているとさほど違和感はなく、素直に立派な演奏といって差し支えないと思ったことも事実です。

冒頭インタビューによれば、ハオチェン・チャンはこのところブラームスに傾倒しているのだそうで、アンコールにはop117-1が弾かれましたが、長大なコンチェルトを聴き終えたあとに涼しいデザートを振る舞われたようで、「ああ、なんという美しい曲か!」と素直に思いました。
こういう気持ちにさせるというのは、やっぱり演奏が素晴らしかったという証でもあるでしょう。

この印象もあってか、またもコンチェルトから聴いてみた(3回目)のですが、いささかこちらの耳が少し固定観念に囚われていたのか、明晰でメリハリのあるいい演奏だと思えてくるようになりました。
よってハオチェン・チャンは、現代のピアニストとしてはかなり好ましい一人だというのが、個人的にはやや回り道をした気もしますが、その挙句に到達した結論となりました。
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完成度

BSプレミアムでシャルル・リシャール・アムランによる昨年末の来日公演の様子が放送されました。

会場は東京オペラシティ、曲目は55分の番組内では2つのノクターンop.27と24の前奏曲op.28で、むろん実際のコンサートではこれだけではなかったでしょう。

この人は2015年の第17回ショパンコンクールで第2位に輝く実力者で、このときの優勝は韓国のチョ・ソンジン。
度の強い眼鏡とふっくらしたクマさん体型もあってか、温厚な雰囲気があり、飾らないピアノを弾く人で、そこが当時から印象的でした。
それと、今どきの多くの若手ピアニストたちが、コンクール後に実際の演奏活動が始まると、手のひらを返したようにショパンを避けるような振る舞いになっていく傾向があり、それはショパンのピアニストとしてのイメージを剥がそうとする狙いもあるのかもしれませんが、あまり度が過ぎると好意的に見えないようになるのは私だけでしょうか?

ショパンを弾くだけではない、オールマイティなピアニストの資質があることを誇示するあの感じは、今どきのピアニスト自己アピール術という感じが前に出て、ショパンコンクールを出世の階段として利用しただけというしたたかな感じがあり、またこのパターンだな…としか思えなくなりました。

その点ではリシャール・アムランは、他の作曲家の作品も弾くけれど、ショパンは重要なレパートリーという姿勢を崩していないような印象があり、必要以上に野心的でない素直さには好感を持っていました。
そもそも、ショパンコンクールに出場して上位入賞した人に聴衆がショパンを求めるのは至極自然なことで、決してオールショパンである必要はないけれど、プログラムの一角にショパンを入れ込むのは、自分の経歴に対するある種のマナーのような気がします。

中には、ショパンコンクールに何年もかけて周到に準備/出場し上位入賞を果たしながら、今度はピアニストとしてやっていくかどうかもわからない、自分の一番やりたいことは◯◯だ…などと言ってのける人もいたりで、自分の能力をひけらかして世の中を弄ぶのはいかがなものかと思うこのごろだったり。

…さて、アムランですが、彼が出場したコンクールから早いもので8年が経過したことになります。
私はこの人の演奏には、ファンというほどではないけれど一定の好感を持っていましたし、この人が優勝でもよかったのにと思ったこともありました。
その後はCDも数枚購入しましたが、耳を凝らして聴いてみると、意外やイメージよりもドライで詩情がもっとあってもいいように感じるところがしばしばです。
とくに今回の来日公演の演奏では、その点が一層目立ったようでこれは残念な点でした。

アムランに限ったことではありませんが、ショパンコンクールで演奏するということは大変な緊張もあるだろうけれど、やはりその一音一音に当落がかかった真剣勝負であるし、そのための準備も尋常なものではないでしょう。
本人はもとより、周りの指導者たちとのチームによってこのすごいエネルギーを投じて磨き込まれた入魂の演奏であるためか、その後のコンサートで見せる演奏は、もちろん余裕とか深まりとかいい面もあるけれど、どこか真剣度が足りないし、新しいレパートリーに関しては完成度の低さを感じてしまうことが少なくありません。

これはコンクールでの演奏が最高と言っているわけでは決してないけれども、コンクールにフォーカスして練習を積み重ねたものには特別に仕上がった輝きがあるわけで、それに対して同じ弾き手でも通常のコンサートでの演奏とは小さくない溝があるように思います。
他のピアニストでも、コンクールからずいぶん経ってリリースされたショパンのCD(コンクールでは弾かなかった曲)を期待して聴いてみて、あまりの完成度の違いに驚いたこともあります。
それがコンクールのような勝負の場ではできなかったことを表現しようとしているなら、こちらも大いに拝聴するところですが、数を揃えるために雑で生煮えのような演奏が次々に出てくると、その幻滅はたとえようもありません。

今回のアムランがまったくそうだったというのではないけれど、やはり詰めの甘い部分が放置されっぱなしのように聴こえたり、ショパンの演奏様式とか外してはならないポイントからズレたものを感じたりすると、むしろこれがこの人の正直な姿なのかと思って、いささか戸惑いを覚えたのも事実。

アムランのショパンは、全体としては一定のクオリティで保証されているけれど、その実、期待するほど詩的に語りかけるものがなく、意外に配慮に乏しい事務的な処理だったりするのは、どうしようもなく醒めた気分になってしまいます。

ピアノはショパンコンクールでもそうであったようにヤマハで、よほどお気に召したんでしょうね。
音はTVなので厳密なところまではわかりませんでしたが、新型のCFXでした。
見分けるポイントは、大屋根の蝶番が3個になり、外板サイドに取っ手のあるL字フックがないタイプでした。
またTVには映りませんでしたが、フレームも大幅に形状変更されているようです。

全体として、日本のピアノは世代交代する度に外国語が流暢になっていくようですが、願わくばステージ上でのヤマハのボテッとした鈍重なスタイルはなんとかならないものかと思います。
日本製だからといって、なにもピアノでまで胴長短足の日本人体型を貫かなくても…と思うのですが。
一番の問題は前屋根が折れるポイントが後ろすぎで、あと2cm浅ければずいぶん違うと思うのですが、ステージに凛と立って視線を集めるコンサートグランドは、見た目のフォルムの美しさも非常に問われると私は思います。
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向上と退化

このところ、音質もさほど良いとはいえない昔の演奏に耳を傾けることが少なくありません。
理由を考えてみると、現代の演奏はどこか作られたような、ウソっぽさを感じることが多く、昔の演奏にはそういう疑念がない点で、演奏者の本音に触れられるからかもしれません。

とはいえ、新しい世代の演奏もそこそこ積極的に聴いているつもりです。
日本人でもこの数年でワッと増えたように感じますから、あの世界も大変でしょう。
若い世代のピアニストは、いまさら繰り返すまでもないけれど、不自然に完成されておりピカピカで聴いていて見事とは思うけれど、心を掴まれたいのにそうならないまま淡々と進み、ついには後に何も残らないのです。
これは言い換えるなら「もう一度聴いてみたいと思わない」ということかもしれません。
演奏を通じて自分が価値とするものを世の中に投げてみる、あるいは批判覚悟で問うてみるという、とりわけ芸術には必要な個の尊厳のための頑固さとか偏執的なエゴがまったくないのは、まるで売上チャートに合わせた規格品みたいな感じがどうしても拭えません。

評判のいいチェーン店の商品のように安定はしているけれど、マイナスになり得る要素を排除し、わずかなキズや落ち度も消し去って、キラキラに整っているだけの首尾一貫しない演奏。まるで音楽をネタにしたエリートの成功物語に付き合わされているような印象と言ったら言い過ぎでしょうか?

おそらく彼らにも言い分があって、これだけ平均技術が上がりライバルが増えれば、自分の頑なさをアピールして失敗するより、手堅くミスを侵さず、嫌われず、タレントとしての存在力を高めることに注力しなくてはいけないのかもしれません。
一部の鍛えられた耳を持った人をターゲットに芸術性で勝負しても、それは現代が求める価値とは齟齬があり、技巧や入賞歴や、やみくもなレパートリーの量、メディアへの露出、果てはSNSのフォロワー数などが尺度となって、誰にでもすぐにわかるものでなくてはならない。
要するにスーパーマンであることが最も大事なのかも。

私の旧弊な耳には、匿名的な活字印刷したような演奏にしか聴こえず、その演奏から誰の演奏と言い当てることはできません。

海外のピアニストも同様で、だれもが不安のない技術を備え、淡々と既定の演奏をやっているのだから、はじめから終わりまで見通せるようで、ワクワク感がないのも当然ですが、音楽がワクワク感を失うのは大問題という気がします。

これは楽器としてのピアノにも似ていて、昔のピアノは品質も個性も様々で、高級品は夢見るほど素晴らしく中には怪しげな魔力さえ漂っていたりしましたが、大半のピアノメーカーは淘汰され、残ったメーカーはこれという欠点を徹底的に潰して量産品としての改善に努め、標準的な間違いのないものを作っているように見えます。
今は一流品とされるブランドでもコストと利益が最優先で、素晴らしいピアノを作ることに心血を注ぐなどという理想はなく、ビジネスとして与えられた枠の中で、誰からも嫌われないものを、職人不要なマシンを多用しながら、故障しない自動車を作るように製造しているように感じます。
もはやピアノも工場のハイテクの気配はあっても、熟練の職人や工房の匂いがしないのは当然というわけです。

現代のピアニストの演奏は、印刷された楽譜の存在をイメージさせすぎるように感じます。
多くの奏者は聞き分けよくそれらを正確に伝えてくるけれど、それが本心からその人の感じ取った音楽になっているかとなると甚だ疑問で、それも徹底し過ぎると音の商品といった印象があります。
その点、昔の演奏は演奏者の感性を通し、身体をかけめぐったあげくに作品が昇華され、それぞれの言葉や表現となって聴く者へ届けられてくる気がします。そこには演奏者の体温があり、汗があり、吐息があり、喜怒哀楽が作品を通して翻訳され、山あり谷あり立体感があって、血の通った起承転結を感じます。
結果、何を聞いても同じように聞こえるのではなく、作品の姿形も、作曲者が伝えたかったこともダイレクトになる気がします。
要するに作品が奏者と肉体化しているので、楽譜を感じさせないんだと思います。

同時に、現代の精巧な演奏には及ばない点や、場合によっては違和感やどうみても間違いなど、出来不出来もあるけれど、何のために音楽を聴くのかという点では、前世代の演奏のほうが純粋で、音楽のあるべき姿ではないかと感じるこの頃です。
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ガラス窓

唐突ですが、住まいの窓ガラスの掃除は、なにしろ面倒くいから滅多なことではやらず、恥を忍んで告白すると1年以上ほったらかしになってしまうようなことも常態化しています。
毎日の生活の中で目にしていると、すっかり目に馴染んでほとんど無反応になるものがあるけれど、ふと冷静な目で見てしまうる瞬間があると、その汚れにびっくりしたり…。

外窓は、雨粒はもちろん台風の時に付着したと思われる小さな泥粒などが下部にこびりつき、内側はエアコンはじめホコリの堆積、さらに冬場は加湿器のせいでうっすらと白い膜のようなものが覆っていたりします。
しかし、いつも薄いカーテンを引いているので、おかげでますます気にしなくて済むということもあったり。

そのうちやらなくてはと意識するようになっても重い腰はなかなか上がらず、あれやこれやのせいにして実行は延期に次ぐ延期の繰り返しだったり。着手するまでが大変です。

鏡ぐらいのサイズならともかく、家の窓ともなると面積も広いし、何度も雑巾を洗ったり絞ったり、かつガラスは裏表があるから仕事量も倍で、かなりの重労働となるのでますます敬遠しがち。
それでもなんとか見て見ぬふりできているうちはいいけれど、今年になってからさすがにこれ以上はマズいという一線を超えて、一気に危機感が募りました。

なんでも業者に頼んで、お安くもない料金をすんなり出せるような方は別ですが、自分でもできることをわざわざ頼むのももったないし、だいいち家の中へ半日なり業者が出入りするのも、正直言って気の張る思いをするからできるだけ避けたいということになると、その両方をクリアするには「自分でやる」以外にありません。

そこで思いついたことをやってみた結果、想像以上に簡単で嬉しい発見があったので、ちょっとそのお話を。
IKEAに行くと、ガラス掃除用のT字型の器具で先にゴムの付いたワイパーみたいなものが驚くような低価格で山積みされています。
よくビルの清掃員などがガラス掃除に使っているものを、一般人向けに小型にしたようなアイテムで、これを使ってみることを思い立ちました。

洗剤を希釈した液をスプレーでシュッシュとやって、その手動ワイパーで拭き取るという単純なものですが、予想に反してなかなか思うようにはいきません。
プロが手慣れた手つきであっという間に汚れを落としていくのを感心して見た覚えがありますが、自分でワイパーを動かしたあとには両側に必ず液体の筋が残り、それを別方向から取ろうとすると、その方向へ別の筋が残り、そうこうするうちに斑に乾き始めるなど、仕上がりも一向に思わしくなく、落ちたはずの汚れはヘンな跡やムラになって残るなど布で拭くほうがまだいいようなものでした。
こんなことをやってもダメだと思い、一旦中止に。

その後、考えたことは、クルマの仲間から教わったものですが、一点の曇りも好ましくないクルマのガラス拭きには下手な専用洗剤より精製水を使ったほうが効果的という、あのやり方でした。
洗車の手法を応用するなら、間髪を入れずにメリヤスのシャツなどで補助的に拭き足すことも効果的では?と思いつきました。

すぐに100円ショップで新しいスプレーボトルを買って精製水を入れ、それをガラス面にシュッシュッとたっぷり(下にダラダラ流れだすほど)吹き付けました。
一息おいてワイパーで上から下に向かってザーッと拭き取りをし、すかさずメリヤス地に持ち替えて軽く拭いてみると、なんとこれだけでかなり綺麗になることがわかりました。ムラもほとんどなく、パッと見には十分満足というレベルの仕上がり。
また、精製水は洗剤でもないのでケミカル品特有の膜や拭きムラなどもなく、これだと望外の少ない労力で、すくなくともみっともなくない程度にガラスが綺麗になることがわかり、ヨーシ!というわけで、これで気になるところを次々に掃除していきました。良い結果が出始めると、俄に嬉しくなって、張り合いも出るというものです。

遠目であれば、さっきまで惨めにくすんでいたガラスは、ガラスを外したの?というぐらいビシッと綺麗になり、その労力/コストに対する目覚ましい結果には感動すら覚えました。

現在のところ広いガラス面をこれ以上ラクに、効果的に掃除する方法はちょっと思いつきません。
下処理などもなく、汚れたガラス面にいきなりスプレーすればいいので短時間で済むし、道具といえば、スプレーボトル入りの精製水、窓拭き用ワイパー、着古したメリヤスシャツ、位置が高いなら脚立、さらに窓枠の汚れ(特に下部)を拭き取るためのウェットティッシュ、とせいぜいこれぐらいです。

精製水は薬局に行けば大体100円ちょっとで500mlのものが売っており、2〜3個買っておけば安心ですが、実際は1本でも相当の面積がカバーできます。
この精製水はガラスはもちろん、食器棚でも家電でも、ウェスを固く絞ってシュッシュと精製水を吹き付ければ、なんでも気軽にきれいになります。
この手軽さを覚えたら、目的ごとに分かれた各種洗剤など、よほどのことでないと使う気にならないこの頃です。
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厳しい現実

以下に書くことはあくまでも筆者個人に限ったことなので、まずその点を明確にお断りしておきたいと思います。

楽器(私の場合はピアノ)を奏でることの楽しさはいまさら言うまでもなく、その大いなる喜びや魅力は自分の半生を通じてよく承知しているつもりです。
とりわけピアノという楽器の美しい音や万能性、さらに無限ともいえる膨大かつ偉大なレパートリー、それを自分自身の手で音にするのは他のいかなることからも得られない、まさに代え難い喜びがあるものです。

そもそも好みのピアノは見ているだけでも快いし、ましてキーに触れて音が出すとなると、自分ひとりのために楽器は反応し、鳴動し、その生の音に全身が包まれる感触、さらにそこから曲になっていく喜びはまさにピアノを弾く醍醐味。
そんな基本は決して変わらないけれど、その喜びと背中合わせに、ピアノを弾くことで常に付きまとってくる虚しさみたいなものからも逃れられない負の感覚が貼り付いているのも私の場合は紛れもない事実です。

その一番の理由は?というと、どんなに練習しても(〜ろくに練習もしない人間がこの言葉を使う資格もありませんが)、基本的な自分の演奏技量にはどうにもならない限界があり、これが分厚い壁となって行く手を阻み、そこを打破することは不可能だという事実があることです。
子供の頃に、ろくに練習もせずいい加減に過ごしてしまったツケが、はっきりとこの結果にでていることは疑いようがないわけで、自業自得なのはむろんわかっていますが…。

ピアノほど技術向上のための短い成長期を取り逃してしまうと、後からどうあがいても基本力が上達しないものは、そうはないように思います。
技術と名のつくものはおしなべてそうなのかもしれませんが…。
私などは生来の意思薄弱な人間だから、技術の向上がまったく見込めないことに、無償の努力を注ぎ練習に打ち込むことは、やはりどんな言葉を並べてみたところでモチベーションは上げられません。
「どんなに下手でもいいから、一曲を心をこめて弾く事が大切」「自分の技量に応じて楽しめるのがピアノの魅力」といった慰めの言葉は山ほどあってむろんその通りでしょう。だからといって心底からそんな気にはなれないのも事実です。

弾きたい曲が自在に弾ける世界には手が届かず、やむを得ず自分の技術に見合ったレベルの曲を幾日も(ときに何ヶ月も)辛抱強く練習するしかなく、それが全く楽しくなくはないけれど、やはり楽しさの幅は大きく制限され、欲求が満たされることより、不満の増幅のほうが勝るわけです。
技術的に大したことない曲を一つ仕上げるにも、日々の努力と練習に勤しまざるをえず、加えて昔は自分なりにできていた暗譜さえ明らかに記憶力が減退しており、自分の求めているピアノへのイメージから離れていくのをイヤでも感じるこのごろ。

こういう厳然たる事実が年とともに、よりはっきり鮮明に見えてくるようで、そうなればなるだけささやかな練習をするのも以前にも増して億劫になり、勢いピアノに向かう時間も意欲も弱くなっていくようです。
そもそも練習というのは、それそのものに才能と意志力と忍耐が必要だし、ある程度の若さや体力的なもの、そして向上するという喜びの後押しも必要なんだと思います。

ピアノを趣味でやっている人の中には、自分の技量にはさほど頓着せずコツコツと練習し、レッスンに通い、それを喜びとできる方もおいでのようだし、近隣の騒音問題などがなければいくらでも弾いていたいという方も少なくなく、これには感心もするけれど、個人的にはそんな気持ちはほとんど信じられないのです。
中には、それでも練習を積み重ねれば、技術は向上すると本気で信じている方もおられるようで、それは結構なことですが、私は逆立ちしてもそんな希望は抱けないし、自分の考えが嬉しいほうに間違っているとも思えない。

ピアノの演奏技術は、いろいろな見方があるにせよ遅くとも十代までで大枠は決まってしまい、それ以降はどんなに努力をしても大きく変わることはないでしょう。

思うにピアノの演奏技術向上というのは身長が伸びるのと同じようなもので、伸びる時期に(効果的な訓練をすれば)ぐんぐん進み、それでもどこかの時点で残酷なまでにバタッと止まってしまうもの。

世の中には、つべこべ言わずにきちんと頑張り通して何かを成し遂げる御方もおられますが、「ヨーシ自分も!」というような気概というか、ある種の執念がまるきりないのが我ながら情けない限りです。
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聴き応え

いつものTV視聴から。

▲アンヌ・ケフェレック
来日公演からシューベルトの最後のソナタD960と同じくベートヴェンのop.111。
時間の関係でシューベルトは第1/4楽章のみ、ベートーヴェンは全曲でしたが、普通に考えればシューベルトはまだしも、このフランスの小柄な閨秀ピアニストが弾くには、ベートーヴェンの最後のソナタなどいささか荷が勝ちすぎやしないか…という予断があったのですが、それは私の浅はかな間違いでした。
一般的に、最後の…と名のつくソナタなどになると、どうしても精神性の表出を意識しているようで、大上段に構えて大仕事に挑んでいるといった演奏になりがちですが、ケフェレックのそれはいささか趣の異なるもので、そういう過剰な気構えなしに、ケレン味なく、曲を曲らしく、正にありのままであるため、それが逆に極めて深い説得力をもっていたことは驚きでした。
長年の研究や解釈の手垢があまり付かない、作品の自然な姿をそのまま描き出し、力むことではない音楽としての美しさの中から精神的な奥深さのようなものを、聴くものが恭しく押し付けられるのではなく、自然に自由に受け取るという手筈になっているような演奏。
凡庸なピアニストは、作品の背景や深いところを見落としているという批判を恐れるあまり、必要以上に難問を解読するように振る舞い、そして形而上学的なものへ到達したことを見せねばならぬと奮闘するため、あるがままの姿が逆に見落とされてしまっているようにも気づきました。
しかも、ケフェレックは決して曲を小さく弾いたわけでもなければ、フランス的な軽妙な感性の中に落とし込んだのでもなかった印象をもちました。
耳にしたのは、あくまで自然な語りであり、こういう弾き方もあるのかと唸らされたとともに、おそらくこの人にしかできない演奏なのだろうと深い感銘を覚えました。
とかく現代の情報過多の時代にあって、ピアニストも頭でっかちになり、高尚さを狙いすぎて、却ってありきたりな聞き飽きた、つまり通俗的な演奏になっていることを大いに反省すべきだろうと思います。
「楽譜にすべてが書かれている」という言葉がありますが、現代のピアニストの多くはなるほど楽譜に正確ではあるけれど、同時に情報や環境にきつく縛られているという意味で、甚だ退屈かつ凡庸な演奏に陥りすぎていることを、ケフェレックの演奏はまざまざと感じさせるもので、この録画はなかなか消去できそうにありません。

▲イリーナ・メジューエワ
長く日本に住むこのロシアのピアニストは、その華奢な風貌とは裏腹に、重厚かつ正統的なピアノを聴かせる実力派で、私はこの人のお陰でメトネルのピアノ曲にずいぶん親しむきっかけを作ってもらった(主にCD)と思っています。
いまや日本語も達者で、昔の謙虚さを失っていない頃の慎ましい日本人のような語り口で、その内容と併せてまずもって驚かされました。
この日はラフマニノフ・プログラムで、使われるピアノもラフマニノフが10年ほど自宅で使っていたというニューヨークスタインウェイのDで、現在は東京のピアノ貸出会社が所有しているようです。
メジューエワ氏もこのピアノを通じて、ラフマニノフからいろいろな教えを受けているような心地がするというような、畏敬の念に満ちた意味のことを語っておられました。
楽器としての内部は充分な修復や手入れがなされているようですが、外観は意図的に手を付けられていないようで傷みもかなりあるけれど、それが歴史を感じさせる凄みとなり、とりわけ目を引いたのは鍵盤蓋に残る無数の生々しい傷あとでした。
それも引っかき傷のような軽いものではなく、おそらくは巨大な手の持ち主としても有名だったラフマニノフの爪や指先が激しく衝突していたのか、木肌がえぐれて木の地肌が銃痕のように無数にできてしまっており、生きていたラフマニノフの息吹を感じさせないではおかない壮絶な証拠のようでした。
とりわけニューヨークスタインウェイ(アメリカのピアノ全般?)は、ハンブルクやその他の標準的なピアノに比べて、キー(特に白鍵)がわずかに短かかったので、いよいよラフマニノフにとっては指先が鍵盤蓋につっかえて仕方がなかったのかもしれません。

メジューエワの演奏は派手さで人の気を引くものではなく「滅私奉公」という古い言葉を連想してしまうような誠実さというか、礼儀正しさみたいなものを感じます。
かといって、いわゆる退屈な先生タイプではなく、楽器をよく鳴らす厚みがあり、同時にロマンティックなので、聴く側も集中力が途切れないのは稀な存在だと思います。
テンポも許容できる範囲でのやや遅めの設定で、圧倒的な疾走感などはないかわりに、細かいディテールを漏らさず聴くには、こういう演奏をしてもらえると、じっくりと作品に触れることができるのは好ましく思います。
とくにソナタ第2番はラフマニノフのピアノ曲の中でも、代表作であるだけでなく、ひときわ壮大かつ官能的な作品である気がしました。
ピアノ自体にも生命感があって、奏者と楽器が常になにかのやりとりをしているよう。

つくづく現代のピアノの大半は、音を出すための無機質な装置になってしまったように感じないではいられませんでした。
とくに低音域の豊かな響きなどは比類無いものがあったし、弾けばピアノが反応しているという独特な感じは、楽器の最も大切なところではないかと思います。
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秀逸な海外ドラマ

前回書いた、動画配信という思わぬ環境を得たせいで、映画やドラマにどっぷりになるハメになりましたが、映画を言っていたらキリがないので、海外ドラマで印象に残ったものをいくつか。

▲『スーツ』アメリカ
かなり有名なドラマで、ニューヨークの弁護士事務所を舞台に巻き起こる人間模様。
弁護士というものがやけにカッコいいエリート族として描かれており、よほどの人気だったのか、シーズン9、エピソード数にして134話におよぶ長大作。彼らがいかに生き馬の目を抜くような攻防や駆け引きなどを繰り返しながら、肩で風を切るようでクールな過剰な描かれ方はときに笑ってしまうほど。
ライバル事務所はもちろん、仲間内での争いや足の引っ張り合いなども絶え間なく、平穏が訪れることはない功名心と頭脳戦による熾烈な競争の世界。
このドラマには、あのヘンリー王子と結婚したメーガン・マークルもスタッフのひとりとして出演しているのも見どころ。
彼女は主役級の男性と日本風にいえば社内恋愛で結婚に至るものの、8年に及ぶこのドラマの後半で本当にヘンリー王子と結婚で降板したようで、ドラマではやや唐突にアラスカの人権派弁護士になるという筋立てで、主役級の男性を道連れに姿を消してしまいます。

これは日本や韓国でもリメイクされたらしいので、よほど人気シリーズだったのでしょう。
一説によると、前代未聞の数々のスキャンダルを押し切って、元皇族の女性と、ついに結婚を強行した怪しげな男性、そのご両人ともがこのドラマの大ファンだった由ですから、このドラマの影響も小さくなかったように思えなくもありません。

このドラマ、見方によってはイギリスと日本で、二組のロイヤルカップルを生み出したのかもしれませんね。
それは余談としても、これほど長いドラマを見たのは初めての事でしたので、全話を見終わった時にはしばらく「スーツロス」になりました。

▲『マッドメン』アメリカ
これも舞台はニューヨークですが、1960年代の広告業界を描いたドラマで、かなりのところまで見ていたにもかかわらず、途中で定額視聴期間が終了し、以降は一話ごとに有料となり泣く泣くやめてしまったドラマ。
『スーツ』の50年前のニューヨークというわけで、その間の時代の変化も面白く見ることができました。
数話ならやむなく有料でも見たかもしれませんが、まだ数十話残っており、そのつど200数十円払い続けるなんてまっぴらなので、憤慨しつつ断念しました。
この経験から、見始めたものはサッサと見てしまわないといけないことを学習。

▲『オスマン帝国外伝』トルコ
長いといえばスーツどころではない超大作。
オスマン帝国の第10代皇帝スレイマンの治世、奴隷から寵妃となったヒュッレムと皇帝を中心とする、いわばトルコの壮大な大河ドラマ。
2人の出会いから死までを描く、波乱などという単調な言葉では到底語れない、壮絶な権力と愛憎の宮廷人間模様。
これを見ると、人間不信に陥るほど、親子、兄弟姉妹、主従、軍や側近などすべてが命がけの陰謀と裏切りに終始し、だれもが騙し合い、殺し合い、権力闘争に明け暮れるのが人間の本性であることを赤裸々に描いたすさまじい内容。
また、トルコという国民性もあるのか、途方もないそのエネルギーは東洋の片隅で生まれ育った日本人にはおよそ持ち合わせぬもので、見て楽しみながらも、こってりした脂の強い料理が胃にもたれるようなある種の疲れが常に伴うものでもあります。
『オスマン帝国外伝』がようやっと終わると『新・オスマン帝国外伝』というのが控えていて、こちらは皇帝スレイマンから数代後の話。
これは完結制覇まであと一息ですが、新旧あわせてエピソード数にしてなんと500話に迫る超大作で、これを書いている時点で残り20話ほどになったけれど、もしかしたらすでに半年以上これを見ているようで、まさに生活の一部になりました。
オスマントルコが黒海からヨーロッパにかけて最強を誇った時代があるとは聞いてはいましたが、なるほど途方もない権勢であったことがよくわかります。
現在のロシア/ウクライナ問題、あるいは北欧のNATO加盟に対してあれこれと画策し権謀術数をめぐらすエルドアン大統領ですが、このドラマにどっぷり浸かっていたおかげで、あの国ならそれぐらい朝飯前だろうと容易に思えました。
それにしても古今東西、国の大小を問わず、宮中とは例外なく恐ろしいところですね。

スタートはアマゾンプライムだったものの、途中からhuluでしか配信されなくなり、そのためやむなくhuluにも入会するという深みにはまってしまいました。

▲『ハンドメイズ・テイル』アメリカ
どうせhuluに入ったならと見始めたのが、huluオリジナルのドラマ。
近未来のアメリカは内戦の末分裂して、アメリカ政府はアラスカへと退き、代わりに主権を握ったのがギレアドという戦慄の監視社会政権。娯楽はすべて禁止、男性のみによる国家支配、女性は文字を読んでも罰を受けるという恐ろしい制度。
市中のいたるところには、処刑された遺体が見せしめにクリスマスツリーのオーナメントのように吊るされるというおぞましい社会で、シーズン5/エピソード56のドラマ。
出生率が低下したため「侍女」と呼ばれる妊娠出産可能な女性が次々に拉致され、強制的に国の要人の子を身ごもらされ出産させられ、産んだあと赤ちゃんは奪い取られて高官夫妻の子どもとされ、それに一切の抵抗はできない暴力支配の下に置かれるという具合で、本来こういうディストピアものは見るだけでも苦痛なのですが、やはり先述のようにドラマ自体がよく出来ているので、知らず知らずのうちに見せられてしまいました。
ここに描かれるギレアドというキリスト教原理主義の恐怖支配は誇張的だとしても、日ごろ当たり前だと思っている自由主義社会のありがたさを今さらながら痛感させられます。
とりわけ国家の法と理念に宗教原理主義が入り込んだが最後、その異常性はとりかえしのつかないものとなることが一目瞭然。
主役のエリザベス・モスは『マッドメン』でも社内メンバーのひとりで見覚えがありましたが、そのときとは打って変わって壮絶なまでの熱演を遺憾なく発揮するあたり、海外の俳優のとてつもない力量に驚きます。
シーズン5の最終回で最終回と思っていたら、まだ続くようでシーズン6を待つしかないようです。

立て続けにピアノの話から逸れてしまいました。
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新しい楽しみ

ネット配信による映画やドラマを見て楽しむことがいつごろ始まったのか、まるでわかりません。
かなり前だったんだろうとは思いますが、そういうことにめっぽう弱く、どうにもなじめない私は正直関心もなかったし、そのまま長い時間が過ぎてしまいました。
そもそもパソコンやスマホで映画を見るなんて、考えただけでも自分の感性には合わないと直感していました。

ところが既にこの手の配信サービスに加入し楽しんでいる人から「どうして入らないの?」という、まるで何年も前にガラケーをだらだら使っていた私に「なんでスマホにしないの?」と言われた時と同じような、それをしないことになんら意味を見出せない!といった半ば呆れた様子の響きがあったし、聞けばTVモニターに繋いで視聴することも可能とのことで、しだいにメリットも大きいということがわかってきました。

友人の中には、今どきのネット環境に付随する各種ポイントやクーポンにやたらくわしく、どれが損でどれが得かということに夫婦揃って通じているおかしな二人がいて、中でもその奥さんはよく聞けばまさにこの分野の生き字引的な存在らしいことを後に知りました。
消費者が躍らされているだけで期待するような実質的なメリットはないものから、逆にこれはスゴイ!というようなものまで、沈着冷静な分析と意見をもつ、それはもう畏れ入りましたという意見の持ち主なのです。
旦那さんの方も相当な猛者で、聞けばいつも夫婦バラバラに得なものを探し出し、しかも相手には積極的に教えないという、一風変わった戦いが繰り広げられ、会計の時などにサラリと使ってみせて相手を驚かすというような滑稽な勝負をよくやっているとかで、旦那さんのほうがいつもわずかに負けているそうです。

その二人が口を揃えて言うには、AmazonPrimeは絶対にお得なのだそうで、私もあの二人が言うのなら間違いない!というお墨付きを得た気分で、背中を押されてついに入会の運びとなりました。画面上から申し込み、TVモニターに映すためのステックやリモコンの入った機器を購入して、それをTVに差し込んで設定するというものでした。

冒頭に述べたように、こういうことに疎い私は設定にかなり手間取りましたが、それをどうにか乗り越えると、そこには広大なる娯楽の海が広がりました。
あらゆるジャンルの映画やドラマがひしめいて、好きなものを選んで(検索機能もあり)自由に楽しむことができるというもの。
もちろん、世界中のすべての映画があるわけではないし、常に入れ替えもあれば、新作も随時投入されていて、これはたいへんなものであることは直ちに納得できました。
昔ならレンタル店に出かけて行って、DVD(さらに昔はビデオ)を選んでは借り受けて、見終われば再び返却に行くということをやっていたことを思えばまさに隔世の感があり、いうなればビデオ店がそっくり一軒自宅にやってきたようなものです。

これを機に、日常生活の中で映画やドラマを観る時間が圧倒的に増えましたが、そこでまずしみじみと感じることは、個人的な感想としては日本と海外の作品では埋めがたい大差があるということでしょうか?
もちろん、海外の作品でも非常にくだらないB級映画のようなものもあれば、日本映画でもしっかりと練り込まれた力作がないこともないけれど、全体として日本のこの分野は圧倒的に国際基準からは遅れていることをひしひしと感じることは事実です。

さらにその差が激しいのがドラマの分野で、海外ドラマには見応えのある質の高い素晴らしい作品がいくらでもあり、考え込まれたストーリー、コストのかけ方、美しい映像、小道具に至るまで神経の行き届いたリアリティの追求、そしてなにより優秀な俳優陣による素晴らしい演技などには瞠目させられることしばしばです。
それにひきかえ日本のドラマは、率直に言って浅薄で幼稚で欺瞞的で、ほとんど進化もなく、まるで学芸会のような印象しかありません。
役者もこれでプロか?と思うような単純で子供っぽい演技やセリフ回しで、内容も安直なファンタジーで視聴者のレベルが透けて見えるようで、この面は世界基準でいうと、もはや何周も遅れていると感じます。
日本という島国の縮こまった環境や、ダイナミックなことの苦手な民族性もあるのかもしれませんが、なんであれ挽回は容易なことではない気がします。

日本といえば優れたアニメが世界を牽引しているというような話はずいぶん前から聞いており、それは結構なことではありすが、個人的にはやはり実写の世界でも、もう少し本気で勝負をすべきではないかと思います。

私がネットの動画配信を見るようになってまだ一年も経ちませんが、これは一度経験したら、決して昔には引き返せないものだと思います。
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キモはセンス

人間関係において何が一番重要か、これはわかるようでわかりにくいテーマだと思います。

通り一遍の言い方をするなら、人柄であり、信頼であり、相手を思いやる心というあたりを並べることになるのでしょう。
私もそこはむろん同感しますが、事はそう簡単には解決しません。

実際にはそういった大原則だけでは立ち行かない問題が多々あって、本当に好ましくしっくりくる人間関係ということになると、そう簡単に成立するものではないというのが実体験としてあります。
ここ最近、そのあたりを考えさせられることがいろいろあって、自分なりのひとつの結論を得たような気がしました。

若いころは、自分の若さと無知と傲慢から「馬鹿が一番困る、馬鹿は罪だ!」などと勢いに任せた考えを持っていたこともありますが、それは短慮で恥ずかしいことで、まさに若気の至り。
そこでは馬鹿という言葉で、雑駁にいろいろな要素を一掴みにしていたし、多少の偽悪趣味もあったと思います。

いま思うのは、人間関係で大切なのは、ほんの一部でいいから「センス」が共有できるか否かだろうと思い至るようになりました。
センスというのは善悪でもなく、バランスであり、息遣いであり、いわば取捨選択のものさし。
極論すればセンス=人間性といってもいいような気さえします。
まさに感性の問題だから、理屈ではどうにもならないものだとつくづく思います。
ダサいと感じるものはどうしようもないし、感じない人はどんなに說明しても理解できないもの。

人との人の間には、この理屈ではないものが介在することによって心の距離が決定され、しっくりくるものから素通りするものまで、自動的に分別されているのではないかと思ったりします。

関係の保ち方、話の内容や関心を寄せるポイントや重経など、ありとあらゆるところにセンスが果たす役割は、あまりに大きいものがあると言わざるを得ません。
センスが完全に合致するなんてことはあり得ないけれど、一定程度の共有が得られるかどうかはとても重要です。
どんなに正しく聡明で立派な人でも、センスが大きくずれると、なにもかもが皮肉なまでに噛み合わず、絶望的な結果しかないのです。
解決できない壁に阻まれ、当り障りのないことでお茶を濁すだけ。

こちらが大事だと思っているポイントが無価値だったり素通りだったりで、テンションも上がらず、会話も頭打ちで退屈な安全運転に終始するだけ。
よくいう「笑いのツボ」が合う/合わないというのがありますが、これもまさにセンスの問題だと思います。

人には能力、人格、適正などいろいろな要素がありますが、それらを奥深いとこで引き絞って、ひとりの人間として動かし采配しているのは、ほかならぬセンスだと思うのです。
通常はよく価値観という言われ方をしますが、個人的にはそれよりもセンスのほうがより深くて決定的なものがあって大事だと思うのです。

しみじみ思うのは、どんなに立派で温かい心をもった人でも、センスが合わないといちいちが神経に障り、疲れます。
しかも、互いに何が悪いというわけではない分どうにもなりません。

センスは人間関係のみならず、人が関わるあらゆることの中心では?

最後になりましたが、いうまでももなく音楽もそうであって、どんなに練習しても、センスによって統括されなくては決していい演奏にはならないし、そもそも技術もないまま難しい曲に挑戦したがるなんぞ、センスが悪いなによりの証でしょう。
そういう意味では、ピアノが下手なことは許せるけれど、センスが悪いのはガマンできません。
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懐かしく新鮮

CDも入れ替えが面倒くさくていつも目の前にあるものばかり聴いていると、さすがに飽きてきて、昔のもので何かないかと探してみた結果、何年ぶりかで、エレーヌ・グリモー、アンドリス・ネルソンズ指揮バイエルン放送交響楽団による、ブラームスの2つのピアノ協奏曲を聴いてみることに。

このCDの昔の印象としては、どちらかというと常識的で、悪くはないけれど特に素晴らしい!というほどのものでもないというものでした。
以前にも書いたことがありますが、CDの印象というのはだいたい同じで、それが覆ることはなかなかないのですが、今回は珍しいことにすこしだけ良いほうに覆りました。

それは、奇をてらったものではなく非常にオーソドックスなしっかりした演奏と言えるし、この点が以前では上記のような印象にしていたんだろうと思います。
しかし、今回聴いてみてまず感じたことは、細部の一つ一つをどうこうというより、全体としてグリモーの演奏には彼女なりの感性の裏打ちが切れ目なく通っており、そこに音楽に必要な熱いものが脈打っているということがわかった感じでした。
その点では、ネルソンズの指揮のほうがより普通で、もの足りないといえばもの足りないけれど、足を引っ張っているわけでもないのでこんなものかという印象だし、もしもこれ以上熱い演奏をしたら、グリモーもそれに反応してくるとちょっとうるさくなってしまうかもしれず、これはこれでこのCDとしては良かったのではないかと思いました。

〜で、なぜ評価が覆ったのかというと、最近の若手注目ピアニスト達の演奏に対する、ある種共通する不満が溜まっていたからではないかと思います。
既に何度も書いているけれど、どの人ももはやメカニックは立派で、どんな難曲大曲でもケロッと弾いてしまいますが、聴き手はそこから何か大事なものを受け取ることができません。
日本のピアノそのもののように、どの人が何を弾いても、均一で、危なげがなく、さも尤もらしく整ってはいるけれど、建前的で心を通わせるようなものがない、ただきれいで見事なだけの演奏。
ニュースキャスターが原稿を読み上げるように、楽譜を正確に音にしているだけで、本音なんて決して明かさないガバナンスの効いた企業人の完璧なふるまいみたいな演奏。

そんなタイミングで聴いたグリモーだったので、そういうものでないだけでも新鮮に感じられ、そうでないことに懐かしさもあり、やはり演奏には血の気や感性の発露がなくてはダメだという、当たり前のことをひしひしと感じたのでした。

エレーヌ・グリモーというピアニストは元来器の大きいピアニストとは思いませんし、テクニックにしても現代のコンサートピアニストとしては余裕のあるほうの人とはいえないでしょう。
私は基本的には、力量以上の曲に挑むというのは、プロはもちろん、アマチュアでも最も嫌うところで、そこからくる息苦しさみたいなものを(そして時に浅ましささえ)覚えます。
ところがグリモーは少し違っていて、自分よりも大きな動物をしとめようと、命がけで食い下がるサバンナの野生動物みたいな勇敢さがあって、それがこの人の場合は良さになっている稀有な存在だと思います。

その意味では、このグリモーという人は10代のころから例外的な存在でした。
フランス人女性で、とくに身体的にも逞しいというわけでもないのに、曲の選び方はフランス物など目もくれず、ドイツやロシアのコッテリ系ばかりで、それだけでも異色でした。

作品を決して手中に収めようようとするのではなく、大きな岩山によじ登るようにして成し遂げられる演奏は、だからこそ出てくる気迫と情熱があって、独特なエネルギーが充溢した魅力がありました。

あまりに挑戦的なスタンス故か、打鍵が強く、ときにうるさく感じられることも、同意できない瞬間もないわけではないけれど、全体として、やはりこの人だけがもつ魅力があって、他の人からは決して得られないものだからこそ、やはりいいなあと思うのだと思います。

第1番と第2番、いずれも50分に近い大曲ですが、出来栄えとしては第1番のほうがより生命力と迫真性がみなぎってこの作品の魅力に迫っており好ましく感じました。
第2番はグリモーにしては、無難にまとめたという印象で、曲自体も悲壮感あふれる第1番に対してずっと融和的ですが、今一つ輝きが足りないというか、グリモーの気性には第1番のほうが合っている気がしました。

このピアノ協奏曲の第1番と第2番は、同じくブラームスの交響曲の第1番と第2番と非常に似たような関係性にある気がしてなりません。
いずれも第1番は作曲家自身の気負いがあらわで、時間をかけ、苦労して、推敲を重ねて、やっとの思いで完成した大作。
第2番はその反動なのか、一転してやわらかに微笑んでいるようで、いずれも素晴らしい作品ですが、強いて言えば私は第1番により惹かれます。
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不健全な物価

ロシアによるウクライナ侵攻の影響か、コロナその他の要因の絡む世界的な傾向か、確かなことはわかりませんが、このところの物価の上昇には驚きと諦めがないまぜになっています。

ピアノもその例外ではないようで、ひさびさにYouTubeを見ていると、スタインウェイを買うと決めた人が購入までの顛末を追った動画があり、あちこちの店で試弾しては「あっちが良かった、こっちはどうの、はじめの店にまた行ってみる、するとある店から電話があって新情報があった」などと、どの一台を購入するかに至る動画がアップされており、それを面白く見ていました。

最終的にはB型の新品を買われることになったようで、これという一台に巡り合われたことはなによりなのですが、その購入のためには資金の問題があり、ついには別目的だった貯蓄も崩してということで、やはりこれがほしい!これに惚れ込んだ!という心の昂ぶりに圧倒されると同時に、私もどちらかと言うとそういうタイプで、きちんと目的をもって蓄えなどできない性格なので「わかるなぁ!」という気分で見ていました。

が、そこでポロッと明かされた価格に驚愕!
いまやハンブルク・スタインウェイのB型の新品は約2000万!もするんだそうで、これにはさすがに背筋が凍りました。
スタインウェイをはじめ、輸入ピアノが毎年少しずつ値上げをするというのはもはやこの業界の慣例のようですが、そこには社会情勢も物価も無関係に、毎年機械的にサッと値上げするという感覚はちょっと馴染めません。
しかも、値上げすると、その価格をベースに数%値上げされるのですから、おそらくは年ごとの値上がり幅も肥大していくのは明らかです。

高級輸入ピアノを買うような一部のリッチな人達には、そんなことは大した問題ではないとでも言わんばかりですが、しかし楽器というものはそれを弾く人は必ずしもリッチ層ではなく、それを必要とするだけの訓練や人生の目的なども絡んでいることで、ただのステータスシンボルで高級品を買うのとはちょっと違った要素もあるように私個人は思うのですが、きっとメーカーは利益追求でそういう考えではないのかもしれず、なんだかやりきれないものがありました。

私もずいぶん前に分不相応とは知りつつ無理をしてこの手のピアノを購入しましたが、今だったら絶対に無理だと思うと、正直ホッとするところもないといえばウソになるかもしれませんが、とはいえ…株でもあるまいし、手放しでは喜べないものが喉元に引っかかってしまうのも事実です。

すでに書いていることなのであえて書きますが、自室用にベヒシュタインのMillenium 116Kという小さなアップライトを3年半前に購入しましたが、それも気になって現在の価格を調べてみると、当方購入時に比べてなんと1.4倍近い値上がりとなっており、その凄まじさに驚きました。
ちょっとどうかしているんじゃないの?と思います。

ベヒシュタインの場合、レジデンス/コンサートという本来のシリーズの下に、同ブランドながらアカデミーシリーズという廉価シリーズがありますが、いまやそちらのアップライト(ほぼ同サイズ)のほうが私が購入した時より高額となり、呆気にとられました。

長年、物価の優等生と言われた卵でさえも、近ごろはずいぶん高くなっていますから、このご時世では不思議はないんだと見る向きもあるのかもしれませんが、現在の値上げには不健全さが臭っていて、経済的にも生きにくい時代になっているのは間違いないようです。
まして、TVのニュースやドキュメントなどを見ても世界のきな臭い話題にあふれ、加えてエネルギー不足、さらには深刻な食糧不足なども予見されており、この先どうなるのかと思うと暗澹たる気分になるばかり。

これからは、ごく当たり前だと思っていたことでも、そうではなくなるような厳しい時代が待っているかも…というような気がかりが常に頭の片隅から離れなくなるんでしょうね。
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求めるもの

手持ちのCDの山をゴソゴソ漁っていたら、セルゲイ・エデルマンのショパンが出てきました。
2009年に富山北アルプス文化センターでセッション収録されたCDで、以前ずいぶん聴いた一枚です。
もしかすると一度このCDに関して書いたことがあるかもしれないけれど、その後若い達者なピアニストが続々と現れ、時代による演奏スタイルも変わってきていると思われるので、そんな中であらためて聞き直してみたくなりました。

制作は日本のレーベルで、音質にこだわった質の高い作品の多く送り出しているOctavia Triton、ここのCDは全体にクオリティが高いと定評があり、輸入盤と違って安くはないけれどきちんとしたものが欲しい時は一時期ちょくちょく買っていました。

エデルマンは名前や経歴からロシアのピアニストと思われがちですが、ウクライナの出身。
私が知った時はアメリカ在住だったようですが、一時期国内のどこかの音大で教えるために日本へも長期滞在していたようで、おそらくこのCDはその時期に収録されたものの一つだろうと思われます。

エデルマンはロシアピアニズムの例に漏れず、堅実なテクニックで重量感のある楷書の演奏をする人ですが、そこに聴こえてくる音楽は必ずしも四角四面なものではなく、ガチッとした演奏構成の中から深い音楽への愛情が聴こえてくるもので、そのあたりがただの技巧派ピアニストとは違うといった印象があります。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、ポロネーズ幻想という絵に描いたような大曲がずらり。
これらの難曲をいささかの破綻もなく基礎のしっかりした石造り建築のように奏していく様はさすがというほかなく、理想のショパンかどうかはさておいても、これはこれで大いに聴き応えがあります。
また、録音会場の富山北アルプス文化センターはそこにあるスタインウェイが好評だったことや、録音に適した諸条件を備えていたためか、一時は収録によく使われていたホールであるし、実際私もここで収録された力強さと甘さを兼備したスタインウェイの音には、他のCDを含めて好感を持っていました。

私の音楽的趣味という点ではエデルマンの演奏はイチオシというわけではないのだけれど、ピアノ演奏としての充実感など、個人的に大切だと思うところをキチッと押さえているピアニストというところでは、認識に刻まれたピアニストの一人です。
演奏スタイルは、ひと時代前の深い打鍵でピアノを鳴らしきるロシアンスタイルで、ショパンやシューマンにはもう少しデリケートな表現もあって良いのではないかと思うこともあるし、全体にガッチリ弾きすぎるという点は否めません。
しかし先にも書いたように、そこには良心的な音楽性が深い部分に生きており、ウソがない。
妙にセーブされて何が言いたいのかわからない、形だけは整った平均ラインを思わせぶりになぞっていて、却って不満を感じてしまう演奏より、痒いところにしっかり手が届くような聴き応えがあり、結局のところはトータルで魅力があることに納得させられてしまいます。

現代の若手のピアニストの演奏は、もちろん素晴らしいと感じる要素は多々あるとは思うけれど(私の耳には)そもそも演奏を通じて曲に没頭しているという気配が感じられません。
音楽(あるいは演奏)を聴くことで自分が酔えない、曲が迫ってこない、率直な感銘や興奮からはかけ離れた、世の中にはこういう飛び抜けた能力の持ち主がいるんだということを見せられているだけのような気になります。
なるほどどの人も着実に上手くクリアだけれど、本音を決して明かさず、各人の感性の発露も極めて抑制的で、建前ばかりを延々と聴かせられるのは意外にしんどく、そこへエデルマンのもつ熱い情が脈打つ演奏を聴くと、それだけでも溜飲が下がるようです。
自分のセンスや美意識を通して、演奏することに全身全霊を込めてやっているときだけに現れるえもいわれぬ品格と覇気こそが人の心を掴むのであって、やはり音楽というものは人が全力を込めて弾くところに、理屈抜きに惹かれるものがあります。

何もかもが素晴らしいと言うつもりはありませんが、少なくとも工業製品のような完成された演奏をあまりに耳にしていると、多少のことは目をつぶっても、このようなしっかりした血の気のある演奏には、おもわず共感し溜飲が下がるような気になります。

ピアノもおそらく1980年代のスタインウェイだと思われますが、やたら派手さを狙わない陰影、同時にほどほどの現代性も備えていて、やはりこの時代の楽器はいいなあと思います。
あたかも間接照明の中に、美しい絵や彫刻が浮かび上がるような世界がまだかすかに残っています。
それにひきかえ、今のピアノは、均一でむらなく電子ピアノのようにきれいに鳴るけれど、仄暗いものなど表現の可能性が薄く、省エネで効率的に計算されたLEDの照明みたいなイメージです。

現代のピアノもピアニストも、その素晴らしさはあると思いますが、やはりどこか自分の求めるものとは違うようです。
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もろもろ

あいも変わらず、テレビ番組から。

▲坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes
新年に放送された、坂本氏がNHKのスタジオで収録したピアノソロ演奏。
大病をされて以降、コンサートは体力を要するため、ゆったりとこのようなスタイルの収録となったというようなことをご本人がコメントされていました。
そもそも私は、坂本龍一氏のお顔と名前はむろん知っているけれど、具体的にどのようなミュージシャンなのかほとんど知りません。
若い頃はYMOというユニットで活躍されていたこと、映画『ラスト・エンペラー』では音楽と、俳優としても満州国の甘粕正彦を演じたことぐらいが知っていることのほとんどで、それ以外は実はよくわからないままなのです。

よくわからないという点では、今回視聴した演奏も作品も恥ずかしながら同様でした。
坂本氏のファンの方からは呆れられるかもしれませんが、この番組でのピアノ演奏を聴いた限りでは、慈しむようにゆるやかに弾き進められているものの、どれも似たような漠然とした感じがあるばかりでした。

強いていうなら、昔のスタイリッシュとされた頃の時代の空気というか価値観を思い出すようで、日本が日本的じゃないものを目指しはじめた頃って、こんな感じだったようなぼんやりした記憶が呼び覚まされたような。

この方は(ご自身でも言っておられましたが)ピアニストではなく、作曲や創作表現のためにピアノが最も手近にある楽器ということで、それを必要に応じて触っておられるということのようですが、もしピアニストだったらかなりの武器になったことだろうと思わせる大きくて立派な手をしておられるのが印象的でした。

ピアノはCFX以前のやや古いヤマハで、そこから聞こえてくる音はヤマハそのもの!といった感じの、まるでスパゲッティナポリタンみたいな洋風和物というか、あの懐かしい日本的なピアノの音でした。
NHKのスタジオならスタインウェイなどいくらでもあったでしょうに、それをあえてこのヤマハを使われたあたりも、坂本氏のこだわりなのか、あるいはそれ以外の事情が潜んでいるのか、そのあたりはまったくわかりませんが…。

▲舘野泉 鬼が弾く 86歳、新たな音楽への挑戦
とにもかくにも、へこたれないこの方のエネルギーに恐れ入りました。
お名前の通り、そのつきないエネルギーはこんこんと湧き出る泉のように。
66歳でコンサート終了後に脳溢血で倒れられてから、早いもので20年。
以降は左手のピアニストへと転身され、そこから再スタートを切って精力的にコンサートをされていたのもすごいなと思うけれど、コロナで全世界のコンサートが中止となり、大きな空白期間を余儀なくされたのは舘野氏も例外ではなかったようです。
そうして、ようやく世の中が動き始め、86歳にして「鬼の学校」というピアノ四重奏の新曲で久々のコンサートをするというドキュメント。
以前より一回りお年を召されたようで、移動は車椅子だったりするけれど、ピアノを弾くことへの情熱は一向に衰える気配がなく、もはやこの方にとって、ピアノに向かうことは人間が呼吸し心臓が動いているのと同じようなものなんでしょう。

ご自宅はフィンランドのヘルシンキと東京の二ケ所にあり、一年の半分ずつを両所で過ごしていらっしゃる由。
ちょうど東京滞在中にコロナ禍となったようで、海外への移動もままならず、その年齢と自由とはいえない身体での一人暮らしを余儀なくされ、近所への買い物は電動のカートに乗って出かけ、食事の準備からなにからお一人でこなしておいでだとか。

以前の番組では、この東京のご自宅には高齢のお母上がいらしたけれど、もはやその様子もなく、それでも例の淡々とした調子で前向きに毎日を受け容れ、ピアノに向い、どうしたらあんなふうになれるのかと思うばかり。
もともとの出来が違うんだといえばそれっきりだけれど、100分の1でもあのしなやかにして頑健なものが自分にあったらと、ただただ羨ましく思いますね。
ピアノだ音楽だというより、生きるということの価値や人生訓になりました。

▲蛇足
TVではないけれど、週刊誌ネタとして思うところがあったのは、現在最も注目を集める日本人ピアニストが、新年早々、同じコンクールに出場したお相手と結婚されたという話題。
あまりに出来過ぎの観があり、それがむしろ不自然な印象だったけれど、別に贔屓のピアニストではないし、人生すべてをしたたかに計画的に押し進めるこの方であれば、そう驚くことでもなかろうと思いました。
そうしたら、ほどなくして新聞の週間文春の広告に、この人はすでに外国人との離婚歴があるとあり、とたんにすべての辻褄が合って腹に落ちた気分で、さすがは文春砲と感服。
ネット検索したら、とてもここには書けないような事がゾロゾロ出てきて、いよいよ納得。
他人様のプライベートをとやかくいうつもりはないけれど、いつもどこかに感じてていた違和感が、パズルのピースがついに埋まって一つの形が見渡せたような納得感がありました。

まあ…ピアニストといっても昔の芸術家特有の破天荒とはまるで趣が違うし、こんなスキャンダルもうまく着こなしていかれることでしょう。
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通せんぼ妖怪

以前にも似たようなことを書いたような気もするのですが、あまりに多いので再び。

車を運転していると、近ごろはやたら路上での流れが遅くて、ついイライラしてしまうことが多い気がします。
むろん車が多くてそうなるなら普通ですが、夜間など交通量もまばらで、道もガラガラだというのに意味不明に流れが遅く、法定速度以下のアホらしいような速度で走らざるをえないことがしばしば。

あまりのことに前方を注視してみると、やたらゆっくり走っている一台の影響で、その後ろがゾロゾロ続くしかないという現象。
しかも、その車の前は見渡す限り何もなく、ただトロトロ走っているだけ。

以前は、運転中にスマホなどを見ているのか、高齢の方などがよほど慎重運転されているのか…などと思ったものですが、近頃わかってきたことは、どうもそういうことではないらしいのです。
片側一車線でどうしようもありませんが、途中から二車線三車線になると、こちらも一気に行手が開けるのでこの手の極遅車からようやく開放され、空いている車線から前に出るのですが、追い抜きざまについ横を見てしまうことも。

果たして、運転しているのは予想に反してどこにでもいそうな普通の若者だったり、真剣な様子の女性だったり、いずれも運転以外のことにかまけて後続車のことが疎かになっているということでもなく、しっかり前を見て運転していたりする姿によけい驚かされます。

こういう走りの車にかかると、後ろがどんなに詰まって迷惑をかけようが、そんなことはまったく知ったことではないようだし、そもそも周囲に迷惑をかけている事など微塵も意識はないようです。

車関係の知人と雑談をしている時に、こんな状況があまりに多いことが話題となり、そこで驚くべき解説を受けました。
それは通称「通せんぼ妖怪」というのだそうで、比較的若い世代に多く、車や運転に関して一切興味も楽しみも感じない人達で、車の運転は100%移動手段でしかなく、したがってドライブの楽しさや運転技術の向上などにも興味ゼロの種族の由。

自分が運転が苦手だという意識はあるようで、だからとにかく安全にゆっくり走っているのだそうです。
さらに、道交法の解釈にも勘違いがあり、例えば道路標識が40km/hのところを50km/hで走れば違反だが、40km/h以下で走るぶんにはどれだけゆっくり走ってもOKと考えているんだそうです。

現在の自動車学校の教えがどうなのかは知りませんが、我々の時代は「安全運転」はもちろん第一でしたが、そのためにも「交通の円滑」を心がけることが必要だと繰り返し叩きこまれたものでした。
仮に50km/hの道をみんなが60km/hで走っているときは、一台だけ異なる速度で走るのは却って危険であり、そういう場合は同じ速度で走るべきであると教えこまれたものです。

これは集団であれば速度違反をしていいということではなく、交通状況というものは絶え間なく変化する生きものだから、臨機応変に状況を察知し、神経の行き届いた円滑な走行を心がけることが安全にも繋がるという考えだと思います。
なので、一台だけ極端に周りと違った動きをすることは却って混乱をきたし、危険要因を増やしてしまうという考え方で、その柔軟な感覚はつねに交通安全に求められる要素だと思います。

他車に対する配慮が極端にできない視野の狭いドライバーが専らマイペースで、周囲の状況へのセンサーが働かないような動きをしていると危険が迫ってきたときの認知も遅れ、当然ながら咄嗟の対応も後手にまわり危険度はずっと増すはずです。
とくに高速道路ではスピードの調和が乱れることで危険性も増大することから、最低速度というものが課されていることからもそれは察せられます。

この「通せんぼ妖怪」は、自分は40km/hの道を30km/hで走るぶんには、自分には何の非もなく、むしろより安全運転にいそしんでいるとでも思っているかもしれませんが、それは勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。
周囲のドライバーをイライラさせる原因を作っていることこそ、安全とは反対の危険行為だと思いますが、いかんせんご当人は妖怪さんだからそこに気づくはずもないということのようです。

これと感覚的に似ている気がするのですが、夜間、無灯火(ライト類をまったく点灯していない)の車が少なくないことにも、この鈍感さが現れていると思います。
街中がいくら明るいとはいえ、夜道でハンドルを握ろうというのに、自分の車のヘッドライトが点いていないことにまったく気づかずに平気な顔して走っているなんて、その鈍感さが私から見ればかなりこわい気がするし、これはもう酒気帯び運転並みに恐ろしいような気がします。
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続・TVから

昨年末に書いたピアノ関連のTV番組の感想続編ですが、あまり年始めにふさわしい話題とも思わないけれど、敢えて書いてみました。

【NHKショパン国際コンクールのドキュメント(再放送)】
12月のいつだったかNHK-BSのプレミアムシアターの後半で放送されたもので、私自身コンクールが終わってほどなくして放送された折には一度見ている番組。
ピアニストで審査員もつとめられた海老彰子さん、ショパンに造詣が深いとされる作家の平野啓一郎さん、音楽ジャーナリストで2021年のショパンコンクール全日程を取材したという高坂はる香さん、さらには自らピアノ好きと称するNHKアナウンサー2人による進行によって、映像/演奏を交えながらコンクールを振り返るという番組。

プレミアムシアターは毎回録画設定しており、せっかく入っているなら暇つぶしにもう一度見てみようかと再生ボタンを押しましたが、実をいうとはじめの30分足らで妙なストレスを感じはじめてやめてしまいました。
理由はいまさらくどくど書く必要もないので細かくは省きますが、簡単にいうと全体に同意しかねるところが多く、評価の傾向としても自分の価値観とは相容れないものが中心になっており、のみならず、なんというか…こちらの判断基準にまで踏み込まれてくるようで、今どきはこれがショパンなんだ、これが新しくて良いんだ、それがわからなければ時代遅れの耳の持ち主だと、いわば判断のアップデートを迫られるようで、要は今風にいうなら「価値ハラ」を受けるような感じがあって疲れるのです。
自分がさほどいいと思わないものを、皆さんこぞってこれでもかと褒めちぎるのもしんどいのです。

オリンピックやFIFAワールドカップのように競技としてはっきり勝ち負けが吹っ切れた世界なら構いませんが、主観や情感など芸術性が問われるべきピアノ演奏において、この「競技」はコンクールという枠を超えて、音楽シーン全体の価値観の変容にも一定の影響があるようにさえ感じるのです。

番組始めのあたりに、みなさんの押しの演奏は?というのがあり、平野氏が今回のコンクールで弾かれた優勝者のop.25-4を挙げました。「自分はショパンのエチュードといえばポリーニの世代だが」と前置きしながら、ますます解像度が上がってショパンの音楽の構造がよく見え、デジタル的なまでにクリアな演奏となり、左手と右手のコンビネーションがわかる…「ポリーニのエチュードは金字塔として変わらないが、その先があったのかと思った」というようなことを言われ、これも実際の演奏が流れましたが、私はすこしも感銘を覚えず、だからなに?としか思いませんでした。
あげくに「ショパンの演奏が50年の間にこんなに進歩したのか…」というようなことを堂々と仰るのには、強い違和感を感じましたし、海老さんのコメントも全般的に技巧目線で、同様の印象でした。

確かにクリアというならそうかもしれませんが、それがそんなに価値あることとも思えないし、むしろ音楽的にはやせ細って平坦で、ショパン作品に求めたい香り立つようなニュアンスもなく、スマホの早打ちのように終始せかせかした感じで、背中を丸めゲームにでも没頭するかのように上半身を小刻みに上下させる姿も違和感を覚えたり…。

より美しく、より芸術的な方向へ深化するなら大歓迎ですが、デジタル機器ではあるまいし、私は一人の音楽愛好家として、ある種一定の明晰さは求めたいけれど「解像度」という言葉自体も無機質でちょっとそぐわない気がしました。
むろんこれは、ものの喩えとしての表現かもしれませんが、そのままの概念のようでもあり、ある種の本質を孕んでいるような気がしてどうにもひっかかるのです。
技術や楽曲分析が向上するのは結構ですが、人間臭さを失ってまでそれを求めたいとは思いません。

【ブーニンの復活コンサート完全版】
9年ぶりに八ヶ岳で行われたコンサートで、シューマンの色とりどりの作品(小品とも)op.99の全曲版。
身体的に様々な不調に襲われ、再起をかけて実に9年ぶりに公開演奏に挑んだ演奏。
そんな開演直前ともなればどれだけナーバスになっているのかとおもいきや、控室にいたブーニン氏は優雅な笑みとともに、夫人と連れ立って通路をゆったりと進んでステージに向かう姿は印象的で、やはりこの人は独特な存在だと思いました。

演奏は率直に言って、かつての奔放で思うままにピアノと戯れていたブーニンではないことが悲しくはあるけれど、それでも随所のアーティキュレーションとか、ちょっと溜めて歌い込むポイントをむしろスカッとクールに処理されるあたり、かつて聞いた覚えのあるブーニンの語り口を垣間見るところがはっきりあって、ああこの人はこれだった!と思いました。
人間の感性は生涯不変という話はやはり間違いないようです。

世界にはあまたのピアニストがいるけれど、あの何事にも動じない、貴族的ともいいたい所作や笑顔、自然な語り口、なにより彼が醸しだす繊細さ、それでいて超然としたあの誇り高い雰囲気は比べるものがない、この人だけの世界があるようです。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年も良い年でありますようにと穏やかにご挨拶したいところですが、世の中はロシアのウクライナ侵攻はじめ、大国のエゴがいよいよ顕在化するなど、しだいに緊張の度合いを増しているようで、なんとか世界の平和が保たれますよう祈るばかりです。

かつて日本では「平和ボケ」なんていう言葉が盛んに使われたものでしたが、もはやそんな無邪気な時代ははるか彼方に霞んでしまったようです。
コロナも概ね収束方向かと思っていたら、中国のゼロコロナ政策の緩和によって、一転して爆発的な感染拡大となり、そこからまたあらたな変異株が出てくる可能性があるといううんざりするような説もあったりで、現代人は今やどちらを向いても不安要因にとり囲まれてしまったようです。
とはいえ、嘆いてばかりもいられないので、なんとか現状の中で前を向いていくしかありませんね。

毎年、年初のコメントには同じことを書きますが、このブログも14年目を迎えることになりました。
お読みくださる方がいらっしゃるのはただありがたいとしか言いようがなく、本年も何卒よろしくお付き合いくだされば幸せです。
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良いお年を

年末に目に止まったTV番組から。

【辻井伸行in河口湖ピアノフェスティバル2022】
このフェスタは毎年恒例なのかどうかは知らないけれど、過去にも同じものが開催されていたので、少なくともこれが初めてではないのでしょう。
辻井さんが中心のようですが、ご多分に漏れず、そこに集まってくるゲスト演奏家の方がいろいろいらっしゃるようです。
加古隆さんはたしか以前も見たような気がしますが、この方は徹底してベーゼンドルファーしか弾かないということなのか、今回も加古さんの演奏時にはそれが準備されていました。
演奏されたのは、曲の名前は知らないけれどNHKの「映像の世紀」でお馴染みのもの。

ジャズの山下洋輔氏のお顔もあり、ラプソディ・イン・ブルーを弾かれていたけれど、私の耳にはときどきそれらしきものが聞こえてくるぐらいで、大半は山下氏お得意の爆発系の即興演奏のような上ったり下ったりが多く、そのときはパワフルだけれど、両手オクターブのあの有名な主題の旋律部分になると突如勢いが落ちて、指もなんだかおぼつかない感じになるあたりは別人みたいで不思議でした。

最後は辻井さんのソロでラヴェルのピアノ協奏曲。
野外会場という条件も加味して考えるべきだろうとは思いつつも、かつての辻井さんからはあまり聞かれなかった、ことさら派手なテクニシャンであることをアピールしようとする印象で、テンポもやたらセカセカしているし、なにより技巧を前面に押し出したような感じのアスリート風の演奏であったのは、彼の意外な一面を見たようでした。
そもそも、この方の演奏はそういう「ガンガン弾けますよ系」とは一線を画したピュアな魅力が、いささか表現が平坦ではあっても全体として清潔であるし辻褄が合っているように思っていたので、どうされたんだろう?という感じが残りました。

第一楽章がまずもってそんな感じだったので、せめて第二楽章では辻井さんらしい美しさのきらめきが堪能できるのかと思ったら、放送時間の関係からかこれは惜しげも無くカットされ、そのまま派手で賑やかな第三楽章へと繋げられていたのはびっくりでした。
どうしてもカットするのであれば、第一楽章をカットし、せめて第二楽章〜第三楽章という具合にはできなかったものか…と思うんですけどね。

今や国内に限っても、ピアニストの世界は相当に上手い人が次から次へと出てきて混雑気味だからか、さしもの辻井さんも無垢なだけではダメだと思って少しマッチョ系に舵を切りだしたということなのか、たまたま今回はその場のノリでそうなったというだけのことなのか、真相はわかりませんが。
ああ見えて、あんがい勝負心はしっかり強いお方なのかもしれないとも思いましたが、コンサートピアニストとしてあの位置を保持していくぐらいですから、それぐらいの逞しさは当然だといわれればそうなんでしょう。

【フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して〜スペイン・マヨルカ島への旅〜】
フジコさんが、ショパンとジョルジュ・サンドが訪れたことで有名なマヨルカ島を旅するということで、それに密着した90分のドキュメント。
これまでフジコさんのお歳は発表されてこなかったので詳しい年齢は知りませんでしたが、この番組で初めて90歳になられるということを知り、率直にお若いなぁと驚きました。
久しぶりに映像で見たフジコさんは、なるほど歩行器をつかって歩いておられ、ステージに出るにも介添えの方が付いておられるようで、自分を含めて当たり前ですが、世の中はみんなまた一段と歳をとったのだということを思い知らされるようでした。
それは前述の山下洋輔氏についても同様でしたが。

パリの自宅からは、友人の車でスペインまで南下し、そこからフェリーに乗り換えてマヨルカ島を目指します。

マヨルカ島では、リサイタルまで組み込まれて、現地の音楽院のホールでお馴染みの曲を弾かれていました。
テレビカメラが入っているということもあるのかどうか知らないけれど、同行者はもちろん行く先々の方まで、皆さんがマイペースなフジコさんに対して、非常に親切に接しておられるのは印象的でした。

ところで、フジコさんほど好き嫌いの別れるピアニストもいないと思いますが、私は実はそんなに嫌ってもいないし、とくにファンということもありません。
嫌っている人にいわせれば突っ込みどころ満載でしょうし、それはもちろんわかるのですが、それでもこの人にしかない美しさというのがあるのだから、あんなにも憤慨せず、こんな人が一人ぐらいいてもいいと個人的には思うのです。
とりわけ、時を経るにしたがってどんどん増殖されていく、確実に安定した演奏のできる、高性能工業製品みたいなピアニストだらけのこの時代に、まるでつるつるに使い込まれたアンティーク家具のようなフジコさんの演奏には、理屈抜きに人間がホッとさせられる本質が息づいていると私は思うのです。

聴いていると、明らかな譜読みの間違いや行き過ぎた自己流で乗り切ることもあったりで、たしかにギョッとする瞬間もないではないけれど、それをいまさら青筋立てて言ってみてもナンセンスという気にさせられます。
フジコさんの演奏は、なにより音が美しく、センスもそれなりで一つの世界があり、演奏そのものだけではなしに、人の心の中にあるなつかしいものに触れられる数少ない機会なのでは?と思います。
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ガルシア・ガルシア

先日の『題名のない音楽会』で、マルティン・ガルシア・ガルシアさんが出演しました。
昨年のショパンコンクールで第3位に輝いた、スペインのピアニストです。

スタジオ収録で、演奏曲目はバッハの平均律第1巻より第1番、ショパンのワルツ第4番、モンポウの「歌と踊り」第6番、ラフマニノフの「サロン小品集」よりワルツ。

番組でも話題にされていましたが、演奏中はご自身も声を出して共に歌い、良い意味での天真爛漫さが魅力。
トークでも人懐っこい笑顔を決して絶やさず、常に楽しげに振る舞うその様子は、いかにもラテンのピアニストというイメージに溢れており、この天性の明るさは日本人やロシア人にはおよそないもので、世界は広くお国柄や個人の資質も実にさまざまという事実を感じずにはいられません。

体格も立派でややぽっちゃり系、そこにさらに特大の手が加わり、その指は15度!開くのだそうで、これはドからオクターブ先のソまで届くというわけで、こんな人から見ればピアノも我々が相対するものとは同じであるはずがなく、一回りも二回りも小さなものなんだろうなぁ…と思います。

指もただ長いというだけでなく、大理石の彫刻のようにがっしりとした骨格にしっかりした肉付きがあり、見ためのバランス上ピアノに最適サイズとは思えないほど立派で、体格差というのは如何ともし難いものだということをいまさらながら感じます。
大谷選手とて、その並外れた天分と努力に加えて、それをあの秀でた体格が支えているのですから、そりゃあかないっこないと思います。

なにより注目させられたのはガルシア氏の出す音。
どっしりした体格と、その大きく逞しい指から出てくるそれは、すべての音がいやが上にも冴えわたっており、芯のある音が泉のごとく出てくるのは呆れるばかり。しかし、強いて言うなら全体に音量ベースが強すぎのように思われるところがあり、我が家のテレビのせいかもしれないけれど、ときどき音が割れ気味になるのも致し方無いのかと思います。

音楽的には、クラシックの演奏者が失いがちな躍動や楽しさや明るさが支配しており、それは稀有な価値だと思うけれど、裏を返せば深く繊細なものを覗き見るような部分であるとか、かすかなニュアンスに息を詰めて触れるといった類のものとは違う気がしました。
たった今、躍動や明るさと書いたばかりですが、通称「猫のワルツ」とされるワルツの4番などは、意外に重めで、リズム感や軽さや洒脱がさほど発揮されなかったのは意外でした。
ショパンコンクールで3位にはなったものの、実はショパン向きの人ではないようにも思います。

いずれにしろ、現代の若手ピアニストの多くが建前重視の演奏に終始するあまり「草食系」の音しか出さなくなってしまった背景を考えると、いささかやり過ぎな面もあるにせよ、たまにはこんなビシッとした硬質な音を出せるピアニストがいるということも、それはそれでみるべき点があるように感じました。

ピアノはショパン・コンクールの時もそうだったけれど、この番組でもファツィオリを弾いていました。
その点についても質問があり、「いろんな理由でファツィオリを使っている」「僕が歌うことにもつながりがある」というようなことをいっていましたが、この「いろんな理由」は意味深長な気がしました。
私は聴いていて、彼の強い打鍵を支えるのは、ファツィオリのソフトな音作りがあるのでは?と感じました。

ガルシア氏の強い打鍵では、現代の標準的なエッジの立ったパリッと鳴るピアノで弾いたら、メーカーに関係なくバランスが崩れてしまうのではないかと思うし、始終そこに気を遣っていてはノリが悪くなり、ストレートな演奏の妨げになるのかもしれません。
「ファツィオリの音や響きが好み」と率直に言ったわけでもなく、「いろんな理由」「歌うことにもつながりがある」というあたり、彼の生まれ持った強いタッチと「つながりがある」ような気がしました。
これはもちろん個人的な憶測に過ぎませんが。

ちなみにガルシア氏は日本びいきで、母国でも日本料理を食べ、最近婚約されたお相手も日本人だそうです。
グルダ、シフ、ブーニンなど、日本人と結婚する男性ピアニストも結構いるんだなあと思います。
さらにガルシア・ガルシアという名前は、ご両親の苗字がおふたりともガルシアで、そのためにこの名前になったのだとか。
とすると、スペインは両親の苗字を並べるのが普通なんでしょうか?

ファツィオリについては、今回見ていて一つ発見したのは、フレーム(弦を張る金属の骨組み)の中で、打弦点のやや手前にある、鍵盤とほぼ平行になっている部分がありますが、そこだけ上部が黒に塗られているように見えたのですが、これはどういう意味があるのだろうと?と思いました。
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詐欺に近い

ピアノ以外の話でもう一つ。
最近経験したことで、皆さんのお役に立てればという気持ちからご紹介します。

ちょっとした必要があって、お風呂の工事が必要になったのですが、パッと見渡してみてもピアノと違い、これといって懇意の業者があるわけでもなく、やむなくネットで探すことに。
以前からお世話になっていた好ましい業者さんが2つあったのですが、一つは別会社に統合されてしまい以前とはすっかりやり方が変わってしまったこと、もうひとつは頼みの職人さんがケガで引退されてしまい、よって業者探しから始めなくてはなりませんでした。

そうなると今どきはどうしてもネットということになりますが、ネットの欠点は、あまりにもたくさんありすぎてどれを選べばいいか、まるで見分けがつかないこと。
仕方がないから、その中から適当に電話したら快く対応され、さっそく現場を確認に来られました。

とても感じ良く、話し方も好意的で、現場を確認される間もいかにも頼れる感じで、ネットも悪くないなというような印象でした。
それから10日ほど経って、メールで見積が送信されてきたのですが、そこに記された金額を見た瞬間背筋が凍りつきました。
何かの間違いではないか!?と思うようなもので、もう胸はバクバクです。
細かい明細書なども添えられており、体裁上は尤もらしく書かれてはいるけれど、とうてい納得のいくものではなく、態度は柔らかいが相当な悪質という印象しかありませんでした。

それで、腹も立った勢いで、ずいぶん昔お世話になった業者さんをいくつか思い出し、幸いアドレス帳に残っていたので思い切って電話してみたら、心よく対応してくださり、さっそくそのひとりが現地調査に来てくれました。
さすがはプロというべきか、状況に関してはたちどころに理解し、ざっとこれぐらいでは?という金額を告げてくれましたが、それははじめのネットの見積りの約半額でした。

そういえば、以前別の件でも家のメンテに関することで、ネット検索して「業界最安」の文字が踊るサイトから、見積りを取ったことがありましたが、そのときも思わず顔が青ざめるような金額だったことを思い出しました。
もちろんそこには依頼しませんでしたが、こういう手合いがウヨウヨするのが当たり前の業界とは恐ろしいものです。

しだいにわかってきたことですが、とくに住まいの工事に関することで業者を探す必要が生じたとき、手段としてネットに頼りがちですが、これはかなり悪徳業者に当たる確率が高いこと、昔の縁で来てくれた業者さんにもその話をしたら、「あー、はいはい」と苦笑いしながら「これだったら☓☓☓ぐらいいったんじゃないですか?」と言われましたが、実際はそれ以上でした。
この業界では、ネット検索ででてくる業者はかなり高額をふっかけるところが多いのは限外に普通ですよ…といった感じで、とくに驚きもされず、そんなものだということを今回はっきり認識しました。

テレビなどで、人なつっこい態度で高齢者などに近づき、しなくてもいい工事を言葉巧みに誘導し、杜撰な作業で大切な貯金などを根こそぎ奪い取るというような話がありますが、あそこまでいけば完全に一線を越えており犯罪でしょうが、その少し手前の詐欺に近いギリギリのものというのは無限にあるようです。

とくに安さを謳って人を引き寄せるけれど、実際はその逆で、常識的な金額の倍も三倍も請求してくるのですから、いやはや恐ろしいといったらありません。
これをお読みの方も、もしそういう業者探しの必要が生じたときは、どんなにわずかでも知り合いのつてなどを辿っていかれるのが斎場とはいいませんが、まずは懸命だろうと思います。
また水道などは自治体の指定業者になっているかどうか。
もちろん、それでも決して安心はできませんから、できれば頑張って複数の業者に見積もりをとってみる必要はあると思います。

また、同じ案件でも業者によっても考え方や施工上のポイントがずいぶん違っていたりと、各社さまざまなので、面倒でも幾つかの業者に相談してみることはとても大切だということがわかりました。

ピアノだったら、調律などはだいたいの料金は決まっているし、あとは好みや巧拙にが問題ですが、住まいに関する工事はケタが一つも二つも違うし、おまけに業者によって費用が倍以上ちがってくるとなると、こちらもよほど警戒してかかる必要がありそうです。

いずれにしろ、住まいのメンテや工事関係はネット検索はやめたほうがいいので、みなさんもくれぐれもご注意ください。
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健康志向の不健康

久々にピアノ以外のお話を少し。
先日、テレビの某トーク番組を見ていたら、いくつかのテーマの中で健康に関するやりとりがありました。

そこで語られたのは様々で、流行りの糖質ダイエット、ヴィーガン、日本人の健康意識から美意識にまで切り込んだもので、頷ける点が多くありました。

若い女性の間では、食事に行ってもダイエット中や特定のこだわりを貫く人がいたり、なんだかんだと制限が多く、無邪気に注文することもできず、気遣いやストレスがあるとのこと。

そもそも、ダイエット中や健康上もしくは思想上特定の考えを持った人は、他者と食事に行ってそれを崩さないとなると、その場の雰囲気や他の人に影響を与えないで済むことはかなり難しいのでは?と私は思いますが…。
そもそも、健康のためと称して、あれこれのこだわりを持ち、食品に対する自説や選択、あるいは運動だ、栄養補給だとさまざまに実践しておられる方がいらっしゃいますが、これは当人以外は甚だしく快適ではない空気を撒き散らすことになるように感じます。

また、ある程度以上の年齢に達してからその面に目覚め、それを中心とした生活を送るのは、正しいことなんだろうとは思いつつ、どこか浅ましさみたいなものが見え隠れしてしまうときがあります。
しかもそのタイプは、それまでの不摂生を一気にリセットしようという思惑なのか、やたら健康志向に転身し、自説に浸り込んでいるのも思い込みが強いぶん周りはウンザリだったり。

もちろん一定の運動が必要であるのは言うまでもないし、健康的な生活を送ることが大切という本質に異論を挟む気はまったくありません。
でも、わざわざ運動のための運動をするよりは、できるだけ自然のリズムの中から出てくるものであるべきでは?と内心では思ってしまうのです。
健康志向の人は、多くの場合、健康データとしての「数値」の獲得が目的で、そのためにやりたくもない運動や食事制限に全生活を縛り付けるなんて、私はどこか大事なポイントがずれているような気がするのです。
食べ物や食べ方、あるいは長らくアルコールに親しみ、偏った食生活を送ってきた人が、急に何もかもをチャラにしたいのでしょうが、それは不摂生をクルッと裏返しただけに見えて、あまり健康的に思えないのです。
身体にとっても、悪いものが入ってこなくなった環境改善より、急激な変化に対するストレスのことは見落とされているのでは?

私の感じる「健康的」の概念には、趣味や文化と同じく、自然に身についたものが必要じゃないかと思います。
極端に甘いものや塩っぱいものは、健康云々以前に、自分がそれほど望まないとか、過度なアルコール摂取や暴飲暴食は、したいけどガマンではなく、そもそも好きではない、自分の快適性に合わないというのが自然だと思います。

若いころはともかく、もう食べ放題なんて行かなくなりましたが、あの過度な満腹感がもたらす不快感がイヤだから行かないだけですし、本来なら野菜でも水分でも、採らなきゃいけないからというだけではなく、それが欲しくなるのが自然であり、そういうサイクルになっていることが健康的だと思うのです。

誰だったか忘れましたが、パネリストの一人がポロリと膝を打つような発言をしました。
「健康オタクの人って、私にはそれが不健康に見えるんですよね」
まさに膝を打つ思いで、まさにその通りなんです!

ご当人はそれまでの不健康な自分とは決別し、いまこそ健康を取り戻しつつあると思っていても、それが悲しいまでに不健康に見えて、そのあたりのギャップが傍目にはどうもしっくりきません。
白髪を隠そうと毛染めをして、老いた顔の上にやけに真っ黒な髪がかぶさっていたりするのを見ると、逆に不自然でより老いが強調されてしまうように。

私は医者ではないけれど、人は40過ぎたら、そこまでやってきたことがその人の基本であり、たとえばよほどの肥満とかは別にして、ちょっとぐらいぽっちゃりの人が、敢えて苦しい思いをして、あれもこれも我慢して、ビジネス臭がプンプンする基準を鵜呑みにして、苦心惨憺の末にすこしばかりスリム体型になったとしても、やつれたようにしか見えず、それが真に健康的で素晴らしいとはどうしても思えないのです。

多少体重は多めでも(極端なことや明らかにアウトなことは別ですが)、常識の範囲でやりたいようにやって、ほがらかに笑っていた時のほうがよほど健康的だったのでは?と思ってしまいます。
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修理はピンキリ

『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』という本があり、以前購入していたものですが、あらためて本棚から取り出して見直してみました。
これはジョン=ポール・ウィリアムズというイギリスのピアノ技術者による著作で、日本では元井夏彦氏という方の翻訳により、ヤマハミュージックメディアより出版されている、カラー写真が多用された美しい本です。

本来なら、ヤマハが出版するピアノ関連の本であれば、参考写真もヤマハピアノが徹底して使われるはずですが、これは海外で出版されたものの日本語版なのでそうもいかなかったのか、おかげで様々なメーカーのピアノが出てくるのが面白く、強烈な自社愛のヤマハにしては珍しく理解なのか忍耐なのか、微妙なところはわからないけれどその点でも興味を引きました。

内容は主に「ピアノの歴史と発展」「ピアノメーカー総覧」「メンテナンス」という三部にわけられており、メンテナンスの章では認識を新たにする記述が散見されました。

例えば、ピアノの修理には「レストア」「リビルド」「リコンディション」というように分けられるとあります。
レストアやリビルドは、ざっくりとオーバーホールというような言葉で、その意味することろを深く考えることもないままに適当に使っていましたが、どうやら日本にはそのあたりの明確な区分がないようにも感じます。

説明によればおもに以下のようになるようです。
▲レストア
レストアの定義は「原型に近い状態に戻すこと」とありますので、おそらくオリジナルを毀損せず本来の姿や内容を忠実に復元するというものでしょう。
長年弾かれてきたもの、放置されていたもの、乱暴に扱われたもの、気候変化や戦争を経たものなどをオリジナルの状態を保ちながら楽器を補強することだそうで、古いピアノのレストアは現代のピアノを作ることではない由。
歴史的価値に重きを置くということでもあるようです。
使用される部材もその楽器の作られた年代の木材、フェルトや弦も当時の素材や製法を考慮しながら、慎重かつ丁寧に再現することで、いうなれば美術館の修復に似たようなものと思えばいいのかもしれないと思いました。

▲リビルド
リビルドは、楽器を元の状態またはそれ以上の状態に再生するために行われ、部品も最小単位まで分解する必要があり、ひとつひとつをきれいにし、不備があれば修理もしくは新品と交換するため、費用もかなり高額となり、品質の高い貴重な楽器に行うのがふさわしいとあります。
塗装、響板、フレームからネジ一本まで、これでもかと徹底しているので、昔の姿を偲ぶ要素も見い出せません。
楽器店に行くと、戦前などかなり古い時代のピアノでありながら、いわれなければ新品と見まごうばかりに内部に至るまで眩いばかりにピカピカにされ、かなり強気な金額で販売されているのを見かけることがありますが、あれがリビルドなんでしょう。

▲リコンディション
経済的または技術的理由から、完全なオーバーホールができない場合、消耗の激しい箇所のみ処置を行うことで、コストを抑え、適正に機能するピアノに修復することのようです。必ずしも楽器を完全に分解することはなく、部品は必要に応じて掃除、修理、再配置され、どうしても交換する必要があるもの以外は再利用される。
各種調整やハンマーの形成など、手掛ける項目は多岐にわたるようで、個人的なイメージとしてはホールのピアノの保守点検のようなもの、もしくはその延長ではないかと思いました。
ところが、実際には必要な箇所さえ省略された、甚だ不完全なものが多いことも否定できません。

我々が、安易にオーバーホールと呼んでいるものは、弦やハンマーに代表される消耗品の交換を中心としたリコンディションであって、正確に言うならリビルドとリコンディションの間にあるように感じました。

リビルドはかなりの費用と時間的な余裕を必要とするので、楽器の価値などおいそれとは着手できることではありません。
ただ、仮に100年経ったピアノを、たった今、工場で出来上がったばかりのようにピカピカギラギラにしてしまうのは、その美しさや技術には感心しますが、諸手を上げて賛同する気にもなれません。
というのも、あまりに過剰なリビルドは、そのピアノの生まれた時代や経てきた歴史まで消し去ってしまうようで、商品としてはアリなのかもしれませんが、センスとしては個人的には違和感が拭えないことも事実です。

過度に傷んだもの汚いものはさすがに好みませんが、古くて好ましいピアノには相応の歴史を感じるものであって欲しいし、そこをどう見るかは所有者や修復する人の価値観や美意識に大きく委ねられていると思います。
もし興福寺の阿修羅像が真新しいピカピカ状態になったら…それはもう完全な別物となってしまうでしょう。
古いピアノの魅力や音を楽しむには、そのピアノの歴史や個性を受け容れて楽しみ、そこに自らも参加していくことではないかと個人的には思います。

だからといって機能的に問題があっては困るので、そこはきちんと健康体に整備された上でのことですが。
よく耳にするのが、「ハンマーを換えた」「弦も換えた」というけれど、それ以外は手付かずで、本来はタッチコントロールに直結する各種フェルトやローラーなど、細かい点まで配慮されないことには、いつまでも満足行く結果は得られないと思います。
むろんコストの掛かることなので、できるだけ切り詰めたいというのはわかりますが、中途半端なことをして延々と不満が続くことがいちばんもったいない気がします。
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あの時代

先に挙げた『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)には、日本人ピアニストの黎明期のこと、さらには日本の音楽教育がどのような変遷をたどってきたかについても触れられていました。

東京音楽学校が東京美術学校と合流して芸大になり、一方で桐朋学園音楽科創設に至る経緯、その他の音大も次々に生まれて、戦後の短い期間で音楽教育環境が急速に整ったことがわかります。
桐朋には前身があって、優れた音楽家を養成するには早期教育が不可欠という思想から、「子供のための音楽教室」というのが作られ、この第一期生が小澤征爾さん堤剛さん中村紘子さんなどです。

これはチェロの斎藤秀雄やヴァイオリンの鈴木鎮一、さらに評論家の吉田秀和、ピアノの井口基成ら各氏の尽力によって開設されたものですが、演奏のお三方は自身の修行のスタートが遅かったこともあり、音楽における早期教育の必要性を身をもって感じていたということも大きいように思います。
さらに、ここから成長した子供の受け入れ先が必要ということで、やがて桐朋学園の音楽科が作られ、大学まで拡大していったようです。

これじたいは日本の音楽教育にとって画期的なことだったろうと思いつつ、読みながら昔のピアノ教育現場のあのなんとも形容しがたい、ムダに厳しい、悲壮的な空気感が蘇ってくるようで、この部分はなんとなく楽しくは読めませんでした。

戦後昭和のピアノ教育界を牛耳っていたのは、井口基成・秋子・愛子の流派と、安川加寿子の二派だったように思います。
かつての芸大がレオ・シロタやクロイツァーなどのドイツ一辺倒だったところに、フランス仕込みの流麗な風を吹かせたのが安川加寿子でしたが、それに対してかっちり力強く弾くのが井口流だったように思います。

私ごとで恐縮ですが、私が通っていた地元の音楽学院も、院長が井口基成の直弟子であることから、学院自体が桐朋の「子供のための音楽教室」の支部のような位置づけであり、斎藤秀雄はじめ、お歴々の写真が架けられていたし、当時はまだ健在だった井口基成はじめ、錚々たる顔ぶれの教授陣が中央から入れ替わりやって来られては、厳しいレッスンを繰り広げておられました。

私自身は井口先生の恐怖のレッスンを受けるには至りませんでしたが(おそらくレベルが低くて)、見学は院長室で何度かさせられました。
専用のソファーが準備され、まさに「王」のようなふるまいで、まわりは緊張の極み。
あんな状態から演奏上の何を学ぶのか、いま考えても正直良くわかりません。

ただ、この本にある「子供のための音楽教室」で行われていた授業内容は、私達に課せられたものとほぼ同じで、桐朋の流儀で全てが進められていたことがあらためてわかり、土曜中心でソルフェージュ、聴音、楽典など、そのままでした。

その頂点に君臨する院長は、すでに多くのお弟子さんを育てて抱え、その人達が下部の教師となって生徒の普段のレッスンを受け持ち、ご指名がかかったらその先生および親同伴で院長室に、レッスンという名のもと出頭させられます。
いうまでもなく学院全体は井口流の厳しさと恐怖に絶え間なく包まれ、そのせいでメンタルを病んだり、家族離散になったりといったケースもありましたが、そんなことはまったくお構いなしでまかり通っていたのですから時代の成せる技というほかありません。

ただし、院長はただ権勢を振るっていただけではなく、音高・音大の受験シーズンになると睡眠時間が2〜3時間という過密スケジュールとなり、真夜中でもレッスンをされていたし、生徒とちがい毎年受験前はそんなハードなパターンでやっていられた事を考えると、正しいかどうかは別として、そのエネルギーには唖然とするばかりです。

ところで、先日テレビでアメリカの動物調教師の話をやっていましたが、1950年代までは猛獣の調教といえばサーカスなどに代表される、檻に閉じ込め、ムチで叩いて、恐怖と痛みで服従させるのが主流だったところ、動物保護を目的とする人物によって、愛情をそそぎながら教え込む方法が見事に奏功し、その人のもとで育った雄ライオンは人に危害を加えることは一切なく、ハリウッド映画のオファーなども次々に舞い込んで映画スターとしても絶大な信頼を得ることになり、ついには子どもとの共演まで見事に果たしたそうです。

スポーツでも、足に悪いうさぎ跳びや、練習中は水を飲んでもいけないなどの精神論式訓練が当たり前だったものが、いつしか科学的なほうが結果が出やすいことが証明され、これに取って代わりますが、私がピアノを習っていた1970年代前後は、いわばムチで叩かれて教え込まれるサーカス方式だったように思います。
桐朋の「子供のための音楽教室」でさえ、内実はそれでした。

さらに呆れたのは、この本に書かれていた(私は幸い言われたことはなかった)ことですが、「井口派の生徒は安川加寿子のピアノを聴きに行ってはイケナイ」というルールがあったそうで、今だに「グールドのCDを聴いてはイケナイ」などと真顔で指導する先生もおいでだそうです。
絵や文学を志す人に「あれを見てはいけない、これを読んではいけない」というようなもので、そういう視野の狭い教師についたらたまったものじゃありません。
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競争曲

前回の『ショパンコンクール見聞録』に続いて、『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)というのを読みましたが、ますますもって時代は変わったのだということを認識させられる一冊でした。

とりわけタイトルにもある通り、ピアニストの「現在地」というものは、従来の在り方とはかけ離れたところに成立するもので、それはまさに、他のジャンルと同様の激烈な勝ち抜き戦だと思いました。
演奏家になる道は、俗世間とは別次元の高尚なものだというような錯覚はしていないつもりだったけれど、しかし私などが求めていたのは、ごく稀に出てくる天才の至芸であり、才能豊かな音楽家が紡ぎ出す演奏という、理想を求めていたことは否定できませんし、そうでなくては音楽を楽しむ根本意義の問題になるような気がするのです。

しかし、現代のピアニストに求められるものは、高度なメカニック体得者であることは当然の大前提で、さらにいかにして大衆の心を掴んで出世街道を駆け上がっていくか、周到かつ凄まじいレースのようです。

先生や学校選びは言うに及ばず、どの時点で留学するかしないか、音楽一辺倒ではなく他の分野との二足のわらじで行くか、自分のウリは何であるかの見極めと設定、世俗的な広い視野と時代感覚が飛び抜けて鋭敏でなくてはこのレースを勝ち抜くことはできないでしょう。
ピアノを弾くためのずば抜けた能力プラス、自分というタレントの設計図が極めてしたたかなものでなくてはならないようで、まさに能力の総合勝負であり、昔のようにピアノだけがどれだけ上手くても、どれだけ聴くものを酔わせるものがあろうとも、そんなことはもはや大した強みではないようです。

今の若いピアニストは、あんなに上手いのに、なぜか情の薄いものにしか感じられない不思議の理由が、ようやくわかったような気がしています。
ひとことで言えば目指すところが違っているのだから、そりゃあ当然だろうと思いました。

いまさら言うまでもないことですが、今の若手ピアニストは技術的には呆れるばかりに平均点が上がり、コンクールなども短期間のうちに駆けずり回るがごとく受けるのも珍しくもなく、まさにトップアスリートの生活のようです。
当然それに耐えうる体力とメンタルが必須。

コンクールも常にどこかで開催されていると思っていたほうがいいぐらいで、各自、自分の都合に合わせてあれに出たり、これに出なかったりといった具合で、まさに世界を股にかけて飛び回っている。
一位もしくは優勝するまで、若さの続く限り挑戦を続け、その結果を携えて、いかに自分を巧みにマネージメントするかが問題で、そんな生き馬の目を抜くような時間を過ごしていたら、そりゃあ繊細な演奏の綾などと言っているヒマはないのも当然で、みなさん戦士なのです。

中には、スポンサーを募り、他者を抱き込んで株式会社を作ったりという猛者もいるわけで、そういう企画力を有していることが現代の売れる音楽家の条件であるらしく、演奏能力プラスそれが合体してはじめてチケットの取りづらいピアニストにもなれる…ということらしい。

それをいえば、昔のピアニストだってピアノメーカーやレコード会社や興行主などが、似たようなことをやっていたといえなくもないかもしれませんが、私の肌感覚では「断じて、何かが違う」としか思えません。
気持よく音楽を楽しむという時代も終わったと思うことは、寂しく残念としかいいようがありませんが、どうやらそういうことのようです。
…。
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現代の価値観

ピアニスト兼著述家として独自の地位を得ている青柳いづみこ氏ですが、2015年のショパンコンクールをリポートした『ショパン・コンクール』(中公新書)があるというのに、2021年大会についても『ショパン・コンクール見聞録』(集英社新書)なるものが早くも刊行されており、この方の切り口はおおよその察しがつく気がして迷いましたが、敢えて購入して読んでみました。

ここでは、内容についてはいちいち触れることはしません。
全体としての読後感は、もし青柳氏のいうことが正しいのであれば、私はもうピアノ演奏の鑑賞者の立場さえ、今の時代の尺度や価値観に合わないことを悟り、また自分の意に反してまで合わせようとも思いません。

以前であれば、ピアニストや演奏に関する本を読めば、概ねその言わんとするところは理解できるし、同意できる内容は濃淡の差こそあれ数多くありましたが、今回の一冊を読むと、書いてある事があまりに自分が感じたこととかけ離れたもので埋め尽くされており、要するに時代はすっかり変わったのだと認識しないわけにはいきませんでした。

そもそもショパン・コンクールといっても、20世紀までのそれと、今日では世情も価値観も人々の好みや求めも違うことじたいは否定しません。
ひとことでいうなら、非常に可視的で表面的なものになったと思います。
もはやショパンと言っても、コルトーのような演奏でないことはわかるけれど、ロマンティックであったり主情的であったり、詩情豊かなものであることさえ、ほんの僅かでもコンクールの求めからはみ出すとマイナスとなり、がんじがらめの制約の中で、いかにも今風な優秀なパフォーマンスが出来た人だけがピックアップされ、加点を得てファイナルに進み、そして栄冠を勝ち取るというシステム。
しかるに、その基準はというと明確さを欠き、ふらふらと常に微妙に動いていて、まるで訳がわからない。

このことは今回が初めてではなく、以前から薄々感じてきたことではあったけれど、この本を読むことで審査の舞台裏なども垣間見ることができ、審査員の顔ぶれや時の運も大きく、要は世界最高峰のピアノイベントとしての色合いだけが強まり、馬鹿らしい気分になりました。

そもそも私は近年のショパン・コンクールの優勝者についても、心底納得した事がありません。
建前では、伝統的なショパニストを選ぶとしながら、ピアニストとしての総合力や将来性にも目配りしたともあるし、そうかと思えばショパンとしての伝統や作法、スタイルを備えていないとかで落とされたり、使用楽譜の問題、装飾音のちょっとしたことまで、重箱の隅をつつくような問題があったりと、複雑でそのつど基準が変わり、あいまいで不透明。

今回は各コンテスタントについての印象を私ごときが述べるつもりはないけれど、優勝者というのは一人しかいないので、それは特定されますが、あれをもって600人とも言われる応募総数の中から選びぬかれた、このコンクールの優勝者にふさわしいものとは私個人はとうてい思えない。
きっと、審査の現場では大モメになったのかと思いきや、彼の優勝は審査員の中では圧倒的なものだったらしく、それひとつとってもまったくわけがわかりません。
この本を読みながらあらためて動画も確認してみましたが、やはり首をひねるばかりで、優勝を逃した人の中にはピアニストとして格が違うというべき優れた人もいたのはいよいよ複雑な気分に陥りました。

では、ショパニストとしてはよほど際立っていたかといえば、そうとも思えず、ショパンに不可欠な洗練された美の世界やニュアンスに富む磨きぬかれた語りが際立つわけでもなく、大事なところでむしろダサいし、どうしても訛りの抜けない地方出身者が、一生懸命背を丸めて弾いているようでした。
演奏の背後に師匠の影がチラチラするのも気になりました。

私の耳には、大半の人の演奏は「しっかり受験準備をしてきました」的なもので、ニュアンスやファンタジー、つまり音楽としての昇華が乏しく、何度でも聴きたいというシンプルな音楽鑑賞者としての感情が呼び起こされないのです。
個別の演奏についても、☓☓が何次で弾いた☓☓は審査員の某が涙を流すほどで、コンクール史に残る名演などという記述が出てきますが、私にはむしろいやな演奏だったし、なにがいいとされるのか皆目わからないものだったりで、ここまで自分の感じたことと評価が噛み合わないということは、「もうどうでもいいや」という虚しさばかりが残るだけでした。

楽器(ピアノ)の音も時代とともに変わっていくように、ピアニストの演奏も同様だと思うし、それは時代の流れの中で当然のこと。
しかし、音楽というものの根本的な役割は、聴くものに音楽以外では得られない喜びや充実感、美しいものに触れ、精神あるいは感性が特別な体験をすることだと思うのですが、ここに書かれているコンクールの実状は、まるで上場企業のどれを製品化するかの戦略会議の舞台裏の話のようで、およそ私なんぞの求めているものとは掛け離れたものとしか言いようがありません。

他の世界と同様、コンクールも審査員の総合点で事が決する以上、魅力ある稀有な天才より、誰からも嫌われない優秀で無難な人が有利だという法則がここにもいきているようで、優勝は5年に一人きりとなれば、もしかしたら政治家の選挙以上の票集めが必要かもしれません。
これでは、真の芸術は死に絶えるでしょう。
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余技のピアノ

先日、ある方からLINEを通じてYouTubeの動画が送られてきました。
モーツァルトのコンチェルトですが、ピアノは大屋根を外してステージの左隅におかれ、そこから指揮をしながらピアノを弾くという風変わりなことをプレトニョフがやっていました。

この人は、若い頃は新進気鋭のピアニストとして来日していて何度か聴いた事がありますが、それはもうすさまじいばかりのテクニシャンで、それが少しも嫌味でなく、ただあっけにとられたことばかりが記憶に残っています。
編曲もお得意のようで、当時から「くるみ割り人形」の数曲をソロ・ピアノ用に自身で編曲したものをプログラムに入れていたりしました。

当時はソ連時代の終わりの頃で、当時のソ連にはテクニシャンは掃いて捨てるほどいたと思われますが、その中でも若いプレトニョフのそれは頭一つ出ているといっていいもので、しかもロシア人としては細身の華奢な体つきにもかかわらず、ピアノに向かうや想像もつかないようなパワーが炸裂して、聴衆を圧倒していました。
これはうまくすれば、世界のトップクラスのピアニストの一人になる逸材かもしれない…とさえ思いましたが、いつごろからか指揮のほうに進みはじめ、ついにはロシア・ナショナルフィルというのを自ら作り、指揮者として率いていくことが本格化したようで、ピアニストはやめたのかと思っていました。

ロシア・ナショナルフィルはドイツ・グラモフォンから次々にCDが発売され、チャイコフスキーの交響曲などはなかなかよろしく、リリースされるたびにせっせと買い集めていたほどです。

すっかり指揮者に鞍替えしてしまったのかと思っていたら、やはりときどきはピアノも弾いているようでした。
しかし後年聴いた彼のピアノは、若い頃のそれとはすっかり変わっており、なにか自分なりの境地に到達したと言わんばかりのクセのあるものになってしまってあまり好みではなかったけれど、中にはブリュートナーを使ってのベートーヴェンのピアノ協奏曲のようなものがあったりで、楽器への興味からCDを購入したりはしていましたが、ピアニストとしてはかつてとはほとんど別人でした。

前置きが長くなりましたが、ピアニスト出身で指揮台にのぼるようになった人というのがときどきおられますが、これらにはある共通点を感じます。
まずピアニストとして名を馳せて、その次の段階として指揮者としてもそれなりに認められてくると、成功すればより大きな名声が得られるのかもしれないし、音楽的にもより幅広いものを経験していくのだろうとは思います。
それはそれで結構なことなのでしょうが、ピアニストとしての輝き自体は鈍るという代償は避けられません。

もともとピアノは十分以上に弾けるわけだから、ときどきはピアノも弾く、あるいは二足のわらじで両方のステージに立つ人がいますが、個人的にはこれらの人のピアノはどうもあまり好きにはなれないのです。
その一番の理由は、悲しいかなピアノが余技的になってしまって、演奏に気迫がないというか、鬼気迫る集中力というのがなく、どこか弛緩しています。

バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハなどもだいたい同じように感じます。
実際問題として、オーケストラの指揮台に立ち大勢の団員を束ねていくことは、それだけでも並大抵のことではない筈で、時間などどれだけあっても足りないことでしょう。
勢いピアニストだけでやっている人に比べたら、ピアノに向かう時間もエネルギーも大幅にカットされているのは間違いありません。
ピアニストというのはどんなに天才でも、端的に言えば「生涯を練習に費す」ようなものですが、それをやっていない結果がはっきりと演奏に出ており、昔の名声の余技として見せられても、真の演奏感動からは遠ざかったものになります。

どんなに才能豊かな人でも、世界の一流ピアニストの座に棲み続けることは、他の仕事と掛け持ちでできることではないし、そこで求められる妙技や魅力は、それ一筋に打ち込んでいる人の演奏からのみ、滴り落ちるように出てくるものであって、マルチな才能で維持できるものとは思えません。

コルトーはワーグナーの指揮をしたり、ポリーニも一時期指揮に色気を出してロッシーニのオペラをCDとしてリリースしたりしていますが、そちらが本業になることはついになかったのは、なんと幸いなことだったかと思います。
バーンスタインもサヴァリッシュも相当ピアノが弾けた人ですが、とはいえ専業ピアニストにはやっぱり叶いませんから、決してステージでは弾かなかったアバドなんて、却って立派だなぁ…と思ってしまいます。
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ブーニン−2

ブーニンの健康がよくない…というかすかな噂は耳にしていましたが、これほどとは思いませんでした。
この番組によれば身体の故障からピアノを弾くことが困難になるというピアニストとしてこれ以上ない不運に見まわれ、さらには遺伝的な糖尿病で左足の切断の必要まで迫られたのだそうで、大変おどろき深く胸が痛みました。

だれしも足の切断なんて耐え難い衝撃以外のなにものでもなく、ましてピアニストにとって、足はペダル操作には欠かせないもの。
夫人のすさまじい努力によって、ついにドイツでこの病の権威に行き当たり、切断せず足の骨を一部切除し、そこをつなげるという大術が行われ、からくも足の切断という最悪の事態を免れたとのこと。

かつての、まるで子供が喜々として遊ぶがごとくピアノを自在に操っていたあのブーニンが、知らぬ間にこのような悲劇に直面していたとは、ただもう驚くほかありませんでした。
番組は、そんな彼が最後のステージから9年ぶりに人前での演奏に挑むというもので、そこにいたる日々を追ったものでした。

曲目は子供の頃に弾いたという、シューマンの「色とりどりの作品」op.99。
ご本人も「左手が昔のように動かない」と仰っていたけれど、ピアノに向かっても、顔や雰囲気はまぎれもないブーニンであるのに、その演奏は信じられないばかりに心許なく、「色とりどりの作品」のシューマンらしい夢見るような第一曲だけでも正直ハラハラさせられました。

9年ぶりのコンサートは小さな会場である八ヶ岳高原音楽堂で行われ、その様子が一部流れましたが、見ているこちらまで言いようのない緊迫感が迫りました。

ブーニンの人生に欠くべからざる存在は長年彼を支える夫人で、ジャーナリストとしての自身の仕事を抱えながらというけれど、多くはブーニンを支えることがメインでしょうし、身のまわりのお世話から、味や盛り付けの美しさにまでこだわるブーニン好みの食事の準備まで、それはもう常人の域を超えた献身ぶりで、ただただ頭が下がりました。

ブーニンは見るところ、夫人を心から愛すエレガントでやさしい人のようですが、それでもやはり取り扱いの難しい天才肌であることも確かなようです。
古い日本の言葉でいうなら、これぞまさに「賢夫人」というべきでしょう。
そんな夫人をもってしても、八ヶ岳高原音楽堂での久々の演奏にあたっては、袖で見守りつつも目には涙がにじんで、寿命の縮まるような思いだったようで、それも当然だろうと思いました。

どうにかコンサートも終了し、これで終わりと思ったら、なんとその後、東京の昭和女子大人見記念講堂(昔はよくコンサートがあり、ホロヴィッツの2度めの来日公演もたしかここでは?)でコンサートが行われたようで、さらに来年は全国ツアー!?というのですから、これにはいささか耳を疑いました。

様々な苦難を乗り越えて、再びステージへ立つというのは立派なことだと思います。
しかし昨今のピアニストはますますテクニカルな面でレベルアップされており、そんな中どういう演奏をするというのか…。
そもそもブーニンというピアニスト自体が、音楽を通じて深く語りかけるというよりは、キレのいいテクニックや多少傲慢でも類まれな推進力で聴かせるタイプのピアニストだったので、よくわからなくなりました。

その一方で、今どきの日本の聴衆はコンサートに行って音楽や演奏がもたらす純粋な感銘を求める人はごく少数派で、大半は人気や経歴、話題性などに大きく左右され、さらに義経の判官贔屓ではないけれど、その背後にハンディや感動物語がくっついていることが大好きということに、近年とあるピアニストの登場いらい気付かされました。

全国ツアーが組まれる以上、今のブーニン氏ひとりの思いつきでできることではなく、きっとそれを支える背後の算段あってのことなんでしょう。
現代人の悪い癖で、疑い始めると、先日の番組もその前宣伝の意味合いもあったのでは?、すべては計算されたものだったのでは?という疑念が広がってしまい、ブーニン氏には申し訳ないことですが、それもあるような気がして完全否定ができません。

率直に言って、来年の全国ツアーにチケットを買っていく人たちが、もし健康に歳を重ねてきたブーニンだったら果たして行くのか?
この疑問はどうしても払拭できません。

むろんコンサートをやろうという人がいて、それに喜んでチケットを買って行く人が大勢いて、結果として収益が上がり興行が成り立つのなら、まわりがとやかくいうことではないかもしれませんが、どうしても悪趣味にしか思えないのです。
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ブーニン−1

つい先週のこと、NHKのBSで『それでも私はピアノを弾く〜』という現在のブーニンを扱った番組が放送されました。
1985年のショパン・コンクールの優勝者で、音楽ファンを超えて時の人にもなったスタニスラフ・ブーニン。

当時のコンクールには、大勢の日本人出場者が束になって参加し、スポーツでいうならさしずめ日本選手団のようで、その団長のように目されたのが故園田高弘氏でした。
このときはNHKのカメラも(おそらく初めて)密着し、楽器の分野でも日本のヤマハとカワイが公式ピアノとして採用されたのもこの年からで、1985年というのは日本にとって大きな節目にもなった年だといえそうです。
現地でブーニンの鮮烈な演奏を目の当たりにした園田氏はいたく感銘されたご様子で、ブーニンを「100年に一人出るか出ないかの逸材」だと、最大級の賞賛を述べられ、実際に会場でも抜きん出た実力と存在感で、圧倒的な人気とともに栄冠を勝ち得たようでした。

NHKの番組が園田氏のコメントとともに放映されるや、日本での人気はウナギ登りとなり、その後来日した際は大フィーバーが巻き起こり、チケットは即完売、ついには国技館でコンサートをするなどブーニン・フィーバーとなって、クラシックのコンサートとしては前代未聞の熱狂が列島を駆け巡りました。
しかしそれは、あくまで一時的なもので、長続きはしなかったようです。

ブーニンはその後、ドイツに亡命、日本人女性と結婚し、それなりの演奏活動はしていたようですが、世界の第一線をキープし続けるにはもうひとつ磨き込みの足りないものがあるのは確かで、人気は次第に下降。
折しも、ソ連からはキーシン、レーピン、ヴェンゲーロフといった、ブーニンより一世代下の超弩級の天才少年達が現れて、その陰に隠れたという不運も重なったように思います。

私も二度ほどブーニンのリサイタルに行きましたが、この人ならではの魅力があることは認めるものの、全体としてはやや独りよがりの、さほど練りこまれてるとは思えない直感に任せたイメージが強く、心から感銘を得るといったものとは少し違うピアニストという印象をもちました。よく言えば従来のルールを破ったロックスターのような奔放さ、悪く言えば勝手放題とも受け取れる演奏は、安定した人気が長続きするには至らなかったようです。

とくに2度めは、わざわざファツィオリのF308を持ち回ってのコンサートでしたが、そこまでのこだわりが伝わってくる演奏とは感じられず、いろんな疑問が残ったのも事実です。
やがてブーニンはヨーロッパではさほどの評価は得られなくなり、ついには「日本限定のピアニスト」といった風説まで流れたほどで、彼の築いた輝かしいキャリアや天賦の才、スター性を考えると、もうすこし違った道はなかったのか?と思うばかり。

ただ、なんともエレガントな貴族的なステージマナーであったことは印象に残っています。
彼は偉大なピアニストを輩出するロシアで、父は有名なスタニスラフ・ネイガウス、祖父に至ってはロシアンピアニズムの祖のひとりであるゲインリヒ・ネイガウスで、いわばロシアピアノ界の血統を受け継ぐプリンスでもあり、そのような自負があの高貴なふるまいにつながっていたのかもしれません。

当時購入したCDした中には、ショパンコンクールの決勝でのコンチェルトとは別に、コンクールの翌年に日本でN響と共演したライブ(ショパンの1番)もあったけれど、コンクールから解き放たれてこれ以上ないほど奔放な演奏となり、突っ込みどころも満載でしょうが、最近の優等生だらけの演奏に比べて、なんと爽快で面白い時代だったかと思います。

指揮の外山雄三氏が、細かい言葉は忘れましたが意味としては「全体として賛同はできないが、しかし、ときどきハッとするような美しさが聞こてくる」といったのが、良くも悪くもブーニンというピアニストの真実であり魅力だろうと思います。
今回、数十年ぶりで聴いてみましたが、いやはや凄まじいものであったし、どこまでもテクニックと感覚が中心ではあっても、それは決して力づくの大技ではなく、常に繊細さが支配しているところに独特の魅力があるのだと思いました。

こんな奔放ずくめのブーニンが伝統的なショパンコンクールに優勝したということは、前回の1980年に巻き起こった有名なポゴレリチ事件での反動もあったのでは?…と勘ぐりたくなるような気もしますが、どうなんでしょうね。
楽譜に忠実なショパニストを選び出すという伝統的な規範に従うだけでは、やがてコンクールそのものが行き詰まるという考え方が前回のスキャンダルから引きずられ、5年後にブーニンのような異端の優勝者を産み落としたのかも。
これはあくまで個人的な憶測にすぎませんが。

あのころのブーニンの演奏を聴いていると、今の若いピアニストはあまりに不正直で、本音を偽り、コンクールに受かりたいがために冒険心も反抗心も、研ぎ澄まされた感性も、なにもかもを失って、出世街道まっしぐらのレースに挑んでいるように思います…。
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ヘンな話

前出の文章を書いたのは実をいうと一年ほど前で、そのまま放置していたものでしたが、そのピアノのことがTVニュースで採り上げられたのです。

私の原体験となった福岡市民会館のスタインウェイが修復されるということで地元TVのニュースに出てきたと教えられ、そのことにまず大変驚きました。

先にも書いたように、時代とともに新しいホールが数か所作られたことで、クラシックのコンサートはほとんどそちらへ移行してしまい、市民会館でピアノを聴くということは(少なくとも私にとっては)皆無となり、もう何十年と行く機会もなくなりました。
昔は、オーケストラからバレエ公演、ピアノリサイタルまで、ほとんど市民会館だったので、ピアノといえば必ずといっていいほどこのスタインウェイでした。

個人的にあまりにも印象の深いピアノだったので、ときおりあのピアノは今はどうなったんだろう…と思うことはありましたが、おそらくは買い換えられ、もはや消息不明なんだろうと思っていました。

ありがたいもので、現在は見逃したニュースもネットで追いかけることができるので、その報道内容もわかりましたが、そのピアノは1963年製のDで、市民会館のピアノとして多くの巨匠たちによって演奏され、フレームには40人弱ものサインがぎっしり書き込まれていたことは今回はじめて知り、ニュース映像からもルビンシュタイン、ギレリス、アラウ、ケンプなどのサインが確認できました。

関係者の証言によると、1980年代に近くにできた別の施設に移され、長らくオーケストラの練習用ピアノなどとして使われていたものの、老朽化のため2007年以降は倉庫に保管されていたとのこと。
多くのサインがあったからだろうと思われますが、歴史的価値をもつピアノとして修復されることになったというのがニュースとして採り上げられたようです。
今後一年ほどかけて修復され、来秋にはお披露目コンサート、その後は福岡市美術館に収蔵されて定期的に使用されるとのこと。

無慈悲に廃棄されることもあると考えれば、修復されて生きながらえることができるというところまではまことに結構なお話ですが、その費用を聞いて思わず背筋に寒いものが走りました。
なんと1800万円!という強烈なもので、何かの間違いでは?と思いました。
これをクラウドファンディングや企業からの支援を募って賄うのだとか…。
しかも、そういう意味合いなら修復作業は地元でやるべきでは?と思いますが、ピアノはすでに埼玉へと運ばれているとのこと、もうなにがなんだかわかりません。

そこで知り合いの技術者さん(関東の方)に聞いてみると、その手のピアノの修復費用は(おかしなことだけれども)そのピアノの新品価格から算出されることになっているのだそうで、具体的にどこをどう修理したからという、個別の作業を積み上げて算出されるものではないのだとか。
これはあんまりではないか!と思いましたが、とにかく業界ではそういうことになっているのだそうで、そんな慣習がまかり通るとは二度びっくりでした。
日本よりもよほどピアノの修復をやっているはずの欧米ではどうなのか、そのあたりの事情はわからないけれど、どう考えてもこんなやり方が通用するのは日本だけではないか?という気もしてきます。

今回は、歴史的なピアノを修復することに意味があるわけですが、普通なら1800万といえば、すばらしい状態の同型の中古が買えるわけで、バランス的に見ても納得がいきません。
納得がいかないといえば、なんで埼玉なのかもわからず、その関東在住の技術者の方も、埼玉でとくに思い当たるところは無いとのこと、ますます不思議です。

個人的なイメージでは、どんなに徹底的に修理をしたとしても、せいぜい1/3程度じゃないかと思うんですが…。
このTVニュース動画は時間経過により、すでに視聴できなくなっていましたが、7月29日付けのNHK NEWS WEBには現在も1800万円という数字付きでこのニュースを確認することができます。

というわけで、なんだか素直に喜べない、スッキリしない話でした。
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原体験

ピアノの音も時代とともに少しずつ変化するものと感じつつ、そもそも自分が理想とするピアノの音の原体験は何だったかと考えてみることがありますが、まず自宅にあったピアノでないことだけは確かです。
…どころか、幼いころから自宅にあったヤマハのG2は中学になるぐらいまで弾いたのに、なにひとつ懐かしさもないし、鍵盤蓋のやけに大きなロゴ(現在のものとは違います)が見るたびに気に触っていたこと以外、ほとんど思い出すことさえできません。

むしろ、とくにこれという基準もないくせに、生意気にもこのピアノの音は「好きじゃない」とずっと思っていて、子供って物事を直感的に捉えるんだなあとつい笑ってしまいます。

可能性としては、自宅で親がレコードをかけていた巨匠達の音も知らず知らずに耳に入っていたかもしれませんが、とはいえ、そのときはまだ楽器としてのピアノを意識するには至っていません。

実物の生のピアノの音で、あまりにも自宅のそれとはかけ離れた異次元のスタインウェイに衝撃を受け、魅了され、畏れおののくようになったのは、小学生に上がったころからちょくちょくコンサートに行くようになり、その大半は、客席からしばしば耳にすることになる福岡市民会館のピアノでした。
1970年代、高度成長や大阪万博という時代もあってか、今では信じられないような巨匠たちがこの舞台に登場し、心に残るコンサート体験をすることができた佳き時代でした。

ソロリサイタルはもちろん、オーケストラとの共演でも、ピアノといえば決まってこのスタインウェイが使われました。
ダブルキャスターどころかピアノ用の台車もない時代、幾人ものスタッフ達によって力づくで押し出されてステージ中央に据え付けられ、コンサートマスターが中央のAを出すだけでも、その音は甘い蜜のような響きがあって、そのたびにドキッ!としていたのを覚えています。
自宅にあるのがピアノなら、これはもうピアノとは思えないような異次元の世界で、この時代の一連の体験が私の中でスタインウェイサウンドに対する強烈なイメージの基礎を作ったのは疑いの余地はありません。

ネットで調べてみると福岡市民会館は1963年の開館とあるので、竣工時に納められたピアノだったのだろうと思いますが、当時は主だったコンサートの多くがこの市民会館でおこなわれ、今から思うと信じられないようなビッグネームがステージに現れ、そのつどこのピアノの音に接し、いつのまにかマロニエ君にとってのスタインウェイとしての基準となっていったように思われます。
ほかにも数カ所スタインウェイのあるホールはあるにはあったけれど、これぞというコンサートは圧倒的に市民会館が多く、それ以外の印象は不思議なほどありません。

今と違って、管理も万全とは思えないし、ボディの角など傷だらけ、弾きこまれて音もかなり派手目のものにはなっていたけれど、まるで名工の手になる日本刀のような、妖しい輝きに満ちた音が底のほうから鳴ってくる様は、いま聞いたらどう感じるかわからないけれど、当時は完全にノックアウトされていました。
とりわけ低音には底知れぬ深さがあり、ラフマニノフのコンチェルトの第2番第2楽章のカデンツァにある最低音などは、まさに中世の鐘を打ったごとくの轟音が鳴り響き、これは現代のスタインウェイでもゴンという感じでしかないことを思うと、やはり昔のピアノは、材料やフレームの製法などの重要な部分がずいぶん違っていたのだろうと思われます。

クライバーンやリヒテル、マリア・カラス、あるいは殷誠忠というテクニシャンのソロでピアノ協奏曲「黄河」という、なんとも不気味な中国作品を初めて耳にしたのも、数多くのロシアバレエ公演に接したのも、この市民会館でした。
時が流れ、より贅を凝らしたホールが次々登場することによって、市民会館でのクラシックのコンサートはすっかりなくなりましたが、60年代前半に建てられた残響など大して考慮にもなかったであろう多目的ホールだったにもかかわらず、ここのスタインウェイはまさに極上の音を鳴り響かせ聴衆を魅了していたわけです。

後年、大阪のシンフォニーホールの登場あたりから、各地に音楽専用ホールというのが作られるようになり、その初期のものは残響という名の下に、中にはただ音が暴れまわるだけの響きとなっているものもあったりで、それに比べれば多少デッドでも、クリアに音が聞こえるよくできた多目的ホールのほうが、個人的にはよほど好ましく思います。
とくにピアノでは。

市民会館は、もう長いこと行っていないので確かではないけれども、多目的ホールの中ではそれほど音質が悪い記憶もなく、数々の名演とそこにあったスタインウェイのリッチでパワフルな美しいトーンを耳にできた経験は、いまも心の奥深いところに残っています。

私は子供のころ、本物の巨匠の実演に触れることのできた佳き時代に、ぎりぎり間に合うよう生まれることができたのは幸運だったと思います。
今のように誰もかれもがむやみにステージに立てるような時代ではなく、コンサートといえば必然的に一流もしくは超一流のアーティストが当たり前だった時代というのは、いま考えればなんとありがたいことだったか!と思います。
何度も行った安川加寿子さんの演奏など、ことさら有り難みも感じないまま聴いていたのは、いま思うとなんというもったいないことをしたか!と思いますが、ともかくそんな時代だったんですね。

ポリーニやアルゲリッチの初来日では、当時はまた知名度もさほどではなく、市民会館より遥かに小さい明治生命ホールだったのですから隔世の感があります。
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天空の村のピアノ

NHKのBS1で『天空の村のピアノ』という2018年イギリス制作のドキュメント番組があり(再放送だったようですが)録画していたのを
見てみました。
ロンドンのピアノ店の店主にして調律師のデズモンド氏は、あるお客さんからヒマラヤ山中の学校にピアノを届けたいが運べるかという相談をもちかけられます。通常ならそんな途方もない運搬を個人レベルでそれをやろうなんてあり得ないでしょう。
ところが、それを自身の人生の最後の大仕事と感じたのか、熟慮の末に引き受ける決断を下して、その道中たるや想像を絶するほど過酷を極め、ついには成し遂げるまでの密着映像でした。

ロンドンからなんと8000km、標高は富士山より高い4000m、車が行けるのははるか手前までで、そこから先はヤクという牛のような動物に背負わせて運ぶというのが当初の計画だったようです。
持っていくピアノは、さすがはロンドンというべきか、ジョン・ブロードウッドのさほど大きくないアップライトで、まずは事前の入念な整備がなされ、それを現地の麓へ送ったあとは、山岳路を運びやすいよう、青空の下でなんとバラバラに解体し、弦もすべて緩められて、パーツごとの運搬にして個々の負担を減らし、到着後に再び組み立てるという方法が採られます。

それでもピアノはピアノ、そんなに大きなモデルではなかったけれど、フレームだけでも50kg以上あるらしく、いずれにしろこの峻険な山々を踏破するには、並大抵の荷物でないことには変わりありません。

これから進むべきヒマラヤの景色たるや、神の領域であるかのような壮大かつ桁違いのスケールで、その果てしない威容は人間にとっては無慈悲の象徴のようにも見え、神々しいのか悪魔的なのかわからなくなるようなもの。
まるで異星の景色でも見せられるようで、遥か高くに峻険な稜線が幾重にも連なり、およそ日本人なんぞには馴染みのない、地球上にこんなところがあるのか…というような気の遠くなるような光景でした。
目指す場所は、あの峰のその向こうの向こう…みたいな感じで、そこまで自分の足で行くだけでも想像外で、ましてピアノを運ぶなんて命の危険すら感じます。

一定のところまで車で行くと、その先に道路はなく、おまけに頼みの運搬役のはずだったヤクというちょっと牛のような動物は想像よりもずっと小型だったようで、分解したといってもとうていピアノを背負わせられるような動物じゃないことがわかり、デズモンドはこの方法による運搬を即座に断念。
かくなる上は気の遠くなるような彼方の目的地まで、現地スタッフを交えた人力によって運搬するしかないという展開。

ロンドンから同行した人が数人と、現地の協力者が10人ぐらいはいたかどうか。
普通なら、この状況を見た瞬間に諦めて帰ってくるところでしょうが、番組のカメラが入っているからか、当人たちの意志に峻烈なものがあったからかは知りませんが、とにかく人の手足で一歩一歩この途方もない道程を、分解したピアノを担いて行くことになります。

途中の運搬の様子は見ているだけでも苦しくなり、フレームは数人がかりで担いて、ときに山の斜面を滑り降りるようになったり、それはもう映像を見ているだけでヘトヘトになるようでした。

目指すリシェ村に到着したのは徒歩による出発から7〜8日目のこと。
この山間の小さな村の人々からは大歓迎を受け、ピアノが来たことで子どもたちが無邪気に喜び踊る脇の建物で、翌日から組立作業が始まり、2日後にピアノの形になりました。
大人や子どもたちが見守る中、組み上がったピアノをデズモンド氏は音を出し、リストの「ため息」の一節を弾いていましたが、はっきりいってため息どころではない、凄まじい地獄のミッションでした。
大人も子供もピアノを初めて見るという人も多く、この一台がこれからどれだけの役割を果すのか、はかりしれないものがあるのでしょう。

私だったら、費用を募って、ペリコプターでガーッと一気に運んだら…というような身も蓋もない発想しかありませんが、そうではないところに人間のドラマが生まれるんでしょう。
実際、デズモンド氏はじめ多くの協力者、村の人々や子どもたちなど、この一台のピアノをめぐって計り知れない交流が芽生え、人生の一ページに深く刻まれたことは想像に難くありません。

計画から1年、実行に1ヶ月かかるという大変なプロジェクトで、学校内のピアノが置かれた建物は「サー・デズモンド音楽堂」と名づけられました。
デズモンド氏は届けることで終わりではなく、なんと、亡くなる2018年まで毎年調律に訪れたんだそうです。

ひとりの女性が言っていましたが、この地の人たちの生活にはお金もあまり必要なく、みな心がきれいで純粋で、互いに仲良く生活をしているが、将来に向けて道路建設も始まっているらしく、いつの日かそれが完成すればさまざまなものが流入し、そうしたら村の人の心も変わってしまうだろう、それが心配…と言っていたのが印象に残りました。
…たしかにそうだろうと思います。
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『楢山節考』

WAGNER PIANOを囲んで集まったとき、あれこれの雑談の中で所有者のベテラン技術者さんが仰るには、かつて志しの高い日本の製作者たちが作り上げた銘器というのは、昔はそこそこあったものの、大手に比べて品質ではなく知名度やブランド力が劣るせいで「売れないガラクタ」に分類され、廃棄という憂き目にあう悲劇的なピアノも少なくなかったという話をされていました。

購入を決める際に、ブランド性が一定の効力を発揮するというのは一応はわかるけれど、ピアノの場合はあまりにもそれが極端で、買い手のほとんどは音や響きの判断基準が未熟であるため(わからないから)、日本の流通市場では大手の大量生産のピアノが「信頼に足る標準品」として信頼感まで独占し、その他は楽器としての真価を確かめることもないまま姿を消していったピアノが少なくないことは、なんとも残念無念な話です。
さらには日本人固有の「横並び精神」もそれに拍車をかけていることでしょう。
「関係者のオススメ」を鵜呑みにし、「人と同じもの」「評価の定まった定番」を買っておけば安心という民族性。

さらには、ピアノも消耗品として家電製品のように買い換えるのが理想という価値観。
丁寧な修復を受け、売買の対象として色褪せることなく100年でも使われ続けるには、スタインウェイやベーゼンドルファー級のブランド力がなければ、打ち捨てられる運命であるようです。

そんな無知が招いた残酷な話は昔のことかと思っていたら、ごく最近ネットを見ていると、某所で美しい音で弾く者/聴く者を魅了していた大変貴重なピアノが、なんと廃棄処分されたという事実を知るに至って、驚倒しました。
どうやらピン板の傷みがあったようで、それが廃棄の理由のようでした。

そのピアノは日本のピアノ史に残る高名な設計者による逸品で、私も何度か触れさせていただいたことがありましたが、甘く美しい音が印象的で、おまけにコンサートで使用されても充分に耐えうるだけの底力も持ち合わせていた、所有者にとっても自慢のピアノで非売品でした。
ピン板の傷みというのは確かに深刻なことですが、それで廃棄という最悪の決断が下されたのは貴重なピアノなだけに、いささか極端すぎやしないかと非常にショックでした。

そもそも、日本では弦やハンマーは交換しても、ピン板を交換するという習慣がほとんどないのかもしれません。
これは、日本の大多数のピアノは大量生産品であるため、修理して長く使うより新しい物に買い換えることが正いとされ、ましてフレームの下にあるピン板は交換不可のように言われていた時期もありました。
本当にそうなのかどうかは、素人の私にはわかりません。
しかし欧米では、ピアノリペアの際、ピン板交換はごく普通に行われることで特別なことではないようですから、日本だけの特別事情なのかもしれません。

海外ではピン板交換は必要に応じて行われる作業の一つにすぎず、リペア用の新しいピン板がごく普通に売られているのだそうで、技術者はそれをピアノごとの形状に合わせてカットし、適切な位置に穴を開けて新しいピンを打ち込んで弦を張っていくようです。
ヨーロッパのピアノリペアを数多く手掛ける工房で、私もそのリペア用のピン板を見せてもらったことがありますが、何層にも重ねられた分厚い板で、フレームまで外す修理なら、もうひと手間という感じでした。

廃棄の結論に至ったのは、リペア用のピン板がたやすく手に入る情報がなかったのかもしれないし、あるいは別の事情によるものかもしれず、正確なことは知る由もありません。
やむを得ぬ事情があってのこととは思いたいけれど、ピアノを長く使うための技術を生業とする方が、なんというむごいことをされるのかと思ったし、あまつさえその様子をわざわざネット上で公開するという神経はとても理解が及びません。

そこに至った事情や判断は、他人が詮索することではないとしても、ただひとつ間違いないことは、歴史的価値もあり、魅力的な音を奏でていた貴重な素晴らしいピアノが、他でもない持ち主の手によって死刑執行されたという厳然たる事実で、この記事を目にしたときは本当にショックで身体が震えるようでした。

ピアノは電動ノコで解体され、ビニール袋に入れられた写真の衝撃は当分おさまりそうもありません。
それならリペアをする方にあげても良かったのでは?と思うのですが。
いずれにしろ、日本のピアノ史の一台である文化遺産ともいうべきピアノをこのように処分してしまうということは、ほんとうに驚きであり衝撃でした。

この残酷な事実を知ってとっさに思い出したのは、深沢七郎の『楢山節考』でした。
むかしとある山間の貧村では、食い扶持を減らすため、親が老いて働けなくなると子が背負って山の奥深くに、自分の親を生きながら捨てに行くという、身の毛もよだつ風習を描いた小説です(読む気もしません)。
もちろん、老いたのは親ではなく、ピアノですけれど。
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ヘンな映画

『グランドピアノ 狙われた黒鍵』という奇妙な映画を見ました。
いや、正直にいうなら、早送り多用でおよそ見たといえるような見方ではありませんでしたが。

2013年スペイン製作の映画のようですが、主人公のピアニストは恩師と自分しか弾けないという難曲をかつて失敗し、それから5年ぶりにステージに復帰して再挑戦するというものですが、演奏開始後、楽譜をめくるとそこには赤の太字で脅迫の様々な指示が書かれていたり、曲の途中でピアニストがなんども中座して舞台裏に行ったり、一音でも間違えたら殺すと脅迫されたり、どの場面ひとつとっても実際にあり得いないようなアニメ顔負けのシーンの連続。
実際の演奏会では絶対にあり得ないことで、いかに映画だからといって、許容範囲というのはあるはず。

映画は映画であり、娯楽でファンタジーとはいえ、あまりにも現実離れした連続となると、そのせいで映画としての面白さや魅力も失い、映画として割り切って楽しむ気力さえもなくなります。
これがコメディかなにかならまだしも、一応はおふざけではないサスペンス映画という立て付けになっているわけで、製作者は映画として真面目に作ったのかさえも疑いました。

映画の面白さというのは、きちんとしたリアルな土台の上に、映画ならではの筋書きなどのあれこれが織り込まれ展開されるものでなくては成立しないはずです。

使われたピアノは師の遺品という、ベーゼンドルファーのインペリアルでこれは本物でしたが、演奏至難という曲も、オーケストラ付きの奇妙な曲だし、ステージはすり鉢状にオーケストラが着座し、その奥の一番上の高いところにピアノが置かれているという、とにかくすべてがいかに音楽やコンサートというものを知らない人達が好き勝手に作ったものであるかがわかります。

最近は、海外ドラマでもそのあたりの考証はかなり正確になっており、装置から小物ひとつまでこだわって高いクオリティで作られるご時世に、こんなものもあるのか…と驚きました。

大詰めはまだオーケストラも観客もいるというのに、ピアニストは天井裏でスナイパー?との格闘となり、そのあげく落ちてきた人間がピアノを直撃、哀れ破壊されて床に埋もれてしまいます。
ただし、そのシーンはインペリアルではなく、大屋根の形が明らかに異なる、別のピアノもしくは模型か何か?に置き換えられていましたが。

最後は演奏不能なまでに傷ついたとするベーゼンドルファーの鍵盤が映し出されて、主人公が弾いてみようとするシーンがありますが、このときはなんとアップライトになっており、これほど雑な作りの映画がいまどきあるのか?という点で首をひねったり苦笑いの連続でした。

冒頭に書いた通り、あまりのバカバカしさに倍速で流しただけで、実はストーリーもろくにわからずじまいでしたが、正直わかりたいとも思いません。
ひとつだけ注目すべき事があるとしたら、(ここだけはネットで名前を調べましたが)ピアニスト役で主人公のイライジャ・ウッドという俳優ですが、この人はよくあるピアノを弾いているフリではなく、結構ピアノが弾ける人のように見受けられました。
演奏姿勢から指の動きまで、弾ける人とそうでない人は、根本的にまったく違いますから。

もし本当に弾けるのなら、タイロン・パワーの『愛情物語』ではないけれど、もう少しそれを活かした見応えのあるものに出てほしいものです。
たしかあれは、実際の演奏はカーメン・キャバレロだったと思いますが、やはり弾ける人の姿は違いますから。
『マチネの終わりに』でも、もし福山雅治がギターを弾けない人だったら、いかにモテ男でもずいぶん違ったものになっていたでしょう。

とはいえ、この映画はおもしろかったわけでもなく、不愉快というのとも違い、やはり「ヘンな映画だった」というしかない、不思議な後味しか残りませんでした。
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WAGNERの一夜

我が家で1年近く弾かせていただいたWAGNER PIANOは、次の場所(某音楽サロン)に移ってはや数ヶ月、そこのオーナーの方の心を鷲掴みにしているようです。
大げさではなくこのピアノとの出会ったことを「人生が変わった!」と真顔で語られるほど。

音楽に関わることは続けておられましたが、聞けばもう長いことご自身でピアノに向かうことからは遠ざかられていました。
その理由はくわしく知りませんが、WAGNERが来てからというもの、人が変わったように毎日のようにピアノに向かわれているらしく、本物の楽器というのはそういう力があることをストレートに感じさせられます。

先週のこと。
そのサロンに、所有者である技術者さんと、サロンオーナー、さらにはWAGNER PIANOの第一発見者である某氏と、私の4人で食事をしつつ楽しい宴席が設けられました。

夕方のスタートでしたが、あっという間に深夜になるほど、瞬く間に時が過ぎていきました。
WAGNER PIANOがなければ、まず同席することはなかったであろうこの4人は、縁結びであるWAGNERを背に、さまざまな話に興じました。
食事やおしゃべりが楽しかったのはもちろんですが、なにより強烈な印象として残るのは、やはりこのピアノの類まれな素晴らしさに触れて、もう十分にわかっているつもりのはずだったのに、またもその新鮮な魅力に圧倒されました。

やわらかな響き、立体的に立ちのぼる馥郁たる音が、何の無理も苦労もなく、音の強弱にかかわらず、豊かな陽光のように部屋中を包みます。
さらに、以前にも書きましたが、部屋のどこにいても同じ音量で聴こえてくるばかりか、すこし離れたほうがより美しく鳴ってくるあたりは、ただもう驚くしかありません。

こんなピアノは、少なくとも日本製に限定するなら、どこを探してもまずないだろうと思います。
素晴らしいピアノの条件とは、卓越した設計、最良の材料、熟練の技、コスト度外視の作り手の志など、いくつもの条件がバランスよく整う必要がありますが、それだけなら昔のピアノ作りはそういう好条件を満たしたものは、今とは違いそれほど難しいことではなかったようにも思われますが、では同時代に入念に作れられたピアノがどれも素晴らしいのかといえば、さすがにそれはないだろうと思います。
おそらくWAGNERの素晴らしさには、つくり手さえ予期しなかった何か…、ある種の偶然も味方しているのでは?と思うほど、格別なものがあるように思います。
その格別さがどんなものであるかを文章にできたらいいのですが、なかなかそのような文才もないのがもどかしいばかりです。

本などを読んでいると思い起こされるのは、昔のピアノは今のように甘さやブリリアントな味付けはされず、線の太い力強さがあり、ありのままの素朴で正直なピアノの音をもっているようです。
とくに戦前のピアノにはそういう傾向があったように思います。

変な味付けがないぶん、音色や表現についてはもっぱら演奏者に委ねられており、だからこそ弾く者の想像力やアイデアを要求させるのだと思います。
そういう意味では、現代のピアノは基本的な音にすでに色や味がつけらており、それが演奏の可能性をある程度規定してしまうようでもあるし、音色変化に対する感覚が鍛えられないのでは?という一抹の不安も感じます。

ここにはもう一台ヤマハの古いG3があるのですが、そのピアノとのあまりの違いには…おののくしかありませんでした。

私は正直にいうと、プロ/アマを問わず、自分のセンスに合わない演奏をあまり長時間聴かされるのは、おそらく普通の人の何倍も苦手だと思います。それは同意できない弾き方もあるけれど、音もよくある一般的なピアノの場合、化学調味料まみれのようなウソっぽい音が神経に障ってストレスとなり疲れるのです。

ところがWAGNERの音や響きは、まったくその逆で、その音に身を委ねている時間が喜びであり、少しでも長く聴いていたような気になります。
音の出方も、ピアノからこちらへ向かって矢が飛んで来るようなものではなく、そこらの空気が瞬時に音に変わってしまうようで、そういう状態に自分自身が体ごと包まれていることが、えも言われぬ快感なのです。
所有者である技術者さんが「できるだけたくさんの方にこの音を聴いて欲しい」といわれるのは、あらためて納得です。

やわらかいふくよかな音というと、こじんまりした小さな音であったり、輪郭のないぼやけた音であったり、激しい曲に向かない小粒なピアノといったような、おとなしいピアノだと思っている方は少なく無いのではと思いますが、そういうイメージがいかに誤りであるかがWAGNERを聴いたらいっぺんでわかるでしょう。
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