なだめる心理

最近、あることがちょっとわかりました。

軽薄なマロニエ君は、甚だくだらないことで立腹することが多いのですが、そんなとき、人にぶちまけて理解を求め、共感を得ようとすると、おざなりにまあまあとなだめられたり、相手があきらかに第三者ぶって保身の態度をとられたりすると、さらにまたそこにムカムカくることがあります。
まるで被害者であるこちらのほうが逆にお説教されるハメになったり、却って人の狡い面を見せられることになったりで、怒りはダブルに発展して何なんだこれは!とその不快感は次々に新しい枝を伸ばします。

とくにマロニエ君の嫌いな言葉は「まあ、いいじゃないですか!」「人の自由だから!」というようなフレーズで、そんなありきたりな言葉を聞きたくて言っているのではないと言いたくなります。寛大ぶって、やたら許容量の多い、懐の深い、人格者のような言動を取りたがる人って、今どきは意外に少なくありません。

それも本当に寛大で立派な人格者ならいいのですが、ちっともそんなことはない臆病な凡人くせに、そういうときだけ妙に取り澄まして、落ち着いた余裕ありげな態度を取りたがるのはなんなのかと思います。
ただ単に、自分が言及するのが恐いだけという臆病心も見て取れたりします。
それでなくても、最近はやたらめったら隙あらばいい顔をしようとする、いい人願望、人格者願望、誰からも好かれる願望の強い人が多く、なんでそこまでして自分だけいい顔してポイントを稼ぎたいのか。

ところが、ごく稀に相手のほうが何かの事で、怒り心頭に発している場合もないではありません。
最近も偶然そういう場面に接しましたが、あまり相手の怒りが激しいので、ついついこちらはなだめる側に廻っている自分にハッと気がつきました。
なんと、あれほど自分が怒っているときにそれをなだめられることを嫌っていたこの私が!!!

なるほど、これは人の心理なのかということが思わず諒解できました。

適当な雑談程度なら、話はぐんぐん盛り上がってくるものですが、片方があまりにも憤慨して一種の興奮状態にある場合に限っては、相方はそれに圧倒されて、なんとかこれを鎮めようという反射心理が働くようです。
決して相手方の味方をしている訳ではないのですが、なんとか客観的なコメントによって事を鳥瞰的に捉えようとしているのかもしれません。
その状況に対して一定の冷静な理解を示そうとすることが、怒っている人にとっては逆効果になるわけで、止むにやまれぬ怒りすら抑えろと強要されているような心地がするんですね。

まあ人が怒っているときは、そこで第三者として公平に振る舞おうなどとは努々思わないことが大事だとあらためて思いました。
相手が欲しいのは味方であり共感してくれる人なのですから、それを忘れちゃいけません。
ましてや「私はどちらの味方もしないけれど…」というあのフレーズだけは絶対に禁句だと思います。
これを言われて気持ちのいい人はたぶんいないはずではないでしょうか。

しかし、それを口にする人の、なんと自分は正しい態度だと信じてその言葉を口し、自分に酔いしれていることか!
こういうことをしたり顔で言う人は、なにか大事なものを履き違えている気がします。

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