感覚の問題

「感覚」というのは一般的な常識の枠組みより遙かに細やかな、微妙なニュアンスの領域の問題ですが、これを共有できる人は昔にくらべると激減していることがひしひしと感じられるこの頃ですし、だからこそ通じ合える人の存在は昔以上に貴重でありがたい気がします。

それは物事に対しての善悪の問題ではなく、固い言葉でいうと道義とかけじめ、さらには好みや抵抗感の有無などの世界であって、いってみれば人が生きてきた長い年月の中で知らず知らずの間に出来上がった、とらえどころのない尺度、あるいは価値観の集積のような気がします。

単純な善悪の問題ではないからこそ、大事な事ってあるものです。

たとえばですが、どうも最近は文化という便利な名のもとに、ナンセンスとしかいいようのない非常に自己満足的なイベントなどが次々に立ち上がっているようですが、これにどう反応するかもポイントのひとつになります。

具体的にいうと、最近目につくのが日本のお寺(もちろん仏教の)です。
ここを会場にして、仏事ではない様々なイベントをやるのが目白押しで、今年だったと思いますが、博多の由緒ある名刹(日本最古の禅寺といわれます)で、なんとTVタレントの華道家がさまざまに飾り付けた生け花のイベントをやっていたようですし、つい先日手にしたコンサートのチラシにも、これもまたたいへん由緒のある曹洞宗のお寺の本堂でヴァイオリンとピアノによるコンサートが行われるといいます。さらにある日の新聞には空海創建ともいわれる、これもまた由緒ある博多のお寺に五重塔が完成したことを記念して、寺内でファッションショー!などが開かれたといいます。

コラボなどという言葉が使われはじめて、その便利な言葉を仲介にして、このような、ある種グロテスクな催しが全国的にも雨後のタケノコのように発生してきているように思います。

こういうことを多くの人はどう感じているかは知りませんが、マロニエ君はごくはじめのころこそおもしろことをやるもんだと思ったことも一瞬ぐらいはありましたが、結局のところ体質的に受け付けられず好きではありません。
たしかに一時期はこういうことが「新しさ」であるかのように勘違いされたのかもしれませんね。

しかしマロニエ君は、お寺の本堂という、正面には仏様がおられて、その前で苛酷な修行を積んできた僧侶の導きのもと、恭しく厳かな仏事を執りおこなうべき場所を、余事で侵すべからざるものだと思いますし、ましてそこにグランドピアノを置いたり、お寺とは不釣り合いなドレスを着てヴァイオリンをキーキーいわせて西洋音楽を演奏するというのは、やっているほうは斬新なつもりでも、どう考えてもしっくりきません。
しかも演奏されるのは大半が普通のクラシックとなると、これらの作品の根底にあるものは例外なくキリスト教の存在なのですから、事の内側に潜む精神的な意味合いを考えると、これは何かが間違っているとしか思えません。

マロニエ君は自他共に認める相当のクラシック音楽好きですから、少々のことなら音楽の味方をするのはやぶさかではありませんが、やはりこの種のイベントは、生理的に馴染めないものがあります。
だったら、キリスト教の礼拝堂で和太鼓の公演などして素晴らしいと思えるかというのと同じことでしょう。
なにかお互いがお互いを汚し合う結果になっているという気がするわけで、ひとことでいうなら違和感と一握りの人達の自己満足だけが残ります。

世の中には、法律にはなくてもやってはならないこと、やるべきではないこと、やらないほうが美しいことがあるものです。そしてそれは各人の人格や学識や教養の部分に下駄をあずけられていることがあるものです。

お寺でコンサートやファッションショーみたいなことをすることが垣根を超えた新しい文化なんて到底思えませんし、そういうものに対してどうしようもなく違和感を感じてしまう部分、そこがまさに「文化」だと思いますし、文化とはもとを辿ればきわめて精神的な領域の問題なのだと思います。

そして、こういうことを(最近はマロニエ君もあまり口にはしませんが)言って、くどくど説明せずともサッと理解し本質をわかってくれる人、これが「感覚」の共有だと思います。

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