ショパンのガラコンサート

今年の一月に東京で行われたショパン入賞者によるガラコンサートの模様が先ごろNHKのBSで2時間放映されて、録画していたのですが、これがもう、なんともシラけて退屈の極み、全部を見通すことができませんでした。

あらためていうまでもなくマロニエ君個人の印象ですけれども、ただ一人を除いては、みんな大同小異で、だれもかれもが無機質なウソっぽい演技のような演奏をするのには、あらためてなんだこれはと思いました。
若いのにエネルギーも冒険も初々しさもなく、若年寄のようで、もう少し正直に本音をぶつけた気持ちのいい演奏をしたらどうかと思います。

コンクールでは大変な人気だったと聞く2位のヴンダーの幻想ポロネーズも、期待に反して凡庸で、どこかアマチュア的な腰のない演奏でもあり、なんということもありませんでしたし、同じく2位のゲニューシャスの第1協奏曲も流れが不自然で、第一楽章だけでも聴くのが苦痛になりました。
このあまりにも有名な甘美な曲を、ここまで説得力なく退屈に演奏するのも大したものです。
3位のトリフォノフもしかり、こうやって見ていくとアヴデーエワの優勝というのも消去法で妥当な結果だったのかとさえ思えるものでしたが、その彼女も基本的にはこれまでと同じ印象でした。

とりわけロシアの3人に共通するのは、かつてこの大国のお家芸だった感情の奔流がなくなり、すべてが審査基準に沿って計算され構築された流れのない演奏です。そこには何のメッセージ性も主張も霊感もない、ただ高度に訓練された技術を横にならべて見せられるだけというもので、当然ながらそこにショパンの魂が現れるような余地はありません。
これではまるでスポーツと同じで、そこに技術的課題としてショパンの作品が使われているだけという印象です。

何かに似ていると思ったら、フィギュアスケートで、ここで何回転、ここで何連続、ここでステップという、ただ競技のためにだけに作り上げられた高度な技を、予定通りに失敗せずにこなしているとしか思えません。
これは音楽とはまったく似て非なる、メダル獲得だけが彼らを支配しているようでした。
何か大きなものが間違っているとしか思えませんし、若手がこれではクラシックが衰退するもの当然だろうと思われます。

彼らの演奏には、音楽のしもべとなり、それを奏する喜びや作品の美しさに自分の感性を重ねて燃焼するという、肝心のものがすっぽり抜け落ちているようでした。
我々聴く側も、演奏を通じて音楽の波に乗り、いざなわれ、作品の世界を味わい、ときには激しく翻弄されたいのです。
演奏者はそのために特別に選ばれた案内役であるはずですが、彼らはまったくその役目を果たしているとは言い難いものです。

なぜこんな風潮になってしまったのか…もはや考えてみる気にもなれません。

冒頭に「ただ一人を除いて」と書きましたが、それは5位のフランソワ・デュモンで、彼ひとりショパンの詩情を繊細に的確に描き出す、きわめてセンシティヴで美しい演奏をしていたのが正に唯一の救いでした。
やはりフランス人は、ショパンの本質を理解しているのだと思いました。

この一連のガラコンサートは福岡にも来ましたが、直感的に行かなかったのは正解でした。
もし行っていれば、すっかり落胆して帰ってきたこと間違いなしだったようです。

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