世の中には先を行き過ぎてしまったような人が稀にいるものです。
日本で最初のピアニストとしては久野久(1886~1925)と小倉末子(1891~1944)が有名ですが、ある新聞記事を読んでいると小倉末子という人はたいへんな人だったように思いました。
年は久野久のほうが5歳ほど上だったようですが、まあこの時代のピアノ演奏家としてはほとんど意味のないほどの違いです。
小倉末子は二十歳で東京音楽学校(現芸大)に入学しますが、翌年1912年には中退してベルリンに留学しますが、わずか2年ほどで第一次世界大戦が勃発し、日本とドイツの国交断絶状態により、さらにアメリカへ渡ります。
はじめニューヨークに滞在しますが、そこでコンサートに出演したところ大絶賛、ニューヨークタイムズにも賞賛されて、なんと以降のコンサート契約を得ており、さらにはシカゴ・ヘラルド紙でも大絶賛され、ついにはメトロポリタン音楽学校から招聘されることになります。
24歳という若さで、ここのピアノ科の教授に就任しているのですから驚くよりほかありません。
小倉末子は世界で認められた初めての日本人ピアニストということになるようです。
これは現代であってもかなりの快挙といえますが、それまで日本には西洋音楽の下地などないに等しい明治時代で、ピアノを学ぶというだけでも今からは想像も出来ないような特別なことであったはずなのに、しかもこれほどの快進撃を続けたとは、ただもう唖然とするばかり。
唖然といえば、1916年(大正5年)に帰国した際には、300年のピアノ音楽の歴史を一人で弾くという途方もない内容の連続演奏会を敢行しており、そのプログラムにはバロック作品から、なんとこの時代にシェーンベルクまで弾いたというのですから、にわかには信じられないような話です。
さらには一夜にピアノ協奏曲を3曲弾くこともあったそうで、100年近くも前にこんなスーパー級の日本人ピアニストがいて、こんなものすごい演奏会をしていたとは…。
久野久と小倉末子は日本最初のピアニストとして、二人セットのようにして名前だけは目にすることがあり、二人して東京音楽学校の教授であったことぐらいしか知りませんでしたけれども、いやはや、こんなにも凄腕の、凄まじく進んだ人だったとは思いもしませんでした。
ピアノほど幼年期の経験がものをいう世界もありませんが、小倉末子は大垣藩士の流れをくむ生まれだったそうですが、5歳のときに災害で両親を亡くし、神戸の兄に引き取られます。兄は貿易商で財を成した人であったことから家にはドイツ製のピアノがあり、その妻がドイツ人で末子にピアノの手ほどきをしたことが、末子のピアノを弾くきっかけだったとか。
そういう偶然の環境があったにしても、まったく時代を取り違えたようなそのめざましい活躍は、やはり天才だったのだろうと思わずにはいられません。彼女にはなんとなくある種の悲壮感を感じてしまうのは、世に出る時代があまりに早すぎて、時代が彼女の価値を正しく受け止めきれなかったことのような気がします。
残念なことに第二次大戦中に、時局故に東京音楽学校を退職させられ、その後53歳という若さで亡くなっていますが、もし生きていれば間違いなく戦後の日本のピアノ界を強い力で牽引したであろうことは間違いないでしょう。
末子は独身であったこともあって彼女のことを語り継ぐものが少ないというのも残念なことですが、近年では出身校である神戸女子学院が彼女の軌跡を追っているらしく、アメリカからはたくさんの資料が見つかっているとのことですから、さらに詳しい事がわかるかもしれません。
どんな演奏をしたのか、もし録音があればぜひとも聴いてみたいものです。