シャネルとストラヴィンスキー

またしても音楽が関係する映画を観ることができました。
ヤン・クーネン監督の『シャネルとストラヴィンスキー』2009年・フランス映画です。

冒頭で、いきなりパリ・シャトレ座での有名な「春の祭典」の初演の騒ぎの様子が克明に描かれており、開始早々とても見応えのあるシーンでした。はじめは大人しくしていた観客は、あの野卑なリズムの刻みと不協和音、そして舞台上で繰り広げられるあまりにも型破りなバレエに拒絶反応を示し、喧噪と大ブーイングの嵐となり、ついには鎮圧に警察まで出てくるという衝撃的なシーンです。
バレエといえば白鳥の湖やジゼルと思っていた聴衆でしょうから、さしもの新しいもの好きのパリっこ達もぶったまげたのでしょうね。

楽屋裏でのバレエ出演者が、みな風変わりなおもちゃの人形のような扮装をしているので、てっきり演目はペトルーシュカだろうと思っていたら、始まってみると音楽が春の祭典だったので意外でしたが、よく考えてみると、あの大勢の男女の裸体に近い全身タイツ姿で繰り広げられるモダンでエロティックな春の祭典が定着したのは、戦後、ベジャールによる新演出によるものだということを思い出しました。あれ以外の春の祭典を知らなかったので、当時はこんな舞台だったのかと思いました。

さて、この様子を観てストラヴィンスキーに惚れ込んだシャネルが、パリ郊外の邸宅にストラヴィンスキー一家を住まわせ、自由な仕事の場を提供するのですが、シャネルとストラヴィンスキーは次第に惹かれ合い、ついには濃厚な男女の関係に発展します。同じ邸宅内にいる病気の妻や子ども達にもいつしかそれは悟られ、妻子は家を出ていってしまうのですが…。

それにしても、少なくともマロニエ君はシャネルとストラヴィンスキーの関係など聞いたことがないので、どこまでが本当かはわかりませんが、それをわざわざ調べてみようという意欲もなく、映画としてじゅうぶん以上に楽しめる作品だったのでそれで満足しています。

シャネルというのはマロニエ君の中では申し訳ないが成り上がり女性というイメージで、追い打ちをかけるように現代のブランドの捉えられ方に抵抗があって好きではなかったのですが、この映画の随所に表されたシャネルの、あの黒を基調とした美意識の数々は、服装にしろ家の内装にしろ、見るに値する美しいもので思いがけなく感嘆を覚えました。

シャネル役のアナ・ムグラリスは長身痩躯を活かして、次々に斬新な衣装を颯爽と身に纏いサマになっていましたし、ストラヴィンスキー役のマッツ・ミケルセンはいささか逞しく立派すぎるような気もしましたが、ピアノを弾く姿も自然で、もしかしたらピアノの心得があるのかもしれません。
ちょこちょこ登場するおそらくは興行師のディアギレフとおぼしき人物が、これまた実によくできていました。

ストラヴィンスキーに与えられた仕事場にはグランドピアノがあり、場所もパリ郊外だからプレイエルやエラールだったらストラヴィンスキーの音楽にはミスマッチではなかろうかと思っていたところ、果たして戦前のスタインウェイでしたので、そのあたりの細かい考察もじゅうぶん尽くされているのだなあと感心しました。
折々に挿入されるストラヴィンスキーの音楽は、知的な精神が野生的なリズムや和声の中に迷い込み、躍動、衝突、融合を繰り返すような類のない芸術作品で、いまさらながら感銘を受け、彼の作品をもっとあれこれと聴いてみたくなりました。

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