続・練習の変化

練習といっても別に大したことをやっているわけじゃありませんが、それでもいろんな発見や新たな挑戦があることも事実です。

たとえば仕上げる気などさらさらなくて、ただ楽譜を置いて漫然と弾いていたときに較べると、指の練習は当然としても、曲の細部に関してもいろんな注意を細かく払うようになり、楽譜上の指示が果たして適切かどうかとか、その真意を探ったり表現の適切性を試してみたり、あるいは版による指示や考え方の違いを比較して、それに自分の解釈(というのもおこがましいですが)をあれこれと重ねて思案してみて、最良と思われる結論を導き出す過程はとても楽しいものだということがいまさらながらわかりました。
というか、これこそ演奏する人間だけが経験することの出来る、音楽を取り扱う際の楽しみだと思うのです。自分と作品がいかに和解し、作品のしもべとなってどこまで理想的な音としてそれを表せるか。

指使いなども版によっていろいろ異なりますが、マロニエ君の場合は必ずしも楽譜に書いてある指使いが最良とも思っておらず、いろいろと検討してみて、最終的には自分にとって一番しっくりくる、自分にとっての合理的なものを決定します。
これは、一般論からいえば、正しいとは言えないような指使いになる場合も当然ながらあるわけで、頭の固いピアノの先生などは絶対に許さないことだろうと思いますが、しかし指使いというものは最終的には弾く人の技量や手の大きさや指の構造などにも大きく関わってくることなので、本当の意味での正解が必ずしも楽譜の指示通りではないと思っているわけです。

それに指使いは当然ながら解釈によってもいかようにも変わります。フレーズの歌い方、アクセントの置き方、音節の区切り方、強弱のバランス、前後の対比、各パートの重要性の順序など、あらゆるアーティキュレーションの総和によっても、そのつど最良の指使いというのは微妙に変わってくるものだと感じるわけです。

それらを総合的に検討して、ひとつの結論とか形に収束していく過程というのはとてもおもしろいもので、以前はそれほどでもありませんでしたが、要するにピアノクラブで弾かなくてはいけないという義務が課せられたことで、どの曲を弾くにもこういうことを以前よりもより明確に意識してピアノに向かうようになったというのは、マロニエ君にとって最も大きな収穫だったと言える気がしています。

解釈の意義をひとことでいうなら、いかにその曲がその曲らしくあるかを探り、すべての音符と指示が有機的に必然的に流れるように持っていくか、これにつきると思うのです。
そういう目標をおくと、音色や強弱は当然としても、響きの明暗、休符ひとつ、アクセントひとつがどれも見逃せない意味深なものであることが迫ってくるわけで、それを考察し解明していくのはたとえ自己満足でも面白いものです。

練習を重ねていると大いに困ることもあります。
場所によっては、何度練習しても自分にはどうしても向かない音型、苦手なパッセージなどがあり、これを乗り越えるのはちょっとした努力が必要になりますが、性格的に粘りもないし、納得できる結果に到達することがあまりないことは、つくづくと自分の拙さを嫌というほど思い知らされます。
要するに、単純に、ひとことで言えば「下手クソ」なんですね。

さらには、練習とは細部をくまなく点検して、ゆっくりネガ潰しをしていくという一面もありますが、これをあまりやっていると、どめどがなくなり、どこもここも問題ありと思うようになり、変更に変更を重ねます。
すると、不安が全体に広がって、弾けていた場所まで弾けなくなってしまうということがよくあるのです。

これはつまり、それまでの練習が好い加減で甘かったということの顕れなのですが、ここに落ち込むと脱出にはかなり難儀させられます。
要は、下手なものはどこまでも下手だということでもあるわけですが、それでもピアノを弾くという魅力は尽きません。
ただ、ここに来て再び人前での演奏には強い拒絶感が増してきていますから、どうなることやらです。

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