ヴァイオリンの謎

数ある楽器の中でも、ヴァイオリン族ほどピンキリの甚だしい価格差があるものもないでしょう。

代表的なヴァイオリンは、普通の入門用楽器なら10万円以下からごろごろあるいっぽうで、頂点というか雲の上に君臨するのが、ストラディヴァリウスやアマティ、グァルネリ・デル・ジェスのような約300年前のクレモナの名工達が製作した最上級とされる楽器ですが、これらの価格はますます高騰し、それらと廉価品の価格差は数百倍から下手をすれば千倍にも達します。これはちょっとピアノなどでは考えもつかない世界です。
こうなると、とうてい普通の演奏家が購入できるものではありません。

かつてヴァイオリニストの辻久子さんがストラドを買うために、家屋敷を売り払ったことが大変な話題になったことがありましたが、それでも当時は億などという単位ではありませんでした。
また同じくヴァイオリニストの海野義雄さんは、高価な楽器を万一の交通事故から守るという目的のために、当時最高の安全性を誇っていたメルセデス・ベンツに乗っていると豪語しておられました。
本当にそのためのメルセデスかどうか、真偽のほどはわかりませんが、ずいぶん昔の話ではあります。

いっぽうでは旧ソ連は国家がいくつかの名器を保有し、それに値すると認められた演奏家には無償で貸与されるという社会主義ならではのシステムがありました。
オイストラフの愛器も国家所有のストラディヴァリウスで、彼の前に使っていたのがあの数々の名曲を残したヴィエニャフスキ、そしてオイストラフの死後にこの楽器を貸与されたのがわずか10代の神童ヴァディム・レーピンでした。

これは数あるストラディヴァリウスの中では特段の名作というほどではないのだそうですが、オイストラフやソ連時代の若きレーピンの奏でる、一種独特なややハスキーな、そして抗しがたい悪魔的な音色は聴く者を総毛立たせた特徴のある楽器です。

それにしても、いかに素晴らしいとはいってもなぜここまで高額になるのか、この点は解せないものがあるのも正直なところです。
ヴァイオリンの構造図を見てみると、ただただ驚くほどにシンプルで、f字孔が開けられた「表板」と裏側の「裏板」それを支える「側板」、中に突き立てられた「魂柱」が本体で、これに「ネック」という左手で持つ部分、それに「スクロール」という上の渦巻き状の部分があるだけで、そこに「駒」を介して4本の弦が張ってあるに過ぎません。

ピアノの複雑で大がかりな構造と較べると、まさにあっけないほどに究極の単純構造で、ここからあの艶やかで何かがしたたり落ちるような美しい音色が出るのかと思うと、いやはやすごいもんだと思ってしまいます。
もちろん楽器の価値というのは、大きさや複雑な機構や、ましてや原価がどれだけというような次元ではないことは百も承知ですが、それにしてもそのハンパではないウソみたいな価格はやはり驚かずにはいられません。

それに弦楽器にはピアノとは違って盗難や破損といった問題が常につきまといます。
ヨーヨー・マがストラディヴァリのダヴィドフという名高い名器(前の持ち主はあのジャクリーヌ・デュプレ!で、チェロはヴァイオリンに較べて数が少ない)をニューヨークのタクシーに置き忘れたというのは信じがたい話ですが、ともかくこういう事がある楽器というのも気の休まるときがないのではないでしょうか。

そして時にはジャック・ティボーやジネット・ヌヴーのように、所有者が遭遇した事故と共にこの世から楽器が消え去ることもあるわけです。

ピアノには持ち運びができないぶん、盗難や紛失の心配がないのはずいぶん気楽なもんです。
逆に建物が焼失崩壊するような災害にはなす術がありませんから、まあ一長一短といったところでしょうか。

ともかく、これらの昔の最高級のヴァイオリンは謎だらけで、どこかオカルト的で恐い感じがします。
そこがまた抗しがたい魅力なのかもしれませんが。

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