かつて、ミヒャエル・ポンティというドイツ出身、アメリカで活躍した異色のスーパーピアニストがいて、昔から音楽ファンの間ではこのポンティの異色なレコードはちょっと知られた存在でした。
すでに70歳を過ぎて、現在は手の故障から現役を退いているようですが、彼のピアニストとしての絶頂期はおそらく1970年代だったと思われます。
そして、その間に膨大な量の、まさに偉業ともいうべき録音を残しています。
その内容というのが並のものではなく、大半が通常ほとんど演奏されることのない主にロマン派の隠れた名曲の数々で、子供のころからマロニエ君はどれほどこの人の演奏で初めて聞いた曲があったかしれません。
ポンティの優れている点は、埋もれた作品の発掘というものにありがちな、ただ音符を音にしただけの、とりあえず楽譜通りに弾いてみましたというたぐいの平面的な演奏ではなく、どれもが彼のずば抜けた感覚を通して表現された生きた音楽である点です。
まるで長年弾き慣れた曲のごとく、そこには生命力とメリハリがあり、その迷いのない表現力のお陰でどれもが名曲のような輝きと響きをもって我々の耳に聞こえてくるのがポンティのピアノです。
一説には100枚近い録音をしたと言われていますが、よほど卓抜した譜読みができるのか、解釈の参考にすべき他の演奏もないような曲へ次々と的確な解釈を与え、しかも持ち前の超絶技巧で一気呵成に弾きこなしてしまうのですから、いやはや世の中には恐るべき天才がいるものです。
中でもモシュコフスキのピアノ協奏曲などは、いまだにマロニエ君の愛聴盤のひとつです。
そんなポンティの幻のシリーズというのがあって、そのひとつがスクリャービンのピアノ作品全集なのですが、これは長年音楽ファンがその存在を囁き合い、復刻を求めていたもので、それをついに手に入れることに成功しました。
5枚組CDで、完全な全集ではなくソナタは別になっていますが、ほとんどのエチュード、プレリュード、マズルカ、即興曲、ポロネーズ、幻想曲ほか小品が収録されています。
ところで、これって何かににているでしょう?
そうです、スクリャービンはとくに初期にはショパン的な作品を数多く作曲していましたが、しかしショパンらしさというのは実はそれほどでもなく、初期の作品からすでにスクリャービン独特の暗く官能的な個性が全体に貫かれているのは、これまた天才ならではの個性の早熟さを感じさせられます。
驚くべきは、この曲集、ヴォックスという廉価レコードのレーベル(こういう会社でなくてはマイナーな曲ばかり発売なんてしないのでしょう)の制作経費節減のせいで、使われているピアノは、な、なんと、アップライトピアノ!なんです。
そのせいで音ははっきり言ってかなり貧弱かつ突き刺さるようで、表現力も品性もありません。ポンティの多様な演奏表現について行けずにピアノがキンキンと悲鳴をあげているようなところが随所にあり、音としてはかなり厳しいところのあるCDです。
しかしながら、演奏は実に見事な一流のそれで、聴いているうちに音楽に引き込まれてしまい、こんなものすごいピアノのハンディさえもつい忘れるほど聴き入ってしまうことしばしばですが、それにしても、こんな冗談みたいなことが現実におこなわれていたということ自体が信じられません。
いくら経費節減といったって、アメリカのような豊かな国(しかも現在より遙かに)の、しかもピアノ大国にもかかわらず、レコードのスタジオにグランドピアノ一台さえ準備できなかったなんて…ちょっと信じられませんね。
アップライトピアノ1台という劣悪な環境の中、ポンティは楽譜と毛布を渡されて缶詰状態となり、やむなく録音を続けたといわれています。
しかし、内容はそんなエピソードが信じられないほど本当に素晴らしいもので、ポンティの信じ難い才能が、このすべての悪条件を跳ね返しているようです。
アップライトピアノによる一流演奏家の全集なんて、探してあるものではないので、その点でも貴重なCDと言えそうです。