演奏は誰のため?

ピアノクラブという、いわゆるピアノの弾き合いクラブに所属して秋に丸二年を迎えようとしていますが、その間、以前なら想像だにできなかった赤面の極みであるところの人前演奏というものにも挑戦しました。

それを前提としたクラブに入る上はやむなしとして、ここに一定の覚悟をもって入会に及んだわけです。

そのための必要に迫られて、長年親しんできた「自分流」のピアノ遊びを一部棚上げし、まことに微々たる量ですが、人前で弾くということを念頭においての練習に時間を割くようになったことは、以前もどこかに書いたような気がします。

クラブの定例会はほぼ毎月開催され、その都度、人の居並ぶ会場の正面に置かれたピアノに向かってひとり歩を進め、そこでなにがしかの曲を弾かなければならないということは、マロニエ君にとっては相当にハードなことです。
こんな状況に追い込まれたというべきか、要は自分の意志で入会したわけですから、つまりは自分の意志によって己を追い込んだということになるわけですが、いまだそれに馴染まない自分がいることは、もはやどうにも手の施しようがありません。

人が聞いたら一笑に付されるかもしれませんが、正直言って、自分でもよく頑張ったもんだと感心しているほどで、それはささやかな練習をしたことではなくて、人前でピアノを何回も弾いたという点においてすこぶる感心しているわけです。
十人十色という言葉があるように、人前でピアノ弾くということに対する感覚の持ちあわせ方もさまざまで、それを無上の喜びのようにしている人を何人も目撃するにつれ、自分との違いに呆然とするばかりでした。

自分がおかしいのか、はたまたその逆か、そこのところは敢えて追求しないとしても、その甚だしい違いはどうみても解決する見込みのないことだと悟らずにはいられません。

さて最近、ちょっとそんな自分の様子が変化してくるのを薄々感じ始めていました。
本来の自分とは違うことをやっていると、場合によってはこれが習慣となって身に付く場合もあるかもしれませんが、ピアノの人前演奏だけはそうはいかないようです。

やっぱり本来自分にない無理を続けたのが祟ってきたのか、切り落とした枝がまた伸びてくるように、もとのスタイルに戻りつつあるのを自覚しはじめました。あるときふとそれを自覚するや、まさに坂道を転げるように、そのための練習がすっかり苦痛になりました。
マロニエ君には、人前で弾くためではなく、ただ単に自分がやってみたい曲がいろいろあって、どうもピアノの前に座るという限られた時間内にやりたいことの優先順位が元に戻りつつあるようです。

ピアノ教室などは、ともかく発表会だけは是が非でもやらなくてはいけないご時世だそうですから、やはり今は誰も彼もが平等にスポットライトを浴びて、一時の主役になるということが大切だとされているのでしょうが、そのあたりがまたマロニエ君の理解困難な部分なのです。
スポットライトなんてものは、一握りのそれに値する人達だけが浴びるものだという認識自体が、お堅くて古くてズレているのかもしれません。むかし竹下登が考案提唱した永田町の総主流派なんてものがありましたが、今は一億総主役というわけなのでしょう。

先日さる御方が、「音楽は自分一人でやっても意味がない、それを人に聴かせるということが大事なんだ。」という言葉をさも深い含蓄ありげに発せられました。むろんその場で反論はしませんでしたが、マロニエ君はまったくそれには不賛成でした。

そういう美しげな尤もらしい言葉を鵜呑みにし盾にして、現実にはどれだけの勘違いが発生しているかと思うと、そんな言葉も絵空事のように響きました。
むろん演奏の心得として、人に聴かせるぐらいな気持ちで演奏しなくてはいけないとは思いますが、それを現実に実行するとなると、これはまた別の話でしょう。

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