集客の要素

世の中の多様化はあらゆる分野にその影響を及ぼし、むろん音楽の世界も例外ではありません。
とりわけクラシックなどは、その寒風の最も風上に置かれているのかもしれません。

これにはいろんな要素が絡んでいるので、マロニエ君ごときが簡単に事を決めつけることはできませんが、ひとつには世の中に余裕がなくなり、コンサートに行くためのいろんな意味でのゆとりがなくなってきたこと。もうひとつは二流以下のコンサートが一時期あまりにも大量に溢れ出し、巷に蔓延しすぎて市場がぬかるんでしまったツケが今まわってきているような気がします。

人間は肝心なことは忘れっぽくても、嫌な体験、苦痛の記憶、退屈の苦しみなどは意外といつまでも覚えているものです。つまらない展覧会に行ったり、つまらない本を読んで途中で投げ出したり、つまらないコンサートに行って不本意な拍手をしてくたびれて帰ってきた経験などは、わりといつまでも残って深いところにその記憶が沈殿しています。すくなくともマロニエ君の場合はそうです。

本来、享楽と感銘と世界に浸りたくて期待したものが、逆に不愉快と苦痛になって裏切られると、その失望体験はそれをむしろ避けて遠ざけるようになります。そこが人間が生きるために何がなんでも必要な衣食住とは根本的に違うところかもしれません。

こういう経験がひとつの時代を広く覆い尽くしたために、人はコンサートなどにも以前のような期待感を抱けなくなったような気もするのです。同時に世の中は日を追うごとに刺激過剰になり、普通のただ良質なコンサートぐらいでは物足りないと感じるようになったのでしょう。
演奏家も音楽や芸術に一途に専心してればいいという時代ではなくなり、なにか大衆の耳目を集めるような特徴を持っていなくては、ただ質の高い演奏を披露するというだけでは、ほとんど訴求力がないのでしょう。

異国で不遇の生活を強いられたというピアニストがひょんなことから人々の注目を浴び、それが大ブームになったあたりから、演奏家に対するタレント性や、背後に背負っている人生ドラマとか同情を誘う要素等が必要とされるといった傾向に、一気に加速がついたような気がします。

本来の演奏や音楽の質はほどほどに、演奏家はまず人々から注目を集める何らかの意味でのタレントであることが要求されるようになりました。有名コンクールに優勝した純真な若者がなかなか良い演奏をするぐらいに思っていたら、たちまち超売れっ子タレントに祭り上げられ、いまや全国どこでもチケットは即日完売という現状には、ちょっとついていけません。年末のリサイタルなど見ていると成長がすっかり鈍り、演奏もやや荒れてきたように感じてしまいました。せっかくの才能が惜しいことです。

いっぽうで、そんな何かの要素を持ち合わせない「普通の」演奏家は、あれこれとアイデアを探し回って目立つことをしてみたり、一風かわった形態のコンサートなどが雨後の竹の子のように出てきているようです。

いろいろ言ってもキリがありませんが、一例をあげると古いお寺の本堂や庭などに場所を変えて、伝統的な日本の寺院と西洋音楽のコラボといった、さも尤もらしいコンセプトを掲げつつ、なんの意味も見出せないようなコンサートが企画されたり、あるいは古い木造建築の中で座布団を敷いて聞くクラシックなど、見ていてあまり説得力のない、どれも芸術的必然や深みのない思いつきだけの企画が多いという気がしてなりません。
文化とか融合とか、つける言葉は便利なものがいくらでもあるでしょうが、そこに流れる本質にはなかなか心から共鳴できるような、なにか圧倒的なもの、真の感銘を呼ぶようなものは感じられないのです。

自作だというスポーツみたいな曲をひっさげてヨーロッパまで遠征する異色の経歴を持つピアニストとか、外国人が作務衣を着て、いかにも日本になじんだフリをしてみせたり、いろいろありますが、なんだか表面的なパフォーマンスにしか思えないのは残念なことです。

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