好みの封印

他人と接触する際には慎重にならないといけないことがいろいろとあるものですが、マロニエ君はこの歳になってもまだまだ油断だらけで、後から反省することしばしばです。

たとえば、いろんな人と雑談をする折は、その雑談内容と雰囲気にもよりますが、あまり軽々しく自分の好みや考えを明かしてしまうのはどんなものかと思うようになりました。
というのも、マロニエ君はわりに好き嫌いが強いほうなので、とくに嫌いなものは徹底的に嫌い抜く場合があり、そういうものが話題にでると、つい反射的に拒絶の反応を起こしてしまいます。

もちろん状況次第で、どんなに自分の考えや好みを言おうと一向に問題ないこともありますが、音楽の話などでは、自分の好みをいち早く表明するのは、やっぱりよくよくの注意が必要だと思います。
とくに自分が嫌いなものの場合は、その注意の度合いも高める必要があるということでしょう。

嫌いな作曲家、嫌いな作品、嫌いな演奏とか演奏家、そしてその嫌いの理由も何層にも積み重なった理由と根拠があって、若い頃はそこに意思表示をしないでいることは、自分をも裏切ることのように思い詰めることがありましたが、最近はさすがに歳のせいか、そんなに力み込んで事を荒立てることもないと思うようになりました。

むしろ、こちらとしては単なる自分の好みではあっても、場合によってはそれを聞いた人は、自分自身が否定されたように感じさせる危険もあるでしょうし、下手をすると相手を傷つける可能性もあるかもしれません。

それよりは、その場を柔軟にやり過ごすことの方が意味がある…といえば、なんだか生悟りのきれい事のようですけれど、マロニエ君の場合は実はそれでもなく、言い方を変えるなら、何かを犠牲にしてまで己を貫くことがだんだん煩わしくなったわけです。
敢えて頑張るに値するような重要な場面でも顔ぶれでもなし…という思いでしょうか。

もちろんよくよくのことならその限りではありませんが、よくよくのことなんて、そうざらにあるわけでもなし。
さしものマロニエ君も、ここにきて現実的な算盤をはじくようになり、そこでヘラヘラと笑みでも浮かべておいてその場が平穏に通過できるなら、それはそれで自分も楽だという、甚だ狡くてなまくらな考えが浮かんでくるようになりました。

まあ、ひとつには一人で奮闘したところで、どうせこちらが期待するような理解も得られず、自分のほうが浮いてしまうだけという現実感も後押ししてのことですが。

これが丸くなるということなのか、はたまたただの堕落なのか、諦観なのか、韜晦なのか、そのへんはよくはわかりませんが、まあとにかく好き嫌いぐらいで要らざる波風を立てることもないと思うようになったということです。

ひとつには、たまに主張めいた人の熱心な(そして野心的な)発言などを聞いていると、その内容よりも、ずいぶんと必死で余裕のない人間の、いかにも滑稽な姿を見ることになり、それが反面教師として機能しているということも、もしかしたらあるかもしれません。

とりわけ周りに聞かせることをじゅうぶん意識した上で発せられる言葉や知識の披瀝は、聞かされる側は痛いほどにその心底が見えてしまい、なんともいたたまれないものです。まあ何をどう妥協しても、努々そんな姿だけにはなりたくないという、これは自衛本能なのかもしれません。

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