感情の衰退2

コンクールの主役は韓国に譲るとしても、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という言葉がなつかしいほど、いまの日本人には何事によらず爆発がなくなりましたし、それに附随するところの覇気も度胸もすっかり痩せ細ってしまったようです。
だから今の日本人は、ますます器が小さくなってしまっていると感じるこのごろです。

ちょっとでも枠をはみ出すと、変人のように認識され、たちまち空気が読めない人間と同列に分類されるし、同時に、いかにも誠実ぶって善人のフリをするぶんには、これが一番安全でなんの障害もない空気です。
なぜなら偽善が偽善だとは認定されず、いつの間にかそれが人間的に正しい振る舞いだと捉えられているからでしょう。

爆発といえば、暴発と同義語のように扱われ、まるでキレたり暴力的だったりする悪行のようなイメージをどんどん塗り重ねられていく流れは、もはや止めようもありません。
生きていれば怒ることも腹を立てることも多々あるものですが、それは際限もなく抑制するのが当たり前となり、誰もが聖人のように穏便に事を荒立てないことが金科玉条のようにされています。

そんな風潮の中でまともに意見でも言おうものなら、事の良し悪し以前に、意見を言ったという「異変」にみんな引いてしまいます。もちろんある程度は理性をもって制限しないと、なんでも感情を優先させるだけでは、ただの野蛮人になりますが、いくらなんでも今の状況は異常だと思います。

ジェントルなバランス感覚から発せられた抑制なら大変結構ですが、ただ臆病で、やみくもに自分の利益を守り通そうとするあまり、言葉を選び立派な人間の演技をし、安全第一、ひたすらマイナス要因を作らない事だけがすべてに優先しているようにしか見えません。
お陰で、今の日本の価値観は、表面は穏やかでも、内側には浅ましい我欲だけが渦巻いているようです。
すなわち、きわめて消極的自己中とも言えそうです。

その裏には、万一その逆をやらかして、自分が孤立したり、嫌われたりする場合に対する異常なまでの恐れ、ほとんど戦慄とでもいっていいような強い脅迫観念が張り付いているようです。

こういう狭いところに押し込められたような意識の中で、チマチマと息を潜めたように生きている日本人には、もはやおおらかに人生を謳歌して人間臭く生きるなどということは、ほとんど夢物語も同然です。

音楽コンクールで韓国に敗退するぐらいはいいとしても、これではこの先どうなるのかと思います。

若い世代の人を見ていると、すでに感情を抑えるということすら通り越して進化して、感情そのものの総量がずいぶん少なく小さくなってきているようにさえ感じます。何も感じないことが最も合理的でムダがないという、これはいわば、自然の摂理なのかもしれません。
自然な感情や反応は、あたかも世間を憚るべき下着の中のように、一切表に出してはならないものになってしまっており、これでは人間らしい喜怒哀楽も否定され、信念も情熱も持てず、政府の批判もできず、こういう風潮は考えれば考えるほどある意味ファシズム的で、無性に恐ろしくなってしまいます。

欺瞞の恐ろしさは、ついにはそれを欺瞞とも感じなくなることかもしれません。

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