感情の衰退1

マロニエ君の音楽上の恩師のひとりでもあるフルートの先生から聞いた話ですが、今やコンクールはどこに行っても台頭する韓国勢の独壇場と化しているそうです。
この流れは、マロニエ君はピアノの場合として知っていることでしたが、やはりと言うべきか、それは他の楽器にも同じような現象が起こっているようです。

2009年の浜松国際ピアノコンクールでも韓国のチョ・ソンジンが優勝したのはもちろん、上位6人の中の実に4人を韓国人が占めるという驚くべき結果となったことも記憶に新しいところですし、前回クライバーン・コンクールでも数名の韓国人が実に見事な演奏をしたのは印象的でした。

その先生によれば、コンクールの現場で感じることだそうですが、韓国勢の強味はなによりもその激しい感情表現ということ。韓国人のあの激烈な感情の奔流が音楽にはプラスに作用しているようで、なるほどというしかありません。

めったに見ることはありませんが、韓国の映画などを観ても、その生々しい感情の動きが全体を支配しており、それ故にひじょうに見応えのある作品に仕上がっていると思います。原作にしろ監督にしろ、表現者としての翼を大きく羽ばたかせてのびのびと仕事をやっていると感じられ、ときには羨ましく感じる場合も少なくありません。

すくなくとも芸術面においては、良いものに対する素直な評価と価値基準も、韓国のほうが現在は一枚上手のような気がします。
日本人の能力は世界的にも稀有な民族だと誇りをもって思いますが、いかんせん公平・平等の思想がはびこりすぎて、芸術という、いわば出発からして非平等な世界の核心部分までもを侵食しているような気がします。
だいいち何事にもアマチュアが出しゃばりすぎる社会になり果てています。

これでは、本当に才能ある人物が現れても、それを社会が正しく評価できないことには上手く育つことはできません。
少なくとも日本はすでに認定され定着した評価には従順ですが、新しい芸術的才能に関しては、あまりにも鈍感すぎるような気がします。

同時に大したこともないような人が際限もなく続々と出てきて、結局はつぶし合いとなり、本物の芽まで一緒に摘み取られてしまうことがあると思うのです。

今年おこなわれるチャイコフスキーコンクールも、雑誌の下馬評では、ロシア対韓国という構図が出来上がっているようで、むべなるかなと思います。

日本人は器用でハイクオリティな演奏はできても、メッセージ性や高揚感に乏しく、演奏というものが終局的には表現行為である以上、聴く者の心を掴んで揺り動かすような圧倒的な主体性がなくては花は咲きません。
自己を押し殺して、表現しないことのほうに美徳と価値がある日本ですから、それは当然の成り行きでしょうね。
とりわけその傾向は近年ますます顕著になってきたようで、感情的な表現すら人工的に貼り付けた様子が見えてしまいます。

感情の振幅が小さいということは、おそらく表現者としては決定的なハンディとなるに違いありません。

ところが韓国側から見ると面白い意見があって、韓国のピアノ教育者の代表的な存在のひとりである、韓国芸術総合大学のキム・テジン教授は「平均的に見ると、日本のピアニストは知的であり、韓国は感性的。足して2で割れば完璧なピアニストになる」とも言っています。
これは社交辞令なのか、自分達にないものは輝いて見えるものなのか、真意はわかりません。

マロニエ君から見ると、ナショナリズムの問題は別として、現在の若いピアニストは圧倒的に韓国が上を行っていると思いますが。

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