一昨日のクラシック音楽館では、現在世界最高齢の指揮者となったマエストロ、ブロムシュテット(97才!)によるNHK定期公演の様子でした。
プログラムはシベリウス、ニールセンなどの北欧プログラムでしたが、冒頭のインタビューでは短いお話の中にさすがは巨匠というべき内容が語られ、とても印象に残りました。
それは概ね以下の様なものでした。
▶自分(ブロムシュテット氏)の毎日は宗教に特徴づけられていて、祈りに始まり祈りに終わる。
宗教は完全を目指し、よって自分も音楽に完全を目指している。
そのために度重なるリハーサルをするが、しかし自分が目指しているのはきれいな演奏ではない。
しばしばオーディションには、よく教育された完璧な演奏をする音楽家がやってくる。
テンポもボウイングも呼吸も完璧、でも私の心には響かない。
私に対して個人的に近づいてこない、いわば匿名の演奏だ。
完璧を求めるあまり、自分を隠してしまう、それは非音楽的な演奏にしかならない。
大切なのは常に最善をつくすこと。
…まったくもって膝を打つようなお言葉でした。
いつ頃から、世の演奏の趨勢がこんなふうになったのかはわからないが、しだいしだいにそうなったように思われ、少なくとも21世紀になってからは、そういうスタイルが明確に台頭しはじめ、個性的な芸術的な演奏はアウトサイダーのごときに扱われ、中心から外されてしまったように思います。
いかに音楽だ芸術だといえども、認められ評価されなくては始まらないから、無駄なリスクを避けた出世の早道として、その価値が高まったのでは?
ステージデビューのための最も効果的な早道はコンクール入賞で、そのためにはまず好みの割れるような個性を封じること、審査システムを知悉し、それに沿った完璧な演奏で点の稼ぐよう挑むことが、最も効率的というわけでしょう。
それが知れわたるや、世界中がワッとこの完璧スタイルを目指すようになり、そのために長い時間はかからなかったように思えるのは、20世紀とは次元の違う情報新時代に入った結果だろうと思われます。
ピアノの世界でわかりやすいのもやはりコンクールで、ショパンコンクールでいうと、個人的に「あれ?」と感じはじめたのは、2000年のユンデイ・リの優勝からではなかったか?と思います。
技巧として弾けているだけで、無味乾燥だとしか思えなかったものを、彼の演奏は完璧だ!とやたら大絶賛して憚らない人もいたりして、とくにピアノ学習者の中の比較的腕自慢の人などにそういう人がいたのを覚えています。
さらにその10年後、アブデーエワが優勝した時は、その方向性はいよいよ決定的で堅固なものになったと感じるようになり、自分の心は固く厳しく封印し、ただひたすら楽譜通りの演奏に徹する、指令や規律に滅私的に従う軍人のような姿は、聴いていて息が詰まるような気がしたものです。
音楽という生き物が命を奪われ、無表情で動かない造り物のように思えました。
もちろん、私の耳にそう聞こえただけで、アブデーエワ本人が「心を固く厳しく封印している」かどうかはわかりませんけれども。
その後、彼女のリサイタルに行った時は、さらに強くそれを印象付けられて、自分がなんのために今この席に座っているのか、ステージ上ピアノからなんのために音が出ているのか、皆目わからないといいたいもので、頭がフラフラするような思いだったのにもかかわらず、またも賞賛する人がいて、やはりピアノ演奏に連なる方の意見だったのは驚きでした。
また近年、好成績で入賞した日本人に至っては、コンクール対策として、これまでの同コンクールにおける上位入賞者の演奏曲目となどを徹底的に調べ上げ、それをデータ化し、高い評価が期待できそうな選曲をしたということをテレビ特集の中で、自信ありげに語られたことは非常に印象的であったし、ショッキングでもありました。
なるほどコンクールは戦いの場であるから、出場するからには勝ちを狙って挑むという言い分には一理も二理もあることは承知ですが、でも、こういう価値基準が音楽の世界にも必要以上に浸透し、当然のようになるのかと思うとゾッとするようで、強い危機と恐怖を覚えたことも事実でした。
さて、ブロムシュテットによるN響定期のあとは、今年度のN響定期の中からもっとも印象に残るコンサートはどれだったかという人気投票が行われた由で、その上位3位までが紹介され、その1位の演奏が放送されましたが、この結果にもきわめて驚かされ、もはや、否応なしに、世の中は私などの考えるものとは全く違う方向に向けて、どんどん動き出してしまっているということを思い知らされました。
こんばんは。
最近久しぶりにショパンを弾いてる流れで、リパッティやアラウ、ミケランジェリがショパンを演奏したCDをよく聴いてますが、三者三様で漂う世界感が全く違いますね。こういうピアニストがもうなかなか現れないというのは寂しい限りです…。
同じ作品を演奏者で聴き比べる時代は終わったのですね。
そういえば、私がコンサートから遠退いたのも一理ありそうです。
演奏者は解釈、解釈とおっしゃいますけど、蓋を開けてみればよく分からないと言うのが現実でしょうね。
確かにユンディ・リー辺りから楽譜に忠実にが叫ばれるようになりました。
だから、学習者にとってみればアブデーエヴァは良きお手本になるでしょうが、その先がないのですね。
聴者の感覚にもよりますが、確かに昨今の奏者には心揺さぶる何かが欠けているように感じます。
かの吉田秀和氏がご存命でしたら、何と評価するでしょうか…。
May4569さん、中野さん、
腰の加減が一進一退で、文章を整えることも満足にできないままアップしているので、文章がおかしいと思いますがお許し下さい。
これだけ情報というものが大手を振って世の中を支配する時代ですから、演奏者もその影響を受けないことは不可能なんでしょうね。
真の芸術家が育つには、誤解を恐れずにいうなら、ある一定の閉鎖された環境というものが必要かもしれないと思うこのごろです。
現代の演奏家は、互いに互いの演奏を情報として聴き、今時の言葉でいうと解釈や傾向をシェアし、それをまた自分の中に落とし込んでステージに出ていのだと思います。
コンクールで有名になることが商業的な成功の必須条件のようになっている現状では、必然的にそういう演奏ばかりになってしまうのかなと思います。
本当はクラシック音楽とて主流の解釈をわかったうえで、そこに自分の考えを落とし込んでいくくらいの気概がないと音楽家(?)としてはダメな気がしますし、もはや再現芸術ではなくただの「再現」になってしまったというべきなのでしょうか…
まさに核心を突いたご意見ですね。
大事なのはコンクール結果であり、メディアその他で知名度を上げ、その効果でチケットが売れ、先々までスケジュールが埋め尽くされたら、あとは平凡なパフォーマンスと引き換えに、ギャラを回収してまわるだけ。
もはや芸術家ではないのだから、そこに芸術性を求めるほうが筋違いともいえそうです。
確かにマロニエさんのおっしゃる通り、芸術性を求める方が筋違いですね。
芸術家や巨匠は天才の域だと思います。
天はそんなに多くの天才を世に放たないでしょう。