思わぬ衝撃

第16回チャイコフスキー・コンクールが終わったようですね。

いまや、ネットを通じて実況映像を楽しむこともできるようですが、もはや世界が驚くような特別な逸材が出るとも思えず、出たなら出たで、あとからで結構という感じで、最近になってようやくその演奏動画の幾つかに接しました。

想像通りみんなよく弾けて、多少の好き嫌いはあるとしても、その中で優勝者が頭一つ抜きん出ていたらしいというのも納得できました。
ただ、このコンクールでフランス人の優勝というのは記憶にあるかぎりはじめてのような気もしたし、ファイナルでチャイコフスキーの協奏曲は王道の第1番ではなく、第2番を弾いたのもフランス人らしいような気がしました。

なんとはなしに感じることは、コンクールのスタイルは昔から変わらないのかもしれないけれど、そこに漂う空気はますます競技の世界大会という感じで、表現もアーティキュレーションも指定された範囲をはみ出すことなく、求められるエレメントに沿って、いかにそれを完璧にクリアできるかというのがポイントのようで、まったくワクワク感がありません。

この場からとてつもない天才とか、聴いたこともなかったような個性の持ち主があらわれることはあり得ず、上位数人ほどの順位が今回はどう入れ替わるかを見届けるためのイベントなのでしょう。
少なくとも稀有な芸術家がセンセーショナルに発掘される場ではないことは確かでしょう。

現代では、才能と教師と環境にめぐまれ、どれほどピアノがスペシャル級に上手くなっても、その先に待っているのはコンクールという「試合」であって、そこで戦い勝つことがキャリアの確立であり、いずれにしろ音楽の純粋な追求なんかではないのが現実。
コンクール出場は就活だから、メジャーコンクールで栄冠を取るまで、若い盛りの時期を年中コンクールを渡り歩いて心身をすり減らさなくてはならないわけで、それを考えるとお気の毒なような気がします。


ネットでつまみ食い的に見ただけですが、ピアノへの印象は、ますます各社のピアノは似てきたということ。
とくに落胆したのはスタインウェイで、昨年あたりから始まったモデルチェンジにより、見た目もずいぶん簡素化された姿になり、実際その音も、奥行きのない表面的インパクトばかりを狙った印象。

ヒョロッとした突き上げ棒の形状、あいまいな形状の足など、伝統的なメリハリの効いた重厚なディテールはなくなり、どこかアジア製の汎用品でもくっつけたようで、かなり軽い姿になってしまい、スタインウェイをそうしてしまった時代を恨むしかないのかもしれません。

今回なんといっても「うわっ!」と声が出るほど驚いたのは、なんと、中国製のピアノが公式採用されていることでした。
中国人のピアニストが弾いているピアノのボディ内側の化粧板が明るい色合いのバーズアイというのか、ウニュウニュしたものだったので、はじめはカワイかな?ぐらいに思ったのですが、カメラが寄っていくとカワイではなく、ファツィオリでもなく、むろんスタインウェイでもヤマハでもなく、なにこれ???と思っていると、手元が映しだされた瞬間我が目を疑いました。

そこに映し出されたのは、鍵盤蓋とサイドのロゴに毛筆で書いたような「長江」の文字でした!
ピアノに漢字とは、中国人ならやりそうなことではあるけれど、現実にそれを目にすると(しかもチャイコフスキー・コンクールのステージ上で)、あまりにすごすぎて頭がくらくらしそうでした。
しかもそのロゴデザインには英文字のYangtze Riverと毛筆の長江の文字が組み合わされて「Yangtze 長江 River」となっていて、左右バランスもばらばら。
中国人のセンス、すごすぎます!

意外なことに、音は、ロゴほど異様ではなく、まあそれなりの違和感はない程度のもっともらしいピアノの音ではありましたが、全体のフォルムはスタインウェイDのコピー(フレームはなんとなくSK-EX風?)という感じで、今の中国はすべてこのノリで世界を呑み込もうとしていることを、いやが上にも思い知らされました。

弾いているのは、中国人ピアニストだけのようにも見えましたが、さぞかしそうせざるを得ない事情があったのでしょう。
こんなピアノを見ると、なんかいろいろなことが頭をよぎってもういけません。
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イースタイン

最近、とあるきっかけで一人の熱心なピアノファンの方と接点ができました。
驚いたことに同じ福岡都市圏内にお住まい、小学校のお子さんがいらっしゃる女性ですが、この方は弾くことはもとより楽器としてのピアノに深い関心をお持ちで、さらに知識もきわめて豊富で驚いているところです。

4月に東京に行ったとき、何人もの女性技術者とお会いして、その並々ならぬ実力に舌を巻いたものでしたが、マニアの分野にもこういう方がいらっしゃるのを知り、驚きはさらに倍増しています。
性別でものを言ってはいけない時代ですが、うかうかしていたら男性は本当に置いてけぼりを食らうことになりそうです。

ごく最近もメールのやり取りの中で、イースタインが話題となり、以下のようなメールがサラッと届きました。
これはもうマロニエ君ひとりで読むのはもったいないと判断し、ご了解を得て一部ご紹介します。

***
イースタインのGP(250型 200型 O型)を設計された杵淵直知さんの本にも、日本のピアノは日本的発声〜フォルテで喉を詰め、良く言えば日本的なさびみたいなものがある、童謡等の幼児の時代から喉を詰めた固い声を張り上げて歌う音に耳が慣らされてしまう、室内に於いても畳は美しい響きを吸い取り、がらんどうに近い天井も障子も音に旨味を与えるどころか外に逃げてしまう、機械的には世界の一流品に匹敵しながら音だけはどうしてこうなのか、日本民族の生活環境がそうさせるのではないか…等記されてました。

この杵淵さんは幡岩さんに師事しグロトリアンやスタインウェイ工場で技術を学ばれた後に帰国され日本で活躍されたそうですが、54歳の若さで脳溢血で急逝されています。
以前、あるピアノ店の調律師さんに聞いたのですが、調律は息を止めて音を合わせるから酸欠になって血管系の病気になりやすい、周りにもそれで急死した人が数人いるとのことでした。
だから昔は無理して一日4件調律にまわっていたそうですが、今は2件しかしないようにしているそうです。
ピアノが好きであれば、一日ピアノを扱えて羨ましいなぁー等と呑気に考えておりましたが、実はとても大変な仕事なのだと思いました。
長い時間メンテナンスされる技術者の方もいらっしゃると仰ってましたので…素人ながらも少し心配な気もいたします。

杵淵さんの本の中で響板についての記載もありました。
日本は現在(1970年代)エゾ松を使ったピアノは殆ど見当たらない、エゾ松は音に伸びがあり粘りもある。一般的日本人は日本製のものよりもアラスカのスプルースを輸入している、とした方が高級感があって喜ぶ…とのことでした。

響板の乾燥工程も他メーカーの乾燥室を見学したら、最も大切な時間という材料を使わなかったから経年による組織変化等の思いも及ばなかったのであろう、呆気に取られた、干大根と生大根で同じ干したものでも味は全く違うというわかりやすい例えもありました。

やはり音というのはそれまでの過程により良くも悪くも明瞭に反応してくれるのですね。とても興味深いです。
手工芸品が採算度外視になるのも仕方ないかと思いますが、贅沢ですが楽器は手工芸品であってほしいとも思ってしまいます。

イースタインは特に九州は殆ど存在してなさそうですね。
東洋のスタインウェイを目指して作られたとも記されておりました。
日本の高度な技術を戦争の為ではなく平和の為に作られたと聞いて素晴らしいと思いました。
U型はリットミューラーという名のピアノを参考に初のアップライトとして開発したモデル…とありました。工場の宇都宮の地名からUを取ったようです。

B型はブリュートナーのBの頭文字から来ているもので、(チューニングピンの埋め込んである鉄骨部分がくり抜かれ、真鍮製の板を埋め込んでいるのを模倣している)大橋デザインのディアパソンGPに弾いた感じが似ているとのことでした。
アップライトではB型が一番いいみたいですね。
因みにT型というのはB型をベーゼン仕様に設計変更したもの(設計した人の頭文字)だそうです。
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たかが電話

昔にくらべて大きく様変わりしたことは実にいろいろあるけれど、たとえば電話のかけ方もそのひとつでは。

各自が携帯電話を持つようになったことで、いつでも誰とでも自由自在に話ができるようになるとばかり思っていたら、結果からいうと、却って暗黙の制限みたいなものが生まれ、電話は昔よりよほどハードルが高いものになった印象があります。

電話するには、相応の理由、はっきりした要件、緊急を要する場合等でないかぎり、昔みたいに気軽にひょいひょい電話をするということは「してはならない」「しないことがマナー」みたいな空気が蔓延しています。

そもそも昔の通信手段は電話か郵便ぐらいだったから、電話の役割そのものが広かったといえるのかもしれませんが、現代はメールだなんだと選択肢が増えたぶん、電話で直接話をするのは身内もしくはよほど親しい人だけのように格上げされ、いきなり電話をするのは一種の不心得者であるかのような雰囲気に。

電話をするには、前もってメールやLINEなどの文字情報の往来段階があり、相手側からも応諾の確認が取れ、その結果として電話をすることへ扉が開き、晴れて相手の声を聞くことができるという段階を踏む必要もあり、さらには時間帯を気にし、仕事中、移動中、食事中等々何かの最中であってはならないという気を回しに回すうち、やがてだんだん面倒臭くなる。

それもあって、文字で済むことは、自分のペースで書いて送っておけば事足りるわけだからそれで済んでしまうし、だから人と人はますます会話をしなくなるのでしょう。

こうして個人の時間とプライバシーは守られる代わりに、みんなが付き合い下手となり、却って疎遠を招き、もしかするとひきこもりなどの増加もこういう社会風潮も一因では?と思ったり。

暗黙のルールというのは、誰がどうしろといったものではなく、気づかぬうちに常識と思っていたものが変質していくものらしく、それにはただ従うしかありません。

暗黙のルールといえば、着信記録に気がついてこちらからコールバックすると、相手が出ないためやむを得ず電話を切ると、すぐその相手からかかってくるというパターンがあって、それが一人に限らずわりによくあるので、ふと気がついたこと…。
それは、元は自分がかけた電話だから、コールバックしてくれた相手に電話代を負担させては申し訳ないということもあるらしく、その着信にはあえて出ず、しかも「いま」なら相手も電話で話せる状態だろうから、すぐにかけ直すということのようです。

たしかに、こまやかな気遣いだとは思うし、ちょっとしたマナーなのかもしれませんが、なにもそこまで気を遣わなくてはいけないものか?というのも正直なところです。
たかだか電話ぐらい、もっと気ままにかけたらいいじゃないかとも思うのですが、いまの世の中なかなかそうはいかないようです。

また今流行りなのか、通話開始から5分か10分か忘れましたが、それ以内なら無料、それを過ぎると有料みたいな電話があるようで、会話中しだいに落ち着きのない調子になり、いやにせわしげに切ったり、ついには「ちょ、ちょっとかけ直していいですか?」となって、あれもマロニエ君は好きではないですね。

それだとわかれば、こちらは話し放題のプランなのでいくらでもかけ直しますが、わからないと微妙に調子がヘンだったりして、ご当人も安さの代償として気が気でないだろうし、なんだかややこしい世の中になったものです。

もちろん安いことはそれ自体が意味があるし、自分もそういう恩恵には浴して生きている訳だから、そこだけエラそうにいう資格はないけれども、いずれにしろ潤いがないなぁと思います。
そもそも潤いというものは、ちょっと無駄なものとか、ないならないでもいいようなところから滲み出てくるものだと思うし、そこが実はとても大切だと思うのですが、今どきのように極限的な合理性の追求が是とされる時代は、そんなことはなかなか通用しないようです。

それでも尚くじけず、自分の自然な感性を踏みつけるようにして頑張らなくちゃいけない現代人は辛いですね。
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ネタ探し

…ときどき思うこと。
自分で言うのもなんですが、そもそもブログって何のために書いているのだろうと。

言葉の上で尤もらしい理屈はいくらでも付けられますが、マロニエ君の場合、ひとことで言うなら自分の心にあることを、たとえ一人でも読んでくださる方があるなら伝えたいという、くだらぬ自己満足というのが一番近いような、もっと言うなら、なにげない日常でいろいろと見聞きしたり、考えたり、おもしろかったり、感動したり、落胆したり…まあそんなようなことを自分だけで抱えておくのが性格的にしんどく、人に話すツールとして使っているのかもしれません。

世の中にはいろんな人がいて、人に喋ったり伝えたりすることにさしたる価値を感じず、自分の中で処理・廃棄してしまうことが自然にできる人もいらっしゃるようですが、マロニエ君にはそれは無理というもので、人に喋ったり話をしないことがストレスになってしまいます。
そういう意味では、自分を開放しているだけかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

世の中の空気は年々制約の多いものになり、昔に比べると、人と自由闊達にワイワイしゃべるとか、本音で意見交換するなどという機会は激減し、その内容もその場限りの表面的なものになっていく気がします。
なにより、ネットやスマホの普及により、人と人とのナマの付き合いみたいなものは、まさに絶滅の嬉々に瀕しているよう感じられます。
はじめから、そういう時代に育ってきた若い人は現在のスタイルを抵抗なく受け容れられるのかもしれませんが、昭和生まれの生々しい時代を生きてきた者にとって、途中からルールが変わり、四方を規制の壁で囲まれるよう変更を強いられるのは、非常に窮屈で息苦しさを覚えるのも正直なところ。

ブログはそんな息苦しさの中にあって、せめてもの換気のためのささやかな小窓のようにも思います。

ただ、いくら「ささやかな小窓」などと言っても、ネットに掲載するということは、不特定多数の人がアクセスできる場であるのだから、誰でも見ることができるという点においては、やはり大それたことでもあり、ときどき怖くなることがあるのも事実です。

そうはいっても、こんなくだらないものを心配するほど見ていただけるはずもないわけだから、やはりごくささやかな小窓であることは実態として間違いないわけですが、それでもネットはネットなのだから、やはり一定の注意を払う必要はあるわけです。

ブログで一番大切で、しかも困るのは、ネタ選びです。
私信ではなく、ネット上に書き込みをするということは、いくら読む人はほとんどいないだろうとはいっても、それがゼロではない以上、なんでも思いつくまま書くわけにもいきません。

ここがネタ探しの難しいところで、本当に書きたいこと、拙いながらも文章にして人に伝えたいというようなことは、実際にはどれもこれも書けないことばかり。

そうかといって、当り障りのないつまらぬ日常のことなど書いても、それこそ意味が無いし、その隙間を漂う、微妙なネタ探しというのは、けっこう難しいのです。

とりわけピアノのネタは、業界ネタが多くて言えないことのオンパレード。
なので、ネタには事欠かなくても、書けることはほんのわずかという話を、ついネタにしてしまいました。
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ストリートピアノ

ちかごろ、ストリートピアノというのか大変な盛り上がりをみせているようですね。

そもそもの発祥はどこなのか…海外なのか、そのあたりは知りませんが、とりわけこの1〜2年ぐらいは日本国内でも、雨後のたけのこのように数が増えているようで、そうなると次から次でいまさらながら日本って流行りものに弱いんだなぁと思います。

マロニエ君は数年前NHKのドキュメント72時間とかいう番組で、宮崎市の商業施設の一角に置かれたピアノが取り上げられたことでその存在を知ったと記憶していますが、本物にお目にかかったことはまだ一度もありません。
海外でも、駅や空港などに置かれたピアノを、通りがかりの人がおもいおもいに弾いて楽しむ様子が、よくテレビで流れているので、どうやらこれは世界的なブームでもあるのでしょう。

これに使われるピアノの多くが、弾かれなくなり処分に困り、粗大ゴミに限りなく近づいた、先のないピアノの再利用といった一面があるあたりは、廃物利用で多くの人が楽しめるという点では画期的なことかもしれません。
マロニエ君的には突っ込みどころもないではないけれど、こういう遊び心の領域にあまり目くじらを立てることは無粋というものだから、これはこれで素直に楽しい気分で眺めていればいいものだと思っています。

楽器の設置環境としては、かなり厳しい場所にピアノを置くということや、あまりに派手なペイントやラッピングが施されるというのは、単純に「わー!」とは思うけれども、かといって、黒や木目のピアノをそのままポツンと置いても、場所柄地味で雰囲気も暗いだけというのもわからないではないし、ポップに仕上げるのも致し方のないことかもしれません。

それでもピアノはピアノであって、Tシャツではないのだから、あまりにド派手なペイントなどを見ると、さすがにちょっと…と思うこともありますが、一方で今どきのなんでも禁止、なんでもダメ、とりわけ音の出るものにとっては甚だ肩身の狭い世の中で「どうぞ自由に弾いてください!」というのは、ずいぶん気前のいいものにも感じます。

だれがどう弾いてもいいのがストリートピアノのルールでしょうけど、個人的にはそこにも暗黙のルールがあるような気がします。
まずはやはり楽器に著しくストレスを掛けるような弾き方をしないなど、まあ常識レベルのことでもありますが、もう一つは、そこそこ弾ける人が、ここぞとばかりに腕自慢のための演奏をするのは適しない気がします。

もちろんストリートピアノというものが、誰でも自由に弾いていいという建付けである以上、巧拙不問なのがいうまでもないけれど、中には周囲の視線を意識し過ぎるほど意識しながら、難曲大曲をバリバリ弾く光景をYouTubeなどで見たことあり、あれってどうなの?って思いましたね。
妙に浮いていて、周りもよほど拍手喝采かとおもいきや、意外にそうでもなく、熱演し終わった奏者が「あれ?」みたいなこともあって失笑したり。

そういう人がこういう場所を使って過度な自慢を繰り広げると、その狙いが周りにも伝わってしまうようで、結果的に期待するほどの効果が上がらないんでしょう。

本人がカッコイイと思ってやっていることが、実はカッコ悪くて、むしろ周囲の意識が逆流しているときって、いたたまれなさとザマミロという気分がミックスになります。
上手くても下手でも、なにかしらのピュアなものが伴わないとストリートピアノの意味が無いような気がします。
いっそプロフェッショナルのピアニストが弾いてくれたらいいかもしれないけれど、「難曲が弾けるシロウト」というのが一番やっかいです。


今年の春頃だったか、小池さんの肝いりなのか、東京都庁の展望室には一般から寄贈されたグランドに草間彌生さんの水玉模様を貼り付けた「おもいでピアノ」なるものが登場したこともあってか、テレビニュースなどでストリートピアノの事が特集されていました。

引っ越しを機に、ピアノを手放すことを余儀なくされた女性にスポットを当て、半生をともに過ごしたというピアノをストリートピアノに提供するというもの。
「我が子を里親に出す心境」なんだそうで、なるほどと思いました。

番組によれば40年前には31万台売れていたピアノは、現在ではわずか1万3千台ほどになったというのですから、その落差は凄まじいものがあるんですね。
時代や価値感の変化はもとより、近隣への騒音問題は如何ともしがたいものがあり、音の出るものというのは喫煙並みに肩身の狭いものなのかもしれません。
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ガブリリュク

日曜夜のEテレ・クラシック音楽館で放映された今年のN響定期から。
アレクサンダー・ガブリリュクのピアノ、パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を視聴しました。

ガブリリュクは昔、浜松コンクールで優勝した人だったけれど、マロニエ君はあまり興味をそそられなかった人で、コンクール終了からほどない時期だったと思いますが、ベートーヴェンの月光が入ったCDがリリースされ、それを買って聴いたことがあるぐらいでした。
それがあまり好みではなかったこともあり、それっきりで、たぶん彼の演奏を聴くのはそれ以来か、クラシック倶楽部などで聴いたのかもしれないけれど、ほとんど記憶らしいものがなく、事実上初めて聴くのに近い感じでした。

さて、これが思ったよりもよかった。
いい意味で「今どき」の演奏ではなかったため、つい「早送り」も「停止ボタン」も押すことがないまま最後まで聴き入ってしまいました。
考えてみたら、ラフマニノフの2番をじっくり通して聴いたのもずいぶん久々だったような気がしますが、曲も演奏もずいぶん懐かしいものに触れたような良さがあり、昔ならごく普通だったものが、今どきは新鮮なものに感じるようになったことをはっきり認識させられました。

力強いタッチ、大きくて厚みのある手、余裕のある技巧、見せつけのためのヘンな誇張やわざとらしさのない、ストレートな喜怒哀楽を含んだ話を聞くようで、必要な場所に必要なパンチもあれば、リリックなところはそのようになるメリハリもあって、それだけでも心地よく感じるものです。

今どきの若いピアニストでうんざりしていることを繰り返すと、線が細く、楽器が鳴らず、なにも感じていないのに感じている素振りをところどころに入れたり、あるいは完成された解釈やアーティキュレーションをコピペのように用いる。
さらに自己顕示のための見せ所はいくつか設けて、意味もなく音楽の流れを停滞さるなど、そういう首尾一貫しないものの寄せ集めだから当然演奏としての辻褄は合っていないけれど、指はほとんどミスもなく動くため、曲は終わりまで進み無事終了ということにはなる。

その点ガブリリュクは、とくにどこがどうというような特筆すべきことはないけれど、情熱と活気を伴いつつ、真っ当なテンポにのってぐんぐん前に進んでいくだけでも快適でした。

とくにライブでのコンチェルトの場合、ソロとオケがピッタリ合うことは建前としては必要だけれども、それだけで良いのかといえばマロニエ君はどこかそうは思えませんし、あまり小ぎれいにまとまり過ぎると室内楽のようになってしまうこともしばしば。
やはりソロ対オーケストラという形態を考えると、節度は必要だけれども、即興性やわずかなズレやはみ出しであるとか、ほんの心もちソロが全体を引っ張っていくような、生命感を感じる演奏をマロニエ君は好みます。
興がノッて、ときに飛ばしすぎの危険を感じるほど、推進力をもって進むときの気持ちよさは、協奏曲を聴くときのちょっとした醍醐味のようにも思うのです。

ガブリリュクの演奏は、今どきのシラけた演奏のもやもやを吹き飛ばしてくれるような、筋の通った演奏でした。
突っ込みどころもないわけではなく、彼の演奏のすべてを肯定するには至らなかったものの、一回の演奏としては、単純に満腹感を得られる演奏でしたし、ステージの演奏の魅力というものは、まずはこういうところからではないかと思います。
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大事なこと

このネット社会ではピアノ販売も例外ではないようで、すべてではないかもしれませんが、多くのピアノ店はネットをなんかのかたちで活用されているのは今更いうまでもないことでしょう。

過日行かせてもらったヴィンテージピアノ専門の某工房では、仕上がったピアノはすべて、ご店主と昵懇の間柄という男性のピアノの先生が工房内でじっくり試奏され、それを動画撮影してホームページにアップするというスタイルを取られています。

この方は、この工房との関係からか、夥しい数のヴィンテージピアノを経験されている由で、いわゆる普通の「ピアノの先生」といったイメージではなく、ヴィンテージピアノの専門家のような風情が漂っています。

しっかりしたタッチで、音は温もりがあって明朗、それぞれのピアノに対して変に弾き手の個性を入れず、ストレートにきちんと弾かれるそのスタンスは安心感さえ覚えます。

先日のこと、工房のご厚意で仕上がったピアノの動画DVDが送られてきました。
なんでも、いつもは演奏の様子だけを撮影されるのを、工房スタッフの方のアイデアでカメラを回しっぱなしにしてみたというので、演奏の合間に交わされる雑談の様子やその内容まで視聴することができました。

感心したのは、やはりというべきか、それぞれのピアノの特徴や美点をすぐに感じ取って、それを大事にするような演奏が自然にできてしまっている点。
ピアノ店の動画だから、あえてそういうことを心がけているというようなわざとらしさはまったくなく、長年の経験から本能的に楽器の個性を感じ取り、すんなりとそれを踏まえた演奏になるという感じでした。

これは楽器を奏する者としては、ある意味では当たり前のことであり、楽器のコンディションや個性に反応しながら弾いていくというのはきわめて重要かつ自然なことのはずですが、実はピアノの世界でこの当たり前はなかなかない事で、この面ではおそろしく鈍感な弾き手が多いのも現実でしょう。

どんなピアノかなどお構いなしにやたらと弾くだけの人って、ほかの楽器に比べて、ピアノはとても多いと思います。
演奏するにあたり、楽器のことを考えない人は、同じように作品のこともあまり考えていなくて、ただ自分が取り組んでいる課題(曲)を技術として弾き通すことばかりに全エネルギーを注いでいる。

楽器は自分にとって弾きやすいか、そうでないか…要するに道具でしかなく、楽器を慈しみ対話して、そのピアノが喜ぶような演奏をしようとする人って、本当に稀だと思います。

対人関係においても、相手の反応や場の空気を読みつつ柔軟に対応できる人と、そんなことはお構いなしに一方的にしゃべりったり自慢したりする人がいますが、ピアノの場合、残念ながら後者のほうがはるかに多い気がします。


話が逸れましたが、この先生がおっしゃるには、ヴィンテージピアノはバンバン弾くのじゃなく、繊細に弾くことが大切、それぞれのピアノの光るところを探すこと、振動を感じること、きれいにではなく気持よくピアノが響くところを探って弾くことが大事だと、さりげない雑談の中で語っておられ、いちいち御尤も。
しかしそれは、ヴィンテージピアノに限ったことではなく、新しいピアノを弾くときにも、そっくりそのまま当てはまることだと思うのです。
ただそれがヴィンテージピアノにおいては、より顕著に楽器が求めてくるというだけで、楽器に相対する心得としては同じことだと思いました。

佳き時代のヴィンテージピアノは、弾き方しだいで本当に美しい、心にしみるような音で歌ってくれる反面、ぞんざいで無理強いをすると、たちまちそれが音として出てしまうなど、適当にお茶を濁してはくれません。
現代の量産ピアノはその点で、汚く弾けば汚く鳴るという面が薄いから、良くも悪くも表現のレンジが狭く、演奏を芸術として磨き高めるには楽器が厳しい教師とはなり得ないかもしれません。
常にセンシティブな感覚を身につけるというだけでも、ヴィンテージピアノっていい勉強になると思います。

また、大いに共感したのは、その先生によれば大曲を弾くより、シンプルな曲を弾くほうがピアノの良さもわかりやすいというようなことを言われていましたが、そもそもシンプルな曲を美しく弾くことのできない人が、どんなに大曲難曲を弾けたところで、当人の自己満足以外ほとんど意味を見出せません。

むかしある集まりにいたとき、ひとりだけ自分の技量を心得て、ギロックの小品を徹底的に練習して、さても見事に鑑賞に堪える演奏として弾く人がいましたが、こういう人こそ素晴らしいと思うし今でも記憶に残っています。

要するに、大事なことはどこにあるかという問題であり、価値感は人格をあらわすものだと思います。
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ホール拝見

福岡市から南へ40数キロほど南下すると久留米市があります。
人口30万ほどの街ですが、古くから医学の街でもあり、ブリジストンタイヤの創業の地でもあるし、一方で青木繁や坂本繁二郎のような多くの画家を排出した地でもあります。

市内にはブリジストンの石橋正二郎氏が寄贈した石橋文化センターがあり、東京のブリジストン美術館と連携した日本有数の美術コレクションを展示する石橋美術館ほか、石橋文化ホールなどがあり、ブリジストンの躍進と地元への貢献を肌で感じることができる場所です。

その久留米市に、2016年だったか久留米シティプラザという複合施設が街の中心部に作られました。
古くからあった百貨店の跡地と、それに隣接する六ツ門広場という広いイベントスペースを潰して作られた大掛かりな文化施設のようです。

写真で見る限り、ずいぶん立派なホールで、一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか情報も伝わらず、ネットで調べてもこれというコンサートなどはあまりないようで、行く機会が見つからない状態だったですが、知人が久留米市市民オーケストラというアマチュアオケの後援のようなことをやっているとかで、そのオケの定期演奏会があると聞き、ホールを見るには良いチャンスだと思って行ってみることに。

久留米市のまさにど真ん中、街並みの中でも目立つ建物は二棟に分かれ、しっかりとした地下駐車場があり、外から見ても建物内に入っても、これはずいぶんがんばったなぁ…と思ってしまうほど立派なもので、まるでバブル時代にタイムスリップしたような感覚に陥りました。
全体の規模、エントランスやロビーなどの広々した作り、さらにメインのホールはおよそ1500人収容の、細部まで凝った意匠が散りばめられた贅沢な仕上げで、見ているだけで圧倒されるものがありました。

サイドの客席はセンター/左右と三方向に別れ、それが互い違いに5階まで続き、ホール全体は赤い色調の木目で張り巡らされており、それが床から舞台の反響板、各階の背後の壁にいたるまで徹底されています。
規模的にいうと、通常の大ホールはだいたい1800〜2000人規模のものが多く、その半分もしくは1/3ぐらいのものが中ホールとされるものが多いですが、1500人というのはその間というか、ちょっと一回り小さな大ホールといったところで、個人的には2000人規模のホールは大きすぎて好きではないので、より好ましいサイズだと思います。

福岡市にもこれぐらいの規模の施設があればいいなぁと思えるもので、音響も節度があり、濁らないクリア感があって、やはり音響設計は日々進化しているのだろうと思いました。
その点、福岡市内にあるメインのコンサートホールは最悪の音響にもかかわらず、改善の気配もなく、会場がここである限りマロニエ君は足を運びたくない筆頭のホールで、自分の地元のホールがこんな有様とは、なんたる不幸かと思うばかり。


この日のコンサートでは、冒頭の「魔弾の射手」序曲に続いて、2曲目がベートーヴェンの「皇帝」で、ピアニストはゲストとして招かれたとおぼしき若手の日本人ピアニストでした。
線の細い、今どき世代のヘルシー弁当のような演奏で、曲は確かに皇帝だけど、ドラマのないさらさら通過していくBGMのようでした。
「皇帝」ぐらいの超有名曲になれば、嫌でも一定のイメージが張り付いており、例えば全盛期のポリーニが汗みずくになり、唸り声を上げ、凱旋するヒーローのごとく弾いた皇帝にくらべたら、そのエネルギーは数分の一に減っていることでしょう。

昔のV8エンジンのベンツSクラスとプリウスぐらいの燃料消費の差がある感じですが、ガソリンなら使うのは少ないほうがいいけれど、聴衆に聴かせるステージ上の音楽まで、こうまで切り詰めてしまう必要があるのか、もはやマロニエ君なんぞにはわかりません。

ただし、思いの外よかったのは第二楽章で、これはかなり美しく弾かれたし、アンコールとしてメンデルスゾーンの無言歌集から「ヴェニスの舟歌」も同様で、柔らかい枝がしだれるようで、この2つが聴けただけでも収穫だと思いました。

オーケストラは、なにぶんにもアマチュアですから、普通の感想を持ってはいけないのでしょう。
みなさんとても熱心に練習されていると思うし、おりおりにあのような立派な会場で定期演奏会があるとなれば、やりがいも感じておられることとも思います。

施設その他を見物してまわっていたので、ホール内に入ったのは開演直前でしたが、なんと1階はほとんど満席で、案内の人から「最前列の右側しかありません」といわれ、あわてて2階に。
それもダメでついに3階まで上がって辛うじて空きを見つけたほどの盛況ぶりでした。

その移動時に感じたのは、センターと左右が段違いになっているためか、それぞれに繋がる通路が、からくり屋敷の迷路のように複雑でわかりにくく、いったん出てもどっちがどうなっているのかまったくわからなくなり、開演時間が迫っていることもあってほとんどパニック寸前でした。
案内の人に聞いても、瞬時に答えられず、これはちょっと凝り過ぎかもしれません。
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時代の流儀

iPadでのメールやLINEなど、いわゆるタッチ画面で文章を書くのが苦手なので、少しまとまった量になると一旦パソコンで書いて、それを自分に送信しコピペして送るのですが、ひょんなことから知人が別売りの便利なキーボードがあることを教えてくれました。

そんなこと常識なのかもしれませんが、マロニエ君はそっちのほうはからきし苦手なので、あれば便利かも…と思い、いわれるままにそのメーカーと機種をアマゾンに注文したところ驚くべきことが。

お昼少し前に注文したものが、なんと5時間後にはそれが届いて、その早業にビビリました。
発送元を見るとアマゾンの千葉県市川市となっていますが、九州にも大きなセンターのようなものがあるらしく、売れ筋のアイテムは揃っているのかもしれません。

それにしても、大変な時代になったものだとあらためて思ったし、これでは店頭販売が年々廃れていくのも仕方ないかと思います。
我が身をふりかえっても、たしかに店舗に足を運んで商品を見て、触って、比べて、その範囲の中から買うという行動が激減してることに気づきます。
現物確認さえあきらめれば、多種多様な中から商品を選ぶことができるし、その選択肢の多さは、とうてい実店舗がかなわないもので、しかも同時に価格の比較もできるとなれば、そちらが主流にならざるを得ません。
さらに、実際に出向く必要がないから、そのための時間も交通費も駐車料金もかからずで、とくに実用品はネット購入ということに(くやしいけれど)なります。

自分も利用しておいて言えた立場ではないけれど、こうして必要最小限の合理的なエネルギーで動いていくから、世の中は一向に活力が出ないような気がするし、ムダがなく安いことが全てに勝る正義のようになっていくことに殺伐とした怖さを感じながら、かくいう自分を含めて後戻りはできないレールの上を進んでいるようで、それがさらに恐ろしさを感じます。

そのうち本当にドローンがお届けに飛んでくる日もくるのかも…。


買い物といえば、先日H&Mでちょっとした安いシャツを買おうとしたら、さんざんレジに並ばされたあげく「袋代が20円かかりますが、よろしいでしょうか?」とにべもなく言われました。
咄嗟のことで、もしそれを拒否してシャツを裸で持ち去るのはさすがにどうかと思ったし、後ろにはレジを待つお客さんが何人も並んでいたので、ここは早く済ませることが大事なような気がして、考える時間もないまま承諾しました。

すると、小さな白いビニール地に赤でH&Mのロゴが入った袋がカウンター上におかれたものの、畳んだシャツ一枚がどうにか入るぐらいの小さなサイズで、こんなちっちゃな袋が20円もするの?と非常にびっくりしたし、なんともいえない不快感を抱きながら支払いを済ませ、店を後にしました。
スーパーのレジ袋だって、まだ大きいのが3円ぐらいで、こんなに小さいペラペラのビニール袋が20円とは、どうにも納得がいきません。

これはひとえに気分の問題で、商品代があと20円高くてもまったく構わないけれど、こういうことはできたらしないでほしいと個人的には思いますが、これも時代と割り切らなくてはいけないのかと思うと、無性に楽しくない気分。
とりわけ、外資系の会社というのは、客の心情などといったものを考慮しないのか、ずいぶんとドライで大胆なことをやるようで、そのあたりはどうにもマロニエ君は馴染めません。

会社側にしてみれば、いくらでも主張や理屈はあるのでしょうが、来店して商品を買ったお客さんに、それを持ち帰るための袋が必要ならを20円よこせというのは、マロニエ君が経営者ならぜったいしないと思う部分。

スーパーの有料レジ袋はさすがにもう当たり前になったので、マイバッグ持参で行くけれど、さすがに服を買うときまでそんな準備をしたくはないし、なんとなく通りがかりに立ち寄って買うということもあるわけで(今回が正にそう)、そのために常時袋のようなものを忍ばせておくなんてまっぴらごめんで、かといってあんな小さな、ゴミ用としても使い道もないような小さなビニール袋に20円出させられるのは、やっぱり納得はしかねます。

ゴミといえば、回収のための有料袋が福岡市の場合、最小サイズが15Lで15円なのですが、それよりも高いなんて、いったいどういうことかと思いました。

最近は、いろいろと理由はあるにせよ、どうにもしっくりしないようなルールがあまりに多いのは、それだけでも人生のいくらかをスポイルされているような気がします。
ひとつひとつは「たかだか!」というレベルのことですが、その「たかだか!」もずんずん積み重ねられたら、意外に大きなものになりますからね。
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非文化

日本人のある指揮者の方が、本の対談の中で、
「日本では西洋の芸術が文化になっていない」というテーマの講演があるといい、「文化とは血の中にあり感覚となっていて生活に密着しているものだが、日本では西洋音楽はまだ文化になっていない。血の中にないから、哲学や思想など頭で考え分析できるもののほうが近づきやすい…」と述べるくだりがあり、フランス音楽への理解が浅いのも「哲学的根拠のようなものを感じさせる音楽でないと、真の芸術ではない、という考えが日本にはある」と発言されており、おおいに膝を打ちました。

西洋の音楽というと、高尚な芸術として一部の人達に愛好されるものという敷居みたいなものがあって、普通にファッションやスポーツなどに接するように、日々の生活の中にごく自然にクラシック音楽が浸透し存在する状態、つまりは文化と呼べる領域にはまったく至らないようです。

世界的に見てもトップレベルではないかと思える、柔軟な感性を持つ日本人。
異国のものをすんなり受け容れ、自分達の生活に採り入れるなどお手のもの。
しかるに、西洋音楽がもたらされて一世紀以上経つというのに、こちらはいまだに専門家や愛好家だけの芸術ジャンルとしてソフトに隔離されており、およそ日常の中に文化として息づいているとは思えません。

例えばコンサートのプログラムにしても、多くの日本人は今だに演奏より曲目にこだわります。
それもただ自分が知っている曲があるかどうか、耳慣れた名曲が含まれているかどうか、問題はいまだにそのあたりを行ったり来たりしてことに唖然とします。

演奏者も、チケットを売るため有名曲を入れるよう主催側から強く要望され、不本意なプログラムにならざるをえないことは少なくないとか。

知っている曲を生で聴きたいというのもわかるけれど、では、知らない曲だとそんなに退屈ですか?というのがマロニエ君の正直なところ。
その人たちが映画や小説や美術館の作品に触れるとき、多くの作品を前もって「知っている」わけではなく、大半は「初見」でも文句は出ないのに、音楽だけは、どうして知っている曲じゃないといけないのかがわからない。

他のものと同じように、ただ楽しみとして自然に芸術に触れ、それを日々の中にやわらかに溶け込ませる、そこがどうも日本人には難しいらしいようです。
必ずやご大層なものになり、高尚で、専門的で、研鑽の対象という捉え方をするのは、楽しむことより身構えて勉強することのほうがしっくりくるからでしょうか。

それを感じるのは、アマチュアのピアノ演奏でも、ほとんどの人は技術的に余裕のもてる曲を選んで表現の美しさを追求することはなく、身の丈以上の大曲難曲に挑もうとする傾向。
これも根っこのところで、音楽を本当に楽しめていないから、演奏というパフォーマンスに重きを置き、そのための練習という技術の世界に迷い込む。
音楽(に限らず芸術を)を心の糧として楽しむことは、人生そのものの在りようやセンスの問題で、人に見せたり自慢したりすることではないから、それはただ練習という一本道というわけにもいかず、一朝一夕には達成できないことかもしれません。

そもそも「楽しみ方」を知らないのが良くも悪くも日本人なのかもしれませんけれど。

技術なら優劣が明確で、そこにヒエラルキーが生まれます。
日本の楽譜には、初級、中級、上級といった区分けがありますが、ああいうのが日本人は好きですね。
自分の感性や経験で判断しないから、人が分類してくれたものに従うほうが楽なのかも。

なので、ピアノ演奏も難易度別の技術と捉え、相撲の番付、将棋の段、算盤の級のような、わかりやすい階段を登ることは好きなようです。
そういえばピアノにはグレードという言葉があるようですが、「グレードを上げる」ことがモチベーションになり、ピアニストやコンクールで奏されるような有名な技巧曲を弾けることが「カッコいい」わけで、それが達成できれば周りから評価され一目置かれるから、それを目指すという図式。

要するに、音楽とは名ばかりで、根底には技術のピラミッドが立っているから、そうなると子供でも弾けるような易しい曲を、いかに美しく演奏するかということとは、まるで別の道になってしまうんですね。

つまり「日本では西洋音楽はまだ文化になっていない」となる所以がそこだと思います。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

制御を聴かせる大器

BSクラシック倶楽部から、今年2月のアブデーエワの日本公演から、ショパンのマズルカOp.7-3/Op.59、ソナタ第3番、シューベルトの楽興の時から第3番。

演奏スタイルは、少し忘れていたものをすっかり思い出すようにアブデーエワ流が健在でした。
年齢的にピアニストとしての黄金期に入ろうかという時期で、彼女が優勝したショパンコンクールからはや9年が経過ですが、特段の深化や変化は個人的には感じませんでした。

緻密な演奏プラン、理性の絶対優先のような演奏は大変立派だけれど、まるで音の講義にでも接しているようで、音楽を聴いているのになぜか音楽がこっちにきてくれず、もどかしさがまとわりつくのも以前とまったく変わりなし。

この人の演奏を聴いていて常に離れることのないのは、遊びのなさと過剰とも思えるコントロールという行為。
コントロールとは音楽を自然に美しく鳴り響かせるために裏で支えるものかと思っていたけれど、アブデーエワのそれはコントロールそのものがむしろ見せどころのようであり、これはある種かたちを変えた技術自慢のようにも思えます。

曲は隅々まで支配され、ピアニストがすべてを手の内に囲い込んでいるような印象を受けるのは、とりわけ女性ピアニストとしては稀有なことだと思うし、それだけ大器であるということでもあるのかもしれません。

マズルカを凛とした音楽として、大曲と同等に取り扱って弾くことは必要なことだとは思うけれど、あそこまで深刻で、息を殺して、まるでベートーヴェンの後期のソナタでも弾くようにやられると、なにかが違うんではないかと思ったり。
個人的にはもう少し力の抜けた、ふわりと浮かんできた詩の断片を音にするような、ショパンのこわれやすい心情がピアノを通して彷徨うようなニュアンスで進んでいくマズルカのほうが好み。

もう少し踏み込んでいうと、どの曲にもそれぞれ冒頭もしくはそれに近い部分に、その作品の顔ともなるべき主題や旋律があって、それがあれこれに展開して帰結するというのが多くの作品の作りだけれど、そのはじめの顔がこの人のピアノではほぼ無表情で、ひたすら説明的かつ慎重に音が並んでいくだけ。
聴いていて、核となるべきフレーズや動機がほとんど掴めないまま先に進んでいくため、つい自分で曲を補足しながら聴くという脳内作業をしており、なんとも収まりの悪い椅子に座っているようで、たえず体を動かしてしまうようなストレスを感じます。

それと、あれだけ長身で恵まれた体格をしているのに、やけに椅子が高いことも気になります。
高い椅子は、大きな音を出したり楽器や作品を支配するには有効かもしれないけれど、うるおいのある美しい音でピアノを深く鳴らすとか、ディテールのしっとりした語り、心の襞に触れるようなニュアンスが失われる気がします。

コンサートピアニストというのは、やはり聴衆に聴かせることが大前提で、それぞれのやり方で音楽的エクスタシーを聴衆が与えられなくては、聴く意味がない気がします。


クラシック音楽館から、真田丸の主題曲の演奏で有名になったヴァイオリニストの三浦文彰さんと、ピアノの江口玲さんによる共演で『三浦文彰☓デジタルアート』と銘打った、東京臨海副都心のチームラボ・ボーダレスで行われた演奏を視聴しました。
ピアノはニューヨーク・スタインウェイのLかO(たぶん)という、すくなくともテレビで見るには珍しい家庭用サイズのもの。

この2人、タイプはまったく違うけれど共通しているのは、きわめてオーソドックスな路線の演奏でありながら、今どきのどこかシラけたところがなく、しっかりと血の通った心にそのつど何かが届いてくる演奏をされることだと思います。
ズシッとした重みと、弾いているという実感があるのは極めて大事なことだし、これがなくてはどれほど素晴らしい技術や解釈であっても聴く気になれないし、演奏家としてまずもって必要なのはここだろうと思います。

家庭用サイズであっても、スタインウェイはしっかりスタインウェイで、とくにニューヨークの個性満載な音でした。
いつ頃の楽器かは知らないけれど、枯れた感じの音色がプログラム中にあったモーツァルトの時代のピアノのように鳴り響き、あまりにもぴったりで唖然としたほど。
モーツァルトのヴァイオリンソナタは、本来ピアノが主役の作品と言われますが、このお二人が演奏されたKV454では、まさに二重奏という感じで、両者ともモダン楽器をモダン奏法で弾いているのに、まるで18世紀の風が吹いてくるようでした。

江口さんは共演ピアニストとしての定評では随一の方ですが、いつ聴いても安定と信頼感にあふれ、その逞しいサポート力は聴くたびにさすがと思わせられる方です。
上手い人の手にかかると、曲のほうが自然にこちらへ寄ってきてくれる感じがします。
聴こうと努力しなくても、すいすい入ってくる演奏って心地いいですね。

そういう意味では非常にこのふたつ、対照的な演奏だと思いました。
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東京ピアノ巡り-おまけ

【銀座山野楽器】
最終日、飛行機が最終便で少し時間があったので、急に思い立って寄ってみることに。

ベヒシュタインConcert 8、スタインウェイV-125、ベーゼンドルファー120、ヤマハSU7をほんの少し触りました。
アップライトの横綱揃い踏みのようで、むろん素晴らしく、音も弾き心地もいかにもという感じに整っているところは、いずれも日本式にお行儀よくさせられて店頭に並んでいる感じ。
輸入物は500万円前後、SU7はヤマハアップライトの最高峰で240万円。

ベヒシュタインとベーゼンドルファーは本来もっとそれぞれの個性や持ち味があっていいような気もしましたが、ここでは端正に整っていることのほうが求められるのか、腕利きシェフの料理というよりは、リッチだけどクセのない一流ホテルのディナーみたいで、それが日本人的な高級品の見せ方なのかと思います。

そんな環境でも個性を隠せないのがスタインウェイとヤマハでした。
スタインウェイはあのブリリアントに通る中音から次高音、美しく引き締った官能的な低音など、ヨコのものがタテになっただけで紛れもないスタインウェイであることに感心させられました。
ヤマハも、さすがにこのへんになるとひじょうに美しく、ヤマハ最高ランクの材料を使い、注意を払いながら作られたヤマハの逸品というのは触れるなりわかりましたが、表情にはやや乏しいことと、低音の巻線部分になるとヤマハらしいビーンという、多くの日本人には耳慣れたあの音がするあたり、やっぱりヤマハにはヤマハの遺伝子があることを痛感しました。

どのピアノにも「ご試弾の際は…」の札が鍵盤上に置かれているので、お店の方に申し出るとすぐに応じていただきましたが、その札を外しながら「いちおう商品ですので、あまり長時間のご試弾はご遠慮いただきたい…」というようなことを言われました。

もとよりそんな気はないし当然の申し渡しとは思いましたが、考えてみれば試弾をいいことに、お店の商品を延々と弾きまくる輩もいるのだろうし、実際そんな被害にも店は遭ってきたのだろうと察せられました。


話は変わり、マロニエ君はかなりの車依存人間なので、東京滞在中もレンタカーを利用しました。
人によっては「エー、東京で車なんて却って不便、こわい、道がわからない、電車のほうが便利、なんでわざわざ!」といったようなことを言われますが、幸い道はだいたい頭に入っているし、駐車場探しなどは多少あるけれど、それでも実際には言われるほど大変でもムダでもなく、なにより車があるのは圧倒的に「楽」です。

昔に比べると東京は車の密度がずいぶん減ったのか、ほとんど渋滞のようなこともなく、昼夜とわずどこにでもスイスイ行けるのでむしろ自由度が広がり、しかも車に乗っている間はシートに座っているから休憩にもなるし、外部と遮断されたプライベート空間でもあり、マロニエ君にとっては快適でしかありません。
これが移動のたびに駅まで歩き、人の波に揉まれて、階段やエスカレーターを上ったり下ったりするのかと思うと、個人的にはとても自信がありません。

とくに夜、気ままに出かけたりドライブもできるのは車があったればこそで、個人的には圧倒的に時間を満喫できます。

夜、日用品を買うのに、豊洲にある大きなホームセンターに行ったり、遠巻きにしか見たことのなかった東京スカイツリーがどれほど高いのか見に行ったり。
こういう気ままな動き方は、電車や地下鉄ではなかなかできません。
その、東京スカイツリーですが、たしかに立派なタワーであることに異存はないけれど、夜の照明で飾られた様子などは上海などを連想してしまい、個人的には東京タワーのほうがずっと好きだなぁと思いました。
エッフェル塔には及ばないけれど、今にして眺めてみればよほど趣があり、昭和生まれにはしっくり来ますね。

以前は週に二〜三回は通っていた目黒通りや環八などは、ずいぶんと景観や雰囲気が変わり、交通量も減ってへえと思ったし、クラビアハウスに行くのに通った第三京浜にいたっては、鄙びた地方の高速道路かと思うほど交通量はガラガラで、これにはかなりびっくり。
以前の東京は、車といえば常に渋滞との戦いで、少しでも進めるルートを考えることに頭をフル回転させながらの運転でしたが、今やどの道もあっけないほど走りやすくなり、ちょっと肩透かしを喰らったようでした。

車を返却した最終日のみ、やむを得ず電車での移動を余儀なくされましたが、マロニエ君にとっては慣れないこともあってやはり大変です。
どこどこへ行くには何線に乗って、どの駅で乗り換えるかなどと考えて、実際、歩き量も疲れ量も倍増。
今はカーナビもあるし、車のほうがはるかに安楽と思いますが、なかなかこの点は賛同者がきわめて少ないのが不思議です。
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東京ピアノ巡り-2

【クラビアハウス】
親しくさせてもらっているピアノ店で、ちょうど見せたいピアノもあるから「ぜひ来てください!」と言っていただき、おじゃますることに。
1902年製というイバッハのアップライトがあり、手の込んだ装飾やデザインなど、威厳ある重厚な佇まいは現代の量産アップライトが組み立て家具のように思えてしまうほどで、昔はアップライトでもここまで手の込んだものを作っていたことに驚きつつ、その背後にある文化にも圧倒されます。
中までしっかりと手が入っており、とくにオーバーダンパーとかいう古い機構などは現代の方式に改められている由で、思いのままのタッチでとても弾きやすいことが印象的。
音はまさにヴィンテージで、枯れた音で芯があるのにふわんと鳴るのが心地よく、ずっと弾いていたいようなピアノでした。

他には明るいマホガニー艶出しのスタインウェイA型(内外ともに新品のように修復されているけれど、実は戦前のモデル)、美しいプレイエルやブロードウッドのグランド、さらには以前あった6本足のベヒシュタインの外装ができ上がっており、その素晴らしさたるや息が止まるほど。
ダークブラウンのボディには、繊細を極めた木工による象嵌細工が惜しげもなく施されていて、あまりの見事さ、装飾模様の上品さなど、もはや美術品といっていいほどで、ただただため息の連続でした。
フレームは外されていて弾ける状態ではなかったけれど、本当に美しいものというのは目にするだけで人を幸福で豊かな気持ちにするもので、やっぱり昔のヨーロッパの文化はとてつもないことを痛感。

届いたばかりという19世紀の終わりごろのスタインウェイBは、内部は凄まじい汚れで、タッチもバラバラ、音もめちゃめちゃでしたが、わき上がるような不思議な生命感があり、とても大きくて深いものをもったピアノでした。
ご主人によると、響板が例外的に素晴らしいものだったから仕入れられたそうで、これを一年ほどかけて仕上げていかれるとのこと。
ほかにもフレームを下ろした同時代のO型?、3年越しの修理が出来きたというベヒシュタインのグランドなど、ヴィンテージピアノは一台一台があまりに見るべき点が多く時間が足りないようでした。

日本に輸入ピアノを扱う店は数あれど、これほど徹底した修理や調整がなされた上で、しかも耳を疑うような良心的な価格で販売するヴィンテージの専門店が日本にあることは、なんと貴重なことかと思います。
『パリ左岸のピアノ工房』という本があったけれど、ふとそんなヨーロッパの良心的なピアノ店が、ひょっこり横浜に舞い降りたという感じです。

【ピアノパッサージュ】
ベヒシュタインの新旧いろいろを中心に、グロトリアンの新品アップライトやヴィンテージの200cmぐらいのグランド、ほかにはスタインウェイが数台、戦前のプレイエルのグランドとアップライト、何台かのペトロフなど。

ベヒシュタインのアップライトの中には小型でもかなり素晴らしいものがあって驚かされますが、なにぶんにもシリーズが煩雑で、どれがどういう位置づけなのか把握するだけでも大変で、さらにシリーズ名も変わったりと、混迷を深めるばかり。
以前は、上級シリーズとレギュラーシリーズでは、鍵盤上の表記が「C.BECHSTEIN」と「BECHSTEIN」というところで区別できていたけれど、現在はレギュラーシリーズも「C」が付くようになってしまい、いよいよわけがわかりません。
もしや意図的に分かりづらくしているのでは?と勘ぐりたくなるほどで、せっかくピアノは素晴らしいのに、シリーズ構成という点ではどことなくトリックのような印象をもってしまうところは、一流メーカーのモデル展開としては疑問を感じるところ。
(むろんこれはメーカー側の問題であって、お店とは関わりないことですが)

とはいえ、ヨーロッパ製の小型アップライトをあれこれと触れさせてもらいました。
それなりものから舌を巻くような極上品まで幅広く、これは実に面白い世界だと思われて、ある意味ではグランドよりマニアックな世界かもしれません。
とりわけ現代のベヒシュタインは、お叱りを承知で言わせてもらうと、魅力的なアップライトの製造に支えられて一流ブランドの名を保っているようにも思われます。
他の追従を許さぬ上質なアップライトを作るいっぽう、グランドではもう一皮むけてほしいもどかしさが残るのは、以前から感じていたことでしたが、今回も同様の印象で、そのあたりは風変わりなメーカーだと思います。

クラビアハウスでも同様でしたが、いまや何人もの女性の技術者が第一線で活躍されていることには、あらためて感銘と頼もしさを覚えました。
昔は技術や職人といえば男性の世界というような固定化されたイメージがあったけれど、それは愚かしい間違いであったことが見事に証明されており、みなさん知識も経験もひじょうに豊富で、さらにはピアノの技術者としての矜持も高く、大したものだと思いました。

なんでも話はサクサクと通じるし、自己顕示欲が強くて自説にこだわる面倒臭い男性より、遥かにサッパリしていてストレート、しかも気概は充分以上なものがあってお見事。
優秀な女性技術者の台頭によって日本のピアノ技術者のレベルはより向上する気がしました。
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東京ピアノ巡り-1

4月中旬、所用で東京に数日間滞在しましたが、折悪しく平日で、とりわけ多くのピアノ店で火/水定休日のところが多いのは残念でした。
そんな中から、こちらの都合と時間を合わせながら、なんとかやりくりしてピアノ店を訪ねました。

以下、そのレポートを思いつくまま書いてみます。

【ファツィオリ】
飛び込みで行ったので、ダメモト覚悟でしたが、正午少し前にドアを開けたら真っ暗。
ほぼ留守だろうと思いながら声をかけると、ようやく奥から人の気配がして、暗闇の中から日本語の達者な若い外国人が出てきて、それ以降はきわめて親切に対応していただきました。

ピアノはF212/F228/F278/F308の4種を試しましたが、いずれも素晴らしい弾き心地で、むろんピアノそのものもいいけれど、精妙を極めたすばらしい調整にも驚きました。
F183は一台は売約済み、もう一台は届いたばかりの未調整で、いずれも弾けませんでした。
ちなみに、最小サイズのF156は受注生産で、価格はF183と同額とのこと。

F212/F228はそれぞれすばらしいものであったし、F278/F308の違いは、CDで感じていたこととあまりにも同じで、一般にCDはアテにならないと主張する人は多いけれど、個人的にはかなり信頼に足ることを実感。

あらためて言うまでもなく、あくまで個人的な印象ですが、F308はラインナップ頂上に君臨する、いわば鳳凰のような存在だろうという気がしました。
ご案内いただいた方は、流暢な日本語で、F308がいかに深い潜在力を秘めたピアノであるかをしきりに述べておられたけれど、私には、弾いてみた印象では真の主力はF278だと思いました。

とはいえどのモデルも、とても美しい上質感のある音で、ブリリアントかつまろやかで、クセがなく、弾いていて非常に心地よいことには感銘を受けました。
設計を間違えず、最良の材料と手間ひまを惜しまず作ったら、ピアノはこうなるだろうという正しい公式と答えを見せられる感じでした。

ただ、最終的に着地点が見いだせないのは、なんだろうかと考えました。
ひとつ思ったことは、ファツィオリは自己主張をせず、もしや個性がないことを狙っているのか…ということ。
楽器は演奏のための道具なんだから、だったらそれが理想じゃないかという向きには理想的とも思いますが、個人的にはいつも画竜点睛を欠く感じがつきまとうのも、やはりそのあたりなんだろうと思われます。

楽器は楽器に徹するか、そこに多少の個性が必要か、これはそう簡単に答の出る問題ではないでしょう。
あくまで想像ですが、ファツィオリが目指しているのはファツィオリの音ではなく、もっとシンプルで純粋な「美しいピアノの音」という理想なのかもしれません。
それはそれでアリかもしれず、ある程度それは実現されていて、ファツィオリに比べればヤマハでもヤマハの音がするわけで、ここまで個性を消すことは、もしかしたらものすごいことなのかもしれません。

ちなみにマロニエ君は、個人的には楽器に個性はやはり欲しいし、必要だと考えるほうのタイプで、どこかにわずかな不均衡や野趣を含むものが好みで、あまりに純粋一途なものは苦手かもしれません。

ファツィオリを最も活かすことのできるピアニストはだれかと思ったら、ただひとり思い浮かんだのがミケランジェリでした。
あの、最上のビロードのようなタッチと何層にも弾き分けられる多彩な音色で、病的なまでにこだわり抜いた音の絵画を描いていく手段として、ファツィオリは最高の絵筆になったかもしれない気がしました。

そう考えてみると、ミケランジェリはスタインウェイをかなりファツィオリっぽい、まろやかで濃密な、それでいて楽器が前に出ることのない厳しく制御のかかった独特な音にしていたように思われます。
それなのに…この稀代の天才とファツィオリは、わずかな時代のずれで、ついにすれ違ってしまったことが非常に残念に思われます。

ショールームのピアノに話を戻すと、その素晴らしさを支える要素として忘れてならないのは、精密を極めた調整がもたらすコンディションがファツィオリの素晴らしさの一部になっていることでした。
ずいぶん前、とある楽器店でちょっと触れたF183は、新品であるにもかかわらず、音といいタッチといい、とても価格に見合ったものとは思えないものでしたが、今回のファツィオリはまるきり別物でした。

音のなめらかなバランス、音色の揃い方、繊細でスムーズな思いのままのタッチなど、ふいに訪れたにもかかわらずこれほど常時見事に調整されているのは驚くほかありません。

もともとの美人が、さらにプロのメイクやライティングで輝いている状態なのでしょうけど、もし購入するとなれば、化粧崩れも出るだろうし実生活ではスッピンにもなる。
そのときにどういうピアノになるのか…却って不安になるような調整でした。
ま、買えるはずもないので、そんな心配をする必要もないですが。
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ダルベルトとトラーゼ

BSのクラシック倶楽部アラカルトは、おそらくは個々の演奏家のプログラムから、55分の番組で入りきれなかった演奏を2人づつまとめて放送されるもののようです。
そんな中から、印象に残ったものを。

【ミシェル・ダルベルト】
昨年11月の浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルから、ショパンの幻想曲、ドビュッシーの映像第1集。
いきなりですが、マロニエ君は昔から趣味じゃない人。
この人のピアノはCDを聴いても実演に接しても同じで、その甘いマスクとは裏腹に演奏はどちらかというと無骨、ニュアンスとかデリカシーというものがあまり感じられません。
近年の若い人のように、そつなくきれいに弾くだけの無個性無感動な演奏もどうかとは思うけれど、その点でいうとダルベルトは明らかに昔の世代の自分流を押し通すピアニストでしょう。

フランスのピアニストにときおり見かけられるタイプで、迎合的ではないところはいいけれど、細部にまで神経の行き届いた演奏ではなく、何を聴いても同じ調子で、気持ちが乗れないまま終わってしまいます。
もし違っていたら失礼だけれど、ただ弾きたいものを自分のスタイルで押し通してタイプでしょうけど、そのスタイルがよくわからずこの人なりの聴き所がどこなのかはいまだに掴めません。

ピアノはドビュッシーを意識して準備されたのか、珍しくベヒシュタインでした。
D-280かD-282かはわからないけれど、おそらく新しいものを使う日本のことだから282なのだろうと推測。

D-282というのはマロニエ君の理解の及ばぬピアノで、ベヒシュタインらしい特徴を残しつつ、現代のステージでも通用するコンサートピアノとしてのパワーその他を盛り込んでいるものと想像されますが、どうにもよくわかりません。

ベヒシュタインのカタログを見ていると、ひとつひとつの音の透明感や分離の良さ、和音になったときのハーモニーの美しさなどが特徴だということが随所に謳われているけれど、ショパンの幻想曲のような作品で音数が多く激しい曲調の部分にさしかかると、むしろ音が暴れ出し、あげくに混濁してしまうよう聞こえてしまい、ますます首をひねってしまう始末。

その点では、映像の第一曲のような緩やかな曲では発音のインパクトによる独特な効果があるし、この日は弾かれなかったけれど、たとえばベートーヴェンなどがベヒシュタインに似合うのは、むしろその特性ゆえだろうと思います。
ベートーヴェンは美しく澄んだトーンの音楽ではなく、苦悩や混沌の中から精神の高みへと到達するようなところに聞き所があるようなものだから、楽器も清濁併せ持ったものあるほうがふさわしい。
なので、はじめからスマートに整った響きのスタインウェイなどで弾かれても、もうひとつベートーヴェンらしく聞こえない場合がありますが、ベヒシュタインならばその野性味を駆使して自然に表現できるような気がします。

【アレクサンドル・トラーゼ】
プロコフィエフのソナタ第7番。
これまでに聴いたこともないような、瓦礫がそこらに荒々しくころがっているような、作品が産み落とされた時代の空気がそのままに伝わってくるような演奏でした。
とくに「戦争ソナタ」という名にふさわしく、グロテスクで、生臭く、容赦ない炸裂が何度でも繰り返され、これは本来こういう曲だったのか!と思わせられる瞬間がなんども到来するあたり、思わず聴き入ってしまいました。
以前のこの人のコンサートの様子には???と思うところもあったけれど、ツボにハマればすごい人なのだということも納得。

現代のピアニストの誰もが、この曲をロシアの技巧的なピアノ作品として、ピアニズム主導でスタイリッシュにまとめ上げて弾いてしまうことに対する、一種の警鐘ともとれるようなごつごつしたプロコフィエフで、久々に面白いものが聴けた気がします。
もしかするとまとめるどころか、散乱していなくてはいけない音楽なのかもしれないと思いました。

トラーゼは恰幅もよく、打鍵する力が強いのか、ピアノを鳴らす力も平均的なピアニストより一枚上をいっており、とくに強打ではなくても、すべての一音一音が太くて芯があり、今どきはそれひとつでも印象的。

むろん、大きな音を出せるから良いなどと言うつもりは毛頭ないけれど、現代の多くの若手ピアニストがガラス瓶で育った植物みたいな細い音しか出さなくなったし、昔の人のように全身全霊をこめて楽器に思いのたけをぶつけるというような迫力がありません。
どちらが本来のピアノ演奏として正しいことかどうかはさておいて、聴く側は、節度ある知的で美しい演奏も魅力だけど、時には駆け上るような燃焼感であるとか渾身のパフォーマンスというのは期待するのであって、これは理屈じゃなく本能の問題では。

多くの若手は、ミスをせず、無理をせず、推奨テキストと解釈にしたがって、よく動く指を武器に、ただきれいで正確なだけの演奏を目指すようになってしまい、即興性や冒険心を失っていることには危機感を覚えます。

他の音楽ジャンルではエネルギッシュな興奮に酔いしれることを良しとするいっぽうで、クラシックの演奏だけが精度や解釈ばかりにこだわって、あげく小さな細工物のようになってしまうことに、さすがにもう飽き飽きしてきました。
今どきは何かあると「命の大切さ」ということが叫ばれますが、音楽にも命の大切さは大事であるし、それが我々が音楽を楽しむ際の一丁目一番地ではないかと思うんですけどね。

トラーゼの演奏は、ただ単に面白いだけでなく、時流に対する反抗の精神も秘められているようでした。
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ハイルーセン

浸透潤滑剤というのがあるのをご存知でしょうか?

動かないネジを緩めたり、いろいろな機械の可動部分の動きをズムーズにするシリコンなどの潤滑剤で、スプレー缶で細長いノズルが付いており、説明を見ても「締りや滑りの悪い敷居やサッシ」「カーテンレールの滑り」「タンスの引き出し」「PCマウスの動きがスムーズに」「ハサミの切れ味がよみがえる」などなんでも使えます。

車の世界ではよくあるもので、その最も代表的なのが「呉工業 CRC-556」などで、これはべつに車専用というわけではなく、なにかと使われている方は多いと思います。

「動きの渋くなった扉や戸棚の蝶番」「ギシギシ音の解消」にもよく使われるし、ピアノの調律師さんも道具箱の中にこれが入っているのは何度も見たことがあります。

以前書いた、日本製のコンサートベンチ(ピアノの椅子)のギシギシ音ですが、調整してくださった技術者さんも当然このCRC-556は使われたようですが、これの欠点は、その効果が短命で持続力に欠けるという点にあります。

使う対象にもよりますが、だいたい一週間から10日、ひどい場合は2〜3日で効果がなくなります。

ところが、世の中にはすごいものがあるんですね。
知人の話で、どうやっても消せなかった車の足回りから聞こえてくるキシミ音が、ディーラに出したらものの見事に治った上に再発もしないため、一体どういう修理をしたのかディーラーに聞いそうです。
ところが、はじめはなかなか教えてもらえず、問い詰めてしぶしぶ言ったのがトヨタのハイルーセンEVOという浸透防錆潤滑剤を塗布したということ。

そのディーラーがトヨタではないこともあり、それを使っていたこともなかなか言えなかった理由のようでした。
トヨタの部品販売店に行けば取り寄せてくれますし、アマゾンでも買えるものです。

車のサスペンションのゴムブッシュの境目や取付部などに塗っておくと動きが軽くなめらかになって、乗り心地が良くなるというので、講習をかねてそれをプシュプシュやっては走ってみるというような実験をしましたが、たしかにサスの当たり(とくに初動)が滑らかになり、車全体がスムーズになったかのようでした。

さっそくマロニエ君も購入したのは言うまでもありません。
価格は1缶2000円しないぐらいで、成分は「鉱物油、石油系溶剤、防錆剤」とあるだけですが、無色透明のサラサラした液体です。

はじめは車に使っていましたが、キッチンの食器収納の扉の動きが年々渋くなり、しまいには開閉にともない金切り声のようなとてつもない音を立てるので、「そうだ!」とこのハイルーセンを思い出し、その収納棚の扉を支える3つの蝶番にプシュプシュとやってみました。
結果は、その強烈な音がウソのように消えただけでなく、動きが超スムーズになりすぎて、いつもの力加減だとその扉に埋め込まれたガラスが割れるのではないかというほどの勢いでスパーン!と閉まりました。

それからというもの、家の中にも置くようになり、なにかというとこれを用いました。
それなのに、最も大事な使い道を思いつかなかったのですから、マロニエ君も相当抜けています。

以前、むかし買ったコンサートベンチが何度調整してもらってもギシギシ音が出ると書いたことがありますが、それはあいかわらずで、実をいうともうずいぶん長いことそうなので、半ば慣れてしまっていたのです。

でも、ついにピアニッシモの部分で、ギギッ!となったとき、「あっ、このコンサートベンチにハイルーセンを使ったら!?」ということが頭に降りてきました。
思い立ったら矢も盾もたまらず、大急ぎでそれを持ってきて、よいしょと重いベンチをひっくり返しました。

立派な表に対して、裏は意外に雑な作りで、木枠の中に鉄の骨が2組のX状に組み合わされて、それが伸縮して上下調整をしているようでしたので、その可動部分や木と鉄の接合部のボルトなど、思いつく限り注意深く噴きつけました。
そしてそのまま一晩放置。

翌日、ちょっとした胸の高鳴りを覚えながら裏返ったベンチをもとに戻し、座ってみる、果たしてギシギシ音はものの見事に消えていて、どんなに体重を左右にずらしても、まったく音がしません。
それからひと月以上が経過しましたが、その状態にまったく変化なしです。

自動車雑誌によると、トヨタは下請けメーカーに要求するクオリティも、その他のメーカーとはまるで違うとのことですが、このハイルーセンを使っただけでもそのスゴ味みたいなものを実感せずにはいられませんでした。
これはきっとピアノの内部にも役立つすぐれものだと思いますが、悲しいかなマロニエ君のようなシロウトでは試すことはできません。
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反田さん牛田さん

つい先日、反田さんのショパンについて書きましたが、少し補足。

久しぶりにタワーレコードに立ち寄ったところ、お得意のラフマニノフの新譜が出ており、試聴コーナーにセットされていたので、これこそ本領発揮だろうと思って聴いてみることに。

曲はピアノ協奏曲第3番(ロシア・ナショナルフィル、指揮アレクサンドル・スラドコフスキー)、ソナタ第2番、op.23の前奏曲から2曲。
協奏曲は昨年10月のモスクワ、ソロは同11月に福島音楽堂での録音。

まず驚いたのは、ゆったりしたテンポ感でした。
気になったのは、実際のテンポそのものより、ビート感というか流れの推進力がなく、その場その場を確かなものとするような方向性なのか、どこを切り取ってもきっちり刻印されたように弾いている感じ。
たしかな技巧に恵まれ、せっかくこの3番という壮大な協奏曲を弾いているのに、これまでの反田さんのイメージからすれば、期待するものとはちょっと違うものを見せられているようでした。

もちろん全曲を聴いたわけではないし、店頭のあまり音のいいとはいえないヘッドフォンを通じて聴いただけなので、それで断定的なことは言えないけれども、それでもそこで感じたことというのはあるわけです。

あとに残ったことは、過日のショパンのときと同様、この人はいま何を目指しているのか…ということ。
ショパンコンクールを狙っているのでは?と前に書いたけれど、リストやラフマニノフを得意とし、ショパンも手中に収め、コンクール歴もこの際追加できるものは追加して、ピアニストとしての王道を目指しているんでしょうか。
個人的には、この人はこの人なりの個性や強みを活かして、いい意味での異端であってほしいのですが、もしかすると今の時代はそれを許さず、ディテールを整え、露出を増やし、キャリアや権威を身にまとい、なんとしてでも大物に仕立てあげなくてはいけないのかなぁ…と思います。

浅黒い肌に総髪、鼻の下とアゴにヒゲを生やして、まるで秘術でも使う忍者か、どこかのバーテンダーかマジシャンか、はたまた平氏の落武者のようでもあり、すくなくともピアニストっぽくない風貌も見る人のインパクト感に加勢しているのかも。
くわえてぶっきらぼうな態度がいかにも今どきの男子風で、どこかひ弱で線が細くて、なめらかなトークのできる音大生あたりにはない、野趣がある点も魅力なのかも。
その演奏の特徴はアーティスティックな感性主導かと思いきや、意外なほどエゴはなく、もっぱら健康でシャープで法令遵守タイプなので、サラッと時代の基準に合わせてやっていける人なのかもしれません。


同じ頃、民放BSでは牛田智大さんと小林研一郎さん指揮の読売日本交響楽団による、チャイコフスキーの第1番というのがありました。

この方も現代の若手ピアニスト特有の要素を備えていて、しっかりしたメカニックを備え、この難曲を滞りなく弾けますよということを聴衆と視聴者に、予定通りに示したような演奏でした。
くわえて、きれいな王子様風の雰囲気、甘いマスクと絶やさぬスマイルは反田さんとは正反対。

子供の頃から注目され、浜松コンクールで第2位になるほどだから、もちろん上手いし危なげなく弾けてはいるけれど、プロの演奏会というよりは、どこかコンクール風の雰囲気が拭えず、まだ演奏家としての確定された存在感が足りないのかとも思いました。

なにより感じるのは(牛田さんに限りませんが)、とかく今の若い人の演奏には、作品への敬愛の念とか、そこからインスパイアされた自己主張とか表現の試みというものがなく、むしろそこは排除するほうに育てられてきたという感じがすること。
演奏している当人が、その作品の中に没入して曲が鳴り響くというのではなく、山積みされた楽譜があり、音符や指示があり、それを覚え込んで徹底的に練習して今に至っているという現実が見えてしまいます。

自分がどう感じてどう解釈しているかという要素が見当たらないのは、それが競い合いでは却って裏目にも出る要素だから、消さなくてはいけないのかもしれません。
聴く側も、演奏という名目でのアスリートとしての能力だけを求めているように思えるふしがあり、そのほうがフィギュアスケートみたいでわかりやすいからでしょうか。
過当競争の世の中に生まれ、コンクールがあり、それに沿った指導環境の中で育ってくれば、勝ち抜くにはそうなるのは必然かもしれず、やむを得ぬこととは思いますけど…。

そもそも演奏の最も大事なことは、聴いている人に「また聴きたい」と思わせることだと思いますが、ひょっとすると音楽性だの個性だのを云々することが、すでに時代遅れなのかもしれません。
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歯みがき

早いもので4月となり、平成の御世もあとひと月ですね。

奥歯が少ししみるので、2年ぶりぐらいに歯医者さんに行きました。
ここは治療というか施術というか、ようするに仕事がとても丁寧で、これまでに被せ物などをしても、一度も違和感などを感じたことがなく、治療のための治療は一切せず、人にも自信をもっておすすめできる歯医者さん。

毎度のことながら、歯磨きの大切さを教わり、さらに磨き方をいまさらのようにこまかく教えていただき、決意を新たにしているところですので、少しご紹介を。

まず驚くのは、ブラッシングに際しては、歯磨き粉には一切頼るなという考え方。
以前もこの先生は「私達は、歯磨き粉のチューブ1本使うのに半年ぐらいかかりますよ」といわれたので、またまた大げさな!と思って聞き流していましたが、どうやら本当のようでした。

スーパーや薬局に行くと、いろいろな歯磨き粉がズラリと並んでいて、中にはずいぶん高価で医薬品のような効能を謳っているものなどありますが、何度か使ったこともあるものの効果がよくわからず、いらい、また元に戻って、マロニエ君が使っているのは、だいたい500円前後のもの。

ところがこの歯医者さんがいわれるには、歯磨き粉そのものでどうこうということは、ほとんどないと考えてよろしいとのこと。
むしろ歯磨きで重要なのは、使うブラシと丁寧な磨き方がほとんど全てで、歯磨き粉はただの快感と自己満足のためであり、使わないなら使わないでも一向に構わないとのこと。
つまり、一般で言うところの「石鹸なし/水洗い」でよいというわけです。

大事なことは、先の細いブラシを使って、力を入れずやさしく一本ずつぐらいの気持ちで丁寧にブラッシングすることだそうです。
さらに歯間ブラシを使って歯と歯の間に異物を残さないこと。

難しいのは、「力を入れない」ことで、歯磨きは昔の雑な習慣で、ついゴシゴシやりたくなってしまいますが、それは歯茎を痛めるだけで何一つメリットはなく厳に慎むべしとのこと。
力をかけすぎると、歯茎が傷ついたり下がったりで、知覚過敏や歯槽膿漏の原因になるなどいいことはひとつもなく、そもそも力で歯や口の中をきれいにしようというのがまったくの間違いですね。

試しに先生が歯ブラシを手の甲に当てて「これぐらいの力加減」というのをやられましたが、本当にふわふわっと毛先が優しく当たる程度。

だいたい「歯磨き」という言葉がいけないのではないかと思います。
歯磨きというと、文字通り歯の表面を磨いてピカピカにするイメージですが、肝心なことは歯と歯の間、あるいは歯と歯茎の境目に付着した汚れや異物をていねいに取り除くことであって、これは精密なお掃除だと思います。
しかも、歯は硬いけれど、歯茎はとても傷つきやすい皮膚だということを忘れがちで、結果、歯茎をかなりいたぶっているんですね。

「歯磨き粉はなくてもいいもの」という認識があまり広まると、そちらのビジネスにも支障があるからかほとんど浸透していないのかもしれませんが、なるほど歯磨き粉は大した役割を果たしているわけではないことが実感できてきました。

というわけで、歯磨き粉なしで何度かやってみましたが、…気分的にこれはさすがにダメでした。
いっさい泡がないという感触は、まるで張り合いがないというか、気持ちよさがまったくないというか、ここはやはり先生の言われるように自己満足のために、これまでよりぐっと少量でいいからつけてみると、それでちょうどいいことがわかりました。

歯ブラシを手にするや、ついできるだけ短時間で、一気呵成にガーッと歯磨きをしたい人は昔は多かったと思いますが、いったんそれを捨て去って、たとえば…ピアノできれいな弱音を出すような気持ちでやってみると、ああそういうことか!と思えるようになるもんですね。

はじめの何度かは違和感が先に立ちますが、すぐに慣れてきて、正しい歯磨きが楽しくなりますよ。
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中古CD Vol.3

中古CD、第3弾です。
CDと言っても、新品と中古ではこちらのスタンスもチョイスの基準も違いますが、だからこそ訪れる思いがけなさというか、要は冒険できる点が最大の魅力です。
わずかに以前よりも失敗が少なくなってきたような気もしますが、一番大事なことは勘ですね。

❍【キュイ 25の前奏曲】
ロシア5人組のひとり、チェーザレ・キュイによるピアノのための25の前奏曲。バッハやショパンとは違った順序で全調性をまわり最後に再びハ長調に戻るということで25となる作品。演奏はジェフリー・ビーゲルというアメリカ人のピアニストで、録音もアメリカ・インディアナ州で行われているが、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアル。キュイは本業は軍人で、その余技として作曲をしていたらしいが、その作品はとても余技といえるようなものではない本格派で、しっかりと聴き応えのある悲壮的で重厚な曲調が並ぶ。しかしロシア5人組と他の4人と違うのは、民族臭がなくむしろ西ヨーロッパ的な雰囲気を持つもの。いかにも意味ありげな調子だが、何度も聞いているとそれほどのものにも思えないが、ロマン派の隠れた作曲家という点では十分に通用すると思う。

△【アンドレ・プレヴィン フランス室内楽】プーランクのピアノと管楽器のための六重奏曲、ミヨーの演奏会用組曲「世界の創造」(室内楽版)、サン=サーンスの七重奏曲という字面で見るとやけに本格的でものものしい印象だが、聴いてみると音楽の中に惹きこまれるような作品というよりも、音楽による遊びといった印象。作曲者も三者三様かとおもいきや、どれを聴いても大差無いように聞こえてしまうし、まるで昔のドタバタアニメの効果音楽みたいで、フランス音楽の中にはこういう流派もあるなあということを思い出す。楽しさはあるからたまに聴くのはいいけれども、あくまで気が向いた気だけ楽しむものという一枚。ジャケットデザインは黒バックに青とグレーと赤の太い線だけで顔が描かれたシャレたもので、ほとんどこれで買ったようなもの。

❍【蟹 タブラトゥーラ】リュート奏者のつのだたかし氏を中心とする中世古楽器のグループで、前回、波多野睦美さんの歌に感銘し、その流れで購入したもの。楽器はリュートはじめ、フィドル、リコーダー、パーカッションなど多数で、なんとも不思議な音楽にはじめは大いに戸惑う。古楽器といってもここまでくるとかえって新しくもあり、東洋的なのか西洋的なのかさえわからない。ライナーノートによると結成は1984年とあるので、30年以上の活動実績があるということか。全15曲、そのうち古いものは13世紀のフランスのものなど6曲で、それ以外はメンバーによるオリジナルらしい。耳慣れた主題や動機が幾重にも展開し様々に遍歴し再現して解決するという、いわば音の起承転結ではなく、どちらかというとテンポや旋律の繰り返しが主体の、音楽の原型とはこのようなものだったのかと想わせるもの。こういう音楽に触れられたという点で❍。タイトルの通り蟹の絵をあしらったジャケットがハッとするようなセンスにあふれていて、これを目にするだけでも価値がある。

❍【ヘンゼルト・ピアノ作品集】セルジオ・ガッロによる演奏。ヘンゼルとは19世紀に活躍したドイツロマン派の音楽家で、この時代によくある作曲家兼ピアニスト。リスト、ショパン、シューマン、フンメル、タールベルクらとほぼ同年代の人物だが、その名前も作品ではほとんど耳にすることのないため、珍しいCDとして購入。いずれも耳に馴染みやすい、甘く叙情的なサロン音楽という感じで、ところどころにリストやシューマンを想わせる瞬間があるし、全体としてはこの時代特有の空気を感じる。上記のキュイに比べると、ずいぶん軽い感じがあり、それがロシアとヨーロッパの差のようにも思える。どこか女性作曲家の作品のようにも感じるけれど、ライナーノートにあった写真は、鋭い眼光にチャイコフスキーのような髭の老紳士で、その作品と風貌はギャップを感じることに。ピアノはおそらくスタインウェイだと思うが、温かみのあるふくよかな音が印象的。

△【シャルヴェンカ ピアノ作品集1】19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、ポーランド系ドイツ人の作曲家兼ピアニストの作品。ポーランド系というだけあって、ショパンからの影響を随所に感じるし、ピアノ・ソナタ、即興曲、5つのポーランド舞曲、ポロネーズと曲のスタイルもショパン風。ただし、ポーランドの香りやリズムがそうであっても、ショパンの洗練を極めた美の極致とか触れると壊れるような詩情はなく、才能はあってもあくまで平凡な発想の作品。演奏はセタ・タニエル。このシリーズは確認が取れただけでも第4集まで出ているようだけれど、それを買い揃えたいかといえば…ま、これだけでいいかなという感じ。上記のヘンゼルトと同様、このような普段耳にする機会のない作品に音として触れられることも、中古CDの魅力で、これらを新品で買うことはなかなか難しいだろう。

☓【アマウラ・ビエイラ名演集】セール対商品の中からなんとも変わった雰囲気のCDを発見。ブラジルの作曲家兼ピアニストらしいが知らなかった人なので、ネット検索すると度々来日して280回を超えるコンサートをしているという。くるみ割り人形の編曲から、ドビュッシー、ショパン、リスト、シューベルト、サン=サーンス他自作まで15曲に及ぶアルバム。演奏自体は常套的なもので、とくに変わったところはないけれど、はじめの音が鳴りだ瞬間、その音質に驚愕。まるで自宅でシロウトが録音したかのような、マイクが近くて残響ゼロの音。データをよく見るとサンパウロのスタジオで録音されたもののようだが、クラシックの録音経験の殆ど無い人達によって収録されたものとしか思えなかった。
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ちょい開け

過日、マロニエ君に日本調律師協会の過去のカレンダーを送ってくださった方のメールの中に「ヤマハで言うトップサポート」という言葉が出てきて、不勉強なマロニエ君はすぐになんのことかわからず、さっそく調べてみることに。

判明したことは、アップライトピアノの上部の板をほんの少し開けるための機構。
アップライトの場合、ボディの一番上の水平の板は前屋根と後屋根というものに前後で分割されているのがほぼ一般的で、前屋根は後ろへ向かって180°バタンと開くようになっており、開けた状態では前屋根と後屋根がちょうど重ね合わせるかたち。

マロニエ君はまさかここにカバーをかけるといったことはしていないものの、ついあれこれの楽譜を積み上げてしまって、前屋根をわざわざ開けて弾くことはまずありません。アップライトピアノでは上がちょうど便利な楽譜置場になっているというのは、わりによくある光景ですね。

さて、その「ヤマハで言うトップサポート」とは、ボディ内側に仕組まれた短い棒を立てることで、前屋根をほんのちょっとだけ開けるというもの。
この方のピアノにはそれがあって、そのわずかな開閉の違いがもたらす響きの違いを楽しんでおられるようでした。
シュベスターにないことはご存じで、まずは本を数冊挟むなどして試してみることを薦められたので、すぐに楽譜を床におろし、文庫本を3冊ほどを輪ゴムでまとめて前屋根が3〜5cmほど開くよう、そこに挟んでみました。

さっそく弾いてみると、こんな僅かな事にもかかわらず、思わず「エッ!」といいたくなるほど音の体感差がありました。
なんといってもまず格段にダイナミックでパワフルになり、発音の細かい点までバンバン聞こえてくることに驚かされます。

普通に前屋根を180°開けだだけでは、音は上に抜けていくのか、こんなことはないし、調律時には鍵盤蓋から上下のパネルまで全部外して作業されるので、その状態で音の確認をするときなども、ほとんど何も遮るものがない状態で弾くことはありますが、そのときも音が裸になった感じはあるものの、こんな独特な感覚を味わったことはありませんでした。

まるで、エアコンの吹き出し口の前に立っているように、音がこっちをめがけて一斉に流れだしてくるようで、全身で音を浴びているような感覚です。

音量じたいも上がるほか、低音などは厚みが増して、響板の振動そのものを感じるようで、ときにうるさいぐらいに感じることもありました。
タッチまでまるで反応が良くなったみたいで、こう書くと良い事ずくめのようですが、そうとばかりは言いません。

自分の弾き方のまずさやペダリングの問題点などもはっきり認識できるのは練習にはいいとしても、ちょっと困ったのは、音によって、音色や響き方などに違いやムラがあったり、個々の音に良くも悪くも特徴があることが明瞭となり、ある音は響板の深いところで鳴っているのに、ある音はずいぶん手前に聞こえたり、これまでは気にならなかったようなことなども次々に白日のもとにさらされることでしょうか。

暗がりで素敵な空間と思っていたところが、昼には見えなくていいものまで見えるようでもありますが、それでもやはりおもしろいものだと思います。

数日これで弾いてみて、再び元に戻してみると、とりあえずまとまりというか収まりは良くなるかわりに、なんとなく力ない響きのように感じてしまい、人間の慣れというものは困ったものです。

さらにその方のメールによると、この効果はピアノやメーカーによっても違いがあるのだそうで、ご実家の大手の量産ピアノでは少し改善するぐらいで、さほど音に包まれるような強烈な感じにはならないのだとか。

もしかすると、この前屋根の「チョイ開け」こそが、良いピアノかどうかの判断手段になるのかもしれません。
とくにピアノ選びの時には、チェック項目のひとつに加えてみるのも無駄ではないでしょうし、文庫本をちょっと挟むぐらいなら、お店もやらせてくれるでしょう。
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反田さんのショパン

BSのクラシック倶楽部で、反田恭平さんの最新ショパン演奏が放映されました。
プログラムはアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、マズルカop.56-3、ソナタ第3番。
今年1月の収録で、会場は立川市のチャボヒバホール、ピアノはファツィオリのF308。

現在、ポーランド国立ショパン音楽大学に在籍中だそうで、そこでショパンの研鑽に取り組んでおられるとのこと。

反田さんは、いま最も注目される前途有望な日本人ピアニストのひとりだろうとは思いますが、ことショパンに関しては、彼のピアニズムや持ち味からすると、さほど相性が良いわけではないというイメージがありました。
ショパンよりはリスト、ドビュッシーよりはラヴェル、ドイツものよりロシアものというタイプ。
にもかかわらず、わざわざショパンにフォーカスするのか…と思ったし、もしかすると敢えて苦手なものを克服するという挑戦者の気持ちなのか、はたまた次のショパンコンクールが射程にあるのか。

ご本人の弁によると「7、8歳のころからショパンを弾き始めて、いろいろな作品に出会ったが、どういうふうにショパンを弾くのが正しいのか、ちゃんと学びたくて」とのこと。

このコメント、ちょっとひっかかるのはショパンの弾き方に「正しい」ということがあるのか、マロニエ君にはすこし首を傾げたくなります。
たしかにショパンは、多くの人が弾きたがるわりに、演奏のあり方という点ではきわめて自由度の少ない作曲家であるし、あきらかに「間違った」演奏が氾濫している気がします。
かといって「これが正しい」ということを規定するのは甚だ難しいことで、誰それや権威によって「こうだ」と断じられるようなものではないのではないか…ということ。

更にいうと、ショパンの根っこはポーランドにあるとしても、その高貴とでもいいたい美の結晶のようなピアノの芸術は、もはや国境を遥かに超えた存在だし、父親はフランス系、また祖国を離れて生涯をフランスで過ごし没したことなどを考えると、事はそう単純ではない気がするのです。
とりわけ、それぞれの作品に散りばめられた洗練の極致は、とうていポーランドというヨーロッパの一国のみで育まれ、今もその芸術的主権を出身国だけが握っているとはマロニエ君には思えない。

ショパンらしい演奏とは、ショパンの美意識、センスや好み、様式感を敏感に汲み取り、それがさほどの苦労なく共感できる者だけが体現できることで、つまり本質的には独学に委ねられるべきで、あまり人から事細かに叩き込まれるようなものではないと思うのです。


さて、今どきの、そつなく弾きこなすだけでワクワク感のかけらもないピアニストが多い中、反田さんは久々にナマの肉体から出てくる手応えみたいなものがあって、筋肉質な演奏がその魅力ではないかと思います。
少なくとも彼がピアノの前に座るなら、聴いてみたいという気にさせるだけのものはある。

今回のショパンは、しかし、彼の自然さから何か大事なものが遠のいた感じ。
音楽表現上のコントロールなのか、個人的にはもっと大きな制御のかかった感じを覚えました。
ポーランドで学んだことをよく守り、注意深く弾いているのか、普遍的な意味でのショパンとしてのまとまりと見れば、よくなっているのかもしれないけれど、曲そのものが奏者の体を使って自由に羽ばたいていくような感覚とか、随所に仕込まれた詩的な要所が大きく意味をもって語ってくるような生々しさがなく、楽譜に書き込まれた多くの注意事項をよく守り、よくさらって弾いているという感じが前に出ているようでした。
細部にまで注意を張り巡らすことは大事だけれど、それで音楽の推進力が失われてしまっては、作品も演奏も縮こまってしまうだけで、大ポロネーズなど高揚感をもって弾き切って欲しいところを、なんども冷静に姿勢を撮り直すような感じがあるのは、正しいこととは思えませんでした。

またop.56-3のマズルカは一般的な人気曲ではないけれど、マズルカの中では最大級のもので、個人的にとても好きな作品のひとつですが、その悲しみや移ろいがこまやかに伝えられたとは言いがたく、聴く者の心を揺らす大事なところで、シャシャッと処理されていくあたりなどを目の当たりにすると、やはりショパンとはもともと相性が良くないのではないかと思いました。

とくに反田さんぐらいの方になると、大きくピアニズムというだけでなく、細かい単位での演奏フォームというものがあり、そのフォームがショパンに適合しているとは感じませんでした。

ファツィオリについても書きたかったけれど、だらだらと長くなってしまったので、またいずれ。
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ヤマハのすごさ

遠方に出掛けた折、ヤマハのグランドのうちCXシリーズをほぼ全機種展示しているお店があるというので、ついでといってはなんですが、ちょっと覗かせてもらいました。

ヤマハにはもともとあまり興味はないけれども、現行のCXシリーズは、調律師さんの中には「そこそこいいと思います」というような、一定の評価をされる方もおられます。
日本製品として世界からの評価を得ている量産ピアノという客観的事実を思えば、その最新モデルとはいかなるものか、ちょっと触れてみることも無駄じゃありません。

店内に入ると、うわ、お客さんはゼロ。
お店の方が二人ほどおられて立ち話をしておられましたが、こちらの入店を機にもう一人はどこかに行ってしまわれ、かなり広い店内にはお店の方とマロニエ君の二人きりになりました。
一音出しても店内に響くような静寂の中で、どうぞと言われても「では!」とばかりに試弾をしてしまうような度胸は到底持ち合わせていないので、うわぁ…まいったなぁ…という感じ。

人差し指でぽとんぽとんとやっているだけではどうなるものではないから、おずおずと遠慮がちに断片的に弾いていると、お店の方はこちらの心情を察してか、そっと奥の方へ行ってくださいました。
こういうのも「忖度」というんでしょうか。
とにかく台数が揃っている店で、新品はC1X、C2X、C3X、C5X、C6X、C7Xと横並びし、更にむこうには中古のCFIIIがありました。
ほかにもアップライトなどたくさんあったけれど、とても手が回りません。

というわけで、なんとか新品グランドはひととおり試しました。

もっとも印象に残ったことは、ヤマハというメーカーの恐ろしいまでに計算され尽くした見事な商品構成。
こうして順番に弾き比べていくと、ひとつサイズが大きくなるにつれ、良さがそのぶんだけ確実に加算されていくという事実。
大から小への逆コースもやはり同じ。

だからといって小さいモデルが悪いわけではなく、それでも十分商品として成立して完成されており、買った人はちゃんと満足を得られるようになっているから、決して後悔することはない。
価格の差もそれに準じたもので、どこかの段階で急に高くなるということもなく、マトリョーシカのようにまず大きさの順番があり、そこには納得できる価格差があり、そしてなによりもすごいのは弾き比べてみたとき、少しずつまるで等間隔の階段を一弾ずつ登るようにちょっとずつ良くなっていく、その考えぬかれた性能差を作り出す技術。

たとえば、C3Xを弾いたらそれなりにまとまっているいるけれど、C5Xに移ったら、全体が確実にはっきり、しかしあくまで節度をもって一段良くなる。
さらにC6Xに移るとさらにやわらかさとゆとりが出て、落ち着きが加わり、ここからが大人という感じ。
C7Xに移ると、もうひとつ先が開けて、ブリリアンスが加わりコンサートピアノのエッセンスみたいなものがちょろっと入ってくる。
このあたりの徹底して計算された「差」の出し方は、まさにヤマハの均等な製品づくりにおける陰の実力を見るようで、その見事さが、とてつもないメーカーだと思いました。

少なくともこの日試したグランドは、大きく高価になるほど「良くなる」のであって、そのわかりやすさは、とくに音楽やピアノに精通していない入門者や楽器に疎い先生達などにも、すぐに理解でき体感できるもので、そのサイズ/価格差は誰もが納得できるもの。
その背後に楽器を生み出す工房の気配は感じなかったけれど、巧妙に計算され、最高の工場で生産された日本製品の凄みがありました。

それが楽器作りにふさわしいかどうかは賛否あるとしても、ピアノというものをここまで製品として昇華させたということは、超一流の技術のなせる結果であって、その企業力にはビビリました。

ついでに、中古のCFIIIにもちょっと触りましたが、ヤマハといえどもコンサートグランドというのはまったくの別世界となり、ここではじめて楽器という有機的な感触を受けました。
量産モデルに比べると、格段にものごしがやわらかで底が深く、音もがなり立てず、秘めたる力と慎みがあり、タッチも精妙。
いかようにもお応えしましょうというリッチなおもてなしのよう。

久々にヤマハ一色の時間でしたが、とても貴重な体験になりました。
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またまた中古CD

中古CDの当たり外れは、困ったことにちょっと病みつきになってきたかもしれません。
もともとが、ダメモトでやっていることなので、失敗してもさほどの痛手ではないのですが、それでもみみっちいドキドキ感はあるのです。
前回までの経験として、あまりの激安はやはりゴミになる確率が高いので、そのへんはより注意することに。

△【アルバン・ベルク弦楽四重奏団のモーツァルト】
思い込みかもしれないけれど、モーツァルトの弦楽五重奏曲といえばあのg-moll KV516のような不朽の名作があるにもかかわらず、意外にもこれといったCDがあるようでない印象。アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、1980年代ぐらいからかずいぶん流行った時期があり、マロニエ君もその波にのせられてベートーヴェンの全集など買い揃えたりしたが、技巧的で見事だが、今の耳で聞くとやけに力んでいるようで、そこがいささか古臭くもあり、心から作品の躍動を楽しめるというのとはちょっと雰囲気が違った気がする。五重奏なので、ヴィオラをもう一人加えたもので、この時代特有のやや固く叙情を排した印象だが、とりあえず演奏自体がしっかりしているので聴くには値する。ただし、これでこの作品の核心に触れられるかというといささか疑問が残る。モーツァルトの弦楽五重奏曲でとくに第3番/第4番というのは、何十年来耳にしているから、いかに傑作といえども、そう何度も繰り返して聴く気になれないのが残念。

☓【グールドのリパフォーマンス】
2006年の発売当初からかなり話題だったがどうしても気乗りがせずに買わなかったCD。いわゆる現代のコンピュータ制御による精巧な自動演奏を用いて、1955年のゴルトベルク変奏曲をヤマハのコンサートグランドで再現録音したもの。マロニエ君はそもそも自動ピアノというものが、演奏者と楽器の関係なしに成り立つものである以上、まったく興味がわかないし、それは現代のハイテクをもってしても覆ることはないことを確認することになった。解説文にはこのシステムがいかに優れたものであるかということが縷縷述べられてはいるが、要するに、聴いてみて、まったくの技術屋の機械遊び以外のなにものでもないと思った。タッチは浅く骨抜き、なにより気が入っておらず、うわべだけの霞みたいな演奏は、新録音であろうとサラウンドなんたらであろうと無意味。耐えられずにオリジナルのモノラル録音を鳴らしてみると、いっぺんに目の前が明るくなるような爽快さがあった。モノラルで結構、マロニエ君にとっては精神衛生にもよろしくない1枚。

❍【ドラティのバルトーク】
どんなに音楽が好きでも、あまり馴染みのないまま来てしまった名曲というのは人それぞれあるもので、マロニエ君にとって、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」がまさにそれ。つかみどころのない難解な作品のイメージがあったけれど、いざ腰を据えて聴いてみるとまったくそんなことはなく、わりにすんなり馴染むことができたし、なかなかおもしろい作品でかなりの回数を繰り返し聴くことになった。上記のモーツァルトで述べたように、聴き始めの頃だけにある新鮮さというのは、回を重ね時を経るうちにしだいに失われていくのは如何ともしがたいが、そういう意味でも大いに楽しむことができた。いずれも大変な力作で、良いオーケストラの演奏会で聴くには好ましいだろう作品。そもそもマロニエ君は、マーラーやブルックナーに多くあるように、長大な管弦楽のための作品で、曲の出だしが聞こえにくいような感じで開始されるのが、やたら思わせぶりで泥臭く思ってしまうところがある。

❍【ジョシュ・ガラステギのバレエレッスン用CD】
スペイン出身のピアニストらしいが、マロニエ君はまったく知らなかった人。後でネットで検索すると、バレエのレッスン現場ではバリシニコフの時代からこの分野で有名なピアニストだったらしい。曲はバッハからチャイコフスキー、スペイン物まで有名な曲をバレエスタジオでの練習用に編曲したもので、音楽として鑑賞するものではないけれど、マニア的にはなかなか面白いCDだった。なにより印象的だったのは、一切の記載はないけれど、きめ細やか(これは稀有なこと)でしかも朗々とよく鳴る理想的なニューヨークスタインウェイの音が聴けるという点。個人的な印象で云うと、製品ムラというか平均的なクオリティでいうと圧倒的にハンブルク製だと思うが、ごくたまにある当たりのニューヨークの中にはとてつもない逸品があるようで、まさにその音を聴けるだけでも購入した甲斐があったというもの。ちなみにこれ280円だったけれど、ネット上ではなんと4700円というのにはびっくり。

☓【カテリーナ・ヴァレンテ】
この人のことを知らないマロニエ君は、昔のフォーマルな装いの写真からしててっきりクラシックの歌手だた思い込み、閉店間際、4枚組で500円ということもあってついでに購入。はたして音を出してみると古き良き時代のポピュラーで、いわゆるヨーロッパの歌謡曲だった。自分の無知が招いたことだし、クラシックの棚にあったのも要因。ま、たまに車中などでガラッと気分を変えるのにいいかも。
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カレンダー

日本調律師協会が作られるカレンダーが素晴らしいことは以前のブログに書きました。
月ごとにマニアックなピアノの美しい写真が掲載されていることに驚いたと書いたら、このブログがきっかけで時々メールのやり取りをする方からご連絡がありました。

昔のものもみてみたいと書いたのですが、あくまで機会があればという程度の軽い気持ちだったのですが、その方は手許にあるのでよかったらお送りしましょうか?というありがたいことをお申し出をくださったのです。
なんだか厚かましいような気もしたけれど、見てみたいことは事実だし、せっかくのご厚意なのでお言葉に甘えて送っていただきました。

封筒を開けると、なんと昨年を頭に3年分も入っていてびっくり!
昔の聞いたこともないようなメーカーのピアノが次々に登場するのは見るだけでも価値があり、最後のページには2016年/2017年は「浜松楽器博物館」、2018年/2019年は「武蔵野音楽大学楽器ミュージアム」とあり、大きな組織がきちんと保存しているピアノというわけで納得でした。
つまり、これらは日本に存在しているピアノというわけで、いずれもが過去に何らかの理由で日本にやってきたピアノ達ということになるのでしょう。
昔のほうが数は圧倒的に少ないだろうけれども、マーケテイングだなんだということがないだけに、ピアノにしても多種多様なものが輸入されていたようにも思われ、現代は「多様性の時代」などというけれど、そうとも言い切れない側面もあるような気がしました。

現代の日本で、これだけ多様なメーカーのピアノが入ってきても、まず需要もないだろうし、当のメーカーもなくなったりで、ほとんどが有名ブランドのもので絞められるし、なにより国産量産ピアノの普及によって全国津々浦々まで埋め尽くされ、さらにはそのピアノさえも引き潮となって数を減らしていっているところでしょう。


カレンダーに話を戻すと、毎年いただく海外メーカー系のカレンダーでよく目にするものは、デザインやレイアウトなど制作の経緯は知らないけれど、見るたびに首を傾げるほどセンスがなく、とても使いたくなるようなものではない。
また、今年は日本メーカーのものもたまたま入手しましたが、さらにダサく、見たくもない音楽系タレントのような人の羅列で、いいカレンダーというよりは「ああ、この人達がこの会社と深いつながりがあるんだな」と思えるだけの、自分が使うことはまったくイメージ出来ないようなもの。
どうしてこんな感覚がまかり通るのか、まったくもって理解に苦しみます。

それにひきかえ、この日本調律師協会のカレンダーは本当にすばらしく、普通はカレンダーなど用済みになればゴミ箱行きですが、なかなか捨てる気にもなれません。
どういうカレンダーを作りたいかが明快で、必要以上の狙いが盛り込まれていないことも、却ってこの協会に交換を抱けるし清々しさがあります。
これだけ珍しいピアノを題材にしていれば、いつかネタ切れになるのかもしれないけれど、できるかぎり続けてほしものだ願っています。


近年は、年末といってもカレンダーをいただく機会は少なくなったし、いただいても以前のように単純に部屋に架けて使うということはなくなったのではないでしょうか。
最近は企業や団体なども、カレンダーを作るという恒例行事じたいが激減してるそうで、むかしは筒状に丸められた使わないカレンダーの山が積み上がっていたものですが、ここ最近はそれはすっかりなくなりました。

聞くところによれば、企業も経費節減の折柄、費用ばかりかかってタダで配布しても、大半が使われることなく廃棄されるオリジナルカレンダーというものが、早々に整理の対象になったようです。
いっぽうで、使う側も、絵や写真付きのカレンダーというものが流行らなくなり、実用に徹した文字だけの機能的なカレンダーが好まれ、さらにそれが100円ショップなどで大小様々に売られるものだから、もはや観光写真や見飽きたドガやルノワールの絵がついたようなカレンダーを無抵抗にぶら下げているところなど、ほとんど見なくなったような気がします。

企業カレンダー全盛の頃には、一部にはデザイン優先の気の利いたいいカレンダーもありましたが、全体的傾向としては大同小異、とりわけ音楽関係のそれはセンスがなかったという記憶しかありません。
それでも比較的まともだったのが、グラモフォンのずっしり重い大判カレンダー。
カラヤン、ベーム、ポリーニ、アルゲリッチといったこのレコード会社所属のスター達の写真が12枚、マットな黒ベースに、墨一色で仕上げられたもので、これだけは見るのがちょっと楽しみではありました。

それでも、実際に部屋にかけて使ったことは一二度あるかないかで、結局実用性が低いために使わず、もったいないといって何年もとっておいたりしたものの、最後は廃棄処分に鳴るだけ、それが大半のカレンダーの運命でしょう。

そんな中、日本調律師協会のカレンダーは久々に見るのが楽しい貴重なもので、資料性も高く、これは可能な限り保管していくだけの価値のあるものだと思いました。
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シュベスターのグランド

シュベスターネタで、もうひとつくだらぬことを。

今どきのネット社会では、どなたもそうだろうと思いますが、自分の興味の対象については、必要もないものまでついあれこれ貪欲に見てしまうもの。
ネットというのはそういう意味では、人のガツガツした部分をイヤでも煽ってくるようです。

くだらない、もっと時間を有意義に使うべき、と頭では思うものの、どうしても興味本位に手先が動いてしまい、ばかばかしい検索をしては、自分にとって欲しい情報から連続して関係ないものまで覗き見るというほうが正しいかもしれません。
そんなことをやっている中で、ネット上ではかなり有名なピアノ店に、シュベスターのグランドがありました。

シュベスターのグランドというのは、それ自体がレア物で、サイズもG60という奥行き183cmの一種類のみですが、多くの個体はもうボロボロで、大掛かりな再生作業を必要とするものが大半のようです。
その中に、珍しくかなり状態のいい一台がありました。
見つけたのは昨年秋ごろだったと思います。

このピアノ店のご主人がかなりのトーク名人で、いかにもフレンドリーにわかりやすくハキハキと説明をされ、ピアノもそれなりに弾けていつも簡単なものを肉厚なタッチで弾かれるので、どんな音のするピアノなのかもかなり分かるようになっています。
果たしてそのシュベスターのグランドは、状態もまあまあだし、なによりその音は軽やかなフランスピアノのようで、聴くなり気に入ってしまいました。

その動画は販売を目的としたもので、状態のいいシュベスターのグランドというのはめったにないこともあり、これはすぐに売れるだろうと思っていました。

ところが、予想に反してなかなかそうはならなかったようでした。
おそらく、これからピアノを買うという人の大半は、やはり大手の新品、もしくはそれに近いものに需要が集中するのか、このめったにない魅力的なピアノであってもなかなか買い手が現れず、ずいぶん長いこと動画もアップされたままでした。

大手メーカーのこのサイズなら、遥かに材質も劣り、音もデリカシーのない大雑把なものであっても、世間一般の定評を得ているから人気もあり、需要も多いことを思うと、ピアノは正当な評価を得るのが殊のほか難しい商品だと思わずにはいられません。

置く場所があれば、さっそく見に行って連れて帰りたいくらいですが、さすがにそれはムリ。
いつしか、この動画はマロニエ君にとって「時折見てはその音を聴いて楽しむもの」となり、一週間に一度は見ていたような気がします。

今年になってもその状態は続いていましたが、2月に入ってしばらくした頃だったでしょうか、いつもの様にその店のホームページから商品一覧を見ると、…あれ?
ついにそのシュベスターの動画がなくなっていました。
お店の商品なんだから売れたら、その動画も無くなって当たり前なんですが、なんとはなしにそこに行けば見られるのが普通みたいになっていたので、とつぜん消えてなくなるのは甚だ勝手ではあるものの、とてもショックでした。

不思議なのは、多くの点でアップライトのうちのシュベスターと共通した音の特徴がある点で、同じメーカーだというだけで、グランドとアップライトでは、形状もまるで違うのに、なぜこれほど相通じる音が出せるのかと思います。
たしかにスタインウェイはアップライトでもスタインウェイの音がするし、これって考えてみたらなぜそういうことができるんだろうと思います。

その後、くだんの動画は、未練がましく探してみたら、「嫁いだピアノリスト」というところにまだ存在しているのを見つけたので、とりあえず安心。
さっそくお気に入り登録しました。
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花の命は…

先に書いたシュベスターの調整。
今回のそれは殊のほか上手くいって、音を出すたびにハッとするような喜びを感じるピアノになりました。
手作りとはいえ、しょせん高級品でもないアップライトで、こういう状態が到来することは、そういつもあることではないでしょう。

全体に甘い音色、透明感、倍音、頼もしくキザな低音、さらにはシュベスター特有の憂いを含んだ明るさなど、弾けば曲が響きをまとい表情を作っていくあたり、さも価値のある楽器みたいな気配も加わって、再び階下のグランドには触れない日々が続きました。

このシュベスターは製造年代から言えば40年ぐらい経過したものではあるけれど、その音は大手の大量生産の音とは根底のところで違っており、贔屓目にいうならややヴィンテージ風なところがあり、それを楽しむことがこういうピアノの魅力だと思います。

メーカーに関係なく、ヴィンテージもしくはヴィンテージ風の音に慣れてしまうと、なかなか現代の新しいピアノ(高級品は別として、一般的な量産品の音)を受け入れることは、かなり難しくなるような気がします。
それは、ボディは鳴っていないのに、妙な感じにパワフルで、人工的な整ったような無機質な音がバンバン押し寄せてくるあの感じ。

もちろん価値感は人それぞれなので、一概には言えないけれども、音楽を愛好し、ピアノを喜びの対象として捉える向きには、楽器の発する音というのは、自分の感性に直に訴えてくるものかそうでないかは、その楽しさの質という点において、ずいぶん違ってしまうとマロニエ君は考えます。
どんなに精巧できれいでも、工業力が前面に出ているようなピアノは、どうしても心が癒やされることはなく、弾き手もつい技術に走り、ピアノの音を楽しみ、音楽を紡いで幸せになるという感覚を失っていく気がします。

とくにピアノは楽器を標榜しながら、実際には消費財とみなされて新しい物が幅を利かせ、それが標準という顔をしているし、教師や専門家にもそこに疑いを持つ人はさほど多くはありません。
また技術者も、多くの場合が販売ビジネスにも絡んでいる立場から、なかなか核心には迫らないし、あるいはそれに慣れすぎて、理想の音の基準が変質してしまっている気配がなくもない。

そのあたりは、技術者の方にとってはその技術を顕す対象としてピアノがあるから、日本製の精度の高いピアノ、すなわちクオリティの高い仕事がしやすいピアノはどうしても評価があがるし、ヴィンテージ系のピアノに関しては(一定の味があることは認めつつも)、職人としての本能みたいなものがあって、作りの甘さであるとか、音のムラ、新しいピアノにはないような欠点や衰えがどうしても目につくのだろうと思います。

これは、昔の巨匠たちがもし現代のコンクールに出たら、予選さえ通過できないだろうというのと、同じようなことかもしれません。


さて、シュベスターですが、先の調律で音を柔らかくして欲しいと依頼して、ほぼそのようにしてもらった経緯は前回書きましたが、そのときの仕上がりというのがあまりに完成度が高く、かつ繊細だったので、内心「あー、あとは崩れていくだけだろうな…」という一抹の憂慮がありました。
それから2週間ほどしたら、その精妙の限りを尽くした極上の音は雪景色が溶けていくようにしだいに薄れ、完全とは言わないまでも、かな以前に近い音(の硬さ)に戻ってしまいました。

ちなみにこの方はコンサートチューナーでもあり、一夜のコンサートのためのピアノなら素晴らしいものだったと思いますが、やはり家庭用ピアノの調整では、ある程度の耐久性への考慮という側面も欲しいと思ったりで、難しいところですね。

素人考えでは、単純にもっと針刺しをしてハンマーフェルトを柔らかくすればいいのにと思うけど、そう単純なものでもないのでしょうし、時間経過したハンマーはすでに柔軟性を失っていることもあるでしょう。
いずれにしろ毎月調整を頼むわけにもいかないので、もう少しだけ耐久性のある方法はないものかと思うばかりです。

ちなみにこの方から聞いた話では、有名なM商会の技術者には、なんとシュベスター出身の方がわりにおられるそうで、この思いがけない不思議な話にはきょとんとしてしまいました。
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1勝5敗

古本店で漁る中古CDというのは、やはり良い物に出会う打率は高くはないようです。
もちろんマロニエ君の見極め力が低いから…と言えばそうなんですが。

本来欲しいものや新譜などはネットで新品を購入しますが、よく熟考した上でも失敗はつきもの。

そもそも中古CDは、新品ならまず買うことはないものに敢えて挑戦するわけで、ハイリスクとなるのは必至。
最近もかなり失敗を重ねてしまいました。
5枚中、4枚が失敗(☓)、成功(❍)はたった1枚で、以下の通り。

☓【バッハのピアノ曲】
べつに興味をひくピアニストでもなく、フランス風序曲やイタリア協奏曲など曲もあえて買う必要はないものだったが、ニューヨークでの録音とあり、いかにも大雑把でアメリカチックな雰囲気のCD。マロニエ君は今だにグールドやシェプキンのイメージを引きずっていて、ニューヨーク、バッハ、ピアノとくるとなぜか反応してしまうところがあり、我ながらもうそろそろそんな妄想は捨て去るべきところ。NYスタインウェイの軽やかな響きで聴く現代的なバッハのイメージは見事に裏切られ、モダンのかけらもなく、ピアノの音もどこか重い。ブックレットを見ると、え!?Hamburg Steinway Dとあり、どうりで!と思いつつ、なにひとつ見るべきところのないものでガックリ。

☓【フランクの初期ピアノ曲集】
ナクソスレーベルらしい珍しいアルバム。バラード、4つのシューベルトの歌曲のトランスクリプション、ポーランドの2つの歌による幻想曲、アクス・ラ・シャペルの思い出という内容。出だしからしてどうしようもなくダレてしまう曲、シューベルトの歌曲もただ歌をピアノで弾きましたというだけの感じだし、ポーランド…は聴き覚えのある旋律と思ったらショパンの「ポーランド民謡による幻想曲」のそれだが、ショパンのそれとは雲泥の差で、げんなりするほど退屈。どれも一度聞くのがやっとで、あのピアノ五重奏やヴァイオリンソナタなどを思わせるものはどこにもない。ピアノは音もボワーンとして楽器も調律もまったくみるところナシ。

☓【小沢/サイトウ・キネンの第九】
2002年9月、松本文化会館で行われた演奏会のライブCD。ぜんぜん小沢ファンではないけれど、むかしこの期間限定オーケストラが始まった頃、ブラームスのシンフォニーで聴いた熱気と精緻さが結びついた新鮮な演奏にびっくりした記憶があったので、ベートーヴェンはどうかと購入。果たして、あのブラームスの感動は何だったのかと思うほど無感動。耳をすませばオケの演奏は機能的だし歌手もうまいけれど、総じて覇気がなく、要するになにも迫って来ないし聴く意味が感じられない。会場のいかにも多目的ホール然としたデッドで仕切られたような音響も追い打ちをかけるのか、音に幅がなく縮こまっているようで、がんばって2回聴いたけれど、こういう演奏はとりわけ第九ではしんどい。自宅でCDを聴くのにわざわざこれである必要はなく、フルトヴェングラーでリセットしたくなる。

☓【シフのスカルラッティ】
今を旬とばかりに冴えわたるバッハなど、現代の最も雄弁かつ信頼のおけるピアニストのひとりであるシフ。彼のスカルラッティならさぞやと思ったものの、全体に遊びがなく、固くて艶のない演奏に拍子抜け。スカルラッティの嬉々とした滑舌や色彩とは程遠い、モノクロームな世界。録音もイマイチ。データを見ると1987年の録音で、シフの輝けるピアノを聴くには、もう少し時を待つ必要があったらしい。考えてみれば初回のバッハ全集も途中から急に良くなるところがあって、この人はある時期を境に一気に熟成が進んだと思われる。これはその花開く前の演奏。そういう意味ではスカルラッティも再録を望みたいもので、少なくともこのアルバムに関しては何度も聴こうという気にはなれない。

❍【ひとときの音楽 波多野睦美】
いま注目のメゾソプラノ。歌手といえば一昔前までは華やかなオペラを目指すか、端正なリート系に寄せるかが一般的だったが、この人は中世・ルネサンス期から近現代までの幅広いレパートリーをこなす異色の歌い手。このアルバムでもパーセルを8曲、ほかにヘンデル、モンテヴェルディ、バッハという内容。バックもバロックヴァイオリンの第一人者である寺神戸亮さんはじめその道のスペシャリストが居並び、開始早々、あまりに自然にバロックの時代にいざなわわれる。絹糸のような美しい透明な声、少しもわざとらしさのない様式感、迷いのない澄明な表現で、ともすれば黴臭く聞こえてしまうこれらの曲を、まったく違和感も前提も注釈もなしに、心地よい音楽として聴かせてくれるのは大したものだと思う。ヴィブラートも必要なときにだけ最小限で用いられて装飾音のよう。丁寧で気品があり、かといっていちいち何かを鼻にかけるところもないナチュラルな美がある。すっかり気に入って、何日間もこれ1枚を聴いて過ごした。

たまにこういうことがあるから、ついまたやめられなくなるという繰り返しになるんですね。
考えてみれば5枚で新品一枚分と思えば価格的には許せますが、困るのは聴かないCDがずんずんと積み上がっていくこと。
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マイクロファイバークロス

暮れに、手早くピアノを掃除するには、ダイソーなどにある使い捨てのフローリングワックスシートが意外にいいということを書きました。
まあ急ぐときには悪くはないけれど、でもやっぱり「床用」というのが気持的にひっかかるし、大事なピアノをあまりに安物で軽く済ませるのはいささか罪悪感がないでもなく、あまり常用するのは忍びない気になりました。

そんな折、たまたまピアノ専門の木工の職人さんとお会いする機会があったのですが、その方は作業後の拭き上げには、市販のマイクロファイバークロスをごく普通の感じで使っておられて「え?」と思いました。

マイクロファイバークロスは柔らかいものは傷になることがあるので注意が必要とされ、これは使ってはいけないものと思っていたので、これはまったく思いがけないことでした。
しかし、この方は塗装や補修/磨きなど、いわばその分野の専門家なのでその方のやり方というのは「プロの技」でもあり、それなりの経験があるはずで、実際その方の仕上げられたピアノは、本当にピカピカで見事なのです。

多くの調律師さんがネルのクロスなどを使われている中、この方は慣れた感じでマイクロファイバーを使われるのは驚きで、当然質問をしてみましたが、とくに問題はないとのこと。
注意すべきは、当たり前ですが必要以上に力を入れず、軽く均等にというぐらいで、「(使って)大丈夫ですよ」とサラリといわれたのは意外でした。
へー…そうなんだ…。

で、それから自分でもやってみました。
できるだけ手で触って柔らかいものを選び、水に濡らして固く絞り、ピアノ用のクリーナーを少量クロスになじませて軽く拭いてみると、苦もなくピアノはきれいになります。

水に濡らしたのは、マロニエ君の洗車経験などからしても、乾拭きというのあまり評価できないから。
人によっては乾拭きや毛バタキがダメージが少ないと思い込んでおられる方もありますが、マロニエ君はこれはまったく同意できません。
乾拭きこそ小キズの原因になり、そこになんらかのケミカルでも使おうものなら、伸びは悪くムラになるなど、いいことはなにもない。
それに対して、クロスが少量の水を含んでいることでケミカルを均等に広げ、きれいに仕上げる効果もあるようです。
水を含ませて力の限り固く絞り、そこにほんのすこしクリーナーを含ませる事がポイント。

先日も車のリペアショップの職人さんと話しましたが、やはりワックスやコーティング剤は、極力少量を薄く塗ることが大事と言われましたし、皮膚科の先生も塗り薬はできるだけ薄くと、どうやらこの点はどこも共通しているようです。
慣れないと、効果を期待して、つい多めに使ってしまうものですが、それが却ってダメなんですね。

そういえば思い出しましたが、行きつけの歯医者さんも、歯磨き粉(粉じゃないですが)は、ほんのちょっとをブラシの上にのせるだけでほとんどの人が使いすぎ、「私たちは一本のチューブを使うのに半年ぐらいですよ」と言われて驚いたこともありますから、とにかくどの世界も少ないほうがいいようです。

ただ、車でもピアノでも、大事なのは下地処理。
汚れや埃の積もった状態から、いきなり艶出しというわけにはいかないので、ピアノの場合はホコリ取りのモップ等で軽くホコリを落としてからこの作業をすることでしょうか。

マイクロファイバークロスでのピアノクリーニングは、簡単快適、仕上がりもキリッとした好ましい感じに仕上るので、今はこれが一番という感じです。
今さらこう言ってはなんですが、使い捨てのフローリングワックスシートは薄いので、あれはあれで使いにくさがありますが、クロスなら一定の厚みもあり、面を変えて使って、洗えば何回でも使えるので、今はこれが一番作業性もよく気に入っています。
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少しソフトに

昨年末から持ち越しになっていた、自室のシュベスターの調律をやっていただきました。
主治医の調律師さんは毎回丁寧にやってくださいますが、今回は主に整音をメインとしてお願いし、トータル5時間オーバーの作業となりました。

聞くところによると、一般的にはアップライトのハンマーヘッドは針を入れづらいほど固いものが多いらしいのですが、我が家のシュベスターは珍しいほど柔らかい巻きだそうです。
こういうところにも作り手の音に対する何らかの意図が表れているのでしょう。
柔らかいハンマーといえば、主にアメリカのピアノであるとか、ヨーロッパでも古い時代のピアノがそうでしたが、その後は固いハンマーを針でほぐしながらヴォイシングしていくのが世界的な流れになった印象があり、深くまろやかな音より、エッジのきいたインパクトのある音を時代が求めたのかもしれません。

なので現在は巻の固いハンマーが主流かつ固定化していると思っていたら、ここ最近の日本製の新しいピアノ(グランドを含む)は、どちらかというと以前より柔らかいハンマーが付いているんだそうで、これは意外でした。

もちろん、ただ柔らかいとはいっても、その素材や製法、ハンマーとしての性質はいろいろあるわけで、良質の羊毛で作られた昔の古き良きハンマーとは根本的に違うとしても、新しいピアノのハンマーが以前より柔らかくなってきたというのは、ちょっと意外な話でした。
いわれてみれば、たしかに最近のピアノの音は深味こそないけれど、さほどキンキンした音ではなくなり、ほどよく角のとれた嫌味のない音になっているので、それを可能にしているひとつが柔らかいハンマーなのかもしれません。

シュベスターに戻ると、かなり弾いて少し派手な音になっていたので、ソフトな音にして欲しいという希望を伝えましたが、この調律師さんはかなりのこだわりのある方で、すぐ単純に「はい」というわけにはいきません。
針は一度入れたらもとには戻らないこと、ただソフトにするだけでは音の輪郭がぼやける、フォルテシモが出なくなる、必要な芯までなくなってしまうことなどを考慮され、きわめて慎重に針を入れられました。

入れたら入れたで、隣り合う音のバランスやらなにやらがあり、その都度調整。
さらに外していた上前板/鍵盤蓋を取り付け、前屋根も閉めて音を出すと、我が家のシュベスターは「箱鳴り」がするのだそうで、そうなるとまた少し違ってくるというので、また外して追加作業となり、こんなことをやっていると時間はどんどん過ぎていきます。

このシュベスターはそこそこ良い音を出すピアノだとは思うものの、新しいピアノではないので問題もないではなく、例えば巻線(低音の弦)の中には、ややあやしいものがあったりで、それらは順次解決すべき課題。
問題のある弦は張替えもやむなしかと思いましたが、とりあえず硬化剤を使いながら調律で音を出すという方法が取られたところ、それほど気にならないまでに持ちなおし、もう少し現状で様子見することになりました。
これはあくまで一時しのぎであって、基本的な解決ではありませんが。

硬化剤といえば、中音〜次高音にかけても、ソフトにするためにも上記の音の芯を失わないためなのか、僅かに硬化剤を使いながら音そのものはソフト方向に持っていくという手法が取られ、音作りは単純ではないなあと勉強になりました。
結果は上々でしたが、かなり精妙に仕上がった感じもあるから、その精妙さが崩れるのが惜しくて、この数日はチビチビと美酒を舐めるように弾いてます。


今回、調律さんから、日本ピアノ調律師協会のカレンダーというのをいただきました。
見ると上下に分かれ、上が写真、下がカレンダーというよくある作りで、ひと月ごとの12パターンですが、その写真というのがいずれも博物館級のピアノで「わっ!」というものでした。
しかも大半が名も知らぬような珍品ばかりで写真も非常に美しく、さすがは技術者集団だけのことはあると唸りました。

まさか日本に、こんなにマニアックで素晴らしいピアノのカレンダーがあるなんてちっとも知らず、昔のものも見てみたいです。
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意図不明

コンクールネタでもうひとつ。

今年のNHKは、年初からピアノ関連の番組が多いということを書きましたが、更にそれは続きました。
「『蜜蜂と遠雷』 若きピアニストたちの18日」というもので、第10回浜松ピアノコンクールに密着したドキュメント。

ところどころ、俳優の中川大志さんがピアノの前で、小説『蜜蜂と遠雷』を手に朗読を挟みながら番組が進む構成。

『蜜蜂と遠雷』は、マロニエ君にとって読んだころから、小説として掴みづらく、なにが主題なのかよくわからない作品だったのですが、そんな印象とは裏腹に直木賞と本屋大賞をダブル受賞し、どんどん話題となっていったき、なんだか自分の感覚だけが世間から置いて行かれるようでした。
そもそも『蜜蜂と遠雷』というタイトルからして、もう忘れたけれど、なんだかもってまわった謎解きみたいなわかりにくいもので、要するにピアノということ以外、自分の趣味ではないものづくしでした。

べつに漱石だ谷崎だと旧いものにしがみつく気はないけれど、こういうものが今どきは文学作品として評価されるんだということに困惑したのが偽らざるところでした。

さて、その『蜜蜂と遠雷』を前面に押し出しながら、NHKによる実際のコンクールのドキュメントという作りのようですが、まず事前の率直なイメージとして「60分は短いのでは?」というのが頭をよぎりました。
調律師のショパンコンクール、ピリオド楽器のショパンコンクール、左手のコンクールなど、いずれもここ最近のNHKのそれらは2時間に近いサイズで、60分とわかったときからちょっとへぇ…という感じが。

夕食を外でとっていると、一足先に見られた知人の方からLINEが届き、「牛田智大さん個人のドキュメンタリーのようでした」というもので、???
もうこの時点で見る前から半分腰を折られた気分。
実際に見てみたら、まったくその通りで、彼がメインの番組構成でした。

驚くべきは、決勝進出の6人中、今回は日本人が4人と大健闘し、これはこのコンクール初という快挙であるにもかかわらず、番組は牛田さん以外の誰ひとりとして取り上げることがなかったばかりか、優勝したトルコのジャン・チャクムルさんの演奏さえ完全無視されていたこと。

番組タイトルが「…牛田智大の18日」ならまだしも、「…若きピアニストたちの18日」ですから、これはなかなか納得するのが難しいものでした。

牛田さん以外に唯一取り上げられたのは、3位入賞の韓国のイ・ヒョクさんで、決勝での演奏が少しとホテルの部屋で弟とチェスをやっているシーン、あとは途中で敗退したコンテスタントが、日本のホストファミリーの家族と過ごす様子などが少しあった程度。

べつに牛田さんにどうこう言うつもりはありません。
でも、同じ決勝まで勝ち進んだ日本人の今田篤さん、務川慧悟さん、安並貴史さん、そしてなにより優勝したジャン・チャクムルさんらは、この番組を見たらどう感じるのだろうと思うし、きっといい気持ちはしないでしょう。

ちなみにイ・ヒョクさんは決勝ではラフマニノフの3番を弾いていましたが、あの難曲を弾きつつその落ち着き払った演奏とテクニックは不気味なほどの凄みがありました。
なんと、ヴァイオリンも達者、将来は指揮者になりたいのだそうで、まさに次世代のチョン・ミョンフンとでもいいたくなる存在感がありました。
天才が当たり前の世界というのは、いやはや恐ろしいものです。

ピアノは、ヤマハ、カワイ、スタインウェイの3台。
ですが、浜松はヤマハ/カワイゆかりの街だからでしょうが、昔からこのコンクールではどうもスタインウェイは脇役という感じが否めず、それはそれでアリだと思います。
むしろ、浜松らしくピアノはヤマハ/カワイだけにしたほうがずっと潔い気もしますが、そうはいかないのだろうか。
できれば各社2台ずつ、計4台の中からピアノを選ぶようにしたほうがスッキリしないでしょうか?

驚いたのは、浜松駅の構内にはヤマハのCFXがポンと置かれていて、それで移動中の牛田さんがスーツケースを側においてリストのソナタを弾いていましたが、さすがは浜松、駅ピアノもすごい!と思えるシーンでした。

あとで調べると、優勝者が弾いたのはカワイのSK-EXだったようで、昨年カワイのサロンで同モデルを弾かせてもらって、そのときの感想を「点数が確実に稼げるコンクールグランド」というように書きましたが、まさにその面目を果たしたというか、ご同慶の至りといったところでしょう。
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左手のコンクール

1月6日にBS1で放送された「私は左手のピアニスト〜希望の輝き 世界初のコンクール〜」を見ました。
もたもたしているうちにすでに再放送までされていたようです。

日本でこの分野で有名なのは、フィンランド在住でリサイタル直後に脳梗塞で倒れられ、いらい右手に障害を負われて左手のピアニストに転向された舘野泉さんですが、真の意味で最も脂ののった実力者といえばおそらく智内威雄さんではないかと思います。

以前NHKでも智内さんを取り上げたドキュメントがあり、ドイツ在学中にジストニアを発症し、曲折の末に左手のピアニストになられた方ですが、その実力には舌を巻いた記憶があります。
この方は自身の演奏活動だけでなく、同じく右手に障害を持つピアニストを手助けすべくさまざまな活動もされていて、左手への編曲や、ネット上での演奏技術の公開など左手ピアノのためのマルチな活動をされています。

少なくともマロニエ君の中では、日本の左手のピアニストで真っ先に頭に浮かぶのはこの智内さんだったのですが、番組開始早々、このコンクールの会場が箕面市立メイプルホールという文字が出たとき、以前智内さんの活動拠点が箕面市という記憶があったので、これはもうこの方の存在と尽力により左手のコンクール開催に至ったということを確信しました。

コンクールはプロフェッショナル部門とアマチュア部門に別れ、3日間という短い期間で競われるもの。
プロフェッショナル部門は「左手」というだけで、まさにハイレベルの方ばかりで、多くの方がもともとは両手で弾かれていたにもかかわらず、病気や右手の故障で左へ転向された方がほとんど。

その演奏技術たるや大変なもので、もともと両手を使っても難しいピアノであるのに、それを左手だけで演奏してハンディなしの音楽として聴かせるのですから、これはもう尋常なものではありません。
実際にその演奏の様子は、左手だけがピアノの広い鍵盤上を飛び回り、そのスピードといったら目がついていかない早業であるし、伴奏やベースのハーモニーを鳴らしながら、旋律を繋いでいくというアクロバティックな動きの連続で、見ているこっちがくらくらしそうでした。

梯剛之さんや辻井伸行さんのように全盲であれだけの見事な演奏ををされる方がいるかと思えば、左手だけでこれだけの演奏を実際にされる方が何人もおられるわけで、その想像を絶する能力にはただただ驚嘆するのみ。

スクリャービンの前奏曲とノクターン、ブラームス編曲のバッハのシャコンヌ、ラヴェルの協奏曲などは、左手のための作品としてよく知る圧倒的な傑作ですが、それ以外となると、なかなか作品に恵まれない一面があり、ほとんど無限というほどの作品がある両手に比べると、左手の世界での大きな問題は作品にあるような気がします。

そういえば、以前の智内さんのドキュメントでも、ドイツ楽譜店で左手のための作品の探すシーンがあったし、多くの作曲家が左手のための作品を書いたけれど、ほとんどが忘れられ日の目を見ることなく埋もれてしまっているというようなことを言われていたことを思い出します。

もっと多くの作品が演奏され多くのCD等になって、耳にする機会が増えることを切に期待しています。
左手のピアノの魅力は、限られた音数の中に、いかに濃密な音楽が圧縮されているかにあるし、番組内でも誰かが言っていましたが、両手のものよりさらに熱く激情的でもあることが多いという点では大いに同感です。

はじめちょっと物足りないようなイメージがあるけれど、そこを超えると、左手ピアノには人間のぐつぐついうような情念とかエネルギーがそこここにうねっていて、深遠な世界があり、これはひとつのジャンルだと思います。
たしかに音が多ければいいというものでもなく、ソロよりも、連弾や2台ピアノが優位とは言い切れないのと繋がりがあるかもしれません。

また、ピアノの音も、両手より赤裸々にその良し悪しが出て、楽器の実力も問われる気がします。

楽器のことが出たついでにちょっとだけ触れておくと、ヤマハがコンクールの後援ということもあって、ピアノはヤマハのみでしたが、そこに聴くCFXの音はまったくマロニエ君の好みとは相容れないものでした。
もしかしたら、左手ということを意識した音作りがされた結果なのかどうか、そのあたりのことはまったくわからないけれど、できればもっとオーソドックスで深い音のするピアノで聴いてみたいと個人的には思いました。


オタク的なことを一言付け加えておくと、このコンクールのピアノで気付きましたが、ヤマハCFXは外観デザインで足の形が変更されています。
2015年の登場以来、シンプルかつ直線基調の足でしたが、最新のモデルはそこに穏やかなカーブがつけられているのを確認。
昔もヤマハのグランドの足にはわずかにカーブがついていたし、Sシリーズは逆にふくらはぎのようなぷくっとしたふくらみがあるなど、なぜか足に曲線を使うのがお好きみたいです。
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楽しむもの

ピアノクラブ(弾き合い)の新年会というのがあり、マロニエ君は会員ではないのですがお招きいただいたので、いいのかなぁと思いながら少しだけ参加させてもらいました。

個人宅でやられているもので、1時間ほど遅れて行ったのですが、近づくにつれピアノの音が漏れ聞こえて「やってるやってる」という感じで歩を進めます。
ドアを開けると、弾いているのはご無沙汰していた顔見知りの方。
短髪、口ヒゲ、逞しい格闘家のような体軀の壮年男性ですが、身をかがめながら可憐な音でドビュッシーのアラベスク第1番を、バスケットから花びらがこぼれ落ちるように弾いていました。

中に入ると横長のテーブルにずらりとご馳走が並び、すでにみなさん勢揃いされ、宴もたけなわといったところ。
その脇にピアノがあり、飲み食いしながらの入れ代わり立ち代わり各人各様の演奏が続いて、ピアノの音が途絶える隙がありません。

みなさん和気あいあい、ピアノを弾くのが楽しくて仕方がないご様子。
さらに、そのピアノの仲間がいることが輪をかけて嬉しくて仕方ないという感じでムンムンでした。
ピアノを弾くことがこれほど楽しいものだということを、むかしむかしのレッスンに通っていた子供の頃に感じることができたら、マロニエ君もどれだけよかっただろうと思いますが、残念なことに真逆の世界でした。

小学校時代から某学院に通っていましたが、そこはピアノの指導の厳しさで当時の九州では随一で、まわりは桐朋や芸大/芸高に進む人がずらりで、院長を頂点に先生方もこわいのなんの…ピアノと恐怖は同義語。
マロニエ君なんぞ、そこでは一二を争う劣等生で練習もせず屋根裏のネズミのように逃げまわっていたので、当然のごとくの有様ですが、今にして思えば、そのぶんピアノ好きの火を消さずに済んだのかもしれません。
小さい頃からのピアノ浸けの体験があだとなり、ものすごく上手いのに音大を卒業するや、すっぱりピアノと手を切ってしまう人もいたりで、それからみれば、下手でも好きでいられるぶんいいかな?とも思ったり。

話が逸れました。
ここのピアノは、このブログでも何度か書いたことのある戦前のハンブルク・スタインウェイのSで、マロニエ君はちょうどその脇に座っていましたが、しばしば床が震えるほどのあっぱれな鳴りにはあらためて感動です。

おまけに、真横でこれだけ鳴っているのに、音質が少しも耳障りでないのはさすがです。
以前、ある場所で、やむを得ずピアノのすぐ側に座ることになったのですが、日本製の定評あるグランドから出るのは脳ミソの奥にまで達するような突き刺さり音で、失神同然になったことがあります。
やはり良い材料で作られた楽器の音は、人間の生理とどこかで折り合いをつけることができるようになっている気がします。

人工乾燥、流れ作業、大量生産、仕上がり精度は超一流というピアノは、楽器じゃなくまさしく製品ですが、やっぱりピアノは楽器であって欲しいもの。

多くの人は、いかにスタインウェイとはいえS155は最小サイズなのだから、それなりの音しか望めないと思っておられる方も多いと思いますが、それはまったくの誤りであることが、こういうピアノの音を聞いたらわかります。

さすがにBあたりとは違うかもしれませんが、低音などもかなりボリュームのある深い音がするあたり、このピアノの音だけを聞いてS/M/O/Aを明確に聞き当てる自信はありません。

なので、いいものを探し当てたらヴィンテージのスタインウェイはやはり恐ろしい力を持ったピアノだと思います。
そのためのお値段とマークは伊達じゃない。
ネット相談では、「スタインウェイのSを買うのは愚かなブランド志向で、そんな予算があるならサイズに余裕のある国産のプレミアムシリーズのほうが良い。ピアノの真価の分かる人はむしろそちらを選ぶ。スタインウェイの価値を発揮するのはB以上」などと、さもわかったようなことを断定的に書いている人がいますが、こういうことを自信たっぷりに書く人の中には技術者を名乗る人も多いのは驚くばかりで、価値感はそれぞれ、どちらが良いなどとは軽々に言えるものではないでしょう。

…また話が逸れてしまいました。
とにかく、ピアノは力んで挑むものではなく、楽しむものということですね。
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ピアノの運動不足

この前の連休、ピアノ好きの方が4名ほど我が家にいらっしゃいました。
みなさん、非常に熱心でピアノを弾くことに格別の喜びをお持ちの方ばかりです。

自宅リビングに置いているグランドは、むかし一大決心をして購入したにもかかわらず、普段ほとんど弾かずに置いているだけという状態が続いています。

年末には1日かけて調律等をやっていただいているので、状態は悪くないはずなのですが、前日ちょっと試弾してみたところ、予想以上にピアノが眠ってしまっている状態でした。
明日はこのピアノを弾きに人が来るというのに、これじゃあいくらなんでもまずいと思い、かなり焦りながら暫く弾き続けました。

いまさらこんなことを書くのもどうかと思いますが、普段自室のシュベスターばかり弾いていると、知らず知らずのうちに指がそれに慣れてしまうらしく、それにも困りました。
ざっくりした言い方をすると、アップライトのタッチの軽い部分と重い部分、グランドのタッチの軽い部分と重い部分は、どうもほとんどが逆になっているようで、加えて慣れというのは恐ろしいもので、やけによそよそしく、弾きにくさのほうが目立ってしまいます。

普段あまり弾かないことが祟って、花に喩えると花びらがかたく閉じてしまっており、アクションにも響きにも渋さがまとわりついてしまい、弾きにくいことといったらありませんでした。
このときはもう時間的な余裕もなかったのですが、なんとかほぐそうという一念で全音域のスケールを繰り返したり、強めの曲をヒーヒー言ってとにかく無理して鳴らし続けたのですが、こうなるとピアノの楽しさはゼロ、テンションは下がり、指や腕はびりびりと疲れてくる始末。
それでも、1時間ほど経ったころ、ようやく少しピアノが鳴ってきたのがわかりました。
鳴ってくるというのは、全体がほぐれてくるのはもちろん、顕著に感じるのは旋律が歌うようになることでもあり、それがわかったときはようやく少しホッとしました。

この日はこれが精一杯。
当日は、5時間ほど滞在され、途中かなりおしゃべりを挟みながらも、交代しながらあれこれ弾いていただいたところ、終わりのほうの一時間ぐらいだったか、聴いていて明らかに鳴り方が変化しているのに気づく瞬間が訪れました。

やれやれと思ったところで、食事に出ることになり、帰宅したのは深夜でした。
それでもなんとなく気になって、翌日まで我慢できずに、そっとキーに触れてみると、アッ!と声を出したくなるほどタッチが軽めに変化していました。
ある程度弾くということはこういうことなのかと、それはわかっているはずだったのに、自分のピアノがわずか2日の間にここまで変化してしまう過程が観察できて、あらためてその必要性を思い知りました。

実は、暮れに調律師さんが来られた折に、タッチが重いと訴えたところ、あれこれやっていただき、ダウンウェイトを計測すると概ね48〜50gというところで、重めといえばいえなくもないけれど規定値になんとか収まっているという感じでした。

マロニエ君は以前、コイツにはこんなものが喜ぶだろうと思われたのか、ダウンウェイト計測用の錘を調律師さんからプレゼントしていただいて、いつもピアノのそばに置いています。
さっそく計測してみると、常用域の4オクターブは中央の4鍵を除いてすべて48gで鍵盤が降りるようになり、3鍵が49g、1鍵だけ50gというところまで数値も変化していました。
さらに、数値だけでなくスカッとした指についてくるタッチになっており、自分のピアノに対するかかわりの薄さが冴えないタッチの第一の原因だったことを悟りました。

これをもし調整だけで解決しようとすれば、再びホールの保守点検メニューのようなことになるのかと思うと、そのための調律師さんの労力、時間、費用などを考えたら「なんたることか!」と思いました。

そういう意味では、この4人の来訪者には心から感謝しなくてはなりません。
というわけで、その後は弾いているのかというと、うーん…。
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氏より育ち

1月3日に書いたブログの続編。
同じ街で、もう一軒のピアノ店にも行ってみました。

ここはスタインウェイ、ファツィオリのような高級品から、ペトロフ、ディアパソン、さらにはウエンドル&ラング、フォイリッヒといったかつてのヨーロッパブランドが現在中国生産されるリーズナブルなものまで、幅広い銘柄を取り扱うピアノ専門店。

ホームページによると、この店がいま最も力説していることが、プレップアップという出荷調整。
この作業を入念に行なうことで、ピアノの音や機構を精密な領域で整え、潜在力を最大限発揮させるという最も正統的な考え方で、それによっていかにピアノが明瞭確実にすばらしいものになるかを実践している店。

アクションという繊細で複雑なしくみを持つピアノにおいて、そのメカニズムの正しい調整がいかに大切かということは、いまさら言うまでもないことですが、なかなかそのように調整されたピアノが少ないのも現実。
たかが調整と思うなかれ、ピアノを生かすも殺すもこれにかかっているといっても過言ではありません。

その最大の難点は、非常に時間のかかる作業の積み上げによってはじめて到達できるもので、すべてが地道な手作業によるものであることと、なかなかその重要性を理解するだけの一般認識がないというところでしょうか。
何日がかりでそれをやったとしても、わかりやすく目に見えるものではなく、やらなくてもとりあえず普通に音は出るし演奏はできるから、それをやりたがらない店がほとんど。

お客さんもそういうことより、価格や値引きを求める人が多いということなどもあるのかもしれません。

アポ無し(購入目的ではないので、当たり前)で行きましたが、若いお店の方が、快く店内あちこちを案内してくださり、最も感銘を受けたのはグランドの展示場でした。
そこにはペトロフ、ウエンドル&ラングのほか2台のディアパソン183cm(新品)などがあり、一台は一本張り仕様でしたが、そのタッチと音の素晴らしさは、エッと声が出るほどすばらしく、思わず息を呑みました。

というか、マロニエ君はかつてこれほどリッチな音となめらかなタッチをもつディアパソンを弾いたことはなく、つい最近もディアパソンのアクションはもったりして時代遅れというようなことを書いたばかりだったこともあり、これにはかなりの衝撃を受けました。

まずなんといっても発音が素晴らしく、濁りもクセもない筋の良い音が、澱みなく軽やかに立ち上がってきます。
その音はディアパソンらしいというよりも、もっと普遍的なピアノの美音で、腰がすわっていて、太くて明晰、なんのストレスもなく朗々と、しかもさも当たり前のように鳴っていました。
タッチは重くも軽くもなく、どのキーもむらなく整い、スカッとしているのにしなやか。
強弱硬軟意のままで、いくらでも弾きたくなる気分にさせてくれるものでした。

その技術者の方とも少しお話ができましたが、大事なことは、鍵盤を抑えて打弦するまでの過程にさまざまな(あってはならない)ブレーキがかかっているから、それを地道な作業でひとつひとつ取り除いているということ。
至極もっともなお話でした。

この出荷調整は人の手でおこなうしかなく、ひじょうに時間をとり、しかもしないならしないでも商品としては成立するため、営業サイドからすれば非効率でコストのかかる作業みなされ、名のある一流ピアノでも、昔ほどプレップアップに時間を書けなくなったという話はよく耳にします。

メーカーや輸入元でさえそういう割り切った方向にかじを切っている中、地方のピアノ店で、ここまでこだわっている店があるということ自体、なんだかかとても感動させられる事実でした。
その甲斐あって、そこに置かれたピアノは値段の問題ではなく、真の意味での高いクオリティをもったピアノになっていました。

もし目隠しをされて、そのディアパソンと、その倍の値段もするような普通のプレミアムピアノを弾いたら、マロニエ君はきっとここのディアパソンを高級ピアノと感じて選ぶだろうと思います。
いわばアスリートが名監督との出会いによってメダルを取れるところまで到達できるようなもの。

本当にいいものに触れたときの感触というのは、いつまでも忘れられない深い記憶となりますが、あのディアパソンの音とタッチの素晴らしさはまさにそれでした。
ピアノにとって精魂込めた調整がいかに大事かは重々わかっているつもりでしたが、あらためてそのことを再認識させられる貴重な体験でした。
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NHKピアノまみれ

1月5日の朝、何気なく新聞のTV番組表を見ているとピアノという文字がフッと目にとまりました。
するとどうでしょう、NHK-BS1の1月5日は、朝の9時から16:30までピアノ三昧とのこと。

09:00〜 空港ピアノ「マルタ島」45分
10:00〜 BS1スペシャル「ショパン・時の詩人たち 第一回国際ピリオド楽器コンクール」110分
00:00〜 BS1スペシャル「もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの戦い〜」110分
14:00〜 駅ピアノ「チェコ・プラハ 特別編」45分
15:00〜 BS1スペシャル「瓦礫(がれき)のピアニスト」50分
16:00〜 駅ピアノ「多民俗都市 アムステルダム」15分
16:15〜 空港ピアノ「音楽とともに シチリア島」15分

という具合に、途中ニュースなどを挟みながら、番組のみで計370分、実に6時間10分にわたって、ピアノ関連の番組が放送されたことになります。BSだからこそできることだとしても、なんたる気前の良さ。

マロニエ君は個人的には、駅/空港ピアノのたぐいはあまり興味が無く、無造作に置かれた一台のピアノを通じてさまざまな人間模様に触れる趣向だろうと思いますが、延々同じことの繰り返しで、テレビで素人の演奏を聴いてまで楽しむ趣味はないので、これはいつも見ません。
続く「ショパン・時の詩人たち 第一回国際ピリオド楽器コンクール」「もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの戦い〜」「瓦礫(がれき)のピアニスト」はいずれもすでに見ていたので、残念ながら個人的に新鮮なものはひとつとしてありませんでした。

とはいえ、せっかく放送されるのだから、なんだかもったいないような気がして、いちおう録画してしまいました。
それにしても、これだけの長時間、NHKがピアノの番組を集めて半日がかりで放送したというのは、ただただ驚くばかり。

娯楽も趣味も多様に広がる時代だからこそ、BSチャンネルでコアなファンのための番組を制作することもできるようになったのでしょうし、昔と違って、ピアノが大人の楽しみとして注目されて、そこそこ人気があるという小さな社会現象ということなのか。

あるいは世の中のほとんどがハイテク浸けになった今日、ローテクの塊で裏ワザや早道のない、地道な練習を積み上げていくしかないピアノが、これまでとは違った方位から注目されているのか、そのあたりのことはよくわかりません。
ただ、マンガにも「ピアノの森」や「ピアノのムシ」、小説にも「羊と鋼の森」や「蜂蜜と遠雷」などピアノを取り扱ったものが続々と登場して映画にまでなるあたり、いったいピアノはどういう捉え方をされているのか、マロニエ君は正直いってさっぱりわかりません。

わからないけれど、それでも何か理由でピアノが少しでも注目されるのは嬉しいことに違いないし、そこに端を発してこのような書籍やTV番組が増えていくのは、ピアノ好きとしてはわくわくではありますね。

それとはまったく逆行しているのがCDの世界?
一時は新しく発売されるCDが多すぎて、その情報を追いかけるだけでも大変だったのが最近ではウソのように激減、ピアニストは星の数ほどいるのに大半はアーティストといえるような存在はほとんどなく、おまけに過去の音源はネットから聴きたい放題で、新譜が売れない条件が皮肉なほど揃っているのか、とにかく異様なほど少なくなりました。

もはや1枚のCDに対して2〜3000円投じて購入するという感覚がなくなったのでしょうけど、このままではプロの音楽の衰退に繋がりはしないかと思うなど、今はとかく変化が急激すぎて疲れます。

と、なんとなくここまで書いていたら、さらに翌日6日の新聞の番組表で再びびっくり!
昨日に続いて、またもBS1で
22:00〜 BS1スペシャル「私は左手のピアニスト〜希望の輝き 世界初のコンクール〜」110分
というのがあり、さっそく録画セットしました。
まだ見ていませんが、これは初めてで楽しみ。

この道の日本を代表する技巧派の智内威雄氏も出演とあり、いやが上にも興味は高まります。
これを加えると2日間で480分、すなわち8時間にも及ぶピアノ番組というわけで、これは大変なお年玉となりました。


これで終わりかと思ったら、さらに7日の23:55から今度はNHK総合で「ピアノの森」がアンコールとして5話連続で放送されるようで、どうなってんの?って感じです。
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小さな一流品

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。


昨年末、中国地方へ出かける機会があり、これはチャンス!とばかりに某ピアノ店を訪れて、ベヒシュタインの小型アップライトに触れることができました。

現在のベヒシュタインのシリーズ構成は3段階のようで、いただいた資料をもとにマロニエ君も確認の意味でおさらいをしておくと以下のような感じでしょうか。
話をすすめる上でいちいちシリーズ名をいうのも面倒なので、シンプルにA、B、Cと分類することに。

A【C.BECHSTEIN コンサート】
ベルリン発祥、歴史あるベヒシュタインの本家本流。
コンサートグランドD-282 以下5種類のグランド、アップライトの王者の名をほしいままにするConcert 8を頂点に5種類のアップライトを構える、このブランドの中心かつ最高のシリーズ。

B【BECHSTEIN アカデミー】
ベヒシュタインを名乗るも、近年加わった廉価シリーズ。
一時はアジアでの生産など曲折があったようだが、現在は「ドイツ製」と明記されている。
ただし、製造業界では他国で部分生産し、本国で最終仕上げをすれば本国製を名乗ることができるというグレーなルールもあるようで、詳細は不明。

C【W.HOFFMANN】
間違っているかもしれないけれど、記憶ではチェコのペトロフで生産されるベヒシュタイン系列の廉価ブランド。
現在はどうなっているか知らないが、B同様どうも生産国/生産会社に関してはスッキリしません。
A/Bが Made in Germany とあるのに対し、Cは Made in Europe だそうで少なくともドイツ製ではないらしい。
スタインウェイはボストンがカワイ、エセックスがパールリバー等、わかりやすいのとは対照的。

シリーズ名は、最近さらにコンサートシリーズ→マイスターピースシリーズ、アカデミーシリーズ→プレミアムシリーズと改称されているとかいう情報もあって、正直いって煩わしさを感じます。
そもそも廉価シリーズをプレミアムというのもどうもなぁ…と思ったり。
ベヒシュタインの特徴は立ち上がりの良いクリアな音なのだから、その製造にまつわる情報もぜひクリアで澄みわたったものにしてほしいもの。


前置きが長引きました。
触れたのは、(A)C.BECHSTEIN コンサートのContur118、(B)BECHSTEIN アカデミーのB.116Accent、(C)W.HOFFMANNはよく覚えていないけれど、たぶんWH114P。
お値段は順に270万円、210万円、156万円。

どれも高さは118cm、116cm、114cmとアップライトの中でもかなりの小型で、下手をすると電子ピアノに近い感じのサイズです。
背が低いだけでなく、前後左右もかなり薄くて細身、その可憐な姿はこれで大丈夫なの?という不安感も正直あるけれど、そこが新鮮な魅力としても眼に映るものでもあり、いずれにしろその儚いような佇まいにまず見入ってしまいます。
ちなみに日本で最も普及しているアップライトのサイズが高さ125〜131cm、奥行き70cm近くと上下前後左右に分厚く、それらに比べると遥かに軽快でモダンな印象。

サイズこそ小さいけれど、(A)の深いつややかな黒の塗装はまるで輪島塗のようで、その作りはこれ以上ないほどのクオリティで美しく、小さくとも高級品然とした独特な存在感を放っていることは、ある種の凄味を感じるほど。

肝心の音は、さすがに腹にズシンと来るようなものではないけれど、一音一音がハッとするほど磨き込まれた美しさで整っており、しかも高い音楽性や品格まで備えており、これはまぎれもなく高級ピアノ。
まるで、小さく作ることに意地と情熱を傾ける職人の工芸作品のようで、中央に小さく輝くC.BECHSTEIN のロゴがやたら誇らしい感じに見えてきます。
このサイズから予想されるような安っぽさや制約とは無縁で、とりわけ影響を受ける低音も破綻がないのはあっぱれで、とにかく音は明快で上質、タッチはどこまでもなめらか。
なぜこんなことができるのか…狐につままれたようでした。
一目惚れしそうで、できることならすぐにでも持って帰りたいような誘惑に駆られました。

その下位に位置するアカデミーシリーズのB.116Accentも、かなり好印象でした。
上位のContur118とくらべても、さほど遜色ないレベルが実現されており、これだけを弾けば十分に満足できるモデルですが、交互に弾くと、たしかに音の深みとか奥行きがややスケールダウンしていることがわかります。

W.HOFFMANNになると、前の2台を弾いた直後ということもあり、はっきりと格の違いを感じます。
はじめのC.BECHSTEINが夢の中にいるとしたら、次のBECHSTEINはその夢が少し浅くなり、HOFFMANNでは残念ながら現実というところでしょうか。

その意味では、(A)(B)(C)はだいたい60万円刻みの価格設定ですが、弾いた感じでは等間隔ではなく(B)は中央より(A)に寄っているようです。
あー、気になるものに触れてしまったなぁ…。
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手早くきれいに!

このところ急に寒さが厳しくなりましたが、早いもので今年も終わりに近づきました。
とくに平成としては最後の年末ですね。

年末ということで、お掃除ネタでおわるのも平凡ですが、まあ平凡で結構。

手早く済ませる、ピアノの塗装面(艶出し仕上げ)のお掃除について。

ピアノ掃除というかお手入れのためのケミカル品で、マロニエ君がどうにも好きになれないのは、メーカーが出しているピアノポリッシュの類で、あれはムラができやすく、きれいに仕上げるにはかなりの熟練を要し、うまく使いこなす前にイヤになってしまうことは以前にも書いた通り。

そこで自分なりにいろいろ試したあげく、ソフト99から出ている「ピアノ家具木製品手入れ剤」がもっとも使いやすく最良と思ってこれを使っていましたが、そうはいってもこれを塗布して磨きあげのはせいぜい半年〜一年に一回。
日常の殆どはホコリを取るだけの作業になりますが、これがなかなかしっくりくるものがありません。

基本は、ハンディタイプのホコリ吸着のモップ程度でいいと思うのですが、細かい部分や隅っこなどにホコリがたまるとなかなか除去するのが難しかったり、モップはモップで定期的に洗ったりする必要があって、それなりに手間がかかります。
また、厳密に言うと、軽いホコリ取り程度だけでは取れないホコリの層がしだいにできてきて、これをきれいにするには、やはりクリーナーを使うしかありません。

今回目をつけたのは、ダイソーなどで売っているフローリング用のワックスシートのたぐいで、売っているものは何種類かありますが、いずれも微量のワックスを染み込ませたクリーニングシートです。
使い捨てタイプで、何種類もありますが、だいたい12枚〜20枚入りぐらい。

もともとは本来の使用目的にそって床や階段を拭いていたところ、思ったよりゴミやホコリを除去するし、仕上がりも期待以上にきれいで、これはもしかしてピアノにいけるんじゃないかと思ったわけです。

ピアノの外側は、エアコン使用が続く時期ということもあってか、意外にホコリがたまり、きれいにしたつもりでもわずか数日でうっすらとホコリが見えてしまいます。

毎日のお掃除に怠りないような方はご参考にならないと思いますが、マロニエ君はピアノの掃除など週に一度するかどうかもあやしい状況で、うっすらホコリが見えるようになってようやく手をつける程度。

さらに、ホコリというのは、取っているつもりでも結局は掻き寄せてあっちへこっちへと移動させているだけということもあり、これを本当に除去するは意外に難しいもの。
とくにピアノはつやつやして平面が多いので、いやが上にもホコリが目立つもの。
さらに加湿器を使用すると、数日でピアノの表面にはうっすらと白い膜のようなものが付着し、これもハンディモップで取れないことはないけれど、もうすこしシャキッとさせたいところ。

このフローリング用のワックスシートは、当然使い捨てなので、ケミカル剤を使ったときのように柔らかい布を準備する必要もないし、モップでさえ定期的に洗濯することを考えたら、本当に簡単便利です。
おまけに薄いワックス効果もあって、細部までホコリを残さず簡単にきれいになるので、かなり使えると思いました。

ピアノを拭いた後は、ついでに部屋の中のあちこちをちょこちょこと拭いておけば、あちこちがきれいになるので今のところいいことずくめです。

もちろん、これは「ピアノ用」ではないので、自己責任にてお願いします。
ピアノがきれいになったところで、今年も終わりになるようです。
それでは来年もよろしくお願い致します。
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マルセル・メイエ

時代の流れに反抗し(ているわけでもないけど)、あくまで音源はCDにこだわり続けているマロニエ君です。

最近購入したCDで圧倒的に素晴らしく感激ひとしおだったのは、20世紀の前半から中頃にかけて活躍したフランスのマルセル・メイエのスタジオ録音集成という17枚からなるボックスセット。

ネットにあるCDの説明によれば、1897-1958の生涯。
パリ音楽院でマルグリット・ロンやコルトーの教えを受け16歳で卒業。
ラヴェルやドビュッシーの多くの曲の初演者であり、サティやフランス6人組、コクトーやピカソ、ディアギレフなどと音楽以外の芸術家とも深い関わりがあったらしく、フランスの最も輝く時代とともに生きたピアニスト。

つい先日、ギーゼキングのバッハでぶったまげて何日間もそればかり聴いて過ごしていたというのに、それをつい横にやってしまうような魅力ある素晴らしいメイエのピアノに驚きのため息が止まりません。
実をいうと17枚を聴くのにひと月ちかくかかりました。
なぜならあまりに素晴らしすぎて、繰り返し聴くものだから、なかなか次のCDに交換ということになりません。

しかも、17枚とはいっても、すべてCD収録時間ギリギリの80分近い収録となっているので、LP時代でいうと倍近い枚数になっていたものだろうと思われます。
それが、こうしてCDの小さくて簡素な箱に入れられ、一枚あたり定価でも200円ちょっとで買えるのですから、大変な時代になったものです。

この人のピアノを聴いていて、演奏の最も中心をなしているものはなにかといえば、それはセンスだと思いました。
ただ、センスという言葉で誤解されたくないのは、センスというとすぐにファッション的な意味合いや、繊細でオシャレ的な意味合いで受け取られることが多いのですが、そうではなく、演奏スタンスというか価値感という点で、しっかりしたスタイルの見切りがついている、あるいは楽譜を音楽的言語にいかに美しくデフォルメできるか…というふうに思っていただけると幸いです。

あまり枝葉末節にこだわらず、音楽の本質、開始から発展し収束に向かって終りを迎える個々の作品の短い生涯を再現するにあたって、最も大事にすべきものはなにかということを、この人の演奏はよく示してくれるように思います。
なので、もしメイエの演奏を聴いて何か影響を受けるとすると、それは直接の解釈とかアーティキュレーションではなく、音楽を自分流にどう捉えるかという本質であり、自分ならピアノの前に座ってどんな演奏を旨とするか、それをシンプルに考えるヒントにあるということではないかと思います。

現代の凡庸な演奏家の多くは、楽譜に正確に、完璧に弾けているというアピールばかりを詰め込みすぎて、肝心の「音楽」が本来の精彩を失い、聴き心地の悪いものになっている演奏で溢れています。
場所々々ではいかにも立派なように聴こえるけれど、全体として通すと詩もなければドラマもない、要するに何の魅力もない、音楽の神様が一瞥もくれないような演奏。
その真逆にあるものがメイエの演奏にはぎっしり凝縮されているわけです。

必要以上にもったいぶるようなことはせず、表現表情も過度にならず、それ以上は聴き手の感性に委ねられた、聴き手の感性を呼び起こす演奏なんですね。直接的にエグい表現などはまったくなく、どちらかというと毅然として澄みわたっている。
そのなんとも微妙なところが最高なんです。

技巧もそのまま現代でも第一線で通用するほど見事であるけれど、まったくそれを見せつけるような自慢や強調はゼロ。
ましてや楽譜に対する忠実ぶりを正義のように押し付けてくるわけでもないし、戦前のピアニストありがちな恣意的で独善的なものとも見事なまでに区別された、楽譜に批准した知的な演奏であることは衝撃でした。

どれを聴いても活気に満ち、音楽があるがままのように生きている。
昔はこういう人が自分の生きるべき場所に生きることができ、なすべきことがなされたこと、そんな当たり前が素晴らしいと思いました。
それは時代の力でもあり、まわりにいた多くの芸術家たちとの相乗作用もあって、このような演奏を生み出し支える大きな養分になったことでしょう。

今のピアニストは、ピュアな芸術家として生きるには、時代がなかなかその味方をしてくれないようです。
ひたすら技術と暗記のトレーニングに明け暮れ、あとはコンクールというレースに出てせっせと営業活動するなんて…それを外から軽蔑するのは簡単ですが、気の毒なこととも思います。
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カテゴリー: CD | タグ:

コンサートベンチ2

油圧式ベンチのメリットは、従来のもののように木と金属をネジで止める構造ではなく、座面のクッション部以外はほぼ金属のみで構成され、ベースは溶接一体式なので、捻じれや軋みが出る要素が圧倒的に少ないというところにあるようです。
しかも簡単なレバー操作で、油圧式の座面がサッと上下するので、丸いノブを延々ぐるぐる回す必要がないのは画期的。

数社から類似品が出ているようですが、外観からはなかなか見分けがつかず、イタリア製とかスペイン製などとあるだけで、実際に座り比べのできるような店もなく、ピアノの椅子がないわけでもないので、しばらく静観することに。

イドラウ社というスペインのメーカーを知るようになったのもこの頃で、ファツィオリなどはイドラウ社のベンチを使っているようで、以前の「バルツかジャンセンか」の時代は過ぎ去り、ランザーニ、ディスカチャーチ、アンデクシンガーなどのメーカー名も次第に広がってきたように思います。

そもそもマロニエ君はピアノにこだわるなら、それを弾くための椅子はとても重要という考えで、靴にこだわるのとどこか通じているかもしれません。
どんなに素晴らしいピアノでも、椅子がサービスのしょぼい廉価品では、座り心地はむろんのこと、ビジュアルとしてもキマらない感じがするのです。
普通のピアノでも、コンサートベンチを置いただけでたちまち風格が漂い景色が変わるし、使い心地においても安定感があって快適なので、個人的にはコンサートベンチはピアノの如何にかかわらず強くオススメします。

ところが、ピアノにはこだわっても椅子には一向に関心を向けない方って多いんですね。
この何年かの間に、知り合いなどでピアノを買われた方が何人かおられ、そのたびに椅子はいいのを買ったほうがいいとアドバイスしますが、そうされたのは約半分。
買われた方は、みなさん例外なく「買ってよかった」「気がつかなかった」といわれ、その余裕ある座り心地を日々実感されているようです。
実際、コンサートベンチは一度使うと、おそらく二度ともとには戻れないもので、見た感じもいかにも本物といった重厚感があふれて、ピアノはもちろん部屋の雰囲気まで一気に引き立ちます。

かくいうマロニエ君も、自室のシュベスターにもはじめに買ったコンサートベンチを使っていますが、アップライトでもとても似合いますが、それを見た調律師さんも「アップライトでこういう椅子を使われる方はいないですね」とのこと。
ちょっとしたことで、練習にも身が入るんですけどね…。
アップライトにカバーを掛け、普及品の椅子を置くと、それだけで「子供にピアノやらせてます」的な雰囲気で、むこうからおかずの臭いがしてきそうですが、コンサートベンチひとつでまったく違った世界になります。

さて、油圧式ベンチですが、それほどお高いものではなくだいたい10万円前後で、その中ではイドラウがややお安いぐらいでしたが、日本のイトーシンからも似たようなものが発売され、こちらは価格は約半分。
なんでもドイツのヤーン社のOEM生産品ということのようですが、なんかカタチが好みじゃなくてこれはボツ。

で、イタリア製とやらもどこで売っているのかもよくわからないし、そうなるとイドラウかなあと思っていたところ、ドイツのアンデクシンガー製があることがわかり、お値段はほんのちょっと高めですが、ドイツ製の椅子はひとつもないのでその点でも惹かれました。
調べていくと評価も高く、ベーゼンドルファーの取扱店や、ファツィオリも油圧ベンチに関してはアンデクシンガーを推奨しているようなので、結局これを買うことに決めました。

それが最近届いてさっそく使っているのですが、さすがはドイツ製だからか、あるいは油圧ベンチ全般がそうなのかはわかりませんが、腰を下ろすとギョッとするほどしっかりしており、まさに床に固定でもしたように微動だにしないのはかなり驚きました。
加えて高さ調整の簡単さは群を抜いており、この点で重宝されていたトムソン椅子でもいちいち後ろに回って上げ下げしなくてはいけなかったものが、油圧ベンチは座ったままサッと微調整もできて、とくに奏者が入れ替わるコンクールや発表会などでは、もはやこれに勝るものはなく、その手のイベントには必須アイテムではないかと思います。

そうは言っても、うちでピアノを弾くのはマロニエ君のみで、高さ調整も一度すればほとんどする必要もなく、さほど役に立っているとも言えませんが、ピアノを弾くお客さんがみえたときには役に立つことでしょう。
現在グランドの前にはランザーニとアンデクシンガーのベンチが2つ並んで、なんとなく自己満足。

後からネットで知ったことですが、ランザーニ社は社長の死去に伴って会社自体が廃業した!とのことで、もはや購入できなくなっているとのこと、思いがけなくコレクターズアイテムになってしまったようです。

追記:文中の日本製と思っていた油圧ベンチは、ネットでよくよく調べたら近隣国での生産品でした。うっかり日本製と勘違いするところでした。
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コンサートベンチ

必要もないのに、意味もなく欲しくなるものってありませんか?

マロニエ君にもそんなものがいくつかあって困りますが、その中の一つがピアノの椅子。
中でも欲しくなるのはコンサートベンチ、すなわちコンサートのステージでも使われる椅子のこと。

たしか20年ぐらい前のこと、それまで使っていた普通のダサいピアノ椅子に我慢できなくなり、よくわからないまま日本のピアノ椅子では有名メーカーのコンサートベンチを購入。
当時は注文制で、座面を本皮、足の部分を黒のつや消し仕上げで購入しましたが、これが見た目はたいそう重厚で立派なんですが、一年もしないうちにギシギシと雑音が出始めて憤慨。

で、次に買ったのが、ヤフオクで見つけたカワイ純正のコンサートベンチで、ピアノメーカーがコンサートで使うものなら間違いないだろうと思ったのですが、その期待もあえなく裏切られて、こっちははじめから雑音があって前回以上に落胆。
これは中古品だったものの、そんなに使われたとは思えない美品で、大きさ重量ともに立派だし、サイドには小さなKAWAIのエンブレム付きであるにもかかわらず、盛大にギシギシいうのはびっくりでした。

調律師さんが、調律に来られたついでにCRC(潤滑剤)を吹きつけたり、一度は自宅に持ち帰って各所を増し締めしたりとかなり奮闘してくれましたが、音が消えるのはしばらくの間で、そのうち再発しはじめて、時間経過とともに完全に元に戻るのには閉口させられました。
そのうちこの2つに関してはあきらめてしまい、やっぱり日本製はダメだと思い、輸入物を狙うことに。

一時代前までのコンサートベンチは、ヤマハはヤマハ製、カワイはカワイ製を使い、スタインウェイやベーゼンドルファーではドイツのバルツ製、あるいはアメリカのポール・ジャンセン製というのが定番でした。
バルツはいかにも高品質な感じはあるものの、古いメルセデスみたいな実直なで遊びの一つもないデザインがあまり好きになれず、対してジャンセンのほうがデザインが好ましく、価格も少し安いこともあってか、当時のコンサートの多くがこれでした。

というわけで、次はポール・ジャンセンだと心に決めていたのに、さる輸入ピアノ店のオーナーにして技術者の方によると、ポール・ジャンセンも所詮はアメリカ製品で、いずれ雑音が出始めるのは避けがたいとのこと。
その時点ではジャンセンのベンチにはかなり思い入れもあり、聞いたのがいよいよ購入する直前のことだったので少なからずショックを受けました。
でもまあ、安くもないものを期待をこめて買った後に3たび裏切られるよりは、事前にわかってよかったと思い直すことに。

というわけで、では雑音が出ないという観点から最もオススメのコンサートベンチはなにかと尋ねたら、即座に「イタリアのランザーニ製でしょう」との回答でした。
イタリア製は車好きの経験から、デザインやスピリットは認めるとしても、品質に関しては大いに疑問符がつくイメージがあったので、俄には信じ難い気もしましたが、その方は抜きん出て知識が豊富で信頼のおける方であったし、自信をもって推挙されるので結局それを購入することになりました。

当時ようやくこのベンチがコンサートで使われはじめた頃で、側面に赤いラインが2本入り、座面ステッチにも赤い糸が使われるあたりいかにもイタリアンで、すでにポリーニなどが使っていたし、ホールにも結構あるようで今でもときどき見かけます。
そのころ、このランザーニのコンサートベンチを取り扱っているのは松尾楽器商会だったので、ここから購入。

送られてきたそれは、これまでの2つのコンサートベンチにくらべて明らかにガッシリしているし、かなり重く、たしかに作りもかなり堅牢、どんなに重心移動してもミシリとも言わず、まずこの点においてはかつてない頼もしさがありました。
いやな雑音からも解放されたのはよかったけれど、強いていうなら座面のクッションの沈み込みがほとんどない平坦な作りなので、厚みのあるクッションの感じがないのは少し残念でした。

でもとりあえずこれで落ち着いたことでもあり、部屋にコンサートベンチばかりごろごろしていても仕方がないので、カワイ製のものは人にあげて整理をつけたころ、今度は油圧式のベンチがちらほら出始めました。
はじめは「骨組みだけの変な椅子」としか思わなかったけれど、コンサートでもこの油圧式のベンチがしばしば目につくようになり、実際に楽器店で腰を下ろしてみると、これまでのものとは違った心地よさがあって良さを認めざるを得なくなります。

慣れの問題もあって、見た感じはさほど好きにはなれなかったけれど、抜群の安定性、レバーひとつの高さ調整のしやすさなど、とくに機能面では有利なんだろうと納得し、早い話が今度はこれが欲しくなったというわけです。

続く。
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ディアくまもん

熊本は福岡からはおよそ100km少々で、近いといえば近く、遠いといえば遠いところ。
東京からいうとちょうど御殿場ぐらいの距離で、行こうと思えばいつでも行けるものの、気軽にサッと往復する距離でもない微妙な距離でしょうか。

たまたま所用で熊本に行くことになったので、これは好機とばかりに予定より早く出発して、とあるピアノ店におじゃますることに。
市内中心部の幹線道路に面した店舗で、ここが珍しいのはディアパソンを販売のメインとしているところです。

ご店主自らご対応くださり、いろいろと興味深いお話を伺い、店内のピアノもほんの少し触らせていただきました。
ディアパソンといえばマロニエ君も3年前まで自宅で使っていたこともあり、とても親しみ感じるピアノですが、一般的な認知度はヤマハ/カワイという巨大勢力の前では、あくまでもマイナーブランドという位置づけ。

それでも、この数十年で日本国内の多くのピアノブランドが次々に消滅してしまったことを思えば、生みの親である大橋幡岩さんがブランドごとカワイ楽器に譲渡していたことが幸いして、今日まそのブランドは保たれ、少数でも生産されているのはまさに奇跡的といっていいかもしれません。

とはいえ近年のモデルは順次整理が進み、大橋氏が設計した3種のグランドはついに183cmのひとつを残すだけになってしまいました。
さらには今年のことだったと思いますが、カワイ傘下の子会社として運営されていた株式会社ディアパソンが、ついに統合されてしまったようです。
これによりディアパソンとしての独自性はさらに制限を受けることになるのか、あるいは新たな道が拓けていくきっかけになるのか、マロニエ君ごときにわかるはずもないけれど、むろん後者であることを願うばかりです。

会社の話なんぞするのは無粋なので、ピアノの話に戻ると、ディアパソンは現在でも一部のファンにとっては、なかなかの人気ピアノなんだそうで、ご店主曰く「モデルによっては生産が追いつかず、注文したものがやっと届くというような状況」というのですから、これは意外な驚きでした。
そんな好調な売れ行きの裏には、ディアパソンに惚れ込んだ販売店が、熱心にその魅力を説いていくことに日々奮闘されているという、いわば草の根の努力あってのことと思われ、そこはまさにそういう店なのだと思われます。

むかしのように「良い物さえ作っていれば、お客さんは必ずついてくる!」というような法則は崩れ、どんなに優れたものでも、それをいかに周知させ、果敢に良さを説いていくか、これに尽きる時代ですから大変です。
特にピアノはヤマハ/カワイという両横綱を相手に、ディアパソンという平幕が金星を勝ち取らねばならないのですから、ご店主の努力と情熱は並大抵のものではないと推察されます。

店内には4台のグランドがあり、新品では定番の183cmと猫足の164cm、レッスン室で使われているのはディアパソンとボストンいずれも奥行きが178cmというものでした。

3台のディアパソンには明確に共通する特徴があり、それは音とタッチだと思いました。
ディアパソンは昔から広告に「純粋な中立音」と謳っていますが、中立音というのがこういう音なのかどうかはわからないけれど、その音には飾り気のない素朴な味わいとズシッとした重みがあって、どちらかというと昔気質のピアノだと思います。
タッチも同様で、今どきの軽やかなアクションではなく、やや重めのタッチできちんと弾かされる感じでしょうか。

驚くのは、ディアパソン伝統のオリジナルではないモデル、すなわちカワイベースの164cmや178cmでさえ、骨太なディアパソンの音がしっかりすることで、決してマークを貼り替えただけではない、ディアパソンらしい音の特徴がしっかりと保持されていることでした。
ボディや響板は同じだとすると、この「らしさ」はどこからくるものなのか、おおいに興味を覚えるところです。

少なくともカワイと違うのは、今だに木製アクションを搭載していることや、ハンマーなどのパーツが違うということはあるかもしれませんが、それだけでああもディアパソンの音になってしまうものなのか、これは非常に不思議でした。
個人的な印象でディアパソンを人間に喩えるなら、根は優しいけれど心にもない作り笑いや耳障りのいいトークなどは苦手な正直者で、長く付きうならこっちというタイプだと思います。

ただし、アクションに関してだけは、もう少し今どきの新しさを採り入れて欲しいというのが正直なところ。
さすがにヘルツ式にはなってはいるのでしょうが、依然としてボテッと重く、指の入力に対してアクションの反応にわずかな齟齬があるのは少々の慣れを要します。
マロニエ君もこのタッチに関してだけは、ディアパソンを所有しているころ、ずいぶんと調律師さんにお願いして改善を試みましたが、それにも限界があり、かなりのところまでは持って行けたと思いますが、根本的な解決には至りませんでした。

カワイの樹脂製のアクションになるとしたら素直には喜べないとしても、少なくとも現代的なストレスのないアクションが組み込まれたら、それだけでもディアパソンの魅力が倍増して、理解者・支持者(要するにお客さん)が一気に広がるのではないかと思います。

個人的な好みをいうと、ピアノ店には営業マンが何人もいるような規模は必要なく、この店のようにご店主自ら一つのブランドに精通し、業界に確かな人脈をもち、その魅力をひとりひとりに説きながらファンの裾野を広げていくというスタイルが理想的で、楽器はそもそも本来そういう世界ではないかと思います。
聞けば、遠方からでもディアパソンに興味のある方はわざわざここを訪ねて来られるそうで、結果として納入先は九州全体に広がっている由、納品時の写真を収めたものという分厚いアルバムがその事実を雄弁に物語っていました。

ディアパソンあるかぎりますます頑張っていただきたい貴重なお店でした。
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ガラクタ漁り

古本店の中古CDはクラシックなどほん少しあるだけで、期待もしていなかったところ、たまたま面白いもの(しかも廃盤)がまぎれていたことで、ビギナーズラックだったと考えるべきなのに、つい味をしめて二度三度覗いてしまいました。

当然、そんな偶然が続くはずもなく、結果は玉石混交、失敗も少なくありません。
いいものについてはあらためて書いてもいいけれど、中には安さゆえに冒険心と欲に煽られて、普段だったら買わないようなものにまでついつい手を出してしまいます。

もちろん、興味を覚えたものはそれなりにいちおうは吟味して買っているつもりですが、しょせんはガラクタ漁りであって、ヘンなものをいくつか買ってしまいました。

掘り出し物も中にはあるから、勝敗は五分五分だとしても、五分五分ということは結局いいものを倍の値段で買っているようなもので、ま、せこい遊びとして、それはそれで楽しんでいます。

いくつかご紹介。
名も知らぬドイツ人ピアニストによるショパンの14のワルツというのがあって、いまさらショパンのワルツでもないけれど、裏に記された小さな文字に興味がわきました。
演奏者の名前のすぐわきに(Bechstein)という文字があり、ベヒシュタインによるショパンというのはどういうものか聞いてみたくなり購入。
ところが、これがもうウソー!と声を出したくなるような下手な演奏で、おまけに録音もぜんぜんパッとしないもので、1曲めでやめようかと思ったけれど、それじゃあまりに悔しいから一度だけ我慢して最後まで聴きましたが、それでハイ終わり。

むかし天才などと言われて有名だった日本人によるヴァイオリン名曲集。
若いころ、来日中のコーガンの目に止まり、彼が教えることになってソ連に行って研鑽を積み、帰国後は有名な画家と結婚した方。
この人は名前ばかり知っていて、まともに演奏を聴いたことがなかったからいいチャンスと思ったけれど、これがもうやたら古臭い、昭和の空気がどんよりただよい、日本人がここまで弾いてますよ!というだけのもので、とてもその演奏に乗って曲が羽根を広げるようなものではない。
当時のソ連にはただ上手い人なら日本とは比較にならないほどごろごろしていただろうし、コーガンほどの巨匠がこの人のどこにそんなに惚れ込んだのかと頭をひねるばかり。

ウェルテ・ミニョンの大いなる遺産ー19世紀後半の名ピニストたち。
あとからわかったけれど、ウェルテ・ミニョンは昔のピアノ自動演奏装置のことで、それを知らなかったばかりにすっかり騙されました。古いレコードのコレクターぐらいに思っていたのです。
マロニエ君は昔からピアノロールなどの自動演奏というのが嫌いで、これで録音したCDなどは決して買わないのですが、購入して中を見てはじめてそうだと判明。それをアメリカのブッシュ&レーンというピアノに取り付けて、往年の巨匠たち、すなわちプーニョ、パハマン、ザウアー、パデレフスキなど総勢8人によるショパン演奏でした。
この装置がどれほど正確に記録/再現能力があるのかは知らないけれど、聴こえてくる演奏は、どれも信じられないほど不正確で、大雑把で、あちこち好き勝手に改竄された演奏。技術的にもその名声にふさわしいとは到底いいがたく、そういう時代だったということは踏まえるにせよ、ひととおり聴くだけでもストレスを伴うものでした。
大半はメチャクチャといいたいような演奏で、最もまともだったのは日本にも馴染みのあるレオニード・クロイツァーの革命で、8人中たったひとりまともな人に会ったような印象でした。
ブッシュ&レーンというピアノも、良く鳴ってはいるようだけれど、鋭いばかりの耳障りな音で演奏と相まってかなりストレスがたまりました。

ジェシー・ノーマンのシューベルト歌曲集。
例によって神々しい、ビロードのような美しい声だけど、シューベルトの音楽がやけにものものしくゴージャスにされているようで、なんだか釈然としませんでした。個人的にはもう少し、簡潔な美しさの中に聴くシューベルトのほうがしっくりくるし好みです。
もちろん歌手としては途方もない存在であるのは疑いようもないけれど、ミスマッチなものでも無抵抗に有り難がっていた時代があったことを思い出しました。

「安物買いの銭失い」とはまさにこのことだと思いますが、趣味や楽しみにはムダはつきもの。
ムダや失敗のない趣味なんてあり得ないのだから、それをふくめて楽しんでいると勝手にオチをつけています。
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カテゴリー: CD | タグ:

島村クラシック店

島村楽器は毎年、博多駅ターミナルビル内のイベントホールで大規模な「ピアノフェスタ」というのをやっていましたが、気がつけば天神でも開催されるようになり、7月に続いて11月も「ピアノフェスタ福岡2018winter」というのをやっているというので、せっかくなので連休中に覗いてきました。

駐車場がどこも満車なので、空きが出てくる18時近くに行ってみると、会場はえらく静かな雰囲気でした。
お客さんよりお店の人の数のほうが圧倒的に多く、これじゃあ気の弱いマロニエ君は音なんぞ出せません。
とはいっても、グランドに関しては置かれているのは大半がヤマハ、それも売れ筋のC3の中古が5台とか、それ以外もこれといって興味を覚えるようなものは今回は見当たりません。

営業のお姉さんがほどよい感じで話しかけてきますが、その会話の中に「今度、ももち店というのがオープンしまして、そちらには…」というので、ん?なに?と思ったら、これが思いがけない情報でした。

ソフトバンクホークスの本拠地であるヤフオクドームの目の前の商業施設が新しく建て替えられて、マークイズという商業施設に生まれ変わってオープンしたというニュースをテレビでやっていましたが、そこに島村楽器の福岡ももち店ができて、アコースティックピアノを専門に扱う「クラシック店」ができたというのですからびっくり。

だいたいマロニエ君は、この手の商業施設というのにあまり興味はなく、どれだけ鳴り物入りで新しくできたとて、しょせんは似たりよったりの同じような店がまたかという感じで入るだけで、もういいかげんあきあきしているので、まず行ってみる気はなかったし、もし行くことはあっても当分先だろうぐらいに思っていました。
まさかそこに、島村楽器の「クラシック店」ができているとは知りませんでした。

オープンからまだ数日、しかもはじめての連休とあって相当の人出のようだけれど、夜になれば多少は人も減って車も置けるかもと思い、聞いた勢いでそちらに向かってみることに。
近づくと、19時というのにやはり人も車も多いようで、誘導にしたがってドーム前をぐるぐるとまわらされたあげくにやっと立体駐車場に車を止め、施設に踏み入れると、いやあものすごい人の波。

思った以上に大きな施設のようで、どこになにがあるのかさっぱりわかりません。
これは探すのが大変と思っていたら、駐車棟から渡り廊下を渡ったところが施設の3階にあたり、島村楽器もちょうどこのフロアにあり、わりにすぐ見つかりました。
パッと見たところは、あちこちのショッピングモールでよく目にする島村楽器の店舗なのですが、中に奥深く伸びた一角があって、壁で仕切られた向こうにはグランドピアノがずらりと並んでいました。

入って行くと、表の喧騒からは隔絶されたエリアとなり、ボストン、スタインウェイ、ヤマハ、スタインベルクなど、グランドだけでも8台ぐらいはあったような気がします。アップライトはたぶんそれ以上でしょう。

最も印象的だったのは、3台あるボストンのグランドの中で最大のGP-215。
そのタッチはまるでとろけるようで、適度な抵抗が実になめらか、上質なもので包み込まれるようにキーが沈みます。
しかも決して鈍重ではなく、返りも俊敏、まったく思いのままに弾けるのは驚きでした。

指というのは必ずしも常に最適な動きやコントロールができているわけではないから、そこには当然ばらつきがあるわけですが、それをこの鍵盤+アクションはうまく吸収してくれて、まるで高級車のサスペンションのように凸凹を呑み込んでくれます。
それでいて必用な強弱や表情はイメージしたままに付けられるし、トリルなどもより細かいことが可能で、これにはいきなり感心させられました。
これまでにもボストンはちょこちょこ触れたことはあったものの、とくだんの印象はなく、GP-215に触れたのは今回がはじめてでした。記憶とはあまりにもかけ離れた印象のピアノだったのはちょっと衝撃で、やはり最大モデルだけあって、作りや調整なども別格なんだろうという印象を受けました。

音もじゅうぶんに満足できるだけのものがあり、このサイズで400万円強というのは、ほかを見渡すと相当すごいことかもしれません。
それと、より高価なSK-6やヤマハのS6が、行き着くところはやっぱり「日本のピアノの音だなぁ」と思うのに対し、ボストンは違う血が流れているとマロニエ君は思いました。

ボストンGP-215と向い合せに置かれていたのがスタインウェイ。
新品のように見事にリビルドされたBですが、フレームの穴の周りには丸いイボイボがあって戦前のモデル。
聞けば1933年製との事でしたが、弾いた感じも実に若々しく元気によく鳴っていました。
サイドには、Dと同じサイズの特大ロゴが埋め込まれていて、えらくそれがキラキラ光っているのは、ちょっとやり過ぎでは?と思いましたが、お値段も相当なもので、それを買われる方は、その証がほしいのかもしれませんね。

いずれにしろ面白いピアノスペースが一つ増えたし、この常設店舗のほうがよほど上質でわくわくする「ピアノフェスタ」でした。
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ピアノのレクサス

知人からお誘いいただき、カワイのショールーム内に併設された小さなホールにシゲルカワイのコンサートグランド(SK-EX)が期間限定で置かれていて、ひとり30分弾けるというので、行ってきました。

あるていど予想はしていたけれど、今どきのテイストですべてが完璧に整えられた、まさにピアノのレクサスとでもいったところでしょうか。
たしかによく作られており、製品としては素晴らしいとは思うけれど、楽器としての生命感とか血の通った感じはなく、熱くなれないところがいかにも今っぽいなあと思いました。
至って機械的で、現代のハイテク技術で正確無比に作られた豪華なお城みたいな感じ。

いかにも新品然としていたので、おそらく最新もしくはそれに近いモデルだと思われましたが、これといったクセもムラもない、全音域にわたって見事に整いまくっていました。
あまりに整いすぎて、かつてはEXなどにあったカワイの特徴らしきものまで跡形もなく消えてしまっており、もしブラインドテストでもされたら、メーカーを言いあてることはかなり難しいだろうと思いました。

これまではやや野暮ったいところも含めてカワイらしさがいろいろありましたが、いつの間にここまで宗旨替えしたのか、たいそう洗練されて、昔のカワイから思えば隔世の感がありました。

今どきの製品としては最高ランクに列せられるコンサートピアノだというのはわかるのですが、ひたすら他社のコンサートピアノと肩を並べること、嫌う要素を残さないように徹したという感じ。
音も「きれい」ではあるが、「美しい」という言葉を使うときの深くて底知れぬ世界とは違います。

当節は、良好な人間関係を築くためには自我を出さないことが肝要なようですが、まさかそれがピアノにまで求められるようになったのかと思うと、なんとも寂しい限りです。
個性やインパクトは評価が分かれるから危険で、それらを排し、コンクールの檜舞台でまんべんなく点数が稼げるピアノ?

SK-EXといえば、むかし楽器フェアの会場が池袋から横浜に変わったころ、ほとんど試作品みたなSK-EXをちょっとだけ触ったことがありますが、えらくスタインウェイを意識した感じで、それがいいかどうかはともかく、作り手の気迫みたいなもの伝わってくるピアノであったような記憶があります。
EXにくらべてブリリアンスとパワーがあきらかに増していて、そこには欠点やはみ出しもあったかもしれないけれど、とにかく熱いものはありました。

それとは対照的に、今回弾かせてもらったSK-EXは、徹底的なリサーチのもとにネガ潰しされつくしたのか、あえて主張めいたことはせず、デジタル一眼カメラのようなクリアーな面だけを出すように作られたピアノという印象でした。
コンクールと同様、今どきは個性は必ずしも長所とならない時代、このSK-EXはむしろその点を注意しながら作りましたよ!というのが前に出ていて、コンサートグランドならぬコンクールグランドとでもいいたくなる、そんなピアノでした。

今回はカワイショップの企画のお陰で、無料で弾かせていただくことができたもの。
タダで弾かせてもらっておいて、言いたいことだけ言うのは甚だ申し訳ない気もするのですが、だからといって心にもないことは書けないし、これはあくまでもアマチュアのピアノ好きの戯れ言なので、何卒お許しいただきたいところです。
こういう機会を作ってくださったカワイショップのご厚意には深く感謝しています。

蛇足ですが、今回も思ったのは、カワイのフルコンって、なんであんなにボディの側板がぶ厚いんだろう?ということ。
思わずミニカーでも並べたくなるほどで、そういえば昔から、カワイは響板も厚めなんだとか。
カワイは熱いかどうかはともかく「厚い」ことは今も確かに受け継がれているようです。
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夢の2時間

今どきスタインウェイDを備えているホールなんて、日本国内のいたるところにごろごろしていますが、そのほとんどがハンブルク製で、ニューヨーク製のあるホールはほんの数えるほどしかありません。
100台中1台ニューヨークがあるかどうかでは…。
ましてハンブルクとニューヨーク、両方を備えているホールはそうあるものではないでしょう。

そのきわめて珍しいホールが、なんと福岡県内の小さな町にあるのです。
バブル真っ只中に作られたと思われ、コンサートさえやっているのかどうか疑わしいような山の麓みたいなところにそれはあり、今だったらあり得ないことでしょう。
しかも町立の文化施設なんですから驚きます。

そこが開館30周年を記念して、所有するスタインウェイを弾かせてくれるイベントをやっているという貴重な情報が知人からもたらされました。
通常、ホールのスタインウェイを弾くリレーイベントみたいなものはあるけれど、あれはひとりわすか数分という制限付きで、老若男女が次から次へと順番に弾いていくというスタイル。

ところが驚いたことにこのホールでは2時間ずつの割当てで、料金も俄には信じられないほどお安いものでした。
ただし、ステージの反響板と空調はなしというもの。
さっそく予約の電話してみると、希望する日にすんなり予約が取れ、15時から17時までの2時間がキープできました。

このとき、ピアノはハンブルクとニューヨークのいずれを使うかを尋ねられるので、迷うことなく触れるチャンスの少ないニューヨークを希望しました。

福岡市内からかなり距離があり、車でおよそ2時間弱で到着、すぐに受付をして申し訳ないほどお安い料金を支払うと、担当の方が先導してしずしずとホールへと案内してくれます。
ステージには希望通りにニューヨークのDが準備されており、こんな本格的なホールでこれから2時間弾くのかと思うと、嬉しいような畏れ多いような、なんとも複雑な気分になるものですね。

そのスタインウェイは、まるで「私」が来るのをじっと待っていてくれたように見えました。
蓋は全て閉じられており自分で大屋根まですべて開け、軽くキーに触ってみると、ワッと迫ってくるような鳴りの良さが瞬間的に伝わってきて、これはタダモノではないというのが第一印象。
ここで臆していても始まらないので意を決し、バッハから少しずつ曲を弾いていきましたが、その充実した鳴りと音の美しさは、これまでのニューヨークのイメージまでも塗り替えるような素晴らしいもので、陳腐な表現をするならいっぺんで恋に落ちるようなピアノでした。

何を弾いてもピアノが包み込むように助けてくれるし、本来はニューヨークの弱点でもあるはずのアクションの感触もまったく問題なく、思ったことが思った通りにできて、ささやくような弱音から炸裂するフォルテ、声部の歌い分けや意図した表情付けまで、あくまで自分のできる範囲ではあるけれど、まったくもって自由自在でした。

場所やピアノが変わると、その緊張から、家では「できる」ことが「できない」ということは、ピアノを弾く者にしばしば襲いかかることですが、このとき不思議なぐらいそれはなく、自分の指先から極上の美音がホールの響きに合わさってすらすらと最高のサウンドに変換されていくさまは、ゾクゾクするようで弾きながら陶然となるばかり。
実はこの日、本来ないはずの反響板も設置されていて、それもあってホール本来の響きも併せて経験できたのだと思います。

4冊ほど準備していた楽譜の中の数曲もじきに終わり、あとは思いつくままにずっと弾いていましたが、途中休憩もせず、2時間がサーッとすぎてしまったことは自分でもびっくりでした。
時間的には一夜のリサイタル分ぐらいは優に弾いたことになり、ピアニストはこうした高揚感が病みつきになって、苦しい練習も厭わずにコンサートをしたくなるんだろうなぁと、ちょっとだけその心情の一端が見えたようでした。

これで座席にお客さんがいて、そこそこの演奏ができて、拍手喝采となれば、そりゃあ気持ちいいでしょうし達成感があるでしょうね。

とにかくピアノは申し分ないし、ホールは600席なのでピアノには最適なサイズ。
ホールの残響というのがこれまた麻薬的で、演奏が何割増しかで音楽的に嵩上げされるし、多少のアラも隠してくれることがよくわかりました。

このニューヨークは、ハンブルクにくらべるといい意味での野趣がありましたが、それは決して粗さというのでもなく、ほどよい色艶もちゃんともっていたし、低音などはボディがぶるぶる震えるほど鳴りまくっていました。
またニューヨークには軽めの淡い音のするピアノも少なくないけれど、ここのピアノには意外なほどの濃密さがあり、中音も豊かでたっぷりしており、ちょっと痩せ気味になる次高音域も青白い刀身のような切れ味をもって華麗に鳴りわたり、どこまでもよく歌いよく鳴ってくれました。
この時代のスタインウェイには他を寄せ付けいない圧倒的な凄みがあり、それを維持するだけのふさわしい管理がされている点もまったくもって驚きでした。

舞台袖を入ったところにはハンブルクも置かれており、シリアルナンバーを見ると、2台ともちょうど30年前の製造で、よけいな味付けや小細工をされていない、まさに好ましかった最後の時期のスタインウェイの真価を堪能することができました。

終わって外に出たときは、なんかわけもなく「あー…」って感じで、あまりに素晴らしい時間を終えたあとの虚脱感だったような気がします。
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アップライトの魅力-2

前回に引き続き、アップライトピアノの魅力について。

現実的な住環境の中での使ってみると、アップライトはスペース効率において優れているのみならず、弾いた感じにもアップライトならではの良さがあることも次第にわかってきて、むやみにグランドはいい、アップライトはその下、という単純な図式がマロニエ君の中ではやや崩れつつあります。

《音の特徴》
アップライトは弦と響板が床に対して直角に立っており、音の発生源が弾く側の全身にまんべんなく近い位置にあるためだと思われますが、グランドよりも音の立ち上がりがよく、より身近にピアノの音に接することができるという独特な気持ち良さがあって、この感触はグランドではなかなか得られないものではないかと思うのです。
よってアップライト特有の迫力というのがあるし、自分の出している音のニュアンスや強弱に対しても敏感にチェックができるという点では、曲を仕上げる際に、よりデリケートな部分にまで意識が行き届くという面があるように思います。

《タッチ》
もちろんタッチは理想的とはいえませんが、慣れてくるとそれほど不満にも感じなくなるし、音もよく聴けて、丁寧な練習をするにはアップライトというのは思ったより有効なものだと思うのです。
とくに繊細なタッチコントロールがグランドより難しいため、アップライトであえてそこを練習することは、より精度の高い練習にもなり、悪いばかりではないと感じます。

《気分》
心理的なことをいうと、グランドの場合、奥に向かって広がる空間が寒々しく虚しく感じることがあるのに対して、アップライトでは床から頭のあたりまで縦にピアノで、そのすぐ向こうは壁なので、これが妙な安心感と落ち着きを覚えます。
感覚は個人差もあるとは思いますが、グランドの下の空間なんて、考えてみればちょっと不気味で、冬とかは必ずしもいい感じはしません。

また、弾く気まんまんのときはともかく、はじめの譜読みや、フィンガリングを決めて練習を重ねていく段階では、個人的にはアップライトのほうが環境的にじっくり取り組めるし、こじんまりした楽しさがあって、これってけっこう大事なことではないかと思うのです。

もちろんこれはマロニエ君のように趣味でとろとろと弾いて楽しむ場合の話であって、プロのピアニストやコンクールを目指すような方はアスリート的勝負の要素もかなりあるから、そんな甘っちょろいことを言ったり思ったりしているヒマはないでしょうけれど…。

《音》
音は個々のピアノによって千差万別なので一概には言えませんが、これだけは言っておきたいこととして、一般に思われているほどグランドがどれもこれも素晴らしくてアップライトを凌駕しているわけではないということ。
とくに小型グランドでは低音の巻線部分などはかなり情けない音しか出ないものはたくさんあるし、それに比べてもはるかに大人びたキザな低音を出すアップライトもあるあたり、巷のイメージほどなにもかもグランドがエライわけではないし、場合によってはアップライトが勝っているところもあるので、そこは正しい認識と冷静な判断が必要だろうと思います。

それに誤解を恐れずにいうと、ピアノの練習はいつもいつも弾きやすい素晴らしい楽器でばかりやるのが、すべての面で効果があるとは言い難い面もあるという事実。できる限りいろいろと楽器を変えて弾くほうがゆるぎないものがあり、いつも同じ部屋、同じ楽器でばかり弾いていると、場所やピアノが変わっただけで狼狽してしまうことがある。
ピアノを奏するというのは、非常にセンシティブな行為なので、楽器が変わってもすぐ対応できる柔軟性をもつことも非常に重要だと思います。

実際に使ってみると、アップライトもかなり魅力的な存在だということが身をもってわかりました。
大型高級車が常にいいわけではなく、日常生活のなかでは、取り回しの良い小型車がしっくりくる場面があるように、それぞれの得意分野があるというところでしょうか。
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アップライトの魅力-1

自室にシュベスターのアップライトピアノを置いてから2年近くになりますが、はじめの半年ほどは良くも悪くもその印象があれこれと変わりました。
それはアップライトピアノという機構に対してでもあったし、シュベスターというメーカーに対する評価でもあり、とにかくいろいろなことに感じるものや思うところがさまざまあって、それが定まるまで一定の慣れみたいなものが必要だったのかもしれません。
ピアノ自体もはじめはどこか不安定さがあり、調整なども何度も繰り返しましたが、今年になってからでしょうか、落ち着きが出てきて、それなりの艶やかさがでてきたようにも感じます。
そういう時間を経ながら、自分自身のピアノへの接し方も少し変わりました。

ピアノとしての機能とか楽器としての潜在的な能力でいうとグランドのほうが優れているのは論をまたないことで、とくにアクション構造の違いからくるタッチについては、いまさらここで言うまでもないこと。
ほんらいピアノとはグランドのことであり、グランドのかたちで創り出され発展したものだから、こちらのほうが楽器として自然であるのはいうまでもなく、アップライトはそれを敢えて縦置きにした、いうなれば妥協の産物です。

しかし、自室という自由空間で普段からピアノに気軽に触れられるようになると、タッチはともかく、限られたスペースにともかくもピアノを置けるというのは、現実問題としては大きな魅力として実感しています。
しかもアップライトは単に設置に要するスペースが小さいというだけでなく、壁に寄せて、見るからにきれいに収まるというのも魅力だといえるでしょう。
グランドはそれなりのスペースがあればもちろんこれに勝るものはないけれども、単に部屋に収める物体としてはやはり大きく、おまけにカタチも特種で、ふたつの直線とS字カーブをもつ変則的な形状であるため、これを落ち着きある感じに収めるのは至難の技。

加えて、鍵盤のある手前側は演奏するだけでなく、整調や整音で鍵盤からアクション一式が無理なく出し入れできるだけの余地を残しておく必要があり、そのためには鍵盤から手前に1m近い空間を取られることもあり、どうしてもグランドを置くとなると、部屋の景色はピアノ中心ということになるのは避けられません。

さらに3本の足の間には中途半端な空間が残りますが、ここは美観の点でも響きのためにも、できることならなにも置かずに空けておくほうが望ましく、その点では大屋根の上も同様。
上下いずれも使いみちのない空間の生まれることもグランドの場合は避けられない。

その点ではアップライトは配置する上でのムダや割り切れなさがなく、すっきりカチッと収まるべきところに収まるという点では精神衛生上も大変よろしいことを日々実感します。

見た目に対する印象も、時間とともにずいぶん変わりました。
以前のグランドを見慣れた目では、ただの四角い箱から鍵盤が飛び出しているだけで、なんと無粋なものかと思うばかりでしたが、毎日一緒にすごしているとだんだんに良さが見えるようになり、愛着さえわいてくるのですから人の感覚なんて勝手なものです。
部屋全体として眺めると、これはこれでとても好ましく、見方によってはグランドがいかにも無遠慮な感じでデンと鎮座する姿より、よほど節度と慎みがあって、雰囲気もよろしいことが最近になってわかるようになりました。

グランドに対してアップライトはすべてが劣り、妥協の産物という偏見と思い込みやがあったのだと今は思えますし、それを取り去るにはかなり時間もかかったと思いますが、そのかいあってアップライトも大いに興味の対象になりました。
もちろん楽器単体でみればグランドの優位性が揺らぐことはないけれど、日常生活という現実の中で、限られたスペースその他に折り合いをつけながらピアノに親しむためには、アップライトというのはかなり優れたものではないかと思うこの頃です。

適切な使い分けができれば、それぞれが最高の役割を使い手にもたらすわけで、何にしても決めつけはいけませんね。
アップライトピアノは、インテリアとしてもなかなか素敵な存在ですが、そのためにはダサいカバーや椅子などでぶち壊しになることもありますので、細かい点が意外に要注意ですが…。
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月の光

今年はドビュッシーの没後100年ということで、なんとはなしに彼の名前や音楽を耳にする機会が多いような気がします。

話は繋がらないようですが、いつだったか古本店に行った折、期待もせず楽譜コーナーを見たら、たまたまピアノ名曲選というようなものがあり、内容はほとんど楽譜としては持っている曲ばかりでしたが、ふだん思いもかけないようなセレクトで40曲ぐらい一冊に集められているところが面白そうでした。
しかもほとんど使用感もなくきれいで、価格はなんと200円ほどだったので試しに買ってみました。

マロニエ君は自分のつまらぬこだわりがあって、この手の名曲選・名曲集のたぐいはほとんど持っていません。
欲しい楽譜を買うときは、その作曲家の普通の楽譜を買うので、たった1曲のためでも必ずその全曲譜を買うのが流儀で、そうやっていると長年のあいだに自然にあらかたのものは揃ってしまいます。

この名曲選でおもしろかったのは、いろいろな作曲家の曲が詰め合わせみたいになっていて、普段の自分からは思いつかないような曲にぽろっと出会うことができ、たまにはこういう楽譜も面白いなぁと思いました。

そこでドビュッシーですが、「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」「レントよりも遅く」とか「夢」で、今わざわざ楽譜を取り出そうとは思わないものでも、パッと目の前にあれば、自分の指でちょっと弾いてみようか…というチャンスになるんですね。

ちょっと触ってみて感じたことは、ドビュッシーというのは緻密に仕上げられたショパンなどとはまた違った考察と注意が必要で、音楽以外の幅広いセンスまで要求する作曲家だとあらためて思いました。
とりわけ音色や間の選び方には、ドビュッシー独特のものが必要。

例えば有名な「月の光」でいうと、これを弾く人は、まずこれがフランス音楽であること、しかも「月の光」というタイトルにはどこか日本人も好む静謐な世界を想起させられ、そういう雰囲気を込められた演奏が目立ちます。
とくにドビュッシーというと印象派などという言葉がちらつくのか、モネの絵のようにやけにフワフワと淡い調子で弾こうとする人がいますが、それを重視するあまり、とくに開始から10数小節までの音符の刻みが非常に曖昧となる演奏が目立ちます。

「月の光」は拍子や小節の区切りが感じにくいぶん、裏できちっと拍を守ることが求められ、しかも表向きはそれをいささかも感じさせることなくドビュッシーのニュアンスを描き出すことは、かなり難しい作品だと思いました。
そのためか、多くはリズムの歪んだ恣意的なディテールばかりが目立つ演奏が横行しています。

ピアニストでも、これを真の意味での正しい姿で、しかも微妙なニュアンスを含ませながら、最終的には楽譜など存在しないかのように弾ける人は非常に少ないのではないかと思います。

音数もさほど多いわけでもなく、やり直しの効かない確かな筆致と、あちこちに広がる空白を意味あるものとして聴かせなくてはならない至難な作品。
そうなると、ただ譜読みが得意で指がまわるだけで弾ける曲ではないということになり、ショパンのノクターンop.9-2のように、この超有名曲を真に美しく、鑑賞に堪えるように新鮮さをもって奏するのは、容易なことではないと思いました。
私見ですが、「月の光」は温かい演奏ではダメ、かといって冷たい演奏でもダメ、表情過多でもダメ、でも無表情でももちろんダメ。その間隙を抜群のセンスですり抜けるような演奏でないといけない。
腕の立つ人なら「喜びの島」でも弾いておいたほうが、よほど安全でしょう。

プロのピアニストでも、この簡単な「月の光」を聴けば、その人の音楽的な思慮、美意識、センス、性格や官能性までもが露わになってしまうような気がします。
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いやはや…

某日某所、あるピアノのコンサートに行ったのですが、その会場のピアノがあまりに冴えないもので、いまどきこういうこともあるのかとびっくりしました。

そこは多目的スペースなどではなく、プロの音楽家のための施設であるし、ピアノも世界的ブランドのコンサートグランドであるだけに、その驚きたるやいやが上にも大きなものになります。

あれではピアニストも思い通りの演奏はできなかったと思うし、聴かされる側にとっても、およそピアノの音や響きを楽しむという期待からかけ離れたものになりました。
作品の素晴らしさ、演奏の魅力、コンサート会場で生演奏につつまれる喜び、そういうなにもかもがピアノによって多くが堰き止められてしまったようで、欲求不満と不快感ばかりが募りました。

良い音楽を我々聴衆側が受け取るのは、優れた演奏はもちろん、楽器という媒介あってこそであり、そのためにはまず一定水準をもった楽器の音が聴こえてくるという基本が満たされない限り伝わりようもないし、それが阻害されるということは、それだけでかなり精神的に疲労してしまうものだというのがよくわかりました。

なによりも気の毒なのは、本番へ向けて準備をし、練習を重ね、全力を賭して当日を迎えてステージに立つピアニストであって、そのすべてを託すべきピアノに問題ありでは、なんと報われないことかと胸が痛みました。
こんなことならメーカーは何でもいいから、まともなピアノを弾かれたらずいぶん違っていただろうと思うと、ただただ気の毒というか残念でした。

休憩時間には、すぐ近くにおられた知り合いの方が「ぼくの耳がおかしいのかもしれないけれど、この会場とピアノがどうも合っていない気がする…」と言われました。
きっと、多くの人が違和感を持たれたことだろうと思います。

どういうピアノかというか、まず単純にピアノがまるで鳴らない。
音はうるおいなく痩せこけ、普通に弾いてもショボショボしているし、fやffになると音が割れて、ペチャンとした衝撃音になるだけ。
ピアノの音の美しさはもとより、本来あるべきパワーも響きもまったく失われていました。

ある人は「あそこのピアノは古い感じがした」となどといっているらしいのですが、それほど古いピアノでもなく、適切な調整と管理がされていれば十分に現役として通用する筈の、本来は立派なピアノ。
いずれにしろ、みんながなにかしら違和感を持っているようです。

休憩時間によく知る調律師さんに会ったので、思わずややトーンを落として「あのピアノ…」と言いかけたところ、その方はこちらの言いたいことを十分以上に察しておられるようで、ゆっくり頷いて、その表情が異様なほどの笑顔になりました。
あれこれの言葉より、その無言の笑顔がすべてを語っていました。

ピアノの業界も、いろんなことが渦巻くデリケートな世界というのはそれとなく知っていますが、どのような理由があるにせよ、その結果として迷惑を被っているのは演奏者であり聴衆なのですから、こんな状況はとても納得できません。
ピアノが泣いています。
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ギーゼキングのバッハ

自分でも意外でしたが、よくよく考えてみたらこれまでにギーゼキングのバッハというのは、なぜかご縁がなく聴いたことがありませんでした。
あれだけモーツァルトやラヴェル、ドビュッシーなど長年にわたって聴いてきたのに!

たまたま店頭で、ドイツグラモフォンによるギーゼキングのバッハ全集という7枚組のセットが目に止まり、「これはなに!?」ということになって直ちに購入。

平均律全曲、6つのパルティータ、フランス風序曲、2声3声のインヴェンション、そのたイタリア協奏曲や半音階的幻想曲その他で、ボーナストラックとして戦時下のライブとして有名な、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルとのシューマンのピアノ協奏曲が収められています。

録音データによると、CD7枚におよぶバッハは1950年の1月から6月にかけて放送用として収録されたもので、正式なレコードとして残されたものではないのかも。
もともとギーゼキングは譜読みが得意な人としても有名で、移動中に読んだ楽譜を到着後すぐに演奏したとか、驚くべき数の初演をしたことでも知られていますから、これぐらいのことは普通にやってのける人なのかもしれませんが、やはり凡人としては驚くばかり。

また、本当かどうかは知らないけれど、ギーゼキングという人はあまりになんでも易易と弾けるものだから、練習量もかなり少なく、録音に関してもあまり真面目さがなかったというようなことが伝えられています。

そのせいかどうかはわからないけれど、はじめに平均律第一巻を聴いたところ、あまりパッとせず、ただ弾いているだけという感じがして、バッハはあまり好きじゃなかったのかなぁ?ぐらいの印象を持ちました。
ところが途中からだんだん訴えるものが出始めて、それ以降はいかにもギーゼキングらしい、力まずサラッとした語り口の中に、ツボだけはカチッと押さえていく魅力的なものに変化して(ように感じた)、以降は終わりまでとても素晴らしい演奏で聴き終えることができました。

二度目三度目と繰り返すうちに、凄みのようなものすら感じるようになり、初めの印象は見事にひっくり返りました。
思うに、最近の演奏家はバッハの平均律などというと、この競争社会の中で録音として残す以上、出来得る限りの最高クオリティの演奏を目指し、熟考を重ね何度も録り直しなどして、まさに正装し威儀を正して写真を取るような演奏になります。

ところがこのギーゼキングときたら、ごく気軽な調子とは言わないまでも、その演奏には気負いなどというものはまるで感じられない、演奏そのものが脱力している稀有なもの。そのあまりにもサラッとした感じが、はじめ耳が慣れず、パッとしないような印象になったのだろうと思います。
で、ひとたび耳が慣れていよいよ聴こえてきたのは、アッと驚くような信じられないようなものすごい演奏で、アルゲリッチも真っ青な驚異的な指さばきと、それを一切ひけらかすことのないスマートな表現によって、めくるめくバッハの世界が際限もなく続きます。

自分ではギーゼキングはそれなりに知っているつもりのピアニストだったのが、この一連のバッハを聴いたことで改めて衝撃を受け、これほどの天才とは思いませんでした。
その人間業とも思えない音の奔流は圧巻という他はなく、しかもすべてが自然で自由自在!
すっかりハマってしまいました。

曲によって出来不出来があったり、ミスが散見されるあたり、それほど真面目に録音したものではないことが察せられ、それでもこれほどの演奏になってしまうのかと思うと、却ってその凄さが引き立ってゾクゾクっとしてしまいます。

しかも才をひけらかすでもなく、淡々と(しかし恐るべき推進力をもって)進行し、それが途方もない濃密さにあふれている。
これだけの天才がさも自然のような姿をしているという点では、モーツァルト以外にはちょっと思いつきません。

これからも長く聴いていきたいCDになりそうです。
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