ドラマ『球形の荒野』

TVドラマといえばもうひとつ。

先月下旬、フジテレビで2夜連続の松本清張ドラマ『球形の荒野』というのがあり、録画していたので観てみました。
ドラマ自体はマロニエ君にとってはあまり面白いものではなく、やたら冗長なばかりで流れが悪く、なんのために2夜仕立てにしたのかも説得力がなくて、決して出来がいいとは感じませんでした。
ところが本編の内容とは直接関係のない部分で、思いがけず感銘を受けてしまいました。

ドラマは2夜合わせて4時間を超えるもので、内容は太平洋戦争末期、敗戦が色濃くなった日本は隠密裡に敵国側との終戦工作をします。その矢面に立ったことで自らの存在さえも抹消され、やむなく家族と離ればなれになった一人の男とその妻子の苦悩を軸としたストーリーでしたから、わりにシビアで社会性の強い内容でしたが、全編を通じて流された音楽はすべてがバッハであったのは驚きでした。
それもごく一部に無伴奏チェロ組曲と管弦楽に編曲されたシャコンヌがあった他は、大半はグールドのピアノによるバッハだったのはちょっとした聴きごたえがありました。ピアノ協奏曲第1番のニ短調がドラマ全体を支配し、他にもパッと思い出すだけでもゴルトベルク変奏曲、パルティータ、平均律、フーガの技法など、これでもかとばかりのバッハ三昧、グールド三昧の4時間強でした。

クレジットにはバッハの名もグールドの名も一切出てきませんでしたが、グールドの比類ない鮮やかなタッチとセンスはいやが上にもそれとわかりますし、彼の弾く古いニューヨーク・スタインウェイの独特な黄金のハスキーヴォイスにも思わずため息が出るばかりでした。

ドラマを観ながらにしてこれだけグールドを聴くというのは、普段CDで聴くのとはまた違った新鮮さがあり、あらためてこの天才に酔いしれました。とりわけフーガの技法の深遠な美しさは思わずゾッとするようでした。
いまさらながらクラシック音楽、わけてもバッハの偉大さを痛感し、これだけの遺産を過去から受け取っておきながら、今何故クラシック離れなどが起きるのか、まったく理解できないという気になってしまいます。

もう一つは、時代設定が東京オリンピックの開幕直前の1964年というものでしたが、小道具のひとつとして日本を代表するグラフィックデザイナーである亀倉雄策氏の作である、東京オリンピックの公式ポスターが随所にあしらわれていましたが、いま見ても感嘆する他はないその圧倒的な美しさと存在感、和洋を融合させ、簡潔な美の世界を凝縮させた気品と芸術性には深い感銘を新たにしました。
これに較べると、最近のオリンピックのポスターやロゴは似たような書き文字ばかりで、こういう本物の芸術家が大舞台で腕をふるうということがなくなってしまったようです。

テクノロジーの分野はものすごいスピードで進化している現代ですが、芸術の分野は停止どころか、後退しているのではなかろうかとつい思ってしまいました。
振り返れば、バッハもグールドも亀倉雄策も遙か昔の人物ですが、なんとも圧倒的な才能を縦横に駆使して、人を無条件に黙らせるような偉大な仕事をしたのかと思うと、現代の芸術家はあまりにも小さくなったように思います。

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