混濁の恐怖

このところ、ピアノを弾く場合のマナーを考えさせられることがありますが、あることを思い出しました。
以前、知人達とあるピアノ店に行ったときのことですが、これは少々まずい…という状況になりました。
ここのご主人はとても気のいい方で、店内のピアノを弾くことについてはいつも快く解放してくださいます。

はじめは遠慮がちでしたが、しだいに各々がちょろちょろと弾きだしたところまではよかったのですが、時間経過とともに緊張が薄れ、気が緩み、しだいに各人バラバラに自分の弾きたい曲を同時に弾いてしまうという状況が発生しました。

マロニエ君はこれが苦手で、一種の恐怖さえ覚えてしまいます。
だいいちあまり感心できることではないですよね。

読書やパソコンと違い、楽器は音を出すものであるだけに、複数の人が複数のピアノを同時に鳴らすということは、息を合わせるアンサンブル以外はただの騒音以外の何ものでもありませんし、この瞬間から美しいはずのピアノの音は耐えがたい混濁音になってしまいます。

これの最たるものは楽器フェアなどで、せっかくの良い楽器を試そうにも、一瞬も止むことのない耳を覆いたくなるばかりの大騒音の中では、個々の楽器への興味もすっかり失ってしまいます。

今はまったくお付き合いも途絶して久しい方で、以前マロニエ君の家にピアノの好きな方をお招きしたところ、そのうちの一人は実に3時間近くを、ほとんど休むことなしに我が家のピアノを弾き通しに弾き続けました。
あとの一人とマロニエ君は呆気にとられ、つい目と目が合ってしまいますが、やめろとも言えず、なす術がありません。

わずかな曲の合間などになんとか分け入って弾くという、せめてもの抵抗を試みますがまるで効き目はなく、すぐに構わずその人もまた自分の弾きたいものを弾きはじめる有り様で、もう部屋は音楽とは程遠いただのピアノの騒音で溢れかえりました。
それでもその人はまったくひるむことなく、ひたすら弾き続けるのですから、自分さえピアノが弾ければいいというその図太さにはほとほと参りましたし、ピアノ弾き特有の特種な無神経さを感じました。

いずれにしても、ひとつの場所で同時に違う曲を弾くという野蛮な行為だけは理屈抜きに御免被りたいものです。

ピアノが好きな人は、目の前にピアノがあることは一種の誘惑で、触れてみたい、弾いてみたいという気持ちになるのはよくわかります。
しかし、誰かが弾いている間ぐらい、自分が音を出すのはちょっと遠慮する程度のけじめはほしいものです。

そんなことを考えていると、マロニエ君は最近、家でさえピアノを弾くことに、なにやら家族の迷惑が気になりだして、このところは無邪気に弾くことができなくなっています。
それは、同じ場所にいて嫌でも音を聞かされる側の立場になってみれば、それは弾いている当人とは大違いであって、どんな理屈をつけても、基本的にはただの騒音であろうと思うわけです。
とりわけ練習ともなると、通して音楽が流れるわけでもないし、ましてやプロの演奏でもない、アマチュアのヨタヨタ弾きでは、他者(たとえ家族でも)が快適であろうはずがないからです。

音の苦痛というものは、煙や臭いと並んで、どうしても強烈な部類の苦痛源であるということはピアノを弾く人は心しておくべき事だと思いますし、間違ってもピアノの音は美しいはずなどと勘違いしてはなりません。
これはピアノを弾く者、すなわちピアノの音を出す側に強く求められる基本認識の問題だと思います。

ピアノは、人前で弾くには一線を踏み越える度胸が必要ですが、その線の先には、今度は音の野蛮人にならぬよう、遠慮をするというバランス感覚を持つことも、弾く度胸以上に必要であるような気がします。

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