メールの功罪

仕事であれプライベートであれ、今どきは携帯やパソコンのメールを使うことがとても多いものです。
ところが、このメールのやりとりというものに対する感覚が、マロニエ君と世間一般では、どこか食い違っているのかもしれない…と思うことがときどきあります。

もしかしたら自分のほうがメールを使う際の、バランス感覚というものがもうひとつわかっていないのかもしれませんし、むろん上手く使えているというような自信はありませんから、こちらがおかしいのかもしれません。

その上で言うと、基本的にマロニエ君の認識としては、メールは文字として記録が残る点や、電話のように見えない相手の状況やタイミングを斟酌する必要もなく、随時いつでも送信できるというメリットがあること。さらには一定のパソコン環境さえ整えていれば、あとはタダで好きなだけ送受信が出来るという点もメールの持つ大きな利点であるのはいまさら言うまでもありません。
携帯メールも電話会社やプランによっては似たような利点があるようですね。

ただし、ときどき困惑することがあって、例えば一人の相手と送受信をしているときの話の比重の置き方や、終了のさせ方です。
場合によっては一往復でおわることもありますし、何度かのやり取りが続くこともあることは皆さんも経験済みのことと思います。

マロニエ君としては、PCメールは紙に書く手紙やハガキほど形式にはまったものではなく(携帯メールはなおさら)、利便性優先の気軽なものとは思いつつ、それでもやはり基本的には一定の配慮や情操をもってやり取りをすべきだと思って書いていますが、どうも最近ではそういった部分にも疑問を感じる点が多く、よりドライにやり取りすることが主流のような気配を感じることしばしばです。

よくあるパターンとしては、こちらとしては常識的にあと1回は相手からなんらかの反応があるだろうと思っていたり、やり取りがまだ終結していないと思われる状態の中で、結局それっきりになってしまうということがあったり、内容が例えばこちらが重視している話題がパッと切り捨てられて、あっけなく別の話になるようなことがよくあります。

論外なのは、返事をしないとか、おそろしく遅いタイミングでポロッと返事がきたり、ひとつの問いに対する回答に何日もかかったりと、これが昔通りに電話なら、ものの何分あるいは何秒で済むことが、メールであるがためにやたらと時間と手間暇がかかり、メール特有の不便とストレスを感じてしまったりすることがあります。
返事がないのは相手の確たる意志と見るべきか、ただのぐうたらなのか、送信トラブルか、ハッキリできないことが精神的に疲れます。あるいは話が勝手に割愛されるのはそのことには相手が興味がないとこちらが察しをつけなくてはいけないのかなどと、ともかくむやみに気ばかり回して、いずれにしろ電話だけの時代にはなかった無駄な神経の疲労・消耗があるものです。

メールの出現は、便利な反面、不自由になったのは、たかだか「電話をする」というだけの行為にも昔よりも格段に慎重になり、やたら躊躇するようになったことです。電話はよほど気心の知れた相手でないと、迷惑かもしれない、好ましくないタイミングかもしれないというような脅迫観念に迫られて、もはや昔のように無邪気に電話できなくなり、そのぶん人との距離感ができたというのは最大の減点ポイントだと思います。
今やメールが主で、電話は特別もしくは緊急用という位置付けではないでしょうか。

結果として電話が本来の電話の機能を果たさず、まずはメールという前段を踏んでからという、却って手間のかかることになった面もあるように思います。
要するに便利なはずのものが幅を利かせすぎて、逆に不便を作り出したという典型かもしれませんね。
そしてもっと恐ろしいのは、慢性的に人との交流が希薄になるということではないでしょうか。

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