ウチダの芸

内田光子といえば、今や数少ない第一級の世界的ピアニストの一人と位置付けられ、ましてや日本人ということになると、それはこのクラスでは唯一の存在でしょう。

彼女の優れた才能や演奏上の特質や魅力については、もう長いこと聴いてきてマロニエ君なりに充分わかっているつもりですし、とりわけまずモーツァルトで認められ、フィリップスから続々とCDがリリースされるたびに、その圧倒的な繊細かつ細心を尽くした表現の極みには、西洋音楽の中に息づいた日本の美を見たものです。

しかし、では双手をあげて賞賛するばかりとはいかないものもあるのであって、それがシューベルトのソナタに至って顔を出し、それに続くベートーヴェンなどではいよいよ顕著にもなってきたようにも思います。

しかし、マロニエ君がそう感じるのとは裏腹に、日本というのは不思議な国で、いったん高い評価が定着してしまった人には、ほとんど批判らしいものが聞かれなくなり、以降は何をしても大絶賛となる傾向があります。

彼女の最新盤はシューマンのダヴィッド同盟舞曲集と幻想曲のカップリングですが、とりあえず購入して聴いてみたのですが、ちょっとどうかなぁと思われる点も少なからずありました。

以前から内田光子に抱いている問題点は細部の処理などに、あまりにも神経質になるあまり、表現がいささか独りよがりになる傾向があったように思いますが、それは最新のシューマンを聴いても同様でした。
とくに間の取り方などはその最たるもので、音楽の流れが遮断され、いくらなんでもやり過ぎな感じのすることが少なくありません。

また、内田ならではのこだわりと格調高い演奏を意識しすぎてか、緊張感の割り振りが上手く行かず、極度の緊張がむやみに強すぎて、全体が息苦しくしくなりがちだと思います。
素晴らしいと思う反面、非常に疲れるし、聴いていて鬱陶しくなることも少なくありません。

簡単に言えば、ちょっと考えすぎで、音楽というものはもう少し、率直に楽しくあってもいいのではないかと思います。これを人によっては深みとも芸術性とも捉えるのかもしれませんが、マロニエ君としてはそれを否定はしないものの、どうしても全面的に肯定する気にはなれないというのが正直なところです。

芸術家としての思慮深さという点にかけては文句なしですが、演奏家としての呼吸と必然性にはいささかの疑問の余地があるようにも感じるわけです。
このことは実際のリサイタルに行っても感じることで、聴衆を音楽に乗せるのではなく、絶えず息を殺して、固唾を呑んで聴く姿勢を要求されるようなところがあり、そこが人によってはさすがという感動を呼ぶのかもしれませんが、見事だけれども、なにかが違うのではないかと疑問を投げかけられるような気がするのも事実です。

しかしながら、ともかくもここまで、文字通り寝食を忘れるほどに自分を追い込んで、音楽というよりは、マロニエ君に言わせれば、独特の宮大工の誇り高い仕事のような巧緻な演奏美の世界を作り出し、それを極めたという点では内田光子は圧倒的な存在だろうと思います。
ですから、マロニエ君の場合は彼女の演奏に接するときは、いわゆる音楽を聴くというよりは、伝統工芸のような演奏美を観賞するというスタンスになってしまうのです。

それでもなんでも、なにしろここまでくれば大したものではありますが。

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