ホロヴィッツ

もうひとつ、ホロヴィッツの名で思い出しましたが、ホロヴィッツが1983年に初来日した時、チケットの発売は前々から告知されたものではなく、新聞かなにかで突如「明日発売」というふうに発表されました。

それでそのチケットを求めて多くの人が何時間という行列に挑むことになりました。
あの中村紘子さんは、ジュリアードの留学時代に、ステージから遠ざかったホロヴィッツが12年間の沈黙を破って行われた1965年のカムバックリサイタルを聴いていますが、そのときもチケットを手に入れるために若さとジュリアードの友人達との楽しさも加勢して、文字通り徹夜で並んでチケットを買ったそうです。

寒い外に長時間行列する人々を気遣って、ワンダ夫人(トスカニーニの娘で、恐妻ぶりで世界的に有名な夫人)が紙コップに温かいコーヒーを振る舞ったとか。ある人が彼女に向かって謝意を述べるとともに「12時間待っています」というと、夫人はこう答えたとか、「そう?私は12年まったのよ」。

お膝元のニューヨークでさえこうなのですから、日本にいながらにしてマエストロのほうからやって来てくれるのなら、少々の行列ぐらいは当然といえば当然なのかもしれませんし、ましてや行列文化発祥の地の東京ならなおさらでしょうが、マロニエ君はとにかくこの行列というのが理由如何に問わず嫌いなので、この時ホロヴィッツは聴けませんでした。
会場は神南のNHKホール、チケットはピアノリサイタルとしては空前のプライス5万円というものでした。

演奏はなにかの薬の飲み過ぎとやらで惨憺たるものだったことは周知の通りで、ほどなく放映されたテレビでその様子を見て悲痛な気持ちになったことを良く覚えています。とくにシューマンの謝肉祭は当時のホロヴィッツのレパートリーにはないものでしたから、その点でも期待は何倍にも高まっていましたが、始まってみるや謝肉祭もなにもあったものではありませんでした。
当時の日本人は今と違ってまだ元気が良かったので、拍手の「ブラヴォー!」に混じって「ドロボー!」という声があちこちから飛び交ったそうです。ピアノリサイタルのチケット代は世界のトップアーティストでもせいぜい1万円以内、スカラ座やウィーン国立歌劇場の総引越公演でも3万円代の時代での、ピアノリサイタルで5万円ですからね。

ところが友人の一人がこのリサイタルと、3年後の昭和女子大人見記念講堂でやったときも両方を聴いていて、それだけでなく、なんとホロヴィッツ本人に会い、プログラムにサインまでもらったというのですから呆れてしまいます。
来日時のホロヴィッツは、ロック歌手ほどではないにしても、とてもファンが楽屋口で待ち構えてサインをねだるというようなことが可能な相手ではなく、そんなことは夢のまた夢、完全警備の中、包み込まれるようにして会場を後にしたといいます。
ではどうしたのかと言えば、ホロヴィッツ一行が夕食を終えてホテルに戻ってくるのを、宿泊していたホテルオークラのロビーでじっと待ちかまえていたんだそうです。

するとついにホロヴィッツが現れたそうで、果敢にも歩み寄ってサインを求めたところ、周囲の制止を振り切って意外にも気軽に応じてくれたとのこと。
しかもです、一度ならず二度も同じ方法でホロヴィッツを待ちかまえ、その都度サインもしてもらったというのですから、むこうも少し覚えてしまったようで、いやはや阿呆の行動力というのは恐ろしいものです。
ついでに二言三言演奏について意見を言ったというので、それを聞いたマロニエ君はその図々しいクソ度胸のなせる技にひっくり返りそうになりました。

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