行かなかったゴッホ展

昨年から行こう行こうと心に決めていたゴッホ展でしたが、ついに行かずじまいとなりました。

自分でもどうしてだろうかと思ってみるものの、まあ理由はいろいろだったと思われます。
第一の理由は、土日の混み合う日に行く気はないけれど、平日はどうしても時間が作りにくかったことがあったと思います。
しかし、何が何でも、少々の無理をしてでも絶対に行きたい!というまでの気にならなかったことも、どうにかして時間を作ろうとしなかった逆の理由かもしれません。

それは、まず最近の展覧会の質の低下というものがあり、期待して行っても実際の会場にある展示物にはどこか寄せ集め的というか、間に合わせ的といった印象があり、そんな展覧会をもう何度も経験してしまっているので、だんだんどういうものか悪い方の察しがつくようになったことがあるかもしれません。

言い方が難しいですが、コンサートのプログラムにもそれなりの構成やバランス、あるいは主題が必要なように、様々な展覧会にも展示作品の質はもちろんのこと、さらにそこに一定の構成やまとまりがなくては、ただばらばらに数合わせだけしたような物を見せられても、必ずしも本来の感銘へ繋がるとは限りません。
最近は開催者や学芸員の世代も変わってきたのか、そのへんの裏事情はわかりませんが、本当の意味での芸術品美術品に慣れ親しみ、そこに精通した人間が各地の展覧会を手がけているとはあまり思えないような、少なくともそう感じられない、後味があまりよくない展覧会が多いのです。

展覧会というものは、ただ有名作家の作品をどこからか調達してきて並べればいいというものではなく、そこになんらかのアーティスティックな配慮と、来場者の心をいざなう統御が効いていないと集中力の高い展覧会にはなりません。

何となく最近の展覧会は役人仕事のような印象を覚えるものが多いのは事実です。
それはなにか。ちょっと安っぽい言い方ですが、主催者の情熱や気が入っていない、たんなるイベント的なものが多いと感じるのはマロニエ君だけではないはずだと思っています。

ゴッホ展に話を戻せば、行かなかったのは、さらに会場のせいもあるかもしれません。
2005年10月に鳴り物入りでオープンした九州国立博物館でしたが、東京や京都のものとは大違いで、国立博物館ともなれば建築自体もその名にふさわしいものでなくてはなりませんが、まるで何かのパビリオンか巨大な温室のようで、そこに足を向ける喜びが得られないのは甚だしく残念なことだと感じています。
中に入ってもここが文化芸術の殿堂という何か特別な気配は微塵もなく、まるで大きな観光案内所みたいで、まるきり文化の香りというものがありません。
おまけに駐車場は遠く、なんの美しさも風情もない、ただ山を切り開いただけのような舗装路を、車からあんなにてくてく歩かされるのもマロニエ君にはおもしろくありません。

私見ですが、美術館や博物館はこれといった用がなくても、なんとなくそこに行きたくなるような穏やかに包み込まれるような魅力、いるだけで気が休まるような高尚で静謐な空気が流れているような、そんな場所もしくは空間でなくてはならないというのが持論です。

まあ、考えてみれば自分の地元で良い展覧会のほうが向こうから来てくれることを望むのもムシのいい話で、本当に感銘を受けるような作品をそれに相応しい場所で見たいのなら、やはり飛行機に飛び乗ってヨーロッパにでも行かなくてはいけないということなのかもしれませんが。

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