やめられない人

マロニエ君のような飽きっぽい怠け者からみると、世の中には、別人種とでもいいたくなるような驚くばかりの強靱な意志力とか持続力を持つ人がいるものです。
そしてこういう人達には、相応の行動力も兼ね備わっているものです。

以前はただ単純にその意志力、行動力を不屈の精神のように感じて素直に敬服していましたが、これがよくよく見ていると、中にはどうも褒められたことばかりではなくて、そこには別の力が働いていることがわかります。

それは何かというと、人間のもつ欲望や劣等感がひきおこすところの執着心が発する怨念のような意志や行動であり、その思い込みや目的に囚われるあまり、逆に自由のない浅ましい人の姿であることがわかりました。
しかもそれが、一見そうとはわかりにくい、体裁のいい建前のベールを被っている場合のなんと多いことか!

「言うは易し、行うは難し」とか「継続は力」などといいますが、それは本当に有意義なこと、建設的なことを必要だと正しく認識し、真っ当な意志の力によってそれを達成している人をいうのであって、裏を返せば必要がなくなればいつでも中止する準備のある人のことだと思われます。

欲望を源泉としたところの努力は、努力は努力でも、動機がそれでは感心するには当たりませんし、その努力の姿に美しさがないものです。

結婚願望や病的に子供を欲しがる人、手段を選ばぬ出世欲や金銭欲、根底に流れるブランド指向など、己の欲望のために何がなんでも目的を手中に収めたいという露骨な思い込みは、さらなる欲望、際限のない欲望に転じ、端から見ていてあまり眺めのいい光景ではありません。

当人はずいぶん必死なようですが、要はただの卑俗な欲望の奴隷に身をやつしてということに、自分ではなかなか気がつかないようです。これが時として大変な努力家のように見えたり、どうかすると称賛の対象に間違えられる場合さえあります。
というのも、これらは正統な努力の姿とひじょうに姿形が似ている場合があり、そこに文句を言わせない建前をドンと立てておけば、とりあえず表向きの非難からは除外されるという性質を持っていますし、とりわけ建前に弱い現代では大手を振って横行しているようです。
そして、音楽の世界にもこの手合いが少なからず棲息しているのはいうまでもありません。

こういう大義や隠れ蓑を持った欲望・野望は、幼稚でわかりやすい欲望よりもはるかに悪質だと思うのです。
ワガママでも欲望でも、本人がそれを自覚し、人目にもすぐにそれとわかるものはまだ救いがあるものです。

マロニエ君ももちろん人並みに欲望はありますから、自分だけは別だというつもりはないのですが、やはりちょっと(というか到底)次元が違うと思うのです。

本当はもっと具体的なことを書きたいところですが、いろいろと障りもあるので具体例が引けず、もってまわったような表現ばかりになるのが残念です。

現在のやめられない人の最高峰は、もちろん我らが首相であることに異論はないでしょう。
この超人的な粘りは、まるで毎日がギネス記録のようです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です