九州新幹線

昨日は九州新幹線に初乗りしました。
目指すは薩摩川内市でしたが、そのことはまたあらためて報告します。

新装なった新しい博多駅にもこの日初めて踏み入れましたが、結論から先に言うと、マロニエ君はちっとも良い印象はありませんでした。
駅ビルがあれだけ大々的に建て変わったというのに、筑紫口のほうは旧態依然としているほか、一階のコンコースはじめ、周囲の商業施設などには昔の名残が散見され、昔のままの骨格を化粧直しですまされていて大いに落胆。
基本的なものはそのまま使っているようで、単にその上に被さっているビルだけを建て替えたということが、行ってみてようやく理解できました。まあ、それならそれで構いませんが、あの報道の取り上げ方、騒ぎ立て方は大げさすぎるのではと思います。

ざっとひとまわりしましたが、テレビなどではまるで天神のお客さんが新しい博多駅に吸い取られるようなことも言っていたけれど、とてもとても、そんな力のある商業エリアが出現したようには見えませんでした。

出発前にお土産を買おうと阪急百貨店の地下に行ったところ、ドーナツやケーキなど、たかだかおやつを買うぐらいのことで、凄まじい行列があちらこちらに何本もできているのには口あんぐりで、マロニエ君のもっとも嫌いな光景を思いがけなく目の当たりにしたことでした。
行列がほとんど地域文化と言ってもいい東京ならいざ知らず、ほとんどそういうものの無い、もしくは極めて少ないことが我が博多の誇れる点だと思っていましたが、この阪急百貨店のデパ地下に限っては、まるで別の街に紛れ込んだようでした。
ああいう行列に、背中を丸めて、しまりのない顔をして、人の背中の前にじっと立っている人達を見ると、人間の欲がむき出しになっているようで、なんだかどうしようもない気分になってしまいます。

新幹線は、これまで博多駅は上り方面の始発駅でしたから、南に向けて車輌が動き出すというのは初めての体験でした。
発車してしばらくは外の景色などをみていたのですが、少し経つと車内アナウンスがあり、早くも久留米への到着を告げられたのにはおどろきました。車で行くには高速を使っても前後あわせると1時間前後はかかるのに、なんという早さでしょう!
博多から薩摩川内(鹿児島のひとつ手前)までは240キロ強ほどあるようですが、1時間20分ほどで到着しました。

さて、マロニエ君は鉄っちゃんなどではありませんので、新幹線の車輌のことなどはまるきりわかりませんし、新幹線じたいも2年に1度乗るか乗らないかぐらいですが、印象としては、なんだか乗るたびに乗り心地は悪くなっていくような気がしました。
0系から次第に進化して、ここ10年ぐらいでいっても「のぞみ(だったかな?)」あたりの柔らかくて洗練されたすべらかな乗り心地が頂点だったようで、それがレールスターになると明らかに質の低下が感じられました。当時、世の中ではいろいろなものがコストダウンされはじめた時期でもあり、新幹線車輌といえどもその波が容赦なく襲ってきているんだなあという時勢をしみじみ感じたものです。

ところが、昨日乗ったさくらは、そのレールスターどころではありませんでした。
車でもそうですが、乗り味や足回りの優秀性、ボディの立て付けの確かさなどは、はじめの動き出しの数秒に圧縮してあらわれるものだと思っていますが、本当に高級な乗り物は、この動き出しが非常に濃密で厳かで、乗り手がまずはじめに感銘を受ける部分なのですが、これがまったくなく、ただ普通になめらかに義務的に動いていくようでした。

とにかくこれまでの新幹線にあった一種の上質な乗り味というのがほとんど感じられず、ただスピードの速い高性能電車という印象しか得られませんでした。とくに帰りは夜でしたが、夜の乗り物というのは音などに対して一段と敏感になるものですが、この音のうるさいこと、ひっきりなしの振動が収束しきれていない事にも閉口しました。
車内は高速になるとまるで飛行機のような、疲れる爆音に包まれます。飛行機に較べて新幹線の快適性のひとつに騒音の低さがあったと思っていましたが、これはもはや過去の話のようです。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、ボディを軽く(そして安く)作るのに、強くて軽量な素材を多用して、その結果遮音効果のあったものがあれこれと省かれたんではというような気がします。
つまり、乗る人の快適性が犠牲にされて、すべては効率重視の設計になったというわけだろうと思います。
窓も従来の広い窓はなくなり、飛行機より大きい程度の窓が小刻みにならんでいますが、これも窓を小さくすることによって得られる、車体の強度確保のための結果ではないでしょうか。窓を小さくして、そのぶん骨組みに当てればそれだけ薄っぺらなボディでも強度は保てるというお馴染みの図式のような気が…。

楽器でも、乗り物でも、映画でも、人間関係でも、なんでもそうですが、良い意味での絶頂期というのはどうやら過ぎ去っていったようです。なんとなく振り返っても、20世紀までのほうが、あらゆることが上質で贅沢、つまり本物だったような気がします。
21世紀はガマンと節約と省略の時代のようです。

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