「さげもん」はほんとうにかわいらしくて美しいものです。
柳川のひな祭りのときに飾る、吊し飾りとして有名な「さげもん」はいつかその時期に柳川に行って見てみたいものだと思っていますが、なかなかチャンスに恵まれずにいたところ、ニュースでこの「さげもん」の展示会をアクロスでやっているということを知り、天神に出たついでに東へ足を伸ばして見てきました。
2階の展示場で開催されていましたが、いろいろな作品があちこちに展示され、物によっては販売もされています。
マロニエ君はこれまで「さげもん」をそうしげしげと見たことはありませんでしたが、でもしかし、なんとなく昔から抱いていた雰囲気とは、これは若干違うような…という感覚を覚えました。
もちろん、きれいで色とりどりで、かわいらしいことは間違いありません。
しかし、かすかな記憶にある「さげもん」は、もっと文化や人の香りが濃厚な、ぼってりとした世界がありましたが、それが希薄だったのです。
モノ自体もたいへん良くできてはいるものの、いかにもプロの作品然としていて、仕事の質も達者でいやに安定はしていているけれども、なぜかそこから迫ってくる魅力がないわけです。
手際が鮮やかといえばそうなんですが、悪く言うと機械が作ったようで、個々の味わいや、それぞれと全体が調和しながら醸し出すこの「さげもん」独特の、明るさのなかにフッと暗いものが入り込んでいるような情緒感がないのは、なによりもがっかりしました。
柳川地方では、女の子が生まれると、父方のほうから檀飾りのひな人形が贈られ、母方は祖母から親戚、近所の人などにいたる女性達が寄り合って、この「さげもん」という吊し雛を時間をかけて手作業で作るというもので、その過程に生まれるお付き合いやおしゃべりなどはこの地域の女性の社交の場でもあり、柳川ならではのなんともいえぬ風物のようです。
したがって「さげもん」を作るのはプロではなく、地元の女性がその環境から自然に受け継いだ技術でもあり、まさにこれは地域に根付いた文化なのですが、これが実に、福岡県の一地方のものとはとても信じられないほど、美的で雅たセンスに溢れ、まるで京都かなにかの伝統工芸であるかのような華やかさと輝きをもっています。
その圧倒的な存在感は、ときに檀飾りのひな人形さえも霞ませるほどで、見る人の目をいやおうなく釘付けにするものです。
さげられた飾りは基本的に「柳川まり」と呼ばれる球状のまりに、様々な色の糸で美しい装飾が丁寧に施されたもので、各人各様の色やデザインを持ち、二つとして同じものがない手の込んだ作品が赤い糸で立体的に吊され、そこに宿る気品と美しさは日本文化の誇りのひとつだとマロニエ君は思っています。
ところが今回の展示会では、たしかに「さげもん」の形体はなしていますが、その作品の背後にそのような柳川の女性達の伝統的な風習に和して出来上がったものという息づかいが感じられず、いかにも手慣れたプロが明るい作業場で仕上げた商品というような冷たさを感じさせるものでした。
その美しさもどちらかといえば表面的なものに終わり、いわゆるその土地で必然的に生まれてきたもの特有の風合いがなく、しかも伝統的な柳川まりではない、各種人形のような様々な形状のものまであって、ちょっと本来の美の世界を逸脱しているように感じられたのは残念でした。
販売もされていましたが、ちょっとしたひとまとまりの吊し物でも30万を超えるものが多く、訪れていた老夫婦は、「商売気がミエミエでいやらしい」と普通の声で自由にしゃべっているのがおかしかったですが、たしかにマロニエ君も似たような印象を持ちました。
いまどきは娘さんの振り袖なども、ギョッとするようなおよそ上品とは言いがたい伝統とは無縁の新柄模様が主流となって、上村松園の美人画に見られるような日本の和服の古典的な繊細華麗な色模様などは衰退の一途を辿っているのは、一体どういう事だろうか嘆息するばかりです。
「さげもん」のような伝統が、またしても商業主義に侵食されていくのかと思うと…言葉がありません。