喜びから苦痛まで

過日のクラシック番組で、ある女性ピアニストのコンサートの様子が放送されましたが、それを見ていてなんというか…気が滅入ってくるというのか、いたたまれない気分になりました。

その女性は海外のコンクールで優勝歴などもあり、コンサートやCDなどでも一応は活動らしきことはしているようですが、悪い意味で現代のピアニストの欠点を寄せ集めたような要素を持っています。

まず姿がよくない。
音楽家なんだから美人である必要は全くないし、その点では最近のビジュアル系みたいな方向性には大いに異を唱えるマロニエ君ですが、人に演奏を聴かせることを本業とするアーティストなのだから、そこにはある一定の雰囲気というか、文化の担い手としての最低限の顔つきというのは持っていなくてはいけません。

繰り返しますが、これは決して美醜の問題ではありません。
ピアニストはいやしくも音楽家で、いわば芸術家の端くれなのですから、その佇まいもあまり品格がないのは困るということが言いたいわけです。

あまり見てくれのことばかりいうのもなんでしょうから、演奏のことを言うと、ただ楽譜を見て、暗譜して、練習して、ミス無く弾いているだけ、ただそれだけという感じで、聴く側はなんの喜びも感興も湧かず、あまりのその不感症のような演奏に接していると、こんな演奏を聴いたばっかりに却って不満と疲れを感じてくるのです。

ツンとして、まるでオフィスで事務仕事でもこなすかのようにピアノを弾いていて、この人にはなにひとつ音楽的なメッセージ性みたいなものが無いことが、こっちまで無惨な現実を見るような気分にさせられます。

また、この女性は非常に大きな恵まれた手をしていますが、それもまるで活かしきれず、ただ蜘蛛のように長い指が鍵盤の上で不気味に足を広げているようで、それらが淡々と音符を処理していくだけで、如何なる場合も作品が聴き手に語りかけてくることがありません。
ドビュッシーなどは非常にぎこちなく固く弾いたかと思うと、リストでは随所にある甘い囁きもなければ、ここぞという場所での迫りも情念も解放もなく、ひたすら退屈で、出来の悪い機械のような演奏でした。

こういう位置にいる中途半端なピアニストというのは、この先、まずどんなことがあってもこれ以上先に伸びることもたぶんないし、音楽的な深まりを見せる可能性もまずないでしょう。
つまり今以上の知名度を上げることも人気を得ることも、申し訳ないが99%無理です。
だからといって、指のメカニックにはやはりそこは素人とは一線を画するものがあり、いまさら市井のピアノの先生になる決断もつかないだろうし、ピアノをやめてしまう気もないだろうと思います。

そもそも、ここまで来てしまった人がいまさらピアノ以外の何ができるわけでもないでしょうから、やはりこうしたなんともしれない演奏のようなことをしながら、人前に出る行為を繰り返すのだと思うと、見ているこちらのほうがやるせない気分になってしまいました。

世の中がどんなに民主化され、平等の社会を是としても、芸術の世界ばかりは才能と実力がものをいう不平等社会で、B級C級というものになにがしかの価値があるとは思えません。
あまたの才能が惜しげもなく切り捨てられてこそ、輝ける一握りの才能だけが生き残るのです。

とりわけマロニエ君のような純粋な鑑賞者の立場になれば、芸術こそは一流でなくては到底気が済みませんし、それ以外のものに甘んじるつもりのない自分にあらためて気が付きました。

音楽において、つまらない演奏ほど不愉快なものはないのです。
そういう意味では、ひとくちに演奏といっても、人を至福の喜びに誘い込むものもある反面、不快の極みに突き落とすこともあるわけで、まさに天国から地獄までこれ以上ないほど幅広いものだと言えるでしょう。

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