楽器の王様

NHKのクラシック倶楽部では、面白い企画がときどきあります。
最近の放送で印象的だったのは、ピアニストでチェンバリストでもある大井浩明氏による「時代楽器で弾くベートーヴェン」でした。これはタイトルが示す通りにベートーヴェンをさまざまなフォルテピアノを使って聴くというもので、彼はピアノという楽器のまさに開発途上に生きた作曲家であったことから、時期によって様々に楽器がかわり、そのつど新しい楽器や音域に触発されて次々に傑作を生み出したことは良く知られています。

クラシック倶楽部は週末を除いて毎日放送されている55分の番組ですが、多くはコンサートのライブ収録ですが、ときどきスタジオコンサートなどの企画物が紛れ込んでいます。
今回の番組はとりわけ贅沢なもので、一時間足らずの番組のために、スタジオには実に年代やスタイルの異なる6台ものフォルテピアノが結集、それらを時代や楽器の特徴に沿って相応しい曲が演奏されるというものでした。

中にはほとんど音らしい音もしないような古いクラヴィコードで小さなソナタを弾くなど、ちょっと笑ってしまうようなものもありましたが、一番の聞き物は、冒頭に演奏されたリスト編曲による英雄交響曲の第1楽章と、最後に演奏された晩年の弦楽四重奏曲op.133からの大フーガのピアノソロ版でした。
大井氏によると、できるだけ広範囲の作品を紹介すべく、敢えてハンマークラヴィーアのフーガではなく、最晩年の作である大フーガを選んだということでしたが、いやはや見ているだけで頭の痛くなるような弾きにくそうな長大なフーガを淡々と弾いてのけたのには、世の中にはすごい人がいるもんだと思わせられました。
大井氏の腕前はそれはもう大変見事なものでしたし、更に驚くのは彼のピアノは独学で、はじめは理系の大学に行ったという異色の経歴の持ち主なのですから恐れ入るばかりです。

大フーガはオーケストラの弦楽合奏でもごく稀に演奏されることがありますが、フーガのような多声部の作品は、編成や楽器を変えてもちゃんと音楽になるところがすごいもんだと思います。

いっぽう冒頭の英雄は、いかにもベートーヴェンここにありという熱気プンプンで、フォルテピアノであるためか、普通のピアノよりも却って違和感なく自然に聴けたのは意外でした。オーケストラで聴くよりも構造が明解となり、ベートーヴェンのあのとことんまで各テーマをしつこく追いかけ回す執念深さがよくわかります。
しかもそれが抜きんでた芸術作品になっているのですから、いまさらながら驚くほかありません。

フォルテピアノは比較的後期のものでも、全体のサイズはとても小さく、さらにまた大井氏の恰幅が立派なので、いよいよ小振りで華奢な楽器に見えました。
音もとても小さめで、あれではなかなかコンサートホールで演奏するのはむずかしいだろうと思いますが、逆にあのような小楽器こそ、現代の響きすぎる音響の小ホールなら、わりと相性がいいのかもしれないとも感じます。

音色の美しさなどの評価はともかく、やはりフォルテピアノの音というのはいかにも過渡期的な音で、早々に完成されてしまった弦楽器に較べて、鍵盤楽器は発展が遅れたというか、どうしても産業革命の到来を待つよりほかになかったという印象をあらためて強く感じました。

あるピアニストが「現代のピアノはモーツァルトやショパンの時代のピアノに較べれば、さしずめ超高級車かF1マシンのようなものだ」と言いましたが、こうして何台ものフォルテピアノをきいてみれば、それが実感としてひしひしと伝わってくるものです。
ほんとうにそれぐらいの差があるのも頷けるようで、ラフマニノフなどは今と同じ性能のピアノで作曲しましたが、バッハやモーツァルトから現代曲までを一台ですんなりとまかなえる現代のピアノは、まさに巷間言われる「楽器の王様」であることは間違いないようです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です