名匠ベルイマン監督の『秋のソナタ』をまた見てしまいました。(冬ソナじゃありませんよ!)
1978年のスウェーデン映画で、主演の大女優イングリット・バーグマンにとっては、マロニエ君の記憶が間違っていなければこれが最後の映画だったように思います。
ピアニストで家庭を顧みないシャロッテ(バーグマン)が恋人と死別したことを機に、7年間も会っていなかった中年の娘から招待をうけてやって来るのですが、この映画の主題とも言うべき母娘の葛藤を軸に進行していきます。
舞台の大半は娘夫婦の自宅のみで、映画というよりは半ば戯曲のような調子で、人間に内在するさまざまな問題がこまかいやり取りを通じて赤裸々に描き出されます。
おそらく多くの人はこの映画を親子の愛憎の問題として捉えることだろうと思います。
恋にステージにと奔放に生きてきた母親は家庭は二の次で、夫と子ども達はいつもその犠牲で取り残され、長年積もりに積もった娘の心の傷は、ある夜ふとしたことから爆発します。
もちろんシャロッテが一般論として悪母悪妻であることに意義はありませんが、そこにもうひとつのテーマがあるように思います。
何かにつけけ華やかな世界に棲み音楽と演奏旅行に明け暮れた母と、容姿にも恵まれず目立たない日陰のような真面目一本の娘は、むごいまでに悉くの価値観を異にします。
マロニエ君は人間関係で最も絶望的なものは価値観の相違だと思っています。
価値観というものが人を動かし、統括し、人がましく生きるためのいわばベースだと思いますし、言いかえるなら思想そのものでもあると思われます。価値観とは皮膚であり血液であり、すなわち人格でしょう。
これがあまりに相容れないとなると、ほんのささいなことで軋みが生じ、対立やすれ違いの連鎖となり、永遠の平行線であるという事実を容赦なく描いているようにも思えます。
価値観が相容れない者同士がどんなに努力をしても、そこに残るのは虚しさと疲労と絶望のみ。
それが親子という縁の切れない関係であれば、よけいにその絶望の溝は大きな傷口のように広がるばかり。
娘は夫に促されて、いつも練習していたショパンのプレリュードの2番を母の前で弾いて聴かせるというシーンがありますが、それはなんともこの娘らしい、必死な思いこみだけでひどく独善的な、聴くに堪えない解釈であったところは非常によくできていると思いました。それを聴いている間のシャロッテの悲痛な思いを娘に遠慮して押し殺したようなバーグマンの表情がまた見ものです。
そのあとに語られたシャロッテによるショパンとこの作品の解説は、まったく正鵠を得た見事なものでした。
そして、それがまた娘を再び傷つけるのですが…。
人間の問題は善悪だけでは解決できない、ましてやきれい事ではすまないことのほうが圧倒的に多く、つくづく難しいものだということを見せつけられたようでした。
しかし、大変充実したマロニエ君好みの映画であることは間違いありません。