現代の巨匠

少し前に放映されたアンドラーシュ・シフの映像で、昨年のライプチヒ・バッハ音楽祭におけるコンサートから、改革派教会でおこなわれた演奏(フランス組曲全6曲、フランス風序曲、イタリア協奏曲)にあまりにも深い感銘を受けてしまい、2度ほど通して視聴してみましたが、いやぁ…これは本当に出色の出来だと思いました。
そしておそらく、今後もそうそう出てくることはないレヴェルの演奏だと思います。

彼は間違いなく現在、世界最高のバッハ弾きの一人であると同時に、現在ピアニストとしても最も脂ののった絶頂期にある旬のピアニストであるのは間違いないでしょう。
シフが比較的若い頃に入れたバッハ全集は聴いていましたし、シューベルトの全集などでもその並々ならぬ実力は見せていましたが、これほど高度な演奏をするに至ったことはまったく驚くべきことだと思います。
このところ、シフは一気に深まりを見せ、芸術家としてずいぶん高いところに昇っていったようで、いつの間にあんな凄い人になったのかと驚くばかりです。

バッハ作品には欠かせない各声部の動きが、必要に応じて、ときに即興性をもって、これほど自在に飛び交うように歌い合い絡み合い、それでいて全体が極めてまとまりのある音楽として次々と流れ出てくる様は、ただもう喜びと敬服に浸るばかりです。

しかもこれだけの量のバッハ作品(約2時間半)をすべて暗譜で、密度をもって、闊達朗々と弾いてのけるのですから、もはや人間業ではないという気がしました。

バッハといえばひたすら正しく、峻厳に、しかめ面して弾くか、あとはかなり崩した感じか、いっそモダンなアプローチでこれを処理しようという演奏家などが目立ちますが、シフはそのいずれでもなく、つねに伸びやかで、歌心があり、やりすぎない節度と道義があり、精神性が高いのに鮮烈でもあり、まるでこの人自身がひとつの高い境地に達しているようです。
彼のバッハは正統的でありながら、堅苦しさのない自然体で、音の輪郭が明晰で聴いていて飽きるということがまったくありません。

また事前の準備も相当にしているとみえて、録音も優秀だし、指も一切の迷いなくめくるめく動いて、確信に満ちた音楽が活き活きと必然的に流れていきます。
注目すべきは会場である改革派教会にはかなり強い残響があるようで、そのためかどうかはわかりませんが、シフはすべての曲を一切ペダルなしで弾き通しました。しかし目を閉じて聴いているかぎりでは、とてもそうとは思えない充実した美しい響きが燦々と降り注いでくるばかりでした。

我が意を得たりと思ったのは、ここで使われたピアノはそう古い楽器でこそありませんでしたが、新品とは程遠い楽器で、黒鍵の黒檀は手前部分が光っているぐらいまで、相当に使い込まれている年季の入ったピアノだったのが印象的でした。むろん調整も見事のひと言。
マロニエ君の部屋の「新しさの価値と熟成の価値」で書いたように、こういう感動的な演奏には、まっさらの新品ピアノなど考えただけでもミスマッチです。

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