馴れの怖さ

昨日書いた「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」ですが、その第1集を何度も繰り返し聴いていると、見えてくるものもいろいろとあるようです。やはり基本的な印象は変わりませんが、それにしても100年前のプレイエルをここまで精緻な楽器に仕上げるということは並大抵の技術ではないと素直に脱帽です。
横山氏の演奏は、指さばきは本当に見事だけれども、だんだんそのコンピューター的な演奏にどうしようもなく違和感を覚えてきますし、ピアノ学習者がこういう演奏を理想のようにイメージしそうな気がして、もしそうだとしたらちょっとどうだろうかと思います。

曲目はロンド、ピアノソナタ第1番、12のエチュードOp.10ですが、ソナタの第3楽章の夢見るようなラルゲットをあまりにも無感覚に通過したり、Op.10-1でのアルペジョの鋭い折り返しのやり過ぎや、Op.10-10では左のバスにこれまで聴いたことのないような機械的なリズムがあったりと、なんというか…上手いんだろうけれども、それは音楽とは似て非なるものを聴かされているような気分に囚われてしまうのを自分で抑え込むことができなくなってきます。

プレイエルの音もあまりに見事に、少なくともこのピアノが作られた当時想定されなかったような高い次元でバランスされ、統御されているので、その両者を組み合わせることは、結局はせっかくのプレイエルが現代的なピアノのような感覚につい耳が埋没してしまうようです。
さらには、演奏も冒頭に述べたように、あくまでも現代の楽器とメトードで鍛えられた正確無比な今風のものなので、なんだか最終的にちぐはぐというか、どこかしっくりしないものを感じてしまうのでしょう。
こんな調整と弾き方なら、やっぱり現代のヤマハかスタインウェイで弾くのが一番だろうと思えてきたりするわけですが、この印象が的確であるかどうかはまだ自分でもよくわかりません。

そんな疑問が次々に去来してくる事態に達して、ついに久々にコルトーのショパンを聴いてみたのですが、やはりそこにはプレイエルの自然で伸びやかな歌声がありました。
この録音の中にあるものは、すべてが一貫性のある辻褄のあった世界で、コルトーのいささか過剰では?とでもいいたくなるような詩情の発露をプレイエルがどこまでも繊細に受け止め、それを当然のように表現していきます。
楽器と奏者の関係というのは、こうあらねばならないと痛感させられるのです。

でも!
それよりもなによりも驚いたのは、このところマロニエ君はショパンコンクールのライブCDを洪水のように聴いていたためとも思われますが、もともと大したものではないコルトーのテクニックが、まるで子供かシロウトように稚拙に聞こえてしまったことで、これにはさすがに愕然としてしまいました。
もちろん喩えようもなく美しい瞬間はあるものの、馴れとは恐ろしいものです。
あまりコルトーのイメージを壊したくないので、ちょっと今は止しておこうと思ったのが正直なところです。

で、再び横山氏のCDに戻ると、これはまた目から鼻に抜けるような指さばきで、これもちょっとやり過ぎとしか思えません。マロニエ君の欲しいものは、ピアノもピアニストもこの中間に位置するような塩梅の演奏とピアノなんですが、それがまた無い物ねだりなんですね。

原点に返れば、そもそも1910年のプレイエルで新録音が出たというだけでも、僥倖に等しいこのありがたい企画には、素直に深謝しなくてはいけないのはまぎれもない事実ですから、あまり際限のない欲を出してはいけませんね。
つくづくと人間の欲というのには終わりがないようです。

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