すこし前の新聞によるとメキシコ在住のヴァイオリニスト黒沼ユリ子(70)さんは、今から30年前ほど前にメキシコ市で弦楽器専門の音楽院「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を設立されたそうです。
きっかけはプラハに留学中にメキシコ人のご主人と知り合い、それでメキシコに定住することになったことだそうです。
はじめは細々とはじめた音楽院も、現在では教師と生徒あわせて100人近い規模にまで成長し、それでも希望者が多くて断腸の思いで断っているとか。
そのインタビュー記事の中に良い言葉が紹介されていました。
黒沼さんが大好きなメキシコの格言だそうで『悪いことは良いことのためにしかやってこない』。
これは難問は次々に起きるが、改善するために克服しようという、不屈の精神がメキシコにはあるのだそうです。
たしかに、人間には悪いことが次々に降りかかってくるものなので、人生には難問難題ほうがずっと多いような気がするものです。だから、こういう言葉を念頭に置いておくことで、少しは前向きになって明るく元気な方向をわずかなりとも向いてみようとすることができるかもしれません。
マロニエ君もよーく覚えておこうと思いました。
さらに、黒沼さんの日本の音楽教育についての意見には感銘を受けました。
『課題曲を正しく弾くことに集中するあまり、音楽の基本を忘れていないかと危惧する。音符を音にするのが音楽家ではない。それなら機械でもできる。体をかけ巡った音符をあふれ出させて音を出すのが真の音楽家だ。その人だけにしかしかできない、人間の顔をした音楽を奏でてほしい。』
なんと、これほど、演奏の本質と、現在の学生や演奏家が抱える根元的な問題を的確に無駄なく表現された言葉があるだろうかと思いました。まったくその通りだと深い共感を覚えました。
現代の演奏家や教育システムに対して、こういう危惧や印象というものは、多くの人の心の奥にはきっとあるのだと思いますが、それをこのような無駄のない簡潔な言葉に整理圧縮して表現するのはなかなかできるものではありません。
黒沼さんはヴァイオリニストですが、これはむろんヴァイオリンに限ったことではなく、すべての器楽奏者に対して、それは恐ろしいほどに当てはまるのだという気がします。
現代のめっぽう指の動く無数のピアニストと、昔の秀でた数少ないピアニストとの決定的な違いはそこにあるのだと思われます。すでに指の訓練方法などは行くところまで行った感がありますが、それでもなかなか真の音楽表現への道は開かれようとはしていないようです。
みんな口では「音楽性」「個性」「芸術性」が大切だなどと言いながら、結局やっていることは指の訓練と、レパートリーの拡大と、受験対策、コンクール対策であって、真に自分がこうだと信じる道を探求して歩んでいる人はほとんどいないか、よほどの少数派でしょう。
多くの人が大変な努力と厳しい修行を積み、さらに上を目指す練習に明け暮れているのだろうとは思いつつ、どうもそれはオリンピック出場/メダル獲得のトレーニングとほとんど同じスタンス、同じ精神構造という気がしてなりません。
ひとつには商業主義が真に芸術的な質の向上に価値観の主軸を置くことを許さず、さらには氾濫する情報によって信念もしくはそれに準ずるようなものが根を張りにくく、知らず知らずのうちに効率の良い最短の選択をするようになるのでしょう。
しかし、真の芸術家の仕事を生み出す畑は、決して賢くもなければ効率などというものとは無縁の世界であるはずです。ベートーヴェンの作品が、彼の苦悩と戦いと絶望の中から生まれてきたことを思えば、それは簡単にわかることだと思います。
しかし、だからといってわざわざ困難な苦しみに満ちた道を選ぼうとする人がいないことも現実ですね。
ひとつのテクニックを習得するのに三日かかる方法と一ヶ月かかる方法があれば、誰しも三日を選びます。しかし、一ヶ月の中でいろいろに得られた、一見余分ですぐには役に立たないもの、そういうものが芸術には必要な養分なのかもしれません。