ギーゼキング

NHKの衛星放送で、あまり良いとはいいかねるモーツァルトの演奏を聴いたので、無性にちゃんとしたものが聴いてみたくなり、久々にギーゼキングのソナタを鳴らしてみたのですが、やはりさすがでした。

ふつうモーツァルトというと、多くのピアニストが意識過剰ぎみの演奏になるか、取って付けたようなわざとらしい軽妙な表現をしたり、これだというものがなかなかないものです。中にはこれみよがしに余裕を顕示して、まるで大人が子供用の本でも読むかのような弾き方をし、それでいて音楽性には充分以上に留意しているぞというようなフリをしたり、必要以上に注意深く細部にこだわって深みがありげな演奏したりと、どうもまともなモーツァルトというものに接することが少ないような気がします。

テレビで観たのは、もう70代に突入した大ベテランでしたが、近年は指揮にその音楽活動の大半を割いているためにピアノの腕が落ちたのか、その理由はよくわかりませんが、かつては中堅のテクニシャンとしても有名で、久々に聴く彼のピアノでしたが、線が細く、恣意的で、流れが悪く、なんだかとてもつまらないものでした。

それで無性にモーツァルトらしいモーツァルトが聴きたくなったわけです。
思い切ってモーツァルトの御大であるギーゼキングでも聴いて口直しをしようという思惑だったのですが、口直しどころか、あまりの圧倒的な素晴らしさに、もうそのテレビのことなど忘れて聞き込んでしまい、すっかりギーゼキングの世界に浸ってしまいました。

気負いのない自然な語り口、あるがままのテンポ、あるがままの音楽、そしてたとえようもない滲み出してくるその風格。気負っているわけでも、細心の注意をしているわけでもない、むしろ恬淡としたその演奏には、ごく自然に芸術家としての息吹と気品が当たり前のようにあって、ただただ心地よく、しかも安心して深い芸術的な音楽にのみ身を委ねられるという、ほとんど器楽の演奏芸術としては究極の姿であろうという気がしました。

とりわけ感心するのは、モーツァルトの作品(主に全ソナタと小品)が生まれ持った息づかいを、ごく当然のようにギーゼキングが同意して呼吸し、それがそのまま演奏になっているところに、聴く側の心地よさ、明解さと説得力、そして魅力があるのだと思います。
これは現代のモーツァルト弾きのようになって半ば崇められている内田光子とはいかにも対照的で、彼女はモーツァルトの意に添うためには作品に滅私奉公して、自らの呼吸もほとんど犠牲にしているようなところがありますが、その点ギーゼキングは作品に対して恐れなく磊落に向き合っており、ピアニストというか音楽家としての潜在力のケタが違うのだなあと思わせられます。

ちなみにギーゼキングはモーツァルトの演奏ではペダルを使わなかったと言われており、録音場所も相応なホールやスタジオに出向くのをこの巨匠は面倒臭がって、自分の事務所のような部屋に機材を運び込ませて録音していたといいますからなんとも呆れてしまいます。
ギーゼキングはもう一つ、蝶の蒐集家としても世界的にその名を残すという一面を持っていて、こういう幅の広い、面白味のある悠然とした芸術家は今はいなくなったように思います。

ギーゼキングの好んだピアノはグロトリアン・シュタインヴェークで、これはアメリカに渡る前のスタインウェイとも血縁関係のあるピアノで、現在も細々と製造はされていますが、スタインウェイとどこか通じるところのある、それでいてまた違った魅力のあるピアノです。
ちなみにアメリカに渡ってスタインウェイとアメリカ風に改名する前のドイツ名は、まさしくこのシュタインヴェークだったのです。
現代のグロトリアンを使った演奏としては、イヨルク・デムスが横浜のとあるホールにあるグロトリアンを使って録音したCDがありますが、やはりギーゼキングの使ったピアノに通じる独特な華をもったピアノです。

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