ずいぶん昔のことですが、三島由紀夫がエッセーか何かの中で『自分の見た夢の話を人にしゃべって聞かせることほど、愚かしくつまらないものはない。』という意味のことを書いていて、激しく共感した覚えがあります。
いらいマロニエ君は決して人に夢の話をしないよう心に誓って今日に至っています。
今朝がた、我ながらあまりにも奇妙な夢を見たことから、この話を思い出してしまいました。
そもそも夢を見るのは眠りが浅いときであって、本当に熟睡しているときは夢は見ないものといわれます。
ある雑誌の巻頭言を読んでいると、そこの編集長が、さる人の体調管理の指導に従ったところ熟睡できるようになりすっかり夢を見なくなったというのです。より健康で充実した毎日を送れるようになり、仕事にもますます情熱的に取り組めるようになったという書き出しだったように思います。
これは裏を返せば、夢をしばしば見る人は不健康で、無為な毎日を過ごすと言われているような気がしましたが、果たして医学的にはそうかもしれません。しかしマロニエ君は、自分を肯定するつもりは毛頭ないものの、早寝早起きで快食快便、よく働きアウトドア大好きというような人とはどうもそりが合わないところがあります。
べつに遅寝遅起きで怠惰でひきこもりの人が好きだというわけではありませんが、お百姓じゃあるまいし、あまりに健康的な人というのはどこかグロテスクで、精神も健康の度が過ぎると却って動物的な気がします。
そんなことはどうでもいいのですが、夢の話をなんのためらいもなくする人というのも、どこか鈍い神経の持ち主であることが多いように感じます。
夢の話をする人の、まるで世にもおもしろいとっておきの話でもあるかのようなあの表情や話しぶり、たいてい内容は奇想天外で自分が野放図なまでに主人公で、無意味で理屈に合わないことの連続。
嬉々として話ながら一人でウケている姿がどうしようもなく浮いて見えてしまうのです。
しかも、聞かされる側は、話す当人と同等の興味を示すものと既定されており、そんな身に覚えのない前提を立てられて勝手なことを朗々と弁じ立てられるのは困惑の極みで、どんな顔をしていればいいのかもわからなくなります。
おまけに、夢の話ばかりは真実不在の無法地帯で、どこをどう作り替えようと、ストーリーをねつ造しようと勝手放題で咎められることもなく、夢という一言のもとにすべてが許されることが、よけいに聞いていて苦しくなるわけです。
夢の話では頭に「なぜか…」という言葉が乱用され、ここが笑いどころだと察せられても、気がひきつって、どうしても相手が満足するだけ笑うサービスができません。
もちろん一発芸的な、ものの10秒以内で終わるような夢の話なら罪もないのですが、ストーリー性を帯びて懇々と語られると、なんともやりきれなくなるものです。
考えてみれば、普通におもしろい話のできる人は夢の話などしませんし、それはおそらく本能的につまらないと知っているからだろうと思います。