リサイタルに行ったことがきっかけで、このところメールのやり取りをしているあるピアニストから、コロリオフというピアニストをご存じですか?と聞かれました。
知らなかったのでその旨伝えると、ご親切にも5枚ものCDを送ってくださいました。
エフゲニー・コロリオフ、ロシア出身で現在はドイツに暮らして活躍している人でした。
分厚い包みが届いたと思ったら、そこにはなんと5枚ものCDが入っており、ゴルトベルク変奏曲、フランス組曲全6曲、バッハ編曲集では音楽の捧げものからリチェルカーレ、クルタークによる編曲、クラヴィーア練習曲第3番、リスト編曲の前奏曲とフーガなどでした。
そのご親切に深く感謝するとともに、さっそく聴いてみました。
ゴルトベルクの出だしを聴いたときから、いきなりなんと姿のよい、骨格のある澄みきった演奏かと思いましたが、それは聴き進むうちにますます確信に深まります。
バッハの鍵盤楽器のための作品の演奏に際しては、チェンバロやクラビコードで弾くべきか、現代のピアノで弾くかということは尽きないテーマですが、コロリオフの演奏を聴いているとそういう論争さえナンセンスに思えるほど、ひたすら真正なバッハを聴いている自分に驚き、それに熱中させられてしまいます。
ゴルトベルクといえばグールドの衝撃以来、60年近くが経過するに至っていますが、なんらかの形で彼の演奏は多くの演奏家の耳に刻み込まれましたが、そこから本当に独自の表現ができたピアニストは極めて少ないと思います。
コロリオフはバッハの音楽をあるがままの姿で表出しており、そういう正統表現の価値と魅力を、聴く者に問い直してくるようです。
この当たり前さが、今は不思議なほど鮮烈に聞こえてくることに、言い知れぬ快感と喜びを覚えます。
バッハはピアニスティックにモダンに弾くか、あるいはアカデミックな学者のような演奏に二分されることが多いと思いますが、コロリオフはバッハにはそのいずれにも分類できません。
第一級の演奏技巧で非常に一音一音が明晰で力強く、いかなるときも落ち着きはらったバランス感覚があるのに、生命感に裏打ちされたそれは退屈させられるところがなく、常に音楽の熱がすみずみまでみなぎっています。
シフのバッハも素晴らしいですが、彼にはときに独特な節回しや老けた悟りのようなところもなくはないのですが、コロリオフにはまるきりそういうものが見受けられません。
音楽を聴いていると同時に、なにか荘重な建築を目にしているようでもあります。
とくにトリルや装飾音にはチェンバロのような趣があり、その効果的な入れ方には妙なる美しさがあふれ、文字通り随所で音楽に厳粛さと華を添えているようです。
彼がロシア人であることも関係していると思いますが、どんなにバッハをバッハとして純度をもって演奏することに専念していようとも、背後からロマンティックな何かがこの演奏を支えているような気がして仕方がありません。しかもニコラーエワのような直接表現でないぶん、より克明にバッハの音楽の核心部分へと導かれるようです。
きわめてドイツ的でありながら、決して本当のドイツ人には作り出せないドイツらしさといったら言葉が変ですが、たとえばチリの出身であったアラウがドイツ人よりもドイツ的といわれたことに、これも似ているかもしれません。
ペダルも使っていないように聞こえますし、デュナーミクも過剰にならないところに凛とした気品があり、バッハ音楽の抽象世界を描き出し、聴く者は楽々とバッハの響きと真髄に体が包まれるようです。
まだ一通り聴いただけですが、こんな素晴らしい演奏に出会えて件のピアニストには感謝しています。