ダルベルトの迫真

フランスの中堅だったミシェル・ダルベルトも、もはや50代後半、ある意味では今が絶頂期にあるピアニストかもしれません。
彼のリサイタルの様子がBSで放送されました。

この人は昔から名前は聞くものの、なんだかもうひとつわからない人という印象で、CDなどもいまいち買う気になれない人でした。少なくともマロニエ君にとっては。

今年、すみだトリフォニーホールで行われたリサイタルから、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」と「謝肉祭」が放送されました。この人の演奏を見ていて最も気になるのは、フレーズの間でもやたらパッパッと手を上げることで、あんな奏法がフランスの伝統的奏法にあるんだろうかということです。

パリ生まれのパリ育ちで、コルトーの影響を受け、ペルルミュテールに師事したといいますが、そこから想像されるフランスらしさみたいなものは感じられませんし、そもそもそういう演奏を期待するとまったく裏切ってくれるのが決まってこのダルベルトでした。
いわゆるフランスピアニズムとは故意に外れた道を行こうとしている印象。
レパートリーもいわゆるドイツロマン派を得意とする、フランス人の音楽的ドイツコンプレックスというのはわりにあって、現在もグリモー、古くはイーヴ・ナットなどもその部類でしょう。

ただし、フランスピアニズムといっていることその自体がこちらの勝手な思い込みかもしれません。堅固な構成力とか論理性よりも、フランス人は流れるような線の音楽を描き出したり、どこか垢抜けたセンスを表出させたりするというイメージが我々に根強くあるからでしょう。

ところがこのダルベルトはそういった要素から全くかけ離れた、その見た目の甘いマスクとも裏腹に、木訥でごつごつとした肌触りの悪い音楽です。洗練の国フランスどころか、むしろそれは無粋で益荒男的で、音楽はフレーズごと、否フレーズの中のさらに小さな楽句によって途切れ、寸断され、そこにいちいち上げた手が、これでもかという無数のアクセントや段落を作り出すのは、聞いていてちょっとストレスになることがあります。

こういう具合で、ダルベルトのピアノはあまり好きではないのですが、それでもひとつだけ大変満足させられるものがありました。
それは迫真的にピアノを良く鳴らし、演奏を決してきれいごとでは済まさないという点で、この点は最近では希少価値の部類だと思います。
ダルベルトはどちらかというと小柄で、手足の長さも日本人と変わらないような体型ですが、それでも椅子が低く、そこから上半身の重さと筋力のかかった硬質な深みのある音を出します。
激しいパッションが燃え立ち、低音なども迫力ある深いタッチが随所に現れ、ピアノがいかんなく鳴らされているのは聴きごたえがあり、この点だけでも近ごろではめったにない充足感に満たされました。

最近の若いピアニストは、楽々と難曲を弾きこなして涼しい顔をしていますが、そのぶん音楽に迫力がない。
その日その場での演奏に何かをぶつけているというナマの気概というか、情熱のほとばしりがないのです。
たしかに汚い音もあまり出しませんが、全身全霊をこめて絞り出すフォルテッシモもなく、淡々と合理的な練習成果を披露するのみ。まるでスーパーで売っているカタチの揃ったきれいだけど味の薄い、小ぶりな野菜みたいで、土と水と太陽の光で育まれたという真実味がない。

その反対のものを見せてくれただけでもダルベルトを聴いた価値があったように思いました。
とりわけ左手の強いピアニストというのは、それのないピアニストにくらべると何倍も充実した響きを作るようです。

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