BSのクラシック倶楽部では、内容がしばしば再放送となることがあります。
CDならば繰り返し聴くけれど、録画のほとんどは消してしまうので、この再放送はちょうどよい感じの「もう一度視聴してみる機会」となっています。
過日は、小林愛実さんとリシャール=アムランさんのショパンが立て続けに再放送されました。
両者ともにショパン・コンクールの上位入賞者ですが、今回は偶然なのか2日連続でおふたりの24のプレリュードを聴けたのは興味深い比較となりました。
小林さんは先のショパン・コンクールでもこの作品を弾かれていますが、今回の演奏はコンクール直前に日本で収録されたもので、ほぼ同じような演奏だと感じました。
隅々までよく仕上げられていることは痛いほど伝わりますが、それは「磨き上げられた」というよりは「徹底したコンクール対策」というほうが強く前に出た印象でした。
チリひとつなく、張りつめたような緊張感、すべてがコントロールされているのはすごいなとは思うものの、聴いている側も息がつまってクタクタに疲れます。
なんとしても上位入賞を果たすという強烈な意気込みというか、日本的な精神芸を見せられるようでした。
コンクール終了後の総括として、優れていた演奏のひとつに彼女のプレリュードが入っていたことは驚きで、こういう演奏が今のショパン・コンクールでは評価されるのか?と驚いたし、反田氏も「彼女のプレリュードは素晴らしかったと思う」とわざわざ言っていたことなど、個人的には目を白黒させられるばかり。
翌日のリシャール=アムランは、見事なまでにすべてが違っていました。
全体にも、細部にも、ほどよい情感とバランス感覚がなめらかに行き渡っており、とにかく自然で安定感があるし、それでいて注意深くショパンの世界は尊重され守られいるのは、さすがでした。
ピアニストが作品を通じて呼吸しているとき、演奏は心地よい音楽となり聞くものを悦びに誘われます。
私見ですが、このop.28は各曲が独立したかたちにはなっているけれど、全体を一つの作品としてとらえることが通例化し、多くのピアニストがそういうアプローチをしているよう感じます。
各曲は見えない糸で繋がった、ショパンの音の回廊のような作品だから、各曲とその間合いをどう取り扱うかは演奏者の任意に委ねられていると感じます。
小林さんの場合、その間合いがあまりに長いため、次の曲との関係性や呼吸感が切れてしまいます。
一曲一曲、一音一音を大切にするあまりか、息を止めんばかりの集中は、どうしても重くなり、丁寧な演奏とはこういうことなのか?と考えさせられてしまいます。
小林愛実さんという才能あふれるピアニストは、以前はもっと天真爛漫に元気よく弾かれていたように思いますが、現在のそれはまるで別人の振る舞いのように感じることがあります。
ご本人の成長と円熟によるものかもしれないけれど、どこか演出され制御された感じが拭えず、私は音楽はもうすこし本音で語ってほしいなと思うタイプなので、建前はもう結構ですから「ぶっちゃけ」でしゃべってくださいと言いたくなります。
今回のブログを拝読させていただき、クラシック評で有名な吉田秀和氏を思い出しました。
私の感性と合っているのか「そうだ!そこなんだ」と思わず相槌を打つ内容に共感いたします。
心では思っていても文字で表現するのは中々至難の技だと思います。
小林愛美さんは2度もショパコンに入賞を果たしたのは一言ですごいです。
中々日本人で成せる技ではないですね。
私も正直言って彼女の演奏は疲れるし、聴くのもパワーが要ります。
私の勝手な評ですが、ただ彼女は持てる技をフルに発揮され余裕がないというか深呼吸すら伺うことが見あたりません。
フル100%のうち20%の余裕を残した演奏だと海外ピアニストに何ら劣ることはないかと思います。
ユリアンナさんもも、ことノクターンに関して言えば小林愛美さんと同じく一音一音に神経がかじょうに注がれた演奏をされる傾向にあるのでは、と感じます。
中村紘子女史のショパンは、やけにルバートや溜めの多い演奏で疲れるというよりか船酔いに遭ったような錯覚を覚えました。横山幸雄氏も然りですね。
最近のショパン演奏はルバートの多用は減少されましたが、ここは溜めて丁寧に聴かせて欲しいフレーズはさらっと演奏するのには拍子抜けします。
過去にラララクラシックの番組で中村女史が出演され、MCにピアノを演奏される際のアドヴァイスを聞かれ「お好きに弾いたらよろしいんじゃないですか」とコメントされていました。ピアノ愛好家らは賛否両論ありましたね。
中村女史はきっと当時の日本ではがんじがらめの演奏を求められて、自由にのびのびとした演奏が出来なかったからではないかと私は思いました。
小林愛美さんはご結婚されて角が取れてお綺麗になられましたね。
いつも、ダラダラと長いコメントをお許しください。
過分なお言葉には恐縮ですが、おからかいもほどほどにお願い致します。
ご指摘のアヴデーエワさんは器が大きくてすごいなぁ!と感心させられますが、何度聴いても気持ちが乗っていけないもどかしさがつきまとって離れず、折り目正しい演奏であるだけにしんどくなります。
あまりに設計図通りという印象が強く、私は作品自身が自ら語りだすような、作為を感じない演奏が好みです。
「各曲は見えない糸で繋がった、ショパンの音の回廊のような作品」・・・、このお言葉ですでにショパンの世界に引き込まれそうですよ。
ピアノで本音を語るのは、意外に難しいと感じます。
プロの方との比較になるようなレベルの話ではありませんが、数年前お世話になったレッスンでは、私の音が閉じているということで、弾いてる側で「もっと音を解放して」「自分自身を解き放って」「もっと自由に」と何度も言われました。
この先生について3曲程見ていただいた頃、「やっとあなたが見えてきた」とおっしゃり新しい曲に入りましたが、一通り仕上がった時に曲の最初から最後まで自分の気持ちの流れがスムーズに音に載っている実感を初めて覚え、その作品に対して未熟なりにも「これだ!」というものを掴んだ気がしました。
曲や先生のアドバイス、弾いていたピアノの音色、当時の状況などが、自分の中で偶然的にぴたりと重なり合ったように思います。
引越しを機に残念ながらその先生からは離れることとなり、以来、あの感覚を求めてレッスンを受け続け日々ピアノに向かってますが、未だ2曲目の出会いはありません。
私にとって、ピアノで本音をしゃべるにはそれを引き出してくれる何らかのきっかけが必要なようです。自由に解放できる人が羨ましいです…。
素晴らしい先生につかれていたんですね。
ピアニストはインタビューなどで、「作曲家ごとの意味や語法があって」…みたいなことを尤もらしく語りますが、要するにどの作曲家のどの作品においても、その求めるところを敏感に察知して、自分の自然な呼吸へ流し込めるかどうかでは?
できるだけ多くの演奏に接することも大事でしょうね。