山田洋次監督の「母べえ」を観ました。
ただ何気なく、どんな映画かも知らずに観ました。
文学者である父が思想犯として捉えられ、母と祖父はそれがもとで絶縁。
父の若い教え子がなにかにつけ母と二人の童女の世話を焼いてくれますが、やがて彼も赤紙が来て出征。
さらに開戦後間もなく父は釈放されることのないまま拘置所で絶命し、終戦間際その妹は原爆でなくなり、親戚のおじさんも吉野の山で亡くなり、主役級であった教え子も南の海で戦死する。
そして最後には母が老衰で亡くなるというもので、見終わった直後は、なんともオチのない平坦なばかりの映画だったように思いましたが、しかし人間にはこれだというべき華々しい報いだの逆転劇だのというものは、そうザラにあるものではなく、要は諦めが肝心だということを知らされたような気がしました。
生きるということは困難や悲しみの連続で、言いかえれば自分を痛めつけるということなのかもしれません。
人は生まれて、生きて、死んでいく、ただそれだけのことで、別に大層な事じゃない、それが人間だというごく当たり前の冷徹な現実を、そっと鼻先に突きつけられたようでした。
たかだか一本の映画を観たからといって、その気になって、達観したようなことを言いたてるものではありませんが、なんとなく肩の力が抜けたような気がしたのは事実です。ことさら肩に力を入れていたつもりもなかったのですが、より明確に、人の世の現実を認識できた気分です。
人間は際限もなく生まれ、際限もなく死んでいくという、動かし難い事実。
あくせくしたところでどうなるものでもない、そこにほどよい見切りを付けながら、しかし命ある限りは懸命に真面目に、そして愉快に生きるということが人たるものの品性であり努めなのだろうと思います。
現代は諦めるということをやたらと敗北者であるかのような言い方をしますが、際限なく欲にかじりつき、分不相応の幸福追求に明け暮れ、野望の虜になることのほうがよほど恥ずべきことで、それにひきかえ諦めることは数段上等の人間性を必要とする美徳ではないかと思います。
見ていて昔の人は、貧しい暮らしをしながらも、人間としての徳が備わり、心ばえがあり、現代人のような動物的な欲の猛者でないところがなんとも新鮮で、目にも美しく映ります。
これを昔の人は偉かったというのは簡単ですが、必ずしもそうとばかりは思いません。
昔の人がことさら偉いことをしようと思っていたのではなく、みんなが自然に普通にそういうふうに生きていただけだと思います。
忘れもしない三年前、ある年輩の夫婦と話をしたときに、夫人のほうが言われたことは今でもマロニエ君の心に深く残っています。
「むかしはみんなが貧乏で、それが当たり前だと思っていたから、辛いと思ったこともないし、何ともありませんでした。楽しかった。」と。そして、今のほうがなぜかたいへんだという意味のことを言われました。
裏を返せば、みんなが豊かになって、同時に貧しくなったということです。
なんでもかんでも不満ばかりで、いい目にあっているのは他人ばかりで、毎日が不安とイライラの連続です。
ケイタイもパソコンも、車もエアコンも、なんでもかんでも、そりゃあいったんその味を覚えたら逆戻りは出来ません。
しかし、それを自分が知らない状態の時代に逆戻りできるというなら、マロニエ君は本気で戻ってみたいと思うこのごろです。
こういう考えをもって、マロニエ君の今年のお盆は終わりました。