我子の七光り

天才音楽家というのがときどき現れます。
その天才ぶりも様々ですし、とうぜん天才のあり方も一人ひとり違っていて、本当に深い感銘を覚えるような演奏に接することがある一方で、あまり感心できない場合もあるわけですが、いずれにしてもその才能は並のものではないことは疑いようがありません。

現代社会は何事につけてもいちいちが比較の社会であり、この時代に生きる人達は好むと好まざるとにかかわらず、なんらかのかたちで厳しい競争条理の中に放り込まれているもというわけです。
家族がちょっといい会社に勤めていたり、子供がちょっと有名な学校にいっているぐらいでも鼻高々だそうですから、ましてや我が家から「天才」が現れたとなると、それはもう尋常な喜びようではないでしょうね。

天才とはエリートのさらに上に位置する特別な存在ですから、それが嬉しいことぐらいわかりますが、そこから先どういう行動を起こすかが、とりわけ親の品格だと思いますし、それがひいては我が子のためにもなると思うのですが。

マロニエ君が見ていてどうにも首を捻ってしまうのは、天才が出現して世間で話題になると、しばらく間をおいて今度はその親が書いた本が書店に並ぶのが今どきのパターンです。
もちろん親は作家でも物書きでもなんでもないのですが、話題の天才の親というその事実だけで、本を出すに値する資格をもっているかのごとくで、出版社も煽り立てくるのかもしれません。

日本というのは不思議な国で、本当の正しい判断力として若い才能を見つけ出すことはできないくせに、ちょっと有名なコンクールに優勝したり、なにかマスメディアが取り上げるような話題になって、ひとたび脚光をあびると、今度は手の平を返したように過分な扱いをするようになります。
本当に素晴らしい誠実な音楽家が、小さなホールでささやかなコンサートをするにも集客で苦労するのを尻目に、話題の天才というレッテルが貼られるや、大ホールのコンサートを立て続けにおこなっても悉くチケットは完売し、東奔西走の毎日がはじまるようです。

こうなると、あらゆる関連業種が儲けのおこぼれに与りたいと本人やその家族に群がり、そこから上記のような著書が出版されるのだろうと思われます。文章書きが不慣れな人にはゴーストライターがつくのはむろんです。

最近は、アーティストのほうでもいつでもスタンバイ、売れたらアクセル全開が当然のごとくで、たとえば昔、ポリーニがショパンコンクールに優勝したのちにさらなる勉強のためにコンサートを休止するような、ああいった振る舞いをする人は皆無になったように感じます。
おっとり構えて勉強などと言っていたら、あっという間に背後から追いこされて終わってしまうという現実もあるのかもしれませんが、ともかく、天才本人も家族も、過剰なほど時代認識ができていて、稼げるうちに稼ぎまくるといったような、あまりに露骨な印象を与えるのは一音楽愛好家としては、どうにもやるせないものがあります。

とりわけその道のシロウトである親が我が子をネタにいきなり本を出したり、子育てをテーマとした講演などに飛び回る様子は、天才の親どころか、子の七光りを受けてはしゃぎまわっている俗人そのものの姿でしかありません。
多少は相手側からのリクエストもあるのかもしれませんが、それをこうもやみくもに応じるということは、やはりご当人もそれを我が世の春のごとく喜んでいるのだろうと思われます。

昔の芸能界には、売れっ子の我が子を食いものにする非情な親や親戚という構図があったようですが、クラシックの世界で子供をネタに親までもがあれこれと露出したり小遣い稼ぎの手段にするというのは、もうそれだけでその人の演奏に興味がなくなってしまうようです。
娘が有名スポーツ選手になった勢いで、親が国会議員になるような時代ですから、本を出して講演を渡り歩くぐらい甘いもんだといえば、そうかもしれませんが。

以前書いた○○家にヴァイオリンが我が家にやって来る本の一家ですが、すでに親兄妹の間で、想像を超えるほど何冊もの本が出版されているのには驚きました。これなどはまさに互いの知名度を互いに利用し合って相乗作用を起こしているようなもので、とにかく利用できるものはなんでも利用するという抜け目のなさが現代の流儀なのかもしれません。

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